2010年03月22日

あとがき・参考文献一覧

 「りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた」、3月21日をもって完結いたしました。
 最後までお読みいただいた方には、例によってダラダラと続いた連載にお付き合いいただき、御礼申し上げます。あとがき等も含めた分量は、最終的に120枚強(400字詰原稿用紙換算)となりました。

 「めぐ」の実施から丸2年も経ってしまいました。今回の連載は、これまでで最も難産だったと思います。埼玉県エリアでりそなの「めぐ」をすると、これまでは旧埼玉銀行店舗の来歴を調べるのに手間がかかるのが常でしたが、今回はさほどでもありませんでした。それより、文章化していく上での「制覇メモ」が極めて不十分で、いったん着手したものを断念したくはなかったので、記述内容を埋めるためどうしても1回再取材しなければならなくなったのです。範囲の取り方としても、南越谷支店が木で竹を接いだようになっていることと、西川口支店を入れておけば「川口市内完全制覇」になったのに、ということで、率直に言うと気に入ってはおりません。しかし、世に「出来の悪い子ほどかわいい」と言います。果たして『埼玉高速鉄道で帰省してみた』は、私にとってかわいい作品となり得るのでしょうか。(川口市内の完全制覇、ということでいうと、今回取らなかった西川口支店は、いずれ京浜東北線を順に攻める時に、蕨市の2支店と一緒に制覇することにします。)
 川口市と鳩ヶ谷市とは再び合併交渉しているそうです。市町村合併というのは地域を二分するデリケートな問題であり、他所者の私がどこかに肩入れするということはいたしませんが、両市に幸多かれと願います。また、本文でラジオの話を書きました。私の住んでいる東京都では多摩市のコミュニティFM局が経営難から3月一杯で閉局、その他(コミュニティ局ではなくて民放局でも)経営破綻や粉飾決算などなど、ラジオ局はどこも青息吐息のようで、かつてのラジオ少年としては心を痛めています。そう言いながら、私もナックファイブを最近ほとんど聴かなくなっていました。聴衆というのは移ろいやすいもの。大阪の栗花落さんも、さぞご苦労されていることと思います。
 さまざまな思いが去来しますが、この連載はこれにて終了します。この連載を数年後に読み返して「古い」と感じられることがあるかもしれませんが、あくまで 2008年3月の実体験と、2009年8月の再取材、さらに2010年3月の連載期間における「一面の真実」です。そういうものだと思ってお読みいただくことを望みます。
 この連載のような「文章を使っての自己主張」が、私の生き甲斐です。今後ともご支援・ご鞭撻をいただけますようお願いします。ご意見や情報提供をお待ちしています。このブログ「MEGU」は、コメント・トラックバックを歓迎していますし、私のメールアドレスも公表しています。

 なお、この連載の執筆にあたっては、以下のような書籍・webサイト等を参照いたしました。

参考文献一覧
紙媒体は発行年順、webサイトは本文掲載順(2010.03.15現在)
  『牧野頭取講演全集』不動貯金銀行、1930年
  『日本勧業銀行四十年志』日本勧業銀行、1938年
  『富士銀行八十年史』富士銀行、1960年
  『群馬銀行の30年』群馬銀行、1964年
  『日本勧業銀行七十年史』日本勧業銀行、1967年
  『日本相互銀行史』日本相互銀行、1967年
  『埼玉銀行史』埼玉銀行、1968年
  『富士銀行百年史』(別巻) 富士銀行、1982年
  『川口市史』(現代資料編) 川口市、1985年
  『足利銀行史』足利銀行、1985年
  『大生相互銀行七十年史』大生相互銀行、1987年
  『鳩ヶ谷市史』(通史編) 鳩ヶ谷市、1992年
  『埼玉銀行通史』あさひ銀行、1993年
  『協和銀行通史』あさひ銀行、1996年
  芦田伊人校訂・根本誠二補訂『新編武蔵風土記稿』(第七巻)雄山閣、1996年
  『浦和市史』(第五巻 現代史料編T) 浦和市、1999年
  田代脩ほか『埼玉県の歴史』山川出版社、1999年
  筑波昭『連続殺人鬼 大久保清の犯罪』新潮OH!文庫、2002年

  『日本金融名鑑』日本金融通信社、各年版
  『全国銀行店舗一覧』全国銀行協会連合会

  『埼玉高速鉄道』http://www.s-rail.co.jp/
  「見沼たんぼのホームページ」『さいたま市』http://www.minumatanbo-saitama.jp/index.htm
  『鳩ヶ谷市』http://www.city.hatogaya.saitama.jp/
  『川口市』http://www.city.kawaguchi.lg.jp/
  「さよならLIVIN前橋店」『LIVINねこの部屋』http://livincat.web.fc2.com/maebashi.html
  「なぜ、横浜銀行の支店が群馬に3つもあるのか?」『謎群馬』http://www.igascape.com/gunma/boy/

  フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
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2010年03月21日

2008.03.06(木)(4)神流川を越えて児玉支店へ

 神流(かんな)川を渡ると埼玉県に突入する。広い河川敷は、石がたくさん転がった河原と、土で覆われて森になった部分とを持つが、川の流れはチョロチョロという感じに見えた。道端の埼玉県のプレートには「彩の国さいたま」のマークが大きく描かれている。カーナビから「埼玉県に入りました」とアナウンスがあり、画面には荒川の川下りらしいイラストが出た。橋を渡ったところの行政地名は、児玉郡上里町。上里町はJR高崎線の神保原駅付近だけだと思っていたが、この道でも通るのは意外で、これで本当に児玉に行けるのか少し不安になった。
 埼玉県に入ったからといって、車窓の風景が劇的に変わるわけではなく、田園地帯が続いている。ただ、2車線道路とはいえ歩道がちゃんとついているところが、今までの道とは違うようだ。このあたりはブドウ棚のような形をした梨棚(というのだろうか)が広がっている。秋になったら梨狩りができるのだろう。ほどなく児玉郡神川町に入る。「あさめぐ」の時代に、八高線丹荘(たんしょう)駅近くにある店舗外ATM[神川町役場](母店児玉支店)に行ったことがあり、私の頭の中での地名イメージと一致したので安心した。と思ったら、道をまたぐようにヤグラが立っていて、ネズミ捕りのカメラが上から見下ろしている。やばいやばい。私はこれでも一応ゴールド免許の保持者なのである。さらにその直後、「元阿保」という土地【注】を通過。元アホ。私はこの手の地名が大好きな「現アホ」だから、たまには車で「めぐ」をやるのもいいと少し思った。他に気づいたことといえば、土地が肥沃でないのか、この近辺には農業用の土を売る店が多いようだ。
 本庄市に入った。児玉支店がある児玉郡児玉町は、2006年1月に本庄市と合併しており、いよいよ支店のすぐ近くまでやって来たわけだ。群馬県地盤のベイシアが展開するホームセンターの「カインズホーム」や、珍しく緑色の看板を持つガストなど、ロードサイド型の店舗を横目で見つつ信号で右折すると、JR八高線の築堤の下をくぐる。今ガードの工事をしていて、線路の真下を真っ直ぐくぐっていくハズの道を、グルッと迂回させられた。
 道なりに進んでくると、カーナビ様のお告げがあった。「間もなく目的地周辺です」。いよいよ、旧児玉町の中心部に入ってきた。商店あり、昭和初期ぐらいの木造住宅があり。右奥には県立児玉高校がある。セットバックが行われており、区画整理も結構進んでいるのだろう。街灯には××家とか△△商店といった小さな看板がついている。個人が出資したものもあるらしく、苗字だけしか書いていないものも見られる。郡部の町の旧街道沿い、といった街並みが広がっているが、コンビニ(セーブオン)はある。セーブオンもベイシアグループの企業である。

 「児玉駅入口」の信号まで来た。左側には埼玉信用組合が見える。埼玉県北に9店舗を展開しているこの信組は、ここが本店である。児玉町役場(現本庄市児玉総合支所)はここから南西の方角で、旧町役場の店舗外ATMには「あさめぐ」時代に車で来たことがある。この他、駅前には我が地元・群馬の第二地銀、東和銀行が児玉支店を出している。児玉は八幡山城という城をベースにした城下町で、さすがこの地に本店を置く金融機関があったりするのだが、地元地銀である武蔵野銀行の支店はない。そして、目指す埼玉りそなの看板。道の右側だから、南北の通りの西側に支店があることになる。
 支店裏手の駐車場に入ろうとしたが、通行量がやや多くて、右折で入るには若干の苦労があった。駐車場は銀行のものとしては「大駐車場」の部類と見てよいと思う。建物南側にある駐車場への通路はすれ違いができそうなほどの幅が取ってあり、縦列駐車で2台分の駐車スペースがある。建物の西に8台分、通路をはさんで向こう側に屋根付きが4台分と屋根なしが3台分。さらに奥にも通じていて、5台分+10台分と並んでいる。だから、数えるのも面倒だけれども台数的には40台近くは置ける感じである。土地の形を整理すればもう少したくさん置けるだろう。埼玉県のそれも北部となると、このくらいの駐車場が絶対必要である。同じ旧あさひ銀行の支店でも、旧協和の古い支店には駐車場がほとんどない支店が多くて、以前に車で行ったことのある和歌山支店の駐車場は、確か3〜4台分しかなかったと思う。児玉支店の狭い方のそのまた半分くらいの面積しかない。
 駐車場に数台置いてある白のスズキアルトは、支店の営業用車だろう。営業用らしき自転車も5台ある。前後についている篭にひったくり防止用のネットが常備されているあたり、さすがは銀行の自転車である。塀につけられた看板には「駐車場内ではアイドリングストップしてください」とあって、日本語としてこなれていないと思った。アイドリングはご遠慮下さいとか、アイドリングストップにご協力下さいとかした方が良いのではないか。
 とにかくこれで、埼玉りそな銀行児玉支店の制覇である。10:54のことであった。機械配置はATM5台+両替機。それとは別に、キャッシュコーナーに記帳機が置いてある。ATMの機種構成は、富士通ファクトVモデル10、ファクトA、モデル10×3。一番左と左から3番目、計2台がIC対応になっている。最近になってキャッシュコーナーを改装したらしく、デザインはあさひ時代のパイプ形デザインだが、今回来てみたらシルバーで塗装してあった部分に壁紙が貼ってあった。旧型ATMのファクトAは真っ白に磨いてあって、それだけで「いい支店」だと感じた。多くの店を回って思うのだが、銀行のATMは(りそなに限らず)意外に筐体が汚れている。各支店でまめにクリーニングした方がよいと思うのだ。
 児玉支店は、1900(明治33)年5月に群馬県佐波郡伊勢崎町(現伊勢崎市)に開設された、本庄商業銀行の伊勢崎支店をルーツとしている。本庄商業銀行は1895(明治28)年1月に児玉郡本庄町(現本庄市)で開業し、傍系貯蓄銀行の設立や、利根川を挟んで隣接する伊勢崎への支店設置など、積極的な経営を行っていた銀行であった。1921(大正10)年頃の不況の影響で業績が下降し、この年の12月に武州銀行に合併されている。本庄商業銀行伊勢崎支店は、1906(明治39)年9月児玉町に移転して児玉支店と改称され、武州銀行への合併の際はそのまま同行の児玉支店となった。戦時中の4行合同で埼玉銀行の児玉支店となった後、丹荘支店(1947年出張所として開設)の併合を経て、現在の建物は1974年7月に新築されたものである。

 背後にある旧町役場、児玉総合支所の鐘が、ちょうど11時を知らせている。のどかな田舎町の風景であった。今日の「りそめぐ」はこれにて終了である。『りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた』も、ここで締めることにしよう。

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 【注】よみがなは「もとあぼ」。

<りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた 完>
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2010年03月20日

2008.03.06(木)(3)前橋から埼玉県に向かう

 2007年11月に実施した“埼玉県民の日めぐ”の『めぐ記』【注】で書いたとおり、埼玉県北部のJR八高線沿線には、1店だけ児玉支店(本庄市)が残っていた。ここは帰省のついでに足を伸ばして制覇するつもりでいたので、今回、前橋支店からそのまま車で向かうことにする。カーナビによると、児玉はここから南東方向に27kmだそうで、小一時間のドライブである。
 今、支店から本町通りを東に進んだ後、ぐるりと回って、支店の北側を走る立川町(たてかわちょう)通りを西に向かってきた。信号待ちしている目の前には、足利銀行前橋支店がある。足銀は昭和30年代に移転してきたもので、ここに来る前には現在の東和銀行本店の位置にあった。東和銀本店は敷地の東半分が旧足利銀行前橋支店の跡地である。立川町は昔からの商店街だったが、今ではすっかり寂れてしまいシャッターストリートと化している。それでも、この通りはまだマシな方で、直前に通った中央前橋駅付近は完全に風俗店街となっていた。入ったことはないが、どんなサービスをしてくれるのだろうか。地方都市であり、生活に困った女性も多いだろうから、ホステスのなり手には困らないに違いないが。
 足銀の先、立川町通りと国道17号との交差点角には、栃木銀行の前橋支店がある。1965年9月開設の栃木銀は建物にも年季が入っている。ここで左に曲がれとカーナビが指示している。
 栃銀の南隣は、しののめ信用金庫の前橋営業部である。しののめ信金は2007年11月に群馬県内3金庫の合併で発足した信金(本店富岡市)で、前橋営業部はもともとは前橋信用金庫の本店であった。1994年2月きゅうじょう信用金庫と合併して群馬中央信用金庫となっているから、この店は前橋→群馬中央→ぐんま→しののめと、15年余りで4種類の看板を付けたことになる。しののめ信金の発足により、県都・前橋市に本店を置く信用金庫は消滅した。

