2008年10月31日

2007.11.28(水)(17)さらに名古屋へ向かう

 これで、今回の予定すべてを終了した。どうにか明るいうちに四日市支店の写真まで撮れてよかった。さすがに5時近くなり、今の時点で空はかなり暗い。これから名古屋経由で東京まで帰ることになるが、もう今日は写真撮影を伴う制覇は無理であろう。
 実は、私には「東京にどうやって帰るか」という最後の問題が残っている。今回はチープな手段を模索することはできず、新幹線で東京まで戻らなければならない。チケット屋さんを探し、名古屋発の新幹線の券を買うつもりである。
 事前の計画では、四日市からの移動を
   四日市18:12(JR関西線普通名古屋)19:03名古屋
としていた。今思うと近鉄四日市→JR四日市の移動をどう考えていたのだろうか。とりあえず、JR名古屋に19:03に着き、19:10発「のぞみ155号」で東京駅20:53着、というのが考えていたプランである。今夜は夜なべ仕事を控えているので、終電近くに都内に着くようなことはなるべくなら避けたかったのだ。
 今、近鉄四日市駅前を東西に走る大通りの北側にいる。近鉄の駅からJR四日市駅に向かう4車線道路である。歩道には長大なアーケードがついていて、その部分だけで普通の商店街並みの幅があった。それなりに営業中の店が多いようだが、人通りが少ないのが気にかかる。通りから90度奥のほうに続く一番街という商店街の入口に「大衆食堂」を銘打つ店があって、ちょっと入ってみようかと思ったが、メニューを見ると値段だけは全然大衆的でないのでやめた。
 目指す店はなかなか見つからなかった。電話帳で調べた限りでは、近鉄四日市駅の北口近くにあるはずなのだ。もう1本別の道を見て、それで見つからなければもう近鉄で名古屋へ行ってしまおう。と思ったところ、ようやく雑居ビルの1階片隅で営業しているチケット店を発見した。時刻はちょうど5時になったところであった。買うものを買って、大急ぎで近鉄の駅に戻る。

 ホームに上がると、例によって女子高生に目が行く。こう書くと変態のようだが、制服を着た女子高生はほぼ確実に地元在住で、しかもその時その時で地元の流行を確実に体現しているから興味深いのである。彼女たちの制服のスカート丈を見る限り、三重県では徐々にミニからロングに遷移しつつあるように見える。四日市ではかろうじてミニが優勢のようだが、ひざ丈くらいのも多少はいる。津ではロングの比率の方が高かったようだが、四日市へ来ると逆転している。それでも、6:4が4:6になったぐらいの感じである。高校生のスカートのロング化の波は、予想より遅いスピードだが、しかし着実に東上しつつあると思う。
 近鉄四日市17:11発の急行近鉄名古屋行きで移動。蟹江を出発して間もなく、左の車窓に「大名古屋温泉」の赤いネオンが見えた。いよいよ愛知県に入ってきたのだと感じた。近鉄でも名古屋エリアに来ると、例えば急行停車駅の蟹江でも構内踏切が残っているなど、近代化が遅れているようだ。それでも、進んでいくうちに線路が高架になった。
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2008年10月30日

2007.11.28(水)(16)四日市支店

 塩浜駅のあたりから、紅白の煙突や銀色の配管など、石油化学コンビナートの風景が見え始めた。いよいよ近鉄四日市に到着である。
 鉄道の駅からかなりの距離があった津支店とは対照的に、四日市支店は駅に非常に近接している。そのことは、電車を降りる前から既に感じられる。何しろ、近鉄の名古屋方面行き電車に乗ってくると、りそな銀行四日市支店の巨大な屋上看板が右車窓に見えるのである。ほかの支店では屋根の上の看板というのは外してしまったところが多いのだが、四日市は健在なのが嬉しい。それも、異様とも思えるほどの巨大さを誇っている。
 高架ホームを降りてきて改札を出たところ、少しだけショッキングな事実が判明した。関西民鉄のICカードシステム「ピタパ」は、ここ名古屋エリアでも(切符との引き換えには使えないものの)改札機でのタッチには使えたのである。さっき、津新町駅の券売機で切符を現金で買ってしまった。ピタパと共通利用できる「イコカ」に王寺で高額のチャージをしたばかりなのに、手持ちの流動性資金を減らしてしまった。イコカは首都圏のJRで使えるから、別にチャージは無駄にはならないのだが、旅先で現金がなくなるというのは不安なものである。これから銀行に行く者が何を言ってるかと思うかもしれないが。
 りそな銀行四日市支店は、近鉄四日市駅の南側を東西に走る大通りに面したところにある。東改札を出て地上に出ると、もう大通りの向こうにりそなの支店を見た。プレハブのような外観をしていて、縦じまの入った鉄板で覆われている。プレハブではないのかもしれないが、私が通っていた小学校のプレハブ校舎のようで、銀行建築として高級感はあまり感じない。鉄格子が窓にはめ込まれているが、この格子は錆びさびになっている。四日市も、地方独立店舗という位置付けのようだ。
 窓口室には、大和銀時代のブルーの窓口表示が残っていた。店の東側にあるATMコーナーの内装は、大和の店舗では少数派であるグレー一色となっていて、ごみ箱などの小物だけブルーになっている。ATM上部の行灯がグレーというのは、現存する旧大和の内装では中間の時期にあたる。現存で最も古いのが真っ青で、そしてグレーがあって、CI導入以後のシルバーに続くわけだ。数としてはあまり多くないと思う。ATMは3台あって、両端がオムロンJX白、中央がリーダスAK-1という構成であった。16:34、四日市支店を制覇した。
 四日市支店は、1947年2月に野村銀行の支店として四日市市大字松原(現在のJR富田駅前)に開設され、同年12月に大字東富田(通称富田西町)に移転した。開設当初は「特別支店」といって、余剰購買力の吸収を主眼とし、預金の受け入れと払い出しのみを業務とした店舗であった。四日市市は終戦間近い1945年6月に空襲を受けて焦土と化したが、市街地から北へ5km離れた富田は戦災を受けなかったため、終戦直後の混乱期には適切な立地であったという。1951年9月、市の中心部で金融機関が固まって立地する沖の島町(四日市市役所東側)に移転、浜田町5-28の現店舗に落ち着いたのは1969年12月である。西やまと支店あたりと同じ時期の建築かと思ったが、建物は意外に古いようだ。
 なお、四日市には1986年11月まで協和銀行の支店もあった。旧不動貯金銀行の支店で、沖の島町3-17にあったが、東海銀行に営業譲渡されている。

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2008年10月29日

2007.11.28(水)(15)津から四日市へ

 次は、近鉄四日市駅前にある四日市支店に向かう。
 近鉄に乗るのに、今来た道を津駅へ戻るのは、できるなら避けたい。私は単純往復が嫌いなのである。というわけで、私はこれから、近鉄津駅の1つ大阪寄りである津新町駅まで歩いてしまおうと思う。りそな銀行津支店は、ここが「真の」最寄り駅となる。往路の飛び道具(特急)は津新町には停まらないから仕方ないが、もう今日は特急には乗らないから、迷うことなく津新町に出てしまう。
 ようやく事前に立てておいたプランが復活する時が来た。津からの移動は、計画では次のような形になる。
   津15:41(急行近鉄名古屋)16:10近鉄四日市 または 津15:55(急行近鉄名古屋)16:26近鉄四日市
津15:41発は、津新町に38分頃に着けば何とか間に合うだろう。津新町は急行停車駅である。間に合わせたい。
 支店前の伊勢街道を南に行くと、岩田橋北という交差点に出る。国道23号はここで岩田川をまたいでいる。この川は二級河川だが、河口近くゆえ川幅は結構広い。この角で右に曲がって岩田川沿いにまっすぐ行くと津新町駅があるのは、既にわかっている。
 右に曲がりこんだ道(いちおう国道163号である)は、津新町通りというらしい。2車線道路の両側にアーケードつきの歩道が付いている。こちらに入ってくると、伊勢街道沿いとは違ってシャッター率がかなり高くなっていた。まだ3時過ぎだというのに開いている店がほとんどなく、5軒に1軒、いやもっと少ないだろうか、そんな割合で営業している。たまに開いているとそこは商店ではなく事務所で、3人ぐらいのパートさんが油を売っているような感じだ。
 川の向こう側には、三重県のトップバンク・百五銀行の本店が見える。こちら側からは建物の側面を見ることになるが、1968年建築の本社屋は銀行の本店というよりは大手コンピュータメーカーの研究所のような印象である。正面から見たらまた違うのかもしれないが。
 15時35分。中部電力津支店の前まで来たところで、恐れていた事態がついに起きてしまった。雨が降り出したのである! 今はまだポツポツときた程度だが、雲行きからするとこれからジャンジャンくるのではないかと思われた。やれやれ。四日市支店の写真を撮り終えるであろう5時前までは、何とか持ちこたえて欲しいのだが。
 ほどなくアーケードが途切れて、歩道が付いているだけの広い道になった。相変わらず人通りは全くと言っていいほどないし、開いている店も多くはない。個人商店が並ぶ中に雑居ビルがぽつぽつと混じっていて、1階はいちおう商店の形になっているのだが、営業しているのは半分ぐらいである。地方都市の旧市街、但し昭和40年代頃に区画整理がそこそこ行われたと思しき界隈である。中新町まで来ると、三重交通の関連会社・三交不動産がマンションを建てていた。

