2017年06月02日

あとがき・参考文献

 「大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇」、6月1日をもって完結いたしました。最後までお読みいただいた方には、例によってダラダラと続いた連載にお付き合いいただき、御礼申し上げます。分量は400字詰原稿用紙換算で450枚を若干上回りました。

 大垣共立銀行を取り上げるのは今回が初めてであり、店舗外ATMを含めた制覇記の執筆も初めてでした。営業店だけでなくATMまでハシゴしますと、その地域との触れ合い方も一気にディープになるように思います。私は「めぐ」はその地域との対話であると常々考えておりますが、今回舞台となった海津市・輪之内町・養老町とはそれが濃密にできたのではないでしょうか。
 今回の「めぐ記」に着手したのは前回の「みちのく銀秋田県全店制覇」より半年ほど古かったのですが、リリースは秋田県篇が先行しました。そのあたりの事情については前回触れたとおりです。ただ、今回は調査事項が難航するかと思いましたが、思いのほか順調に進みました。前々作、大阪市バス[93]を作っていた時は、頭を押さえつけられるような苦しい感覚がありましたが、今回それはありませんでしたので、楽しく作業ができたと思っています。
 辛いことがあったとすれば、自分のバカさ加減についてでしょう。「めぐ」の途中でも些細な確認を怠って大チョンボをやらかしているのですが、まあ頭の働きが鈍いことや、ズボラな性格は誰を呪っても仕方がありません。自分を呪わずにいられないのは、自分の不勉強な部分についてです。今回は特に歴史的な記述が多かったのですが、これらを書くうえでの予備知識の無さには泣かされました。高校で習う程度の日本史の知識は、文系の私にとっては一日本人として生きていくうえで必要なものであると思いますが、それがほぼゼロの状態でこれらの記事を書くのは、かなりしんどいものがありました。ただ同時に、何かを学ぶことの喜びも、ことのほか多く感じたのは事実。こうした喜びを十代の頃に味わっていれば、私の人生はまた違ったものになっていたでしょう。過去の自分を呪わずにはいられない理由がそこにあります。
 もっとも、そういう人生を歩んでいたら、銀行めぐりの体験記など書くこともなかったでしょうが。

 ところで、連載を制作していて知ったのですが、東京大学の2011年の前期入学試験で、今回行った養老線駒野駅周辺の新旧地形図を判読する問題が出題されていました。東大の入試(文系)は社会科が2科目必要でして、地形図の問題はそのうちのわずかな部分を占めるに過ぎません。しかし、今回の連載を熟読していただければ、この部分は満点に近い点数が取れるハズです(この連載もそれを意識して作成してあります)。興味のある方は問題を入手して解いてみて下さい。地理、第1問の設問Bです。

 今の日本社会は、変わらぬことよりも日々流転していると感じられることの方が多いようで、いろいろな意味で「時代の節目」になっているのは間違いありません。数年後に読み返して「古い!」と感じられることがあるかもしれませんが、あくまで2014年7月の実体験と、その後の連載期間における「一面の真実」です。そういうものだと思ってお読みいただくことを望みます。
 この連載のような「文章を使っての自己主張」が、私の存在意義だと思っています。今後ともご支援・ご鞭撻をいただけますようお願いします。ご意見や情報提供をお待ちしています。このブログ「MEGU」ではコメントを歓迎していますし、私のメールアドレスも公表しています。

 なお、この連載の執筆にあたっては、以下のような書籍・ウェブサイト等を参照いたしました。


参考文献
 紙の出版物は刊行年順、同年はタイトルの五十音順。ウェブサイトはサイト名の五十音順、2017.03.29現在。新聞記事の日付・見出しは省略した。

 『美濃国加茂郡誌』岐阜県加茂郡役所、1921年
 西山秀吉編『福神大黒天』埼玉銀行調査課、1953年
 『東海銀行史』東海銀行、1961年
 中川李枝子『いやいやえん』福音館書店、1962年
 『平田町史』平田町、1964〜1984年
 『わが行の70年』大垣共立銀行、1966年
 『産業フロンティア物語 ベアリング〈東洋ベアリング〉』ダイヤモンド社、1967年
 『埼玉銀行史』埼玉銀行、1968年
 『美濃加茂明治百年史』美濃加茂市教育委員会、1968年
 『海津町史』海津町、1969〜1984年
 『岐阜県史 通史編』岐阜県、1965〜1973年
 『第四銀行百年史』第四銀行、1974年
 『安田保善社とその関係事業史』安田保善社とその関係事業史編修委員会、1974年
 『養老町史』養老町、1974〜1978年
 『80年のあゆみ』大垣共立銀行、1976年
 『南濃町史』南濃町、1977〜1982年
 『十六銀行百年史』十六銀行、1978年
 『百十四銀行百年誌』百十四銀行、1979年
 『美濃加茂市史 通史編』美濃加茂市、1980年
 『輪之内町史』輪之内町、1981年
 和木康光『伊吹の年輪』中部経済新聞社、1981年
 杉本苑子『孤愁の岸』講談社(講談社文庫)、1982年
 『続東海銀行史』東海銀行、1982年
 植田まさし『まさし君 2』芳文社、1982年
 『新日本地誌ゼミナール4 中部地方』大明堂、1983年
 中村隆英『明治大正期の経済』東京大学出版会、1985年
 『大垣共立銀行九十年史』大垣共立銀行、1986年
 『写真集明治大正昭和美濃加茂』創文出版社、1986年
 中村隆英『昭和恐慌と経済政策』講談社(講談社学術文庫)、1994年
 『大垣信用金庫70年史』大垣信用金庫、1995年
 『市民のための美濃加茂の歴史』美濃加茂市、1995年
 伊藤安男編著『変容する輪中』古今書院、1996年
 『大垣共立銀行百年史』大垣共立銀行、1997年
 『十六銀行百二十年史』十六銀行、1998年
 今尾恵介『地形図探険隊』自由国民社、1998年
 岐阜新聞社編集局編『時代に挑む 土屋斉の20世紀』岐阜新聞社、1999年
 上林好之『日本の川を甦らせた技師デ・レイケ』草思社、1999年
 坂口達夫『宝暦治水・薩摩義士』春苑堂出版、2000年
 三浦展『ファスト風土化する日本』洋泉社、2004年
 『百十四銀行百二十五年誌』百十四銀行、2005年
 牛嶋正『宝暦治水 歴史を動かした治水プロジェクト』風媒社、2007年
 千葉昇監修『日本の国土とくらし1 低地の人びとのくらし』ポプラ社、2011年
 鳥海靖『もういちど読む山川日本近代史』山川出版社、2013年
 水谷英志『薩摩義士という軛』ブイツーソリューション、2014年
 『第四国立銀行展図録』新潟市歴史博物館、2016年

 『営業報告』七十六銀行
 『銀行総覧』大蔵省理財局
 『銀行通信録』東京銀行集会所
 『全国銀行財務諸表分析』全国銀行協会連合会、全国銀行協会
 『全国相互銀行・無尽会社財務諸表分析』『全国相互銀行財務諸表分析』全国相互銀行協会
 『全国無尽会社財務諸表分析』全国無尽協会
 『ゼンリン住宅地図』ゼンリン
 『第二地方銀行協会加盟行財務諸表分析』第二地方銀行協会
 『ニッキン資料年報』日本金融通信社
 『日本金融名鑑』日本金融通信社
 『日本スーパー名鑑』商業界
 各行ディスクロージャー誌

