2013年04月25日

あとがき・参考文献

 「りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅」、4月24日をもって完結いたしました。
 最後までお読みいただいた方には、例によってダラダラと続いた連載にお付き合いいただき、御礼申し上げます。分量は本文だけで420枚を超え(400字詰原稿用紙換算)、これまでに発表した「めぐ記」の中で最大となりました。長文を書くだけならバカでもできる、という言葉を思い出します。
 今回は、りそなめぐりの体験記であると同時に、青梅街道紀行でもあり、そして都営バス最長路線[梅70]の乗車記でもあります。「りそめぐ記」としては冗長に感じられたかもしれませんが、りそなの支店制覇から外れる部分もあえて詳細に描写しました。
 [梅70]の乗車記はインターネット上に多数アップされており、また有名なところでは椎名誠氏も執筆しています。今回は、純粋に乗車そのものが目的となった体験記とは違い、このバスを「路線として利用」した体験記であり、また情報の質・量ともに数多ある乗車記とは一線を画していると自負しております。さて、どのような評価が下されることでしょうか。

 今回の「めぐ記」執筆で、私にはバス愛好家の顔もあったのかと思いを新たにしました。思い起こせば、私は小学生時代、自宅から数キロ離れたバスの折返所にちょくちょく行っては、運転手さんに遊んでもらっていました。悲しい出来事があって遠ざかることになりましたが、今の「銀行ウオッチング」と同じで、大人になってから関心を持つことは、十代の頃にその芽があったということです。幼年期の関心が年齢を重ねるにつれ甦ってくるという意味で、人間は記憶から逃れられない生き物だなあと感じました。「めぐ」実施後、都営バスの青梅支所管内は“全線制覇”を果たしましたし、各地の路線バス事情にもずいぶん詳しくなりました。バスでしか行けないさまざまな地名をウェブサイトや印刷物で見るたびに、松尾芭蕉ではありませんが“漂泊の思い”にかられます。
 この連載の制作中には、「めぐ」実施の翌週に大阪市長に当選した橋下徹氏が大阪市交通局に大鉈を振るうとか、国際興業が飯能営業所を閉鎖するとか、いろいろと報じられました。国際興業の飯能撤退は一応撤回されたようですが、代わりに(バスではありませんが)西武秩父線の廃線問題が降って湧いてきましたし、大阪市交通局はこの3月いっぱいでコミュニティバスの「赤バス」を全廃するなど民営化に向けて着々と進んでいます。私のバス旅の“原点”であった奈良交通の八木新宮線も、廃止検討の俎上に乗ったようです。公共交通機関、とりわけバスは、どうしても経費削減がしにくいものです。需要のなくなった便を減らすなどは、ある程度(あくまで「ある程度」)仕方がありませんが、経済効率第一主義で弄って取り返しのつかない結果にならないことを願います。地区内でバス会社が廃業した広島県福山市の商工会議所会頭は言っています。(路線バス事業の現状は)もはや市場原理を超えている、と。
 ついでに言うと、沿線各市町の議会で[梅70]について質疑にかける議員さんには、廃止を云々する前にもっと勉強して欲しいものだと思います。最低限、このバスに2〜3回は乗っていただきたい。市議会の議事録を調べていると不勉強な質問がたまに目につきますが、おそらくほとんど(あるいは1回も)乗ったことがないのでしょう。赤字だから廃止する、とは簡単にいかないからこそ、税金で赤字を補填しつつ何十年間も存続しているのです。国鉄の赤字が問題になっていた頃、赤字路線を廃止する議論で出た笑い話があります。赤字だから廃止するというのなら、赤字の額が一番大きいのはどこか。東海道本線である。[梅70]の存廃問題にも、これと似たところがあると思います。

 それにしても、[梅70]を使ったりそなめぐりの話を書いていて、「平沼時代の埼銀」がここまで強く表れてくるとは思いませんでした。武州鉄道が[梅70]の沿線と関係があるのは漠然と知ってはいましたが、調べて書いたら想像以上にディープな話になりました。[梅70]の走る東京都多摩地区は、埼玉銀行の地盤ではあるが埼玉県ではない、そういうマージナルな地域です。本質的な特徴は中枢より周縁部により強く現れる、ということなのかもしれません。あるいは、このエリアが昭和30年代以降、本質的にはほとんど変わっていないということなのか。
 思うのですが、平沼弥太郎氏は、銀行家として一度きちんと(功罪双方の面から)研究されるべき人ではないでしょうか。管見の限り「先行研究」は確認できませんでした。平沼氏は在任当時から毀誉褒貶あり、最後は疑獄事件に巻き込まれて頭取を退いたのですが、埼銀を都市銀行に昇格させる礎を作った人でもあります。時間とお金に余裕があれば、私が自ら大学院に進んで修士論文を書いてもいいのですが、まずないでしょう。せめてどこかの大学院生さん、修論のテーマにでもいかがでしょうか?

 今の日本社会は、変わらぬことよりも日々流転していると感じられることの方が多いようで、いろいろな意味で「時代の節目」になっているのは間違いありません。この連載を数年後に読み返して「古い」と感じられることがあるかもしれませんが、あくまで2011年11月の実体験と、その後の連載期間における「一面の真実」です。そういうものだと思ってお読みいただくことを望みます。
 この連載のような「文章を使っての自己主張」が、私の生き甲斐です。今後ともご支援・ご鞭撻をいただけますようお願いします。ご意見や情報提供をお待ちしています。このブログ「MEGU」は、コメント・トラックバックを歓迎していますし、私のメールアドレスも公表しています。

 なお、この連載の執筆にあたっては、以下のような書籍・ウェブサイト等を参照いたしました。分量が多いので、今回は文献のジャンル別分類を試み、また並べ方も変えてみました。


参考文献一覧
 各項目ごとにタイトルの五十音順(ウェブサイトは2013.04.24現在)。
 市町村史は<沿線関連>とした。埼玉銀行関係のうち特に平沼弥太郎氏・平沼家に関するものは<平沼弥太郎氏関連>に含めた。
 

りそなグループおよび金融一般
  斉藤憲「浅野昼夜銀行の安田財閥への譲渡」『経済史研究』第6号 大阪経済大学、2002年
  長島恭助『遺稿 新・わたしの人生ノート』私家本、1993年
  『青梅信用金庫史』青梅信用金庫、1984年
  斉藤憲『稼ぐに追いつく貧乏なし』東洋経済新報社、1998年
  『協和銀行史』協和銀行、1969年
  『協和銀行通史』あさひ銀行、1996年
  「銀行変遷史データベース」『全国銀行協会』http://www.zenginkyo.or.jp/library/hensen/index.html
  『サイギン行報 創立30周年記念誌』埼玉銀行業務企画部、1973年
  『埼玉銀行史』埼玉銀行、1968年
  『埼玉銀行十周年史』埼玉銀行、1953年
  『埼玉銀行通史』あさひ銀行、1993年
  『埼友会会員名簿 昭和三十一年九月三十日』(飯能市立図書館蔵)
  『駿河銀行七十年史』駿河銀行、1970年
  『第一勧業銀行二十年史』第一勧業銀行、1992年
  『大生相互銀行七十年史』大生相互銀行、1987年
  『大和銀行八十年史』大和銀行、1999年
  由井常彦編『日本財閥経営史 安田財閥』日本経済新聞社、1986年
  『富士銀行百年史』富士銀行、1982年
  『三井銀行100年のあゆみ』三井銀行、1976年
  『安田保善社とその関係事業史』安田保善社とその関係事業史編修委員会、1974年
  『山梨中央銀行』http://www.yamanashibank.co.jp/
  『りそなホールディングス』http://www.resona-gr.co.jp/index.html

[梅70]および公共交通について
  椎名誠『イスタンブールでなまず釣り。』情報センター出版局、1984年
  椎名誠『イスタンブールでなまず釣り。』文芸春秋(文春文庫)、1991年
  『青梅市行政報告書(総括・一般会計) 平成23年度』青梅市、2012年
  可児紀夫『交通は文化を育む』自治体研究社、2011年
  『小平市一般会計決算附属書類 平成23年度』小平市、2012年
  中村文彦監修『コミュニティバスの導入ノウハウ』現代文化研究所、2006年
  「『生活の足』確保するには 検証 コミュニティーバス・乗り合いタクシー」『日経グローカル』189号 日本経済新聞社、2012年
  『西武バス』http://www.seibubus.co.jp/
  高橋愛典『地域交通政策の新展開』白桃書房、2006年
  堀内重人『地域で守ろう!鉄道・バス』学芸出版社、2012年
  『地域とともに 西武バス60年のあゆみ』西武バス、2007年
  『東京電力三十年史』東京電力、1983年
  『東京都交通局90年史』東京都交通局、2003年
  『東京都交通局50年史』東京都交通局、1961年
  『東京都交通局70年史 再建10年の歩み』東京都交通局、1981年
  『東京都交通局80年史』東京都交通局、1992年
  『東京都交通局100年史』東京都交通局、2012年
  『東京都交通局60年史』東京都交通局、1972年
  『都営交通100年のあゆみ』東京都交通局、2011年
  「都営バス」『東京都交通局』http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/bus/
  都営バス資料館『都営バスAtoZ(5)D杉並W青梅』私家本、2012年
  『都営バス資料館』http://pluto.xii.jp/bus/index.shtml
  椎名誠「突然的帝都縦断101キロ1520円の旅」『週刊ポスト』1984.08.24号 小学館
  『奈良交通のあゆみ 発足50周年記念』奈良交通、1994年
  土屋正忠ほか編著『ムーバス快走す』ぎょうせい、1996年
  「八木新宮線」『奈良交通』http://www.narakotsu.co.jp/rosen/yagi-shingu/index.html
  鈴木文彦『路線バスの現在・未来』グランプリ出版、2001年

平沼弥太郎氏関連
  『旭川トヨペット20年史』旭川トヨペット、1976年
  「いわゆる武州鉄道汚職事件第一審判決」『判例時報』459号 判例時報社、1966年
  『運輸審議会主催による西武鉄道株式会社及び武州鉄道株式会社発起人代表滝島総一郎申請事案に係る公聴会速記録』武州鉄道株式会社事務局、1960年
  『大分県自動車販売店協会史 史誌編』大分県自動車販売店協会、1994年
  『大阪トヨタ30年史』大阪トヨタ自動車、1978年
  『勝又自動車50年史』勝又自動車、1975年
  『起承転転 京都トヨペット50年史』京都トヨペット、2007年
  『埼自販50年史』埼玉県自動車販売店協会、2000年
  老川慶喜『埼玉鉄道物語』日本経済評論社、2011年
  『埼玉トヨペット50年の歩み』埼玉トヨペット、2006年
  老川慶喜『埼玉の鉄道』埼玉新聞社、1982年
  『30年の歩み』トヨタ自動車販売店協会、1977年
  『三十年のあゆみ』神戸トヨペット、1987年
  『世界への歩み トヨタ自販30年史』トヨタ自動車販売、1980年
  佐高信『戦後企業事件史』講談社(講談社現代新書)、1994年
  野村二郎「戦後疑獄史 武州鉄道事件」『法学セミナー』260号 日本評論社、1976年
  田中二郎ほか編『戦後政治裁判史録』第3巻 第一法規出版、1980年
  「『滝島メモ』に踊る人々」『サンデー毎日』1961.10.08号、毎日新聞社
  『東京トヨタ自動車四十年史』東京トヨタ自動車、1986年
  『東京トヨペット50年史』東京トヨペット、2004年
  『東京トヨペット30年史』東京トヨペット、1983年
  『東京トヨペット20年史』東京トヨペット、1973年
  『東京日産20年の歩み』東京日産自動車販売、1964年
  平沼弥太郎『桐江米寿までの歩み』私家本、1980年
  『トヨタ自動車』http://toyota.jp/
  『トヨタ自動車販売株式会社の歩み』トヨタ自動車販売、1962年
  島田知明『鳥居観音と平沼弥太郎』プレス、1971年
  『名古屋トヨペット50年史』名古屋トヨペット、2007年
  『100万台への道そして新たな挑戦 大阪トヨペット70年史』大阪トヨペット、1997年
  『福島トヨペット50年史』福島トヨペット、2007年
  北村拓「武州鉄道顛末記」『多摩の鉄道史』多摩地域史研究会、2008年
  『北緯43度を走る 札幌トヨペット50年史』札幌トヨペット、2006年
  『幻の武州鉄道』東大和交通史研究の会、2006年
  芦田尚道「ミッションの共有によるシステムの創造 系列別自動車販売「再形成」期の製販関係」『イノベーション・マネジメント』第6号 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター、2008年
  『みつめよう足跡開けよう新しい扉 京都トヨペット30周年記念誌』京都トヨペット、1986年
  『モータリゼーションとともに』トヨタ自動車販売、1970年
  『横浜トヨペット30年のあゆみ』横浜トヨペット、1986年
  平沼康彦「我がくるま人生」『Mobi21』16号〜21号 日刊自動車新聞社、2003年
  平沼康彦『私の人生ノート』埼玉新聞社、2006年

沿線関連
  『あまめいし要一郎の活動報告』http://blogs.yahoo.co.jp/amame1968/42899098.html
  中西慶爾『青梅街道』木耳社、1982年
  山本和加子『青梅街道 江戸繁栄をささえた道』聚海書林、1984年
  筒井作蔵『青梅街道を歩く』街と暮らし社、2007年
  『青梅佐藤財団』http://www.sato-zaidan.or.jp/index.html
  『青梅市』http://www.city.ome.tokyo.jp/
  『青梅市議会史』青梅市議会、1973年
  『青梅市議会史2』青梅市議会、1982年
  『青梅市教育史』青梅市教育委員会、1997年
  『青梅市史 下巻』青梅市、1995年
  尾崎清太郎『回想 市政二十年の軌跡』けやき出版、1992年
  『グループ目高会通信とアイサツ代り通信 1999年上半期合冊復刻版』アイ通信社(武蔵村山市)(武蔵村山市立雷塚図書館蔵)
  『公立昭和病院五十年のあゆみ』公立昭和病院組合、1977年
  『小平市』http://www.city.kodaira.tokyo.jp/
  『小平市三〇年史』小平市、1994年
  「塩野谷博山ギャラリー」『キムラ工房』http://www.kimurakobo.com/team/hakuzan.html
  川島憲治「終戦前から米軍は「YOKOTA」の呼称を使用」『瑞穂町郷土資料館年報』第3号、瑞穂町教育委員会、2004年
  「スカイタワー西東京」『田無タワー』http://www.skytower195.com/
  ふくおひろし『増補新版・地方議会議員生態白書』インパクト出版会、2002年
  『創立30周年記念誌 わたしたちの新町小』青梅市立新町小学校創立30周年記念事業実行委員会、2003年
  『第二次小平市バス網対策研究会報告書』小平市、2000年
  『立川バス』http://www.tachikawabus.co.jp/
  『田無市史 第三巻通史編』田無市、1995年
  『田無のむかし話 その3』田無市立中央図書館、1979年
  『多摩湖のページ』http://www.geocities.jp/akutamako/index.html
  清水克悦・津波克明『多摩の街道(上)甲州街道・青梅街道編』けやき出版、1999年
  今尾恵介『地図の遊び方』けやき出版、1994年
  今尾恵介『地図の遊び方』新潮社(新潮OH!文庫)、2000年
  ふくおひろし『地方議会活性化マニュアル』インパクト出版会、2005年
  『町名地番変更対照表 東大和市南街(地番別・旧新/新旧)』東大和市、1980年
  『町名地番変更対照表 武蔵村山市本町(地番別)』武蔵村山市、1987年
  『西東京市』http://www.city.nishitokyo.lg.jp/
  『東大和市』http://www.city.higashiyamato.lg.jp/
  『東大和市史 資料編4 新しいまち南街』東大和市、1996年
  『東大和市史 資料編9 道と地名と人のくらし』東大和市、1999年
  『保存版ふるさと青梅』郷土出版社(松本市)、2011年
  『瑞穂町』http://www.town.mizuho.tokyo.jp/
  『武蔵村山市』http://www.city.musashimurayama.lg.jp/
  『武蔵村山市史 通史編 下巻』武蔵村山市、2003年
  『村山町史』東京都北多摩郡村山町、1968年
  「メールマガジンとっとり雑学本舗」第149号(2002年1月29日) 鳥取県総務部広報課 http://www.pref.tottori.jp/kouhou/mlmg/bnumber.cgi?p=149
  「モノレール駅間連絡バス計画 都バス整理し財源に」『朝日新聞』(多摩版)1998.12.19
その他
  フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
  「こよみの計算」『国立天文台』http://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/koyomix.cgi
  「内閣制度と歴代内閣」『首相官邸』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/index.html
新聞・逐次刊行物等
  『朝日新聞』
  『運輸統計年報』東京都交通局
  『青梅市広報』青梅市
  『会社四季報』東洋経済新報社
  議会議事録(国会、各市町)
  『銀行総覧』大蔵省銀行局
  『埼北新聞』(熊谷市)
  『事業概要』東京都交通局
  『市報むさしむらやま』武蔵村山市
  『全国銀行店舗一覧』全国銀行協会
  『東京都交通局公有財産表』東京都交通局
  『東京都公立学校一覧』東京都教育委員会
  『東京都内乗合バス・ルートあんない』(社)東京バス協会
  『都営交通のあらまし』東京都交通局
  『ニッキン資料年報』日本金融通信社
  『日本金融名鑑』日本金融通信社
  『日本経済新聞』
  『ブルーマップ』民事法情報センター
  『文化新聞』(飯能市)
  『毎日新聞』
  『読売新聞』

特にご協力いただいた機関
  銀行図書館
  所沢市立図書館
  飯能市郷土館
  飯能市立図書館
  武蔵村山市立雷塚図書館
  武蔵村山市立歴史民俗資料館

(2013.04.28_14:58追記)一部ウェブサイトのカテゴリ変更と、文献の追加、ならびに一部文献の表記修正を行いました。(2013.05.06_10:52追記)文献を追加しました。