 前方に踏切が見えた。駅が近い。そう喜んだのは、ほんの一瞬にも満たない時間だったであろう。エンジとアイボリーに塗り分けられた近鉄の一般型電車が、右の方向に動いている。右方向は名古屋方面、車両をあんなにたくさんつないだ電車は急行であろう【注1】。乗ろうと思っていた、津15:41発と思われる。ああ、私は1本乗り遅れてしまったのであった。
 ようやく津新町駅に着いた。わりと郊外化されているというか、私鉄の大都市郊外にある普通の駅という印象である。駅の背後には10階建てぐらいのマンションが控えていて、ご多分にもれず、この近所の個人商店はやはり閉店が相次いでいるようだ。津市の旧市街なのだろうが、しかしどこかの中小都市の「玄関口」に来たと説明しても信憑性がありそうな雰囲気である。
 津新町駅は、新しくはないものの、思っていたよりソフィスティケートされていた。近畿日本ツーリストが津支店を津新町駅に出している【注2】。自動改札は係員の前の通路を含めて5通路あって、改札を入ると島式ホームに上がる地下道が続いている。ここはナントカ市の中心駅ではなく市内の小駅だから、やはり津市は三重県の大都市だと言える。
 現在時刻15:43。次に来るのは52分発の急行である。ホームには女子高生がたくさんいる。三重交通系列の学校かと思わせるような、緑色の制服を着た子が多い。私が乗る電車がやってきたが、急行であるせいか、女子高生は津新町からはほとんど乗らなかった。
 車両は、転換クロスシートの3ドア車であった。走り出すとすぐに、右側の車窓から別の線路が接近してきたのが見えた。非電化・単線のJR紀勢本線で、近鉄とJRはここからしばらく並んで走っている。紀勢線の途中駅・多気から分岐する参宮線について、伊勢市の老舗和菓子会社会長が「参宮線を廃止して駐車場にしろ」と唐突なことを言っていたと思ったら、会社の不祥事であっという間に失脚してしまったのを思い出した。JRの新宮行き普通列車とすれ違って間もなく、私の乗った電車は津駅のホームに滑り込んだ。

 【注1】近鉄名古屋線の急行は6両編成、各駅停車は2〜3両編成が標準である。
 【注2】近畿日本ツーリスト津支店:現KNTツーリスト津営業所。2008年1月、店舗窓口業務が子会社に営業譲渡されたため。
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2008年10月28日

2007.11.28(水)(14)津市の協和銀行、その複雑な歴史

 りそな銀行津支店のルーツは、丸八貯蓄銀行【注1】の津支店である。丸八貯蓄銀行は愛知銀行【注2】の貯蓄銀行部門の子会社として1898(明治31)年8月に名古屋に設立された銀行で、津支店は開業翌年の1899年に開設された。開設当初は、親会社である愛知銀行の津支店内にあった。愛知銀行はこの年、三井銀行から津支店を譲り受けて津支店を開設しており、その子会社である丸八貯蓄も、親銀行と同時(1899.09.20)に津支店を開設したとみられる。
 貯蓄銀行という種類の銀行は、特に明治時代には、程度の差はあれほとんどが別の銀行(親会社など)に人員や設備を依存していた。丸八貯蓄も例外ではなく、支店のほとんどは愛知銀行の支店に間借りしていた(1909年までは本店すら愛知銀行本店内にあった)。これらは、親銀行の店舗に貯蓄銀行の看板を掲げ、同じ建物で窓口だけを別にしていた。現代でいうと、りそな銀行池袋支店のビル内で埼玉りそな銀行池袋東口支店が営業しているのに似ているが、階を異にする池袋の例よりもっと一体性が強かったとみられる。
 愛知銀行の津支店は、その後幾多の変遷を経て、三菱東京UFJ銀行の津支店となっている【注3】。丸八貯蓄の親会社だった愛知銀行は、1941年6月に名古屋の別の2行と合併して東海銀行となり、UFJ銀行を経て三菱東京UFJ銀行となった。その津支店もまた同じ経過をたどっている。つまり、三菱東京UFJ銀行津支店は、現りそな銀行津支店の「親」だったことになる。「親子関係」という点では、両者は因縁浅からぬものがあった。東海銀行津支店には戦災を受けて仮店舗で営業していた時期があるが、その仮店舗は居候を解消した後の(新)日本貯蓄銀行津支店であった。このあたり、親に育てられた子どもが長じて年老いた親の面倒を見ているような観がある。
 丸八貯蓄銀行は1922(大正11)年10月に2行を合併して(旧)日本貯蓄銀行【注4】となり、丸八の津支店も同行津支店となった。1929年に店舗を津市京口町1202に移転しており、親会社の支店への「居候」はこのときに解消されたようだ。1945年5月の9行合併でも銀行の名前は変わらず、1948年7月の普銀転換により協和銀行津支店となった。現在地(日本生命ビル)では1972年11月に営業開始し、その後銀行名は協和から協和埼玉→あさひ→りそなと変わっている。

 ところで、(新)日本貯蓄銀行(協和銀行)というと、津市には他に旧不動貯金銀行の津支店もあった。こちらは、9行合併の際に津大門通支店となっている。といってもこれは名目上のもので、不動の津支店は戦争末期には既に強制疎開により建物を失っていたため【注5】、1946年7月津支店に統合された。
 旧不動貯金銀行は三重県内に多数の支店を出していた銀行で、津支店のほか桑名・四日市・松阪・山田の各支店があり、これらをまとめて「伊勢路ブロック」と称していた。山田(宇治山田、現伊勢市)は伊勢神宮の門前町で、牧野元次郎頭取が「ニコニコ主義」【注6】なるものを思いつくきっかけとなった大黒天との出会いもこの地である。言ってみれば三重県は不動の「心のふるさと」であったわけだ。不動に由来する三重県内の店は、現在りそな銀行には1つも残っていない。

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 【注1】丸八貯蓄銀行:1898(明治31)年8月愛知銀行【注2】の貯蓄部門子会社として同行本店内に設立。1922.10.01伊藤貯蓄銀行・明治貯蔵銀行と合併し(旧)日本貯蓄銀行【注4】となる。
 【注2】愛知銀行:現在の愛知銀行とは別。1896(明治29)年第十一・第百三十四の2国立銀行を母体として名古屋市に開業。1941.06.09名古屋・伊藤の2行と合同し東海銀行を新立。
 【注3】三菱東京UFJ銀行津支店:1883年に(名)三井銀行津出張所として開設、支店昇格を経て1899.09.20愛知銀行に譲渡され愛知銀行津支店となる。1941.06.09愛知など3行の新立合併で東海銀行津支店。2002.01.15三和銀行との合併でUFJ銀行津支店、2006.01.01東京三菱銀行との合併で三菱東京UFJ銀行津支店。
 【注4】(旧)日本貯蓄銀行:1922.10.01名古屋の3貯蓄銀行(丸八貯蓄・伊藤貯蓄・明治貯蔵)が合併、丸八貯蓄銀行を存続会社とし日本貯蓄銀行に改称して発足。1945.05.15東京・大阪の貯蓄銀行8行と合同し(新)日本貯蓄銀行(後の協和銀行)を新立。
 【注5】不動貯金銀行津支店:「戦争末期に強制疎開」は『協和銀行史』による。『津市史』には「同年(為栗注:1945年)7月戦災によって焼失」とある。
 【注6】ニコニコ主義:不動貯金銀行で行われていた精神作興主義。大黒天を本尊とし、平和・健康・商売繁盛の3つを旨とした。外務員には積金勧誘の使命感を与え、顧客には貯蓄の意義を訴えた。大黒天像は、牧野元次郎が1905(明治38)年の元旦に伊勢参宮をした際、宇治橋そばの土産物屋で木彫の大黒天像を12銭5厘で購入したのが始まり。その後、1910年に名古屋・鶴舞公園で行われた第10回関西府県連合共進会の会場で、高さ2尺(約60cm)以上ある銅像を見つけて80円で購入し、それを銀行本店に安置して本尊としていた。各支店にはその分身が置かれていた。当連載9月20日掲載「やはり『本当に古かった!』」も参照。
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2008年10月27日

2007.11.28(水)(13)津支店

 白と緑に塗られた三交のバスを、岩田橋で降りた。
 津支店のある日本生命ビルは、岩田橋のバス停から商店街アーケードを駅の方に戻っていくと右側にある。津駅から来るのであれば、1つ手前の三重会館という停留所で降りた方が早いかもしれない。りそなの支店はちょうど両者の中間地点だからだ。
 このアーケードはさすが県庁所在地とあってシャッター率は低いが、それでも閉ざされた店がちらほらと散見されて「シャッターストリート予備軍」という感じは免れない。そういえば、バスを降りた目の前では「松菱」というデパートが営業していた。一瞬ギョッとしたが、浜松の松菱とは違う松菱なのだろうと思い直した【注】。
 りそなと同じ建物には国民生活金融公庫などが入っている。このビルは「日本生命ビル」ということだから、テナントとして入っているのだろう。日本生命ビルの右隣りは、中京銀行の津支店である。
 りそなの津支店に入る。ATM枠上部の行灯表示、それから窓口上部の「ご預金」「ご新規」といった行灯表示は、どこの支店でも見かけないスタイルのコバルトブルーであった。これはたぶん、協和銀行時代のものをそのまま使用しているのだろう。ATMは2台しかないが、枠は3台分あり、機械の番号としては1番が欠番で2番3番となっている。向かって左が富士通ファクトA、右側がファクトVモデル20である。
 ATMには、行員さんの手作りと思しき「りそなダイレクトtype red」の広告がいまだについていた。インターネットバンキング「りそなダイレクト」は、システム統合が完了した今となってはタイプレッドもブルーもない。ここは名古屋エリアの支店というより、完全に地方の独立店舗であるのだろう。東京在住者にはピンとこないが、津は名古屋から100kmも離れているのだ。15:21、津支店を制覇した。

