2015年03月31日

2013.06.20(木)(29)[93]最後の目標・歌島橋へ

 〔歌島一丁目〕まで戻ってきた。
 雨は相変わらず降り続いている。屋根の下でバスを待っていると、数人の女子高生が通り過ぎた。大阪は妙というのか個性的というのかよくわからないところである。関西エリアでは女子高生のスカートの丈が長いのが最近のトレンドだが、今行ったのはしっかりミニスカートで、ルーズソックスを履いている者までいた。いつの流行だよ、と思った。私が塾に在職していた頃、確か2002年の前半だったと思うが、塾にルーズソックスを履いてくる小3の女児がいて、それを別の女児から流行遅れだとからかわれ、他にもいろいろあって退塾してしまった。2002年当時で既に下火の流行だったのである【注1】。
 12分になったが、バスはまだ来ない。夕方になり、そろそろ遅れが出てきたのだろうか。市バスの代わりに、幼稚園の送迎バスが来た。何だこれは。マイクロバスの前頭部を『ポケットモンスター』の「ピカチュウ」の形にしてあり、もちろん車体全体は黄色に塗ってある。俺が待っているのはあれじゃないよな、と一瞬思ってしまったが、幼稚園バス以外には使い道がないだろうに、メーカーもよくあんな車を製造しているものだ。前回[梅70]の連載でも、息せき切って歩いて来た私をバス停で待ち構えるピカチュウの椅子が哀愁を誘っていたが、「めぐ記」とピカチュウは不思議な縁がある。しかしこれも間もなく『妖怪ウォッチ』のジバニャンに取って代わられてしまうのだろうか。
 ピカチュウはそのまま走り去って行った。そして、来た。私が乗る12分発のバス。12分発が14分に来たのは、まあまあ優秀なのではないかと思う。

 さっき塚本の高架をくぐったときに西淀川区に入ってはいたが、ここからが本格的に西淀川区内の道ということになる。街並みは、淀川区とは多少違うように思う。目に見えるビルの数が少し減って、庶民的になった感じがした。
 上新庄で淀川通が始まって以来、多少の曲折はあれこの道をひたすら進んできた[93]だが、間もなく路線には一大変化が起こる。〔歌島二丁目〕の先で右折して裏道に入り込むのである。市バスの路線図を見ると、淀川通を外れて裏道を走り、南北に走る別の幹線道路(御幣島筋)に入って、終点の〔歌島橋バスターミナル〕には北側からアプローチするようだ。
 野里二丁目の交差点には、三菱ふそうトラック・バスの営業所(近畿ふそう)と、大阪信用金庫の西淀支店(西淀川支店ではなく)がある。大信の西淀支店は1963年の開設で、2002年に経営蹉跌した相互信用金庫(本店阿倍野区)の支店だった。この四つ角で、バスは右折する。現在、淀川通から歌島橋バスターミナルに行くバスは、必ずこの交差点で右に曲がる【注2】。かつて井高野から〔福町〕まで行っていた[93C]は、BTを通らなかったから、この交差点も直進していた。ここでの右折ルートは1981年の歌島橋BT開設に伴うものと思われるが、[93C]なき今、ここをまっすぐ行くバスは存在しない。
 さて、片側2車線の太い道から、対面2車線黄色センターラインの道に入ると、とたんに車窓風景は高層アパートが建ち並ぶ団地に変貌した。これは大阪府営歌島住宅で、7〜8階建てのアパートが、見える範囲だけで7〜8棟建っている。府営アパートの前に〔北之町公園前〕の停留所があった。近所に停留所名となった公園があるのを確認し、まもなく大きな川を渡る。正確に言うと、淀川ほどの大河川ではないがそこそこ大きな川の「跡」である。淀川の支流で大野川という川だったが、現在は埋め立てられて遊歩道になっている。この通りは「みの橋通り」という。今渡ったのがその「みの橋」で、漢字を当てると「御野橋」らしい。
 みの橋から遠くに、グリコのロゴマークがチラッと見えた。そこを過ぎると、住宅地とも商店街ともつかないところを抜ける。サブリースのアパートがあったり、建ぺい率いっぱいに建てた3階建ての鉛筆家屋があったりするが、概して古びた建物が多いようである。コンビニのある四つ角の先に〔西淀川消防署前〕があり、すぐ先に小さな消防署があった。ほどなく、2車線×2の中央分離帯つきの大幹線道路に遭遇し、御幣島二丁目の交差点で左に曲がった。信号が全赤になって歩行者用が縦横両方青になるが、スクランブル交差点ではないという、変わった運用の仕方をしている。角にはスーパーマルハチと、今日だけでも何度か見ているエディオン。銀行めぐりをやっていると、その土地の中堅スーパーにお目にかかる機会が多くなるが、マルハチというスーパーは初めて見たと思う。神戸市灘区に本社を置き、店舗の大半が兵庫県にあるようだ。

 幹線道路は御幣島筋といい、この下をJR東西線が通っている。〔御幣島二丁目〕は四国高松発祥の書店チェーンである宮脇書店(西淀川店)の前にあった【注3】。そして、バスは御幣島筋に入った途端、遅々として進まなくなった。とにかく大渋滞しているのである。終点・歌島橋バスターミナルの先にある歌島橋の交差点は、バスターミナルのはるか先、というのかはるか手前というのか、いずれにしても相当遠いところまで車の列が続くほど、信号で団子になる。平面交差の五差路だから当然といえば当然なのだが、大阪でも主要渋滞ポイントの一つに挙げられるそうだ。
 ともあれ、わが目的地の歌島橋バスターミナルは、いよいよ目前である。バスターミナルは御幣島筋の西側にあり、ということは、いま北側からアプローチしているのだから、4車線の道路から交差点でもない場所で右折してターミナルに乗り入れることになる。こんな太い道から右折で入るという構造は、けっこう無理があるのではないか、と少し思った。

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 【注1】最近になってルーズソックスがリバイバルの兆しを見せているそうだ。
 【注2】2014年4月のダイヤ改正で、淀川通を西進する2つの系統を直進と右折とに振り分け、直進経路が復活した。[92]福町行きが右折しての〔北之町公園前〕経由、[42]中島二丁目行きが〔歌島二丁目〕方面の直進経路。
 【注3】「めぐ」の直前、2013年6月15日付で閉店していた模様。

2015年03月30日

2013.06.20(木)(28)近畿大阪・塚本支店を制覇

 駅前の商店街は、このあたりの地名を採って「サンリバー柏里」という。サンリバー商店街の中に、大阪シティ信用金庫の塚本支店がある。大阪シティ信金は2013年11月に大阪市・大阪東・大福の3信用金庫が合併して発足し、塚本支店は旧大福信金の店舗であった(1965年7月開設)。つい先日(2015年3月)JR大阪環状線各駅に発車メロディーが導入されたが、野田駅のそれはロシア民謡の『一週間』が採用された。この駅が市場の最寄り駅だからということだが、大福信用金庫の本店は、その野田駅が最寄り駅となっている大阪市中央卸売市場本場(大阪市福島区)の中にあった。信金に転換する前に「大阪中央市場信用組合」という名称であったとおり、大福信金は「市場のための信金」で、全7店のうち半数以上が府や市の卸売市場内(またはその近隣)に置かれていた。2013年11月、大阪市信用金庫(大阪市中央区)と大阪東信用金庫(八尾市)の合併構想に大福信金が加わる形で3金庫が合併すると、発足した大阪シティ信金は大阪の信金トップに躍り出た。この合併で存続金庫となった大阪市信金は、大阪府の信金では大阪信用金庫に次ぐ二番手だった。合併時点で3位だった大阪東信金は、2005年に阪奈信金(東大阪市)と八光信金(八尾市)が合併して発足していた。
 さて、塚本駅西口の民間金融機関は、大阪シティの他には近畿大阪だけである。サンリバー柏里は、商店街としては相当にぎわっている部類だけれども、金融機関は駅に近いところにあるから、あまり奥深くまでは歩いていない。何より、これから行く近畿大阪が少し離れた場所にある。というわけで、商店街を離れて支店に向かって歩みを進めていくと、商業集積がちょっと途切れたと感じた。近畿大阪銀行塚本支店は、駅前から続く鍼灸だの飲み屋だのといった店舗の並びが民家で途切れた先にあるのであった。
 雨脚が再び強くなってきたが、どうにか塚本支店にたどり着いた。支店の入口には、縦に「AI SURU BRANCH」と大書してある。店舗をいくつかの種類に分けて愛称名を付けるのは、「近くて大好き!」と同じく先々代の桔梗社長の時代に行われ、塚本支店は「あいするブランチ」なるものになっている。私にもいまひとつコンセプトが把握できていないのだが、確か窓口室がサロンのような形になっている店舗だったハズだ。定着しているのだろうか。すでに3時を回ってシャッターが下りており、窓口室の様子はわからないが、別の日に塚本支店を訪れた際には、正直言って普通の支店とどこが違うのだろうと思った。なお、塚本支店は最近リニューアルの対象となり、現在では東淀川支店や十三支店と同様の内装になっていると思われる。
 支店に入る。キャッシュコーナーの機械枠は5台分あって、左側の3台がAK-1。1台分空き枠で、いちばん右が両替機であった。ATM上部の行灯のスタイルは、大阪銀行のCI導入後の標準スタイル。バブル期のメタリックブルーではなくて、その少し前の時期、少し紫がかった水色の板である。お振り込み・お預け入れ・お引き出しという文字が上から3段に重ねてあって、文字と文字の間に白い線が引いてある。
 機械上部に取り付けられた鏡には、ATMの《操作のごあんない》というステッカーが貼ってあり、《テレビ画面の表示にそって操作してください。》という文字が見える。「テレビ画面」という言い方に過ぎ去りし時代を強く感じるが、このあたりは、旧近畿銀行の一部のATM枠で、お預け入れ・お引き出しの文字が明朝体になっているのといい勝負であろう。機械を操作。15:48、私は、近畿大阪塚本支店を制覇したのであった。

 近畿大阪銀行塚本支店は、大阪銀行塚本支店として1965年2月に開設された。現状、西淀川区唯一の近畿大阪の店舗として営業しているが、塚本の金融機関としても「西口唯一の銀行」である。東口には、前述の十三信金の出張所(現北おおさか信金十三営業部塚本出張所)のほか、三菱東京UFJ銀行の塚本支店(旧三和銀)があるけれども、前述したとおり東海道本線の東側は西淀川区ではなくて淀川区に属している。
 大阪市淀川北岸地区のなみはや銀行について、ここで述べておこう。サンリバー柏里の入口角にあるパチンコ屋は、福徳銀行塚本支店の店舗跡である(西淀川区柏里2-3-23)。塚本支店は、福徳相互銀行塚本支店として1966年3月に開設されたものであった。福徳銀行は1998年10月になにわ(旧大阪相互)銀行と合併してなみはや銀行となったが、合併後1年も経たずに経営が蹉跌し、2001年2月に大和銀行グループに営業譲渡となった。営業譲渡の際、塚本支店は姫島出張所とともに近畿大阪の既存の塚本支店に統合されている。福徳は当時の大阪本店銀行の中ではそれなりに大手の部類であり、淀川3区では1956年の十三支店を皮切りに、1992年までに計10店舗を出店した。店舗はバブル崩壊直後の1994〜95年に若干の統廃合が行われたが、さらに営業譲渡の前後で大なたが振るわれ、淀川3区では2004年の東三国支店の統合を最後に旧なみはや店舗が消滅した。
 なお、福徳の合併相手となったなにわ銀行は、大阪相互銀行時代末期の1998年11月に上新庄支店を出したのがこの地区唯一の出店であった。なみはや銀行発足で東淀川支店となり、合併半年後の1999年4月に旧福徳の上新庄支店に統合されている。

 市バス93号系統を使ったりそなの旅も、そろそろ終わりが見えてきた。[93]最後の目標は、りそな銀行歌島橋支店。気力を振り絞ってバス停に戻ることにしよう。次のバスは16:12発である。
 塚本駅前からバス停までは、阪神高速下の商店街を歩いてみた。さっき歩いてきた対面2車線の商店街より、さらに高架に近いところを通っている道である。商業の密集度はさっきとあまり変わらないが、一つ一つの店舗はこちらの方が狭いものが多い気がした。業種は焼肉や立ち飲みが主。セブンイレブンが1軒あるが、この店はさっき往路で通った商店街に出ていたのと同じ店で、通り抜けができるようになっている。
 帽子屋さんがあった。谷山浩子の歌ではないが、店主は帽子とともに塚本の町に笑顔を振りまいているのだろうか。そんなことを思った。

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2015年03月29日

2013.06.20(木)(27)塚本駅前を歩く

 車内広告といえば、これはどのバスにも貼ってあったのだが、市営交通の敬老パスについての掲示。70歳以上を対象とした大阪市の敬老優待乗車証(敬老パス)は、全国唯一の完全無料だったが、この7月(2013年)から年間3000円を徴収することになった【注1】。広告はパスの継続手続きに関するもので、済んでいない場合7月1日から通常の乗車料金を徴収、6月20日までに郵便局で3000円を納付するように、ということであった。これはパスが要らない人も手続きが必要だそうで、交通局はコールセンターを作ってこの変更に取り組んでいる。まあこれは妥当だと思う。バス代ぐらい払いなさいよ。年間3000円なら、東京よりはるかに安い【注2】。しかも、東京都議会ではこのパスすら問題視されている。この程度のこともやらないで、大阪の市バスが赤字だ、というのは筋が通らないと思う。
 それにしても、大阪市交通局は何がそんなに問題だったのだろうか。市バスのことをあれこれ調べていて、私には交通局が腐敗しているようには感じられなかった。赤字が問題でないとは言わないが、路線バスは本質的に儲からない事業であって、経営が苦しいのは地域や公営・民営の別を問わずどこでも同じである。給与が高いというけれども、それは象徴的な特殊例が何かあったからではないのだろうか。運輸業は労働条件が特に悪いことで知られている。
 さて、〔塚本小学校前〕の次が〔塚本駅北口〕。例によって「北の方」程度の意味しかない大阪的な用法であるが、車内放送のイントネーションは「きタグチ」(後3文字にアクセント)ではなく「きタぐち」(タにアクセント)となっている。そして、その次の〔歌島一丁目〕が、一応塚本支店の最寄りのハズだ。窓の外が見えないから、レポートをする気にもならない。

 拗ねている場合ではない。〔塚本駅北口〕を過ぎると、左に十三信金の看板(本店営業部塚本出張所)が見えたところで道路が下がっていく。これは、計2本の高架、JR東海道線と阪神高速池田線をくぐっているのだが、高架が低いところにあるので、道路を切り下げてアンダーパスにしているのである。阪神高速池田線は、以前「近畿大阪めぐ」で触れたが【注3】、伊丹空港から大阪市内に向かう途中で必ず通る道である。アンダーパスの下り坂の途中に高速の塚本入口があるが、この入口からは東行き(大阪市内方面)の車線にしか入れない。アンダーパスを抜けたところで、塚本支店の最寄停留所〔歌島一丁目〕に着いた。「歌島」という地名だけれども、ここはまだ歌島橋には遠い。停留所の背後には市営アパートが広がっている。
 この停留所から、淀川区を離れて西淀川区に入っている。JR東海道線の線路を越えたためだ。実は、淀川3区、東淀川・淀川・西淀川の各区を隔てている2本の境界線は、いずれも東海道本線である。もともと大阪市の淀川北岸地域には東淀川・西淀川の2区しかなかったが、1974年7月に区制を再編して3区にする際、境界線を東海道線の線路としたのである。東海道本線は、兵庫県尼崎市から南下し、淀川を渡って大阪駅に入ると、大阪駅から向きを北に変えて再び淀川を渡り、京都に向かう。大阪市の淀川北岸地域をほぼ3等分しており、またここは鉄道の要衝が近いためJRの設備も大掛かりで、線路が地域を分断する傾向が特に強い。境界線にはうってつけであると言える。
 塚本支店は、塚本駅の西側を高架沿いに大阪駅方向に進んだ先、駅の南側にある。東西に走る主要な市道、福町浜町線との交差点角である。淀川通の南を並走する福町浜町線は、さっき〔北野高校前〕の西側で淀川通から左に分かれた道。支店東のJR高架下には、市バスの〔塚本駅前〕がある。〔十三〕からだと、大阪駅から来る酉島車庫行きの[43]に乗るとここを通るのだが、今日の本旨はあくまで[93]を使うことにあるので、〔歌島一丁目〕からアプローチしている。2009年6月にこの支店を初めて訪れた時、私はJR大阪環状線西九条駅前から[43]で〔塚本駅前〕へやって来た。当時[43]は〔酉島車庫前〕ではなく〔西九条駅前〕から出ていた。