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2013年04月24日

2011.11.21(月)(53)エピローグA [梅70]で帰途に

 現在時刻15:58。乗って来たバスと入れ替わりに、別のバスが1台、敷地の奥から出てきた。これが16:00発、私が乗る柳沢駅行きである。車体を洗浄したばかりと見えて、窓ガラスには水滴がたくさん付いていた。
 車庫を出た時の乗客は、私を含めて3人。あとの2人は女子高生であった。青梅車庫の隣にある都立多摩高校の生徒なのだろう。2人の女子高生はまだ低学年なのか、見た目は中学生と変わらないように見えた。交通機関に高校生と高齢者しか乗っていないのは地方都市の常態だが、東京都にもそういう町があるのであった。
 青梅駅に着く直前で、運転手による肉声アナウンスがあった。今度の上り電車は、12分発の立川行きだそうである。親切にも青梅線の時刻を教えてくれるのだ。青梅地区の都バスはJR青梅駅を中心としてダイヤが組まれており、毎年春のJRグループのダイヤ改正に合わせてダイヤを微調整している。[梅70]も2012年3月17日から微妙にダイヤを変えた【注1】。
 バスは青梅街道を東に進む。〔新町天神社前〕そばにあるかやぶき屋根の文化財、旧吉野家住宅を横目で見たあたりから、少しずつ睡魔が襲い始めた。やはり4車線の幹線道路は退屈である。瑞穂松原から青梅街道の旧道に入ったのが16:34。青梅方向から来ると、青梅街道はここで横道に逸れていく感じが改めてした。
 何気なく車内を見回して思った。[梅70]は一日を通して乗車率が案外高い。どの便に乗っても、座席は(満席とはいかないにしても)それなりに埋まっているし、立っている客もいる。このバスもしかりである。もう夕方だから病院に行く人はいないだろうけれども、その代わりに多数乗っているのは、授産施設から帰宅途中の知的障害者と見える人たちであった。社会的弱者が相当数乗っているこの路線は、赤字を理由に廃止するのは困難だろうと思われる。同じ赤字でも、乗る人がいなくて空気輸送だから、というのとは話が違うのではないか。
 〔瑞穂町役場入口〕の時点で、定時より7分遅れぐらいであった。このバスを利用している知的障害者たちは、走行中に自分の降りる停留所が近づくと、ガバッと立ち上がって、降車ドアのある前方に歩きだそうとする。その度ごとに運転手が「危ないから座って」と止めるのだが、全然聞いていない。運転手も大変なことだ。知的障害者の授産施設は私の自宅近くにもあって、夕方に駅に行くと施設から帰る人たちに遭遇する。彼らはもっと静かに行動していて、他人から注意されるようなこともないと思う。人の多い23区内では自制しているのかもしれないが、逆に言うと[梅70]に乗っている彼らは屈託なく生きているということか。
 〔武蔵村山市役所前〕で[梅70]の箱根ヶ崎駅行きとすれ違った。〔箱根ヶ崎駅前〕に乗り入れる都バスは、平日・土曜のみ1日3便しかない。支線の制覇は計画時点で断念したが、うまいこと工夫すればこれに乗れただろうか。一瞬の後悔が走ったが、後日帰省の際に乗ると決めたのだった。〔大和操車所前〕を通過したのが17:06。この時間になると、太陽は西の空にすっかり沈み切り、かすかに明るさが残っているものの基本的には真っ暗である。南街あたりで救急車がサイレンを鳴らして追い抜いていった。
 乗っていると感じないけれども、運転手の肉声アナウンスによれば、〔東大和市駅前〕で12分以上の遅れだそうだ。事前に聞いていた情報では、この路線は30分遅れることもザラにあるという話だった。12分程度なら目くじらを立てるほどでもないと思えたが、考えてみたら往路で乗ったほぼ全てのバスが定時運行を維持していたのであった。なお、復路のバスは、東大和市駅前のロータリーには乗り入れず、駅前の道路上から発着する。東大和市内に向かう動きではないから冷遇されているのか、ロータリーに乗り入れると時間がかかるせいなのかは知らない。その後は、西武拝島線の高架をくぐって小平市へ。西武国分寺線の踏切を渡った先、〔小平第一小学校前〕のそばでは車の事故があったようだ。バスの車窓からは風景の1コマとして見えるのみであった。
 〔新小平駅前〕で乗客が一気に半分ぐらいになった。結構な乗車率だったのだが、夕方遅い時間になり、そろそろこの辺りから客が減ってきたようだ。別の日にこの区間を利用した時に感じたが、[梅70]は〔新小平駅前〕で乗客数の段差がかなり生じるようであった。
 花小金井を過ぎて西東京市に入る頃、この時間の左車窓には、通常ならライトアップされた田無タワーが見える【注2】。前述のとおり、この日のライトアップは東日本大震災の影響で中止していた。田無の市街地を通り抜け、田無町一丁目の交差点で右折。柳沢はもうすぐそこである。東大和で救急車に抜かれ、小平で事故に遭遇したこのバスは、今度は〔ガード下〕付近で消防車に抜かれていった。30km以上も一般道を走っていると、いろいろなことが起こるものだ。
 〔ガード下〕で整理券番号が最終の27番となり、運賃も最終的な560円になった。整理券が109番にまでなる奈良交通の八木新宮線には及ばないとはいえ、整理券番号27番というのはそれなりに多い。運賃については、青梅から山一つ越えた埼玉県飯能市で、[梅70]より4km短い28kmに790円かかる民営バスの路線を知っているから【注3】、明らかに安く抑えられている。

 18:07、私を乗せたバスは西武柳沢駅前に到着した。定時では17:52着であるから、15分遅れということになる。
 このバスが最も遅れていたのは〔青梅街道駅前〕付近で、その時点で最大18分の遅れであった。驚くべきことに、その後少しだけだが取り戻したようだ。一般道を30km以上も走る[梅70]は、定時から少々遅れたからといって運転手を責められないと思う。責めるどころか、踏切が5か所もあり、渋滞の名所も複数あり、社会的弱者があれだけ乗っていて(しかも乗車マナーが良くない)、そのうえ事故に1回遭遇し、緊急車両には2回抜かれている。私は逆に、それをよく15分遅れで済ませたと思う。もちろん、バス停で待っている身で15分も遅れられてはたまらないけれども、30分ぐらいの遅れになるかと思っていたら、最終的に15分遅れで済んだのだ。積極的に評価してよいのではないか。ちなみにこのバスは、運転士が休憩する間もなく18:10発として青梅に引き返す。
 さて、ここからどうやって都心方面に出ようか。西武新宿線で帰るのは、単純往復になってしまうから気が進まない。バスで吉祥寺にでも出ようかしら。そう思っていると、駅の構内放送が漏れ聞こえてきた。《東伏見駅構内で人身事故が発生いたしました。》事故は17:54に発生し、西武新宿線は上り下りとも止まっているそうだ。青梅から2時間も乗ってきたばかりだが、さらにいや応なくバスに乗らざるを得ないのであった。さっき〔ガード下〕で追い抜いていった消防車は、この現場に急行するためだったのか、と思った。
 18:17発、吉祥寺駅北口行きの関東バスに乗る。柳沢駅発の関東バスは、都バスと異なり駅の南の方には行かず【注4】、すべて線路沿いに新宿方向(東)に進んで、踏切の横で南へ右折する。西武柳沢駅東側の踏切はふさがったままで、踏切待ちの長蛇の列ができていた。車がこちらの車線にまではみ出しており、バスもなかなか曲がれない。踏切待ちの車列は、踏切の手前から青梅街道の上り車線まで連なっていた。その間約500m、本当に悲惨なことになっている。踏切を1回開けてガス抜きすればいいのにと思うが、そうも行かないのか。なお、踏切から青梅街道までの間にある東伏見稲荷神社というのは、京都の伏見稲荷を分祀して1929年にできたもので、東伏見という地名は「東京の伏見稲荷」のような意味なのであった。初めて知った。
 吉祥寺に18:45頃着いてみると、町はすっかり夜の顔になっていた。柳沢で乗り換えた分も含めると、青梅車庫から2時間と45分。長い旅であった。

 【注1】厳密に突き合わせたわけではないが、平日ダイヤにおいては、少なくとも大和操車所06:30発柳沢駅行き・柳沢駅08:00発青梅車庫行きの2本で、途中停留所の通過時刻が1〜3分早まる変化があった。本数や運転区間の増減はない。
 【注2】翌日午前の天気予報に従い、夜間の照明を晴れ=紫・曇り=緑・雨=青と使い分ける。東日本大震災後は節電のため中断していたが、2011年12月23日に再開した。再開後は天気予報に加え、毎正時に光を点滅させて時報も実施する。
 【注3】国際興業バス[飯01-2]飯能駅〜湯の沢間(28.02km)。
 【注4】駅への進入は都バスと同じく西武柳沢駅南交差点から。


[りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅 完]

posted by 為栗 裕雅 at 18:00| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月23日

2011.11.21(月)(52)エピローグ@ 全線踏破!

 太陽はだいぶ西の方に傾いている。今日ここに至るまで天候をほとんど意識していなかったが、青空が広がっている。今日の「りそめぐ」はこれにて終了であった。
 しかしながら[梅70]はまだ終わっていない。青梅駅から〔青梅車庫前〕までの間が残っているのだ。というわけで、ここから先はおまけのようなものだが、駅前に戻って青梅車庫行きのバスに乗る。都営バスの青梅車庫は、青梅駅から西へ1km弱、旧青梅街道沿いの森下町というところにある。
 最後の最後で少しだけ段取りが狂った。乗ろうと思っていた[梅70]の青梅車庫行き(青梅駅前15:21発)が、青梅プラザ出張所でのんびりしている間に行ってしまったのである。そうすると1つ問題があって、帰りに予定していた小平駅行き(青梅車庫15:30発)には乗れなくなる。[梅70]に2つある支線を、1か所だけでも今日乗りつぶしておこうと思ったのだが、このペースだと無理だ。その次の青梅車庫16:00発は柳沢駅行き。単純往復になってしまうけれども、今日は素直に西武柳沢へ戻ることにしよう。枝の部分は、後日帰省する際に八高線を使えば解決できる。〔小平駅前〕16:05発が箱根ヶ崎駅行きだから、4時前に小平に着く西武新宿線に乗ればよいのだ。
 ともあれ、今日は(一番最後を除けば)バッチリ計画通り決まった。こう予定調和的に終わると気持ちがいい。この日連載継続中の「めぐ」は、ダイヤの乱れが生じにくいハズの電車で大幅に遅れが生じ、非常にストレスフルだった。そのことを思えば、ダイヤが乱れやすいバスでこれだけキッチリ来られたのは、素晴らしいのではないだろうか。

 というわけで、駅前の都営バス乗り場に戻ってきた。
 青梅駅前から青梅車庫までは、出入庫の関係もあって10分間隔ぐらいでバスが出ている。時刻表を見ると、最も早く乗れる青梅車庫行きは15:50発のようであった。このバスは[梅70]ではなく[梅77]、河辺駅北口発の青梅車庫行きだが、青梅駅から車庫まではどれに乗っても同じなので、端折ってこれで行ってしまうことにした。あと5分、15:55まで待てば純正[梅70]の青梅車庫行きが来たのだから、相変わらず気の短いことである。
 青梅駅前ロータリーは1976年に完成したもので、それまで青梅街道を直進していた各社のバスは、この時から駅前に乗り入れるようになった。現在、駅前にはバス停のポールが1番と3番の2本しか立っていない。ロータリー西端にある1番乗り場から、青梅駅を通る都バスの全てが発着し、東端の3番は西東京バスの小作駅行き専用となっている。京王グループの西東京バスは、もともと青梅線を運営していた青梅電気鉄道のバス部門だった会社が母体である。青梅は発祥の地であり、かつてはここを起点とする路線も多数あったのだが、今や小作駅行きが1時間に1本程度出るだけになってしまった(この路線も廃止の計画があった)。西武バスも青梅駅前にはずいぶん前から姿を見せなくなっている。
 ほどなく、青梅車庫行きがやって来た。駅前でずいぶん降りたので、このバスで車庫方面に行く客は私を含めて4人だけであった。車内は私を除き高齢者ばかり。今日は車内でほとんど高齢者にしか遭遇していない。これを特異な光景と見るのは正しくないだろう。日本のいたるところでこうした光景が展開されているハズである。
 りそな銀行青梅プラザ出張所のすぐ西側には古めかしい商店が建っていて、丸ポスト、円柱形の郵便ポストが立っている。商店にはレトロな情緒が満ちていた。その隣にあるのは、青梅信用金庫の中町支店である。店先には《青梅信用金庫本店発祥之地》なる横長の石碑が鎮座している。ここは青信の旧本店で、1974年に東青梅に近い勝沼町に移転して跡地を中町支店とした。青梅信金は1922(大正11)年に青梅町信用組合として創業した当初、青梅銀行本店の隣(現「青梅プラザ」駐車場)に事務所を構えていた。その後1929年3月に本店を現中町支店のこの地に移転。ここは、武陽銀行の新立合併に参加した7行のうちの1つ、多摩銀行の本店だった場所である。同店は1927年4月の合併と同時に武陽銀行の仲町支店となったものの、間もなく閉鎖されていた。
 〔仲町〕(なかちょう)【注1】でお爺さん1人が降りて、車内は私を入れて3人だけになった。私以外の2人は、両方ともお婆さんである。相変わらず古い商店建築が多いけれども、それで埋め尽くされているわけではないから、青梅線の踏切から青梅駅までの勝沼〜西分といったあたりと比べると、観光資源としては弱いようだ。なお、〔仲町〕には青梅市民会館がある。1966年にできたこの会館は青梅市役所跡地の至近にあり、〔仲町〕の停留所名もかつては〔青梅市役所前〕といった。場所も時期も近接しているが、市民会館の場所は市役所の跡地そのものではない。こういうものは役所・役場の跡地を使うことが多いから、少し珍しい気がする。
 次の〔上町〕まで来ると、商業的にはだいぶ静かな感じになってきて、建物の密集度も若干薄くなったようだ。そして、車内アナウンスがいよいよ《毎度、都営バスをご利用いただきましてありがとうございました。》の文言となった。《次は青梅車庫前、青梅車庫前でございます。》いよいよ終点である。そう思ったところで、次なる言葉が流れた。《なお、このバスは青梅車庫構内まで参ります。青梅車庫においでの方は、このままご利用下さい。》驚いた。車庫の中まで乗れるらしいが、〔青梅車庫前〕から車庫の構内まではそんなに遠いのか。せっかくだから乗ってみよう【注2】。
 疑問はすぐに氷解した。〔青梅車庫前〕の停留所は、ポールが都バス青梅支所のかなり(といっても40〜50m)手前に立っているのだ。都バスの路線自体は、〔青梅車庫前〕からさらに3停留所西側、市街地を外れて山道が奥多摩にいよいよ向かおうとする〔裏宿町〕まで延びている【注3】。裏宿町行きのバスは、車庫に乗り入れず青梅街道をそのまま直進するわけである。都営バスのホームページで[梅70]の時刻表を見ると、停留所一覧のところで〔青梅車庫〕が2つ出ている。これは〔青梅車庫前〕と〔青梅車庫〕という別の停留所と考えるとスッキリ理解できる。実際の問題として分ける必要があるのか、という疑問はなしとしないけれども。

 青梅街道を東からまっすぐ来ると、道が右にカーブし、正面に神社の鳥居が控えた個所がある。この右カーブの付け根左側が、都営バス青梅支所であった。
 車庫に入るバスは、鳥居に突っ込むのではないかという勢いで青梅街道を左に外れるけれども、もちろん突っ込むことはなくて、曲がり方をさらに強めて車庫の敷地に入り、すぐに停まる。青梅街道は右カーブの先ですぐ左に向きを変えているから、神社の敷地を避けるようにクランクしている。というか、調べてみるとここは陣屋、天守閣のないお城のあった場所で、青梅街道は陣屋を作るために曲げられたそうである。
 さて、私を降ろしたバスは、そのまままっすぐ奥へ入っていった。敷地は、四角いタコツボのような形をしている。神社との間にガラス張りのポスター掲示場があって、その手前にパイプで骨組みを組んだトタンの屋根がついている。円板つきのバス停ポールが1本。都バスのシンボルキャラクター「みんくる」が描かれた円板は、道中で見かけたのと同様である。駐車場の方を見ると、バス乗り場からスッと入ったところにあるのは洗車機のようだ。敷地東寄りには給油設備もある。なるほど、一般庶民のごとくいちいちガソリンスタンドで給油や洗車をしているわけではないのだ。それ以外の広い敷地内では、同じ色のバスが10台以上休んでいる。アイボリーと黄緑の2色、これに山吹色があしらわれた、都営バスの標準的なカラーリング。山吹色は何とも表現しようのない形をしているが、何を象徴しているのだろうか。都バスの車体色については触れる機会がほとんどなかったが、青梅に関して言えばラッピングバスより標準カラーの車の方が多い。
 バス乗り場の横に、ベージュ色の外壁を持った青梅支所の建物が建つ。3階建てに見えなくもないが、2階建てのようだ。玄関上部に《東京都交通局 早稲田自動車営業所 青梅支所》というステンレスの切り抜き文字が付いている。切り抜き文字の配置が若干バランスに欠けるのは、「杉並」の2文字を外して「早稲田」の3文字をつけたせいか。細かく見ると、書体も若干違っているようだった。
 車庫の入口にある神社は、熊野神社という。熊野神社の本殿と鳥居を結ぶ石畳の横は、児童遊園になっている。昔ながらの児童遊園という感じでシーソー・滑り台・砂場・水飲み場が見えるが、今となってはあれを使うのは高校生カップルがデートする時ぐらいではないだろうか。

 以上、[梅70]にひととおり乗った。最後だけ[梅77]という別の系統のバスで端折ってしまったが、同じ道を通る同じ都営バスだから、勘弁してもらいたいと思う。いや許せない、という向きには、今日はこれから[梅70]に乗って帰るから、全線完乗が復路で達成されたことにしてもよい。

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 【注1】「なかちょう」は青梅信金の支店名とバス停とで表記が異なる。
 【注2】後日、純正[梅70]で青梅車庫まで行ったが、同様であった。
 【注3】〔裏宿町〕に乗り入れる[梅70]の便はない。
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2013年04月22日