 『毎日新聞』
 『日本経済新聞』
 『中日新聞』
 『岐阜新聞』

 「NEW OKB3」『綾小路司のブログ』http://ameblo.jp/tuka4646/entry-12153989381.html
 『エム・エス・ケー農業機械』http://www.mskfm.co.jp/company/outline.html
 『大垣共立銀行』https://www.okb.co.jp
 『大垣市』http://www.city.ogaki.lg.jp
 「「おちょぼさん」を楽しもう!千代保稲荷神社〜界隈めぐり」『大垣地域ポータルサイト西美濃』http://www.nisimino.com/nisimino/tokusyu/ochobo/
 『オークワ』https://www.okuwa.net/
 『海津市』http://www.city.kaizu.lg.jp/
 『臥龍山行基寺』http://www.gyokiji.org/index.html
 「2011年度国公立大二次試験・私立大入試解答速報 東京大学[前期]」『河合塾』http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/11/t01.html
 「長良川9.12豪雨災害(安八豪雨)40年事業」『国土交通省 木曽川上流河川事務所』http://www.cbr.mlit.go.jp/kisojyo/gousaigai_40th/
 『古今珍品情報流通センター』http://www.chinpin.biz/index.html
 「高須城」『古城探訪』http://www.geocities.jp/pappakun12/aruku/minokoku/takasu/takasu1.htm
 『コノミヤ』http://www.konomiya.jp/
 「ヤナゲンストアー養老店完全閉店セール見てきました」『コラム更新日記』http://www.sekkaku.net/column/3488.html
 『今昔マップ』http://ktgis.net/kjmapw/index.html
 『十六銀行』http://www.juroku.co.jp/
 『JAにしみの』http://www.jan.or.jp/
 「日本三大都市の一つらしい名古屋の玄関・名古屋駅太閤通口に残る「笹島ドヤ街」の痕跡を求めて」『新日本DEEP案内』http://deepannai.info/nagoya-sasashima-doyagai/
 『セントラルジャパン』http://www.central-j.com/
 「銀行変遷史データベース」『全国銀行協会』http://www.zenginkyo.or.jp/library/hensen/index.html
 『高田祭り』http://www.ccnet.ne.jp/yoro-takada-fes/
 「株式会社フードセンター富田屋に対する再生支援決定について」『地域経済活性化支援機構』http://www.revic.co.jp/pdf/news/2015/150825newsrelease.pdf
 『「鉄」記者ブログ』https://www.gifu-np.co.jp/blog/tetsu/
 「岐阜 スーパーマーケット (株)FT商事(旧:(株)フードセンター富田屋)」『東京商工リサーチ』http://www.tsr-net.co.jp/news/tsr/20160405_02.html
 金永昊「「養老の滝」説話の展開:『玉櫛笥』巻一の第一話「養老の滝」を中心に」『東北学院大学教養学部論集』168号、2014年8月 http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2014/pdf/no06_05.pdf
 『トミダヤ』http://www.tomidaya.com/
 『Massey Ferguson』http://int.masseyferguson.com/default.aspx
 『三重交通グループホールディングス』http://holdings.sanco.co.jp/
 『名阪近鉄バス』https://www.mkb.co.jp/
 「ユニチカ百年史」『ユニチカ梶xhttps://www.unitika.co.jp/company/archive01.html
 『養老町』http://www.town.yoro.gifu.jp/
 『養老鉄道』http://www.yororailway.co.jp/
 『義津屋』http://www.yoshizuya.com/
 『輪之内町』http://town.wanouchi.gifu.jp/
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2017年06月01日

2014.07.18(金)(58)エピローグ 自転車返却の旅

 最後の制覇目標が金太郎飴のようなショッピングセンターで、充実感というものからはだいぶ遠いと感じるが、本日の「めぐ」の全行程がこれにて終了した。しかし、私にはまだもう一つ重大な仕事が残っている。レンタサイクルを返却しなければならないのである。
 ここから最も近い養老鉄道の駅は、さっきかすめた美濃高田駅。しかし、美濃高田は無人駅であり、レンタサイクルの扱い駅ではない。電車内に自転車を持ち込める「サイクルトレイン」が利用できれば良いのだが、残念ながら平日は15時で終わりである。そうなると、美濃高田の1駅先、養老駅まで自転車を漕ぐ必要がある。最後に残されたのは、事前の計算で5.64km、24分のサイクリングであった。
 時計を見ると、夕方5時ジャスト。本来なら、この時間までに養老駅での自転車返却まで済んでいる計画である。今朝、駒野駅で申込書を書いた時、夕方4時過ぎには全部終わる予定で返却予定時刻を「17時」と書いたのだが、残念ながらそこには間に合わなかった。
 とりあえず、養老駅に電話を入れた。返却が遅れて18時頃になる旨を伝えると、「ご丁寧にありがとうございます」と返事をいただいた。

 イオンタウン養老から高田の街までは、これまで来た道の逆コースである。田んぼの真ん中を突っ切り、名神高速を突き抜け、急坂を上がって牧田川を渡る。高田橋を渡り切った後の下り坂は、市街地に突入して交通量が多くなったこともあって、あまりスピードが出せなかった。町役場の前を通り、押越出張所を横目で見つつ、[珍品センター]の方からやって来た県道養老平田線と交わる石畑の交差点までは、何事もなく経過した。
 様子が変わってきたのはここからである。いま走っている県道96号大垣養老公園線は、美濃高田駅付近からずっと養老線の線路に沿っているが、石畑の交差点を過ぎたあたりから、また微妙にペダルが重たくなってきた。目には見えないけれども、ゆるい上り坂になっているのだろう。ペダルが重いといっても、普段なら難なく乗り越えられる程度の坂(というより傾斜)だと思うのだが、それが全然登れない。こんな道で自転車漕げないの、と思うぐらいであった。足ががくがく、というか、左の膝を曲げると痛い。しかも右足も力をかけるとつってきてしまう。
 そして、明らかに坂道だとわかる道に変わってきた。もうこのあたりまで来ると、漕ぐ合間に休むのか、休みの合間に漕ぐのか、わからなくなっていた。石畑の交差点を過ぎてからは、線路からちょっと離れたところに何軒か住宅が散在し、基本的には住宅と畑と駐車場ばかりであった。建物が切れたあたりが、ちょうどその微妙な坂道のサミットのようだ。ここまで来ると、養老線の線路を1mぐらい見下ろしている。
 うっそうと茂った森の中で、「高さ制限4.3m」という陸橋の下をくぐった。この陸橋は柏尾谷という天井川である。天井川は午前中に養老線でトンネルを通ったけれども、ここはトンネルを掘るよりも安上がりだったか、高さが足りなかったかで、崩して陸橋にしたのであろう。天井川のあたりに人家はなく、竹薮になっていたり石垣が築いてあったりした。天井川の陸橋を抜けたあたりから、上り勾配が明らかにきつくなったが、そこを過ぎると再び住宅が固まって建ち始めた。
 前方に行政が立てた青い矢印看板が見えた。この先の四つ角で左折すると養老駅であるという。ちなみに、直進すると桑名・海津、右折すると養老公園だそうである。交差点の手前に1本、左に行く下り坂があるが、ここでだまされてはいけない。青い矢印看板が示す交差点は、坂を登り切った信号のところである。
 信号のある交差点までやって来た。そばにひょうたん屋があった。養老の滝のお膝元ゆえ、ひょうたんの加工品のひさごを売っている。養老町は有名な観光資源がある分恵まれており、通常の田舎町のような生計の立て方ができなくなっても、観光で食っていくことができる。いずれにしても、天井川からここ養老公園東の交差点までの間が、最大の胸突き八丁であった。地形図で標高を見ると、石畑の交差点が約13m、1km離れたこの四つ角が33mであって、勾配としては20パーミル。今日の行程の中では急な坂の一つで距離も長かった。坂道としてはごく普通のハズだが。
 交差点を左に曲がると、その先は駅に向かって右にカーブしつつ、一方的な下り坂であった。上多度橋という橋が架かっており、橋の下には滝谷という水の流れていない川があった。さらにどんどん下がっていく。ここも古い住宅地だが、商業はほとんどないようだ。
 加速がつき始めたところで、左前方に最終目的地が現れた。養老駅である。朝にならない夜がないように、苦行から解放される時がようやくやって来たのであった。

