2008年03月31日

あとがき

 「りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える」、3月30日をもって完結いたしました。最後までお読みいただいた方には、例によってダラダラと続いた連載にお付き合いいただき、御礼申し上げます。
 埼玉県というエリアで「めぐ記」を執筆すると、制覇の記録がほぼ旧埼玉銀行だけになってしまいます。記述では、トータルで旧3行のバランスをとるように心がけていますが、今回は旧大和銀行の話題も盛り込むことができてよかったと思います。もっとも、旧協和銀行については触れる機会がありませんでしたが。
 本連載の予告掲載は、G先生がご存命であれば60歳の誕生日を迎えられるはずであった、2008年3月18日でした。こういう「よき日」に告知ができた点は非常にハッピーでした。分量も最終的に400字詰原稿用紙で60枚程度となりました。

 連載の執筆は、19日の晩に帰宅してすぐ始めました。今回はコンパクトな連載ということもあって執筆が割合スムーズに進んだほうだと思いますが、それでも埼玉県内店舗の歴史的背景に壮大な物語があるのは相変わらずです。拓銀の話題は、ちょっと「りそなめぐり」から外れてしまうことは承知していますが、杉戸支店について触れておきたかったのであえて加えました。
 社会は日々流転しています。この連載を数年後に読み返して「古い」と感じられることがあるかもしれませんが、あくまで 2008年1月の実体験と、その後の連載期間における「一面の真実」です。そういうものだと思ってお読みいただくことを望みます。
 なお、今回の連載は基本的に2008年1月から3月にかけて書き下ろしたものですが、『プロローグ』は、当「遊牧民の窓」内のブログ「遊牧民のゴタク」に2005年1月18日掲載した『人命の重さと意味を考える』を修整したものです。また、一部「遊牧民の窓 掲示板」から情報を流用した部分があります。

 この連載のような「文章を使っての自己主張」が、私の生き甲斐です。今後ともご支援・ご鞭撻をいただけますようお願いします。ご意見や情報提供をお待ちしています。このブログ「MEGU」は、コメント・トラックバックを歓迎していますし、私のメールアドレスも公表しています。

 この連載の執筆にあたっては、以下のような書籍・webサイトを参照いたしました。

 『埼玉銀行史』埼玉銀行、1968年
 『富士銀行百年史』富士銀行、1982年
 『埼玉銀行通史』あさひ銀行、1993年
 『久喜銀行−消滅までの道程』久喜市公文書館、1997年
 『大和銀行八十年史』大和銀行、1999年
 『続々三菱銀行史』三菱総合研究所、1999年
 『中央信託銀行史1962〜2000』中央信託銀行、2000年
 『北海道拓殖銀行百年物語』北海道拓殖銀行百年物語刊行委員会、2002年

 『久喜市議会議員いのまた和雄のホームページ』http://www7.ocn.ne.jp/~tomoni/
 「駅情報(乗降人員)」『東武鉄道』http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html

 フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
(webサイトは2008.03.19現在)
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2008年03月30日

2008.01.18(金)(11)栗橋支店、そしてテラへ

 16:35発の電車がようやくやってきた。東武日光・会津高原尾瀬口行きの区間快速で、この電車は東武動物公園を出たあと、終点の会津高原尾瀬口(福島県南会津郡南会津町)まで3時間かけて各駅に停まっていくという、恐ろしい電車である。
 私が乗ったのは、6両編成のうち前から2両目、東武日光行き。この電車は、栃木県内で切り離して東武日光行きと会津高原尾瀬口行きとに分かれる。長距離を走る電車なので、ドアは車両の両端にしかなく、車内はボックスシートになっている。せっかくなので、ドアの横についているロングシートではなく、ボックスの方に座った。
 幸手で20分も待たされたあげく、次の南栗橋でさらに神経を逆撫でにされた。この電車は、南栗橋で後から来る特急の通過待ちを行うのだという。これで、さらに5分程度のタイムロスが追加されることになった。じたばたしても仕方がないので黙って座っているが、内心はもちろん、やり場のない憤怒にかられている。
 栗橋に着く直前になって別のことに気がついた。私が乗っているのは、6両編成の前から2両目。しかし、栗橋駅の階段は最後部にあるのだ。慌てて車両を通り抜けて後方に行こうとするが、電車は既に駅に着く直前の減速を始めていて、ドア前のスペースには客が大勢立っていた。結局スムーズに通り抜けることは叶わず、真ん中辺まで進んだところでドアが開いたので、そこでホームに出た。栗橋16:49着。
 栗橋駅は数年前に橋上駅舎に改築されていて、改札に上がるエスカレーターがしっかり装備されている。栗橋には橋上駅舎ができてからだけでも何度も来ているから、改札を出た後の勝手はある程度わかっている。とにかく大急ぎで支店に行かないと真っ暗になってしまう。東武の改札を出て左折、JRの切符売り場の方へ歩いていく。コンコースにはゆうちょ銀行のATMがある。通路突き当たりで階段を下りると、この階段は最近のこの手の駅には珍しく、踊り場つきの折り返し階段になっている。

 駅前に出た。すぐ南側に居酒屋の「日本海庄や」があるが、これは北海道拓殖銀行の栗橋支店だった建物で、現在は居酒屋のほかは空きスペースのようだ。駅前にあった東武ストアは数年前に取り壊されている。旧拓銀支店跡の向かい側にあった中央三井信託銀行の店舗外ATM小屋は、既に撤去されている。
 栗橋支店は、東に延びる商店街をまっすぐ進み、名前は忘れたが駅入口の信号で左折して北上した右側である。このあたりは栗橋町中心街の南部にあたる場所だが、駅前から続く道は商店街としてはもはや機能していないようで、杉戸や幸手の街並みに似た歯抜けの景観になっていた。駅入口の五差路で直角に左折。角には古い円筒形の郵便ポストがまだ残っている。前方に埼玉りそなの緑色の看板が見えた。埼玉りそなの向かい側には川口信用金庫の栗橋支店があり、また数軒おいて北隣は栗橋郵便局である。栗橋局は民営化前の区分でいうと「集配普通局」で、今は「郵便事業会社の支店が併設された郵便局」とでも言えばいいのだろうか。
 5時の閉店間際でだいぶ暗くなっていたが、写真はどうにか(構図は別として)かろうじて許容できるものが撮れたと思う。支店に入ると、既に店はほとんど閉まりかけていた。栗橋支店のキャッシュコーナーは、入口から建物の奥までびっしりと機械が並んでいる「うなぎの寝床」形で、窓口室とを仕切るシャッターは中央部についている柱の両側から下りている。というわけでシャッター部分の幅が非常に広い、というか奥行きがある。ATMは8台あって、富士通ファクトAが1台、ファクトVモデル10が4台、ファクトAが2台、そしてモデル10が1台という構成であった。ATMのうしろ(窓口室側)にモデル10ガワの記帳機がある。IC対応のATMは、左から2台目と一番右の2台だけであった。内装は埼玉銀行時代の内装を今にとどめていて、行灯表示のプレートだけが緑色に変えられていた。制覇作業を済ませる。
 埼玉りそな銀行栗橋支店は、1898(明治31)年6月に北葛飾郡栗橋町に設立された栗橋銀行の本店であった。栗橋町は江戸時代には利根川の渡し舟が盛んな奥州街道の宿場町で、関所の置かれた天領であった。洪水で川止めになると宿は大いに潤い、また天領は他所と比べると租税が緩やかだったという。明治になってからも渡河場として強い生命力を保っていたが、1885(明治18)年に現東北本線が開通してから衰退した。銀行開業の1年後には早くも加須支店(現加須市)を設置。栗橋町に適切な融資先が乏しくなったためである。それでも経営はつつがなく行われていたようだが、1926(大正15)年12月に忍町(現行田市)の忍商業銀行に合併され、本店は忍商業銀行の栗橋支店となった。そして1943年7月の4行統合を迎えることになる。現店舗は1978年11月に新築されたもの。