2011.11.21(月)(51)青梅の銀行物語A 戦後

 りそな銀行青梅支店は、青梅プラザ出張所開設の3週間前、2004年7月20日(火)付で東青梅支店に統合された。
 青梅市中心部にある旧銀行の本店。こういう名門支店が統合されたのは、大変ショッキングな出来事のように見える。内実は、青梅地区では1986年から東青梅支店が中心店となっており、青梅支店はその頃には中心的な拠点でなくなっていた。理由は容易に想像されるとおり、青梅駅を中心とする青梅市の旧来の中心部が東青梅〜河辺方面に移ったためである。青梅支店は明治時代から続く名門の店であるのだが、街の様子からは出張所として残っただけでも御の字であると思える。なお、青梅支店は1997年3月にさくら銀行青梅支店の営業譲渡を受けているが、これは支店の役割とかいうことよりも「近い」ことが理由だったと思われる。さくら銀青梅支店(旧太陽銀)は青梅駅前交差点そば(青梅市本町132、下図D)にあった。
 現在青梅周辺の地域母店となっている東青梅支店は、戦後の1948年4月に埼玉銀行青梅支店の詰所として開設されたもので、支店になったのは1950年9月。つまりそれまでは出張所ですらなかったことになるが、その頃には既に市街地が東方に移動し始めており、営業活動の便のため拠点が必要だったのであろう。支店昇格と2回の新築(1950.12と1970.11)を経て、1986年4月に現在の店舗を新築している。

 青梅市にとっては、金融機関が営業体制を転換する都度、一つの転換点になっていたと思われる。金融機関の青梅地区における経過を見ていると、青梅市の市街地が東方移動する様子がつぶさにわかって興味深い。既述の点もあるが改めてここでまとめておこう。
 まず1948年4月、埼玉銀行は東青梅に詰所を開設。1950年12月には青梅市勝沼184(勝沼T字路北側、青梅総合高校方向からの突き当たり部分。下図F)に東青梅支店の店舗を新築している。詰所時代の所在地は調べられなかったものの、この近所にあったと思われる。これにより埼銀は、青梅市街地の東部における営業基盤が確立した。次いで1970年11月、埼銀東青梅支店は勝沼の踏切を越えて、現在地(青梅市東青梅2-17-4、下図H)に移転。ここに、商売の基点が旧市街地の延長としての勝沼から、東青梅という新たな市街地に移ったことが示された。他の金融機関の動きを見ても、旧市街の仲町に本店を置いていた青梅信用金庫は、1974年に本店を現在地(東青梅寄りの青梅市勝沼、下図E)に移転している。
 1980年には、青梅市の最も新しい市街地、河辺に埼玉銀行河辺支店が開設されている。そして1986年。埼銀は東青梅支店の新店舗を建築した。この新築は、埼銀の青梅地区における営業体制が根本から変わることの象徴となった。東青梅支店の新築と同時に、青梅地域を統括する支店が、青梅支店から東青梅支店に変わったのである。青梅支店が母店だった奥多摩特別出張所【注】は、この時から東青梅支店が母店となった。また外国為替業務の取り扱いが青梅支店から東青梅支店に移管され、青梅支店は外国通貨両替店となった。これらは、電車にたとえると、A駅の特急停車をやめ、代わりに各駅停車しか停まらないB駅に新たに特急を停めるようなものと思えばよかろう。
 市街地の移動が転換点を迎えたのは、これらから察するに1970年代から1980年代前半にかけての頃であろう。前述したとおり、青梅市東部では1969年以降、小学校の児童数が4年で1.5倍に増える勢いで人口が流入している。つまり、同じ勢いで旧市街から人口が流出していったのであろう。言ってみれば旧市街地が急速冷凍されたようなものであるが、こうなると、経済の中心である銀行も所在地をシフトせざるを得なかったと思われる。
 ともあれ、こうした変化から20年後の2004年7月、青梅支店は統合の日を迎えることになる。

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 【注】奥多摩特別出張所:東京都西多摩郡奥多摩町氷川1421にあった。1898(明治31)年9月氷川銀行として開業、1927.04合併で武陽銀行氷川支店、安田系銀行への合併を経て1944.05埼玉銀行氷川支店。1958.01奥多摩支店に改称、1980.02青梅支店奥多摩特別出張所となる。1986.04東青梅支店に管轄替え、2000.11東青梅支店に統合。
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2013年04月21日

2011.11.21(月)(50)青梅の銀行物語@ 明治期〜太平洋戦争

 青梅プラザ出張所は、りそな銀行東青梅支店青梅プラザ出張所(愛称名「りそなパーソナルステーション青梅」)として、旧青梅支店の統合跡地に2004年8月9日(月)に開設された。
 出張所名に「プラザ」の語がついた理由は、全銀システム上の都合で旧青梅支店と名称を区別する必要があったため。青梅支店を統合して3週間のタイムラグでの出張所新設で、為替の受け入れで旧店口座を新店口座に読み替える期間中(2か月)、同名の店舗にすると混乱が生じるせいである。その後、証券会社などを併設した「青梅プラザ」として同年10月13日に改装オープンし、おおむね現在の姿となった。現在の「青梅プラザ」の建物は、青梅支店時代の1966年4月に建築されたものである。

 旧青梅支店は、1882(明治15)年5月に青梅銀行として開業した由緒ある店舗であった。店の場所は開業以来130年間、基本的に変わっていない。
 1927年4月、青梅銀行をはじめとする多摩地区の7行は、合併して武陽銀行を新立、旧青梅銀行の本店が武陽銀行の本店となった。行名の「武陽」は、武蔵国にある川の北側斜面を意味している。「陽」つまり北側斜面は、南から日が当たることから明るく積極的なイメージがある。武陽とは、武蔵国・多摩川の北岸に位置する青梅・福生などの地域の美称である。
 1942年6月、武陽銀行は安田系だった日本昼夜銀行に合併し、本店は同行の青梅支店となった。日本昼夜銀行はその名のとおり「昼夜」、つまり昼のみならず夜間も窓口を開けていた銀行で、夜間営業を導入した普通銀行は日本初であった。また、この銀行が昭和初期の不況下で始めた小口信用貸付(サラリーマン金融)は、日本で最初の消費者金融と言われている。夜間営業は、富士銀行の社史によれば米国フィラデルフィア市のハリマン夫人が創始した「スルーナイトバンク」を範とし、朝9時から夜8時までの営業をその特色としていた。夜間営業は子会社の日本昼夜貯蓄銀行が最初に採用し、日本昼夜銀行にも1916(大正5)年10月から導入された。この営業体制は1942年6月、武陽銀行と第三十六銀行(八王子市、安田系)の2行が同行に買収された際も、旧2行に適用されたようだ。なお、武陽銀行は安田系だったわけではない。
 日本昼夜銀行について少し詳しく述べておこう。日本昼夜銀行は、東京湾の埋め立てやセメント事業で名を成した浅野総一郎/浅野財閥の機関銀行だった。ルーツは、神奈川県足柄下郡吉浜村(現湯河原町)に1898(明治31)年9月設立された、吉浜銀行という地方銀行である。吉浜銀行は1913(大正2)年に駿河銀行(現スルガ銀行)に営業譲渡されたが、解散せずに東京に移転し、2度の改称(経営者の交代を含む)を経て、同年6月に第五銀行として東京での営業を開始した。第五銀行は鶴見総持寺(横浜市鶴見区)の機関銀行だったが、1916年4月改称して浅野系の日本昼夜銀行となり、さらに2年後の1918年3月に浅野昼夜銀行と改称した。浅野昼夜銀行は、財閥の機関銀行として浅野の旺盛な事業拡大意欲を支えたが、第一次世界大戦後の反動不況によって経営が悪化し、1922(大正11)年8月に安田保善社の傘下に入った。同時に行名を日本昼夜銀行に戻している。安田傘下入りは前年9月29日に予定されていたが、保善社内で案件を主導していた安田保善社総長の(初代)安田善次郎が調印前日に暗殺されたため、翌年8月に延期された。安田傘下に入った後、戦時体制に合わせて1942年6月に武陽銀行と第三十六銀行の2行を吸収した。
 日本昼夜銀行は、1943年4月安田銀行に合併して消滅、この時青梅支店は安田銀行の青梅支店となった。戦時中の1県1行政策が徹底される中、1942年末になって三井・第一、三菱・第百の2つの大きな銀行合併が発表された。安田保善社ではもともと安田系銀行の再編を検討していたが、4行の動きに触発されて、最も困難の少ない日本昼夜銀行から合併することにしたのだった。蛇足ながら安田銀行は、昭和金融恐慌の後始末として開業した昭和銀行も翌年8月に合併。さらに十五銀行の合併も画策していたが、後者は帝国銀行(三井+第一)と合併することになり実現はしなかった。
 そして1944年5月、青梅支店をはじめとする旧武陽銀行店舗の大半は埼玉銀行に譲渡され、青梅支店もここにようやく埼玉銀行青梅支店となったのであった。その後、前述のとおり1948年8月協和銀行から青梅支店を譲り受けている。

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2013年04月20日

2011.11.21(月)(49)15:18、最終目標制覇

 さあ取引をしよう。窓口室には、前面の女性と後方の男性と、2人の姿が見えた。銀行の取引印を持ち歩きたくないのと、現地での時間節約のため、「りそめぐ」の窓口取引に必要な伝票は、あらかじめ記入・捺印したものを用意してある。出金・入金の2種類の伝票と、2冊の通帳を用意して窓口女性に手渡す。「おかけになってお待ち下さい」の声とともに、処理が始まった。カウンター手前の長椅子に座って待つ。
 今処理してもらっているのは、口座Aから口座Bに預金を移す「振替」という取引である。青梅プラザ出張所は、窓口で現金を扱っていない。しかも、店番号が母店と同じ店であり、ATMで取引をすると母店の<東青梅>の名前が記帳されてしまう。こうした店の制覇では、現金の授受を伴わずに窓口で預金を動かすことがどうしても必要なのである(私はりそな銀行の普通預金口座を複数持っている)。
 数分後、窓口の女性からお声がかかり、2冊の通帳を受け取った。通帳を見た私は、胸をなで下ろしたと同時にガックリ来た。なぜかというと、この店の記帳は薄々だったのである。インクの補充をずいぶん長いことしていないようだ。青梅プラザより前の部分を東青梅支店であらかじめ記帳しておいて、大正解だった。窓口でも印字が薄いのはわかっていると見えて、日付の数字の間にあるハイフンの部分を鉛筆で塗って返してくれた。ハイフンは印字済みの行数を示す目安になっており、そこが薄いと次のATM利用時にエラーとなる。りそなに限らず、通帳の印字が薄くてATMで対応できない時は、ハイフンの部分を塗り足して濃さを増せばどうにかなる。今日はそういうことを窓口であらかじめやってくれるぐらい薄かったということだ。インクの補充は常にやっておいて欲しいものである。

 本日の最終目的地、青梅プラザ出張所の制覇が終了した。時計を見ると15:18。並の銀行ならシャッターを固く閉ざしている時間である。通帳印字は薄かったものの、やっぱりりそなでよかった、と感じた。
 建物中央の廊下を入った奥にご不浄があるので、ちょっと拝借。そのついでに「青梅プラザ」の建物を軽く探検してきた。りそな銀行の会議室が今も1階にあって、トイレの横にそのドアがある。会議室としては今も現役のようだ。2階に上がると、階段の横には「食堂」と書いてある部屋があった。銀行は休み時間になっても建物の外には出ないのが不文律らしい。制服姿で食事に出て、そのまま拉致でもされたらかなわん、ということだろう(行員の制服はあさひ銀行時代に廃止されたが)。支店でなくなった今、中でどんな食事をしているのだろうと思う。それ以外の部分はギャラリーとして使われているらしく、書道展などの展示会を時々やっている模様だった。
 3階には、青梅佐藤財団という財団法人が2007年から事務所を置いている。2階に立入禁止の表示があったので、上がってみるのは遠慮した。1階に戻って銀行窓口横の掲示を見ると、文化講演会とか音楽会とかのイベントを主催している財団らしい。HPによると、財団の創始者・佐藤敏雄氏(1896〜1978)は、青梅に本社のあった日本ケミカルコンデンサーという会社の創業者。当地出身ではないが、戦時疎開を契機に後半生を過ごした青梅市には感謝の念が多大であったという。財団は、青少年が有望な社会人として成長するための事業を行うべく、佐藤氏の“ありごとう”の言葉から1977年に創設された【注】。

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 【注】財団HPのメタタグに「ありごとう」と書いてあり、検索エンジンで「青梅佐藤財団」を検索するとこの文字列が出てくる。
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2013年04月19日

2011.11.21(月)(48)青梅「プラザ」とは何か

 さて、りそなはどこにあっただろうか。青梅プラザ出張所は旧青梅支店の統合跡にできた出張所で、青梅支店時代を含めて何度か来ている。右折した先、旧青梅街道の北側(向かって右)だったハズだ。とにかく戸建ての商店建築ばかりが並ぶ、旧青梅街道をほんの数歩西に進む。
 あった、縦型の看板。普通の支店なら、りそなのRマークの下に緑色の部分があって白抜きで「りそな銀行」と書いてあるのだが、この店の看板は板の部分を2×2で4等分しており、りそなのロゴはそのうち1つだけで、小さくて文字が読みにくい。しかしりそなの看板を見慣れた私は、そこが青梅プラザ出張所であるとすぐさま察知した。
 建物の前には「青梅プラザ」の茶色い巨大な看板がデーンと置かれている。切り倒した丸太をそのまま切り出して板にしたような、1×3mほどの横長の看板。鉄道の木製枕木のような紫がかったこげ茶色に染色され、見事な毛筆体で「青梅プラザ」と書かれた文字の部分は、彫刻されて白い塗料が入っている。右下には「博山」とサインが入っている。この看板は、青梅出身の造形芸術家、塩野谷博山氏【注1】が作ったものである。正面の看板だけでなく、横の「青梅プラザ駐車場」という横長の看板も同氏の作品であった。塩野谷氏は青梅市議なども務めた地域の名士で、和ダンス(日本舞踊ではなく和箪笥)の収集家としても有名である。氏の芸術は「きたな美」といって、新しくて洗練された華やかな「きれい美」に背を向け、一見きたない古い物の中に美を見出すもの。自然木を大きくいじることなく、再び命を与えるつもりで制作しているという。使う木は、天寿を全うして枯れた自然木が倒れて腐朽し、自然にボロボロになったものがベストであるそうだ。
 正面の自動ドアには、出張所の名前が《東青梅支店青梅プラザ出張所》と書かれ、その下に《Higashi-Ome Branch Ome-plaza Sub Branch》と英文呼称が書いてある。営業店ゆえ《大阪府指定金融機関》など代理業務の一覧も出ているが、どういうわけか「青梅市指定金融機関」の文字は出ていなかった。

 自動ドアを入ったところはキャッシュコーナーで、その点は他の支店と変わるところはない。この店に限りキャッシュコーナーに用はないが、他店なみに描写しておくと、ATM枠は6台分、あさひパイプデザインの完全幅狭型。一番左側が空枠、2番目に富士通げんこつ形記帳機があって、3番目からATMが4台(富士通FV10、FV20×3台)。機械上部の行灯はもちろん緑色のプレートに換装済み。パイプの突端は、赤いキャップが付いているところと、キャップの付いていないところとある。キャップを紛失したのだろうか。
 横一直線にローカウンターとハイカウンターが並んでいたと思われる窓口室は、大幅に改装したようだ。ただし、カウンター部分はあさひ銀行時代のグレーの什器をそのまま使っているから、リニューアルというより「模様替え」である。キャッシュコーナーから見ると、窓口室は大きく2つに分かれている。中央に廊下が設けられ、廊下の右はむさし証券【注2】の店舗。「青梅プラザ」という名称だが、青梅支店に相当するものだそうだ。さいたま市大宮区に本店を置くむさし証券は、以前は「そしあす証券」という名前で、旧あさひ銀行系の証券会社だった。
 奥の壁に時計が埋め込まれているのは支店時代のままと思われる。銀行と証券会社とを隔てる廊下は埋め込み型時計の下に続いていて、廊下の奥には上の階に通じる階段が見えている。りそなの出張所は廊下の左側である。銀行が左半分に入っているのは、金庫室の入口がこちらにあるためだろうか。証券会社に大金庫室は必要ないらしく、右側は普通の事務所兼店舗のような形であった。
 というわけで、この店はりそな銀行とむさし証券との共同店舗になっているのだった。出張所ができた2004年当時のニュースリリースを読み返してみると、この建物1階にはそしあす証券(当時)のほか、ヘルスケア施設を運営する医療法人のインフォメーションセンターと、旅行会社の代理店がテナント入居していた。地域住民のニーズが高い健康・お金・旅行に関する相談に応えられる複合施設として「プラザ」という名前をつけたそうだが、現在ではこれらのテナントは証券会社を除き撤退したようで、確認できなかった。
 青梅プラザ出張所は、東京ミッドタウン支店(東京都港区)が東京ミッドタウンというビルの中にあるように、「青梅プラザ」という施設の中の出張所、と考えればわかりやすいかもしれない。ただし、建物はどう見ても(前面の行灯看板がちょっと複雑になったぐらいで)旧青梅支店のままで、青梅プラザが何の施設なのかは、いまひとつピンと来なかった。

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 【注1】塩野谷博山(しおのや・はくざん)氏:造形芸術家。1932年11月青梅市生まれ、本名塩野谷博治(ひろじ)。日本大学芸術学部で油絵を学んだ後、自然木を使った造形作品に転向した。
 【注2】むさし証券:当ブログ2011.12.10掲載「2008.11.14(金)(27)春日部西口支店を制覇」を参照。
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2013年04月18日

2011.11.21(月)(47)昭和の町並み・青梅へ

 武州鉄道の話を長く続け過ぎたかもしれない。言わずもがなの感想はいろいろあるけれども、くどくなり過ぎるからまたの機会に回す。ただ、この件を「疑獄事件」に仕立てたかったのは一体誰なんだろう、ということは思う。