 栃木銀の角から南下した国道17号は「表町一丁目」の交差点で右にそれてしまうので、直進すると県道前橋玉村線に入る。交差点の南、私が小学生の頃にちょくちょく行った「フジ模型」の前を通り、JR両毛線の高架をくぐって南にまっすぐ進む。このあたりは2×2車線の広い道で、実際に交通量もそこそこあるのだろうが、生活感はあまり感じなかった。間もなく、六供(ろっく)町の生川交差点で車線が2車線になる。セットバックがそれなりに進んでいるけれども、まだ何軒かゴネている家はあるようだ。拡幅が完成したらしたで、面白くも何ともない道になってしまうのだろう。ボトルネックが終わると4車線の広い道に戻り、いつの間にか県道前橋長瀞線の新道に入っている。本来は利根川の西岸を走る県道だったが、川の東岸にある前橋市街地からダイレクトにつながる道を、北関東自動車道の整備にあわせて整備したのである。やがて民家がまばらになり、水田地帯の真ん中を道路だけが貫いている。帰省したときに高い頻度で寄る鳥めしの店「登利平」が見えた。そこを過ぎると北関東道にぶつかって右に大きくカーブし、利根川を渡って高崎市に入る。
 カーラジオでは、埼玉県のFMナックファイブをつけている。番組では、鉄棒の逆上がりのやり方を取り上げていた。鉄棒を見てはダメで、のけぞって地面を見るようにするのがコツなのだという。私は小学生時代にこうしたことを教えてくれる人が周囲におらず、したがって逆上がりがついに成功しなかった人間であるので、ふーんという感じであった。前橋長瀞線旧道との合流地点の少し手前で、10時の時報が鳴った。平日ゆえナックファイブの時報は埼玉りそな銀行提供であり、CM内容はマイカーローンであった。
 合流地点の綿貫町から先は対面2車線である。左側には県立公園の「群馬の森」がある。かつて火薬の製造を行う陸軍施設(旧陸軍造兵廠岩鼻製造所)だったところで、現在では近代美術館と歴史博物館があり、日本原子力研究開発機構の研究所も隣接している。その先、岩鼻町は江戸時代に代官所のあったところで、古い建物が密集している。
 岩鼻橋で烏川を渡ると、道なりに右方向へ行けという指示が出る。要するにまっすぐ行けということだが、ここで左にそれると東京方面に行く国道17号に合流する。今日は藤岡市からまっすぐ抜けるコースなので、直進する。

 烏川を渡ったところから藤岡市に入る。道なりに進んでいくと関越自動車道の藤岡インター付近で道幅が大きく広がり、道は右に大きくカーブしている。「ららん藤岡」という、巨大なショッピングセンターのような「道の駅」の建物が、上越新幹線のガードをくぐった先にある。その近所にはラブホテルが密集している。ある業態が密集した地域を「街」と呼ぶ場合、「ラブホテル街」ほど規模のメリットが生きるものはないだろう。何軒も並んでいれば、1軒目が満室でも他へ行くという選択肢が出てくる。1軒しかなければ満室だったときのリスクが非常に高い。そして、満室であることが客にとって「リスク」にまでなってしまう業態は、ラブホテルだけではないかと思う。ラブホテル以外にも、高速のインターが近いこの界隈には、ロードサイド型の商業施設が数多い。やがて藤岡北高校の横で左折させられ、県道寺尾藤岡線に入って田舎の2車線道路に戻る。このあたりから藤岡市の旧市街である。さらに「古桜町」で左に曲がる。
 古桜町の交差点には、もう1つ「七丁目」の交差点が近接していて、ほとんど五差路のようになっている。間には、しののめ信用金庫藤岡営業部(旧多野信用金庫本店)の4階建てのビルが建つ。この店は、1971年3〜5月に群馬県内で起きた有名な連続殺人事件で、犯人逮捕のきっかけとなった。犯人が7人目の被害者女性をナンパしたのが七丁目交差点の東側にあったスーパーの前で、女性が乗っていた自転車を多野信金本店の駐車場に置いてドライブに連れ出し、殺害して山中に埋めた。犯人は翌朝、自転車についた指紋を拭き取るためにここに現れ、被害者の兄に見つかる。女性が帰宅しないので徹夜で探していた兄は、妹の自転車を発見して監視していたのである。犯人はその場は逃げおおせたものの、車のナンバーから足がつき、結局3日後に取り押さえられた。最終的に8人の女性が殺されたこの事件、大久保清連続殺人事件については関心を持って調べたことがあるのだが、どの角度から見ても陰惨で救いようのない事件だったと思う。
 今走っている道は、県道藤岡本庄線であるという。群馬銀行藤岡支店の角で右折し、その先に床屋があってその角でまた左に曲がるようだ。なんだか藤岡市内をぐるぐる走り回っている感じである。ユニーの「ジョイマート」というスーパーマーケットがある。名古屋のユニーがこんなところに出店しているのは珍しく思えるが、地方の独立店舗という位置づけなのだろうか(現在では店名が「ピアゴ」に変わっている)。そして、カーナビの指示どおり、角に床屋のある「一丁目」交差点で左折する。しののめ信金付近からこのあたりまで、例のごとく寂れた商店街がずっと続いてきたが、ようやく児玉に抜けるようだ。
 カーナビによれば、左に曲がった後は「5km以上道なり」である。JR八高線の踏切を越えて市街地を抜け、田園地帯に入ってきた。6畳1間くらいの平屋の一戸建てが数軒建っている区画があったり、生コンクリートをドロドロにしてミキサー車に積むためのタワーのようなものがあったり、あとはブドウ棚がある。このあたりの主な土地景観としては休耕田だろうか。意外に水田そのものはなく、畑だったりビニールハウスだったりする。
 小林というところで広い道にぶち当たった。国道254号に入ったようだ。

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 【注】当ブログ2008.01.18〜02.21連載「りそめぐ2007秋 『埼玉県民の日』に埼玉県内をめぐる」。
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2010年03月19日

2008.03.06(木)(2)前橋の金融事情を知ったかぶる

 前橋市街地の中心部を東西に貫く本町通りは、前橋のウォール街のような意味合いを持つ。現りそな銀前橋支店がある本町1丁目交差点の西側、日本銀行前橋支店をスタート地点として、東へ600mほどの間に銀行店舗が集中しているのだ。
 りそな銀行前橋支店が北東角にある本町1丁目交差点。同じ交差点の北西角には、1990年2月まで協和銀行前橋支店があった(本町1-1-11)。協和銀時代の末期に、当時の太陽神戸銀行前橋支店に営業譲渡して閉店しているが、合併前に閉店しなければ「協和埼玉銀行前橋本町支店」とでもなっていたかもしれない。協和の前橋支店は不動貯金銀行の前橋代理店として1914(大正3)年秋【注1】に開設され、1920年2月に支店に昇格している。戦前期には角の部分に円筒と尖塔をあしらった不動独特の建物(設計は関根要太郎)で、1962年6月に建て替えられて箱形の協和銀スタイルの建物となっていた。支店閉鎖後は前橋市の外郭団体が譲り受け、「前橋本町ビル」としてホールや相談所などとして使用していたが、その後長らく空き家のまま放置され、2007年1月に解体された。2008年3月の時点では穴吹工務店がプレハブを建てて「サーパスマンション」のモデルルームにしていたが、現在では駐車場になっている。穴吹のマンションは協和店舗跡地の西隣、旧前橋市消防本部跡地にある。
 りそなから一番近い他行は、三井住友銀行前橋支店(旧太陽銀)である。太陽は日本相互銀行だった1960年代には群馬県の主要都市ほとんどすべてに支店を出していたが、県内で三井住友の支店として現在も残るのは前橋と太田のみである。かつては、支店西側にある中央通りの坂を下りた北側(千代田町2-10-13、スズラン前橋店新館北側)にあって、現在の店舗は1971年5月に営業を開始した。中央通りはかつて前橋で最も賑わった商店街の1つである。なお、この支店は協和銀行前橋支店の営業譲渡先でもある。
 三井住友の東にはみずほ銀行前橋支店(旧富士銀)。同じ建物にはみずほ信託銀行の前橋支店も同居している。みずほ(旧安田)信託銀行前橋支店は、かつては富士銀からもう少しだけ東にあった。富士銀の前橋支店は群馬商業銀行(本店現伊勢崎市)の前橋支店として1901(明治34)年11月に開設されたもので、1923(大正12)年11月に安田銀行の前橋支店となった。店舗の場所は仮移転を除けば1901年以来変わっていない。その東にある中央三井信託銀行前橋支店(旧中央信託)は、かつては協和の北隣にあったが、現在では1986年3月撤退した第四銀行前橋支店の跡で営業している。ちなみに、中央三井のある旧東邦生命ビル付近は、前橋市の路線価【注2】最高地点となっている。
 その東側にある群馬銀行前橋支店は、1972年に郊外移転した本店の代替店舗である。本町二丁目交差点北東角の本店跡地には、1975年に西友ストアーの店舗が建ち、群銀前橋支店は西友の1階で営業していた。西友ストアーは1年余りで前橋西武に変更され、2000年に百貨店業態のLIVIN前橋店となったが、2004年1月に撤退した。群銀はこの間ずっと同じ場所で営業していたが、旧西友の建物が前橋市の手によって改装されることになり、隣接地に2007年7月に新築移転した。移転先は同じ交差点の北西角で、旧第一勧業銀行前橋支店(旧日本勧業銀)があった場所である。西友の建物は現在、市立中央公民館などが入った「前橋プラザ元気21」なる複合施設として使われている。
 地方の県都に必ずある旧勧銀の支店は、明治時代に全国各府県に設立された旧農工銀行の名残である。農工銀行は地方の農・工業者に不動産を抵当として長期低利融資を行う銀行で、1897〜1900年に計46行が設立されたが、1921年から1944年にかけて全行が日本勧業銀行に合併された。前橋支店は1901年3月に設立された群馬県農工銀行が前身で、1930年12月日本勧業銀行に合併して前橋支店となった。1971年の第一銀行との合併で第一勧銀の前橋支店となり、さらに富士銀行との合併でみずほ銀行前橋中央支店となって、旧富士銀の店舗に移転し支店内支店として営業していた(統合済み)。前橋支店の場所は、旧富士銀の支店内に移転するまで農工銀行以来の場所であった。
 さらにその東隣にある東和銀行本店と、その向かいの横浜銀行前橋支店をもって「前橋のウォール街」は終わる。1979年5月に大生相互銀行本店として竣工した東和銀の本店は、すっかり寂れてしまった本町通り沿いにそびえる15階建ての白亜の殿堂である。浜銀が持つ神奈川県外の店舗は、東京都内のいくつかと名古屋・大阪を別にすれば、ここ群馬県(前橋・高崎・桐生の3支店)だけである。横浜銀行は、横浜の生糸貿易に携わる商人が為替取引のために作った銀行2行を主な前身としており、両者とも創業者が群馬県出身であったことから、明治時代初期から支店が開設されている。群馬県内の支店は、生糸産地との資金の流れを担い、製糸産業界に資金を供与することを目的としていた。前橋支店は旧第二国立銀行の支店として明治1桁台のうちに開設され、1928年4月の合併により横浜興信銀行(1957年1月横浜銀行に改称)の前橋支店となった。
 最近、三菱東京UFJ銀行が前橋市に店舗外ATMを開設していたのを知ってびっくりした。大宮支店(旧三和銀)を母店とする店舗外ATM[前橋表町]が、三菱UFJ証券前橋支店の中にある。浜銀前橋支店の東、旧東急イン(撤退)前の五差路から南に下がった第一生命ビルの1階に、2007年6月25日開設された。三菱UFJ証券の店内に三菱東京UFJ銀行が店舗外ATMを出したケースは各地で見られ、前橋では銀行ATMだけでなくテレビ電話ブースなども備えていて、積極的に地方都市で商売しようとしたようだ。この出張所は群馬県内の拠点として同行唯一である。
 その南側には日本振興銀行が「前橋店」(前橋支店ではなく)を構えている。法律上は本店の出張所という形になるようだ。これらの他、後述するが栃木県の2行(足利銀・栃木銀)も市の中心部に前橋支店を出しており、また市の郊外には北越銀(朝日町)、大光銀(石倉町)も進出している。新潟県がらみでは、前述の第四銀行のほか、経営蹉跌前の新潟中央銀行も国領町に前橋支店があった。

