2016年04月28日

あとがき・参考文献

 「銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇」、4月27日をもって完結いたしました。最後までお読みいただいた方には、例によってダラダラと続いた連載にお付き合いいただき、御礼申し上げます。分量は300枚を若干上回った程度でした(400字詰原稿用紙換算)。

 今回の「めぐ」は、順番でいうと、この前に1本準備中のものがありました。秋田県の半年前に某所(今はまだ地名は伏せておきます)でハシゴした際のもので、当初は秋田県篇と同時進行で作っていたのですが、次第にこちらにのめり込むことになりました。
 今回の連載ほど、執筆にあたっての取材活動を楽しく感じたことはありませんでした。その理由は、データを探しに行くと、ここにあると想定した場所に確実に存在したからです。秋田県という地域は、県紙(『秋田魁新報』)よりも小規模な「地域紙」が多数発行されているエリアで、これらのバックナンバーを丹念に読んでいけば、私の知りたいことはほとんどすべて知ることができました。これは、地域のことを地域紙がきちんと報道していればこそであります。私の住む東京都の状況を見ますと、たとえば杉並区では、現在こうした新聞はタブロイド判の月刊紙1紙だけしか存在しません。かつては月刊紙が3紙ほど発行されていたようですが、そのうち2紙は1990年代〜2000年代にかけて廃刊しています。杉並区の人口は55.6万人で、能代市(5.6万人)や大館市(7.5万人)の7〜10倍の人口規模があります(2016.03末)。単純比較はできませんが、健全な地域ジャーナリズムが機能している点で、秋田県という地域は東京に住んでいてうらやましいと感じました。仕掛かり中の次の「めぐ記」は、地域紙の全くないエリアで、県紙に頼るしかなさそうですので、どうしたものかと今から頭を悩ませています。
 こうした新聞のバックナンバーには、日本のあらゆる出版物を収集している国立国会図書館にも所蔵のないものがあります。それらを読むために、東京から秋田まで何度も出向かざるを得なかったのは、まあ苦労と言えばいえるものだったかも知れません。それでも、地元の秋田に行けば図書館が資料を確実に持っている、と確信できたのは、相当心強いことでした。今回の連載と深いかかわりのある企業の社内報が、創刊号から終刊号まで全部保存されていたのには驚かされました。社内報を図書館に寄贈して保存させた当時の会社関係者に敬意を表します。と同時に、こうしたものを保存していた図書館という組織と、私が次から次へと行う面倒臭い依頼に快く対応して下さった県立や各市立の図書館関係者に対し、深く感謝する次第です。

 本連載でもう一つ感じたのは、住民が地域社会に濃密に参加していることでした。「橋本五郎文庫」を作り上げた三種町鯉川地区をはじめ、町の賑わいというか人間生活の気配を維持しようとする能代市中心部、デパートが消えた町に集客の核をと奮戦する大館市中心部など、今回訪れた各地域で感じることができました。商業や産業が衰退し、人口が大きく減少している秋田県ですが、私はその様子を見て感じました。今後も案外粘り腰でやっていくのではないか、と。
 私はかつて学習塾で講師として働いたことがありますが、そこで頭を悩ませたのは、「いかに勉強を教えるか」もさることながら、子供たちに「いかにやる気を起こさせるか」でした。私が初年度に英語を担当したクラスに、数学には情熱を傾けるけれども英単語は1語たりとも覚える気のない男子生徒がいて、手を焼いたのです。言い古された諺ではありますが、馬を水のそばに連れて行くことができても、水を飲むかどうかはその馬の意思に任されています。と言うより、無理に飲ませるわけにもいかない以上、意思に任せるしかありません。一方、全国各地で人口の減少と経済力の低下とが深刻になって、国や自治体が地域おこしを目論んでいろんなことをやっております。こうしたものが「お上」主導で進行して、うまくいくハズがないのは自明です。塾の生徒と同様に、当事者が積極的に参加してこそ、初めて調子よく回りだすものだろうと思います。先に挙げた男子生徒は、情熱を傾けていただけあって、数学だけは成績良好でした。
 さて、何かをする際の「動機」は、いったい何でしょうか。地域おこしの場合、少子高齢化への危機感でしょうか、それとも楽しい老後の生活を送りたいという希望でしょうか。参画するプロジェクトごとに理由も異なっているでしょうが、住んで楽しい故郷とそうでない故郷では、楽しい故郷の方が良いに決まっています。楽しみが目的である方が、よりモチベーションが湧くと想像できます。私が今回見て回ったさまざまな活動は、皆さん楽しんでやっておられるように見受けられ、危機感などマイナスの感情をバネにした活動よりも持続するのではないかと思いました。同じ話ばかりを引き合いに出しますが、かの男子生徒は、中学卒業と同時に塾も卒業するまで、英語の成績は低空飛行のままで終わりました。私は彼の「やる気」を引き出すことが、最後までできなかったのです。私はどちらかというと将来をネガティブに見積もる方でして、こうしたスタンスでの説得は、彼の心には響くものがなかったのでしょう。
 いわゆる地域おこしの活動は、経済的な基盤の再構築がない限り、地域の人間関係が良くなる程度で終わってしまうことが多いようです。しかし、そういう傾向のあることは理解しつつもなお、短い取材・執筆の期間で垣間見た住民の地域社会への参加ぶりは、目を見張るものがありました。前段で述べた、健全な地域ジャーナリズムが機能しているということも、この点と関わりがあるのかもしれません。

 今の日本社会は、変わらぬことよりも日々流転していると感じられることの方が多いようで、いろいろな意味で「時代の節目」になっているのは間違いありません。数年後に読み返して「古い!」と感じられることがあるかもしれませんが、あくまで2015年1月の実体験と、その後の連載期間における「一面の真実」です。そういうものだと思ってお読みいただくことを望みます。
 この連載のような「文章を使っての自己主張」が、私の存在意義だと思っています。今後ともご支援・ご鞭撻をいただけますようお願いします。ご意見や情報提供をお待ちしています。このブログ「MEGU」ではコメントを歓迎していますし、私のメールアドレスも公表しています。

