2006年05月31日

あとがき

 「りそめぐ・旧奈良銀店舗全店制覇」、昨日をもって完結いたしました。最後までお読みいただいた方には、4月9日から52日間もダラダラと続いた連載にお付き合いいただいたことに、深く感謝いたします。

 文章そのものは、奈良から戻った1月の中旬から書き始めていたのですが、ちょうどこの頃から出版の仕事が忙しくなり始め、3月冒頭までまったく動きがとれませんでした。
 執筆を再開したのは本業が一息ついた3月上旬からですが、以後も思うように筆が進まず、中途で放り出そうと何度か思いました。年度の変わり目は色々と「動く」時期でして、私自身も副業を変える(つもりで実は掛け持ちになってしまった)などしており、結局、当初意識していた4月1日からの連載開始には間に合いませんでした。
 しかし「せめて上旬のうちに連載開始を」との思いで、かろうじて9日に掲載を始めることができた次第です。もっとも、連載開始が遅れた代わり、連載完結が(この「あとがき」を含めて)5月末日になりましたので、きれいに終われて良かったなとは思っています。

 この連載のような文章を使っての自己主張が、私の生き甲斐です。今後ともご支援・ご鞭撻をいただけますようお願いします。ご意見や情報提供をお待ちしています。このブログ「MEGU」は、コメント・トラックバックを歓迎していますし、私のメールアドレスも公表しています。

 文章を書き上げてからも、桜川東支店の統合や、近鉄によるエーエムピーエム事業の売却などが発表され、社会は日々流転しています。この連載を数年後に読み返して「古い」と感じられることがあるかもしれませんが、あくまで2006年1月の実体験と、同年4〜5月の連載期間における「一面の真実」です。そういうものだと思ってお読みいただくことを望みます。

 なお、この連載の執筆にあたっては、以下のような書籍・webサイトを参照いたしました。

参考文献一覧
 『三栄相互銀行三十年史』三栄相互銀行、1983年
 『奈良銀行四十年史』奈良銀行、1994年
 『奈良銀行五十年のあゆみ』奈良銀行、2003年(奈良銀行webサイトより)

 『協和銀行史』協和銀行、1969年
 『紀陽銀行史』紀陽銀行、1975年
 『南都銀行五十年史』南都銀行、1985年
 『近畿銀行五十年史』近畿銀行、1994年
 『協和銀行通史』あさひ銀行、1996年
 『大和銀行八十年史』大和銀行、1999年

 五十嵐太郎『新宗教と巨大建築』講談社現代新書、2001年
 『日本金融名鑑』日本金融通信社、各年

 「そうめん」『樺r利』http://www.ikeri.co.jp/soumen/index.html
 「見る天理教修養科」http://oyasama120.hp.infoseek.co.jp/index.html (2010.10infoseekサービス終了)
 「JR奈良駅連続立体・街路事務所」『奈良県』 http://www.pref.nara.jp/toshi/jrnara/
 「私の職場を御紹介します」『ようこそ 宇野元雄です』http://www.linkclub.or.jp/~uno/insigoto.htm#insigoto1
 「都市計画今昔物語」『奈良市ホームページ』http://www.city.nara.nara.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1150078087712&SiteID=0000000000000&ParentGenre=1000000000287

 『ウィキペディア』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
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2006年05月30日

エピローグ 奈良銀行小史(3)大和銀との経営統合とりそな銀への合併

 三栄相銀が奈良銀に転換して迎えた90年代は、バブル崩壊とその後の苦悩の時代であった。奈良県地盤の大手ゼネコンだった村本建設の倒産(1993.11)をはじめとして、奈良銀も住専問題・そごう倒産といった大きな経済問題の影響を受け、さらに関西エリアでは東洋信用金庫・木津信用組合・兵庫銀行・阪和銀行と影響力の大きな金融破綻が続発した。不況が深刻化したことで、奈良銀行、そして親銀行と仰いだ大和銀行の経営は少なからず影響を受けた。
 大和銀は、1995年のニューヨーク支店巨額損失事件をきっかけに国際業務から撤退せざるを得なくなり、地盤となる大阪を拠点とする巨大地銀路線を模索していた。そして1999年10月「スーパーリージョナルバンク構想」を提唱、近畿銀行を皮切りに関西エリアの地方銀行を傘下に収めていく。大和銀とのATM相互開放を1999年3月に開始した奈良銀行は、翌2000年10月、近畿・大阪両行に次いで【注1】大和銀行グループに入り、同年12月に発足したグループ内のATM相互開放「D−ネット」にも参加した。
 2001年12月12日、大和・近畿大阪【注2】・奈良の3行は、株式移転により経営統合し、持株会社「大和銀ホールディングス」を設立した。翌2002年3月には、都市銀行の一つであるあさひ銀行が経営統合に参加した。持株会社は2002年10月に社名を「りそなホールディングス」に変更、さらに2003年3月1日付で親銀行2行(大和・あさひ)が「りそな銀行」「埼玉りそな銀行」に再編したことで、りそなグループは骨格を完成した。当初は、奈良と近畿大阪の両行をベースとして、地域銀行の「奈良りそな銀行」「大阪りそな銀行」を設立、その地域におけるりそな銀行の業務を地域銀行に移管し、りそなグループ全体を「地域銀行の集合体」として機能させる構想だった。また、コンピュータシステムは旧大和銀行が開発したIBMベースの「ニュートン/ダーウィン」に統合することになっており、自営システム(日本ユニシス)を採用していた奈良銀行は2003年7月に旧大和銀システムに統合した。
 新生りそなグループ発足直後の2003年5月17日、りそなHDは日本政府に対して資本注入を申請した。りそな銀行の決算審査において、監査法人が繰延税金資産【注3】の組み入れ基準を厳格化、りそな銀の5年分との主張に対して3年分の組み入れしか認めず、自己資本比率が国内基準の4%を大幅に下回る2%台に転落したためである。総額1兆9600億円の公的資金が注入(正確には預金保険機構による株式取得)され、りそな銀行は2003年7月から事実上国有化された。さらに同年8月には持株会社とりそな銀行とで株式交換を行い、りそなHDは預金保険機構が議決権の過半を有することとなった。実質国有化に伴い、りそなHDの勝田泰久社長(前大和銀行頭取)らは経営責任を取って辞任し、細谷英二・JR東日本副社長ら複数の経営者が外部企業から招聘された。細谷氏は会長に就任、内部からの経営陣とともに再建にあたることになった。あさひ銀行の合流時に大和銀主導で立てられていたグループの経営計画は再検討され、奈良・大阪における地域銀行構想や、システムを旧大和銀システムに統合する計画などは撤回された。但し、奈良銀のシステム統合は、準備が相当程度進んでいたことから予定通り実施された。
 親銀行から持株会社へという国有化の一連の動きは、100%子会社である奈良銀行の経営にも大きな影響を与えた。新経営陣が立てた経営計画に基づき、奈良銀は業務純益の3倍増(9億円増加)、開示不良債権比率の半減(10%台から4%台に)、従業員数60名減(2割削減)、支店統廃合(35%にあたる9支店を削減、25支店から16支店体制に)というハードな経営再建計画を立てた。2004年4月にはりそなHDから上林義則氏が副社長として派遣され、同年6月には創業家の野村正雄社長と交代した。新しい経営計画にのっとり、主に1980〜90年代にかけて開設された新しい店舗が統廃合され、店舗網は2004年5月に計画どおり16支店体制となった。
 2001年以来4年連続の赤字決算であった奈良銀は、2004年9月決算で黒字に転じ、経営体質は改善されたとみられる。しかし、中長期的に奈良銀行単独で競争優位性を確保することは困難と判断され、りそな銀行の奈良県内における営業力を強化する目的もあって、奈良銀行はりそな銀行と合併することになった。存続会社はりそな銀行で、両行間の合併契約書は2005年7月26日締結、12月2日金融庁から両行の合併が正式認可された。
 2006年1月1日、奈良銀行はりそな銀行と合併して消滅した。新銀行としての営業は2006年1月4日に始まった。旧大和銀のシステムに統合されていた旧奈良銀店舗のコンピュータシステムは、合併と同時に、旧あさひ銀行のシステムをベースとした「りそな統合システム」に移行した。

【注1】近畿銀行は大和銀行との関係が深かった。大阪銀行は住友銀行系だったが、住友グループの持つ株式を大和銀行が譲り受けて傘下に収めた。
【注2】近畿大阪銀行:2000年4月1日、大和銀行グループの第二地銀・近畿銀行と、同じく地方銀行・大阪銀行が合併して誕生。法的な存続会社は大阪銀行であり、その法人格を引き継いだ近畿大阪銀行は地方銀行である。
【注3】繰延税金資産:払いすぎた税金に相当する額を、貸借対照表の「資産の部」に計上したもの。貸倒引当金の計上や貸出金の償却は、会計上は費用として処理されるが、税法上すぐには「損金」と認められないこともある。その場合、いったん税金を余分に払うものの、税法上の損金として条件を満たせば戻ってくるため、資産とみなしている。


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2006年05月29日

エピローグ 奈良銀行小史(2)相互銀行から普通銀行への転換

 相互銀行は、戦後における中小企業の慢性的な資金不足を是正するため、中小企業金融の専門機関として創設されたが、その後時代とともに業務内容が変化してきた。発足当初認められていなかった内国・外国為替取引などの開始、相互掛金業務の衰退など、業務の面で普通銀行との同質化が進み、一方で大企業融資ができないなどの制限もあった。このため、相互銀行業界は普銀転換を長年求め続けていた。
 1987年12月、金融制度調査会【注1】内の専門委員会である制度問題研究会(略称)は「専門金融機関制度のあり方について」という報告書を公表した。その中で、@短期金融と長期金融の分離、A信託分離、B外国為替専門銀行制度、と並んでC相互銀行制度について具体的な問題の整理を行った。資金不足の続いていた戦後復興期や高度成長期には、金融機関を上記のように業務ごとに区分することで限られた資金を効果的に配分していたが、時代の変化とともに再検討の時期を迎えたのである。報告書は、@ABについては現状の漸進的改革を主張しているものの、C相互銀行制度についてはもはや存続の必要性がなくなったと断じ、金融効率化の面から普通銀行に転換すべきであるとした。この報告書を受けて、相銀業界は普銀転換の具体化に向けて一気に動き出すこととなった。
 相銀の普銀転換は、1989年2月の52行を皮切りに90年8月まで合計5回に分けて行われた。三栄相銀は普銀転換を直ちに決定したが、銀行法上の最低資本金が10億円以上と定められており、資本金5億円だった三栄相銀は増資が不可欠だった。このため、三栄相銀の普銀転換は第1次転換(1989年2月)には間に合わず、同年4月1日の第2次転換グループとなった。この第2次グループ10行には、奈良銀行のほか、奇抜なネーミングで話題を呼んだトマト銀行、当時から三和銀行カラーの強かった大正銀行などがある。
 県名を冠した「奈良銀行」の行名は、大蔵省の指導により、奈良県のトップ地銀である南都銀行の承諾を得て実現された。これは、たとえ現名称として使われていなくても、かつての被合併銀行が使用していた名称であることが多々見受けられるためで、「奈良銀行」の名称も南都銀行のルーツにみることができる【注2】。一部の県では、地銀が県名を冠していないにも関わらず県名をつけられなかったケースもあるという。
 りそな銀行との合併まで使われていたシグネチャー類は、三栄相銀時代の1983年に準備が始まり、86年10月から本格的に導入された。シンボルマークは奈良を象徴する「雄鹿」、イメージカラーはグレー(古都奈良の町並みと瓦)とグリーン(若木、または若草山)である。このCIデザインは奈良銀行でもそのまま使用され、イメージカラーは普銀転換時にオレンジ色が追加された【写真】。なお、CI導入以前は白地に赤文字の看板を使用していたが、同様に紅白2色を使用していた第三相互銀行(現第三銀行、本店三重県松阪市)と混同されることが多かったという。
 普銀転換とともに店舗網の整備を進めた。奈良銀行は、開業当時の方針とその後の歴史的経緯から、奈良市本店といいながらも奈良市には店舗が少なかった。その改善のため90年以降は奈良市郊外に相次いで支店を開設(平城・高の原・学園前など)、また既存店舗網の見直し(五条・大阪支店移転、吉野地区支店統合)を行った。