 というわけで、前橋市の中心部にある銀行の状況を見てきたが、前橋市内はシャッターストリート化が進んでいる。前橋市の最高路線価(最も高い敷地)は、本町2丁目の本町通り付近(中央三井信託銀行前橋支店周辺)の1uあたり17万円で、県庁所在地では3年連続で最下位だという(2009年)。ちなみに県内の最高値はJR高崎駅西口前(高崎市)の38万円/1uだから、半値以下である。私の若い頃から群馬県のオフィスは新幹線が停まる高崎に集中しつつあり、原因については市街地が駅から離れているからとか、新幹線が停まらないからとか、色々と言われてきた。りそな前橋支店の東側、中央通り角にあったミスタードーナツの前橋ショップは、開店順についている店番号が2ケタ台という貴重な店だったけれども、2007年11月で閉店した。中央通りは、私が小学生の頃には今の吉祥寺のサンロードくらいには人通りがあったと思うけれども。

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 【注1】不動貯金銀行前橋代理店:群馬県内の金融史をまとめている『群馬銀行の30年』(群馬銀行、1964年)では、開設の日は1914年9月3日。『牧野頭取講演全集』(不動貯金銀行、1930年)の年表では10月1日。
 【注2】路線価:相続税や贈与税を算定する際の基準となる敷地の価格。その年の1月1日時点のものが、毎年7月1日に国税庁により発表される。国土交通省が3月下旬に発表する「地価公示」の八掛け。
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2010年03月18日

2008.03.06(木)(1)前橋支店を「いまさら」制覇

2日目 2008.03.06(木)

 今朝は、良い天気である。
 わが出身地・群馬県前橋市の前橋支店に、実家の車を運転してやって来た。制覇作業をするためである。帰省する度にATMを利用している支店をいまさら「制覇」というのも妙だが、こうした記述では、逆に前橋出身者だからこそ期待されている部分もあるのではないだろうか。
 昨夜は新越谷から太田行きの区間急行に乗り、東武伊勢崎線の終点である伊勢崎には夜8時前に到着した。つい数年前まで伊勢崎へは都心(浅草)から直通電車があったのだが、2006年3月以降はすべて太田で乗り換えとなり、所要時間が余計にかかるようになった。伊勢崎駅まで母親に車で迎えに来てもらったが、あとは特記することもない。前橋市のはずれにある一軒家でババアとドラ息子が語らって、就寝して起床しただけである。
 支店には実家から10分強で着いた。前橋支店は、国道17号と50号が交差する前橋の一等地、本町一丁目交差点の北東角に建っている。商業はすっかり没落して見る影もないので、もはや「一等地」ではないかもしれないが、いちおう交差点の周辺では再開発事業が始動している。没落したとはいえ朝であるので、支店の前の道は車の数がそれなりに多くて、写真を撮りたくても撮れない状態が続いた。ただし歩行者はほとんどいない。
 前橋支店は地方店舗であるので、古き良き時代のというか、高度成長期以後の銀行スタイルを現在でも堅持している。かつてクリーム色をしていた外壁は、あさひ銀行時代に改装され、現在ではグレーになっている。建物の南東側、キャッシュコーナーの隣にある夜間金庫の投入口は、他店と同様「1月末で営業終了」の貼り紙でふさがれていた。
 キャッシュコーナーの入口ドアは、いまどきの時代に手動である【注】。「ガチャッ」というロックの感触も懐かしいドアを開けて建物に入る。ATM枠の上部には、埼玉銀行時代の青いプレートを持つ行灯表示が健在であった。ATMが3台あって、富士通ファクトAが2台と、ファクトVモデル20が1台。その右側に両替機という形で、4台分の枠がふさがっている。記帳機はない。窓口室は「クイックナビ」は導入していない。割合にきれいな状態を保っているけれども、それなりの改装はなされているのではないか。ATMを操作する。09:04、前橋支店を制覇した。
 りそな銀行前橋支店は、埼玉銀行前橋支店として1954年3月に開設された。開設当初の所在地は前橋市萱町29番地で、これは現在でいうと上毛電鉄中央前橋駅近くにある「グレースイン前橋」というホテルの場所(千代田町5-20-6)にあたる。竪町78番地(現本町1-2-16)の現在地に移ったのは1957年4月のこと。前橋市の住居表示実施は1966年10月1日である。現店舗は1972年7月の新築で、建て替えのため1971年8月から千代田町1-1-20(日銀前橋支店裏)の仮店舗で営業していた。

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 【注】2010.03.04現在の状況:前橋支店キャッシュコーナーの出入口ドアは、昨年9月後半〜10月頃に自動ドアに改装された。機械配置は富士通ファクトVモデル20と10が1台ずつのATM2台で、ATM枠の右2台分は空枠となっている。両替機の設置はない。機械枠上部の行灯表示は、プレートのみ緑色のものに付け替えられている。
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2010年03月17日

2008.03.05(水)(12)南越谷支店を制覇して前橋へ

 ここで拘泥しても生産的ではないので、先に支店の制覇を済ませてしまうことにした。
 南越谷支店が入った10階建てのビルは、朝日生命越谷ビルといい、外壁には朝日生命と埼玉りそな銀行のロゴが2つ並んでついている。埼玉りそなは主要階(1・2階)である。ビルの3・4階に損保ジャパン、5階にTBCと東京個別指導学院、6階に東急リバブルとオリエントコーポレーション他2社、8〜10階に朝日生命が入っている。そして、7階のテナントには驚かされた。千葉銀行が越谷法人営業所を出しているのだ。千葉銀は大胆にも、埼玉りそなのビルに堂々と出先を置いている。殴り込み、という言葉が頭をかすめる。店の外を見ると、夜間金庫に何やら投入している人がいた。夜間金庫はりそな銀行では全廃となったようだが、埼玉りそなと近畿大阪では健在である。
 店に入る。キャッシュコーナーの機械枠は壁に沿ってL字形に配置されている。キャッシュコーナーの左側には2階に上がる階段がある。10台あるATMはすべて富士通ファクトVのモデル10で、そのうち右の4台がIC対応であった。通帳記帳機が1台あって、キャッシュコーナーの右端にはロビー入金機のドアがついている。さらにその右側の90度折れた場所に両替機があった。
 この店の特徴は、何といっても特殊な窓口の構造である。窓口室全体をシャッターで締め切った後、窓口ブースを2つだけ開けられるような構造になっている。こちらの窓口は、後から別にシャッターを下ろして閉めることができる。南越谷支店は埼玉りそな全体でも3店しかない土曜窓口営業の実施店で、それはこうした店舗の構造が大きくものを言ったようだ。なお、この支店は2007年10月まで金曜夜間(17〜19時)にも窓口を開けていた。
 南越谷支店の制覇は、16:53のことであった。ここまで書かなかったが、今日のATMでの取引は、医療保険の販売を始めた「ご案内」を「ご覧になりますか」という表示が連発し、非常にいらいらさせられた。通常ならレシート発行ボタンを押せばキャッシュカードとレシートが出てくるのだが、この手の案内画面には「見る」「見ない」のボタンがついており、これを押さないと取引を終了できないので、1操作増えるからだ。私は速攻で「見ない」のボタンを押している。銀行にとっては「ヤな客」であろう。
 南越谷支店は、埼玉銀行南越谷支店として1979年6月開設され、現在の店舗には1996年2月19日移転した。開設当初の支店は、現支店の南側にある、シティホールや商業施設の入った公共ビル「越谷サンシティ」の中にあった。

 支店の写真を撮ったら、今度こそ本当に田舎へ帰ろう。もうそろそろ、例のバスが動く頃である。そう思って店の外に出ると、バスはまだ停まっていた。時計を見ると既に、発車時刻を過ぎて58分になっている。しかし、バスは動く気配を見せなかった。かの女性運転手は、さっき私がインネンをつけた(?)腹いせに、わざとバスを動かさないでいるようだ。その証拠、運転台から私の方をチラチラと見ている。
 しかし、さすがにそれも持ちこたえられなくなり、バスは59分過ぎに発車していった。私を可能な限り待たせて意地悪しようと思ったのかもしれないが、私の粘り勝ちである。10分経ったら真っ暗だと危惧していたが、意外に光の量は多くて、写真撮影にも問題はなかった【注】。ざまあみやがれ。
 今から行くと、前橋市まではどれくらい時間がかかるだろうか。普段の帰省では、老母を夜中の11時12時にたたき起こして、駅まで車で迎えに来させてしまっている。申し訳ないので、たまには早く帰らなければと思う。
 東武新越谷駅に上がるエスカレーターの下では、若いお兄ちゃんがB5判の白いコピー用紙を配っている。私にも1枚くれたが、何も印刷されていない白紙である。よくわからないが、何かのパフォーマンスのようだ。まあよい。後でメモ用紙として使おう。電車は今から10分後に、区間急行太田行き17:26発が来るようだ。太田まで行けば、伊勢崎行きに接続しているハズだ。

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 【注】写真は撮影時刻が「16:58」となっているが、カメラの時計に多少の誤差があったようだ。

<2008.03.05 おわり>
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2010年03月16日

2008.03.05(水)(11)南越谷駅に乗り入れる新興バス会社

 以上をもって、当初予定していた埼玉高速鉄道沿線の制覇活動はすべて終了した。埼玉高速鉄道は、東川口からさらに1駅、「埼玉スタジアム2002」の最寄り駅として知られる浦和美園(さいたま市緑区)まで延びているが、埼玉りそなの「めぐ」としてはここまで。あとは、実家のある群馬県前橋市への移動あるのみである。
 蛇足ながら、あさひ銀行は2002年5月、浦和美園駅の東側に、岩槻支店を母店とする店舗外ATM[浦和美園駅]を出した。このATMはパワーショベルで破壊されたため、2004年10月に突如廃止となった。当時は重機によるATMの窃盗事件が頻発していたわけだが、犯行に使われたパワーショベルが駅の近所で簡単に調達できたことも見逃せない。まだまだ開発途上の地域なのである。私が「あさめぐ」で回ったうちの複数がこれにより廃止されており、憤りを感じる。今思い出すのは[浦和美園駅]のほか[いなげや町田相原駅前店][イール妻沼]だけだが、他にもあったかもしれない。
 さて、当初は武蔵野線で南浦和に出て、京浜東北線経由で高崎線に乗りついで帰ることを漠然と考えていた。しかし、ホームの電光掲示板によると、東に向かう電車の方が西行き(南浦和方面)より先に出るという。東川口駅は島式ホーム1本だけで壁すらない高架駅で、吹きさらしで非常に寒かったから、どちらに出ても帰れる以上は早く出るほうに乗ってしまいたいと思った。もう1つ、今月15日に行われるJRグループのダイヤ改正で、隣駅の南越谷駅(越谷市)の隣りに新駅が開業するそうで、開業10日前の様子を車窓からチラッと見ようと思い立った。
 かくして、16:37発の海浜幕張行きに乗車。南越谷まで出れば、群馬県までの移動手段となる東武伊勢崎線の新越谷駅にアプローチできる。ここは一旦改札を出ての乗り換えとなるので、もう1店、駅前にある南越谷支店の制覇を加えることにした。

