2015年04月11日

あとがき・参考文献

 「りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く」、4月10日をもって完結いたしました。最後までお読みいただいた方には、例によってダラダラと続いた連載にお付き合いいただき、御礼申し上げます。本編の分量は330枚ほどになりました(400字詰原稿用紙換算)。
 バスを使った「めぐ記」は、2013年3〜4月に掲載した東京都営バス[梅70]篇に続くものです。大阪の市バスは都バスと比べると地味なのか、ネット上では取り上げたウェブサイトや記事をあまり見つけることができませんでした。その地味なものに目を向けてみたわけですが、さてどのような評価が下されることでしょうか。無論、[93]が「めぐ」実施時点で“最長”でなかったのは、弁解の余地なしとします。

 今回の[93]めぐ記は、脱稿するまでに何度も頓挫の危機に瀕し、自分でもこの段階まで持ってこられたのが不思議に思えるほどです。2013年当時勤めていた職場の拘束時間が長かった上、精神的にも参ってしまい、2014年の秋頃まで作業がほとんどできませんでした。続行しようという意志はあり、記憶の確認のため2014年3月に大阪を再訪したのですが、そこで遭遇したのは盗難事件でした。夜行バスの車内で上着を盗まれて、ポケットに入れていた手帳、それから携帯電話をはじめとして電子機器類を一気に失い、その物心両面での痛手は非常に大きなものがありました。もちろん警察には届けましたが、警察は窃盗事件の捜査は一切してくれないのだそうです。さらに2015年1月、全体がほぼ完成に近づいた頃、確認のためレンタカーを借りてバスのコースをたどってみたのですが、その際「右折違反」でパトカーに捕まりました。バスのみに右折が認められている〔江口君堂前〕南側の交差点です。そんな規制があることを知っていればもちろん右折などしなかったのですが、問答無用で罰金7000円。警察も、交通違反をなくしたいのなら、物陰で見張っていて違反が成立するや否や捕まえるような姑息なことをしないで、堂々と張り番して違反しそうになった時点で注意してくれればいいのに。盗難の被害に遭っても何もしてくれない警察と、頼みもしないのに“ためにする”交通取り締まりだけ徹底している警察。市民の生活に寄り添う気配の全くない日本の警察の在り方を、同じ大阪府警で1年足らずの間に2度も経験し、我が祖国は安心して暮らせる国になったものだと複雑な味を噛みしめております。
 加えて、度重なる市バスの路線改編も、この連載に大きな衝撃を与える事件でした。本稿で取り上げた93号系統が経路変更し、淀川3区を大縦断するバスが消滅してしまったこと、そして連載完成直前に発覚した重大な事実。まず、[93]というバスは現在も運行されていますが、〔上新庄〕ではなく〔東淀川区役所前〕経由になったのはいいとして、十三の交差点で左折して大阪駅へ向かうようになりました。このことは、淀川北岸の大縦断という[93]の特性がほぼ死んでしまったことを意味します。十三から大阪駅へ向かうということは、十三筋に入って淀川を渡ってしまうからです。現行の[93]は確かに路線として必要なものと思いますが、14年3月までの[93]もまた必要だったのではないでしょうか。特に、十三の新北野交差点を東西に直進するバスが1本もなくなってしまったのは、淀川区内の移動に大きな影響を及ぼしていると感じられました。そして、作成段階の最後の最後になって、大阪市交通局にデータの確認をした際に知らされたのが、[93]が市バスの最長路線でなくなっていたという衝撃の事実でした。交通局は年報の作成がここ数年滞っており、図書館にデータがないところで[93]を上回る路線が誕生していたという次第です。1972年以来、93号系統はずっと鉄壁の路線長1位でしたので、つい油断してしまいました。連載発表前に発覚したのが、せめてもの救いでした。
 というわけで、[93]めぐ記は、ブログでの公開も断念するか否か、相当に悩みました。これだけケチがつきまくったのは、「完成させるな」という神の思し召しであったのかもしれませんが、今回はそれを振り切っての連載発表です。今回の「めぐ記」は、書くうえで一定の更新作業はしているものの、情報としては古いものです。時間のやりくりが下手な私の限界が産み出した事態であって、そのことを弁解するつもりはありませんが、ネタの鮮度が失われてしまったことは悲しく思います。とはいえ、「記録」程度の価値はあろうと開き直ることにした次第です。

 一つお断り。今回の連載では、過去に「めぐ記」で扱った個所をいくつか再び取り上げています。今回、同じことを二度書くようで気が引けたのですが、重複個所を割愛する等はあえてしませんでした。その理由は、アプローチ方法が全く異なることが一つ。もう一つは、過去の連載を今改めて読み返して、本当に同じ店や場所のことを書いたのかと思えるほど、稚拙でスカスカであると感じたためです。興味がおありでしたらご覧いただきたいと思いますが(ブログから削除はしておりません)、がっかりするだけに終わるか、歳月を経て少しは成長したと好意的にとらえていただけるかは、私にはわかりかねます。

 今の日本社会は、変わらぬことよりも日々流転していると感じられることの方が多いようで、いろいろな意味で「時代の節目」になっているのは間違いありません。内容面でもともと古いこの連載を、数年後に読み返して「超古い!」と感じられることがあるかもしれませんが、あくまで2013年6月の実体験と、その後の連載期間における「一面の真実」です。そういうものだと思ってお読みいただくことを望みます。
 この連載のような「文章を使っての自己主張」が、私の存在意義だと思っています。今後ともご支援・ご鞭撻をいただけますようお願いします。ご意見や情報提供をお待ちしています。このブログ「MEGU」は、コメント・トラックバックを歓迎していますし、私のメールアドレスも公表しています。

 なお、この連載の執筆にあたっては、以下のような書籍・ウェブサイト等を参照いたしました。


参考文献
 紙の出版物は刊行年順、同年はタイトルの五十音順。ウェブサイトは順不同、2015.02.25現在。

 『三和銀行史』三和銀行、1954年
 『東淀川区史』大阪市東淀川区、1956年
 山口竹治郎『大貯回顧随筆』私家本、1957年
 『大和銀行四十年史』大和銀行、1958年
 『兵庫相互銀行50年史』兵庫相互銀行、1962年
 『近畿相互銀行20年史』近畿相互銀行、1963年
 『大阪貯蓄銀行五十年史(草稿)』協和銀行二十年史編纂室、1965年
 『協和銀行史』協和銀行、1969年
 『大阪銀行二十年史』大阪銀行、1971年
 『十三信用金庫創業50周年記念誌』十三信用金庫、1975年
 『大阪市交通局七十五年史』大阪市交通局、1980年
 『福徳相互銀行30年史』福徳相互銀行、1981年
 『大和銀行七十年史』大和銀行、1988年
 『記録 兵庫相互銀行の時代』兵庫銀行、1989年
 須田慎一郎「銀行はかくて東洋信金を見捨てた」『文芸春秋』1992年9月号 文芸春秋
 平石裕一「東洋信金事件に学ぶ“都銀化”経営のおそろしさ」『エコノミスト臨時増刊』1992.11.09 毎日新聞社
 『近畿銀行五十年史』近畿銀行、1994年
 『創業七十五周年記念誌』大阪信用金庫、1995年
 トラベルジャーナル出版事業部編『大阪路線バスの旅』トラベルジャーナル、1996年
 『協和銀行通史』あさひ銀行、1996年
 『西淀川区史』大阪市西淀川区、1996年
 小沼啓二『改訂版金融犯罪の仕組み』光文社、1997年
 大阪市史編纂所編『大阪市の歴史』創元社、1999年
 『大和銀行八十年史』大和銀行、1999年
 『大阪市営交通創業100年』大阪市交通局、2003年
 仲尾宏『Q&A在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識 第2版』明石書店、2003年
 『大阪市交通局百年史』大阪市交通局、2005年
 『阪神電気鉄道百年史』阪神電気鉄道、2005年
 稲垣泰平『「歴史散歩」の記録 淀川右岸を散歩して』1〜4 文芸社、2008〜2014年

 『大阪市全商工住宅案内図帳』住宅協会出版部、各年度版(大阪市立中央図書館蔵)
 『交通局事業成績調書』大阪市交通局(年刊)
 『事業概要』大阪市交通局(月刊)
 『事業概要』大阪市交通局(年刊)
 『交通統計年報』大阪市交通局(年刊)
 『ニッキン資料年報』日本金融通信社
 『日本金融名鑑』日本金融通信社(年刊)
 『全国銀行店舗一覧』全国銀行協会

 『大阪市交通局』 http://www.kotsu.city.osaka.lg.jp/
 『大阪市東淀川区』 http://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/
 『大阪市淀川区』 http://www.city.osaka.lg.jp/yodogawa/
 『大阪市西淀川区』 http://www.city.osaka.lg.jp/nishiyodogawa/
 『阿波銀行』 http://www.awabank.co.jp/profile/
 『国際興業大阪』 http://www.kkg-osaka.jp/
 『北おおさか信用金庫』 http://www.kitaosaka-shinkin.co.jp/index.html
 『大阪シティ信用金庫』 http://www.osaka-city-shinkin.co.jp/index.html
 『国土交通省 近畿地方整備局 淀川河川事務所』 https://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/index.html
 『三国新道商店街』http://392shinmichi.com/index.html