 なお、この連載の執筆にあたっては、以下のような書籍・ウェブサイト等を参照いたしました。


参考文献
紙の出版物は刊行年順、同年はタイトルの五十音順。ウェブサイトはサイト名の五十音順、2016.04.01現在。新聞記事の日付・見出しは省略した。

 『日本勧業銀行三十年志』日本勧業銀行、1927年
 『金融年鑑 昭和29・30年版』金融通信社、1954年
 『賀川豊彦全集 11』キリスト新聞社、1963年
 『日本勧業銀行七十年史』日本勧業銀行、1967年
 『弘前相互銀行五十年志』弘前相互銀行、1974年
 唐牛敏世『白寿の心』みちのく銀行、1978年
 『秋田銀行百年史』秋田銀行、1979年
 佐藤正忠『人生太く永く』経済界、1980年(1990年新版)
 『協働社35年の歩み』協働社、1981年
 『秋田県紳士録』秋田魁新報社、1984年
 『大館市史 第三巻下』大館市、1986年
 『国際興業五十年史』国際興業、1990年
 林正春編『ハチ公文献集』私家本、1991年
 『比内町農協三十年史』比内町農業協同組合、1992年
 『秋田県銀行協会五十年史』(社)秋田県銀行協会、1996年
 『北都銀行百年史』北都銀行、1996年
 『秋田県人名大事典 第二版』秋田魁新報社、2000年
 『能代市山本郡医師会三十年記念史』社団法人能代市山本郡医師会、2002年 ※書名表記はママ
 『中学社会・能代市 平成18年度版』能代市教育委員会、2007年
 『秋田銀行130年のあゆみ』秋田銀行、2009年
 『小田急バス60年史』小田急バス、2010年
 小南浩一『賀川豊彦研究序説』緑蔭書房、2010年
 橋本五郎『範は歴史にあり』藤原書店、2010年
 北羽新報社編集局報道部編『廃校が図書館になった!』藤原書店、2012年
 一ノ瀬正樹ほか編『東大ハチ公物語』東京大学出版会、2015年

 「みちのく銀行合併25周年特集」『財政金融ジャーナル』2001年10月号、東京ジャーナル社
 杉山和雄「戦後地域金融を支えた人々(9) みちのく銀行唐牛敏世」『月刊金融ジャーナル』2005年9月号、金融ジャーナル社
 「『みずほ』が貪ったみちのく銀行」『FACTA』2007年10月号、ファクタ出版
 「地域とともに(162)みちのく銀行高田邦洋頭取に聞く」『月刊金融ジャーナル』2015年2月号、金融ジャーナル社

 『秋田魁年鑑』『DATA Fileあきた』秋田魁新報社
 『金融資料年報』『ニッキン資料年報』日本金融通信社
 『住宅明細図』東交出版社
 『ゼンリン住宅地図』ゼンリン
 『東商信用録 秋田県版』東京商工リサーチ秋田支店
 『日本金融名鑑』日本金融通信社
 『はくと』協働社 

 『朝日新聞』
 『毎日新聞』
 『読売新聞』
 『日本経済新聞』
 『秋田魁新報』(秋田市)
 『東奥日報』(青森市)
 『北羽新報』(能代市)
 『秋北新聞』(北秋田市)
 『北鹿新聞』(大館市)
 『日経金融新聞』
 『日経流通新聞』
 『日本金融通信』『ニッキン』
 『官報』

 『アートNPOゼロダテ』http://www.zero-date.org/
 『あいにいける秋田犬のの』https://ja-jp.facebook.com/akitainuz
 『秋田県』http://www.pref.akita.lg.jp/
 『秋田県大館市田舎生活のブログ』http://akitaoodate.blog.so-net.ne.jp/
 『秋田県立図書館』http://www.apl.pref.akita.jp/
 『秋田市』http://www.city.akita.akita.jp/
 『伊徳』http://www.itoku.co.jp/index.html
 小田切誠「『橋本五郎人気』が秋田のメディアに投げかけた思わぬ波紋」『ウェッジインフィニティ』http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2456
 『大館市』http://www.city.odate.akita.jp/
 『北秋田市』http://www.city.kitaakita.akita.jp/
 『協働大町ビル』http://www.oomachi.com/index.html
 『国際興業』http://www.kokusaikogyo.co.jp/
 『国際興業バス』http://5931bus.com/
 『秋北バス』http://www.shuhokubus-gr.co.jp/
 『大道寺会』http://www.daidoji-kai.com/index.html
 『大和情報サービス』http://www.dis-net.jp/
 『東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部』http://www.a.u-tokyo.ac.jp/index.html
 『二〇世紀ひみつ基地』http://20century.blog2.fc2.com/
 『能代市』http://www.city.noshiro.akita.jp/
 『能代山本医師会病院』http://ny-ishikaihp.jp/
 『橋本五郎文庫』http://www.h-goro-bunko.com/index.html
 『兵庫県立篠山鳳鳴高等学校』http://www.hyogo-c.ed.jp/~homei-hs/index.html
 『広く浅く』http://blog.goo.ne.jp/taic02
 『ふるさと呑風便』http://www.donpu.net/
 「琴丘町誕生50周年記念誌」『三種町』http://www.town.mitane.akita.jp/kyuhp/kotooka/kinensi50/kinensi50.pdf
 『みちのく銀行』http://www.michinokubank.co.jp/
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2016年04月27日

2015.01.16(金)(23)エピローグ 花輪線で盛岡へ

 全行程が終わった。
 さあ、これから東京への帰還の旅である。JR花輪線の扇田駅へ向かう。扇田駅はみち銀比内支店の西800mほど、支店前からは直進の方向である。2011年4月に花輪線で扇田に来た時は、扇田駅から右に曲がって表通りを真っすぐ来たら支店にぶち当たった記憶がある。今回はその逆を行けばよい。16:48発だったと思うから、余裕で間に合うハズだ。
 さっきバスが曲がった馬喰町の交差点まで戻ってきた。対面2車線白破線センターラインの道を、さらに真っすぐ北西に向かう。県道52号比内田代線は、JRの線路に沿って走っている。センターラインは引いたり引いていなかったりであった。途中で消えてしまったのか、メンテナンス経費の関係で引いていないのか。雪国ではスタッドレスタイヤを付けた車が多く、道路に引かれたライン類はすぐに削られてしまう。
 交差点から少し歩くと商店街が途切れ、建物密度のさほど高くない住宅地になった。ところどころに製材所や材木店があるところが、秋田杉を産する秋田県山間部の集落には特徴的かもしれない。林業関係の事業所は、商品の上に雪が1mぐらい積もっていたりするのだが、この冬場に営業しているのだろうか。製材所の一軒は「乳井木材」という会社であった。扇田のあたりは乳という文字を名字や屋号に使っているケースが多い。初めて見る苗字であるが、もし社名の読み方が「チチイ」なら、音の響きとしてかなりの破壊力があると思った【注】。
 大館市内で雪の量の多さにびっくりしたのだが、扇田のあたりは、雪深さという点からすると大館よりも軽い気がした。建物密度のせいなのか、雪を除去しないでそのままにしている土地が多いせいか。しかしそれでも、某所では腐りかけた柱の上に葺いてあるトタン屋根に、ものすごい量の雪が積もっているのを見た。突然ぺしゃんこになったりしないのだろうか。他所者の私はつい余計な心配をしてしまう。
 県道沿いには〔扇田駅前〕のバス停があった。秋北バスが運行している、大館市のコミュニティバス「さわやかみなみ号」。扇田病院行きと大館駅行きがそれぞれ1日2本、ということは2往復。道の反対側に停留所のポールがないから、上り下り兼用のバス停ポールである。なお、この道をまっすぐ行くと、忠犬ハチ公の生まれた大館市大子内の近くにたどり着ける。生家前にはハチ公の石像と生誕80周年の記念碑が建ち、観光資源になっている(生家そのものは公開されていない)。

