2008年09月30日

2007.11.27(火)(9)伊丹支店

 三井住友銀行の支店の前には、同行の店舗外ATMが(支店とは別に)設置されていた。おそらく、伊丹支店の店内にキャッシュコーナーを増設できず、店の近隣に店舗外のATMだけ出したのだろう。似たような例はりそなでも何か所か見ることができる。
 さらに西に進んだところが伊丹シティホテルで、かつては伊丹第一ホテルといった。この近所の商店街に、かつてあさひ伊丹支店の店舗外ATM[第一ホテル前]があって、「あさめぐ」の時代に行ったことがある。商店街は歩道上にアーケードをかぶせた形になっていて、ホテルの前から始まっている。あさひのATMがあったところは現在では時計屋になっているようだ。
 伊丹のこのあたりの商店街は、そこそこ通行人の数も多いようで賑わっている。この商店街を抜けた先に阪急伊丹線の高架があり、阪急伊丹駅は右側である。阪神・淡路大震災での有名な映像に、3階のホームに停まっていた電車がビルの2階に落ち込んでいる様子があったが、これは阪急伊丹駅が崩壊した映像であった。もちろん今は復旧している。りそなの支店は、復旧した阪急のガードを抜けた先である。みずほ銀行とりそなの看板が見えた。りそなの手前はみずほ銀行の伊丹支店(旧第一勧銀)である。
 さて、旧あさひの伊丹支店は、以前来た時には新しくてピカピカの印象があったのだが、10年が経過してショボくなってしまったのか、建物が古びていると感じた。念のため、銀行建築で古いというと、昭和初期とかそういうイメージになってしまうが、ここが建てられたのは1971年のことである。いちおう店内は割合最近(といってもあさひ銀行時代)に改装されたらしい。旧あさひ店舗特有のパイプを縦に並べたようなデザインの内装は、機械一台一台を置くスペースが狭く、枠内にATMを1台置いただけでいっぱいになってしまうだけの幅しかなかったからだ。阪神大震災で被災したためだろうか。ATMは5台あって、富士通ファクトVモデル20が2台、ファクトAが2台、そして旧伊丹北支店の分としてオムロンJX白が1台という構成であった。
 伊丹支店は結構混んでいた。理由がよくわからないが、昼休みだからなのだろうか。私の前には7〜8人並んでいた。待っていると後ろから背中をつつかれた。何だろうと思ったら、前があいていたのである(念のため、「社会の窓」の話ではない)。恥ずかしい思いをしてしまった。12:39、伊丹支店の制覇が終了した。
 前述のとおり、伊丹支店は旧あさひ銀行の店舗である。もとをたどると日本相互貯蓄銀行(本店大阪市)の伊丹出張所として1926年5月に開設されたもので、1940年10月に支店に昇格した。1945年の9行合併により日本貯蓄銀行が誕生すると、支店はそのまま新銀行の伊丹支店となった。1956年の新築移転を経て、現在の店舗は1971年5月に新築されたもの。1995年の阪神・淡路大震災で、たとえば近所の阪急伊丹駅などは大きな被害を受けており、あさひ伊丹支店も被災や仮店舗移転などがあったのではないかと思われる。

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2008年09月29日

2007.11.27(火)(8)新しきと古きとが並立する伊丹の町

 川西池田12:08発の普通高槻行きに乗車し、5分で伊丹に到着した。
 改札を出て右側正面は、イオンモール伊丹テラスというショッピングセンターである。伊丹のJR側はどちらかといえば寂しい側だったはずだが、こんなものがいつの間にかできていたことに少し驚いた。2002年10月に「ダイヤモンドシティ・テラス」としてオープンしたが、運営会社のダイヤモンドシティが合併したため2007年に改称。割合に短期間で名前が変わっている。
 りそなの伊丹支店は阪急伊丹駅の先(西側)で、JR伊丹駅から阪急方面へは改札を出て左。西口から駅の南側に回り、通りをまっすぐ行ったところが阪急伊丹駅である。
 JR伊丹駅の橋上駅舎は、右へ行くとイオンモールの入口。左はデッキになっているのだが、地形の関係から「史跡有岡城跡」と書いてある石垣の上に直結していて、そこから地平に降りる形になっている。ここは線路の東側を流れる猪名川の河岸段丘面なのか、川を中心とした階段状の地形になっているようだ。城跡から階段を下りてくるとタクシー乗り場になっていて、私が歩道を歩いていると黙ってドアを開けてくれた。タクシーに乗るつもりはないのでそのまま通り過ぎた。
 JR伊丹駅の周りには、マンションがドカドカと建ち並びつつある。その中の一つに十三信金の伊丹支店が入っていた。十三信金の入るマンションの1階は商店になっていて、信金のほか不動産屋や画廊(?)、古本屋のような書店がある。「ARIO」という名前のビルだが、これはイトーヨーカ堂がやっているショッピングセンターとは関係なさそうだ。
 駅から市街地に向かって右側、通りに面したところに古い建物がある。酒蔵か何かだろうか。「灘五郷」などと言われる酒造会社がこのあたりにまで勢力範囲を延ばしてきていて、伊丹は確か何とかいう有名な酒造会社の本拠地である。このあたりの街並みは、表に面したところは案外新しいものの、1軒内側に入ると古い木造建築が残っているとか、もっと奥には土蔵が残っているとかで、結構古い町並みである。伊丹のりそなは旧あさひ店舗で、貯蓄銀行の時代からあるわけだから、伊丹は町としては古いのである。
 「伊丹郵便局前」という交差点まで来た。県道13号と交わるこの交差点の北東角には白壁の瓦ぶきの塀がダーッと続いているが、「小西酒造万歳蔵諸工事」とある更地になっている。南西角が伊丹郵便局、北西角が三井住友銀行の伊丹支店(旧さくら銀、使用店舗は旧住友銀)で、三井住友の北隣が播州信金の伊丹支店である。その背後に見える、木造の立派な門が付いた大きな建物は市役所だろう。ともあれ、伊丹市の中心部までやってきた。
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2008年09月28日

2007.11.27(火)(7)京銀に驚いた川西池田

 そのフォルクスで昼飯にした。サラダバーとご飯のおかわり自由で1000円。満腹にはなったが、ランチで1000円というのは相当にブルジョアジーの食事である。しかし、たとえばすかいらーく系のファミレスで昼飯を食った場合はライスの大盛が無料になるだけだし、サラダは別に頼まなければついてこない。こう考えると、1000円で食い放題というのはそれなりに良いと思ったりもする。
 フォルクスのすぐ南側の角にある公園を斜めに横切って、鼓ヶ滝の駅に向かう。駅間が短いので、あっという間にもう次の駅である。鼓ヶ滝駅の近辺には、さっきの多田と同じような感じでビルが数軒建っているが、農村風景の残滓が少々ある多田とは違い、少し開けた新興住宅地という感じの駅になっている。鼓ヶ滝の駅は踏切を越えた東側である。感じとしてはさっきの多田と同じような小さな駅だが、この駅には地下道がある。多田は構内踏切だった。11:52発の川西能勢口行きに乗車、ダイヤ上は11:59に川西能勢口に到着した。

 予定では次は仁川出張所(宝塚市)へ行くつもりだったが、能勢電の車内で考えをめぐらせた結果、効率が悪そうなのであっさり予定変更し、JRで伊丹へ向かってしまうことにした。伊丹へは、川西能勢口駅の南側に隣接するJR川西池田駅から福知山線で一本である。伊丹には旧あさひ銀行の伊丹支店があり、また旧大和銀行店舗だった伊丹北支店の跡もある。
 改札を出て線路の南側に抜け、連絡通路を通ってJR川西池田に向かう。ジャスコの古いスーパーを左に見つつ川西阪急の建物を通り抜けると、そこからまた長いペデストリアンデッキが延びている。とにかく、長い長い歩道橋が続いているという感じである。川西阪急からさらに南西方向に進み、途中で1回かっくんと右に折れて、その折れた先に雑居ビルのようなものがある。その向こうにようやく「JR川西池田駅」という文字が見える。ここはこんなに乗り換えが不便だったかな、と思った。
 この連絡通路の途中にあった雑居ビルには驚かされた。このビルには京都銀行が支店を出しているのである。京銀の川西支店は10月に開店したばかりだというが、川西市と京都府とのつながりはどのくらい濃密なのだろうか。京銀は2000年からの8年間に31店も新規出店したそうだが、この出店ペースは私がかつて勤めた塾を見ているようで、正直心配にならなくもない。私が以前勤めていた学習塾某社は、毎年10校舎以上の新規開校をしていた。それは、既設の校舎が生徒数や売り上げの点で横ばいないしジリ貧の状態にあり、それをカバーするために地域を飛び出したり新業態を開拓したりして「売上高」を増大させないといけなかったからだ。つまり、拡大再生産をやめると直ちに自転車操業が破綻を来すのである。京銀は任天堂や京セラなど地元大企業の株式を多く持ち、巨額の含み益を誇るから、少々損失を出しても破綻することはないのだろうと思う。それでも私は、以上のような理由から、出店ペースが速い企業に対してどうしても警戒心を抱いてしまう。
 さて、JRの駅と京銀の建物との間はバスターミナルになっているのだが、その片隅に、馬に乗って鎧を着た武将の銅像がある。馬は前脚を上げており、おそらくヒヒーンと言っているのだろう。いちおう「清和源氏発祥の地川西」というプレートがあって、源氏の祖・源満仲の銅像だそうだ。さっき思考に上った「清和台」の語源なのだろう。歴史の話題は私には全然ピンと来ない。
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2008年09月27日

