2008年02月21日

あとがき

 「りそめぐ2007秋 『埼玉県民の日』に埼玉県内をめぐる」、2月20日をもって完結いたしました。
 最後までお読みいただいた方には、例によってダラダラと続いた連載にお付き合いいただき、御礼申し上げます。分量は最終的に400字詰原稿用紙で150枚弱となりました。

 今回は、ほぼ埼玉県内だけで15店をめぐった記録です。特に新規制覇の個所があったわけでもなく、純粋に「めぐ」の楽しみを追求しただけです。私はこういう企画では目的追求に汲々としてしまいがちなので、今後はめぐを「楽しむ」ことを主眼に置いて楽しんでゆきたいと思っています。
 今回のめぐは「“埼玉りそなめぐり”であって“りそなめぐり”ではない」との声もあるかもしれません。しかし、分割・合併する前のあさひ銀行と親しんできた私としては「りそなは一つ」と考えたいと思います。蛇足ながらこれは、今年「りそな統合システム」にシステム統合を行う(従って新たに「めぐ」が可能となる)予定の近畿大阪銀行についても同様です。近畿大阪銀行のシステム統合後は“近畿大阪めぐり”を「りそめぐ」の一環として実行するつもりでいます。既にその準備を進めています。

 連載の執筆は、14日の晩に帰宅してすぐ始めましたが、例によって手間取りました。私が人並みはずれて時間の使い方が下手糞であることも理由ですが、今回はそれより「座学」の部分、つまり埼玉県内店舗の歴史的背景を調べるのに多大な労力を要したことが最大の原因です。埼玉りそなの歴史を調べることは埼玉県の金融史そのものを調べることである、との感慨を新たにしました。
 連載中は、中国製ギョーザの食中毒事件、秩父鉄道での貨物列車脱線事故、前行田市長が300枚の手記を残して自殺と、記事の掲載タイミングと合わせたような出来事が複数起こって驚かされました。こうしたことも含めて、社会は日々流転しています。この連載を数年後に読み返して「古い」と感じられることがあるかもしれませんが、あくまで 2007年11月の実体験と、その後の連載期間における「一面の真実」です。そういうものだと思ってお読みいただくことを望みます。

 この連載のような「文章を使っての自己主張」が、私の生き甲斐です。今後ともご支援・ご鞭撻をいただけますようお願いします。ご意見や情報提供をお待ちしています。このブログ「MEGU」は、コメント・トラックバックを歓迎していますし、私のメールアドレスも公表しています。

 なお、この連載の執筆にあたっては、以下のような書籍・webサイトを参照いたしました。

 『黒須銀行史』黒須銀行、1920年
 『忍商業銀行四拾年史』忍商業銀行、1936年
 『第八十五銀行史』第八十五銀行、1944年
 『富士銀行七十年誌』富士銀行、1952年
 田山花袋『田舎教師』新潮文庫、1952年
 『所沢市史』所沢市、1957年
 『大和銀行四十年史』大和銀行、1958年
 『富士銀行八十年史』富士銀行、1960年
 井上幸治『秩父事件』中公新書、1968年
 『埼玉銀行史』埼玉銀行、1968年
 『富士銀行百年史』富士銀行、1982年
 秋谷紀男「座繰製糸地帯における地方銀行の展開」『明治大学大学院紀要』第20集・第21集 明治大学、1983・1984年
 『所沢市史』所沢市、1992年
 『埼玉銀行通史』あさひ銀行、1993年
 『青梅市史 下巻』青梅市、1995年
 『協和銀行通史』あさひ銀行、1996年
 『忍商業銀行−第7回テーマ展−』行田市郷土博物館、1997年
 『大和銀行八十年史』大和銀行、1999年
 『東村山市史』(2 通史編下巻)東村山市、2003年
 佐藤裕治監修・GFC著『地理から見えてくる日本のすがた』中経出版、2007年
 『地方を殺すな!』洋泉社MOOK、2007年
 『日本金融名鑑』日本金融通信社、各年版

 「10月28日は『群馬県民の日』です!」『群馬県』 http://www.pref.gunma.jp/cts/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=23735
 「11月14日は県民の日」『埼玉県』 http://www.pref.saitama.lg.jp/A01/BQ00/kenminnohi/index.htm
 「記念フリー乗車券の発売」『埼玉県』 http://www.pref.saitama.lg.jp/A01/BQ00/kenminnohi/pdf/gogai_ticket.pdf
 「思い出で綴る故郷・所沢散歩」『博史の昭和・青春グラフィティー』 http://f57.aaa.livedoor.jp/~maika/index.htm
 『多摩地区そして日本各地の画像集』 http://tamagazou.machinami.net/index.shtml
 『入間市』 http://www.city.iruma.saitama.jp/
 「市民参加のページ・東久留米駅」『東久留米市』 http://www.city.higashikurume.lg.jp/civic_page/station1/station.htm
 「世界の『珍名』所大集合」『あんきょのホームページ』 http://ankyo.rulez.jp/chinmei.html
 『そのまんま東オフィシャルサイト』 http://www.sonomanmahigashi.net/
 「『市報ぎょうだ』2005年8月号」『行田市』 http://www.city.gyoda.lg.jp/kouhou/kouhoushi/shihou_gyoda/2005/20058/05086_6.pdf

 フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
(webサイトは2008.02.20現在)

2008年02月20日

2007.11.14(水)(31)熊谷支店制覇、15店の制覇完了

 予定からあえて外していた熊谷駅前支店を取ってしまったのであれば、もう次の目的地は熊谷支店以外には考えられないであろう。熊谷支店は、駅前通りを北に進み筑波町の交差点まで出て、そこから国道17号を高崎方面に向かっていくと、道の右側にある。
 熊谷駅前支店の先にある八十二銀行(長野県)の熊谷支店を横目で見つつ、北へ200mほど行くと、もう17号線と交差する筑波町の交差点である。この交差点を右折したところには、東京スター銀行の熊谷支店もある。
 今熊谷でにぎわっているのは駅の周辺だけのようで、17号沿いが旧来から栄えている市街地のはずなのだが、集客力は落ちているのであろう。もちろん、容易に想像されるとおり、17号の表通り沿いに結構更地ができている。熊谷には何度も来ているので、寂れていることそのものにはさほど驚かない。ただ、金融機関がたくさんあるのは、経済の中心がこの近辺にあった古い時代の名残ということであろう。埼玉りそなの熊谷支店にたどり着く前に、17号沿いだけで3つ見える。駅から近い順に熊谷商工信用組合本店、群馬銀熊谷支店、そして北越銀(新潟県)の熊谷支店。バブル崩壊後、各地銀は地元回帰路線を採ったところが多いから、主に地方都市にある地銀の県外支店は軒並み撤退している。八十二と北越の熊谷支店は、そういう状況下でも支店として生き残ったわけで、「腐っても鯛」と言っては言い過ぎになるが、熊谷が埼玉県北部の商都として依然重要であることの証拠であるといえる。もちろん、さほど広いわけでもない熊谷市街地にSRの支店が2つあるのも同じ理由であろう。
 ここでついでにSR熊谷支店の先についても触れておこう。SR熊谷支店の1軒置いて隣が三井住友銀行の熊谷支店。北関東にある三井住友は全て旧太陽神戸銀行の支店であり、熊谷支店の建物はさらにその前身の日本相互銀行時代のものを使っている。日本相互銀行はかつて、本店(1952年築、日本建築学会賞受賞)をモデルとした店舗を各地に建てていた。SMのさらに先には、東和銀行(群馬県)と足利銀行(栃木県)の熊谷支店、そして埼玉県の信用金庫最大手である埼玉県信用金庫が本店をかまえ、その先の本石2丁目の交差点角にある武蔵野銀行の熊谷支店をもって、熊谷市の金融機関の並びは終わる。武銀熊谷支店の向かい側は、地元デパートの八木橋百貨店である。昨年(2007年)、熊谷が日本の最高気温記録を更新した際、八木橋の店舗前に設置された温度計がニュース映像として取り上げられていた。
 話戻って、道の反対側から一通りの写真撮影を済ませ、SR熊谷支店の制覇作業である。熊谷支店の写真は、さっきの駅前支店ほどきれいには撮れなかった。商業のにぎわっている駅前と異なり,夜間すっかり寂しくなってしまったこちらでは、光の量が足りないようだ。熊谷支店の正面には夜間金庫の投入口が2つもついている。それだけ夜間の現金袋投入が多かった支店なのであろう。ATMは、店舗の正面左側に富士通ファクトVのモデル10が6台、直角に曲がって同モデル20が2台と、モデル10のガワを使った記帳機が1台ある。コーナーの表示プレートは、緑色のものに変えられているが、あさひ銀行時代の枠をそのまま使っている。
 熊谷支店は、1879(明治12)年7月に第八十五国立銀行の熊谷出張所として開設され、1897(明治30)年9月に熊谷支店に昇格した。出張所設置の理由とその後の推移は秩父支店とほぼ同様。現在の店舗は1964年8月に新築されたものである。

 結局、熊谷支店も制覇したことにしてしまった。今日は本当にこれで終わりにしよう。熊谷18:46発のJR高崎線上野行きで家路についた。

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[りそめぐ2007秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる 完]