 さて、[梅70]の旅を続けよう。青梅線の踏切を渡った先には、旧市街地として建物がビッシリ建っている。いよいよ、町そのものが観光資源となっている「昭和の町並み・青梅」の始まりであった。
 〔青梅総合高校入口〕停留所の真ん前にあるのは、地元信金、青梅信用金庫の本店である。1974年に新築移転したもので、旧本店は青梅駅の西側、仲町にあった。青信本店の南にある都立青梅総合高校は、2006年に都立農林高校が再編して誕生したもので、停留所の名前も当然それ以前は〔農林高校入口〕といった。実業科の高校を統廃合して総合学科高校を作るのは、ひところ公立学校統廃合のトレンドだったが、今はどうなのだろうか。なお、青信本店の手前、総合高校に入るT字路の右側(突き当たり部分)の駐車場は、埼銀の東青梅支店が1970年に現在地に移転するまであった場所である。
 次の〔西分〕のあたりまで来ると、真新しい建物もなくはないが、味わいのある街並みというのか古い建物が目立つようになり、個人商店が増え始めた。建っている建物が古いのもさることながら、このエリアには「人の動き」というものがほとんど感じられない。東京都内でありながら、どこかの地方都市にやってきたような印象であった。
 〔西分二丁目〕を経てさらに西に進む。山がちな地形を反映して、道は右に左に曲がりくねっている。あきる野市に向かう秋川街道が、左の方に分かれていった。このあたりから、青梅の“観光開発された”街並みとなる。〔住吉神社前〕では、柳沢方面の待合所が古い木造建築であった【注1】。この付近には、《(美空)ひばり・(江利)チエミ・(雪村)いづみの三人娘》とか、高田浩吉や高峰秀子といった往年のスターが出ている映画など、古いエンターテインメントの看板が何枚もあって目立つ。後で気づいたが、〔住吉神社前〕の待合所の上にも、マリリン・モンロウ(ママ)主演の『バス停留所(ストップ)』という映画の看板が取り付けられている。これらは、観光開発の一環として“レトロな街並み”の情緒を演出するため、最近作ったものである。このほか、有名な施設として赤塚不二夫会館というのがあるが、赤塚氏は青梅に住んでいたわけではない。青梅のオリジナルは、あくまで古い街並みだけなのであった。いちおう、赤塚不二夫会館が土蔵建築を使っていることには触れておこう。
 りそなのウオッチャーとしては、旧協和銀行の青梅支店について触れておかねばなるまい。青梅新宿50番地(現住江町50)、赤塚不二夫会館向かいの駐車場になっている土地が旧店舗所在地である。協和の前身である日本貯蓄銀行は、終戦直後に預金吸収のため多くの地方都市に出店したが、終戦から2〜3年経つ頃には情勢の変化(大都市からの疎開者が引き上げた)により、せっかく出店したものの廃店が相次いだ。過去の「めぐ記」で触れたものとしては、五条(奈良県)、三田(兵庫県)などの支店が同様の事情である。青梅支店は出張所として1945年11月に開設、46年12月に支店に昇格し、1948年8月に埼玉銀行青梅支店に営業譲渡されて閉店した。

 バスは青梅駅前の信号で右折し、駅前のロータリーに乗り入れた。西端の都バス乗り場に停車。私を乗せたバスは、〔青梅駅前〕に到着したのであった。
 私を乗せてきたバスが行ってしまうと、青梅駅前はたちまち静寂な雰囲気になった。数人が歩いているだけで人影は少ない。都バス乗り場の前にだけ社交場のように人が集まっていたが、高齢の人が多いから静かなものである。乗ってきた[梅70]青梅車庫行きが去った後、吉野行きの[梅76]が来た。吉野は、梅の名所である吉野梅郷や、作家・吉川英治の記念館がある地域。多摩川の南岸を奥多摩に向かう吉野街道の沿道である。その後、[梅77]の青梅車庫行きが来た。これは河辺駅北口から、ツツジの名所として知られる塩船観音寺のそばを通ってやって来たバスである。
 都バス乗り場の前は、青梅信金の店舗外ATMとセブンイレブンが入った雑居ビルであった。青信のATMは、中町支店青梅駅前出張所とある。セブンイレブン横から奥に入ると、東京都民銀行が青梅支店を構えている。西多摩郡内の招致運動により1954年にできたそうだが、今となっては都民銀のこの支店が「青梅支店」を名乗る唯一の銀行支店となってしまった。
 右に目を移すと、四角い箱型駅舎のJR青梅駅は歴史的建造物である。青梅線はもともと青梅電気鉄道という私鉄の路線で、戦時中の国有化政策により1944年に国鉄線となった。石灰石搬出のため敷かれた路線で、五日市線や、立川と川崎とを結ぶ南武線ともども、浅野財閥の系列下にあった。現駅舎は青梅(電気)鉄道の本社として1924(大正13)年に建てられたもの。大正時代の建築だが、文化財などにはなっていないようだ。
 駅舎と商店建築をはじめ、古典的な建物が多数を占める駅前だが、真新しいマンションもボンと建っている。古い市街地の再開発では、地上げをしないとなると、マンションにするしかないのだろう。幸い、青梅市は東京の通勤圏として住宅の需要がある。それから、古典とモダンの中間ということになるのだろうが、駅前に建つ古い大規模商業ビル。屋上の塔屋に、かつての衣料品スーパー、長崎屋の鳥のマークが見える。塗装がハゲハゲで、かつて長崎屋だったことが辛うじてわかる程度であった。1972年築、6階建てのこのビルは、管理組合が管理するショッピングビルになっているが、3階から上は使われていないようだ。
 駅前ロータリーが大きく広がった部分にL字形に建つビルは、1階に抜け道が設けられていて、四角い穴がぽっかりと口を開けている。さいたま・浦和駅前の「コルソ」のようなつくりだ。りそなはこれを抜けると若干近いと思われる。つくりは似ているが、デパート(伊勢丹)として営業している浦和のコルソと決定的に違うのは、ほとんど商業ビルとして機能していないことだろう。このビルの1階はしもた屋だし【注2】、その隣にあるソバ屋も、ラーメン570円、きのこそば/うどん820円、うな重1320円と値段だけは一丁前である。メニューもバラエティに富んでいるが、ここはいちおうソバ屋である。
 ビル1階の抜け道から、駅前商店街の裏を抜けて、対面2車線の旧青梅街道に出た。街道沿いに見える建物は、大正から昭和初期にかけ流行した看板建築と、それ以前の土蔵建築が主である。業種としては人形店が意外にたくさんある。青梅で日本人形の生産が盛んだったと聞いた記憶はないが、いずれにしても、この近辺はかつては西多摩の中心地としてとても勢いがあったのだろう。

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 【注1】後日見たところ、最近作られたものらしいと判明した。
 【注2】現在はテナントが入っている。
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2013年04月17日

2011.11.21(月)(46)幻の武州鉄道part2B 蹉跌

 武州鉄道の免許交付に先立つ、1961年7月6日夕方。吉祥寺の武州鉄道本社【注1】では、記者会見が行われていた。社長の滝島総一郎氏が、武鉄の免許内示があったことを公表したのである。会見場は高揚した雰囲気のまま、スタッフたちが祝杯を上げる場となった。
 ところが、階下では重苦しい雰囲気に包まれていた。同じ建物の1階は、この時点で滝島氏と関係が切れていた白雲観光の本社であったが、同じ日の午後、東京地方検察庁八王子支部(現立川支部)の家宅捜索を受けたのである。容疑そのものはありがちな贈収賄事件で、青梅市の区画整理組合幹部が受け取った25万円の出所として白雲観光が捜索されたのだった。土地買収の責任者だった内田桂一郎専務はこの日の午後から所在不明になっていたが、同日夜になって羽田空港で拘束された。内田氏が乗ろうとしていたスカンジナビア航空機は、雷雨のため出発が遅れていたという。これが「武州鉄道事件」の幕開けであった【注2】。
 内田氏の容疑は、白雲観光の設立後間もない1959年3月、東青梅駅北側の区画整理にからんで区画整理組合の理事長に賄賂を贈り、買収したい土地を区画整理の対象から外してもらったという贈賄容疑であった【注3】。すでに理事長が収賄容疑で逮捕されていた。組合施行による区画整理事業【注4】は1954年に始まったが、これについて『青梅市史』は、《東側に接する(中略)区域は、昭和三十年当時、青梅土地区画整理区域に編入されたが、諸種の事情があり区域から除外された経緯があった。》と記している。筆者の推測だが、「諸種の事情」がこの件だとすると、武州鉄道が購入したかった土地は現青梅街道、保健所入口交差点の南西側で、あからさまにそこだけ除外するわけにもいかず、南北に長くこの「東側」地域(現「東青梅五丁目」の大半)を除外したのではないだろうか。
 さて、白雲観光の帳簿を押収して調べを進めた地検八王子支部は、使途不明金が1000万円ほどあることを突き止めた。捜査はこのあたりから東京地検の特捜部がバトンタッチした。武州鉄道の免許は、計画がずさんなうえ競合路線もあり、申請から交付までの期間も短すぎるとして、政界方面で疑惑ありとの噂が流れていたのである。一般的な刑事事件は警察が捜査して検察庁に送られるが、政治家の汚職事件や大型脱税、経済事件などでは地検の特捜部が直接捜査・摘発する場合が多い。特に、大物政治家の事件を立件してきた東京地検特捜部は「日本最強の捜査機関」とも言われる。白雲観光の土地買収問題は、武鉄の免許工作をめぐる汚職事件へと質を変えたのだった。
 9月4日、東京地検特捜部は、滝島総一郎氏など武州鉄道の役職員3名を業務上横領容疑と私文書偽造容疑で逮捕した。使途不明の1000万円を横領したという容疑であったが、汚職事件の捜査は横領・背任から入るのが定石だという。しかし、3人は供述を頑強に拒んだため、特捜部は他の関係者を証拠隠滅などの別件で次々に逮捕して壁の打開を目指した。これにより捜査線上に浮かんだのが、免許申請の直後から滝島氏と急速に距離を縮めていた元運輸大臣の楢橋渡氏であった。楢橋氏は9月20日、夫人とともに収賄容疑で逮捕された。臨時国会が25日から開かれることになっており、逮捕を急いだためとも言われる(国会議員は会期中は逮捕されないことになっている)。
 結局、東京地検特捜部は、同年10月25日の捜査終結までに延べ2300人を調べ、18人を逮捕した。捜査線上にのぼった政治家は、武州鉄道に有利な国会質問をした荒船清十郎氏を始め10人に上ったが、逮捕されたのは楢橋氏一人であった。それ以外の逮捕者では、上は76歳の会社社長から、下は21歳の滝島氏の女性秘書まで、多岐にわたった。
 なお、埼玉銀行側でも逮捕者が出た。現職の頭取だった平沼弥太郎氏が逮捕されたのが、何と言っても衝撃的であった。逮捕時に銀行に籍を置いていたのは平沼頭取と、東京支店長だった田中太兵衛常務取締役の2名であったが、このほか武鉄・白雲に出向していた役職員2名、「七人の侍」のうち3名が逮捕されている。

 さて、武州鉄道事件で逮捕された18人の容疑者のうち、起訴されたのは12人。大きく3ルートに分かれた裁判のうち、武鉄免許にからむ贈収賄で起訴されたのはわずか4人であった。収賄側は楢橋元大臣と、陸運局で武鉄の審査を担当した主査の2人だけ、贈賄側は滝島社長と部下の2人。昭電・造船と並ぶ「戦後の三大疑獄事件」とまで騒がれた事件であったが、贈収賄という典型的な部分に関してはこれだけで終わったのである。なお、この件にからむ証拠隠滅の罪で、4人が起訴されている【注5】。
 他の2ルートは、いずれも別件逮捕・起訴であった。1つは武州鉄道に絡んだ背任の容疑。滝島総一郎氏を白雲観光から追い出す際、滝島氏の借金を棒引きにしたが、埼銀が担保に取っていた不動産を相謀って不当に高く評価し、白雲観光に損害を与えたというものである【注6】。不動産の時価は3910万円であったが、9207万円の貸し出しと棒引きにされたため、白雲観光が5297万円の損害を被ったとされた。こちらで起訴されたのは、平沼弥太郎頭取と滝島総一郎氏、「七人の侍」の丹沢善利氏と菊池寛実氏、そして白雲観光の社長になっていた宮沢庚子生氏であった。
 もう1つは、武州鉄道とは全く関係のない容疑で「経済関係罰則の整備に関する法律」違反容疑。こちらは2件あって、1つは鉄道のプロジェクトと同じ頃に鳥居観音で建立を進めていた玄奘三蔵塔【注7】の建設資金として、銀行の融資先から寄進を受けた件。もう1つは、埼銀から融資を受けて株式を購入した「七人の侍」のメンバーが、株で得た利益の一部を鳥居観音に寄進した件。これらが、融資に対する謝礼であるとして贈収賄に問われたのだった。戦時中の1944年に施行されたこの法律は経済統制を確保するためのもので、特殊会社や公団などの役職員による汚職や秘密漏えいに対する罰則を規定していた。戦時中は対象に銀行が含まれていたが、すでに時代遅れとなっており、裁判進行中に銀行贈収賄罪の規定が削除されてしまった。この罪名で起訴されたのは、平沼頭取と田中常務(銀行収賄)、「七人の侍」の菊池氏と永田雅一氏(銀行贈賄)の4名であった。
 東京地方裁判所の判決は、1966年2月15日に出た。実刑判決となったのは滝島・楢橋の両氏だけで、この2名以外は無罪か、有罪でも執行猶予がつく形となった。埼玉銀行側の被告は、1人を除き全員が無罪となった。そして、滝島・楢橋両氏以外の判決は地裁で確定している。
 なお、贈収賄の「本線」以外の2ルートについて判決理由を述べておくと、前者は、白雲観光が滝島氏と縁を切るための出費は、より大きな損失を避けるための出費として妥当だったとされた。後者は、平沼頭取が鳥居観音への寄進を賄賂であると認識していなかったとされた。

 実刑の有罪とされた滝島・楢橋の両被告は控訴したが、1971年2月の東京高等裁判所での判決は両者とも有罪であった。ただし、楢橋氏が受け取ったとされた賄賂の額は減額され、追徴金も減額となり懲役刑にも執行猶予がついた。滝島氏は懲役3年が2年に減刑された。この判決は2審で確定した。
 武州鉄道は会社としては長い間未設立だったが、1967年10月にようやく設立された。しかし、疑獄事件としてスキャンダルになったため沿線自治体の関心も薄れ、かえって他の鉄道路線を誘致する際の障害とまでみなされるようになっていた。鉄道の免許は1975年頃までは存続していたが、白雲観光が買収した土地は1970年頃から相次いで売却され、物理的にも武州鉄道の実現は不可能となったのであった。武州鉄道株式会社は、休眠状態を経て、書類上は商号を変えて愛知県でゴルフ場を経営する会社となったが、2009年12月に経営破綻したようだ【注8】。

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 【注1】正式には、武州鉄道株式会社の「創立事務局」。武州鉄道は会社としてはまだ設立されておらず、事務局は吉祥寺名店会館を運営していた大日産業という会社の一部局という扱いだった。
 【注2】以上は「『滝島メモ』に踊る人々」『サンデー毎日』1961.10.08号、毎日新聞社 による。
 【注3】裁判は7被告が全員無罪となった。
 【注4】範囲は、現在の東青梅1〜4丁目および5丁目のごく一部(南端部)。
 【注5】複数の罪に問われた被告もいる。
 【注6】滝島総一郎氏は社長を解任された後も白雲観光に取締役として残っていた。
 【注7】玄奘三蔵塔:鳥居観音の施設の一つで、「西遊記」の三蔵法師(正式名:玄奘三蔵法師)の骨とされるものが祀られた建物。鉄筋コンクリート3階建、高さ33m。1960年12月建立。
 【注8】北村拓「武州鉄道顛末記」『多摩の鉄道史』多摩地域史研究会、2008年 ほか。
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2013年04月16日

2011.11.21(月)(45)幻の武州鉄道part2A 免許獲得

 さて、箱根ヶ崎→新町→東青梅駅→成木街道、という一連のコースを地図上に引いてみると、あることに気付く。東青梅駅の東側では、どのようなコースを採るにしても、りそな銀行東青梅支店が「扇の要」の位置にあって、支店のある三角形の土地を外すとスムーズな線にならないのである。東大和に続き、またも武州鉄道予定線の至近にりそな銀行の支店があるのだった。
 ここまで書かずにいたことを書かねばならない。実は、武州鉄道の計画には、埼玉銀行がかかわっている。それも、当時の頭取・平沼弥太郎氏を抜きに計画が存在し得ないほど、関係は深いものであった。

 武州鉄道を計画した個人事業家の滝島総一郎氏は、福生市出身で1920(大正9)年9月生まれ。払い下げを受けた陸軍の金属スクラップが朝鮮戦争の影響で高騰し、財産を成した。不動産会社を設立して立川付近で米軍住宅の建設を手がけ、さらに「吉祥寺名店会館」というショッピングビルも建てた。武鉄の建設構想はその頃から構築されたようだが、埼銀との付き合いもこの頃からで、取引店の立川支店長を通じて役員と知り合い、さらに平沼頭取と昵懇になった。
 平沼頭取は仏教、とりわけ観音菩薩の熱心な信者であり、また「桐江」という号を持つプロはだしの彫刻家でもあった。自家が持つ名栗村の白雲山に、自分で彫刻した仏像をまつった「鳥居観音」を1940年に開山、“関東の高野山”のようにしたいと思っていた。滝島氏はこれに、50万円とも300万円とも言われる高額のお布施を寄進し、また鳥居観音に毎朝出向いて拝むなどして、一気に平沼氏の信頼をかち取ったのである。
 大手地方銀行の頭取を味方につけた滝島氏は、埼銀の全面的バックアップを得て武州鉄道のプロジェクトを進めていった。発起人は平沼氏自らが有力財界人を集め、用地買収など必要な資金は埼銀が融資、また平沼氏の親族・友人や埼銀の役職員を重役として送り込んだ。武鉄の不動産部門として1959年3月に設立された白雲観光鰍ノは、埼銀取締役の宮沢庚子生氏と、弥太郎氏の娘婿で埼銀出身の内田桂一郎氏が役員として派遣されていた【注1】。武鉄の建設計画は、埼銀の営業エリアに貢献する新線計画であると同時に、平沼家が持つ山からの材木の出荷や、自身が造営した鳥居観音への観光客輸送を担う、平沼家の資産価値を高めるものでもあったのである。
 用地買収などの実務面は埼銀からの重役に任せ、滝島氏自身は免許獲得運動に全力を上げた。白雲観光は、会社設立から10か月ほどの間に埼銀から10億円余りの融資を受け、141万平方メートル(約43万坪)の土地を購入した。