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 【注】(浜松)松菱:鰹シ菱。1937(昭和12)年に創業した浜松市の老舗百貨店。2001年11月倒産(自己破産)した。津の松菱(樺テ松菱)は同族企業だったが、資本・人材面での交流はなかった。
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2008年10月26日

2007.11.28(水)(12)津駅から津の中心街へ

 大和八木から小一時間。津には14:58に到着した。
 近鉄の津駅舎は2階にある。JRと近鉄の津駅は改札内でつながっているのだが、接続部分では「特別改札」と称して「乗車券拝見」をやっていた。車内で見せることのなかったA4判の切符をここで近鉄の駅員に見せ、東側のJRの改札へ向かって跨線橋を歩く。
 14:58着ということは、当初立てたプランと比較すると、遅い方の時間より6分早く津に到着したことになる。中川から乗ってくるはずだった普通白塚行きをどこで抜いたかは記憶にないが、よくわからないうちに遅れを取り戻している。時間をお金で買う、というのがどういうことかよく分かった。特急に乗って、1時間ぐらいは節約できたことになるのだろう。

 津支店のある津市の中心部までは、駅から結構距離がある。遠いのは前からわかっていたが、改めて今コンコースの案内地図を見ると、津支店の最寄り停留所「岩田橋」まで、駅から直線距離で2kmはある。これはもうバスに乗らざるを得ない。かくして、駅前のバスロータリーへ。1番のポールに三重交通の34系統、警察学校行きというのが一番早く来たので、とりあえずこれに乗ってしまう。15:05発ということであった。
 津駅前を通って市の中心部に向かう国道23号は、個人商店・アパート・一戸建て住居といった建物が雑然と並んでいる。地方都市の市街地から少し外れた幹線道路ではおなじみの光景といえる。特筆すべきは道幅だろう。23号線は、この近辺では何と片側4車線もあるのだ。双方で8車線もあればさすがに道路渋滞はないだろうが、それゆえにか、ロードサイドの商業はいまひとつ賑わいがないように見えた。片側4車線というのはもちろん「大都市」(交通量が多いという意味で)でなければありえないだろうが、といって東京のように地価の高いところにはかえって存在しないものである。それがここにはあるのだ。中部地方は車の普及率が高いのだろう。
 三重銀行の規模の大きな店舗が右手にあった。三重銀行の本店は四日市市にあって、これは本店ではなく津支店だそうである。三重銀の看板を赤から青に変えただけのような、三重信用金庫の看板が見えた。本店は松阪市だそうで、ここにあるのは丸の内支店というらしい。第三銀(津支店)もあったはずだが記憶にない。京口立町付近では、左側に津信用金庫が見える。これは本店である。津信金の反対側、右手に見えるのは、関西アーバン銀行の津支店(旧幸福銀)だった店舗。大阪の第二地銀だった幸福銀行は、関西地区内外にかなり多数の店舗があった。地方都市の店舗は関西アーバンになってからだいぶ整理が進み、津支店は2007年3月に名古屋支店に統合されている。
 信金が並ぶあたりから、ようやく町並みが賑わってきた感じがした。駅前から乗った客がこのあたりから徐々に降り始めた。バス正面の窓からは、日本生命の巨大な屋上看板が見えている。りそなは確か、日本生命と同じビルだったはずだ。
 大門西交差点で信号待ち。三重交通のバスはエンジンを止めると音楽が流れる仕掛けになっているらしく、アイドリングストップでエンジンを止めた車内では軽やかなフュージョン系の音楽が流れている。日本生命ビルにつけられたりそなの袖看板が見えた。
 その手前、三重会館前交差点の角には津中央郵便局があって、その隣にみずほ銀行の津支店がある。三重会館という建物は、もともと津郵便局・日本勧業銀行津支店・三重交通本社の3つが1棟に同居していた。現在は郵便局は隣に移っている。同じ交差点に、三菱東京UFJ銀行の津支店(旧東海銀)もある。西に曲がると市役所があるようだ。
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2008年10月25日

2007.11.28(水)(11)白ヘルとベビースターラーメン

 室生口大野あたりから霧雨となった。大阪を朝出て大和八木で特急に乗るまで、どんよりとした曇り空だったのだが、山中に入ってきて雨が降りやすくなったようだ。青山町付近で検札の車掌がやってきたが、そのまま行ってしまった。検札が青山町で来るのはさすが「国境の地」であるが、私の切符は見なくてもいいのか。別に見せびらかしたいわけではないのだが、こういう時、正規の切符を買って損した気分になってしまうのは何故なのだろう。
 榊原温泉口では、左の車窓に「純金大観音」が見えた。観音さまばかりでなく、この駅近くの谷にはミロのビーナスなど見覚えのある立像が数体、あやしく野外に置かれている。大三(おおみつ)では、10人くらいの集団が見えた。全員が白ヘルメットをかぶっている。といっても、別にカルト集団でも新左翼でもなくて、小学生の集団下校であった。
 山を下りきって平野に出たと思ったら一志(いちし)である。車窓から「津市一志庁舎」の看板を見て唖然とした。大阪線が名古屋線と接続する伊勢中川にもまだ着いていないのに、もう津市とは。後で地図を開いてみると、実は榊原温泉口からもう津市に入っていた。意外なところでは、JRのローカル線である名松線の終点・伊勢奥津も津市になるという。ちなみに、伊勢中川はギリギリ松阪市である。これらはすべて最近の市町村合併のなせるわざであった。
 なお、一志には「ベビースターラーメン」の製造元、鰍ィやつカンパニーの本社がある。小学生時代、駄菓子屋で買い食いをした際にはよくベビースターのお世話になった。「駄菓子屋」と今書いたが、こうした店はいちおう建前としては文房具屋で(私の記憶ではそれ以外の店はなかったと思う)、ガチャガチャの機械やバネ仕掛けの簡単なゲーム機を店内や店頭に置き、放課後の小学生のたまり場になっていた店である。50円玉1枚あれば数点の駄菓子を買い食いできたこうした種類の店は、今もあるのだろうか。そう思ったのは、あの白ヘルの小学生たちに、私の幼少期にあったような「買い食い」という風習が続いているかどうかが気になったからである。もともと駄菓子屋だけでは無理だからこそ正業(?)が別にあったことを考えると、少子化や子どもについての考え方の変化など時代背景が大幅に変わってしまった今、「文房具屋兼駄菓子屋」のような店の経営が成り立つかどうかは疑問だ。そして、ベビースターの製造元も、株式上場こそしていないものの大企業となっているが、これは駄菓子の市場が今もあるからというより、ベビースターラーメンが駄菓子ではなく「まともな」スナック菓子に昇格したからではないだろうか。ともあれ私の幼少期は、駄菓子屋に飽きると家に帰ってテレビを見、終わった頃に夕飯という日常生活だった(勉強は全くしなかったねぇ…)。駄菓子屋もそうだが、夕方のテレビからアニメーションの再放送がいつの間にかすっかり消えてしまったのも、時代背景の変化を反映しているのであろう。

 私を乗せた特急は伊勢中川駅の手前で大きく減速し、駅に入る寸前で左にそれる。すぐに右側から別の線が合流してきた。今通ったのが有名な伊勢中川の短絡線で、もともと大阪方面から伊勢神宮の参拝客を輸送するために作られた近鉄大阪線を、名古屋方面に向きを変えずに直通運転するために設けられた線である。短絡線を過ぎると、電車は再び速度を上げた。雲出(くもず)川を渡る。この川はさっきに伊勢中川につく前の伊勢石橋付近でも渡ったから、トータルでは2回渡ったことになる。まもなく、津に到着である。
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2008年10月24日

2007.11.28(水)(10)初体験、近鉄特急と「柿の葉寿司」

 いよいよこれで関西ともお別れである。次の目的地は、東海エリアに入って三重県。「関西」とはお別れだが「近畿地方」からはまだ抜けていないのがミソである。
 三重県にはりそな銀行の店舗が2店舗あって、県都・津市には旧あさひ店舗の津支店、三重県下人口最大の四日市市には旧大和店舗の四日市支店。今日はこの両方を押さえるつもりだ。奈良県から近いところにあるのは県都の津支店で、今回はこちらを先にする。
 今日の行動は基本的になりゆき任せとなってしまったが、大和八木から先は、東京帰還ということを考えて、若干綿密なプランを用意していた。基本は大和八木12:51発の急行宇治山田行きに乗り、伊勢中川に14:06に到着、すぐに発車する急行名古屋行きに乗り換えて津には14:18に着く。これが乗り換えが少なくて最も美しいプランである。その次は、大和八木13:14発の急行青山町行き。青山町は近鉄の関西エリア最東端にあたる駅で、ここ止まりの列車に乗ってしまうと乗り継ぎが増えるうえ時間もかかってしまう。青山町に14:01着、14分待たされて14:15発の各駅停車伊勢中川行きに乗車、30分かかって伊勢中川に着くと、そこから乗り換える列車は各駅停車白塚行き。というわけで、20分遅れると、津の到着は40分以上遅くなってしまうのである(15:04着)。それでも、途中で乗り換える電車があるだけまだマシで、時間帯によっては1本遅れると山越えができず、結局次の1時間後の電車になってしまうということがあるのだ。
 現在時刻は14時少し前。特別料金が必要な列車を一切用いていない当初の計画からは、すでに1時間以上遅れている。急行などで行ったのでは、次の目的地・津でタイムオーバーとなり、恐らくその次の四日市では日が暮れてしまっている。取り戻すにはもはや特急という「飛び道具」を使って追いかけるしかなかろう。
 かくして私は、大和八木から津まで近鉄の特急に乗ることにした。「時間を金で買う」ということを躊躇しなくなったあたり、年をとったのだろう。