【注1】金融制度調査会:大蔵省内に置かれた大蔵大臣の諮問機関。金融監督庁の発足に伴い1998年6月廃止された。
【注2】旧「奈良銀行」:1894(明治27)年2月奈良市に開業、1918(大正7)年10月産業銀行に合併。産業銀行は現大和郡山市に郡山銀行として1897.03開業し、旧奈良銀行合併の後1927(昭和2)年12月に六十八銀行(現大和郡山市に第六十八国立銀行として1879.01開業)に合併した。1934年6月1日、六十八銀行は吉野・八木・御所の3行と合同して「南都銀行」となった。


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2006年05月28日

エピローグ 奈良銀行小史(1)創業から体制確立まで

 さて、私が2006年1月中旬に2日間かけて全店制覇したのは、りそな銀行の店舗のうち「旧奈良銀行店舗」である。奈良銀はりそな銀と2006年1月1日に合併した。一体どんな銀行だったのか、連載の最後にまとめておきたい。

 奈良銀行は、奈良市に本店を置いていた三栄相互銀行【注1】が、1989年4月1日普銀転換【注2】して誕生した第二地方銀行である。2005年3月末時点での預金残高は1600億円余と、日本で最も小規模な銀行だった【表】。
 1953年3月26日開業した三栄相互銀行は、元奈良県知事であった野村万作(のむら・まんさく、1899〜1978)が創業したものである。野村はもともと内務省の官僚で、岐阜県の出身。1946年7月奈良県知事(官選)に就任、1947年3月まで官選知事を務め、同年4月から4年間公選知事を務めた【注3】。
 1951年4月、2回目の県知事選挙で下野した野村は、同年6月の相互銀行法施行を受けて銀行設立の相談を方々で受けたことから、数人のシンパとともに相互銀行制度の研究を始める。当時奈良県では、資金不足を主たる理由として戦後復興が非常に遅れており、金融事情は関西で最も悪かったとされる。その背景としては、もともと近代産業が他県より立ち遅れていたことに加え、地場産品も軽工業品が中心で、傾斜生産方式とマッチしにくかったことが挙げられる。戦後復興の過程で、銀行預金は傾斜生産方式導入の一環として重工業などに重点的に貸し出されることになり、普通銀行(大まかには都市銀行と地方銀行)は中小企業向けに融資することが事実上できなくなったのである。金融事情の悪さから高利の民間金融業者が跋扈し、当時の奈良県ではこうした業者の資金に手を出して倒産する中小企業が後をたたなかった。「奈良県に(南都銀行以外の)もう一つの銀行を」というテーマは、野村にとっての新たなライフワークとなっていった。
 こうして野村は1951年12月、本店を奈良市に置き、奈良・大阪・京都の2府1県を営業区域とする「日本不動相互銀行」の内免許申請書を大蔵大臣あてに提出した。「不動」の名称は、不動貯金銀行【注4】に範をとり、小を積んで大となす経営方針を採用したためである。しかし、書類審査が進まず内免許申請は難航した。これは、大蔵省の事務方に、奈良県で銀行を新設することに対する消極論があったためとされる。野村は郷里・岐阜県の大物代議士でかねて親交のあった大野伴睦【注5】の力を借りて、池田勇人蔵相と面会するなど陳情を重ねた。最終的に、銀行・預金者・融資先の3者がともに栄えていくことを旨とする「三栄相互銀行」として設立内免許の決裁が下りた。
 1953年1月第1回発起人総会、同3月創立総会(15日)と法人登記(16日)を経て、1953年3月26日、奈良市橋本町の仮店舗において三栄相互銀行は開業した。開業日の10日後(4月6日)に着工した本店は9月末に完成、現在りそな銀行新奈良営業部となっている奈良市下三条町の本店舗では1953年10月1日から営業を開始した。
 新設の銀行として、県下での店舗網整備は喫緊の課題だった。創立の際、株式募集時に吉野郡への支店開設を公約していたため、吉野支店が第1号の支店となった(1953年7月開設)。2か月後の9月には高田・桜井・天理に支店を開設、翌々年の1955年には五条出張所と大阪支店を開設している。
 三栄相銀は当初、営業幹部の派遣を三和銀行に要請していた。そこへ、野村万作は知人からの紹介で満州中央銀行の経理部長だった人物を入社させた。三和銀行が具体的な人材を打診する前だったため、三和側は態度を硬化させたという。その後、万作社長が知り合った大和銀行OBのつてで大和銀からの支援を受けることとなり、以後大和銀とは親密な関係が続くことになった。なお、奈良銀行の創業者は野村姓だが、旧野村銀行(のちの大和銀行)創業家との関係は不明。
 昭和40年代に入ると、店舗網の整備は、旧来からの地方都市への出店から、宅地開発が進んだ大都市周辺部への出店にシフトし、西大寺・東生駒などの支店が開設された。1977年、桜井市に新設されるニチイショッピングセンター内に桜井北支店を開設するにあたり、店内にCD機の設置を求められたため、オフラインでのコンピュータ処理が始まったばかりだった三栄相互銀行ではこれを機に桜井市内の2店間でオンラインを導入、次いで翌年には普通預金の自営全店オンラインを導入した。
 1978年12月6日、創業社長の野村万作が79歳で死去、翌日には万作の長男で取締役の野村正雄が35歳で2代目社長に就任した。のむら・まさお氏は1943年5月生まれ、東大寺学園高校から京都大学法学部に進み、1968年京大卒業後は大和銀行に入社して4年間勤めた。1972年に三栄相銀に入社、1974年5月には取締役に就任し、業務部長としてコンピュータ導入を指揮するなどした。野村正雄氏は2004年6月まで社長を務め(1991.04〜2003.09頭取)、りそなホールディングスから派遣された上林義則副社長【注6】に交代した。

【注1】相互銀行:中小企業金融をになう金融機関として、無尽講を企業として営んでいた無尽会社に銀行機能を付加して創設されたもの。制度開始は1951年10月20日。旧無尽会社の転換のほか、奈良の三栄相互銀行のように新規創設も認められた。
【注2】普銀転換:普通銀行転換の略。相互銀行は普通の銀行と比べて業務上の制約が多かったため、規制緩和の一環として、1989年一斉に普通銀行に転換した。
【注3】官選知事と公選知事:かつて県知事は国から派遣されており(官選)、県知事選挙は戦後行われるようになった(公選)。国から派遣された奈良県知事(最後から2番目)だった野村万作は、選挙で選ばれた最初の奈良県知事となった。
【注4】不動貯金銀行:牧野元次郎が1900(明治33)年に設立。本店東京都。外務員が預金者を勧誘、定期的に訪問して集金する「三年貯金」が受け、全国最大手の貯蓄銀行となった。1945年5月に貯蓄9行の合併により日本貯蓄銀行となり、協和銀行・協和埼玉銀行・あさひ銀行を経て現在りそな銀行。なお、『三栄相互銀行三十年史』『奈良銀行四十年史』といった奈良銀の社史には「不動銀行」「不動貯蓄銀行」等と記されているが、いずれも誤りである。(2007.05.20追記:不動貯金銀行が存在していた時代には、通称名として「不動銀行」と呼ばれることもあったようである。)
【注5】大野伴睦(おおの・ばんぼく、1890〜1964):政治家。岐阜県山県市出身、明治大学政治経済学部中退。立憲政友会の院外団に入り、東京市会議員を経て衆議院議員選挙に通算13回当選。大戦後に鳩山一郎を支えて日本自由党の創設に参加、衆議院議長や自由民主党副総裁を歴任した。親台湾派として知られ、また日韓国交正常化交渉の草分けとして「日韓台連携」に努めた。「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればタダの人」などの名言を残す。東海道新幹線岐阜羽島駅を誘致、功労者として夫妻の銅像が同駅前に立つ。
【注6】上林義則(かんばやし・よしのり):奈良銀行の第3代社長。1955年10月生、大阪府出身、1978年3月一橋大学経済学部卒、同年4月大和銀行入行、四條畷・瓢箪山各支店長、りそなホールディングス企画部長を経て、2003年10月りそなHD・りそな銀行各執行役。2004年4月奈良銀行(代)副社長(HD執行役兼務)、同年6月(代)社長(同)。2006年1月合併により、りそな銀行常務執行役員(奈良地域担当)。(2007.05.20追記:上林義則氏は、りそな銀行の2007年定時株主総会(06.26開催)において同行役員を退任、りそな決済サービス梶iりそなHD100%出資)社長に就任する。)

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2006年05月27日

2006.01.13(金)(3)最後に、桜川とりそな銀行について

 りそな銀行桜川東支店は、旧奈良銀行の大阪支店である。地下鉄桜川駅上の空中店舗で、合併に伴って現名称に改称された。りそな銀行に既に「大阪営業部」があり、大阪支店とはできないため所在地名を採って「桜川」、さらに前述のとおり西に100mもない桜川交差点角に本家の桜川支店(旧大和)があるため、方位をつけて「桜川東」となった。
 旧三栄相互銀行の大阪支店は、1955年10月18日、同行初の県外店舗として大阪市南区谷町6-16に開業した。当初の店舗は旧大和銀行谷六支店跡を借り受けたもので【注1】、現在の地下鉄谷町線谷町六丁目駅の真上にあたる。界隈には機械工具店が建ち並び、資金の借り手はいくらでもいたが預金がなかなか伸びなかったという。谷町線の建設工事とそれに伴う道路拡幅で立ち退きを求められたため、1965年4月には、北区南森町2丁目に移転した。距離にして北へ2km余の堂島川を越えた場所で、谷町線の駅でいうと3駅先。ほぼ新天地への移転である。ここは大規模な商店街として有名な天神橋筋商店街のお膝元で、現在りそな銀行で南森町支店を中心にPR紙「リーナル・天神橋商店街版」を発行して地域起こしに取り組んだりしている地域である。
 その後1992年8月、支店の老朽化もあって、現在地の浪速区桜川2丁目に移転した。南森町からは直線距離で3kmほどだが、南森町との地縁はあまりないものと思われる。桜川の近隣では、バブル前後に湊町地区再開発や大阪ドームの新設などがあり、1992年の移転当時は将来有望な地域とみられていた。
 大阪支店は、りそな銀行との合併と同時に店名を「桜川東」に変更した。前述のとおりりそな銀行に既に桜川支店が存在していたためだった。そして、合併から半年後の2006年6月19日、桜川東支店は桜川支店に統合されて姿を消す。統合先の桜川支店は、1929年5月に旧加島銀行【注2】大正橋支店を引き継いで開業した大正橋支店が前身で、桜川東支店を除けばこの地区唯一の都市銀行店舗である。
 なお、桜川の交差点から北西に500mほどの堀江という地区には、協和銀行の前身9行のうち1行、摂津貯蓄銀行の本店があった。合併で「阿弥陀池支店」となり、その後「堀江支店」に改称された後、1972年5月に心斎橋支店に統合されている。前身銀行の旧本店が支店としても残っていないということは、都市銀行のネットワークという観点からはあまり儲からない地域だということかもしれない。