 何の変哲もない交差点の道端に、「←扇田駅」という標識が出ていた。Ogidaのローマ字表記は間違っていて、正しい表記はOgitaである。ともあれ、ここを左に曲がると、私の旅も終わるのだ。田んぼの向こうに農協のビルが見え、平屋建ての駅舎も道路の先にあるハズだ。駅前に農協があるのは、おぼろげに覚えていた。現在は葬祭場になっているが、もともとは1985年10月に建てられた旧比内町農協の本所事務所である。1996年6月に現大館市域の3農協が合併し、比内町農協は「あきた北農協」(JAあきた北)となっている。
 県道から駅通りに曲がり込む。対面2車線にはできないぐらいの道幅だけれども、車の離合はできるくらいの、まあそこそこ広い道であった。入った途端、道はシャーベットの大盛りとなった。道の中央部にアスファルトが露出しているところもあるが、車が乗り入れることの少ない道ゆえ、基本的に除雪がなされていないようだ。靴ずれに悩みながらも新しい靴を履いてきたおかげで、この雪道でもスッテンコロリンせずに済んだ。
 かくして、扇田駅に到着した。比内地鶏の産地ということで、駅前には比内地鶏の写真をでかでかと載せた看板が立っている。このエリアが広く「比内」という地名で、大館のあたりは特に大きな館を建てて敵の攻撃を防衛したから「大館」という名前になった、と昼に見た大館駅前の案内板には書いてあった。扇田という地名は、駅の手前にあった旧比内町教育委員会設置の看板によると、若い娘が小川に身を投げて死に、霊を弔うため地蔵堂を建てた、その地蔵堂の裏に由来となった扇形の田んぼがあったから、というのが由来である。
 駅舎はいかにも新しく見えた。山小屋のような急傾斜の屋根が付いているのは、屋根の雪下ろしをしなくて済むようにだろうか。建物の入口上部に付けられた「建物財産票」というプレートに《鉄 待合所2号 平成25年3月》と書いてあるから、おととしの3月に建て替えられたわけである。掲げてある駅名の表札が扇の形をしているところがご愛嬌であった。待合室には椅子と机みたいなものが備え付けられていて、勉強でもできそうである。ヒーターが完備されているのは、さすが北国だと思った。駅の管理はすぐそばの大館駅ではなく、30kmほど奥へ入った鹿角花輪駅(鹿角市)が行っているようだ。

 当初計画では、比内支店を取った後、扇田駅で結構な時間待ちになる予定だったが、大館駅前できりたんぽ鍋を食べてきたおかげで、待ち時間ほとんどなしで盛岡行きに乗れる。何もない扇田駅で時間待ちをする必要がなくなって、めでたしめでたしである。
 それは良いとして、実は一歩間違えると大変なことになりそうなミスを犯していた。盛岡行きの普通列車を16:48発だと思い込んでいたが、正しい発車時刻は16:18だったのである。のんびり構えていたら、この列車には間に合わないところであった。もっとも、盛岡行きはこの後にもまだあるから、16:18発に乗り遅れても、東京に帰れないということはない。というのも、盛岡から東京までの移動は、すでに夜行バスで確定しているからだ。計画では、盛岡到着時の気分で新幹線かバスか選ぼうと思っていたのだが、国庫に7000円を召し上げられることになったせいで、選択の余地がなくなってしまったのである。バスの予約は、前夜秋田市のホテルにいるうちに行った。カラオケなど行って優雅に過ごしたせいで、5500円の新宿駅行きがタッチの差で取れず、6000円の東京駅行きになってしまった。それでも、いちおう新幹線より7000円ほど安い交通手段を選択したことになる。
 駅舎の改札にあたる部分を抜けて、雪が敷き詰められた通路をホームに向かう。この駅は棒線1本で、単線の線路の横にホームが付いているだけである。今となっては改札などない無人駅だが、かつてはそこそこ大規模な、島式ホームで交換もできる駅だったと思われる。通路になっている部分が、昔は駅舎と連絡している構内踏切だったのだろう。ホーム端のスロープは、縁石の上だけ雪がないが、そのほかの部分は雪で覆われている。ホームの線路が敷かれていない側は、鉄パイプを組んだ柵で覆われている。この鉄パイプは工事現場の足場用のようだし、継ぎ手も工事現場用らしきものをそのまま使っている。お粗末だが、頑丈だし安いのだろう。駅舎とは別に、ホームにも待合室がある。室内には、つい最近まで首都圏でもよくお目にかかったプラスチックの個別座面のついたベンチがあって、冷たいプラの地肌にびくびくしながら腰を下ろした。雪国らしく、室内にはシャベルなど除雪道具が置いてあった。
 太陽が西に沈み、だいぶ暗くなってきた。待合室の建物を出ると、寒い風が思いのほか吹きすさんでいた。西の空を見ると微妙なピンク色で、夕焼けがどこからともなく染み出してきているような感じがする。当地では明日いい天気になるのではないだろうか。夕焼けの写真でも撮ろうかと思ったが、手前に工場だか倉庫だか、波板葺きの建物が無粋なのでやめた。
 発車5分ほど前になって、駅の照明が点いた。やがて、踏切がカンカンと鳴り始めたのが、遠くから聞こえてきた。私が乗る16:18発盛岡行き普通列車が、ゆっくりと近付いてくる。列車は、JR東日本のローカル線ではおなじみ、キハ110型ディーゼル車の2両編成。女性の車掌が乗務していた。数人の高校生がバラバラと降りていった。代わりにこの駅から乗るのは、私の他には男女高校生各1名だけであった。
 扇田でも大分日が落ちていたが、十和田南で列車の向きが変わる頃には窓の外がだいぶ見えにくくなっており、鹿角花輪では夜の帳が完全に降り切っていた。「花輪線」の名前の由来となった鹿角花輪駅は、秋田県鹿角市の中心駅で、かつては陸中花輪駅といった。「陸中」と岩手県みたいな呼称が付いていたのは、現在の鹿角市(と北隣の小坂町)はもともと南部藩領だったためである。秋田藩とはカルチャーが少し違うのだろう。
 車内に数多くいた高校生は、鹿角花輪まででほぼ全員が降りた。湯瀬温泉を過ぎると岩手県に入る。しばらく走ったところで、右の車窓からは山肌が輝いているのが見えた。あたかも銀河のように山の斜面を覆っている。安比(あっぴ)高原のゲレンデのナイター照明であった。

