2009年01月31日

2008.07.23(水)(1)ご無体な京阪淀屋橋

2008.07.23(水)

 23日の朝は、例によって難波のカプセルホテルで迎えた。
 夕べは10時にはもう寝ていたから、その分起床も早く、5時にはもう起きていた。ロビーにあるインターネット端末は、この時間だれも使っておらず、思う存分検索ができる。必死で検討した結果、今日は京阪沿線を攻めることにした。これを完遂すると、大阪の東〜北東方向に延びる線を全部押さえたことになる。
 ぎりぎりまでプランニングしていて、宿を出たのは9時きっかりぐらいであった。昨日は最高気温が36度まで上がったという。今日もそれに近い暑さになりそうだが、天気が良いのはなによりである。
 昨日ミナミをうろついていて見つけた24時間営業の食堂で、唐揚げ定食の朝食、680円也。食堂を出てそのまままっすぐ歩いてきたら、新歌舞伎座の前、りそな銀行と中央三井信託銀行の難波支店が並んでいる間へ出てきた。ここは何通りというのだろうか。せっかく来たので、りそな銀の難波支店をのぞいておく。入居するビルは積和MASTビルという名前。支店のATMは、3台あったハズの富士通ファクトAのうち、2台がリーダスAK-1に置き換えられ、とうとう1台だけになってしまっていた。これも消えるのは時間の問題であろう【注1】。それから、難波支店のロビーには、近畿大阪の本店と同様、シアトルズベストコーヒーが店を出している。

 りそな難波支店からちょっと南に下がった入口から地下に入ってきた。ここから地下鉄御堂筋線で淀屋橋に出て、京阪電車に乗り換える。本日第1発目の目標は、淀屋橋から各駅停車で6駅目の森小路(もりしょうじ、大阪市旭区)である。
 まず、コインロッカーに荷物を入れて身軽になろう。場所を京阪淀屋橋の女性駅員に聞いたところ、最初の角を曲がって階段を降りたところです、と教えてくれた。そこまではよかったのだが、その「階段」はなかなか見つからず、少し時間を食ってしまった。まずこれが一つ。そして、荷物を手から放して改札を入ったところ、この駅の構造が非常にご無体で、さんざん歩かされたあげく1本乗り過ごしてしまったのである。御堂筋線に一番近い改札から入ると、各駅停車のホームは130mほど前方と書いてある。どこにあるのかと思っていたら、特急などの出る島式ホームの先端部を切り欠いた行き止まり式のホームがあって、そこから09:47発が目の前で出て行ってしまったのである。何なのだこの駅の構造は。腹が立ったが、次は09:57発になってしまった。今日は昨日と違って初っ端から変である。なぜ淀屋橋で30分も時間を食わなければならないのか。
 各駅停車のホームに、私が乗ることになる09:57発の出町柳行きが入線してきた。それを見た瞬間、私は、クソッタレこん畜生と思っていたのを許す気になった。なぜかというと、やってきた車両は、もうすぐ引退する旧特急型車両【注2】で、京阪電鉄の特急のカラーである赤と黄色の塗り分けになっていたからである。引退を前にファンサービスの一環として塗色を変えているのだが、1本早い電車で行っていたらこれには乗れなかった。車両の両端についているドアは片開きで、真ん中のドアだけ両開きという、いかにも改造車らしい珍妙な車両であった。
 というわけで、淀屋橋から京阪電車、特に各駅停車に乗る場合、入った改札によっては長い距離を歩かされる可能性がある。急行でも何でも、とにかく先に発車する電車に乗り、それで京橋まで行って乗り換えたほうが賢いということが分かった。その理由は、単に歩かされるということだけでなしに、天満橋から物理的に電車の本数が増えるからだ【注3】。

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 【注1】難波支店の富士通ファクトA:旧大和銀店舗に残る富士通のATMは、旧あさひ銀店舗(難波駅前支店)が支店内支店として同居していた名残。最後まで残っていた1台も、その後間もなく撤去されたようである。
 【注2】もうすぐ引退する旧特急型車両:1963年に特急用として製造された「1900系」。京阪特急で初めてテレビカーを連結。一般型車両に改造のうえ現役使用されていたが、中之島線開業に伴うダイヤ改正を前に引退した。中之島線は2008.10.19開業した京阪電鉄の新線。京阪本線の天満橋から分岐して中之島に至る2.9km。7月23日時点では未開業。
 【注3】天満橋駅で折り返す電車が設定されていたため。中之島線が開業した現在では同線への直通電車に変わっている。

2009年01月30日

2008.07.22(火)(28)本店を探検して一日が終わる

 普通の探検記では、離島でもジャングルでも、まず「探検」し、それからポイントとなる地点の「制覇」となるのが定番だろう。しかし、この「めぐ記」では、制覇してから探検するという信じられないことが時たま起こる。銀行めぐりは非常に平和な趣味である。
 というわけで、今日の予定を全て終えてしまった今、宿に入る前に近畿大阪銀行本店を少し探検しておこう。夜10時までやっているという南側のキャッシュコーナーは、住友生命本社との間をぐるっと回って行くとあるようだ。どっちみち建物の回りを1周はしてみるつもりだが、あえて案内図に書いてあるのとは反対の方へ行ってみよう。
 今利用したキャッシュコーナーは、低層館と高層館との間にある。その入口の前には、近畿銀と大阪銀とが合併した際に旧大和銀行が寄贈した記念植樹があった。樹種は「あすなろ」ということだ。1階ロビーにはコーヒー店が入っていて、あすなろの右側にシアトルズベストコーヒーのロゴが見える。低層館寄りにある自動ドアから高層館に入ったところがコーヒー店で、客席も含めてかなり広いスペースを取っている。
 本店の受付はシアトルズベストコーヒーの奥にある。コーヒー店の客席の端を肩の高さぐらいの壁で仕切って廊下にしてある。その廊下の奥に自動ドアが2枚あって、まっすぐ行くと本店営業部、右へ曲がると奥が本部受付の入口である。受付の前では守衛さんがこの時間まで張り番をしている。高層館の建物は38階建てなのだが、入口の案内には8階までしか書いていなかった【注】。3階が従業員組合、4階が社員食堂、8階が大会議室と研修室であるらしいが、まあ本部は私のような素人には縁がない。ATMと、せいぜい営業部の窓口に用があるくらいであろう。なお、高層館の近畿大阪以外の部分にはNECが入っているらしい。
 近畿大阪の南側には、いずみホールとホテルニューオータニ大阪の正面入口がある。いずみホールは前述のとおりクラシック音楽専用のホール。ニューオータニでは結婚式ができるらしく、ウエディングドレスが飾ってあった。OBP内は無機質な白とかグレーの化粧タイルで舗装されているところが多いのだが、このいずみホールの近所だけはレンガ色のものが使われていて、ナントカプロムナードといった感じの遊歩道になっている。街路樹はケヤキだろうか。住友生命保険相互会社50周年記念植樹、昭和51年などと書いたものもある。園芸用品店で売っていそうな装飾過多なベンチがたくさん置いてある。
 「いずみホール正面入口」と書いてあるところからだいぶ奥へ入って、ようやく本店南側キャッシュコーナーを発見した。キャッシュコーナーにはATM(JX)が2台置いてあるだけであった。

 南側キャッシュコーナーの真ん前には、地下の通用口に通じる階段があった。この建物に限らず、OBPでは地下駐車場やら立体交差やら、地下の施設が複雑に入り組んでいる。OBPは大阪砲兵工廠、要するに軍需工場の跡地を再開発したわけだから、軍の施設である以上、地下には当然いろいろな構造物があった。それをうまく再利用するために、こうして駐車場などの地下の施設にしているのだ。と、『帝都東京・隠された地下網の秘密』なる本を書いた元テレビ朝日記者の言を借りるとこうなる。
 それにしても、近畿大阪の本店は見れば見るほど巨大で立派であり、近畿大阪銀行そのものも片町線沿線での存在感は非常に大きなものであった。正直に告白して、私は近畿大阪銀行を「りそな傘下の一地方銀行」としか見ていなかったのだが、現地を踏んでみないとわからないことがあるものだ。
 思うのだが、東京・大手町のりそな東京本社ビル(旧協和銀行本店)を売り払った今、1階にコーヒー店を入れるほどの余剰スペースがあるのなら、近畿大阪の本店をりそなグループの新本店にしたらどうだろうか。大手町を売ったのであれば、備後町(大阪本店ビル、旧大和銀行本店)も売っていいと思うのである。見たところ、OBPには全国企業の本社クラスが軒を連ねているようだし、りそなの大阪本社が入っても何ら遜色はないだろう。逆に、近畿大阪の現本店は、地方銀行の本店として場所的に違和感がある。主要地盤の片町線を念頭に置くなら京橋は便利だろうが、本店周辺にあるのは大企業ばかりで、主要な取引先となるはずの中小企業がほとんどなさそうなのだ。片町線へのアクセスが多少犠牲にはなるが、本店は本町営業部(旧大阪銀本店)か船場支店(旧近畿銀旧本店)あたりのビルに移転した方がよいのではないか。京橋地区の営業活動には、別に「京橋支店」でも作ればよい。以上、勝手な放言であった。

 都合のいいことに、今日は荷物を京橋駅のコインロッカーに入れてある。ということは、これで京橋駅へ戻ってロッカーを開けたら、あとは宿に入ろうが東京に帰ろうが自由ということになる。今日はちょっと疲れてしまったので、宿へ帰って寝ることにしたいと思う。但し、いま宿へ「帰って」と書いたが、宿ってどこですか、という話はある。どうしようか。とりあえず、京橋駅までぶらぶら歩きながら考えよう。
 セミの鳴き声はだいぶよたよたしてきていた。太陽は西の空にほとんど落ち切っていた。

 【注】エレベーター横の案内には8階までしか書かれていなかったが、9階が役員室のようだ。

<2008.07.22 おわり>

2009年01月29日

2008.07.22(火)(27)17:53、本店営業部を制覇

 見えた。ディスクロージャー誌などで数回見たことのある、近畿大阪銀行本店である。バブル期によくあるスタイルとは言えるかもしれないが、グレーの外壁を持つ低層棟とガラス張りの高層棟から成る、大規模で立派な建物である。
 日はだいぶ西に傾いてきている。暗くならないうちに、本店の写真を撮ってしまおう。全景を撮ろうとすると、どうしても100mぐらいは後ろに下がらないと無理だ。いかに旧近畿が立派な本店を作ったかということである。本店から通りを挟んだ向かい側にKDDIビルというのがあるが、そこの敷地内から何とか撮れないだろうか。城見通りは本店の東側でJR大阪環状線を越えるアンダーパスになるので、向こうへ渡るためには巨大な掘割にかかる橋を渡らなければならない。
 近畿大阪銀行本店の背後は、住友生命保険の本社だそうだ。住友グループの企業ゆえ大阪に本社があるのは想像の範囲内だが、OBPにあるとは知らなかった。近畿大阪の本店はその隣であって、全国企業に伍してすごい場所に本店を持っているものだと驚かされた。新本店は旧近畿にとって、相互銀行から大きく羽ばたくという意味があったのだろう。
 撮影をどうにか済ませ、肝心の制覇に向かう。「キンキオオサカクイックロビー」は低層館の1階、OBPの中心部から来る城見通りに面したところにある。行ってみると、営業時間は平日のみで18時までだという。ここは「北側」キャッシュコーナーで、「南側」は22時まで営業しているそうだが、南側へは建物外壁に沿ってぐるっと迂回しないといけないらしい。北側キャッシュコーナーの機械配置は、2台のATM(AK-1)+両替機となっている。枠は旧あさひ銀行のパイプ形に似たデザインになっていて、メタリックピンクのような色で塗られている。はめてあるブルーのプレートは、文字に明朝体を使ってあるのがなんとなく野暮ったく見えた。
 店内のスピーカーから、キンコンカンコーン、とチャイムが鳴った。「毎度ご利用いただきましてありがとうございます。間もなくこのコーナーの機械は自動的に止まりますので、只今お取り扱い中のお客様以外はカードをお入れになりませんようお願いいたします。またのご利用をお待ち申し上げます。」と女性の声のアナウンスが流れる。時刻は17:53。終了のアナウンスに合わせて私も、今日の「近畿大阪めぐ」の最終制覇としよう。