 2006年1月13日(金)10時25分。桜川東支店の制覇によって、私は旧奈良銀店舗16店全店の完全制覇を達成した。「13日の金曜日」であるが、気分は極めて爽快である。
 この後、私は所用で神戸大学に出かけ、夜になって大阪に戻り宿泊した。宿舎は定宿の難波ではなく、1泊2000円前後のビジネスホテル(カプセルではなく)が林立している新今宮を新たに開拓した。翌日は大阪環状線で京橋に出て、京阪電車で京都へ。いったん京都市内の伯母宅に寄り、伯母の車で法事(とは厳密には言わない)の場所へ向かったが、昼前から夜近くまでかかる法事の途中で一度も食事にありつけず、帰りの車の中で親族一同が発した第一声は「お腹すいた」であった。法事(に相当する儀式)で食事を出さない教団もあると知り、自分が実は仏教徒であるのだと再確認した。その後は京都市内の伯母宅に泊まり、翌日は宇治市まで帰る伯母(故人の母)の車で近鉄大久保駅まで送ってもらう。そこから近鉄で名古屋に出て、夜行快速「ムーンライトながら」で東京に帰還した。旅そのものは、奈良銀めぐを終えてからのほうがはるかに長かったのである。
 なお、書き忘れていたが、桜川東支店のATMは、オムロンHXが1台のみであった。

【注1】大和銀行谷六支店:1947.08.20大阪市南区(現中央区)谷町6-17に上六支店の出張員詰所として開設、1948.07.12谷町6-16に移転、1950.06.20支店昇格、1953.08.20南区松屋町に移転し松屋町支店に改称、2002.06.17上六支店に統合。なお『奈良銀行四十年史』では大阪支店の所在地を「大和銀行の谷町支店の跡」と書いているが、誤りと思われる(当時、当該地の支店は谷六支店。平成になって開設された大和銀谷町支店は谷町2丁目)。
【注2】加島銀行:1888(明治21)年、大阪の豪商・加島屋が一族の出資で設立。初代頭取は広岡久右衛門(9代)。大阪の有力中小金融機関であったが、昭和金融恐慌のため1928年3月破綻した。
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2006年05月26日

2006.01.13(金)(2)10:25、旧奈良銀店舗全店制覇達成

 大阪市営地下鉄千日前線のラインカラーはピンクで、桃色のカラーシートを車体外板につけたステンレス製の電車が4両編成で運転している。駅の施設は6両対応で作られたため、ホームの長さは十分過ぎるほどで、出口に通じる階段がホームの両端にある場合には、電車が停車しない部分にステンレス製の柵が取り付けられている。
 私を乗せた電車は、定時より2分遅れの10時02分に桜川に到着した。予定どおり、腹ごしらえをしてから目指す桜川東支店に向かうつもりである。
 地下鉄桜川駅には入口が1番から7番まであるが、どういうわけか6番だけ欠番になっている。東西に長い桜川駅の西端は、東西に走る千日前通りと、南北に走るあみだ池筋とが交わる、桜川2丁目交差点の真下にあたる。1番は北西角で、旧大和銀行(現りそな銀行桜川支店)の前。北東角の2番は大阪市信用金庫の前。大阪市信用金庫は「市信」(ししん)と呼ばれ、だいしんこと大阪信用金庫とは別物である。3番は何があるか知らないが南東角、4番が桜川交番前。南海汐見橋線の汐見橋駅は4番が最寄りである。一方、駅の東側は、かつて市電の車庫であった市有地に合わせて設けられたようで、5番が市バスの車庫(大阪市交通局幸町車庫)になっている。6番は前述のとおり欠番で、7番は千日前筋をはさんで市バス車庫の反対側。旧奈良銀行(現りそな銀行桜川東支店)の最寄りは5番、市バス車庫側の出入口である。
 腹ごしらえをする店を探して、駅の西側、桜川二丁目交差点の出口を出た。たしか南東角の3番出口だったと思う。交差点の対角線上、つまり北西角には、りそな桜川支店の入る「りそなアルテ桜川ビル」(1986年12月築)の近代的な外観が見える。同じ交差点の北東角には、何年の築かは知らないが、天井の高い重厚なコンクリート造りの銀行建築(大阪市信用金庫桜川支店【注3】)。そして、今いる南東角にはファミレスのロイヤルホストがあるが、ここはやめよう。昨夜「めしや丼」で食べた「ダブルステーキ」880円のショックが大きい。節約しなくては。
 結局、さらに千日前筋を東に歩き、通りの南側に面した「なか卯」で親子丼を食べることにした。

 飯を済ませてなか卯を出る。なか卯の前にある信号は、桜川東支店が入居するビルの2軒西隣である。ちょうど看板業者が来ていて、通りに面した場所の縦型看板を取り外している。あれは奈良時代には「奈良銀行」の黄緑色の看板だった。「りそな銀行」のものに付け替えずに外しているのは何か理由があるのだろうか。そう思っていたら、やはりというか何というのか、りそな銀行は4月14日、桜川東支店を桜川支店に統合すると発表した。統合は6月19日(月)付。
 桜川東支店は「清光ビル」という黒い外壁をしたビルの2階に入っている。1階は「ピタットハウス」という不動産屋である。奈良銀の店舗は、入居当初は1階の不動産屋の場所にあったが、営業室を2階に移転して1階はATMコーナーのみとなり、さらにATMコーナーも廃止(窓口室内に移転)して完全に空中店舗となった。従って、この支店の制覇可能時間は平日の9〜15時のみである。合併当初15時までの営業時間であった旧奈良銀店舗は、奈良地域内については2006年4月から17時までの営業となったが、この支店だけは15時閉店のままで統合を迎える。
 支店の入居する清光ビルは、奈良県の山林家である岡橋家の持ち物だそうで、これはビルのテナントを見ると納得がいく。このビルは9階建てで、2階の奈良銀を含めて8階までは特筆すべきものはないが、9階にはビル名の「清光」をつけた林業関係の株式会社と、オーナー名の「岡橋」をつけた林業関係企業の大阪支店、それに林業の業界団体の3社が入っている。なるほど林業関係者の持つビルだとわかる。ちなみに、ビルの定礎は92年となっている。
 さて、清光ビルの1階真ん中に入口があり、そこから奥へ進むと右手にエレベーターがある。光沢のある茶色い大理石を張り詰めた、かなり立派なエントランスである。エレベーターで2階へ上がる。別に階段を使ってもいいのだが、使ったことはない。
 エレベーターを降りると、左の突き当たりがりそな銀行桜川東支店である。ちなみに右側はトイレで、過去何回かお世話になったことがある。
 支店のドアを開ける。向かって右側が窓口カウンター、ついたての奥がATMである。この支店には奈良時代から何度か来ているから、勝手はわかっている。ただ、第二地銀からいきなり都市銀行になったことを強く印象付けたのは、インフォメーションを流している巨大な液晶テレビ(プラズマテレビというのか? よくわからない)が設置されていたことであった。液晶テレビは他の旧奈良銀店にもあったはずなのだが、大阪支店での印象が特に強かった。10時25分、桜川東支店を制覇。
 私が制覇作業をしている間に、プラスチックケースに菓子をたくさん詰めた女性が支店に入ってきた。おばちゃんは「グリコでーす」と言ってそのままカウンターの中に入っていった。富山の置き薬のように、置いていって減った分だけお金を回収していくのか、それとも「今日はグリコはいかがですか」という感じで一人一人に売って歩いているのかわからないが、「オフィスグリコ」という営業形態らしい。業者の立ち入りは奈良時代から行われているのだろうが、屈強なおじさんがビスコをかじりながら「帳尻が合わない」と汗をかいている様子を思い浮かべるとほほえましいものを感じた。

【注】大阪市信用金庫桜川支店:1959.12.14福利信用金庫(本店大阪市東成区大今里西)桜川支店として開設。1981.10.01東洋信用金庫(本店大阪市淀川区宮原)と合併し同金庫桜川支店。1992.10.01大阪市信用金庫に営業譲渡、同金庫桜川支店。東洋信用金庫は、いわゆる「尾上縫事件」(同信金の今里支店長が、ミナミの料亭の女将・尾上縫と結託して4160億円の架空預金証書を発行)により解体され、三和銀行などに分割譲渡された。

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2006年05月25日

2006.01.13(金)(1)大阪での一夜を過ごした後は…

 宿泊施設にもいろいろあるが、カプセルホテルは最も安く泊まれる施設の一つである。
 12日の晩は、大阪に来ると必ず泊まるカプセルホテルで一夜を過ごした。私がふだん利用しているのは、難波のビックカメラ前にあるガラス張りのレジャービルである。施設はだいぶくたびれてきているが、バブル期の建設だけにつくりがしっかりしているようで、居心地は悪くない。このビルができたのは私が高校を卒業した頃だったと思うが、ここのカプセルホテルはビルができた時から愛用している。私は大学受験浪人の頃、結構頻繁に大阪まで出掛けていた。バブル華やかりし頃の思い出である。
 前夜は、東生駒のミスドを10時の閉店前に出た。近鉄で難波に着いたのは10時半頃。無性に空腹感を感じてチェーンの定食屋に入り、ステーキ2枚で880円という値段だけ高級な「ダブルステーキ」なるメニューをオーダーしたところ、これで880円なのかと思う貧相な料理が出てきてがっくりと肩を落とした。その後宿に入り、夕飯の前に寄ったコンビニで買ったビールを飲んで、12時頃にはもう寝息を立てていたはずである。
 朝は7時にアラームをセットしていたが、アラームを止めてまた寝てしまったため、再び起きたのは館内放送でチェックアウト(10時)の案内が流れた9時のことであった。前の日のうちに奈良県内を全部(東生駒支店まで)制覇しておいてよかった。今日唯一の制覇目標である桜川東支店(旧奈良銀大阪支店)の前に一仕事、などと考えていたら、明らかに大遅刻である。あるいは逆に、東生駒が残っていたら、緊張感から7時にきちんと起きられたのかも知れない。どちらにしても、今日は9時に起きていたのでは遅いということである。

 基本的に風呂は朝入ると決めている。入浴・着替えの後、宿を出たのは9時45分であった。これから向かうのは、合併でりそな銀行桜川東支店となった、旧奈良銀行の大阪支店である。桜川は難波の西1kmほどの地区で、地下鉄千日前線では隣りの駅である。古くは道頓堀川を中心とした材木問屋・海運会社などで栄え、戦後は材木置き場や市電の車庫など閑散としたイメージの場所となった。
 今回は桜川まで地下鉄で行くことにした。地下鉄で1駅なら私は歩くことにしていて、現に過去何度か難波から奈良銀大阪支店まで歩いたこともあるのだが、今日ははっきり言うと面倒くさくなったのだ。難波の東寄りにあるカプセルホテルは、千日前線では難波と日本橋(にっぽんばし)の中間地点に相当する。難波ではなく日本橋から地下鉄に乗って「2駅」とすれば、高い大阪市の地下鉄でも乗るのは仕方がない。このように理論武装した上で、私は日本一(日本橋1丁目)の交差点から地下鉄駅の構内に足を踏み入れた。
 腹が減った。宿を出るとき、朝飯を食べる店を日本橋で探そうと思っていたが、気の向く店がないので桜川まで出てしまうことにした。堺筋線のホームに直結の改札を入り、左に進んで左の階段を降りると千日前線のホームである。目的地の桜川は2つ目の駅だ。
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2006年05月24日