2008年02月19日

2007.11.14(水)(30)さらに熊谷市へ向かう

 今日の予定はすべて終了した。羽生支店の写真を撮り、店内に入ってATMを操作したほんの数分の間に、薄暗かった空は夜の帳がすっかり下り切って真っ暗になってしまった。秋の日が暮れるのは本当にあっという間である。
 「次へ回る」というのは到底無理だろう。羽生の次に行くとしたら、順当には加須支店(加須市)であるが、これだけ真っ暗になってしまっては取れないだろう。ここらでそろそろ打ち止めにしておこう。
 でも…どうしようか。羽生からの東武伊勢崎線は、埼玉県の一番南にあたる谷塚(草加市)まで、確か500円なにがしである。東武のフリーきっぷを買えば、十分にモトが取れてしまう金額。しかし、フリーきっぷを買ったからには、私は途中で乗降しないと気が済まないだろう。さてどうしたものか。
 駅までの道々、考えながら歩く。不意に、私の田舎・群馬県前橋市にある鳥料理屋の鳥めし弁当が食べたくなった。前橋周辺ではポピュラーなもので、何か寄り合いがあると必ずと言ってよいほど昼の弁当がこれになる。この鳥料理屋は埼玉県内にもいくつか支店を出していて、そのうちの一つは熊谷市にある。熊谷だったら、今持っている秩父鉄道のフリーきっぷで、タダで行くことができる。決まった。鳥めし弁当を食すべく、熊谷に行こう。かくして私は、秩父鉄道のフリー切符で熊谷に戻ることになった。
 羽生17:15発、熊谷17:36着。乗った電車は相変わらず旧国鉄の101系だが、今回乗った車両はオレンジ色に塗られている。大宮に鉄道博物館がオープンしたのを記念して、旧国鉄時代の懐かしいカラーに期間限定で変えているのだそうだ。車内はすいている。帰宅途中の女子高生・女子大生が多い。関東エリアでは女子高生のスカートはまだまだミニスカートが健在で、すっかり寒くなったにもかかわらず、ストッキングも履かずに褐色の大根をむき出しにしている。
 問題の鳥料理屋は、熊谷駅ビルの5階にある。そこで1つ735円の松弁当を買った。駅ビルの4階、アパレル売り場の片隅にあるベンチで弁当を広げる。ここには「喫煙と飲酒はご遠慮ください」という掲示はあったが、弁当を食ってはいけないとは一言も書いていなかった。腹が膨れたところで、駅前通りを北へ。駅前ロータリーの出口に、みずほ銀行の熊谷支店(旧第一勧銀)がある。その前で駅前通りを東から西に渡ってちょっと北側に来た角が、埼玉りそな銀行熊谷駅前支店のある「大栄日生ビル」である。
 さんざん迷ったが、やはり熊谷駅前支店を制覇しておくことにした。なにしろ、せっかく来たのである。一応写真も撮ってみたが、思ったより良く撮れている。もちろん不満を言えばきりがないが、熊谷ならまたもう一度撮り直しに来ればよい。かくして、予定外の熊谷駅前支店を制覇。とにかく予定外であるので、ATMの機種などについては記録を取っていない。ただ、富士通ファクトV(おそらくモデル10)であったことが、ATMレシートの印字フォントから判断できる。ATMコーナーは広く、確か10台近く並んでいたはずだ。
 熊谷駅前支店は、1925(大正14)年6月に武州銀行熊谷支店の筑波町出張所として開設された。武州銀行は埼玉銀行の直接の前身の一つである。埼玉銀行発足後の1944年6月に筑波町支店に昇格、その後熊谷東支店に改称した後、1978年5月現在地に新築移転すると同時に熊谷駅前支店に改称した。移転する前は、筑波町の国道17号との交差点近くにあったようだ。

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2008年02月18日

2007.11.14(水)(29)いよいよ最終目標へ

 16:33に到着した羽生駅は、すっかり立派になっていた。以前はホームの東側にへばりつくように平屋建ての駅舎が建っていたはずだが、立派になったというか綺麗になったというか、要するにありがちな橋上駅舎となっていた。機能的には、新たに西口が設置されたことと、改札内でつながっていた秩父線と東武線とが切り離されたことの2つが大きな変化である。
 空はもうだいぶ暗くなってきて、あと10分か15分もすると、自然光の下での写真撮影はできなくなってしまう。頑張って急ごう。橋上駅舎から東口側の駅前広場に降りると、そこはこれまでに何度か来ている羽生駅前の風景であった。駅前に羽生郵便局(本局)があるのは相変わらずで、あとは白木屋・魚民・日本海庄や等々、居酒屋街になっている。駅前には、羽生支店の店舗外ATM[羽生駅前]がある。羽生市は東京の通勤圏というより、やはり地方都市なのであろう。駅前の風景は行田とそんなに変わらない。ただ、羽生は行田とは違い、東武線や東北自動車道を通じて東京と直結しているから、それで少しは落ちぶれ方が違うのかもしれない。駅前が居酒屋街になってはいても、見たところピンク系の店はまだない様子だからだ。でも、地方都市はどこもおしなべて人通りもなく寂れている。
 駅前をずっとまっすぐ行って、老舗菓子店・梅林堂の角を左に曲がった先に、目指す羽生支店がある。支店がある南北の通りは、手元の地図によると「プラザ通り」という名前がついているが、名称として定着しているかは疑わしい気がする。梅林堂の角で曲がってほどなく、前方左側にSRの縦型看板が見えた。羽生支店も行田支店と同様、どこかの信用金庫の本店だと言っても通用しそうな大きな建物が建っている。羽生がそれだけ重要な拠点であった証拠なのかもしれないが、羽生市街地のこの現状を見ていると、なんだかちょっと今昔の感がある。
 羽生支店に入ると、ATMはキャッシュコーナーに6台、窓口室に2台あった。キャッシュコーナーのATMは一番左だけ富士通のファクトAで、右横に公金収納の機械(市税などの伝票読み取り機)が付いている(取り扱いは中止になっている)。残りは全部ファクトVのモデル10であった。機械を操作する。16:45、本日の予定していた全日程を終了した。

 羽生支店は1898(明治31)年1月、忍貯金銀行の開業と同時に羽生支店として開設された。忍商業銀行の子会社であった忍貯金銀行は、貯銀単独で支店を設けるほか、商銀の全支店と代理店契約を結んで預金の吸収にあたっていた。単独で設けた支店はのちに忍商業銀行に譲渡されており、羽生支店は1921(大正10)年4月に忍商業銀行の羽生支店となった。業容拡大のため1933(昭和8)年には鉄筋コンクリート2階建ての店舗を建築、埼玉銀行の支店となった後、1969年4月に現店舗に新築移転するまでこの建物が使用された。
 なお、羽生の地に銀行が設立されなかったわけではない。北埼玉郡羽生町には羽生銀行が1898(明治31)年11月にできたが、その後1927年に足利銀行に合併されている。埼玉りそな銀行羽生支店の北には、足利銀行の羽生支店が現在もある。

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2008年02月17日

2007.11.14(水)(28)『田舎教師』のふるさとを行く

 少し薄暗くなってきた。残り時間はあとわずかである。先を急ごう。次の目標は、いちおう今日の最終目標となった、羽生支店(羽生市)である。秩父の山中から荒川に沿って平野に下り、埼玉県を西から東へずっと乗ってきた秩父鉄道も、羽生で終点となる。羽生は江戸時代には天領(幕府の直轄領)で、青縞木綿の産地として栄えていた町である。
 急いで駅に戻り、フリーきっぷを改札にかざして階段を駆け降りる。ホームに降りてほどなく、後方から羽生行きの電車がやってきた。
 行田から羽生に向かう秩父鉄道の旧国鉄101系電車は、楽に着席することができた。座席は2/3くらいが埋まっている。羽生行きの電車は、行田市16:20発の次に16:37発があり、それなら1本遅らせて、行田でもう少し良い写真を撮った方がよかったかもしれない。
 行田を過ぎると、車窓の風景に水田が目立つようになった。新郷駅手前では、強烈な「田舎の香水」さえ車内に充満した。近所で畜産をしているわけでもなさそうだし、農作業だとすると晩秋のこの時期に田舎の香水が必要な理由は分からないが、ともかく田舎の香水である。
 今私が電車に乗って移動しつつある行田市−羽生間は、田山花袋の小説『田舎教師』の主人公、林清三が足繁く通ったのと同じ道である。行田の中学校を出た清三は、羽生の町に近い田園地帯にある三田ヶ谷村の弥勒というところの小学校で教師となる。貧しい家庭環境から上級学校への進学がかなわなかった清三は、他の恵まれた境遇にある友人たちに嫉妬しつつ社会のさまざまな現実を知るとともに青雲の志が喪失してゆき、最後は自ら肺結核を病んで死んでしまうという、挫折の物語である。新潮文庫版の解説に福田恒存が書いているとおり、主人公の存在感が希薄で「たいくつな」筋書きではあるが、四季折々の羽生(を含む関東平野北部)の風景が美しく描写されていて、その点こそがこの作品の特長であるとする人も多いようだ。
 かつて私は若気の至りで文学というものを軽蔑していたので、この『田舎教師』という作品を読んだのはつい最近(この連載を書くために!)である。大学時代に教員免許を取って教師を目指したこともあった私は、青雲の志の喪失という点でこの主人公に多大なる同情と共感を覚える(必ずしも教師にならなかったことだけではない)。と同時に、自分がなんと「遅熟」かということも。今の学制とは異なるから何とも言えないが、清三が小学校教師になったのは18歳ぐらい、そして死んだのは20代前半である。私は今、39歳にしてようやく清三と同様の挫折感を味わっている! 目下のところ死ぬ予定はないけれども。
 「三田ヶ谷」「弥勒」という地名は現在の羽生市に実在しており、羽生市街地から東へ4kmほど、東北自動車道羽生パーキングエリアのあたりが該当する。実家のある行田、下宿先であった羽生、そして勤務先の弥勒と、清三はすべて徒歩で移動していた。作品の舞台が1899〜1901(明治32〜34)年であるから、作品の最後でようやく東武伊勢崎線が通じたことが書かれているものの鉄道は存在せず(秩父鉄道がこの地に通じたのは大正末期)、今私が電車で15分ほどで行ってしまう区間を半日かけて歩いていた。