 17:43。私は、養老鉄道養老駅に到着した。
 養老駅は渋い平屋建ての木造駅舎であった。養老公園の観光客を当て込んだ駅だけれども、それにしても駅舎を重厚に作りすぎていないか。そう思っていたら、1919(大正8)年の築で、初代養老鉄道の本社屋だという。養老の滝の伝説にちなみ、駅の内外はひょうたんで埋め尽くされている。
 駅舎を背景に自転車の写真を撮った後、出札窓口の駅員に、自転車を返しに来た旨を告げる。40km余り行動を共にしてきた“愛車”とはこれでお別れである。返却作業は、自転車を引き渡し、駅員の「もうそれで結構ですよ」の一言であっさり終わった。当初返却期限の17時には間に合わなかったけれども、17:45には返却できた。16:10をメドとしていたから、トータルでは1時間半ほどの遅れということになる。自転車を漕ぐスピードを時速12kmで計算してこれだから、自転車で回るプランは8〜10km/hで計算しないとダメなようだ。16km/hで計算していたら、お話にならないほどの破綻ぶりになっていた。
 何が失敗だったかといえば、何といっても、自分の体力のなさを考慮に入れていなかったことである。体力的な失敗がなければ、当初のスケジュールでほぼ行けていたと思う。バテて漕ぎ進まなくなってしまったので、どんどん遅れていった。もう1つ、リサーチ不足により今尾付近で遠回りになったこともある。
 それにしても、体力の落ち方がもっと激しかったら、養老駅に自力でたどり着くこともできなかったかも知れない。今後、レンタサイクルで「めぐ」をやるような時は、今回のように15か所【注】とか欲張らず、10か所以下で留めておくのが無難であろう。まあ、今回乗った自転車がひどかったのは間違いない。ペダルもがくがくしていたし、よくあれで40km以上走って養老駅まで乗れたと思う。ディマジオに似た名前の自動車教習所よ、スポンサーとして何とか改善してくれたまえ、マジで。

 自転車を返した後、しばしの待ち時間があって、養老駅から18:11発の大垣行きに乗った。大垣駅に着いたのは6時半過ぎであったが、電車が終着駅に着いてもすぐには立ち上がれなかった。こんなにヘトヘトになったのは、久しぶりであった。もう1泊してふらふら遊んで帰ろうと思っていたのだが、あまりに疲れてしまったので、在来線で名古屋まで出たものの、そのまま新幹線で東京に帰って来てしまった。往路を夜行バスで安く上げているので、復路で新幹線を使っても罪悪感は薄い。
 左足の膝の痛みは本当に辛かった。ひきずって歩くような状態で、これは階段の上り下りに多大な支障があった。東京駅をはじめ公共交通機関の階段の多さを、改めて思う。東京駅で新幹線ホームから階下に下りるのはまあ良いとして、下りてから新幹線改札までの間にまた階段があるのだ。そのうえ、今回私は購入した切符の関係から改札機を通ることができないので、端にある有人改札に回らざるを得なかった。改札を出ると、さらにもう1か所、踊り場1つ分ぐらいの階段。そこから中央線ホーム行きのエスカレーターまで歩き、一気にビル3階ぐらいの高さまで上がる。乗り換えの回数が1回増えるごとに、アップダウンの回数はどれだけ増えることだろうか。というわけで、都市生活では階段の数が大変多くなるけれども、それは大都市に限らない。むしろ、地方都市ではエレベーターの数も少ない分だけいっそう大変ではないかと思う。都市生活は健常者でなければ無理、というのが実感で、身体障害者は大変だろうなと思った。いっそ、電車でどこかに出かける機会もなくなったような人なら、田舎で隠居するのも良いのかも知れない。
 翌日は一日中寝ていた。起きる頃には、左足の膝の痛みはだいぶ消えていた。単に使い過ぎただけだったようだ。

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 【注】自転車で回った数。

[大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇 完]

【お知らせ】「あとがき・参考文献」を明日18時に公開します。
posted by 為栗 裕雅 at 18:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月31日

2014.07.18(金)(57)19か所制覇完遂!

 それでも、私が今漕いでいるのは普通の自転車であって、フィットネスジムのなんとかバイクではないから、漕ぎ続けていればいつかは目的地にたどり着くことができる。角田と書いて「すまだ」と読む交差点の北西角が、イオンタウン養老であった。田んぼの中の一本道をひたすら直進して、私はようやく目的地に到着したのであった。
 イオンタウンのメインエントランスは、交差点からさらに北上した、ザ・ビッグの建物のすぐそばであった。通りに面したところから売り場の入口までは、屋根付きの通路がある。屋根の下にはショッキングピンクに近い色合いの敷石を敷いて、渡り廊下のようになっている。
 敷地の中に入ってみると、このイオンタウン養老ショッピングセンターは、数時間前に行った「イオンタウン輪之内」に、気味が悪くなるほどそっくりであった。養老も輪之内と同じで、スーパーの「マックスバリュ」は完全に閉店して、白い看板になっている。空いた建物で営業しているのはソフトバンクのケータイ店1店だけで、これも輪之内と同様【注1】。旧マックスバリュ内にあるソフトバンクの店は、輪之内と位置関係まで同じであった。駐車場の入口がインターロッキングになっているのも輪之内と同じ。輪之内と比べて地盤沈下が激しいのか、敷石がだいぶガタガタになっていた。敷石のすき間からは草が生えているが、SNSではないので笑いはしない。建物の配置が輪之内よりシンプルだった気がすることだけが相違点であった。

 ほとんど同じに見える2つのイオンタウンに遭遇して、私なりに思うことがあった。各店舗をここまで徹底的に同じつくりにしたということは、おそらく、店に入るとコストカット第一主義で、品揃えや商品展開の仕方なども全く同様なのだろう。精神を病むとは言わないまでも、あまり健全でないように思う。個性というか多様性が喪失してしまっているからだ。
 イオン、かつてのジャスコは、高度成長期にダイエーや西友などの後塵を拝していたが、その分狭い商圏で圧倒的なシェアを握るノウハウを掴み、大ショッピングモール路線の下地を築いていった。これにより、イオンは東北地方や北関東など、市場の成長力が弱く新規参入も少ない地域を押さえている。人口が減少し市場も縮小している地域に出店し、その地域の商業全体に占める比重を高めて競争優位に立つわけである。ここや輪之内店のような店づくりには、ジャスコが培ってきたノウハウが存分に反映されているのであろう。養老店と輪之内店は建物さえほぼ同じ設計であり、両者の違いは単に店の名前だけと言ってよいほどに乏しい。
 こうした店の商品を買って生活することは、均質化された大量生産品を大量消費することである。現代社会は総じてある程度そうなっているのだが、田園地帯にショッピングセンターが多数オープンするようになった最近20年でとりわけ顕著になったと思う。こう書くと、現実のショッピングセンターには多種多彩な商品が並んでいるではないか、と言われるかもしれないが、それは決して「多様」ではないのである。イオンの売り場に置かれているインスタントラーメン(ドレッシングでもトイレットペーパーでも何でもいいのだが)を例にとると、そこで売っているのはイオンのプライベートブランド商品「トップバリュ」とナショナルブランド商品、合わせてせいぜい3〜4点であろう。その範囲内では自由に選択できるが、大量生産・大量流通のルートに乗らない商品は選択できない。それを、多様性が喪失したというのである。後者のような商品は、かつては個人商店を中心とした地域の在来商業が提供していたが、大型店の出店により、個人商店は一掃されてしまった。
 商品のほかにも、人間疎外や、非正規雇用を多用することによる地域社会の変質など、社会学の分野で「郊外化」と呼ばれるさまざまな論点がある。私は、マーケティング・リサーチャーの三浦展氏がこうした概念をふまえて提唱した「ファスト風土」という言葉が直感的に的確だと感じ、2000年代の前半から使ってきたが、氏がなぜイオンのショッピングセンターをその象徴に挙げているのか、いまひとつピンと来ていなかった。今回期せずしてイオンタウンを2か所訪れたことで、「ファスト風土」の象徴が(漠然とロードサイド型のショッピングセンターでなく)特に「イオン」である理由がようやく得心できた気がする。
 蛇足ながら、ここのような農村部では、前述の図式からさらに先へ進み、一度はシェアを高めたハズのイオンの戦線縮小が起こっている。イオンが郊外にできて旧市街がさびれたという話はよく聞くけれども、その郊外のイオンが撤退したら、その街はどうなってしまうのだろうか。ここや輪之内のイオンタウンはまだ2つあった店が1つにまとまるだけで済んでいるが、ザ・ビッグすら撤退することになったら、高齢者を中心に大量の買い物難民が生じるのではないだろうか。そうなってしまっては、「養老」という町の名前には相応しくなくなるだろう。