 現在近畿大阪銀行の本店として使われている建物は、1988年12月、旧近畿相互銀行の本店として建てられたものである。近畿相互銀行は1989年2月に普銀転換して近畿銀行に変わっており、この建物が「近畿相互銀行本店」だったのはわずか2か月弱の間であった。
 近畿相互の本店新築計画は、1987年に迎えた創立45周年の記念事業の一環であった。堺筋本町の本店(1955年10月築)が老朽化し、また本部機能が6か所に分散するなど業務に支障をきたしていたためだが、場所を変えずに建て替えるには建ぺい率の関係で高層化が難しく、片町線のターミナル・京橋に近い大阪ビジネスパーク(OBP)への移転が決まった。本店が入る建物「OBPキャッスルタワー」は住友生命保険と共同で建築され、地下3階地上38階建て。近畿相互はそのうち地下1階から9階までと、東側低層棟4階建て全部、全体の24%にあたる部分を使用した。
 新本店のスタートに伴い、船場支店が旧本店近くにオープンした。店籍上は、本店営業部を「新設」し、旧本店を船場支店に変更したことになる。旧本店は住友生命および協和銀行【注】と共同で、等価交換方式により17階建ての「堺筋本町センタービル」に建て替えられ、現在船場支店はこの新しいビルで営業している。
 なお、店名の通帳記帳が<本店営業部>となるのは、りそなグループでは唯一ここだけである。りそな・埼玉りそなには「本店営業部」なる営業店が存在しないからだ。

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 【注】協和は近畿相互本店の隣に船場支店を持っていた。旧協和の船場支店は「堺筋本町センタービル」新築後に同ビルに入居、あさひ銀行時代の末期に堺筋本町支店に改称、2004年4月、大阪営業部(旧大和銀本店)内に移転していた大阪中央営業部(旧あさひ銀大阪営業部)に統合された。

2009年01月28日

2008.07.22(火)(26)京橋から大阪ビジネスパークへ

 いよいよ次は、本日最後の目的地となる京橋である。今日の「近畿大阪めぐ」は、京橋駅から少々歩いた大阪ビジネスパーク(OBP)内にある本店営業部(大阪市中央区)をもって終了する。そして、今日一日乗り続けたJR片町線も実は京橋が終点で、ここから先は地下に潜って東西線と名前を変える。
 放出17:24発の各駅停車西明石行きに乗車。京橋には5分ほどで着いた。前方の車両に乗っていたので、京橋ではエスカレーターを上がった所がそのまま西出口の改札になっている。この改札を出て、右へ行くと京阪電車やダイエーにつながり、まっすぐ行くとOBPに通じる連絡通路である。当然直進する。片町線ホームの尼崎寄りにはJR西日本が経営するコンビニ「ハートイン」があって、みずほ銀行のコンビニATMがあるのが見えた。
 OBPへの通路は、まさに「連絡通路」としか呼びようのない、非常に長い廊下であった。体感では200m以上、実際の長さとしては100mぐらいだろうか。腰ぐらいの高さまで壁があって、その上は広告看板が壁の代わりをしている。広告の看板が途切れると片町線の線路が見え、ダイエーの京橋ショッパーズプラザがあるのも見え、線路とダイエーの建物との間が空き地になっているのもわかる。ダイエーの西隣にある立体駐車場の建物が切れたところで、京阪京橋駅の一番西側、片町口から来る連絡通路に突き当たる。ここで左に曲がるとすぐまた突き当たって、クランク状に右→左と曲がっており、その先で寝屋川をまたいでいる。「大阪城歩行者専用道」の一部であるらしい。ちょうど夕方の退勤時刻で、連絡通路は前方からゾロゾロ通勤客が歩いてくる。この時間に帰宅するのは女性ばかりである。男が遅くまで働いているのに、女は定時でさっさと上がるのかい。「男権論者」の私としてはふざけるなと少し思った。

 寝屋川をまたぐ屋根付きの橋から川向こうを見ると、2棟のツインタワービルが右側にそそり立つ。これが「ツイン21」で、MIDタワーとナショナルタワー(現OBPパナソニックタワー)の2棟から成る。雑居ビルのMIDタワーには、あさひ銀行がかつて大阪ビジネスパーク支店を置いていた。ツインタワーの左側に見えるのが富士通の関西システムラボラトリで、ここにはあさひが店舗外ATM(企業内)を出していたので制覇に行ったことがある。富士通のATMシステムなどのショールームになっているようだから、銀行ATMに関心を持つ者としては今度じっくり見に行ってみたい。
 というわけで、OBPは初めてではないが、近畿大阪銀行本店の場所はまだ把握していない。寝屋川を渡ったところに大きな掲示地図があった。OBPは東ブロックと西ブロックとに分かれるそうで、近畿大阪銀行のある「OBPキャッスルタワービル」は東ブロックの4番と書いてある。連絡通路のデッキを降りてパークアベニューという筋に入り、富士通シスラボがある次の交差点で左に曲がるようだ。
 掲示地図によると、近畿大阪の本店の隣は、いずみホールである。そうか、近畿大阪はいい場所に本店を構えているなあ。いずみホールは「いずみ」の名のとおり住友生命が建設したクラシック音楽専用ホールである。このホールの総合プロデューサーを、日本のバッハ研究の第一人者である礒山雅・国立音大教授が務めていて、私の好きなバロック音楽の主催公演では聴きに行きたいと思うものが多い。近畿大阪の本店の行員は、そうしたコンサートに(その気になれば)会社帰りに行けるわけである。「ご近所割引」などもあるだろうし、素晴らしい立地だと思った。
 さて、東ブロックへ向かうべく歩道橋を降りると、黄色いセンターラインを引いた2車線の道路があるけれども、車の通りはほとんどなく、路上駐車の車だけはたくさんいた。いかにもオフィスビルといった感じの高層ビルがドンドーンと何棟も建っているが、コンビニはこういうところにしっかり立地している(ファミリーマート)。あとは、職場の懇親のために和民があるとか、昼のチープな食事のためにマクドナルドがあるとかである。南へ向かって直進する。
 富士通シスラボの建物が切れたところで左に曲がった。ここは、今歩いてきたパークアベニューと目的地のある城見通りとの交差点で、目標は城見通りを渡った向こう側にあるハズだった。

2009年01月27日

2008.07.22(火)(25)何かを期待させる8710

 サンメイツ一番館の建物2階にある出口から、人工地盤上の駅前広場に出る。りそな銀行住道支店が目の前に見えている。だいぶ日が傾いてきたのを感じるが、せっかくなので寄っておく。両替機1台とATM7台があり、内装はプレートだけグリーンに変えた旧大和銀の標準スタイルであった。
 さて、次は再び、りそなグループの拠点が近畿大阪しかない地域に行く。放出(はなてん)。難読地名であるばかりでなく、字面としても意味ありげ。関西エリア以外の人にとっても関心度のかなり高い地名ではないだろうか。関西エリアの人がまず思いつく「放出中古車センター」(現ハナテン)は、1963年にこの地で創業された。
 JR片町線は、住道から大東市を出て東大阪市をかすめ、放出からついに大阪市(鶴見区)に入る。住道から2駅(鴻池新田・徳庵)挟んだ先であり、近畿大阪の店舗網は住道から若干まばらになる。近畿大阪は、かつてはこの2駅、それから放出の先の鴫野にも支店を持っていたが、統合してしまった。

 放出には17:09に着いた。本当はもっと早く着いていたのだが、パッと起きられるようになるまでベンチに座ってぐったりしていたのである。放出は島式ホームが2本ある駅で、いつのまにか立派な橋上駅舎の駅に切り替わっていてびっくりした。なにしろ、階段部分の屋根が波打っている。安普請で傷んでいるのではなくて、新しい建築でウエーブを描いているのである。放出支店は私にとっては近畿大阪の口座店の一つ(旧近畿銀行時代から)で、前回ここに降り立ったのは、近畿銀の時代に店の写真を撮りに来たときだったが、当時は駅舎も地平にあって、とてもではないがこんなソフィスティケートされた駅ではなかった。
 改札を出て北口に降り立った。左手に関西銀(現関西アーバン銀)と近畿銀の放出支店が2軒並んでいるのは健在である。駅前広場に面したところに三和銀も支店がある(もちろん現在は三菱東京UFJ銀行となっている)。旧三和の建物は再開発に伴ってマンションに建て替えられている。マンションの下層階を銀行店舗にするのは最近の銀行建築のはやりで、りそな銀も今度石神井(東京都練馬区)でやる。
 今日一日見てきたとおり、片町線の沿線は開発がかなり進んできており、特に放出は京橋を出てから最初の快速停車駅とあって激変している。以前の駅前はそのまま下町的な商店街になっていたと思ったが、今来てみると駅前ロータリーが整備され、駅前の通りも2車線とはいえ間にもう1車線ぐらい引けそうな広い道になっている。但し、激変したとはいえ、こちら側の駅前には雑居ビルが数軒あるほかは古めかしい個人商店が並んでいて、まだまだ古い面影を残している。駅前の交差点は信号がない。信号がなくてもすぐに渡れた時代の名残なのだろう。駅の反対側(南口)には、30階建てぐらいのマンションが駅舎越しにドンドンドーンと何棟も見える。というわけで、行ってみると、地名の妖しさからくる期待感とは裏腹に(?)激変しつつはあるものの何の変哲もない大阪の下町であった。
 近畿大阪の支店は「放出みゆき通り商店街」というアーケード街の入口にあって、近畿大阪と関西アーバンが並んでいるのはこの商店街の角である。ATMは5台全部AK-1で、内装は横長の青い行灯がついている近畿大阪の標準スタイル。機械回りはグレーで塗りつぶされていた。17:14、放出支店を制覇した。