 南越谷駅の乗降客は、東川口とは比べものにならないほど数が多かった。接続する東武伊勢崎線は、新越谷から先の距離が長いのと、明治時代に開通した伝統ある路線ということもあって、埼玉高速とは違い相当な大幹線である。そういう主要な線との乗換駅であるが、南越谷駅のホームは客の移動が済むと人の気配がなくなって閑散としてしまった。なお、JRの新駅を見ることはできなかった。日本最大級のショッピングモール「イオンレイクタウン」の最寄り駅となる新駅「越谷レイクタウン」ができるのは、南越谷駅の「隣」といっても東川口寄りではなく、南越谷の先(新松戸寄り)だということだ。
 太陽がだいぶ傾いてきたが、この時間ならまだ写真はギリギリ撮れる。制覇の前に撮ってしまおう。埼玉りそな銀行南越谷支店は、JRと東武とが十文字に交差した南東側にある。駅のこちら側には路線バスが発着する駅前ロータリーがあり、東武の駅が急行停車駅だけに「新越谷ヴァリエ」という駅ビルになっているほか、結構な商業集積がある。この集積度からすると銀行の支店が複数あっても不思議ではないが、ちょっと離れたところに常陽銀行の越谷支店があるだけで、それ以外の他行は不思議とないようだ。駅の他の側も見ておくと、ロータリーは南西側にもあるが、こちらは少しさみしい感じで、パチンコ屋がある他は駅前だというのにマンションが並んでいる。西口には三井住友銀・ゆうちょ銀・埼玉りそな銀の店舗外ATMがあり、その先に栃木銀行の蒲生西支店南越谷ローンプラザ出張所(有人)が見える。名称は「ローンプラザ出張所」だが、扱い業務は通常の有人店舗と同様のようだ。一方、駅の北西側は風俗店街のようになっている。
 制覇目標の南越谷支店は、南東側ロータリーの南側に面したビルの1階である。まず、撮影にベストの場所を探す。ベストポジションはブティックの店先で、そこでカメラを構えるのは、男の私には少しこっ恥ずかしいものがあった。時刻は16:47、日没の時刻が刻々と近づいている。
 カメラを構え、いよいよシャッターを切ろうとしたところで、信じられないことが起きた。支店の目の前にはバス停があるのだが、そこに大型の路線バスが入ってきて、被写体の前でぴったりと止まってしまったのである。何たるタイミングか。今は3月上旬、もうじきすっかり日没してしまい、写真を撮るには不適切な明るさになる。もう既に一刻一刻暗くなっているのである。
 私はバスに駆け寄り、客の降車が済んだのを見計らって前部ドアから運転手に話しかけた。運転手は中年の女性だった。発車時刻を問うと、57分だという。冗談ではない。今から10分も待たされたらどれだけ暗くなってしまうか。私は無理を承知で、写真を撮りたいので少しバスを動かしてもらえないかと頼んでみた。やはり当然というべきか「しょうがないねー」と拒絶の返事が返ってきただけであった。
 拒絶は仕方がないとして、あしらうようなものの言い方に腹が立った私は、黙って背中を向けた。女性の運転手は、運転席でタバコをふかし始めた。時間待ちの待機時間は勤務時間のうちではないのかね? 怒りが増幅されてくる。他のことならともかく、私は喫煙に関しては極めて不寛容である。知り合いの女子高生に常習喫煙者がいて、会う度に「未成年者がタバコを吸ってはイカン」と注意する私は、彼女から煙たがられている。煙たいのはこっちなんだよ。
 それはさておき、埼玉県の東部では、東京都心部に住んでいたのでは想像できない、見たこともないバス会社が多数営業している。こうしたバス会社は、地場企業がバス部門を作って参入するようだ。既存のバス会社が路線を出さないところに小型バスを中心に新規参入するのだが、既存のバス会社で使える共通カードが使えないのが泣き所である。支店前から出ているバスは、越谷市の東隣にある吉川市に本社を置く、飯島興業という会社が走らせている。この会社は車検・整備・鈑金・販売などを手がけているそうだから、バス部門参入前の本業は自動車整備業なのだろう。南越谷駅には来ないけれども、飯島興業と同じ吉川市の「メートー観光」という会社は、もともとは名糖牛乳の販売店として創業したという。
 それにしても、この発着所には、時刻表によると朝夕しかバスが来ない。そういうバスが、よりによって自分がシャッターを押そうとしたタイミングで来るのである。毎度のことながら、自分のハマりやすさには呆れてしまう。
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2010年03月15日

2008.03.05(水)(10)東川口支店を制覇

 次は、南北に走る埼玉高速鉄道が東西に走るJR武蔵野線と交差する、東川口駅(川口市)。ここには、東川口支店がある。鳩ヶ谷市を離れて再び川口市に入ることになるけれども、位置的にいまひとつピンとこない。東川口駅のある川口市戸塚は、戦後まで「戸塚村」だった地域で、1962年に川口市に合併した。合併で加わった地域ならピンとこないのも道理であるが、もっとよく考えると鳩ヶ谷市の真東もまた川口市(旧新郷村エリア)なのであった。
 埼玉りそなの北側を西にまっすぐ行くと国道122号のバイパスに出るらしいので、そこから鳩ヶ谷駅まで戻ることにする。鳩ヶ谷支店から122号に下りる道は、一方通行の緩やかな下り坂であった。この近辺は鳩ヶ谷市の中心市街地に近接した住宅地で、坂の上から墓地が見えた以外に特筆すべきものはなかった。坂を下りたところは坂下町というそのまんまの地名である。駅に向かって122号を南下すると鳩ヶ谷郵便局があって、その先にエネオスのガソリンスタンド(セルフ)。レギュラーはリッター145円だったが、ガソリンはいつからこんなに高くなったのだろうか。
 交差点についている青い大きなプレートによると、県道34号線が東西に延びていて、左(東)に行くと草加市、右は「さいたま」とある。その下に「(旧浦和)」と書いてあるのは、当たり前のようだが偉いと思った。県の北部なら「さいたままでxkm」という矢印があってもいいと思うけれども、鳩ヶ谷市のようにさいたま市と近接した自治体では、「さいたま」という表示だけでなく「浦和」「大宮」といった旧市名がないとピンとこないと思う。
 そんなことを考えていると、国際興業の路線バスが横道からひょっこり現れた。バスが出てきたということは、この道が鳩ヶ谷駅に直接つながっているのに違いない。思ったとおり鳩ヶ谷駅はすぐであった。ようやく、鳩ヶ谷駅に戻ってきた。ここから、16:08発の浦和美園行きに乗る。東川口までは3駅、所要時間は8分である。
 「車窓風景」の描写はない。埼玉高速鉄道は終着駅・浦和美園の手前を除いてほぼ全線が地下線で、シールド工法の円形のトンネルが延々続いているだけだからである。それ以外の特徴としては、各駅にホームドアがあって停車〜発車の時間が長いことと、駅間距離が長いので地下鉄にしては結構スピードを出していることだろうか。しかし、川口元郷と鳩ヶ谷の2駅近辺を見た限りでの印象だが、「地下鉄」にする必要が果たしてあったのだろうか。高架線なら建設費がもう少し安く上がったのではと思えた。

 東京20km圏をぐるりと取り囲むように走る武蔵野線のラインカラーに合わせたのか、東川口駅の内装はオレンジ色であった。改札を出た先に、地上行きエレベーターとJR乗換口がある。埼玉りそな銀行東川口支店は、埼玉高速と武蔵野線との位置関係からすると、左の3番出口を出て階段を上がった目の前と思われた。東川口支店はあさひ銀行になってから開設された支店で、2000年6月5日のオープンである。私は同月に制覇に来ているから、支店の大まかな様子は分かっている。
 予想どおり、地上に出た右側が東川口支店であった。支店の入るビルは「東川口FTビル」といって自社ビルではなさそうだが、とにかく3番出口を上がった右側である。なお、建物2階は居酒屋の「笑笑」で、銀行より居酒屋の看板の方が目立つ。
 東川口駅の周辺は、意外なことに、鳩ヶ谷ほど高層マンションが目立たなかった。全く存在しないわけではないのだが、明らかに数が少ないと思う。鳩ヶ谷は近年まで開発が遅れていた分、それを取り戻すかのように開発が進んでいるが、東川口は武蔵野線が通じた1973年以来の開発の歴史があるのだろう。とはいえ、乗換駅としての機能が生まれた東川口は、今後は高層マンションも増えてくるのではないかと思う。商業施設は、駅から少し離れたところに西友。埼玉りそなから道を挟んで駅寄りに、パチンコ屋と「セリア生活良品」が入った雑居ビルがある。あとは、フィットネスクラブが出店しているあたり、少し開けた感じがする。
 なお、駅の南東には2002年5月まで中央三井信託銀行が東川口支店を出していた(旧北海道拓殖銀)。中央三井が収穫を待ち切れなかったのか、拓銀の種まき(出店)がちょっと早すぎたのかは知らないが、銀行店舗としてはこれから伸びてきたのではないかと思うと、少しもったいない気がする。

 東川口駅周辺は結構複雑な地形である。武蔵野線は駅の東側では高架になっているが、西側では地平面より低いようだ。JRの高架が直角にまたぐ南北の通り(この地下を埼玉高速鉄道が走っているわけだ)の西側に、東川口駅のロータリーがある。地形の位置関係こそ違うが、斜面の地形をうまいこと利用して、たまプラーザ(横浜市青葉区)のようにシンボリックに仕立てている。ロータリーの中央部分、潅木の生えた芝生のスペースには、大きな円盤が直立して鎮座している。埼玉高速の建設工事で使ったシールド機(トンネル掘りの機械)の刃をモチーフにしたモニュメントである。バス乗り場で行先を見ると、岩槻・越谷・浦和・川口・西川口・鳩ヶ谷とあって、全部国際興業のバスであった。
 「めぐ記」としては、埼玉りそな銀行東川口支店の様子を書いておかなくてはならない。キャッシュコーナーの左端に貸金庫室の入口があって、5台のATMがあり、その右に1台分壁板がはめ殺しにしてある。そして再びATMが5台。一番右側は両替機である。機械構成としてはATMが全部で10台で、そのうち9台が富士通FV10、一番右の1台だけFV20であった。ATMの枠はあさひ銀行式のパイプ形デザイン。行灯のプレートもあさひ銀時代の赤色のままである。中央のはめ殺し部分には、ATM部の行灯表示と同じ色調の赤いプレートがついていて、30cmぐらいの奥行きと照明だけがある。何かを飾っておくためのスペースなのだろうが、ディスプレイとしては使われていなかった。東川口支店を制覇したのは、16:24のことであった。

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2010年03月14日

2008.03.05(水)(9)歴史を感じさせる鳩ヶ谷の町並み

 昭和橋の交差点を左折して国道122号の旧道に入るとすぐ、見沼代用水東縁を渡る。橋の親柱には、何を意味するのか知らないが、赤ん坊のブロンズ像が取り付けられている。
 橋を渡ると上り坂が始まり、その頂上付近から本格的に鳩ヶ谷市街地が始まる。この近所はマンションばかりである。7〜8階建てと若干低めであるが、それでも、たまに残っている民家が圧迫されて青息吐息という感じだ。セットバックしようとしているらしく、わりと新しめの商店は少し奥へ引っ込んだ場所に建っている。
 「日光御成道の道筋」という案内板を立てた、ちょっとした公園がある。ここは鳩ヶ谷町役場跡で、公園として整備したのは鳩ヶ谷市だが、メインとなっている日光御成道についての解説プレートは埼玉県が立てたものだという。公園には、市が建てた高さ2mぐらいの木造のからくり時計もある。古き良き時代の思い出を大切にしている町は、いい町だと思う。こういうものがあると、来てよかったと思える。日光御成道(日光御成街道とも)は、江戸時代に整備された「五街道」の1つ、日光街道の「脇街道」である。徳川家康が久能山(静岡県)から日光に改葬され東照宮が造営された後、江戸幕府の将軍が日光に社参するのに使われた。江戸・日本橋を起点に本郷追分で中山道から分かれ、幸手宿で日光街道に合流するこの道は、岩槻藩の参勤交代に使われたことから「岩槻街道」とも呼ばれ、岩槻(さいたま市岩槻区)までほぼそのまま現在の国道122号線となっている。鳩ヶ谷は、この街道にあった5つの宿場町(岩淵・川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻)のうちの1つであった。
 謎の洋館が建つ。醫師舩津なにがしと書いた表札があるから、古い病院建築のようだ【注】。表札の「医」と「船」の文字が旧字体になっているところが味わいである。この病院建築から50mほど進んだところが坂道のサミットで、さっき渡った橋から最高地点までの高低差は10m強ある。このあたりから鳩ヶ谷市の古い商店街が始まる。
 どこの地方都市に来たんだろうと思うような洋品店など木造の商店建築があり、土蔵がありと、古めかしい商店が建ち並び、その隙間に高層マンションが入り交じる。高層マンションの手前に土蔵が残っているのは良いコントラストである。マンションという建築は、昔の風景が失われたという事実の象徴で、ネガティブに考えれば絶望的であるわけだが、土蔵とのコントラストは現代社会の風景としては「絵になる風景」でもあると思う。良く言えば、これから変化していくというダイナミズムが存在するわけである。都市の景観としては、このように古いものが新しい建築に交じって残っているという事実そのものが面白い。保存・維持された景観が美しいのはもちろん解っているが、人間の金銭的欲望というか経済活動そのものの反映である高層マンションも、全否定するわけにはいかないだろう。ただし、旧市街では「売地」が結構目につくのが気になるが。