 しかし、この頃から平沼頭取と滝島氏は離反していく。まず埼銀が融資を打ち切り、次いで1960年4月には弥太郎氏が発起人を辞退したのである。これにはいろいろな背景があった。当時、西武鉄道は吾野(飯能市)までで止まっていた池袋線を秩父まで延長する免許申請を行っていた。武州鉄道の申請は競願のような形になり、運輸省の中でも武鉄の免許に反対する声が強かった。西武鉄道自身も、1960年2月になって反対の陳情書を提出するなど強硬姿勢を示した。西武の申し入れにより5月に開かれた運輸審議会の公聴会では、技術面での知識に乏しい武州鉄道の関係者は、西武側からの質問でしばしば立ち往生し、実現性の危うさを印象付けてしまった。
 武鉄の計画自体がずさんだという声もあった。このプロジェクトは通常の2本レールで走る鉄道を作る計画だったが、当時の先端技術だった跨座式モノレールを導入する話になったり、起点が三鷹と吉祥寺で二転三転したりしていたからだ。加えて資金面でも、山間部の多い計画路線を50億円程度で実現できるハズがないとされた。この計画と競合するとみなされた西武秩父線は、妻坂峠のトンネルとほぼ同規模となった正丸トンネル1本掘るだけで80億円かかっている【注2】。さらに、銀行出身の派遣役員の目には、滝島氏の金の使い方や経理もずさんなものと映った。
 加えて、埼銀は1959年7月に行われた大蔵省銀行局の検査で、武州鉄道関連の融資を問題視された。鉄道会社の創立準備や、用地測量・買収などにかかる経費は、金融機関が金を貸す順位としては上位にあって、融資したこと自体に問題があるわけではない。しかし、鉄道免許が下りるか否かの見通しが十分でない時点での貸出としては、好ましくないと警告されたのである【注3】。
 平沼頭取自身も、計画から降りるよう再三説得された。埼銀の大口取引先の親睦会「埼栄会」の世話人会、通称「七人の侍」【注4】は、このままでは頭取の命取りになるとして平沼氏に警告書を送りつけた。また、武鉄の役員(監査役)になっていた弥太郎氏の長男・邦彦氏も、二男の康彦氏とともに父親に諫言した。
 これらにより、平沼頭取はプロジェクトに魅力を感じなくなり、滝島氏個人に対しても信頼感を失ったようだ。1960年4月、弥太郎氏は武鉄の発起人から離脱することになったのだった。なお、平沼邦彦氏は結末を見届けることなく1959年12月に結核でこの世を去った。

 平沼弥太郎氏が発起人を離脱したのは、表面的な事実に過ぎなかった。埼銀は、事実上の中核企業であった白雲観光から滝島氏を追い出したのである。武州鉄道の株主構成や役員構成は、滝島氏を除けば平沼系ばかりであり、“クーデター”はスムーズに進行した。まず、弥太郎氏が発起人を降りる直前、白雲観光の臨時株主総会で、滝島氏は社長を解任された。白雲観光は、武州鉄道とは切り離された純粋な不動産会社として「七人の侍」が経営することとした。後任の社長には世話人の一人だった丹沢善利氏が就任した(のち宮沢常務に交代)。
 その後1960年の年末になって、滝島氏は、個人として埼銀から借りていた資金の返済を求められたこともあって窮地に陥った。「七人の侍」はこれを機に滝島氏と完全に絶縁することにし、借金を棒引きにする代わりに、滝島氏が20%持っていた白雲観光の株と、担保に差し入れていた滝島氏所有の不動産12筆(福生市にある滝島氏の自宅を含む)を受け取ることになった。滝島氏は約2億円を得た代わり、埼銀とは縁が切れた。
 埼銀はこれにより、滝島・武鉄関係の融資を確実に回収しようとしたのであった。白雲観光が購入した土地は、高度成長期ゆえ価格が短期間で高騰し、相当な含み益が生じていたのである。滝島氏個人への貸出は主に武鉄の設立準備費であったが、白雲観光への融資に付け替えることで、含み益ですべて回収することができる。したがって、銀行としては損失を出さずに武鉄問題を決着させられたのだが、武州鉄道の実現の可能性はこの時点で絶たれてしまったと言ってよかった。
 しかし、滝島氏はくじけなかった。計画はほぼ立ち消えたと見えたのだが、白雲観光を追われた滝島氏は、武鉄企業鰍ネど武鉄のグループ会社と類似した会社を設立して独自の動きをとり始めた。以前からわたりをつけていた運輸大臣・楢橋渡氏【注5】をターゲットに引き続き政界工作を行い、さらに反平沼の急先鋒だった地元埼玉県選出の大物議員、荒船清十郎氏の支援を受ける【注6】。別の知人の紹介により、発起人も吉田内閣の元大蔵大臣・小笠原三九郎氏を総代に据え、新たな体制を整えた【注7】。小笠原氏は富士銀行や三菱銀行と親密だったとされ、埼銀が抜けた穴をこの人でカバーする意図があったのだと思われる。
 そして、1961年7月11日。滝島総一郎氏は、ついに武州鉄道の敷設免許を獲得したのであった。

 【注1】経理を宮沢氏が、土地の買収を内田氏が担当していた。宮沢庚子生(みやざわ・かねお)氏は元埼玉銀行取締役。1900.01.24生、1918年8月羽村銀行入行、武陽銀行を経て1944年5月埼銀入行。青梅支店長などを経て1955年5月取締役、1959年11月退任。1959年3月白雲観光常務(のち社長)。内田桂一郎(うちだ・けいいちろう)氏は平沼弥太郎氏の娘婿(埼玉トヨペット創業者・平沼康彦氏の姉の夫)。1912年頃生、埼銀を経て、1959年3月白雲観光常務(のち専務)。
 【注2】ただし、トンネル内を一部複線とするなどコストアップの要因もあった。
 【注3】衆議院大蔵委員会(1961.10.06)での水田三喜男大蔵大臣の答弁(国会会議録による)。
 【注4】平沼頭取とは友人関係でもあった。丹沢善利・菊池寛実・永田雅一・飯塚孝司・佐野友二・小佐野賢治・山田忍三の各氏。
 【注5】楢橋渡(ならはし・わたる)氏:第2次岸改造内閣(1959.06.18〜1960.07.18)の運輸大臣。1902.03.22生、福岡県出身。1923年弁護士試験合格で弁護士、1942年翼賛選挙で当選し国会議員。1973年11月没。
 【注6】埼玉銀行頭取に就任した平沼弥太郎氏は、不良債権の整理(主に貸金の回収)を大胆に行ったため、債務者の中には快く思わない人もいた。荒船清十郎氏は、たとえば衆議院決算委員会(1961.04.12)などで武州鉄道を応援する国会質問を行った。
 【注7】小笠原氏の前に、元満州鉄道理事の富永能雄氏が発起人総代となっている。楢橋氏は、滝島氏が総代を降りた方がよいと助言したとされる。
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2013年04月15日

2011.11.21(月)(44)幻の武州鉄道part2@ 夢の新線計画

 成木街道の話が出たところで、前述した「武州鉄道」について、ここで改めて触れておきたい。
 武州鉄道は、[梅70]とは小平市の小川三差路付近で初めて遭遇し、東青梅駅までは並行して走る。東大和市の新青梅街道南側に東部・中央・西部と東西に長い団地が一直線に並んでいて、中央団地に接する場所にりそな銀行東大和支店がちょうどあるところまでは前述した。
 この鉄道について、概要をまとめておこう。武州鉄道の敷設免許申請は、1959年1月14日に東京陸運局に提出された【注1】。東京都三鷹市下連雀と埼玉県秩父市東町を結ぶ全長60.32kmの電化鉄道で、レールの幅はJRなどと同じ1067mm、建設に要する土地は55万平方メートル。停車場を33か所設けることになっており、また18か所の橋梁と、埼玉県妻坂峠に全長5kmのトンネルを必要とする【注2】。工事は三鷹〜東青梅間28.2km(複線)と東青梅〜名郷間19.8km(単線)、名郷〜御花畑間12.32km(同)の3期に分けて行われ、1964年までに三鷹〜東青梅間、1965年末までに東青梅〜名郷間を開業、1968年初めに全線開業することを目指していた。申請理由としては、秩父市が山間道路のみで隔絶されていること、武蔵野市西北部のベッドタウン形成と青梅市周辺の工業地帯形成、秩父・名栗方面の観光地と産業資源の開発に貢献、などが挙げられていた。会社の資本金は20億円、工事費総額は41億5000万円(1kmあたり6880万円)であった。工事費はその後56億3000万円まで増額された【注3】。
 新線には次のような運転計画が立てられていた。旅客輸送用の電車は55両(電動客車40両、制御客車15両)を保有し、三鷹〜御花畑間の所要時間は急行75分・普通95分、三鷹〜東青梅間は準急35分・普通45分としていた。運転間隔はラッシュ平均8分、閑散時平均15分の予定であり、2〜3両編成で運転する計画だった。なお、JR中央・青梅線の現行ダイヤで、三鷹〜東青梅間(30.6km)は「青梅特快」で40分弱かかっている。
 旅客のほか、貨物も取り扱う。電気機関車4両・貨車40両を保有、上り貨物は年間100万t以上を見込み、貨物列車は15トン積みの貨車15両編成で1日10往復する計画だった【注4】。

 コースについては、先行研究が少ない地域もあるので少し詳しく述べる。
 免許申請上の起点はJR中央線三鷹駅となっているが、プロジェクト発表時点での起点は吉祥寺であった。武州鉄道を計画していた個人事業家の滝島総一郎氏は、当時「吉祥寺名店会館」というショッピングセンターを経営しており、発表記者会見も武蔵野市役所で行った。吉祥寺駅の北側にある東急百貨店吉祥寺店が名店会館の跡地だが、もともとはこのあたりを起点に想定したと思われる。
 三鷹駅からは玉川上水南岸を北西に進み、境浄水場付近で真西に向きを変える。第1期計画の青梅までは、だいたい1km前後の間隔で駅を設置する予定だったようで、管見の限り【注5】次の位置に駅を刻むことになっていた。武蔵野市・小金井市では、武蔵境通りの桜橋交差点付近に「浄水場前」、次いで「北関野」、小金井街道の小金井橋付近に「小金井新田」。小平市に入り、日立製作所のトランジスタ研究所近くに「上鈴木」、西武国分寺線と交差する「鷹の台」。ここまで、地図に落としてみると間隔がまちまちであり、「三鷹〜御花畑間33駅」とも合わなくなるから【注6】、他にも数駅あったハズだ。線路の敷設場所は、玉川上水の南側およそ100mほどを念頭に置いていた。
 鷹の台から北西に進むと、小川三差路付近の「上宿」で青梅街道と交差し、[梅70]ともここで初めて遭遇する。西武拝島線をまたいで東大和市に入り、ここからは今の新青梅街道に沿う形で西に進む。市の東部には団地の計画があり、ここで「高木」、次いで、東大和市の中央部に「南街」または「奈良橋」、市の西部に「芋窪」を作る計画だったと思われる。市中央部では、りそな銀行東大和支店の至近に駅ができることになる。市西部の「芋窪」駅は、今でいうと多摩モノレールの上北台駅と都営村山団地を中心とするエリアである。
 東大和市を出ると武蔵村山市。同市には4駅が設置されることになっており【注7】、その駅名は原山・横田・三ツ木・岸であった。三ツ木の仮称駅名は「峰」だった可能性もある。これらの駅名は[梅70]のバス停と同じ名称ばかりであり、青梅街道に比較的近いところを通る予定だったのかもしれない。団地ができるほどまとまった土地が買収された東大和市に対し、武蔵村山市では用地買収があまり順調ではなかったという。
 「殿ヶ谷」から瑞穂町に入り、「箱根ヶ崎」ではJR八高線に接続する。この駅は、武州鉄道の重要拠点となるハズであった。武州鉄道はセメントと材木を輸送する貨物列車の運転も計画しており、国鉄線への貨車の接続を箱根ヶ崎で行うことが想定されていた。箱根ヶ崎交差点から100〜200mの地点で支線を分岐して、箱根ヶ崎駅の裏手(西側)に接続する。線路容量の関係で八高線が厳しい場合は中央線の武蔵境駅で国鉄と接続し、その場合も貨物用の支線を分岐してつなぐ構想であった。なお、武州鉄道は他線との接続に完全立体交差を予定していた。箱根ヶ崎は高さ7mの高架を作って八高線を越える計画だったが、米軍横田基地の航空機発着に影響するとの理由から、地下式に変更している。
 「長岡」「下師岡」を経て、次の「新町」から青梅市に入る。このあたりは[梅70]でいうと〔中原〕を中心とする工業団地で、青梅市東部の平地林開発にからんで武州鉄道が広範囲に土地を買収したエリアでもあった。工業団地内、〔平松〕の南側に今もある東芝の工場は、その一部が武州鉄道の用地だったとされる。

 第1期計画はJR青梅線に接続する東青梅まで。第2期計画はここから北に向きを変え、成木街道に沿って秩父に向かうものであった。複線であった線路もここから先は単線となる。
 青梅市域では、上成木行きの都営バス([梅76]系統)がコースをほぼ忠実になぞっている【注8】。東青梅から北、青梅と成木を隔てる吹上峠の手前にあたる「黒沢」駅までは、道路に並行して浅野セメントの専用線廃線跡が走っていた。また、黒沢からの吹上峠も、トンネルの付け替えにより旧道が廃道として残っている。実際に利用できたかは別として、工事費の軽減に役立ちそうな廃施設があるのは特筆される。吹上峠を越えて旧成木村の中心部を抜けると、都バスの終点・上成木から小沢(こさわ)峠にさしかかる。地名を見てみると、小沢峠は現在の峠道より西側で山越えする計画だったようだ。
 小沢峠を越えると、埼玉県名栗村(現飯能市)に入る。名栗川の西岸を北上して名栗村北部の名郷に到達し、村内には小沢・鳥居・名郷の3駅が設置される計画であった。名栗村内のコースは、当初は飯能市側の久林(くばやし)から名栗川の東岸を進むことになっていたが、地形が急峻なため、工事費を節約する目的で平坦な西岸を通すよう変更された【注9】。このコース変更により、鉄道は人家の多い部分を通過することになった。鉄道側は「小沢」駅近くにある諏訪神社の境内を通過したいとしたが、氏子の反対により神社の裏手を通るコースに変更している。「鳥居」駅は、当時あった観世音センター前、名栗川寄りにできる予定であった【注10】。飯能市役所名栗庁舎(旧名栗村役場)の300mほど南である。
 当初は第2期計画で青梅から秩父まで建設することにしていたが、その後計画を変更して第2期計画は名郷までとなった。第3期計画では、妻坂峠を越える全長5kmの大トンネルを貫通し、横瀬町根古谷を抜けて秩父に至ることになっていた。この峠は現在に至るまで自動車の通行可能な道路がない。また、横瀬町に計画されていた「武甲」駅近辺では、周辺のセメント鉱業所が西武側に付いて、武州鉄道の構想に反対していた【注11】。この区間の実現は当初から非常に困難だったと思われる。なお、秩父市東町(秩父鉄道御花畑駅付近)にできる予定だった秩父側の終点駅は、仮称駅名を「西秩父」としていたようだ。「西秩父」から「武甲」までの距離は、約6kmであった。

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 【注1】申請時点とその後で内容が異なるものは、後の内容を記した。参議院運輸委員会(1961.09.26)での岡本悟・運輸省鉄道監督局長の答弁内容が中心(国会会議録による)。
 【注2】トンネルの長さは当初構想では500mとなっていたが、標高と勾配の関係で大幅に不足する。「5km」という長さは、1969年に供用開始した西武秩父線の正丸トンネル(4811m)とほぼ同じ。
 【注3】会社側の試算。運輸審議会の試算では64億3500万円、民間試算では100億円前後とされた。
 【注4】1961年5月の公聴会では、根古谷〜箱根ヶ崎間・箱根ヶ崎〜御花畑間でそれぞれ1本ずつ運転するとしていた。
 【注5】『運輸審議会主催による西武鉄道株式会社及び武州鉄道株式会社発起人代表滝島総一郎申請事案に係る公聴会速記録』武州鉄道株式会社事務局、1960年。
 【注6】このうち東青梅〜御花畑間で13駅。
 【注7】『武蔵村山市史 通史編下巻』武蔵村山市、2003年。
 【注8】1959年2月の『青梅市広報』に、鉄道新設計画に伴う測量への協力要請が掲載されている。次の地域に向けたもの。新町・師岡・勝沼・根ヶ布・黒沢・蜆沢・坂下・八子谷・久道・滝成・所久保・梅ヶ平・高土戸・大指・井戸沢・入平・滝之上(順番・地名表記は修正)。蜆沢以降の地名は現在の成木5〜8丁目にあり、すべて消滅している。都バス上成木線のバス停には、当時の地名を残すものが複数ある。
 【注9】「六月免許説が伝えられ 山峡に鉄道ブーム」『文化新聞』(飯能市)1959.05.14。
 【注10】神社の件は名栗村文書、および「認可は遅れたが実現に自信 名栗村民待望の武州鉄道」『文化新聞』1959.08.27 による。「鳥居」駅の件は「対武州鉄道地主協議会名栗で結成」『文化新聞』1959.04.29。
 【注11】主に三菱系の鉱業所。三菱セメント(現三菱マテリアル)と西武鉄道は、武甲山の石灰石採掘をめぐって協定を結んでいた(老川慶喜『埼玉の鉄道』埼玉新聞社、1982年 による)。「根古谷」駅は「西秩父」〜「武甲」間に想定されていたか、「武甲」駅を横瀬町根古谷地区に設置する計画だったかのいずれかだが、元資料で不明確であるので本文には記載しなかった。
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2013年04月14日