 さて、橿原支店から八木駅に戻る。駅前ロータリーの真ん中をショートカットしてきたところ、タクシーの谷間に迷い込んでしまった。無理やり振り切るようにして近鉄の駅施設に入る。
 時刻表を見ると、14:01発の名古屋行き特急に乗れればよいようであった。改札右側にある近畿日本ツーリストで、津までの切符を買う。近鉄の駅の窓口ではクレジットカードが使えないが、ここなら使えるからである。大和八木から津までの乗車券と特急券、合わせて2510円也。近ツーで買った切符は用紙がA4判と大きい。地紋に細工がしてあって、コピーを取ると「COPY」の文字が現れるのが肉眼で見てとれた。切符というよりは住民票のようだ。
 ホームに上がって列車を待つ。来た特急は12000系(?)という旧型の特急車両であった。車内はいちおうきれいに改装されていたが、赤紫に近いピンク色の布が張られた座席は、なんと簡易リクライニングシートである。背もたれが倒れると同時に座布団が前にずれることでリクライニングシートのような効果を出すものだが、ふんばっていないとせっかく倒した椅子が元に戻ってしまうという、居住性の劣るものである。
 ともあれ、私は車中の人になった。簡リクであっても有料の特急に乗ることなどめったになく、特に私は近鉄特急は初めてである。ホームの売店で買った奈良県の名物「柿の葉寿司」を広げて車内で昼食にした。柿の葉寿司も食したことがなかったので楽しみにしていたが、鯖と鮭のバッテラを柿の葉で包んだだけの料理であり、葉っぱを剥く楽しみを味わっただけであった。まずくはなかったけれど。
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2008年10月23日

2007.11.28(水)(9)橿原支店と八木支店跡

 次の目標は、近鉄大阪線と橿原線とが交差する交通の要衝、大和八木(橿原市)である。ここには橿原支店(旧あさひ銀)がある。
 橿原市は総人口約12.5万人で、奈良市に次ぐ県下第二の都市。市制施行は1956年2月で「昭和の大合併」の際の新市ということになる。ほぼ正方形をした市域の中央には大和三山(畝傍・天香具・耳成の3山)が三角形に並んでいる。商業地区で銀行の支店が多数ある八木地区は、三山の北の頂点である耳成(みみなし)山の西側に位置する。八木の南西(近鉄橿原線の西、JR桜井線の南)には寺内町として有名な今井地区があり、市域の南で畝傍(うねび)山や橿原神宮のあるあたりが畝傍地区と、市の中心部はおおむね3つに分かれている。
 さて、りそな銀行の支店名を音声だけで聞いていると、香芝(かしば)・柏(かしわ)・柏原(かしわら)・橿原(かしはら)は本当に分かりにくい。香芝と橿原は間違えないだろうが、間に柏原が入ってくるとこの4つは非常に紛らわしくなる。そればかりでなく、千葉県の柏を除く3つは、全て大阪と奈良の間にあるのだ。そのあたりの混濁を少しでも避けるために、旧大和は大和八木にある支店を「八木支店」にしていたのだろう。なお、さらに蛇足を付け加えておくと、現りそな銀行橿原神宮前支店は、奈良銀時代の名称を「橿原(かしわら)支店」といった。

 五位堂から13:25発の普通榛原行きに乗車、10分余りで大和八木に到着した。
 降り立つと、駅前には緑色の壁の大きなビルがべったりとロータリーの東側にそびえ建っている。これは立体駐車場である。ロータリーに面した所には三菱東京UFJ銀行の店舗外ATM[大和八木駅前]があり、JTBトラベランドの営業所があって、NOVAがある。NOVAはもちろんシャッターに貼り紙がしてある。南都銀行は近鉄八木駅前出張所という有人出張所を出している。突き当たりにある近鉄百貨店のほうへ歩みを進める。
 近鉄大阪線の高架から立駐を挟んだ向こう側、南都銀行の1軒おいて東隣がりそな銀行橿原支店であった。ATMが6台あって、左から富士通ファクトA・ファクトVモデル20・ファクトA、オムロンのJX白が2台、青が1台。ブランチインブランチ(支店内支店)の実施店舗とあって、ATMの構成はバラバラである。キャッシュコーナーの後ろにある記帳機はオムロンが入っていたから、旧あさひ店舗なのに機械はオムロンの方が多いという珍しい状況になっている。窓口室はクイックナビ方式に改装されていた。13:47、橿原支店を制覇。
 橿原支店は、不動貯金銀行八木代理店として1915(大正4)年8月11日開設され、1919年3月5日畝傍(うねび)支店に昇格した【注】。日本貯蓄〜協和では畝傍支店となり、1962年4月橿原支店に改称、1971年6月現在地に新築移転した。1997年9月には、南口の駅前通り沿いにあったさくら銀行八木支店(旧太陽神戸銀、1976年3月開設)を譲り受けている。
 橿原市はおおむね昭和40年代にベッドタウンとして大きく成長したようだ。戦前から営業していた協和銀行の橿原支店は、1971年6月に現在地(内膳町)に新築移転するまでは旧市街の橿原市八木町3-5-10(JR桜井線畝傍駅北東)にあった。橿原市内のりそな銀行には、橿原神宮前支店(旧奈良銀橿原支店、1971年11月開設)もある。同じ1971年には旧三和銀行が駅前通り沿い(橿原市役所西側)に橿原支店を出店している。旧大和銀行の八木支店は少し遅れて1973年の開設で、この地域ではだいたいこの時期に大規模な人口流入があったとみられる。

 旧大和店舗の八木支店だったところにも、いちおう見に行ってみた。橿原支店の真裏である。3階建ての建物はいちおう健在で、居酒屋ビルのような形態になっていた。大和の八木支店は1973年12月の開設。あさひ銀行との合併直後の2003年5月に橿原支店内に移転し、2006年7月橿原支店に統合された。八木支店のあさひ店内への移転は、りそな銀行発足直後に4か所で実施された支店内支店の第1号であった。

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 【注】橿原支店:本文で採用した日付は以下のとおり。<八木代理店開設>『牧野頭取講演全集』、<畝傍支店に昇格>『南都銀行五十年史』。『南都銀行五十年史』の年表では、奈良県内の金融事項をまとめてある。『協和銀行通史』には「大正8(1919).3.11不動貯金銀行畝傍支店として開設」とある。『牧野頭取講演全集』の年表では、畝傍支店の開設(代理店廃止)日は大正8年4月1日となっている。
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2008年10月22日

2007.11.28(水)(8)香芝支店

 私を馬見北九丁目から乗せてきた奈良交通34系統のバスは、10分かからない程度の乗車時間で近鉄大阪線五位堂駅に到着した。
 五位堂は近鉄大阪線の快速急行停車駅で、1991年10月市制施行した香芝市の玄関口である。駅には近鉄の五位堂検修車庫も併設されている。駅は橋上駅舎になっていて、駅舎からバスロータリーの端まで歩道橋が延びてきている。次の目標・香芝支店は、駅から直接来るのであれば、北口を左に曲がって長い長いスロープを降りてくると一番近いのではないかと思う。
 五位堂駅に「真美ヶ丘ニュータウン前」という副駅名がついているとおり、バスは馬見北九丁目から駅まで一戸建て主体のニュータウンを突き抜けてきた。五位堂駅界隈の開発はまだまだこれからのようだ。この駅の駅前風景はちょっと寂し目で、商業施設はあまり集積していない。もちろん全くないわけではないのだが、はっきり言って少ない。どこぞの携帯ショップがあったようだが、移転したようだ。携帯ショップのような新しい種類の店が「移転」するのが良いのか悪いのかは知らないが、いちおう「動きがある」とは言える。マンションは駅の反対側(南口)にちょっとだけ集中しているようだが、鉄筋コンクリートの3階建て以上の建物がこちら側にはさほど存在していない。それでも、道路沿いに分譲中のマンションがなくはない。「三交」と書いてあるから、開発主体は三重交通か。
 そして、駅前には板張りで白壁と屋根のついた塀がある。入母屋屋根の大きい古い農家と土蔵もその向こうに見える。こういったものが、五位堂駅前にはこれみよがしに残っている。家主はおそらくこの近辺の地主であろう。

 さて、バスの終点が「駅前」という時、期待を裏切って駅から遠く離れたところで降ろされることが多いのだが、今回に限って駅の階段の真ん前まで連れてきてくれた。五位堂ではここまで連れて来られるとかえって遠い。バスは五位堂駅前通り沿いにある香芝支店をかすめて駅前に到着したから、今通って来た道を再びダラダラと歩いて戻ることになる。非常にむなしい状況で、ありがた迷惑とはこういうことを言うのだと一瞬思ったが、せっかくの「うまみ」にケチをつけることもあるまいと思いなおした。甘いスイカにほんのわずか塩をつけると甘みが増して感じられるというが、それと同じである(筆者はスイカに塩をかけるのは嫌いだが)。
 とはいえ、支店はやはり駅から近いところにある。大通りを真美が丘団地方向に向かっていくと、「向かって行く」までもない距離のところに大和信金・りそな・南都銀と金融機関が3軒並んでいた。りそなの北隣にある南都銀行は真美ヶ丘支店という名前になっている。やはり奈良県ではどうしても南都銀とバッティングする。駅寄りにある大和信金は香芝支店である。
 13:18、香芝支店を制覇。窓口室はクイックナビ改装済み。機械配置は両替機、オムロンJX白4台、リーダスAK-1が1台、そして通帳記帳機となっていた。
 香芝支店は大和銀行香芝支店として1982年5月の開設。1998年3月に新築のため仮営業所に移転し、現店舗の落成は1999年2月のことであった。

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2008年10月21日

2007.11.28(水)(7)うまみがキターッ!