2008年02月16日

2007.11.14(水)(27)経済の中心地だった忍

 埼玉りそな銀行の行田支店は、1943年7月の埼玉銀行新設に参加した4行のうちの一つ、忍商業銀行の本店であった。
 忍商業銀行は1896(明治29)年5月に北足立郡忍町(現行田市)で開業した。当時は日清戦争の勝利によって日本経済が飛躍的に拡大、それに乗って行田の足袋生産も非常に伸びていた時期である。行田市には当時、上州や信州から多数の商人が入り込むなどしていて、地元の利益を他に吸い上げられており、地元銀行設立の機運が高まる。発起人は名字帯刀を許された豪農の松岡家ほか、地元の大地主たちであった。
 足袋産業は昭和期に至るまで発展を続け、忍商業銀行もその波に乗って、合併による規模拡大や傍系貯蓄銀行の設立など積極的な拡大策をとった。埼玉銀行発足までに6つの銀行を合併しているが、一面で経理面ではきわめて保守的であったという。
 1942年夏、大蔵省は埼玉県下にあった忍商業を含む4つの銀行に合併を勧奨、これにより4行は1942年12月に合併覚書に調印した。しかし、忍商業の松岡秀夫頭取は、いったん覚書には調印したものの、4行合併ではなく2行並立(忍商業は行風が似ている第八十五銀行とのみ合併する)を唱えて反対に回った。しかし結局1943年7月には4行合併によって埼玉銀行が発足することになった。
 1935年9月に完成した本店建物は、埼玉銀行発足後は忍支店(1949.05行田支店に改称)として使われた後、1969年に市内本町通りの整備に伴って解体された。現建築は1971年3月に新築落成したものである。
 一方、現在武蔵野銀行が使用している地上2階・地下1階の建物は、1934年6月忍貯金銀行本店として竣工した。壁面には当時流行していたスクラッチタイルが張られ、また円形のレリーフが特徴的である。1944年に行田足袋元販売鰍ノ売却されたこの建物は、足袋会館となって商工会議所の事務所が置かれていたが、1969年から武蔵野銀行行田支店となった。戦前の鉄筋コンクリート作りの銀行建築として貴重で、2005年に国登録有形文化財として登録されている。
 忍貯金銀行は、1897(明治30)年11月に忍商業銀行の傍系貯蓄銀行として設立された。戦時中の合併政策で急速に消滅した「貯蓄銀行」という種類の銀行は、親銀行が小口の預金を吸収するために設けた子会社であることが多く、忍商業銀行の子会社である忍貯金銀行もそのうちの一つであった。忍貯金銀行は忍商業銀行と事実上一心同体で、頭取を忍商業の専務取締役が務め、また開業当初は本店を忍商業の本店内に置いていた。開業と同時に羽生支店を設置、また1919(大正8)年には桶川貯蓄銀行を合併して桶川支店を置くなど、親銀行と同様の拡大路線で発展した。1943年7月に埼玉銀行が発足し、親銀行が消滅した後も忍貯金銀行として営業を続けていたが、結局1944年3月埼玉銀行に合併されて消滅した。合併により本店は埼玉銀行忍西支店となったものの、2か月で廃止されている。

【資料】りそなグループに関連する歴史的建築一覧(当サイト「お役立ち」より)

2008年02月15日

2007.11.14(水)(26)キャバクラ、ファミレス、そして銀行

 行田市駅の橋上駅舎では、一人しかいないとおぼしき駅員さんは電話中で、改札には誰もいなかった。おそらく、一人電話に出てしまうと改札を見る人がいないのであろう。
 改札を出て階段を降りると、駅前にはいきなり「9時まで2000円、9時以後3000円、指名料1500円」などと大書された店が目立つところに2軒ほどある。キャバクラは地方の「没落したかつての名門都市」につきものなのだそうだ。駅前の土地や建物を持っているのは郊外に住む地主で、没落して撤退した商店街のテナントの後釜に、安易にこうした店を入れてしまうのだという。行田が当てはまるのかは知らないが、一般的にはそういうことだそうだ。あとは、低価格路線で売るファミレスのジョイフルが、九州は大分から進出してきている。まっ黄色の看板が、うらぶれた駅前ではひときわ鮮やかである。
 駅前から南に続く道は「中央通り」という名前らしい。一応商店街のようだが、営業をしている店はほぼ全くない状態である。1軒だけお茶屋さん(日本茶を売る店)が営業しているようだが、あとは本当に1軒もなさそうだ。ほぼ「人っ子一人いない」状態の中、前方で信号待ちをしている自転車が一人。その横を車はちょびちょびと通り過ぎる。以上が「静謐な城下町」の玄関口の様子であった。

 さて、行田市駅から中央通りを南に進むと、「駅入口」の交差点には埼玉県を代表する2つの金融機関が店を構えている。向かって右側が、クラシカルな建物の武蔵野銀行行田支店。そして左側、広い敷地に建つ4階建ての大ぶりな建築が、埼玉りそな銀行行田支店である。武銀の行田支店は1934年の築で、国の登録有形文化財にも指定されている貴重なもの。そしてSRの行田支店は、行田に本店を置いていた忍商業銀行の本店跡地に建てられたもので、銀行の一支店ではなく、どこかの信用金庫の本店であると言っても十分通用しそうなスケールで土地を使っている。
 まず、「りそめぐ」の制覇個所として埼玉りそな銀行行田支店の写真を撮る。敷地の回りには柵が張られ、柵と建物の間は駐車スペースになっている。行田支店はSRの普通の支店より建物が大きめに作られていて、写真のアングルを決めるのに苦労した。
 次いで、今日は武蔵野銀行の写真も撮りたいと思う。しかし、行田は地方都市であった。まだ夕方5時にもなっていないのに、夕方のラッシュが始まっていたのである。東西の目抜き通りである国道125号線は、さっき歩いてきた駅前の中央通りとは異なり、あの静かな市街地のどこから沸いてくるのかと思うほど車の列が切れなかった。これでは満足のいく写真が撮れない。行田での今日の持ち時間は、わずか16分しかない。埼玉りそなの制覇を済ませ、早く次の目的地・羽生へ行かないと、今日の最終目的地である羽生支店では真っ暗になってしまう。繰り返すが、今日の「りそめぐ」は、写真撮影という新たな縛りを付したために、日没時間との絡みから、行程が非常にタイトになってしまっている。結局、武銀についてはほどほどのところで見切りをつけることにした。
 今日のメインの目的は、何といっても埼玉りそなの制覇である。SRの行田支店は、武銀と同じ交差点の向かい側である。駅側についた入口からキャッシュコーナーに入る。機械の台数は6〜7台もあったろうか、キャッシュコーナーは立派な建物にふさわしく広大なものであった。制覇作業を行う。2つの写真撮影で時間を食って慌てていたのだろう、機械配備状況(機種と台数)については記録を取っていない。ただし、手許にあるATMレシートからは、印字のフォントなどからATMが富士通のファクトVであったことがわかる。型番等は不明だが、おそらく「モデル10」であろう。

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2008年02月14日

2007.11.14(水)(25)静謐な城下町・行田へ

 時刻は午後3時を回ったところ。秋の日はつるべ落としというものの、この時間では陽はまだ「傾きかけているのを感じる」程度でしかない。しかし、今日は事前のプランニングをして動いているから、もう残り行程が少なくなっていることを意識せざるを得ない。なぜかというと、寄居から秩父線を東へ向かった場合、次の目標として順当なのは、沿線最大の都市・熊谷市の支店となるはずである。しかし今回、寄居の次の目標として、熊谷はすっ飛ばしてしまうのである。これは日没時間との関係であるから、日没が近いことがここで強く意識されるわけである。寄居の次の目標は、行田支店(行田市)。
 寄居支店で何気なく両替をしたところ、予想外に時間を食ってしまった。2000円札が少し必要だったので、別に寄居支店でなくてもよかったのだが、制覇作業が終わってから頼んでみたのである。番号札を取って待っていたが、自分の番はなかなかやってこない。私の一つ前が呼ばれたので、もう少しだと思っていたら、一つ前の客は現れなかった。呼んでも誰も来なかったのであれば、そこで次のボタンを押せばいいのに、中年女性の行員は該当の客がいないからといって奥へ引っ込んでしまったのである。銀行を出た後、駅前のライフで軽く食事しようと思っていたのだが、寄居支店で無駄な時間だけ食って終わった。
 閑話休題。寄居から行田に向かう。電車は15:20発の羽生行きである。さっき皆野から寄居に来る時も相当なものだったが、1時間後の電車は、混み具合がはるかに強烈であった。さっきと同じ旧国鉄101系の3両編成はものすごい混雑ぶりで、ついに座れなかった。やはりハイキングの人が圧倒的に多い。日没が近いということは、私と同様(フリー切符を使って?)県内を歩き回っているような人も、そろそろ家路につき始めるわけである。結局、寄居を発車したのは3分遅れであった。
 ドアにもたれて、窓の外を見るともなく見ていた。寄居を出てすぐ、日の傾きをだいぶ感じるようになった。まだ3時半なのだが、夏休み中の夕方6時ぐらいの感じである。車窓風景に水田は全くなく、農地は畑のみである。電車は15:50に熊谷に着き、そこで乗客がドッと降りて、やっと座ることができた。