2011.11.21(月)(43)成木街道の付け根、東青梅

 今日の「りそめぐ」も、いよいよ最終目標を残すのみとなった。JR青梅駅近くにある、東青梅支店青梅プラザ出張所である。バスも〔青梅駅前〕で降りればよい。次の[梅70]青梅車庫行きは、14:48発。時間は十分にある。
 この〔六万公園前〕に来るのは都営バスと西武バスの2社で、バス停のポールも2本立っている。ここに来る都バスは、[梅70]のほか、成木循環[梅74]と上成木行き[梅76]。両者とも青梅車庫方面の便があるが、こちらは旧青梅街道を走る[梅70]とは異なり、コミュニティバスのようなコース設定になっていて、JR東青梅駅南側にある青梅市役所に回り込む。このため、〔六万公園前〕の停留所は、反対側のポールにも青梅車庫行きのバスが来る。なお、青梅市にコミバスはない。導入を検討したこともあったが、断念した。広い市域の大半が過疎地でコスト高になるせいもあるが、都バスがコミバスの代わりをしているためでもある。
 成木地区は、青梅市の北部山間部、埼玉県飯能市との境界付近にある。青梅と飯能は江戸時代以来の結びつきがあって、その間に引かれた都県境は必ずしも“切れ目”になっているわけではない。都バスの[梅74]成木循環は、都営バスで唯一、東京都を出て埼玉県に乗り入れる。走る道路の都合で2停留所、距離にして1km余り越境するだけだが、このことはまさに都県境が明確な切れ目になっていないことの証拠である。とはいえ、県境を越える交通はやはり今となっては少ないのが実情のようだ。青梅から飯能市や入間市方面に行くバスは、あまり本数が多くはない。
 この停留所に西武バスはほとんど来ない。青梅市内の西武バスは、現在では東青梅駅からの飯能駅行きと、河辺駅からの入間市駅行きの2系統しかない。〔六万公園前〕に来るのはイレギュラーな便だけで、入間市からの西武バスが市街地に乗り入れていた名残である。西武はかつて奥多摩寄りの日向和田に営業所を持っており、これが廃止された後も2001年までは青梅駅まで運行していた。なお、青梅地区の都バス路線のうち、[梅76]系統(上成木方面、吉野方面)や[梅77]系統(塩船観音方面など)も元は西武バスの路線で、1975年に撤退して交通局に移管されたのだった。

 私の青梅車庫行きは、5分遅れでやって来た。5分ぐらいの遅れなら、まあ遅れたうちには入らないだろう。西武柳沢からの30km余りの道を朝から乗ったり降りたりしていると、そんな気になってくる。この日、ブログ「MEGU」では、東武伊勢崎線沿線の『めぐ記』の連載が進行中であった。この連載の「めぐ」では東武線のダイヤが乱れて20分程度の遅れが生じ、非常にストレスフルだった。そのことを思えば、電車よりダイヤが乱れやすいバスで、5分しか遅れていないのである。非常に優秀ではないだろうか。
 さて、〔六万公園前〕を出たバスは、りそな東青梅支店の西側で斜め右に向きを変えて、対面2車線の道路に乗り入れる。この筋は、いちおう「旧青梅街道」という名前がついている。消防署の横で曲がってしまったから気がつかないが、新青梅街道と合流して青梅に向かってきた青梅街道は、JR青梅線をアンダーパスする手前の東青梅三丁目で、右と左に分かれる。左へ行くのが千ヶ瀬バイパスで、右へ行くのが今合流した道である。仮に「旧青梅街道」と呼んでおくが、この言い方が必ずしも正確でないのは先に述べたとおりである。不正確を承知で書けば、〔青梅消防署前〕でいったん青梅街道からそれた[梅70]が再び(旧)青梅街道に戻ってきたことになる。
 “青梅街道”に入ると同時に、車窓の風景が少しだけ古びてきた。左側にみずほ銀行の東青梅支店(旧富士銀)が建っていて、その奥がJR東青梅駅の北口である。みずほの向かい側もそうだが、このあたりには土蔵のような石造りの建物など古い建物が散見される。北口へのアプローチ道路からかなり西に進んだと思える場所に〔東青梅駅北口〕の停留所があった。停留所の名前としては“東青梅駅北口入口”ぐらいが正確だろうが、少し長ったらしいか。なお、この停留所の少し手前で青梅街道の古い道筋が合流しており、正真正銘の旧青梅街道はここから始まったと言えそうだ【注】。
 停留所の先は、成木街道入口という交差点。信号は黄色の点滅になっていた。成木街道はこの交差点から北に向かい、一気に山に分け入って旧成木村を目指す。前述した成木方面の都バスは、市役所方面から来てこの四つ角で右折する。この交差点付近は、ここまでのバス停でいうと〔奈良橋〕とか〔横田〕あたりのたたずまいにたたずまいになんとなく似ていると思った。成木街道入口の交差点を越えたところで、また踏切にひっかかった。JR青梅線の勝沼第一踏切。本日何度目の踏切だろうか。単線の線路を、快速東京行きが通り過ぎていった。青梅線は東青梅以西では単線である。
 先日[梅70]に乗ったら、この踏切の直前で「間もなく踏切です」と注意喚起する車内放送を流していた。他の踏切でこうした放送は流れないから、青梅地域の都バスにとって青梅市の中心部はやはり特別なのであろう。ただし、この放送がこの日流れていたかどうかは、記憶が飛んでしまっている。取材メモにも残っていないのだ(この日も流れていたとは思う)。
 なお、この地「勝沼」は、SLや旧型国電などが保存されている鉄道公園があることで有名だ。国鉄の鉄道開通90周年記念事業として1962年に開設された青梅鉄道公園は、青梅線北側の高台上にある。それから、前にも述べたが、毎年8月に行われる青梅市の花火大会は[梅70]の開通を記念して始まったもの。打ち上げの場所は鉄道公園の隣の永山公園である。

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 【注】都道の起点終点とは異なる。
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2013年04月13日

2011.11.21(月)(42)続いて、東青梅支店を制覇

 保健所の北で左折してからずっと住宅地だったのだが、建物の並びは正直なものだ。一戸建て民家以外の建物が増えてきたと思ったところで、銀行の最寄り停留所にぶち当たるのである。
 〔六万公園前〕に到着した。この停留所は、目指すりそな銀行東青梅支店の真ん前にある。バスを降りたら、もう目の前が銀行建物入口の風除室であった。停留所名のネーミングライツ(命名権)を買って〔りそな銀行前〕とかいう名称にでもできそうである。ネーミングライツの売却については、鉄道の駅だと「デンタルサポート大多喜」(千葉・いすみ鉄道)のような例があるし、大阪・泉佐野市のように市名さえ売りに出されたケースもあるが、バス停の名前ならもっと簡単に実現するだろう。金になるものなら何でも売ろうというネーミングライツ売却のような策には感情的批判も多いが、[梅70]の存続のため一肌脱いでくれないかしらと少し思う(個人的にはネーミングライツよりラッピングバスを薦めたいが)。なお、現停留所名にある六万公園というのは、東青梅支店の敷地東側にある児童公園のこと。区画整理後の1963年にできたもので、由緒も何もない公園である。近所には六万薬師堂があり、この界隈の旧地名も師岡字六万といった。萩の尾・三ツ木に続き、またも薬師如来に遭遇である【注1】。
 さて、建物の前にはインターロッキングで舗装された広いスペースが広がっていて、駐輪場として考えるなら破格の面積である。通常ならここに自転車がワシャワシャと置いてありそうなものだが、銀輪の姿はなかった。東青梅の駅から若干距離があるせいかもしれない。道の向かい側に建つマンションの1階には、紅茶の専門店とか、ベーカリーとかカレー屋とか、グルメ志向の店が何軒か入っていた。ついでながら、東青梅支店の敷地はほぼ三角形をしていて、建物以外の部分は相当広大な駐車場になっている。
 さあ店の写真を撮りましょうと思ったが、3時近くなってだいぶ交通量が増えてきたようで、車が次から次へと邪魔してくれた。まず、支店の駐車場に車が右折で入ろうとしており、それを待っている車がいて遮られた。市街地寄りの信号では信号待ちの車が列をなし、大型トレーラーが目の前に立ちはだかった。それが行ったと思ったら、こんどは老人が歩道に車を乗り上げ、だらしなく停めた。車を降りた彼はそのまま支店に入っていった。ATMを使うらしい。この場に書けない言葉が心に浮かんだ。

 それでも、どうにか夾雑物のない支店の写真が撮れたので【注2】、制覇作業を行うことにした。入口は風除室が健在で、昔懐かしのガチャッと音がするタイプの手動ドアがついている【注3】。ドアノブではなく金属製パイプの取っ手が付いていて、それを押したり引いたりして開閉する。中に入ると、キャッシュコーナーは満員であった。窓口室も結構狭いという印象だったが、小平支店が異様に広かったからそう思うのだろうか。
 ATMの枠は6台分。旧あさひ店ではおなじみのパイプ形デザインで、1台1台の幅が非常に広く取ってあるタイプ。上部行灯のプレートは緑に換装済み、パイプ端頂部のキャップは赤色のままとなっていた。機械配置は、一番左が両替機、ATMが4台、一番右は空枠。りそなの青梅市を司る支店としては、ATMの台数が少ないように感じた。機械構成は富士通FV20が3台、FV10が1台。それとは別に、“げんこつ形”の富士通記帳機が機械枠の外側にある。ATMを1台外したのなら、そこに記帳機を入れれば店内が広く使えると思うのだが、どうなのだろう。その他、ロビー入金機があるのは商業の中心地にある支店らしいと思った(この支店に限らないが)。ATMの1台に取り付き、機械を操作。14:35、東青梅支店を制覇した。
 東青梅支店で、ここまでに制覇した8店の取引を通帳に記帳した。ここでの記帳は、保険をかけるという意味合いである。次の青梅プラザ出張所は、確実に窓口端末での取引となり、そのインクが万が一薄かったら悲惨なことになる。制覇記録が全部読めなくなるからだ。ここで記帳しておけば、仮に印字が薄かったとしても最後の1行だけで済む。制覇の記録に影響しない通帳に先に記帳をかけ、インクが十分に黒々と出たことを確認してから、大事な通帳をATMにかけた。

 東青梅支店の沿革については、次の青梅プラザ出張所のところでまとめて述べる。

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 【注1】六万薬師堂は六万公園内にあるわけではない。
 【注2】この日カメラのタイムスタンプが3〜4分遅れており、文章とは若干食い違っている。
 【注3】手動ドアは向かって左側のみ。
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2013年04月12日

2011.11.21(月)(41)[梅70]の第三小学校乗り入れ

 区画整理と[梅70]に関連する話題を、ここでもう1つ取り上げよう。
 [梅70]には現在、支線が〔小平駅前〕〔箱根ヶ崎駅前〕と2か所設けられている。歴史を振り返ると、支線がさらにもう1か所、青梅市内に存在した。[梅70]には、青梅街道から北に1km余り入った〔青梅第三小学校前〕に乗り入れていた時代がある。
 運転されていたのは[折返301乙][折返301丙]の2系統。乙は〔青梅〕と第三小、丙は第三小から〔箱根ヶ崎駅前〕を結んでいた。1972年1月に開設され、1974年4月に廃止されている。わずか2年余りの命であった。
 この支線系統は、青梅市立第三小学校【注1】への児童通学のために開設された。青梅市東部の区画整理と都市化が要因で、特に新町地区を対象としていた。新町の中心地である新町桜株交差点から第三小までは直線距離で1.5kmほどあって、小学生が徒歩で通うには少し遠い。
 青梅市内の小学校には、合併前の旧自治体が作った小規模な分校が1960年代まで多数あり、いずれも設備が貧弱であるなどの問題を抱えていた。第三小も今井・新町と分校を2つ持っていたが、2つの分校は1968年3月末で廃止され、通っていた児童は本校に通うことになった。しかしこの頃、青梅市の東部では大規模な区画整理の進行により人口が急増しつつあった。これが実に、分校が統合された1968年の翌年から顕著になる。第三小の児童数をみると【図表】、1968年までは800人強でほとんど変わらないのだが、翌1969年以降は毎年およそ100人ずつ増え、1972年には1200人を超えた。4年で1.5倍に増えたわけである。
 児童数の激増により、青梅市は廃止した分校を小学校新設という形で事実上復活することになった。これにより1973年4月に青梅市立新町小学校が開校する。第三小からの都バスは、新町小ができて一本立ちするまでの過渡的なものであった。運行の性質としては、通学のため本当に必要だったのは「丙」の箱根ヶ崎方面で、青梅車庫からの「乙」は出入庫だったと思われる。
 運行経路であるが、都バスの〔青梅第三小学校前〕は、豊岡街道沿い、現在運行されている西武バス入間市駅〜河辺駅線[入市32]の停留所とほぼ同じ位置にあった。入間市駅前から来た西武バスは、ここからJA西東京本店の裏を抜け、野上町2丁目のスーパー「オザムバリュー」の角で左折して河辺駅を目指す【注2】。都バスは、農協の手前にある大門の交差点で左折し、都道成木河辺線に入って青梅街道を目指したようだ。第三小から1.2km、野上の交差点で青梅街道に遭遇すると、左折してすぐに〔鈴法寺跡〕の停留所がある。ここまでの間に停留所があったかどうかは定かでないが、路線の性質からするとおそらく存在しなかったのではないだろうか。乗客(=児童)がいたのは瑞穂町との境界にあたる〔西長岡〕あたりまでで、そこから先は空気輸送だったと想像する。

 バスの運行は新町小の開校1年後の1974年4月までで、実質的には1973年度いっぱいでの廃止であった。これは、新設校に移籍したのが新町地区(新町と末広町)在住の2〜5年生のみであり、6年生は従来どおり第三小に通ったためとみられる。新町小は、開校初年度に6年生のクラスを持たなかったのだ。理由は不明だが、青梅では他の小・中学校の新設でも同様で、最上級生は新設校に行かず元の学校に引き続き通ったケースが多い。とにかく〔青梅第三小学校前〕への乗り入れは、新町小が開校した年の6年生が卒業すると同時に廃止されたことになる。
 なお、もう1つの分校があった今井方面への交通は、西武バスの路線がそのまま対応していたようだ。〔第三小学校前〕から入間市方向に5つ先にある〔今井市民センター前〕の停留所は、かつて〔今井分校〕という名前であった。図書館と体育館を併設した青梅市今井市民センターは、旧第三小今井分校の跡地に建っている。
 蛇足ながら、〔成木支所前〕までの運行だった[303]系統(今の[梅74]成木循環の前身)は、折返[301]乙・丙とほぼ同じ時期の1972年4月から〔青梅第十小学校前〕まで延長されている。バスに特別熱心な市議会議員がいた様子がないので不思議に感じるが、この頃の青梅市には小学生のために通学バスを走らせる動きがあったようだ。青梅十小は旧成木村の山間部にあった学校であるが、過疎化が進み1996年3月末で廃校となった。廃校に伴い〔青梅第十小学校前〕の停留所名は〔北小曽木〕に変更されている。

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 【注1】青梅市大門二丁目にある。旧霞村立霞小学校。1951.04町村合併により青梅市立霞小学校、1953.09青梅市立第三小学校に改称。
 【注2】現在の経路。当時の西武バスは野上町二丁目で曲がらず青梅市街地に乗り入れていた。
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2013年04月11日

2011.11.21(月)(40)“動かされた”青梅街道

 目標もあと2か所となった。次は、東青梅支店である。
 河辺支店と東青梅支店の間は、今回で最も近接しているのではないだろうか。中学生の男子に読ませたらちょっと危ない、東青梅支店の最寄り停留所〔六万公園前〕は〔河辺駅入口〕から5つ目、所要時間も5分ほどだ。

 〔河辺駅入口〕に戻ってきた。乗るべきバスは14:15発であるが、まだ来ていない。反対側の停留所には柳沢駅行きが停まって、客扱いをしている。時刻を調べてみると、〔河辺駅入口〕は上り下りどちらも14:15発で、柳沢行きも1〜2分遅れていたようだが、青梅車庫行きはもっと遅れている模様だ。いったいいつ来るのだろうか。じりじりしながら待っていると、20分になってようやくバスの姿が見えたが、1つ前の停留所に停まっているようだ。結局、青梅車庫行きは6分遅れでやって来た。
 相変わらず4車線の道路が続いているが、間もなく[梅70]には一大変化が起こる。西武柳沢駅前を出て以来、最初の300m弱を除いて青梅街道を忠実になぞり続けてきたこのバスは、いよいよこの先〔青梅消防署前〕の向こうにある交差点で右折し、青梅街道から離れてしまうのである。もっとも、JR東青梅駅近くで「旧青梅街道」に入るから、外れるといっても一瞬のことではあるが。ちなみに、ここまで走ってきた4車線の幹線道路は、南から接近してきたJR青梅線をこのままの道幅でアンダーパスし、多摩川に近い市街地の南端付近を西に走った後、町外れで突如突き当たって終わる。こちらの道は沿道の地名を採って「千ヶ瀬バイパス」と呼ばれ、計画では奥多摩寄りの裏宿町まで延びることになっている。
 さて、道の北側に消防署が見えたと思ったところで、私のバスは、相当強引な車線変更をして右折車線に入った。バスが曲がる西多摩保健所入口の交差点は、角地が茶畑になっているのが印象的だった。青梅市のネオ中心地のような河辺にも、農地があるのである。バスが実際に右折すると、こんどはネギ畑が見えた。曲がり込んだ道は対面2車線で、実線の白センターラインが引いてある。青梅街道を外れると車窓風景は純・住宅地となり、まれにマンションなどあったりするのを除けばビルはほとんどなくなって、畑だったり駐車場だけだったりする。
 東京都西多摩保健所のある〔西多摩保健所前〕を過ぎてすぐ、東青梅五丁目北で突き当たって今度は左折。こちらの道も対面2車線だが、センターラインは黄色になり、市街地ゆえ路肩には歩道が整備されている。この道は豊岡街道(都道青梅入間線)という。さっき河辺駅前で見かけた入間市駅行きの西武バスは、もっと東側(河辺駅に寄ったところ)からこの道に入って入間市駅に向かう。豊岡は埼玉県入間市の旧市街地の地名である。
 住宅地が続いているが、少し建物の密度が上がったようで、空き地などは見られなくなった。〔東青梅五丁目〕を過ぎ、次の〔東青梅三丁目〕は、公共職業安定所(ハローワーク)の最寄り停留所。このあたりから少しだけマンションが増えてきたように見えた。