 というわけで、私は〔歌島一丁目〕からJR塚本駅に向かって歩いている。停留所から心持ち十三方向に戻って右折。ここ柏里三丁目交差点の街灯には、近畿大阪の塚本支店が広告を出している。旧大和銀行グループの「Dマーク」が健在であった。こうして商店街に地元の支店が広告を出しているのを見ると、地域社会に密着している銀行というものを想起させて微笑ましい。個人商店がズラッと並ぶこの商店街は、普通の商店街であるが、この時間さほど人通りがあるわけでもなかった。
 塚本駅の施設がJRの高架下に見えるところまで来ると、ケンタッキーなどチェーン店ぽいものも若干ある。駅前に建つ古めかしい5階建ての集合住宅は、昭和30年代の建築だと思うが、沖縄の建物のように花ブロックが前面に押し出されたデザインになっている。これは大阪市の住宅供給公社のアパートで、この建物の1階に、「お菓子のデパートよしや」が入っている。東京でいえば「おかしのまちおか」のような菓子安売りチェーン。特定菓子メーカーの商品の写真やロゴを店に大々的に表示している。店によってロゴを出すメーカーが違うようで、この店は江崎グリコのロゴが目立つ。西淀川区はグリコの本社所在地であり、塚本駅は最寄り駅であるから、おひざ元として不思議はない。
 江崎グリコと塚本で思い出したが、この文を書いている2014年、グリコは突飛なCMを打った。「大人AKB48」と称して30歳以上の女性を募集、AKB48に期間限定で所属させ、同社の氷菓子「パピコ」のCMに出演させたのである。応募総数5066名の中から選ばれたのが、1976年生まれ、当時37歳の塚本まり子という女性だった。専業主婦という触れ込みだったが、実は独身時代からそれなりにタレント活動をしていた人だという(ロックバンドのボーカルだったそうだ)。合格者がセミプロだったとしても意外性はない。あの手のオーディションは、本当に公募オーディションならそれなりに場数を踏んでいないと受からないだろう。完全なる「ド素人」ではオーディションを切り抜けられない。そうかと言って、現役で活動中のタレントではプロ臭がキツ過ぎて使えないだろう。まあ、最近はやりの「美魔女」の類ではないか。容姿が綺麗なのは否定しないし、40歳近くであれだけの美貌を維持するのもそれなりに大変だろうと思う。
 駅近くのリフォーム屋さんの店先に、「大信販」のロゴが出ているのを見つけた。大信販は1992年に商号変更した現在のアプラスである。かつて、藤谷美和子出演のシュールなCMを見た記憶がある。

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 【注1】2014年8月から、敬老優待乗車証(敬老パス)での乗車は、パスの更新とは別に1回50円を徴収することになった。事前に券売機などで入金(チャージ)を済ませておく必要がある。
 【注2】東京都では、都営交通のほか民営バスにも乗れる「東京都シルバーパス」が年間20,510円。
 【注3】当ブログ2009年1月4日掲載「2008.07.22(火)(2)長沢まさみが笑ってる

2015年03月28日

2013.06.20(木)(26)バスは西へ人間はジジババへ

 赤い車が去らないので、仕方なくそのまま写真を撮って、バス停に戻ってきた。今度は15:28発。まだ10分近くあるが、もういいやと思った。
 土砂降りの雨が続いている。ここまで来て、私は半ばやる気をなくしてしまっていた。どうして事前に計画を立てている日に限って台風が来るのだ、という今日何度も口にしている繰り言が再び頭をかすめる。特に、それもどうして大阪だけ、という気持ちが強い。ここ数年、大阪に来ようとすると、飛行機が飛ぶかどうか心配しなければならないほどの雨にぶち当たることが多かった(「めぐ記」を書いていない別の日がやはり台風真っ只中になった)。冷静に考えれば、必ずしも雨の日ばかりではなかったハズだが、マイナスの感情が記憶に残りやすいのは事実だ。これは動物の本能として仕方がない。シマウマのような草食動物は、ライオンなど肉食動物に襲われそうになった場所や状況を覚えておかないと、のこのこと再び同じ場所に出かけて行って、餌食になってしまいかねないのである。
 定刻の15:28になったところで、バス接近案内に「まもなく来ます」の表示が出た。[93]にここまで乗ってきただけの感想だが、今日の大阪市営バスは、どこで乗ってもせいぜい数分の誤差(=遅れ)であって、おおむね定時で動いているように思う。
 バス停で待っていると、ちょうど高校生の下校の時間に当たったようで、制服を着た生徒たちが西の方から大勢歩いて来る。そういえば、〔十三〕の次の停留所は〔北野高校前〕である。方向からすると北野高校の生徒たちかもしれない。

 数分遅れでやって来たバスに乗り込むと、両サイドの窓がすっかり曇っていて、外は全く見えなかった。雨の日は「めぐ」の醍醐味が半減する。といって、今日はもう始めてしまった以上仕方がない。仕切り直すわけにもいかないから、あくまで雨の日を前提に書くしかないだろう。代わりに車内の様子を書いておくと、93号系統は、どの時間にどこで乗っても、乗客の数は平均しているようだ。多少混んでいるとか多少すいているとかはあるにしても、座席は半分から2/3程度埋まったぐらいで一定している。
 曇っていない正面の窓から、府立北野高校の正門が一瞬見えた。門の脇にある壁に円形のくり抜き窓があったりなど、現代芸術のような独特の形をしている【注】。校門の横に同じテイストの斬新な建物が建っており、体育の部室なのか敷地内の古い建物とくっきりコントラストをなしていた。ここは、橋下徹・大阪市長の出身高校、と言うより大阪市北部にある大阪府立の名門高校である。北野はもとあった場所の地名だというが、公の地名としてはすでに消滅している。私は大阪へ行くときに格安の夜行バスをよく利用する。この種のバスは、梅田の発着拠点を阪急梅田駅の北側にある「プラザモータープール」という駐車場にしていることが多い。この駐車場のすぐそばに、阪神バスの停留所がひっそりと立っている。〔野田阪神前〕から〔天神橋筋六丁目〕までのバスが1日2本走るだけだが、この停留所の名前が〔北野〕なのである。ここから推察すると、もともとこの学校はモータープールの近所、つまり梅田と中津の間にあったのだろう。
 ふと思った。出身高校というものは、いったい何の役に立つのだろうか。せいぜい、自分が選挙で立候補した時の選挙運動ぐらいではないか。要は、地元で暮らしてこそ「高校時代のナントカ」というものは生きてくるのであって、私みたいに東京に出てきた人間にとっては、役に立たないどころかマイナスだ。OB名簿とか同窓会とかいったものは、私にとっては前述の「草食動物の記憶」と関係しているから、余計にその傾向が強いのかもしれない。私は、出身高校のOB名簿から掲載を外してもらっている。名簿に名前を載せるほどの大人物ではないという理由もあるが、組織力を誇る政党があって、選挙の度に運動員が押し掛けてきて邪魔くさいからだ。この連載を作っている2014年11月には、卒業30周年ということで中学の同窓会があったようだが、私は行かなかった。理由はやはり「草食動物の記憶」である。

 さて、〔十三〕を出てからというもの、このバスは淀川の土手を快走するようなスピードで、住宅地の真ん中の幹線道路を快走している。速度が本当に上がっているかは知らないが、少なくともスピード感が上がったことは確かである。バス停は〔北野高校前〕〔新北野中学校前〕〔塚本小学校前〕と続いている。反対側から来ると小・中・高と連続しているわけだが、ふと、学歴が実際にこの順番になっている人はどのくらいるのだろうか、と思った。塚本小はそのまま新北野中に上がるそうだが、さらに北野高に進むのは優等生だけだろうから、案外少ないのかもしれない。
 《お葬式はいらないと言ってくれたおじいちゃん》という、葬儀社の広告が車内に出ている。都内のバスでも《おじいちゃん、おばあちゃん、交通ルールを守ってね》という警視庁のポスターを見かけるけれども、素朴な疑問として思う。「おじいちゃん」「おばあちゃん」という言い方を最近するのだろうか。「じいじ」「ばあば」ならまだわかるのだが、言い方として非常に古臭い気がする。そしてもう一つ思うのは、本物の幼年世代から「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばれる人は、早ければ私と同じ40代後半の世代だが、この広告が本当にターゲットとしているのは、まさに葬儀が間もなく必要になってくるハズの70代以上の高齢者であろう。いずれの世代にとっても、このポスターを見て心に響くものはないように思える。このままいけば私もその一人になるのだろうが、これからは孫のいる高齢者もだんだん少なくなってくる。ますます、その次を考えなくてはいけない時代が迫っている。

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 【注】正しくは、旧校舎に付いていた「北中」(旧制北野中学校)のシンボルマーク。

2015年03月27日

2013.06.20(木)(25)近畿大阪・十三支店を制覇

 十三の商店街の一つで、距離は短いが最も目立つ場所にあるのが、三菱東京UFJ銀行の横を阪急十三駅西口に向かう商店街である。従来の言い方でいうところの十三本一商店街は、「十三トミータウン」と大書した看板が入口についているのだが、白地に赤文字、真ん中に小便小僧のシルエットを描き、非常に目立つ。以前はもっと地味な看板だったが、何かあったのだろうか。トミーは十三の読み方を変えたもの、小便小僧は隣接する「しょんべん横丁」に由来するもので、三和の支店の横には「見返りトミー君」なる小便小僧のブロンズ像もある。
 しょんべん横丁は、太平洋戦争の空襲で焼け野原となった阪急十三駅西口一帯に、戦後になって飲食店が集まってできた繁華街である。近所にお手洗いがなく、多くの酔客が線路沿いの壁で用を足したことからこの名がついたという。南北約150mの狭い路地に大衆酒場やホルモン焼き店など約50店がひしめき、サラリーマンらの憩いの場となっていたが、火災で焼失して現在は復興再建中である。2014年3月7日早朝、24時間営業の居酒屋から出火し、飲食店など36店舗、延べ1500uが焼けた。前述のとおり、私は火事の直後に十三を再訪したが、その際に復興資金を募る募金箱にささやかながらカンパをしておいた。有効に使ってもらいたいと思う。
 さて、駅の北側は、北西方向の三津屋・神崎橋に抜ける十三筋と、豊中・池田方面へ行く国道176号とが分岐する、大きな三差路になっている。分岐の右方向から来る176号は、ここでは南行きの一方通行となっている。三差路の分かれ目に建つ雑居ビルに、関西アーバン銀行が巨大な看板を出している。角地の一等地だけれども、一緒に入っているテナントはマッサージとかヘアサロンとか、銀行とお隣さんになることの多くない業種ばかりで、ビルの1階にある旧幸福銀行の支店(1954年5月開設)は、他のテナントに埋もれてしまっている。それでも銀行ウオッチャーの私は銀行の店舗をすぐに見て取るが、普通の人を相手には巨大な看板でアピールせざるを得ないだろう。アピールの効果があったのかなかったのか、ATMは2台だけの配備であった。そんな関西アーバンの隣に、近畿大阪の十三支店はある。こちらは支店単独で一棟を使っているようだ。
 ここは、写真撮影の関係で制覇を先に済ませる。私は例によって支店の写真を撮ろうとしているのだが、さっきから大事なところに赤い車がずっと停まっているのだ。それが行ったとしても、十三支店は場所的に真正面から撮らざるを得ないが、時間と交通量の関係であまりまともな写真は撮れそうにない。都市部のどこで写真を撮っても、車や通行人というのは邪魔になるものだが、とりわけ赤だのオレンジだのといった彩度の強い色の車や服には腹が立つ。今日は一日雨で気分が滅入りがちであるから、こういう刺激的な色は本来なら活力を沸き立たせるのだが、今の私にはイライラの原因でしかなかった。
 支店に入る。内装は、キャッシュコーナーは青い行灯の合併後標準スタイル。窓口室の什器は前面にガラスの壁がついたグレー主体のハイカウンター【注1】。機械枠は6台分で、両端は空き枠、真ん中にATM(AK-1)が4台。もうそろそろ3時の閉店時間なのだが、シャッターを閉める気配がない。なぜだろう。この店だけ5時閉店になったのだろうか。いや、そんなことはないハズだ。14:54、KO十三支店を制覇した。

 近畿大阪銀行十三支店は、1951年7月に設置された近畿無尽の十三業務取次所が翌年6月に支店昇格したものである。当初は東淀川区(現淀川区)十三西之町2-1、しょんべん横丁の北端付近にあったようだが、1953年2月現在地に移転し、現在の店舗は1968年に建築されている。
 近畿大阪銀行の発足後、十三支店には2支店1出張所が相次いで統合された。2001年2月になみはや銀行を営業譲受した際、同行の東三国支店十三出張所が統合され、次いで旧大阪銀行の十三支店だった十三西支店が2001年7月に、旧なみはや銀店舗の三津屋支店が2002年7月に統合されている。
 旧なみはや銀の十三出張所は1956年10月に開設された福徳相互銀行の十三支店だった店で、当初は十三信用金庫本店の隣にあった。開設当時の店舗は現在北おおさか信用金庫十三本部第一別館となっているが、これは前述したとおり十三信金の角から3軒目のビルである。1981年に十三駅の東口に新築移転した際に出張所となり、なにわ銀行との合併と経営蹉跌とを経て、近畿大阪の十三支店に統合となった。東口の出張所跡のビルには現在焼肉店などのテナントが入っている(淀川区十三東2-9-16)。一方三津屋支店は、1986年12月に福徳相互銀行三津屋支店として開設された比較的新しい店だった。三津屋は十三の北西1.5kmほどにある住宅地で、駅でいうと阪急神戸線の神崎川が近い(淀川区三津屋中1-7-11)。支店だった建物はアパートに改造されたようだ。
 旧大阪銀の十三支店だった十三西支店は、1953年7月に大阪不動銀行十三支店として開設されたもので、現十三支店から十三筋を北西へ150mほど、国道176号十三バイパスの手前にあった。跡地は現在マンションになっている(淀川区十三本町1-21-24)。大阪不動銀行というのは、大阪銀行の設立当初の名称である【注2】。戦後復興期、既存の銀行だけではまかない切れない中小企業向けの資金需要を満たすため、地方銀行の設立が認められ、大阪府では4つの地方銀行(大阪不動・河内・泉州・池田)が設立された。大阪市に設立された大阪不動は、不動貯金銀行を範に採って月掛預金の営業を行う銀行として設立されたもので、言ってみれば合併によって消えた不動貯金銀行の“理念的後身”である。設立以来住友銀行と親密であったが、時を経て大和銀行グループとなり、現在では不動貯金銀行の後身であるりそな銀行と同じ金融グループの銀行となっている。
 ところで、近畿大阪の十三支店は、日本銀行十三代理店となっている。日銀には「発券銀行」「銀行の銀行」「政府の銀行」という3つの役割がある。日銀の取引先は銀行と政府だけであって、個人であれ企業であれ直接の取引はしない。その代わり、国庫金や国債に関する業務は民間金融機関が代行している。こうした日銀関係の業務を行う民間銀行の店舗を、日銀の代理店という。代理店にはいくつか種類があるが、国の官庁と取引を行い、国庫金の受払や国債の元利金の支払いなど広範な事務を取り扱う代理店を特に「一般代理店」と呼んでいる。2014年末現在、日銀の一般代理店は全国に489店舗(うち大阪府16店)あるが、近畿大阪が日銀一般代理店になっているのは、十三の他には八尾支店(大阪府八尾市)1店だけである。りそなグループ全体で見ても、近畿大阪の2店のほか、りそな銀に8店(うち大阪府3店)、埼玉りそな銀に14店しかない【注3】。なお、日銀代理店には国庫金の受入のみを扱う「歳入代理店」もあるが、これは民間金融機関のほぼ全店が該当する。