 「大阪市バス 93号系統 歌島橋BT→江口橋(→井高野車庫)」『ぱたとたからづか〜青の日記-ブログ版〜』 http://blog.livedoor.jp/pata_zuka/archives/50303467.html
 「江口君堂」『大阪再発見!』 http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage448.htm
 「西行と江口の君堂」『十三のいま昔を歩こう』 http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-347.html
 「衝撃お色気ポスターも懐かしい「センイシティー」休館へ」『産経新聞』 http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120325/wlf12032518000022-n1.htm
 「(ニュース)十三アンダーパス西行き運用開始で市バス経路変更」『東淀川情報交通センター 情報ブログ』 http://blogs.yahoo.co.jp/fujiki533/32521207.html
 「大人AKBは2児の母・塚本まり子さんに決定 一方、選考に挑んだ芸能人は...」『THE HUFFINGTON POST』 http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/18/adult-akb48_n_5171534.html
 「日本銀行の代理店とは何ですか?」『日本銀行』 https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/op/f07.htm/
 「御幣島に宮脇書店西淀川店があった」『Togetterまとめ』 http://togetter.com/li/521695
 「大阪市バス路線変遷」『なみはやノーツ』 http://namihyanote.hatenadiary.jp/archive/category/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E3%83%90%E3%82%B9%E8%B7%AF%E7%B7%9A%E5%A4%89%E9%81%B7


特にお世話になった機関
 大阪市交通局
 大阪市立図書館
 大阪市立公文書館

2015年04月10日

2013.06.20(木)(39)三国支店で全行程終了

 りそな銀行三国支店に到着した。すでにあたりはだいぶ暗くなってきているが、それでもまだ多少の明るさを残している。制覇の前に、店の内外を見て回ろう【注1】。
 まずは支店の裏へ。三国支店の建物は、昭和30年代の古いものを使っていると思っていたが、これまで確信が持てなかった。今日改めて支店の裏に回ってみると、建物の柱が相当ガッチリしているし、柱と柱の間にある窓もかなり奥まっており、外壁に入っている飾りラインの入れ方にも時代が感じられる。これらの状況からすると、この建物はやはり相当に年代ものではないかと思われる。そのうち建て替えという話が出てくるのではないだろうか。
 正面入口の階段を2〜3段上がって、キャッシュコーナーに入った。今思えば、正面入口に数段の階段があるのもまた、昭和30年代以前の銀行建築の特徴である。内装は大和銀行時代の標準的なものだが、新大阪駅前支店と同じような感じで、「Dマーク」制定以前の少し古いタイプのようだ。機械枠は7台分。ATMはAK-1が2台、JXが4台入り、一番右の枠が空き枠。記帳機が機械枠の外に1台置いてある。機械を操作。18:28、三国支店を制覇した。
 三国支店は、1944年12月に野村銀行梅田支店三国特別出張所【注2】として開設された。当時の所在地は東淀川区新高南町1-11というから、三国とはいっても駅の南西側であったようだ。1945年6月7日の戦災(第2次大阪大空襲)で焼失して一旦廃止されたが、この地区の戦災は一部にとどまったため、戦災を免れた現在の地に場所を移して1946年4月に営業を再開、翌47年1月に支店昇格している。店舗は1958年に建てられたものを現役使用しているようだが、1986年に大規模な改装工事を受けており、正面から見ただけでは古めかしい建物とは感じられない。
 なお、旧協和銀行はかつて三国支店を持っていた。1942年11月に大阪貯蓄銀行三国出張所として開設されたもので、支店昇格・合併・普銀転換を経て、1969年8月十三支店に統合された。その十三支店も1979年8月に豊中服部支店に統合されている。所在地を調べてみると、現在の三国本町3-29-15にあたり、前述の十三信用金庫の場所そのものであった。実は、改装こそしてあるものの、北おおさか信金三国支店は旧協和の建物をそのまま使用しており、1969年刊行の『協和銀行史』に出ている写真と細部まで完全に一致している。1969年の支店統合後、建物は近所の印刷会社の持ち物となっていたが、商店街内にあった十三信金が1993年3月ここに移転してきた。どうして93年にもなって信金が引っ越してきたのかは知らない。

 これをもって、本日の「めぐ」がすべて終了した。
 連載の締めくくりに、サンティフルみくに商店街の様子を見てみることにしよう。三国にはりそなが発足してから何度か来たことがあるが、商店街には、今回の連載を準備する過程で初めて奥深く入った。なお「サンティフルみくに」の名称は、数字の3(三国の3つの商店街組合)と太陽、それにビューティフルを合わせたもので、1993年に制定されたそうである。
 りそなのすぐ奥には、北おおさか信金が店舗外ATMを出している。ここは旧協和の建物に移転する前に十三信金の三国支店だった場所で、旧支店の建物を店舗外ATMとしてそのまま使っている。外見からしてかなりの年代物のようだ。近くには、現役で営業している土蔵建築の質屋。それから、塚本でも見た「お菓子のデパートよしや」。三国の店はカルビーのロゴばかりであった。店によって出している製菓会社のロゴが違うようだ。
 お菓子屋の向かいにあるのが、三井住友銀行の店舗外ATMである。エーティーエムサービス西日本支店三国出張所。実はここは、2000年6月に統合された旧さくら銀行三国支店の建物がそのまま残っている。前面に小窓がたくさん並んだスタイルはいかにも太陽神戸銀行のセンスであるが、支店自体の歴史は、旧神戸銀行が兵庫県内7行の合併で成立した1936年12月よりさらに前までさかのぼる。その2軒隣、今はドラッグストアになっているスペースは、2004年10月までみなと銀行の三国支店があった場所【注3】。地域のトップ銀行が先に進出していた地に、同じ地域の後発銀行が追随して出店するケースは結構あちこちでみられ、かつて当ブログでも、京阪香里園(寝屋川市)のところで、ここと同じ神戸銀・阪神銀の例に触れた【注4】。今回の連載でも、東京の蒲田に徳島銀が出店したケースや、歌島橋で神戸銀の隣に兵庫相銀があったケースに触れている。
 アーケードが切れるところまで歩いてきたら、なんだか疲れてしまった。夕方のこの時間、シャッターを閉ざした店舗はほとんどない。これだけ長さのある商店街で、これだけの賑わいを維持しているのは大したものだと思う。塚本のサンリバーも結構な賑わい度だったけれども、ここも結構強そうだ。しかも、塚本は東口に三和という強い銀行の店があるが、三国に三和はない。大阪市内に店舗の少ない大和銀が、珍しく大阪市内で美味しい商売のできた地域なのだろうと思う。

 阪急三国駅には、改札と同じ階の梅田寄りに、りそなの店舗外ATM[阪急三国駅](母店三国支店)がある。このATMコーナーは、旧大和銀グループの牙城である関西エリアにありながら、ATMが旧あさひ機種といえる富士通の機械(FV20)が入っていたのが意外だった。大阪の店舗外ATMでは富士通の機械が普通に使われている。関東の店舗外ATMには逆に日立オムロンのAK-1がかなり入っているが、機種が異なるとレシートの用紙一つから違うわけだし、関東と関西でそれぞれ機種は揃えた方が良いと思える。
 なぜこんなことを書くかというと、今日一日の成果をここで記帳したからである。りそなグループの3つの銀行は、勘定系のシステムを一本化しているから、りそな銀行のATMで近畿大阪銀行の(もちろん埼玉りそな銀行も)記帳ができる。ここでインクが薄いとすべてがぶちこわしで泣きたくなるのだが、幸いそういうことはなかった。もちろん、必要な通帳を印字する前に、今回のめぐに影響しない通帳で先に記帳して試している。
 今夜の宿は大阪の中心部に取っているから、阪急の改札を入った。三国駅といえば、当地出身のシンガーソングライター、aikoの『三国駅』という歌について、以前「めぐ記」で触れたことがある【注5】。歌詞にある《あそこのボーリング場》がその後どうなったか、三国駅のホームに立った機会に確認してみようと思った。しかし、無理であった。以前来た時にホームから見えたボウリング場は、今日は全く見えなかった。線路際にマンションが建ったため、ボウリング場の場所をホームから見ること自体が不可能になっている。それに加えて、未確認情報によると「ボーリング場」自体がだいぶ前になくなったという話であった【注6】。
 かつての文は2009年5月に掲載したもので、それから6年が経ち、三国周辺についてもこの連載を作る過程でずいぶん歩いたから、知識も増えた。その立場からあの文を振り返ると、一般の聴き手が感情移入しにくいだろう、という私の意見は変わらないが、やや一面的な批評であったかもしれないと思う。三国駅周辺の“変わり果ててしまった”街並みとは裏腹に、あえて強気に《変わらない街並み》と歌詞に織り込んでいるのは、それなりの理由があったと感じた。あの歌でaikoが訴えようとした姿、あの歌の《変わらない街並み》という歌詞の面影は、三国地区をそれなりに歩き回って初めて理解できた部分もあるからだ。この世は知らないことで満ち溢れているのであった。

