2013年03月31日

2011.11.21(月)(29)横田、武蔵村山市の中心

 〔武蔵村山市役所前〕を発車したところで降車ボタンを押したら、前方からりそな銀行の縦看板が接近し、あっという間に通り過ぎてしまった。一瞬血の気が引いたが、バスは支店前の交差点を過ぎたところで停まった。脅かすなよ。というわけで、9分遅れで〔東大和市役所入口〕を出たバスは、約3分取り戻しつつ、6分ほど遅れて〔横田〕に到着した。
 交差点の名前は、かたくりの湯入口という。りそな村山支店から北に入った奥は武蔵村山市の観光名所が集中しているエリアで、廃線となった軽便鉄道のトンネル跡やら、第三セクターの温泉センター「村山温泉かたくりの湯」やらがある。温泉施設は好評のようだが赤字経営らしく、「つくられた赤字」との指摘を誰かのブログで読んだ。まあ第三セクターはどこもそんなものなのだろう。「かたくりの湯」は2012年4月から約半年間休館して、改修工事を行った。
 バスを降りた目の前には、村山織物協同組合の古めかしい建物が建つ。1928年の築で、武蔵村山市の指定有形文化財。武蔵村山市は江戸時代から木綿かすりで知られ、大正末期からは絹を使った村山大島紬も生産されるなど、織物の一大産地であった。高級織物として知られる村山大島紬は、大変高度な技術を要する伝統工芸品である。このあたりの町並みは市役所付近から一続きであり、この界隈が村山の中心地として機能していたことがよくわかる。交差点のそばゆえ、織物組合の前からりそなの支店がよく見える。
 もう1つ、この〔横田〕付近は、意外なもののルーツでもある。駐日米軍横田基地の名称の元が、ここ武蔵村山市の横田なのである。沖縄を除けば日本国内最大の米軍基地である横田基地は、1939年から建設された大日本帝国陸軍の多摩飛行場が、敗戦にともない米軍によって接収されたもの。この飛行場は敷地の半分近くが現福生市にあり、地元では「福生飛行場」と呼ばれていたが、米軍は終戦前からヨコタと呼称していた。
 太平洋戦争中に日本が占領していた太平洋の島々は、1944年以降相次いで米軍の手に落ちた。米軍は同年秋からサイパン島などの飛行場を拠点に写真偵察機を飛ばし、高度1万mの上空から日本本土の偵察を行うようになった。多摩飛行場はこの時に発見されたとみられる。新発見の飛行場は、既存の地図と照合されてヨコタの名前がついた。米国陸軍には地図局という組織(U.S.Army Map Service)があり、戦争遂行のため日本国内や日本支配地域の地図を多数作成していた。参照したとみられる地図は、1944年に作成された東京エリアの25万分の1地図【注1】。この図には市町村の境界線が描かれておらず、また「Fussa」の地名は現JR八高線の西側に配置されていて、飛行場と関連付けられることがなかったのだという。結果、福生よりも飛行場に近いところに書かれていた「Yokota」が、飛行場の名前として選ばれたのであった。
 なお、横田は北多摩郡村山村中心部の旧村名であったが、地名としては武蔵村山市から消滅しており【注2】、現地ではバス停の名称として残っているのが貴重な痕跡となっている。

 旧態のまま残されている青梅街道に対し、支店の西側にはセットバックの済んだ広い道が南北に走る。かたくりの湯とイオンモールを結ぶ武蔵村山市の新たな南北軸として、期待を集めているのだろう。
 イオンモールむさし村山は、日産自動車村山工場(2004年閉鎖)の跡地の一部を使ってできた大型ショッピングセンターである。日産の村山工場は、プリンス自動車の工場として1962年に操業を開始したもの。1966年の合併に伴い日産の工場となり、一時は主力工場だったが、車両の生産は2001年3月に終了した。プリンス自動車工業は、航空機の技術者が戦後に設立した、電気自動車を製造する会社が前身。彼らが働いていたのは、帝国陸軍向けの航空機を製造していた立川飛行機という企業で、社名のとおり立川市に本社があったから、立川市と武蔵村山市にまたがる位置、しかも陸軍飛行場との中間に工場が立地したのは自然である。
 私は1998〜2003年に神奈川県横須賀市で学習塾講師として働いていたが、在職中の2001年春に武蔵村山市からの転校生が入塾してきたのをはっきり覚えている。日産は横須賀市に追浜・久里浜と工場を複数持ち、塾のエリア内に家族寮もある。もしやと思って尋ねてみると、やはり従業員の子女であった。父親の配置転換で横須賀に引っ越してきたのだろう。

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 【注1】地図は『PLAN16「TOKYO」AMS L571』米国陸軍地図局。川島憲治「終戦前から米軍は「YOKOTA」の呼称を使用」『瑞穂町郷土資料館年報』第3号、瑞穂町教育委員会、2004年 による。
 【注2】1908(明治41)年、北多摩郡横田村が中藤村に合併したことで、公的な地名としては消滅した(合併の際、字の名前として残らなかった)。
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2013年03月30日

2011.11.21(月)(28)「大曲り」を抜けて

 川のそばにあるバス停で停車した。停留所の目の前に掲示板が立っているのが見えると、かすかな感慨を覚えた。設置主体の名前が「武蔵村山市」と書いてあったのだ。ああ、武蔵村山市に入ったことがようやく確認できた。〔芋窪〕で入ったと確認できなかったので、不完全燃焼に陥っていたのだ。後で知ったが、この〔大橋〕バス停が、数でいうと[梅70]のちょうど中間にあたる停留所であった。背後を流れているのは奈良橋川といって、空堀川の支流である。
 自治体の名前は東大和から武蔵村山に変わったが、車窓の風景は相変わらず地方の街道沿いといった趣で変化がない。建物の切れ目はほとんどないが、その並び方は不規則で、農村地帯の雰囲気に似ているかもしれない。右の車窓には引き続き、狭山丘陵の小高い山が連なっている。山近くを走っているにしては平坦な道である。バスに乗っているから感じないだけかもしれないが、坂を上ったり下りたりという感じはあまりしない。生えている樹木は不思議と紅葉していないが、色が変わる種類の木ではないのかもしれない。〔中藤〕のすぐそばには水を張った田んぼがあったが、この時期に何を植えているのだろうか。
 奈良橋からほぼ真西に進んできた青梅街道は、〔中藤〕の先で左に大きくカーブして南に向きを変える。そのカーブの先にあるのが〔三ツ橋〕で、このあたりから地形に少し起伏が出てきたようだ。バスが坂を上り始めたのを車内でも感じるようになったし、左の車窓からは道沿いの駐車場が一段ストンと落ちた土地にあるのが見え、さらに行くと青梅街道は切り通しになっていた。

 切り通しから若干の下り坂となり、坂の途中の〔神明二丁目〕を過ぎると、大曲りという交差点がある。青梅街道は名前のとおり、この交差点で直角に右に曲がり、再び真西を目指す。右折してもう少し行くと、村山支店のある〔横田〕にたどり着くハズだ。角には重要ポイントであることを物語るように交番があったが、それよりは左側の「ファッションセンターしまむら」の方が目立つ。
 古い地図を見ると、大曲りはさっきの〔中藤〕と〔三ツ橋〕の間と同様、単に曲がっているだけで、四つ角になったのは割合最近のようだ。1971年の地図では、青梅街道のカーブ部分に、十字路の原型のような細い道が2本引っ付いているのが読み取れる。だいたいこの時期に宅地化が進み始めて道路もできたのだろう。交差点になった現在でも、北西角のスペースの空き方などに名残がうかがえる。
 なお、つい最近まで、この大曲り交差点の北西には造り酒屋があって、レンガ造りの煙突が車窓から見えたのだそうだ。清酒「吟雪」を造っていた渡辺酒造という会社だったが、2007年に営業を終了した。青梅街道に面した酒造場の旧敷地には、現在では新築の一戸建て住宅が並び、煙突も影も形もなくなっている。

 大曲りの交差点から少し西に進んだところで柳沢行きのバスとすれ違った。大きな起伏はなくなったものの、山が近くにあるところだけに、道路には細かなアップダウンが少々ある。〔原山〕を過ぎると次は〔萩の尾薬師堂前〕。さっき渡った空堀川をまた渡ると、五差路の角にお堂が建っている。屋根が鉄板で覆われ、平屋建て農家のようにも見えるたたずまいの家。これが停留所の名前にもある薬師堂で、現在は地域の公会堂として使われている。薬師堂は薬師如来、薬を与えてくれる仏をまつった寺院であるから、古来この地域の医療も担っていたのではないだろうか。
 薬師堂のあるあたりから、建物の密度が若干上がってきた気がした。道がちょっと広くなったかな、と思ったところで停車。そこが〔武蔵村山市役所前〕で、道が広がったと思ったのはバスベイ、バス停の切り欠きであった。同市役所にはりそなの店舗外ATMがあり、あさひ銀行時代に「あさめぐ」で来たことがあったハズだが、当時のことは車で来たという事実以外には何も覚えていない。目を凝らすと、市役所の庁舎内にりそなのATMブースが見えた。これがその[武蔵村山市役所](村山支店)である。
 とにかく、ここが武蔵村山市の中心である。市役所の向かい側では、書店と郵便局が同じ建物で営業している。ここにある村山郵便局は、市の中心部かつ街道沿いにあり、市の伝統的な地名と同じ名前を持つが、昔でいう無集配特定局である。市役所周辺は商業集積がそれなりにある。個人商店が多いようだ。パナソニックのフランチャイズの電器店があるが、チェーン店の類はほとんど見られない。数軒見られるうどん屋では、郷土料理の「かてうどん」が賞味できる。私は「めぐ」の半年後ぐらいに食べる機会があったが、冷やしたうどんを温かい付け汁で食べるところが新鮮であった。
 ああ、私はもう次で降りるのだ。

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2013年03月29日

2011.11.21(月)(27)多摩湖と奥多摩湖

 車窓から家並みの背後を見ると、あまり背の高くない山が続いている。道路から少し奥へ入ればもう山であるようだった。山というか丘陵地帯である。あの向こうには確か、東京都の水がめ、村山貯水池があるハズだ。そう思っていたら、山のほうから道路が降りてきたところで〔貯水池下〕に遭遇した。
 この角から北に入ると、丘陵の頂上に上がり、多摩湖(村山貯水池)のダム堰堤上を通って西武ドーム(埼玉県所沢市)に至る。西武狭山線の西武球場前駅まで、ここから実歩行距離で2kmほど。多摩湖の名前は志村けん氏が『東村山音頭』で有名にしたが、正式には村山貯水池といい、東京都水道局が多摩川水系に3つ持っている貯水池のうちの1つである。
 多摩湖の青梅街道上の最寄り停留所となる〔貯水池下〕は、かつてはこの道を走る都バスにとって特別な停留所であった。1960年代、都バスには新宿駅西口と奥多摩湖(東京都奥多摩町)とを結ぶ[305]系統というのがあった【注1】。[梅70](の前身の[301]系統)と同じ道を走る観光用の急行路線バスで、71.576kmという営業距離は都営バスとして最長記録を誇る。停留所は〔新宿駅西口〕〔荻窪駅〕〔田無町〕〔大和町南街〕〔貯水池下〕〔箱根ヶ崎〕〔二俣尾〕(以下略)と厳選されていた【注2】。青梅市の中心市街地さえ飛ばされている中、〔貯水池下〕は観光地の最寄り停留所として、数少ない停車ポイントの一つに入っていたのである。都心からの路線バスが、多摩湖や奥多摩といった遠い観光地への交通手段として機能していた時代もあったわけで、そのことに感慨を覚える。
 奥多摩湖は、多摩川の上流にある小河内ダムのダム湖である。小河内ダムは、東京都水道局が持つ水道水源用のダム。水道局が多摩川水系に貯水池を3つ持っていると前述したが、奥多摩湖(小河内貯水池)もその1つで、3つの中では最も新しく1957年にできたものである【注3】。水道用のダムだが、ここの水を使う水力発電所もあって、そのうち3か所は東京都交通局の所有・運営である。都の交通局には電力部門があって、これらの発電所で発電する電力は貴重な収入源となっている。