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 【注1】十三支店は2015年2月リニューアルを行い、窓口室の什器はマホガニー調の木目に一新された。キャッシュコーナーの行灯は緑色に変えられた。
 【注2】「大阪銀行」という名称の銀行は、時期は違うが戦後2つ存在した。1948〜1952年に存在した大阪銀行は、住友銀行が財閥名称追放により一時的に改称していたもの。近畿大阪銀行の前身となった大阪銀行は、1957年12月大阪不動銀行から改称した。
 【注3】大阪府の日銀一般代理店内訳は、三菱東京UFJ7、三井住友2、りそな3、近畿大阪2、池田泉州2。なお、りそなグループで日銀一般代理店となっている店舗は以下のとおり。(2014年末現在。出典:日本銀行ウェブサイト)
  りそな:東京営業部・衆議院・参議院・池袋・東青梅・梅田・枚方・富田林。 埼玉りそな:さいたま営業部・川越・熊谷・川口・大宮・行田・秩父・所沢・朝霞・東松山・本庄・春日部・越谷・さいたま新都心。 近畿大阪:十三・八尾。

2015年03月26日

2013.06.20(木)(24)淀川区の金融激戦区・十三

 近畿大阪の十三支店は十三筋を北に行ったところにあるので、高松建設前の信号を渡って淀川通を越え、阪急十三駅の西口に向かって歩く。淀川通を渡ったこちら、十三信金の前にも〔十三〕のバス停がある。阪急バスと市バスの2社だが、雨除けの上屋は別々に設置されている。市バスはアルミの頑丈そうな上屋、阪急バスはテントの上屋であった。別会社だからと言ってわざわざ上屋も別々にせず、共同で立派なものを作ればいいのに、と思った。このポールに停まる市バス2系統は、いずれも〔大阪駅前〕を出て十三筋を北上してくる。[97]の神崎橋行き・加島駅行き【注1】と、[69]〔十三市民病院〕経由榎木橋行きの2本。[97]は1時間に3〜4本が確保された市バスのドル箱路線である。[69]はさっき新大阪駅前支店のところで触れたのとは別の経路で〔榎木橋〕へ行く。十三筋沿いの阪急バスは、市バスと競合する〔神崎橋〕方面のほか、このポールには停まらないが梅田発箕面行きなどという長距離路線もある【注2】。十三筋は市バス・阪急バスともに相当な本数のバスが行き交う道だが、〔十三〕の停留所はかなり広範囲に散らばっている。
 バス停の目の前にある十三(現北おおさか)信用金庫の本店営業部は、旧さくら(元神戸)銀行の十三支店だった建物を購入したものである。さくら銀の十三支店は、住友銀行との合併で十三駅前支店に改称されたが、2002年10月旧住銀店に統合されている。十三信金の本店は、淀川通沿いに4棟が並ぶというあまりない形態をしているが、その内訳は交差点側から順に本店営業部・本部・第一別館・第二別館となっている。建物としては、左から2番目の第一別館が一番古そうに見える。古い資料をひもといてみると、この4棟のルーツは、角から旧太陽神戸銀行・本来の本店・旧福徳相互銀行・旧兵庫相互銀行、であった。福徳相互の十三支店は1981年に十三駅の東口に移転、兵庫相互の十三支店は1978年に西中島に移転(新大阪駅前支店に改称)している。この信金は、昭和50年代からバブル後の金融不安の時期までに手放された金融機関のビルを少しずつ買い足していったようで、言ってみればこれらのビルには十三信金の歴史が凝縮されている。なお、十三信金はこれとは別に、同じブロック裏手に事務センターの建物(第三別館)があり、ほかにも近所に複数の物件を所有している。

 十三信金本店営業部の北隣は、三井住友銀行の十三支店(旧住友銀、1938年10月開設)。三井住友銀行が発足した2001年4月以降、ここには旧さくらと旧住友の2つの支店が並んでいたことになる。
 道の反対側に目を転ずると、みずほ銀行の十三支店(旧富士銀)が見える。みずほの建物は全国的に系列不動産会社ヒューリックの持ち物になったらしく、ここもヒューリックのロゴが付いている。みずほ銀の支店はことごとく改装されてしまい、もう一見しただけでは旧富士も旧一勧も分からなくなった。店頭には「70」と大書したポスターが多数掲示されている。みずほの十三支店は昭和18(1943)年に開店し、今年(2013年)の5月17日をもって70周年ということであった。みずほは旧第一勧銀の時代から「支店開設×周年」の店頭掲示をシステマチックに出しており、この点は良い伝統だと思う。合併を繰り返しているりそな、とくに旧協和銀行の場合は何をもって×周年とするかが問題になるかもしれないが、マネしてもよいのではないだろうか。
 みずほの北隣には、三菱東京UFJ銀行の十三支店(旧三和銀)がある。この店の開設年月日は、普通に調べると1933年12月9日となるが、この日付は大阪にあった3つの銀行(三十四・山口・鴻池)が合併して三和銀行が発足した日付であって、支店としてはもっと古くからあったと考えてよい。三和はもともと大阪地区のトップ地銀として拡大してきた銀行であり、十三のような古くからの繁華街の支店は長い歴史を持つ。十三支店は旧山口銀行の出張所として1924(大正13)年に開業した。
 三和銀行の話が出たところで、唐突なようだが協和銀行の話題に少し触れておきたい。十三支店が旧大阪貯蓄銀行の支店で、跡地が高松建設の本社になっている話は前述した。協和は東京・大阪・名古屋に本店を置いていた9つの貯蓄銀行が合併して発足した銀行である。そのうちの一つである大阪貯蓄銀行は、三和の前身3行が(合併前に)出資して設立された銀行であった。つまり、協和の十三支店は、三和の十三支店と親子のような関係にあったのである。似たような話を、以前津支店について書いた時に触れたことがある【注3】。こちらの「親」は東海銀行だった。
 さて、古い繁華街である十三には、当然ながら協和の前身行の店舗もあり、9行のうち前述の大阪貯蓄を含め3行が十三に出店していた【注4】。これらの店もこの近所にあったハズだが、地名までは特定できるものの、現在までに番地までは突き止められなかった。十三界隈は、戦災の影響で、古い住所を現在の場所に比定するのが極めて困難である。今後の課題としたい。

 というわけで、このあたりは金融機関が密集するエリアとなっている。長々と金融機関について述べてきたけれども、十三はこれだけ多数の銀行(等)の店舗を成立させるに足る、大規模な繁華街なのである。大阪は現在でも個人商店が軒を連ねた商店街が活況を呈しているが、とりわけ十三駅前に来ると、賑わい度がほかの地区の商店街とは違うと感じられる。
 なお、十三筋の三和の向かい側には、焼き牛丼チェーンの「東京チカラめし」が出店している。展開は首都圏だけだと思っていたから、少々驚いた。もっとも、私が「7割まずい」と言って愛する埼玉の「ぎょうざの満洲」が大阪に進出しており、さほど驚くにはあたらない。東京チカラめしは、2014年3月に再訪した際には閉店していたから、短い命であった。

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 【注1】[97]の〔神崎橋〕行きは2014年3月のダイヤ改正で廃止された。
 【注2】この停留所の北西150mにある停留所から発着する。
 【注3】当ブログ2008年10月28日掲載「2007.11.28(水)(14)津市の協和銀行、その複雑な歴史」。
 【注4】出店していたのは、大阪貯蓄・不動貯金・摂津貯蓄の3行。大阪・十三→協和・十三(所在地:現淀川区新北野一丁目)1979.08豊中服部に統合。不動・十三(出)→協和・三津屋(出)(所在地:現淀川区三津屋南三丁目)1946.07三津屋支店に昇格、1948.02十三に統合。摂津・十三(出)→協和・西十三(出)(所在地:現淀川区十三本町二丁目)1946.10十三に統合。

2015年03月25日

2013.06.20(木)(23)アンダーパスを抜けて十三の核心へ

 十三駅が近づくにつれて、商業集積が増してきた。そう思ったところで〔十三駅東口〕。この「東口」も例によって大阪的なネーミングで、東の方という意味でしかないが、厄介なのは、通常の意味での「東口」も併存していることである。阪急十三駅の東口は、バス停から見えるアーケードを入った奥に存在している。
 この停留所の真ん前には、バリケードで封鎖された巨大な建物が鎮座している。草ぼうぼうになっており、用途廃止からそれなりの時間が経っているようだ。この建物は、2009年3月に現庁舎に移転した旧淀川区役所である。さっきあった区役所は大阪市立十三市民病院のあった場所で、市民病院が移転した後、跡地に新築移転したものである。さらに時間を遡ると、この廃屋は1974年の分区以前には東淀川区役所だったわけだから、その前にあるバス停の名称も東淀川区役所前だったのだろう、と思って調べてみると実は違っていて、現〔十三駅東口〕は1974年7月22日(分区の実施日)以前は〔十三東之町〕という名前だった。というわけで整理すると、〔十三市民病院前〕が〔十三東〕を経て〔淀川区役所前〕となり、〔十三東之町〕が〔淀川区役所前〕を経て〔十三駅東口〕になったわけである。
 それはともかく、旧区役所庁舎には、しない!させない!越境入学、お互いの人権守って住みよい淀川区、人の心を傷つける差別落書は許しません、日頃から明るい選挙の心がけ、よい政治それはあなたの一票から、といったスローガンが大書されたまま残っていて、淀川区がどんな課題を抱えているかがわかる。課題のない自治体など日本中どこにもないのであるが、淀川区に関して言えば、たとえば性的マイノリティに対する支援声明など、独創的な取り組みをしているのではないかと思う。

 〔十三駅東口〕のすぐ先が、つい最近ようやく双方向化されたというアンダーパスである。淀川通はここで、梅田から来て十三駅に入線する阪急の3路線(神戸・宝塚・京都の各線)をひとまとめにくぐっている。この区間は、驚くことに2010年まで東行きの一方通行であった。もちろん最初からそんな変則的な扱いだったわけではなく、かつては対面1車線だった。交通量の激増で2車線一方通行になったのだろう。もともとあったアンダーパスの梅田寄りに2車線のアンダーパスを新設し、現在は一方通行ではなくなっている【注1】。
 この間、西行きはどうしていたかというと、200mほど南にある淀川堤防沿いのアンダーパスを利用していた。現アンダーパスとバス停の中間、というよりバス停の横といってもよい場所に、南に向かう一方通行道がある。東から来た車はこの道に入って(旧)区役所の横を進み、淀川堤防に突き当たって右折、アンダーパスで阪急の線路を越えていた。十三筋に入りたい車は、線路を越えたところでもう1回右折し、南北の道が十三大橋に向けて高度を上げ始める付け根の部分から十三筋にアプローチしていた。[93]のバスは、堤防沿いに約200m西進、NTT淀川ビル(新館)の角で右折してラブホテル街の横を北上し、淀川通に戻っていた。この迂回のため、[93]の西行きは、東行きより500mほど営業距離が長かった。
 バスの経路変更は2010年7月1日始発から行われ、現在は普通にアンダーパスを経由している。[93]など淀川通を西に進むバスの〔十三〕停留所は、当時は現在より100m西側の三井生命十三ビル前にあって、ここには現在も道路に「バス停」の表示を消した痕が残っている。

 阪急の線路をアンダーパスして上がってきたところで、南北に走る大きな幹線道路と交差する。ここ新北野の交差点は、淀川区随一の繁華街である十三の南端にあって、淀川通と十三筋とが交わる大きな交差点である。〔十三〕は、新北野交差点を越えてすぐのところにある。
 1〜2分の遅れはあったかもしれないが、私を乗せたバスは〔十三〕にほぼ定時に着いた。降りてみると、停留所の真ん前はファミリーマート、1軒置いて隣のビルの1階は労働金庫の支店(近畿ろうきん十三支店)であった。
 通りの反対側に目を転じると、十三信用金庫本店【注2】の建物が4棟並んでいる。その横はディスカウントのドンキホーテ。さらに、愛媛県のトップバンク伊予銀行の看板が見える。伊予銀は1971年3月開設の大阪北支店である。十三は他地域から地銀が進出してくるほど経済力のある繁華街なのであった。なお、[93]の西行きが十三アンダーパスで迂回していた時代、バスは南から伊予銀の向かい側に出て淀川通に入っていた。
 新北野交差点の南西角には、中堅ゼネコン高松建設の本社が建つ。これは、りそなのウオッチャーとして是非触れておかなくてはならない。ここはかつて、協和銀行の十三支店があった場所である。大阪貯蓄銀行十三出張所として1936年7月に開設し、1938年8月支店に昇格したが【注3】、1979年8月に豊中服部支店(豊中市)に統合された。高松建設の本社は淀川通に面した部分の幅が意外に狭い。一般的に、貯蓄銀行の支店跡地は普通銀行のそれと違ってあまり広くはないので、それほど大きな建物は建てられないようだ。本来ならここも例外ではないのだろうが、協和銀時代は十三筋側に正面玄関を置いて横長の建物になっていた。高松建設本社も、敷地が南北に長いので面積が確保できている。

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 【注1】現在も西行き車の右折は不可。
 【注2】2014年2月、摂津水都信用金庫との合併により、北おおさか信用金庫十三営業部となった。本店は旧摂津信用金庫本店(茨木市)、合併時の存続金庫は十三信金である。
 【注3】十三出張所開設と支店昇格の日は、『大阪貯蓄銀行五十年史(草稿)』では昭和11年7月1日/13年8月15日、『東淀川区史』によると昭和12年7月1日/13年7月1日。ここでは『大阪貯蓄銀行五十年史』の日付を採った。

2015年03月24日

2013.06.20(木)(22)木川と「赤バス」

 多少疲れたこともあって、のんびりとバス停に戻ってきた。次の目的地はいよいよ、淀川区の大繁華街、十三である。
 南方のあたりは、伊丹空港に着陸する飛行機の着陸ラインになっているようで、どてっ腹が観察できるような高さで飛行機が飛んでいるのが見える。JALの機体が実によく飛んでいるが、飛行機に詳しい人なら、下から見ただけで機種はおろか年式や仕様、さらには購入年などまで全部わかるのではないか。そのぐらいの低空飛行であった。
 バスを待っている間に雨脚が強くなってきた。今日はこれからどうなるのだろうか。ちょっと腰をおろしたいのだが、雨に濡れたバス停のベンチは座ったら悲惨なことになる。ただでさえ、雨が降っている地点で疲労度が5割増ぐらいにアップする。眠気は、さっき上新庄で昼飯を食べたのが効いたせいだろうが、それ以前によく考えてみたら、昨夜は蒲田の宿で眠れず、朦朧とした状態で飛行機に乗ったのだった。眠気を催す条件は揃っていたわけだが、うまくいかないものである。

 雨の中、歌島橋行きのバスはほぼ定時でやって来た。バスの乗客は、ここ〔地下鉄西中島南方〕でかなり入れ替わった。相変わらず中央分離帯つき片側2車線の幹線道路を進んでいく。規則的に高層マンションが建ち並ぶエリアである。救急車がバスを追い抜いて行った。
 最初の停留所は〔木川東二丁目〕である。地名としての木川は「きかわ」であって、バスの車内放送でもそう発音しているのだが、淀川通沿いに出店しているチェーン食堂の看板は、店名の英文表記が《KIGAWA》となっていた。普通に考えれば、こうした誤りは地域の実情を知らずに看板を作った、本社の店舗開発セクションが悪い。この食堂の店名も、調べてみたがやはりありがちな誤りのようだ。「木川」の地名は明治期の2つの村の名前を1字ずつ採った合成地名であり(木寺+川口新家)、成り立ちから見て川の字が「がわ」という読みになることは考えにくいだろう。
 ただし、木川については地名の成り立ちを踏まえて「誤り」と推論できるけれども、地名というもの全体に話を広げると、明らかな誤りと見えるものでも、時に誤りと言い切れないことがあるからややこしい。以前、埼玉りそな銀行鷲宮支店(埼玉県久喜市)の話を書いたときに触れたが【注1】、鷲宮の地名は「わしみや」「わしのみや」の両方の読み方がある。本来は「の」が入るのが正しいのだが、戦後の町村合併のいきさつから「わしみや」の読み方ができた。本来的には間違った読み方とはいえ、役所によってオーソライズされたものとしては「わしみや」も正しいと言わざるを得ないのだ。
 木川西二丁目に入るあたりからマンションが減り、民家が増えてきた。建物の高さが低くなり、3階建てぐらいの面積の小さなビルが増えたと思う。〔木川西二丁目〕はそんなところにある。