 ここまで来ると、埼玉りそなの店舗外ATMに遭遇する。本町商店街振興組合会館という4階建てのビルの1階である。ATMの枠は6台分あるが、機械は富士通ファクトVモデル10と20が1台ずつ、合計2台しかない。これは、鳩ヶ谷本町支店の代替ATM[鳩ヶ谷本町]である。協和埼玉銀行時代にあった同支店は旧協和銀行の鳩ヶ谷支店で、1972年11月開設され、埼玉銀行との合併で鳩ヶ谷本町支店に名称変更、1992年9月21日鳩ヶ谷支店に統合されている。統合日は協和埼玉銀行からあさひ銀行に名前が変わった日でもあるから、この支店は「あさひ銀行鳩ヶ谷本町支店」だったことはない。協和の支店があったのは向かい側の角だが、もう協和の建物はなくて、10階を超える高層マンションに建て替えられている。以前(時期忘却)来た時には支店跡が空き家の状態で残っていて、窓ガラスにはミッフィーのステッカーがそのままになっていたと記憶している。
 協和の支店跡から埼玉りそなの支店に向かう途中に、青木信用金庫の鳩ヶ谷支店がある。埼玉県に信用金庫は現在4金庫しかないが、そのうち川口信金と青木信金の2金庫は川口市に本店があり、いつの間にかうやむやになったが合併交渉もしていた。青木信金を過ぎると、商店の並びは途切れ、壁の崩れかけた土蔵など本当に古い建築が見られるようになってくる。円筒形の郵便ポストが立っているそばに数軒の高層マンションが建つ。埼玉りそな銀行鳩ヶ谷支店は、こうして商店街が一息ついたあたりにある。支店の斜め向かいはレンガ造りの古い倉庫、その先には木造建築や石造りの建築など、2007年11月に「めぐ」で行った秩父市でも見たようなアンティークな風景が広がっている。山間部の秩父と違い、地下鉄で都心と直結「してしまった」鳩ヶ谷市では、新旧混在した風景が日々刻々と失われつつあるだろうから、鳩ヶ谷市内を見て回るのならここ数年のうちだと思う。
 支店に入る。ロビーはそんなに広くなくて、窓口ブースの数もさほど多くはない。入るとベンチが少々置いてあって、すぐに窓口である。ATMは枠が13台分、あさひ式のパイプ形デザインのブースが並んでおり、一番左が両替機である。機械番号でいうと2〜11番に富士通FV10が10台並んでおり、12番は空き枠、13番は埼玉りそなに多く見られるFV10ガワの記帳機。ATMは一番右の2台だけがIC対応になっていた。ブースはATM1台ごとの幅がかなり狭いから、あさひ銀時代に相当の改装をしてこのスタイルになったと思われる。15:50、鳩ヶ谷支店を制覇した。

 鳩ヶ谷支店は、1912(明治45)年2月に忍商業銀行鳩ヶ谷支店として開設された。1943年の4行合併で埼玉銀行の鳩ヶ谷支店となり、翌年の鳩ヶ谷南支店(旧第八十五銀)の併合を経て、現在の店舗は1969年1月に建築されたものである。1984年4月、ジャスコ川口グリーンシティ(現イオンモール川口グリーンシティ)店内に有人のグリーンシティ出張所を開設した(1998年8月統合)。また、前述のとおり旧協和店舗の鳩ヶ谷本町支店を1992年9月に統合している。
 ところで、今回の連載を掲載する前に最終チェックしていて、銀行のホームページで鳩ヶ谷支店の交通案内を見ると「JR西川口駅(東口)バス25分・本町二丁目バス停前」と書いてあった。埼玉高速鉄道の開業以前から今に至るまで変わっていないのに少し驚かされた。似たケースは他にもある。以前から気になっていたのは飯能支店名栗出張所(店舗外ATM)で、「西武池袋線飯能駅バス45分・浅海戸バス停前」と書いてある。前者は「古い」だけで間違っているわけではないが、後者に書いてあるのは、あさひ銀行時代に統合された営業店、名栗特別出張所の場所である。名栗は統合の際に大きく移転しているから、この交通案内では現地までたどり着けない。埼玉りそな銀行の店舗案内は、一度情報を吟味した方がよいと思う。

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 【注】謎の洋館:ネットで調べたところでは、1932年建築の旧船津眼科医院だそうだ。
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2010年03月13日

2008.03.05(水)(8)川口という名のマフラーを巻いた市

 川口元郷から乗った15:15発の鳩ヶ谷行きは、東京地下鉄からの乗り入れ車両であった。目指す鳩ヶ谷駅は、南鳩ヶ谷を挟んで元郷から2つ目。ほんの5分で到着する。鳩ヶ谷から先の流動は少ないようで、電車の本数はこの駅から半分程度に減ってしまう。
 ホームからエレベーターで改札に上がる。鳩ヶ谷市の玄関口と位置づけられている鳩ヶ谷駅は、この線の中核的な駅ということで、施設はさっきの川口元郷駅より充実している。駅施設がホームの真上に細長く続いているのは変わらないが、鳩ヶ谷駅の施設の幅は元郷の倍ほどもあり、そこでは近所にある「SKIPシティ」【注1】についての展示などが行われている。改札を出て右側には、ちょっと柱が立て込んでいて見にくいが、埼玉りそなが[鳩ヶ谷駅]という店舗外ATMを出している。母店は鳩ヶ谷支店、営業時間は7〜23時、ガラス張りの室内には富士通ファクトVのモデル10が2台。ATM上部の「お預け入れ」「お引き出し」の行灯は、あさひ銀行時代の赤いプレートがそのまま付いている。入口が2方向についているのが特徴といえば特徴である。このATMは、2001年3月の開設翌日(ということは埼玉高速鉄道の開業翌日)に「あさめぐ」の一環として制覇した。
 駅舎は地下から地上2階ぐらいまで吹き抜けになった豪勢なつくりで、埼玉高速鉄道の経営不振が建設費をかけすぎたのも一因とわかる。埼玉高速線は国道122号のバイパスの下を通っているが、駅裏手の国道に面していない方には、それなりに大規模なロータリーが整備されていて、1階が商業施設になったマンションなどビルが何軒も建っている。ただ、開発が新しいのと、旧市街の反対側に位置することから、新たな中心市街地を形成する段階にまでは行っていない。以上は、後日この地を再訪した時に判明した。
 支店に向かおう。「あさめぐ」で鳩ヶ谷支店を制覇したのは埼玉高速が開通していない時代であり、また前述の店舗外ATMを制覇した時は支店に寄っていないから、鳩ヶ谷支店に「埼玉高速で」行ったことはないのである。掲示してある駅周辺の地図を見る。プラスチック製の立派な地図には「あさひ銀行」の文字がそのまま残っていた。支店はそこで間違いないが、ここからどう行けばよいだろうか。駅の南寄りにある3番出口を出て「昭和橋」の交差点で左折し北進、川を渡って坂を上がった先に支店がある。見沼代用水東縁という川は英文呼称がMinuma irrigation canal eastern borderと書かれており、イースタンボーダーということは「〜東縁」までで正式名称だろう【注2】。地図には注意書きがついていて、「お願い 当社線各駅の周辺が大きく変化しております。見直しを致しています。しばらく左側の駅周辺マップをご利用下さい。」とあった。駅員の手作りらしい「修正版」という紙の地図が左側に貼ってある。この地区の開発が激しく進んでいるのは間違いないとはいえ、駅と鳩ヶ谷支店との位置関係まではさすがに変わらないだろう。
 内装の色は駅によって違うようで、鳩ヶ谷駅は水色が主体であった。目指す3番出口へ、駅の端に向かって延々と歩く。地図を見ている間に地下通路は人の気配がぱったり途絶えてしまったが、出口では川口元郷と違ってエスカレーターが動いていた。地上に1歩出た途端、強い日差しを浴びて一瞬クラクラする。「ぐあー、ドラキュラだー」と呟いてみたが、アホらしかった。
 国道122号のバイパスから東に入ったところにある3番出口は、純然たる地下鉄出入口といった感じで、前述の駅舎は122号線の西側に建っている。入口が面している道路は改装された歩道付きの道で、沿道の建物は古いものでも推定20年前くらいだから、新しい町並みである。新しい開発地として「ありがちな街並み」ということになるだろうか。これを東にまっすぐ進み、次の大きい交差点で左折すると、鳩ヶ谷市の中心市街地にたどり着く。

 鳩ヶ谷市は、埼玉高速鉄道が開通するまでは「陸の孤島」だった。日本の市で埼玉県蕨市に次いで2番目に小さい市域は、その大部分を川口市に取り囲まれており、わずかに700mほど東京都足立区と接しているだけである。過去に川口市との合併話が出たり流れたりしているが、鳩ヶ谷市の前身である鳩ヶ谷町は、戦時中にいったん川口市と合併し、戦後にまた分離しているから、もう1回合併をとなると「出戻り」のようなもので、川口側が強気に出るのであろう。鳩ヶ谷町が川口市に合併したのは、戦時体制下で軍需工場地帯の形成を目指したためだが、もともと合併賛成・反対が拮抗する中での合併であり、戦争が終わると再び分離する動きが強まった。戦時中に合併した自治体が戦後に分離したケースはこの他にもいくつかあったが、結局は再び合併することになったところが多く、分かれたままになっているのは埼玉では鳩ヶ谷だけであった。
 別の機会に鳩ヶ谷を訪れて知ったのだが、鳩ヶ谷駅のすぐそばにある武南警察署は、事実上「鳩ヶ谷署」のようなものらしい。数年前に行われた鳩ヶ谷・川口両市の合併交渉では、鳩ヶ谷側が「武南市」という名前を推し、川口側が反発して破談になったと聞いている【注3】。力関係からすると川口市がこの名前で承諾するとは思えないから、「武南市」という名前は全然「無難」ではなかったわけで、まあ破談になるべくしてなったのだろう。破談に追い込まれた市町村合併の例を複数見ていると、本音では合併を回避したい自治体が、破談になるような名前をわざと提案しているに違いないと感じる。鳩ヶ谷市は、日光御成街道に沿ったかつての名門宿場町として、独立を維持したい気持ちが強いのではないかと思う。「鳩ヶ谷」という地名は嫌いではないので、残しておいて欲しい気はする。

 さて、国道122号の旧道と交差する、昭和橋の交差点までやって来た。交差点の向こう側には西友が見え、そしてその手前には八千代銀行の鳩ヶ谷支店がある。もともとは第二地銀だった国民銀行(本店東京都)の支店だったが、1999年4月の経営蹉跌を経て、同じ東京の第二地銀である八千代銀に2000年8月営業譲渡され、同行で埼玉県唯一の支店となった(国民銀としても埼玉県唯一であったが)。国民銀は大手バス会社である国際興業が株の過半数を持っていた銀行で、ここのほか山梨県に甲府支店を持っていたのが特徴であった。鳩ヶ谷市は近隣の川口市やさいたま市などとともに国際興業がバス路線を張り巡らしており、また甲府には同社の有力な子会社である山梨交通がある。岩手県交通(やはり有力な子会社)のある盛岡に支店はなかったが、別に国際興業としても国民銀を「機関銀行」にしていたわけではないから、網羅していなくても一応不思議でないようだ。

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 【注1】SKIPシティ:NHKの映像アーカイブを中心に構成された、埼玉県の施設。映像関連産業を軸に県内中小企業の振興を図る趣旨。2003年2月開設。
 【注2】見沼代用水東縁(みぬまだいようすい・ひがしべり):埼玉県上尾市瓦葺からさいたま市・川口市・鳩ヶ谷市を経て東京都足立区古千谷本町(見沼代親水公園)まで流れる用水路。現さいたま市緑区・見沼区に江戸時代初期に造成された農業用ため池、見沼溜井(みぬまためい)を「享保の改革」の一環で干拓するため、その代用として1728(享保13)年江戸幕府により建設された。行田市の利根川より取水され、上尾市で東縁と西縁とに分かれる。なお、この時干拓された見沼溜井が、緑地空間として有名な現在の「見沼田んぼ」である。
 【注3】正確には、鳩ヶ谷・蕨・川口3市の合併構想で、川口市に吸収合併されるイメージを嫌った鳩ヶ谷と蕨の合併協議会委員が「武南市」の名前を推した。


 【2011.07.12追記】2011.10.11、鳩ヶ谷市は川口市に編入。
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2010年03月12日

2008.03.05(水)(7)もろもろの変革が求められる埼玉高速鉄道

 川口元郷駅は、大きく「川口元郷駅」と書いてはあるが、ガラス張りの入口が地面に建っているだけで、目印が何もない。あとはバスロータリーが広がるだけである。ぐるっと大きく広がるロータリーの中央はタクシープールになっている。使われていない部分に潅木がもこもこと生え、高さ2mほどの細い木も1〜2本立っている。歩道部分の舗装タイルは、鳩ヶ谷市が近いせいでもないだろうが、ハトの糞で真っ白になっている。とにかく、地下鉄の入口以外に何もない感じである。小さな駅ビルでも建ててみたら少しは違わないだろうか。採算は取れないかもしれないが、でもこの駅はやはり何かランドマークが欲しいと思う。
 ここで思いつきを書く。駅ビルを建設したとして、川口南平支店が新ビルに移転し「川口元郷支店」として営業することはあり得るのではないか。川口市内から支店まで歩いた限りの印象だが、川口南平支店はよく統合されずに生き残ったと思える営業店である。各都市銀行は1990年代後半以降に営業店を大量整理したが、その際、駅から遠く商業集積もさほどない場所にある、川口南平と似た立地条件の店が軒並み統合になっているからだ。特にあさひはその傾向が強かったように思う。川口南平支店がオープンして30年、埼玉高速鉄道が開業して10年足らず。それぞれそれなりに年数が経ち、新駅の周辺も開発が進んできたことを考えれば、そろそろ「次の展開」を考えても良いと思える。あさひの過去の実例としても、郊外店舗を新駅近くに移転したケースはある。浦和市の郊外にあった浦和白幡支店は、1991年10月にJR埼京線の武蔵浦和駅前に移転して武蔵浦和支店と改称している。