2007.11.27(火)(6)イズミヤ多田店出張所跡

 ふと思った。関西の人に進物として泉屋のクッキーを持って行くと、どんな顔をして受け取るのだろうか。東京では泉屋は説明の必要もなく高級クッキーだけれども、関西では「イズミヤいうてもスーパーで買うてきたんとちゃいまっせ」といちいち言わなければならないからだ。
 と、つまらぬ冗談をかましつつ、2006年12月に川西北支店に統合された有人出張所、イズミヤ多田店出張所の跡地へ行ってみることにした。現在ここには同名の店舗外ATMが稼働しているが、ATMコーナーの枠などはおそらく有人出張所時代のものをそのまま使っているはずである。
 イズミヤ多田店出張所は、名前のとおり、イズミヤというスーパーの多田店の中にあった。イズミヤは大阪市西成区に本社を置き、関西圏を中心に店舗網を広げる大手スーパーである。多田店は1973年12月に開店し、最近大規模な改装工事を行ったらしい。
 イズミヤ多田店は、能勢電多田駅と鼓ヶ滝駅との中間地点にある。川西北支店から車で5分もかからない場所だが、公共交通機関を使って行こうとすると、平野の駅まで戻って電車で行くしかない。この付近のバス路線はすべて平野どまりで、乗客を電車に誘導しようという阪急グループの意向が路線設定からありありとうかがえる。
 平野10:58発の川西能勢口行きに乗車。川西能勢口方向に1駅だけ戻って、多田には11時ジャストに着いた。多田駅は複線線路の両側に方向別のホームがへばりついた、対向式ホームの小さな無人駅である。構内踏切を渡った先にこぢんまりした駅舎が建っていて、自動改札と券売機だけがある。駅名のタダは、イントネーションとしては上→下が正しいのだろうか。
 駅前に出ると、壁をトタンで覆った旧農家のような建物がある。トタンの下は恐らく古い木造建築だろう。一方で駅前には雑居ビルが何軒か建ち並んでいる。農村地帯がそのまま残っていて、なおかつ高度成長期の後に開発が進んだような、雑多な景観である。駅近くにはタダ神社というのが2つあるようで、「多くて太い」多太神社が駅の北方0.8km、「多い田んぼ」の多田神社が駅の西方1.2kmとあった。
 駅前から国道173号線に出てきた。この辺に来ると典型的な「ファスト風土」であった。国道東側の歩道を南に向かって歩く。通りの向こうに三井住友銀行の店舗外ATMが見える。バス停に遭遇したが、池田行きが日曜祝日に限り1日1本あるだけだ。とにかくこのあたりは、ファミレスがあったり、餃子の王将もロードサイド型の大型店になっていたりする。典型的な車社会の町なのだろう。個人的な感想だが、りそなはイズミヤ多田店出張所を閉めるより、逆にイズミヤの店内に川西北支店を持って行った方がよかったのではないだろうか。あるいは、緑台のさらに奥にある清和台へ持っていくか。清和台は新しいショッピングセンター「グリーンモール」をはじめとして商業施設が整いつつある。もっとも、どちらも他の銀行がしっかり店を出してしまっているのだが。
 とにかく、国道を南に歩いて行くと左にイズミヤがある。前述のとおり、イズミヤのある場所は多田駅と鼓ヶ滝駅との中間地点である。この付近は駅間が結構近接している。平野のバスターミナルから橋上駅舎に向かう連絡橋を通った時、遠くにローソンが見えた。実は、そのローソンは多田駅前にあるのだ。だから、歩道橋から隣の駅が見えてしまうのである。1駅電車に乗ってきたが、歩いて来てもよかったくらいであった。
 ほどなく、角にあるガソリンスタンドの看板の向こうに、イズミヤの太陽のマークが見えた。ヒマワリの花だと思っていたが、正しくは「太陽」だそうである。正方形の枠に花を大きくあしらい、花弁が白で、花芯は赤丸。真四角のマークのうち右半分がオレンジ色で左半分が黄緑という、何とも言えない配色である。イズミヤ多田店前では池田銀行多田支店が現在も営業中であった。
 11:11、イズミヤ多田店出張所跡の写真撮影が終わった。出張所跡はATMの枠だけ以前のとおりで、窓口室とを隔てるシャッターがあったところは壁にしてしまっている。店建物の奥寄りにあった窓口室は美容院になっており、「インストアプラザ」の看板だったものを、プレートだけ付け替えて美容室の看板として使っている。営業店の統合跡としては、比較的痕跡が残っている方だろう。

 川西北支店を中心とした川西市多田地区のりそな銀行は、複雑な経緯をたどっている。そもそもは1980年12月、旧大和銀行が現在の川西北支店の位置に「多田支店」を開設したのが始まりである。話が複雑になってきたのは、東海銀行が川西支店【注】を大和に譲渡した1994年5月。大和は、譲り受けた東海の支店を「川西北支店」として、1994年5月6日から営業を始めた。店舗は、イズミヤ多田店から300mほど南に位置するダイエー川西店の向かい、現在ステーキレストラン「フォルクス」となっている場所であったようだ。同月23日には、多田支店の店舗種類を変更し「川西北支店多田出張所」としている。
 2002年7月、川西北支店は多田出張所の店舗(川西市緑台2丁目)に移転し、同時に多田出張所を統合した。要するに、多田出張所の場所を川西北支店としたわけである。この動きと同時に、旧所在地の至近にあるイズミヤ多田店内に、有人出張所「イズミヤ多田店出張所」を新設した。この出張所は、当時大和銀が積極的に出店を進めていたインストアブランチの一つである。イズミヤ多田店出張所はその後2006年12月統合(店舗外ATMに変更)されており、この付近の店舗網は1980年12月当時と同水準に戻ってしまった。

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【注】東海銀行川西支店:1974.06.26開設、1994.05.06大和銀行に営業譲渡され同行川西北支店となる。
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2008年09月26日

2007.11.27(火)(5)川西北支店

 紅葉で色づいている周りの山々には、少しだけ竹藪もあったりするようだ。竹は保水力がないため、雑木林に生えてくるのはあまり良くないと聞いたことがある。山々の色彩は、関西独特というか里山独特というか、色とりどりである。緑のままの木もあれば、茶色くなっている木あり、赤い木あり。雑木林の紅葉なのである。ただ、相当に標高の高いところまで開発されて禿山になっていて、やはりここは大阪の通勤圏なのだと思った。
 やっと坂を上がりきったあたりから、団地が始まった。りそな銀行川西北支店は、団地の商店街をある程度進んだところの左側である。団地の雰囲気としては、同年7月に行った押部谷(神戸市西区)のようなひな壇ではあるのだが、一戸建て住宅の外観に統一感があまり感じられないことと、個人商店が多少みられるということで、これは70年代の団地であると思う。押部谷出張所のある桜が丘の団地より開発時期が少しだけ古いようだ。
 川西緑台郵便局から数十m上がったところの左側、坂のてっぺんの下に「貝殻公園」というのがあって、サザエの殻の形をした滑り台がある。サザエの口が本当に滑り台の出口になっていて、なかなか考えて作ってあると思った。この先にはタコの形をした滑り台がある「タコ公園」もあった。児童公園にあるコンクリート製の滑り台は規格品ではなく一つ一つ手作りだったそうで、研究しているwebサイトを見ると一つ一つ形態に差があるようで興味をそそられる。最近は少子化が進んでいるから、団地に児童公園そのものがさほど作られなくなっているのではないか。この団地には公園がたくさんあるようだが、それは団地としては古いということを意味するから、この団地はこれから先だんだんと高齢化が進んでくるのだと思う。
 駅からの坂道を上がりきる寸前から「多田グリーンハイツ商店街」というのが続いている。商店街は道の左(南)側だけで、反対側にはない。店の数としては20軒ぐらい並んでいるだろうか。商店街にたどり着くまでの途中にあった個人商店には、自店で焼いているパン屋などがあって、そういう店はそれなりに盛業中であったのだが、アーケード街はシャッターを下ろしている店が2/3ほどもある。この団地では商業がもはや成り立っていないのだろう。
 10:36、りそな銀行川西北支店に到着した。のっぺりとした外観の店が多い旧大和銀行の他の店舗と異なり、洋館風の少し小じゃれた外観になっている。この支店は、平野駅から続く「大通り」と「学園通り」とが交差する角にある。交差しているというか、学園通りはこの交差点から北側ということらしい。「学園」は、平野大通りから坂道を上ったところにある県立川西緑台高校を指している。この学校は有名な進学校だそうだ。
 店内に入ると、ATMの台数は4台。左から2番目だけがリーダスAK-1、あとはオムロンJXの白が3台であった。その右側に両替機がある。制覇作業を行った。
 住人には失礼かもしれないが、この団地は、現状では単に「商店街がある古いニュータウン」という形で終わってしまっていると思う。駅から1往復した限りにおいての感想だが、川西北支店には数年のうちに何らかの動きがあるのではないだろうか。