 〔淀川区役所前〕の停留所は、停留所名のとおり淀川区役所の前にある。
 反対車線、役所の建物の真ん前にトヨタのハイエースが停まっていて、車体色に一瞬目を疑った。都内や埼玉南部でおなじみの、緑色と黄緑をくさび形にあしらった国際興業バスと同じ色だったのである。同じであるのも道理で、このワンボックス車は国際興業大阪が受託している淀川区の「乗合タクシー」であった。これは「赤バス」廃止の激変緩和措置で、2014年3月末までの期間限定【注2】。国際興業大阪は、東淀川・淀川・阿倍野の3区から、赤バス廃止の代替措置を受託した。東淀川区と阿倍野区は利用者限定だが、淀川区は1乗車100円。「タクシー」という名称だが、路線バスと同じ運転形態で誰でも乗れる。ハイエースは親会社の国際興業が首都圏で使っていたものを持ってきたそうだ。ナンバーはなにわナンバーになっている。
 2013年3月まで運行されていた大阪市のコミュニティバス「赤バス」について、ここで触れておこう。各地にある通常のコミバスと同様、一般の大型バスではカバーできない住宅地と公共施設(病院・商店街・鉄道駅・区役所など)を結ぶ地域密着型の公共交通として、2000年5月に5路線での試験運行を開始、2002年1月から本格的な運行を開始した。運賃は1乗車100円で、赤い車体のバスを使っていたためこの名がついた。コミュニティバスのはしりとされる東京都武蔵野市の「ムーバス」より5年遅く始まったが、利用が低迷し、市営バスの赤字体質の一因になっているとして廃止が決定した。廃止前の需要検証では、走行キロ当たり乗車人員2.2人が目標値とされたものの、この値を超えたのは全29路線中3路線に過ぎなかったという。赤バスの廃止後は、対象区の区長が地域の実情や必要性を踏まえて、区ごとに必要な移動手段を検討し、いくつかの区では独自に民間事業者に委託して区営のコミュニティバスを運行したが、2013年度末で廃止されたものが多い。
 [梅70]の連載で参照した2010年度のデータ【注3】を見ると、運賃収支率は、成功例とされる武蔵野市で82.7%、全国平均は25.3%であったが、大阪市のそれは17.9%で、人口密度の低い武蔵村山市が18.8%となっていることからしても、かなり低い数値となっている。大阪市の場合、市バスの一般路線や地下鉄が充実していて交通空白地そのものがさほど多くなかったこと、コミバスが陥りがちな公共施設をハシゴして距離が長くなる路線が多かったことなどの問題点を抱えていたようだ。

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 【注1】当ブログ2011.12.24掲載「2008.11.14(金)(41)わしみや支店を制覇」。
 【注2】淀川区の激変緩和措置は2014年3月末で終了し、同年4月1日からは、乗車料金を無料とする代わりに利用者を限定した「福祉バス」として運行するようになった。運行は2015年秋で終了する模様。
 【注3】「『生活の足』確保するには 検証 コミュニティーバス・乗り合いタクシー」『日経グローカル』189号 日本経済新聞社、2012年。

2015年03月23日

2013.06.20(木)(21)新大阪駅前支店を“探検”する

 サムティビルの北側、西中島三丁目の四つ角から西に入った。この辺りまで来ると、建物はすっかりビルばかりとなり、マンションも多少はあるが純然たるオフィスビル街になった。前方の信号角に、十三(現北おおさか)信金の新大阪駅前支店が見える。
 信号の手前にあるりそな銀行新大阪駅前支店は、土地柄からいっても面積からしても、大きなビルが建っていて不思議でない土地にあるのに2階建てで、しかも2階部分が奥のほうに引っ込んでいるから、正面から見ると平屋建ての建物にしか見えない。なぜここにビルを建てないんだ、という気は少しした。支店建物の北寄りに閉鎖された出入口があり、その前に市バスの〔西中島〕という停留所がある。ここに来るのは〔榎木橋〕(淀川区)から〔大阪駅前〕に向かう[41]で、支店前から西進して南に折れ、淀川区役所の西側で淀川通に入ってくる。平日は30〜40分に1本ぐらいの割で出ているが【注】、土日はガクッと本数が減るようだ。この停留所にはバス接近情報などのハイテクは付いていない。
 支店の面する四つ角までやって来ると、支店は切ったういろうのような、白いのっぺりした平屋建てにしか見えなかった。角にある出入口の開口部だけが少しアクセントになっている。現代美術を市街地で野外展示している青森県十和田市に行った時に、乗用車の車体に樹脂でぜい肉を盛った「太った車」という作品を見たのを思い出した。これを書くまで忘れていたが、十和田市の野外展示では、「太った車」の隣に「太った家」という作品もあり、こちらは瓦屋根を取り除くとりそな新大阪駅前支店にそっくりである。
 店に入ると、広々とした窓口ロビーにATMが6台(すべてJX白)あるのが目に入るが、ここは多分、夕方5時に窓口室が閉まるとシャッターで遮られて使えなくなるのだろう。これとは別に、機械10台分のキャッシュコーナーがあって、記帳機、両替機、ATMが8台(AK-12台、JX6台)あった。この支店はATMがトータルで14台もあり、りそなとしてはATMの台数が「めちゃめちゃ多い」部類に属する。機械枠は旧大和銀行の古い時代の標準スタイルで、機械一台一台の幅が相当に広く取ってあり、1.5〜2台分ぐらいはありそうだ。キャッシュコーナーとしてはけっこう古そうだが、上部行灯のプレートは緑に換えてある。
 デッドスペースをもう少し工夫すれば、機械の台数はもう少し増やせる気がするけれども、まあその必要もないのだろう。新大阪のビジネス街、地価もそれなりに高いだろうに、これだけ広々とした土地を確保しつつ2階建てでとどめている。豪華イメージというのとは違うが、かなり豪勢な支店ではないか。13:51、新大阪駅前支店を制覇した。

 時刻は2時を回ったばかり。予想どおり、バスの時間までまだ30分ある。この時間を使って、新大阪駅前支店を探検してみることにした。ここまでの記述では、この支店の面白さの半分ぐらいしか表現されていないからだ。「面白さ」への入口は、さっき「ある」で止めておいた、郵便局隣の支店入口である。
 新御堂筋に面したサムティビル側の入口から入ってみよう。サムティビルの中は、窓もなく、本当にただひたすら長い廊下があるのみである。全長30mほどの廊下は、間に柱が3本立っているのだが、向かって左側の壁は真っ白べったりの壁、右側の壁はひたすらポスターの掲示場になっている。ポスターは最初の柱までで7枚、1本目と2本目の間に6枚、2本目と3本目の間にも6枚。3本目の柱の向こうにも、ポスターが3枚。それとは別に、保険相談受付中とか、住宅ローン相談受付中とかいった幟が、画鋲でべたべたと貼ってある。《りそな銀行は本店を大阪に置く地元銀行として、これからも大阪をはじめ地域の発展に貢献して参ります。》という、りそな銀の10周年ポスターも貼ってあった。このポスターはたぶん東京には貼っていないのだと思う。少なくとも私が首都圏で見た記憶はない。
 ここまで歩いてくると自動ドアがあって、これでサムティビルからは出ることになる。自動ドアを出たところに、りそな新大阪駅前支店の建物との間にある細い空間で、すぐ目の前に、今度は支店の建物に入るための自動ドアが付いている。りそなの建物との間のほんのわずかな部分には、2つのビルから半分ずつひさしが出ているが、両者は一体化しており、雨水が上から落ちてくることはない。ひさしの下、2枚の自動ドアに挟まれた外部の空間は、両側に柵がついて閉じられている。柵にはドアが付いているが、ドアノブにはプラスチックのカバーがかけられており、本当に非常用のドアでしかない。
 柵で囲まれた外部空間から支店側の自動ドアを入ると、そこは大和銀行時代に出入口として使っていたらしい空間である。駐車場側に出入口があるようだが、封鎖されている。サムティビルの側に抜けられなければ、ここが支店の東側入口として風除室になっていたのだろう。そして、その先にもまた自動ドアが1枚。結果、新御堂筋側も含めれば、店に入るまでに実に4枚もの自動ドアを通り抜けることになる。4枚の自動ドアのうち3枚は、ガラスにりそなグループ標準の緑とオレンジのシールを貼り、「りそな銀行」「新大阪駅前支店」の表示もしっかり施してある。几帳面というか何というか。
 ここまで来て、ようやくキャッシュコーナーに入る。このキャッシュコーナー自体が、さらに窓口室に通じる通路のような細長い形になっている。サムティビルの廊下とキャッシュコーナーを延々と抜けて行った先に、ようやく窓口室があるわけだ。支店建物の端から新御堂筋側の出入口までは60mぐらいあることになり、尋常ならざる長さにあっけにとられる思いがした。なお、キャッシュコーナーの中身については前述した。
 以上を確認して、新大阪駅前支店の探検は終了した。

 りそな銀行新大阪駅前支店は、大和銀行新大阪駅前支店として1964年3月開設された。1977年11月の仮店舗移転を経て、現店舗は1984年4月の築であるという。

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 【注】2014年4月のダイヤ改正により[41]は1時間に1本程度の運転となった。

2015年03月22日

2013.06.20(木)(20)こんにちはこんにちは淀川区

 柴島1で左折して再び西に向かう。これをもって東淀川区に別れを告げ、淀川区に入る。
 JRのガードをくぐるや否や、淀川区最初のバス停〔西中島一丁目〕。ここから、街並みがガラッと変わったのがわかる。今まで何もない風景だと思っていたのが、建物の密度が一気に増し、上に高い建物ばかりになった。住宅はほとんどなくなってビルばかり。ビルといってもここの場合はオフィスが多いようで、1階が店舗になっている形も含めて商業はほとんど見かけない。何というのか、生活感が稀薄になった。幹線道路をつらつらと来ている感じで、ゴミゴミした感じは全くしないし、あまり書くこともない。
 そんなことを言っているうちに、前方に高架線が見えた。淀川通と交差する新御堂筋と、地下鉄御堂筋線である。目的地の〔地下鉄西中島南方〕は、もうすぐそこだ。

 1〜2分遅れて〔地下鉄西中島南方〕に着いた。
 停留所は、名前のとおり地下鉄御堂筋線西中島南方駅のすぐそばにある。ここは淀川の北側なので、地下鉄は高架に上がっている。地下鉄や新御堂筋(国道423号)の立体をくぐり、少しだけ西に行ったところ。大阪のバスは停留所を交差点から変に離したりせず、近いところに停めてくれるからよい。その代わり、この停留所には[93]しか来ないから、バスは1時間に1本。次はほぼ1時間空いて、14:32発ということになる。30分ぐらい余るハズだが、雨も降っているし時間を有効に活用しようがない。
 目の前には、新御堂筋/御堂筋線のくすんだ緑色の高架が広がる。それに沿って、北に向かって歩いていく。地下鉄と幹線道路が立体の上を通り、地域住民のためにはそれに沿う形で立体の両側に側道が走っている。側道の内側に、地下鉄西中島南方駅がある。西中島南方という駅名は、大阪の地下鉄に多くみられる合体駅名の元祖とされているが、西中島と南方の“中間地点”に駅があるわけではない。ここは生きている地名としては「西中島」のみで、南方はかつての字の名前(公的な地名としては消滅)である。
 大阪の地下鉄第1号路線である地下鉄御堂筋線は、東海道新幹線が開業した1964年に梅田から新大阪まで延長し、さらに日本万国博覧会のあった1970年に江坂(吹田市)まで延びて北大阪急行電鉄との直通運転が始まった。御堂筋線の駅は淀川の北に西中島南方を含め4つあるが、いずれも新御堂筋に挟まれる形で高架橋の真ん中に駅がある。ただ注意深く見ると、西中島南方駅と東三国・江坂両駅とは構造上の違いがみられる(ターミナルの新大阪駅は除外)。西中島の駅施設は側道を横断歩道で渡ったところにあるが、これに対し東三国や江坂は、側道をまたぐ歩道橋から駅につながっている。後から開業した新大阪駅の北側は、想定される交通量が増えて設計が変わったのだろう。三波春夫の歌声に乗って千里の丘陵に見物客が押し寄せた時代であった。
 現状、西中島南方のあたりが東三国や江坂より閑散としているというわけではない。ここは新大阪駅前支店という名前の店ができるような地区なので、新幹線の新大阪駅を念頭に置いて、たくさんのビルが建っている。もっとも、西中島南方駅前は新大阪駅から多少距離があるから、オフィスビルはあまりなくマンションばかりであるが、もう少し近づいたらオフィスビルが乱立するようになるハズだ。
 阪急京都線の踏切がカンカン鳴っている。今歩いている新御堂筋の側道は、側道とはいっても道幅が相当広くて、踏切の遮断かんはL字形になっている。警報機が鳴って遮断機が下がると同時に、L字形のさおがバネ仕掛けで伸びて一本の横棒になった。車がビュンビュン走るところは高架橋の上だから、側道を通るのはこの近所に用のある人だけ。よって、けっこう太い道だが踏切で十分なのだろう。踏切の横には地下道も一応あるが、急いでいるわけでもないので踏切が開くのをボーッと待つ。なにしろ、次のバスまでたっぷり1時間あるのである。
 踏切のすぐ横は、阪急の南方駅になっている。対向式ホームの駅だが、ここは跨線橋もなく、改札も上りと下りとで別になっている。昭和30年代の郊外電車の駅はこんなスタイルだったなあと思った。電車は、上り河原町行きの特急が通過し、その後もう1本、下り梅田行きの各駅停車。駅に停まり、客を乗降させて発車である。急いでいるわけでもないのに、踏切でこういう待たされ方をすると、心に微妙なささくれが生じてくるのはなぜだろうか。

 遮断機がようやく上がった。
 踏切の周辺を見る。地下道入口の小屋は、京都の個人タクシーのような白緑色に塗ってあった。1階に居酒屋の「養老乃滝」が入っているテナントビルは、2階以上がマンションになっているようだ。この養老乃滝は、最近突如閉店した。関西地区のフランチャイズ会社が蹉跌したためだという。そこも含めて1階に商業が入ったビルばかり建ち並んでいるが、ファストフードのサンドイッチ屋やら、不動産屋その他、私が利用しないような店ばかりである。その横、東側だけ外壁が暗い緑色になっているのは、日本年金機構(淀川年金事務所)の入った日清食品の大阪本社ビル。このあたりは以前に少し描写したことがある【注】。1階が店舗になったビルが並ぶ新御堂筋の側道をさらに北上してくると、まず三菱東京UFJ銀行の新大阪駅前支店(旧三和銀)がある。
 三和の北隣にあるのが「サムティ新大阪センタービル」という8階建ての建物であった。1階には西中島南方駅前郵便局が入っており、ビル自体はサムティという不動産会社の本社である。このサムティという会社は、閉店した琵琶湖畔の有名なショッピングセンター「ピエリ守山」を引き継いで2014年12月に再オープンさせたことで知られるが、まあそれはよい。それより、りそなのウオッチャーとしては、郵便局の隣にりそな銀行の看板が出ているところが一大事であった。サムティビルの1階、郵便局の北側に、りそな新大阪駅前支店の入口があるのだ。ここは本当に入口だけで、りそなの支店はもう少し北側の交差点で新御堂筋から西に入ったところにある。旧大和銀行の店は開設当時は新御堂筋側にあったそうで、現在の長い渡り廊下はその名残であるようだ。大きな交差点の一角を丸々占めているのだけれども、新御堂筋側にも入口が必要だったのだろう。

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 【注】当ブログ2009年5月26日掲載「2008.01.25(金)(24)南方の北方、新大阪駅前

2015年03月21日

2013.06.20(木)(19)ひとまずさらば東淀川区

 〔長柄橋北詰〕を出ると、バスは急坂を登り始めた。上がったところが長柄橋に入るT字路の信号である。淀川通はここでようやく淀川の「土手の上」に上がり、淀川の水面が初めて見えた。
 井高野からここまで同じ道をたどってきた[93]の兄貴分、大阪駅前行きの[37]は、ここで左折してお別れとなる。長柄橋は橋長655.6m、この橋を渡ると北区天神橋八丁目で、橋を渡った[37]は天神橋筋を南下し、関西テレビ南側の扇町で右折して大阪駅を目指す。大阪駅までの間には、りそな銀行天六支店と近畿大阪銀行天神橋筋支店がある。