 放出支店は、近畿相互銀行の支店としては1973年10月1日に開設されたことになっている。もともとは、この日近畿相互と合併した国民信用組合の放出支店であった。国民信組の放出支店は、放出出張所として1959年10月に開設され、支店には1961年1月に昇格している。1973年10月の合併を経て、現在の店舗は1980年11月に新築された。大阪銀行との合併後に、旧大阪銀放出支店だった放出東支店(駅前通りを東に進んだ先にあった)を統合している。
 国民信用組合は、1953年12月に扶桑信用組合として堺市に設立された地域信用組合であった。設立後間もなく近畿相互が人的・資金的な支援を行い、1956年6月国民信組に改称、1958年10月に本店を堺市から大阪市阿倍野区に移転した。近畿相互と経営基盤が似通っていたこと、また信組の要職を近畿相互のOBないし出向者が占めていたこともあって、当時としては珍しい異種金融機関同士の合併話がまとまった。旧国民信組の店舗は1973年10月の合併時点で8店舗あったが、近畿大阪銀行に現在も残るのは放出支店のほか鳳支店(現出張所、堺市西区)、東淀川支店(現西淡路支店、大阪市東淀川区)の3か店だけである。

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2009年01月26日

2008.07.22(火)(24)オランダに似ている?住道

 次の目標は、四条畷から2つ目の住道(すみのどう、大東市)である。
 四条畷16:21発の各駅停車、京橋行きに乗車した。四条畷を出た片町線は、野崎を過ぎるところまではずっと地面を走っている。大阪府下の片町線ほぼ全駅に拠点を構える近畿大阪だが、ここに至って四条畷の隣に野崎という拠点のない駅が出てきてしまった。ただし、りそなグループ全体でいえば、野崎には旧大和銀行がかつて有人出張所を出していたことがあり、りそな銀行の店舗外ATMが現在もある。
 住道に着く直前で、急に高架に上がった。このあたりから沿線ではだいぶ建物の密集度なども上がってきて、空き地がなくなってきたのがありありとわかる。もちろん水田など見られなくなる。
 住道には4分で着いた。りそな銀の住道支店を取りに来たことがあるから、高架下に改札があるという駅の構造は分かっている。改札を出て左に出たところが住道の駅前広場であって、そこが人工地盤になっているのも以前と同じ。2棟並んでいる再開発ビルの向かって左側「サンメイツ二番館」にりそな銀行が見えている。

 さて問題はここから先である。近畿大阪がどこにあるかというと、「二番館」の隣、駅から向かって右側の「サンメイツ一番館」という建物である。イズミヤがキーテナントになっていて、壁面の「サンメイツ」の文字の横に近畿大阪銀行の看板も出ている。KOの看板をよく見ると右矢印がついているから、支店があるのは建物の向こうの端だろう。片町線の線路と平行に流れる川(寝屋川である)に沿って、サンメイツの外壁の通路を東へ歩いていけばいいことになる。
 住道は快速停車駅ということで、マンションなども多少見られるけれども、ここの町並みはむしろ大阪市内に近いかもしれない。木造の民家がびっしりと密集していて、わりと平べったい街並みである。川は堤防がとても高くて、川の流路は掘り込まれた運河のような形になっている。堤防を2階まで届くほどの高さで築いて無理やり掘割にしているということは、普段でも水面の高さが地面と同じくらいで「天井川」に近いのだろう。オランダには堤防から水漏れしているのを発見した少年が漏水個所に指を突っ込んで崩壊を防ぎ、地域を必死で守ったという美談があるが【注】、ひょっとしたらこの地域にも似たような話があるかもしれない。ないか。
 川をまたぐ道路橋は堤防より低いところを走っていて、水位が上昇した時には閉鎖できるように水門がついている。近畿大阪の住道支店は、サンメイツビルの四条畷寄りの一番端で、住道本通商店街というアーケード街の付け根に面している。商店街はそのまま、さっきの水門のついた橋につながっている。住道支店は、住道の駅前にあるというより、この住道の商店街を相手にしている支店なのだろう。
 キャッシュコーナーには機械7台分の枠があり、一番左が空き枠で、残り6台分は全部AK-1であった。「お預け入れ」「お引き出し」等の表示は行灯ではなく緑色のプレートで、後ろから蛍光灯で照らしている。プレートの作り方はりそな銀行の発足当初の標準スタイルと同じで、壁紙を木目調にしているところも似ている。ただ、機械1台1台の仕切りは、丸みをつけたり尖らせたりはしておらず、ちょっと安いのか角張った形状のシルバーになっている。あとは、UFOのような丸いレンズがキャッシュコーナーの目立つところについている。防犯カメラである。これがあるのは近畿大阪独特(少なくともりそな銀行においては一部の店舗外ATM以外では見かけない)で、キャッシュコーナーはりそなと近畿大阪を混ぜたようなスタイルといえる。16:34、住道支店を制覇した。

 住道支店は旧近畿銀行の店舗で、もともとは交野無尽金融の住道支店だった。合資会社であった交野無尽金融は、株式会社に転換して間もない1926(大正15/昭和元)年、支店を2か所に開設した。そのうちの1店が枚方支店、もう一つがここ住道支店であるが、交野無尽時代の開設日までは残念ながら判明しなかった。現店舗は、住道駅前の再開発事業により「大東サンメイツ一番館」がオープンした1978年11月に営業を開始した。

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 【注】有名なエピソードであるが、実際にあった話ではなく、メアリー・メイプス・ドッジ(アメリカ、1831〜1905)という女性作家の創作。オランダの風景・伝統・地理などを織り込んだ『銀のスケート靴』という作品に、小学校の授業で生徒が教科書を朗読するシーンがあり、そこで読まれるのが『ハーレムの英雄』なる「実話」。(ハーレム=オランダの都市)

2009年01月25日

2008.07.22(火)(23)楠公商店街にて

 キャッシュコーナーに置いてある椅子で少しだけ休んだ後、踏切向こうの楠公商店街にあるりそな銀四条畷支店に少し立ち寄った。両替機+ATM5台で、内装は旧大和銀の標準スタイルであるシルバーと青線の内装が健在であった。
 商店街の他のところも眺めてみると、りそなの向かい側にあるのは、関西アーバン銀行の四条畷支店(旧幸福銀)である。朝から片町線の沿線を歩いてきて、ようやくここで関西アーバンの支店に遭遇した。アーバンの支店には、頭取交代の告知看板が出ている。やり手の伊藤さんという頭取が会長に退いたのだ。関西銀行が関西さわやか銀行(旧幸福銀行)と合併し、関西アーバン銀行が発足すると、いかにも第二地銀的な場末の店舗を駅前などの一等地に移転するなど、経営基盤の改革を矢継ぎ早に行った。その立役者が住友銀行出身の伊藤忠彦氏だったが、そろそろ潮時と考えたのだろう。
 通りの中間にあるミスタードーナツには、以前来たことがある。商店街の西側の突き当たりには、旧近畿が1992年から四条畷出張所という有人出張所を出していた(母店住道支店)。大阪銀行との合併に伴い楠の里出張所と名前が変わったが、間もなく新銀行の四条畷支店に統合されている。

 現在のところ、時間は約1時間浮いている。駅に戻ろうとして、商店街にたまたま「力餅食堂」というのを見つけたので、ついふらふらと入ってみた。これについては先月たまたま見た「秘密のケンミンSHOW」という番組(日本テレビ系)でやっていた。大阪には「力餅食堂」が多数あって、各店ごとに内装も看板のロゴも違い、店によってはメニューまで違うが、看板商品のおはぎだけはほぼ全店で扱っているという話であった。チェーンではなく暖簾分けの店だからそういうことになる。
 さて、私はこの店では780円の「唐揚げ弁当」を注文した。別に780円ではリーズナブルでもないと思ったのだが、結論から言うと感心した。この「弁当」は、お重に入って出てくるのである。お重は直径15cmぐらいの円形のものが2段重ね。おかずの箱には鳥の唐揚げ4個に生野菜(キャベスラ・トマト・キュウリスライス)が入っていて、山菜も入っている。それとは別にご飯のお重。ご飯は決して量は多くないが、のりたまがたっぷりとかけてあった。それに小うどんがつく。一つ一つの量を見るとさほど多いわけではないのだが、これで十分お腹がいっぱいになった。だいたい、料理がお重に入って出てくるというのは、関東で暮らしていると遭遇しない気がする。容器をお重にしただけで何となく楽しくなってくるから不思議だ。コリャええわと思った。
 ということで、1時間の余裕時間は30分ぐらいに縮んでしまったけれども、それでもまだ時間の余裕はある。エアコンの効いたところでゆっくり飯を食い、麦茶も4杯ぐらいおかわりしたので、疲れはかなり解消した。ここで足どり軽く次の目的地に向かうことにしたい。

2009年01月24日

2008.07.22(火)(22)四条畷市にない四条畷支店

 次の目的地は、忍ヶ丘の隣駅・四条畷(しじょうなわて)。駅前に四条畷支店がある。
 四条畷という地名は、南北朝時代の古戦場「四条縄手」にちなむとか、市内に墓のある南北朝時代の武将・楠木正行(くすのき・まさつら:楠木正成の嫡男)を祀っているのが四条畷神社であるからとか、諸説あるらしい。いずれにしても南北朝時代からある地名だそうだ。ただし、四条畷市の玄関口となるJR四条畷駅は隣接する大東市にあって、忍ヶ丘駅が四条畷市内唯一の駅となっている。両市の境界線は四条畷駅の北側で片町線と直交しており、四条畷市のメイン商店街である「楠公(なんこう)商店街」は境界線の北側にある。
 さて、電車が四条畷に着いて数分間、私はエアコンの効いた電車の中でぐったりとしていた。私が忍ヶ丘から乗ってきた各駅停車西明石行きは、この駅で後から来る快速宝塚行きを先に通すので、停車時間が長かったから電車の中でぐったりできたのである。
 立ち上がる。支店の制覇に行かなくてはならない。この駅は島式ホームが上下1本ずつある駅で、緩急接続が行われるのは前述のとおり。駅舎は普通の橋上駅舎で、改札を出て右に曲がると東出口になる。普通の橋上駅舎なのだが、床は茶色い化粧タイル(だったのかもしれないが、今はたんに小汚い色になってしまっている)。それが目新しいといえば目新しいと感じた。

 四条畷まで来て初めて、これまでにりそなめぐりで降りた経験のある駅となる。りそな銀行は楠公商店街の中に四条畷支店を持っている。四条畷ではりそなより近畿大阪の方が交通至便な「ド駅前」にある。銀行としての立地条件は、駅前と商店街内とではどちらが良いのだろうか。ともあれ、階段を下りるともう近畿大阪の看板が見えている。駅前にあるKO以外の金融機関としては、階段を降りた目の前が枚方信金のATM(四条畷支店JR四条畷駅前)。階段から駅舎を出て道路の向かいはのぞみ信用組合【注】の四条畷支店である。
 この駅には駅前広場やロータリーはなく、線路に沿って道路が走っているだけである。2車線ぐらいの幅があるが、センターラインは引かれていない。雑居ビルが線路と道路との間に2〜3軒建っていて、全部1階が商店になっている。雑居ビルの並びの先は、延々とバス乗り場になっている。バスは全部縦列駐車で発着しているのだ。そして近畿大阪の店舗。
 15:27、四条畷支店を制覇した。キャッシュコーナーには機械8台分の枠があって、一番左に両替機、ATMはAK-1が6台、そして一番右の枠が空き枠になっている。内装は、今日何度も見ている近畿大阪の標準スタイルで、行灯のプレートはブルーのままであった。