 キャッシュコーナーの位置関係も、さっきと全く同じではないが、よく似ていた。平屋建ての複数の建物が並んでおり、その並びが90度曲がった付け根部分に「キャッシュコーナー」の赤文字、その下に共同キャッシュコーナーの自動ドアがある。キャッシュコーナーの隣は百均のダイソーであった。6機関分の枠があって、一番左が閉鎖になっているのも輪之内と同じである。入っている5機関は大垣信金・大垣共立銀・十六銀・JAにしみの・ゆうちょ銀で、順番は別として輪之内と全く同じ5つの金融機関である【注2】。各ATMの母店はJA(記載なし)とゆうちょ銀(名古屋支店)を除き、すべて地元の養老支店であった。大垣共立のブースには、ピピット対応済みの沖電気バンキットが1台置かれている。[イオンタウン輪之内]では富士通のFV20だったから、ATMの機種だけが輪之内とは違っていた。機械を操作する。16:54、最後の制覇目標となる[イオンタウン養老]を制覇した。
 こうして私は、本日予定していた全19か所の制覇を完遂したのであった。

 養老支店イオンタウン養老出張所は、大共養老支店6番目の店舗外ATMとして、ショッピングセンターがオープンした1999年10月に開設された。
 イオンタウン養老ショッピングセンターは、オープン時点では売り場面積12400u、コンクリート平屋建ての6棟で、650台が収容できる屋外駐車場を備えていた。車で10分以内の約18,000世帯が商圏で、当初は水曜日(年間24日)を休日としていた。店舗は衣類など日用品のディスカウントストア「メガマート」と、食料品スーパーの「マックスバリュ」を中心に、専門店が出店してスタートした。年商は専門店を合わせて48億円を目標に置いていた。その後、2011年8月にメガマートが、9月にマックスバリュが閉店し、同年10月、メガマート跡を改装して「ザ・ビッグ養老店」として再スタートした。改めて数字を見返してみたが、ほぼ輪之内店のコピーのような店と考えてよさそうである。
 ところで、何時間か前に[イオンタウン輪之内]に行った。そこの通帳表示は<イオンタウン>であったが、他のイオンタウンにある大共ATMの通帳表示はどうなっているのだろうか。結論から言うと、ここは半角カタカナで<イオンタウンヨウロウ>と記帳されていた。輪之内以外のイオンタウンは全て半角カタカナ表記で、「イオンタウン」の文字の後に地名を入れて区別している。輪之内だけ<イオンタウン>であるのは、[イオンタウン輪之内]がイオンタウンの大共ATMとして最も古いためである。

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 【注1】輪之内と同様、現在は撤退している。同じ棟と見えたがその後別棟と判明したのも、輪之内と同じ。
 【注2】輪之内のゆうちょ銀行は撤退済み。
posted by 為栗 裕雅 at 18:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月30日

2014.07.18(金)(56)高田橋からイオンに向けて

 高田橋を渡り切った時、私は一瞬『チキチキマシン猛レース』の「ケンケン」のような顔になった。牧田川の北岸は、南岸の上がりと同じような感じで、堤防のアプローチ道路が長い下り坂になって延びていたのである。よかった。これでしばらく自転車を漕がなくて済む。自転車を長い下り坂まで漕ぎ進め、そこから一気に駆け下りる。かなり心地の良いスピードであった。
 堤防の北側は使われていない荒れ地が多い。水田がなくはないが水田地帯ではない。工場が何軒かあって、空き地の半分ぐらいを住宅が占めている感じであった。後日もう1回ここを自転車で走ってみると、そんなにスピードの出そうな坂道というわけでもなかった。下りたらすぐ終わってしまう。当日のメモには「チキチキマシンのケンケンのような」とあるのだが、ここで下り坂になったのがそんなに嬉しかったのか、と思う。それでも、およそ300m、坂を下りて最初の信号まで漕がずに来れたのは間違いない。
 ほどなく、名神高速道路の下をくぐった。1車線分の四角い穴が2つ開いたアンダーパスである。側道とクロスしている金屋という交差点があり、そこは真っすぐ行く。そのすぐ先には〔名神養老〕というバス停が立っている。ここを通るのは名阪近鉄バスの大垣多良線で、大垣駅から美濃高田の市街地を経由して大垣市上石津町の〔時〕まで行っている。大共上石津出張所へ行く唯一の公共交通機関である【注】。ここから高速バスへの乗り継ぎができるわけではない。さて、バス停のすぐ北側に、目指すイオンタウンへ向かう左への分岐道があった。この分岐は、左へ分岐するというより左折しているようにしか見えないが、大丈夫だろうか。でも、地図上ふさわしい交差点はここしかないハズであった。
 丁字路を左折すると、すぐ道が右にカーブした。これで、道を間違えていなかったと安心できた。ここがY分岐だとわかってみると、股のところにあるNTTドコモのケータイ店がおそらくコンビニの転換であろうと気付く。道路の交点では鋭角部分にコンビニが出来やすい、という私がさっき思いついた謎理論が、ここで一つ確認された。
 そこから先は、水田地帯の真ん中を突っ切る一本道で、対面2車線は変わらないが走りやすい道になった。車線と歩道の間は縁石で仕切られているだけである。センターラインの端には反射板のついたブロックのようなものが取り付けてある。ここのセンターラインは白の破線であるから、こういうものを付けて車にセンターラインを超えさせないようにしているのだが、黄色のセンターラインにしたのでは駄目だったのだろうか。

 2車線道路を快調に自転車で飛ばしてきたら、また途中でダウンしてしまった。ここは小さな川を渡るところで、橋の手前が微妙な上り坂になっている。さっきの牧田川の堤防とは比較にならないぐらいゆるゆるの坂で、午前中に海津市役所近くで経験したのと同じくらいの傾斜に過ぎないのだが、すでに体力を相当消耗している私には、続けて漕ぎ上がることが不可能だったのであった。川の名前は小畑川、橋の名前は清流橋というらしいが、何が清流だ、とついつい思ってしまう。地図で見ると、ここはため池のようなものがたくさん見える。河川の旧流路が水たまりとして残った三日月湖と呼ばれるものである。
 ここまで来てようやく、水田のはるか彼方に、ショッキングピンクの横型看板が見えた。イオンタウンはあそこか、はあ。最終制覇目標が視界に入ったのに、これまでのような精神的な盛り上がりは乏しかった。
 川を越えて緩い坂を下りると、引き続き水田地帯の真ん中をひた走る。やや古い集落が右前方に見える。道の左側は、倉庫とか、家を建てるにしても非常に広い敷地になっているとか、いずれにしても新しい建物ばかりであった。飯田西という交差点の横には、用水をくみ上げるポンプのようなものが付いている。現在各地に多数ある太陽光発電所は、2014年7月のこの時点ではほとんど見られなかったと思う。
 なお、清流橋を渡ったところのスロープには、一番下に「対向車注意」という看板が出ていた。ここは白破線のセンターラインだから、追い抜きをしようという車がやはり現れるのだろう。恐ろしい。前述したとおり、私はこんな対面2車線の道で追い抜きをしようとは思わない。
 ここまで来ると、前方にショッピングセンターがだいぶハッキリ見えるようになってきた。しかし、ここからが遠いのである。風景としては、水田地帯の真ん中にJAにしみのの養老北支店が目立つぐらい。とにかく、広い平野の真ん中を突っ切る道は、漕いでも漕いでも目的地が近づいて来ず、いったいいつになったらたどり着けるのかと思ったのであった。

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 【注】大共の最寄り停留所は、養老支店は〔高田中町〕、上石津出張所は〔上宮〕。
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2017年05月29日

2014.07.18(金)(55)3回目のダウン

 養老町役場の前から、美濃高田の街並みを北へ。町役場の北隣は養老消防署である。このあたりに建つ家は、さっきの「中心商店街」と同様、煮しめた焦げ茶色で、妻面に桁が頭を出しているような古い日本家屋が多い。燃えやすい日本家屋の密集地帯に消防署があるのは安心できる。やはりこのあたりもところどころ更地になってきており、むしろ更地の率は商店街よりも高いと感じられた。商業としては、ガソリンスタンドやら喫茶店やら看板だけは出ていたりするが、売物件という看板も一緒に出ているから、営業していないのだろう。もはや普通の住宅地になってしまっている感じであった。
 高田駅前という信号に出くわした。ここが、養老線美濃高田駅の入口である。養老支店から自転車を漕いで来ての距離感としては、少し遠いと感じられた。駅舎は昔ながらの平屋建て木造駅舎で、懐かしい外観は何となく見覚えがあった。後で知ったが、この駅には駅員がいない。