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2008年09月25日

2007.11.27(火)(4)能勢電で平野へ

 次の目的地は、川西北支店である。
 時刻は10時近い。実は昨夜、宿に入る前に、待ち合わせ相手のお宅でパソコンを借りてダイヤを検索し、大まかに27日のスケジューリングをしていた。それによると三田の出発は8時過ぎで、10時の時点ではすでに川西北支店の制覇まで終わっているはずなのである。私は寝付きも寝起きも悪い人間で、昨夜遅かったこともあって、今朝は三田の出発も小一時間遅れてしまった。それで、プランの「遵守」は一日の最初の時点からどうでもよくなってしまったのであった。
 川西北支店は川西能勢口から奥へ入る能勢電鉄の沿線にあって、能勢口から6つ目の平野(ひらの)という駅が最寄りである。能勢電はもともと能勢妙見(大阪府豊能郡能勢町)の参詣客輸送を目的とした電車で、かつては路面電車に近い軌道線だったが、現在では沿線開発が進み、阪急梅田から直通特急電車が乗り入れてくるまでになっている。
 能勢電の乗り場は、阪急川西能勢口駅の4号線である。車両も阪急の中古を使っていて、一時独自の塗装を施していたものの、最近では阪急と同じマルーン一色になっているから、阪急の一ローカル支線のようなものである。
 川西能勢口10:04発の妙見口行きに乗る。川西能勢口を出てちょっとの間は住宅地の真ん中を走るが、能勢口の高架を降りてすぐ、2つ目の滝山から地形が険しくなって山に分け入っていく感じになり、鼓ヶ滝の手前でとうとう山岳トンネルに入る。それを過ぎ、さらに坂を上って平野にたどり着くわけである。もと軌道線だっただけに、線路は曲がりくねっている。平野までわずか10分ほどの乗車時間だが、能勢電の車窓風景は変化に富んでいて、何回乗っても味わいがある。
 10:15、平野駅に着いた。平野は、大手私鉄の駅を見慣れた目には「普通の駅」と見えたが、もちろん能勢電としては極めて大規模な駅ということになるだろう。能勢電にはホームの端っこに形式的に自動改札が付いているだけの小さな無人駅が多いのだが、平野は橋上駅舎になっていて駅員がおり、自動改札機も6台備え付けられている。車庫もあるし、沿線では乗客が多い駅の一つだろう。車庫には能勢電の本社が隣接している。
 平野駅の橋上駅舎を出ると、線路沿いの川と国道173号線とをひとまとめにまたぐ連絡橋で、そこから共立温泉病院というのが目の前に壁のようにそびえ建っている。病院の背後は山、別の方向に目を移してもまた山で、この付近は結構な山間部である。今の時期だいぶ紅葉が進み、病室からの眺めは格別かもしれない。もちろん、だからといって入院したいとは思わないが。
 連絡橋はかなり複雑な構造をしていて、詳細に見ると結構面白い。173号線をまたいだところがそのまま高台の上で、そこは阪急バスの平野バスターミナルになっている。バスターミナルの長いバスホームを端から端まで歩いていくと、川西北支店のある「多田グリーンハイツ」に向かう道路にそのまま出るから、アプローチ道路までのアップダウンは駅からはほとんどない。しかし、バスターミナルを出てからは結構な急坂であって、長い上り坂が2車線でずっと続いている。
 平野駅は能勢電としては大規模な作りだが、阪急の一支線という位置づけにしては少しショボいという印象もある。バスターミナルにしても、駅に寄った場所でもう少し大規模な造成工事をやってもよかったのではないか。そういうところを、ここは比較的安くあげているという印象がある。大阪市内からだと川西能勢口まででも結構時間がかかるうえ、さらに能勢電に乗り換えるとなると、相当に心理的負担が大きくなるのだろう。ここは「安い住宅地」のようだから、無理はないかもしれない。
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2008年09月24日

2007.11.27(火)(3)川西支店

 宝塚市内をほとんど歩いてもいないのを「封印」という便利な言葉でごまかしつつ、先を急ぐ。阪急宝塚線に乗り換えて向かう先は、川西市の玄関口・川西能勢口である。
 阪急宝塚09:30発の急行梅田行きに乗車、川西能勢口には13分で到着した。急行といっても、宝塚から豊中までは各駅に停車する。
 阪急の改札を出てそのまま表に出ると、そこは駅の北口である。りそな銀行川西支店は、駅前にそびえる複合ビルの1階に入っている。建物には「モザイクボックス」という名前が付いている。水色とベージュのパステルカラー2色による外装で、新建材というのか多様な建材を駆使して作られている。16階建てで、下5階までが商業施設、そこから上はマンションのようである。左隣には西友が見える。
 阪急宝塚線、それからJRも宝塚線と呼ばせたいようだが福知山線の沿線は、開発が進んできていることの証なのか、こうした高層建築が増えてきている。昨日から大阪周辺を歩き回って感じていることだが、住宅が密集しているけれども高層建築が少ないという意味で、関西エリアの町は平べったい。高層建築が再開発の手段としてベストかどうかは意見が分かれると思うが、少なくとも高層建築がドカドカと建ち並び始めている地区は、経済学的には活気があるということなのだ、というのがわかった。但し、旧大和銀行の店舗はこういう新しい建物ばかりで、かつ「駅からの至近距離」ということを徹底的に追求した店が多く、率直に言うとちょっと物足りない。ソフィスティケートしすぎ、というのが多分あると思う。
 09:51、川西支店を制覇した。機械はATM7台+両替機である。ATMはオムロンJXの白台ばかりで、左から2台目だけがJXより新しいリーダスAK-1となっていた。川西支店は、1971年8月に川西市役所南側の川西市中央町3-5に開設され、1979年11月中央町8-8に移転、「モザイクボックス」内の現店舗(栄町11-1)には1996年4月に移ってきた。
 蛇足ながら、旧所在地だった「川西市役所西」交差点には、かつてあさひ銀行の川西支店もあった。協和銀行が1970年10月に開設したものだが、1998年1月さくら銀行川西支店に営業譲渡されて閉店している。あさひ川西支店には「あさめぐ」時代の1997年12月に訪れているが、年末の夕暮れ、建物に夕陽が反射して金色に輝いていた(ように見えた)のを今でも覚えている。

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2008年09月23日

2007.11.27(火)(2)封印された宝塚

 三田の次は、同じ兵庫県内の川西市に向かう。
 川西は三田と同じJR福知山線沿線の都市で、りそな銀行は同市内に川西・川西北と二つの支店を構えている。今日は、昨年末から続く「兵庫県内完全制覇」の一環として両方の支店に行く。
 最寄りの川西池田は、快速なら三田から2つ目の停車駅である。しかし今回、私はあえて1つ目の宝塚で降りてしまうことにした。理由は2つ。りそなが2007年3月1日に新規開設したという川西支店宝塚出張所のある「街の様子」を見たいということ。そしてこちらの方がより私らしいとも言えるが、今日も「スルKAN2day」をフル使用するため、手前の宝塚で降りて阪急電車に乗り換えた方がJRの運賃が安くあがるということであった。
 本日初めて利用するJR三田駅は、昨日降りた神戸電鉄三田駅の真ん前にあって、ここ四半世紀ほどの間に福知山線が大発展したことを裏付けるように、真新しい橋上駅舎になっていた。09:04発の快速放出行きに乗り、宝塚には09:16到着。ここで阪急宝塚線に乗り換えがてら、宝塚の街をほんの少しだけ垣間見る。
 JR宝塚駅は、さっき乗った三田の駅とは異なり、ディーゼル機関車が旧型客車を引っ張っていた非電化ローカル線だった時代の名残を引きずっている。JR宝塚駅の跨線橋は仮設のものになっていて、駅舎改良計画が進行中のようである。美しく改装された阪急の駅は、JRの駅を出た目の前にあり、そこへの移動は長い連絡通路を歩かされる。駅ができた頃には双方の乗り継ぎは全く意識されていなかったのだろう。2005年4月に起きた尼崎駅手前の脱線事故で福知山線が長期間運休となり、三田・篠山口方面から大阪方面へは、この駅で乗り換えを強いられていた。
 連絡通路から、JR宝塚駅の向こう側が少し見えた。宝塚歌劇団をはじめとするハイソなイメージがついてまわる宝塚市だが、JRの北側にはごく普通の古い商店街(旧市街)が広がっているようである。