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 【注1】三国支店については過去に記述したことがある。当ブログ2009年5月6日掲載「2008.01.25(金)(4)変わりつつある三国」。
 【注2】太平洋戦争中の簡易店舗で、預貯金増強の国策に基づいて認可されたもの。近畿大阪銀行西淡路支店の特別出張所とは異なる。
 【注3】阪神相互銀行の三国支店として1964年6月開設、2004年10月梅田支店に統合。淀川区西三国3-17-4。
 【注4】当ブログ2009年2月13日掲載「2008.07.23(水)(14)香里、大型SCに翻弄された町」。
 【注5】当ブログ2009年5月7日掲載「2008.01.25(金)(5)aiko『三国駅』について思うこと」。
 【注6】その後改築され、再びボウリング場として営業中。



[りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く 完]

(お知らせ)明日の同じ時刻に「あとがき・参考文献」を公開します。

2015年04月09日

2013.06.20(木)(38)戦災を免れた町

 三国本町二丁目交差点そばにある〔三国本町〕でバスを降りると、いよいよ最終行程である。
 ここは、阪急宝塚線三国駅の南側である。線路伝いに北へ10分ほど歩くと、三国支店のある「サンティフルみくに」の商店街があるハズだ。このあたりもやはりマンションが多く、1階だけ店舗になっていてクリーニング屋が入っているとか、すき家が入っているとかの大規模なマンションがあったりする。ただ、道の北側に建つものはともかく、南側に建つ15階建ての巨大なマンションは、建築年代はあまり新しそうには見えない。
 四つ角から対面2車線黄色センターラインの道を北に向かって歩く。歩道に街路樹が立ったりしているから、古い幹線道路とは少し違う、割合に新しい道のようだ。西側には阪急の高架が続いている。阪急宝塚線は2000年3月に高架になったが、高架橋の東側にまだけっこう線路跡の空間が残っている。
 道の右側に、かなり規模の大きい4階建ての廃ビルがあった。緊急車両が出入りします、という表示があり、シャッターに営業時間が大きく書いてあるのを貼り紙で隠してあった。「営業時間」のある施設で緊急車両が出入りするのは何の施設だろう、と思って眺めてみると、関西電力三国営業所の跡であった。2012年10月に豊中市に「移転」したそうだが、要は営業所の統廃合である。電力会社の営業所というのは、今どきあちこちに置いておくものでもないようで、電気料金を収納する「営業」は、金融機関やコンビニに任せれば自前で窓口を開く必要はないのである。緊急車両というのは漏電などの故障に対応する車だろうが、こちらも機器類の精度が上がっているから、必要ないかもしれない。ところで、営業所の跡地はどうするのだろうか。マンションでも建てるのかしら。東日本大震災で東京電力の原子力発電所が破綻したとばっちりを受けて、日本の電力会社はどこもみな青息吐息になってしまった。国のエネルギー政策もガタガタである。これからの電力会社は、マンションの家賃収入で稼ぐといった地道な収入源の開発も必要になってくるのかもしれない。
 関電の建物横には、太陽光発電による花壇への自動散水システムというのがあるが、これもむなしく打ち捨てられている。雑草しか生えていないが、まあ「花壇」だった時代があるのだろう。その北隣は、割合きれいにメンテナンスされたマンションと、その付属の公園であった。東西に長くマンションの棟が広がっていて、その南側に細長く広がる芝生の土地。ブランコと砂場があり、砂場の中にはリスとパンダがいる…小さな置き物だが。公園は高い鉄柵で覆われており、柵のてっぺんには尖った剣のようなものも付いている。最近では、プライベートな公園どころか「プライベートな街」というものまであって、万里の長城のように塀で囲われた広大な敷地の入口に守衛室つきのゲートがあるという住宅団地が、あちこちに出来ていると聞いた。「ゲーテッドコミュニティ」というそうだ。

 マンションとは呼べない4階建てぐらいの住居ビルが目立ち始めたところで、片側2車線分ぐらい取れそうな広い道が左から来た。道幅の取り方を見ると、角にある大阪文化服装学院という専門学校の敷地を削らないと、ここから東の道幅は広げられないようだ。区画整理の計画があるのだろうが、それが遅々として進んでいない印象である。実は、ここより北の駅前付近ではもうセットバックが済み、歩道なども整備されて道幅が広くなっている。工事が終わったところだけでも4車線にすればいいのにと思うが、コンクリの大きな土台をつけたガードレールを置いてわざと道幅を狭め、車道は対面2車線黄色センターラインのまま。駅前広場だけは出来上がっているが、駅前の道路がこんな状態である以上、まだまだ先は長そうであった。
 このあたりは、道路はきれいになっているものの、道の東側の建物は土蔵建築のなれの果てのような古い建物がいくつもある。大激変のただ中にあって、古い町並みもまだ意外に残っているようだ。土蔵があることなどから察すると、三国駅の界隈は戦災に遭っていないのだろう。後日この界隈を車で走ってみたが、とにかく道が狭くて泣く思いだった。木造の古い住宅が密集した、いわゆる「木密地帯」にあたるのではないかと思う。
 そんな中に、十三(現北おおさか)信金の三国支店があった。三国には以前にも来たことがあるが、十三信金は三国の駅からかなり梅田に寄ったところにあると思っていた。今こうやって南の方から歩いて来ると、十三信金のある場所は完全に駅前としか言えない。ということは、りそなの支店は相当北に寄った場所にあるということなのか。
 2車線の一般道路と合流する。信号が、支店のある駅前の商店街「サンティフルみくに」の入口になっている。この道は西から阪急三国駅の下をくぐって来る道である。なお、後で古い地図を見てみたところ、阪急が高架になる前は線路が今より東側を通っていて、三国駅舎はこの交差点そばにあり、対向式のホームが南の方へ延びていたようだ。十三信金の向かいはかつての上りホームであり、広大な駅前広場は旧駅施設を全面的に除去した跡地なのであった。
 すでに出来上がっている駅前広場には、本数は少ないが市バスも入ってくる。大阪駅前から〔十三市民病院前〕を経由して〔榎木橋〕に至る[69]で、2014年4月以降は1時間に1本程度の運転となったようだ。

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2015年04月08日

2013.06.20(木)(37)オフィス街広がる新大阪

 〔東淀川駅前〕を出発したバスは、さっき歩いた駅前の道を東に進み、例の五差路で右折して、北から南に走る4車線の幹線道路に入った。〔日之出住宅前〕はこの道沿いにある。消防署(西淡路出張所)が歩道橋の向こうに隠れるように建つ四つ角で再び右に曲がるとすぐ下り坂に入る。JR東海道本線のアンダーパスである。新大阪駅の北側ゆえ相当に大掛かりな立体交差であり、東西に走っているこの道自体も片側3車線の広い道である。オレンジの照明が点いた長い地下道を抜け、アンダーパスの坂を上がりきったところで、頭上に高速道路がかぶさってくる。これは新御堂筋である。ここを抜けたところで〔宮原四丁目〕の停留所に停まり、客がドカドカ乗り始めた。
 新大阪駅の北側、宮原のこの界隈は、新幹線の駅を背景にオフィス街が広がるエリアである。ここには金融機関が多数出店している。銀行の名前だけ挙げておくと、三菱東京UFJ、三井住友、京都、池田泉州、滋賀、南都(奈良県)、百十四(香川県)、場所はややずれるが紀陽(和歌山県)。大阪信金もある。ここに挙げた中で、地方銀行は空中店舗が多く、企業向け融資を主な営業活動としている。本「めぐ記」の冒頭で阿波銀行蒲田支店の話題に触れたけれども、ここはそういう形態の銀行支店が多数ある地域ということになる。なお、りそなグループはりそな銀・近畿大阪銀ともに新大阪駅北側エリアには営業店を出していない。
 大阪信用金庫の新大阪支店については、ここで少し触れておきたい。この店は、旧東洋信用金庫の本店営業部である。東洋信金は1969年に信用組合から転換した新しい信用金庫で、「東洋」の名前のとおり三和銀行と親密とみなされていた【注】。バブル崩壊初期の1991年、この信金は大きな事件の舞台として全国的に有名になった。ミナミの料亭の女将だったO女史が、付き合いのあった支店長に7300億円もの架空預金証書を作らせ、それを担保に日本興業銀行などから1兆円もの借金をしていたことが発覚したのである。東洋信金の事件は、日本の産業金融の雄と呼ばれた興銀の頭取が国会に参考人として呼ばれるなど社会をにぎわせたが、これにより一気に経営が行き詰まった東洋信金は、法人としては1992年10月に三和銀に吸収合併された(金融不安初期の事例のため破綻・清算ではない)。30店あった店舗網は府内のいくつかの信金に分割して営業譲渡となり、大阪信金は本店と鶴見支店の2店舗を譲り受けた。大信新大阪支店の入っているビル(旧東洋信金本店ビル)は現在「三菱東京UFJ銀行東三国ビル」という名前になっており、各階に三菱UFJの関連会社が入っている中、1階の信用金庫が異彩を放っている。どのくらい異彩かというと、ビルの地下駐車場入口に、大阪信金の駐車場ではないので客は使うなと掲示がしてあるほどだ。ともあれ、東洋信金の話題は、銀行の空中店舗が多数あるこの新大阪の地には似つかわしい話のようにも思えた。