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 【注】ニュウイと読むらしい。



<銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇> 完

(お知らせ)明日18時に「あとがき・参考文献」をアップします。
posted by 為栗 裕雅 at 18:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月26日

2015.01.16(金)(22)比内支店を制覇

 比内支店は、今日見たほかの支店よりも古い建物を使っていると見えた。大館支店(1955年)や能代支店(1963年)よりも古めかしく見えるが、実は1967年10月の築と新しい部類に入る。クリーム色に塗ってある窓枠は、アルミサッシではなく鉄サッシである。部分的にアルミサッシが入っている窓もあるけれども、支店本体の窓は大半が鉄枠で、だいぶサビサビであった。窓の外には鉄製の飾り格子が付いていて、窓枠と同じクリーム色に塗られている。飾り格子は通りに面したところと外れたところでデザインが若干変えてあるのが印象的であった。
 比内支店の玄関先には、代理業務一覧の看板が出ている。緑色の看板には、秋田県収納代理金融機関、大館市収納代理金融機関、と文字列が出ているのだが、大館市収納代理の次の行には「比内町収納代理金融機関」と書いてあった。比内町は2005年6月に大館市と合併して消えてしまったが、プレートはいまだ残っている。まあ残しておいても問題はないだろう。
 正面入口のアルミ枠の戸を押して入ると、右側がキャッシュコーナーであった。3時を回っているから窓口はもう閉まっており、キャッシュコーナーとを隔てるシャッターは、他店なら外に付いているような赤・オレンジ・黄色の3色塗り分けのものが下がっている。ATMは沖電気の「バンキット」が1台だけ。機械上部の行灯表示は、みち銀お決まりの形態をした行灯であった。この行灯は導入時期によって形態の差が若干あるようで、ここにあるのは最下部の白い部分に緑色の縁取りが付いている。比内支店のは多分古いタイプではないかと思う。
 さあ、ATM取引をしよう。これまで取引の様子を書いていなかったから、ここで記述しておくとしよう。いつも、入金・出金の2取引を1サイクルとして制覇作業をしており、今回もそれに倣っている。まず「ご希望の取引」の画面で「お預け入れ」を押すと、カードを入れるよう指示が出る。機械にカードを入れると「カードでのお預け入れには取引後の残高のみを表示した利用明細書を発行します」というメッセージが出て、確認を求められる。確認キーを押すと、預金口座の入金の場合「お預け入れ」、カードローン返済の場合は「カードローン返済」という2つのボタンが出る【注1】。このあたり、最初で分かれていた方がやりやすいのではないかと思うが、ともあれ「お預け入れ」を押すと紙幣投入口のフタが開く。ここで紙幣を入れると、機械がセンサーで判断して自動的にフタを閉める。紙幣を数える音の後に、金額の確認ボタンが出る。押すと、再び紙幣をバタバタと数える音がして、利用明細票印字を「する」「しない」というボタンが出る。「する」を押すと、レシートが出てきて終わりである。「どうぞ、お受け取り下さい」という女性の声が出るが、「どうぞ」の直後に妙な沈黙が入るのが、沖電気製ATMの最近の特徴である。
 そして引き出しの場合は、「お引き出し」の後、暗証番号を押す。これも、預金からの引き出しの場合「お引き出し」、カードローンの場合は「カードローン借入」という2つのキーがある【注2】。「お引き出し」を押すと、金額の入力である。みちのく銀行のATMは硬貨を使っての預金引き出しはできないから、本日私は「めぐ」の制覇作業を1千円単位で行っている。金額を指定して「確認」を押し、最後に利用明細票を印字して、現金とレシートを受けとって、取引終了ということになる。
 今日は金曜日だし、お客は案外頻繁にやって来るが、この店にはATMが1台しかない。私は預金の取引(現金の出し入れ)をする様子を実況中継しながら制覇作業をしようと思っていたので、私の後に一人待っていた女性客に順番を譲って先にやってもらった。彼女の用事が済んでから私が取引を始め、取引の状況を記録にとりながらATMを操作していたが、取引が終わってふと後ろを向くと、いつの間にか次の客が待っていた。赤恥をかいてしまった。こいつは何を独り言ベラベラ喋っているのだ、と思っていたのではないか。なお、みちのく銀行は北都銀行とATMの相互無料提携をやっている。下ろすだけなら向かいの北都銀行扇田支店でやればいいのに、と思った。ATMの台数はみち銀比内支店の倍、2台もある。
 ともあれ、比内支店を無事制覇。15:52、みちのく銀行の秋田県内4店舗の全店制覇を達成したのであった。

 比内支店は、1951年6月に弘前無尽扇田会場として営業を開始した。同年10月に弘前相互銀行になった後、1952年3月に業務取次所に昇格、さらに1953年7月大館支店扇田出張所に昇格した。出張所の所在地である北秋田郡扇田町は、1955年3月に周辺3村と合併して比内町となり、出張所の名前もそれに合わせて合併日(3月31日)付で比内出張所と改められた。1959年4月に比内町字下扇田53-1に移転、1961年9月に比内支店に昇格、現在の店舗には1967年10月に新築移転している。古い地図をひもといてみると、1959年4月〜1967年10月の比内支店は、現在のいとく比内店のはす向かい、現在では駐車場になっているスペースにあったようだ。現在地は、かつては警察(警部派出所)と消防団詰所のあった場所である。
 以前は、比内支店にも店舗外ATMがあった。1つは[比内町役場]改め[大館市比内総合支所]。羽後(現北都)銀行設置のATMで、大館(現秋田県)信用組合とともに相乗りして共同出張所となっていた【注3】。ATMの無料提携を北都銀と行っている現在では、みち銀の相乗りは外れている。もう一つ、1997年7月に[大滝温泉]というATMが設置された。大滝温泉は大館市十二所にある温泉街で、10軒ほどの温泉宿が並んでいる。扇田から花輪線で1駅盛岡寄り、大滝温泉駅近くの富士屋ホテルという温泉旅館の駐車場にATMの独立小屋があったようだ。残念ながら2004年度中(2004〜2005年)に廃止されている。連載作成にあたって現地に行ってみたが、「富士屋ホテル専用駐車場」という縦型の行灯看板は、みち銀ATMのそれを再利用しており、目を凝らしてみると《みちのく銀行 自動サービスコーナー》という文字がうっすらと残っていた。
 さて、窓が鉄サッシであるなど、比内支店の建物からかなりの古さを感じるのは前述したとおりであるが、支店の建った昭和40年代前半頃の状況を調べてみると、見えてくるものがあった。比内支店の2年前、1965年に新築された鷹巣支店を豪華にし過ぎ、その反動で新築費用を抑えざるを得なくなったのではないだろうか。ちょっと脱線して、ここで鷹巣支店の新築状況に触れてみよう。現在の北秋田市住吉町にあった鷹巣支店は、1965年11月29日、現北秋田市花園町に新店舗を建築して移転オープンした。その際の新店舗は、鉄筋コンクリート2階建で、約850u(260坪)の敷地に延床面積約475u(144坪)、また将来の増築に備えて2階の一部はバルコニーになっていた。総ガラス張りの外面はアルミサッシと熱線吸収ガラスを使用、軒下にはアルミモールディングを採用し、シャッターもオール電動で、柱の腰回りには大理石を貼り付けていた。総工費は3400万円であったという。一方、1967年10月8日に営業を開始した比内支店は、鉄筋コンクリート2階建こそ同じであるが、延べ床面積280.99u(約85坪)、総工費1300万円と随分簡素になっている。比内支店の280uという延べ床面積は、この頃の金融機関の平均より小さいようだ【注4】。鷹巣支店は480u、鷹巣の2年前に新築した能代支店も400uあり、これらは相互銀行の平均に近い。鷹巣町と比内町とで経済規模に差があっただろうことはさて置くとしても、焼き物タイルを貼り付けた鉄の窓枠の比内支店は、鷹巣支店と比べるとかなりの差が感じられる。
 悲しいのは、比内支店の1300万円の建物が今でも現役で使用されているのに、比内の2.5倍もの巨費を投じて作った鷹巣支店の新店舗は、廃店により実働わずか6年半で使われなくなってしまったことであった。青森県に本店を置く弘前相互銀行としては、大蔵省による店舗の総量規制が厳しかった時代には、県外地区では新築したばかりの支店を捨ててまで都市部(秋田市)に出店しなければならなかったのであろう。当時金融機関が羽後銀と弘相しかなかった比内に対し、鷹巣は6機関【注5】も店を出していたから、若干過当競争気味だったのは事実である。しかし、もう少し何とかならなかったのかとは思う。