 電気と都営バスとは、密接なかかわりがある。都バスを運営する東京都交通局は、民間から路面電車事業を買収して1911(明治44)年に発足した東京市電気局が前身であった。買収の際、電車会社が持っていた火力発電所3か所が一緒に東京市のものとなった。旧社は発電所からの電気を架線に送電するほか、電車事業だけでは採算が厳しかったため、沿線家庭に向けて電力を小売りするということもしていた。東京市は買収した電車とともに電力事業も引き続き行い、発電所も戦前には(中断はあったものの)継続して稼働していた。なお、1923年の関東大震災で市電が壊滅状態になり、市民の足を確保するため応急的にバスを走らせたのが、都営バスのはじまりである。
 太平洋戦争中、国家総動員法に基づき電力の地域独占が決定した。東京市電気局は1942年、電力の統制を目的に設立された「関東配電」という特殊会社に、発電所など電気事業の一式を差し出すことになった。代わりに東京市は同社の株式を取得。関東配電は戦後に東京電力となり、東京都は現在まで東電の株式を持ち続けている。ここ20年ほどの実績でいうと、所有株式数は約4200万株、持ち株比率は3%前後で【注4】、筆頭株主ではないものの一貫して5本の指に入る株主であった。
 こうした経緯から、東京電力株式の配当金は、都営バス事業の営業外収益に計上されてきた。都バスの営業収入は350億円、東電株の配当収入は25億円あった(2010年度)。しかし、2011年3月の東日本大震災で暗転する。東電は福島第1原子力発電所事故により無配当に転落し、これを受けて都バス事業も赤字となった。自動車事業の2011年度決算における経常損益は18億円余りの赤字であり、配当金の分がほぼそのまま赤字となったような格好である。
 さて、交通局は東電の株を持ち続ける一方、かつて手放した電力事業を戦後になって復活させた。小河内ダムは戦前に計画された水道局の事業であったが、交通局もダムの建設に歩調を合わせて自前の水力発電所を設置した。1957年竣工の多摩川第一発電所を皮切りに、計3か所の水力発電所が多摩川の上流部で稼働している。当初は都の施設にも配電していたが、現在では全量が東京電力に売却されており、青梅市と奥多摩町に配電されているという。現在、売電により年間1億円ほどの黒字を計上しているが、猪瀬直樹東京都知事は、最近になって東電との売電契約を解消する方針を打ち出した。今後は入札により売却先を決めるそうだ。

 交通局は東電株の配当金と電気事業とで本業の赤字を補ってきたが、雲行きが怪しくなったようである。もちろん立て直しは計画されているが、都バスの乗客数は長期にわたって減少傾向にあり、運賃収入の大幅な増加は見込みにくい。すでに複数の路線が3月末で廃止されることが決まっている。[梅70]をはじめ赤字を出し続ける青梅地区の都バスは、果たして今後どうなるのだろうか。

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 【注1】[305]系統:1961.07.01開設、〔新宿駅西口〕〜〔奥多摩湖〕間71.576km。奥多摩振興(現西東京バス)との相互乗り入れ系統。都バスは杉並営業所が1日1往復の運行を担当しており、別に奥多摩振興が2往復運行していた。3〜11月の休日の運行で、所要時間約3時間。1971.03.17廃止(実際の最終運行は1970年秋とみられる)。
 【注2】〔青梅駅前〕が存在するとした文献もある。ここでは『都営交通100年のあゆみ』(東京都交通局、2011年)に所収の路線図(1967.06現在)によった。
 【注3】あと1つは多摩湖の北にある狭山湖(山口貯水池)。
 【注4】2012年7月に原子力損害賠償支援機構が株式の過半数を取得したため、東京都の持ち株比率は1.20%に低下した(2012.09.30現在)。
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2013年03月28日

2011.11.21(月)(26)東大和市にあった〔芋窪〕

 バスは奈良橋のT字路で左折し、西に向きを変えた。
 青梅街道はこの付近では対面2車線で、黄色いセンターラインが引いてあった。交差点からすぐのところにある奈良橋市民センターは、1982年まで東大和市役所のあったところである。その向かい側にある郵便ポストは、鋳物製の丸ポストであった。山が近い分だけ、都市部を外れた印象が強まった気がする。広い庭を持った旧農家という感じのお屋敷がそこここにある。資材置き場もある。古い豪農は小平市西部の小川あたりにもあったが、地形を反映して道路が曲がりくねってきたところが小平と違う。
 奈良橋で左折して最初の停留所が〔八幡神社前〕、その次が〔蔵敷〕(ぞうしき)である。大田区の京浜急行線に同じ読みの雑色という駅があるが、何か関係あるのだろうか。こんなところにファミレスのガストがあるが、集客が難しいのか24時間営業ではなかった【注1】。

 〔芋窪〕(いもくぼ)まで来た。この地名を見て、武蔵村山市に入ったと思ったのだが、車窓からは武蔵のムの字も見かけない。実は、芋窪はまだ東大和市なのであった。「芋」という字のせいなのか、この停留所には鉄道のない市・武蔵村山市にあって欲しいという心理が働くようだ。
 この思い込みは私だけではない。有名な地図研究家である今尾恵介氏の著書に『地図の遊び方』という本がある。立川市のけやき出版という出版社から1994年に出たこの本の中に、ここ〔芋窪〕についての記述があるが、所在地が武蔵村山市と書かれているのだ(141頁)。なまじ地名の知識があると、こういうところでかえってミスをしてしまう。今尾さんも恐らく(私と同様に)〔芋窪〕が武蔵村山市にあると信じて疑わなかったのだろう。
 なお、この本は後年、新潮社の「新潮OH!文庫」に収録されているが、こちらでは東大和市と改められている(158頁)。私は新潮文庫版を刊行直後の2000年11月に書店で、単行本は2004年10月に古書店で、それぞれ買っている。重複して持っていることはつい最近(2012年!)になって気づいたが、文庫と単行書の違いはあれ、同じ本を2度買っていたことに苦笑してしまった。老化現象の始まりであるが、こうやって話題にできたから無駄にせず済んでよかった。
 閑話休題。今尾氏の本に何が書いてあったかというと、2社以上のバスが走っている地域では、同じ場所にある停留所の名前が微妙に違っていたり、場所がずれているのに同じ名前だったりと混乱がみられ、所により“バトル”が繰り広げられている、という話題であった。今、都バス(と西武バス)の〔芋窪〕を通ったが、その300mほど西側には都営・西武の〔貯水池下〕という停留所があり、さらに同一地点に立川バスが〔芋窪〕停留所を出している【注2】。立川バスはここが終点であり、300m東の停留所には乗り入れない。〔芋窪〕に関してはさほどの混乱もない気がするが、まあ話題として“バトル”の話の前振りには使いやすかったのだろう。
 今尾氏が言うように、同じ場所の停留所名が会社によって異なるケースは多い。[梅70]にも、民間バスと停留所名が異なる個所がここの他にも複数ある【表】。一番複雑なのは〔小平合同庁舎前〕ではないだろうか【図】。同じ場所にある西武バスの停留所が〔青梅街道〕、関東バスが〔青梅街道口〕というのは前述したが、実は西武バスと関東バスには、別の場所に〔小平合同庁舎(前)〕という停留所もあるのだ。合同庁舎の敷地南東側、花小金井駅前通り沿いにあって、さっき乗った清瀬行きの西武バスでは、駅を出て最初に遭遇するのがこの停留所、2番目が〔青梅街道〕(都バス〔小平合同庁舎前〕と同じ場所)となる。さらに、花小金井駅からのこの道は立川バスも通るのだが、立川バスはこの2か所には停まらず、青梅街道を西に進んだ花小金井交差点の先に〔青梅街道〕という停留所を単独で持つ。というわけで、〔小平合同庁舎前〕の“バトル”は、混戦の具合が〔芋窪〕のはるか上を行くと思う。

 〔芋窪〕の少し先にあるガソリンスタンドは儲からなかったらしく、閉鎖されてバリケードで覆われていた【注3】。GSこそ儲からないようだが、この西側には商店街があるから、立川から立川バスがわざわざここを目指してやって来るにふさわしい商業集積がかつてはあったのだろう。この付近の道路は、ところどころセットバックしているから、拡幅の計画があるようだ。

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 【注1】東京都内の「ガスト」は、最近では24時間営業店舗を縮小する方向で推移している。
 【注2】現在〔芋窪〕に乗り入れる立川バスは、平日朝に玉川上水駅との3往復のみ(2002.07改正)。かつては立川市とを結ぶ同社の主力路線であったが、多摩モノレール開通に伴って大幅に削減されたようだ。
 【注3】GS跡は間もなく除却された。

 【2013.03.30_17:00追記】掲載後に図版の一部手直しを行いました。
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2013年03月27日

2011.11.21(月)(25)「美しい」バス路線

 《次は、奈良橋、奈良橋でございます。》と放送がかかった。
 東大和市駅前から北に進んできた青梅街道は、ここ奈良橋で左に90度曲がる。そろそろ西に向かわないと青梅に行けないから、というのは冗談として、奈良橋の北には狭山丘陵が連なっていて、地形的にも突き当たりである。
 奈良橋は、東大和市の古い中心地である。念のため、あくまで「中心となる地」であって市街地ではない。また「奈良橋」は地名であって、そういう名前の橋が架かっているわけでもない。この辺まで来ると、駅前付近の新しく開発されたような景観とは違い、かつて郡部の中心地であった雰囲気が出てきた。左の車窓から見える東大和第一小学校は、鉄筋コンクリートの校舎だが古めかしい外観をしていて、昭和30年代を彷彿させる懐かしい雰囲気を醸し出している。
 〔奈良橋〕の停留所は、奈良橋の交差点に突き当たる手前、山田うどんの駐車場南端にある。交差点の南西角にある山田うどんの店舗【注1】はロードサイド型で、駐車場が完備されている。小平でも見かけたが、山田うどんは(群馬県出身の私のイメージでは)B級グルメのようなロードサイド専門のチェーン店で、ここのように街道が曲がる重要地に店を出しているのは珍しい気がする。南東角にはエコスというスーパー(本社東京都昭島市)があって、青梅信金の店舗外ATM小屋が見えた。蛇足ながら、奈良橋から右に行くと、西武多摩湖線の武蔵大和駅を経て東村山市に至る。武蔵と大和で軍艦みたいな駅名であるが、合併で付けられた「大和」に旧国名の武蔵を付けただけで全く関係がない。
 バスが止まると、10人ほどが一斉に乗ってきた。降りる客がいないと見えて、車内は一気にぎゅうぎゅうになった。やっぱり高齢者が多くて、若い人はほとんどいない。「若さを感じない」と若い頃から言われ続けた私が、最も若い部類であった。
 今この車内は盛況だが、事前に知らなければ、この路線が大赤字で廃止が取り沙汰されているとは到底思えないだろう。[梅70]を担当する都営バス青梅支所は、東京23区内にある他の都バス営業所と比較すると、効率の点ではたとえば1kmあたりの収入など半分以下で、毎年巨額の赤字を計上している。この赤字を、沿線の5市1町と東京都とで分担して、かろうじて路線が存続しているのだ【注2】。
 アウトドア作家の椎名誠氏は1984年夏、東京都を東西縦断する企画で[梅70]に乗り、その時の体験をエッセイに書いている【注3】。地下鉄東西線浦安駅を起点に、山梨県丹波山村との境界付近にある奥多摩町の小袖川まで移動、その過程で〔田無本町二丁目〕から〔青梅駅前〕までこのバスを利用した。文中、沿線市町の公共負担について触れた中に《みんなが力を合わせて助け合っている美しいバス路線なのである。》という一文がある【注4】。まさにそのとおり。月並みな表現とは思うが、こういうシンプルな一文がかえって心を揺さぶると感じる。

 ここで、この路線の公共負担について述べておこう。
 極めて大まかには、この路線は年間3億円近い赤字を出しており、これを3者が1億円ずつ分担している。3者とは、自治体としての東京都と、バスを運営している東京都交通局、そして沿線の5市1町である。
 実際にお金が支払われる段取りとしては、もう少し複雑である。まず、年間の赤字額のうち、1/3を交通局が負担し、残り2/3はいったん沿線の6市町に割り振られる。市町の分担分は、さらに2:4:4の比率で分割される。20%は基礎負担額で、6つの市町が均等割りで負担する。2つの40%はバスが走行した距離と延人キロ(全ての乗客が乗った距離を足したもの)で、それぞれ市町ごとに計算して決められる。後者の2つは、路線が長くバスの本数も多いほど、また乗客が多くその乗車距離も長いほど増大する。以上により、各市町の負担額は年間2000〜4000万円程度ということになるのだが、そのうち実際に各市町の財源で負担するのは約半分。残りの半分は東京都から支給される補助金で賄うことになる。
 この市町負担が、沿線自治体にとっては年々重荷になってきているようだ。毎年予算編成の時期になると、各市の市議会では[梅70]の負担金についての質問が必ずと言ってよいほど行われる。内容については残念ながら感心できるものは少ないけれども。
 ただ、この負担の「感じ方」については、各市町ごとに差がある。[梅70]は自治体ごとに利用のされ方が大きく異なっているのである。たとえば、負担金の額が青梅市に次いで2番目に大きい小平市は、鉄道の駅こそ多数あるものの運転形態が不便であり、鉄道が市の交通の核となりにくいため、[梅70]については最も強く現状維持を望んでいるとみられる。小平市の東に隣接する西東京市は、負担金の額は小平市ほど多くないが、西武新宿線をはじめ代替交通機関が豊富にあることから[梅70]への依存度が低く、したがって負担にも消極的で、協定から最も離脱したがっている市であると言えそうだ。ただし、〔田無本町二丁目〕で止まっていたこのバスを、合併前の旧保谷市が西武柳沢駅前まで誘致した関係上、いまさら協定脱退も言い出しにくいのだろう。
 ともあれ、[梅70]は各市町の思惑をはらみつつ、表面的には美しく助け合って、今日も走り続けているのであった。


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 【注1】2012年秋に閉店した。
 【注2】青梅市には都営バスの路線が[梅70]以外にも複数あり、いずれも公共負担の対象となっている。
 【注3】椎名誠「突然的帝都縦断101キロ1520円の旅」『週刊ポスト』1984年8月24日号、小学館。単行書は『イスタンブールでなまず釣り。』情報センター出版局、1984年(文庫収録:文春文庫、1991年)。
 【注4】この一文は文春文庫版のみ。