 16:04、行田市駅に到着した。行田市は、市域に国内有数の巨大古墳群である「さきたま古墳群」を持ち、また江戸時代には忍(おし)藩10万石の中心として栄えた城下町である。忍城は1590(天正8)年に石田三成が水攻めにした際、落城しなかったことから「浮き城」として有名であった。城跡は現在も若干残っており、また城下町は古い建物は多くはなさそうだが優雅な街並みを形成している。明治期以降に鉄道など近代交通に恵まれなかったため、都市としては衰退してしまったが、その分今も静謐な城下町としてある。
 なお、行田市は今降り立った秩父鉄道の行田市駅が玄関口で、JR高崎線にある行田駅は市域のはずれである。行田の町に高崎線を使って来たい場合は、行田の一つ手前の吹上(鴻巣市)で降りて、そこからバスに乗ることになる。このバスルートは、明治時代に高崎線の前身である日本鉄道が開業した際、地元有志が行田から吹上まで鉄道馬車を開通させて以来のものである。

2008年02月13日

2007.11.14(水)(24)変わりがたきものを変える、ということについて思いつつ

 駅前通りを歩いていると「この用地は都市計画道路中央通り線の道路予定地です、寄居町都市計画課」などという看板が見られる。この付近は区画整理の計画があるようで、けっこう除却もなされている。ということは、寄居駅前はあと10年もすると、道幅が広いだけのつまらない通りに変身してしまうのだろう。
 駅前通り沿いには除却が進んでいない部分もあって、そこに、焼酎の品名を書いた短冊がたくさん並んだ酒屋があった。短冊の中には「宮崎県本格芋焼酎・東国原」という商品もあった。2007年1月に宮崎県知事に就任したタレントの東国原英夫氏【注1】は、自分の名前を付けた商品を売り出すなど、沈滞した宮崎県を知名度を上げることで変革すべく、体を張って頑張っている。宮崎県産の商品を全国で扱ってもらうのに、知名度の有無は大きく影響するだろうから、彼のような芸能人が知事になったというのは、宮崎を売り込む意味では相当の効果があったと言えるのではないか。手腕を発揮するのはまだまだこれからかもしれないが、それでも宮崎日日新聞社が2007年12月に行った県民意識調査では、9割を超える宮崎県民が彼を支持しているという。彼は私の大学・学部の「後輩」【注2】であるのみならず、大学時代の恩師から今正月にいただいた年賀状によると、彼は私が所属していたゼミ(形式の授業)の在籍生であったらしい。ということは、面識はないものの、彼は私の「直接の『後輩』」にあたる。「先輩」の一人として、東国原君には精いっぱい頑張ってもらいたいと願う。
 やがて、交通量の多い道に出た。寄居駅南口の駅前通りが細いのは、街の中心部を東西に横切る目抜き通り(県道菅谷寄居線:旧国道140号)までの部分だけなのである。駅前通りの旧140号から南側はそこそこ幅の広い2車線道になっていて、歩道もついた広い道が続いている。要するに、駅から目抜き通りまでの間がふさがっているだけなのだ。郡部といえども区画整理はかくのごとく進展が遅いものよ、と感慨を新たにした。
 埼玉りそな銀行寄居支店は、駅前からの通りが旧140号にぶつかった角の1軒西側にあった。ATMが5台あって、左から富士通ファクトVのモデル20が1台、モデル10が2台、そしてモデル20が2台。一番左にあるモデル20のうち1台が、シャッターの向こう側であった。制覇作業を済ませる。
 寄居支店は、1896(明治29)年5月に深谷銀行の寄居支店として開設された。深谷銀行は同年3月大里郡深谷町(現深谷市)に設立されたもので、積極的な経営により大正初めには県下有数の銀行となった。しかし1920(大正9)年の恐慌とその後の不況で大きな打撃を被り、加えて1927年1月、合併交渉中だった深谷町の銀行が突如休業したため、深谷銀行も信用が低下して取り付けを受けた。事態収拾のため、県のあっせんで第八十五銀行が1927年8月に救済合併、寄居支店は第八十五銀行の支店となった。そして1943年7月の4行合同で埼玉銀行の寄居支店となり、以後支店名は変わらず、銀行名は協和埼玉→あさひ→埼玉りそなと変遷している。現在の店舗は1970年7月に新築された。

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 【注1】東国原英夫(ひがしこくばる・ひでお):宮崎県知事(民選第16代)。1957.09.16生、宮崎県都城市出身。1980.03専修大学経済学部卒業後、ビートたけし氏に師事しお笑いタレントとなる(芸名「そのまんま東」)。2000.04早稲田大学第二文学部に入学し2004.03卒業、2007.01.23宮崎県知事就任。
 【注2】「先輩」「後輩」:私個人としてはこの語を使いたくないので、「世の中で言われている意味での」同じ学校に先or後に入った人、という趣旨で鍵括弧を付した。一般的な意味での「先輩」は、基本的に「先んじたヤカラ」でしかないであろう。

2008年02月12日

2007.11.14(水)(23)荒川に沿って平野に出る道

 次は、寄居支店(大里郡寄居町)に向かう。
 皆野駅に戻ってきたのは、14時ちょうど頃のことであった。駅と皆野支店との間はさほどの距離でもなかったはずだが、それでものんびり歩いてくるとそれなりに時間がかかるものである。
 うららかに日の当たるホームのベンチに座り、14:11発の羽生行き電車を待つ。やがて、白い車体に水色の帯を引いた電車がやってきた。旧国鉄の101系という古い電車を買って塗り替えたもので、秩父鉄道では1100系と言っている。3両編成の電車は、ハイキング帰りの初老以上の人を中心としてほぼ満席で、このため電車は3分遅れで皆野を発車した。かなりの混雑ぶりだったが、やっとの思いで座ることができた。
 長瀞(ながとろ)までは「ほぼ満席」程度であったが、長瀞から親子連れ多数が乗ってきた。小学校低学年から中学年ぐらいの子どもと、50歳ぐらいの女性という2人連れが多かったから、祖母と孫なのであろう。みんな「県民の日」だからこの電車に乗っているのだろうか。長瀞は荒川の渓谷で、景勝地として知られたところである。
 樋口駅手前では、養蚕農家らしく屋根の上に小屋根のついた家を見た。そして、樋口の次の波久礼(はぐれ)で、電車はほとんどラッシュ並みの混雑になった。波久礼にはミカン狩りがあるらしい。乗ってきたのはほとんどが小学生(と保護者の母親)であった。
 20分あまりの乗車で、電車は寄居に到着した。ドアが開いた途端、ホームは一気に大変な芋洗い状態となった。寄居は秩父鉄道・JR八高線・東武東上線と3つの路線が集まる乗換駅であるので、車中の初老以上の人たちや親子連れなどが一気にこの駅で降りたのである。おそらくこの電車は、寄居から熊谷方面へは結構すいていたのではないか。
 寄居駅は橋上駅舎になっていて、北口と南口があるのだが、旧市街は南口のほうである。改札を出て階段を降り、南口の方に来てまっすぐ行った先が寄居支店だったはずだ。寄居の南口駅前には3階建ての大型スーパー、ライフがそびえ立っている。ライフの建物は旧市街側である南口にあるのが妙と言えば妙だが、再開発ビルなのだろうか。ここ寄居駅近くである程度ソフィスティケートされた建物は、このライフと、駅の反対側にある寄居町役場の庁舎ぐらいではないだろうか。蛇足ながら、後者はあさひ銀行時代に店舗外ATM[寄居町役場]の制覇で赴いたことがある。
 ライフのある寄居駅の南口は、駅前のロータリーは一応整備されているが、肝心の路線バスはここからは出ていないようだ。駅前にはライフのほかは個人経営の商店がちょびちょびとあり、なぜかタカラブネがあったり不二家があったりとお菓子屋が2軒もある。駅前には、観光協会が出している観光案内所もある。駅前から、幅1.5車線程度のセンターラインの引かれていない細い道が、南に向かって延びている。街並みは、戦後から昭和20年ぐらいの築だろうか、やや古びた建物が多く見られる。私は建築の様式などにはあまり詳しくないが、何となくそのくらいかな、という程度である。「古い」と書いたが、寄居駅前の町並みは、秩父や川越のように街並みに味わいがあるというわけではなかった。駅前通りを通ってきてすぐ右側には、武蔵野銀行の寄居支店があった。

2008年02月11日

2007.11.14(水)(22)山間部であえぐ(?)皆野支店

 皆野駅に降り立った。タイムスケジュールでは13:34着ということになっているが、おそらく数分は遅れていたと思う。とはいえ、皆野での持ち時間は37分あるから、数分の遅れは十分吸収できる。
 ホーム先端の構内踏切を渡って1番線側が駅の本屋である。皆野駅は、ノスタルジックな平屋建てのひなびた木造駅舎であった。愛想のない駅員さんに切符を見せて改札を通る。駅前にはタクシー会社が2社。あとは、割烹料理の店があったり、旅館もある。駅前を少し歩くと、大きな火の見やぐらがあって、そこに町営バスが発着所を構えている。静かな山間の宿場町、といった感じである。
 国道140号線の旧道(県道皆野荒川線)に入って北東に進む。目抜き通りのここは、一応「商店街」なのだろうが、人通りが全くない。商店「街」というより、商店が数軒並んでいるだけである。駅から見て手前側に1軒スーパーが開いており、また矢尾百貨店の皆野店があるようだが、ここら辺でまともな買い物ができる店はそれぐらいしかないのではないか。そして、そこさえも商業的には芳しくはないかもしれない。人通りはほとんどないし、たまに店が開いていても、老人が1人で店番をしているだけのところが多そうだ。そして皆野の町並みは、少なくとも駅から銀行までの間を見る限りにおいては、戦前より前の古い建物というのがほとんど残っていないようで、率直に言うと小鹿野ほど面白そうには見えなかった。新しい戦後の建物ばかりの商店の並びが寂れているという状況である。
 皆野支店はそういう目抜き通りをまっすぐ行った先にあった。再訪取引を済ませる。ATMは全部で5台あり、そのうち一番右の1台は閉店時にはシャッターの向こう側になる。5台全部が富士通ファクトVのモデル10で、右側の2台がIC対応であった。
 皆野支店は、1917(大正6)年7月に秩父銀行皆野支店として開設されたものである。秩父銀行は秩父の絹織物買継商によって1894(明治27)年5月に設立された銀行で、機業地の銀行ゆえ景気変動の影響を大きく受けた。秩父銀が1937(昭和12)年11月に川越の第八十五銀行に買収されると、皆野支店はそのまま第八十五銀の皆野支店となり、1943年7月の4行合同で埼玉銀行の皆野支店となった。以後も銀行名は何度か変わったが、皆野支店はずっとずっと皆野支店としてあり続けてきた。
 さっき小鹿野支店でも感じたことだが、こうした山間部の支店は、とりあえず営業していくだけでも大変なのではないかという気がする。社史で見ると、皆野支店は1974年1月の建築であるらしいが、建物は雨水が表面を伝った跡が白く残っている。都市部の支店ほど建物のメンテナンスに金をかけていないせいか、それとも皆野支店が過酷な自然条件の下にあるせいかは測りかねたが、こういう町の支店はやはり採算という点では大変かもしれない。
 なお、旧市街のさびれぶりと比して、ロードサイドの商業施設が充実しているのは他地域の過疎の町と同様のようだ。地図で見ると、皆野町を迂回して走る国道140号沿いには、ホームセンターやファミレスなどお決まりの店舗が散在しているようである。