 住宅地が続いている。県道を北に進んでくると、道が少しだけ左にカーブした。前方その先に、信じられないものを発見し、私は足が一瞬止まってしまった。何だあれは。
 信じられないもの。それは、堤防上に上がる道であった。川を渡らなければならないのは承知していたが、その橋は堤防上から架かっているのである。そうか、スマホで地図を見た時、橋までの道が妙に曲げてあったのは、こういうことだったのか。堤防上に上がるために、堤防に突き当たったところで90度曲げて、斜面を坂で上がっていくのである。私はかなりがっかりした。
 やる気を一気に殺がれたものの、行かないという選択肢はもちろんない。意を決して急な坂を漕ぎ上がり始めた。道は、スロープで堤防の半ばぐらいの高さまで上がり、そこで90度右に曲がって、堤防の斜面沿いを橋の付け根まで昇っていく。
 カーブで、傾斜が微妙に変化した。カーブの外側には、車道を走る車がはじき飛ばした小石がジャリジャリと積もっている。さあ、あともう一息。ペダルを踏む足に力をこめようとすると…。あっ。
 足がつりそうな感覚。さっきからずっと痛んでいる左膝に加え、少し前から痛み始めた右の太ももに来た。イタタタタ。私は足がつってしまう寸前でペダルを踏むのをやめた。足に限らず、筋肉が“つる”状態になる寸前、電気が流れるようなピキピキとした感覚が来る。力を入れるとその部分の筋肉が一気に固まって激痛が走るから、急いで、しかしだましだまし力を抜いて軟着陸させる。何度やっても気分の良いものではないが、それでも本格的につってしまうよりマシだ。
 カーブの外側、道が広くなっているところに倒れ込んだ。かくして、坂道の途中で本日何度目かのダウンとなった。

 筋肉を落ち着かせて、活動再開。どうにか堤防の上面まで上がってきた。私はこれから、高田橋という名の橋を渡る。別に自衛隊に入るわけではない。この川は揖斐川の支流で、牧田川という。同じ川を数時間前に北から南へ渡っているのだが、その時の記憶とは全くつながっていなかった。
 交差点の北西角には、治水功労者佐竹直太郎翁の碑というのがあって、業績が屋根つきの看板で説明されている。碑の揮毫は岐阜県知事の沖野悟という人。調べてみると揮毫した知事は内務官僚で、官選県知事であった。ということは戦前に作られた碑ということになる。佐竹直太郎氏の業績は、牧田川の上流部を改修したところにあったようだ。1888(明治21)年頃に組合を、1931年に委員会を作り、烏江の牧田川杭瀬川合流点から上流8kmを県が、下流を国が改修、という経緯をたどった。昭和の改修で献身的な努力をしたのが、この養老町高田の佐竹という人らしい。濃尾平野の川上にあたるこの近辺には、荒れ川の濃尾三川を抑える平田靱負のような人がたくさんいたわけである。
 いよいよ、高田橋を渡る。車道は速度制限40km/h、対面2車線の黄色センターライン。外側には腰ぐらいの高さのクリーム色をした欄干が付いている。実用本位の柵だけの橋であるが、欄干はだいぶサビサビで、部分的に腐食していた【注】。道の左側だけにある歩道は、車道とガードレールで仕切られている。
 堤防上、高田橋南の交差点から橋の本体までの間は、築堤になっている。築堤下の地面に、背の高い草がたくさん生えていて、特にツル性の植物が大量に生い茂っていた。下の地面に生えた木を伝うように伸びてきているようだ。ツルには細かい毛のようなものがビッシリ生えている。かぶれるから、これには触りたくない。誰だこの道の管理者は。こんな草除去しといてくれよ、と詰りたくなった。県道だから岐阜県庁に文句を言えばいいのだろうか。
 森のように植物が生い茂った部分が少しあって、それが終わると泥と石ばかりの河原になった。私が河原という言葉でイメージしやすい河川敷は、こうした石の多い河原である。ここは畑になっている部分も多い。自家菜園か何か知らないが、河川敷を畑にしているケースは少し田舎へ行くと見かける。河川敷は作物を丹精込めて育てても、1回洪水が出たらすべてお釈迦であるから、そうなってはやりきれまい。とはいえ、私有地でない河原で耕作をしてよいのかどうかは知らない。
 石ばかりの川を渡り切ると、さっきと同様に森のような部分があり、畑がある。川の北側は堤防の際まで畑になっている。堤防道路との交差点に信号はないようだ。けっこう長いと感じられる橋であった。

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 【注】欄干はその後、無塗装銀色のものに付け替えられた。
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2017年05月28日

2014.07.18(金)(54)続いて[養老町役場]を制覇

 次の制覇目標[養老町役場]は、さっきの高田東町の交差点まで戻り、県道96号大垣養老公園線を北に向かった右側にある。
 養老郵便局前の四つ角まで戻ると、もう背の高い役場の建物が見えていた。高田東町交差点を左に曲がって漕ぎ進んでいく。この縦の通りは、協進町通りというそうだ。高田の「中心商店街」と同じような感じで土蔵建築が多いけれども、だいぶ建物が歯抜けになっている。県道沿いは商店街の中より更地の率が高い。
 ほどなく、養老町役場右という白い矢印看板に遭遇する。英語の表記は「Yoro town office」となっている。これが目指す養老町役場であった。4階建ての庁舎はさっきから見えているけれども、キャッシュコーナーはどこにあるのだろうか。それは役場の敷地の中に曲がり込んではじめてわかった。3つの金融機関(JAにしみの・大垣共立・大垣信金)が横に連続した共同ATM小屋が、役場の駐車場入口横、火の見やぐらの根元にあった。このタイプの店舗外ATM小屋は、大共に限らず市役所や町役場でよく見かける。さっきの[フードセンタートミダヤ養老店]とキャッシュコーナー内部の形態は同様だが、前者が建物の外壁にあったのに対し、こちらはキャッシュコーナーが独立した建物になっているわけである。
 さっさと取引を済ませようと思ったが、午後になってATMの利用者が増えてきている。利用者としては大共がダントツで多いので、列ができるのはやはり大共のATMである。信金や農協を使う人は、列を横目で見ながら勝手に小屋に入って機械を使っている。3連小屋入口の自動ドア前で順番を待っていると、私の前に並んでいたお婆さんが、ブースに入った後なかなか出てこない。少しイライラしてしまった。

 苛立っても仕方がないので、待っている間にあたりを見回す。役場の前に建っている5階建ての茶色いビルは、酒造会社の本社である。ごく普通の鉄筋コンクリートのビルであるが、1階窓下の腰の部分は、黒く塗って白い塗料で斜めの網目模様が描いてあり、なまこ壁のようになっている。造り酒屋にはおなじみの煙突などはここでは見えないが、敷地の中には古めかしい酒蔵などの施設が何棟も並んでいる。さすが、養老の滝を抱える町には、造り酒屋があるのであった。有名な養老の滝の物語は、『続日本紀』の記述を基にした『十訓抄』の一話が最も広く知られている【注1】。酒好きの老父を持つ男が、ある日薪を採りに山に入る。転倒した際、酒の匂いを感じて周囲を見回したところ、酒が流れていた。以後毎日これを汲んで父親に飲ませた。この話を元正天皇【注2】が知って見に行き、男を美濃守に取り立て、酒の出ている場所にちなんで元号を養老に改めた、というストーリーである。『十訓抄』では《石の中より水流れ出づることあり》として酒の出る泉を発見したことになっており、滝の話は消えてしまっているが、代わりに近所の養老神社に湧き出る菊水泉に見立てられている。この酒造会社は玉泉堂酒造といい、美濃菊という日本酒を造っているが、そのあたりを踏まえた命名なのであろう。
 町役場の敷地に目を移す。町役場の建物は1971年の築で、大きな窓が特徴であるが、武骨な耐震補強用の鉄骨がはめられて痛々しい姿をしている。駐車場は結構広くて、台数としては40〜50台分だろうか、大分細長い駐車場である。敷地入口の中央部には、レンガでできたトーテムポールのようなものが立っている。ATM小屋の横に立っている火の見やぐらには、周りを取り囲むように広告の枠が取り付けられていて、そこに養老町民憲章が大きく書いてあった。何が書いてあったかは忘れた。
 ようやく自分の番が回って来た。大共のATMは、営業時間は18時まで。養老支店管内のほかのATMと同様、沖電気のバンキットで、機械の台数は1台。手のひら認証に対応していたか否かは記録するのを忘れたが、当日撮影した写真を再確認すると、機械の胴体には「ピピット」のステッカーがしっかり貼ってあった。この当時、大共は市町村役場内のATMには優先的に新しい機械を入れている様子であった。ATMを操作し、[養老町役場]を制覇。16:27のことであった。
 養老支店養老町役場出張所は、大共養老支店2番目の店舗外ATMとして、1985年6月に開設された。