 【2013.03.27_19:10追記】掲載後に図版の一部手直しを行いました。


【2015.02.27追記】[梅70]系統は、2015年4月1日から、西東京市の公共負担協定脱退により、約3.5km短縮されて〔花小金井駅北口〕からの運行となった。
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2013年03月26日

2011.11.21(月)(24)青梅街道を北上する

 次の目的地は、東大和市のお隣、武蔵村山市にある村山支店である。〔東大和市役所入口〕12:25発の青梅車庫行きに乗り、20分ほどの乗車で〔横田〕で降りる。発車時刻まであと4分ほどある。
 この停留所には、バス停のポールが3本立っている。ここを通るバスは、我が[梅70]のほか、立川から来る西武バスが2系統、もう一つは東大和市のコミュニティバス「ちょこバス」である。西武バスは、東村山駅行きとイオンモールむさし村山行きが、それぞれ30分に1本ずつぐらい。西武バスの後者は〔東大和市駅前〕から〔武蔵村山市役所前〕まで都バスと同じ道を走る。もう1つの「ちょこバス」は東大和市内を循環している市のコミバスで、西武バスに運行委託されている。
 今、その「ちょこバス」が行った。ポールの時刻表によると12:24発で、極めて貴重なものがやって来たようだ。なぜかというと、この停留所には1日5本しか来ないからである。ここを通るのは、多摩モノレールの上北台駅から市内を一周して戻る循環バスで、運賃は100円だけれども1周したら1時間以上かかる。

 さて、昼時になって[梅70]にはそろそろ遅れが出始めたらしく、青梅車庫行き12:25発はなかなか姿を見せなかった。さっきの「ちょこバス」は12:24の定時に来たのだが、都バスはどうなっているのだろう。小川の交差点あたりでひっかかっているのだろうか。なお、反対側に来た[梅70]の小平行きは12:27発で、こちらはほぼ定時運行のようだった。
 やがて、青梅行きが9分遅れでやって来た。これまでと異なり、前面のヘッドライトが縦に2段重ねてある車で、車体長もこれまでより短い。ヘッドライトが2段になっている中型車は、いすゞ自動車の「エルガミオ」という商品名のバスであろう【注1】。民間のバス会社は車種を特定メーカーで統一することが多いが、東京都交通局は複数の国産メーカーのバスを購入して使っている。乗ってみると、車内は乗客数14人で結構混んでいるように見えた。
 発車してすぐ、角に「ステーキのどん」がある交差点を通過した。ここ奈良橋庚申塚の交差点で、2車線×2の大きな道とクロスする。田無町一丁目の交差点で分かれた青梅街道のバイパス、新青梅街道である。田無で旧道に分け入って以来、数十分ぶりにこの道に遭遇した。片側2車線の新青梅街道も、「東京街道」としてそれなりに由緒正しき街道筋である。ただ、新青梅は人里離れた場所に作られた道で、沿線の繁華度は近年まであまり高くなかった。こちらはロードサイド型の店舗が果てしなく続く典型的な「郊外」である。ともあれ、この交差点の手前にあるのが〔庚申塚〕という停留所で、おそらく近所には名前のとおり「見ざる言わざる聞かざる」の石塔が建っているのだろう【注2】。
 新青梅を越えたところで、青梅街道はなだらかな下り坂となった。「からぼりがわ」という看板のついた橋を渡った【注3】。川というよりも本当に“空の堀”で、西側がどん詰まりになっていて、存在理由が不明なように思えた。実は、この時気づかなかったのだが、ここで渡ったのは文字どおりの「空堀」で、この橋の手前にもう1つ、水の流れる空堀川を越える橋が架かっている。空堀川は荒れ川で、蛇行する流路を治水のため真っすぐにする工事(ショートカット)が進行中。最終的には“空堀”が河道として水が流れるようになるのだそうだ。
 その先にあるのが、都営バス青梅支所の大和操車所である。1960年に旧大和町が誘致して開設されたもの。道の西側に広がる1100平米の駐車場の端に、平屋建ての事務所が建っている。この操車所ができたことで、荻窪駅までだった[301]系統は阿佐ヶ谷駅まで延長された。[梅70]の重要拠点の一つだが、「めぐ」当日には存在に気がつかなかった。なお、操車所の前にある停留所の名前は、都バスが〔大和操車所前〕、西武バスが〔東大和一小南〕と異なっている。

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 【注1】いすゞと日野は2004年にバス部門を統合し、両社のバスは「ジェイ・バスグループ」なるブランド名となった。なお、現在青梅支所にいすゞエルガは配備されていない模様。
 【注2】庚申塚は1967年、新青梅街道の拡幅に伴い雲性寺(東大和市奈良橋一丁目)に移転した。
 【注3】空堀川:東京都を流れる一級河川で、総延長約14km。荒川水系の柳瀬川の支流。武蔵村山市本町の都立野山北公園内の丘陵に源を発し、清瀬市中里の小金井街道清瀬橋付近で柳瀬川に合流する。
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2013年03月25日

2011.11.21(月)(23)幻の武州鉄道

 支店の周辺を見回してみると、ここは閑静な住宅地であり、支店前の交差点から奥に入ると東大和市役所や市立中央図書館、都立東大和高校など、広い土地を要する公共施設が集中している。商業が全くないとは言わないが、現金を使える施設はほとんど見当たらない。そば屋が1軒。それから金物・刃物・機械の店が1軒あるが、後者は一般向けの店ではないだろう。あとは中古車買い取り査定センター、個別指導塾、産婦人科。小児科もある。でも、交差点の周辺を相当に目を皿のようにして見た限りにおいて、見出せる看板の類がそんな程度なのだ。町の雰囲気としては、高級住宅地に近い。たとえば、かつて「めぐ記」で触れた小田急線祖師ヶ谷大蔵駅あたりのような。ただ、東大和市の住宅地がブランドになっているとは聞いたことがない。かなり謎であった。
 学校や役所のような、大面積の敷地を必要とする公共施設が集中しているのは、原野のような土地を大規模に区画整理したからと考えられる。そうでないとまとまった土地が確保できないからだ。実は、ここ東大和市は、かつて鉄道の新線建設計画が相当程度進行し、その過程で用地買収が大々的に行われた地域であった。りそな東大和支店の西側に集中する公共施設は、まさにその時買収された土地に建っているのである。

 計画されていた鉄道の名前は「武州鉄道」という【注】。昭和30年代の前半に個人事業家の手で計画が進められたもので、中央線の三鷹駅から青梅市を通って埼玉県秩父市に至る、全長62km余りの電化鉄道の計画だった。
 資料を総合すると、計画されていたコースは、次のようになっている。三鷹駅から玉川上水の南岸を北西に進み、鷹の台で西武国分寺線と、小川三差路付近で青梅街道および西武拝島線と交差する。東大和市に入ってからは、今の新青梅街道に沿う形で西に進み、箱根ヶ崎でJR八高線に、東青梅でJR青梅線に接続。東青梅から進路を北に変えると、成木街道沿いに小沢峠から旧名栗村(埼玉県飯能市)へ入り、最終的には埼玉県秩父市の中心部、秩父鉄道の御花畑駅まで到達する計画であった。
 この新線計画は、敷設の免許は下りたものの「武州鉄道事件」という疑獄事件に発展し、事業家本人や、事業家が政治献金していた元運輸大臣までが逮捕される事態になったことから、立ち消えとなった。しかし、路線が通ることになっていた地域では、武州鉄道の設立事務局(正確には武州鉄道の不動産部門であった白雲観光梶jによって、大規模な用地買収計画が進められていたのである。
 東大和市は、武州鉄道の“沿線自治体”の中でも、痕跡が特に強く残っている地域である。同市は戦時中に軍需工場ができた関係で都市化が進んだものの、2本ある鉄道路線はいずれも市域の端をかすめているだけであり、昔から公共交通機関には恵まれない地域であった。武鉄の敷設計画は、こうした中で起こる。当然、地域の世論としては賛成論が強く、これを背景に用地買収が相当程度進行したのである。
 計画は最終的に挫折してしまったものの、買収された用地は公共用地や住宅地として転用され、都市計画に大きく貢献することになった。1959(昭和34)年の『大和町広報』には、武州鉄道の用地として、3つの団地、およそ7万5千坪の農地の売買契約が締結されたことが報じられている【図】。鉄道用地ということで路線の形に合わせて東西に長く、かつ駅前団地などの造成を想定してか、相当に広い面積が確保されている。
 白雲観光が買収した土地は、武州鉄道の実現見込みがなくなった1970年頃から、相次いで売却された。これらについては、自治体が直接売買契約を結んだケースと、東京都が買収して関係自治体に売却されたケースとがあった。図の「中央団地」の部分にある公共施設のうち、都立東大和高校については東京都が、その隣接地にある東大和市役所などは旧大和町が、それぞれ白雲観光から直接購入したという。りそな銀行東大和支店は、「中央団地」の東側隣接地にある。

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 【注】戦前に埼玉県川口市と蓮田市とを結んでいた鉄道とは無関係。
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2013年03月24日

2011.11.21(月)(22)東大和支店を制覇

 〔南街通り〕〔南街入口〕を過ぎ、南街の外れにある〔東大和病院前〕の手前で柳沢行きのバスとすれ違った。東大和病院は民間の医療法人がやっている総合病院で、この病院も[梅70]の沿線から患者を多数集めている。駅前から続く商業の並びは、病院のある東大和中央の交差点を境に途切れ、純住宅地に変貌した。建物の並び方が少しまばらになってきて、この付近から駐車場など「建物なし」の土地利用がみられ始める。ロードサイド型の店がちょびちょびあるぐらいで、とにかく純住宅地であった。
 〔中央二丁目〕を経てすぐ、目的地の〔東大和市役所入口〕に到着した。時刻表では11:59発となっており、ほぼ定時であった。市役所入口交差点の30mぐらい南にあるバス停でバスを降りると、北側にもうりそな銀行の看板が見えている。
 信号まで歩いてきた。2階建ての白い建物が交差点の北西角にあり、北東角はりそな銀の第二駐車場になっている。建物は、通りから見える場所に風除室を設けているが、使われておらず塞いでいた。りそな銀行はどこの店も入口の風除室を塞ぐ方向で来ているようだ。というわけで、店の入口は交差点から少し奥に入ったところの自動ドア。それとは別に、駐車場に近い側にもドアがあった。こちらのドアは、旧埼玉銀行ならではというのか、ガチャッと手で開ける鉄扉、しかも押しただけではダメで、ドアノブを回さなければ開かない。鉄扉は白ペンキで塗装してあるが、だいぶ剥がれており、金属の地肌が渋い感じに茶色く光っていた。
 支店に入る。「りそめぐラー」としては、ATMで預金取引を済ませることだけがここに来る動機である。ATMを収めた機械枠は、上部の壁に羊羹形の行灯を付けた、旧埼玉銀の標準的なものであった。行灯の「お預け入れ」などのプレートは緑色のものに換装してあるが、こちらは小平とは違って縦棒を取ってあった。奥を見ると、窓口室の中身は、椅子の数といいクイックナビのカウンターの並びといい、小平とほとんど変わらないように思った。ただし、こちらは窓口室のスペースがかなり狭いようで、さっきの小平と比べると高密度であると感じた。
 キャッシュコーナーの機械枠は6台分。ATMが6台あって、枠が全部埋まっている。左の4台が沖電気のATM21B、一番右が沖のバンキット、右から2番目のみ富士通のATM(FV20)が入っていた。12:13、東大和支店を制覇した。

 東大和支店は、埼玉銀行東大和支店として1978年3月に開設された。当初所在地は東大和市立野1-1039-8(都立東大和高校西側)で、現在地には1979年9月に新築移転してきた。あさひ銀行時代の2000年6月、けやき台支店(立川市)を統合している。けやき台は東大和から立川市街地に向かう途中にある住宅公団の団地。1966年の竣工で、支店(前身の出張所)も同年の開設であった。
 東大和市の指定金融機関は1964年の指定金融機関制度スタート時点から埼玉銀行であり、東大和支店開設以前から指定金融機関だったことになる【注】。東大和市の指定金融機関とあって、東大和支店の業績は悪くはないハズだが、だからといって賑わっているようには見えなかった。駅前からここまで来た感じからすれば、三井住友のごとく駅前のあれぐらいの場所は取りたいものだとも思えるが、もし両者が逆なら今頃ここに銀行の支店は存在しないのかもしれない。
 蛇足ながら、りそなのウオッチャーとしては、りそな銀行には東西2つの「大和」、つまり東大和支店の他に“西大和”支店もあると指摘しておきたい。奈良県上牧町の公団西大和ニュータウン内に、旧大和銀行店舗の「西やまと支店」というのがある。旧大和銀の慣行として、「大和」の文字が付く地名で「だいわ」と読まない場所に店を出す場合、この漢字の部分を平仮名に直していた。西やまと支店は、この慣行に基づき命名されている。大和銀行がなくなった今、「やまと」の表記を使う必要もなくなったが、現状やまと郡山支店(奈良県大和郡山市)とともにそのままの名前で営業している。2012年2月に訪れる機会があったので、その際に撮った写真を一緒に並べておこう。