 これで、「りそめぐ」の本日の予定はすべて終了である。店を出ると、支店から見えるところにある防災無線のスピーカーから「夕焼けこやけ」がト長調の音階で流れていた。
 お供えの缶ビールを郵便局の向かいにあるローソンで買い、徒歩で町はずれにある寺へ向かう。歩き始めた時点で、空には明るさがほとんど残されていなかった。

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[りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える 完]
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2008年03月29日

2008.01.18(金)(10)幸手市内で色々と思う

 支店の前は日光街道であるが、国道4号線はバイパスで市街地の東にそれてしまい、目抜き通りの旧道は既に県道になっている。支店前を通って茨城県五霞町まで通じている朝日バスのバス停があって、名称は「埼玉りそな銀行前」とある。五霞町は利根川の流れの南側に位置していて、茨城県側とは橋1本でつながっているだけである。地形的に埼玉県に入ったほうがよさそうな場所で、それゆえに幸手市との合併という話もあったのだが、この合併構想は幸手側で葬り去ってしまった。埼玉になじんでいる者としては、こういう形で茨城県から領土をもぎ取ってくれば埼玉県の面積が増えて非常に面白いと思ったのだが、幸手市はみすみすその機会を捨ててしまったわけである。
 支店前を含む街道沿いにプレートがあったが、幸手市の看板となる花は桜のようだ。そういえば、市町村合併の話で思い出したが、数年前に破談になった幸手市を含む市町村合併構想では、新市名を「桜宮」(さくらのみや)にするということであった。関西の人には「桜ノ宮=ラブホテル街」というイメージが強いだろうから、こういう「意図せざる」イメージについて、市名を検討する時に考えなかったのだろうかと当時思っていた。やはり、合併を推進する人たちはまず合併ありきで、そういう話は全く詰めていなかったようである。案の定、この合併構想はその後の住民投票で否決され、桜の花のようにパッと散ってしまった。
 幸手市内を歩いていて、地理の「巡検」【注】について色々と思うことがあった。幸手市は、G先生の出身地である。この「MEGU」というブログに載せている文章群には、先生とその周辺に影響された部分がかなりあると思う。もともと地理が好きだった私は、大学受験が終わってからも、予備校で地理のイベントがあったりすると参加していた。G先生の取り巻きだった者と称して、某大手予備校の「国土地理院地形図読図実習」なるイベントにも何度か(引率の手伝いで)出かけている。りそなめぐりはそのまま地理学的巡検に近いと認識しているが、私は学部の卒業論文を社会学で書いた人間なので、地理の学問的プロセスにのっとった巡検をしているかどうかは知らない。もっとも、社会学にも「フィールドワーク」という研究手法があるのだが、私はそれも究めたといえるか怪しいと思っている。このあたり、自分自身に「正しい知識」というものが備わっていないことを感じて、不安にかられるのである。

 さて、幸手駅まで戻ってきて、ショッキングな事実が判明した。只今16:15である。最終目的地である栗橋支店(埼玉県北葛飾郡栗橋町)までは、幸手からわずか2駅なのだが、電車が16:35までないのだ。北へ行く電車そのものは10分おきぐらいに出ているのだが、幸手の次、栗橋の1つ手前の南栗橋で大半の電車が打ち切られてしまい、栗橋町の中心部である栗橋駅までは30〜40分に1本しか行かないのである。とにかく、これにより20分が無駄になる。既に日没が近いこの時間の20分は貴重で、太陽の高度にはかなりの差が出てくるだろう。しかし、電車がないのではどうしようもない。
 無聊を癒すため、駅の売店でチョコレートを買った。スイカで会計をしてレシートを求めたところ、売店のおばちゃんは「取扱店控」のレシートを渡してくれた。面倒臭そうな応対にカチンときたので、レシートは指摘しないで黙ってもらっておいた。
 改札内には少し早めに入った。チョコをつまみながら吹きさらしのホームのベンチで書き物をしていると、電車待ちをしている間に日がどんどん傾いていくのがわかる。16:25の時点で既に、真後ろから照らされているような感じがする。これから栗橋まで10分程度、そこから支店まで歩いて5分。今日は栗橋支店の写真まで撮れるだろうか。

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 【注】巡検:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると以下のとおり。《地理学、地質学では実地調査、現地調査を意味する用語。Field Excursionsの訳語である。一般に言うとフィールドワークであるが、実地に現場を見て資料収集をしたり、聞き取りをしたりして客観的な研究の材料を得るという研究手法のことである。研究活動の中では、「○○半島東部巡検」というような表現を使用する。また、地理学、地学分野で市民対象に社会教育という意味で、化石採集、地質・地層の観察会を催したりする場合も「巡検」という言葉を使用する。》
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2008年03月28日