 りそなが2007年3月1日付で新設した宝塚出張所は、「ローンプラザ」といって、住宅ローンなど個人向けの融資業務のみを扱う出張所である。預金業務を扱わないから、預金の出し入れをして通帳に店名を記帳することはできない。駅から近いところにあれば、せっかく来たので写真の1枚ぐらいは撮っておくところであるが、宝塚に関しては宝塚駅から遠いことが分かっている【注】ので、今回立ち寄るつもりはない。
 りそなの最近の新規開設店舗のうち、半分は、こうした預金を扱わない相談業務のみの軽量化店舗である。めぐラーとしては、「制覇」のできないこうした店舗は面白くない。仮に預金業務を積極的には扱わないとしても、窓口端末を置いて処理を可能にするぐらいはできないのだろうか。素人目には、パソコンにソフトを追加して、通帳の読み取り・印字装置を追加するだけのように見えるのだが。とはいえ、こうした店を機動的に出しておいて、顧客が増えてきたら(宝塚で言うと駅前の再開発ができた頃?)今ある「ローンプラザ」を「パーソナルステーション」に転換して、新たに定期預金も扱って、といった構想ではないだろうか。福知山線沿線を重点的に開拓するのであれば、宝塚は拠点として欠かせないところだろう。一めぐラーとしては、宝塚に新たな「めぐ」目標ができることを強く期待している。その日まで、宝塚市内の徘徊レポートは封印しておくことにしよう。

 ここまでの執筆をある程度進めていた2008年2月28日。りそな銀行は、川西支店宝塚出張所を川西支店に統合すると発表した。統合は3月17日付。開設からわずか1年ポッキリでの統合は、統合9日後の3月26日に、同じ阪急宝塚線沿線の池田市に出張所を新規開設するためであろう。つまりは配置換えのようなものだが、まさにこうしたことを行うのが「機動的」な店舗展開ということなのである。しかし、さすがの私も、開設後わずか1年で統合されてしまうとは露思わなかった。阪急宝塚線にどのくらいポテンシャルがあるかは知らないが、JR福知山線沿線でのドミナント化ということを考えると、宝塚は押さえておきたい駅ではないのだろうか。
 ともあれ、私の宝塚訪問は、りそなが再び宝塚に出店するまでお預けになりそうである。それは果たしていつになるだろうか。

【注】宝塚出張所:宝塚市栄町1-7-7(宝塚ファミリーランド跡地)にあった。最寄り駅は阪急今津線宝塚南口駅。
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2008年09月22日

2007.11.27(火)(1)朝一番は三田支店

2007.11.27(火)

 兵庫県三田市の夜が明けた。
 泊まった宿は、夕べの待ち合わせ相手が紹介してくれたビジネスホテルであった。彼には「(自宅に)お泊りいただいてもかまいません」と言ってもらったのだが、直接会うのが初めてだった人であり、そういう方の家にいきなり泊めてもらうのはご遠慮申し上げた。当HP開設直後に起きたトラブルがいまだトラウマになっていて、ネット上で知り合った人とのコミュニケーションにはいまひとつ積極的になれないでいる、という事情もあった。とはいえ、次回兵庫県方面に行く際には「是非泊まりがけでお邪魔したい」と約束した。
 朝食は、ホテルの食堂でトーストとコーヒーであった。私にはパン食の習慣はないが、焼きたてのトーストなどたまにかじると美味いと感じる。蛇足ながら、食堂があるということは、このホテルはラブホテルではない。ビジネスホテルとして認可されたホテルをラブホテルに転用する際には、食堂を待合室に改造するケースが多いのだという。

 8時にチェックアウト。宿は駅前通りを南にまっすぐ来たところにある。今日の第一目標である三田支店は、駅前まで出て、JR福知山線に沿って西に向かった三田市役所のそばにある。
 ホテル前から三田駅に向かって延びる道は、三田市の旧市街を貫いているらしく、1970年代前半頃までこの世の春を謳歌していたであろう商店街になっていた。広がる旧市街は、ご多分にもれずシャッターストリートであった。ただ、三田は大阪の通勤圏に入っているので、新興住宅地という位置づけになるのだろうか。市域には新三田やウッディタウンなど新しい開発地もあるようだし、三田市内でも古い建物をつぶしたらしき高層マンションがドカドカと建っている。旧市街をつぶして高層マンション、というのは都市部にありふれた風景であり、それがかなり進行しているという意味で、三田は都市化されている。三田を大阪と連結しているJR福知山線は、20年ほど前(1986年)には宝塚までしか電化されていなかったのだ。
 昨夜待ち合わせをした三田阪急のビルが案外大規模なものであったことを、今初めて知った。駅前で左に曲がる。ここから先には金融機関が集中していて、三菱東京UFJ銀(さんだ支店、旧三菱銀)、三井住友銀(三田支店、旧太陽神戸銀)、みなと銀(三田支店、旧兵庫銀)とある。各行の店名からは、東京の三田(みた)という地名を銀行としてどうとらえているかがうかがえて面白い。三菱東京は東京の三田支店(旧三和銀)を優先して兵庫県の方を平仮名書きの「さんだ」と変えた。三井住友は旧神戸銀行の流れを引いており、そのままである。三田市には旧住友銀行も支店を出していたが、その支店名は「三田中央」であった。住友はもともと東京に三田支店があったので、兵庫の三田に支店を作ったとき「中央」とつけた(その後、東京の三田支店はさくら銀行と合併する前に統合されている)。兵庫県の第二地銀であるみなと銀行は、もちろんストレートに三田支店としている。我がりそなについては、後で触れる。
 中央町という市役所の前の四つ角までやってきた。市役所はこの交差点の北西角で、北東角には三井住友銀行がある。南東角は学習塾のようだが、その南側に中兵庫信用金庫の三田中央支店がある(「三田支店」は別の場所)。壁面に切り抜き文字のロゴをつけたりそな銀行の三角形の建物は、福知山線の踏切の向こうに見えた。立地条件としては果たしてどうなのだろうか。りそなは三田駅から一番遠くにある銀行で、しかも踏切の向こうである。駐車場は完備されているし、市役所のそばという良い場所なのかもしれないが、それが踏切をはさんで向こう側というのは、ちょっと芳しくない気がするのだ。
 先に写真撮影を済ませようとしたが、三田支店は写真撮影が非常にやりにくい支店で、どこから撮ってもいい図柄にならなかった。唯一正面から撮ったら多少はマシかなと思ったのだが、時間的にひどい逆光で、光の線が入ってしまうほどだったので諦めた。結局、踏切の線路内から撮った写真が今回のベストショットであった。ようやく店内へ。08:48、三田支店を制覇。さんだ支店の名前のとおりATMはさんだいで、一番左がリーダスAK-1、残り2台がオムロンJXの白、という構成であった。
 りそな銀行の三田支店は、旧大和銀行の三田支店として1981年11月に開設された。あさひ銀行との合併では、東京の三田支店(旧埼玉銀)を「田町支店」と改称し、兵庫の三田は三田支店のままとなっている。
 なお、協和銀行の前身である日本貯蓄銀行(合併後)は、戦後の混乱期、この地に三田支店を出していたことがある。出店の事情は「奈良銀めぐ」の五条支店の項に書いたのと同じで、戦争末期に疎開などにより購買力が大都市から地方に流出したため、それを預金として吸収しようとしたものである。兵庫県内には三田のほか豊岡・相生・西脇があったが、いずれも1948年2月までに廃止されている。

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2008年09月21日

2007.11.26(月)(15)サンダの町に行ったとさ

 姫路駅前支店に関しては、古い銀行建築が「銀行として」現役で使われていないのは残念だ、という見方もあるかもしれない。けれども一方で旧あさひ店が統合になり、売却されて(?)一般のビルになって初めて、階段だの2階のアーチだのを見ることができたのだ。こう考えると痛し痒しである。銀行のまま営業していたら、ああいうものを私が見ることもなかったのだ。
 大手前通り沿いにある現在の姫路支店(旧大和銀)には夏に立ち寄ったばかりだが、また行ってはいけないということはないので今回も足を運んだ。姫路支店はATMが4台。一番左がリーダスAK-1、2台目が富士通のファクトA、そしてオムロンJXの白と青が1台ずつ。合計4台で、全部機械が違う。特に、オムロンの中に1台だけ富士通がまじっているというのは、バラエティに富んでいて結構だが、保守はやりにくいのではないだろうか。
 りそなの1軒おいて西側には、中国銀行(本店岡山市)の姫路支店がある。中銀は一見クラシカルに見える建物を多数保持している銀行で、岡山市内を歩いていると中銀の古めかしい支店をあちこちに見かける。姫路支店も同様の厳かな外観で、前面に四角い柱を強調したスタイルをしている。後で調べて驚かされたのだが、中銀姫路支店は戦後も戦後、1968年に新築されたものだということである。この銀行は昭和50年代までこのスタイルの店を新築し続けていたのだ。中銀は保守的な考えかたを持つ銀行らしく、融資の姿勢も渋いという話は聞いたことがある。古い建物を今に至るまで使っているか、古い建物と同じ様式で新しい建物を建てるか。どちらにしても「保守性」を前面にアピールしているのだろう。
 せっかくなので写真を撮ろうとしたが、露光不足でまともには撮れなかった。