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 【注】東大和支店開設以前は、東村山支店が担当していたと思われる。
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2013年03月23日

2011.11.21(月)(21)東大和市駅から「南街」へ

 [梅70]は、ここ〔東大和市駅前〕から先、〔大和操車所前〕までの2kmほどの間が、最も本数の多い区間となる。早朝の柳沢方面が操車所始発、午前中には〔東大和市駅前〕で青梅方面に折り返す便が数本設定されており、さらに夕方には、青梅方面から来るバスのうち車庫に入るものが、操車所前を越えて駅前まで来るためだ【注】。ここから青梅寄りでは、[梅70]のバスが日中おおむね30分間隔で出ていることになる。
 〔東大和市駅前〕を発車した。停まったことは覚えているが、乗降客があったかどうかは覚えていない。ここは[梅70]で最も乗降客数の多い停留所であり、まあ多少の入れ替わりはあったハズだ。駅前の1番乗り場を出て、右折で桜街道に入り、三井住友のある角で信号待ちである。
 信号が青に変わるとバスは左に曲がり、4車線の道路に入った。このまままっすぐ行くかと思いきや、4車線道路は少しだけ右にカーブしており、バスはそのカーブの付け根のところで左折した。もともとはこの道が青梅街道として奈良橋方向にまっすぐ続いていたのだが、いまや完全に青梅街道が脇道と化してしまっている。4車線道路は新青梅街道と立川市とを結ぶ市道だという。整備が終わったのは2009年のことで、もちろん以前「あさめぐ」で来たときにはこうはなっていなかった。
 青梅街道に入り、対面2車線の黄色いセンターラインの道になった。立派な4車線の道は、我が[梅70]とはほとんど縁がなく終わってしまった。このあたりから、東大和市の中心市街地「南街」(なんがい)である。もともとの中心地の南にできた街だから「南街」。戦中期に軍需工場の従業員が多く住むことでできた街だそうだが、このあたりが地名として「南街」となったのは1980年の住居表示実施からであった。街並みとしては、さっき花小金井駅から滝山に向かった道筋と似たような雰囲気である。要するに郊外の風景ということだ。
 旧道に入ってすぐのところに、たましん(多摩信金)東大和支店がある。スーパーのいなげやも出店している。その先に、青梅信金の東大和支店。青信は、普通の支店の建物2つ分くらいの大きな建物が建ち、その奥にもう1つ支店の建物ぐらいの大きさの建物が建っている(全部2階建てではあるが)。かつて事務センターが置かれていた名残らしい。

 青信の近所に建つアパートの一つは、タイル張り壁面の重々しい外観で、屋根近くに三角形の飾りが付いている。この型のアパートは、サブリースのT社に特徴的な建物である。不動産賃貸を営む企業が建物を丸借りするサブリースという営業方式は、土地を余らせている地主には不労所得が入り、賃貸住宅経営としても空室が出ないため安心確実なのだという。
 私は、このシステムは建物を丸借りする会社だけが甘い汁を吸うシステムだと思っている。サブリース会社は賃貸経営だけでなく建物の建築も手がけているから、地主に建築費を目一杯吐き出させるために、(意味もなく)重装備になったり凝った外観になったりする。また(地主の意向は容れつつも)サブリース会社の要請に従った建物が建つから、会社は欲しい設備をリスクテークゼロで手に入れることができる。地主はといえば、建設費やローン金利などを全額負担し、借金の返済分とサブリース会社の取り分とを引くと、賃貸料収入は雀の涙ほどしか残らない。その上、賃貸料はサブリース会社の言い値で決まるから、賃貸業が不振だと一方的に借り上げの家賃も減額されてしまう。
 なぜこんなことを知っているかというと、私に近いところでアパート経営を始める構想があって、サブリース会社との交渉に複数回同席したことがあるからだ。最終的にそこは、サブリースではもったいないとして、ハウスメーカーに直接発注して自力でアパートを経営することになった。サブリース某社との最後の会談で、借金の額が大きくなり過ぎると断ったところ、営業マンが「7000万も1億も大して変わらないじゃないですか」と言い放ったという。3000万円という金額の差は、個人にとっては決して小さなものではないだろう。こういう金銭感覚で大切な土地を玩具にして欲しくないな、と私は聞いたときに思ったものである。
 そういう目で見ると、ここのように大都市の通勤圏内にありながら農地がいたるところに残っている地域では、サブリースの建物が多数発見できる。私はその度ごとに気の毒だなあと思うのであった。

 【注】駅前から操車所までは回送。
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2013年03月22日

2011.11.21(月)(20)東大和市の玄関口

 三角屋根の大きな構造物が前面に見えた。あれが、西武拝島線の東大和市駅である。青梅街道は、東大和市駅の南側にある青梅橋交差点で右に曲がり、同時にこれで東大和市に入って小平市とはお別れとなる。駅の手前で緑が途切れ、と言いたいけれどもやっぱり緑の多い風景が、駅に着く直前まで広がっている。
 駅の手前で流れた車内放送では、両替方式のため釣銭が出ません、とアナウンスしていた。都心部の都営バスでは絶対聞けない放送だ。23区内の都営バスは均一運賃制、かつ紙幣などの場合は運賃箱から釣銭が出てくる方式だからである。
 この地にはもともと青梅橋という橋がかかっており、駅の名前も1979年まで青梅橋駅といった。玉川上水から分水した野火止用水が流れていたのだが、現在は暗渠となっており、「橋」も欄干がモニュメントとして残るのみである。そんな青梅橋の交差点で右に曲がったところで、2車線だった青梅街道は再び4車線道路になった。と思う間もなく拝島線の高架をくぐって左折、駅前ロータリーに乗り入れて、駅前広場の北端近くにあるバスホームに停まった。

 東大和市駅前の風景は、市の玄関口というより、開発中の新線の駅という印象が強い。このあたりは1978年に高架になったのだが、駅前広場は広大なスペースが駐輪場で占められ、またロータリー内の植物が相当生い茂っていて、年数の経過の割に人手があまり入っていない印象がある。使いやすいかどうかは別として、直観できれいな駅前広場だと思った。
 駅前広場には鉄道会社が建てたビルが数棟ある。高架のすぐ北側に、かまぼこ形の屋根を持つ建物が2棟。線路に近い方は東大和スケートセンターといい、主たる施設はアイススケートリンクである。朝に東伏見でも見たが、西武は沿線や自社のリゾート地にスケート場を多く持っている。かつて西武グループの総帥であった堤義明氏(康次郎氏の三男)が、リゾート開発でアイススケート場を好んで作ったためらしい。ビル1階エントランス部分には、多摩信用金庫とりそながそれぞれ店舗外ATMの独立小屋を出している。ATMの隣に入っているテナントはミスドであった。
 その隣にあるのは、ゲームセンターなどが入った「ビッグボックス」という名前のビル。ファミレスのカーサが入っているなど典型的な西武鉄道のビルである。同名のビルが高田馬場駅前にもあり、経営主体もおそらく同じなのだろうが、見て受けるイメージは全然違う。出ている横断幕によれば、ここは2013年に開催される東京国体のボウリング競技会場になるそうだ。ビッグボックスが国民体育大会の競技会場というのもさることながら、国体にボウリングという競技があることそのものに驚いた。
 駅前には、ドラッグストアやファストフードの入った雑居ビルが何軒か建っている。駅前の角に三井住友銀行の東大和支店(旧太陽銀)があって、一橋学園を離れて以来ずいぶん久しぶりに銀行を見た気がした。1971年6月の開設で、東大和市で最も古い銀行である。この支店の角を起点に西北西へ行く道路が、バス乗り場から見えている。桜街道といって、青梅街道の原初的な道筋である。青梅街道は本来、小川三差路からひたすら直進する経路だった。人里離れたところを通っていた道筋が、集落を縫う経路に徐々に移ってゆき、それに伴って原初的経路は寂れていった。さらに戦中から戦後にかけて帝国陸軍多摩飛行場(現米軍横田基地)と日産自動車村山工場(現存せず)により分断されたため、江戸時代初期の道筋をそのままたどるのは今となっては無理である。現在の青梅街道は、駅南側の青梅橋交差点で大きく右に曲がって北に向かい、東大和市の中心部を抜けて、同市北部の奈良橋から西に向きを変える道筋になっている。蛇足ながら、2012年11月に飯能信用金庫(本店埼玉県飯能市)が東大和支店を出店したが、店舗は旧道筋の桜街道沿いにある。この道筋は、最近になってようやく一般金融機関が店を出すような地域になってきたということだろう。
 道の反対側にはスーパーマーケットが1軒。緑色の看板は色調とデザインが良いセンスをしていると思った。三井住友の支店は開設当初ここにあった。旧「あさめぐラー」の立場から一言述べておくと、前述したりそな銀東大和支店の店舗外ATM[東大和市駅前]は、あさひ銀時代にはスーパーの左隣、床屋が営業している場所にあった。

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 【2013.03.23_12:45追記】タイトルを、発表時の「東大和市駅から「南街」へ」から変更しました。
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2013年03月21日

2011.11.21(月)(19)田園。

 ちょっと肝を冷やしたが、波乱の起きそうなところはどうにか無難にこなしたと思う。次の制覇目標は、東大和支店。〔東大和市役所入口〕まで、ここ〔小平消防署前〕からは20分くらいの乗車である。
 青梅車庫行きのバスがやって来たので乗り込む。時計を見ると1分遅れぐらいだから、ほぼ定時運転と言えるだろう。走り出してすぐ、青梅街道駅前の踏切でまたも引っかかった。〔青梅街道駅前〕では電車と接続させるダイヤが組んであるのか。そう勘違いしそうなほど絶妙なタイミングであった。日本の道路事情を考えたら、そんな高度なことは到底期待できないと思うけれども。
 踏切が開き、バスが本格的に走り出した。青梅街道はラインの引き方が変わり、このあたりから2車線×2となっている。〔青梅街道駅前〕の次が〔新小平駅前〕であった。新小平はJR武蔵野線の駅だが、この近辺では地下を通っているから電車の姿は見えない。停留所を過ぎた道の北側に、平屋建ての駅舎がポツンと建っている。以前、埼玉高速鉄道の川口元郷駅について書いたことがあるが、地下鉄道の駅は少々小さい建物だと地上のランドマークになり得ないから、駅といっても何の印象もなく過ぎ去るだけだ。
 なお、新小平駅舎の右隣にはりそなの店舗外ATM小屋があって、私もあさひ銀行時代に制覇に来たことがある([新小平駅前]小平支店)。りそなになった現在でもそれなりの使い道があって、[梅70]を使った「めぐ」の際ここで預金取引をすれば、小平支店に直接行かなくても通帳に<小平>の表示を出すことができる。「現地主義者」の私はこの方法は採らず、あえて小平支店まで行った。

 青梅街道は〔小川町二丁目〕のあたりで道幅が狭くなり、対面2車線に戻る。戻ったところで、2つある小川町の交差点に遭遇する。ここは交通渋滞の名所である。交差点としては大まかにはどちらもT字路で、東のT字路では都道所沢府中線が南から来て青梅街道にぶち当たり、そのすぐ西側には北へ向かう都道立川所沢線が出る交差点がある【注】。道としてはどちらも府中街道だが、本来まっすぐ行かなければならないところ、それぞれ青梅街道にぶち当たる形でクランクになっていて、それで渋滞するのである。ここまでの道はすいていたのだが、危惧していたとおり信号待ちで長蛇の列になった。クランクの解消計画はもちろんあるようで、西側交差点の南には多少の空き地があったが、何らかの工事が始まっている様子はみられなかった。
 クランクの西、〔小平第一小学校前〕を過ぎたところに単線の踏切がまたもやあり、ここでも踏切待ちとなった。この踏切は、西武鉄道の、今度は国分寺線である。多摩湖線と同じく国分寺から北に延びる西武の支線だが、こちらは明治時代に国分寺と川越とを結ぶ鉄道として開業した、西武鉄道の路線の基礎となった由緒ある線。電車は多摩湖線と違って6両編成で、運行本数も多摩湖線より多い。おとなしく待っていると、3ドアの黄色い通勤車両、3000系電車が走り抜けていった。
 街道沿いは、小さな住宅が続いたり、ロードサイド型の店があったりは相変わらずだが、このあたりまで来ると広いお屋敷を持った農家が見られるようになってきた。昔の豪農らしさが残るあたりは、だいぶ西に進んで来たんだなと感じさせる。また、土蔵が目立つようになってきた。妻板上部の三角形の部分(名前は知らない)に家紋が麗々しく飾ってあるなど、堂々たる土蔵である。しかも、この近所の土蔵は外壁を黒く塗ったりしていない。戦時中に空襲も来なかったのだろう。それだけの田園地帯ということであった。
 車内には15人強の乗客がいる。相変わらず大半が高齢者である。「私を除き」と言ってもよい。もっとも、私も徐々に高齢者の仲間入りをしつつあるのだが。