 [37]に触れたついでに、ここで[93]も含めた井高野方面の市バスの歴史について紐解いておこう。
 東京と同じく、大阪の市営交通は路面電車から始まった。1903(明治36)年9月に花園橋西詰〜築港桟橋間の約5kmで運転が始まったのが大阪市電の最初で、これは大阪のみならず公営路面電車としても日本初であった。大正時代に入ると、バス事業を営もうとする民間事業者が増えてきて、大阪では大阪乗合自動車、通称「青バス」が1924(大正13)年に事業を開始し、市街地の主要な部分でヘゲモニーを握った。大阪市直営のバス事業は1927(昭和2)年2月、阿倍野橋〜平野間の4.8kmが最初となった。その後、大阪市域の拡張(周辺自治体の合併)により市営交通も拡充を続け、また1940年には民間バス大手となっていた青バスを買収したが、既存民鉄や大阪府との調整は大変なものであったようだ。
 東淀川区方面への市営バスは、1931年9月、〔天神橋筋六丁目〕から長柄橋を経て〔菅原〕まで開通した37号系統が最初である。これが、現在まで同じ系統番号で続く[37]の原形ということになる。蛇足ながら、大阪市営バスの系統番号はもともと、市バス第1号路線の起点である阿倍野橋を基準に反時計回りに付番されていた。太平洋戦争前には50番ぐらいまであったようだが、その後は系統や路線の廃止によって生じた空番を新設系統に付与したため、今となっては番号を見ただけではどんな路線かわからない。現在〔あべの橋〕〜〔出戸バスターミナル〕の路線に[1]の番号が付いているが、これは創業路線そのものではなく、創業路線に似た新設系統に後から番号が割り振られたものである。
 [37]は1940年には天六から梅田まで延長されたが、太平洋戦争中の1945年6月、空襲により長柄橋が大きく損傷したため、バスも運休を余儀なくされた。1946年11月天六〜菅原間で運転が再開された後、運転区間は数次にわたって小刻みに延長され、1951年2月には〔大阪駅前〕〜〔江口橋〕の運転となった。東淀川区北東部の水田地帯であった井高野地区は、高度成長期に入って住宅地としての開発が進み、交通局は1964年4月1日に井高野営業所を開所した。これを機に[37]も〔江口橋〕から〔井高野車庫前〕まで延長され、〔大阪駅前〕〜〔井高野車庫前〕間11.279km【注1】の運行となって、現在のスタイルがほぼ確立した。
 [93]の原形が生まれたのは、井高野営業所開設半年後の1964年10月1日のことである。この日、[93]〔井高野車庫前〕〜〔西中島南方〕間8.865kmと、[94]〔西中島南方〕〜〔福町〕間7.145kmの2路線が運行を開始した。この2本[93]と[94]を統合し、[93]として〔井高野車庫前〕〜〔福町〕間16.250kmの通し運転を開始したのは、大阪市バスの運行系統が大きく再編された1972年7月24日のこと。この時から[93]が市営バスの最長路線となった。
 1981年3月3日、歌島橋バスターミナルが開所した。井高野〜福町間の通し運転は、この前からゾーンバス制度【注2】導入にともない[幹特93]という系統番号になっていたが、これを歌島橋BTで分割し、現行(めぐ実施日現在)の[93]と全く同じ[幹93]の運行がこのとき始まった。なお、BT〜〔福町〕間の区間運転は[支93]と称し、それまでの[幹特93]は[特93]という名前になった【注3】。
 [特93]はその後[93C]となったが、採算面ではあまり芳しくなかったようで、のちに朝ラッシュ時のみの運転となり、また〔井高野車庫前〕から〔福町〕への片方向のみの運転とされた。2010年3月に[93C]は廃止され、井高野〜福町の淀川3区大縦断は消滅した。その後の経過は、本文に書いたとおりである。

 さて、我が[93]は長柄橋の交差点を過ぎて土手から再び横に離れ、同時に急な下り坂になって、長柄橋の北行き右折車線の下を抜けた。間もなく、右側には広大な芝生の土地が広がる。レンガ造りの相当大きな建物が見えた。水道記念館と出ているが、本日は休館日らしい。ここは歴史ある大阪市水道局の柴島浄水場で、水道記念館(水族館と展示施設)に使われているレンガ造りの旧ポンプ場は国登録有形文化財になっている。淀川は大阪のみならず近畿エリアの母なる川とあって、柴島浄水場近辺には水道の施設がたくさんある。さきほど城東貨物線の淀川橋梁について触れたけれども、最寄りバス停の〔東淡路一丁目〕から鉄橋に行くまでの間には、兵庫県の尼崎市水道局が取水堰を設けていたりする。取水堰は他にもこの付近の淀川にいくつかあるようだが、いずれにしても最大手である大阪市の浄水場の膝下には、似たものが集まりやすいようだ。なお、水道事業の府市統合を唱える橋下徹大阪市長は、柴島浄水場を閉鎖して売却する方針を立てている。前述の水道記念館は、そのあおりで、この日だけでなく昨日も明日もあさっても、それ以後も休館なのであった。
 淀川通はほどなく石垣にぶち当たり、右へ90度曲がった。この石垣の上には、東淀川区と淀川区との境界をなすJR東海道本線の線路がある。直角に北へ曲がった淀川通は、石垣沿いに水道局の西側を北上する。大阪では「〜通」という名前は東西の道に使われ、南北の道は「〜筋」というのであるが、ここでは淀川通が南北に走っている。もちろんこれは一時的なもので、水道局の正門がある柴島一丁目の交差点で今度は左に曲がる。バスもここで左折する。
 結局、[93]には「淀川土手を“快走”」する区間というものはほとんど存在しなかった。淀川が見えたのは、長柄橋の付け根の前後100mほどであった。

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 【注1】営業キロはそれぞれの時点での公表数字。以下同様。
 【注2】ゾーンバス:定時運行の確保と車両の効率運用のため、郊外の主要拠点にバスターミナルを設け、そこから都心部までの基幹バスと末端部の支線バスとに路線を分けたスタイル。大阪市では1974年に導入され、幹線系統と支線系統のバス路線を指定停留所で乗り継ぐ際に乗継券を発行していた。幹線・支線の区別は2002年に撤廃された。
 【注3】ゾーンバス制度実施時、系統番号には幹・支・特・臨の4つの漢字が使われていた。幹は幹線、支は支線、特は幹線と支線の直通系統、臨は基本系統と発着地が違うもの。ゾーンバス制度に該当しない路線の系統番号には漢字が付かないケースもあった。

2015年03月20日

2013.06.20(木)(18)バスは淀川堤防へ

 [93]を使ったりそなの旅を続けよう。
 〔東淡路一丁目〕に来たところまで書いた。〔東淡路一丁目〕の次は〔柴島〕である。前方には、淀川の堤防が長く横たわっている。そろそろこのあたりで、堤防に沿って淀川沿いを「快走」する区間に入るハズであった。
 バス停から堤防までの間は、道の東側が除却されて大阪市の土地になっていた。ここからそのまま南に向かう橋をかけて、幹線道路を通す計画でもあるのではないだろうか。大阪市の財政難から架橋計画が凍結され、そのために赤川仮橋が閉鎖された後1kmも上流の橋を使わなければならなくなった、というのは後日わかったことである。
 ほどなく、東淡路一丁目の交差点、というか堤防に突き当たったところで、淀川通が右に折れ、バスもそれに合わせて右折した。いま乗っている西行きのバスは、ここからしばらくは淀川堤防に沿って走る。堤防の北側、最上部から一段微妙に下がった淀川通の本道である。左の車窓は淀川が見えるか見えないかぐらいの高さのところを走っているが、東行きのバスは本道の東行き車線ではなく土手の下を走る側道を通るから、淀川は車窓から「全く」見えない。ここから、集落は右側、つまり堤防の北側にだけ広がることになる。町工場が混在する住宅地であった。左側はひたすら堤防が続いている。
 相当長い距離を走ったと思えるところで、ようやく〔柴島〕に到達した。停留所のそばには歩道橋がかかっている。〔柴島〕の西行きは、反対側の集落とつなぐため、歩道橋をこの停留所のためだけにわざわざ付けているのであった。このバス停は、歩道橋の使用を拒否した場合、背後の淀川堤防に階段で上がるか、あるいは車道の端を歩くかしない限り、どこかへ行くのは不可能である。乗客が見込まれる淀川通の北側の集落にとっても、都心方面のバス停にアプローチするには歩道橋がないと無理であるから、この地区は相当に大変な思いをしてバスに乗っていることがうかがえる。なお、側道を走る東行きは、普通に道端にバス停があって、当然のことながら歩道橋などかかっていない。これは後日東行きのバスに乗って確かめた。
 とはいえ、さすが大都市・大阪というべきか、待っている客はここ〔柴島〕にも複数いた。ただし、歌島橋行きは大阪駅前行きと比べるとやはり乗る人が少ないようで、この[93]が来てもバスに乗らない人というのが何人かいた。運転手も「大阪駅前行きはしばらくお待ち下さい」と、車外に向けてアナウンスしている。この近辺がバスの乗車動態としてはボトルネックになるのだろうが、客が少ないから空を飛んで行きましょう、というわけにはいかない。
 私の印象では、[93]は客が少ないといっても[梅70]並には乗っていると思うが、おそらく「並」では赤字になってしまうのだろう。[93]の1日の総乗車人員【注1】は、2010年11月のデータで2743人ということだが、2005年の同じ調査では3967人あった。2〜3年おきに行われる交通調査のたびに乗客が15%ずつ減っている計算だが、2006年の地下鉄今里筋線開業と、それにともなうバスの本数削減は考慮する必要があるだろう。なお、2008年に「幹線系」として調査結果が出されていた[93]は、2010年の交通調査では「地域系」とされており、格下げになっている。客が減って儲からないから本数が減るのか、本数が減って便利でなくなるから客が減るのか、いずれにせよ[93]は負のスパイラルになってしまっているようだ。

 近畿地方を支える淀川は、流路延長75km。琵琶湖から南流し、いくつかの川を合わせて大阪平野を西南に流れ、途中で神崎川と大川を分けて、最後は大阪湾に注いでいる。意外に思われるかもしれないが、淀川は厳密にはここ〔柴島〕の先で終わってしまい、新たに「新淀川」という名前が付いている。ここは、明治期以前には淀川が大きく南へ曲がっていたところで、改良工事により築造された放水路を「新淀川」と呼んでいる。淀川は大規模な水害が頻発していたため、1885(明治18)年の大洪水をきっかけに明治政府が改良工事を行い、川幅500mを超える放水路と水門ができた。以来、柴島の対岸にある毛馬(けま、大阪市北区)の地は、淀川の重要拠点となっている。1907年に完成した閘門と洗堰【注2】は、新しい施設に置き換えられて役目を終えたが、国の重要文化財に指定されて公園になっている。
 旧来の淀川の流れは、大川と名前を変える。毛馬から南へ進むと、大阪城の北で大きく西に進路を変え、中之島で二股に分かれる。川の名前はそこで堂島川と土佐堀川に変わる。この2つが合流するとさらに安治川と名前を変えて、「海遊館」で有名な天保山付近で大阪湾に注いでいる。

 相変わらず淀川堤防沿いの道を西に進んでいる。スッパリ「土手の上」と書ければどれだけスッキリすることかと思うけれども、左の車窓には草の生えた斜面が石垣の上に見えるのみ。堤防を見ながら走っているような感じであって、もちろん水門なども見えない。阪急千里線の橋台がそびえ立った手前に、次の停留所〔長柄橋北詰〕がある。その名のとおり長柄橋という橋の北詰で、ここもやはり道の北側からバス停に通じる歩道橋が来ている。ただし、〔柴島〕との違いは西行きの停留所から歩道橋を渡らなくてもどこかに行けることで、バス停から歩道がそのまま長柄橋まで続いている。
 大阪の市街地と淀川の北岸とを結ぶ長柄橋は古くから重要な橋で、人柱伝説など架橋に関しての言い伝えも多くある。1909(明治42)年、淀川改良工事にあわせて新淀川にかかる橋の第1号として架設され、現在の橋は1983年に完成した3代目。ニールセン・ローゼ桁といって、両サイドが内側に傾斜して断面がアルファベットの「A」のような形をしているところが珍しいが、それより北行き車線が橋の途中で二股に分かれていることの方が興味をそそられる。天神橋筋から北上して長柄橋を渡ると、北詰で柴島浄水場、というか淀川通に突き当たる。左折(十三方面)は橋を渡りきったところにあるT字路で普通に左折となるのだが、上新庄方面への右折は橋の途中で左分岐に入り、長柄橋北詰のT字路部分は立体交差でまたいで、淀川通の東行き車線に合流する。飛行機で大阪に来ると、伊丹空港に着陸する寸前、アルファベットのyとqを合わせたような形をした橋が眼下に見えるが、それがこの長柄橋である。連載の制作中にこの事実を知ったが、事前に知っていれば、台風の日の羽田からのフライトももう少し楽しかったのではないかと思う。
 なお、淀川堤防沿いを走る市バスは、東行きに限り側道を経由していたが、側道はここ長柄橋の北詰から始まっている。[93]の東行きと西行きは、ここから再び同じ道を走ることになる。

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 【注1】「バス交通調査の結果について(平成20年11月実施)」、および「平成22年度バス交通調査結果について」 いずれも大阪市交通局ウェブサイトより。
 【注2】閘門(こうもん)と洗堰(あらいぜき):淀川から放水路を分岐した際に大川の入口に設けられた施設。閘門は、高さが異なる2つの水域の間に船舶を通すための水門付きプールのようなもの。洗堰は川の流量を調節するための水門。

2015年03月19日

2013.06.20(木)(17)淀川橋梁のこと

 人道橋で有名なJR城東貨物線の淀川橋梁を、別の日に時間を取って見てきた。「めぐ」を実施した2日後、2013年6月22日土曜日のことである。
 この橋は、東海道線の吹田操車場(吹田市)と片町線の鴫野駅(しぎの、大阪市城東区)との間を結ぶ城東貨物線の、淀川をまたぐ鉄橋である。1929(昭和4)年に建設されたもので、延長597m、幅8.5m。鉄橋は複線用だが貨物線は単線であり、使わない半分を大阪市が国鉄から無償で借り受けて「赤川仮橋」という木製の歩道を追加した。赤川は橋の南側、旭区にある地名である。この鉄橋を複線化して旅客列車を走らせる計画が進んでおり、それが「おおさか東線」の延長計画である。JRおおさか東線は、貨物線を転用して2008年3月に久宝寺(八尾市)と放出との間が開業したが、さらに2019年の開業予定で放出〜新大阪間の工事が進んでいる。この橋が複線化されると、当然ながら人が通れるところはなくなってしまう。その期限が目前に近づいているハズなのであった。
 さて、淀川橋梁は、〔東淡路一丁目〕停留所のすぐ南にある東淡路1の交差点から、東に200mほど行ったところにある。交差点というより、南進してきた淀川通が堤防に突き当たって右(西)に折れて曲がっているだけだ。ただ、堤防の裾の部分を走る細い道が続いているから、やはり「交差点」で、形としてはy字形をしている。淀川通から外れた東側は一方通行の1車線分ぐらいしかない狭い道で、いつも渋滞しているようだ。「道路予定地/大阪市建設局」という看板のついた空き地が堤防に沿ってずっと続いているが、道路をつくる気配は一向に見えない。
 階段で堤防に上がると、左に白い鉄橋が見えた。これが淀川橋梁である。水面を見ると、7〜8人で細長いボートを漕いでおり、また河川敷ではボートを何隻か台の上に載せていた。近所に神戸大学のボート部があるらしい。今来た一方通行の道は、堤防の裾から線路の高さまで上がってきて、亀岡街道踏切という踏切になっている。看板によれば、吹田信号所と鴫野駅との間にある2番目の踏切だそうだ。
 人道橋の渡り口にやって来た。仮の橋というだけに、欄干が木製である。人が歩く部分には、古いアパートの階段で見られるような縦横縦横のエンボスが斜めに並んだ鉄板が敷いてあった。この状態が川の向こうまで続いているわけである。入口には、大阪市建設局による《赤川仮橋は、「おおさか東線」整備のため、平成25年秋頃より閉鎖となります。》という看板がついているが、現時点でおおさか東線の工事はこの付近では全く始まっていない。単線を複線化するだけとはいえ、事実上新線建設のようなものだし、放出から北に延びるのはまだ相当に時間がかかるハズだ。
 赤川仮橋の閉鎖後は、東に約930mの地点にかかる菅原城北大橋を使うようにとあった。上流側を見ると、はるか彼方に大きな橋がかかっている。高い柱を立て、そこからワイヤを枝分かれさせて吊っているタイプのつり橋。一瞬絶句した。あんな遠くまで行けというのか。ここに線路を通すとなったら、人道橋を閉鎖せざるを得ないのは理解できるが、1kmも行かないと別の橋がないような場所である。やはりここは何か対策をして欲しいものだ。実現性がないのを承知で書くと、ガントレット【注】にするとか、人道橋だけでも新しい橋を作るとか。あるいは、大阪市らしい方策として、渡船でも出せないだろうか(大阪市には市営の渡船が現在も複数ある)。