 四条畷支店は、1965年12月に大阪銀行四条畷支店として開設された。四条畷市の玄関駅にある支店だが、店舗はJR四条畷駅とともに大東市にある。
 支店名の表記は、四条畷市の公式表記「四條畷」に合わせて旧字体の<四條畷>となっている。このあたりの用字は悩ましいが、近畿大阪に限っていえば、支店が四条畷市にない以上、表記は「条」を使うべきだろう。JRの駅名が新字体の「条」であるからだ。似たような例は、東京の「ひばりヶ丘」(西東京市)でもみられた。西武池袋線のひばりヶ丘駅は合併前の保谷市ひばりが丘にあるが、田無市谷戸町が駅前まで食い込んできていた。このため、駅前にある各銀行は、保谷・田無のどちらにあるかで、支店名の表記を「ひばりが丘」「ひばりヶ丘」と使い分けていたのである。現在の行名でいうと、みずほ・みずほ信託・多摩信金が「ひばりが丘支店」であり、りそな・三井住友は「ひばりヶ丘支店」。「が」の店は西東京市ひばりが丘/ひばりが丘北(旧保谷市)にあり、「ケ」の店は西東京市谷戸町(旧田無市)にある。田無側の店名は駅名と揃えたわけだ。近畿大阪の四条畷支店は、ひばりヶ丘の例でいうと田無市側にあるのと同じである。

 なお、当「遊牧民の窓」では、四条畷の「条」の字は全て新字体の「条」で統一しているので、念のため付記しておく。

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 【注】のぞみ信用組合:2004.01.13大阪商業信用組合と大阪庶民信用組合が合併して発足。四条畷支店は旧大阪庶民信組の店舗。

2009年01月23日

2008.07.22(火)(21)近畿大阪という銀行のあり方を考える

 支店を制覇する前に、旧大阪銀の店がどこにあったか探してみた。現店舗(旧近畿銀)は、探さなくてもあんなに目立つところにある。
 忍ヶ丘駅は、旧大阪銀のあった東側の方が商業集積がありそうだ。ロータリーの真ん中に噴水があるのはともかく、ビルも多かったり、マンションも数軒あったりで、東側の方が栄えていると思える。忍ヶ丘で商売するのであれば、こちらの方が優れていないだろうか。
 大阪銀の店舗跡はなかなか見つからなかった。持参していた店舗一覧によると、忍ヶ丘支店の旧店舗は「四条畷市岡山東1-8-8」とある。さんざん歩き回った結果、ロータリーに面した地元工務店の本社ビルが旧店舗跡らしいと思われた。東口の店舗が高く売れたのか、あるいは東口は賃貸物件で西口の旧近畿が自前の建物だったのか。なぜわざわざ東口のビルを引き払って、隣が水田になっている側の店にしたのだろう。経営判断に口を挟む気はないけれども。

 もう3時を回っているので、忍ヶ丘支店の窓口室シャッターは既に閉まっている。近畿大阪はりそなグループの銀行だが、窓口は3時で終わりである。なぜ5時までやらないのかと思っていたのだが、店舗を今日1日めぐってみて、その考えはあっさり捨てた。5時まで窓口を開けても、お客は多分ほとんど来ないだろう。人件費ばかりかかって大変だ。「地銀」は都銀とは違うのだ、ということが、今日1日片町線沿線をめぐってみてよく解った。
 ということは、よく言われる「近畿大阪銀行とりそな銀行との合併」も、当然ながら無理である。小売業でいうとイトーヨーカドーとセブンイレブンが合併するようなもので、強行したら近畿大阪が持つ肌理の細かい店舗網はほとんど維持できないだろう。いま「肌理の細かい」と書いたが、これでも苛烈な支店統廃合でずいぶん減っているのである。
 但し、「合併」はできないにしても、同じグループの銀行であることはもっとアピールしてよいのではないか。近畿大阪が発足し、さらに旧なみはや銀行の営業譲渡を受けた頃、私は大阪市の内外を車で走り回ったことがある。その際、大和銀行グループの白い看板が数百mごとに現れたのには圧倒されたものだった。もともとの大和銀行の看板に加え、近畿・大阪・福徳・なにわの4銀行が近畿大阪銀行としてほぼ同じ看板を出したのだから、数でいうと激増だったのである。このことを踏まえると、基幹システムを統合した今、次に望みたいのは「看板の統合」(デザインの共通化)ではないだろうか。私案(個人的なたわごと)を書いてみると、まず、旧大和銀グループの標準フォントになっている現行のロゴタイプは、現りそなグループ共通の書体に変えたい。コーポレートカラーは、今は水色なのか紫なのかはっきりしないが、この2色であれば紫の方が良いと思う。看板や店舗については、カラーリングを多少変えるとしても、デザインはりそな・埼玉りそなと同じにしたい。看板そのものについても、袖看板などはもう少し大型のものに付け替えた方がよいのではないか。以上、無責任な放言であった。
 もっとも、近畿大阪は現実には「看板まで統合」するどころか、逆にりそなホールディングスから切り離して単独で上場させるなどの「スピンアウト化」も検討されているという。せっかくシステム的にも完全に「りそなは一つ」となったのに、せわしないことである。切り売りされるのであれば親会社の「色」が着いていないほうが良い、ということだろうか。

 それにしても、片町線の沿線には近畿大阪と競合する銀行店舗がほとんどない。泉州銀行がちょっと固まって出店していて、あとは信用金庫が多少あるようだが、大阪地盤の都銀(三和・住友・大和)は交野市駅前に旧大和の有人出張所があっただけだ。りそな銀行めぐりの過程であれだけ多数遭遇した関西アーバン銀行(第二地銀である)は、今日まだ1回も見ていない。片町線はこれまでよほど見放された線であったようだ。

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2009年01月22日

2008.07.22(火)(20)駅前にそびえ建つ忍ヶ丘支店

 次の目標は、忍ヶ丘支店(四条畷市)。忍ヶ丘は東寝屋川の隣駅である。
 時計を見ると、2時半を少し回ったところ。事前に立てたスケジュールではようやく寝屋川東出張所にたどり着いた頃で、予定より1時間早い。となると、私の頭にまず沸き上がってくるのはただ1つであった。腹減った、何か食べたい、である。駅前交番の真ん前に「ほっかほっか亭」を見つけたので、うな丼でも買って食べようかと思いかけたが、買っても駅の周辺には座って食べる場所がなさそうなのでやめた。結局、改札を入ってしまうことにした。片町線の各駅停車は15分おきと本数が少なく、東寝屋川では10分待ちとなった。ホームの半分はトンネルの中で、直射日光が当たらない。電車が来るまでの間、自販機で買ったアクエリアスを飲みながら、ベンチでもうろうとしていた。
 14:49、忍ヶ丘に着いた。掘割の下だった東寝屋川からは一転して、高架に上った。駅としては複線の両側に対向式ホームがついているだけの駅だが、混雑度はかなり高い。快速は星田よりこちらに停めた方がよいのではないかと思った。
 高架下に改札があるという構造は、さっきの星田駅と同じである。改札は京橋寄りにある。駅前に枚方信金(忍ヶ丘支店)があるのが改札の中から見えたが、他に金融機関はあるのだろうか。線路際を見るとマンションが1軒。その向こう側にグルメシティというダイエー系の食品スーパーがある。一応、日常の買い物ができる店はあるということだ。
 近畿大阪は、改札を出て向かって右側にすぐ見つかったが、その目立ち方は度肝を抜かれる感じがした。支店があるのは駅の西口側で、忍ヶ丘支店は西口ロータリーに出て正面にドーンと建っている。旧大和銀行式に、カラーの切り抜き文字が正面パラペットの部分にべったりとつけてある。「Dマーク」も健在である。
 支店の隣は水田である。近隣の建物は、スーパーマーケットかパチンコ屋のどちらかだと思う。あとは雑居ビルが1軒。片町線の沿線は、これから開発が進んでくるのかもしれないが、忍ヶ丘についてはまだまだのようである。
 キャッシュコーナーは5台分の枠があって、その横にもう1台分、1段後ろに下がったところに増設されていた。内装は近畿大阪の標準スタイルで、プレートだけ緑色に変えてあった。6台のATMは全部AK-1である。15:06、忍ヶ丘支店を制覇した。
 忍ヶ丘支店は、店籍上は旧大阪銀行の店舗である。四条畷支店忍ヶ丘出張所として忍ヶ丘駅東口に1982年8月開設され、1989年7月に忍ヶ丘支店に昇格した。一方、忍ヶ丘支店の現店舗は、1992年6月、旧近畿銀行が忍ヶ丘支店をオープンするにあたって新築したものである。近畿銀の忍ヶ丘は大阪銀との合併で忍ヶ丘西支店に変わり、駅の東側にあった旧大阪銀の忍ヶ丘支店に2001年6月統合されたが、2003年9月に東口を引き払い、旧近畿の建物に移転してきた。

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2009年01月21日

2008.07.22(火)(19)南アルプスと東寝屋川

 ここは団地の中心部のハズだが、たまに自転車に乗った人が1人とか車が1台とか通るぐらいで、人通りはほとんどなく、公園で遊んでいる子どももいない。静かな夏の昼下がり、この団地は本当に人が住んでいるのだろうか、とすら思った。
 時刻は2時ちょうどである。寝屋川団地のバス折返所にやってきた。テントで覆われた屋根のついたバスホームは、2台が縦列駐車できるようになっていて、星田行きはホームのうしろ側から発車するようだ。テントの外側には、カード式公衆電話の電話ボックスのほか、もう一つ「無線タクシー呼び出し電話」というオレンジ色に塗られた電話ボックスがあって、少し珍しい気がした。バスホームに置いてあるベンチはいろいろな所のお古の寄せ集めらしく形態がまちまちで、5脚ぐらい置いてある。
 14:05発のコモンシティ星田行き京阪バスで、片町線星田駅に帰ってきた。寝屋のバス停から歩いた以外は全く同じルートをたどって戻ったことになる。