2006.01.12(木)(41)20:45、予定の15店を完全制覇

 「りそな銀行」の横型の大きな行灯看板が目に入った。奈良銀の支店で看板が行灯になっていたのは、ここが初めてではないだろうか。早速支店に入る。この日撮った写真を見ると、ATMはオムロンHXが2台写っているが、もはや記録を文字で残しておく気力は失せていたようだ。息も絶え絶えに機械を操作。20時45分、東生駒支店を制覇した。
 東生駒支店は1969年7月23日の開業で、三栄相互銀行としては10番目の支店。開業当初から東生駒駅高架下の現在地にあり、改札を降りてすぐの好立地である。1993年には店舗面積を倍増させる大改装を行った。
 東生駒が住宅地として発展を遂げたのは、この地に駅ができたことがきっかけである。近鉄奈良線は、1964年7月の新生駒トンネル開通など線路改良により、車体長20mの大型車両が走行できるようになった。これにより、上本町−生駒間で設定されていた近鉄奈良線の各駅停車は、生駒駅での折り返しが設備上困難となったため、折り返しのできる新駅を生駒駅東側1.2kmの地点に建設した。近鉄東生駒駅はこうして1968年3月20日開業した。2006年3月のダイヤ改正まで、奈良線の各駅停車のうち半数は東生駒−難波間で運転され、東生駒から難波方向へは普通列車の本数が倍増していた。
 駅の真下を国道168号線が直角に横切る。この道がこの付近のメインストリートであリ、また生駒市旧市街の東縁となっている。駅周辺は支店開業当初は閑散としていたようだが、現在では一戸建て住宅とマンションがびっしり建ち並んでいる。駅の南側にロータリーとバスターミナルがあり、駅舎の1・2階には近商ストアの高級スーパー「ハーベス」が店を構える。
 東生駒支店は東生駒駅の南口にある。バスターミナルから見ると、右側に高級スーパー、中央に駅に上がる階段、そして左側にりそながあって、電車に乗るか銀行に行くかという一等地に見えるのだが、電車に乗ってくると場末にあるような印象を受けてしまうのが不思議だ。とはいえ、ここにはKCN(近鉄ケーブルネットワーク)のスタジオと本社ビルがある(駅前ロータリー横)。首都圏でいうとイッツコム(東急ケーブル)の本社がたまプラーザにあるのと同じような感じだ。鉄道会社の力の入れ方と駅としての重要度とが比例しないニュータウンの駅、という点で、東生駒はたまプラーザと似ている気がする。

 2006年1月12日・木曜日、20時45分。東生駒支店をもって、りそな銀行旧奈良銀店舗のうち奈良県内の制覇が全部終わった。明日、旧大阪支店である桜川東支店を制覇し、これで旧奈良銀店は完全制覇となる。
 五条から東生駒までの旧奈良銀店15店を、1日でどうにか回りきったことになる。さすがに旧大和・旧あさひ店まで含めての全店は無理だった。公共交通機関ではなく車なら可能だろうが、それはそれで駐車場所に頭を悩ませることになる。特に学園前あたりでは厳しいだろう。
 最後にドーナツ屋で軽くブレイクしよう。ミスドの「東生駒ショップ」でスープを注文する。今日の目標は全部片付き、後は宿で寝るだけである…予約していないのだが。東生駒ショップは、ミスド店の本日6軒目の制覇となった。ミスドで1時間ほどゆっくりしてから、大阪で定宿にしている難波のカプセルホテルに向かう。前述の新生駒トンネルを抜けた石切(東大阪市)で右車窓に見えた夜景は、一日の疲れを少しだけ癒してくれた気がした。

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2006年05月23日

2006.01.12(木)(40)本日最後の目標、東生駒支店へ

 学園大和町支店を思いのほか早く制覇できてしまったので、半分諦めていた東生駒支店の制覇が急にクローズアップされてきた。学園前駅に戻るバスがあるだろうか。バス停に戻ってポールの時刻表を見ると、次のバスは20時20分発とあるからすぐだ。おそらく、私が今乗ってきたバスが折り返していくのだろう。
 すぐに来たバスは、思ったとおり私が往路で乗ったバスであった。定員いっぱいの通勤客を団地に運んだ帰りであるので、往路と異なり車内は空っぽで、乗客はほとんどいない。
 駅からの距離に応じて運賃の異なる往路と異なり、復路では運賃先払いとなる。乗り込んで奥に進もうとした私に「先払いです」と声をかけた運転士は、私が財布から硬貨を出して運賃箱に投入するまで、バスを発車させようとしなかった。それが商売というものなのだろうが、憎たらしく感じた。乗り逃げなどするものか。とはいえ、乗客がないということは途中での停車もないということで、大和町を出てからわずか6分ほどで学園前駅に戻ってきた。非常にスムーズである。一度は諦めた東生駒支店だったが、やっぱりどうにかなりそうである。希望の光がかすかに見えた気がした。
 学園前のタイムリミットが何時かだけ、事前に調べてある。東生駒駅内にある東生駒支店に21時までに入るためには、学園前20時48分発が最も遅い電車である(東生駒20:53着)。今まだ8時半、論理的には学園前での持ち時間があと20分弱あるということになる。というわけで、駅の北口側にある近鉄学園前支店(旧大和)に寄り道することにした。
 近鉄学園前支店は、北口の駅前ビル「パラディ」の1階にある。今いるのは南口だ。少し遠いと思っていたら、切符売り場の横に連絡通路を発見、2003年5月11日に制覇して以来の近鉄学園前支店再訪となった。近鉄学園前支店は1982年6月に開設され、91年10月に現在地に移転してきた。

 東生駒支店が今日中に取れることになったが、油断はできない。小学校の遠足で、引率の教師が「遠足は家に帰るまでが遠足ですからね」と言っていたのを思い出す。りそめぐも、最後の拠点を制覇するまでがりそめぐなのである。
 切符を買って駅構内に入った。吉野の越部駅から始まる奈良県内の大移動で今日一日役立ってくれた「奈良大和路スルーパス」は、ここ学園前より西側は有効区間外となる。ついに近鉄電車に切符を買って乗らなければならない時がきた。学園前から東生駒までは200円である。所要時間は5分。
 学園前20時36分発の普通難波行きに乗る。学園前から東生駒までは2駅、間に富雄をはさむだけだ。富雄には近畿大阪銀行が富雄支店を出しているから、将来近畿大阪がりそなとシステム統合して旧あさひ銀行のシステムに合流したら「近畿大阪めぐ」で訪れることになるだろう。あっという間に東生駒に到着する。ホームに降り立つと、3月に開業予定のけいはんな線の線路が見えた。けいはんな線はこの駅の東側で北に曲がっていくのだが、東生駒に駅は設けられていない。
 東生駒駅の改札は、3階にあるホームの下である。階段を下りて直進すると自動改札機の並んだ出口。地平からタクシー用のスロープが改札前まで直結していて、改札を出て直進すると目の前がタクシー乗り場となる。改札の左側には高級スーパーの「ハーベス東生駒」があり、正面階段は斜め右側である。奈良銀行は改札を出て正面の階段をそのまま降りればすぐ右側である。
 階段の存在を無視して右にまっすぐ行くと、右正面にりそな銀行の縦型看板が見える。これに目を取られてしまうと、その先にあるのは店舗外ATMなので、だまされることになる。以前来たことがなければ私も一度はだまされていたに違いない。看板のすぐ外側に、カマボコ型の屋根を持った店舗外ATMの部屋が並んでいる。右から三井住友・りそな・京都の順で、三井住友は「ATMサービス西日本支店東生駒出張所」となっている。かつては生駒支店あたりのATMだったのだろうが、三井住友は最近店舗外ATMの母店を地域の支店から「ATMサービス支店」に変更しつつある。手数料無料の同一店内振込を根絶するためであろう。このATMは機械上部の表示が黄色いので、旧住友銀行のATMである。りそなは母店が近鉄学園前支店で、旧大和の店舗。そして、京都銀行の母店は何と高の原支店だそうである。奈良市のはずれから生駒市のATMを管理しているのに驚く。これらの隣に、なぜかマクドナルドがあったりする。あくまでATMと同じ建物で、京銀の隣がマクドである。
 東生駒支店には奈良銀の時代に1回来たことがあるので、おぼろげに様子を覚えている。支店は、カマボコ型の屋根を持つATMコーナー前の階段を下り、左にヘアピン的に曲がった左側のはずである。半分自信があって、半分自信がないという感じで階段を下りていく。
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2006年05月22日

2006.01.12(木)(39)20:18、学園大和町支店を制覇

 20時01分、私は難波行きの快速急行を学園前駅で降りた。
 電車の中でもろもろ考えた結果、慎重居士の私は一つの決断を下した。学園大和町と東生駒、2つの支店を今日中に制覇するのは無理だ。であるならば、大阪を起点とする明日の行動がスムーズに片付くよう、大阪に一番近い支店を未制覇のまま残すことにしたのである。逆にいうと、学園大和町支店は確実に押さえようということだ。
 学園前は、近鉄沿線のみならず近畿圏でも屈指の高級住宅街である。私が快速急行を降りた反対側のホームでは、特急が停車して客を降ろしている。夜間の近鉄奈良線下り特急は、学園前に住む企業重役のためのステイタス列車と化しているようだ。東京周辺でいうと、さしずめ「国鉄時代の湘南電車のグリーン車」といえようか(国鉄時代、というところがミソである)。というわけで、学園前は近鉄としてもかなり力を入れている駅のようで、ホームから地下の改札に向かうエスカレーターは上り用と下り用の両方を備えている。
 学園大和町支店までの経路は、すでにリサーチしてある。学園前駅南口から学園大和町5丁目行きのバスに乗り、同3丁目で降りる。このバス代は現地まで200円である。吉野で1000円出して買った奈良交通の回数券は、ここで1100円分の券片をやっと使い切り、まる1日かけてバス代をやっと100円浮かせたことになる。
 というわけで、学園前駅の南口2番乗り場から、学園大和町5丁目行きのバスに乗る。バスは20時08分発車である。車はさっき西大寺から押熊まで乗ったのと同様の大型バスだが、窓から見える景色はかなり違う。再開発中の雑多な町並みが殺風景な西大寺と違い、学園前のバスターミナルは駅内の商業施設のイルミネーションが華やかである。
 バスが発車してからのことはあまり覚えていない。左側の車窓に草の生えた斜面が見えて間もなく右折し、同時に急坂を下った記憶があるから、道順としてはおそらく駅前から南下して奈良西警察署の角で右折したのであろう。
 当初のリサーチどおり、バスを学園大和町3丁目で降りる。降り際に運転士に奈良銀行の場所を尋ねると、停留所で降りてさらに先へ進んだ交差点の角ということだった。
 あった。交差点の角にある3階建ての雑居ビルで、支店の正面入口は角部分にある。窓口閉店後のシャッターは、キャッシュコーナーのスペースが45度の直角二等辺三角形となるように、斜めに設けられている。ATMは、三角形をしたキャッシュコーナーの両側の鋭角部分に1台ずつ並んでいる。例によって機械はオムロンのHXである。ATMを操作。20時18分、学園大和町支店を制覇した。
 学園大和町支店は、1977年6月17日、現在地で「学園前支店」として開設された。三栄相互銀行としては15番目の店舗となる。普銀転換に伴い、1989年4月1日現名称に改称した。奈良銀としては、大和町だけでなく駅前への進出も狙っていたためである。そのもくろみは、大和銀行の近鉄学園前支店が現在地に移転(1991.10.07)、その店舗跡に新・学園前支店を開設(1991.11.25)することで達成した。但し、奈良銀の新・学園前支店は、その後2004年3月に統合されている。
 学園前駅の周辺は広大な高級住宅地で、旧三菱銀行が奈良県唯一となる店舗を1993年に出店したのもこの地である。駅名の「学園」とは帝塚山学園のことで、関西屈指のお嬢様学校である帝塚山学院(大阪市住吉区)の姉妹校である。帝塚山学院は、創立25周年および紀元2600年の記念事業として、中高一貫校および大学を擁する一大総合学園を作り、さらに学園を中心とした文化都市を建設しようと企図。これにより1941年、現在の学園前駅南口に帝塚山「学園」が誕生した。近鉄(当時関西急行電鉄)学園前駅の開業は1942年3月、その後駅周辺では1950年から大規模な宅地造成が開始され、大和町の界隈は1963〜66年にかけて開発された。