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2008年02月10日

2007.11.14(水)(21)小鹿野に未練を残しつつ

 小鹿野支店の制覇が終わった。ここから先は、川の流れのような行程となる。荒川の支流である赤平川は、小鹿野から下って皆野で荒川の本流に入る。そしてそこから熊谷まで東に進み、熊谷から右折して南に向きを変えている。実際に川下りをするわけではないが、小鹿野から熊谷まで川下りをするようなイメージでとらえてもらえればよい。もちろん、あくまでイメージの問題として、である。
 今回、小鹿野ではもう一つ見たいものがあった。小鹿野町の観光物産館「夢鹿蔵」である。これは、明治時代に建てられた旧小鹿野銀行の倉庫を使った商業施設である。最近、古い建築を見学することも私の関心事の一つになっていて、特に「りそなウオッチャー」としては、りそなグループの源流ともいえる銀行が明治時代に作った倉庫というのがどのようなものか見てみたかったのと、単純に昼飯時なので空腹を満たしたかったのである。
 事前のリサーチでは(と言って威張るほどのことはしていないが)詳しい所在地が判明しなかったので、制覇作業の後で小鹿野支店の行員さんに聞いてみた。支店の西側、歩いて5分もかからないところにあるらしいのだが、これは逆に言うと3分ぐらいはかかるということではないか。だとすると、とにかく時間が足りない。断念した。なにしろ復路は、往路に乗ったバスの折り返しである。
 小鹿野からのバス便は、鉄道の駅へは西武秩父・皆野・三峰口につながっているが、本数とアクセスを考慮すると、やはり秩父に出るのが最も効率がよい。皆野は結構いい線いくが、1日5本しかない。土・日・祝日であれば、小鹿野町バス停から12:53発皆野駅行きのバスがある(西武観光バス)。このバスが平日にあれば、小鹿野での持ち時間が10分増えるだけでなく、秩父で電車に乗り換えなくても皆野に直行できるのだが、今日は水曜日である。今回、小鹿野は20分では明らかに時間不足だった。もうちょっと見て回りたかった。古い建物も結構残っているし、小鹿野は面白いところだったと思うのだ。無念である。
 というわけで、私は今来た道を忠実に戻り、秩父駅に13:15に到着した。こう書くとあっという間だが、バスに乗っている間じゅうずっと、私は生きた心地がしなかった。今度乗る羽生行きの電車は秩父13:20発、そして途中の阿保を通過したのは13:10ぐらいだった。電車に間に合うかどうか、定かではなかったのである。
 焦る私をよそに、下車する停留所に着いてから両替を始め、平気でバスを止めたままにしているオヤジがいた。それから、駅の1つ手前の停留所、宮側町といったが、ここで小学生が降りた。降りたのはいいのだが、いきなり運転手に「いくらですか」と言い出した。ここら辺に住んでいるのなら、整理券を見て運賃表と見比べて、子ども料金は半額だから1/2して、端数を繰り上げて、程度のことはいかに小学生といえどもやってもらいたいと思う。少々の殺意を覚えたが、大人であるからそこはぐっと抑えた。
 というわけで、駅前にバスが到着し、時計を見てまだ13:20になっていなかったのを知ったとき、私は一気に胸をなで下ろしたのであった。

 秩父鉄道の秩父駅は、「地場産業振興センター」という駅ビルのような建物を使っているから、秩父鉄道の秩父駅が山間部のひなびた情緒あふれる駅だと思って来るとあてが外れてしまう。近代的な駅舎の1階にある切符売り場で、男性の駅員さんからフリー乗車券を買う。1000円というのは少々高いと感じるが、とにかく、予定の電車に間に合うように駅に入れてよかった。
 秩父鉄道は、貨物輸送を現在でも盛んに行っている鉄道会社である。ホームから見える駅構内のヤードには「ワキ」などと記号をつけた貨車が停まっていたりする。「ワキ」は、屋根付きの貨車の中では最も大きい(車長が長い)もの。こうした車両単位で借り切る貨車は、私の小学生ごろまでは田舎の国鉄線で普通に見ることができたが、今ではもう絶滅してしまった。秩父鉄道にはまだ残っているんだなあ、という感慨にふける。やがて、どこかで踏切警報器の音が鳴り出した。どこに踏切があるのかわからないが、とにかく電車が近づいてきたことだけは間違いない。
 電車は1分半遅れて、13:21に秩父を発車した。3両編成の電車は、旧都営地下鉄6000系(ここでは5000系といっている)。三田線を走っていたステンレスカーである。ほぼ満席であったが、かろうじて着席することができた。次の目的地・皆野までは、およそ15分ぐらいで着くようだ。
 大野原を出てすぐ、秩父太平洋セメントのプラントが左車窓に見える。さすがセメントの町といったところであるが、秩父セメントは合従連衡が激しく、1994年に小野田セメントと合併して秩父小野田になり、さらに1998年日本セメントと合併して太平洋セメントとなった。秩父太平洋セメントは太平洋セメントから分社されたものである。
 黒谷で交換待ちをし、皆野駅手前で理由不明の急停車をしてすぐに発車した後、私を乗せた電車は皆野駅に到着した。

2008年02月09日

2007.11.14(水)(20)小鹿野支店を再訪

 12:16、小鹿野町に入った。
 秩父市と小鹿野町との境界は峠になっていて、これまでで一番急なヘアピンカーブがあった。松井田バス停の近くには、つるし柿をしている古い農家があった。お遍路さん(のような人)もいるようだ。秩父三十四か所の札所が近いのだろう。三島バス停近くでは、季節外れのヒルガオが咲いていた。強い紫色が印象に残っている。私が小学生ごろに見たヒルガオは、淡いピンク交じりの白に近いものばかりであったが、種類が違うのだろうか。
 いよいよ、小鹿野町の中心地に到着である。東西に細長い小鹿野町の中心地は小鹿野警察署のあたりから始まり、小鹿野署の先にある小鹿野町役場は、秩父方向から見ると小鹿野町の「首根っこ」にあたる部分である。小鹿野町内を走る路線バスは、ここ小鹿野町役場を起点としているものが多い。
 それだけなら何の問題もないのだが、やっかいなのは、小鹿野町の中心部を走るバスは、ここで2方向に分かれるのである。町の目抜き通り(県道209号:旧国道299号)をまっすぐ行くバスと、100mほど南側を並行して走る裏道に入るバス。埼玉りそなの小鹿野支店は、目抜き通り沿いにある「小鹿野町」というバス停の方が近いと分かっているのだが、事前のリサーチではこのバスは裏道を通ることになっていた。裏道沿いなら「町立病院前」が支店に一番近い停留所となる。今回、小鹿野では20分しか持ち時間がないから、スケジュールが結構タイトなのである。
 万が一、自分のリサーチが間違っていれば、バス停からの距離が短縮される分、多少の余裕が生まれるだろう。そう期待して、運転手に聞いてみることにした。「すいません、サイギンの小鹿野支店はどこで降りたらいいですか?」 サイギンという名の方が通りが良いかと思ってそう聞いてみたのだが、運転手は「ここから2つ目ですね」と教えてくれた後「埼玉りそなでいいんですよね?」と念を押した。りそなの名前は思いのほか定着しているようだ。
 このバスで町役場からそのまま2つ目。どこまで連れていかれるかと思っていると、バスは役場の先で二股に分かれている道の右側に入った。おっ、ということはこのバスは目抜き通り経由か。役場から2つ目、「小鹿野町」停が近づき、降車のボタンを押したところで、前方に緑色の縦型看板が目に入ってきた。
 普段使っている首都圏の共通バスカードをカードリーダーに通して、バスを降りた。秩父市内からここまではちょうど500円である。まずは写真撮影から。小鹿野支店店舗は平屋建てである。支店は東西に走る道路の南側にあって、支店の正面は北側ということになるから、時間的にちょうど逆光である。支店の左隣は消防団の詰所で、大きな火の見やぐらがまだ残っている。支店の右隣は土蔵を備えた古い商店で、こちらは土蔵ともども現役で商売をしているようだ。逆光に悩みながらも、火の見やぐらをなんとか写真に写し込むことに成功した。
 さあ、制覇作業である。支店の中に入ると、小鹿野支店にはATMが4台稼働していた。富士通ファクトVのモデル10が2台、モデル20が2台。モデル20のうち1台はシャッターの向こう側である。