2008.01.18(金)(9)幸手支店

 東武動物公園駅近くの2か所の支店を制覇した。次の目標は日光線で2駅先、「幸せを手にする街」こと幸手(さって)市である。
 駅に戻ってきた。改札を入って下りホームにおりると、電車がすでに停まっていた。紫色の線の入った旧営団地下鉄の車両である。急行南栗橋行き、15:21発とある。乗り込んで発車を待つが、なかなか発車しない。午前中の事故の影響だろうか。結局、電車は東武動物公園を3分遅れで出発した。
 今日は大分日差しが強い。電車の中にいると(時間的に日が傾いてきたせいもあるが)眩しくて、おととい雪が降ったのに少し暑いくらいである。
 10分ほどの乗車で、幸手に到着した。ダイヤでは15:28着となっているが、少し遅くなっていただろう。幸手駅は国鉄式配線というらしく、本屋(駅舎)のある側にホームが1本、そして跨線橋で渡った反対側に島式ホームがあって、電車の通過待ちや退避ができるようになっている。はずなのだが、西側の島式ホームは、駅の外側に向けて柵がつけられ、複線の両側にホームがへばりついた対向式ホームと同じ形態になっていた。柵の向こう側に見える駅西側の風景は、畑が残りのどかである。しかし、この界隈も近々区画整理の予定があるという。
 ホームの一番北端についた跨線橋を渡って、線路東側にある平屋建ての古い駅舎へ。改札を出ると、駅前ではロータリーを新設する工事が進められている。おそらく、駅舎を建て替えて橋上駅舎にし、畑の残るのどかな西側には駅前広場が新設されて、状況が一変してしまうのであろう。駅前はロータリーにする以外に何か開発手段がないのだろうか。
 工事中のロータリーの向こうに駅前通りが延びている。駅前にあった東武ストアは解体されて何かを建設中であった。「あさめぐ」の時代にはなかった埼玉りそなの店舗外ATM[幸手駅前]が、駅前に新設されていた。小屋には富士通ファクトAが1台だけ置かれていた。店舗外ATMに旧型の機械を回し、支店に新しい機械を配備するというのは、旧大和銀行のセンスではないだろうか。あさひは割合に店舗外ATMにも新しい機械を投入していた銀行だった。このあたり、やはり(あさひとは違う)りそななのだということを感じた。

 駅前通りは、セットバックがここ数年の間に一気に進んだらしい。幸手市にはここ5年ほど来ていない気がするが、街の様子がすっかり変わってしまっていて、浦島太郎のような心境になった。埼玉りそなの幸手支店はどこにあるのだったか。南北に走る通りの右(東)側という記憶しかない。
 駅前の交番で聞いた。警官は、ロータリーの工事をしている先の道を直進して「幸手駅入口」という交差点で左折すると、その先の右側にあると教えてくれた。なるほど、ロータリー工事の先は、やはり私の覚えていたとおりであった。おまわりさんの教えに従って幸手駅入口の交差点で左折すると、さっき見た杉戸の街並みと似たような風景が広がっていた。かつては商店街だったのだが、今はもはや商店街とは言えなくなっている。そういえばおまわりさんもさっき「市街地」と言わずに「街並み」と言っていた。
 交差点からすぐのところが栃木銀行幸手支店。その1軒おいて右隣りは、古くて黒い木造商家である。幸手の目抜き通りは、土蔵も残っていて古い町並みなのだが、表通り沿いに関しては大体1975年頃(?)に新築された建物が多い。そして、埼玉りそな銀行と武蔵野銀行の看板がほぼ同時に見えた。埼玉りそなの前は古い商家で、「五七番」と書かれたホーロー引きの黒い電話番号の表札が残っていた。武銀はSRの1軒おいて北である。
 支店のATMコーナーに入る。内装は埼玉銀行時代のものが使われていて、「お振込み」などの行灯表示のプレートだけ緑色に変えられていた。ATMは6台で、すべて富士通ファクトVのモデル10である。一番左の1台だけがIC対応になっている。このIC対応の機械は、埼玉りそなにしかないという「ペイジー」の伝票読み取り機能が搭載されていて、通帳の挿入口をよく見ると、5cmほどだろうか、通帳の幅にプラスして右側に細いスリットが付いている。ここから伝票を挿入して読み取らせるのだろう。制覇作業を行う。
 幸手支店は、粕壁銀行の幸手支店として1896(明治29)年3月に開設されたものである。粕壁銀行は、幸手支店開設の2か月前に南埼玉郡粕壁町(現春日部市)に設立された銀行である。経営は当初順調であったが、支配人が行金を費消したことが発覚して取り付けにあい、素封家や銀行から借り入れてしのいだものの大きな打撃を受けた。これが遠因となって、埼玉県の中央銀行として機能していた武州銀行(浦和町、現さいたま市)に1920年6月合併され、幸手支店は武州銀行の幸手支店となった。粕壁銀行の合併は、埼玉県内の中小銀行を合併する目的で作られた武州銀行にとっては銀行合併の第1号であった。1943年7月の4行合同で、武州銀行は埼玉銀行となる。
 現店舗は1969年10月に新築されたものである。ところで、幸手支店の写真を、先日掲載した杉戸支店のものと見比べていただきたい。少し似ていないだろうか。実は、杉戸と幸手は建築がほぼ同時で、社史によると新築移転日は1週間しか違わないのである。

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2008年03月27日

2008.01.18(金)(8)拓銀杉戸支店のこと

 「本陣跡地前」の交差点角にある中央三井信託銀行の店舗は、かつて北海道拓殖銀行の店舗であった。1997年11月の拓銀破綻と中央信託銀行への営業譲渡を経て、拓銀の杉戸支店は中央三井の杉戸支店として現在も営業を続けている。これは特筆すべきことである。というのも、旧拓銀の本州地区の店舗は中央信託に引き継がれたのだが、三井信託銀行との合併を経て、ほとんど全てが廃店されてしまったからである。中央三井に残る旧拓銀店舗は石神井(東京都練馬区)とここ杉戸だけ。しかも、石神井支店は新築の再開発ビルに移転しているから、拓銀時代の店舗をそのまま使って営業しているのは、実に杉戸支店ただ一つなのである。本州地区の拓銀店舗は営業譲渡時点で59店あったのだが、中央三井信託銀行におけるシステム統合の総仕上げとして、2002年5月に47店舗が一気に廃店された。なお、杉戸支店は現在、信託銀行業界唯一の「郡部に所在する支店」となっている。
 都市銀行最小だった拓銀は、北海道と首都圏との二面作戦を敷いていた。北海道で預金を吸収し、資金需要の旺盛な首都圏で貸し出して収益を上げるわけである。拓銀の首都圏戦略は、すき間的な店舗展開での「ドブ板営業」であった。ライバルは(都銀他行ではなく)信金だ、とどこかの支店で檄を飛ばしていたと耳にしたことがある。
 その、すき間的な店舗展開の中で、埼玉県東部エリアを中心とする東武伊勢崎線沿線は、拓銀にとってはドミナント戦略らしきものが見られたエリアである。草加・越谷・春日部といった市の中心地は見事に外しているものの、周辺の小駅、場合によっては郡部に出店して、沿線をほぼ完全にカバーする。こうして、東武沿線には全盛期には千住(東京都足立区)・草加新田(草加市)・一ノ割(春日部市)・豊春(同)・杉戸(杉戸町)・宮代(宮代町:出張所)・栗橋(栗橋町)と拓銀の店があった。どんな戦略であっても、中心地を外していたのでは苦戦は必至と思われるのだが、杉戸は首都圏の拓銀店舗の中で非常に成績優秀な店舗であったそうである。