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2006年05月21日

2006.01.12(木)(38)京都府に別れを告げる

 つかの間の京都府に別れを告げ、再び奈良県に戻る。次の目標は、奈良市西部の高級住宅地・学園前の南1km余、学園大和町(がくえんだいわちょう)支店である。
 目標は学園大和町を含めてあと2か所。最後の東生駒支店(生駒市)は21時ぎりぎりに滑り込めばどうにかなるが、学園大和町が駅から距離的に微妙なので、少し心配している。もっとも、宿は定宿としている大阪・難波のカプセルホテルにするから、仮に最後の東生駒支店を取りこぼしたとしても、翌日朝一番で奈良県に戻り、そのあと桜川東支店(旧大阪支店)に向かうことも可能だ(桜川東支店は窓口営業時間内にしか制覇活動ができない。ATMが窓口室にしかないため)。ただそれだと、1時間以上の時間と、難波からの往復交通費をロスすることになる。明日には明日の予定があるし、近鉄の切符代は高いので、それでは少し困ってしまうのである。
 木津川台駅まで戻る。ハーベス木津川台東側の4叉路から前方に、木津川台の駅が煌煌と輝いている。周囲はもうすっかり闇に包まれているし、団地そのものが高台の上にあるから、駅はさしずめ不夜城といったところか。この交差点は、駅との位置関係からして、駅の方向に駆け出したくなるはずだ。しかし、ここでそれをやると、絶対に駅にはたどり着けないのである。手前にあるエーエムピーエムの裏手に回らなければならない。
 さて、JR片町線をくぐって川沿いに歩いてくると、前方の近鉄の線路を右方向に発車していく電車が見えた。片町線から見て右方向というと、西大寺方面。乗ろうと思っていた電車が今行ってしまったようだ。近鉄京都線は各駅停車が15分に1本しか来ないから、かなり痛い。
 一気に疲労感を感じたので、エレベーターに乗りたくなった。近年のバリアフリーの動きはこの駅にも及び、木津川台駅にはエレベーターが配備されている。エレベーターは階段を直角三角形の斜辺とすると垂辺にあたる場所にある。ようやく駅舎に上がって時刻表を見る。乗る電車は19時43分発の大和西大寺行き各駅停車になりそうだ。
 木津川台方向の闇から轟音が響いてきたので見ると、片町線の電車が全速力で走り抜けていた。ここで北に向かう片町線の電車は、大阪方面である。甘南備丘陵を大きく北に迂回し、京田辺市などを通って、大阪府に入ってからは南西方向に京橋を目指す。京橋から東西線大阪市内経由で尼崎に抜けた先には、2005年に107人の犠牲者を出した脱線現場がある。ダイヤを調べてみるとこの電車は快速篠山口行きだから、1時間後にかの現場を通る電車である。車両も事故を起こしたのと同じ「207系」だ。

 43分に乗ったら、学園前に何時に着くのだろうか。学園前駅から、大和町まで行って帰ってきて、なおかつ東生駒まで行かないといけない。それとも、東生駒を先に取ったほうが賢いだろうか。東生駒支店は東生駒駅の中にあるから、駅に着きさえすればすぐに用事を済ませて折り返して来られるはずだ。東生駒を先にしたほうが賢いかもしれない。
 ケータイのダイヤ検索で、木津川台から東生駒までを調べてみる。東生駒に20時11分に到着するとある(木津川台19:43→19:53西大寺20:02→20:11東生駒)。西大寺から東生駒までの所要時間がわずか9分というのは、急行か何かがあるのだろう。東生駒支店を制覇し、東生駒駅前にはミスタードーナツがある(東生駒ショップ)ので制覇のための買い物をし、それから学園前に戻ることになる。
 私は今日、学園大和町支店まで取れるのだろうか。ちょっと不安になってくる。高の原でのんびりし過ぎた。東生駒を先にしても、ひょっとしたら学園大和町を取れないかもしれない。どうしよう。
 反対側のホームを京都行きの特急が通過していった。
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2006年05月20日

2006.01.12(木)(37)19:22、学研木津川台支店を制覇

 ハーベスに近づく。その向こう側に三角屋根の平屋建ての建物が見え、りそな銀行の縦看板も見えた。屋根のてっぺんには、半円形の明り取り窓が3つついている。銀行の店舗は「ハーベス木津川台」と同じ敷地の西側。事前のリサーチによると、現在りそな銀行の店舗となっている建物は、ニュータウン開発初期からあった近商ストアの移転跡だそうである。
 りそなの支店の隣、建物の左端は、何と南都銀行のキャッシュコーナーである。木津川台出張所(店舗外ATM)、母店は山田川支店(山田川は奈良寄り隣駅)。この建物が奈良銀の持ち物でなかったからだろうが、それにしても奈良銀行と同じ建物に南都銀行が入っているというのはうら悲しいものがある。
 制覇を済ませてしまおう。支店に入ると、キャッシュコーナーには例によってオムロンHXが2台。ここはちゃんとしたATMコーナーを備えている。そして、この支店の「子供の本のへや」は、ATMコーナーと一体になっており、ATM営業時間中は開放になっている(いちおう「あさ9じ〜ゆうがた5じ」という看板は出ている)。
 靴を脱いで上がって『ぐりとぐら』でも読みたいところだが、この後の予定を考えるとゆっくりもしていられないのでATMを操作する。19時22分、学研木津川台支店を制覇した。
 学研木津川台支店は、奈良銀行の京都府内初の店舗として1996年6月24日開設された。当初は高の原支店木津川台出張所といったが、翌97年11月4日には早くも支店に昇格、その際に「学研」の2文字が付いた。奈良銀にとっては大阪支店(現桜川東支店)に次ぐ県外進出ということになる。もっとも、行政区は京都府でも奈良県の延長のような場所であるのは前述のとおりである。
 支店昇格の際に「学研」とついたのは、けいはんな学研都市の「精華・西木津地区」中にこの団地全体が組み込まれているからである。出張所開業当初の母店だった高の原支店は、りそな銀行との合併前に廃店されたが、学研木津川台支店は営業を続けている。学研都市の一部で教育水準の高い富裕な居住者が多く、リテールのマーケットとして有望ということなのだろう。それを言うなら高の原も学研都市の一部(平城・相楽地区)だが、こちらは、約30年間続いた開発と販売が1998年に終了しており、また三井住友・南都・京都の3行が進出している金融激戦区でもある。
 学研木津川台支店のある近鉄木津川台ニュータウンは、開発がなかなかスムーズには進まなかったようだ。この団地は1986年12月に開発が始まり、住宅地の分譲開始は1989年5月。最寄り駅となる近鉄京都線木津川台駅も1994年9月の開業で、90年代になってから形を整えてきた(奈良銀の出張所は前述のとおり96年の開設である)。この団地は近隣に駅ができるというのがセールスポイントだったが、ニュータウンの分譲開始後に駅がなかなか開業せず、開発した近鉄不動産は非難を浴びたという。バブル崩壊後には売れ残った分譲地を過度に値下げして販売したとして、先行購入者が近鉄不動産を訴えたりもした(1998年大阪地裁で原告敗訴)。そして、木津川台ニュータウンの地元・木津町は急速な都市化を望んでいなかったようで、近鉄は木津川台駅近くにはコンビニ1軒しか出せなかった(近鉄はエーエムピーエムのメガフランチャイジーである【追記】)。
 なお、木津川台駅から学研木津川台支店までの道筋を写真で説明したwebページがあるので、ご参考までに紹介する(こちら)。現「ハーベス木津川台」がただの「近商ストア」になっているなど、数年前の木津川台の状況がわかる。もちろん、銀行の看板は奈良銀行となっている。

【2006.05.28追記】近畿日本鉄道は5月24日、コンビニエンスストア事業の子会社「エーエム・ピーエム・近鉄」(本社大阪市)の経営権を、回転すしチェーンのカッパ・クリエイトに譲渡したと発表した。エーエム・ピーエム・近鉄は1995年に近鉄グループが設立、エーエム・ピーエム・ジャパン(東京・港)と地域フランチャイズ契約を結び、「am/pm」を大阪・京都・奈良・三重・和歌山の各府県に171店(2006年2月末)出店していた。06年2月期の売上高は約56億円だった。

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2006年05月19日

2006.01.12(木)(36)発展途上の木津川台住宅地

 高の原から2つ目、近鉄木津川台ニュータウンの最寄り駅である木津川台で降りる。対向式、つまり複線の線路の両側にホームが1本ずつへばりついた形の駅で、各駅停車しか停まらない。事前のリサーチでは畑の真ん中ということだが、夜になっているので詳しいことはわからない。但し、建物のない真っ平な土地が広がっていることだけは少なくともわかる。なお、「近鉄木津川台ニュータウン」という言い方は近鉄サイドではしておらず、「近鉄ニュータウン木津川台」もしくは「近鉄木津川台住宅地」というのが正しいらしい。
 改札を出て、木津川台住宅地方面と書いてある右側へ向かう。駅舎の階段最上部はガラス張りになっていて、コンビニのエーエムピーエムが見える。APの向こう側には「Harves」(ハーベス)と英語(なのかどうかは知らない)と書かれた黄色い看板が見える。これは近鉄のスーパー部門・近商ストアが経営する高級スーパー「ハーベス木津川台」である。手許の地図からすると、目指す学研木津川台支店はAPの延長線上、ハーベスの隣りにあるようだ。
 駅の階段を降りて、まず右に曲がる。近鉄の線路と住宅地のある高台との間を、JR片町線とニュータウンへの取付道路が走り、その向こうにAPが見える。コンビニの行灯看板がひときわ目立つのは、畑の真ん中にあるせいだろう。JR片町線には「学研都市線」という別名がつけられているが、同線に木津川台駅は設けられていない。
 木津川台ニュータウンへは、JRと道路とをアンダーパスする必要がある。駅前からニュータウン方向へ、駅前を線路と直角に流れる小川(農業用水路か)に沿って狭い道が延びている。車も通ることのできない川沿いの道は、下り坂の始まりと同時に道幅が一気に半分になり、その状態で水面に向かってスロープになっている。スロープのおかげで、橋最下部との間の限界は2.6mとなっていて、天井に頭がつくほど低くはない。なお、東側には近鉄の線路をくぐるアンダーパス(川沿いのスロープ)が片町線と同様にある。
 スロープを上がったところで、道は木津川「台」の壁に突き当たる。右側には駐輪場が広がっている。ここで左に曲がって川を渡ると、さっき駅から見えたエーエムピーエムの背後に回り込んだことになる。事前のリサーチで結構遠いイメージを持っていたのだが、どうということもない距離感である。エーエムピーエムの前は結構な幹線道路のようで、車がビュンビュン走っている。
 ようやくニュータウンの入口にたどり着いた。ここは、ニュータウンの中央大通り(という名前かは知らない)が崖っぷちに突き当たって終わっているところで、APの前を南北に走りニュータウンの外へ行く道と、北西方向に斜めに進むニュータウン内の道とで4叉路(十字路でなく)になっている。北西角に、平屋建てのスーパーマーケット「ハーベス木津川台」が見える。
 APのある場所と中央大通りとの間には、1m近い高低差があって、交差点には駅裏の道から直接つながる3〜4段の階段がついている。この段を上がると、一気に木津川台のニュータウンの入口に立つ。
 この交差点から北に向かってハーベスの横を走る道は、通行止めになっている。この道の取り付け部分の横断歩道を意味もなく渡る。バリケードには「木津川台駅アクセス道路整備工事、発注者木津町建設課」などと書いてある。工事と称して通行止めにしてしまっても平気なほど重要度が低い道路なのか。実際、ニュータウンの入口に立っただけで、未分譲の土地が多そうなことは何となく察しがつく。それでも、ハーベスというのは前述のとおり高級スーパーだから、このニュータウンには所得の高い層が住んでいるのだと思われる。
 目指す学研木津川台支店は、ハーベス木津川台の建つ向こう側にあるはずだ。AP横の階段を上がって大通りに出ると、見慣れた人なら1×1.25倍ぐらいの縦横比をした「りそなクイックロビー」の行灯看板が街路樹の向こう側に見える。私はもちろん「見慣れた人」であった。安心した。
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2006年05月18日