 次の目的地は星田の隣駅・東寝屋川。ここには、住道支店寝屋川打上出張所がある。今行ってきたのが寝屋川東出張所で、次に行くのが東寝屋川駅というのはとても紛らわしいが、寝屋川市東方の片町線沿線は、寝屋川市とはみなされていないのかもしれない。山梨県内ではかつて、甲斐駒ヶ岳や北岳といった名峰を含む南アルプスの山々を、西方の山ということでひとまとめに「西山」と呼んでいたそうだ。明治期に来日したウエストン【注】などの外国人がヨーロッパアルプスとの相似を認めて評価するまで、日本ではこうした山々は意識に上ることすらなかったのである。寝屋川市の片町線沿線が一緒くたに「東」となるのは、それと同様の構図といえよう。
 14:15発の普通西明石行きに乗車。車内の女子高生は、制服をミニスカートにしている子ばかりであった。私は以前から女子高生のスカートがロング化しつつあるとの説を標榜していたのだが、どこへいったのだろうか。東寝屋川に到着。掘割の底に島式ホームが1本ある駅で、コンクリートに打たれた数字によると、このあたりの掘割は1976年にできたようだ。自動券売機のところにある「自動きっぷうりば」という行灯の看板はオレンジ色で、書いてある文字も国鉄フォントである。あとで調べたところでは、東寝屋川駅は1979年に開設された。ちなみに、この駅に(エレベーターはあるようだが)エスカレーターはない。
 駅の窓から、少し高いところを道路橋が走っているのが見えた。この道路橋は片町線を直角にまたいでいる。駅舎は掘割をまたぐ橋上駅舎のようになっているが、駅舎の高さそのものは周辺地面よりまだ低いのだ。駅舎から駅前ロータリーに上がると、正面さらに少しだけ上がったところにスーパーのイズミヤがある。ロータリーに面した所に雑居ビルが1軒、そしていきなり民家が建っている。駅前のロータリーに民家が面しているというのは今日何度か見ているが、ちょっと信じがたいものがある。右に目を転じると、新しい駅らしく「東寝屋川駅新設記念碑」なるものがロータリーの歩道と線路際の崖との間に立っている。正面のイズミヤの隣に、10階建てぐらいの団地の建物が建っており、さらに駅前大通りをはさんでもう1棟。両方ともセンタープラザといって、寝屋川打上団地の中心商店街兼高層アパートである。
 近畿大阪の看板はちょっと歩くと見えた。1階部分が店舗になった高層アパートが2棟あるうち、駅前の筋をはさんで向こう側の建物である。出張所に向かって歩いていくと、センタービルのテナントは「喫茶ナイーブ」「ヘアーサロン39(サンキュー)」「荒木米穀店」「ヤスオデンキ」といった個人商店ばかりで、コンビニその他メジャーなチェーンは1つもない。センタービルの向こうには、公団住宅然とした集合住宅が何軒も建っている。棟のサイズは普通の団地より大きいようで、2つつなげたような外観をしている。さっき行った寝屋川よりは新しく、昭和50年代に入ってからの団地なのであろう。
 出張所に入る。窓口室は、クイックで用事を片づける窓口と、相談業務を行う窓口(ローカウンター)とに分かれ、相談窓口の入口はパーティションで仕切ってあった。寝屋川打上出張所は「あいするプラザ」となっているから、テーブルと椅子を置いてダベれるようにしてある。
 キャッシュコーナーは6台分の枠のうち1台分が空き枠で、ATMはJXが2台+AK-1が2台の計4台。そして両替機という構成になっている。ここは旧大阪銀行の店舗であるが、さっきの寝屋川東よりは少しだけ古いデザインのようで、旧あさひ銀行のパイプデザインに似たものを全面的にメタリックの紺で塗ったような外観である。それだけではなく、階段状に1台ずつ、奥へ下がるような形にずらしてあり、りそな銀行でいうと北鈴蘭台支店(神戸市北区)のような構造である。ここもやはりお客の数は結構多くて、4台のATMには並んでいる客もいた。14:27、寝屋川打上出張所を制覇した。

 寝屋川打上出張所は、1979年4月に大阪銀行寝屋川打上支店として開設された。近畿大阪銀行発足後の2004年11月に有人出張所に変更されているが、母店が寝屋川支店ではなく、同じ片町線、しかも四条畷市を飛び越えた大東市の住道支店となっているところが注意を引く。東寝屋川から住道までは、間に忍ヶ丘・四条畷と支店を2つも挟んでいるのに、である。

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 【注】ウォルター・ウエストン(1861〜1940):「日本近代登山の父」とされるイギリス人。英国国教会伝道協会の宣教師として1888(明治21)年に来日。1896年に英国で『日本アルプスの登山と探検』を出版し、ヨーロッパに初めて日本の山々を紹介した。登山者の安全を祈願するため毎年6月第1日曜に上高地で開かれる「ウエストン祭」は、彼の名にちなんだもの。

2009年01月20日

2008.07.22(火)(18)寝屋川東出張所を制覇

 坂を登りきる少し前から、5階建てのいかにも団地の棟といった建物が並び始めた。20〜30棟は軽くあるだろう。坂を上がりきると、右を向いても左を見ても5階建ての棟がズラリと並んで圧巻である。この団地は古いようだが、団地内の掃除は割合に行き届いている。公団の団地だから、都市機構の紫色のマークが所々に見える。
 今歩いている2車線道路は、団地の棟すれすれにずっと奥のほうへ続いている。棟の反対側には団地の駐車場が道路沿いに続く。道路からちょっと奥へ入ったところに京阪バスの「寝屋川団地」停留所(折返所)が見えた。折返所の向こうにも棟がズラッと並んでいる。棟が道路に直角に並ぶだけでなく、奥の方にも広がっていて、団地としては結構人口の多いところかもしれない。ただし、少し寂れてきているようだ。
 団地の棟が切れたところがショッピングセンターになっているようなので、近畿大阪はその中ではないかと思われた。銀行はSCなど金の使えるところに立地するハズで、住居棟の真ん中にいきなり入っているようなことはちょっと考えられない。そう思ってSCに近寄ったが、棟のうち半分は閉鎖された無人の店舗であった。もちろん銀行も見当たらない。
 近畿大阪の発足時に発行された店舗一覧の冊子を持参していたので、開けてみた。この冊子には各店ごとに略地図が入っている。寝屋川東支店(当時)の地図には「明徳保育園」という文字が見えた。バス折返所を背にすると寝屋川東出張所は保育園の向こうである。SCを無視してさらに左へ進むと、地図のとおり明徳保育園があった。いかにも団地といった感じの集合住宅の並びは明徳保育園のあたりで途切れ、代わりに一戸建てが20軒くらいズラッと並んでいる。建ち並ぶ家はどれも外装がそっくりで、同じディベロッパーが開発したのであろう。

 寝屋川東出張所にたどり着いた。出張所の前が高さ1.5mくらいの石垣になっていて、その上は雑草の生えたなだらかな法面になっている。法面の上に5階建ての集合住宅が1棟あって、さらに少し高くなったその隣の敷地にもう1棟建っている。出張所の前の石垣をよじ登って店舗写真を撮った。建物は非常に立派であった。
 ここは「あいするプラザ」、つまり窓口で現金を扱う有人出張所ということになる。「あいするプラザ」のコンセプトがいまひとつ理解できないままでいたのだが、ATMコーナーと普通の窓口のほか、テーブルと椅子と給茶機を置いた客の談話スペースがロビーにある。イオン系のコンビニ「ミニストップ」に設けられている客席と同じような趣旨だろうか。銀行というところは、入口でロビー係が張り番をしていて、客が店に入ろうものなら「今日はどういったご用件で」とか言い寄ってくるわけで、そういうところで寛げるのだろうかと思う。といって、完全に自由区にしたらしたで、今度は非常識な人たちのたまり場にならないとも限らない。難しいところである。但し、夏の午後に銀行めぐりをする者にとって、自由に使える給茶機の存在はありがたく、ちょっとバテバテになってきたので「水を飲ませて下さい」と言って有効に活用させてもらった。
 キャッシュコーナーはATM5台分の枠だが、一番左は両替機、AK-1が3台あって、一番右が空き枠となっていた。内装は「お預け入れ」「お引き出し」という文字の間に横線を引いて区切ってあるコバルトブルーの行灯がついた、旧大阪銀行のCI導入後のものであった。13:53、寝屋川東出張所を制覇した。

 寝屋川東出張所は、1974年10月に大阪銀行寝屋川東支店として開設された。近畿大阪銀行発足後の2004年10月に、寝屋川支店を母店とする有人出張所に変更されている。
 なお、近畿大阪の寝屋川東からひと山越えたところには、りそな銀行の有人店舗・みいが丘出張所がある。星田からのバスを寝屋で降りずにそのまま乗っていると、次の停留所が最寄りの「三井秦団地」である。今日は「近畿大阪めぐ」に専念するため、みいが丘方面への山越えはしないが、グループの店を全部(りそな銀と近畿大阪を混ぜて)回ってみるのは面白いかもしれない。

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2009年01月19日

2008.07.22(火)(17)寝屋川団地への道

 次の目標は、最寄り駅としては同じ星田駅だが、行政区では寝屋川市に入る。寝屋川支店寝屋川東出張所である。
 寝屋川東出張所は、寝屋川団地という公団団地の中にある。この団地へ行くバスは、星田駅前から毎時17分に出ることが事前のリサーチで分かっている。星田に到着した時点で時計の針は既に13:20に向かっているところだったので、ここから寝屋川団地へ移動する方法を改めて考えないといけない。もちろん、50分近く待って次のバスに乗るという選択肢はない。
 星田駅のバス乗り場は、近畿大阪とは反対の側にある。星田駅北側のロータリーは、新線開業したローカル線の駅前のように見えた。何しろ、駅前から商店・雑居ビル・民家という具合に建物が続かず、まず駅前に民家が数軒あって、他の場所は畑なのである。1台だけ停まっていたバスに乗り込んで、運転手に聞いてみる。寝屋川団地行きがあると言ったが、それは1時間1本の運転でさっき出たばかりだと告げると、このバスに乗って「寝屋」で降りればよいと教えてくれた。
 乗ったバスは、京阪バスの[41]系統、寝屋川市駅行きであった。星田駅を出たバスは、線路に沿って京橋方向に進み、突き当たりを右に曲がって、タチ川という一級河川に沿う府道154号(私市太秦線)を進む。中間の停留所「寝屋神社前」の手前では、高速道路になるのか、大規模な道路の高架を建設中である。その手前は水田地帯であったが、工事中の高架の下をくぐると、しばらくは人里離れた感じのする山中が続く。程なく2つ目の山があるが、そこは既に重機でガシガシに崩されている。いずれ広大な住宅団地ができるのであろう。
 マンションなど新しい建物がドカドカと建ち始めたかなと思われるあたりから、寝屋川市に入る。星田からまっすぐ来たバスは、府道18号(枚方交野寝屋川線)に突き当たって左折し、寝屋川の中心街に向かいかけたところで止まった。ここが「寝屋」である。停留所の数でいうと星田駅から2つ目だが、駅からだと1km以上は歩くことになる。この間で実はひと山ふた山越えているのである。

 バスを降りて真後ろに歩き始める。府道18号は1車線×2で2車線だが、黄色いセンターラインの両側に白のゼブラ模様で中央分離帯が書かれた広い道路である。沿道には紳士服店(コナカ)や本屋・リサイクル店・靴屋といった店舗があり、いずれも大駐車場完備のロードサイド型である。和歌山県地盤のスーパー「オークワ」も見える。府道に沿って流れる川は、寝屋川である。
 ゴルフ練習場が川の向こうに見える。「寝屋川団地口」なるバス停があった。ここから左に曲がって坂道を上っていくと、寝屋川団地に達する。バスを降りるときに運転手が「信号を左に曲がって」と教えてくれていた。ゴルフ場の敷地に沿って、団地中央に向かう坂道を上る。ゴルフ場のネットと道路との間には木がたくさん植わっていて、セミがシャカシャカと鳴いている。関東ではまだセミは早いのだが、大阪へ来るともう鳴いている。何というセミかは知らない。
 寝屋川団地というのは基本的に団地であって、典型的な5階建てぐらいの高さの棟が建っているのだろうが、一戸建ても結構多いのだろうか。いずれにしても高台の上である。坂の途中から、開発されていないところにまだ水田が残っているのが見えた。