 北から南へ、赤川仮橋を歩いて渡ってみた。
 人道部分についている木製の欄干はだいぶ古くて、部分的に腐食してボロボロになっている。途中で1か所、ガムテープで補強してあるところさえ見かけた。敷いてある鉄板も、外れていると思える音のする個所がところどころある。自転車の交通量がかなり多く、相当なハイスピードでビュンビュン走ってくるのは、本当に怖かった。これは生半可なつり橋より怖いかもしれない。もっとも、「怖い」というのは、写真など撮っているところで衝突されたら、カメラを川に落としてしまうという恐怖である。それでも「怖い」ことに変わりはない。とはいえ、川の北岸では、ホーホケキョとウグイスが鳴いていた。川の南の旭区側でも、別の種類の鳥が鳴いていた。怖いながらも、長閑で平和な雰囲気が漂っている。橋の長さは全長7〜8百mあると思えたが、前述のとおり実際はもう少し短い。
 この橋が跨いでいるエリアは、3つに分かれている。北側から入ると、まずいきなり淀川の本流部分を渡る。河口が近いので、相当に水量も多いし幅が広い。次に「ワンド」。このあたりには、ワンドと呼ばれる独特の水域がある。橋自体はワンドの直上ではないけれども、ワンドから一続きの土砂が堆積した部分を跨いでいる。そして、河川敷の部分。ここはサッカー場になっていたり、橋の西側はテニスコートになっていたりする。そこを越えると、普通の大河川と同じように堤防上に接続して、鉄橋も終わりである。
 ワンドについては、淀川を特徴づけるものであるので少し詳しく述べておこう。建物にたとえると、川の本流を廊下とするなら、ワンドは廊下に面したドアの付いていない部屋のようなもの。本流とつながっている“部屋”の水域である。明治時代、大阪に港をつくって京都・伏見まで蒸気船を通す計画が持ち上がり、当時の友好国オランダから技師を招いて先進国の土木技術で淀川を改修した。淀川に蒸気船を通すには水深が約1.5m必要で、また川の流れが速いと船が上流に向かって航行しにくくなるため、水路をくねくねと曲げて流れを緩やかにした。その際、カーブ部分に流れが当たって水路が壊れることを防ぐため、岸から川へ垂直に突き出す突起を設置した。突起に囲まれた部分には土砂がたまり、そこに水際を好む植物が生えた。これがワンドで、淀川全体では(資料によって差があるが)35〜55か所あるという。ワンドは水の流れが少ないため魚が暮らしやすく、木や草の生えたところは魚の産卵や稚魚の生育にも都合がよいため、川の本流にはない多様な生態系があるそうだ。

 赤川仮橋は秋ごろ閉鎖というから、最大まだ半年ぐらいは実際に渡れるのだが、すでに観光名所と化している。堤防には鉄道雑誌を読んでいる人がいる。それ以上に目立つのが、三脚を構えた人々である。カメラの向きからすると、まもなく北から南(鴫野方面)行きの列車が来るようだ。
 旭区側から北岸に戻り始めると、橋を渡っている最中、遠くから踏切警報機が鳴るのが聞こえてきた。いいタイミングで列車が来てくれたものだ。この橋は、土曜日には12:20頃に北から南に向かう列車が通るようである(2013年6月現在)。ほどなく、私の横をEF66型電気機関車がけん引する貨物列車が通過していった。何両編成かはわからないが、コンテナ貨車をかなり長くつないでいる。隣を人が通っているからスピードも多少セーブしているのだろうが、それでも結構な轟音と地響き。動くのがちょっとはばかられるぐらいの揺れ方であった。そんな中、近所の中学校の野球部と思われる集団が、私の横を走り抜けていく。彼らはこの程度の振動には慣れていると見える。スリルがあって良いが、わざわざこんなところを選んで走るなよと思った。この話を思い出しながら書く私の目は、笑っているが。
 淀川北岸には、見ていて飽きないものがたくさんある。赤川仮橋は長いこと来てみたいと思っていたのだが、閉鎖される前に来ることができて本当によかった。いま悲しいわけではないが、上田正樹の『悲しい色やね』という歌の一節を思い出した。「♪河はいくつもこの街流れ、恋や夢のかけら、みんな海に流してく」と歌っている。大阪市内とはいってもここをうたった歌ではないだろうが、大阪八百八橋というか、川とともに生きる大阪、そういうことを思った。一渡り10分ぐらいだが、スリリングな経験であった。

 淀川橋梁の「赤川仮橋」は、2013年10月31日(木)24時をもって閉鎖された。

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 【注】ガントレット:「単複線」ともいい、単線分よりやや広い用地に複線の線路を重なるようにしてはめ込んだもの。日本では名古屋の名鉄瀬戸線で1976年まで使われていたものが有名だった。

2015年03月18日

2013.06.20(木)(16)レバニラ食べて淀川のほとりへ

 上新庄駅周辺を見回してみると、近所には地上げされてバリケードで覆われたままになっている土地が若干ある。駅前から延びる通りは、はなみずき通りという。ということは、ここの街路樹はハナミズキなのだろうが、季節的に何の木だかはわからない。私は、花はともかくとして「ハナミズキ」という名前が好きになれない。紅白のかれんな花を咲かせる木だが、どうも名前からしてズルズルすする別のものを想像してしまう。通称ではなく「アメリカヤマボウシ」という植物の名前で呼んだ方がよいと思う。
 駅の出口では、車いすに乗った人が「障害者の手作りクッキー」というものを売っていた。路肩で売らないと販路がないのか、それとも路肩で売ることで職場を創造しているのだろうか。最近は雇用情勢も改善されたようだが、この時は空前の就職難で、身障者は健常者以上に仕事がなくて大変だった。雇う側としては、身障者を雇うのは面倒臭いという感覚が働くのだろうが、最低でも2%【注1】は身障者を雇用しなければならないのは、身障者雇用促進法で決まっている。
 で、いま最大の関心事は、昼飯である。どこで食べようかしら。ガストの赤丸のロゴマークがまず目に付き、次いで駅ビルの一角に吉野家が入っているのが見えたが、どちらも大阪に来てまで入りたい店ではない。たこ焼きの「じゃんぼ総本店」は好きなチェーンなのだが、おやつにしかならないからパス。クッキーもしかり。結局「餃子の王将」が一番マシと思えた。王将も何が悲しくてこんなところでに近い料理店だが、ふとレバニラが食べたくなったのである。駅の南側、東海道新幹線の高架の付け根にある福徳銀行上新庄支店跡(グルメシティ)の写真を撮りに行った後、手前にある餃子の王将に入った。レバニラは、店のメニューの名前としては「ニラレバセット」であった。

 空腹を満たして〔上新庄駅北口〕まで戻ってきた。バスの時間は13:13だったと思う。まだ10分ぐらいある。次の目的地は〔地下鉄西中島南方〕【注2】。ここ〔上新庄駅北口〕からは少し長い距離を乗ることになる。
 バスはほぼ定時でやって来た。発車したところで《本日は市バスをご利用いただきありがとうございます》と、始発停留所のようなアナウンスが入った。[93]の兄貴分にあたる[37](大阪駅〜井高野)には、2010年まで上新庄駅折り返しの[37C]というのがあったから、その名残だろう。
 片側2車線の中央分離帯つきの幹線道路が続いている。下町ならではの風景か、大きな道路に面した所にいきなり民家があって、玄関がボンと出ているスタイルが見られる。東京では江東区とか江戸川区といった下町に行けば多少は見かける気がするが、前回の連載で取り上げた青梅街道沿いで見た記憶はない。〔上新庄〕で一番前の席が空いたので移ろうと思ったら、前方の席に座っていた老婆がすかさずそこに移動した。足腰弱ってるんだから、無理によじ登らない方がいいんじゃないか、と勝手なことを心の中でつぶやいた。
 内環状線から淀川通が分かれる上新庄の交差点は、角に上新電機が見える。ここでバスは大きく左に曲がる。右折方向は内環状線の吹田方面である。〔東淀川郵便局前〕を出て間もなく、東海道新幹線の高架をくぐった。今日1日、ここに来るまでの間に、新幹線に何回遭遇しただろうか。東海道新幹線は淀川北岸エリアを大縦断しているけれども、高架線路が続くだけだし、新大阪駅へ行く足の便も信じられないほど悪い。淀川3区の住民にとって何のメリットがあるのだろうと思える。せめて、さいたま市大宮区のように新交通でも並走していればまた違ったのかもしれないが。
 〔下新庄〕の先で阪急京都線のガードをくぐった。さっきの上新庄交差点にあった歩道橋もそうだけれども、関西では鉄橋の塗り直しということをあまりやらないのか、塗装が完全につや消しになっていたり(劣化して光沢がなくなっている)、サビサビになっていたりするところが多い印象がある。

 相変わらずマンション1階だけ店舗という建物が多いが、淀川に近づいてきたせいか、注意して見ると倉庫のような建物が現れ始めたり、あるいは建物がなくて駐車場になっているとか、ちょっとだけまばらな印象になってきた。そして、〔豊新二丁目〕のある豊新から〔菅原〕(すがはら)にかけてのあたりは、けっこう町工場の多いエリアのようだ。
 〔菅原〕の先、菅原一丁目交差点で、片側3車線の中央分離帯付き大幹線道路が左の方に向かっていった。ここは少し前の地図では工事中になっていたと思う。淀川通をさらに行くと、コンクリ打ちっ放しで真っ白な真新しい高架線が見えた。これは、2019年にJRおおさか東線に生まれ変わる予定の「城東貨物線」である。ちょうど貨物列車が通過していくのが見えた。このすぐ南側にある淀川の鉄橋は、JRの鉄橋でありながら人が通れるようになっていることで有名だ。歩道が近々廃止になるハズなので、見に行ってみたいと思っている。
 城東貨物線の高架を抜けたところに、「国際興業大阪」という看板が出ている。さっき正雀駅前でタクシーの話をしたけれども、その際に出てきた国際興業大阪の、ここが本拠地である(本社・淡路営業所)。東京の城北地区〜埼玉県で路線バスを営んでいる国際興業の、大阪支社のようなもの(現地法人)で、タクシーと観光バスを営んでいる。前回[梅70]の連載を作るとき、私は青梅市の隣市・飯能市を走る国際興業についても多少調べたが、まさか今回こんなところで関わってくるとは思わなかった。
 マンションなども多少減ってきて、代わりに町工場に囲まれた雰囲気のところに入ると、淀川の堤防が見えてくる。その突き当たりの手前にバス停がある。〔東淡路一丁目〕。停留所の数でいうと、ここが〔井高野車庫前〕と〔歌島橋バスターミナル〕とのちょうど中間である。マンションが減ったと書いたが、ここは道の向かい側に「エバーグリーン淀川」という10階建ての巨大マンションが壁のようにそびえている。建物の一部は「エバーレ」というショッピングセンターになっている。「威張れ」と聞くと「靴舐めろ」という言葉を連想してしまうが、それはともかく1階にはスーパーマーケット(ニッコーストア)や家電量販店(エディオン)とかが入っており、なかなか生活の便利そうなマンションである。
 なお、このマンション1階のSCには、かつて福徳相互銀行が東淡路支店を出店していた。1976年11月に開設されたが、阪急淡路駅前に淡路支店ができた1989年9月出張所に降格となり、1994年5月淡路支店に統合されている。淡路支店はのちに近畿大阪の淡路支店となったが、2002年6月西淡路支店に統合されて消えた。東淡路支店跡は別の日に見たが、「なみはや銀行」のロゴタイプをはがした痕が残っていたのに驚いた。有人出張所統合後もしばらくは店舗外ATMとして営業していたようだ。

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 【注1】民間企業の場合。
 【注2】2014年4月のダイヤ改正で[93]の経路が変わり、〔上新庄駅北口〕から〔地下鉄西中島南方〕へ直行できるバスは運転されなくなった。

2015年03月17日

2013.06.20(木)(15)続いて、りそな・上新庄支店を制覇

 12:10頃、バスは〔上新庄駅北口〕に到着した。停留所には市バスと京阪バスの2本の標識が並んでいる。市バスのそれは接近案内のついた緑色の大ぶりのもの。京阪バスの方はバス停ポールだけでハイテクは付いていない。上屋はテントではなく、アルミの建材を使った立派なものであった。
 「北口」というのは関西地区らしい名前のつけ方である。さっきも〔井高野南口〕という停留所があったけれども、「北口」「南口」というのは「北の方」「南の方」程度の意味でしかない。有名なものに、阪急神戸線の西宮北口駅がある。兵庫県西宮市の中心市街地から北(正確には北東)に2kmほど離れた場所にあり、現阪急今津線が当初は西宮市街地に乗り入れる計画だったために、この駅名が付けられたという。
 停留所の目の前は、入母屋屋根の古い民家であった。瓦ぶきの塀で囲まれた敷地内には庭が作り込んであり、土蔵もあってけっこうな名士の家ではないかと思うが、少し荒れているようだ。通りの反対側に目を転じると、稲荷商店街というのが見える。シャッターストリートのように見えた。時間的な理由かもしれないが、駅からの人の流れが分断された場所にあるから寂しく感じるのではないだろうか。
 商店街入口の右側にある、立ち飲み屋の店名にちょっと感心した。「にっこりや」という。看板のテントには、漢字3文字で「日韓家」と書いてある。笑顔の「にっこり」と国名の「日本」「コリア」。なかなかハイセンスなネーミングではないだろうか。日本と韓国の間は最近少しぎくしゃくしているようだが、政治のことはさて置き、こういう草の根のレベルでは、仲良くできる人とは仲良くしてゆきたいものだと思う。世の中「仲良くできる人」ばかりではないけれども、少なくとも波風を立てない努力はすべきだと思うし、そのためにはいたずらに関係を悪化させるような言動は慎むことではないだろうか。蛇足ながら、「コリア」を使った店名では、以前、東京・早稲田でチヂミの店「あーこりゃこりゃ」というのを見かけたことがあるが、閉店してしまったようだ。

 さて、ここから上新庄駅までは、若干の歩行が必要だ。駅に向かう道路が高架線の手前にあって、高架沿いに梅田方向に歩いたところ。道の入口に「阪急のりば 南改札口」という電鉄会社がつけた矢印看板がある。高架沿いに歩いてくると、高架下は自転車がぎっしりと置かれた大駐輪場。道の反対側には商店が若干並んでいるが、個人商店が集まっただけという感じで「商店街」とも違う雰囲気である。その先に駐車場があって、同じ敷地に2つの銀行の看板がついている。この2行、関西アーバンと池田泉州の上新庄支店が上新庄駅ビルの中に入っているのは知っている。旧関西銀と旧池田銀の2つの支店が駅ビルの中で向かい合い、駅ビルを出ると目の前にりそながある、という位置関係である。
 上新庄支店は、本日初のりそな銀行である。さっさと写真を撮ってしまいたいが、支店の前は道幅が狭いから、それなりに後退しないとアングルが決められない。ところが、下がったところは市バスの乗り場であって、発車待ちしている布施行きの[86]が邪魔している。ようやくバスが行ったと思ったら、今度は別の車が支店の前に青空駐車を始めた。仕方なく、写真は後に回すことにした。
 店に入ると、大和銀行時代の標準的な内装がそのまま残っていた。ATMが8台あって、左側の6台がオムロンJXの白、一番右の2台が日立オムロンのAK-1であった。12:21、上新庄支店を制覇した。