2006.01.12(木)(35)押熊から高の原へ

 平城支店は、今朝一番の五条支店から数えて12番目の制覇となった。今日の目標はあと3店。第13目標はついに奈良県を飛び出し、旧奈良銀唯一となる京都府内の支店、学研木津川台支店(京都府相楽郡木津町)である。但し、ここは行政区は京都府だが、奈良市の延長のような場所であるらしい。
 学研木津川台支店の最寄り駅は、近鉄京都線木津川台。ここは大和西大寺から数えて4つめの駅である。となれば、西大寺まで戻って近鉄に乗り換えることをまず思いつくだろう。しかし、私は困った性格を持っている。「単純往復が嫌い」なのである。
 というわけで、単純往復にならないようリサーチしてある。平城支店の北側500mほどの場所を、別の幹線道路「ならやま大通り」が東西に走っている。この道は平城支店が面する県道奈良精華線と直交しているが、その交差点そばに「押熊北口」というバス停がある。この路線は、さっき西大寺から乗ってきたのとは全く別の、学園前駅(奈良市)と高の原駅(同)を結ぶ奈良交通の路線である。本数は1時間に1本程度。しかし、この路線の高の原行きは、押熊北口18時23分発と実に都合が良いのだ。支店からの歩行距離を考えると、まさに絶妙のタイミングである。加えて、バス代は高の原まで240円と西大寺まで戻るよりも10円安いうえ、近鉄の電車賃も高の原→木津川台150円と西大寺から行くより安い(西大寺→木津川台250円)。もっとも、今回私は乗り降り自由の切符を使っているから、近鉄の運賃はあまり関係ないのだが。
 支店前の道をまっすぐ北へ。平城支店が面している奈良精華線新道は、中央分離帯もついた4車線道路である。この道はロードサイド型の電気店が集中していて、支店の向かいにケーズデンキがあるのは前に述べたが、支店の北隣はミドリ電化の店である。ミドリ電化の壁には、タレント赤井英和を起用した「アカイはミドリ」という大きな垂れ幕がかかっていて、掛詞の大好きな私の琴線に触れた気がする。その他、出す料理の種類をファミレスより絞ったロードサイド型の料理店と、カーディーラーも目に付く。阪急系の文教堂書店が、ロードサイド型の書店を出していたりする。
 10分も歩くと、中央分離帯のない4車線道路と交差する交差点にたどり着いた。これが「ならやま大通り」であるらしい。角にはサーティーワンアイスクリームがあり、道の反対側にはラーメン屋とガソリンスタンドが見える。東の方向に向かうバス停のポールはガソリンスタンドの前に見つけた。ミスドで買ったパイをかじりながらバス停で待っていると、間もなくバスがやって来た。バスの車内では、先ほどに続いて睡魔に襲われる。奈良大学(私立)のそばを通ったことだけ覚えているが、他では眠り込んでしまっていた。
 終点の高の原駅が近づいてきた。目を覚ました私は、度肝を抜かれる思いがした。
 でかい。高の原の第一印象はこれだった。高の原は前述の「けいはんな学研都市」の中心にあたる土地だが、これほど大規模な開発がなされていたとは今の今まで知らなかったのである。現地を踏んでみないと分からないことというのがこの世には多数あるものだ。後で聞いたところによると、けいはんな学研都市は、東のつくば(筑波研究学園都市)と並ぶ規模の国家的プロジェクトだそうである。なるほど、国家的プロジェクトであるからこそ、国会図書館(関西館)があるのだ。初めて合点がいった。
 終点・高の原駅前でバスを降りた。この駅のバスターミナルは、屋根つきのプラットホームが10本近くもあっただろうか、「大バスターミナル」と表現して差し支えあるまい。高の原駅の西側には「サンタウン高の原」という商業施設が開かれている。サンタウンは、首都圏でも多摩センター並みと思える規模の開発のされ方で、本当に大規模であると感じる。高の原の駅およびバスターミナルとサンタウンとの間には、中心となる道路が貫通し、車がビュンビュン行き交っているが、この道路も片側3車線という大規模なものである。大規模大規模と主観的な書き方ばかりしているが、それほど規模の大きさが印象に残ったということである。
 腹が減った。高の原のサンタウン内には、ミスタードーナツ「高の原ショップ」がある。ミスド店の制覇を兼ねてほんの少しだけ疲れを癒すことにする。

 りそなめぐりは、りそな銀行のATMが稼働していて初めて行える。今、18時55分だから、ほぼ夜7時。ATMの営業時間は9時までだから、あと2時間で否応なくすべてが終わってしまう。私の今日の目標は、東生駒支店まで全15店の完全制覇を済ませることである。あと2時間で、学研木津川台を含め3支店を取らなくてはならない。
 ミスドでまったりし過ぎてしまい、数分遅刻してしまった。当初のプランで乗る予定にしていた電車は、高の原18時49分発の普通京都行き。しかし、京都線の各駅停車は15分おきにしか来ないから、結局その次の19時05発に乗ることになった。スケジュール的には、東生駒のフィニッシュ予定が8時半頃と多少の余裕を持たせてあるので、今日中に予定の箇所は回れるとは思うのだが。
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2006年05月17日

2006.01.12(木)(34)18:03、平城支店を制覇

 あれだけ苦労して西大寺の北口にやってきたのは、近鉄西大寺支店を再訪する目的だけではない。次の目標である平城支店へ行くバス(奈良交通)が、近鉄大和西大寺駅北口から出ているからである。平城支店最寄りのバス停は「南押熊」。「押熊」行きに乗って、終点の一つ手前で降りる。予定では、西大寺駅前を17時40分に出る押熊行きのバスに乗ることになっている。奈良駅まで乗る予定だったJR桜井線の電車を京終で降りて以後、当初立てたプランからずっと逸脱していたが、ここでようやく元に戻ることになる。
 西大寺駅の北口にあるバス乗り場には、5時半前に到着した。2003年に来たときと比べ、バスターミナルは面積が広がっているように見えた。押熊行きのバスは、北口バス乗り場の一番東側、2番乗り場から発車する。時刻表を見ると、押熊線の次のバスは17時40分。当初予定どおりの便である。1本くらい早いバスに乗れることを期待していたので少しがっかりしたが、あれだけ思いつきで当初プランから逸脱しておいて、よく元に戻れたとも言える。
 発車10分前の時点で、バス乗り場には既に10人近い行列ができていた。バスが来たのは発車5分前くらいだったと思う。今朝五条から吉野まで乗ったのと同じ奈良交通のバスだが、奈良市近郊の路線は奈良交としてはドル箱であるようで、いかにも路線バスといった感じの大型バスである。
 17時40分、押熊行きのバスが発車した。車内はぎゅうぎゅうに混んでいるが、私は並び順が早かったので着席することができた。窓の外はもはや真っ暗で、風景もたいして見えない。埃臭い車内で私は大きな欠伸をする。窓下の壁に頭をもたれかけると、ディーゼルエンジンの振動がもろに響いてくるが、それでも頭を自分の肉体以外に支えさせる欲求のほうが強かった。バスが近鉄京都線の線路に沿って北上し、やがて京都線の踏切を東から西に越えて間もなく、私の記憶は途絶える。

 目を覚ましたきっかけが何だったかは覚えていない。ただ、バスは2車線すらないような狭い田舎道を走っていたから、終点がだいぶ近づいていたのは間違いない。車内は西大寺を出たときよりすいていたが、それでも結構な数の乗客がまだ乗っている。意外に遠いところまで乗る客が多いようだ。
 南押熊でバスが停まった。既にポケットに用意してあるバス代250円を払ってバスを降りる。吉野で買った回数券のうち2枚と現金50円である。私の他にも多数の乗客が降り、バスは一気に空っぽに近い状態となったようだ。
 さあ、平城支店に向かおう。これまでバスが走ってきた生活感あふれる道は、西大寺駅の東側から京都府精華町まで通じている県道奈良精華線の旧道である。200mほど東側を幹線道路が走っている。こちらは奈良精華線の新道で、けいはんな学研都市(後述)内の国立国会図書館関西館の前まで通じている。さっき西大寺で近鉄を越えた地下道の道は、200m東側の新道とつながっているらしい。
 南押熊の停留所は旧道沿いだから、界隈の風景は農村地帯そのものである。停留所から支店のほうに向かっている(はずの)軽自動車1台がようやく通れるくらいの細い道は、農業用水の側溝があり、ふた昔前くらいの木造農家がみられる。庭に柿の木が植わってカラスでも鳴いていたら「秋は夕暮れがをかし」といったところである。
 こういうのどかな風景も、視線を少し前のほうに動かしただけでたちまち意味合いが変わってくる。前方で煌煌と照らすライトアップ。あれは、家電量販店の「北関東のYKK」の一角、ケーズデンキの店舗である。地図によると「ケーズデンキおしくまパワフル館」とある。パワフルでも萎びていても構わないが、スクラップアンドビルドの著しいロードサイドと、頑なに近代化を拒みつづける農村、といった対照的な光景がここにはあると思えた。この地域は将来的には奈良市の表玄関になると目されていて、幹線道路の整備が進み、ロードサイドには郊外型の店舗が軒を連ねている。
 とにかく、南押熊から来たらケーズデンキが平城支店の目印である。目的地は近い。南押熊から歩いてきた細い道は、ケーズの敷地の北側で奈良精華線の新道にぶつかる。信号の向こう側に、りそな銀行の看板をつけたグレーの外壁の5階建てビルを確認した。さっそく建物に入る。そこには他行同様のATMコーナーがあって、オムロンHXが2台置かれている。窓際には、ステンレスパイプをジャングルジムのように組んで板ガラスをはめ込んだ飾り棚が置かれている。早速機械を操作。18時03分、平城支店を制覇した。
 平城支店は1990年4月9日の開業で、普銀転換して奈良銀行になってからの店舗開設第1号である。平城支店は、高の原支店(現存せず)と共に、開発が見込まれる奈良市西北部への先行施策として新設された。こうした土地柄における新店舗だけに、平城支店には開業当初から敷地内にドライブスルーATMがある。ドライブスルーのキャッシュコーナーは、店舗の南側、細長い敷地の南3分の2を占める駐車場内にあるが、どういうわけか支店のATMではなく「平城ドライブスルー出張所」という店舗外ATMになっている。
 県境に近い奈良市の西北部は、広大な土地が未開発のまま長年残されてきた。もともとは裕福な農村地帯であったというが、近年では「けいはんな学研都市」(関西文化学術研究都市)として開発されている。新しい学術研究の拠点を創出しようという国家的プロジェクトである。学研都市の足を担う近鉄けいはんな線(2006年3月開業)の終点・学研奈良登美ヶ丘駅は、平城支店のある奈良市押熊町から西北西に2kmほどしか離れていない。