 さまざまな人間模様を織りなしつつ、バスは上牧出合終点に着いた。
 上牧出合は、上牧町役場の次の停留所である。停留所の目の前には上新電機の黄色い建物が建っている。これはさっきりそなの行員さんに教えてもらったとおりである。店の横で奥に曲がり込んだ折り返し所でバスを降りて、私は名も知らぬ2つ先の停留所まで歩き始めた。
 沿道の風景は典型的な「ファスト風土」であった。新しい道路なのだが、2車線しかないから道幅はさほど広くはない。洋服の青山やバーミヤンといった、ロードサイドにありがちな業種の店が目立ったが、すぐにそれはパタッと途切れた。低い山があって、その麓は水田になっている。
 山は、高さからするとひょっとしたら古墳かもと思わせるたたずまいである。道の左側は川が並走していて、小さな橋を渡った先にちょっとだけ集落が開けている。街路樹としてイチョウが植えられていて、黄色い葉っぱがたくさん落ちている。山の方に目を転じると、雑木林がだいぶ紅葉していて、緑と黄色が混ざってそこそこ綺麗であった。
 しばらく歩いてくると、葛城台という停留所があった。これから行く停留所と上牧出合との中間地点である。この停留所にはこの時間、1時間1本の五位堂行きしか来ない。あと2停留所ぐらい、向こう側から上牧出合まで乗り入れてくれればいいのにと思う。でも、そうならないのも理由があるのだろう。王寺から上牧出合までは、ロードサイドの店もそこそこあって、西大和ニュータウンの(中心地ではないにしても)中核をなしている土地であると思われる。しかし、折り返し所そばの上新電機を境に店がパッタリなくなって、里山のふもとの水田地帯になってしまうのである。やはり人の流動がこのあたりを境に分断されるのであろう。

 行員さんが説明してくれたとおり、前方左側にガソリンスタンドが見えてきた。バス停は、スタンドのある大通りを越え、もう1本細い道を越えた先の左側にあるらしい。
 上牧町は交差点の手前までで、ここから広陵町に入り、道の名前も大谷奥鳥居線となったようだ。この交差点を境にして、瀟洒な新興住宅地、それも明らかにちょっとだけ富裕な層が住んでいる街並みになった。街並みというか、一戸建てが建ち並んでいるのだが。交差点そばには、見たことのない和食チェーンと、ベーカリーレストランのサンマルクがあり、「公文式」の教室もある。私にとってはなつかしいファミレス「トマト&オニオン」があったりする。メジャーなチェーンをあまり見かけないのはなぜだろうと思うが。
 前方に石垣があって、その上に何やらハコモノ公共施設が見える。広陵町立真美ヶ丘第二小学校ということだ。町立の小学校に付属幼稚園まで付いているらしい。石垣の下にバス停が見え、手前の交差点をバスが曲がり込んでいくのもさっき見えた。たぶん、それが折り返して戻ってきたら私が乗ることになるのだろう。
 バス停の名前は「馬見北九丁目」といった。読み方は「うまみきた」9丁目である。名前のとおり「うまみ」、つまり五位堂行きのバスがうまくあるかどうか。
 時刻表と時計を見比べると、次に来るバスは13:04発である。さっき西やまと支店前のバス停では、五位堂行きが13:14とあったから、計算上ここではそれが13:26になるはずであった。

 間違いない。
 この停留所を13:26に出る五位堂駅行きは、時刻表の注記に「後のり、運賃後払い」とある。王寺から来る整理券発行の系統であった。
 マンセー。溜飲を下げた。歩くことで20分ほど余計にかかったものの、結局、支店前からバスに乗って来るより22分早く五位堂駅にたどり着くことができる。停留所の名前のとおり「うまみがキターッ!」という感じであった。
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2008年10月20日

2007.11.28(水)(6)五位堂まで「ご移動」

 さっきからぼやいているとおり、西やまと支店から五位堂までは、小一時間後までバスがない。時間に余裕があれば散歩でもしてからバス停に行けばよいかもしれないが、私は今日じゅうに東京に帰ろうと思っているので、少しでも時間を節約したい。いや、今「時間に余裕があれば」と書いたが、古い宿場町などならともかく、こうした団地店舗の周辺にみどころがあるとも思えず、時間に余裕があっても願い下げである。
 こういうとき、たとえば宮脇俊三だったら平気でタクシーに乗るのだが、私にはタクシーという乗り物は「ブルジョアの乗り物」という認識が根強くあって、最後の手段にとどめておきたい意識が強く働く。吝嗇漢であるせいかもしれない(その割に結構色々と無駄遣いしているが)。
 そういうわけで、支店の窓口室にいた女性の行員さんに聞いてみた。五位堂まで急いで行きたいのだが、支店前から出る1時間1本の五位堂行き以外にバスはないのか、と。
 私の相手をしてくれた女性は、支店前から出るバスで途中の「上牧出合」(かんまきであい)まで行き、そこから2停留所ぐらい先まで歩くと、五位堂行きのバスが30分に1本ぐらい出ているらしいと教えてくれた。

 一瞬迷ったが、今回ちょっとそれに賭けてみようと思う。
 礼を言って支店を出た。片岡台一丁目のバス停で、掲示の時刻表を見る。王寺駅を出てこの団地を抜けていくバスは、五位堂駅まで行くのは1時間に1本だが、それとは別に途中の上牧出合までのバスが1時間に1本あり、さらにもう1つ別の行先と合わせてトータルで20分間隔になっている。さっき王寺で乗った五位堂行きの20分後に出た上牧出合行きが、間もなくやってくるようだ。第一段階はこれでクリアした。ニヤリとする私の前にバスが止まって、乗車口のドアを開けた。
 車内は長閑なものであった。バスに初めて乗るというお婆ちゃんがいて、近くの乗客に「いくらですか」と尋ねている。教えてやっている中年の女性客もエエカゲンで、整理券の番号も見ないで「170円」などと教えていたが、降車の際運転手に「230円やねん」と言われたお婆ちゃんは、慌ててカバンの中から500円玉を出して両替をする。とにかく待たせる。一言言ってやろうかと思ったのだが、そのお婆ちゃんは偉かった。手間をとらせたことを運転手に何度も何度も謝り、それだけではなくバスの乗客に向かって「すんませんでした」と言って降りていったのである。そういうところに気がつくというのは、やはり年の功なのだろう。運転手は別に仕事だからいいのである。それより、バスに乗り合わせた他の客にこそ本当に迷惑なのだということが、あのお婆ちゃんにはよくわかっているのだ。待たされたのは事実だが、気持ちの良い待たされ方で、良かったのではないだろうか。
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2008年10月19日

2007.11.28(水)(5)西やまと支店

 バスは、高速道路をまたいだところですぐに右に曲がって走り去っていった。バスを降りた目の前には、高速道路の掘割が通っていた。天理で名阪国道に接続している西名阪自動車道である。高速道路の王寺寄りが、目指す西やまと支店のある片岡台の住宅団地であった。
 支店に行く前に、次の目的地・五位堂(香芝市)に向かうバスがこの停留所から何時に出るかを見ておかなければならない。イヤな予感があって、王寺駅のバス時刻表には、五位堂駅行きは1時間につき1本しか書かれていなかったと思うのだ。まさか本当に1時間1本しかないのだろうか。最悪の場合はタクシーで五位堂に行かざるを得ないだろうが、一体いくら取られるのだろう。
 そう思って時刻表を見ると、五位堂駅行きはやはり、1時間に1本しかないようだった。ということは次は13:15発になってしまう。かっきり1時間後。参った。五位堂とはもっと密につながっていると思ったのだが。
 バスの本数が非常に少ないのもショックだったが、りそなはどこにあるのだろうか。片岡台三丁目の停留所の傍だと思ったのだが、意外に距離がある。というより「銀行」がそもそも見当たらないではないか。どうやら、片岡台三丁目で降りたのは間違いで、1つ手前の「一丁目」で降りなければならなかったようだ。
 今来た道をとぼとぼと戻る。ここ片岡台は1971〜72年にかけて公団住宅として開発されたところで、団地の給水塔とおぼしき建造物には都市機構の紫色のマークが付いている。この団地の自治会は相当に筋金入りの左翼が指導しているようで、「住まいは人権、住まいは福祉」などと大きく書いてあり、どさくさにまぎれて「食料品等は非課税にさせよう」「消費税増税は許せません」などという看板までつけている。後で別の場所の看板を見ると、どうやら公団住宅の民営化および切り売り反対、というのが主旨のようである。
 片岡台一丁目の商店街まで戻ってきた。三丁目まで行ったら行き過ぎで、やはり一丁目が最寄りだったのである。王寺からくると、一丁目でバスを降り、なおかつ後に戻るような形だ。ここは団地の中心になる商店街で、昨日見た川西の多田グリーンハイツの商店街などと同様のたたずまいをした商店街だが、こちらはまだシャッター率はさほど高くないようだ。今見たら、はっきりりそな銀行の看板が見えているから、どうして見落としたのだろうか。りそなの向かい側は再開発ビルで、1階にはmandaiというスーパーマーケットが入っている。万代は東大阪市に本社を置いて、大阪・奈良を中心に100店舗以上展開しているスーパーだが、これまでに接する機会はあまりなかった。
 西やまと支店に入る。窓口室はクイックナビ方式に改装されていた。クイックナビでやっている店では、旧大和店舗といえども富士通のATMがたくさん入っていて、西やまとの窓口室ではファクトVモデル20を数台使っていた。12:26、西やまと支店を制覇。ATMはキャッシュコーナーに4台、店内にもう1台あって、合計5台という体制である。コーナーのATMは大和店舗らしくオムロンの機械ばかりで、左からAK-1、JX白、そしてIXが2台であった。店内の1台もIXで、この支店はIXの台数が多い。その他に、通帳記帳機がATMブースの後ろにあった。
 西やまと支店は、大和銀行の西やまと支店として1976年6月開設された。1985年の2月から上牧町の指定金融機関となっている。支店のある団地の名前は「西大和片岡台」であり、支店の名前を「西やまと」とひらがなにしているのは、言うまでもなくこの支店が旧「だいわ」銀行の支店だからである。大和銀があさひ銀と合併したことで、りそな銀行には「西やまと」と「東大和(ひがしやまと:東京都東大和市)」の2つの支店が揃うことになった。