 駅から方角でいうと西、市街地に向かったところに、ヤマダ電機やスポーツ用品の「アルペン」などが入った大きめのビルがある。これが、りそなの店舗一覧で字面だけを覚えていた「ミエルかわぐち」。よくよく見ると店舗より立体駐車場の方が大規模なようだ。店舗一覧で見たということは、この中には埼玉りそなが店舗外ATMを出しているということである。また、川口元郷駅は東京都足立区にかなり近接したところにあって、足立区内からこの駅までバスで来て埼玉高速線で都内に通勤している人が結構いるようだ。但し、今月末には「日暮里・舎人ライナー」が開業するから、少しはそちらに定期客が流れるかもしれない。
 何もない川口元郷駅の、地下に下りてみる。エレベーターの箱を出ると、壁面の白いタイルには紫色の手すりがついていた。この駅のシンボルカラーのようだ。延々と長い地下通路を歩いてさらに階段で1階下り、ようやく切符売り場にたどり着いた。川口元郷から鳩ヶ谷までの運賃は、260円だという。改札を入って階段でさらにホームへ下りる。
 この駅にはエスカレーターもあるのだが、10〜16時は節電のため運転を休止している。節電したい気持ちはわかるけれども、設備があるのに止めているというのは少しみっともなくはないか。人感センサーをつけるなど節電の方法はあるだろうにと思うが、埼玉高速鉄道は経営が相当に苦しいようだから、そうした設備を新たにつける費用が出ないのかもしれない。新線鉄道が収益を上げるためには客を劇的に増やすことが必要だが、それには安い運賃を相当思い切って提供しないと無理である。埼玉高速の数年後に開業した新線鉄道の「つくばエクスプレス」は成功したというが、大きな要因の1つは運賃を下げたことだと思う。閑古鳥が鳴いていた「東京湾アクアライン」は、通行料を800円に値下げした途端に、海ほたるパーキングエリアが連日超満員となったではないか。3.5kmしかない川口元郷−鳩ヶ谷間で260円も取るのは、そろそろ卒業すべきであろう。

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2010年03月11日

2008.03.05(水)(6)バスで川口元郷駅へ

 次は、鳩ヶ谷支店(鳩ヶ谷市)に向かう。本日のメイン・埼玉高速鉄道に、ようやく乗れるのだ。
 埼玉高速に乗るには、やはり何だかんだ言っても川口元郷駅が支店から最も近いわけだが、どう行ったらいいのだろうか。ここから1.5kmもあるようだから、バスがあるなら乗ってしまいたい。目の前にあるマルエツは「元郷店」という名前で、地名でいっても川口市元郷にあるのだけれども。
 支店の左隣にあるブックオフで古本を数冊買って、ついでに新しいポイントカードを作ってもらった。ブックオフはもともと、ポイントが「各店で」貯まるというポイントシステムを採用していたが、レンタルビデオの「TSUTAYA」(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)が展開するポイントシステム「Tポイント」を前年(2007年)10月に導入した。私は北海道から鹿児島まで全国各地のブックオフで古本を購入したことがあるから、合計すると全国でトータル1000ポイントぐらいは貯まっていたハズだから、それをチャラにされてしまって愉快ではなかった。ポイントシステムを改変するのは店の勝手だが、それによって客がせっせと貯めていたポイントが全部パーになるのは、客に対しての裏切りであると思う。なお、ブックオフは2010年9月いっぱいでこのポイントサービスを廃止するそうだが、貯めたポイントは提携解消後も引き続きTポイント加盟企業で使えるという。やはり私と同じ不満を抱えた人が多かったのであろう。
 話がそれた。ブックオフに入ったのは、川口元郷駅までの道を尋ねるためであった。レジのお姉さんに聞いてみると、南平文化会館脇でクロスする道を通るバスが、川口元郷駅も通るそうだ。グラッチェガーデンズまで戻って左に曲がると、ソバ屋のそばに元郷駅へ行くバス停があるという。
 言われたとおり交差点を左に曲がると、確かにソバ屋があり、隣の敷地との境目にバス停があった。「元郷五丁目」というこの停留所に来るのは、国際興業バスの川口駅東口行きで、本数はかなり多いようだ。時刻表を見ようとしたところでバスが来た。すぐさま乗り込んだので、何時のバスかはわからない。川口支店の行員さんが最初にこれを教えてくれていれば、と思わなくもないが、私も徒歩で行くには遠いということを知らないくせに、確信的に徒歩での道順を尋ねたのだから、まあ行員さんを責めるわけにはいかないだろう。

 私を乗せたバスは、歩道のない2車線道路を南下する。中央に黄色いセンターラインが引いてあるこの道は、正確には南ではなくほぼ真西に進んでいる。昭和40年代から50年代にかけての街並みと言おうか、個人商店と飲食店が多い。ちょっと奥へ入ると、民家のほか、2階建て外階段つきの、1DKくらいの部屋が並んだ昔ながらのアパートもある。民家は住宅だけの建物ではなくて、店舗が併設されたものが主体である。建て替えられた家も数軒みられたが、敷地をいっぱいに使った3階建てばかりであった。ちょっと左にカーブすると、左前方に巨大なタワーマンションが遠景として見えた。スーパーマーケットのマックスバリュがある。川口市周辺にはイオン系の店舗が多い。私は東京23区内に住んでいて、特別区ではイオンの店舗を(オリジン弁当とミニストップを除き)ほとんど見かけないから、つい珍しく感じてしまう。
 川口元郷駅左という看板を見てすぐ、名称不明の交差点。ここで4車線の道路に曲がり込んだ。途端に、車窓の風景はガラリと雰囲気が変わる。交差点までは、川口駅前から南平支店までの道中とそんなに変わらない、古い町工場とか住宅の並んだ街並みだったが、ここからいかにも「いまどきの郊外」という感じの道になったのである。ソバ屋の前から続いてきた町並みが昭和40〜50年代だとすると、左に曲がったあたりは平成のロードサイドといった趣である。この4車線道路こそ、埼玉高速鉄道が下を走っている国道122号線であった。
 交差点から左折してすぐのところに、地下鉄の入口が2棟並んでいる。水色の柱に銀色の外装材がついた平屋建てのガラス張りで、紫で「川口元郷駅」と大きく書いてある。というかシールが貼ってある。15:08、埼玉高速鉄道川口元郷駅に到着。元郷五丁目からバス停の数にして3つ、運賃は190円であった。整理券方式のバスなので初乗り運賃だけだと安く感じるが、バス停の数も3つだけだから大した距離ではないかもしれない。
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2010年03月10日

2008.03.05(水)(5)ナンペイです

 芝川にかかる橋を渡ると急に、タワーマンションが遠景として何本も見え始めた。ほどなく、2車線×2の大通りとぶち当たった。この道は国道122号であり、この道の地下を埼玉高速鉄道が走っていて、川口元郷駅はこの角を右に曲がったところにある。川口南平支店はまだもう少し真っ直ぐである。(かつて1回来たことがあるとはいえ)事前のリサーチゼロでよくここまで来た、と自画自賛したいところだが、事前にきちんとリサーチしていれば、間違いなく今ここを歩いてはいないだろう。
 122号と交わるこの交差点は「十二月田」。12月の田んぼと書いて「しわすだ」と読む。地名の由来は知らないが【注1】、こういうのは案外、地元の小・中学校が地域の「調べ学習」とかでやっていそうである。当て字を含んだ十二月田という地名を見て私が思い出したのが、ラジオ番組のディレクターの名前であった。私は高校時代には“ラジオ少年”で、特に大阪の局の番組をよく聴いていた。いくつかの番組で常連投稿者になったのだが、その中で特にラジオ大阪の夜の番組では、公開番組でもないのにスタジオに押しかけたところ、温かく迎え入れてもらったことがある。その時の番組(「おっと!モモンガ」といった)は、担当ディレクターが「栗花落」(つゆり)さんという人だった【注2】。パーソナリティが喋っていたところによると、クリの花が咲いて落ちる頃にちょうど梅雨入りするのが由来だという。「為栗」なるハンドルネームを使っている者として親近感を覚えるが、もちろん私が勝手に思っているだけだ。
 閑話休題。十二月田交差点の少し先で、前方に目印の信用金庫が見えてきた。川口信用金庫本町東支店のある「十二月田中学前」の交差点で右折する。このあたりまで来ると、開けたのは比較的最近、といっても具体的にはここ30年ぐらいの間ではないかと思えた。道幅が少しだけ広いし、街路樹を植えるスペースを確保した歩道も付けられているからだ。建物1軒1軒の敷地の使い方もこれまでとは違い、ちょっとゆったりしてくる。それだけ中心部から離れたということだろう。ここも埼玉高速鉄道の影響は多少受けるハズだが、どうなのだろうか。
 複雑な形の五差路が前方に見えてきた。川口南平支店はこの五差路の先で、たしか右側ではなかったかと思う。五差路というか、厳密にいうと私の歩いている県道東京川口線に別の道が2本近接して交差しており、そのうちの1本が斜めになっているため、3本の交差した真ん中に三角形をした空間(公園になっている)ができているのである。ここでは、草加市方面に向かう県道川口草加線と、鹿浜橋(東京都荒川区)の方に向かう県道東京川口線、それに市道南平交通公園通の、3本がクロスしている。ここで左に曲がって川口草加線に入ると、この3月に都営の新交通「日暮里・舎人ライナー」が延びてくる舎人(とねり、東京都足立区)に出る。五差路の北東側には南平文化会館と南平公民館、南東角にはすかいらーくのイタリアンレストラン業態「グラッチェガーデンズ」があった。
 この交差点まで来たところで、前方左側にマルエツの看板が見えた。マルエツの向かい側が埼玉りそなであったハズだ。何だかんだ言いつつ、結局ここまで歩いてきたのであった。目的地が目に入っただけで、歩くペースが急速に上がったのが自分でもわかる。「車現金買入」という黄色い看板があり、その後ろに埼玉りそなの看板がひょっこりと現れた。銀行の看板は周りの風景にすっかり埋もれていて、支店の目の前まで来ないと見えないから、市内方向から来るにはマルエツを目標にしないと無理である。商業というかお金を使える場所が全くないわけではないけれども、支店の周辺は商業集積があるようには見えない。
 例によって支店の写真撮影から済ませようとするが、これまた例によって最悪だった。明らかに時間的な理由から逆光であるのに加え、肝心の店の真ん前に大型トラックがデンと停まっているのだ。この道は駐車禁止のハズ、警察に通報してやろう。そう思って近くの電話ボックスに入ると、そのトラックは慌てて走り去った。私がナンバーを控えて電話ボックスに入ったところが運転手に見えたのかもしれない。
 支店に入ると、やはり時間的な理由からか店内には客がほとんどおらず、静まり返っていた。その割に、さっきの川口支店と同じくロビー係が3人いる。8台あるATMはすべて富士通ファクトVモデル10で、別に記帳機がある。ATMは8台のうち2台がIC対応になっていた。14:42、川口南平支店を制覇した。
 川口南平支店は、埼玉銀行川口南平支店として1981年3月に開設された。

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 【注1】昌平坂学問所地理局が文化・文政期に編んだ『新編武蔵風土記稿』には、「十二月田村は昔十二月晦日狐来りて、杉葉を以て田を植るさまをなせしより、此村名起れりと云奇怪の説なり(以下略)」の記述がある(『新編武蔵風土記稿』巻之百四十 足立郡之六)。足立郡十二月田村は現在の川口市朝日1〜3丁目および末広1〜3丁目。キツネは田の神の使者であるという。
 【注2】現在では、りそな銀行と関係の深い大阪のFM局「FM802」の代表取締役専務をされているようだ。
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2010年03月09日

2008.03.05(水)(4)キューポラの「あった」街

 セブンイレブンがあったので、地図を立ち読みする。今歩いてきた通りは「八間通り」というようで、市役所通りは1本北側の道であった。八間通りは途中で左にカーブしていて、うまいこと市役所通りにぶち当たるようだ。市役所通りとの交差点には川口信用金庫の支店があり、そこで右に曲がることになる。
 それはいいのだが、私は川口南平支店の場所を勘違いしていた。川口市内から真東の方角はいいとして、地図で見ると市内から3kmはありそうで、思っていた以上に距離がある。やはり行員さんの言うとおり1時間近くかかるかもしれない。そして、南平支店から近いと思っていた川口元郷駅も、支店から1.5kmほど離れており、川口駅と支店とのほぼ中間地点にある。私は少なからずがっかりした。
 クリーム色とオレンジ色に塗られた路線バスが前方を曲がっていくのが見えた。東武バスはおそらくこの先にバス停を置いているのだろう。やる気をなくした私は、使えるバスがあるならそれに乗る方向で傾き始めた。こういう時に宮脇俊三氏だったら即座にタクシーに乗っただろうが、あの人は会社役員だったから金を持っていたのである。