2009年01月18日

2008.07.22(火)(16)星田出張所を制覇

 隣の駅ゆえ、星田には河内磐船から2分で着いた。対向式ホームがあるだけの高架駅である。階下に降りて改札へ。踊り場つきの階段の下に改札があるスタイルは、旧国鉄の高架の駅でよく見かける。
 駅員は改札にしかいないらしく、切符売り場(出札窓口)というものはないようだった。こういう小駅もJRでは別に珍しくないが、これで「快速停車駅」というのはちょっとびっくりである。JRとしては星田駅をどう位置付けているのだろうか。一応ここは、1955年に旧交野町に合併された旧星田村の中心地であるが。
 高架ホームからまず見えたのは、またもや泉州銀行であった。こんな小駅にまで。というか、泉州銀行は片町線の沿線に相当にしっかりと支店網を張っているようだ。この銀行は、大阪の戦後地銀の一つである池田銀行と近いうちに経営統合するが、そのあと合併により誕生する新銀行は近畿大阪にとって手ごわい相手になるのではないだろうか。なお、星田駅前にある泉州銀は「交野支店」だそうだ。
 駅の南側に出てきた。泉州銀のあるこちら側は、駅前からいきなり住宅地になっている。こちら側の駅前ロータリーにバス停はなく、タクシーだけが停まっている。駅の近くではこれから色々とお祭りがあるらしく幟が多数立っている。「妙見祭り」が23日にあるらしい。23日というのは明日ではないか。地縁のないところであっても、祭祀には心が動く。明日ここの祭りに来てみたいと少し思ったが、明日には明日の行動をしているだろう。ロータリーの中心部には何台かの軽トラックが来ていて、草刈りやら剪定やら作業を一生懸命やっている。たぶんここには祭りの櫓か何かが立つのだろう。作業をしているのは地元のだんじり保存会という団体らしい。

 駅前広場の向こう側に、近畿大阪銀行の星田出張所が見える。富尾工務店という会社が建てた雑居ビルの1階にあるようだ。出張所のある5階建ての雑居ビルのほかは、駅からすぐ近いところにコンビニが1軒(デイリーヤマザキ)。50mぐらい向こう側にはマンションが3〜4軒ある。駅前からは、車1台がようやく通れるぐらいの細い道が2〜3mの間隔をおいて同じ方向に2本出ていて、間のものすごく細いところに小さな平屋建ての家が建っている。再開発の計画に対して立ち退きを頑として拒んでいるのかもしれない。近畿大阪の店舗は、駅前からいきなり住宅地になっているような場所に多いようで、過去のあさめぐ・りそめぐの経験と比べても、商業や事業所の集積度が低いところに店があるようだ。
 星田出張所は小さいながらもしっかり夜間金庫を備えているが、藤阪と同じく「ホッとするプラザ」だそうで、窓口では現金を扱わない店である。店内に入ると、赤いプラスチックの椅子を置いた相談コーナーがあり、給茶機が置いてあって紙コップ入りの水や茶が飲めるようになっている。窓口室にお客は全然いなかった。
 ATMコーナーにはそれなりに利用者がいたようだが、待つこともなく終わった。ATMは3台あって、JXが1台とAK-1が2台である。一番最初に行った長尾支店と同じ感じの内装で、機械の上部には蛍光灯の入った黒い箱がついている。ただしこちらは、明朝体の白文字を書いたアクリル板が貼ってあった長尾支店とは違い、「お預け入れ」「お引き出し」という表示は行灯になっていて、若干ソフィスティケートされている。内壁は木目調であった。13:26、星田出張所を制覇した。
 交野支店星田出張所は、1988年12月に近畿相互銀行交野支店星田出張所として開設された。大阪銀行との合併により交野郡津支店の星田出張所に変わった後、2002年9月に母店ともども交野支店の有人出張所となった。

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2009年01月17日

2008.07.22(火)(15)河内磐船から星田へ

 次の目標は、交野支店が母店となっているもう1つの出張所、星田出張所である。郡津からは京阪交野線で河内森へ出て、JR河内磐船駅まで歩いて片町線に乗り換えることになる。
 静かな団地の昼下がりである。車の通りはほとんどない。この出張所のある場所自体がそもそも、マンションが1軒建っているだけで、商業施設と名のつくものが全くない【注1】。マンションの背後にはストレートに住宅しか建っておらず、コンビニすらないのである。なぜこんな場所に営業店を出しているのかとも思うが、それにしては来店客の数は多い。ATMには列ができているし(但し窓口室は誰もいなかったようだが)。
 駅の南西側、近畿大阪からは線路をはさんだ反対側には団地が広がっていて、大きな集合住宅がドカドカと建っており、団地の入口にはスーパーの万代があるそうだ。地図で見ると、駅の団地口の側に郵便局とJAがある。というわけで、近畿大阪があるのは郡津駅の「寂しい側」のようだ。

 13:01発の私市(きさいち)行きに乗車、河内森には4分で到着した。
 交野市駅を出た京阪交野線は、マンション開発が部分的に進みつつある地区を抜けて築堤に上る。上がったところで府道とJRをまたいでいるが、JRは築堤上を走っているから、それをまたぐために京阪のそれも相当に背が高くなっている。それはいいのだが、JRの河内磐船駅が左の真下に見えているのに、京阪の電車はあれよあれよと言う間に私市方面に走っていく。河内森駅は相当に進んだところにあって、JRとの乗り換えには少し歩かなければならない。
 改札は地下にあって、乗り換え駅とあってエスカレーターが完備されている。出口へ上がると踏切の真ん前に出た。私鉄の「田舎の駅」といったたたずまい。周辺には不動産屋とかうどん屋とか、小規模な店が多い。枚方信金の店舗外ATMもある(交野支店・河内森駅前)。
 JR河内磐船駅までは5〜6分はかかるのだろうか。角の「山本整形外科」と書いてある看板のところで左に曲がるのだと思われる。「駅こっち」という看板は出ていないが、道には人が行き交っているので間違いないだろう。夏休みに入って間もないので、部活の遠征らしき女子中学生が30〜40人、お揃いの体育着を着てテニスラケットを抱えてゾロゾロ歩いている。みんな真っ黒に日焼けしていた。
 ゆるい坂道をまっすぐ下っていく。車1台通ったらいっぱいになるぐらいの狭い道だが、もちろん舗装されている。個人商店がちらほら並んだ商店街になっているが、商店があるのは道の片側だけで、もう片方には新興住宅地然とした住宅が並んでいる。営業している店は多くはなく、とりあえず店ですよ、という程度。それでも、7〜8軒の店があれば商店街という感じはする。京阪−JRの乗り換え客は結構多いようだが、これだけの人通りがあるのに商売が成り立たないのだろうか。商店の並びはほどなく途切れ、左側の駐輪場を挟んで京阪の築堤が続いているのが見えた。
 前方に関西スーパーが見えたところで、ようやくJR河内磐船駅に到着である。磐船という駅名は磐船神社【注2】の「JRとしての」最寄り駅という意味、旧国名の河内は私の田舎を走るJR両毛線の岩舟駅(栃木県岩舟町)と区別するためだろう。JRの駅前に来ると、さっきの京阪の駅前とは違って、駅前にはロータリーが整備されているし、ちょっと雑居ビルぽいものがちらほらと見える(あくまで「ちらほらと」である)。そしてマンション。片町線は大阪と直結している線ゆえ、駅前の整備は支線の京阪交野線よりは進んでいる感じがする。枚方信金はここにも店舗外ATMを出している(交野支店・JR河内磐船)。
 JRの駅に入る。改札は地面と同じ高さのところにあった。京橋方面のホームには階段を上がると着くが、この階段はやや段数が多い。ホームが地平よりかなり高いところにあるのだ。ちょうど電車が来た。13:12発西明石行きであった。

 【注1】2000年4月の近畿大阪銀行発足時に刊行された店舗案内のパンフレットによれば、現在駅前のマンションがあるところは「京阪ザ・ストア」というスーパーになっている。
 【注2】磐船神社:交野市の神社。市の南端、「天の磐船」(あめのいわふね)の別名を持つ天野川の渓谷沿いにある。川をまたぐように横たわる、高さ12m×長さ12mの舟形巨岩をご神体としている。

2009年01月16日

2008.07.22(火)(14)あずきバーをかじりながら郡津へ

 駅前のローソンでアイスキャンデーを買い食いする。井村屋のあずきバーは私の大好きなアイスなのだが、セブンイレブンでは毎年夏が本格的になりかけた頃に販売が終わってしまう銘柄で、ローソンで見つけてつい嬉しくなって買ってしまった。
 あずきバーをかじりながら行く次の目標は、交野郡津(かたのこおづ)出張所である。出張所の最寄り駅は、交野市から京阪交野線で1駅だけ行った郡津。「片町線」からは若干外れることになるが、今回は強引に交野市の全域を片町線沿線とみなすことにした。
 京阪交野線は「住宅地の線」という印象である。交野市から郡津までの車窓風景は、基本的には新興住宅地で、公団住宅のような建物も見られた。郡津には12:39に着いた。複線の両側に対向式のホームがついているだけの駅で、改札は地下だ。改札機を通る際、ピタパ(=イコカ)の引き去り金額を見て絶句した。高い。1駅しか乗っていないのに150円も取られたのである。京阪がかくも初乗りの高い私鉄であることに驚愕した。関西の大手私鉄は初乗りが150円であるところが珍しくないのだが、それがわかっているのに狼狽してしまった。

 さて、近畿大阪銀行の看板は、駅からもう見えている。出張所は駅の南側、ホーム横にある踏切の真ん前にあるのだが、駅から行こうとすると、改札が駅の北端にあるので、結局ホームの端から端まで歩くのと同じような感じになる。だからあまり「ド駅前」という感じではない。地下の駅施設から階段を上って近畿大阪のある側に来ると、いきなり駅前に大きなマンションが建っているが、駅前としてありがちなものは一切ない。この駅の入口自体、駅というよりは「単なる地下道」のような感じである。京阪電車のりば/交野団地方面連絡通路、と書いてあるだけで、「郡津駅」という文字が一切見当たらないからだ。
 半分が駐輪場になった道をまっすぐ南に進むと、突き当たりが近畿大阪の店である。説明しなくても、屋上看板のついた2階建ての店舗がもう見えている。旧近畿銀の店は、屋上の縦型看板が(旧大阪銀行に比べると)縦に長いところが多い。だから「Dマーク」【注】を入れる余地がある(下の写真では切れてしまっている)。寸詰まりの看板では、Dマークはもともと入れていなかった(交野支店の写真を参照)。旧銀行の看板をそのまま使っているからこういうところが不揃いになるが、そろそろ独自のやり方で統一してもいいような気がする。
 正面入口とおぼしき入口から店内に入る。KOの有人出張所は現在「ホッとするプラザ」か「あいするプラザ」のどちらかになっていて、両者の違いは窓口で現金を扱うか否かである(あいするプラザは扱う)。交野郡津出張所は「あいするプラザ」に改装されている。従来からあるローカウンターの部分をそのまま残して相談ブースにしているのだが、正面入口を入っていきなり目の前が横に続く長い壁で、何だこれはと思った。客が窓口で相談しているところが見えないようにしているのだろう。
 キャッシュコーナーは店舗向かって右側の入口である。内装はさっきの交野支店と同様で、近畿大阪の標準スタイル。但し壁紙はおとなしい柄のものを使っている。ATMは4台の枠に3台しかない。AK-1が1台と、JXが2台である。この2台のJXは、オムロン銘ではなくリーダス銘になっている。今までにJXが入っている店もあったのだが、いま初めて気がついたということは、不審な点はなかったということだろう。とにかく、機械が3台しかないのに、さらにそのうちの1台がメンテナンス中で、ATMコーナーには5人ぐらい並んでいた。しかも、いちいちロビー係に操作方法を教えてもらわないと振込ができない爺婆というのが多数いるのだ。ロビー係も大変そうであった。随分時間がかかってしまったが、12:49、交野郡津出張所を制覇した。