 本陣跡地の交差点角にある拓銀の店舗は、定礎石に「昭和50年1月吉日」と書かれている。かつての銀行建築には当たり前のようにあった店先の時計も健在、郵便ポストも設置されている。夜間金庫の投入口には小部屋がつけられていて、人目を避けられるようになっている。相当にサービス精神が旺盛で、また地域貢献しようとしている様子がうかがわれる。夜間金庫室の前には「明治天皇御小休止所址」なる石碑が建っている。
 駅前通りと目抜き通りが交わる交差点という好立地に加え、杉戸町でも非常に由緒正しき場所と思われる本陣跡地前の土地。拓銀はどうやって確保したのだろうか。1972年8月に開設された拓銀杉戸支店は、当初は杉戸町杉戸2-14-3に仮店舗を置いて営業していた。同じ交差点の向かい側である。1975年11月に現店舗(杉戸2-13-12)に移転したのだが、場所が定まるまで相当の長期間を要した。この場所の土地を持っているのはW家というそうだが、W家のお婆さんが、地元埼玉銀行への義理だてもあってなかなかOKを出さなかったのである。お婆さんは交渉の最終段階で、初代支店長のH氏に対して2つの条件を出したという。それは、支店長は杉戸を離れても息子の相談相手になることと、土地を貸す以上は末長く使うこと、であった。支店長は「わかりました。拓銀の将来については全く心配ありません」とキッパリ言い切って支店の土地を確保したそうである。
 中央三井で唯一、拓銀店舗がそのままの形で存続しているからこそ、このエピソードはホロリとくるものがある。もし他の支店だったら、H氏はお婆さんとの約束を果たせなかったことになるわけだ(「拓銀」は消滅してしまったが)。杉戸でよかった、と言うべきなのだろう。
 なお、中央信託への営業譲渡の際、告知のポスターにはイメージキャラクター「たっくん」の着ぐるみを着た2人の男子行員(中央と拓銀から1人ずつ)の写真が使われていたが、拓銀側の行員は杉戸支店の行員であった。

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2008年03月26日

2008.01.18(金)(7)杉戸支店

 今来た道をまた戻ってきて、今度は駅の反対側へ出る。こちらには、杉戸支店がある。
 東武動物公園駅は、1981年に動物園を開業するときに名前を無理やり変えただけであり、もともとは杉戸駅といった。駅の名前は杉戸だったが、所在地は宮代町であり、杉戸町にある駅は1986年にできた杉戸高野台ただ一つだけである。
 さて、杉戸町側の出口を出る。こちら側はさっきの宮代町側と違い、人通りが多くてほっとした。私はこれから銀行に行こうとしているので、人通りが少ない、従って経済活動が低調な場所ではちょっと不安になってしまうのである。
 帰宅中の高校生の集団がいて、ネットカフェがあり、居酒屋の魚民がある。不二家の洋菓子店はフランチャイズ店だろうか、閉店している。階段を降りたところにある埼玉りそな銀行の店舗外ATM[東武動物公園駅](杉戸支店)は健在である。自転車屋の預かり屋が複数あるところは地方都市(というか郡部)である。
 茨城県境町からの路線バスがやってきている。会社が朝日バスであるから、かつては東武バスの路線だったのだろう。境町は千葉県野田市(旧関宿町)をまたいだ先であるから、この駅の利用圏は相当広いようだ。さっき駅内商業施設について触れたが、東武鉄道のwebサイトによると、東武動物公園駅の1日あたり乗降客数(2006年度1日平均)は32870人で、伊勢崎線ではせんげん台の半分強、五反野・谷塚よりやや少ない程度でしかない。ただし利用圏が千葉県をまたいで茨城県にまで及んでいるこの駅では、こうした客に動物園の親子連れ客を加えれば、採算ラインが案外低くなるのかもしれない。
 駅前通りを進んでくるとすぐ、幅の広い川がおだやかに水をたたえている。大落古利根川という。古川橋という橋がかかっていて、そこを渡るとようやく杉戸町である。駅前から続く商店街は川を渡ってもなお続いていて、自転車預かり屋はこちらにもある。しかし川を渡った途端、町の賑わい度がほぼゼロになってしまった。川のこちら側は典型的な「旧市街」である。営業している店がそこそこあるように見えるのは、田舎町というより東京の通勤圏に入っている場所だからであろうか。

 さて、駅から5分も歩いてくると、「本陣跡地前」という交差点にぶつかる。この交差点は駅前通りと杉戸町の目抜き通りとが交わる、非常に重要な交差点である。角には1軒の銀行。埼玉りそなではなく中央三井信託銀行の杉戸支店である。中央三井の角を右に曲がってしばらく行った左側が、今回の目的地である埼玉りそな銀行杉戸支店である。埼玉りそなの向かいには、古めかしい味のある銭湯。その隣には日本アジア証券の支店がある。中央三井の前にはアイザワ証券もあったから、杉戸町には中小証券会社の支店が多い。
 杉戸支店に入る。午後3時を回っているので、店内は閑散としている。ATMは7台あって、富士通ファクトA、ファクトVモデル20、同モデル10が3台、モデル20、モデル10という構成になっており、右側の3台と左のモデル20とがIC対応になっていた。キャッシュコーナーは旧あさひ銀行式のパイプデザインだが、1ブースあたりの幅は思いのほか広い。従って機械の両側にはプラスチック製のスペーサーがついている。ATMのうしろにモデル10のガワを使った通帳繰越機があり、店内の階段下に両替機が置いてあった。15:10、制覇作業を終えた。
 杉戸支店を出た。支店裏手には神社があって、屋根が真っ赤なペンキで塗られてピカピカ光っていた。その後ろ側に「ベルクス」というスーパーマーケットが見える。ここはイトーヨーカドーの杉戸店であったところである。埼玉りそなの支店のある目抜き通りは、もはや商店街ではなくなっていて、建物をつぶしてアパートにしたり駐車場にしたりしているところが多い。この商店街を衰退に追い込んだとみられるイトーヨーカドーも既に撤退し、別のスーパーが居抜きで入っている。おそらく、今から10年以上の時を経て、ようやく再開発の機運がわき上がってくるのではないだろうか。
 杉戸支店は、もともとは杉戸銀行として開業したものである。1900(明治33)年10月に設立され、その後茨城県古河町(現古河市)に支店を設けた。杉戸町には適切な融資先が乏しかったため、当時茨城県きっての生糸生産地として栄えていた古河は、支店を置いて融資を行うのにふさわしいと考えられたのである。第一次大戦中から増資を積極的に行った銀行が多い中、杉戸銀行は増資をせず創立時の資本金(10万円)のままであった。このため、昭和金融恐慌後に公布された銀行法により杉戸銀行は無資格銀行となり、忍商業銀行に吸収合併されることになった。本店は忍商業銀行の杉戸支店となり、古河支店は合併と同時に閉鎖された。そして1943年7月の4行合同により埼玉銀行の杉戸支店となる。現店舗は1969年10月に新築されたものである。