 武蔵野銀の前から、両側に歩道のついた対面2車線道路を歩いている。栄町までやって来た。角にある消防団詰所には「川口市消防団第一支団本部」とあり、表札の「支団」という漢字が「支團」と旧字体になっていた。反対側の角は再開発の巨大なタワーマンションであり、この界隈は古いものと新しいものとで覆われている。一応このあたりまでで高層マンションがポツポツとみられる状況は終わり、ここから先は民家と町工場が多いようだ。町並みに高級感はあまり感じないけれども、生活のにおいのする普通の住宅地という感じである。
 バスに乗ろうと思ったが、結局歩き続けている。古い木造モルタル2階建ての町工場を見つけた。昭和10年代ぐらいの築だろうか。ハイカラな工場主だったとみえて、パラペットの部分には、なんとかダイキャストという会社の名前を「DAIKYAST」と書いてある。die casting(鋳物)からの日本語「ダイキャスト」をローマ字(間違っているが)で書いているのはユーモラスだが、当時としては目いっぱいハイカラに見せようとしたのだろう。川口市は吉永小百合主演の古い映画『キューポラのある街』(日活、1962年)の舞台となったことで有名である。キューポラとは鋳物を造るためにコークスを燃やして鉄を溶かす溶解炉のことだが、現在ではコークス炉はなくなり、電気炉に変わったところがほとんどだという。工場の屋根から突き出すキューポラの煙突は川口の原風景だそうで、川口オートレース場では「キューポラ杯争奪戦」なるものも行われている。この近所には工場向けの工具屋さんといった商店もみられるから、町工場の数は現在でも多いようだ。なお、JR川口駅前の再開発ビル「キャスティ」「キュポ・ラ」の名称は、これらに由来している。
 歩みは遅々として進まない。1時間もかかるかいと思っていたが、本当に1時間ぐらいかかりそうである。道端に立っているバス停の時刻を何気なく見たところ、見るんじゃなかったと後悔した。立っていたのは市のコミュニティバスの停留所で、1日6〜7本のバスが出ている。停留所一覧に「南平福祉会館」の文字列があって、川口南平支店から割合に近いところを通りそうだ【注】。時刻を見たら14:08と書いてある。何だこれは、さっき俺が歩いている横をすり抜けていったバスではないか。100円返せと思った。
 その先には川口工業総合病院という病院があって、隣りが駐車場になっている。「ご利用の皆様へ」という看板が出ていて、「当院の外来通院、お見舞い等、関係者以外の無断駐車は固く禁止します」と書いてあった。意味の取りにくい文面だと思った。「当院の外来通院、お見舞い等」は、関係者のうちに含まれるのか、それとも「関係者以外」なのか。病院の建物そのものがさほど大きくないところからして、40〜50台分の駐車スペースがあるこの駐車場は、やはり来院者向けとしか思えないのだが。本当に患者に駐車されたくないのであれば、少しくどいが「病院の業務関係者以外」とでも書くべきだろう。ちなみにこの病院は、市内にある鋳物・機械などのメーカーが組織する健康保険組合が運営しているそうだ。

 【注】地図を見てみると支店とは全然違う場所であり、乗っていたらかえって深手を負っているところであった。
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2010年03月08日

2008.03.05(水)(3)川口市街地を歩き出す

 次の目的地は、記憶によれば埼玉高速鉄道川口元郷駅近くにあるハズの、川口南平(かわぐちなんぺい)支店である。
 今回は事前の下調べを一切していないので、ロビー係の行員さんに道順を尋ねてみることにした。緑色の円筒がぶら下がった総合受付には、女性の行員が3人いた。たまたま目が合った1人に声をかける。
 行員は「お車でございますか」と私に尋ね、私が徒歩でと答えると「1時間ぐらいかかるんですけど」と言って一瞬絶句してしまった。すぐに、3人で少しあわてたように相談を始めた。道としては市内からまっすぐ行けばいいようだが、どの通りをまっすぐ行けばいいのか私に説明するためである。私はそんな様子を、絶対に1時間はかからないと思うんですけど、と思いながら見ていた。かかっても30分ぐらいではないのか。今から思えば何とも「上から目線」であった。
 行員さんによると、支店の前から大宮方向に進むと「市役所通り」という通りがあるから、そこで右に曲がってひたすらまっすぐ南平公民館を目指していけばよい、支店の前にスーパーのマルエツがある、ということであった。3人のうちの1人が、川口南平支店の住所と電話番号を急いで付箋紙に書いて、サッと渡してくれた。川口支店ではロビー係に(皮肉でなしに)気のきく人を入れているようだ。

 礼を言って支店を出た。行員さんの説明のとおり、川口駅の東側を線路に沿って北へ向かう。道に面するところにあった「書泉ブックドーム」という大きな本屋が閉店していて、中心市街地の商業はやはり川口市でもいま一つ振るわないように見えた。
 「市役所通り」は、支店の北方を東西に走る道である。持ち上げて落とすようで気が引けるのだが、さっき川口支店の行員さんは、市役所通りがどれか、つまり「どこで曲がったらよいか」の説明はしてくれなかったのである。というわけで、大きめの交差点で頃合いを見て右折することにした。選んだのは、地下に潜る道が西方に延びている、幸町小学校西という交差点である。アンダーパスは、JRの線路をくぐって西側の再開発地区「リプレ」の前に出る。さっき言いたい放題なで切りにした川口支店の仮店舗跡の前に出るわけだ。さて、右折した道は交通量のさほど多くない2車線道路で、周辺にはマンションが建ち並んでいる。2車線の道だが、この付近ではセットバックと歩道の整備工事が終わっている。道路としては2車線×2の幅があり、白の塗料で中央分離帯などを書いて2車線に狭めている。自転車のおばちゃんが赤信号で道を横切ろうとして、クラクションをビーッと鳴らされているのが見えた。再開発は進んでいるが、生活のにおいが漂っている。
 最近新築したらしい、武蔵野銀行の川口支店に遭遇した。武蔵野銀は戦後に設立された地方銀行で、埼玉県では埼玉りそな銀行に次ぐ二番手とあって、店は中心地をやや外した場所に多い。かつて大蔵省が立地にあたってそういう指導をしていたからだが、この場所で最近になって新築までしたということは、武蔵野銀としても「駅前に出よう」という発想は全くないのだろう。武蔵野銀行の西側、幸町小学校南という交差点で、道はボトルネックになっている。北東角は柵で仕切られた更地で、その隣は商店建築になっているから、用地買収はまだらであるようだ。
 武蔵野銀川口支店の入口ガラスにある代理業務一覧を見ると、日銀歳入代理店、埼玉県指定代理金融機関、川口市収納代理金融機関、などとあり、一番下にはりそな銀行とりそな信託銀行の「信託代理業務取扱店舗」とあった。武蔵野銀は設立過程で旧大和銀行が支援したため、もともと大和とは親しかったのだが、そこが自分のライバルであったあさひ銀行と統合した今は複雑な心境なのではないか。りそなは発足後しばらくしてから武蔵野銀の株を売却してしまったようだが、私は逆にそのまま株式を持ち続けてもよかったのではないかと思う。経営判断に口を挟むつもりはないが、大阪府にりそな銀行と近畿大阪銀行が並立しているように、場合によっては地域の第2ブランドとして活用することもできたかもしれない。なお、旧大和銀行の信託子会社としてスタートした「りそな信託銀行」は、2009年4月にりそな銀行に合併した。
 柳町まで来ると「樹モール」という商店街に出合う。ここは川口で最も賑わっている通りのようだ。周辺のセットバックは進行しているものの、建て替えられていない建物も多少あって、新旧混在している。何やら揉めているらしい家もあった。
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2010年03月07日

2008.03.05(水)(2)黒から白への大変身

 ウォーミングアップはこれで終わりにして、川口支店のある東口に向かう。
 駅に戻ってきた。リリアの隣には無人の交番があって、川口署の川口駅前交番西口派遣所と書いてある。昔は単独の交番だったのだろうが、「派遣所」に格下げ(?)されたというのは治安が良好なのか、単に人口が少ないだけなのか。リリア前のエスカレーターから2階のデッキに上がってくると、エスカレーターを昇りながら見えた1階レストランは、少しだけ高級そうに見えた。リリアの敷地は何かの研究所の跡地だったそうで、その名残かもしれない。
 どことなく雑然とした川口駅舎の自由通路を抜けて、東口にやって来た。目の前に広がるペデストリアンデッキの向こうに厳然とそごうデパートがそびえ建っているあたり、千葉県柏市あたりを彷彿させる。デッキがあるのは西側と同様だが、やはりこちらが旧市街地側であって、人通りが全然違う。
 後で市内を歩いてわかったことだが、川口市内は再開発が随所で進行していて、昭和初期から昭和30年代ぐらいまでの古い商店建築が最終的な絶滅の危機を迎えているような印象であった。セットバックは相当進んでいるけれども、まだまだ中途半端で、柵で覆われただけの更地が随所に残っている。首都圏だけにマンションはドカドカと建っている。市内の道路には一方通行が異様に多くて、道路の拡幅がさほど進んでいないのだろう。
 そんな中、川口駅前では最近になって再開発が大きく進み、駅前には「キャスティ」「キュポ・ラ」の2つの大きな再開発ビルがそびえ建った。埼玉りそな銀行川口支店は、駅を出て正面右側の「キャスティ」という建物にある。キャスティは1967年に竣工した川口産業会館を建て替えたもので、埼玉銀行川口支店は産業会館の落成時からずっと入居していた。産業会館は外壁に黒色のタイルを張りめぐらせていたが、この建物の外装は真っ白であり、まさに黒から白への大変身である。キャスティの右側にも似たような大きな建物「キュポ・ラ」があって、川口市立中央図書館などが入っている。図書館を駅前の再開発ビルにドンと入れるという風潮が最近できて、非常に結構なことだと思う。日本は知的大国として図書館に金をかけないとダメである。スポーツ施設などは駅から少々遠くても構わないが、図書館は交通至便な場所に作るべきだ。その意味で、東京都民の私は、2館ある東京都立図書館の立地条件を何とかして欲しいと思っている。
 少し脱線した。川口支店の制覇を済ませよう。「埼玉りそな銀行」の看板があまり目立たないところに見えるのは、わざと目立たなくしてあるのだろうか。新築店舗であるので、店内はりそなグループの現行標準スタイルである白色主体の内装であった。天井からぶら下がっている総合受付カウンターの円筒形の看板は、埼玉りそな標準の緑色である(りそな銀と違って白ではない)。ATMは計6台で、富士通ファクトVモデル20が1台とモデル10が5台。別に両替機と通帳繰越機がある。ATMの台数が思いのほか少ないのは、駅から直結するビルの3階に店舗外ATM[キャスティ]を出しているからだろう。そちらは(支店のATMが別室に分かれている形ではなく)店舗外ATMだから、恐らく硬貨が使えず、また現金振込もできないハズだ。13:37、川口支店を制覇した。

 川口支店は、1919(大正8)年12月に武州銀行川口支店として開設され、1943年の埼玉県内4行合同で埼玉銀行の川口支店となった。川口南支店(旧第八十五銀)と川口西支店(旧武州銀行飯塚出張所)の併合を経て、1967年4月に川口産業会館内に移転してきた。2003年4月から建て替えのため西口の仮店舗に移り、現在の店舗では2005年7月19日から営業している。
 埼玉りそなは現在、駅前のそごう川口店の建物にも、店舗外ATM[川口駅東口]と住宅ローンセンター【注】を構えている。ここには、あさひ銀行時代に有人の川口駅東口出張所があった。元は旧協和店舗の川口駅東口支店である。そごうが出店する際、協和銀行が川口支店を入居させる予定で準備を進めていたが、川口支店は協和が埼玉銀と合併した時点では仮店舗で営業していた。建物の竣工と川口そごうのオープンは協和埼玉銀行になってからで、川口支店改め川口駅東口支店は分類としては旧協和店舗になるけれども、そごうの建物で「協和銀行」だったことはない。その後1994年3月に川口支店を母店とする有人出張所に変更され、1999年8月に川口支店に統合となっている。なお、そごう内には埼玉りそなの別室の他、三井住友銀行が川口支店を置いている(店籍は旧太陽銀)。
 他行の状況についても触れておこう。そごうの北側にはみずほ銀行(旧第一銀)がある。メガバンクでは、三菱東京UFJ銀行は隣駅・西川口に行かないとない。東京都心や赤羽方面から続く川口本町通り沿いには、かつては遠隔地の第二地銀が複数支店を出していて、大光銀行(本店新潟県長岡市)の川口支店は今も健在、その向かい側の川口センタービルにはかつて徳陽シティ銀行(本店仙台市)の川口支店があった。また、産業会館に移転する前の埼玉銀川口支店はこの近辺にあった。駅の北側に目を転じると、市街地の北縁を東西に走る「市役所前通り」に面した場所に群馬銀行の川口支店がある。鉄筋コンクリート造りの太いオーダー(前面柱)を持つ、古きよき時代の銀行建築という感じの建物である。そこから西、京浜東北線の線路沿いには、サッポロビール埼玉工場の跡地に、イトーヨーカドーをキーテナントとしたショッピングモール「アリオ川口」がそびえる。この中には、セブン銀行の有人店舗「イトーヨーカドー川口店出張所」がある。セブンイレブンのコンビニATM、という印象の強いセブン銀だが、ヨーカドーの店内に限り有人の店舗も出している。