 いよいよ、最終目的地に向かうことになった。
 残る制覇目標は[イオンタウン養老]1か所のみである。そこを終えれば自転車を返却して東京に帰るだけだが、最後の制覇目標は、養老町の中心部からは若干距離があるのである。事前のリサーチでは、町役場からイオンタウンまでは2.72km、12分かかる予定だが、12分で行くのはまあ無理だろう。それよりもっと根源的に、「めぐ」が続行できるのだろうか。すでにタイムスケジュールは破綻し、肉体的にもかなり消耗している。特に、左膝が耐えがたいほどの痛みを持っている。痛み方は自転車を漕ぎ続けることすら危ぶまれるほどであった。
 誰かに話しかけて尋ねる気力もないので、道順はスマホで確認した。役場前の県道96号大垣養老公園線を引き続き北に真っすぐ行けばよい。牧田川という大きな川を渡って、名神高速道路の養老ジャンクションの先で二股道を左に入れば、目的地。とにかく、町役場前からずっと北に漕ぎ進んでいけば良いのである。

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 【注1】『続日本紀』は養老元年の「養老改元の条」。『十訓抄』は巻六の第十八話。
 【注2】第44代天皇。奈良時代の女帝。
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2017年05月27日

2014.07.18(金)(53)養老支店を制覇

 商店街を進んでいくと、道の右側に、大垣共立銀行の緑色の縦型看板が見えた。一瞬喜んだが、喜びと同時に全然別の苦痛を感じていた。ここまで来て、またもや足がつりそうなのである。今度は右の太ももであった。体力のなさに、自分でつくづく嫌気がさしてくる。
 右足を庇いつつ漕ぎ進んで、大共養老支店に着いた。大共養老支店は、道の北側、信金の斜め向かいといってよい場所にある。窓の大きな2階建てで、今の基準でいうと耐震などは大丈夫だろうかと思ってしまう。1階入口右側の窓前に自転車置き場の屋根があるので、そこに自転車を置いた。いちおう自転車置き場だが、自転車を置く人は少なくて、ATMの客が車を置くところになっているようだ。駐車場がないわけではなくて、後日支店の周りをうろついてみると、支店の裏に7台分ほどの駐車場がある。茶葉店の向かい、化粧品店の横に入口があった。そこに入れるのはたしかに少し面倒臭そうであるが、やはり車持ちの人にはちゃんと専用駐車場に入れて欲しい。なお、正規の駐車場に加えて、その北側に40台ぐらい置けそうな広大な月極駐車場があり、大共がそのうち9台分を契約している。
 さて、養老支店のキャッシュコーナーは機械3台分の枠があり、そこに3台の機械が嵌まっていた。2台あるATMは、沖電気の「バンキット」。そして、今日大共の店舗で初めて見る機械が1台。それは、両替機であった。キャッシュコーナーの右端1台分を、両替機で使っている。ATMが2台というのは、この近所ではごく標準的である。2台のATMのうち生体認証対応がどちらの機械であったかは、記録を取るのを忘れてしまっていた。
 というわけでATMを操作。16:18、養老支店を制覇した。

 養老支店は、1896(明治29)年4月、大垣共立銀行高田支店として開設された。当初の所在地は多芸郡高田町大字高田41番戸で、1899年9月に大字高田159番戸に新築移転した(現在のどこに相当するかは判明せず)。高田(現養老)支店は、大垣共立銀行の支店の中で最も古くからある店で、銀行が開業した際に設けられた3支店(揖斐・高田・垂井)のうちの一つである。支店の開設は、本店のある安八郡大垣町(現大垣市)周辺の米穀・養蚕地域を営業範囲とするためであった。
 1910(明治43)年4月、大垣共立銀行は真利銀行(大垣市)を合併、高田支店はこれに伴い旧真利銀行の高田支店に移転した。以来ここが、現在に至るまでの支店所在地となる。真利銀行は、もとは東本願寺大谷派の本山志納金を取り扱う目的で現大垣市岐阜町に設立された真利宝会という金融機関であった。1885(明治18)年4月に銀行業務を兼営し、1893年10月に真利銀行に改称。その後、1904(明治37)年の金融恐慌で経営が悪化していた。真利銀の高田支店は1898(明治31)年に開設された。
 大共は1921(大正10)年4月に高田町の養老銀行を買収している。養老銀行は1920年に地元有力者が設立した銀行で、書類上は長野県上諏訪町(現諏訪市)にあった甲信銀行が当地に本店を移転して養老銀行に改称したもの。高田支店が業務を引き継ぎ、店舗は一之瀬派出所(大垣市上石津町一之瀬)のみ引き継いだものの数年で廃止した。当時は銀行の営業免許を新規取得することが難しかったので、既存の銀行の営業権のみ売買されるケースが多かった。長野県から岐阜県に移転した本件もその一つで、本店が移転するという形をとるのが特徴である。
 1956年5月に店舗を改築した機会に、高田支店は養老支店に改称した。それに先立つ1954年11月の町村合併で、所在自治体の名称が多芸郡高田町から養老郡養老町に変わっていた。現在使用している店舗は、その後さらに1975年10月に改築されたものである。
 養老支店は、大共最古の支店だけに出張所の数も多く、最盛期には船附・押越・上石津と有人出張所を3つ持っていた。船附は無人店舗になり、有人で営業している押越はさきほど押さえた。上石津出張所というのは、養老町から養老山地を越えた旧養老郡上石津町にあって、現在も地域唯一の銀行として営業している。養老支店の管内ということで、今回制覇目標とする考えもあったが、2006年3月の合併で大垣市となっており、外した。
 店舗外ATMについても記述しておきたい。養老支店の店舗外ATMは、これまでに7か所が設置され、そのうち2か所は廃止されている。ヤナゲンについてはすでに述べた。ここまでで全く触れていないのは、養老支店の店舗外ATM設置第1号[美津濃養老工場]である。美濃高田の中心街の北側、スポーツ用品メーカー美津濃の工場内に、大垣共立のATMが1984年8月設置された。同ATMは、一般の利用者が立ち入ることのできない場所にある「企業内ATM」と呼ばれるものである。1943年に開設されたこの工場では、主に野球バットやゴルフクラブを製造しており、米国メジャーリーグ選手のイチロー氏はこの工場のバットを長年愛用しているという。工場は美津濃の製造子会社ミズノテクニクスの本社工場として現在も稼働しているが、工場内の大共ATMは2003年度に廃止となった。