 新大阪駅の北側を東西に走る片側3車線の大きな道は、道の名前は知らないが、地図で見ると東海道新幹線に沿って駅の北100mほどのところを東西に走っている。〔宮原四丁目〕の次は、新大阪駅北側のロータリー内にある〔新大阪駅北口〕。バスは駅の北西側で左折し、ぐるっと乗り入れて来る。幹線道路とバスロータリーとの間が樹木の多い公園になっており、ここは緑に囲まれたロータリーという趣である。ただ、幹線道路から相当に離れており、奥まった場所まで入り込んでくる印象が強いから、バスターミナルとしてはあまり使い勝手がいいものではないと思う。バスターミナルに入る手前に、りそな銀の店舗外ATMが見えた。[新大阪駅北口](新大阪駅前支店)である。鉄骨を組んで鉄板を敷いただけの簡素な立体駐車場の1階にあって、朝7時から夜11時まで稼働している。これがこの地区唯一のりそなであるが、新大阪駅内にも一応、新大阪駅中央出口正面に[JR新大阪駅](母店同じ)というキャッシュコーナーがある。
 南下してきた道の1本西側を北上して、先ほどの幹線道路に戻る。この大通りは、一歩入るとマンションが建ち並ぶエリアで、ベビーカーを押したり子供を抱っこしたりしている母親に複数遭遇したから、若い人が結構たくさん住んでいる地域のようだ。すぐ左側に、愛媛県の第二地銀、愛媛銀行の新大阪支店があった。ローカル支店とあまり変わらないたたずまいの2階建て。新大阪に支店があるのは知っていたが、こんなところにあるのか。周囲はマンション街で、見た目も地元にある支店とあまり変わらない印象だが、支店自体の位置付けとしては、先ほど書いた宮原四丁目周辺の地銀支店群に近いのであろう。ひめぎん隣に建っているマンションは、新大阪駅に近いせいか、1階の店舗がチケット店であった。
 そのマンションの前に〔センイシティー南〕がある。センイシティーは、箕面市の「箕面船場」などと同様、繊維の卸売業者が郊外移転してきたもの。ここはJR大阪駅南側にあった繊維問屋街が集団移転したもので、1969年9月にオープンした。最近ではアパレルは全体的に不振で、ここもセンイ「シティー」ではなくなっているらしいが、バス停の名称としては健在である。〔センイシティー南〕は、市バスだけでなく阪急バスの停留所ポールも立っている。新大阪駅と大阪国際(伊丹)空港との間を結んでいて、平日はおおむね1時間に1本の運転。使いようによっては今日の計画に使えたかもしれない。

 三菱東京UFJ銀行(新大阪北支店)とメルパルクホールのある交差点に来た。MUの支店は旧三菱店だが、住友生命ビルの中にあるところが変わっている。さて、3車線×2だった幹線道路は、この三菱東京のある角から片側2車線×2の道にやせ細った。歩道の幅を広く取ってあるから、必要に応じて歩道を削って3車線にすることは可能だろう。その日が来るのかどうかは知らないが。〔西宮原二丁目〕あたりまで来ると、マンションも相変わらず多いけれども、古い民家がぽつぽつと現れ、摩天楼からちょっと空が見え始めた感じに変わってきた。東淀川駅を出る時空席も多かったこのバスは、新大阪駅と、その次の〔センイシティー南〕で客がドカッと乗って、それなりに利用度の高い路線のように見えた。特に、この時間帯は夕方のラッシュアワーだから、バスは一気に満席になっている。
 ここまで来て、バスは動きをすっかり止めてしまった。あともう少しで目的地であるのに、大渋滞である。今日は日中雨にさんざんたたられたのだから、せめて最後ぐらいスムーズに終わったらどうか。と思うけれども、日本国内での移動は、海外旅行とは異なり、さほどのアクシデントもなく済むのは事実であるようだ(海外に出たことがないので何とも言えないが)。少々渋滞したぐらいで腹を立ててはいけないのだろう。
 ほら、もう着いた。〔三国本町〕である。ちなみにこの道は、この先すぐ西側で、箕面に向かう国道176号線に突き当たるようだ。[39]は国道経由で十三に入り、淀川を渡ると〔中津六丁目〕から十三筋を西に離れて〔野田阪神前〕に至る。

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 【注】三和銀行は関連・関係会社の社名に「東洋」または「オリエント」を冠することが多かった(東洋信託銀行、オリエントリースなど)。東洋信金は三和銀側からは系列機関とみなされていなかったが、役職員は三和銀のOBが多く、信金内部では「三和系」と意識していた模様。

2015年04月07日

2013.06.20(木)(36)最終目標・三国に向かう小型バス

 もう夕方6時近くなり、私の腹は虫の活動が相当活発になってきていた。昼は上新庄でけっこうボリュームのあるランチを摂ったが、6時間近くも経てば完全に消化されてしまう。東淀川駅に戻る途中のローソンで、おにぎりを1個買い食いする。後でわかったことだが、西淡路支店は、東淀川駅から歩いて来る場合、五差路まで出るとちょっと遠回りである。交差点手前のローソン(東淀川店)で左に曲がると、支店前にある休業中の医院にダイレクトにたどり着く。
 というわけで、私はいよいよ最終目的地へ向かうこととなった。りそな銀行三国支店(淀川区)である。さっき書かなかったが、駅前には〔東淀川駅前〕という市バスの停留所があって、[11A]と[39]の2系統が来る【注1】。私はこれから、[39]野田阪神前行きのバスに乗る。[39]は平日のみの運転で、1時間に1本。時刻表を見ると、今日はこの後17:56発と19:01発の2本で終わりである。なお、[11]は〔東淀川区役所〕と〔新大阪駅東口〕を結ぶバスで、このうち約半分、「A」とつくものだけが〔東淀川駅前〕に乗り入れる。[11A]はだいたい2時間に1本。この3月(2013年)で廃止になった赤バスのうち、乗客が比較的多かった3路線は、4月から一般路線バスとして運行を継続することになった。11号系統はそのうちの一つ、旧赤バスの[西淡路〜区役所]系統をそのまま一般路線にしたものである。
 雨は相変わらず降りしきっている。白い鉄柱の先端に緑色のテントを付けた上屋があるが、この上屋はほとんど機能していない。交通局が割合に最近つけたとみられるブルーのベンチがあるが、今日のように濡れていると座る気にはならない。停留所のポールは一応行灯になっているが、接近案内のようなハイテク機器は付いていない。
 行灯に掲示が出ていて《39号系統は平成25年4月1日から一部のダイヤを小型ノンステップバスで運行いたします》とあった。赤バスの廃止が目前に迫った時期に、赤バス用車両の取り換えが必要となり、交通局は全国のコミュニティバスで広く使われている日野自動車の小型バス「ポンチョ」を大量購入した。もちろん、一般路線に転用できる前提で買ったわけである。購入当初は赤バスとして、クリーム色の車体に赤ラインという塗装にしていた。普通の市バスの塗り分けを色だけ赤に変えたものであるが、赤バス廃止と同時に赤いラインを黄緑色に変え、通常と同じ色になった。

 目の前で停留所の行灯が点いた。反射的に時計を見ると、17:45。発車時刻までまだ10分以上ある。
 停留所の真ん前のテナントビルが目に入った。ビル名はル・シェル。「シェル」と明らかに小さい「ェ」が書いてあるが、これは本来「シエル」が正しい。フランス語で、シエル(ciel)は空、冒頭のル(Le)は英語でいうと定冠詞のtheと同じ。よって「ル・シエル」は「ザ・スカイ」のようなネーミングである。この単語で思い出すのは、またもや塾講師時代の話であった。授業中にロックバンドの名前を「ラルク・アン・シェル」と発音して、男子生徒(中学生)に「シェルじゃ貝殻だよ」と叱られたことがある。彼はラルク・アン・シエルのファンだったのである。ラルカンシエル(L'Arc-en-ciel【注2】)で虹という意味だが、バンド名は読み方を日本的に変えているようだ。
 それから10分。バスはなかなか来なかった。すでに17:55、発車1分前である。バスはもともと定時性に難のある乗り物で、特に都市部では道路事情により5分や10分は平気で遅れてくるものである。今回もそうなのだろうが、こんな空模様の日に遅れられてはたまったものではない。

 そう思っていると、丸っこいデザインの小ぶりな車体の市バスがやって来た。これが「ポンチョ」であった。客が全員降りたのを見届けて、素早く乗り込む。通常の市バスは後ろ乗り前降りだが、このバスは乗降ドアが出入口兼用で1か所しかない。私を含む2〜3人の客が着席するかしないかのタイミングで、早くもバスはドアを閉め、勢いよく走り出した。
 車内は、右側に2人席が5列、左側に1人席が4列というレイアウトになっている。定員は何人かわからないが、小型バスだから29人以下のハズではある。最後部は長椅子になっているが、タイヤケースのところが段になっていて、相当に狭い。座席自体も寸法が小さくて華奢。ポンと乗ってチョコッと移動するからこの商品名になったというが、ほんの少し乗っただけで疲れてくるほど乗り心地が悪い。床が低い割に窓が高いところにあるから、外の景色も見づらい。だから私はこの型のバスが嫌いだ。
 ドアの右上に「酉」と書いてあった。39号系統は酉島営業所(此花区)が担当しているようだ。ちなみに井高野営業所は「井」であった。大阪市バスでは、通常の大型バスの場合、所属する営業所の頭文字【注3】が前ドア横の窓と後部ガラスに表示されている。
 車内放送が流れる。《本日は市バスをご利用頂きありがとうございます。次は〔日之出住宅前〕、〔日之出住宅前〕です》。市バスのアナウンスは「です」すら付けない、と今朝〔井高野車庫前〕を出る時に書いたが、どういうわけかここ東淀川では言っている。広告のアナウンスが入らない場合に「です」を言わず停留所名だけで終わりになることがあるように思う。