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 【注1】2015年7月27日からATMの初期画面が変更され、カードローンの取引は最初の「ご希望の取引」の画面で別のキーを押して行うようになった。
 【注2】【注1】に同様。
 【注3】共同出張所での取引は通帳に扱い店名が記帳されないため、制覇の対象とはならない。
 【注4】1968.12〜1969.02の期間に新築された相互銀行7支店の平均値は約445u(為栗調べ)。
 【注5】弘相と青森銀のほか、秋田銀・羽後銀・秋田相銀・北秋信用組合(本店鷹巣町)。
posted by 為栗 裕雅 at 18:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月25日

2015.01.16(金)(21)いよいよ比内の町へ

 秋北バスの車内放送は、アナウンスの声が国際興業バスと同じ女性である。つい最近までグループ会社だったわけだから、別に不思議ではない。なお、国際興業の「レミドソ」という独特のチャイムは、秋北バスにはない。
 閑話休題、道の左にローソンが見えると〔山館〕。このあたりから道は右に大きくカーブし、同時に緩やかな上り坂になる。その先は大きな川を渡る橋であった。川は私の行程に能代からずっと寄り添ってきた米代川、橋の名前は扇田大橋という。対面2車線で、外側の歩道についた鉄の欄干が青く塗られている。だいぶ老朽化しているようだった。この橋の親柱はなかなか面白かった。大館側の親柱には犬の銅像が、そして比内側のそれには鶏の銅像が付いている。いうまでもなく、秋田犬と比内鶏。思うに、大館市はこの2つを『トムとジェリー』のようなゆるキャラとして前面に出し、「忠犬ハチ公」から一歩引いて広報活動をした方がよいのではないか。大館市がハチ公ゆかりの地であると訴えたいのは理解できるが、やはりあれは渋谷のものだと思う。ハチが渋谷駅に通ったのは、上野博士に会いたかったからであって、必ずしも大館に帰りたかったわけではないだろう。
 さて、橋を渡りきり、スロープを下りたところに〔扇田川端〕というバス停がある。いよいよ、扇田の町に入ってきたようだ。バス停の近所は、東北の古い町として至って普通の風景である。行灯型のバス停ポールが付いており、かなり乗降客の多い停留所のようだ。ここには扇田と大館方面とを結ぶバスが全部集結しているから、慣れた人はここまで歩いて来て乗降するのだと思う。
 秋北バスの行灯ポールには、次の停留所の名前と、停留所を出て進むおおまかな方向を示す赤い矢印が書いてある。〔扇田川端〕では、その表示が3つ見えた。それぞれの停留所名は〔扇田新丁〕〔扇田馬喰町〕〔扇田仲町〕。さっき運転手が〔扇田仲町〕と言っていたので、私は降車ボタンを押した。

 〔扇田川端〕を出て、馬喰町(ばくろうまち)の交差点で左に曲がるや否や、前方に緑の看板が見えた。何だ、脅かしやがって。やっぱりみちのく銀行はちゃんと扇田にあるではないか。この馬喰町のあたりから、商業が急に集積し始めたという感じがした。
 かくして、私を乗せたバスは〔扇田仲町〕に到着した。時計を見ると15:42、定時運行なのかズレているのかはわからないが、まあ7〜8分は遅れているのではないだろうか。〔大館大町〕から〔扇田仲町〕までのバス代は、300円であった。大館から扇田までのJRが210円だから、バスとしてはそんなものかと思える。
 なお、地元でないと手に入らない案内図などを見てわかったことだが、大館市内から扇田に向かうバスは5系統あり、経路も4通りある。今回乗ってきた大谷行きは、大館市街地の東方、鳳鳴高校やコメリなどを回ってくるが、花輪駅前行きは最短コースを通るバスで、〔大館鍛冶町〕から県道を直進して扇田に来る。中野行きと弥助行きも県道を直進するが、両者は途中で別の住宅地に回り込み、さらに弥助行きのみ馬喰町交差点は直進していく。1日2本しかない扇田病院行きのコミュニティバスは鍛冶町の南で右折して全く別の場所を回ってくる。系統が多いのは扇田という集落の重要性を物語っているが、こうした情報が東京で把握できず、計画策定には難儀したのであった。