 小鹿野のような山間部の支店は、とりあえず営業していくだけでも大変なのではないだろうか。そんな気がする。りそなグループでは各支店ごとの目標を大書したポスターが全店に貼り出してあるのだが、小鹿野のそれには「私たちは、お客様のいつも身近なパートナーで在り続けます。」と書かれていたのである。小鹿野支店の目標は「パートナーで在り続け」ること、つまり、私たちは撤退せずにこれからも営業していきます、というのがストレートに店のキャッチフレーズになるほどだということである。サービス内容云々の話ではない、店が存続するかどうかが問題なのだ。
 小鹿野支店は、1896(明治29)年10月に小鹿野町に設立された小鹿野銀行をそのルーツとしている。明治時代、小鹿野町は生糸・織物・木材・たばこの産地・集散地として、秩父と並んで栄えていた。小鹿野銀行は、製糸業の代金授受と事業資金貸し出しを主目的として設立された銀行であった。数次にわたる増資を行って業容を拡大したものの、1926(大正15)年2月、大口融資先の倒産により経営困難となって休業、同年6月秩父市にあった秩父銀行に合併され、本店は同行小鹿野支店となった。秩父銀行についてはこの後で詳しく触れる。1937(昭和12)年11月、秩父銀行は川越の第八十五銀行に買収され、小鹿野支店はそのまま第八十五の小鹿野支店となった。そして1943年7月の4行合同で埼玉銀行の小鹿野支店となり、以後も銀行名は変わったもののずっと小鹿野支店としてあり続けてきた。小鹿野も歴史の古い支店なのだが、時代の変化というのはある意味残酷なものである。

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2008年02月08日

2007.11.14(水)(19)小鹿野への道

 次の目的地は、秩父からバスで40分ほど入った秩父郡小鹿野町。ここに、埼玉りそな銀行は小鹿野支店を構えている。埼玉りそなの支店の中では、本店や県庁のあるさいたま市から最も遠い支店と言えるだろう。
 事前のリサーチでは、小鹿野行きのバスは、西武秩父駅を出て市街地を抜け、秩父鉄道の秩父駅を経由して国道299号を北上していくことになっている。ということは、秩父市の市街地、それも中心部にあたる銀行支店のあたりは間違いなくバスが通るはずである。
 というわけで、秩父支店を出るとき、女性の行員さんにバスがどこから出るのかを聞いてみた。緑色のスーツ風の制服(?)を着た中年女性だったが、この近所の者ではないのでわからないという答えであった。まあよい。支店の前は目抜き通りであるから、通り沿いにバス停を見つければ目指すバスには乗れるだろう。
 そう思ってやみくもに歩き出すと、案の定、小鹿野行きのバスは、支店から50mくらい駅に寄った「本町」というバス停から出るようだ。乗ろうと思っている西武観光バスの小鹿野車庫経由栗尾行きは、ここでは11:49発となっている。バス停前はかつて武蔵野銀行だった店舗の空き家、その先に埼玉県信用金庫の秩父支店がある。武銀の支店は、現在では秩父鉄道秩父駅前に新築移転して営業している。
 バス停から何気なく秩父支店の方を見たところ、さっきのおばちゃんの行員が店先に出てきていて、こちらを見ていた。私が無事バスに乗れるか心配してくれたのだろう。私が手でOKのサインを送って会釈をすると、店に戻っていった。OKの合図を見て安心したようであった。
 バスがやってきた。「観光バス」といってもれっきとした路線バスで、車体のカラーリングも都内で見る西武バスの車と同じである。以前、第四銀行めぐりで新潟県魚沼地方へ行った時にも、越後交通の子会社であるナントカ観光バスという会社の路線バスに乗ったから、こうした社名は全国各地にあるのだろう。個人的には、路線バスの会社に「観光バス」という社名をつけるのは感心しない。紛らわしいということもあるが、「観光」という語それ自体にきらびやかな語感があるので、日常生活のさまざまな局面で乗ることが想定される路線バスにはそぐわないと思う。今回のように趣味で乗るならともかく、たとえば小鹿野で葬式があるとしたら、葬儀会場には「観光バス」で赴くことになる。葬儀と観光とでは、まるで正反対ではないか。

 ともあれ、私は観光バスという名の路線バスに乗って、秩父から小鹿野に向かう。秩父市内は古めかしい商店が多いが、その中にぽつぽつと新しい建物が建っていて、ファミレスのジョナサンが目を引く。こうした新しい商業施設は、旧市街では目立っているが、西武秩父駅の向こう側にはミスタードーナツとすかいらーくもあるから、秩父で珍しいわけではない。
 バスはいったん秩父鉄道秩父駅のロータリーに乗り入れ、再び前進する。地元の清酒・武甲正宗の本店と、郵便局の本局があって、そのまままっすぐ国道299号を進んでいく。10人ほどいる乗客のうち、半分ぐらいはお婆さんである。残り半分は、母親と小学生の息子、男子高校生、中年女性といったところで、若い男女など全く乗っていない。
 「あぼ」と発音する停留所があった。停留所の前にセブンイレブンがあり、ここは以前秩父方面に車で来た際に寄ったことがある。なぜわかるかというと、漢字の表記が「阿保」だからである。何となく笑える地名ばかりを集め、かつ管理者が実際にそこを訪問した凄いwebサイト(一見をお勧めする!)があるのだが、そこの作者もここは制覇しているようだ。蛇足ながら、さっき引き合いに出した「放出」は、この地で創業した中古車センターのCMのおかげで関西一円に知れ渡っており、JRの駅があることから「こうした地名」としても有名な部類である。この春には、この駅からJRの新線「おおさか東線」が開業するから、いっそう有名になるだろう。私も、銀行全行での口座開設を目指していた頃、近畿銀行(現近畿大阪銀行)で口座を作る際に口座店をつい「放出支店」にしてしまった。

 阿保から荒川の川べりまで降り、橋を渡ってから段丘崖をうねうねと上る。秩父市は荒川が形成した河岸段丘の段丘面上に広がっている。段丘面を横切るとまた段丘崖がある。それを上ると普通の山道になった。堰の上バス停の手前で水田を見た。稲刈りが終わり、稲架(はさ)を組んで干してある。まさに山間の農村である。このあたりから、電車の窓から見たよりも紅葉の色付きが濃くなってきた。やはり標高が上がると、その分気温が下がるのであろう。モミジなど、これまで見られなかったほど真っ赤である。

2008年02月07日

2007.11.14(水)(18)秩父支店を再訪

 西武秩父駅改札の外は、仲見世通りといって、いかにも「作られた」という感じのする土産物屋の並ぶアーケード街になっている。そこを抜けて、歩く以外にいかなることもできそうにない連絡通路を歩いていくと、秩父鉄道御花畑駅の脇に出る。正確には1本隔てて脇なのであるが、とにかく、西武から秩父線に乗り換えるときには、今歩いてきたルートをたどって御花畑駅まで行くことになる。
 今回の目的地、埼玉りそな銀行秩父支店は、秩父市の中心街にある。中心街は秩父鉄道のさらに向こう(西側)である。踏切を越えて、秩父の目抜き通りに向かって歩いていく。電車の中でも寝てしまったぐらいだったが、秩父の街の中も、やっぱりのどかで静かなたたずまいである。車は多少走っているが、運転しているのは中年以上の人ばかりである。
 秩父は歴史ある町である。秩父三十四か所巡礼の十三番札所である慈眼寺があり、JA秩父の本店がある。農協本店の隣は埼玉県秩父地方庁舎で、ここが昔の秩父郡役所【注】跡だそうだ。1884(明治17)年11月に起こった武装農民の蜂起「秩父事件」では、困民党に占拠されて本拠地となった。その向かい側には、開業医だろうか、古そうな洋館建築がある。洋館建築なのだが屋根は瓦葺きになっている。これは大正から昭和初期ぐらいの建物だろうか。秩父盆地は山奥で稲作に適した平野が少なく、また気温が低かったから、主食の生産には向かなかったが、逆にそれゆえ副業として商品作物の生産は早くから盛んであった。秩父を含む北関東一帯ではクワを栽培しての養蚕と生糸の生産が盛んで、秩父はそれゆえに商業経済の荒波には古くから揉まれていた。秩父事件は、秩父が古くから集散地として賑わっていたことの証拠である。
 秩父一番のデパート・矢尾百貨店がある角で右に曲がる。ここから先が秩父の中心商店街の本町通り(県道秩父名栗線と国道299号)で、その先左側に目指す秩父支店がある。秩父支店の建物は、戦前の建物のように霊験あらたかな感じはしないものの、古びていた。昭和30年代前半の、鉄筋コンクリート造りが本格的に普及し始めたころの建物、という雰囲気を漂わせている。社史で調べてみると、秩父支店の現店舗は1963年12月とのことであった。
 中に入ると、ATMが10台もあってびっくりした。左から、富士通のファクトAが2台、ファクトVのモデル10が1台あって、1台おいてファクトA、ファクトVモデル20が2台、そしてモデル10が3台という並びである。機種はバラバラだが、とにかくATMは10台ある。さっき、飯能支店には6台しかなかったのだ。飯能支店管内と違って、市内に店舗外ATMがさほど設置されていないせいだろうか。それでも、飯能より台数が多いというのは正直よくわからない。