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2006年05月16日

2006.01.12(木)(33)越すに越されぬ西大寺

 西大寺支店を取ったあと、今度は駅の反対側(北口)に行かなければならない。計画では、西大寺の駅の北口へ出て近鉄西大寺支店(旧大和店)に寄り道、それから平城支店の最寄りバス停の「押熊」へ行くバスに乗ることになっているが、さてどうしたものか。近鉄大和西大寺駅付近は、4方向への線路+車庫で分断されているうえ、橋上駅舎も通り抜けができないため、南口−北口間の移動がかなり大変なのである。線路を1本越えたからといって安心できないのだ。
 西大寺には過去2度来たことがあって、最初は近鉄西大寺支店制覇のとき。2回目は仲間内の旅行で橿原線西ノ京駅に集合したとき(西大寺から2つ先:この駅は薬師寺や唐招提寺の最寄り駅である)。後者の際、私は印鑑が必要になって急遽西大寺まで買いに戻ったのだが、そのときうっかり南口に出てしまい、ろくな商業施設がないは、橋上駅舎には自由通路がついていないは、北口へは歩いても歩いてもたどり着かないはで往生したのである。ただ逆に言うと、そのとき道に迷ったおかげで、今回は多少の心構えができているとも言える。塞翁が馬というところか。
 西大寺北口側の大ショッピングセンター、奈良ファミリーが線路の向こうに見えている。駅さえなければ奈良ファミリーはすぐそこなのだ。南口の南都銀行西大寺支店(旧中心部らしくこちらがメイン)の前を通り越して、駅のはずれまでやってきた。線路際の寂れたところにニッポンレンタカーの営業所がある。以前西大寺南口から北口へ抜けようと大苦労した際に、ニッポンレンタの営業所を見たのは覚えていた。確か、営業所の横が地下道になっていたような気がしたが…。
 確かに、地下道の入口を発見した。しかし、どうなのだろうか。ここを地下に潜った結果、私は前回苦労したのではなかったか。あの時は確か、駅の東方700mの平城宮址まで行かないと奈良線に踏切がなかったのだ。といって、この地下道が「確実に違う」のであればバッサリ捨てるが、人間の記憶は非常に頼りなくできている。ここであっさり見切るほどの自信は私にはなかった。とりあえず、ここを行ってみることにした。地図を見ると、橿原線をくぐるこの地下道の先に川沿いの道路があって、そこに出ると近鉄奈良線の下をくぐれるように見えたからである。
 道路は、線路に沿って下り坂になり、線路をアンダーパスするに十分なほど下がったところで線路の下に潜る。雨の日にはおそらくここは通行止めになるのだろう。地下道が再び上り坂になり、そこを上がりきったところで、私は「失敗こいた」と思った。というのも、地下道をくぐって上がった先は、奈良線の線路の南側だったからである。西大寺駅は、近鉄の線路が2方向から来て2方向に分かれて行く駅である。東西に走る奈良線は、西大寺駅の西側で北西側から京都線が合流、駅を抜けると今度は駅施設の東側で橿原線が南東方向に分かれていく。つまり、現状ではやっと1本橿原線を越えただけで、さらにもう1本奈良線を越えなければならないのである。
 しかし。
 越えられる越えられる。私は新たな地下道を発見した。近鉄の車庫の東側に新たなアンダーパスがあり、これがどうやら奈良線の向こう側に行く道のようだ。方角から見て、これを行くと奈良ファミリーの東側に出るのだろう。奈良ファミリーまで来れば、西大寺駅北口のもろもろはすぐそこだ。この道が記憶にないのが唯一の気がかりだが。
 アンダーパスを行く。奈良線を抜けたところで、よかった、奈良ファミリーが前方に見えてきた。位置関係からすると、奈良ファミリーの東サイドに向かって南側からアプローチしている感じだろう。難関峰に登頂して無事下山してきた登山家のような安堵感を、この時私は感じていた。

 奈良ファミリー付近は銀行の密集地帯で、みずほ銀行(西大寺出張所、旧第一勧銀)、南都銀行(西大寺北支店)、住友信託銀行(奈良西大寺支店)などがある。かつては旧さくら銀行も西大寺支店(旧太陽神戸)を出していた(撤退済み)。結構な金融の激戦区である。
 そして、りそな銀行は奈良ファミリーの南西、進行右側の雑居ビル1階である。旧大和銀行の奈良支店で、あさひ銀行との合併直前に改称されて近鉄西大寺支店となった。地図を見ると、支店の入るビルは「三和建設本社ビル」とあり、ビルの壁面には大きく「SANWA」の文字が光っている。既に夕方5時半近く、あたりは日没の遅い関西とはいえ真っ暗だ。
 支店に入ると、5時半だというのに窓口が開いていて、びっくり仰天する。このとき思い出したが、りそな銀行近鉄西大寺支店は、窓口を平日19時まで開けているのだ。奈良銀と合併する前には、この支店が奈良地域の中心となる支店であったが、それだけ激戦区だということなのだろう。りそな銀行で毎日7時まで窓口を開けているのは、池袋・上野・秋葉原・梅田・難波など繁華街の支店に限られ、もちろん奈良県では唯一ここだけである。なお、りそな銀行の支店窓口は、現在では「月〜木9〜17時、金曜9〜19時」というのが標準で、旧奈良銀の店舗のみ合併後の3か月間だけ9〜15時となっていた。
 近鉄西大寺支店の再訪は、17時24分のことであった。だいぶ疲れてきたのか、ATMの機種と台数については記録を残していない。旧大和店舗であるからメーカーはオムロンで、ATMレシートの紙の形状から「HXではない」ということがわかるのみである。
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2006年05月15日

2006.01.12(木)(32)なかなか見つからなかった西大寺支店

 というわけで、本日最大の(伏字)を経て、西大寺にたどり着いた為栗であった。何が「最大」であったのか、ついでにそれもご想像におまかせする。
 駅の「南出口」を出る。大和西大寺駅は、駅舎内での改札の配置が完全にばらばらになっていて、また橋上駅舎でありながら駅のあっちとこっちとで越えられない。建物内の配置を変えて自由通路を作るぐらいはできないのだろうかと思う。他所者が愚痴りつつ(とはいえ市民にも同様に考える人は多いと信じる)、次なる目標・りそな銀行西大寺支店を探す。実は、今から行く西大寺支店は、事前のリサーチで支店の場所が把握できなかったのである。但し、リサーチの水準は非常に大雑把。徹底的に調べ尽くせば見つかったと思うが、都市部だし所在地で大体のことはわかるから、現地で探せばイイヤぐらいに思っていたのだ。
 私が今回用意している地図は、検索サイトgooの地図をプリントアウトしたものである。メモ代わりに惜しげもなく書き込めるところが良い。便利な時代になったものだ。この地図によると、駅の南側、公団西大寺駅前団地と書いてあるエリアの一角に、銀行のマークがついている。これはたぶん奈良銀ではないと思うのだが、奈良銀があるはずの場所にマークがついていないので、いちおう両方に行ってみた。地図上で銀行のマークがあった場所は、やはり奈良銀ではなく南都銀行であった。
 西大寺駅の南側をふらふらと歩く。駅の南側に面したビルは、公団西大寺駅前団地の商業棟である。駅に面した場所には、近鉄系の近商ストアが入っている。りそな銀行もこのビルにあるはずなのだが、どこに入っているのだろうか。
 目を皿のようにして探し、見慣れた看板を見つけた。あんな向こうだ。商業棟の南東角である。ここは7階建てくらいの複数のビルの谷間だから「あんな向こう」と見えたが、距離にしたら100mもないだろう。駅前から、南都銀行の西大寺支店を左に見つつまっすぐ南に進む。
 西大寺支店の夜間金庫は、どういうわけか取扱中止の張り紙が出ている。夜間金庫をやめてしまったのか故障しているだけなのか、その辺はよくわからない。張り紙を横目で見つつ、夜間金庫横のキャッシュコーナーに入る。この支店は、キャッシュコーナーがちゃんと設けられていて、その横がシャッターで窓口室と仕切られている。普通の銀行と同じような感じのキャッシュコーナーである。ATMはオムロンHXが2台。機械を操作。17時09分、西大寺支店を制覇した。
 西大寺支店は、1966年3月26日、三栄相互銀行9番目の店舗として西大寺駅の北口に開業、同年12月に南口の現在地に移転した。駅の北側には旧大和銀行の近鉄西大寺支店(大和銀時代は奈良支店)があるが、大和銀の支店は1971年の開設で、奈良銀の店舗のほうが古い。奈良銀の支店は、南口に開設準備をしていたところ工事が遅れたため、北口の喫茶店を急遽借用、仮店舗として営業開始していた。
 西大寺をはじめとする近鉄沿線は、1960年代の高度成長期、地価が比較的安かったことから急速に開発が進んだ地域である。西大寺では古くから南側が開けていたが、現在こちらは幾分寂れた側となっている。近鉄百貨店とジャスコの入った大型店「奈良ファミリー」など、商業施設は北口側に集積している。

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2006年05月14日

2006.01.12(木)(31)本日最大の…!?