 さて、扇田の中心街を貫く対面2車線の道は、県道52号(比内田代線)。バスはみち銀比内支店を通り過ぎ、3軒先にある駐車場の前に止まった。商店建築の横にバス停ポールが立っている。秋北バスの通常のバス停ポールは「だるまポール」と呼ばれるもので、鉄パイプの上部に円板が付いただけのシンプルなスタイル。円板は3色に分かれていて、上部が黄色、真ん中が白、一番下が赤。これは同社のかつての標準的な車体色と同じである。白いところに〔扇田仲町〕と停留所の名前を書いている。
 道の南側には北都銀行が扇田支店を構えている。真新しい店舗は2008年10月に新築されたものだが、出店したのは太平洋戦争前の1937年で、店名も旧町名の扇田支店のままとなっている。新築移転する前の店舗は、今降りた停留所の東側、公文式の教室として使われている建物がそれであった。北都銀から花輪方向には、けんしん(秋田県信用組合)、あきぎん、郵便局と金融機関が3つある。秋田県信組(旧大館信用組合)は1970年6月の出店、秋田銀の比内支店は何と平成に入ってからの新規出店(1993年12月)である。秋銀の向かいに地元スーパーいとくの店(比内店)があって、商店街はこのあたりで終わっているようだ。以前扇田に来た際にはJR扇田駅→みち銀比内支店→大館市比内総合支所(旧町役場)と歩いているのだが、記憶は飛んでしまっており、目の前には新鮮な風景が広がっている。
 北都銀扇田支店の隣は、入母屋造りの土蔵建築であった。鳥居のような形をした門構えが名士様の家であると感じさせるが、何かあったらしく門前には白木の立札が、奥には提灯が出ていた。その向かいも土蔵改造の商店建築だが、店の中はがらんとしていた。繁盛しているか否かは別にして、起源の古い商業地帯のようだ。青森銀行の前身である第五十九銀行は、戦前に扇田に出店していたことがある。大館支店と同じ1907(明治40)年7月の出店であったが、1934年10月に廃止されている。それから、あとで触れるが秋田相互銀行(合併して現北都銀)も一時店を出していた。
 名士様の東側にある印刷店の真ん前が、大館方面行きの停留所である。印刷店は新聞社みたいな屋号が付いていて、実際に比内地域の新聞を発行しているようだ。地域新聞社は副業として印刷業を営んでいるケースが多く、紙面には年末になると年賀状印刷受け付けの社告が掲載されたりする。能代の『北羽新報』などの印刷部門はまだ新聞社の副業のようだが、中にはどちらが本業だかわからなくなった社もあるのではないだろうか。さて、印刷屋の隣には、自販機や漫画本も置いてある暖房付きの「ほっとひと駅」という無料休憩所がある。これも空き店舗を商工会が借りているようであった。

 みち銀比内支店の右(東)には、現か元かを問わず商店建築が3軒並んでいる。すぐ隣にあるのは元商店建築で、店舗部分は車庫になっている。前にバス停がある3軒目は、小さな窓口のようなものがあるところから、かつてタバコ屋だった店ではないかと思う。その中間、「お菓子処」と書いた2軒目は、喫茶・和洋菓子の店。回転式の行灯看板には、比内鶏サブレー・バースデーケーキ・花びらもち、といった商品名が並んでいる。バースデーケーキも扱っている和菓子屋で、老舗らしい。「比内鶏サブレー」は、鎌倉の「鳩サブレー」のように比内鶏の形をしているクッキーで、比内鶏のエキスが入っているわけではないそうだ。
 みち銀の向かいは靴屋であり、主要な取扱商品はゴム長靴のようだ。その隣にあるのは、高齢者向けの店だが、物を売っているわけではなく、みんなで体を動かして認知症を防止しようという活動拠点らしい。古い地図をひもといてみると、この店はかつて旧秋田相互銀行の比内支店(1970年10月廃止)であった。旧銀行建築だと思って見るとそう見えなくもないたたずまいである。それから、東芝の電気店が見える。昔懐かしい、家電の個人経営のフランチャイズ店である。あとは、タクシー会社と美容院といったものが周囲にあった。
 支店の左隣は空き地と駐車場で、駐車場はそれなりの台数分確保してある。多少は雪捨て場にもなっているようだ。駐車場の前に「比内とりの市」という赤い幟が出ている。この幟はここだけではなく、扇田の商店街いたるところに出ているが、これは毎年1月に比内のグランドで行われている比内鶏感謝祭のようなイベントである。

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2016年04月24日

2015.01.16(金)(20)扇田に向かう秋北バス

 鳳鳴経由大谷(おおや)行きの秋北バスが、発車時刻の15:11を5分ぐらい過ぎてやって来た。いすゞ自動車の中型バス「エルガミオ」である。「チョロQ」みたいな外観をしたワンステップの車で、そこそこ年式が新しいから国際興業カラーのグリーンも黄緑色だ。大谷は扇田から15kmほど奥に入った集落で、途中には大葛(おおくぞ)温泉というあまり俗化されていない温泉地がある。
 〔大館大町〕からの整理券番号は4番だった。結構遠い始発地からやって来たように見えるが、このバスは大館駅前発である。乗り込んで整理券を取り、運転席に走る。「扇田のみちのく銀行へ行くバスですか?」と尋ねたところ、50代とおぼしき男性運転手は、信じがたい返事を返してきた。「扇田にみちのく銀行まだあるんだっけ」というのである。少々焦ってしまったが、もちろん扇田にあるのは知っている。次いで「扇田の駅の近くまでは行くんですか」と聞いた。2011年に扇田駅から比内支店まで歩いているから、駅からの道筋はわかっているつもりだった。驚くべきことに、それに対して運転士は「これは駅へは行かないですね」と答えたのである。またしても焦ってしまったが、彼の返事は、駅へ行くのなら〔扇田仲町〕か、もう一つ前の停留所である〔扇田川端〕のどっちかだろう、というものであった。扇田の集落内で駅の近くに行くか行かないかというだけの話。何だ、立て続けに脅かしやがって。