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2008年10月18日

2007.11.28(水)(4)長閑なやまと路をゆく

 次の目標は、西やまと支店(奈良県北葛城郡上牧町)である。奈良県の郡部にある支店だが、ここは旧奈良銀行店舗ではない。
 西やまと支店に行くためには、王寺(北葛城郡王寺町)へ出てそこからバスに乗る必要がある。学園前から王寺へは、近鉄で生駒へ戻り、生駒から近鉄の生駒線という半ローカル線に乗り換えて30分近くかかる。
 学園前の駅に戻ってきた。案内表示によると、次の電車は11:09発の区間準急難波行き。とりあえずこれに乗る。11:17に生駒駅に着いてみると、次の生駒線王寺行きは11:29までなく、かなりの時間待ちをくらう羽目になってしまった。15分間隔で出ている近鉄生駒線で12分待ちとは、よほどハズしたということである。
 それでも、定時まで待っていると、日本では電車はちゃんと動いてくれることになっている。王寺行きが動き出した。近鉄生駒線は生駒盆地の真ん中を貫いて走っていて、車窓からは奈良県の田舎の風景が広がっていた。水田が多少あり、入母屋造りの古い立派な瓦屋根の農家もあり。ベッドタウンである生駒の近くだから住宅は多かった。
 電車はのんびりと走っている。そして、このようにベッタリと塗りつぶされたのんびりムードに、少々焦りを感じている私であった。何しろ、もうお昼近いのである。少しでも時間を稼ごうとそわそわし始めた。焦りをよそに、とんでもないおばさんが車内にいた。ナントカ北口という駅、王寺の2つ手前であったが、古い知り合いに会ったらしく立ち話を始めてしまったのである。「乗るんですか、乗らないんですか」とホームの駅員に聞かれ、慌ててドアから出していた首を引っ込めたものの、それでもまだ何かしゃべっている。困ったものであった。
 11:54、ようやく王寺に到着。ここで、奈良交通のバスに乗り換えである。生駒からほぼ真南に走ってきた近鉄生駒線は、王寺につく直前で大和川を渡りながら左に90度向きを変え、東西に走るJR関西線の北側に、JRと平行に滑り込んで終点となる。西やまと支店があるのは王寺駅の南だから、JRの駅の向こう側であった。

 JR王寺駅は、最近整備されたらしき橋上駅舎であった。みどりの窓口で「イコカ」のチャージをしながら、女性の駅員に奈良交通のバスターミナルの場所を聞いてみると、やはり跨線橋を南に抜けた先とのことであった。
 南口駅前には総合スーパーのイズミヤがあって、三井住友銀行の大和王寺支店(旧太陽神戸銀)が1階に入っている。太陽神戸銀行は関東地方の相当マイナーな都市にまで支店を出していたが、牛久(茨城県牛久市)や小山(栃木県小山市)など、太陽神戸とイズミヤで店舗網が重なるところが多い。イズミヤは関東地区に5店舗しかないが、その数少ない関東の店が太陽神戸と相当程度重なるということは、出店にあたって一定の提携関係のようなものがあったのではないか。あくまで想像だが、イズミヤがらみでふと思い出した。
 バス乗り場の時刻表を見る。乗るべきバスは13系統の五位堂駅行きで、12:05発車した。奈良交通の車内アナウンスは、停留所の中間で「次は××です」と言ったあと、停留所に到着する寸前にもう1回「××です」と入るのが特徴で、1つの停留所につき2回テープを回さないといけない。運転手は結構大変なのではと思う。あともう1つ、時間調整を結構頻繁に行うのである。だから途中の停留所で、客の乗降も終わっているのにしばらく凍りついたように停まっていることがある。何をやっているんだと言いたくなったが、まあ他所者の私が言うことではないだろう。
 うろ覚えしていた西やまと支店の最寄り停留所は「片岡台三丁目」といったはずだ。王寺町役場前を通り、南都銀行西大和支店の前をかすめて、片岡台三丁目には12:15頃着いた。ここは上牧町というのだが、ここへ来るまでの間に河合町という別の自治体を挟んでいる。いちおう町の領域として上牧と王寺とは隣接しているものの、バスは王寺からストレートに来るわけではない。奈良県は平成大合併でもあまり合併が進まなかった地域なので仕方がないかもしれないが、自治体の数が非常に多いようだ。
 バス代は王寺駅から190円であった。奈良交通はイコカが使えるという。この点はありがたいと思った。それでも苦言を呈しておくと、読み取りの感度が極端に悪くて、普通だったらサッと近づけるだけで読み取るはずのところ、機械にベタッと押し付けないと読み取らない。しかも機械のカード読み取り部分にエッジが付いていて、タッチして横にずらすということができずに、接触してからまた剥がさなければいけなかった。物理的に接着してしまうわけではないのだが、剥がすという動作をしなければいけない。それがものすごく面倒くさいと感じた。
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2008年10月17日

2007.11.28(水)(3)近鉄学園前支店

 りそな銀行近鉄学園前支店は、駅前の「パラディ」というビルに三菱東京UFJ銀行近鉄学園前支店(旧三和銀)と一緒に入居している。駅前ロータリーの一番西寄りのところに建つ雑居ビルの1階には、三菱東京UFJの旧三菱銀の支店(学園前北口支店)がローソンと一緒にある。
 三菱東京UFJが学園前では同居店舗など行わず2軒別々の支店を構えている様子を横目で見つつ、りそな銀行近鉄学園前支店の制覇。この支店はATM台数が意外に少ない。以前来た時の印象では10台ぐらいズラッと並んでいたように思ったのだが、今日来てみると5台しかなくて拍子抜けした。リーダスAK-1が1台、あとは全部オムロンJXの白台という構成であった。別に、コーナーの一番左に両替機がある。
 店内で配布されていた(置かれていた)チラシを何気なく手に取る。近所にある学園大和町支店(旧奈良銀)は、リニューアルに伴ってこの11月12日から窓口での現金扱いをやめたという。リニューアルということは、白の内装にしてクイックナビでも導入したのだろうか。店格が変わったわけではないので行く気にはならないけれども、窓口で現金を扱わない「支店」というのはちょっと想像を絶する気がする。出張所に降格しないで支店格のままで現金扱いをやめたということらしい。ともあれ、2006年1月の奈良銀の合併から2年近く経過し、奈良地域でもいろいろな形で営業の見直しが行われているようだ。
 奈良地域の営業見直しといえば、1つ期待していることがある。ここ近鉄学園前支店が母店となって2007年3月に開設された「りそなパーソナルステーション・ギャラリー登美ヶ丘」という有人出張所がある。この出張所は窓口で預金を扱わないため、せっかく新設されたのに「制覇」ができず失望していたのである。そこで、登美ヶ丘について「預金を扱うようにはならないんですか」と、ロビーにいた男性の案内係に聞いてみた。彼は一言「ならないと思いますねぇ」と答えただけであった。
 近鉄学園前支店は大和銀が1982年6月に開設し、1991年10月に学園北1-9-1の現在地に新築移転してきた。旧店舗跡地には旧大和銀グループだった奈良銀行が学園前支店を出店したが、りそな銀行への合併前に閉店(学園大和町支店に統合)している。

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2008年10月16日

2007.11.28(水)(2)千里から奈良盆地へ

 ここからが、本格的に奈良県方面へ突入する行程となる。次の目標は、近鉄奈良線沿線の高級住宅地、学園前(奈良市)。りそなはここに近鉄学園前支店を置いている。
 千里中央から奈良方面に向かうには、北大阪急行/地下鉄御堂筋線で大阪市内に出るしかない。私の嫌いな単純往復ということになるが、まあこれはニュータウンの宿命であろう。大阪を中心とする放射線の1つである北大阪急行から、別の放射線である近鉄沿線に行くためには、いったん放射の中央(大阪市内)に戻らないといけない。観念して北急の南行電車に乗ることにした。
 その北急だが、ホームに降りると発車ベルが鳴っていた。09:47発、なかもず行き。駆け込もうとしたのだが、目の前でドアを閉めて発車しやがったのである! クソッタレと思ったが、次の電車は09:50だそうで、3分後に出るのであればまあ勘弁しておいてやろう。
 かくして、3分後の電車に乗車。地下駅の千里中央から地上に上がると同時に国道423号と並走し、というより道路の真ん中を走り、江坂から大阪地下鉄に変わってもそれは継続している。西中島南方を出てすぐ淀川を渡り、そこでようやく線路は新御堂筋から離れて地下に潜っていく。