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2008年03月25日

2008.01.18(金)(6)宮代支店

 東武動物公園駅から歩いて行ける範囲に、埼玉りそな銀行の支店が2つある。杉戸支店と宮代支店。杉戸支店は明治時代から続く支店で、宮代支店は高度成長期より後に新設された店舗である。どちらを先にしてもよいのだが、なんとなく気分的に宮代へ先に行ってみることにした。
 東武動物公園駅で降りるのはずいぶん久しぶりである。東武伊勢崎線から日光線が分岐するこの駅は、島式ホームが2本、5番線まである駅で、まあ「規模が大きい駅」ということになるのだが、鉄道の敷地は非常に広い。かつてこの駅には車庫と車両整備工場が置かれていて、東武鉄道の鉄道運営の要衝だった。橋上駅舎もそれにふさわしく大きなものだったが、工場は日光線の南栗橋駅に移転してしまったので、今は2つの線が分かれる駅としての機能しかない。
 橋上駅舎の改札を出る。かつては、だだっ広いコンコースが広がっているだけだったが、しばらく来ないうちにこの駅は大変貌を遂げていた。宮代支店は、駅名となっている東武動物公園のある側にあり、駅舎からかつて車両整備工場だったスペースをまたぐ長大な跨線橋を渡って行くのだが、改札を出てその跨線橋までまっすぐ行けなくなっていたのである。今は改札の正面にある書店の脇を抜け、突きあたりで1回左にクランクを曲がり、ようやくその先で突き当たって連絡橋、という形になっている。商業施設がびっしりと連なっていて歩行者の進路はクランクのように曲がらされるが、かつては改札を直進すれば、突き当たりが連絡橋の接続部分だったのである。JRが今各地のターミナル駅で開設し続けている改札内の店舗ならともかく、東武動物公園駅は乗降客が必ずしも多くないのではないか。何しろ、駅の東側も西側も郡部である。そういうところで改札外に店を作って集客できるのだろうかと思う。
 長大な跨線橋を渡る。かつての車庫は広大な駐車場になっていた。工場は建物だけは残っているようだが、遊休施設のようで、人や機械が動いている様子は感じられない。跨線橋の途中から東武動物公園の観覧車が前方に見える。跨線橋を渡りきって階段を下り始めると、下り切らないうちに前方に埼玉りそなの緑の看板が見えた。跨線橋の階段は、本来窓があるはずの部分に、パンチングスチールというのか、細かい穴がたくさん開いた鉄板がはめ込まれている。東武動物公園ができた1981年3月当時の、最もおしゃれな建材を使った建造物だったのだろう。
 階段を降りたところに、バスロータリーがある。バスロータリーといっても、大手私鉄の沿線で普通に見かけるようなバス乗り場とは違い、万年塀に囲まれて舗装されただけの本当に何もない平面スペースである。雨よけの屋根も付いていないし、待合室などもない。そして人影が全く見えない。バス停のポールが1本だけ立っていて、東武動物公園東門行きとあった。東武動物公園へは歩いても10分ほどで行けるのだが、それでもバスが出ている。ポールには「本日は終了」と書いてあった。歩行時間がせめて15分ぐらいあればバス路線として少しは活気があったのかもしれないが、平日とはいえこれだけ静まり返っていては、遊園地としても果たして経営が成り立つのか、率直な疑問を持った。念のため、今日は休園日ではない。
 動物公園駅西口の駅前通りを歩いていく。道は広いが、完全に静まり返っている。商店街はシャッターストリートと化しているが、風俗店がなさそうなのは救いである。前方右側に扇形の妙な建物が見えてきた。宮代町の施設で、コミュニティセンター「進修館」というらしい。宮代支店があるのは、この施設の手前側であった。

 支店まで来ると、外壁の改修工事らしく灰色の布で覆われていた。最悪である。これでは写真にならないのだ。したがって宮代支店は後日またもう一度撮り直しに来ることになる。
 宮代支店最大の特徴は、何といっても、支店の目の前に自店の店舗外ATMがあることだろう。道を挟んで支店の向かいに、三角形の土地がある。駅前通りに直角に交わる道があって、さらにその西側に斜めに交わっている道がある。その、斜めの道と直角の道とで区切られた小さい三角形の土地には、角部分をミニ公園のようにして平屋建ての建物が建っている。これが[宮代町役場前]という店舗外ATMである。先にこちらに入ってみたが、閑散としていた。機械5台分の枠にATMは3台だけ置かれている。店舗外ATMであるので硬貨は使用不能である。機械は富士通のファクトAが2台、ファクトVモデル10のIC対応が1台。稼働時間は支店より短く、平日09:00〜19:00、土曜日09:00〜17:00、とあった。
 店に入ると、店の営業スペースは非常に狭く、ごった返している感じがした。なにしろ、キャッシュコーナーにATMが3台しかないのである。全てファクトVモデル10で、うち右側2台がIC対応となっていた。別に、ロビーにモデル10のガワを持つ記帳機があった。
 支店内はごった返していたが、店舗外ATMの方は支店の目の前に店舗外ATMが設置されているのは、ATM利用の客を誘導して支店の混雑を緩和するためだろう。支店の本体にキャッシュコーナーを増設することができなかったのではないか。似たような例は、あさひ銀行では都内の堀切・青戸・花畑など主に下町の支店でも見られた。いずれも支店の本体にATMが増設できず、隣接した場所に店舗外ATMを出したケースである。
 モータリゼーションの進んだ埼玉県内の支店にしては駐車場も非常に狭くて、10台ぐらいしか止められない。さすがに、支店の前にある有料駐車場が銀行の契約駐車場として開放されている。宮代支店は小さい支店なのかもしれないが、来店客の数からするとパンクしているようだ。
 宮代支店の制覇が終わった。ファクトVを使うと、カードローンの案内を「ご覧になりますか」という表示がいちいち出てくるのが非常にかったるく感じる。無借金主義の私はもちろん見ないので、「はい」と「いいえ」のボタンが出てくるのを待ち構えて直ちに「いいえ」を押してしまう。嫌な客である。
 宮代支店は1978年5月に埼玉銀行宮代支店として開設された比較的新しい店舗で、建物も当初のものがそのまま使用されている。