20080305-02_Kawaguchi.jpg

 【注】川口住宅ローンご相談プラザ出張所。独自の店番号が割り振られた有人出張所という形になっているが、勘定はない模様。
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2010年03月06日

2008.03.05(水)(1)川口駅西口でウォーミングアップ

 JR京浜東北線川口駅の2番線を、13:15発南浦和行きが発車していった。川口駅は島式ホーム1本だけの駅で、その隣りを東北・高崎線の電車が高速で走り抜けていく。橋上駅舎に上るとコンコースに自動改札機がずらりと並び、京浜東北線にはありふれたスタイルの駅であった。高度成長たけなわの時期に作られたのだろう。この時間のホームには、高校生が多かった。春休みには早いと思うのだが、テスト期間なのだろうか。
 川口支店が駅の東側にあるのは知っているが、まずはウォーミングアップとして西口に出てみる。川口支店は2005年7月に新築の建物で営業を開始し、西口には建て替えの間仮店舗として使用していた「リプレ一番街」という建物がある。今日はそれを見ておこう。私は仮店舗の間にここに来たことはなかった。
 川口駅の西口は「リリア」こと川口総合文化センターが有名である。綾戸智絵とか小椋佳といった「いぶし銀」の大物アーチストが公演するコンサートホールがあって、パイプオルガンの無料演奏会などもやっているようだ。こうしたものも含め、川口駅の西側は「整備された都市景観」の中でも特に金がかかっている部類ではないかと思う。デッキの端が階段状に4階建てになっていて、段の一つひとつに潅木がびっしり植えられている。てっぺんから人工の滝が2本も流れ落ちている。但し、石畳の上にハトの糞が散らばっているとか、ピラミッドのような形をした明かり取り窓に砂ぼこりがびっしり付いているとか、高い金をかけて造ったものの維持費が出ない様子がうかがえる。
 のどかにベンチの上で寝ている人がいるのを横目で見ながら、デッキ端の階段から地平に降りてきた。階段の下には噴水式のデジタル時計がある。バスロータリーがきれいに整備されていて、人車分離というのか人の流れと車の流れは完璧に切り離されており、交通安全度は非常に高そうだが、車の数も人影もまばらであった。デッキを下りたところが西口の「リプレ」という再開発街で、右側の一番街という建物の角に、埼玉りそな銀行の看板が大きく出ている。SRの手前にはみずほ銀行の店舗外ATMも見える。
 ここにある埼玉りそなは[川口駅西口]という店舗外ATM(母店川口支店)で、5台分の機械枠にATMが4台。一番左の1番が空き枠で、2〜4番に富士通ファクトA、5番にファクトVモデル20というATMが置かれた無人店舗である。ここはあさひ銀行時代に川口駅西口支店だったスペースで、2001年11月に統合された後は店舗外ATMとして使われていた。りそな発足後に川口支店を建て替える際、仮店舗として一時こちらを有人店舗として復活させていたのである。室内は仮店舗撤収後に改装されたようで、窓口室とキャッシュコーナーとを隔てるシャッターだったらしき部分は完全なる壁になっていた。窓口室の跡は、川口市民のみ申請できる川口市パスポートセンターと、「川口若者夢ワーク」なる職業安定所の施設になっている。職安は仕事の紹介だけだそうだから、どちらも公的機関の出先ということである。この地区はこうした公的施設が入らなければテナントが埋まらないのかもしれない。
 旧店舗前の交差点には、築50年は経っていると思われる古い木造建築が、再開発もされずに残っている。再開発が虫食い的にしか進んでいないらしく、高層マンションがドカドカ建っているようでも、近付いてくると、壁にトタンが張り巡らされた古いアパートなどもあるのだ。そんな中、1軒の木造建築の壁面にベタベタと貼ってある広告の1つに目がとまった。■■こんどは勝之さんという、議員らしき人のポスターである。「こんどは勝之」ということは、前回は負けたのか。ユーモアがあると思った。選挙の落選という挫折をこういうセンスで乗り切ることのできる人なら、スタンスは抜きにして応援したい気持ちになる【注】。もっとも私は東京都民であるので、この人に投票することはないわけだが。同じ建物の別の角には、政治的なカラーの異なる別の政党のポスターも数枚貼ってあり、家主は一体どういう考え方なのだろうと少し思った。

 【注】為栗の個人的な政治信条とは一切関係がない。
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2010年03月05日

2008.03.05(水)(0)プロローグ 東京100km圏出身者の「帰省」

りそめぐ2008春
埼玉高速鉄道で帰省してみた


今回の行動範囲

百聞は一見に如かず


 私は東京都区内で生まれたが、父親の仕事の関係で、小学校に上がるときに群馬県前橋市に移住させられた。大学進学をきっかけに首都圏で一人暮らしを始めて以来、前橋は「親の住む場所」として、数か月に1度の割で帰省するだけの土地となった。実家のある前橋市では現在も母親が1人で暮らしており、また亡父の墓も市内にある。
 前橋は私の人格形成にそれなりに関わった土地ではあるが、生まれた「故郷」ではないし、住んでいる頃に良い思い出もなかったから、たまの里帰りといってもさほどの感慨はない。位置も曖昧で、東京100km圏は「帰省の場所」としては非常に中途半端であると思う。俗に「スープの冷めない距離」といわれるが、実家と生活の場とが緊密に関係しうるのは、両者の間がせいぜい20〜30km程度までではないか。逆に、生活の場と実家との距離が大きくなって「故郷」を明確に意識できるためには、最低限200kmはないと無理ではないかと思う。200kmの移動には普通列車だと4〜5時間はかかるから、思い立って直ちに帰省するわけにはいかない。金銭的にも、JRで200km移動する「素の」運賃(普通運賃)は本州地区の幹線で3570円にもなり、そろそろこのぐらいの金額から心理的に障壁となってくる。
 以上は、私の個人的な感覚だけで言っている。一人暮らしを始めてから金銭的に不遇な時期が続いたため、移動には(新幹線などではなく)普通列車を利用するのが習慣となったこと、居住地の履歴が関東平野の中だけで完結してしまうこと(関東地方から離れて暮らしたことがない)、といった背景があると思う。ともあれ、東京在住の私にとっての東京100km圏は、頻繁に帰るには遠すぎ、かといって「望郷の念」に駆られるには近すぎる、中途半端な土地なのである。せめて「生まれ育った土地」ならそれなりに感慨もあるのだろうが、私は都内某所を小学校入学時(時期も重要)に引っこ抜かれて根なし草となってしまった人間である。これが「転勤族」の子女なら、環境のリセットが数年おきに続くうちに「特定の故郷を持たない」ことでアイデンティティが確立するのだろうが、私の場合はあのタイミングであの1回だけだったから、トラウマになってしまったのである。
 とはいえ、肉親が前橋に住んでいるというのは、やはり紛れもない「事実」である。そういえば、今年(2008年)の正月には実家に帰っておらず、母にも久しく会っていない。数日後がちょうど亡父の誕生日であるので、線香でも上げに帰ろうかと思い立った。私のスケジュールはカレンダー通りに進行していないので、今日・水曜日は幸い休日である。場所が中途半端だとさんざんこき下ろしたけれども、思い立った時に時間の余裕が多少あれば(事前に綿密な計画を立てなくても)さっさと帰省の途につけるのは、やはり東京100km圏の長所といえるかもしれない。

 さて、「めぐラー」である私が遠出する場合、行程に「めぐ」を絡めることは当然である。今回は、埼玉県東部を南北に走る埼玉高速鉄道を使ってみることにした。埼玉高速鉄道は2001年3月に開業した第三セクターの私鉄で、東京地下鉄【注1】南北線の北の終点である赤羽岩淵(東京都北区)を起点に、浦和美園(さいたま市緑区)までの14.6kmを結んでいる。赤羽岩淵から南では、王子・駒込・四ツ谷・目黒を経て、東急電鉄目黒線の日吉(横浜市港北区)まで乗り入れている。
 この線を使ってダイレクトに行けるりそなの店舗は、埼玉りそな銀行の鳩ヶ谷支店(鳩ヶ谷市)と東川口支店(川口市)の2つ。これだけでは物足りないので、両端に「めぐ」対象を加えることにした。埼玉高速に乗って北上する前に、川口市内の2店舗を追加。記憶では、川口南平支店が埼玉高速の川口元郷駅からあまり遠くないところにあって、川口支店と合わせて2店舗増やせれば、ちょうどよい「お散歩」であると思った。一方、田舎の前橋に帰れば、りそな銀行が前橋支店を構えている。もう1つ、2007年11月の「埼玉県民の日めぐ」【注2】でも言及したが、埼玉県北のJR八高線沿線に1店だけ残っていた埼玉りそな銀行の児玉支店(本庄市)を加えることにした。
 以上により、2日間で川口・川口南平・鳩ヶ谷・東川口・前橋・児玉の6つの支店を制覇する。今回は完全に行き当たりばったりで、目的地以外は事前に決めず、下調べも一切していない。

 【注1】東京地下鉄:筆者は、東京地下鉄株式会社の通称名「東京メトロ」にどうしてもなじめないので、社名である「東京地下鉄」を使用する。
 【注2】当ブログ2008.01.18〜02.21連載「りそめぐ2007秋 『埼玉県民の日』に埼玉県内をめぐる」、1月20日掲載「(0)日没と小鹿野をめぐる難問」。
posted by 為栗 裕雅 at 18:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月02日

新連載「りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた」のお知らせ

 当ブログ「MEGU」で、3月5日(金)18時から新連載を開始します。
 今回は、2008年3月5日(水)〜6日(木)に、私の個人的な帰省にからめて、埼玉県川口市と鳩ヶ谷市などで埼玉りそな銀・りそな銀計7店の制覇活動を行った記録です。
 分量は400字詰原稿用紙で110枚強、回数は現時点で17回の予定です。例によって1日1本のペースでダラダラと掲載していきます。多少の脱線もありますが、最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

りそめぐ2008春
埼玉高速鉄道で帰省してみた


 2008.03.05(水)
   (0)プロローグ 東京100km圏出身者の「帰省」
   (1)川口駅西口でウォーミングアップ
   (2)黒から白への大変身
   (3)川口市街地を歩き出す
   (4)キューポラの「あった」街
   (5)ナンペイです
   (6)バスで川口元郷駅へ
   (7)もろもろの変革が求められる埼玉高速鉄道
   (8)川口という名のマフラーを巻いた市
   (9)歴史を感じさせる鳩ヶ谷の町並み
   (10)東川口支店を制覇
   (11)南越谷駅に乗り入れる新興バス会社
   (12)南越谷支店を制覇して前橋へ
 2008.03.06(木)
   (1)前橋支店を「いまさら」制覇
   (2)前橋の金融事情を知ったかぶる
   (3)前橋から埼玉県に向かう
   (4)神流川を越えて児玉支店へ
 あとがき・参考文献一覧

【2010.03.07_20:00追記】小見出し一部変更しました。
posted by 為栗 裕雅 at 18:10| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 告知板 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
カテゴリ一覧(過去の連載など)
大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇(24)
単発(12)
告知板(24)
銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇(29)
りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く(43)
りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅(57)
りそめぐ2008秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる 東武伊勢崎線・野田線沿線17店舗の制覇(51)
りそめぐ2009初秋 りそな銀千葉県内12店舗完全制覇(35)
りそめぐ2008夏 りそな銀東京都世田谷区4店舗完全制覇(8)
りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた(18)
りそめぐ2008秋 太平洋は青かった 茨城→北海道750km大移動/銀行めぐ2008秋 札幌市内4行4店舗完全制覇(20)
りそめぐ2008初秋 湘南セプテンバーストーリー(11)
りそめぐ2008冬 銀河に乗って知事選たけなわの大阪府へ(47)
りそめぐ2008夏 「近畿大阪めぐ」スタート記念 片町線・京阪線沿線25店完全制覇(51)
りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿(60)
りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える(12)
りそめぐ2007秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる(35)
2007年7月 りそな関西地区支店昇格5店完全制覇+α(43)
あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇(34)
2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)