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 【注1】[39]は〔東淀川駅前〕発着便のほか、途中の〔新大阪駅北口〕を起終点とする便もあり、こちらは休日も運行されていた。なお、2014年4月のダイヤ改正で、[39]の〔東淀川駅前〕乗り入れは廃止され〔新大阪駅北口〕発着便のみとなった。
 【注2】L'Arc=Le arc。arcは弓の意。
 【注3】おおむね漢字だが、住之江営業所は「ス」、鶴町営業所は「ツ」。

2015年04月06日

2013.06.20(木)(35)近畿大阪・西淡路支店を制覇

 さて、近畿大阪はどこにあったかしら。そう思って五差路からフッと左を見ると、一番手前の方向に曲がる細い道と幹線道路との間にあるくさび形の部分に、目立たぬように支店の建物が建っていた。大きな道路に面するならともかく、この建物の建て方はよくわからない。西淡路支店のまわりに建っているマンションは建築年代が比較的新しそうに見え、道路こそ不規則に斜めになっているけれども、このあたりはすでに再開発が終わっているのではないだろうか。それとも、これから区画整理でもやるのか。それなら、せめて表通りに矢印看板でもつければいいのに。なお、その後の調査で、東淀川駅付近については駅前の太い道路に囲まれた範囲内のみ1970年前後に区画整理が行われたものの、近畿大阪のあるあたりは昭和30年代の区画のままであると判明した。
 ともあれ、西淡路支店はもうそこに見えている。五差路から奥へ入っていくと、まず近畿大阪の駐車場があった。土地は案外広く見えるが、駐車スペースの白線を4台分しか描いていない。駐車場と支店との間には、関西らしく車を収納するトタンぶきの棟割長屋のような小屋が建っている。これは別の民間ガレージである。やっと支店の敷地まで来ると、一番最初に遭遇したのは、鉄製の門扉が付いたカーポートであった。観音開きの2枚の白い鉄扉には、それぞれ「K」「B」の大きな文字が鉄板であしらってある。言うまでもなくKinkiとBankの頭文字であり、この支店が旧近畿銀行の店と一目でわかる。今となってはだいぶサビサビのようだが、できた当時はなかなかおしゃれだったのだろう。鉄扉の奥には支店の機動力として軽乗用車1台と自転車数台が置かれており、また行員通用口もここにある。そして、その先に「近畿大阪クイックロビー」の行灯看板がようやく見えてくる。私はどうやら、西淡路支店に裏手からアプローチしたようだ。

 支店の周辺は、シャッターストリートのような小規模な商店街であった。まず荒物屋があるが、この店はシャッターが下りている。シャッターが下りた調剤薬局。そして、やはりシャッターの下りた文房具屋と、内科・小児科の医院が同居した建物。医院ももう長いこと診療していないようだ。一応、診療時間などを書いた行灯の看板が付いているが、よく見るとポスティングされたチラシがたまり、埃をかぶっている。私が生まれた頃に設置されたと思しき文房具屋の看板には「コクヨフィラーノート」の文字が見える。1961年発売開始だそうだが、現在も市販されており、ちぎってファイリングできるように綴じ穴の開いたノートだという。あとは酒屋が1軒あるが、これまた自動販売機しか営業していない。というわけで、時間的な理由かもしれないが、この界隈でまともに営業している店舗は近畿大阪と郵便局だけのようであった。
 建物はパールのような光沢をもつタイルが貼り詰められている。白い縦型看板には大和銀行グループのDマークがまだ残っていたが【注1】、「近畿大阪クイックロビー」の看板はりそなの緑色のものに変わっていた。店内に入ると、近畿大阪としては標準的な内装。機械枠上部の行灯は合併後の標準スタイル(ゴナ体)で、5台分の機械枠にATM4台が稼働している。一番左の5番が空き枠、4番がオムロンJX、3〜1番にAK-1が3台、という機械配置であった。建築年代が比較的新しいと見える支店だけに、窓口室とを隔てるシャッターには、前面に大きなゴム製のスクリーンが付いている。「ご来店ありがとうございます。」とピンク色で大書された緑色のスクリーンには、ゾウやらコアラやらかわいらしい動物のイラストが描いてあった。
 機械を操作。17:30、西淡路支店を制覇した。

 近畿大阪銀行西淡路支店は、1959年9月に国民信用組合東淀川支店として開設された。国民信組についてはかつて当ブログの連載で触れたことがあるが【注2】、旧近畿相互銀行が1973年10月に吸収合併した信用組合で、この支店は合併により近畿相互の東淀川支店となった。1980年5月、東淀川区大隅一丁目に東淀川支店が開設されたのに伴い、この店は新・東淀川支店を母店とする西淡路特別出張所【注3】に変更された。1987年12月に支店昇格して西淡路支店となったが、現在の支店建物はこの時に新築されたようだ。その後に普銀転換と大阪銀行との合併を経ている。信用組合の頃から場所も変わっていないし、この界隈は区画整理もされていないから、建物は別として、昭和30年代の面影をかなり残しているようである。
 なお、西淡路支店は、近畿大阪銀行になってから、旧なみはや店舗を2店統合している。2002年6月に淡路支店(旧福徳銀、東淀川区東淡路4-14-27)、2004年1月に東三国支店(旧福徳銀、淀川区東三国5-1-2)である。淡路支店は阪急淡路駅の南側、東三国支店は地下鉄御堂筋線東三国駅の西側にそれぞれあった。西淡路支店は両者のほぼ中間に位置している。

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 【注1】その後、縦型の看板は地面から直立するタイプに付け替えられ、デザインもりそなグループ標準の緑色のものとなった。
 【注2】当ブログ2009年1月27日掲載「2008.07.22(火)(25)何かを期待させる8710」。
 【注3】当時は大蔵省の指導により支店の増加が認められていなかったため、新規出店の際には同数の支店の廃止が必要だった。この形で廃止になる支店の跡地には、顧客利便のため出張所の設置が認められていた。この枠で設置された出張所を特別出張所といった。1978年制度開始。

2015年04月05日

2013.06.20(木)(34)東淀川区ふたたび

 左の車窓からは広大な梅田の貨物駅跡が広がり、右側はビルばかりである。直径3cmくらいの大きなリベットが複数ついた重厚な柱がプラットホームに残り、その上にガラスの屋根が付いている。大阪駅は近年の再開発で、駅全体を覆う巨大な屋根をつくった。それでホームごとの屋根は全廃する計画だったのだが、大屋根の完成後に横から雨が吹き込むことが発覚し、ホーム屋根もそのまま残しておかなければならなくなったという。結局、古い鉄骨をそのまま生かして、屋根材だけガラスにしたという次第。こういうのは設計ミスというのだろうが、私としては、味わいのある古い柱が残ったということで、その部分に関しては評価したいと思う。
 私を乗せた各駅停車は大阪駅で何分間か停まり、やがて発車すると梅田周辺のいわゆる“阪急村”を右手に見ながら左にカーブして新大阪に向かっていく。車窓からはしばらくビルが固まりになって建っている様子がうかがえ、その後ビルと民家が半々ぐらいになるところがある。右にお寺が見えると間もなく淀川。今度渡るのは上流側の上淀川橋梁である。この橋から見える河川敷は、さっきと違って自然な感じ、というより荒れ果てて放置されている感じがする。グランドなどとして使われている様子もないし、水の流れる幅も狭く見えた。橋を渡り切って柴島浄水場を右手に見ると、そろそろ新大阪駅周辺のオフィス街が見えてくる。オフィスビルが多いのは線路の左側で、右側はそんなに密度が高くなく、建物もオフィスよりはマンションが多いようだ。そう思っているうちに、新幹線との乗換駅、新大阪に停車である。
 新大阪を過ぎると、こんどは左の車窓がマンションばかりになり、そして右は鉄筋コンクリート建築の密度が下がってくる。そこでもう、次なる目的地の東淀川である。大阪駅から新大阪駅までの間はけっこうな距離があって、大阪駅を出た後なかなか淀川が近づいて来ないし、淀川を渡って間もなく着くだろうと思っていると新大阪駅はそこからさらにずいぶん距離があるのだが、新大阪と東淀川の間は駅間が本当に短い。