 すっかり暗くなってしまった姫路の街をとぼとぼと歩く。街路樹では、ムクドリだろうか、ワシャワシャとすごい音を立てていた。この時間に一斉に寝ぐらに帰ってくるのであろう。木の下は糞でいっぱいなのではないかと思う。
 時計を見ると17:20。そろそろ、次の目的地・三田に向かわなくてはならない。乗るべき列車は、山陽姫路17:29発の直通特急阪神梅田行き。この列車は18:21に神戸の新開地に着き、18:26発の普通三田行きに乗り換えると、ほぼ1時間の乗車で19:25に三田に着く。そして、待ち合わせの相手とは、三田駅前にある「キッピーモール」2階のインフォメーション前で19:30、ということになっていた。
 山陽姫路17:29発には予定通り乗ることができた。新開地で乗り換えた神鉄の三田行きは、ひょっとしたら座れないかと覚悟していたが、混雑率はさほど高くなく、かろうじて着席できた。神戸市北区の中心地、鈴蘭台と北鈴蘭台とでどっと乗客が降り、車内は一気に閑散とした。山あいを走る神鉄の電車は、電車というものに乗り慣れているはずの私が少し怖くなってしまうほど乗客の流動がなく、窓の外も暗く、そして車内の蛍光灯は輝度の低いものを使っているようであった。
 19:25、予定通り三田着。神鉄の改札を抜けて三田駅前広場に出ると、「キッピーモール」こと三田阪急の真新しそうなビルがそびえ建っていた。

[11月26日篇 おわり]

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2008年09月20日

2007.11.26(月)(14)やはり「本当に古かった!」

 以上のように、状況証拠だけでも、この建物が戦前の築であることはほぼ疑いないと思われたが、その後の調査によりさらに決定的な証拠を発見した。
 「アーチ」の根拠にしようとした旧不動貯金銀行七条支店について調べているうち、あるブログ【注1】にたどり着いた。記事によると、同行の七条支店と姫路支店は、同じ関根要太郎という建築士【注2】が設計したものであるという。1934(昭和9)年に竣工した姫路支店の建物は免震構造を採用しており、それは同行下関支店(建物は山口県下関市に現存)と同様であるそうだ。そこで「関根要太郎」でネット検索をかけてみると、下関については雑誌に関根自身の手で論文が発表されているとのことであった。
 学術論文の検索サイトからその論文を探し出して読んでみた【注3】。参考程度のつもりだったのだが、なんと、下関だけでなく姫路についても、設計者本人が詳細な図面と写真付きで解説しているではないか。掲載されている図面は、私が姫路で見てきた建物とほぼ完全に一致していた。これにより、2003年10月までりそな銀行姫路駅前支店であった建物は、戦前の建築に「間違いない」と確定した。

 建物に耐震性を持たせたい時、ただ単に頑丈に作っただけでは、建物の自重が増加することで震力が増大してしまい、かえって危険な場合もある。そこで、地震の振動をどこかに吸収させるような重量の軽い建築が求められる。1934年竣工の不動貯金銀行の2支店では「免震構造」を採用しており、基礎の上に直接建物を建てるのではなく、基礎と建物との間に「免震柱」という太い柱を立て、その柱に建物を固定せずに載せている。免震柱そのものも、基礎には固定されず台座の上に乗っかっているだけである【注4】。建物と免震柱、免震柱と基礎は、それぞれ下部が受け皿のような形をしており、上部はそれにぴったりと嵌まる形をした下向きの凸になっている。すき間には黒鉛の粉末が充填されている。これらにより、地盤と建物とは直接には接さず、かつ基礎と建物とは結合していないため、地震があったときには2か所の継ぎ目で振動が吸収され、建物には影響を及ぼさないのだという。
 この「免震構造」は、関根要太郎の学生時代の後輩であった構造家、岡隆一(1902〜1988)が提唱したものである。関根は牧野元次郎(不動貯金銀行頭取)鎌倉山別邸(神奈川県鎌倉市)など木造住宅2か所で試行した後、不動貯金銀行の姫路・下関の2支店で、鉄筋コンクリート造りの大重量を持つ建築に本格的に採用した。関東大震災後、複数の構造家や建築家から数多くの免震構造が提案されたが、実現したのは不動貯金銀行関連の建物だけだったとされる。姫路と下関の2つの銀行建築は、現存する世界最古の実用免震建築物であるという。
 姫路支店の建物は、合計21本の免震柱によって支えられている。この柱はそのままの形で地下室に現在も立っているようだ。地階の平面図を見ると、ポンプ室(「階段室」右隣)の右下部分に、免震柱を示す黒丸がある。ポンプ室の真上は、1階と地階とを結ぶ階段の踊り場にあたるが、1階から踊り場方向を写した写真には、免震柱の場所に妙な突起が写っている。踊り場の高さなども考慮すると、これは免震柱の頭部、建物と免震柱との接続部分と思われる。

 免震柱以外の部分についても触れておこう。支店時代、キャッシュコーナーはみゆき通りに面した側の北端にあった。これは、下に示した「不動貯金銀行姫路支店 平面図」では、内側に開く扉の部分(読みにくいが「時間外出入口」と書いてある)と、その左隣の「応接室」(細かいマス目が描いてある部分)であった。この部分は竣工時には外壁と塀との隙間だったが、自動機が初めて導入された頃にキャッシュコーナーとして増築されたものと思われる。「客溜」に通じる細い通路は、窓口室とキャッシュコーナーとを隔てる通路として現役で機能していたと記憶している。
 現在ではキャッシュコーナーは撤去されており、雑居ビルに改造されたこともあって、この部分は奥へ通じる廊下になっていた。図面では、階段への途中に応接室が2つ描かれているが、ここは間仕切りなどは撤去されて広い空間になっていた。
 前述のとおりの階段を2階に上がると、古めかしいノブのついたドアは「予備室」の入口、左側のアーチは応接室や宿直室に通じる廊下の入口であった。2階(旧応接室・宿直室)はコンタクトレンズ店、3階は眼科として使われている。これ以外の部分は、今回見ていない。

 蛇足。平面図の3階部分中央(「外勤員室」右隣)に、強く関心をそそられるものがある。ここには「大黒天奉安所」と書かれている。不動貯金銀行の特徴の一つは大黒天に対する信仰であったが【注5】、各支店には像を安置する部屋までわざわざ作られていたのである。この部屋はいつ頃まで残っていたのだろうか。21世紀に至るまであったとしたら、いったい何に使われていたのだろうか。

20071126-15_Himeji-ekimae_ato_heimenzu.jpg(クリックで拡大)

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【資料】りそなグループに関連する歴史的建築一覧(当サイト「お役立ち」より)

 【注1】『関根要太郎研究室@はこだて』http://fkaidofudo.exblog.jp/
 【注2】関根要太郎(せきね・ようたろう、1889〜1959):建築家。埼玉県秩父市出身、1914(大正3)年東京高等工業学校(現東京工業大学)卒。1931(昭和6)年不動貯金銀行専属の建築家となる(同行営繕課長→のち営繕部次長)。1942年の退職までに延べ100件以上にのぼる店舗設計を手がけた。戦後、不動の幹部だった天沼雄吉の紹介により、天沼の出身地・埼玉県桶川町(現桶川市)の町立小学校の設計を引き受け、以後は埼玉県内各地で公共建築に携わった。不動以外の作品で現存するものには、旧多摩聖蹟記念館(東京都多摩市)、埼玉県立上尾高等学校西側校舎(上尾市)などがある。
 【注3】関根要太郎「免震構造の実施に就て」『建築雑誌』600号(社団法人日本建築学会、1935年6月)。
 【注4】上下はそれぞれ直径25mmのピン1本で連結されている。
 【注5】不動貯金銀行と大黒天:当連載10月28日掲載「2007.11.28(水)(14)津市の協和銀行、その複雑な歴史」も参照。

 (2010.10.14_21:35本文修正)岡隆一氏の生年を訂正し没年を追加。
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2008年09月19日