 さて、大阪市内から奈良市方面に向かうにはいくつかのルートがある。今持っている切符の有効区間を考えると、近鉄で行くのが妥当であるが、近鉄線にしても2ルートある。難波から奈良線に乗るか、それとも本町で乗り換えて地下鉄中央線/けいはんな線経由で生駒にアプローチするか。大幹線で急行なども盛んに行き交う奈良線と比較して、地下鉄中央線と直通運転している近鉄けいはんな線(旧東大阪線)はやはりマイナーなイメージが強いし、奈良線と比べて乗る機会も多くはない。それに、御堂筋線で2駅手前の本町で乗り換えとなるだけに、数分の時間短縮効果もあると思えた。もちろん、中央/けいはんな線は各駅停車しか走っていないから、それで時短効果は帳消しになってしまうのだが、トータルでは「滅多に乗れない線に乗る」というメリットを享受することができる。決まった。本町で乗り換えだ。
 こうして私は御堂筋線を本町で降りて中央線に乗り換えることにしたが、結論から言うと、この乗り継ぎはすぐに後悔した。本町駅は御堂筋線から中央線への連絡通路がやたらに長くて、大変な距離を歩かされてしまったのだ。実際の距離は大したことはないのだろうが、大阪の地下鉄は「簡単で乗り換えが便利」というイメージがあって、その先入観からすると恐ろしく長い距離に感じたということである。東京で言うと日本橋での銀座線と東西線の乗り換えに匹敵するぐらいだろうか。
 しかも、中央線はやはり本数がさほど多くなく、そして生駒でもう1回の乗り換えが必要であった。中央線と直通運転している近鉄けいはんな線は、生駒で奈良線と接続した後、再び分かれて登美ヶ丘にそれていく。生駒で乗り換えが生じるのは事前に分かっていたとはいえ、それはやはりマイナスポイントである。というわけで、乗り換えはやはり難波で行うべきであった。
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2008年10月15日

2007.11.28(水)(1)よっこらしょ的に千里中央

2007.11.28(水)

 3日目の今日は、東京での宮仕えに備えて早いうちに帰途につく必要があった。夕方頃までに名古屋に着いておかないと、今日のうちに東京に帰り着けなくなる。これらを勘案して、奈良県と三重県を完全制覇し、別にいくつかスポット的に支店に立ち寄って終わり、という大まかなプランを立てた。プランを立てたというよりも「そうしようと思った」程度であるが。
 今日最初の目標は、地下鉄御堂筋線の北の終点である千里中央である【注1】。千里中央支店は建て替えのため2006年1月に仮店舗に移転したのがわかっていたので、ウオッチャーとしては仮店舗の写真を撮っておこうと考えたのである。当たり前のことだが、仮店舗の写真は仮店舗で営業している間にしか撮れないからだ。
 難波の宿から千里中央に向かう地下鉄の道中については、あえて省略する。相変わらず「よっこらしょ」的な、覇気の感じられない行動しかしていないから、特に書くこともない。難波を9時頃出て、千里中央には9時半頃着いた。千里中央までの標準所要時間はいちおう28分である。
 千里中央駅は面白い構造をしていて、地下にある島式プラットホームの上部全体が吹き抜けになっている。その吹き抜けの一番北の端から階段・エスカレーターを上がると、そこが改札。改札を出て真正面に十三信金(千里中央支店)があって、左に曲がった先に複雑に入り組んだ仮通路が設置されている。
 千里中央支店は、千里中央駅の北出口を出て左にある「信用保証ビル」の1・2階に仮店舗を構えて営業している。駅から支店までの仮通路は、白い鉄板で覆われていた。高くて白い壁が両側にダーッと続いている。ゴールデンウイーク前にテレビのニュースで見る、立山黒部アルペンルートの「雪の回廊」に少し似ているが、同じ白でも人工と自然とでは全然違っている。工事現場の白い回廊など、殺風景なものでしかない。
 工事中のビルは、鉄骨を丸く骨組みにしたアーチがガラス張りにされており、間もなく完成してテナントがいくつか移転してくると思われた。支店のある信用保証ビルまで来ると、地下通路からつながる地下1階は、りそなの店舗外ATM[千里中央駅前](千里中央支店)になっていた。ATMはオムロンIXが4台。りそな銀行は店舗外ATMには古い機械を回す方針でやっているようだ。ATMブースはりそな発足当初の標準スタイルで、木目調の内装に緑色の表示(行灯ではない)になっていた。ここで預金取引をしても通帳には<千里中央>と記帳されるのであるが、私は「あさめぐ」時代の名残で、支店の制覇はあくまでその支店に行って取引することにしている。よって、ここではそれをざっと見ただけで、エレベーターで支店のある2階(正確には1階)に上がった。キャッシュコーナーの横に階段が付いているのは後から気がついた。
 1階の店舗部分は、白色主体でクイックナビ改装済み。ここが恒久的な店舗だといっても差し支えなさそうな感じである。ただ、床を歩いてみると何となくベニヤ板のような感触で、ちょっと空洞らしき音がした。
 09:36、千里中央支店の制覇が終わった。キャッシュコーナーにはATMが9台あって、オムロンJX白が6台、リーダスAK-1が2台。そして、右端の1台には少し驚かされた。何と、富士通ファクトVのモデル10だったのである。りそな銀行では、ATMのメーカーは基本的に各店舗ごとに統一されていて【注2】、旧大和店舗ではオムロン(および、その後身であるリーダス:日立オムロン)、旧あさひ店舗では富士通または沖電気のATMが使われている。しかし、千里中央は支店内支店の実施店舗ではないのに、なぜか富士通が1台だけあるのだ。これは非常に不思議な状況である。
 千里中央支店は、大和銀行の千里中央支店として1970年2月に開設された。当初支店は千里ニュータウンの中央センタービル内にあったが、再開発のため2006年1月に西隣の信用保証ビルに移転(仮店舗)したのは前述のとおりである。

 制覇の後、支店前の広場(露天)の横についている階段を上がって、支店横の高いところを走っている道路に出てみた。支店の入るビルは斜面の途中を削って平らにならした土地に建てられているようで、上がった道路は坂道になっていた。
 南北に走るこの道は国道423号である。国道の矢印標識には、北方は勝尾寺10km・箕面公園5.7kmなどとあり、南方は大阪市内方面。名神高速から一般道におりてくると、このビルの南側にある立体交差でもって新御堂筋に入っていくことになる。
 階段を上がったところは各種送迎バスの乗り場になっていて、スクールバスや企業の送迎バスが来るようだ。周辺を見回すと、千里は職住近接のニュータウンとして開発されたので、会社の事務センターのような施設が多い。あそこは大阪ガスだし、その背後にはナントカ海上と書いてあるからどこかの損保会社のオフィスのようだ(三井住友海上)。なお、その北側には、旧大和銀行の事務センターであったりそな銀行の千里センタービルというのがあるようだ。
 りそなの仮店舗が入っている「信用保証ビル」は、大阪府中小企業信用保証協会のビルだそうだ。ちなみに、隣のビルは図書館になっていたが、後日の情報ではこれも再開発のためどこかに移転したようである。

20071128-01_Senri-chuo.jpg

 【注1】千里中央:正確には「相互乗り入れしている北大阪急行電鉄の終点」。
 【注2】りそな銀行のATMメーカー:例外として、合併当初に事実上の支店統廃合として行われた「ブランチインブランチ」(支店内支店)の実施店舗では、その名残でオムロン(旧大和)とそれ以外(旧あさひ)という混成になっているところもある。今後の動きとして、こうした混成が徐々に解消されつつあること、また沖電気の機械が淘汰されていく方向とみられることの2点を指摘しておく。
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2008年10月14日

2007.11.27(火)(23)今日の最後は三宮支店跡

 兵庫県内の制覇はこれにて終了。おかげさまで、最後の神戸支店も含めて、兵庫県は全部押さえたことになる。最後に、旧三宮支店の写真を撮っておこう。廃止店舗跡の写真は、明るいうちに撮らねばと神経質にならなくてもよいことにする。
 三宮支店のあった「三神ビルディング」の写真撮影は、三宮駅に向かう途中で済ませた。支店の跡は「ワタベウエディング」という、結婚式のあっせん業者のショールームになっている。
 三宮支店は旧あさひ銀行の神戸支店だった店舗で、2003年8月神戸支店の支店内支店となり、2006年9月名実ともに統合となった。りそな銀行三宮支店の前身となったあさひ銀行の神戸支店は、1956年10月29日に協和銀行三宮支店として新設されたとされるが、これは御影支店【注1】が三宮に移転して改称したもので、扱いとしては新支店を開設して旧支店をそこに統合するという、旧協和によくあるパターンであった。1971年3月中央区磯上通8丁目に新築移転し、そこで神戸支店に改称して、同時に旧来の神戸支店が元町支店に改称されている。
 ここで「旧来の神戸支店」についても触れておくと、協和銀行の前身となった9行のうち「神戸支店」を持っていたのは4行あった。1945年5月の9行合併で「神戸支店」を名乗ったのは不動貯金銀行の支店であり、他は違う名前に変えられている。安田貯蓄は元町支店、大阪貯蓄は多聞通支店(1948.02廃止)、日本相互貯蓄は柳原支店(移転を経て後のあさひ銀行須磨支店、あさひ時代に統合済み)となった。
 りそな三宮支店につながる神戸支店に話を戻す。1995年1月の阪神・淡路大震災で、三宮にある神戸支店は被災して使用不能になった。元町支店内に移転し同居店舗として営業していたが、1996年1月元町支店を統合し、元町支店の店舗を使って神戸支店となり、1997年3月に新築の三神ビルに移転した。三神ビルは旧支店跡と元町との中間地点付近にある。
 元町支店は1927年に安田貯蓄銀行の神戸支店として開設され、9行合併で元町支店となった後、三宮支店ができる半年前の1956年4月に店舗を新築して神戸支店に改称した。このとき、旧・神戸支店(旧不動)が旧・元町支店(旧安田)に統合されたとみられる【注2】。1969年刊の『協和銀行史』には現有店舗として「元町支店」の掲載はなく、「神戸支店」として掲載されている写真は「あさめぐ」時代に私が見た旧元町支店の建物と同じであった。1971年に三宮支店が新築移転して神戸支店に改称したのに伴い、元町にあるこちらの支店が「元町支店」に改称されている。
 要するに、旧あさひ銀行では、神戸支店は古くから元町と三宮との間を行ったり来たりしていたのである。なお、旧埼玉銀行に神戸支店はなかった。