 [梅70]がこのあたりで少しだけややこしい道筋をたどっているのは、このあたりの道筋が昭和30年代後半〜40年代前半の区画整理で大幅に変わったためである。
 古い地図をひもといてみると、都心方向から西に進んできた青梅街道は、青梅市街地に入る手前で大きく右→左とカーブしてクランク状になっていた。カーブの起点は〔鈴法寺跡〕と〔青梅警察署前〕の中間に位置する野上の交差点付近で、道筋は今の公社霞台第二住宅の南側をかすめて東青梅五丁目北の交差点付近まで続いていた。今の地図では、青梅街道は東青梅駅の手前まで直線的に進んでいてカーブなどもちろん見当たらないが、これは区画整理でこういう姿になったのである。野上から東青梅五丁目までの古い道筋は、現在では完全に消え去っている。
 東青梅五丁目北からは、斜めに西に向かう旧道が残っている。青梅簡易裁判所の近くで東から来る別の道と合流しているが、これは豊岡街道の旧道である。青梅を起点に考えると、東に向かってきた街道がここで東京方向と入間市方向とに分かれていたことになり、位置関係その他は前述した甲府市の山崎三差路と同様である。道が2つに分かれる場所のことを追分というが、この分岐もそう呼ばれていたようだ。1961年に刊行された『東京都交通局50年史』に掲載されているバス路線図では、[301]系統で〔鈴法寺跡〕と〔東青梅〕の間に〔追分〕という停留所が見える。年報などの記述を総合すると、停留所は二股の箱根ヶ崎寄りにあったとみられる。
 旧道は追分から西に進み、東青梅駅(北口)の西側で今の道筋に重なる。旧道筋は、普通の住宅地の道路としてはやや広いぐらいの道幅で続いている。今のように自動車交通が発達する以前は、この道幅で幹線道路として十分機能したのであろう。なお、区画整理以前に東青梅駅に北口は存在していなかったから【注1】、現〔東青梅駅北口〕は当時〔東青梅〕という名前だった。同じ場所にある西武バスの停留所は〔東青梅〕であり、都バスの停留所も位置は昔と変わっていないと思われる【注2】。
 というわけで、[梅70]が〔青梅消防署前〕のすぐ先、西多摩保健所入口の四つ角で横道に逸れていくのは、区画整理前の道筋に少しでも近づけているからである。元の道がなくなっているから、野上交差点から西側は新しい道筋をたどらざるを得ないが、消防署の角で右折すれば、少し遠回りしただけで東青梅五丁目北の四つ角に近付ける。ここから先に旧道の道筋が残ってはいるが、道幅が狭いままであり、バスの通行に便利な豊岡街道を通ることになったのだろう。結果として、保健所入口と東青梅五丁目北の2か所で折れ曲がる今のルートが誕生したわけである。この変更は1966年12月に行われた。

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 【注1】東青梅駅北口の開設は、橋上駅舎が落成した1964年3月。
 【注2】都バスには、本件とは別に成木街道上に〔東青梅〕停留所がある。筆者は、成木街道から市街地方向に直接進入する路線([梅77])を作る際に新設され、名称だけが現〔東青梅駅北口〕から譲られたものと推定する。同じ道を走る西武バスにこの停留所が存在しないこと、西武バスの〔東青梅〕が都バスの〔東青梅駅北口〕と同じ場所にあること、[梅70]がここを通る必然性がないことの3点が根拠。
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2013年04月10日

2011.11.21(月)(39)“青梅の軽井沢”河辺支店を制覇

 13:44、〔河辺駅入口〕に到着した。
 停留所の数で言うと既に4/5ぐらいは来ているが、意外なことにほぼ定時での到着であった。今乗ってきたバスは柳沢発であるから、一般道を1時間半近く走ってきて誤差がほとんどなかったことになる。奇跡に近い…と言っては言い過ぎか。でも、バスの運行は、よほど順調でも5分くらいのズレはどうしても出てくるものである。
 河辺支店はJR青梅線の河辺駅前にある。行き方は事前に予習してあるが、改めて地図で見ると、停留所から柳沢方向に50mほど戻ったところに河辺駅北入口の交差点がある。これを南にまっすぐ入ると、河辺支店は駅に向かって左側。歩いてせいぜい5分ぐらいだろう。
 河辺駅に向かう駅前通りは、河辺北大通りという名前で、青梅街道ともども2車線×2の広い道である。交差点の内部では、なかなか美人な交通整理の婦警さんが、赤い警棒を持ってホイッスルを吹こうとしていた。ロシアの美人スパイの話題がマスコミを賑わせたことがあるが、私は国家権力や宗教をバックにした美人はご遠慮申し上げたいと思う。それはともかく、角には百円ショップのキャンドゥとか、ガソリンスタンド、ラーメンの幸楽苑といった店があるものの、駅前通り沿いは基本的には住宅地であった。駅前通りに面した場所に限りだが、民家が建つには地価が高すぎるのか、駐車場など建物の建っていないところが案外目に付く。商業施設はあまり多くないけれども、再開発(というより“開発”)されて日が浅い地区としてはこんなものだろう。駅前として徒歩で入るスタイルの店もあるが、どちらかというとロードサイド型の店が多いようだった。
 駅の方から都バスがこちらに向かって来る。[梅70]とは違う青梅地区の路線バスである。後で時刻を調べたら、[梅74]成木循環(小曽木回り)だったようだ。

 河辺駅前には東急ストアが進出していて、それもかなり規模が大きい。青梅市など西多摩地区は、東急の営業エリアから少し離れている気もするが、東急ストアはあきる野市などにも店を出している。道路の東側にある「河辺とうきゅう」は、7階建てぐらいの高さを持つ巨大な建物だが、4階から上は立体駐車場だから立駐で嵩を稼いでいると言えなくもない。市立中央図書館などが入った西側の別の建物と、5階付近に架けられたガラス張りの連絡橋で直結されており、合わせて「河辺タウンビル」という再開発ビルになっている。
 進出している金融機関は、銀行についてはりそな1行だけである。かつては近所に旧第一勧銀が青梅河辺支店(頭に「青梅」がつく)を出していたが、現在では統合されている。〔河辺駅入口〕の停留所から一番近いのが西武信用金庫の河辺支店。その向こうに青梅信用金庫の河辺支店が見える。西武信金は福生市発祥で、本店が中野区にあるとはいえ準地元の金融機関である。もちろんそれを言うなら青梅信金は純・地元であり、出店に不思議はない。青梅信金の入口に掲出してあるロゴタイプは毛筆体で、けっこう古くからある店のようだ。それから、東京厚生信用組合の赤い看板が目立つ。西新宿に本店を置き、「厚生」の名にふさわしく医薬・社会福祉・環境衛生事業を中心とした業域信用組合である。信組の青梅支店は4階建ての大きな建物で、河辺にある支店らしく(?)側面の飾り壁が凝った形状をしている。建物の定礎は昭和50年3月となっていた。ATMは外にあります、という掲示に従って、外から入ってみた。キャッシュコーナーが窓口とは別仕立てになっており、狭いキャッシュコーナーの中にATMが1台だけ置かれていた。ATMができる前、キャッシュディスペンサーのはしりの頃は、各銀行ともこのような形でCD機を設置していたのではなかったか。信組の隣はSBI証券。証券会社もそれなりに合従連衡があったが、どこがどうだったかは知らない。
 駅前ロータリーまでやって来た。ひょろ長く見える円柱が高く直立して、ほぼ円形をした駅前のペデストリアンデッキ(というより歩道橋に近い)を支えている。駅前からは都バスのほか西武バスと西東京バスが出ており、目の前に停まっている西武バスの1台は扇町屋経由入間市駅行きと表示を出していた。駅前はありがちな新興住宅地の景色で、数棟の雑居ビルとマンションが見える。商業でまず目に入ったのは、セブンイレブンとレンタルビデオのゲオであった。
 ファミレスのカーサが出店している。よくよく目を凝らしてみると、カーサは西友の店先にあるのであった。さすが旧西武資本のファミレスである。西武の資本と東急の資本が両方入っている河辺は、軽井沢に少し似ている気がした。
 時計を見ると、もう2時であった。早い。あっという間である。

 りそな河辺支店は、駅前ロータリーに面したところに、大きめの建物を構えている。外壁には巨大な正方形の板看板が付いている。りそな初期の頃のデザインだと思うが、デザインにウエーブを使い、彩色も緑だけでなくオレンジ色も使っていて、なかなかハイセンスである。りそなの看板類や印刷物は、最近は緑一色にしてしまったものが多いが、せっかくサブカラーとしてオレンジが制定されているのだから、もう少し多用してもいいと思う。私は、りそなの緑とオレンジというシンボルカラーは、浦和を通るJR高崎線の色だと勝手に思っている。
 支店の建物はもともと単独で使う建物として建ったと思うが、現在では2階を賃貸に出しており、前述の看板にも支店は《1F》と書いてある。駅側に目を転ずると、建物の横を線路沿いにずっと走る道があって、その向かい側にみずほ銀がキャッシュコーナーの独立小屋を出している。母店は旧富士銀の東青梅支店。前述のとおり旧第一勧銀は河辺に支店を出していた。
 支店の入口には、自動ドアの外側に風除けが付いている。これはもともと風除室ではないだろうか。出っ張るような形で付いていた風除「室」の部分からドアを取り去って風をよける壁だけとし、その内側に自動ドアが1枚あるだけ、という形にしている。入口に風除室のないスタイルは村山支店もそうだったが、多摩地区の北部では入口の風除室を撤去する実験でもやったのだろうか。
 その自動ドアを入ると、正方形に近い形をしたキャッシュコーナーの部屋。けっこう広々としている。自動ドアを入った真正面にATMが並んでおり、機械の並びが弓のようにゆるやかなカーブを描いた形になっているのが、旧あさひ銀行のある時期のセンスである。10台分ある機械の枠には、全ての枠に機械が入っていた。枠の番号で1番から5番までは、沖電気のATM21B。6番が富士通FV20、7番が沖電気バンキット、8・9番が21Bと、ATMは全部で9台あった。沖電気のATMがたくさん並んでいる中に富士通の(当時の)最新型が1台だけ混じっているという姿は、2010年頃から首都圏の旧あさひ店舗で普通にみられるようになった。10番の枠には両替機が入り、別にロビーに富士通の“ゲンコツ形”記帳機があった。機械枠のデザインはあさひパイプデザインで、ATMの幅よりほんのわずか広い程度(中程度)の幅。パイプ先端部のキャップは赤のまま、機械上部の行灯のプレートは緑色のものに変えてあった。
 ATMが9台あるのは、りそなの支店として「非常に多い」部類に属するが、それでも(大きめの建物とはいえ)支店のスペースが1階だけで十分というのは、個人客で混雑するけれども重要な決定事項などはあまりない支店なのかもしれない。ちなみにこの支店はATMを朝7時から夜11時まで稼働している。ATMの23時閉店は、今日回った中ではここと田無支店だけで、他は21時までの営業となる。14:04、河辺支店を制覇した。

 河辺支店は、埼玉銀行河辺支店として1980年6月に開設された。この支店は、今回めぐる9店の中で、沿革の記述が最も簡潔である。

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2013年04月09日

2011.11.21(月)(38)ついに青梅市に突入

 〔西長岡〕の停留所は、瑞穂町と青梅市とのちょうど境目にある。ついに、今回の「旅」で最終自治体となる、青梅市に入ったのであった。
 なぜかわからないが、バスは瑞穂町を出ると同時に急にスピードを上げた。妙なもので、青梅市に入った途端、バスのスピードだけでなく、沿道の人工的構造物の密度も急に上がったように感じられた。ロードサイド型の店舗が急に増えたのと、高層(というか横に長い)マンションが見られるようになってきた。同じ青梅街道でも、瑞穂と青梅では随分違うなと思った。マンションは敷地面積が非常に大きいようで、大きな壁面がそそり立っているように見える。こうしたロードサイド特有の景色は、ここまでの新青梅街道沿いには色々あったのかもしれない。それを特に強く感じるのは、そういうものが多くなかった青梅街道の旧道を通ってきたせいだろう。
 〔中原〕で西東京バスの停留所を見た。羽村駅東口行き。〔中原〕からこの先〔霞町新町〕までのあたりは、JR青梅線の羽村駅(羽村市)または小作駅(おざく、同)との結びつきがある。〔中原〕を中心に青梅・羽村・福生の3市にまたがるエリアは、首都圏整備法という法律に基づき1962年から工業団地として開発された地区。〔中原〕は工業団地の中心地にあたり、[梅70]の停留所別乗降客数をみると、施設の停留所(駅や病院など)以外としては上位にある【注1】。東大和市の中心地〔南街通り〕に並ぶほど乗降客が多いのだ。
 次の〔畜産試験場前〕で見かけたマクドナルドの敷地内には、《パーティーバス》と称して、ロンドンの赤い2階建てバスがドンと置いてあった。こういうものがある店を利用したことがないのだが、あのバスは何のためにあるのだろう。アメリカナイズされた食生活の象徴のようなマクドの店先にロンドンバス、というのも妙な話だが、アメリカ人が潜在的にイギリスに対してコンプレックスを持つことを象徴しているのだろうか。畜産試験場というのは、青梅街道の北側500mほどの場所にある畜産の研究機関で、2005年に財団法人に移管されるまでは東京都の施設だった。ここで開発された「TOKYO X」という豚の肉は、幻の豚肉として人気を博しているそうだ。マクドの主要食材は豚ではなくて牛だが、どんな牛肉を使っているのだろうと思わないでもない。
 青梅新町交差点のそばにある〔平松〕を通過。このあたりから、江戸時代初期に「新町村」として新田開発が行われたエリアに入る。江戸幕府開幕直後に岩蔵街道経由だった「成木往還」は、この地域が開発されたことでコースが変わって東青梅経由となり、現在の青梅街道と同じ道筋になった。〔平松〕付近でもマンションがドカドカと建ち始めており、角にはファミレスのサイゼリヤが出店していた。〔平松〕のある青梅新町の交差点から南に入ると、小作駅の東側に行き着く。バスの路線図(他社線も出ているもの)を見る限り、羽村市の中心は羽村駅ではなく小作駅のようだ。小作駅前にはりそな(福生支店)が店舗外ATMを出しており、またかつては北海道拓殖銀行の支店もあった。
 〔平松〕で思い出したが、間もなく大阪市長選挙が行われる。りそなのウオッチャーとしては選挙結果が非常に気になるところだ【注2】。平松邦夫・大阪市長の任期満了に合わせ、橋下徹・大阪府知事が知事職を辞して市長選に出馬、市長選と府知事選のダブル選挙となった。政治の話に深入りする気はないし、私自身の主義・主張とも全く関係ないのだが、私はこの時点で橋下氏が当選するだろうと思っていた。攻められる側だった平松氏は明らかに後手に回っていたからである。

 〔新町小学校入口〕の次が〔霞町新町〕(かすみちょうしんまち)。「町」が2つも付いてにぎやかだが、[梅70]が[301]として開通した当初は〔霞村新町〕という停留所名だった。1951年の合併で青梅市が発足するまで、このあたりは西多摩郡霞村といったのである。村のままでは不適切だから「町」に変えたのだろうが、旧霞村が地名として「霞町」になったことはない。
 停留所そばの新町桜株交差点は、新町村を開拓した庄屋の吉野織部之助(吉野家)をしのんで株立ちの吉野桜【注3】を植えたのが始まりであるという。古い地図では、ここは五差路になっている。入間市宮寺を通って所沢に至る都/県道が出ていたが、近年の区画整理で四つ角に改造されてしまった。北西角は区画整理完成を記念して桜の大木が植わった公園として整備されている。なお、りそなのウオッチャーとして、交差点の北に店舗外ATM[バリュー新町店](東青梅支店)があることには触れておく。青梅市内にある旧あさひの店舗外ATMは、機械枠を3台分備えた大型の独立小屋が多く、ここもその1つである。
 〔霞町新町〕から、新町村のかつての中心地として、江戸時代初期に由来する文物が続く。停留所先の右側に、鐘つき堂のある本格的な風情のお寺が見えた。この時期は落ち葉が大変そうで、昔NET(現テレビ朝日)でやっていたアニメ『一休さん』が思い出される。私はこの寺を、ちょうどその時車内放送でアナウンスされていた〔新町天神社前〕の天神社と勘違いしてしまい、どう見ても(神社ではなく)寺ではないかと思って、執筆過程で首をひねっていた。この寺は東禅寺という。新町天神社はもう少し西側、「御嶽神社入口」の交差点を入った奥にある。御嶽神社と同じ敷地、というより、御嶽神社の敷地内には4つの神社が同居していて、天神社はその一つである【注4】。後日行ってみると御嶽神社がメインとしか思えなかったのだが、あえて「天神社」を停留所名に採った理由は知らない。
 御嶽神社入口交差点の真下を高速道路(圏央道)が通っているが、バスからは何も見えないし感じない。さらに進むと、右側の車窓に見事なかやぶき屋根の建物が見えた。旧吉野家住宅という文化財だが、庄屋の家を保存しているにしては、周囲に土蔵や動物小屋などの付属施設も見えず殺風景に感じた。
 その先には〔鈴法寺跡〕(れいほうじあと)がある。これは何なのだろう。停留所前の交差点は「鈴法寺跡前」というのだが、“跡”の“前”とは。後で調べてみると、ここは廃寺となった寺の跡だそうだ。新町村を開く際に吉野織部之助が土地を提供して開かれたもの。普化宗(ふけしゅう)という宗派の総本山だったが、明治初期の廃仏毀釈により宗派そのものが結社禁止となった。尺八を吹く虚無僧をテレビの時代劇で見た記憶があるが、この宗派の代表的なコスチュームだったそうである。なお、瑞穂町の手前で漢字1文字の停留所の話を書いたけれども、ここ〔鈴法寺跡〕は「れ」で始まる都営バス唯一の停留所となっている。
 歩道橋があって、《青梅警察署前》と書かれている。青梅署は街道から少し奥に入ったところにある。ここまで来ると、前方のはるか彼方に高い山の連なりが見えてきた。東京・埼玉・山梨の県境付近の山々であるのは間違いないと思う。いよいよ青梅の町に本格的に入ってきたのであった。警察署前の歩道橋に、青梅市と青梅警察署長による横断幕が出ている。12月4日に駅伝のため青梅街道が通行止めになるとあった。12月4日は2週間後の日曜日。なお、有名な「青梅マラソン」は例年2月の開催であり、また別のイベントである。
 〔青梅警察署前〕で小平行きとすれ違い、その次が〔河辺駅入口〕。とうとう私はここでバスを降りる。河辺駅が近づくと、商業の集積度はますます上がってきたようだ。ラーメンの「幸楽苑」とケンタッキーフライドチキンの看板が目に入った。

 以上、瑞穂松原からしばらくは、率直に言うと[梅70]の中で最も興味を催しにくい区間である。ここの記述は、それなりに見所もあった割に、機関銃のようにネタを畳み掛けるだけで終わってしまった。