 やまと郡山出張所を出て近鉄郡山駅まで歩く。この後は、近鉄橿原線で大和西大寺へ向かう予定である。西大寺支店の後は平城・学研木津川台・学園大和町・東生駒の4支店を取って、今日は終わりとなる。
 前回の私の記憶では、関西線の線路に沿って大阪方向に歩き、最初の踏切道を右に曲がってまっすぐ行くと、近鉄の郡山駅に出たと思う。とにかく歩こう。もう夕方5時近い。だいぶ暗くなってきた。今日の予定はあと5店、まだあと数時間は頑張らないといけない。
 大和郡山市のこの界隈は、狭い道が曲がりくねっているうえに交通量が多く、旧城下町独特だと感じる。現在では中心地としての地位を奈良市に奪われているが、大和郡山は江戸時代の城下町、それも南都銀行の前身となる第六十八国立銀行が明治に入って設立されたほどの商都だったのである。
 旧城下町とあって相当に古い家並みが続いていて、典型的な下町というか旧市街である。もっとも「相当古い」といっても、昼間に行った田原本ほど古いものが多いわけではないし、土蔵なども見かけない。それでも、歩いていくうちに「外堀緑地」なるものを発見し、さらに西へ進んで近鉄郡山駅近くに達したところで、ようやく土蔵も発見。やはり土蔵がないわけではないのである。大和郡山も田原本も、大都市間路線でない近鉄橿原線の沿線である。田原本は水運の町で鉄道に恵まれず衰退したのだったが、大和郡山は関西線が大阪まで直行しているところが微妙に違うのかもしれない。その結果大和郡山は都市化の進行が速く、古い建築の淘汰の度合いが田原本より激しかったのではないだろうか。
 JR郡山から道なりに歩いて10分で「柳町商店街」に入った。商店街が切れたところに近鉄橿原線の踏切があって、その南側に近鉄郡山駅が面している。この駅は、複線の線路の両端にホームが1本ずつへばりついた形である。踏切そばには小さな駅舎がそれぞれ両方のホームについているから、この駅の改札は方面別に分かれているのだろう。
 踏切警報機がカンカン鳴っている。警報機についた矢印は、右を向いている。東側から歩いてきて右矢印ということは…西大寺方面! 私がこれから行く方向である。
 私はほとんど脊髄反射的に走り出した。なんとしてもあの電車に乗らなければいけない。遮断機の閉まりかけた踏切を駆け抜ける。駆け抜けながら線路の遠くのほうに目をやると、正面をクリーム色に塗った臙脂色の近鉄電車がはるか彼方から近づいてくるのが見えた。これがたとえば特急電車なら、私の動きはすぐにゆっくりになるのだが、臙脂色の電車ということは一般型車両、この駅に停車する電車だ。
 踏切を渡って北行きホームの改札に来てみると、そこには驚愕すべき事実が待っていた。この改札は自動改札機が並んでいるだけで、駅員がいないのである。掲示があって、裏の白い切符は踏切を渡った橿原方面の改札で、とあった。普段ならともかく、今の私はそれでは困る。なぜかというと、私の持っている切符は自動改札非対応、まさに「裏の白い切符」だからである。
 背後を振り返ると、踏切は完全に遮断機が閉まっている。自動改札機の向こうでは、さっき接近してきていた西大寺行きの各駅停車が完全にホームに停まり、今まさにドアを開けようとしている。ここで見送ると、次の電車は少なく見積もっても15分後だ。どうする為栗。

 私は、近鉄郡山16時54分発の大和西大寺行き各駅停車に乗り、17時02分に西大寺に到着した。JR郡山駅前にあるりそな銀行やまと郡山出張所で預金取引をしたのが16時40分、JR郡山駅から近鉄郡山駅まで歩いて10分強かかる。それで近鉄郡山を出たのが16時54分。私はどうやって54分発に乗れたのだろうか。それは読者のご想像にまかせることにする。あまり感心されない(であろう)ことをしたのは確かだが、不正を働いたわけではないので寛容に願いたい。
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2006年05月13日

2006.01.12(木)(30)西大寺に行く前に、やまと郡山を再訪

 次の目標は、西大寺支店(奈良市)である。
 JR大和小泉から近鉄西大寺へ行くのはかなり大変だ。JR関西本線は近鉄線との連絡駅がほとんどなく、特に奈良市内に向かう路線とは接続していないからである。JR関西線と近鉄橿原線とは大和郡山市内の水田の真ん中で交差しているが、そこに駅はない。奈良駅まで戻って近鉄奈良まで歩くのは単純往復の最たるもので、小生としては避けたい。
 そのような中でベストと思われるのは、大和郡山市中心部での乗り換えではないだろうか。具体的には、JR郡山駅で降りて近鉄郡山駅まで歩くことである。距離的なこと(移動距離と歩行距離)もさることながら、このコースを採れば、JR郡山駅前にある旧大和銀店舗のやまと郡山出張所が再訪できる。それでたぶん西大寺には5時ぐらいに着くのではないだろうか。西大寺到着の時点で小泉・新奈良営業部・大安寺の3つが制覇済みならば、予定どおりということになる。
 大和小泉から乗る電車は、16時32分発区間快速奈良行きである。さっき天理で買ったアップルパイをホームでかじりながら、発車案内の電光掲示板を何気なく見ていると、列車種別の英語表記が妙に気になった。大和路快速が「ヤマトジラピッド」、区間快速が「ローカルラピッド」というそうだ。「セクションラピッド」などとなりそうなのだが、そうなっていないのは、一部の区間で快速運転をする「各駅停車」として区間快速を位置付けているのだろうか。そういうことを考えているうちに、電車がやってきた。221系という快速用の車両で、4両編成。関西線の快速は、今回のように転換クロスシート完備で快適な快速用が来たり、さっきのように老朽化した通勤型車両の103系が来たりとハチャメチャである。なお、103系電車は首都圏ではこの3月に全廃された。
 16時35分、郡山に到着。関西本線郡山駅は大和郡山市の玄関口にあたる駅だが、駅の名前としては「郡山」で、東北本線の郡山駅(福島県郡山市)とまったく同名である。切符の印字は「(関)郡山」「(北)郡山」と区別がしてあるようだ。
 郡山駅もさっきの大和小泉と同様、エレベーター完備の橋上駅舎になっている。前述のとおり、この駅はやまと郡山出張所制覇の際に1回降りているが、その当時から橋上駅舎だったかどうかは記憶が飛んでしまっている(ネットで調べたら少なくとも2000年には橋上化されていたようだが)。ともあれ、駅の階段を左に下りて目の前、マンションの1階に、有人出張所の近鉄西大寺支店やまと郡山出張所がある。右の方に目を転ずると、駅前広場の向こうは大商店街のようになっているが、旧大和店のあるこちら側は商業施設が多いわけでもない。
 この出張所の看板は、今朝からずっと見てきた旧奈良銀店舗の看板と同じ色合いで、やはりどうも黄緑色がかっているようだ。旧来からりそな銀行の店舗だったやまと郡山出張所が同じ色調ということは、奈良地域全部がこうなのではないか。ということは、奈良銀の合併に合わせて付け替えたということになる。なお、奈良地域の看板は、奈良銀との合併を機に、配色を変えた新しいものに付け替えられていると、後日写真を見ていて判明した(「為栗ニュース」1月16日「りそな奈良地域、看板の塗り分けを変更」)。
 16時40分、やまと郡山出張所を再訪した。今日初めて入る旧大和店で、大和銀らしく内装が真っ青である。ATMは5台並んでいて、大和店だからメーカーはオムロンなのだが、この店には旧型のHXは1台もない。左の2台が現在の最新型であるJXで、右の3台が1世代前のIX。IXはりそな銀行には極めて少ないから、それが複数並んでいるのは珍しく感じる。これに記帳繰越機1台というのは、大和店としてはごく標準的な機械配置だろう。この出張所はもともと「やまと郡山支店」だったところだが、大和銀行としては、奈良県は地盤の大阪府とは勝手が違ったため、出張所に降格せざるを得ない実績しか上げられなかったのかもしれない。やまと郡山出張所はいつか「合併効果」で再び支店に昇格するのだろうか。

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2006年05月12日

2006.01.12(木)(29)16:23、小泉支店を制覇

 さっき衝動的に京終で降りたのは、果たして正解だったのだろうか。京終駅で降りて歩くことで「戻り」という無駄な動きは排除されたので、単純往復はしなくて済んだ。これが吉と出るか凶と出るか。朝一番の五条支店から数えて、ここまでで9店舗を制覇したことになる。残り6店舗を、あと5時間ほどでしゃぶり尽くさなければならない。都市部であるので何とかなるとは思うのだが。
 旧奈良銀の本店から、三条通りをJR奈良駅まで歩いてきた。駅前にあったダイエーが閉店している(廃止された)のを横目で見つつ、近年改築なったJRの駅舎へ。ここから、次の目的地・大和小泉(大和郡山市)に向かう。駅前に、次なる制覇目標の小泉支店(同)があるのだ。
 駅の電光表示を見ながら、自動改札機にスイカをタッチする。大和小泉は関西線大阪方面だから、2番線の16時10分発に乗ればよいようだ。ただいま16時08分、少し急がなくては。
 そう思う間もなく、目の前で電車が発車していった。JR西日本で快速に使われている221系という茶色い電車である。方向幕をとっさに見る。やばい、みやこ路快速が行ってしまった…と思いかけたところで、これは関係ないと思い至った。「みやこ路快速」は奈良線(京都方面)の電車で、私がこれから乗るのは関西線である。関西線の快速は「大和路快速」。別にややこしくはないと思うが、そう豪語する私ですら、今のように頭の中が空っぽの状態では取り違えてしまう。
 私が乗る16時10分発2番線は、「区間快速」JR難波行きであった。

 16時19分、大和小泉に到着。今乗ってきた区間快速は、オレンジ色の103系電車であった。関西線のカラーは黄緑色のはずだが、JR西日本エリアでは電車の色についてはあまり徹底されていないようだ。
 なんとなく木造平屋建てのひなびた駅舎を想像していたのだが、大和小泉の界隈は都市化されていると見えて、橋上駅舎に建て直されている。大和郡山市のJRの駅としては、市の中心にある郡山駅よりも乗降客数が多いと聞くから、当然なのだろうか。
 この橋上駅舎は、屋根が波打っている。こう書くと安普請で曲がっているように読めてしまうが、そうではない。屋根が(形状として)ウエーブを描いているのである。関東で言うと、JR東北線さいたま新都心駅のホーム上屋の如し。つまり最新の建築なのだ。奈良銀があるのは手許の地図によると西口側だが、橋上化によって、改札のなかった東口側もこれから宅地開発が進んでくるのであろう。その東口をガラス張りの駅舎2階から見ると、噴水があって、新開地には必ずあるキッチュな形状のオブジェも置いてある。
 橋上駅舎を西口側に出る。駅前広場からすぐ、古い商店街が続いている。賑わい度はかなり低い。駅前とは言っても郡部の駅のようだ。駅前広場に面した商店は、火災に遭ってそのままのようである。燃えたまま改装工事もしないで倉庫として使っているようだ。この商店街の規模では、改築経費が出るほど来客がないのかもしれない。
 りそな銀行の看板が見える。事前に地図で見た限りでは、100m以上離れていて結構遠い印象があったのだが、この程度の距離感なら十分「駅前にある」と言える。大和小泉の商店街は、何軒かの商店が続くとすぐに息切れしてしまうのだが、奈良銀の支店は商店街が息切れし始めて民家が建ち始めたところの進行右側にある。商店街の商店には、ホーロー看板をベタベタ貼った肥料屋さんといったものも含まれるから、この界隈はつい最近まで農村地帯だったのだろう(支店開設当時、駅近くの商店街周辺は水田地帯であったという)。その先に奈良信用金庫の支店。この信金は大和郡山市に本店がある。混じって建つ民家は、古い農家なのか、瓦屋根つきの塀がついた家が多いようだ。
 小泉支店に到着した。この支店のキャッシュコーナーは、さっきの本店と同様、支店の窓口室から完全に切り離された場所にあるようだ。そして、小泉支店には何とATMが3台配備されている。ATMブースに2台、鉄の囲いを腰に巻いて設置してあるのが1台。3台のATMで、キャッシュコーナーはぎゅうぎゅうといった印象。機械はもちろんオムロンHXである。16時23分、小泉支店を制覇した。
 小泉支店は、1975年6月に三栄相互銀行12番目の支店として現在地で開業したが、開業当初の支店名は「郡山支店」といった。つまりここは、三栄相銀の大和郡山市の支店として開業したのである。その後、1989年4月の普銀転換に伴い、市域を表す「郡山」より明確に地域を特定できる現名称に改称した。大和郡山市内には「九条支店」が近鉄九条駅前にあった(1988年9月開設)が、こちらはりそな銀との合併前に統合されている。

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