 りそな銀行上新庄支店は、大和銀行上新庄支店として1986年6月に開設された。りそな発足後の2004年4月に吹田支店上新庄出張所に変更されたが、2006年7月再び支店に昇格して現在に至っている。上新庄への出店は、大和銀が1983〜86年にかけて阪急京都線沿線の営業拠点を強化した一環で、この間に南茨木出張所(茨木市、廃止済)・千里丘支店(摂津市、現存)・島本支店(大阪府島本町、同)・上新庄支店と、4店を出店している。
 東淀川支店のところで書かなかった近畿大阪がらみの話をしておこう。「上新庄支店」が2回統合されていることまでは前述した。最初に統合された上新庄支店は、1952年9月に大阪復興信用組合の上新庄支店として開設されたもの。大阪復興信組は1991年10月近畿銀行に吸収合併され、店舗はそのまま近畿銀の支店となった。同信組は1951年12月の設立で、規模としては大阪府内の30信用組合(当時)中27番目。大阪市中央区の地下鉄南森町駅近くに本店を置き、実質的には近畿銀の子会社のようなものであった。91年の合併により近畿銀は天神橋・上新庄の2支店を増加したが、上新庄支店は1998年5月東淀川支店に統合、旧本店の天神橋支店【注】もすでに統合されており、旧復興信組に由来する店は今となっては存在しない。上新庄支店は、上新庄駅南口の南側、ローソン南隣にあるタイムズ駐車場の場所(瑞光1-2-1)にあった。
 2回目、2002年7月に統合された上新庄支店は、福徳相互銀行上新庄支店として1973年8月に開設されたもので、旧なみはや店舗ということになる。福徳の後身なみはや銀行については後で詳述するが、上新庄支店は旧復興の支店のさらに南、東海道新幹線の高架の先にあった。豊新5-20-5、旧ダイエー系のスーパー「グルメシティ」のある場所。というか、旧店舗がそのままグルメシティとして使われている。

 もろもろの邪魔があって済ませていなかった上新庄支店の写真撮影は、どうにか済んだ。次のバスまでまだ40分ぐらいあるので、やっと昼飯にありつける。
 上新庄駅前は、再開発されていない郊外の駅、という感じが強い。特徴としては車が通る道の狭さであって、ここもまた例外ではない。駅舎すれすれのところを道路が通っており、駅前から発着するバスは、道路の横に少し引っ込んだ「バス停」で待機しているだけだ。ちなみに、ここから出るバスは3系統。いずれも市バスで、布施駅行き[86]のほか、豊里団地行きの[95]、井高野車庫行きの[50]である。豊里団地は淀川のほとりにある公団の団地で、バスは1時間に1本。[50]の井高野車庫行きは[86][95]の出入庫も兼ねて運転されている。上新庄駅を出たバスは、りそな上新庄支店の横を通り、関西スーパーのある小松1の交差点から外環状線に出る。

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 【注】その後移転して南森町支店に改称し、1999年9月梅田支店に統合された。

2015年03月16日

2013.06.20(木)(14)近畿大阪・東淀川支店を制覇

 「見る前に飛べ!」で10分ぐらい無駄にしてしまったが、ようやく近畿大阪銀行東淀川支店にたどり着いた。
 支店は、大桐2交差点に建つ4階建て雑居ビルの1階に入っている。北沢ビルという名前だから、地主が北沢さんなのだろう。このビルは、横に平べったい外観をしており、交差点の角地にあるということで、前面が125度ぐらいの角度を持っている。四つ角としては普通に直角クロスする四つ角だから、店舗入口で1mぐらいの奥行を取って、鈍角の斜めの部分をけっこう幅広く取っている。2階までの高さを持つ茶筒のような円筒が建物の両端についていて、左右対称の外観になっている。向かって左の茶筒は階段室のようだ。
 左端にある茶筒の右側は、切り欠きになっていて、近畿大阪の駐車場入口である。そこに「昭和五十五年一月吉日」と彫られた定礎石がはめてある。この年月日は支店開設の数か月前だから、ビルの名前はともかく、建物のメインはやはり銀行なのだと思う。《お客様駐車場》と書いてあるこの駐車場は、2台しか停められないし、すでに1台停まっている白い軽乗用車は銀行の外回りの車ではないだろうか。どう見ても支店の業務用駐車場として使われている。白い軽のほか、自転車7台とバイク1台が停めてあり、これが支店の「機動力」であるようだ。顧客用の駐車場は、なんとかモータープールというのが、裏道から回らないと行けない場所に別に1台分あるらしいが、ちょっと駐車場のキャパシティが小さすぎないだろうかと思った。駐車場入口横には、近畿大阪らしく清涼飲料の自動販売機が置いてある。さっきは「かおりちゃん」だったが、ここには「チェリオ」の自販機があって、売価は500mlペットボトルも含めすべて100円であった。関東に住んでいると飲む機会の少ないブランドばかりである。
 敷石で舗装されたメインの入口から店に入る。前面の角度を125度と書いたけれども、店内もそれに合わせた横に長いレイアウトになっている。窓口室はごく普通で、前面にガラスの壁がついたグレー主体のハイカウンターという、標準的な近畿大阪の窓口である【注1】。店の内外には「近くて大好き!」のステッカーが多数残っていた。キャッシュコーナーは、正面入口を入った衝立の右奥で、ここに機械の枠が4台分ある。内装は模様の入ったベージュ色の壁紙、行灯は近畿大阪の合併後標準スタイルで、細長い青い行灯がついている。機械配置は、一番左が「Leadus」(リーダス)銘(「OMRON」ではなく)のJX白台、234番の枠がリーダスAK-1であった。
 キャッシュコーナーはそれで終わりだが、この建物についてはまだ述べていない部分がある。正面向かって右側に付いた茶筒の部分。たぶんここは昔キャッシュコーナーだったのだろう。自動ドアがここにもあって、その奥に両替機がぽつんと1台だけ置いてある。ATMの比重が上がり、メイン入口の側にキャッシュコーナーを作ったけれども、かつてのキャッシュコーナーも両替機のスペースとして利用しているわけだ。茶筒の中には機械枠が2台分あるが、こちらにはATMは置いていない。両替機は液晶パネルのついたリーダスの最新型で、両替手数料の収納ユニットが付け足しではなく、機械の本体に直接硬貨を投入できるようになっている。
 私はもちろんキャッシュコーナーへ。11:45、近畿大阪銀行東淀川支店を制覇した。

 東淀川支店は、近畿相互銀行東淀川支店として1980年5月に開設された。
 この支店には、上新庄支店という名前の支店が2回統合されている。1回目は近畿銀行時代の1998年5月、もう1回は近畿大阪になってからの2002年7月である。これから行く上新庄は東淀川区の中心地であり、近畿大阪銀行にも上新庄に店舗歴があった。詳しいことは次節で述べる。

 りそな銀行上新庄支店は阪急上新庄駅前にあって、地図で見ると近いのだが、ここから歩くとなるとけっこう遠く感じる。とはいえ、この近所にある店舗に「上新庄店」という名前が多いことでもわかるとおり、ここは明らかに徒歩圏として上新庄の影響下に入るエリアである。
 内環状線を歩いて戻ってくると、さっき降りた〔瑞光二丁目〕の停留所がある。計画では、ここからさらに上新庄支店まで歩き、上新庄駅前で昼食を済ませて戻ってきて、[93]の13:12発に乗る予定だ。ただ、「めぐ」の用事が早く済むようなら、食事を抜きにして1本早い12:08に乗ることも考えている。
 まだ余裕があるだろうか。時計を見ると、現在時刻は12:01。今から上新庄に行って戻って、次の目的地に12:08発で向かうのは、到底無理である。まあよい。雨も降っていることだし、間もなく来る12:08発に乗って上新庄に行くとしよう。
 待っている間に掲示の時刻表を眺める。この〔瑞光二丁目〕は、井高野から来る市バスだけでかなりの大本数を維持している。そのほか、ここには市バスの長距離路線の一つ、上新庄駅と近鉄布施駅(東大阪市)との間を内環状線経由で結ぶ[86]も来る。20分間隔と本数は多いのだが【注2】、この路線はどういうわけか沿線にりそなの拠点が多くない。市バスの停留所から上新庄に少し寄ったところには、京阪バスが〔瑞光二丁目〕停留所を出している。京阪守口市駅とJR吹田駅を結んでいて、40分間隔の運転である。
 [93]12:08発は、1分ぐらい遅れていたが、ほぼ定時でやって来た。せっかく1時間に1本のバスに乗っても、降りるのは次の停留所だ。少々のむなしさを感じた。

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 【注1】東淀川支店は2014年10月にリニューアルを行い、窓口室の様子は大きく変貌した。カウンターがオープンカウンターとなり、ハイカウンターに加えてローカウンターを採用、客とテラーの間を隔てる目線部のガラスも付いていない。内装は焦げ茶色の木目調。キャッシュコーナーの行灯は緑色に変わった。なお、「近くて大好き!」は完全に消滅した。
 【注2】2014年4月以降、[86]は平日日中30分間隔での運転。

2015年03月15日

2013.06.20(木)(13)見る前に飛べ!

 11:27、私を乗せたバスは〔瑞光二丁目〕に到着した。予定では11:23着ということになっているから、3〜4分遅れが出ているようだが、まあ雨模様だから多少は仕方がないだろう。
 ここは2つの制覇目標が近接しているので、2か所まとめて取ることになっている。2か所行ったら1時間後のバスには間に合わないだろうから、持ち時間を倍の2時間確保し、次の次のバスに乗ることにした。そうすると今度は時間が余り過ぎるので、その余剰時間を使って上新庄で昼飯にする予定である。
 バスを降りた私は、何も考えずにそのまままっすぐ歩き出した。いま歩いている内環状線は、阪急上新庄駅の先で淀川通と分かれて豊中市に至る道である。さっきまで片側2車線だったが、停留所のあたりからは3車線になっている。さらに車がすれ違えそうなほど幅の広い歩道が付いているから、この道は相当に交通量が多いようだ。幹線道路沿いだからマンションも建ち並んでいるけれども、周辺は普通の住宅地であった。
 近畿大阪の支店はこの近辺の角だった気がするが、リサーチした際の記憶があやふやだ。一応メモを持っているのだが、私はこういう時、ついつい億劫がってメモを見ない癖がある。だから、それで失敗することも多い。「見る前に飛べ!」という考え方には基本的に与しないのだが、根がものぐさなので、結果としてそれに近い行動原理となることが多いのである。
 農協(JA大阪市東淀川支店)と関西スーパー(瑞光店)のある無名の交差点に来た。上新庄駅行きのバスは、ここで左折して駅に進入していく。また、井高野方面からのバスはかつて、(さっきの大隅1ではなく)この四つ角に出てきていた。ここから〔江口君堂前〕の南側まで直進で行ける。交差点のそばには、「皇紀二千六百年記念」なる石碑を立てた民家があった。民家というか、瓦葺きの塀がついた、名士の家と思われる家である。皇紀2600年は昭和15年、西暦でいうと1940年であり、この家は太平洋戦争の頃からあったことになる。私は皇紀という紀年法に現代日本人としてはなじんでいる方だと思う。自分の年齢について、嘘はつきたくないがさりとてスンナリ言いたくもないとき、皇紀を使って自分の生年を「2628年」と言っている。そのために、自分のHPにも換算表をコンテンツとして入れているぐらいだからだ。それはともかくとして…。
 違う。前方に阪急京都線の高架が見えてきた。目的地は上新庄駅とは反対側である。つまり、停留所から後方だ。なんたることか。

 足取り重く、進行方向を360度転換した。さっきバスが曲がった大隅1の交差点を越えて、内環状線を300mほど東に進んだ先。府道大阪高槻線とクロスする大桐(だいどう)二丁目交差点の角が、近畿大阪の東淀川支店である【注】。
 外壁が水色に塗ってあるJA大阪市の東淀川支店は、壁面に「定礎 昭和39年7月」と彫ってあった。定礎石ではなくて、壁面のコンクリートに直接文字を彫り込み、文字の中に黒い塗料を入れてある。生きている人の名前を墓石に先行して彫り込んだ時には赤の塗料を入れるけれども、それと同じ形態である。あの頃の斬新なやり方なのかしらと思った。自転車に乗った女子高生とこんな時間にすれ違った。見事なまでにロングスカートだった。ミニのトレンドは関西では完全に終わっている、と言い続けてもう何年になるだろうか。
 東海道新幹線の高架を抜ける。大宮のニューシャトルのような形態でこのあたりに新交通の駅でもあったら便利だろうと思うが、あり得ないのはよくわかっている。というわけで、大桐2の交差点までやって来た。近畿大阪銀行東淀川支店のほか、上層階がアパートになった雑居ビルと、スーパーマーケット(デイリーカナートイズミヤ豊新店)、カーディーラー(関西マツダ東淀川)がある。
 デイリーカナートは、最近阪急の傘下に入った関西の大手スーパー、イズミヤの食品スーパー業態である。建物の本体は軽量な印象だが、屋上に駐車場があるからそれなりに頑丈なつくりなのだろう。段ボールの片面だけ剥がしたような凸凹のついた茶色いパラペットに、「DAILY QANAT」の金属製の切り抜き文字が付いている。クリーム色の壁面には、黒で「名称由来」というものが印刷されている。《カナートとは乾燥地帯において地下水を地上にくみ上げるための地下水路オアシスの意味で、アラビア語源とされています》だそうだ。大学受験で社会科が地理選択だった私は、その頃習った中東砂漠地帯の地下水路の名称、カレーズ(ペルシャ語)・カナート(アラビア語)・フォガラ(同)の3点セットを今でも覚えている。こんなところで遭遇するとは思わなかった。
 それはともかく、アラビア語に「デイリー」という英語をつけたら何になるのだろうか。かつて『ブルー・シャトウ』という歌があったが、こうした言語チャンポンは、どうも多少の居心地の悪さがある。ジャッキー吉川とブルー・コメッツのこの歌がヒットした1967年、私はまだ生まれていない。ただし、この歌のメロディーは幼少期から知っていた。「♪コリと痛みに悩まされて」という、肩凝り湿布薬のCMソングとして。

 大桐2交差点の先に何があるかにも触れておこう。内環状線を400mほど行った先には、地下鉄今里筋線のだいどう豊里駅がある。難読地名を安易にひらがなに開くのは私は感心しないのだが、この駅の近所には、だいどうと読む地名が「大道」「大桐」と複数あって、漢字表記を一つに絞り切れないからやむを得ない。本来の表記は「大道」だそうであるが。それはともかく、井高野から南下してきた地下鉄は、瑞光四丁目でコースを東向きに変え、この駅から内環状線の下を通って南下を続ける。井高野の方から来る流れとしては、ここから西に曲がって上新庄に出るのがベストだけれども、一番肝心なところで南にそれてしまう。歴史的に今里方面への移動ニーズが強いわけでもなさそうだし、梅田までバス一本で行けるとなれば、運賃が高い地下鉄よりもバスを選ぶだろうと思う。
 大桐2では、府道大阪高槻線と交差している。高槻方面に100mあまり行くと「かみしんプラザ」というショッピングセンターがある。このSC内に、三菱東京UFJ銀行が上新庄支店を出している(旧三和銀)。さっきのデイリーカナートの店内に三菱東京UFJの店舗外ATMがあるが、その母店である。

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 【注】2014年4月のダイヤ改正で[93]の経路が変わり、近畿大阪銀行東淀川支店の至近停留所〔大桐二丁目〕を経由するようになった。大阪経済大学の南側で右折、支店前の交差点を通って東淀川区役所に向かう。

2015年03月14日

2013.06.20(木)(12)新幹線に沿って〔瑞光二丁目〕へ

 〔江口君堂前〕を出るとすぐ、バスは何の変哲もない交差点で右折して大阪高槻線から離れる。まさに何の変哲もなく見えるこの交差点は、実は一般車の右折が禁じられていて、ここで右折できるのは路線バスだけである【注1】。一応道路標識は出ているようだが、どこに出ているか分からないような出し方。当然ネズミ取りの重要ポイントであり、交通課の警官が取り締まりノルマを手っ取り早く稼ぐための格好の“穴場”となっている。
 私を乗せたバスは、団地のような建物密集地の中に再び入ってきた。ここもやはり対面2車線の黄色センターラインの道で、このあたりからバスはまた上りも下りも同じ道を走るようになる。小規模な工業団地なのか、町工場のような建物が並んでいるところを通るが、工場街は一瞬で抜けてしまい、再び住宅地に戻った。ところで、さっきから私のバスの真ん前には、上新庄駅行きの50号系統のバスがぴったり張りついている。この車に乗る少し前に〔北江口住宅前〕で私が見送ったバス。上新庄駅の手前まで全く同じ道をたどるから、ダイヤ的にもう少し間隔が開けば、途中で追いつくこともなくて無駄が少ないのではないかと思う。
 持ち主が様々であるらしく種々な形態の集合住宅が建ち並ぶ〔瑞光四丁目〕を経て、地下鉄今里筋線との乗り換え停留所〔地下鉄瑞光四丁目〕。地下鉄の駅は通りを挟んだ瑞光中学校の向こう側で、地下鉄とバスとの接続の便を図っているわけではない。まあこの駅は井高野の隣の駅だから、地下鉄に沿って走っているこの地域のバスから乗り換える客はいないだろうが。この停留所はバス通りに面したカステラ形の市営アパートの前にあり、その隣には「大阪経済大学」の文字の入った5階建ての建物。キャンパスからは少し離れたところにあるようだが、瓦つきの塀と門で「和」をことさらに強調しているのは、留学生を相手にした合宿所とか、国際交流センターみたいなものだろうか。なお大経大は、りそな銀行の初代頭取だった勝田泰久氏(大和銀出身)が、公的資金注入で頭取を退任したのちに理事長をしていた大学である。
 斜めにクロスしている交差点で左に曲がる。歩道が整備され、街路樹も植わっていて、住宅街の中を走る比較的新しい対面2車線道路である。そして、大経大のキャンパス前がまた斜めクロスの四つ角で、ここで右折すると【注2】初めて2車線×2の幹線道路になった。正確には2車線×2ではなく対面2車線だけれども、中央分離帯が付いており、歩道も非常に広く取ってあるから、片側2車線のように見える。大学のレンガ積みの塀が続く道に〔大阪経大前〕がある。道沿いには1階だけ店舗になっているアパートのような建物が多いようだ。