 秩父支店のルーツをたどると、埼玉県の金融史の中でも源流に近いところまで行き着いてしまう。埼玉県初の銀行は、旧川越藩の御用商人たちの手によって1878(明治11)年10月に現川越市に設立された第八十五国立銀行である。国立銀行というのは国の法に基づいて作られたという意味(ナショナルバンクの直訳)で、れっきとした民間企業であるが、当初は銀行券(紙幣)の発行が認められていた。第八十五国立銀行は開業後には大蔵省為換方を命じられ、当時あった郡役所のうち数か所に出張所を設けて官金の収納にあたった。現埼玉りそな銀行秩父支店は、秩父郡役所に1879(明治12)年7月設けられた本店大宮出張所がそもそもの出発点である。大宮とは現秩父市の前身である秩父郡大宮町のことで、2001年まであった旧大宮市とは関係がない。
 その後、第八十五国立銀行は営業地盤の拡大を図り、1897(明治30)年8月に大宮出張所を大宮支店に昇格させた。1899年には私立の普通銀行に転換して第八十五国立銀行から第八十五銀行に改称、1916(大正5)年1月には、秩父郡大宮町が秩父町に改称したのに伴って秩父支店に名称変更した。第八十五銀行は、秩父地方をはじめ埼玉県西部を中心に地方銀行を複数合併して規模を拡大した後、1943年8月の4行合同に参加して消滅した。秩父支店は引き続き埼玉銀行の秩父支店となった。現在使われている店舗は、前述のとおり1963年12月に建築されたものである。

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 【注】郡役所:1890(明治23)年5月公布の郡制により、府県と町村との間に位置する「郡」を地方自治体として、そこに置かれていた役所。1921(大正10)年に原敬内閣によって郡制が廃止され、郡役所も1926年に廃止されて、以後郡は単なる地理的名称となった。

2008年02月06日

2007.11.14(水)(17)せわしない食事を終えて

 「ぎょうざの満洲」に振られてしまったので、次善の策として、久しぶりに吉野家で牛丼を食べようと思った。しかし、吉野家の牛丼提供は11時からであり、他のメニューは気が進まないので、すぐに店を出てきてしまった。
 仕方がないので松屋に入る。松屋は自宅のすぐ近所にもあるから、あまり入りたくはなかったのだ(吉野家は自宅の近所にはない)。
 券売機が故障していて、おっとりした感じの男性の店員に直接注文する。牛焼肉定食であった。レシートを持ってきてもらったところ、印字された時刻を見て私は焦った。10:27。私が乗る秩父行きの発車時刻まで、あと10分しかない。それなのに、私は悠然と定食を頼んでしまっているではないか。
 店員が定食のサラダだけ先に持ってきた。私は松屋で定食を食べるときにはメニューが全部揃ってから手をつけることにしているのだが、宗旨替えせざるを得ない。先に出されたサラダに手を伸ばすと、食べ終わりかけたところで定食の本体がやってきた。ほとんど欠食児童のように白飯と肉をむさぼり食い、味噌汁はお冷やで薄めて一気飲みした。
 極めてせわしない食事を終えて、飯能駅に戻る。時間がないから猛然とダッシュである。エスカレーターを駆け上がり、自動改札を駆け抜ける。秩父へ向かう電車は2番線から出るが、3番線側もドアが開いている。車両は、ボックスシートがずらりと並んだ4000系の4両編成。混雑度はボックスに2人〜4人座っているくらいであった。私はかろうじて座席を確保することができた。

 走ってきたので暑いと思っていたら、最初の停車駅、東飯能に停車すると同時にエアコンが入った。JR八高線との乗り換え駅である東飯能駅には2000年に駅ビルができたばかりなのだが、キーテナントであった丸広百貨店が2006年に撤退し、現在では駅施設しか営業していない。車窓からJR八高線ホームの向こうに見える真新しい廃屋が痛々しい。
 高麗の車両基地横にある信号所でいったん停車したが、いったん停車したが、交換はしないですぐに発車した。ほどなく高麗駅に停車。このあたりまでは、少々地形が険しいことを別にすれば、首都圏の大手私鉄の駅としてさほど違和感があるわけではない。ワンマン運転でドアの開閉に時間がかかるところだけが特別である。高麗にはあさひ銀行が1999年7月まで有人出張所を置いていた。1996年2月に開設された飯能支店高麗出張所は、三菱銀行の高麗代理店を譲り受けて開設されたものであった。有人出張所が数年で統合された後、跡地では店舗外ATMが稼働していたが、現在では廃止されている。高麗には三菱セメントの採石場があるが、だからといって三菱銀がそれを理由にして代理店を作ったわけではないだろう。
 高麗を過ぎると、電車はどんどん山奥に分け入っていく感じがする。のどかな秋の風景である。所々紅葉した木が、青空に映えている。実をつけた柿の木もある。秋晴れの空に映える朱色の柿の実は、本当に美しいものである。日本に「柿見」の習慣がないのが不思議なくらいだと誰かが新聞のエッセイで書いていたが、私も全く同感である。去年(2006年)死んだ私の父も、そういえば柿が好きでよく食べていたと思い出した。
 武蔵横手で上り普通列車と交換、東吾野で上り特急と交換。そして吾野では上り普通列車と交換した。吾野は旧吾野村の中心地で、山間の集落としては家の数が多く、大規模なようだ。埼玉銀行はここに1969年まで吾野支店を置いていた。吾野支店は1922(大正11)年14月に飯能銀行の出張所として開設されたもので、1950年5月支店に昇格した。ここに店舗ができたのは、林業中心地としての意味合いであったと思われる。統合後、建物は居抜きで西武信用組合(川越市)の支店になったが、信組の破綻を経て、今はもう解体されてしまったようだ。
 正丸で浅い眠りに落ちる。横瀬を出たところで目が覚めた。右側の車窓に貯水池を見て間もなくトンネルに入り、出たところで車窓の風景がパッと開けて秩父市街地が広がっていた。西武の線路は横瀬から右にカーブする急な下り坂になる。秩父市街地は荒川の河岸段丘面にあって、段丘崖の上にある横瀬から、西武秩父駅めがけて高架線路が延びているのだ。坂を下りきり、右カーブが終わりを告げたところで、電車は西武秩父駅に進入した。
 平日のこの時間、秩父に来ようという人は、ほとんどお年寄りばかりであった。例外的に、テニスラケットを持った高校生の団体が多少いた程度である。彼らは、秩父市街地の北にある「ミューズパーク」にでも行くのだろう。もう一つの例外が、為栗裕雅(39歳)であった。

2008年02月05日

2007.11.14(水)(16)満州と放出

 まだ15分程度時間の余裕がある。朝から、コンビニで買ったおにぎり1個だけしか食べていないので、空腹感を感じていたが、ここで腹ごしらえをしておこうと思いたった。なぜ急に腹ごしらえかというと、駅前に(埼玉県内では)有名なギョーザのチェーン店を見つけたからだ。
 去年(2006年)まで仕事の都合で朝5時に起きる必要があったのだが、その際私は、目覚まし代わりにタイマーをかけてラジオをつけるようにしていた。選局は、時報が埼玉りそな銀行の1社買い切りであるとの理由で、埼玉県のFM局、FMナックファイブ。ナックファイブの時報は、あまり古い時代のことは知らないが、少なくとも私が「あさめぐ」なるものを始めた1996年頃には既にあさひ銀行の1社買い切りとなっていた。おそらく、全国銀行協会(全銀協)により銀行のラジオCMが解禁された1990年3月からずっと、埼玉銀行の買い切りだったのではないか。ちなみに、埼玉りそな1社で週7日買い切りであった同局の時報は、現在では土日を外した週5日(曜日ベース)のみに縮小してしまった。蛇足ながら、埼玉りそな銀行は、テレビ埼玉(独立U局)の夜9時半のニュースでも、系列の不動産会社である大栄不動産と一緒にタイムスポンサーとなっている。
 話がそれた。このギョーザチェーン店のCMは、ナックファイブを聴いていると頻繁にかかる。従って、ハ長調の「ド・ミ・ソー・ソ」というメロディーで「ギョーザの」と歌うと、「ラ・ソ・ラ・ドー」と続きがすぐに歌える埼玉県民は多いはずだ。関西でも、「放出(はなてん)」ときたら後に続くものは「中古車センター」しかないだろうが、それと似ている。それほど有名なチェーンであるのに、私はこのギョーザ店に入ったことが1度もなかった。だから、これを機会に食してみようと思ったのである。
 しかし、店に一歩入ってみると、おばちゃんの店員から「すいません、11時からなんです」と言われて一気に腰が砕けた。このギョーザチェーンを、私はこの次いつ「利用しよう」と思うだろうか。

 念のため一言。このブログは、一預金者が勝手に書き散らしているものである。従って、りそなグループとは何の関係もない。「ぎょうざの満洲」「ハナテン」とも、旧あさひ銀行の取引先であるようなので、一応記しておく【注1】【注2】。

 【注1】鰍ャょうざの満洲:埼玉県・東京都で展開する外食チェーン(中華料理)。本社坂戸市。1964年所沢市で「満洲里」創業、1972年有限会社満洲飯店設立、1995年株式会社ぎょうざの満洲に変更。取引銀行は埼玉りそな銀行鶴ヶ島支店など。
 【注2】潟nナテン:関西圏を中心とする中古車売買業。本社大阪市城東区。1963年「放出中古車センター」創業、1966年株式会社設立、1987年現商号に変更、1990年大証新2部に上場。取引銀行はりそな銀行大阪中央営業部(現大阪営業部)など。関西圏のテレビで深夜に放送されていた「あなた、クルマ売る?」というお色気CMで有名。