 2車線×2の幅の広い4車線の道路を、まっすぐ南に向かっている。左右の歩道に雁木が付いているスタイルだが、アーケードは割合に新しい。ただし、ところどころ途切れている。銀行が集中している地帯はあっさり通り過ぎて、最初に遭遇する〔大館鍛冶町〕の停留所の先で少し下り坂になったと思ったら、すぐまた上り坂に変わる。その変わり際で、花輪線東大館駅からの道と交差する。左に曲がってすぐ〔大館新町〕で、停留所そばには秋田県信用組合大館支店、かつての大館信用組合の本店がある(2003年1月合併)。すぐ次の信号で左折して〔風呂屋町〕。その先、ホテルと洋品店のある角で、こんどは右折した。曲がる回数が多いが、経路をクネクネと曲げて無理矢理バスを通していることからして、このあたりは現在でも重要な地区のようだ。
 労働金庫(東北労金大館支店)があって、道の左には大館市役所。人口7万人余の地方都市としてはごく平均的な外観であった。その先で裁判所と集配郵便局を目に入れると、ようやく普通の住宅地になった。道としてはまっすぐだが、対面2車線白破線センターラインの道はやや曲がりくねっていて、幹線道路という風情ではない。そして、経由地として挙げられていた「鳳鳴」を通る。秋田県立大館鳳鳴高等学校は、この地域の名門高校である。この名前は兵庫県篠山市の篠山鳳鳴高と合わせて全国に2校しかないそうで、2校のHPを見ると相互リンクが張ってある。ただし、友好提携は割合最近になって開始したようだ。
 バスは鳳鳴高校正門の突き当たりで90度南に折れ、右折してすぐ〔鳳鳴高校前〕の停留所がある。ここから男女高校生が幾人か乗ってきた。大館市内のバスのうち、かなり多くの路線が、いま通ってきた経路をたどってここ〔鳳鳴高校前〕で終点となる。鳳鳴高の南にある突き当たりで左折すると、対面2車線の住宅地の道になった。雪国の常でセンターラインはすっかり見えなくなっている。
 右側に地元スーパーのいとく(大館東店)があって、敷地内に北都銀が平屋建ての小さな店(大館東支店)を出している。この店は、平日は夜7時まで、休日も夕方5時まで窓口を開けている。北都銀の前身である羽後銀行は、戦前に大館銀行という当地の地元銀行を合併しているから、県南発祥の銀行ではあるが大館地区は準地元のような扱いなのだろう。その先、〔東台二丁目〕を経て〔東台五丁目〕のあたりは、新興住宅地だけれども、建物のあまり密集していない新興住宅地。六畳一間ぐらいだろうか、平屋一戸建ての賃貸住宅が複数建っていた。こういう家は昔も今もあまり変わらないなと思った。うちの田舎もそうだし、東京でもそうである。
 右に曲がって、中央分離帯つきの2車線×2の道になった。曲がってすぐ右側にある大館東台郵便局は、建物としては新しそうで、「メガネのパリミキ」の郊外店舗みたいな感じである。建っている民家の形が北海道に近づいた感じがするが、北海道と比べるとまだ窓が大きめで開放感があるし、煙突が立っている家もない。新興住宅地が続いているが、古い農家も多少は見られる。
 大手ホームセンター、コメリの店舗が見えた。看板は「コメリ」というチェーン店名よりも「パワー」という文字の方が大きかった。要は「コメリ・パワー大館店」ということである。大館市斎場入口の交差点で左折した途端、除雪されていない道になった。舗装はされているようだが、走行状態はガタガタである。再び左に曲がり、バスは何とコメリの敷地内に乗り入れた。店舗は道路よりちょっと低いところにあって、敷地に入ると同時にスロープを下がる。屋外の売り場の横を抜けて走って行くと、建物の中央付近にコメリパワーの正面入口があり、その左横に〔コメリパワー大館〕のバス停ポールが立っていた。その横にある屋根付きの駐輪場は、中に雪がこんもりと積もっている。屋根の下に雪が積もるというのはどういうことだろうか。

 〔コメリパワー大館店〕に乗降客がいなかったので、バスはスピードを緩めず、駐車場の経路に沿って右転回して、今来た建物の前を再び戻っていった。雪のない時期であれば、さっきの4車線道路からコメリに直接入れるようだが、高さ5mぐらいの雪の山脈で塞がれているから、コメリの駐車場内を1周した後、斎場入口の信号まで全く同じ経路を戻る。信号の手前に〔小柄沢墓地公園前〕の停留所があった。同じ道を2回通るので、この停留所も2回通ることになるが、大館市内から来た場合は〔コメリパワー〕の次ということになっているようだ。
 さっき曲がってきた交差点を今度はそのまま直進する。その先は、高規格の2車線道路が続いていた。最近できたばかりのようで、道の制限速度は50km/h。関東では見かけないシラカバの街路樹が並んでいる。道に面した所に建物は全くなく、道路の端を示す紅白の杭が50mおきぐらいに立っている。コメリからかなり間があいて、右カーブの先に〔山王台入口〕という停留所があった。停留所の周りは一面に雪で覆われて何もないけれども、道路からちょっと奥に入ったところに集落があるようだ。
 前方の林の中に、立体交差が見えた。大館から十和田湖畔に向かう国道103号のバイパスが、尾根筋を結んで走っているようだ。インターチェンジになった交差点を抜けると、道は右カーブしつつ長い下り坂に入る。右を見ると、杉の古木を何本も周りに従えた神社があって、相当に神々しい雰囲気が漂っていた。その先で坂を下りきると、地方都市の郊外に特有の、大駐車場完備で平屋建ての棟を複数持つショッピングセンターがあった。〔アクロス南前〕というバス停もある。この「アクロスプラザ大館南」というSCは、ATMの話をした際に触れた「アクロス能代」と同じ経営主体である。
 「上小」と書いてある体育館の建築が見える。小学校として全体的に新しいようだ。バスは右折して突然道から外れ、道路北側のロータリーに乗り入れた。モンゴルのテント住宅みたいな緑の屋根を持つ、秋田杉を使ったキノコ型の建物が建っている。それが待合室であった。ここは〔上川沿小学校前〕で、バスの発着所は名前のとおり大館市立上川沿小学校の校庭の端を切り欠いて作られている。
 道路に戻り、サンクス(大館餌釣店)がある丁字路で左折。この突き当たりまでが新しい道で、サンクスの角からは対面2車線の古い街道に入ったようだ。雪に覆われた土地が広がっているが、夏には水田になるのだろうか。測量用のような赤白のポールが、相変わらず道端に多数立っている。〔餌釣〕停留所のあたりは、民家でも倉庫のような建物が目に付く。かつて小学校の教室で見た、大型石油ストーブに付いていたようなブリキ(?)の煙突が付いている。どこかの旧役場のような茶色い立派な公共建築(上川沿公民館)があった。
 ドライブインなど古いタイプのロードサイド店舗が見えてきた。Karaoke Daily Studioと大書した店があるが、「テナント募集」となっているから営業していないのだろう。マツダのカーディーラーチェーン「アンフィニ」の、緑色の看板がいまだに残っている。もちろん現在は営業しておらず、跡地は食堂になっている。作業用衣類チェーンのワークマンの店舗があったり、いわゆるデイケアセンターのショートステイの看板が出ていたりする。「カーコンビニ倶楽部」は自前の看板を取り付けているようで、文字の間隔が整っていなかったりするが、地元の看板屋さんが一生懸命ペンキで書いたという味わいがある。次の〔羽立〕を過ぎたあたりで、ロードサイド型店舗の並びが切れ、再び古い集落に入ってきた。農機のディーラー、クボタの大館営業所があった。敷地内には精米機の無人ボックスが設置されている。銀行の店舗外ATMみたいな感じだが、こういうのを「店舗外精米機」とでもいうのだろうか。それなら“店舗内精米機”って何だろう、と思う。
 集落を通るたびに、犬のイラストの入った「ハチ公のふるさと」という小さな看板が見える。大館市が作ったローカルな行政地名の標識である。大館市は忠犬ハチ公を観光資源にしたいようで、そういえば市のコミバスも「ハチ公バス」という。「沢山」という集落があった。何がたくさんあるのだろうか(笑)。