 17:23、私を乗せた高槻行きの各駅停車は、定刻どおり東淀川駅に到着した。
 島式ホームが2本、外側が柵でふさがれて各駅停車はホームの内側だけ、という駅の構造は、さっきの塚本と同じである。塚本駅との違いは高架になっていないことで、それゆえホームの真ん中辺に跨線橋が見える。
 私はホームの北端に付いている階段を使って地下道に下りた。この地下道は、駅の東側と西側に両方ある、小さな平屋建ての駅舎とホームとを結んでいる。もともとは駅内施設で、幅2〜3mの本当に狭いものだが、そこをさらに天井近い高さの鉄柵で1mほど区切り、無理やり改札内・改札外双方の通路としている。このように地下通路を柵で区切って改札の中と外とで共用するのは関西地区でよく見る形態で、以前近鉄の小駅で似たものに遭遇したことがある。地下通路の柵は天井近い高さがあり、駅舎の中まで通じている。改札内の人は改札を通らないと出られないが、改札外の人はそのまま駅舎の外に出てしまう。
 こんな形になっているのは、東淀川駅は駅舎北側にある踏切が「開かずの踏切」として有名だからである。操車場からの線と東海道本線の複々線、合わせて8本の線路を跨いでいる長い踏切で、踏切番がいて機動的に開け閉めしているのだが、車両の入れ替えの時間に当たると開かずの踏切になってしまうのだ。線路の向こうとこちらが分断されているのは、国鉄時代ならともかく、民間企業のJRとしては無視できないのだろう。

 スイカをタッチして改札の外へ。自動改札機に表示された塚本からの運賃は、170円であった。駅の外に出ると、オレンジ色と黄色の花が咲いた花壇と、灯ろうが1基。駅舎の横にはアジサイも咲いているが、茶色いところが目立ち、正直あまりきれいなアジサイではなかった。振り返ると、駅舎は昔懐かしいスタイルの木造モルタル、瓦葺の平屋建てで、鉄道模型の建物として市販されていそうな外観である。
 線路に沿って南から来た2車線道路が、駅の敷地を避けるようにクランクし、それで広くなった部分が道路面から一段高くなって、駅前広場のようになっている。ロータリーではないが一応舗装はしてあって、たまに缶飲料の納品トラックが乗り入れたり、タクシーが回転したりしている。駅前は商店街にはなっておらず、1階だけを店舗や事務所にしたマンションが多い。喫茶店、整骨院、歯科医、居酒屋が見える。コンビニはデイリーヤマザキが1軒。あとは不動産屋が1軒。駅から見える駅前の商業はそれで終わりで、人通りも多くないし、少し寂しい感じがした。なお西口には、東口とは異なり、ある程度の商業集積があるようだ。
 4車線ぐらいの幅の広い道路が駅前から東へ200mぐらい続いている。広い道路はごくわずかな区間しかないが、そのうちアンダーパスを作って西口とつなげる計画でもあるのではなかろうか。この広くて寂しい道を東に向かって歩いていくと、その先に見える大きな信号で10階建てぐらいの高層マンションに突き当たり、中央分離帯つきの2車線×2の幹線道路と合わせて五差路になっている。いま「幹線道路」と書いたが、本当に幹線道路として機能しているのかは謎だ。なお、この道は五差路の向こうで道幅が急激に狭くなり、センターラインもない一方通行の出口に変わっている。ここから入ると、だいぶ曲がりくねってはいるが、阪急の淡路駅に行ける。前回の制覇の時(2009年6月)に、地下鉄御堂筋線の東三国駅から西淡路支店まで歩いてきて、この道を通って阪急淡路駅に抜けた。その時は確か、南北の大きな道路はまだ工事中だったと思う。

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2015年04月04日

2013.06.20(木)(33)[93]の旅は終わったが…

 歌島橋バスターミナルまで戻ってきた。
 [93]に乗ったり降りたりするのは終わったが、私の「銀行めぐラー」としての活動はまだ終わっていない。りそなグループの制覇目標は、淀川3区にあと2か所残っている。近畿大阪銀行西淡路支店(東淀川区)と、りそな銀行三国支店(淀川区)。次は、ここ西淀川区から、一気に東淀川区までジャンプである。近畿大阪の西淡路支店まで寄り道を一切しないで行くだけの話であるが、追加の金を払わなくても乗れる市営交通の乗り継ぎでなく、あえて別料金を払ってJRを使っているからジャンプなのである。
 その西淡路支店は、JR東海道線の東淀川駅が最も近い。歌島橋バスターミナルの敷地内にはJR東西線御幣島駅が口を開けており、JRで行くのならそのまま乗ってしまえばよさそうなものだ。しかし、東西線を使うと北新地駅からの乗り換えで大阪駅まで地下街を少々長い距離歩く必要がある。この乗り換えを少々わずらわしく感じた私は、バスで塚本まで戻り、塚本駅から東海道線の各駅停車で東淀川にアプローチすることにした。実際の歩行距離としては大差なかったようだが、地下街を経由しての乗り換えはやはりあまり気が進まない。
 乗るバスは、16:54発の[92]大阪駅前行き。次の[93]は17:14発だが、全線乗ってしまった今、無理やり選んで乗る必要はない。これから乗る92号系統は、阪神電鉄阪神なんば線の出来島駅前から、区の西端の川中島にある〔佃〕を経由して、歌島橋までやって来るバスである【注】。歌島橋からは〔北之町公園前〕へ回って淀川通に入り、十三の新北野交差点で右折して、淀川を渡って大阪駅に至る。

 塚本駅には17時を5分ほど回った頃にたどり着いた。さっきと逆方向のバスゆえ、淀川通の〔歌島一丁目〕バス停が道の反対側だった以外は、基本的にさっき通ってきた道と同様である。
 さっきと同じく商店街の中を歩いて来る。前方、JRと並走する阪神高速池田線の高架下に、赤い壁が見える。これが塚本駅である。赤い壁は高架の天井につきそうなぐらいの高さがあって、歩行者の身長から推定すると4mぐらいの高さがある。茶色い縁取りをした正方形で、縁取りの内側を真っ赤に塗って「西淀川区」と金属切り抜き文字を貼り、右下に花か何かのイラストが付いている。
 JRの手前を走る高速の高架下は、駅前広場になっている。高速の真下に駅前ロータリーの車道部分があって、あたかも屋根つきの駅前広場のようになっている。ここを歩く人を相手に、JR西日本経営のコンビニ「ハートイン」や餃子の王将など、高架下に店舗が何軒か出ている。ハートインの中にみずほ銀のATMがあるのはお約束。ほかのコンビニATMと同じ簡易型の機種で、キャッシュカードを使っての入出金ができるが通帳の使えないタイプの機械である。それはいいのだが、ここで私は少々頭に来たのであった。JRの高架と高速の高架の間には、微妙にすき間が空いていて、そこを通ると雨に濡れてしまうのである。行政は何を考えているのだろう。どうして人間の通るところに屋根をかぶせないのだろうか。というか、ロータリーの位置が悪いのだ。屋根の役割を担う高架の下を人が歩くような形で最初から整備していれば、雨に濡れることもなく、こういう不満もなかったと思う。車には屋根があるんだから、少々濡れたっていいじゃないの。なお、後でわかったことだが、この“すき間”の部分が、まさに淀川区と西淀川区との境界線だという。セクショナリズムそのものであった。
 高架下にある駅の施設は、東西の通路を挟んで改札と切符売り場が向かい合っているところなど、住宅地の駅として典型的と言えるだろう。改札機は最近更新したとみえて、丸みを帯びた新しい機械。それを通って階段を上がると、踊り場にはホームに上がる階段が方面別に2本。もちろん大阪方面の階段を上がっていくと、片側に柵のついた島式ホームに出た。このあたりは京阪神地区の東海道線に特有の外観で、各駅停車しか停まらない小駅でも島式ホームが2本(上下各1本)ある。ただし、客が乗降するのは内側の線路だけで、外側の快速線に面した側は柵でふさいでいる。東海道・山陽線は草津〜西明石間が複々線になっているが、つくりとしては、東京でいうと中央線の三鷹〜中野間のように、快速線と緩行線(各駅停車)の両方にホームがある。ただ、運転の形態としては同じ中央線でも中野〜新宿間に近く、この間の駅を快速線の列車はすべて通過する。

 17:10発の各駅停車高槻行きに乗車。車両は、321系とかいうJR西日本の新型通勤電車であった。
 塚本を出た電車は、右の車窓に高速道路を見ながら走る。ビルの屋上には、高速を通る車を相手に看板がたくさん出ている。塚本駅の前後では右を見ても左を見ても工場ばかり。特に西側の密度が非常に高かったから、やはり西淀川は工場の街なのだと強く感じた。それを見ていると、間もなく電車は淀川を渡る。これから行く東淀川までの3駅、7.9kmの間に、東海道線は淀川を2回渡る。つまり、淀川の北岸から南岸へと渡り、また北岸に戻ることになる。動きとしては無駄であるが、実はこれが一番安くて速い方法なのであった。なお、この鉄橋は下淀川橋梁という。淀川に2本かかる東海道線の鉄橋のうち、下流側にあるものだからである。
 窓の下には、河川敷が広く横たわっている。グランドなどスポーツ施設がけっこう整備してあるようだった。水面も非常に広かった。旧来の淀川である大川と放水路の新淀川とを分ける毛馬よりも下流側だから、このあたりにワンドはない。
 堤防を越えると、左側に産経新聞の印刷工場が見え、右側には公団の住宅が続いている。川を越えると建物の密度が変わってきた。と思う間もなく、電車は左にカーブを始めた。線路と高速の高架が離れると、直ちに右の方向から大阪環状線が近づいてくる。高速道路が円筒形のビルのど真ん中を突き抜け、JRの線路をまたいでいく。そこで下を見ると、今度は梅田の貨物駅に向かう貨物線をまたいでいる。ほどなく、東海道本線の電車は大阪駅のホームに滑り込んだ。