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2017年05月26日

2014.07.18(金)(52)「やま」の際立つ美濃高田

 制覇目標はあと3か所で終わりであるが、まだ先は見えていない。最後の[イオンタウン養老]が遠いところにあるのだ。でも、コンビニ弁当を食べて、エネルギーが補充されたハズだ。頑張って行こう。養老支店は、さっきのお姉ちゃんとの無意味なやりとりとは関係なく、この先にある養老郵便局の手前を左に曲がっていけばよいのであろう。
 相変わらず対面2車線黄色センターラインの道が続いている。両側に墓地が広がっているところがあった。道路と川と養老線の線路とで三方を囲まれたところが墓場になっている。流れる川は牧田川の支流で金草(かなくさ)川という。養老線はこの川に、橋げたの上に直接まくら木を置いてレールを敷くタイプのグレーの鉄橋を架けている。
 信号2つ目が養老郵便局のある角。厳密には養老郵便局は角ではなく、角から3軒目である。この交差点のあたりから、煮しめたような焦げ茶色の木造建築が急に増えてきた。養老町の旧市街地、高田に突入したのであった。この交差点は、高田東町という。四つ角だが、東西方向はクランクになっていて、東行きが少し南に寄っている。交差点の南西角にある民家は2階建てで、外壁トタン張り。桁の部分が妻面に3つぐらい顔を出しているが、これはいったい何だろうか。トタン張りの前に、大垣共立銀行養老支店、西へ200mという緑色の看板が出ていた。やはりここで間違いないのであった。
 西に漕ぎ進めようとして、交差点の北西角に目が行く。背の高い木造の家があった。高さ自体は隣に建つ2階建てと同じくらいであるが、建物としては平屋建てで、横幅は3mほどしかなく細い。何だろうと思ったが、道のすぐ南側にも、同じ趣旨と思われる背の高い平屋建てを見つけて、謎が氷解した。これは山車庫、山車の車庫なのであった。扉に、岐阜県重要有形民俗文化財、高田祭曳軕、■■■東軕組【注】と大きく書いてある。この近辺の祭りは、山車を引き回すようである。北西角にある山車庫の前にはプランターなどが無造作に置かれており、扉ももう何年も開けていない雰囲気である。一方で道の南側、角から2軒目にある山車庫は、建物がずいぶん新しいようだ。ここには2台の軕があるのだろうか。それとも県道に面した建物が老朽化したので、南西角に移したのか。いずれにしても、ここでは新しい建物を建ててまで山車を大事にしているわけである。
 後で調べたことを書いておくと、美濃高田の祭礼である高田祭は、毎年5月の第3土・日曜に行われる。軕は「やま」と読み、祭りで曳き回される山車のこと。美濃地方の西部では一般的な言い方である。この商店街の先にある愛宕神社の火の神を祀る防火祈願の祭礼で、江戸時代中期から行われており、現存する3つの軕もその頃からいまに続くものだという。ということは、高田の軕は3台しかないわけで、ここに2つあるのはおかしいようである。

 養老郵便局と山車庫のある交差点から、大共養老支店があるハズの商店街に入ってきた。この道は「中心商店街」という。味もそっけもない名前だが、そういう名称なのである。この通りが、養老町の中心市街地、高田のメインストリートである。道路はセンターラインがないが、離合はできる。今日走ってきた今尾とか高須の商店街をもう少し近代的にしたような印象であった。今尾の商店街に似ているが、今尾よりは新陳代謝があったと見える。
 由緒ありそうな神社がある。新しい山車庫の隣にある中日新聞の専売店は、銀行の支店のような堂々とした建物で、3階建てのたいそう立派なビルである。国際学習会館というのは何だかわからないが、建物としては新しい洋館であった。呉服店がまだ営業している様子である。商店建築の入母屋は斜めの部分が微妙に丸めてあるとか、鬼瓦とは別にしゃちほこが付いているとか、妻に桁の出ている古い建物ばかり。営業している店舗はすっかり無くなってしまっている。商店建築だったとおぼしき店も普通の民家になっているとか、壊して更地、あるいは駐車場になっているところが多い。ただ、公衆トイレがあったり、老人福祉センター(ではなかったのかも知れないが)があったり、それなりに人の集まるところだったのであろう。
 昔懐かしい旅館があって、その西側から看板が残っている商店建築が増えてきた。でも買い回りの出来そうな店は全くない。地域の皆さんはもうこの商店街からは遠ざかっているのであろう。旅行代理店。写真館。洋品店(多分)のしもたや。立派な換気扇吐き出し口のついた総菜屋のしもたやは、モルタル2階建ての共同市場みたいな建物であった。その隣は2階の窓がおしゃれに成形してある土蔵建築だが、瓦が波打ったりなど老朽化している。「宅急便当店から送れます」としか出ていないが、こういう幟を出しているのは、今も荷物の発送を受け付けているのだろうか。その隣にあるお茶屋さん(茶葉を売る店)は平屋建てだと思われるが、2階建てと同じぐらいの高さの屋根を持ち、相当広いようだ。理容院は赤青回転灯が健在である。さらに洋品店、美容院、貸しガレージとあって、大垣信用金庫の店舗外ATMと続いている。その向こうには洋品店と呉服店があった。衣食住とあるうち、商店街からは食物系の店が最も早くなくなり、衣類系と住居系の店は比較的残りやすいようである。

 大垣信金の店舗外ATM、高田出張所は、建物は営業していないけれども営業店そのものであった。3台分の機械枠にATM1台だけを稼働している。母店の養老支店は南西に300mほどの県道養老垂井線沿いにあるが、かつて支店はこの場所にあった。支店が1992年7月に新築移転した後、跡地にコンクリ打ちっぱなしのハイカラな建物を建て、1993年2月から高田出張所という有人出張所にしたのだったが、2003年9月に統合してしまった。
 さらに歴史をたどると、かつてここには東海銀行(現三菱東京UFJ銀行)の養老支店が置かれていた。東海銀の養老支店は、大垣支店高田出張所として1945年10月に開設されたもので、翌年9月には高田支店に昇格。1955年12月にこの場所に新築移転すると同時に養老支店に改称した。1966年3月に撤退した後、同年6月、別の場所で営業していた大垣信金が東海銀の空き店舗に引っ越してきた。岐阜県の有力地銀である十六銀行は、養老支店を出す1991年6月まで養老町には店舗が皆無で、それを思うと短期間とはいえ都市銀行が出店していたという事実に驚かされる。なお、三菱東京UFJの大垣支店は、1882(明治15)年に大垣銀行として現大垣市に設立されたのが始まりである。

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 【注】■は人名。
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2017年05月25日

2014.07.18(金)(51)押越のコンビニにて

 次は養老支店に向かう。この県道をさらに北に行き、郵便局の手前で左に曲がればいいらしい。それが終わったらすぐに[養老町役場]が続く。
 出張所の敷地北側は、すぐ奥が養老鉄道の踏切になっている。その道を挟んで北隣に、前述したヤナゲンハッピー養老タウンがかつてあった。現在ではセブンイレブンと太陽光発電所になっている。めぐ当日時点では更地だったと思われるが、記憶がない(少なくともセブンイレブンは存在していなかった)。養老鉄道と県道大垣養老公園線が南北に並行に走っているこのあたりは、道の右(東)側で水田が多い感じであった。今朝乗った養老線でも、車窓の風景は同じ傾向を示していた。すぐ西側に養老山地が迫ってきているから当然のことである。
 県道を頑張って漕ぎ進めていくと、オアシスを発見した。大駐車場完備の平屋建てコンビニ建築。しかも、ここにあるのはイートインコーナーを標準装備しているコンビニチェーンの店であった。おお、ここだったら座って食事ができるか。こんな中途半端な時間に食べたら太ってしまうが、今日はガス欠状態のままここまで引っ張っている。ちょっとさすがに飯を食べよう。私は店の名前のとおり“小休止”することにした。コンビニの向かい側には、このあたりとしては大きな病院がある。JAグループが経営しているらしく、JAのマークがでかでかと掲げられていた。
 正面入口の横に自転車を置き、店内の弁当コーナーへ。チキンカツの弁当を買うことにした。茶飯というのか醤油を入れて炊いたご飯と、ケチャップで炒めたスパゲティ、それに鶏むね肉の照焼の薄いものが1枚入っている。それがチキンカツとは別に、であるから、腹は結構膨れそうである。ガラスの冷蔵庫から飲み物を取って、弁当と一緒にレジカウンターへ。
 会計のついでに、養老支店までの道筋を念のため地元の人に確認しよう。ふとそういう考えが頭に浮かんだ。何しろ私は、午前中に痛い目にあっている。意識や思考力はだいぶ薄れてきているが、用心深さはまだ残っている。カウンターで私の会計をした若い女性の店員に「大共の養老支店はこの先を左でいいんですよね?」と尋ねてみた。まだ十代だったかもしれないが、さすがに高校生ではなかったと思う。
 きょとんとされてしまった。なぜだろうと思ったら、まず「ダイキョウ」がわからなかったらしい。大垣共立銀行のことだと言うと「そこにありますけど」と返事が返ってきた。は? そこは押越出張所という違う店で、養老支店というのが別にあるんだけど。苛立ちを極力抑えてこういう趣旨のことを聞くと、「ちょっとそこしかわからないです」と困惑しきったような表情で言われてしまった。地元の人なら大共が町に2つあることは知っているだろうに、少し知識が無さ過ぎないか。この人は遠方からバイトに来ているのだろうか。それとも若過ぎるせいか。知らないことを非難はしないけれども、疲れているのに、こんな無意味なやりとりは勘弁して欲しいと思った。
 まあ、疲れていたとはいえ、やはりこうしたことは基本的に他人に頼らずすべて自力で解決すべきであった、と今は思う。