 停留所は〔小川町一丁目〕〔中宿〕と続く。小平市の中心部を過ぎ、道も対面2車線に戻っている。今通過している小川という土地は、「小平」の語源ともなった由緒正しき地名である。小平市域で最初に開発されたのがこの地域、開発を主導したのが小川さんという人だったから小川という地名になり、小川あたりは平坦な土地であったという由来で小平という地名ができたそうだ。この地域の中心であったと思われるのが、道の左に見える小川(しょうせん)寺という寺で、〔小川寺前〕という停留所がある。この停留所の南側には、武蔵野美術大学のキャンパスがあるそうだ。農村の雰囲気を相変わらず強く残しているが、グレーストライプの「Lパレス」のアパートも見えた。
 青梅街道は、小平上宿の三差路で立川市に向かう道を左に分岐し、青梅街道自体もかすかに右に向きを変える。三差路の股の部分に交番があり、その隣の青梅寄りに小川寺の駐車場が広がっている。由緒正しき寺は檀家の数も多いのか、結構な数の来客があるようだ。小平上宿三差路のそばにある〔小川三差路〕は、都バスと西武バスとで場所が異なっており、停留所名の表記も微妙に違う(西武は〔小川三叉路〕)。三差路を左に入る西武バスは三差路の手前に、右に入る都バスは三差路の先にある。ここから西武拝島線東大和市駅前までは民営バスが走っておらず、都バスの単独区間となる。三差路の付近で、緑の量がさらに増えた気がした。右も左も屋敷森ばかりで、豪邸というわけでもない一戸建ての家でも、樹木が森のように生えた部分を持っている。樹木の生い茂り方は相当に生命力がありそうだった。
 〔小川一番〕を通る。x番とは新田開発の際の組分けにちなむ呼称であり、小川の1番は上宿の最も上手(西端)に位置している、という由来は後で知ったこと。この場では、小川一番、電話は2番、3時のおやつは■■堂、という言葉が意味もなく頭をかすめるだけであった。横に5体並んだ操り人形がラインダンスを踊る、無邪気なカステラのCM。小学生時代、アニメーションの再放送枠(日本テレビの夕方5時台だったと思う)でよく見たものだ。
 その次にあるのが〔小川町一丁目アパート前〕という、やたらに長い名前の停留所。ここは2008年3月に開設された、[梅70]で最も新しい停留所である。通りの北側、奥のほうに、5階建てのいかにも公営アパート然とした鉄筋アパートが2棟見えた。調べるとこれも都営アパートで、停留所名のまま「都営小川町一丁目アパート」というそうだ。民間の交通機関は不動産部門と不可分の関係だが、東京都の住宅部門(都市整備局)は都営バスとどう関わっているのだろうと思う。停留所としては新しいが、アパートの建設は1988年のことであるからだ。なぜ20年も経ってから停留所ができたのだろうか。

 小平市がそろそろ終わる。青梅街道もここまで来ると、単に郊外でなく「地方に向かっていく」2車線道路という風情が出てきた。都心部の2車線道路とは何が違うのだろうか。緑が多いことだけではないと思う。建物の古び方か、それとも密集度かしら。

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 【注】厳密には、小川町交差点(西側)以北は都道所沢府中線と都道立川所沢線との重複区間。
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2013年03月20日

2011.11.21(月)(18)本日最大のクライシス

 さあ、青梅街道に戻って[梅70]の旅を続けよう。
 一橋学園駅北口に戻ってくると、萩山行きの電車がちょうどやって来た。すんなり乗ってしまえばよかったのだが、ちょっといろいろなことを考えてしまった。予定では[梅70]の〔青梅街道駅前〕発が11:39となっていて、時計を見ると現在時刻は11:23。持ち時間は15分以上ある。気が短くなったのと、感覚がすっかりブルジョア的になってしまったのとで、歩くという選択肢を最近なかなか採らなくなった。距離にして1kmないところだから、15分あれば十分歩いて行けると思う。しかし[梅70]の本数も少ないことだし、万一乗り遅れたらキツい。どうしようか。
 で、ぼんやりしているうちに、その萩山行きが行ってしまったのである。脳内にアドレナリンが走った。選択肢が徒歩以外になくなったからだ。この時間の西武多摩湖線は、15分間隔。次の電車を待った場合、時間的には青梅街道に着いたその目の前でバスが行ってしまうと予想される。ここからバス停まで歩いて15分で行けるかしら。ちょっと危ない綱渡りのような気がする。事前のリサーチでは大丈夫のハズだが、急に不安になってきた。

 さっき電車の窓から、多摩湖線の線路の西側を見てきた。線路の東側を南北に走る道があるようなので、今度は東側を通って青梅街道まで戻ることにしよう。
 狭い道である。車が通れないことはないだろうが通らないとみえて、一方通行の標識が出ており、この時間は歩行者天国のようになっている。「学園一番街」という名前の商店街として、結構にぎわっているようだ。さっきの東西に延びる商店街よりも、ちょっとだけ新しい感じがする。雑居ビルや2階建ての商店建築が多くて、棟割り長屋が見当たらないからだ。それと、シャッターが閉まった「しもた屋」が少なくて、どの店も盛業中である。時間的な理由が大きいかもしれない。店が営業していない時間に商店街に来ると、どうしてもしもた屋が多いと思ってしまうからだ。
 「学園一番街」は、途中からいきなり「四季のまち学園坂」という名前に変わる。それと同時に、店のたたずまいが少しだけ古くなったように感じた。後で気付いたことだが、ちょうどこの変わり目付近で小平学園都市が終わったようだ。学園「坂」というぐらいなので、私が進む方向に下がっている。大した坂ではないが、標高差2〜3m程度だろうか。「レンタルBox」というフリーマーケットみたいな店を見つけた。店内に棚を置き、棚の一つ一つを月額いくらかで貸している。この近所には一橋大学のほか、津田梅子ゆかりの私立女子大学もある。大学が近いゆえ、大学生向けの商売なのだろうか。
 北へ北へと進めば青梅街道にたどり着くハズである。T字路に突き当たったが、すぐ左側には北に向かう道があった。クランクを過ぎると商店はなくなり、一戸建て住宅が建ち並んだ純住宅地になった。道は平安窪通りという名前のようだ。普通の住宅地の道路で、路側帯もセンターラインも一切引いていない。と言うより、車の離合がかろうじてできるほどの道幅しかない。少し行くと道幅が多少広くなった。相変わらず住宅地であるが、児童公園があったり等、土地の使い方に多少の余裕が出てきたようだ。地名でいうと小平市小川町2丁目となる。
 時計を見ると11:30を示していた。まずい、あと9分しかない。歩くペースを速めると、カバンは取っ手のところでギシギシ言いだした。衣擦れの音が自分でも聞こえる。失敗したかな、やはり電車に乗った方がよかったかしら。果樹園と思しき土地があった。税法上の理由で実のなる木を申し訳程度に植えているのと違い、こちらは本格的に果樹栽培をしている感じである。根元のあたりで幅広く枝を広げた背の低い木で、ブドウ棚か、それとも他の果物の棚かは知らないが、1.5mぐらいの高さのところをネットで覆っている。小平市はナシの一大産地だそうだが、一部にブドウを作っている地域もあるそうで、ここがどちらの畑かはわからない。じっくり見ている暇はなかった。
 道がまたクランクになった。今度は別の道と交わるわけではなく、屈曲しているだけだ。前方にガードレールが見える。視界を車が横切っているから東西に走る道路らしく、交通量からすると少し太めの道のようだ。どうやらたどり着いたかな。
 思ったとおり、そこは青梅街道であった。4車線分ぐらいの幅があるけれども、道路としては対面2車線。角にファミレスの夢庵があって、その前に都バスの緑色のバス停ポールが立っている。停留所の名前は〔小平消防署前〕。〔青梅街道駅前〕の1つ手前で、さっき通った(ハズの)停留所である。よかったよかった。バス停に着いてしまった。現在時刻を見ると11:34。青梅車庫行きは11:38発で、その差はわずか4分。綱渡りであったが、何とか追いつくことができた。

 どうにかバス停に着いてしまうと、何を考える気にもなれず、バスが来るまでしばしぼんやりしていた。
 夢庵はすかいらーくが経営する和食ファミレス業態である。店の前にこんもりと張り巡らされた生け垣は、道路に面した一部が四角く欠き取られ、そこにテントが掛けてあった。見たところ駐輪場なのか待合所なのか見極めがつかない感じである。椅子が2脚置いてあるから待合所なのだろうが、2脚のうち1つはホームセンターで980円ぐらいで売っていそうなパイプ脚の四角いスツールで、もう1つは背もたれの部分にポケモンの「ピカチュウ」が描いてある幼児用の椅子【注】。ひょっとして、どこかの家庭の廃品が置いてあるだけなのか。
 停留所の名前どおり、消防署が右側(田無方向)の信号の先に見える。消防署の手前にある自転車屋さんはブリヂストンの看板を出していた。ブリヂストンの工場がある小平市では、自転車やタイヤの看板はブリヂストン以外のものを出しにくいかもしれない。蛇足ながら、あさひ銀行はかつてブリヂストン小平工場前に店舗外ATM([ブリヂストン小平生活協同組合]久米川支店)を出していたから、制覇しに行ったことがある。小平市内でありながら旧協和銀行のATMであった。
 停留所の背後には、アパートとマンションの中間ぐらいのサイズをした、3〜4階建ての小さな集合住宅が数軒建っている。よく見る外観だと思ったら、案の定「D建託」という看板が出ていた。サブリースといって、地主にアパートを建てさせ、そのアパートを丸ごと借り上げて賃貸するという商法。サブリースのアパート・マンションというのは、建物が会社ごとに独特の外観をしていて、見ただけですぐわかるのだ。アーチのような形のくり抜きを作ったり、わざとカーブのついた庇をつけたりして、外観は凝りまくっているが、その割に高級感があまり感じられないのが特徴であった。

 【注】ピカチュウの椅子はその後撤去されたようだ。
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2013年03月19日

2011.11.21(月)(17)小平支店を制覇

 小平支店は、新築工事現場のはす向かい、道を挟んで南東側である。
 客の自転車が店の前に何台か置いてある。投入口が1個だけの四角い私設郵便ポストもある。昔ながらの銀行の雰囲気がかなり残っている。建物の横は、旧埼玉銀の埼玉県内の支店なら駐車場に入る通路になっていたりするが、ここはそうなっていない。だから支店の近所に駐車場があるのだ。そして、そこの駐車場もつぶして今新築工事をしているわけである。
 建物としては、わが田舎の前橋支店と似た感じの埼玉銀行の店。思うに、建て替えの計画が出た時から時間の経過がストップしたのだろう。どうも旧あさひ銀行時代から、支店の建て替え計画は立案から完成まで時間ががかる傾向があるように思う。立川支店(立川市)など、今のアレアレアビルに移転する前、10年ぐらいは仮店舗で営業していたのではないか。
 さて、この支店は入口のドアが手動ドア、それも「あさめぐラー」には昔懐かしい、開閉するとドアのロックがガチャッと音を立てるタイプのものであった。このタイプのドアは、りそなには本当に少なくなった。窓口室側の入口が手動でもどうということはないが、キャッシュコーナー側の入口に手動ドアが残っているケースは珍しいと思う。音を立ててドアを開け、さらに自動ドアを通って建物内に入る。客室中央部の天井に「総合受付」の円筒がぶら下がっていて、総合受付カウンターの後ろにクイックナビのカウンター(サービスカウンターと相談コーナー)がある。窓口室は非常に広いと感じた。衝立のついた記入台が椅子とペアで4つあって、ソファー(というか待ち用の椅子)も10人分ぐらいある。混む時には混むのだろう。伊達に小平市指定金融機関ではないというわけだ。
 キャッシュコーナーの機械枠は6台分あり、6台の機械が入っている。機械枠の左側に2台分ぐらい不自然にスペースが空いているが、壁紙を張り替える時にふさいだのではないかと思う。こういうリニューアルは初めて見た気がする。機械枠のデザインは旧埼玉銀行時代の標準スタイルで、「お預け入れ」「お引き出し」の表示は羊羹のような形をした横長の行灯が残っている。行灯の中央に縦の金属棒が入っているところが珍しい。埼銀の行灯はもともとこれが本来のスタイルだが、どこの支店も前面プレートを緑色のものに替える時にこの中央の棒を外している。ここは真ん中の棒が残ったままでプレートを付け替えた、ちょっと珍しい例である【注1】。
 機械配置は、ATMが5台と記帳機が1台。一番左が富士通FV10、沖電気のATM21Bが2台、沖電気バンキットが2台。そして富士通のげんこつ型の記帳機が1台。この機械配置は少し珍しい。というのは、沖電気製のATMを主体に置いている店は、最近富士通の機械も1台だけ入れているケースが多いのだが、その場合、富士通の最新型【注2】である「FACT-V model 20」であるのが通例なのだ。ここのようにFV20ではなく、1世代前のFV10が入っているのは珍しいのである【注3】。ともあれ、機械を操作。11:11、少しだけ珍しいことが少しだけ豊富な、小平支店を制覇した。