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2008年03月24日

2008.01.18(金)(5)久喜から動物公園へ

 次は「東武動物公園」に向かう。といっても行先は動物園ではなくて銀行である。
 久喜支店の旧所在地から駅前に戻ってきた。古めかしいものは駅前にもいくつか残っていて、駅前の「ココ一番屋」の隣には古めかしい木造の自転車預かり屋がある。駅前の自転車預かり屋は地方都市ならではかもしれない。公立の駐輪場も路線バスもない時代に、町のはずれから自転車で来て、この店に預けて電車で学校へ行ったわけである。
 久喜駅前にはかつて東海銀行の支店もあった。UFJになってから蓮田支店(旧東海銀)に統合されたが、どういうわけか、近隣に三菱東京UFJ銀行の店舗外ATMは見つからなかった。跡地はマンションになっていた(あとで調べたところでは、旧東海銀が東口に作った店舗外ATMが今も残っているようだ)。
 久喜駅に戻ると、「合併に関する市民意向調査のお知らせ」というポスターが貼られていた。久喜市役所が作ったものである。数年前、久喜市を含む3市町の合併構想があり、これは住民投票で否決されて破談になったのだが、またぞろ合併話が持ち上がっているようである。今度は久喜市と菖蒲町・栗橋町・鷲宮町という枠組みで、幸手市もそこに入りたがっているらしい。
 東武の改札手前にあるJR改札の電光表示を何気なく見た。私が今から乗ろうとしている東武伊勢崎線は、遅延しているという。新越谷で人身事故があって、今日は上り方向で遅れが生じているそうだ。私は今まさに東武伊勢崎線に乗ろうとしているのではないか。憮然としつつ改札を入って、上りホームにある立ち食いスタンドでチャーシューメンを食べた。600円と少し高いが、久喜駅ホームのラーメンは立ち食いとしてはうまい方だと思うので、久喜に来るとついつい駅のラーメンに手を出してしまう。ラーメンは何の変哲もないが、おばちゃんの愛想は良かった。
 食べている間に電車が入ってきた。14:06発、急行中央林間行き。オレンジ色の帯の入った東武鉄道の最新型車両である。この電車はこれから、はるばる100km近い距離を東急田園都市線の終点まで行くわけである。地下鉄乗り入れの電車が片道100km走るというのは関西では見られないが、「地下鉄」ということにこだわらなければ、阪神と山陽電鉄の直通特急あたりは梅田−姫路間で100kmぐらいあるのだろうか。
 東武の新型車両に乗る。車内には「借金の整理」「債務の相談」といった広告がたくさんあった。こうした広告は法律事務所や司法書士事務所などが出しているが、東急の車両にはこうした広告はまったく見られない。社会学的に、東武伊勢崎線沿線はブルーカラーの集結地帯であるそうだから、経済的に困窮した人がこの沿線にはやはり多いということなのだろう。でも、東武の車両には玉川高島屋(東京都世田谷区)の広告も出ている。田園都市線二子玉川駅前にあるこのデパートは、「超」のつく富裕層の御用達である。
 ラーメンを食べ終えて車中の人となる。車窓の風景は、一戸建ての住宅が遠くに固まって見えるものの、右も左も冬枯れの水田ばかりである。JRの沿線風景ですら、こんなに水田ばかりということはなかったのだが。大宮から北に延びるJRの2本の路線に乗ってみると、車窓の風景が高崎線と東北線とでは違っていて、東北線は北に進むに従って空き地の率が増してくる。そういうJR東北線沿線より、東武伊勢崎線沿線はさらに水田が多いのである。東武伊勢崎線は不便なことこの上ないが、むべなる哉といったところかもしれない。
 車窓の風景は水田ばかりだったが、和戸から少し住宅が増えだした。それでもやはり水田地帯である。左から日光線の線路が迫って来て、電車は大減速をしながら東武動物公園駅に滑り込んだ。ホームに停車する直前、南栗橋行きの東急の車両とすれ違った。東武動物公園、14:13着。
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2008年03月23日

2008.01.18(金)(4)久喜駅前出張所とサリアビル

 りそな銀行久喜駅前出張所は、1972年7月に大和銀行の久喜支店として開設されたのが始まりである。開設当初の支店は、現在の地名でいうと久喜市中央1-5-27にあって、現在武蔵野銀行の久喜支店があるのと同じ区画である。その後1990年12月になって、新築されたばかりの駅前再開発ビル「サリア」(久喜市中央1-1-20)に移転したが、2002年2月有人出張所に変更された。母店はこの時点で最も久喜に近接していた王子支店(東京都北区)。大和はかつて大宮市に大宮西口支店を持っていたが、1999年に統合済みで、久喜支店の再編には関係がなかった。
 あさひ銀行との合併に伴い、出張所の名前は2003年1月から「王子支店久喜出張所」から「王子中央支店久喜駅前出張所」に変わった。出張所と母店が両方とも名称変更されたためである。久喜駅前出張所は埼玉県に所在していたが、この店は旧大和銀行の店舗であるため、旧あさひ銀行の埼玉県内を継承する目的で新設された埼玉りそな銀行ではなく、りそな銀行に所属することになった。りそなになってから王子中央支店が王子支店に統合されたため「王子支店久喜駅前出張所」となったが、結局久喜駅前出張所は、2006年10月王子支店に統合されて消滅した。統合後、住宅ローン返済などの案内をするため、埼玉りそな銀行久喜支店内にテレビ電話のコーナーを設けているのは前述したとおりである。跡地の店舗外ATMは、りそな銀行としては設けていない。
 出張所のあったサリアビルは、久喜市の市街地再開発事業として整備され、1990年に商業ビルとして開店した。キーテナントは旧忠実屋(1994年ダイエーに合併)である。キーテナントだったダイエー久喜店は、ダイエーの経営再建の過程で2002年5月に閉鎖となり、その後は長いことキーテナント不在のまま2つの銀行(大和・みずほ)だけが営業を続けてきた。2007年2月、ビルの大部分を所有していたダイエーが不動産会社にビルを売却、不動産会社は自社の系列スーパー「ハナマサ」を開店させたが、私が訪れて1月も経たない2月12日に閉店した。ハナマサの営業期間はわずか半年間であったという。今後はビルそのものを解体して高層マンションに建て替える方向だそうだが、久喜市の玄関口に税金を使って建設した再開発ビルであり、形態や用途などについては一層の曲折が予想される。
 なお、りそな銀行では、久喜駅前出張所と同日に統合された直方支店(福岡県直方市)も、元ダイエーだった商業施設のビルに入っていた。九州の地場スーパーでダイエーに合併された「ユニード」の店舗だったところで、スーパーが閉店して銀行だけが営業していたのも久喜と同じである。直方については、もともと大和銀行があった場所を再開発してスーパーが入ったそうで、りそなも地権者の一つだったと思われる。というわけで、2006年10月に行われた2件の統合は、ダイエーとの共同物件でりそなが持ち分を手放しての統合だったと言えそうだ。