 それでもどうにかレジで会計を済ませ、いよいよイートインコーナーにやって来た。そこで私は愕然とした。何だこれは!
 満席だったのである。入口入って左側にあるこの店のイートインコーナーは、レジからは見えない【注】。レジカウンターのうしろ側はバックルームになっていて、イートインはバックルームと外面ガラスとの間のスペース。そこに、ファストフード店にあるような四角い小テーブルが4つと、丸い回転イスが8脚置かれている。問題なのは、テーブルの配置が2つ×2つに分けられていたこと。だから、そこに4人しかいないのに、テーブルが4つ全部使われていたのだった。
 特に許せないのが、1組のカップルであった。こいつらは、2人でテーブルを2つ使っている。テーブルが2×2ではなく4つにバラしてあれば、2人で4人分取るようなことはなかっただろう。ふざけるな、1つにしろ。だいたい、カップルならもっとカップルらしいことをしたらどうだ。1つの飲み物にストローを2本挿して2人でチューチュー吸うとか。それならテーブルが1つ空くだろう。この場合、別の意味で許せない思いになりそうだが、今の私にはこちらの方がまだ数倍マシだと思えた。
 いずれにしろ、すっかりアテが外れてしまった。こういうのは、多くの人が使えるように、店がちゃんと管理していなくてはダメではないか。イートインはこのチェーン唯一の取り柄なのに。仕方がないので、酷暑の中を外に出る。店の周囲には腰をかけられるものがほとんどなく、駐車場の車止めが最も高い突起物であった。高さ15cmぐらい。こんなところに座るのは、ほとんど地べたに座っているのと同じである。
 食べ終わって片付けようとしたら、ちょうどそこに風が吹いて来て、弁当に入っていた緑色のバランを吹き飛ばされてしまった。腹が立っているので、気が付かなかったことにした。消化不良感だけが大いに残った。

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 【注】このコンビニは2016年1月に同じ敷地内の北側に新築移転し、店内の配置も大きく変更された。旧店舗は現在コインランドリーとなっている。
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2017年05月24日

2014.07.18(金)(50)続いて、押越出張所を制覇

 トミダヤの東側を南北に走る大通りに出たところに、ニューディスカウントストアと書いてあるスーパーの空き店舗があった。「フードパワーセンター ケイ・バリュー」という看板が残っているが、鉄骨などはサビサビだし、廃業してずいぶん経つようだ。この店舗跡は[松山]のところで触れた「かどます」が経営していた店舗の一つで、ケイ・バリュー高田店(かどます高田店改め)である。かくのごとく、この近所には個人商店よりは規模の大きな商業施設が、残骸も含めて複数あるのだった。
 そんな様子を見ながら、対面2車線黄色センターラインの道を行くと、NTTの営業窓口のしもたやとスーパーのそれが面する、押越南という交差点。ここで、県道215号(養老垂井線)と96号(大垣養老公園線)が分かれる。交差点名は押越南だが、地名でいうとここも石畑となる。交差点の北側に、JAにしみのの高田支店が見える。農協そのものに少し触れておこう。1999年7月、美濃西部の6つのJA【注】が合併して「JAにしみの」になった。ここは旧JA養老(養老郡農業協同組合)の本店で、広大な前庭に相当大規模な植え込みがあったりするなど、合併前の農協本店として一定の風格が感じ取れる。
 私は押越南で右に曲がる。やはり対面2車線黄色センターラインの道が続いていて、こちらも交通量が多い。このあたりは水田と住宅地が半々ぐらい。開業医の隣にチェーンのドラッグストアがあったりする。すぐ右前方に大垣共立銀行の縦型の緑看板が見え、その向こうに十六銀行の赤い看板もあった。1991年6月開設の養老支店は、この町唯一の十六銀の店舗である。石畑の手前で養老町の中心部が近いことを知らせてくれた、あの赤い看板のそばまで、私はようやくやって来たのであった。
 自転車で近付くと、大共の敷地の手前に関心を引くものがあった。押越出張所の南側隣地は舗装された空き地で、「ハッピー養老タウンお客様駐車場」と書いた立札が立っているが、ロープで塞がれている。ハッピー養老タウンというのは、閉店したスーパーマーケットの名前である。ヤナゲンストアー養老店として、現大共押越出張所の北側に1976年に開業したが、2010年1月に閉店した。もともと店舗は平屋建てだったが、1990年10月に2階建て4700uと3倍に増床し、その際に大共養老支店の店舗外ATM[ヤナゲンハッピー養老タウン]が設置された。2010年1月の平和堂養老店(ヤナゲンハッピー養老タウン改め)の閉店と同時に、大共のATMも廃止されている。
 ヤナゲンについて解説を加えておこう。もとは明治時代に大垣で創業した呉服店で、戦後にデパートを開業して躍進した。メインバンクは大垣共立銀行で、大垣駅前にあるヤナゲン本店の1階には、現在も大共の大垣駅前支店が入居している。1990年代後半から業績が下降してスーパー部門の分社化などが行われ、2005年には滋賀県地盤のスーパー、平和堂の傘下に入った。現在では大垣駅前の百貨店と大垣市郊外の家具店を各1店運営している。ヤナゲンのスーパー部門は分社化後、平和堂子会社との合併を経て、現在では平和堂の本体に吸収されている。

 大共の店舗の横に自転車を置いていたら、ギーッとブレーキ音がしたかと思うと、「通ります」と言って女性の自転車が後ろから私の横を走り抜けていった。ああびっくりした! 私は少しぼんやりしていたようだ。邪魔をしてしまった。
 押越出張所の建物は少し面白い形になっていて、前から見ると敷地の形に合わせて丸まっている。上から見ると、Dの字を潰して平たくしたような形をしている。丸めた壁面の下に、V字形にガラスを組み合わせた出入口兼風除室がある。直角二等辺三角形の風除室のおかげで、道路側と駐車場側の両方から入れるようになっている。自動ドアを2枚通って風除室を抜けると、広々としたロビーであった。グレーの2人がけのソファが3脚並んでいる。すでに3時を回っているから、窓口の部分にはシャッターが下りているが、この時間にくつろげるのはありがたい。
 私はここに来るまで、大共は将来的には養老支店をここに移転して統合する計画ではないかと思っていたが、どうも違うようである。押越出張所は建物を見ると狭小で、相談ブースなどもなさそうだし、はじめから出張所としてつくられた建物であると思われた。なお、押越出張所の窓口が営業している様子を後日見たが、シャッターが開くといきなり窓口のカウンターという配置で、大共の有人出張所としては標準的なスタイルであった。
 キャッシュコーナーには4台分の機械枠があるが、2台しか入っていない。ATMの機種は沖電気の「バンキット」。向かって右側の1台が手のひら認証対応であった。機械を操作。15:50、養老支店押越出張所を制覇した。
 制覇作業で入金をする際、ATMで「確認」のボタンを押さなければいけないところ、誤って「金額指定」のボタンを押してしまった。致命的ではないけれども、操作が一手間増えてしまった。頭に回るハズの栄養がもはや体内から搾り出せないようだ。

 養老支店押越出張所は、1990年12月に現在地に開設された。

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 【注】大垣・ごうど・あんぱち・海津・養老・不破の各JA。
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