 今日はこれにて終了である。夕飯を中華街で食って帰りたいところだが、りそなめぐりなる道楽に湯水のごとく費しているので懐が寂しい。阪急三宮を8時過ぎに出る特急梅田行きで大阪市内に入って投宿した。どこの宿かはもう敢えて書かないことにする。

20071127-16_Sannomiya.jpg

 【注1】御影支店:神戸市東灘区御影町御影申御田にあった。1895(明治28)年7月設立の旧御影貯金銀行本店。1930.02.01大阪貯蓄銀行に買収され同行御影支店となる。
 【注2】1996年刊行の社史『協和銀行通史』では、元町支店の項に「(昭和)31.4.9新築、神戸支店に改称」「46.3.22新築、元町支店に改称」と記述している。昭和31(1956)年では統合の件が記載されていない。昭和46(1971)年では「三宮支店の新築移転に伴い」というだけの話なので、元町支店の「新築」は誤記であろう。
 【注3】本文記述のほか、元町支店は1980年から81年にかけて所在地が変わっている(元町通1-13-1→1-7-1、『日本金融名鑑』による)。この点は社史に記述が一切ない。1980.12.01付で神戸市で区制再編(生田区と葺合区が合併し中央区発足)が行われた際に住居表示が変更されたとも考えられるが、単に「1-13-1」が誤っていただけとみたほうが妥当かもしれない。


[11月27日篇 おわり]
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2008年10月13日

2007.11.27(火)(22)絵になる神戸支店

 そして、りそな銀行の緑色の看板が見えた。南京町の入口であるので、何やら中国風の飾り付けも見えている。中国といっても岡山県のある中国のことではない。
 すっかり夜になってしまい、写真撮影ができるかどうか危惧していたのだが、神戸支店に関してはかえって良かったようだ。というのは、支店の横にある中華街のゲートが夜になるとライトアップされるため、一言で言うと「絵になる」写真が撮れたのである。純粋な建築写真としてはまた別の日に撮りに来ないといけないかもしれないが、趣味的な写真としては十分補って余りあるものだったと思う。店舗正面のガラスケースには、兵馬俑だの春節祭だのの模型が置かれていた。南京町の案内図もある。横浜中華街の付け根にりそなの支店はないし、かつてあった長崎出張所も新地中華街からは少し距離があったから、それを思うと神戸支店は非常に恵まれている。
 神戸支店の入る5階建てのビルは、結構古そうである。歴史的建築物について述べた後なので、この支店を「古そう」と言っては文脈が混乱してしまうが、1960年代半ば以降という見立てである。「りそな神戸ビル」ということだが、旧大和銀行の支店だから、ダイヤなんとかとつく系列不動産会社が持っていたのだろう。
 神戸支店を制覇した。ATMは、オムロンJX白、富士通ファクトAが2台、リーダスAK-1が2台、ということで5台である。旧大和店舗に富士通のATMがあるのは、神戸支店のブランチインブランチだった旧三宮支店(旧あさひ銀)の名残である。内装は、りそな発足当初の標準スタイルで、木目に緑色のプレートが付いているタイプであった。

 神戸支店は古い歴史を持つ。大和銀行にとっての神戸は、1922(大正11)年1月に野村銀行が神戸株式取引所内に開設した「楠町出張所」から始まる。この出張所は神戸支店として認可を得ていたが、当初は出張所としてスタートし、同年12月に店舗を新築してようやく神戸支店となった。
 1927年12月、淡河銀行【注1】の神戸支店を継承して栄町通3丁目に新・神戸支店を開設、同時に既設の神戸支店は「楠町支店」に改称された【注2】。さらに、1929年5月には加島銀行の神戸支店を継承し、それで新設された神戸支店に、既設の神戸支店(旧淡河銀行神戸支店)を併合した。店籍上はこの加島銀行の支店が現りそな銀行神戸支店の「ルーツの本流」ということになる。
 強制疎開のため1945年には三宮支店内に移転、その後さらに進駐軍の命令で移転するなど、戦中・戦後の混乱期には流浪を重ね、現在地に落ち着いたのは1947年9月のことであった。現店舗の落成は1966年3月で、近代的なビルとしてはやはり古いということだ。1995年の阪神・淡路大震災では、神戸地区にある大和銀の支店のいくつかが神戸支店内に仮営業所や臨時出張所を設置した。

20071127-14_Kobe.jpg

 【注1】淡河銀行:おうごぎんこう。1898(明治31)年6月設立。兵庫県美嚢郡淡河村(現神戸市北区)に本店を置き、1928年12月末現在で三田・山田・道場の3支店があった。1928年8月新規取引停止命令、1929.09.06破産宣告。
 【注2】楠町支店:1935年1月三宮支店となった後、1998年1月神戸支店に統合された。
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2008年10月12日

2007.11.27(火)(21)花隈から南京町へ

 兵庫県は、神戸支店を制覇すれば全店制覇達成となった。
 ちょっと暗くなってしまった。仁川出張所は、外で遊んでいる子どもが「早く帰りなさい」と近所のおばさんに叱られるくらいの暗さ(明るさ)で何とか写真が撮れたのだが、運が良かったというべきかもしれない。しかし、頑張って何とか神戸支店も取ってこよう。
 仁川から神戸支店までの最短コースは、やはり西宮北口に出て阪急神戸線に乗り換えるルートであろう。この場合欠点が1つあって、元町・南京町にある神戸支店にはアプローチが遠くなってしまうことである。阪急神戸線は元町に駅を持たないからだ。元町に駅がないなりに、三宮の次の花隈(はなくま)あたりが近いのではないだろうか。と、地図も見ないで予測する。
 というわけで、仁川<阪急今津線>西宮北口<阪急神戸線/神戸高速鉄道>花隈、というルートで神戸支店まで行くことにした。仁川16:57発、西宮北口行きに乗車。仁川から乗った阪急今津線は、甲東園で若い女がドッと乗ってきた。この駅は近くに神戸女学院があるから、大半は女子大生である。そして、西宮北口から乗り換えた神戸線の特急(17:13新開地行き)もまた、そうした若い女性たちの「花園」であった。若い女というのは世の中にこんなにたくさん存在しているのか。何となく興奮してしまった。もっとも、この人たちは私とは全然縁がないだろう。私が女性にもてるとかもてないとかではなく、この人たちと私とは生活圏もカルチャーも違っていて接点がなかろうということである。
 17:32花隈着。駅の案内地図を見たところ、私はやや勘が外れていたのを知った。神戸高速鉄道花隈駅は、元町から「ちょっと西に行った場所」というつもりでいたのだが、予想していたよりもかなり西寄りにあったからだ。とはいえ、花隈駅のもう少し西側には、神戸高速の阪神電鉄へのアプローチ線が「西元町」という駅を出しているから、元町まではさほどの距離でもないと思われる。JRのガードを越えて海寄りに降り、元町商店街を歩いていけばいいのだろう。そうだ、商店街も「元町商店街」という名前であるのだ。
 というわけで、駅を出てすぐの角から南に向かう。駅内の案内図によると、このまままっすぐ行けば、地下鉄海岸線みなと元町駅に出るそうだ。花隈駅の界隈には何もなさそうである。商店街に来れば多少は店があるようだが、この時間は商店街から離れたところにある店舗はどこも閉店中である。
 栄町通り4丁目の交差点で、レンガ造りの建物に遭遇した。と思ったら、これは建物の外壁だけが保存されているのであった。このレンガの外壁は、辰野金吾【注】が設計した旧第一銀行神戸支店だそうである。建物は1985年までの20年間、大林組神戸支店として使われていたが、阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた。取り壊されそうになったのだが、地下鉄の駅の出入口(海岸線みなと元町駅2番出口)として何とか外壁だけは残したという。建物ごと残しておいてほしいと思う私は、こういうのは「本来なら」あまり感心しないが、大地震を経ている神戸では外壁のみ残しておくだけでも御の字だろう。
 とにかく、レンガの外壁が残る交差点で左に曲がり、東へ歩みを進める。海の方に必要以上に進み過ぎたようだが、まっすぐ行くとりそなの支店のある南京町に行き着くようだ。
 このあたりから、金融機関が集中する街区になる。花隈駅の地図で見たところでは、地下鉄みなと元町駅から東側のあたりに金融機関が多数あることになっている。まず右に、兵庫県信用組合本店。ここは預金が4000億円近くあるから、信組としては大手の部類である。次いで広島銀行がある。その近辺ではマンションの建築中だが、この場所もひょっとしたら昔銀行があったのだろう。他にも、銀行建築の残骸のように見える建物が2、3なくはない。
 岡山の中国銀行がある。昨日見た姫路をはじめ「歴史的建造物」ふうの建築を数多く持つ中銀のイメージに反し、ここは非常に新しいタイル張りの建物になっている。古い建物を改装したのかと一瞬思ったが、中銀は古そうな外観の建物は古そうなまま使うのではないかと思い直した。後で調べたところでは、阪神大震災で被災して建て替えたということだ。

【注】辰野金吾(たつの・きんご、1854〜1919):明治・大正期の建築家。工部大学校(現東京大学工学部)卒。工学博士、東京帝国大学工科大学学長、建築学会会長。主な作品に日本銀行本店、中央停車場(現JR東京駅丸ノ内口駅舎)など。
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カテゴリ一覧(過去の連載など)
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