 小平支店は、埼玉銀行小平支店として1962年9月に開設された。開店当初は小型店舗の扱いで、3年後の1965年7月に普通の支店に格上げされた。地方自治法による指定金融機関の制度が始まった1964年の4月から小平市の指定金融機関となっている。同市内の銀行は埼銀小平支店が最も古く、花小金井の東都(現三井住友)と、西武線小平駅前の東京相互(現東京スター)がそれに次ぐ。現店舗(2011.11.21現在)は1977年12月に建築されたが、旧駐車場跡地に店舗を新築し、2012年5月14日移転した【注4】。
 店舗が建築された同じ年(1977年)の7月、同市喜平町の公団小平団地内に小平東出張所(有人)を開設した。あさひ銀行時代の1995年9月に統合されたが、営業店跡では現在も店舗外ATMが稼働している。次いで、りそな銀行になってからの2006年4月、旧大和銀行店舗の花小金井出張所を管轄下に置いたが、本日付での支店昇格により分離された。この支店の店舗外ATMは[新小平駅前][小平市役所][小平東][小平駅前]のみとなった。小平支店が母店であった[花小金井駅南口]は、本日の花小金井支店発足に伴い同支店に移管された。

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 【注1】一番左側だけは縦の棒を外した形でプレートを付け替えている。
 【注2】富士通のATMは、FACT-V model 20の後継機種「FACT-V X200」が2011年10月に発売されている(りそなグループでは、今月新築移転した相模大野支店などで最近になって確認された)。
 【注3】「FACT-V model 10」そのものは旧あさひ店舗を中心に多く使用されている。
 【注4】旧店舗跡地は除却され、本記事掲載日現在マンションを建設中。
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2013年03月18日

2011.11.21(月)(16)「小平学園都市」を歩く

 線路沿いに北に向かって歩く。線路に沿って対面2車線の黄色いセンターラインの道が続き、道の西側だけに商店が並んでいる。西側だけという理由は東側が線路だからである。駅舎の北、線路と道路に挟まれたほんのわずかなスペースに、ゆうちょ銀ATMの独立小屋が建っていた。少し行くと、商店街内にある大ぶりな雑居ビルの1階に、たましん(多摩信用金庫)の支店が入っているのが見える。一橋学園支店となっている。そして…。
 何だ、ここにもあるんじゃないか。一橋学園駅は、北側にも改札を持つのだ。小さな駅と見える割に、複数の駅舎と改札を持つということは、一橋学園駅は小なりといえども乗降客の多い駅なのだろう。通常なら「百円返せ」と書くところだ。後で知ったが、一橋学園駅は1966年に小平学園駅と一橋大学駅の2つが統合してできた駅で、駅名も足して2で割ったのである。旧小平学園駅はこの踏切の北側、旧一橋大学駅は現駅の南100mほどの場所にあったそうで、旧駅の利用者がそれぞれ不便にならないよう、両端に改札を設けているのだった。

 北側駅舎前の踏切横にある交差点は、一橋学園駅北という。北西角は、みずほ銀行の店舗外ATMとファミリーマート。ここのみずほ銀ATMは珍しい作りをしていて、ファミリーマートの店内にあると言ってよい。《ファミリーマート一橋学園店》と書いてある自動ドアを入ると《みずほATMコーナー》というステッカーを張ったATM3台のキャッシュコーナーがある。不動産屋のショールーム内に併設されている、りそな銀横須賀支店の店舗外ATM[久里浜](神奈川県横須賀市)と同じような感じである。[久里浜]はあさひ銀久里浜支店の統合後に不動産屋が建物を買ったためだが、ここはどういう経緯でこういう形態になったのだろうか。旧第一勧銀はかつてこの近所に一橋学園支店を出していたが、その場所はここではなかったハズだ。
 踏切を渡る。駅の北側を東西に走る踏切道は、ここもやはり対面2車線、黄色のセンターラインの道であった。踏切の横に、昔懐かしい踏切小屋が見える。警手がいた名残なのか、行き違いをする駅ゆえポイント切り替えのためにあるのか。いずれにしても自動化されているだろうに、何なのだろうかこれは。そう思いながら東に進んだ。この道も踏切の向こうは商店街で、個人商店が多く、しかもこの時間に案外賑わっている。店舗ばかりではなく、築50年60年は軽く経つであろう、渋い焦げ茶色の羽目板を持つ平屋建ての民家も見えた。
 一橋学園駅北口の横がちょっとした公園になっており、そのすぐ隣りに東京都民銀行が小平支店を出している。六本木に本店を置く地方銀行の都民銀は、東京23区内で暮らしていると存在をあまり感じさせない銀行だが、今日の行動エリアでは結構お目にかかる。改めて検討してみると、西武新宿線沿線には高密度に店舗網を築いているようだ。りそなグループでも、近畿大阪銀行はJR片町線と近鉄南大阪線の沿線に密な店舗網を持つから、大都市の亜幹線的な鉄道路線と戦後地銀とは、親和性が高いのかもしれない。今日は都民銀に用はないが、キャッシュコーナーと書いてある場所にATMが1台しか見えないので、台数が少な過ぎやしないかと思い入ってみた。目に付いた1台とは別に2台あって、ATMはトータルでは3台稼働していた。
 りそなの看板は、都民銀の先にもう見えている。

 りそなの小平支店に行き着く途中、道の北側にあるビルの建築現場で、予期せぬものに出くわした。りそな銀の《お客様専用駐車場移転のお知らせ》という看板が出ていて、地図に《既存駐車場》とあるのは現在地なのである。りそなの駐車場にビルを建てているのか。そう思ってよく見ると、工事現場を囲う白い鉄板の塀に出ている建築現場の表示は、建築主名が《りそな銀行オペレーション改革部管財室長》となっていた。ということは、小平支店は新築移転でもするのだろうか。
 やはり。《小平支店新築工事》と書いた看板があった。この建て方からすると、建物の完成と同時に移転するのであろう。現店舗は1977年12月の建築で、35年近く経過している。もっと古い建築を使っている店はあるが、まあそろそろ建て替えの時期と言ってよい。
 りそなの支店だけでなく、駐車場隣にある日本生命の営業所も外壁の改装工事をやっている最中。その東側、1階に薬局と整形外科が入っている雑居ビルも、足場を組んでスクリーンを張って改装工事をしている。一橋学園駅近辺には今、建て替えとか改装のちょっとしたラッシュがちょうど来ているようだ。
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2013年03月17日

2011.11.21(月)(15)小平市の核心へ向かう

 ここから小平支店まで歩いて行くつもりであったが、私はほとんど条件反射のように走り出し、踏切を渡って自動改札を駆け抜けた。念のため、ICカードはタッチしている。改札機を抜けて階段を数段上がると、もう電車が停まってドアを開けていた。前述のとおり黄色が標準カラーであるハズの西武鉄道にあって、なぜか白一色に塗られた、3ドアの旧型通勤車両であった。
 先頭車両の最前部から車内に飛び込むと同時にドアが閉まり、私を乗せた電車は南に向かって走り出した。

 西武鉄道は、JR中央線の国分寺駅に北から向かう路線を2本持っている。西側を走るのが東村山と国分寺を結んでいる国分寺線。そして、今乗っている東側が、多摩湖線である。西武多摩湖線は、路線としては国分寺−西武遊園地間だが、拝島線と交わる萩山駅で分断されて折り返し運転となっていることが多い【注】。4両編成のワンマン電車が、この時間帯では15分間隔。いざ乗ろうと思うと最大15分待たされるわけだから、脊髄反射的に乗り込んだのは大正解だったと言うべきだろう。
 乗務員室の真後ろに立っているので、窓から前方が見通せる。単線の線路は青梅街道を踏切でまたぎ、南に向かう。進行左側には、少々の畑と雑木林、それに小平市役所の大きな建物が見える。市役所の反対側、右に見える三角形の建物は、小平市の中央図書館。健康センターをはじめとする小平市の公共施設も、この付近にたくさんある。ゆるく左にカーブすると、おおむね住宅地になってくる。左カーブが右カーブに変わったあたりで右側に郵便局が見えると、右も左も商店街に入ってくる。
 そして、一橋学園駅に到着。ここは島式ホームの駅で、国分寺−萩山間では唯一、列車の行き違いができる駅である。ここで列車交換する代わりに、国分寺も萩山もホームが1本だけしかない。
 私はここで電車を降りる。乗ったのは青梅街道から1駅だけ。これで140円使うのはもったいない気もするが、まともに歩いたら15分はかかるところを2分ほどで済ませたのだから、まあ「時間を金で買った」ことになるだろう。反対側のホームには萩山行きの黄色い電車がすでに停まっていた。

 一橋学園駅は、地平に下りる階段が島式ホームの一番南側にあって、そこから構内踏切を渡って平屋建ての駅舎に至るつくりであった。駅の南西側に、名前のとおり一橋大学の小平国際キャンパスがあるそうで、今出た改札がそこに最も近い。私の知っている一橋大は、確か1・2年の教養部がこちらで、3・4年の専門課程を国立キャンパスで学んでいたと思う。学生時代、一橋大に通う知り合いが多摩湖線の本数の少なさをぼやいていたのを覚えている。
 西武多摩湖線は、西武グループの創始者、堤康次郎の学園都市構想に基づいて敷かれた鉄道である。この地は、堤が大正末期に3つの学園都市(小平のほか大泉・国立)を造成しようとしたうちの一つであった。土地と交通の一体開発をもくろみ、国分寺と村山貯水池を結ぶ多摩湖鉄道という鉄道会社まで作って、開発した学園都市の中央に小平学園駅(現存せず)を設けた。同時に、建設中だった村山貯水池を「多摩湖」と命名して観光開発も行った。小平学園都市の建設は土地の買収がうまくいかず難航したが、かろうじて一橋大学の誘致に成功して面目を保ったのであった。戦後の都市化により、この地域が小平市の中心市街地ということになる。
 さて、りそな銀行小平支店は、駅の北側にある踏切を渡ってすぐ右側だったと思う。実は、小平支店には「あさめぐ」以来来ていない。今日行く9店のうち、5店はりそなになって初めて訪れる店である。というわけで、駅の周辺で見る風景は実に新鮮であった。
 ある意味懐かしい駅前風景である(改札を出た目の前にファストフード店があって風情に欠けるから、あくまで「ある意味」であるが)。駅前から北に向かって活気のありそうな商店街が広がっており、小ぢんまりした駅のたたずまいが昭和30年代の「郊外電車」の雰囲気をかもし出す。「めぐ記」のようなものを書いていると「なつかしの町××」という類の本を見る機会が結構あるのだが、昭和30年代には、たとえばさっき行った田無駅なども、この駅のごとく改札と駅事務室しかないような小規模な駅舎だったのである。

 【注】2013年3月16日のダイヤ改正で、多摩湖線は国分寺〜西武遊園地間の通し運転が主体のダイヤとなった。
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2013年03月16日

2011.11.21(月)(14)さらに小平市を行く

 踏切を渡ってすぐ「小平ふるさと村」という信号がある。この信号で交わるのは、村山貯水池(東大和市)と境浄水場(武蔵野市)とを結ぶ水道管の上を遊歩道にした道。この遊歩道は「あさめぐ」の時代に西武線小平駅に抜ける途中で通ったことがある。ふるさと村は遊歩道沿いにある文化園で、新田開発の名残をとどめる古建築が移築・復元されて保存されているもの。このあたりまで来ると、駐車場そのもの、それからどこかの敷地であっても駐車場をとても大きく取っているとか、とにかく建物のない土地が増えてきた。建物が密集している印象は全くない。遊歩道の入口には立て札が出ていて、ここから青梅街道駅まで歩いて33分とあった。
 さっき花小金井の商店街でも旗が出ていたFC東京の、ファンショップのような店が出ている。旧ガソリンスタンド、それも天井からホースが下りてくる古いタイプのものに見えた。FC東京は小平市にグランドを持っている。なお、FC東京ショップの前にある〔天神町二丁目〕という停留所は、さっき行った東久留米滝山支店に[梅70]から「徒歩で」アプローチする場合の最寄り停留所である。停留所手前の信号から新小金井街道を北に向かうと、支店のすぐ西側に到達する。歩行距離は約1.8kmで、ちょっと微妙な遠さではあるが。
 〔天神町〕から次の〔熊野宮前〕(くまのぐうまえ)に向かって緩い下り坂になった。〔熊野宮前〕は2011年3月に〔熊の宮前〕から名称変更され、読み方も改称前は「くまのみやまえ」といった。やがて、北関東のロードサイドでおなじみ、山田うどんのロードサイド型店舗が見える。その近くに見えるコンビニも、当たり前のように大駐車場完備の平屋建てである。