2007.11.26(月)(13)ほぼ「本当に古かった」

 なぜ姫路が今日の「特別な目標」であるのか説明しておこう。
 昨年7月、「りそめぐ」の関西地区の2巡目で姫路を訪れた。その際の体験記は昨年11月に発表済みだが、これを執筆する過程で協和銀行関係の文献をいくつか読み漁るうち、私は、出版物に出ている古い写真と現建築とが非常に似ていることに気がついた。新設改廃や店舗新築など旧協和銀行店舗の「店歴」がわかる資料は、公刊されたものとしては、あさひ銀行になってから刊行された社史『協和銀行通史』が唯一だが、姫路支店については建物の新築年月日が書かれておらず、不思議に思っていたのである。このこともあって、りそな姫路駅前支店の建物は、協和銀行になってから一度も建て替えられていない、すなわち戦前の不動貯金銀行【注1】時代の建物をいまだ使っていたのではないか、と推定した。というわけで、今回姫路にはそれを確かめに来たのである(詳しくは「2007.07.18(水)(16)とびきり古かった? 旧姫路駅前支店」を参照)。

 さて、旧姫路駅前支店の建物は、今はメガネ店などの入った雑居ビルとして使われている。内外をあちこち見て回り、写真撮影も終わったのは5時過ぎのことであった。
 結論から言うと、この建物はやはり、昭和初期の建築の「大リニューアル版」と見て間違いないのではないかと思う。いくつかは根拠があるのだが、大きなものは2つ。まず、階段踊り場に取り付けられた、カーテンか何かの巻き上げ装置である【写真中】。ハンドルをつけてぐるぐる回すようになっているのだが、これについているフタは古式蒼然としている。機械そのものを交換しない限り、こういうものは取り替えず古い物をそのまま使うだろう。また、建物内のドアノブなども異様に古い。
 それから、階段上がって2階の部屋への入口に、アーチがある。アーチは戦前の流行で、戦後の建物としてはあまり見かけないのではないか。JR京都駅の北側に、不動貯金銀行が戦前に建てた旧七条支店【注2】が現在も残っているが、外観のデザインにアーチを採り入れている【写真下】。このように、戦前の設計でなければ見られないような、凝った作りをしている部分が複数見受けられる。というわけで、確証はないのだが、この建物はやはり戦前の建築に間違いないのではないか。大改装されているので、歴史的建築としての価値はあまりないかもしれないが、ともかくそういうことだ。

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 【注1】不動貯金銀行:旧協和銀行の前身の一つであった貯蓄銀行。千葉県出身の牧野元次郎が1900(明治33)年に設立、1900.11.15東京市芝区桜田本郷町10(現在の東京都港区西新橋1丁目付近)に開業。「三年貯金」「ニコニコ主義」など独自の預金商品や商法により、大正初期に貯蓄銀行第1位に成長した。1945.05.15日本貯蓄銀行(後の協和銀行)の新立に参加して消滅。姫路支店は不動貯金銀行姫路代理店として1910.03.10開設、1919(大正8).04.01支店に転換。
 【注2】不動貯金銀行七条支店:1930.02.11開設。合併で日本貯蓄銀行烏丸支店となり、七条支店(旧大阪貯蓄銀行)の統合(1946.10.xx)と七条支店への改称(日付不明)を経て、1969.02.17東山支店(旧東京貯蓄銀行七条支店)に統合。不動時代の建物は東山支店への統合まで使われ、その後京都中央信用金庫の手に渡った。
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2008年09月18日

2007.11.26(月)(12)京田辺→姫路、120kmの大移動

 時計を見ると、すでに2時半近くになっていた。日没時刻ということを考えると、そろそろ今日の行動をしめにかからないといけない。今日の「りそめぐ」における「特別な目標」の4つ目、「姫路駅前支店跡が戦前の建築であるか確かめる」ために、私はこれから西に120km、兵庫県姫路市まで移動するのである。
 実は、今日は姫路を済ませた後、さらに同県三田(さんだ)市に移動する計画である。今夜7時半に三田駅前で人と待ち合わせしているのだ。19:30までに三田に着くためには、姫路を17:29に出る山陽電鉄の特急に乗らなければならない。そこから逆算すると、今日最後の目的地・姫路へは、松井山手から直行してちょうどよいくらいであった。いや、へたをすると姫路での作業時間(姫路駅前支店跡の再取材と、姫路支店の再制覇)すら危ないかもしれないのである。
 とにかく先を急ごう。松井山手から姫路に行くには、大阪市内、東西線方面の電車に乗らなければならない。今からだと、14:24発快速宝塚行き。この電車は京橋着が3時頃になるから、姫路まで阪神→山陽と乗りつがなければならないことを考えると、地下鉄ではなく京橋からJRで梅田(大阪)までショートカットして、ようやくぎりぎりという感じである【注】。
 京橋から大阪環状線の快速加茂行きに乗り換え、阪神梅田15:10発の直通特急山陽姫路行きに乗ることができた。巡回してきた車掌に尋ねたところ、山陽姫路には16:45に着くという。それまでは車内に釘づけであるが、車内で何をしていたのかは覚えていない。それほど熟睡してしまったようである。
 16:45、山陽姫路に着いた。姫路発は17:29であるから持ち時間は45分ほどしかないが、初めて来る場所ではないから勝手はある程度わかっている。山陽姫路駅の前につけられた横断歩道で大手前通りを横切り、みゆき通りへと足を進めた。

【注】あとで気がついたが、東西線の北新地で降りれば、阪神梅田駅はさほど遠くなかったようだ。
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2008年09月17日

2007.11.26(月)(11)半角カナ<マツイヤマテ>の謎を解く

 もちろん、これで終わりにしてしまう私ではない。窓口で相手をしてくれた女性の行員さんに「以前に同様の取引をやってもらった時には、店名が漢字で出たと思うんですけど」と尋ねてみた。
 彼女の返答は、驚くべきものであった。この部分の記帳は「漢字で出す」という決まりにはなっていないらしく、漢字で出す「こともできる」ということなのである! とにかく、その時の気分に応じて表記が変わるというニュアンスのことを言った。あまりのことに、私は一瞬絶句してしまった。
 とりあえず、他のお客が(今回の私と同様に)振替の取引を求めるかもしれないが、通常は漢字で店名を出すことを望んでいるのではないか、と行員さんには言っておいた。ただ、希望すれば半角カナで店名が出るのであれば、逆にそれを求めて東京の旧あさひ店舗あたりで試してみることができるのだろうか。30歳ぐらいの女性の行員さんは「申し訳ございません」とひたすら謝るばかりで、具体的な説明がなかったし、やり直してもらって店名が出たので別に謝る必要もないと思うのだが、「正しくはどうなっているのか」が知りたいところである。
 ともかくも漢字での店名記帳を済ませたとはいうものの、ここらへんがルールとして決まっていないというのは、一めぐラーとして非常に不安である。やはりこうしたことは、ルールとしてきっちり決めておいてもらいたい。そして全店的には、やはり漢字で店名が記帳されるのが標準であろう。少なくとも、旧あさひと旧大和とのシステム統合完了以後、りそな銀行で店名が半角カナで通帳記帳されるのは、特殊例の港北ニュータウン支店【注】を別にすれば松井山手が唯一である。
 なお、松井山手の機械配置は、店内にリーダスAK-1が1台、それとは別に店とは完全に切り離された場所に「クイックロビー」があって、2台のATMは両方ともAK-1であった。出張所の開設は2006.10.10のことであった。

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 【注】港北ニュータウン支店の店名通帳記帳:あさひ銀行時代から半角カタカナで<コウホクニユ−タウン>と記帳されている。本来の原則からすれば<港北ニュータ>となるのが妥当。同様の例はさいたま新都心支店(埼玉りそな銀行)でもみられ、両店に共通するのはあさひ銀行時代の新設店舗であること。店名が全角6文字を上回ることも一因だが、旧あさひ銀行では店舗外ATMでの取引でATM名が通帳記帳されており、その際のATM名は臨機応変に全角文字と半角カナ文字とを使い分けていたため(但し混在はない)、その延長線上で起きた事象とみられる。
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2008年09月16日

2007.11.26(月)(10)松井山手出張所

 さあ、松井山手出張所の制覇に入ろう。
 松井山手が今日の「特別な目標」である理由を説明しておこう。りそな銀行松井山手出張所の店番号は、母店のくずは支店と同じ「250」である。りそなグループのシステムでは、こうした母店と店番が同じ有人出張所での取引は、母店での取引の一部とみなされるらしい(母店と店番号が異なる有人出張所もあって、こちらの方が出張所としての独立性は強いようだ)。
 松井山手のように、母店と店番号が同じ有人出張所のATMで預金取引を行った場合、通帳には母店の名前(松井山手の場合は くずは )が記帳されてしまう。但し、通帳に<松井山手>と出す方法が全くないわけではなくて、窓口に通帳を差し出して取引をすれば、その出張所の店名が記帳される。こうした店は窓口で現金を取り扱わないことが多いから、予め口座に入金しておき、それを別の口座に振り替えるか、税金などの支払を申し込んでその支払い資金にするか、どちらかが必要になる。
 店名の記帳は基本的には漢字表記となるのだが、先日、当HP「遊牧民の窓」の掲示板の常連さんから、松井山手出張所に関しては「半角カタカナで<マツイヤマテ>だった」との情報が寄せられた。というわけで、今日はことの真相を確かめに来たのである。確かに私の時もおかしかった。最初に訪れた際、取引を頼むと、店の名前が出るはずのところに<普通預金>と記帳されたのである。もう1回取引をやり直して、ようやく他の店と同様の<松井山手>という表示を出したのであった。
 店に入って伝票の記入台へ。予め他の店でもらって準備してある伝票をカバンから取り出し、記入事項を全部書いて印鑑を押す。行員さんに話しかけずに勝手にどんどん作業を進めたので、ロビー係の中年女性はこちらが何も聞かないうちから「振替ですか、ではこちらへ」と窓口に案内してくれた。
 一番奥の窓口で、別の女性行員に伝票と通帳を渡す。
 しばらく待っていると、数分の後に通帳が返ってきた。
 印字を見る。そこには、掲示板で報告があったとおり、半角カタカナで<マツイヤマテ>とあった!