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2008年03月22日

2008.01.18(金)(3)久喜支店のルーツを探る

 支店の制覇が終わったので、現支店から直線距離にして100mほど西側にあった久喜支店の移転跡地に行ってみることにした。
 事前の調査によると、支店はかつて久喜市中央3-1-11にあった。これは、久喜駅の西側に広がる旧市街である。支店の前の道を西(厳密には西北西)の方向に歩いていく。ここがかつては久喜市のメインストリートだったはずだが、空き家となっている店が数多い。現在、メインストリートは、大和店舗のあったサリアビルから北西(こちらは本当に北西)に向かって延びる、だだっ広いが何もない再開発道路のほうである。
 支店から歩き始めて個人商店の多い道を進んでいくと、雑居ビルの1階に入った武蔵野銀行の久喜支店が右手にある。この角を左に曲がるとすぐに更地が右手にあって惑わされる。ここだっただろうか。いや、地図で見ると違うはずだ。左に回り込んだこの道沿いには、更地が多い。商店街の寂れ方は、空き店舗が多い状態から更地が多い状態へと進んでいく気がするから、この付近は相当に進んでしまったということになる。久喜町は江戸時代には米や木綿の交易地として栄え、明治期以降は東北本線と東武伊勢崎線の開通によって交通の要衝となった。久喜支店は中心市街地が衰退してしまったので駅前に移った、というのが真相のようである。
 左側に、寒梅酒造という古めかしい造り酒屋の工場があった。酒造会社の向かい側に、久喜市の「中央3丁目自由広場」というのがある。所番地の上からは、ここが旧あさひ銀行久喜支店跡地ということになる。社史の写真で見ると支店の駐車場は地下にあったようだが、見たところ埋め戻されて更地になっている。白線さえ引けばテニスコートが何面もできそうだが、そうなってはいなかった。

 久喜支店のルーツは、1898(明治31)年3月に設立された久喜銀行である。当初は順調に発展していたが、日露戦争の後1911(明治44)年に役員が相次いで辞任すると、取り付けが起こって大きな打撃を受けた。その後も経営は低空飛行を続けていたが、1927年3月の昭和金融恐慌では、当時埼玉県に影響力を持っていた中井銀行【注1】が休業し、そのあおりで久喜銀行はついに休業に追い込まれた。久喜銀行は1928年5月に昭和銀行【注2】に買収され、本店は同行杉戸支店久喜出張所となる。1931年7月、昭和銀行久喜出張所は母店の杉戸支店ともども忍町(現行田市)の忍商業銀行に営業譲渡され、新たに忍商業銀行の杉戸支店久喜出張所となった。1934年には支店に昇格、そして1943年7月の4行合同で忍商業銀行が埼玉銀行となった。それ以後、銀行名は協和埼玉→あさひ→埼玉りそなと変遷しているが、久喜支店は久喜支店のままで現在に至っている。1996年2月に三菱銀行久喜代理店の営業譲渡を受け、その後三菱店跡地に新築移転したのは前述のとおり。このほか、久喜駅東口にあったさくら銀行久喜支店(旧太陽神戸銀行、1976年開設)を1998年2月に譲り受けている。

 【注1】中井銀行:天保年間から幕末にかけて活躍した両替商の播磨屋(中井姓)が、1883(明治16)年に合名会社中井銀行に改組したもの。薬種商・染料商に基盤を持ち、埼玉県内では公金を扱うなど信用力が高かった。1923年の関東大震災で取引先の多くが被災したため弱体化し、昭和金融恐慌により1927.03.19休業(経営破綻)した。同年10月、本店(後のみずほ銀行室町支店:現存せず)内に昭和銀行を設立、1928.03.31昭和銀行に営業譲渡して解散した。
 【注2】昭和銀行:1927年の昭和金融恐慌で破綻した銀行の後始末として、同年10月に設立された。預金者と取引先を救済するため、破綻銀行の債権・債務を引き継いだもの。1928年6月までに休業6行(久喜銀行・中井銀行を含む)と営業中5行を引き継ぎ、1944年8月安田銀行(富士銀行を経て現みずほ銀行)に合併された。
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2008年03月21日

2008.01.18(金)(2)久喜支店

2008.01.18(金)

 G先生の墓がある埼玉県北葛飾郡栗橋町には栗橋支店があって、そこへ行くまでの間にももちろんいくつかの支店がある。今回は埼玉県の北東部、東武伊勢崎線と日光線とが分岐する東武動物公園駅の北側で大まかに計画を立てた。新宿から湘南新宿ライン1本で行ける久喜支店(久喜市)を皮切りに、宮代・杉戸・幸手の各支店、そして栗橋支店を制覇してから墓参り、という算段である。
 18日当日。夜なべ仕事をしているので、帰宅して寝て起きるともう昼である。新宿12:28発の湘南新宿ライン、快速宇都宮行きに乗ることができた。10両編成の電車は結構混雑していたが、かろうじて後方の車両のボックスシート進行左側に座席をとることができた。湘南新宿ラインのボックスシートは編成の南端にしかついていないから、ボックス席に座ったということは相当に後方(渋谷寄り)まで行ったということになる。
 新宿駅西口側に林立するビルの谷間に、エアコンメーカーのダイキンの広告が見えた。広告には温度計がつけられていて、それには4℃と表示されていた。相当に冷え込んでいる。南浦和付近では、保護者らしき人に連れられた小学生の大行列が見えた。今日は私立中学入試でもあったのだろうか、明らかに「お受験」のスタイルである。さいたま新都心では、新築されたビルが増えているのに驚いた。大宮を出て土呂まで来ると、一戸建て主体の住宅地である。JRの車庫がある東大宮を過ぎて蓮田まで来ると、街並みが一気に古びてきた。蓮田では、電車の窓からいきなり見える銀行は埼玉りそなではなく武蔵野銀行であった。
 電車が久喜に着いた。13:10着。隣りのホームに停まっている宇都宮行きの普通電車を横目で見ながら、エスカレーターを上がる。橋上駅舎を出ると、デッキが展望台のような形でロータリーを見下ろしている。ロータリーの中央には、「KUKI」の字の形に刈り込まれた植え込みがあった。
 この駅は、埼玉りそなの久喜支店があるのはもちろんだが、旧大和銀行の久喜支店だった、りそな銀行久喜駅前出張所(2006年10月統合)があった駅でもある。久喜は、りそな銀の旧大和店舗と埼玉りそなの店舗とが並立する唯一の地域であった。
 大和店舗の入っていた駅前の商業ビル「サリア」は、現在では空きビルとほぼ同じ状態である。2階は工事でもしているのか白い鉄板で覆われ、1階は「肉のハナマサ」になっていた。このビルではりそなの他にみずほ銀行(旧第一勧銀)が営業していたが、こちらはそのまま健在で、有人出張所だったのが最近支店に昇格している。りそな銀の出張所があった場所はビル1階の西側で、この場所は「店舗跡」のままになっていた。
 埼玉りそなの久喜支店が見える。正面全体がガラス張りで圧巻である。この建物は1997年9月に新築されたもので、あさひ銀行になってからの建物である。もともとこの場所には三菱銀行の久喜代理店があった。三菱の久喜代理店は1972年8月に久喜支店として開設され、その後代理店に変更されたという珍しい経緯をたどった店であったが、1996年2月あさひ銀行久喜支店に譲渡されて閉店した。あさひの支店は直線距離で西100mほどの旧市街にあったが、三菱の跡地に新築移転したのである。
 写真をパチパチと撮ってから、埼玉りそなの支店に入る。りそな銀行式の総合受付があるが、天井から下がっている「総合受付」の円筒形の看板は、埼玉りそな銀行ゆえ緑色であった(りそな銀行では白地に緑文字となっている)。
 埼玉りそなはコールセンター直結のテレビ電話ブースを主な支店に設置しているが、久喜支店には、埼玉りそなのテレビ電話システムだけでなく、りそな銀行のテレビ電話のコーナーもあった。このテレビ電話は、久喜駅前出張所の統合先であるりそな銀行王子支店につながっていて、旧久喜駅前の口座ホルダーを相手に住宅ローンの返済などのやりとりをするためのものだという。りそな銀行の口座の新規開設ができたりするわけではないらしい。
 久喜支店の制覇作業(預金取引)が終わった。ATMは富士通ファクトVのモデル10が10台、それに記帳機と両替機という構成であった。