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 【注】2014年4月のダイヤ改正により、[92]は〔福町〕始発となった。

2015年04月03日

2013.06.20(木)(32)りそな・歌島橋支店を制覇

 目立った商業施設がほとんど見当たらない代わり、銀行だけは本当にたくさんある。交差点に面しているのはりそなと三菱東京UFJだけだが、実はここから西淀川区の「金融の」中心地が始まっているのだ。
 交差点に面しているのは、りそなと、三菱東京UFJ銀行の歌島橋支店(旧三和銀)である。三和の支店はもともと三十四銀行の姫島出張所だった店で、1937年にこの地に新築移転してきた。姫島は歌島橋の南1kmほど、阪神電鉄本線の駅がある同区の中心地のひとつである。
 歌島橋の中でも、特に銀行が集中しているのは阪神国道を神戸方面に進んだところである。ヤナセの隣には、京都銀行の真新しい店舗が見える。京銀の歌島橋支店は2013年7月の開設で、この時点ではまだオープンしていない。いま京銀があるのは、もともと神戸銀行の歌島橋支店(1961年11月開設)があった場所で、さくら銀行を経て三井住友銀行発足により歌島橋西支店に改称、2002年11月に旧住友銀の支店に統合された。神戸銀の支店の隣には、兵庫相互銀行も歌島橋支店を出していたが(1963年8月開設)、みどり銀行時代の1996年3月に閉店し、跡地はマンションになっている。さらにその先には、十三(現北おおさか)信金の歌島橋支店が現役で営業している。1962年12月の開設とあって、こちらの建物はだいぶ古めかしい。
 りそなの先にある三井住友銀行歌島橋支店(旧住友銀)は、太平洋戦争前の1938年8月からある支店である。その手前には、かつて第一勧業銀行が西淀川支店を出していた(1938年11月開設、旧第一銀)。みずほになってからの2005年2月に西野田支店(元日本勧銀)に統合され、跡地はマンションになっている。実は、さっきスモカ歯磨の隣に、みずほ銀行が店舗外ATMを出していた。西野田支店西淀川出張所。西野田支店は、JR東西線で御幣島から1駅、淀川を渡った野田阪神にある支店だから、こんな場所に店舗外ATMを単独で出しているのは、かつて歌島橋に支店があったのか。小屋の中は改装されていて旧銀行はわからないが、富士通の機械が入っているから旧第一勧銀だろうか。ここまで見極めてから調べてみると、思ったとおりであった。
 りそなのウオッチャーとしてはここで述べておかなくてはならないが、協和銀行の前身の一つ大阪貯蓄銀行は、1940年7月に歌島橋支店を出店した。1948年2月に福島区の野田支店【注1】に統合されている。歌島橋支店の廃止は、戦後に預金が急速に減少した時期に行われた不採算店廃止の一環であった。所在地については当時の住所で西淀川区野里町780と判明しているが、現在地は判然としなかった。今後の課題としたい。
 ところで、ここまで書いてきたとおり、この交差点近辺には、銀行が1937〜39年の間に集中して出店している。後で述べるが、りそな銀行歌島橋支店も1938年に開設され、1939年に現在地に移転してきている。1938(昭和13)年前後に、この辺りに何があったのだろうか。一応調べてはみたが、手がかりを見つけることができなかったので今後の課題としたい。

 りそな銀の歌島橋支店は、歌島橋の交差点に面し、阪神国道と御幣島筋とに挟まれた場所にある。支店の建物は正面が交差点の内側を向いており、支店北側のバスターミナルから歩いてくると御幣島筋に面した部分は壁になっている。壁と道路の間の三角形の敷地は、課金の機械が付いた有料の駐輪場。支店横には《りそな銀行歌島橋支店提携駐車場》という表示のあるコインパーキング(タイムズ歌島橋)がある。大和銀行時代には自行の駐車場だったのだろう。
 支店の写真撮影。それにしても、今日は本当によく雨が降る。店の前にはシュロの木が複数植えられており、どす黒く光るアスファルトの地面と暗い空とがマッチして、なんとなく南国で撮ったような写真ができた。知らない人に「りそなのインドネシアにある銀行子会社」だと言ってこの写真を見せたら、案外信じるかもしれない。
 支店の中に入ると、窓口室に客は一人もいなかった。これだけ雨が降っていると、やはり外出する気もなくなるのだろう。特に日本人には「銀行は3時まで」というのがカルチャーとして深く刷り込まれているようで、りそなも夕方5時近くなると窓口の来店客が姿を消す。閑古鳥が鳴くのは自然、というわけなのだが、しかしそれにしては機械の台数も少ないようだ。ATMは4台しかない。機械枠の構成は、記帳機、オムロンJXの白が3台、AK-1が1台、そして空き枠が2台分である。
 歌島橋支店のキャッシュコーナーは大和銀の標準スタイルだが、仕切り板に三角形のアクセント、そこにはめられたガラスに斜めの線が入っているタイプで、詳しく調べてはいないがこれは標準スタイルの中でも後期のタイプではないかと思う。今まで標準スタイルとしか言っていなかったタイプでも、前期と後期で分かれるのではないか、と最近考えている。これも今後の課題としたい。歌島橋は「今後の課題」ばかりになってしまった。
 ともあれ、私は機械を操作する。16:31、RB歌島橋支店を制覇した。

 りそな銀行歌島橋支店は、野村銀行歌島橋支店として1938年6月に開設された。開設当初の店舗は国道2号線を尼崎方向に進んだ神崎橋のたもとにあったようだ(西淀川区佃町1133)が、開設翌年の1939年3月に現在地に移転した。1942年10月、尼崎市潮江に神崎出張所を設置したが、1945年1月に支店昇格のため分離した。同出張所はその後幾多の変遷を経て、りそな銀行尼崎北支店となっている。
 なお、大阪市の淀川北岸地区では、ここから西にりそなグループの営業店はない。店舗外ATMすら、淀川通沿いの関西スーパー(をキーテナントとするSC)に一つあるだけである【注2】。

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 【注1】協和銀の野田支店は1964年5月西野田支店に統合された。西野田支店はりそな銀行の初期まで存続した。
 【注2】りそな銀の[メラード大和田]。母店は歌島橋支店。

2015年04月02日

2013.06.20(木)(31)淀川通と阪神国道が交わる町

 バスターミナルの隣には、パイロット万年筆の配送施設がある。裏手には町工場と、建ぺい率いっぱいに建てた3階建て民家の建ち並ぶ一角。この3階建て民家は、建築様式などが結構古めかしく、最近建ったものではなさそうである。その隣は「かごの屋」という初めて接する屋号のしゃぶしゃぶ店だが、店舗は東京にもあるらしい。ともあれ、りそな銀行歌島橋支店は、その隣である。
 バスターミナルから御幣島筋を挟んだ反対側に、「SMOCA」の文字が大書された事業所があった。瓦ぶきの2階建てだが、何となく洋館のようで、かなり古めかしい味のある外観をしている。スモカ歯磨という会社の本社である。昔ながらの缶入り「歯磨き粉」がこの会社の主力製品で、タバコのヤニ取り歯磨(缶入り155g)が希望小売価格300円だそうだ。ということは、「スモカ」の名前は「スモーカー」から来ているのだろう。同社の主力製品「スモカ歯磨」は、1925(大正14)年に洋酒メーカーの寿屋(現サントリー)から発売されたが、歯磨部門は間もなく売却され、現在では国内各メーカーのOEM生産なども請け負うオーラルケア用品メーカーとなっている。
 御幣島筋の北方に目を向けると、さっきバスで横を通ったエディオンの大きな店舗が見える。あとは、ファミリーマート、au、学習塾など。こちらは、町工場が大企業に成長したと思われる「本社工場」のようなビルが、ロードサイド型の店舗と入りまじって建っている。