 交野支店交野郡津出張所は、近畿相互銀行の交野支店として1974年11月に開設された。交野市は旧近畿にとってはルーツとも呼べる土地だが、この店ができるまで近畿相互の店舗は交野市内には存在していなかった。1942年に交野無尽金融が大阪府内の他の無尽会社と合併した際、本社屋を交野町(当時)に寄贈してしまったためである。現在近畿大阪の交野支店となっているのは旧大阪銀行の交野支店で、これが交野駅(当時)の駅前にオープンしたのは1970年であり、住宅地としての開発が進み始めたのもちょうどその時期であった。交野町の市制施行は1971年11月3日である。豊かな農村として無尽講に対するニーズは強かったかもしれないが、その後高度成長により宅地化が進むまで、交野は銀行にとっては商売にならない地域であったと言える。
 2000年4月の大阪銀行との合併に伴い交野郡津支店に改称されたが、交野市内ではその後、旧大阪銀の交野支店を中心とした店舗網再編が行われ、2002年9月に交野郡津出張所として再スタートを切った。

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 【注】Dマーク:旧大和銀行が創業70周年を期して1988年8月導入したシンボルマーク。正方形を2つ斜めに組み合わせ、中央に「ダイワ」の頭文字Dを置いている(画像は藤阪出張所の項を参照)。大和銀のバックアップで発足した近畿大阪銀行は、大和銀行グループの一員として、大和銀(青・緑)とは配色を変えて(紺・紫)このマークを使用していた。現在では公式には使用されておらず、徐々に消えつつある。

2009年01月15日

2008.07.22(火)(13)ベッドタウン・交野の銀行第1号

 文化会館と図書館が両方休館というのは、休館日の設定からは月曜以外にほとんどあり得ない。せいぜい年末年始ぐらいである。そうしたレアなケースに月曜でもないのにぶち当たってしまったことで、私は早くも手持ち無沙汰になってしまった。かくなる上は、ここで予定を一気に早めて、次の目的地である交野支店に向かってしまおう。そう思って、先ほど来たバス通りに戻ってきた。
 通りに出るやいなや、私は肝をつぶした。見覚えのある紅白のカラーリングのバス【注1】が目の前をスッと横切り、南倉治のバス停に停まったからだ。大慌てで乗り込もうとしたが、反対側にもバスが来るのが見えた。入口横の経路案内を見ると、先に来たのは津田駅行きのバスで、津田駅はすぐそこだから交野市駅へ行くハズがない。結局、乗ったのは反対側に来たバスであった。12:01発の星田駅行き【注2】である。

 バスは、倉治から交野市駅まで、大阪のベッドタウンとして開けた新興住宅地を抜けてきた。古い土蔵のある豊かな農村地帯は、京阪の駅近くでは影をひそめている。
 交野市駅近くに枚方信金が見えたのは枚方市の近所であるから当然としても、京都信金が交野支店など出していたのは少し意外だった。とはいえ、地元のカルタによれば交野は京へも大阪へも五里(20km)だそうで、それなら不思議ではないかもしれない。やがて、バスは京阪の踏切を渡って交野市駅ビル横のロータリーに乗り入れた。ロータリーに面した場所に、りそな銀行(交野出張所、旧大和銀)と三菱東京UFJ銀行(交野支店、旧三菱銀)がある。三菱東京の交野は旧三和銀ではない。
 近畿大阪の支店は駅の向こう側(倉治から見ると手前)で、制覇には駅を通り抜けていくことになる。エスカレーターで上がった2階が駅施設で、駅の向こうへ抜ける連絡通路もここにある。通路のスロープを上ると京阪交野市駅の駅施設で、改札機と券売機が並んでいて駅員がいる。連絡通路は静かなもので、人通りはほとんどない。エスカレーターを上がると、奥の窓から近畿大阪銀行屋上の縦型看板が見えている。近畿大阪には屋上の縦型看板が健在である店が多く、その中で旧大阪銀行の店舗には、屋上についている看板が寸詰まりであるものが多い。
 駅の反対側は、雑居ビルがあり個人商店ありコンビニもありで、「交野市」の中心駅というより郊外電車の駅という感じであった。駅前を東の方向にまっすぐ進んでいくと、お菓子屋あり本屋あり弁当屋ありの商店街で、目指す交野支店は駅の階段を降りて前方左側に見えた。商店の並びは道の左側、つまり銀行のある側だけで、その向かい側は病院と駐車場になっている。
 まずは写真撮影を済ませる。ここは道幅が狭いので、建物の全景はなかなか撮りにくい。と思っていたら、向かい側にある病院の駐車場から比較的マシな写真が撮れた。
 支店に入ると、交野市に関する限り、こちらがりそなグループの代表的な店舗であると思われた。窓口室は、その広大さに驚いた。都銀並みの窓口ブースの数と、行員の数とお客の数。客の密度は、朝一番で行った長尾支店と同じくらいである。交野市の指定金融機関は近畿大阪銀行とりそな銀行の交代制で、近畿大阪も伊達に指定金融機関になっているわけではないのだろう。なお、さっきバスを降りた際、目の前にあるりそな銀の交野出張所に寄ったが、キャッシュコーナーはすいていた。出張所と支店の違いということなのだろうか。
 キャッシュコーナーは、ATM上部に細長い行灯表示のついた、近畿大阪銀行発足後の標準内装。行灯のプレートはブルーであった。ATMは6台分の枠に5台あって、全部AK-1である。ATM枠の外、窓口室とキャッシュコーナーとを隔てるシャッターの向こう側に両替機がある。壁には、古い木造アパートの鉄製階段についている踏み板の滑り止めに似た柄の装飾板がはめ込まれている。印刷記号のゲタ(〓)を互い違いに組み合わせたような模様のあれだ。
 システムが変わったばかりのせいか、案内係のおばさんがてんてこ舞いしている。ATMで振り込みをやろうとして困っているおじさんがいて、ロビーにいたスタッフに「何か案内してあげてくれませんか」と声をかけたのだが、りそなカードの勧誘の人はりそなカードのことしかわからないそうだ。それってどうなのと少し思った。12:24、交野支店を制覇した。

 交野支店は、1970年12月に大阪銀行交野支店として開設された。この支店は交野市における銀行店舗の第1号で、この流れから同市の指定金融機関はこの店が担っている(りそな銀行との交代制)。もろもろの金融再編を経てりそなグループがこの市のお金の流れを掌握したことになる。

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 【注1】藤阪ハイツへの往復で乗ったのと同じ京阪バス(同じ会社)。赤と白は京阪バスの本来のカラーリングである。
 【注2】2008年10月のダイヤ改正により、南倉治を通る「星田駅行き」のバスは運転されなくなった。

2009年01月14日

2008.07.22(火)(12)登録有形文化財、交野市立教育文化会館

 府道枚方大和郡山線が始まる倉治2丁目の交差点まで来た。2車線の通りになったが、ここからストレートに西に向かうと、目指す交野市立教育文化会館がある(ハズだ)。
 さっき、遠くからタワーの部分が見えたことでもわかるとおり、この建物は地域のランドマークになっている。建物が増えた今ではあまり遠くからは見えないだろうが、かつては水田地帯の真ん中で非常に目立ったと思う。岐阜県大垣市に行くと、地元地銀・大垣共立銀行の17階建ての本店が大垣の街を睥睨しているが、それと同じような効果があったのだろう。
 発見した。京阪バスの南倉治バス停から北へ50mほど入ったところ。奥へ入らなくても、もうレンガ色のタイルを張った茶色い壁が既に見えている。
 教育文化会館の方へ入って行く道に沿って、幅1〜1.5mくらいの広い用水路が流れている。アメンボがひょいひょいと水面を歩いていた。水はチョロチョロとしか流れていないぐらいだが、川幅いっぱいに流れている。私の小学生時代には、農業用水で網をチャカチャカとかき回して小鮒などを捕まえたりしたものだったが、魚はいるのだろうか。ここにも農業用の溜池らしきものがある。厳重に柵で囲まれていて「釣り禁止」と書いてあった。魚の養殖をしているわけでもないだろうに、何をしている池なのだろうか。そう思っているところへ、キンコンカンコン。文化会館の屋上についているらしいスピーカーから、日本人にはおなじみのウエストミンスターチャイムが鳴り始めた。正午である。夏の日の正午、晴天の昼下がり。何の脈絡もなく「終戦の日」ということを思った。
 1目標につき30分ぐらいの所要時間で計算しているので、ここは次のバスが出る12:33までは余裕がある。建物の中を見てみたいと思ったのだが、教育文化会館は月・火曜日休館だそうである。その隣に、倉治図書館といって交野市の中央図書館にあたるものがある。郷土資料室でものぞいてみようと思ったのだが、昨日(21日)が祝日かつ月曜日で、祝日を開館する代わりに今日は休みである。門は開いていたので(というより門柱だけで門扉はない)、敷地の中には入れたが、建物の写真だけ撮って終わりになってしまった。

 交野市立教育文化会館【注1】は、旧近畿相互銀行の前身にあたる「交野無尽金融」という会社の本社屋であった。戦時中の企業統合政策により、大阪府下の複数の無尽会社【注2】が1940〜44年にかけて合併したが、交野無尽金融はその中で最も規模が大きく、また積極的な営業方針を採っていた会社だった。やはり国策による合併で誕生した協和銀行にとっての不動貯金銀行のような存在、といえばわかりやすいかもしれない。
 現在も残るこの建物は、交野無尽金融の合併まで本社として使われていたが、新会社(近畿無尽)の本社が大阪市内に設置されたことから、合併に先立つ1942年11月に交野町(当時)に寄贈された。この建物は1971年11月まで交野町役場・市役所として使われ、同月に新市庁舎竣工の後は1973年10月に市立教育文化会館となった。2007年になって、文化庁により国登録有形文化財に登録されたのは前述のとおりである。
 なお、後の調べでわかったことだが、文化会館の近くには、交野無尽金融の創始者・金沢泰治の胸像があったらしい【注3】。事前のリサーチをおろそかにしていた私は、見事に見損ねてしまった。