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2008年09月15日

2007.11.26(月)(9)洞ヶ峠の先は激戦区であった

 13:46、バスは松井山手に着いた。あとから地図で確認したところによると、樟葉駅からまっすぐ東に進み、男山団地から南に向きを変えて松井山手に至ったらしい。
 バスが駅前のロータリーに乗り入れて停まると、左側がもうJR片町(学研都市)線松井山手駅のコンコースである。ロータリーの歩道からすぐ右側には、三井住友銀行が出張所とはいえ有人店舗を出している(くずは支店松井山手出張所)。駅周辺のニュータウンは、京阪電鉄が開発したらしく「京阪東ローズタウン」というようだ。松井山手駅界隈は富裕な層が多いらしく、駅前から関西空港行きの高速バスが発着している。駅前には箒で掃き掃除をしている小坊主の銅像がある。「一休さん」である。30代以上の人にNET/テレビ朝日系のアニメーションでおなじみだった(であろう)「一休さん」こと一休禅師が晩年を過ごしたのが今の京田辺市で、市内には酬恩庵という「一休さんの寺」があるそうだ。
 駅のコンコースを抜けた向こう側にも駅前ロータリーがある。りそなは、向こう側のロータリーに面した雑居ビルの1階である。「りそなパーソナルステーション」の看板が見える。りそながあるのは、開発が進んだ側とは違い、やはり裏口である。路線バスはりそながある側のロータリーには乗り入れてこないようで、ロータリーはもっぱらお迎えの自家用車ばかり。やはりりそなは三井住友にいいところを取られてしまって弱いのだろうか。ウオッチャーとしてはもう少し頑張ってほしいのだが。
 裏口のように見えるとはいえ、こちら側の方が開発時期は若干古い。三井住友がある新しい開発地と異なり、宅地としては少しだけ落ち着きを見せ始めた地域金融機関の激戦区である。京都中央信金の看板が出ているが、店はどこにあるのだろうか。駅前から表通りへ出た角の雑居ビルに、南都銀の松井山手支店がある。その向かいには京都銀の松井山手支店。そしてその隣は京都信金の松井山手支店。りそなは、三井住友の後塵を拝しつつ、地銀や信金からは追い上げをくらっているようだ。
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2008年09月14日

2007.11.26(月)(8)松井山手への道

 いよいよ松井山手に向かう。
 くずは支店に行く前に、ロータリーを囲む歩道にずらりと並ぶバスの時刻表の中から松井山手行きを探しておいた。2系統あって、両方合わせて15分に1本程度は出ているようだ。どちらも近鉄新田辺行きの京阪バスである。
 駅前の2B乗り場で、31番近鉄新田辺行きを待つ。やがてやって来たバスは、京阪バスということだったが、クリーム色の車体に臙脂色の帯が入っていて、普通の京阪バスのカラーリング(白地に赤帯)とは違っていた。
 走り出したバスの窓から見ていると、くずはモールというショッピングセンターは相当に奥行きが深いようで、なかなか建物が切れなかった。その後は一戸建ての住宅が切れ目なく続く。さすが高級住宅地である。樟葉東公園あたりでは「8階建てマンション反対」の幟がたくさん立っていて、開発が進んでいる地域であることをうかがわせた。
 わずかな距離を走っただけだが、関西医大病院を境に大阪府枚方市から京都府八幡市に入る。りそな銀行のラッピングバスとすれ違って間もなく、私の乗ったバスは「男山泉」の交差点で右折。男山とは「男権論者」を標榜する私には素晴らしい名前と感じられる。男山団地はくずはの後背地にあたるところで、地形で言うと「天王山」のある大山崎(京都府大山崎町)から木津川の左岸方向に一直線に標高の高い土地が連なっていて、山脈(のような部分)の一部を切り崩して造成されたものである。今から行く松井山手は、地形的には男山の続きの部分であるが、片町線より京阪沿線の方が開発時期が古かったのだろう。
 京都銀行は男山支店を出しているようだ。その近所で見たガソリンスタンドでは、レギュラー1リットル146円となっていた。ファミレスの「夢庵」でロードサイド型の店舗を初めて見た。
 と思ったところで、団地がようやく切れて郊外の幹線道路といった趣になった。あとで知ったことだが、この道は摂南大学付近の八幡洞ヶ峠という交差点で国道1号線枚方バイパスと交差する。バイパスは交差点のすぐ南側が「洞ヶ峠」という峠になっている。日和見することを指して「洞ヶ峠をきめ込む」というが、その語源となった洞ヶ峠そのものである【注】。

 洞ヶ峠そばの交差点を抜けると、新しい開発地・京田辺市に入る。つい20年ほど前までひなびたローカル線の趣を残していたJR片町線が「学研都市線」として大変貌をとげ、その頃から本格的に開発が進んできた松井山手は、瀟洒な一戸建て住宅が建ち並び、大マンションが林立し、そして山を崩しての開発風景が随所で見られる。更地もまだ多く、発展のポテンシャルを秘めた地域ということであろう。目的地が近づいてきた。

【注】洞ヶ峠をきめ込む:1582(天正10)年、本能寺の変の直後、主君・織田信長を討った明智光秀の軍と、信長の重臣・羽柴秀吉の軍が、山城国山崎において激突した(山崎合戦)。明智・羽柴の双方から加勢を依頼された大和の大名・筒井順慶は、山崎の南方にある洞ヶ峠まで一度は兵を進めながらも、ここで戦いを観望し、有利なほうに味方しようとした。ここから、有利なほうにつこうと形勢をうかがう「日和見」のことを「洞ヶ峠をきめ込む」というようになった。但し、この伝説は史実に反しており、筒井順慶は洞ヶ峠に着くことなく撤兵して中立を保ったとされている。
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2008年09月13日

2007.11.26(月)(7)くずは支店

 上本町から樟葉に出るには、地下鉄谷町線の谷町九丁目駅から天満橋へ出て、そこで京阪電車に乗り換えである。地図で見ると、谷町線谷町九丁目駅は、上町筋沿いにある大阪線の上本町駅からは結構離れているようだ。乗換駅とされているが、300m近くも西側である。
 千日前通りを西に向かって歩いていく。このあたりの並木はケヤキだろうか。折しも季節は晩秋。落ち葉は少しだけ紅葉していて、なんとなくセンチメンタルな気分になったりする。道路沿いに並ぶビルは、1階が商店になっているものが多い。コンビニがあったり不動産屋があったり、ラーメン屋があったり。上本町のあたりはオフィス街らしいので、オフィスワーカーを当て込んだ商売が多いのだろう。東京でいうと市ヶ谷・靖国通りあたりの風景にちょっと似ているだろうか。
 谷町九丁目交差点の南東角、地下鉄入口を入る前に周囲を見回す。なるほどと思った。地下鉄谷町線が走っている「谷町筋」というのは上本町のある上町台地のヘリにあたるようで、この谷九の交差点を境に、千日前通りはストンと急な坂道で西の方向に落ち込んでいる。谷九交差点までも多少の下り坂にはなっていたが、坂道とも呼べないなだらかなものであった。なるほど、上町「台地」とはよく言ったものである。