 大阪信用金庫の上新庄支店が見える。大信は天王寺区に本店を置き、大阪の南部方面を基盤としているが、そういう信金が大阪市の最北端に近いこの地に支店を構えているのは、金融危機に伴う再編の結果である。大信は1992年〜2004年の間に、2つの信用金庫を合併し、また経営蹉跌した信金3金庫を引き受けている。上新庄支店は2001年10月に経営が蹉跌した大阪第一信用金庫(本店中央区)の上新庄支店だった店舗だが、支店自体の歴史は1949年から始まっている。
 大信の先には、ハングル文字が並んだ学校建築が左側に見える。朝鮮学校、正式名称を北大阪朝鮮初中級学校というから、日本でいう小・中学校にあたる。正雀で乗ったタクシーがヒュンダイの車であったのを鮮やかに思い出した。新幹線の高架が再び近づいてきたと思ったところに、大隅一丁目の四つ角がある。さっき〔江口橋〕の手前でくぐって以来姿を隠していたが、バスは東海道新幹線に沿って走っている。大隅1で今度は右に曲がり、そこで新幹線の下をくぐる。角に親子丼チェーンのなか卯(上新庄店)が見えた。
 市バスは井高野から上新庄までの間で頻繁に右左折を繰り返している。路線バスだから客に寄り添うのは仕方がないが、わざわざ細かいところに回り込んで複雑にしている感じがしなくもない。〔江口君堂前〕の南で曲がらずまっすぐ来れば、それなりに素直な道筋なのである。もちろんこんな道筋になっているのはそれなりに理由があって、大阪高槻線という府道自体が1963年着工と新しい道で、バスの経路は府道ができる前の道筋をかなり残している。さっき〔江口君堂前〕付近で往路と復路の道が違ったのも同じ理由だ(北行きの一方通行道が旧道)。一方、新しい道の顔も立てなければならないから、その結果として経大のそばで右左折を1組余計に入れることになった。改変は1978年11月に行われたようだ。
 大隅1交差点の角には、この付近の地名のもととなった瑞光寺の看板が出ているのが見える。幅70cmぐらいの白い正方形柱で、厄よけ・水子・子授・腹帯などと毛筆体で黒々と書いてある。看板の奥は聖徳太子が創建したという臨済宗のお寺で、「鯨橋」の文字が見えた。寺の境内にかかる橋で、正式名を「雪鯨橋」という。かつて、捕鯨で有名な太地(和歌山県)の漁師に豊漁を祈願することを求められ、その謝礼として贈られたクジラの骨を使って作られた。住職は当初、豊漁の祈念を「殺生は五戒の一つ」として断っており、供養の意味でこの橋をかけたという。後日現物を見てきたが、橋自体は普通の石の橋で、太鼓橋の欄干と、縦柱の間に付いている柵の部分にクジラの骨が使われているだけ。欄干の縦柱は普通の石だし、「クジラの骨でできた橋」という宣伝文句に釣られて行くと、ガッカリすると思う。

 大隅一丁目から、今度こそ本当に2車線×2の幹線道路に曲がり込んだ。内環状線(国道479号)といい、住之江区を起点に喜連瓜破(きれうりわり、平野区)から守口市をかすめてここまで来る道路である。

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 【注1】一般車の右折禁止は07:00〜20:00。
 【注2】2014年4月のダイヤ改正で[93]の経路が変わり、大阪経済大学前の交差点は直進するようになった。〔東淀川区役所前〕を経由し、淀川通に〔豊新二丁目〕で入る。

2015年03月13日

2013.06.20(木)(11)井高野を離れて江口橋を渡る

 接近情報システムは「まもなく来ます」がけっこう早い時間に出るようで、バスの運行としてはぴったり定時であった。後でチェックした限りでは、だいたいバスが来る2分前ぐらいに「まもなく来ます」の表示がつくようだ。
 〔北江口住宅前〕から1つ目の〔井高野南口〕までは、さっきも乗った区間である。制覇したばかりの近畿大阪を左に見つつ東に進み、交差点で右折する。右に曲がってすぐ〔井高野南口〕。ここは、高齢者ではないお客がけっこう乗ってきた。せっかく建設した地下鉄は、本来ならこういう人たちがシフトしてくるハズだったのだろう。
 〔井高野南口〕から南に進むと、カステラのような四角い公営アパートは少なくなった。代わりに、集合住宅としては「xx荘」という名前の付いていそうな民間アパートばかりになる。スーパーやホカ弁屋が見え、団地の中とは違った生活のにおいが感じられた。今走っている道路は、和気清麻呂が築造したという神崎川の旧河道だそうだ。大阪市と摂津市との境界線にもなっており、〔井高野南口〕と次の〔江口橋〕の2停留所は、南行きのポールが摂津市側に位置している。
 前方に見える東海道新幹線の高架橋をくぐるや否や、バスは急に大きく左に曲がり、赤信号で停車した。ここは、井高野方面への道が、府道大阪高槻線からy字形に分かれる分岐の北側である。地図を見るとこのy字路はまっすぐ行けることになっているのだが、実地では、いま走っている南行きの車線は左(東)に直角に曲がり、南北に走る大阪高槻線にT字路の形で突き当たっている。後日観察してみたが、北行き車線の方も、単純なy字分岐のようでいて微妙に折れ曲がっている。以前[梅70]篇で書いた、東大和市駅前から南街に向かう青梅街道の分岐のような感じ。ここは道路の付け替えが多少行われたようで、井高野方面はどちらからも直進では出入りできない。なお、分岐の横にはガストがあって、この近所ではほとんど唯一のファミレスとなっている。
 突き当たった大阪高槻線は、瑞光方面から摂津市を経て高槻市に抜ける道で、高度成長期以後に開通した道路である。やはり対面2車線黄色センターラインで、道幅そのものはこれまでと変わらない。しかし、通る車の種類や密度が団地の中とは違って、幹線道路の空気が出てきた。突き当たりの先には、10階建てぐらいの大きな建物が壁のように広がっている。これは府営アパートである。信号が変わり、右折して大阪高槻線に入るとすぐ、府営アパートを背に〔江口橋〕の南行き停留所がある。ちなみに、市バスの北行きは団地からの道、新幹線ガードの手前北側にある。
 井高野営業所が1964年に開設される前、市バスの路線はここ〔江口橋〕までであった。折り返しをどういう形態で行っていたかは知らない。昭和30年代にバスの終点(=目的地)であったここ〔江口橋〕は、現在でも意外に重要拠点で、3つのバス会社計5本のバス停ポールが散らばっている。市バスの2本については前述したが、大阪高槻線の分岐北側には近鉄バスの停留所がある。さっき正雀で見かけたのと同じ路線(摂津市内循環線)で、神崎川沿いに東から来て江口橋北詰の交差点で北に曲がってくる。片方向のみの運行で、南行きの停留所はない。そしてもう1本、神崎川沿いに走っているのが阪急バスの吹田摂津線で、交差点を挟んで東と西に1本ずつ停留所が立っている。これらのバスは、いずれも計画段階で井高野車庫へのアプローチに使用できるか検討したが、採用しなかったのであった。

 〔江口橋〕を出てすぐ、神崎川を渡る。言うまでもなく、停留所名にもなっている江口橋を渡っているわけである。橋の上から、川沿いに高い煙突が建っているのが見える。清掃工場と見たが、後で調べてみると思ったとおり大阪市環境局の東淀工場であった。こういう迷惑施設に近いものは、やはり周縁部にできやすいのだろう。川を渡ってすぐ右側に複数見える、10階建てぐらいの集合住宅は、市営アパートである。市営アパートでも高層の建物は、もともと市営の「住宅」、つまり平屋建ての長屋が建っていたところを再開発したものが多いようで、ここもそうだし、井高野車庫南側で今回触れなかったバス通りの東もそれに該当する。府道に直接面するこのあたりの街並みは、印象では井高野の団地内より開発時期が古いと思われ、たまに見かける雑居ビルも古めかしい。あとは民間の低家賃アパート。商業は少なくて、4階ぐらいの住宅の建物で1階だけが店舗という形が目につく。商店の棟割り長屋もなくはないが、独立店舗の商店建築はあまり見ない。業種は、個人商店とフランチャイズのようなチェーン店ばかりである。
 スーパーのライフ(江口店)の向かい側に、〔江口君堂前〕(えぐちきみどうまえ)の停留所がある。江口(の)君堂は寂光寺という名前の寺だが、「江口の君」という女性が創建したためこちらの別名が通っている。1167年秋、西行法師がこの地で雨に遭い、一軒の民家で雨宿りを求めたが断られた。その時に西行と短歌のやり取りを行ったのが、その家の主、妙(たえ)という女性であった。妙は歌のやり取りが縁で尼となり、寂光寺を創建して人々の相談に乗る余生を送った。西行法師が活躍した平安時代の末期、淀川から神崎川が分岐するこの地は水上交通の要衝として賑わっており、遊女の里でもあったそうだ。妙は平家の武将の娘だったが、平家没落後に遊女に身を落としたという。
 なお、[93]に限らず井高野方面のすべての市バスに共通するが、この〔江口橋〕から〔江口君堂前〕にかけての区間は、往路と復路で通り道が違う。北行き一方通行の道が府道の西側を並走しており、江口橋の南詰にある分岐で合流する。〔江口君堂前〕の北行きの停留所は、一方通行道のライフ裏手にある。

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2015年03月12日

2013.06.20(木)(10)地下鉄井高野駅にて

 次の目的地は〔瑞光二丁目〕である。近畿大阪の東淀川支店、りそなの上新庄支店の2店を一気に取る計画だ。11:11発までまだ余裕があるので、ちょっと用を足したいと思ったが、見たところ近所にコンビニはないようだ。地下鉄の駅で借りることにしよう。
 〔北江口住宅前〕のそば、水田のある四つ角から南へ50mも歩くと、さっき見えていた山吹色の建物にたどり着く。これが市営地下鉄今里筋線井高野駅の入口である。山吹色は今里筋線のラインカラーだが、どんな由来があるのかは知らない。
 エレベーターで地下に下りると、困ったことが起きた。駅員がいないのである。まさか無断で入るわけにもいかないだろう。どうしようか。今里筋線は10分間隔での運転で、地下鉄としては本数が少ない部類だから、駅員の数も少ないに違いない。と、一瞬困ったものの、問題はあっという間に解決した。私は「エンジョイエコカード」という素晴らしいものを持っている。これで堂々と入ればよいのだ。エンジョイエコカードは、スルッとKANSAIと同じシステムで自動改札に通せるし、地下鉄に乗ったという記録がカードの裏に出る。かくして、井高野駅の改札を11:03に入り、11:05に出てきた記録が、私のカードに印字された。今思えば、自分の排泄時刻を記録したのと同じであった。
 駅の外に出た。駅前にはこの地域の「集会所」が建っている。青梅で自治会館と言っていたものと同じだろう。この箱型2階建ての集会所は、割合最近新築されたような外観であった。手前を見ると、〔地下鉄井高野〕という停留所がある。さっきの〔北江口住宅前(地下鉄井高野)〕とは別の停留所で、ここから発着するのは、阪急京都線相川駅へ行く[27]だけだ。ちょうど今、1時間に1本しかない貴重な相川駅行きのバスが〔地下鉄井高野〕を発車していった。
 私は、この今里筋線という地下鉄のことを考えていた。この地に地下鉄を作ったということは、乗客を地下鉄にシフトしたかったハズなのだが、結局この地域のバスはそのまま残ってしまっている。一言でいうと今里筋線が不便だからだ。大阪の代表的中心地であるキタにもミナミにも乗り換えが必須、しかも遠回りになる上、乗り換えそのものも連絡通路は長く階段は段数が多い。井高野近辺の流動は、第一に上新庄経由でのキタ方面だと思うが、この地下鉄では上新庄に行くニーズは満たされない。井高野から地下鉄を掘るのなら、それこそバスの[93]の下に忠実に掘った方がよかったのではないか。そして、地下鉄は運賃が高い。
 もっとも、だからこそ市バス井高野営業所は健在なわけである。大阪に限ったことではないが、地下鉄を建設する理由は、バスでは運びきれないほどの乗客がいるからだ。ところが、そういう路線はバス事業にとっても“ドル箱”なのであり、バス部門にとって地下鉄の開業とは、高い収益を上げられる路線を失うことを意味する。大阪の市バスが不採算になっているのは、地下鉄の整備が進んで乗客がバスからシフトしたことも原因の一つにあるのではないかと思う。その例外が、地下鉄ができたにもかかわらず乗客がバスからシフトしない井高野地区であったということだろう。

 〔北江口住宅前〕に戻ってきた。雨よけとして、クリーム色の鉄のポールが2本立ち、緑色のテントが付いている。テントの下にはベンチが置いてあるけれども、今日座る人はいないだろう。バス停ポールはバス接近情報システムのついたスチール製で、がたいの大きなダークグリーン。さっき〔井高野車庫前〕でも情報システムの機械を見たが、途中停留所のそれはもう少しコンパクトで、正方形断面の四角柱に収まるようなサイズになっている。接近情報システムが完璧に整備されている代わりに、バス停に掲示された時刻表には「1分〜10分間隔」としか書かれていない。ここは、上新庄までなら、バスが頻繁に来る便利な土地である。
 機械によると、次に来るバスは上新庄駅行きの[50]らしい。私が乗る[93]はその後であるようだ。ほどなく《間もなく江口橋方面、上新庄駅前行きのバス、がまいります》と自動放送があり、[50]のところに「まもなく来ます」のランプが点灯した。パネルには系統ごとに「3つ前」「2つ前」「1つ前」と白文字で書いてあり、その文字の間に矢印が点滅している。矢印の上に「まもなく/来ます」という2段の文字が赤で浮き上がっている。ほどなく上新庄行きが来て、私以外の客を全員乗せて発車して行った。
 バスが去ってしまうと、この団地から人が消えてしまったかのような静けさが漂った。人はちらほらと歩いている程度。朝のラッシュ時なら児童や生徒もいるのかもしれないが、今はみな会社だの学校だのに行っている。民間の車もそんなに行き来していないし、ここで見ているとバスの台数の方がはるかに多い。営業運転のバスばかりでなく、《整備回送》という前面表示を出したバスが車庫の方に向かって行った。運用の回送と、それ以外のメンテナンス時の回送は違うようだ。大阪市バスの整備工場は、ユニバーサルシティ近くの酉島営業所(此花区)にあるが、そこから来たのだろう。
 なお、団地内の年齢層がほどよくバランスしているとさっき書いたけれども、やはり全体的に高齢化に傾いているのは否めないようだ。バスを降りて銀行へ行って戻ってくるまでの間、若い人には見事なまでに出会っていない。今日ここ井高野で見た一番若い人は、近畿大阪銀行のロビー係の女性である。この様子からすると、団地に残っているのは年寄りと主婦ばかりかもしれない。
 歌島橋行きは、そろそろ来るのだろうか。

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カテゴリ一覧(過去の連載など)
大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇(54)
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銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇(29)
りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く(43)
りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅(57)
りそめぐ2008秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる 東武伊勢崎線・野田線沿線17店舗の制覇(51)
りそめぐ2009初秋 りそな銀千葉県内12店舗完全制覇(35)
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りそめぐ2008初秋 湘南セプテンバーストーリー(11)
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2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)