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 【注1】『第5回青梅市公共交通協議会 資料5 バス系統別利用状況』による(青梅市webサイトより)。
 【注2】1週間後の11月27日に投開票が行われた大阪市長選挙では、橋下徹氏が20万票以上の大差をつけて平松邦夫氏を破り、当選した。ただし、平松氏は自身が前回当選した際の得票数を15万票以上上回る票を獲得している。
 【注3】「吉野桜」とされるのは奈良県の吉野に多いヤマザクラであり、ソメイヨシノとは異なる。株立ちは樹木において根元から複数の茎が分かれて立ち上がっているもの。
 【注4】御嶽神社、塩釜神社、天神社、水神社の4つ。
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2013年04月08日

2011.11.21(月)(37)新青梅街道と合流

 岩蔵街道の分岐点は、かつて宗安塚と呼ばれたらしい。ここで柳沢行きとすれ違った。対面2車線の街道は相変わらずだが、道路の周辺を見回してみると、左に家具店「ニトリ」やらパチンコ店やらの大型店舗が見えたり、歩道が整備されたりなど、郊外の要素が少し現れてきた。分岐のあたりもセットバックされており、車の流れを見ると箱根ヶ崎の町の方から岩蔵街道方面に曲がっていく車ばかりだから、この三差路ももしかすると東大和市南街のように青梅街道「が」分岐する形に改造されてしまうのかもしれない。
 このあたりでは、本格的な茶畑の存在が目を引く。お茶の木がうねうねと植えられた茶畑の中に、先端部にプロペラが取り付けられた電柱が数本、にょきにょきと立っているのが見える。瑞穂町から青梅にかけてのエリアは、「狭山茶」として古くから知られる茶の産地である。狭山茶の発祥は埼玉県入間市の宮寺というところだが、主要産地としては東京都のこのあたりも含まれる。というより、発祥地の宮寺を含むこの辺一帯が産地なのである。プロペラは、地表付近の温度が下がって霜が降(お)りそうな時に回すもの。数m上がった上空は地表スレスレの部分より気温が高いため、寒冷な日にはプロペラを回して高いところの空気をお茶の木に吹きかけ、霜が降りるのを防いでいる。

 茶畑の先にある瑞穂松原の交差点、というか実質的にはT字路であるが、そこで大きな道路に突き当たった。新青梅街道である。田無本町の交差点で別れ、奈良橋庚申塚で1回交差した新青梅街道と、数時間ぶりに再び一緒になったわけである。道としては大きな道に突き当たって右折で進入するのだが、道路の名前としてはここから西側も引き続き「青梅街道」であって、新青梅街道はここ瑞穂松原で終わる。ここから西は、青梅街道の拡幅と同時に大規模な区画整理が行われたエリアである。
 交差点の右側には、またもやサブリースの賃貸住宅が建っていた。小平消防署前で見たのと同じ会社の建物。こういう建物でも、先祖伝来の土地に建てれば土地の「活用」にはなるのだろう。新青梅街道の東京寄りには、看板に《中古事務機器・家具》と大書した店が見える。業務用冷蔵庫などの中古品を、閉店・撤退した店から買い取って売っているようだ。こういう業種は、倉庫のような大面積の店舗が必要だし、トラック運搬が不可欠だから、大きな道路沿いで土地の安いところでないと成立しないのだろう。ここは青梅街道だけでなく、東京30キロ圏をぐるりと回る国道16号からも近いという特性がある。
 思えば、国道16号は時代によってその評価を大きく変えた道路であった。バブル期にはこの道を見れば「日本がわかる」と言われてもてはやされ、長期不況の時代には一転して、没個性的な郊外の象徴として批判の矢面に立たされた。とはいえ、首都圏の環状線として重要な役割を担っているのは変わらないだろう。16号沿いをめぐる体験記でもそのうち書いてみようか。銀行めぐりは難しそうだが。

 どんより曇ってきたようだ。雲の切れ目は真っ青なのだが、少し厚い雲が垂れ込めてきた感じがする。新青梅街道と合流したので、ここから先は片側2車線×2の4車線という大幹線道路になった。合流してすぐに〔松原〕の停留所があり、ほどなく箱根ヶ崎西の交差点を通過。ここが、国道16号瑞穂バイパスとの交差点である。大きな幹線道路同士が立体交差する十字路だが、周辺には小規模な店舗がパラパラとみられるばかり。平屋建てのマクドナルドが角にあるのをはじめ、ファミレスのびっくりドンキーとか、生鮮食品の安売り王といった店が建つ。1960年代の軽自動車、マツダキャロルとかダイハツミゼットとかを保存しているらしい建物が左側にちらっと見えたけれども、通り過ぎただけだ。とにかく、人の集まりそうな施設はあまりなくて、畑ばかりである。
 瑞穂二小前の信号で信号待ち。柿がたわわに実った木が何本もあった。鳥に食われずたわわに実っているということは、渋柿なのだろうか。バス停は〔東長岡〕〔長岡〕と続く。ちょっとした住宅団地のように見えるところも部分的にある。団地というより、農村地帯の集落が宅地化されたような印象で、時代的には1965年から70年代ぐらいの住宅地と見える。広い庭に樹木が多数生えた、農家の古い邸宅の名残を残す家も、そこここにみられる。このあたりは純然たる新規開発の郊外とは若干異なる風景かもしれない。

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2013年04月07日

2011.11.21(月)(36)青梅街道という道

 瑞穂町の中心商業地区は、しもた屋ばかりのようだ。日光街道の交差点を越えた先に〔箱根ヶ崎〕の停留所。そのすぐ先には、青梅街道と東京環状(国道16号線の旧道)が交差する、箱根ヶ崎の交差点がある。この四つ角は[梅70]にはチェックポイントとなる。基本的にはここをまっすぐ進むのだが、1日に3本だけ【注】、この交差点で左折してJR箱根ヶ崎駅に乗り入れる区間便(箱根ヶ崎駅止まり)があるのだ。通常の[梅70]では、交差点を直進した先にある〔箱根ヶ崎三丁目〕が、駅の最寄り停留所である。南北に走る東京環状では、セットバックも終わり、道路の拡幅工事が進みつつあるようだ。
 さらに西へ進む。かつて〔国道十字路〕という名称だった〔箱根ヶ崎三丁目〕を過ぎて間もなく、本日4回目となる踏切に遭遇した。八王子市と群馬県高崎市とを結ぶ、JR八高線である。今日はよくよく踏切に縁があるらしく、ここ八高線でも踏切に引っかかった。本数の少ない八高線で踏切待ちとは、ツイているのかいないのか。いずれにしてもかなりの確率である。踏切はバスが停まっている場所からは相当な前方で、踏切待ちの車列も非常に長く続いていた。はるか彼方を行く電車は、京浜東北線のお下がり209系だろうか。
 バスが線路を渡る際、左の車窓から奥の方を凝視したら、箱根ヶ崎駅が見えた。知らないうちに橋上駅舎に改築されているようだった。箱根ヶ崎には、JRが中央線の車両基地を作る構想もあるそうだ。

 踏切すぐ先の信号で、北に向かう道路を分岐する。箱根ヶ崎と岩蔵温泉(青梅市)とを結ぶ都道瑞穂富岡線、通称を岩蔵街道という。何の変哲もない田舎道であるが、実は青梅街道のルーツをたどるうえでは重要な道路である。この道は、青梅街道(の前身である成木往還)の原初的なコースであった。
 これまで青梅街道という道について述べる機会がなかったから、ここで書いておこう。青梅街道は、石灰を運搬する道路として始まった。当初は青梅市の北部山間部にある石灰産地の成木(なりき)を起点にしており、成木起点ゆえ当初は成木往還と呼ばれていた。1611(慶長11)年に開かれた成木往還は、耐火建築の材料となる漆喰(しっくい)の原料となる石灰を、御用石灰として江戸に搬入する道であった。徳川家康が江戸幕府を開幕すると、江戸城の改修のため漆喰が大量に必要となったのである。岩蔵街道は成木から江戸までの最短経路であったが、成木からの石灰輸送がさびれたことと、各地で新田開発が進んだため、ルートとしてもすたれていった。成木往還は青梅を拠点とした「青梅街道」に性格を変え、経路も何か所かで変遷した。東大和市駅前のところで紹介した桜街道も、移動した旧道筋の一つである。桜街道がすたれたのは、成木から江戸までの最短経路であるものの、沿道に集落が全くなかったためであった。
 青梅街道はまた、青梅の奥へ入って甲斐国とつながることで、甲州街道の裏街道としても機能した。幕府に定められた官道ではなかったが、甲州街道より2里短く、また参勤交代も関所もなかったため、気安い街道として庶民に親しまれた。石灰とは逆のコースをたどってみると、都心から青梅街道に至る古い道筋のうち、JR四ツ谷駅から西では、地下鉄丸ノ内線の走るコースが荻窪までそのまま該当している。街道としては、青梅街道は新宿追分(現新宿三丁目交差点)で甲州街道から分離して始まる。新宿三丁目角の伊勢丹から西に向かって歩いてくると、車道は線路に突き当たって右に曲げられてしまうが、目を凝らすと直進方向に進む歩行者専用道がJRの線路をアンダーパスしている。西口に抜けると、小田急ハルクの裏を通って損保ジャパン本社の東側で車道に合流し、あとは荻窪を抜けて西東京市柳沢に至る。西武柳沢駅前からは[梅70]の経路として縷々述べてきたとおりである。
 青梅から先は、奥多摩町を抜けて山梨県に入る。小河内ダムの上流部、東京都水道局が水源涵養林を持っている丹波山村を抜け、甲州市に入って柳沢(やなぎさわ)峠から塩山(甲州市)の町に出る。ここからはJR中央本線に沿って甲府市を目指すが、塩山から日下部(山梨市)、石和(笛吹市)を経て甲府市に至る道筋は、今となっては明瞭でなくなっている。ともあれ、中央線酒折駅の東側、山梨学院大学そばにある山崎三差路で、南から来た甲州街道に吸収されて青梅街道は終わる。

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 【注】日曜・祝日は運休。
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2013年04月06日

2011.11.21(月)(35)埼銀の名古屋進出

 1943年7月に4つの銀行が合併して発足した埼玉銀行は、1949年4月に事業家肌の平沼弥太郎氏【注1】が頭取に就任すると、積極的な経営に転じた。やり手で知られていた平沼頭取は拡大政策を採り、新規出店も埼玉県を飛び出してのものが多くなる。1953年3月に大阪支店を出店した埼銀にとって、次なる目標は名古屋であった。埼銀は名古屋進出にあたり、財界に強い影響力を持つトヨタ自動車にわたりをつけてバックアップしてもらおうとした【注2】。
 1956年3月、埼銀はまず名古屋事務所を設置する。ここで注目されるのは、埼銀の事務所設置とほぼ時を同じくして、平沼頭取の子息がトヨタ車の新車ディーラーを埼玉県内で創業したことである。二男の平沼康彦氏【注3】は1956年4月、北足立郡与野町(現さいたま市中央区)に「埼玉トヨペット販売」を設立した。現在の埼玉トヨペットである。康彦氏はかねて弥太郎氏の個人秘書として埼銀に出入りしていたが、1955年12月頃に父親から《トヨタの車の販売店をやれ》と命じられた。拒否したものの最終的には《父親や銀行の専務なんかに囲まれて迫られ、どうしてもやらざるを得なくなった》と自伝で述べている【注4】。埼銀の意向が強かったことがうかがえる。
 当時の状況は、「トヨペット」各社の営業開始日を見ると明瞭になる【表】。原則各県1社あるトヨペットは、(先行開業していた東京を除き)第1号の名古屋トヨペットが1956年3月に設立され、関東地区では11月に全県への設置が完了、翌57年6月の島根トヨペット開業をもって全国51社(除沖縄)が出揃った。この時期のトヨタ自動車販売【注5】にとって、トヨペット店の早期展開完遂は至上命題であった。康彦氏がディーラーを始めることになったのは、埼銀とトヨタの利害が一致したのだろう。
 埼銀の名古屋事務所は、2年の準備期間を経て、1958年3月27日に名古屋支店に昇格した。この日は瑞穂支店が村山支店に統合された日でもあった。自動車は裾野の広い産業であり、埼銀がトヨタおよび名古屋と関係を深めることは、埼玉県を中心とした埼銀の取引先にも大きな経済効果をもたらしたに違いない。その意味で、埼銀の名古屋進出は時宜にかなった方針ではあったのだが、それが瑞穂支店の廃店と交換になったところが瑞穂町にとっての悲哀であった。

 ここで少し脱線して、トヨタ系新車ディーラー「トヨペット店」の歴史をひも解いておこう。
 今のような各メーカーごとの販売店系列は、戦前にも存在した【注6】。もともとアメリカで主流だった販売方式である。太平洋戦争が始まると、自動車販売店は戦時統合により各県1社となった。メーカー毎の販社系列は戦後復活したが、その際各県に1社あった統合会社(○○県自動車配給梶℃ゥ配)は取り合いになった。トヨタは各地の自配を先行して傘下に収め、まず現在の「トヨタ店」系列を立ち上げた。ところが、関東地区では茨城県を除き自配が獲得できず、とりわけ東京都では自前でディーラーを育てる方針を採ったため、トヨタは最大マーケットである東京において販売力が弱かった【注7】。テコ入れのため、1953年にメーカー直営のディーラーとして(すでにあった東京トヨタとは別に)東京トヨペットを設立。トヨタはこの時点では複数系列を全国展開する気はなかったが、直後に小型トラック「SKB」の売れ行き不振で転換を迫られ、新系列の全国導入が決まったのである。
 新系列トヨペットは、1956年4月から18地区での営業開始が予定されていたが、この当時は自動車販売に食指を動かす人が各県にいるとは限らず、すんなり進行したわけではなかった。当初予定の4月にスタートできたのは、東京を除けば8府県8社だけである【注8】。埼玉トヨペットはこの中に含まれており、康彦氏の自伝にも1956年4月の開業を強く迫られた記述がある。
 急ピッチで開業した各地のトヨペットは、自動車販売業や運輸業など、もともと自動車と関連の深い業界の関係者(ないし関係企業)が立ち上げた会社が多い。既存のディーラーが傘下に入って商号変更したり、過去にディーラーに勤務していた人物が起業したりといったケースである。私の目を引いたのは、それ以外に銀行の勧誘で始めたケースが若干みられたことであった。たとえば、京都トヨペットの創業者・西村常三氏は地元の実業家で、当時の三井銀行河原町支店長から自動車販売業の経営を打診されて同社を創業している。三井銀行は、東海銀行とともにトヨタの主要取引銀行であった。西村氏は当時、新しい事業に進出したいと三井銀にあっせんを頼んでいたという。
 銀行頭取の子息が設立した埼玉トヨペットは、この系譜とみることができるだろう。トヨタ自販は、既にあった系列ディーラー(トヨタ店)や取引銀行など、持てるコネクションを総動員して、各地の有力者を中心にトヨペット店設立の話を持ち掛けた。トヨタと関係を深めようとしていた埼玉銀行は、埼玉トヨペットがトヨタの筋書きどおりに開業できて、さぞかし株を上げたに違いなかった。
 なお、トヨペット店新設で中部地区以西の責任者だった人物の回顧【注9】によると、新社の展開は、うまくいった地域といかなかった地域があった。戦後、GHQの指示で行われた農地改革により農村地主階級が没落したが、山林地主には「山林改革」も次いで行われるとの危機感が強くあり、そうなる前に新しい事業に参入したいとの意欲を持っていた。こうした人に出会った地区では適切な人材が比較的容易に得られ、そうでない地区は《なかなか苦労した》。平沼家は埼玉県西部の名栗村で何代にもわたって林業を営んできた家であり、弥太郎氏も同様の危機感を持っていたのだろう。埼玉トヨペットの設立は、埼銀がトヨタとの関係を深めること以外に、こういった平沼家固有の動機もあったと思われる。

 先人が苦労して開設した埼銀の名古屋支店であったが、協和銀行との合併に伴い名古屋桜通支店と名前を変えた。合併後の1993年11月に名古屋支店(旧協和銀)に統合されている。跡地では店舗外ATMを稼働していたが、それも2001年7月に廃止された。

35_Toyopet.jpg

 【注1】平沼弥太郎(ひらぬま・やたろう)氏:埼玉銀行第4代頭取。1892.06.12生、埼玉県入間郡名栗村(現飯能市)出身。1912年京華中卒、1932年2月(第2次)飯能銀行会長。1937年5月合併により退任、1942年1月(第3次)飯能銀行取締役、1943年1月会長。1943年7月合併により埼玉銀行取締役、1949年4月頭取。1961年11月退任。1985.08.12死去。名栗村長、埼玉県議会議員、参議院議員も務めた。なお、飯能銀行と平沼弥太郎氏については、以下も参照のこと。当ブログ2008.02.04掲載「2007.11.14(水)(15)西武池袋線が「西武線」になった理由」。
 【注2】当時埼銀常務だった長島恭助氏の自伝による。『遺稿 新・わたしの人生ノート』私家本、1993年。
 【注3】平沼康彦(ひらぬま・やすひこ)氏:平沼弥太郎氏の二男。1920.09.20生、名栗村出身、1943年東京農業大学卒。従軍、家業従事(林業)を経て、1956年4月埼玉トヨペット販売梶i現埼玉トヨペット梶j創業、代表取締役社長。1989年6月代表取締役会長、2010年6月取締役名誉会長。
 【注4】平沼康彦『私の人生ノート』埼玉新聞社、2006年。なお、埼銀の専務取締役は1958年に長島恭助氏が就任するまで空席であり、康彦氏の自伝にある《専務》は長島氏を指していると思われる。
 【注5】当時はトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の2法人に分かれていた。1982年7月合併しトヨタ自動車となる。
 【注6】戦時統合以前には、トヨタ・日産・ヂーゼル(現いすゞ自動車)の3系統があった。
 【注7】東京の自配はトヨタが獲得せず、日産の販社(東京日産自動車販売)となった。戦前トヨタ陣営に属していた人物が、戦時中の動向によりトヨタから退けられたケースがあるという。
 【注8】トヨタ社史の記述は【表】と若干異なる。扱い車種が異なった大阪を除き、トヨペット社設立前から既存ディーラーが代理店となっていた千葉を含めているため。
 【注9】元トヨタ自動車販売副会長の大西四郎氏。『モータリゼーションとともに』トヨタ自動車販売、1970年。

 【2013.04.07_11:46追記】平沼弥太郎氏の略歴で、体裁が不揃いであった部分を修正しました。
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