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 【注1】交野市立教育文化会館:旧交野無尽金融本店。橋倉覚平設計、大林組施工。鉄筋コンクリート造2階建て、建築面積282u。1929.05交野無尽金融本社として竣工、1942.11.03北河内郡交野町に寄贈し同町役場、1971.11.03〜11.22交野市役所、1973.10.02交野市立教育文化会館。2007.12.05国登録有形文化財。なお、「昭和45(1970)年庁舎移動」との説があるが、1971年の誤り。
 【注2】無尽会社:無尽を営業活動として行う企業(無尽業)。1915(大正4)年の無尽業法の制定により、こうした営業無尽は政府が監督するようになった。1951年の相互銀行法施行により大半の無尽会社は相互銀行(今の第二地方銀行)に転換し、現在も無尽業を営んでいるのは日本住宅無尽梶i東京都台東区、旧東海銀行系)1社のみ。
 【注3】金沢泰治(かなざわ・やすはる):交野無尽金融創始者、近畿無尽第3代社長。1888(明治21)年2月生まれ、大阪府立八尾中(旧制)を病気で中退し、大阪府北河内郡交野村役場に勤務。1914(大正3)年収入役就任、同年8月交野無尽金融合資会社を設立。1922.11.05株式会社に改組。1942.11.17近畿無尽発足で専務取締役となり、途中の退任を経て1948.04.30社長就任、同年07.19社長在任中に死去。後日の取材によれば、金沢の胸像「金沢社長寿像」は、文化会館南側に建つ消防団詰所の南、三角形をした土地の突端部分にある。かつてはここまで本社敷地であったようだ。

2009年01月13日

2008.07.22(火)(11)倉治かご池で夜が明けた

 非常に順調だとほくそ笑みながら駅へ戻りかけたが、津田駅に戻ってはいけないのである。
 次の目的地は、直接の「近畿大阪めぐ」ではないが、近畿大阪に関係する歴史的建造物、交野市立教育文化会館である。津田駅から徒歩15分ほどの交野市倉治(かたのしくらじ)まで歩く。この建物は最近(2007年)、文化庁によって国登録有形文化財に登録された。現物を見たことがなかったので、これを機会に行ってみようと思っていたのだ。私は最近、歴史的建築づいている。
 駅前の2車線道路、府道736号(交野久御山線)を南に向かって歩く。津田支店から100m、いや50mも行かないぐらいの地点で、枚方市が終わって交野市に入る。地名は早くも目標のある「倉治」に変わっている。駅前はマンションが建っていたり雑居ビルがあったりするのだが、駅から少し離れただけで、畑と個人商店と民家が混在する典型的な田舎の街道になる。
 警察学校前という交差点の角は更地になっていて、「かご池跡」と刻まれた石碑が立つ。農業用溜池の跡地らしい。近年では溜池は農業が衰退して利用されなくなり、災害時の決壊を恐れて埋め立てられるものが多いそうだ。「かご池」という名前は篭のように水漏れするという意味だそうだから、溜池としては出来がよくなかったのであろう。もちろん、石碑などがあるのは、たとえ出来が悪くても地域からは愛されていたことの表れである。さて、「かご池跡」の石碑には「石つき唄」なるものが彫ってあった。「わしの若いときゃ 津田までかよた 倉治かご池で 夜が明けた おもしろや おもしろのひょうたんや おおあげあげ」。この近所に伝わる祝い歌だそうである。この土地は関西スーパーマーケットの出店予定地らしく、フェンスには同社の倉治店について地元への説明会を近々行う旨の看板が出ていた。
 かご池跡から南西方向は、地形としては道路から急に下に落ち込んでいて、そこには見渡す限りの水田がある。田んぼの真ん中には送電線の鉄塔が点々と建っており、その向こうには遠景として住宅団地が広がっている。豊かな田園地帯だった片町線の沿線もこれから開発が進んでくるのだろう、と改めて思った。

 さらに南に進み、倉治桜堤の交差点で右に曲がる。この交差点の北西角にも溜池がある。農業用の溜池として現役らしく、緑色の水をたたえている。関東地方で溜池を見ることはほとんどないから珍しく感じた。1辺50mはある相当広大な池で、真ん中には木の生えた島まである。ボートを浮かべて遊んだら結構楽しいのではないだろうか。溜池と水田の隣には畑があって、シソやトマトが植わっている。民家が数軒と古びた鉄筋アパートがある他は、車の通りも人通りもほとんどない、のどかな田園地帯であった。この道をずっとまっすぐ行くと、文化会館の茶色い建物があるハズだ。そう思っていると、建物のタワー部分のてっぺんが南の彼方に見えた。曲がるところを間違えた。桜堤で右折したのは早かったようだ。
 大急ぎで左(南)に曲がり込むと、倉治の住宅地に入った。ここは耕作中の水田と住宅とが完全に入り交じっており、建物も土蔵を持つ家があるかと思えば最近建てられた瀟洒な洋館風の3階建ての家もあって、ゴチャ混ぜである。でも、いかにも「豪農」と感じさせる家があったり、お寺が2軒もある等、やはり古い集落のようだ。
 古い木造家屋についている瓦ぶき塀の白壁部分は、あるものは黒く塗られていて、煮しめたゴボウのような色の羽目板がついている。別の家には白壁のままの塀もある。その向かい側は、茅ぶきか藁ぶき屋根の上にトタンをかぶせた感じの農家。そうした家屋の隣に、3階建ての新しい民家が建っていたりする。道幅は狭い。前方をワンボックスが1台走っていったが、1台ようやく通れるぐらいの道幅しかない。
 交野市倉治のこのあたりは、古い農村地帯、それも割合に豊かな地域という印象である。昔はこうした農村地帯で無尽講【注】をやっていたのだろう。それが、交野無尽金融という会社に発展していったわけだ。2006年1月、りそな銀行の旧奈良銀店舗である田原本支店を取りに奈良県田原本町の街中を歩いたときと同じような感動があった。あちらは商業地区であったが、こちらは農村地帯である。「豊かな農村」とはこういう感じだったのか、という印象であった。

 【注】無尽:庶民の金融システムの一つ。一定の口数と給付金額を定めて講を結び(無尽講)、定期的に掛金を行って一口ごとに抽選し、最終的には全加入者が給付を受ける仕組み。仮に、10口5万円の無尽講に10人の参加者がおり、毎月5000円徴収したとすると、月に5万円の資金が集まることになる。ここで抽選を行い、当選者1人に5万円を支給する。これを10回繰り返すと、10人の参加者全員が5万円の現金を手にすることができる。現金給付を受けた者は以後の抽選からは外れるが、掛金の納入は最後まで行う。鎌倉時代中期に生まれた相互扶助システムがその起源とされる。(講を結ぶ=有志でグループを作る)

2009年01月12日

2008.07.22(火)(10)津田支店を制覇

 11:24、津田に到着した。
 ここは構造としては島式ホームが2本の駅だが、実質的には対向式ホームの駅である。待避線のついた駅にする気になればできるのだろうが、旅客に使わない方は柵で覆われている。柵のある側にもレールが敷いてあって、保線用の車両が置いてあった。
 ホームから地下道へ降りてきた。地下道かと一瞬思ったが、津田駅は下に降りてくるとそのまま改札につながっていた。コンクリートにはセメントを打ち込んだ年月が1978年11月と刻まれている。駅前にはロータリーが完備され、周囲には雑居ビルと巨大なマンションが建っていて、長尾駅前より新しい街並みに見えた。
 京橋寄りに建つガラス張りの雑居ビルの1階には、泉州銀行津田支店が入っていた。ここにも泉州銀がある。片町線はどう考えても「和泉」からは遠い地域を走る線なのだが、和泉を飛び出した泉州銀にとっては新たな収益源なのだろう。大阪府では、戦後に地方銀行が4つ創設された。北から順に池田銀行・大阪不動銀行・河内銀行・泉州銀行である。河内銀は早々に住友銀行に吸収合併されて消滅したが、それ以外の3行には、それぞれのテリトリーを侵食しない紳士協定のようなものがあった。だから、岸和田市に本店を置き旧和泉国を地盤とする泉州銀は、本来なら片町線沿線には支店が存在しないハズなのである。逆に言うと、まず大阪市をテリトリーとして業容を拡大した大阪(不動)銀は、それ以外の地域に店舗が少ないことになる。今回のプランニングのところでも少し述べたが、近畿大阪は泉州地区には店舗がさほど多くない。佐野・岸和田など泉州地区の店舗はほとんどが旧近畿銀行である。

 さて、ロータリーの向こう側は細い(といっても2車線の)道になっている。長尾駅前から通じている府道交野久御山線である。車の交通量がそこそこ多く、向こうにはうかつに渡れない。道路の向こう側には旧農家なのか、入母屋造りの豪邸が建っている。路線バスが、泉州銀の入るガラス張りのビルの前から出ているようだ。近畿大阪の津田支店は、泉州銀のビルの京橋寄り、線路と道路との間の空間にあった。外観は新し目だが、やはり何となく垢抜けない印象を残している。
 支店に入る。キャッシュコーナーがあって窓口があるというスタイルは銀行店舗としてはごく普通だが、窓口室の目立つところに角を欠き取って「御手洗」がつけてあるのが珍しいと感じた。ありがたく利用させてもらったが、ドアの真ん前は融資の窓口で、書類をトントンと叩いて揃えていた女性行員と目が合ってしまった。
 キャッシュコーナーの内装はグレー一色である。機械上部の行灯にはめてあるプレートもグレーのプラスチックで、とにかくキャッシュコーナーはグレーでべったりと塗りつぶされている。両替機が1台とATMが4台あって、機械配置はJXが1台・AK-1が3台であった。11:30、津田支店を制覇した。
 津田支店は、近畿相互銀行津田支店として1988年6月に開設された。近畿大阪銀行発足後に、旧大阪銀津田支店だった津田西支店【注】を統合している。

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 【注】津田西支店:大阪銀行津田支店として1988.11.08開設、2000.04.01近畿銀行との合併で津田西支店に改称、2001.05.21津田支店に統合。所在地は津田駅北300mほどの枚方市津田西町3丁目で、津田支店(枚方市津田駅前1丁目)より西側にあったわけではない。
カテゴリ一覧(過去の連載など)
大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇(54)
単発(12)
告知板(24)
銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇(29)
りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く(43)
りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅(57)
りそめぐ2008秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる 東武伊勢崎線・野田線沿線17店舗の制覇(51)
りそめぐ2009初秋 りそな銀千葉県内12店舗完全制覇(35)
りそめぐ2008夏 りそな銀東京都世田谷区4店舗完全制覇(8)
りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた(18)
りそめぐ2008秋 太平洋は青かった 茨城→北海道750km大移動/銀行めぐ2008秋 札幌市内4行4店舗完全制覇(20)
りそめぐ2008初秋 湘南セプテンバーストーリー(11)
りそめぐ2008冬 銀河に乗って知事選たけなわの大阪府へ(47)
りそめぐ2008夏 「近畿大阪めぐ」スタート記念 片町線・京阪線沿線25店完全制覇(51)
りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿(60)
りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える(12)
りそめぐ2007秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる(35)
2007年7月 りそな関西地区支店昇格5店完全制覇+α(43)
あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇(34)
2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)