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2008年03月20日

2008.01.18(金)(1)プロローグ 人命の重さと意味を考える

りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える

 毎年1月中旬、私には、忙しい日常生活の中で「人の命」の重さと意味を考える日が2つある。「1.17」と「1.19」である。
 「1.17」は、阪神・淡路大震災である。1995年1月17日早朝に関西地区を襲った大地震。私はこの地震で亡くした直接の知人はいないものの、買ったばかりのマンションが被災して資産価値ゼロの憂き目に遭った知人はいるし、また「友人の友人」で既に自宅を失った人がいるから、他人事ではない。
 地震のあった朝のことは、ほとんど覚えていない。朝「フツーに」起きてテレビをつけたところ、地震のニュースをやっていて「ふーん」という感じ。そしてそのまま当時のアルバイト先に出勤したところ、結構大きな地震らしいと興味本位の話題になっていた。バイト先の某「先輩」(先に生まれたヤカラ、の意味)が、この話題で異様に楽しそうにはしゃいでいたのが印象に残っている。
 被災された方には申し訳ないが、震災当日朝の東京はこんな呑気な様子であった。もっとも、地震当日に村山富市首相が初めて記者会見を行ったのが地震発生の10時間後であるから、われわれ一般庶民がその深刻さを知るにはもっと時間がかかるわけだ。この地震が本当に深刻だったと私が身にしみて知ったのは、友人を訪ねて3月下旬に現地を訪れ、一見平屋建てのように見える家が実は「1階がつぶれたため」であるのを目の当たりにした時のことであった。

 2日後の「1.19」。この日は、私が世話になっていた師匠の命日である。私のハンドルネーム「為栗裕雅」の「雅」の1字を勝手にいただいているG先生は、某大手予備校の地理科主任で、生きていれば2008年3月18日に還暦を迎えられるはずであった。逝去が1992年1月19日であるから、今年でもう16年が過ぎた。月日の経つのは本当に早いものである。
 私は「仮面浪人」(大学Aに在籍しながら大学Bを目指す)の経験者である。当時、両親をはじめ周囲の大人たち全てが仮面浪人に反対した中で、師匠(とその周囲)だけが応援してくれた。最終的に私は大学のチェンジに成功できたのだが、私の仮面浪人ライフを物心両面から(特に心の領域で)支えて下さった師匠は、私の合格を知ることなく亡くなったのである。あの時G先生なかりせば、との思いは今も強く持っている。というわけで、G先生が1992年に亡くなった後、私は毎年、命日に合わせて時間を作り、墓参りに行っている。
 果たして私は、誰かにとって、この師匠ほどに大切な人たり得ているだろうか。と、そこまでお世話した人がいない私に自問する資格はないだろう。

 さて、今年も1月19日がやってくる。ここ数年、スケジュールの関係から、命日の1月19日その日に墓参に行くことはなくなっている。今年も19日は都合が悪かったので、今回は1日前倒しで師匠の墓参りに行くことにした。G先生は、JR東北本線と東武日光線とが交差する埼玉県北東部の旧宿場町、栗橋町のはずれにある寺の墓地で眠っている。当然これを機に、私は埼玉県内で埼玉りそなめぐりを行うのであった。

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2008年03月18日

新連載「りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える」のお知らせ

 当ブログ「MEGU」で、3月20日(木)から新連載を開始します。
 本連載は、1月18日に埼玉県東北部の埼玉りそな銀行5店舗をハシゴした体験記です。今回は400字詰原稿用紙で60枚程度、11回とコンパクトな連載で、あとがきも含め3月一杯で完結します。
 例によって、1日1本のペースでダラダラと掲載していきます。多少の脱線もありますが、最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える

 新連載「りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える」のお知らせ(2008.03.18)

 2008.01.18(金)
  1 プロローグ 人命の重さと意味を考える
  2 久喜支店
  3 久喜支店のルーツを探る
  4 久喜駅前出張所とサリアビル
  5 久喜から動物公園へ
  6 宮代支店
  7 杉戸支店
  8 拓銀杉戸支店のこと
  9 幸手支店
  10 とても長かった2駅
  11 栗橋支店、そしてテラへ
 あとがき
(タイトルは仮題です)
posted by 為栗 裕雅 at 19:06| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 告知板 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
カテゴリ一覧(過去の連載など)
大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇(54)
単発(12)
告知板(24)
銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇(29)
りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く(43)
りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅(57)
りそめぐ2008秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる 東武伊勢崎線・野田線沿線17店舗の制覇(51)
りそめぐ2009初秋 りそな銀千葉県内12店舗完全制覇(35)
りそめぐ2008夏 りそな銀東京都世田谷区4店舗完全制覇(8)
りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた(18)
りそめぐ2008秋 太平洋は青かった 茨城→北海道750km大移動/銀行めぐ2008秋 札幌市内4行4店舗完全制覇(20)
りそめぐ2008初秋 湘南セプテンバーストーリー(11)
りそめぐ2008冬 銀河に乗って知事選たけなわの大阪府へ(47)
りそめぐ2008夏 「近畿大阪めぐ」スタート記念 片町線・京阪線沿線25店完全制覇(51)
りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿(60)
りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える(12)
りそめぐ2007秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる(35)
2007年7月 りそな関西地区支店昇格5店完全制覇+α(43)
あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇(34)
2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)