2008年02月04日

2007.11.14(水)(15)西武池袋線が「西武線」になった理由

 飯能支店のルーツは、飯能銀行の本店である。飯能銀行は第1次から第3次まであるのだが【注1】、現在の飯能支店に直接つながるのは、1901(明治34)年10月に入間郡飯能町(当時)に開業した(第2次)飯能銀行である。
 飯能周辺には古くから高麗(朝鮮)人が多く住んでおり、進んだ大陸文化が伝わって織物産業が発達していた。また飯能付近は地質や気候がスギやヒノキなどの生育に最適であるため林業が盛んとなり、飯能は林業の集散地になった。江戸に近いこの地は幕府から御用材の供出を命じられ、荒川や入間川の水運で木材を江戸に運び出していた。この地の木材は、江戸では西方の川からくる材「西川材」と呼ばれて重用された。
 1900年ごろから織物産業が勃興期を迎えていた飯能地区では、日清戦争後の不況にもかかわらず、地元銀行設立が求められていた。1901年6月設立された(第2次)飯能銀行は、荒川の水運で木材を運び出していた関係から、1917(大正6)年12月には東京府南千住町(現荒川区)に支店を開設、また複数の地方銀行およびその支店を買収して規模を拡大した。
 飯能銀行は、1912(明治45)年設立の武蔵野鉄道梶i現西武鉄道池袋線)に多額の融資をしていた。同鉄道は1929年に路線を吾野(あがの:現飯能市)まで延長したが、不況の影響から経営難となった。融資が固定化した飯能銀行は信用が急激に低下し、一時は経営破綻寸前にまで追い詰められた。その後1932年になって、やり手で知られた平沼弥太郎【注2】が取締役会長に就任(頭取制なし)した。平沼は、東武鉄道と西武鉄道との間で武蔵野鉄道の経営権が取り合いになった機に乗じて、武蔵野鉄道に対する債権を西武が持つ土地と交換することに成功し、経営を立て直した。西武はこれにより東武との争奪戦で優位に立ち、武蔵野鉄道と合併することになる。
 戦時色の濃くなってきた1936年7月、飯能銀行は、飯能町にあったもう一つの銀行、武蔵銀行【注3】とともに大蔵省の検査を受けた際、検査官から両行合併を強く勧奨された。両行は1937年5月に合併して(第3次)飯能銀行が発足した。第3次飯能銀行はつつがなく発展してゆき、1943(昭和18)年7月の4行合同により埼玉銀行となった。本店は飯能支店となり、その後数回の銀行名変更を経て現在に至っている。

 【注1】第1次から第3次まで:「飯能銀行」の名前を持つ法人が時期をずらして3つあったということ。第1次飯能銀行は、1886(明治19)年6月に設立され、1892年に解散した。第2次飯能銀行は、第1次の解散後に設立されたものである。1937年5月の飯能銀行・武蔵銀行の合併は新立合併方式によったため、新銀行は別法人の第3次飯能銀行となる。
 【注2】平沼弥太郎(ひらぬま・やたろう):飯能銀行取締役会長、埼玉銀行第4代頭取。1892.06.12生、埼玉県名栗村(現飯能市)出身。1912.03京華中卒、1932.02(第2次)飯能銀行会長。1937.05合併により退任、1942.01(第3次)飯能銀行取締役、1943.01会長。1943.07合併により埼玉銀行取締役、1949.04頭取。1961.11退任。(第2次)飯能銀行初代頭取・平沼源一郎の息子。
 【注3】武蔵銀行:1898(明治31)年4月に児玉郡児玉町(現本庄市)に設立、東京への移転と数次にわたる商号変更を経て、1916(大正5)年10月飯能町に本店を移して開業。1937.05.01(第2次)飯能銀行と合同して(第3次)飯能銀行を設立。

2008年02月03日

2007.11.14(水)(14)我が取引店、飯能支店へ

 電車が飯能駅の4番ホームに到着した。09:59、定刻通りの到着である。
 飯能支店に行った後、10:34発の西武秩父行き各駅停車に乗って、いよいよ秩父路に突入することになる。飯能での持ち時間は35分。ここから先は、持ち時間が少々余ろうとも、予定の1本前の電車に乗って余裕時間をさらに創造するというようなことは不可能である。飯能までは東京の通勤圏として電車が頻繁に運転されているが、飯能から秩父方面へは単線のローカル線となるので、電車は一気に30分間隔にまで開いてしまうからだ。そして、秩父鉄道の列車本数はさらに少ない。
 改札を出て左に曲がり、西武が造った商業施設「飯能ペペ」の中を通り抜けて駅前に出る。駅前にはロータリーがあり、ロータリーに面したところにみずほ銀行の飯能支店(旧第一勧銀)がある。
 駅前通りをまっすぐ北に進み、地場百貨店である丸広百貨店飯能店のさらに北、東和銀行飯能支店とカラオケのシダックスのある角。駅前の信号を最初とすると3番目となるこの交差点は、東(あずま)町の交差点という。ここを左に曲がって青梅方向に向かった先に、目指す飯能支店がある。
 角から2軒目の右側は、飯能信用金庫の旧本店だった店舗で、現在ここは飯能中央支店という一支店になっている。本店はJR八高線東飯能駅近くに2000年10月に新築移転した。東飯能駅は、この交差点で左に曲がらず右に曲がって直進した突き当たりである。東飯能駅に向かう途中の進行右側には、武蔵野銀行飯能支店がある。
 飯能信金旧本店前を通り過ぎて少し歩くと、埼玉りそなの看板が見えた。ここは私の取引店である。口座開設店の写真はあさひ銀行時代に撮ってあったが、今回はもう1回撮っておこう。
 飯能支店の駐車場は、支店の向かい側にある。駐車場の横には土蔵が見え、木造の洋館建築も建っている。洋館建築には「飯能織協洋館」と書いてある。飯能織物協同組合の建物は、部分的にアルミサッシに改装されたりしているようだが、1922(大正11)年の建造だそうだ。私は文系学部の出身で、建築に関してはラーメンもうどんもわからないのだが、それでも古い(歴史的な)建造物が持つ風格や味わいといったものは素人なりに感じ取っているので、このようにして歴史的な建築が近所に残っているのは嬉しいものである。支店の隣りは葬儀屋さんで、今葬式をしているようだ。
 飯能支店に入る。1966年9月に建築された現在の店舗は、だいぶ古くはなっているが、改装されてそれなりにきれいになっている。ATMコーナーも、りそなの現行標準型である白いものに改装されている。ATMについては、飯能支店ってこんなに台数少ないんだ、と思った。6台しかない。窓口室にもう1〜2台あるのかと思ったが、キャッシュコーナー以外にはないようだ。富士通ファクトV・モデル10が左に2台、真ん中の3台がファクトAで、いちばん右がファクトV・モデル20という構成で6台であった。窓口室で「クイックナビ」を導入していたのには少しびっくりしたが、よく考えてみたら改装工事をしてあるのだから当たり前か。埼玉りそなの店にもこの型は少しずつ導入されつつあるようだ。

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2008年02月02日

2007.11.14(水)(13)リカバー成功

 計算上、所沢9:35発に乗れれば、一応当初プランに戻るということになる。そうなれば、急いで所沢まで戻ってきた甲斐があったということだ。
 さっき通ってきた所沢駅東口の橋上改札を抜け、1時間半前に来たばかりの5番線ホームに急いで行ってみると、目指す急行飯能行きがちょうどホームに入ったところであった。6000系といって、地下鉄有楽町線の乗り入れなどに使われるステンレス車体の通勤型車両。池袋線下り列車にとっての所沢駅ホーム南端は、飯能寄りの最前部に当たるから、ホームに電車が入っているのを階段上から見て冷や汗をかいた。だがこの時、実は本当に危なかったのである。というのも、改札上部の電光表示によれば、急行飯能行きの時刻は「09:34」となっていたからだ。35分発のつもりでおっとり構えていたら、やり過ごしてしまうところであった。
 ともあれ、かろうじてぎりぎりセーフ、であった。大いに焦ったものの、結局久米川支店を純粋に1増として、今のこの時点でようやく当初プラン通りということになる。なんだか少し疲れてしまった。次の目的地は、所沢から15km先の飯能(はんのう)市である。ここに、飯能支店がある。
 所沢から飯能へ向かう下り電車は、大学生ぐらいの若い女でいっぱいで、そこに混じって幼稚園児の団体も見える。私は真ん中辺の車両に乗ったが、女性専用車両のステッカーがついた先頭の車両まで移っても【注】全く座る余地がない。武蔵藤沢まで来てようやく着席することができ、多数の若い女が稲荷山公園で降りた。東京家政大学が入間市駅寄りにあり、改札もこちら側なので、たぶん家政大の学生なのだろう。しかし、車内にはまだ若い女が意外にたくさんいる。これらは入間市で一気に降りた。入間市駅の近所には、武蔵野音大と大妻女子大を除いては大学がないようなのだが、どこへ行っているのだろう。両者はさほど大規模な大学ではなかったように思うが。
 仏子駅を出てしばらくすると、電車は入間川を渡る。左の車窓に、1969年10月に切り替えられた西武線の古い鉄橋が見える。ついに撤去されるのか、ワンボックスカーが横付けにされ、数人の作業員が何かしていた。

 【注】女性専用車両:西武池袋線における設定は、朝の上り電車だけである。
カテゴリ一覧(過去の連載など)
関西みらい(5)
単発(12)
告知板(24)
大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇(62)
銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇(29)
りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く(43)
りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅(57)
りそめぐ2008秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる 東武伊勢崎線・野田線沿線17店舗の制覇(51)
りそめぐ2009初秋 りそな銀千葉県内12店舗完全制覇(35)
りそめぐ2008夏 りそな銀東京都世田谷区4店舗完全制覇(8)
りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた(18)
りそめぐ2008秋 太平洋は青かった 茨城→北海道750km大移動/銀行めぐ2008秋 札幌市内4行4店舗完全制覇(20)
りそめぐ2008初秋 湘南セプテンバーストーリー(11)
りそめぐ2008冬 銀河に乗って知事選たけなわの大阪府へ(47)
りそめぐ2008夏 「近畿大阪めぐ」スタート記念 片町線・京阪線沿線25店完全制覇(51)
りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿(60)
りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える(12)
りそめぐ2007秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる(35)
2007年7月 りそな関西地区支店昇格5店完全制覇+α(43)
あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇(34)
2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)