 谷町九丁目から都島行きの電車に乗って天満橋へ。京阪電車には12:30頃乗り換え、樟葉に12:56到着した。樟葉(大阪府枚方市)は、天満橋から特急で3つ目、隣の京橋からだと2つ目の停車駅で、京阪電車の大阪側で最も外側(京都寄り)に位置するターミナルである。
 京阪の線路は淀川の堤防上を走っているようで、改札は階上のホームから下に降りた地平であった。改札を出たところが駅前に広がる大ロータリーで、その北側は郊外型ショッピングモールのはしりとして知られる「くずはモール」である。大ロータリーの東側に三井住友銀行のくずは支店(旧住友銀)があり、くずはモールの建物を挟んで向こう側に三菱東京UFJ銀行のくずは支店(旧三和銀)がある。そして、駅ビルの中には京都銀行がくずは支店を出していた。
 りそな銀行くずは支店は、駅前大ロータリーの南側に面した雑居ビル「アクアくずはビル」の東半分を占めている。同じビルの2階はファミレスのバーミヤンで、3階にはかつて大和銀の子会社だったコスモ証券の支店がある。りそなのビルの1軒駅寄りは、枚方信用金庫のくずは支店。テナントではなく独立した建物の支店である。ひらしんの隣のビルはもう線路際である。
 13:11、くずは支店を制覇。キャッシュコーナーの機械配置は、一番左に記帳機があって、リーダスAK-1が1台、その右側にオムロンJXの白が6台で、ATMは合計7台であった。今日回った店は、どこも意外に機械の台数が少ないので驚いている。
 りそな銀行くずは支店は、大和銀行の支店として1988年11月に開設された比較的新しい店である。

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2008年09月12日

2007.11.26(月)(6)上六支店とありし日の「近鉄劇場ビル」

 堅下11:35発の普通上本町行きに乗車、途中の高安で準急に乗り換えて、上本町には12:04に到着した。
 ここで、乗り換えついでに1支店制覇しておこう。上本町駅の南側にある上六支店(大阪市天王寺区)。この支店は上本町6丁目の近鉄百貨店南側にあって、上本町六丁目を略して上六という、ある意味大阪らしいネーミングである。
 支店の入る上本町駅の南側のビルは、建物の名前などは書いていなかったが「近鉄劇場ビル」という。後で調べたところでは、このビルは映画館を主目的とした「近鉄会館」として1954年に建設され、その後1985年に改装を受けて劇場に生まれ変わった。近鉄が所有し、子会社の近鉄興業が運営していた。劇場は2004年2月に閉鎖されたが、建物には一部のテナントがまだ残っている。その一つが、りそな銀行上六支店というわけだ。
 上六支店の制覇が済んだ。既に昼近くなり、支店はそこそこ混み合っていたが、私が入った時はどうにかスッと入れ、写真の方もたまたま車の流れが途切れてスッと撮れて、さっくりと用事が片付いた。この支店は来店客の多さの割に狭く、ATMの台数も少ないと思った。旧大和店舗は機械の台数が意味もなく多いと思っていたのだが、今日ここまで回った限りにおいては機械の台数の少ないところばかりであった。ATMは7台で、真ん中に1台だけAK-1があり、その両側をオムロンJXの白が3台ずつ固めている。あとは両替機と記帳機があった。
 支店がこの時点で入っていた「近鉄劇場ビル」は、近畿日本鉄道(近鉄)の創業100周年記念事業の一環として、新歌舞伎座を核テナントとした複合ビルに建て替えられる。完成は100周年にあたる2010年度の予定。これに伴い、上六支店は今年4月14日から南側に隣接する「上六ビル」に移転し、仮店舗で営業している。上六には松井山手に向かう途中で降りたので立ち寄っただけで、近鉄劇場ビルからの移転はこの時点ではまだ発表されていない。
 上六支店は、1927(昭和2)年12月に野村銀行鶴橋支店上六出張所として開設されたのが始まりである。一方、1929年5月に加島銀行【注】の上本町支店を継承して上六支店とし、既設の上六出張所はこの上六支店に併合されて廃止となった。上六支店は1945.03.13の空襲で焼失、鶴橋支店内の仮営業所に移転したが、同年8月いったん廃止された。翌1946年11月に旧店舗跡地で復活開業し、1955年5月、新築されたばかりの近鉄会館(現近鉄劇場ビル)内に移転した。このビルも50年の歳月を経て、建て替えられてしまうのは前述したとおりである。

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【注】加島銀行:1888(明治21)年、大阪の豪商・加島屋が一族の出資で設立。初代頭取は広岡久右衛門(9代)。大阪の有力中小金融機関であったが、昭和金融恐慌のため1928年3月破綻し、野村・鴻池・山口の3銀行に分割譲渡された。
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2008年09月11日

2007.11.26(月)(5)住宅地を抜けて堅下駅へ

 今、柏原駅前に戻ってきたところだ。6階建ての駅前再開発ビル「アゼリア」はもう建っている。柏原支店の移転先は、このビルの3階だそうである。ビルの1階では「サンプラザ」というスーパーが既に営業を始めている。3階にはブラインドが下りた窓があるから、どうやらあそこに入るようだ。駅から続くデッキは再開発ビルの3階に直結するらしく、駅舎のガラス張りになっている部分から橋が伸びるようだ。デッキとビルが接続する部分の内側には、既にATMの枠が出来上がっていた。

 今日は、もう「効率」ということを無視して松井山手に行ってしまおう。2006年10月に開設されたくずは支店松井山手出張所が、今日3つ目の「特別な目標」である。
 柏原から松井山手に行くとなると、全行程でJRを利用するのが一番効率が良い(柏原<関西線>天王寺<大阪環状線>京橋<片町線>松井山手)。しかし、今日は関西民鉄のスルKAN2dayを使っているので、わざわざ別運賃を払ってJRには乗りたくない。ここは、柏原駅から300mほど東にある近鉄大阪線の堅下(かたしも)駅まで歩き、近鉄で大阪市内に入って地下鉄→京阪線と乗り換えるのが賢いだろう。京阪で樟葉(くずは)まで行けば、松井山手行きのバスが出ているだろうと思う。松井山手出張所の母店はくずは支店であり、両者の間が全く行き来がないということはあるまい。これなら、追加出費をせずに行けるはずだ。どのみちJRで行っても2回は乗り換えないといけないので、それを考えると選択肢として十分あり得るだろう。
 というわけで、堅下駅へ向かう。柏原駅の東側に出てくると、なんとなく見おぼえある風景が展開していた。たしかミスタードーナツがこの辺にあって、それで制覇しに来たのではなかっただろうか。大阪方向の線路沿いにダイエーが見えるが、ミスドもこの辺にあったような気がした。りそなの店舗外ATM[柏原駅東]が見える【注】。こちらは特に見おぼえがあるわけではなかったが、様式からすると以前来たときにもあったはずだ。駅の階段の後ろ側には、関西アーバン銀行の柏原支店(旧関西銀)がある。関西アーバンの支店は、関西エリアで「りそめぐ」をやっていると必ずと言っていいほど遭遇する。
 近鉄堅下駅は、駅前通りをまっすぐ行った先のようだ。柏原駅東口は、駅を出てすぐに店舗兼住宅のような建物が数軒続くと、あとはもう民家が建ち並ぶばかりで、商店街というものが見当たらない。商業施設は個人経営の商店とコンビニぐらいで、あとは小学校あり、市の文化会館と図書館があり、といったところだ。
 駅前から延びる道は、小学校で突き当たりになる。そのT字路で左折し、小学校の敷地に沿ってもう1回右に曲がると、その奥に駅のホームが見えた。あれが堅下駅である。堅下駅周辺も結構古い住宅地のようで、土蔵の残る家がある一方で、棟割長屋もある。あとは食堂が1軒と、個人商店がちらほらと見えるぐらいで、あまり開発が進んでおらず静かな雰囲気である。
 近鉄堅下駅は、さっき行った河内天美と同様の構造をした地下駅であった。柵で仕切られた地下通路があって、ただ改札機の数が少ないだけである。ホームは複線の両側に1本ずつへばりついているだけで、河内天美とは異なり中央に通過線などはない。
 地上のホームに上がって時刻表を見る。唖然とした。電車が少ない! 各駅停車しか停まらない堅下駅には、15分に1本しか「使える」電車が来ない。実は、今目の前で上本町行きが行ってしまったのである。10分以上待たされることになった。

【注】店舗外ATM[柏原駅東]:柏原支店の駅前移転に伴い廃止された。
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カテゴリ一覧(過去の連載など)
大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇(24)
単発(12)
告知板(24)
銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇(29)
りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く(43)
りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅(57)
りそめぐ2008秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる 東武伊勢崎線・野田線沿線17店舗の制覇(51)
りそめぐ2009初秋 りそな銀千葉県内12店舗完全制覇(35)
りそめぐ2008夏 りそな銀東京都世田谷区4店舗完全制覇(8)
りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた(18)
りそめぐ2008秋 太平洋は青かった 茨城→北海道750km大移動/銀行めぐ2008秋 札幌市内4行4店舗完全制覇(20)
りそめぐ2008初秋 湘南セプテンバーストーリー(11)
りそめぐ2008冬 銀河に乗って知事選たけなわの大阪府へ(47)
りそめぐ2008夏 「近畿大阪めぐ」スタート記念 片町線・京阪線沿線25店完全制覇(51)
りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿(60)
りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える(12)
りそめぐ2007秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる(35)
2007年7月 りそな関西地区支店昇格5店完全制覇+α(43)
あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇(34)
2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)