 山田うどんの先には〔小平駅入口〕の停留所があるが、どういうわけか都バスの緑色のバス停ポールはなく、西武バスのポールに間借りしている。青梅方面行きのバスは、小平駅前発が加わるこの停留所から本数が増える。不思議なことに、逆方向では〔小平駅入口〕に停まるのは小平駅行きのみで【注】、柳沢行きは通過するのである。交差点そのものは何の変哲もない四つ角で、あえて柳沢行きだけ通過させる理由は謎だ。都バスのポールがあってもよさそうな場所には、すでに西武バスが〔小平駅入口〕のポールを立てている(もちろん西武バスは両方向停まる)。こちらは共用させてもらえないのだろうか。
 蛇足ながら、西武バスの路線図を見ると、同社の路線は青梅街道上では大半で[梅70]と重なっている。ただし南北に走る系統に付随した部分ばかりで、青梅街道を「通して」走るものはない。この〔小平駅入口〕は西武バスにとっては路線の分岐点で、小平駅から南下してきて東に曲がるか西に曲がるかの運行しかない。ここから西に向かう小平駅〜小平営業所線には系統番号が付けられていないから、小平駅を発着する別の路線の出入庫という扱いなのであろう。
 さて、〔小平仲町公民館前〕を過ぎ、〔小平消防署前〕の手前で道幅が広がった。このあたりは基本的には片側2車線の道だが、信号の手前で右折車線が1本取ってあり、合わせて3車線分の幅がある。セットバックが済んで開けてきたのだろう。と思ったが、実はここで道幅が広がるのは江戸時代からで、青梅街道の馬継ぎ場だった名残だそうだ。とにかく、この近所から西武多摩湖線の青梅街道駅〜一橋学園駅のあたりが、小平市の中心部ということになる。小平市役所もこの近所にある。右の車窓に農協の大きな建物が見えた。東京むさし農業協同組合小平支店。この付近をテリトリーとする農協の本店だったのだろう。
 そろそろ私は降りなければならない。小平支店の最寄り停留所〔青梅街道駅前〕が近づいてきたのだ。

 バスが、踏切の手前で停まった。
 運転手に1日乗車券を見せてバスを降りる。〔青梅街道駅前〕の西行きの停留所は、線路の東側、広大なお屋敷の玄関先というか門の前にあった。私はここから、小平支店のある学園東町まで歩いていく計画である。線路に沿った道が踏切を渡ってすぐあるのは、事前のリサーチでわかっている。
 踏切の西側に、西武多摩湖線の青梅街道駅が見える。道路に面したところに、平屋建てのかわいらしい駅舎が建っている。スレートというのかコンクリートのような材質の波板で屋根を葺いた切妻の建物で、駅舎の背後には、4両編成の電車ぎりぎりの長さしかないホームが続いている。単線の線路の片側にホームが1本付いているだけの、小ぢんまりとした駅であった。
 歩き出そうとした時、前方の踏切が鳴り始めた。西武鉄道特有のベン、ベンという音である。ハッと駅の方を見ると、北の方から電車が速度を緩めながら走って来るのが見えた。青梅街道の隣駅・一橋学園駅は、小平支店の最寄り駅。そこに向かう国分寺行きの電車が、ちょうどやって来たのであった。
 
14_Omekaido-sta.jpg

 【注】[梅70]小平駅行きの〔小平駅入口〕は、交差点を北(駅方向)に曲がった場所にある。以下〔小平仲町〕〔小平駅前〕と続く。
 【2015.02.27追記】2015年4月1日から〔小平仲町公民館前〕は〔なかまちテラス〕に改称。
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2013年03月15日

2011.11.21(月)(13)話題にしにくい話

 バスが〔昭和病院前〕を出発した。
 病院のすぐ西側に、西武新宿線の踏切がある。青梅街道は田無から東西にまっすぐなのだが、西武線は花小金井から小平駅までは北西方向に進むから、ここで斜めに交差することになる。踏切待ちとなった。何系というのか知らないが、丸みを帯びたデザインの新型車両が通過して行った。
 病院と線路の間では、「寝台車常備」なる看板を出した葬祭業者の店が営業している。病院のそばでこういう業種を見かけると少しギョッとするが、実は大きな病院のそばで葬祭業者が営業しているケースは、案外いろいろなところで見かける。以前、埼玉県伊奈町の県立がんセンター前から上尾市に向かって車で走った時、やはり葬祭業者がたくさんあるのに驚いたことがある。病院と葬儀屋というのは、裏表の関係にあるのであった。
 思い起こせば、私の父親は早いもので2012年の秋に七回忌を迎えた。父が他界した時のことを思い出す。うちの母親は父が健康を害する前から葬祭業者の積み立てをしていたから、病院のベッドで旅立ったのが確認されると直ちに葬儀屋に電話をかけ、未明にもかかわらず小一時間で来てもらった。遺体は、病院の地下に設けられた特別な裏口から、葬儀屋差し回しの黒のワンボックス車(これが寝台車である)で葬祭会館まで運んでもらったのであった。当家の場合は事前の準備が結果的にある程度できていたのだったが、こうした備えが全くない人は多いのだろう。

 踏切の北側には、1954年まで「東小平駅」という駅があった。1940年開設で、戦争を挟んで15年に満たない営業期間であった。駅の開設にあたっては、東に隣接する昭和病院も協力しており、ホームの盛土を病院の敷地から提供するなどしている。
 病院史によれば、駅の設置期間はわずか4年ほどとなっている。1944年6月から始まった、糞尿輸送の貯溜駅に指定されたためとみられる。戦時中から終戦直後にかけ、都内での屎尿の汲み取りや処理に困った東京都は、発生した排泄物を多摩地域の農村部で肥料として処理してもらうため、輸送を西武鉄道などに委託していた。西武社長の堤康次郎は、屎尿を肥料に回せば都市と農村の間に循環が生じて自然の摂理に背かない、との理由から糞尿輸送に積極的であったという。専用の貨車で到着した糞尿は線路下の貯溜槽に貯蔵され、近隣の農家がリヤカーで持ち帰っていた。戦後、衛生状況の改善により大規模な糞尿輸送は急速に減少し、西武では書類上1953年3月で廃止されたことになっている。
 花小金井と小平の間は駅間が相当に開いており、また昭和病院に隣接した場所でもあることから、駅の復活を求めて署名運動も行われたことがあるそうだ。現在までに駅が復活する気配はみられないが、仮にこの駅ができた場合、[梅70]のレーゾンデートルは1つ失われることになる。西東京市が[梅70]に対して昭和病院への通院以外にメリットを感じていないからだ【注】。通院用の交通機関としては、病院の真ん前までダイレクトに行けるバスの方がしっくりくる気がするが、どうなのだろう。

 葬儀だの糞尿だの、大っぴらに話題にしにくい話が続いたが、どちらも人間生活の一面である。ご容赦願いたいと思う。なお、西武の電車が黄色である理由を、上記に求める人もいるようだ。黄色になる前のベージュとラズベリーの2色塗りも似たような色であったが、いずれにしても冗談であると信じたい。以上蛇足であった。

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 【注】たとえば、西東京市ウェブサイトに掲載の『西東京市事務事業評価 平成19年度評価 行政評価シート』には以下のようにある。《西東京市管内の(中略)代替路線としては、吉祥寺駅から花小金井駅を結ぶバスルートが有るが「梅70」のような広域的な路線ではないため、花小金井駅よりも西側の昭和病院などへは、西東京市から直接行くことはできない。しかし、西東京市管内の一日当たりの乗車人数は、296人/日であり(中略)利用価値は高いとは言えない。》《代替の交通機関もある現在では、西東京市民にとって必要不可欠な路線であるとは言い難い。》
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2013年03月14日

2011.11.21(月)(12)[梅70]のレーゾンデートル

 《次は昭和病院前》のアナウンスで、降車ボタンがピンポンと押された。おそらくここで、乗客がドッと降りるのではないかと思う。
 右の車窓に武蔵野神社という由緒正しげな神社が見える。と思ったら、その先右側に、3階建てと見える白い病院建築があった。バスは敷地の向かいで停車した。車内の2/3ぐらいだろうか、予想どおり多数の人が降りた。しかし、一時的にでも空っぽになるかと思った車内は、乗ったままの人も意外に多かった。そして、降りた半分ぐらいの客が新たに乗ってきた。朝一番で診察を受けて帰る人たちだろうか。
 ここが、公立昭和病院である。1929年7月に開院した由緒あるもので、小平市とその周辺にある8市【注1】の資金分担により組合立の総合病院として運営されている。3階建てと見えたのは道路に面した部分だけで、実は奥には8階建てがひかえている。
 公立昭和病院は、[梅70]のレーゾンデートルの一つである。この路線は、昭和病院の通院の便を図るという名目で運行が続いている路線なのだ。

 ここで、[梅70]の歴史を紐解いておこう。
 [梅70]は、1949年8月7日、〔青梅〕と〔荻窪駅前〕との間で運行を開始した。当初は[301]系統といって、同じ道を走る民間バスより停留所の数を絞り、長距離急行系統として運行されていた。〔青梅〕は現在の〔青梅車庫〕で、路線の開設と同時に堀之内自動車営業所青梅支所として開設されたもの。中央線の荻窪駅(杉並区)は、柳沢から青梅街道を新宿方面に向かった先にある。昭和20年代には鉄道が路線・インフラとも充実していなかったため、こうした長距離の路線バスが鉄道に対して十分に競争力を持ちえたのであった。路線延長39km、運行密度は1日16本、所要時間1時間30分。この路線を使い荻窪乗り継ぎで東京駅まで行くと運賃は120円であったという【注2】。
 東京都交通局はこの時、多摩地区の振興を目的として、荻窪〜青梅のほか新宿〜八王子のバス路線も開業している(後者はのちに廃止)。これには地方自治体の路線誘致もあった。[梅70]の誘致は、1947年9月に沿線の7町村(青梅町・霞村・瑞穂町・村山村・大和村・小平町・田無町)【注3】の議会議長が東京都交通局に赴いて要望したのが始まり。これを受けて交通局の職員が初めて視察に訪れたのは1949年6月、開業の1か月半前だったという。蛇足ながら、青梅市ではこのバス路線の開通を記念して花火大会を開催、以後毎年8月第一土曜日に開催される夏の風物詩となっている。
 1960年2月に大和操車所を開設、それと同時に路線を〔阿佐ヶ谷駅前〕(杉並区)まで延長した。始発や終発を路線の途中から行えるようになり、ダイヤ作りにも余裕が生まれたのであろう。系統番号が現在の[梅70]になったのは、都電の大量廃止を受けて都バスの系統番号が大きく再編された1972年11月のことである。系統番号の最初の文字は、各系統の主要なターミナルから1字を採ったもの。数字は、十の位に都内を9方面に分けた方面別の意味が振ってある。[梅70]の“梅”は言うまでもなく青梅、“7”は「都心から新宿を中心とした中野・杉並方面」という意味であった。
 さて、東京都交通局は、営業エリアの空洞化【注4】や交通渋滞による都電・バスの乗客離れにより運賃収入が減少、さらに地下鉄建設の負債を抱えて青息吐息となった。再建計画が何度も立てられては実施されるが、1967年には財政再建団体となる。交通局のエリアから大きく踏み出して運行していた[梅70]はもともと採算の芳しくない路線で、1964年2月にも廃止計画が出され、その際には青梅市議会から撤回を求める意見書や請願が出されるなどしていた。こうした流れの末、[梅70]には大きな変化が訪れる。交通局は1982年4月にバス路線の再編計画を発表した。東京湾岸と青梅地区で、赤字の特に深刻な28系統を年内に短縮・廃止するというもの。[梅70]については運転区間を青梅〜小平間に短縮し、そのうえで沿線の市町に赤字の補填を求めたいとしていた。この時、[梅70]そのものの廃止も検討されたが、鉄道のない地域を貫いて運行されている[梅70]は沿線自治体から強い存続希望が出され、最終的には都と自治体で赤字を分担することで路線の存続が決定した。存続を希望する理由の一つとして、昭和病院への通院が掲げられていた。
 こうして[梅70]は阿佐ヶ谷までの運行が廃止され、1984年4月1日から〔田無本町二丁目〕(現〔田無町二丁目〕)までとなった。1984年度から都と自治体との間で結ばれているのが「多摩地域における都営バスの公共負担に関する協定」である。この協定で赤字を分担することになった沿線自治体は、西から順に青梅市・瑞穂町・武蔵村山市・東大和市・小平市・田無市(当時)の6市町であり、最初に路線を誘致した4町3村と一致している。路線は、当時の都バスにおける田無市の東端〔田無本町二丁目〕で打ち切られることになった。ただし、この停留所は交通量の多い青梅街道の途中にあり、ここを終点としてもUターンできる場所がなかったため、バスは空車のまま保谷市側まで乗り入れて折り返していた【注5】。
 結局、空車で走らせるくらいならということか、1992年4月1日から、保谷市の要請により引返所至近の〔柳沢駅前〕まで延長されて現在に至っている。この時から保谷市が[梅70]の協定に加わった。

 柳沢延長は、折り返しの場所として都合がよかったことの他、西武柳沢駅の南側に大規模な都営アパートがあることも影響したのではないだろうか。都営アパートの住民が昭和病院に通うニーズがあると思われる。病院の通院目的など、取ってつけたような理由だと思っていたが、バスに乗ってみた限りあながちそうでもない。時間的な理由もあるかもしれないが、本当に「通院のための」バスとして機能しているようだ。昭和病院組合を組織する8市を地図上で見ると、東の西東京市から西の武蔵村山市まで横に細長く、エリアを[梅70]が大縦断しているのがわかる。
 なお、あさひ銀行はかつて病院内に店舗外ATMを出していた【注6】。あさひ銀行の時代には、通帳に店舗外ATM名が記帳されたから、私はこの病院にも制覇に来たことがある。