 歌島橋の交差点まで歩いてきた。この交差点は大きな五差路になっており、面積もとても大きい。五差路というのは、塚本方面から来て西淀川区西端の中島に至る淀川通と、梅田新道交差点を起点に神戸方面に至る阪神国道(国道2号線)がここ歌島橋の交差点で交差し、さらに御幣島筋が真北に延びているからである。りそなを含めて銀行の支店が2つ、この交差点に面している。銀行の支店のほか、西淀川区役所がそびえ、外車ディーラーのヤナセ(大阪支店)と洋服の青山(西淀川歌島橋店)もある。りそなの建物の前は、けっこう広いデッドスペースになっているので、ここをつぶして、最近地方都市で実験的に導入されている「ラウンドアバウト」とかいうロータリーにできるのではないか、と一瞬思った。渋滞の名所になるほど交通量が多くては無理、と思い直したが。なお、この交差点の下には地下道が掘ってあり、歩行者の横断はすべて地下道でやることになっているので横断歩道がない。
 りそなの支店を正面にして左前方にまっすぐ進んでいく道が、阪神国道(国道2号線)である。梅田から淀川を渡って歌島橋までやって来るこの道には、1975年5月まで阪神電鉄が国道線という路面電車を走らせており、その名残でこの道沿いには阪神バスの停留所がある。阪神国道線は、阪神電鉄本線の主要駅である野田(大阪市福島区)から神戸市灘区に至る、全長25kmあまりの長距離の路面電車だった。阪神国道を走る阪神バスは、かつての国道線のターミナル〔野田阪神前〕から、歌島橋を抜けて兵庫県尼崎市方面へ行く。このバスは杭瀬(尼崎市)から西では現在も公共交通機関として機能しているが、大阪市内では1997年3月のJR東西線開通により乗客を奪われ【注】、2013年10月のダイヤ改正では、〔阪神甲子園〕まであった運転区間が途中の〔尼崎浜田車庫前〕までに短縮され、運転本数もついに1日1往復のみとなって、日常的に使うことのできないダイヤと化してしまった。
 りそなの向かいに建つ西淀川区役所の庁舎の向こうから、淀川通がやって来る。バスはさっき野里2で曲がってしまったけれども、曲がらずに進んで来るとここに出る。淀川通を歌島橋からさらに西に進んでいくと、淀川河口近くの埋め立て地・中島に至り、海に突き当たって終わる。西淀川区の西半分は大規模な工業地帯で、中島は西淀川特殊鋼団地となっている。在りし日の[93C]は、歌島橋を越えてさらに西に進み、途中の大和田西で左(南)に折れて、阪神なんば線福駅近くの〔福町〕まで乗り入れていた。

 この区の商業集積は、淀川通沿いの塚本や阪神国道沿いの野里などで、歌島橋交差点のあたりは「金融の中心地」に過ぎないようだ。この地で金融機関以外にあるのは生産部門とマンションばかりで、あとは広い幹線道路が交わっているだけである。飲食店で目に付いたのは“王将対決”ぐらいであった。まず、交差点に面した所に「大阪王将」がある。これは昼に上新庄で入った「餃子の王将」ではない。そして、その「餃子の王将」も区役所の北隣にチャンとあるのだ。大阪王将は餃子の王将からスピンアウトした会社だと聞いているから、対抗意識も強いのだろう。ともあれ、歌島橋では王将の“バトル”が繰り広げられていることになる。
 淀川通を福町の方向に行くとショッピングセンターが複数あるから、歌島橋にもそれなりに商業が集積していると言えるし、中心部から離れたところに出ないと商業がないという言い方もできる。後日、歌島橋から西の淀川通を車で走ってみたが、このエリアは純工業地帯で、阪神高速と交わる大和田のあたりへ行くと工業団地の真ん中に社宅のような住宅があったり、住民としては工場労働者が多いようだ。なるほど、これならバスの乗客は朝夕の通勤時間帯に集中して、日中は少ないかもしれない。よく東海道線を境に地域性がきれいに分かれたものだと思う。

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 【注】阪神野田駅前にある海老江駅から、阪神国道の地下を通って御幣島駅までやって来る。バスと全く同じ経路。

2015年04月01日

2013.06.20(木)(30)歌島橋バスターミナルにて

 明けない夜が存在しないように、待っていさえいれば渋滞はいつか抜け出る時が来る。私の乗ったバスは、歌島橋バスターミナル前の信号を右折し、ターミナルの敷地に入り込んだ。BTの入口に信号があって、御幣島筋から右折で進入できるのであった。そうでなければバスターミナルとして機能しないだろう。
 歌島橋バスターミナルは、鉄筋コンクリート5階建てのビルであった。1階は南北に細長い待合室になっていて、その周りに反時計回り一方通行の通路が取り囲んでいる。ターミナルに右折で入ったバスは、すぐにもう1回右折して、建物の東側で停車した。
 ああ、ついに終点である。席を立って出口へ。「エンジョイエコカード」を運転士横の運賃箱に通して、バスを降りた。朝から何度も繰り返してきた動作だが、今回のそれは一味違った思いがした。これをもって、朝から乗ったり降りたりを繰り返してきた、大阪市営バス93号系統、13.675kmの全線完乗を達成した。

 歌島橋支店へ行く前に、バスターミナルの中に入ってみる。
 歌島橋バスターミナルは、1981年3月に開所した。待合室の外は四角いバスのホームになっていて、室内には乗り場への自動ドアが並んでいる。自動ドアは上部にエアカーテンまでついている。建物内には案内所の窓口もあって、職員入口のドアには押しボタン式のロックが付いている。その横では「発車時刻総合案内」という電光掲示板が動いている。それから、お手洗いもあって使用可能であった。
 このターミナルから出ているバスは、全部で6系統。そのうち市バスは5系統ある。今回乗って来た[93]のほか、〔竹島三丁目〕と〔野田阪神前〕を結ぶ[38]、バスターミナル始発で〔中島二丁目〕まで行く[42]、大阪駅から来る[92]と[96]。[96]は〔福町〕まで、[92]は〔佃〕を経由して〔出来島駅前〕まで行っている【注】。
 もう1系統は、「にーよんバス」という西淀川区のコミュニティバスである。2013年3月限りで廃止になった赤バスの代替措置として、区役所が民間に委託して走らせているもの。「にーよん」は西淀川区のキャラクターである。淀川区の委託先は国際興業大阪だったが、西淀川区は千里山バスという会社(大阪府摂津市)に委託している。路線図を見ると、複数の拠点を軸にして循環系統を何本かつなげたような運転系統になっていた。車両は、企業が送迎用に使っているような、三菱ふそうの普通の型のマイクロバス。にーよんバスは赤バスとは違いますのでご注意下さい、という掲示がBT内にあった。市バスとの違いは、先払いになることと、市バスとの乗り継ぎ割引がないことである。

 建物に入った時、まず中が真っ暗であるのに驚かされた。建物内の照明が、非常灯しか点いていない。照明設備はあるのだが、非常灯しか「点けていない」のである。建物の中はその大半が大きな待合室になっているが、《館内での発車のご案内はしておりません》という紙が貼ってあるとおり、案内放送などは全くない。案内所の窓口も、閉鎖されて随分経つようだ。電気で動くものは、バスの情報システム1基とドリンクの自動販売機、それに自動ドアだけのようであった。使われていない機械(バスの行き先を音声で案内する機械だと思う)には「調整中」という紙が貼ってある。この「調整中」は、どこかの流行らない店が「改装のためしばらく休業」するのと同様だろう。
 多数ある自動ドアのうち、使われているのは半分ぐらいしかない。残り半分は、締め切りのプレートをつけて閉鎖されている。1つの乗り場につき行き先を1つか2つ割り振っているような状況で、その限りにおいては豪勢である。たとえば、乗り場5番は[96]の福町行きしか出ないのだが、96号系統は1時間に1本しか運転されていない。これなら、この1/4ぐらいの敷地で、野天にバスホームをいくつも取って待合室一つ建てたぐらいで十分ではないか。何でこんな立派な建物にする必要があったのか、と思うほどスカスカである。
 この敷地にはバスターミナルの他にもう一つ、交通機関の重要な施設がある。JR御幣島駅の連絡口が、敷地の入口際に設置されているのだ。JR東西線は、バスターミナル前の御幣島筋の地下を走っていて、駅のホームはちょうどバスターミナルの前にあるのだが、双方の乗り継ぎには途中に野天の部分があり、雨の日に濡れずに移動することは不可能である。ターミナルの建物内に出入口をつければこういうことは起こらなかったと思う。そもそもターミナルの名称からして「歌島橋」と「御幣島」で揃っていない。交通局とJRはかように連携がない。
 外に出てみると、バスターミナルの上層階はアパートになっている。市営アパートではなく、住宅公団(現UR都市機構:独立行政法人都市再生機構)の賃貸住宅で、入居者募集中の看板もあった。《日本住宅公団関西支社歌島橋市街地住宅》という看板が出ている。日本住宅公団は、バスターミナル開設の半年後、1981年10月に改称されており、時代を感じさせる。バスターミナルの敷地と道路との間は植え込みになっているが、ここは草ぼうぼうである。いつ廃施設になっても不思議でなさそうな雰囲気が漂っていた。

 歌島橋バスターミナルは、2014年3月31日の最終便をもって廃止された。

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 【注】歌島橋バスターミナルの廃止により、停留所の名称は〔御幣島駅〕に変更された。翌4月1日のダイヤ改正では、当地に来るバスも大幅に削減・変更され、[93]が廃止(〔大阪駅前〕発着に変更)、[96]を[92]に統合して〔福町〕〜〔佃〕〜〔大阪駅前〕の運転に変更、またバスターミナル始発だった[42]は〔大阪駅前〕発に変更された。西淀川区の「にーよんバス」は、発着場所を区役所前に移し、乗客を限定した「福祉バス」となった。[93]の歌島橋乗り入れ終了は、1972年以来続いてきた、淀川北岸を大縦断するバス路線の終焉であった。
カテゴリ一覧(過去の連載など)
大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇(62)
単発(12)
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りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く(43)
りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅(57)
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2007年7月 りそな関西地区支店昇格5店完全制覇+α(43)
あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇(34)
2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)