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 【注1】昭和病院組合の組織市:小金井・小平・東村山・東久留米・清瀬・東大和・武蔵村山・西東京(田無および保谷)の8(9)市。
 【注2】沿線自治体の市史による。『武蔵村山市史 通史編 下巻』武蔵村山市、2003年。
 【注3】当時、市制施行していた自治体はない。霞村は現青梅市、村山村は現武蔵村山市、大和村は現東大和市、田無町は現西東京市。
 【注4】当時、都心部における都営交通の営業範囲は、山手線と荒川放水路で囲まれたエリアに限定されており、人口のドーナツ化により乗客が減少した。
 【注5】〔柳沢〕近くの青梅街道に面した場所(現西東京市柳沢二丁目)に「東伏見引返所」を設けて折り返していた。都心方面からの路線が折り返す場所として昭和30年代から使われていた土地で、現在では都交通局の外郭団体が運営する月極駐車場になっている。
 【注6】店舗外ATM[公立昭和病院]:母店小平支店。2004.03.26廃止。


【2015.02.27追記】[梅70]系統は、2015年4月1日から、西東京市の公共負担協定脱退により、約3.5km短縮されて〔花小金井駅北口〕からの運行となった。
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2013年03月13日

2011.11.21(月)(11)再び[梅70]に乗って

 現在時刻は9時半過ぎ。団地センター09:23発に乗ってくる予定だったから、当初予定では今頃ようやく花小金井駅前に着くハズだった。しかも支店昇格初日の状況をじっくり見るつもりで、花小金井支店の時間をたっぷりと取ってある。だから少々時間を食っても十分余裕があるのだが、それがわかっていて見境なく焦る傾向が私にはある。
 〔田無駅入口〕10:27発予定で、その余裕時間は、移動時間を考慮に入れても実に1時間近い。といって、バスを1本前倒しにすることはできない。1本前は田無駅入口09:27発、すなわち1時間前であるからだ。〔小平合同庁舎前〕に急げば今からでも乗れるかもしれないが、これだと〔田無駅入口〕と合同庁舎との間が抜けてしまう。あきらめて田無まで電車で戻ることにした。今思えば、〔小平合同庁舎前〕09:37発で柳沢駅に戻ればよかったかもしれない。次に乗るバスは、この便の折り返しだからだ。
 駅に戻ってエレベーターに乗る。ドアを閉めようとしたら、後方から婆さんが走ってきて無理矢理乗り込んできた。ドアが閉まってゴンドラが上がり始めると、落ち着いたのか「走らなくてもいいのについ走っちゃう、ハハハ」と、誰に言っているのか言い訳めいた独り言を吐いた。あなたの仰るとおり、こういう時走る必要は全くない。黙って次のに乗りなさい。自己中心的な人が多くて困ったものだ、と自己中心的な感想を持ったが、言い訳したということは少しは気にかけていたのだろう。
 橋上駅舎の2階に上がると、お立ち台みたいな窓が南口にもあり、そこからケヤキの大木が何本も見えた。改札の前からだと北口はいなげやの看板しか見えないけれども、南口はマンション群の手前に茂っている黄色く紅葉した(というのだろうか)ケヤキの木がきれいであった。改札内に目を移すと、さっきは気付かなかったが秩父夜祭のポスターがベタベタと貼ってあった。さすが西武線の駅である。秩父夜祭は「日本三大祭」の一つで、毎年12月2日・3日に埼玉県秩父市で開催される。今年の12月2・3日は金曜と土曜で、曜日の配置がいいからさぞかし賑わうだろう。
 09:49発の急行西武新宿行きに乗った。黄色い4ドア車両、2000系。窓のサッシが2段になっている旧型である。座れはしなかったが、車内が混んでいるとも感じなかった。

 田無駅到着。まだ30分以上の余裕があるが、余裕時間としては少しオビタスな感じである。30分だとお茶を飲むにはせわしないが、ぼんやりとバスを待つには長い。この間に田無駅周辺をフラフラと歩き回った後、約2時間ぶりに〔田無駅入口〕まで戻ってきた。
 さあ、ここから再び[梅70]の旅を始めよう。次の目的地は、小平支店。降りる停留所は〔青梅街道駅前〕だが、コースに15分ほどの徒歩を組み込んであるので、歩行時間の関係でやや不安がある。さてどうなるか。
 じたばたしても仕方がない。停留所の前に背もたれのないベンチが置いてあり、そこに腰を下ろしてバスを待つ。誰かの手作りなのか、足が角材のままである。ベンチの前に立っている街灯には《省エネ電球 LEDに交換しました》という貼紙がしてあった。東日本大震災の影響もあって、LED電球はここ1年で急速に普及した。今はまだLED電球に取り換えたことそのものがアピールできるが、来年にはもう当たり前になっているかもしれない。停留所の前にあるシャッターを下ろした店舗は、ラーメン屋。その隣は昔ながらの個人営業の肉屋で、店先には大きなガラスケースがあった。
 このバス停からは、[梅70]のほか、吉祥寺と花小金井とを結ぶ西武バス[吉64]が出ている。私もたまに乗ることがあるこの路線は、1958年11月から運行されている。西東京市内でみると[梅70]と完全に重なるうえ、吉祥寺という大繁華街とを結んでいるから、西東京市役所は[梅70]よりこちらの方に重きを置いているようだ。それから、関東バスが三鷹駅から田無橋場行きを出しており、休日には「田無タワー」のある多摩六都科学館への延長便を増発運転する。
 近所にモスバーガーがある。小腹が空いたからフライドポテトでも食べようか。一瞬思ったが、やめた。

 10:27が近づき、乗客が三々五々集まってきた。高齢者ばかり5人…と一瞬思ったが2人は違った。でも、高齢者が男性1・女性2で3人は間違いなく乗る。間もなく、バスが東の方角に見えた。ほぼ時間通りであった。厳密には1分か2分遅れているが、バスでその程度の遅れなら「時間どおり」の範疇と言える。
 この停留所で10人以上が降りた。みんな高齢者である。車内に残っている客が10人ほどいて、これまた私を除き全員お爺ちゃんお婆ちゃんであった。座席は左側最前部の特等席を取られてしまっている。少しすいたようだから、中ドア前側のシルバーシートに座らせてもらおう。
 バスは青梅街道を西に走り続ける。このあたりの青梅街道は、黄色いセンターラインで対面2車線の細い道である。大都市・東京の通勤圏ゆえ、結構な数のマンションが見えるが、古い民家もそれなりに多い。西武信金の田無支店が通り沿いにあり、その隣に田無警察署があるのが見えた。停留所は〔田無警察署前〕〔上宿〕と続く。
 その次の〔橋場〕のある交差点は、メインの青梅街道から道が右前方に分離していくY字路のようであった。地図で確認すると三つ又になっていて、左に分岐する道もあるのだったが、この時は気づかなかった。道の左側にステーキレストランのフォルクスがあり、右に分かれる道の股の部分には、道祖神だろうか、小さな祠が設けてある。複数の道が集まる場所は、街道の重要な拠点になるのだろう。それを裏付けるように、祠の隣は関東バスの折り返し所になっている。こちらの停留所名は〔田無橋場〕という。
 右の車窓に、さっきと同様田無タワーが見える。このタワーは、青梅街道から北に500mほど入った、多摩六都科学館という博物館の敷地内にある。世界最大級のプラネタリウムを持つというこの博物館は、1994年の開館。この周辺の6市【注】が作ったから「六都」科学館という。敷地内にある田無タワーは、展望台があるわけでもない純粋な電波塔だが、地元の人にはけっこう親しまれているらしい。夕方のライトアップは、翌日の天気に応じて色が変えられている。
 左側にはファミレスの「びっくりドンキー」がある。このチェーン店を見る度に思うのだが、起伏の大きなあの内外装は、複雑な起伏の隙間にたまった埃を掃除するのに手間取ったりして、けっこう維持が大変ではないだろうか。停留所は〔芝久保四丁目〕〔北芝久保〕〔科学館南入口〕〔芝久保〕と刻む。ここまで、[梅70]は意外にちょこちょこと乗ったり降りたりしている。高齢者がどんどん降り、高齢者でない人の比率が少しだけ上がってきた。
 西東京市を脱し、〔花小金井二丁目〕の停留所から小平市に入る。そして、見覚えのある風景のところに来た。さっき通った西武バスの〔青梅街道〕こと、都バスの〔小平合同庁舎前〕。前述のとおりこの停留所は、[梅70]における花小金井駅の最寄り停留所で、駅へは南へ徒歩5分ほど。車内放送でも《西武線花小金井駅はこちらが便利です。》とチャンと言っている。小平合同庁舎は東京都の庁舎で、水道局をはじめ都のもろもろの機関がここに入っている。
 そこからほんのわずかの距離を走り、小金井街道の交差点を越えたところで、再びさっき通っていない道となる。いつの間にかセンターラインが白の破線に変わった。〔花小金井六丁目〕付近で柳沢行きのバスとすれ違う。反対方向もほぼ定時で運行しているようだ。

 【注】小平・東村山・清瀬・東久留米・田無・保谷の6市。田無市と保谷市が合併した現在も名称は変わっていない。
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2013年03月12日

2011.11.21(月)(10)本日昇格、花小金井支店を制覇

 花小金井支店に到着した。まずは支店昇格初日の写真を撮ろう。そう思ってポケットからカメラを出したまさにそのタイミングで、中から人が出てきた。行内向けビデオレターの撮影だろうか、三脚のついたビデオカメラで撮影している。写真の撮影タイミングに関して、私はかなり恵まれないほうで、どうしてよりによってこのタイミングで、と思うことが多い。仕方がないから、写真撮影は後に回す。
 店の表示は、当たり前のようだがすべて「花小金井支店」となっている。「3つのキャンペーン」というポスターが掲示してあって、まず目に付いたのが「新規口座開設キャンペーン」。花小金井支店と取引がない客が、新規で普通預金口座を開設して指定の取引1点を申し込むと、いなげやの商品券を1000円分プレゼントしてくれるそうだ。私は花小金井に口座がないから一応有資格者だが、りそな銀の普通預金口座は複数持っているから、さらにもう1つ頼んでも断られるだろう。
 その他の2つは、新規資金での定期預金50万円以上で特別金利適用、新規の積立定期申し込みでクオカード500円分プレゼント、であった。蛇足ながら、今この文章をまとめていて、積立定期の新規は申し込んでみてもよかったと後悔した。当日店でもらってきたチラシには「口座店は花小金井に限る」とは書かれていないのだ。
 それ以外に、花小金井が出張所から支店に変わったという晴れがましい雰囲気はないようだった。窓についている鉄製の遮光グリルは錆びさびのままだし、外壁の塗装も少し色褪せていて、建物の外観はくたびれた感じのままであった。建物の中も、それほど変わった様子はない。キャンペーンなどやっている割に、記念品を配ったり等もしていないし、「支店昇格しました〜♪」とアピールする光景も見当たらない。ポケットティッシュの1個でも配ればまだ少しは違うのではないかと思うが、新規開店ではなく支店昇格だからだろうか。
 窓口室に総合受付の白い円筒がぶら下がっているのは、りそな銀行として標準的な形態である。キャッシュコーナーの機械枠は大和銀のCI導入後スタイルだが、かつては「お預け入れ」「お引き出し」の行灯がちょっと特殊な形をしていた。横に長い1枚の板だったのだ。それが出張所時代末期に緑色のプレートに交換され、その際他の旧大和店と同様、機械ごとにセパレートされた。取り付けが甘いようで、板の並びは若干ガタガタになっている。機械の枠は7台分あり、ATM4台+記帳機、という機械配置。旧大和店ゆえATMはオムロン製で、左の2台が空き枠、JXの白台が2台、リーダスAK-1が2台。それに記帳機だけ富士通製のゲンコツ形となっている。ATMを操作。09:25、花小金井支店を制覇した。

 花小金井支店は、大和銀行花小金井支店として1979年12月に開設された。大和銀行時代の2002年2月に花小金井出張所に降格。母店は同じ西武新宿線沿線の井荻支店(杉並区)であった。りそな銀行になった後の2006年4月、同じ小平市内の小平支店(旧埼玉銀)に母店を変更したが、本日(2011.11.21)付で支店に再び昇格し、小平支店から分離した。
 なお、店舗外ATM[花小金井駅南口]は、旧あさひ銀行が2000年6月に開設した小平支店のATMだったが、同日付で母店を花小金井支店に変更した。

 三脚を構えた人がいなくなったと思ったら、今度は店の前にタクシーが停まっている。ハザードを出しているから長時間にはならないと思うが、何をやっているのだ。さっきも写真を撮っていないから、今度はさすがに少し待たざるを得ない。
 結局、制覇作業を終えて10分以上も経ってから、ようやくマシな写真が撮れた。初老の女性客が店の前にタクシーを待たせて、中で用事を済ませていたのだ。タクシーの運転手に「お待たせしました」と謝っていたけれども、こっちにも何か一言、と少し思った。どこから来たのか知らないが、あんな場所にタクシーを待たせるなんて。
 蛇足だが、花小金井支店の駐車場は「タイムズ」であった。さっきの滝山支店は「大栄パーク」。田無支店はどこか近くの契約駐車場を使っているらしい。

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