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2016年04月23日

2015.01.16(金)(19)大館の中心街・大町

 いよいよ、最後の制覇目標に向かうこととなった。大館支店と同じ大館市にある、比内支店。今でこそ同一自治体内であるが、2005年6月までは北秋田郡比内町という別の自治体だった。いわゆる「平成の大合併」で大館市の一部となったわけである。
 比内支店に最も近いのは、JR花輪線の扇田駅である。さっき降りた大館駅で奥羽本線から分岐し、鹿角市と岩手県八幡平市を通って盛岡市に向かう花輪線は、国道103号線と東北自動車道に沿って走っている。みち銀大館支店からだと、大館駅に戻るより、1つ進んで東大館駅から乗った方が近い。しかし、この花輪線というのが典型的なローカル線で、本数が少なくて利用しにくいのである。さきほど東能代から大館に来た際、花輪線の接続列車はすでにホームに停まっていて、16分接続で13:47発だった。その次の列車が盛岡行き16:08発。2時間以上も間が開いてしまう。列車は基本的に大館〜盛岡間で組まれており、五能線のような区間運転はない。
 花輪線を使うと、能代に続き大館でもアイドリングの時間が生じることになる。ここでもアイドリングを入れるのは、日没時刻を考えるともったいないので、大館支店から比内支店まではバスで端折ることにしていた。そして、支店前から30分おきに出ているハズのバスが出ていないことが判明したので、さあどうしよう、というのがここまでの経緯であった。

 これまで歩いてきた道は、県道2号線(大館十和田湖線)というらしい。窓口さんの教えに従って、みち銀大館支店前を南北に走るこの道を、さらに真っすぐ歩いていく。この道は支店の前あたりから徐々に上り勾配が付いている。最初は大した上り坂ではないと思っていたが、途中から結構キツくなってきた。
 坂を上がりきる手前に見える交差点が、国道7号線と直角クロスしているらしい。台地上、青森銀行の看板が見えるあたりが、大館市の中心街のようだ。その「長倉」の交差点まで上がってくると、窓口さんから教えられたとおり、きりたんぽの店があった。専門店きりたんぽ鍋、比内地鶏使用、などと書いてある店が、大館市内には至るところにある。ここにある店は、囲炉裏きりたんぽ&ドッグカフェという、不思議な取り合わせになっていた。
 交差点の南は「おおまちハチ公通り」という名前のアーケード街だが、かなり典型的なシャッターストリートのようだ。通りの左(東)側で目に付くのはブティック1軒と美容院ぐらい。大館に限らず、美容院は不思議とシャッターストリートの中でも開いていることが多いが、なぜなのだろう。停留所の向かいにチェーンの釜飯・串焼き店とチェーンのホテルが見え、薬屋が2軒あり、またコーヒー豆ひき売りの店が現役で稼働していたりする。かつてこの商店街で中核を占めていたのは「正札竹村」という呉服店発祥の百貨店だったが、2001年7月に廃業(自己破産)し、それ以来空洞化が進んでいるという。百貨店跡は空き店舗のままになっているが、それ以外の店舗も芳しくはないようだ。
 そんな中、《ののお出かけ中》という看板を見つけた。ののって何だ。《秋田犬ののに会えるアートセンターです》と表示が出ているから、「のの」という名前の秋田犬かしら。店の中で飼っているようだ。後で調べると、ここは「ゼロダテアートセンター」といい、「のの」はこの施設のアイドル犬である。秋田犬保存会発行の血統書を持つメスの秋田犬で、2014年1月10日生まれ。ゼロダテアートセンターは、空き店舗や廃校を舞台にした展覧会など、芸術による地域再生運動をしているNPO法人「アートNPOゼロダテ」の拠点である。市街地の空洞化を憂えた大館出身の芸術家数人が空き店舗を借り、自身の作品発表の場を兼ねて、商店街の核づくりを図っている。
 後日当地を訪れて「のの」に会ってみた。かつて当家で飼っていた「チビ」と同じ赤毛の雌犬だが、ののは白毛の部分が多いから、必ずしもチビに似ているわけではない。それでも、顔立ちや、飛び付いてきて直立の姿勢を取る様子は、かつてのチビを思い出させるのに十分だった【注1】。思えばチビも、当家に来たばかりの頃には、こんな感じで人懐こい犬だったのだ。ゼロダテの記名帳にある、ののへのメッセージ欄に、私は「幸せな“犬生”を送って下さい」と書いた。私はチビを可愛がってやることができなかった。チビが死んで早30年、私は今も心の中で泣いている。

 〔大館大町〕という停留所にようやくたどり着いた。ここが多分、みち銀の窓口女性が教えてくれたこの町の主要な停留所なのだろう。停留所のすぐそばには、銀行が3つある。青森銀・秋田銀・北都銀。青銀の1軒置いて隣が秋銀、その向かいが北都銀で、厳密には間に建物と道路が挟まっているけれども、ほぼ3軒並んでいるような状態である。いま大館市で営業している銀行の中では、みちのく銀行だけが少し離れた坂の下にあり、また最も新しい。秋銀は1899(明治32)年4月、青銀は1907(明治40)年7月の出店で、両者とも大館には明治期に進出した。北都銀は少し新しく、1921(大正10)年10月に大館銀行本店として創業したもの。旧秋田相互銀行の大館支店【注2】は1949年5月に会場としての出店で、さっきの長倉交差点から少し入ったところにあった。というわけで、1951年6月に会場として出店したみち銀が一番新しいことになる。
 さて、現在時刻は15:03。〔大館大町〕の停留所は、ポールが少し離れて2本立っている。商店が並んでいるあたりと、少し南にある青森銀の前【注3】。少し面倒臭いと思ったが、まず先にある青銀前のポールをチェックしてみると、扇田方面へ行くバスは北側のポールからしか出ない様子であった。次いで北側ポールの時刻表を見ると、扇田へ行きそうなバスで最も早く来るのは、15:11発の鳳鳴経由大谷行きであった。その次は15:26発弥助行き、15:46発上川沿小学校経由花輪行き。46分発は多分扇田に行くハズだけれども、そこまで待ってはいられない。11分発で行ければよいのだが。結論から言うと、ここに書いた3つはすべて扇田へ行くバスであった。
 秋北バスの路線は、停留所にもホームページにも情報が乏しくて、かなり謎が多い。おそらく、この会社の利用者は事情を知っている人ばかりで、不明な点は電話で聞いてくれというスタンスなのだろう。しかし、ホームページに情報をまとめて出しておけば、電話応対しなくてもいいわけで、そんなところで骨惜しみしている時点で終わっていると思う。地元の人には言わなくてもわかることが、他所から来た人間にはわからないのだが、その辺の塩梅がバス会社にはわからないのだろう。国際興業にはこういうところを子会社に指導して欲しかったし、秋北バスもせめて元親会社のウェブサイトを参考にしてもらいたい。KKKのホームページで提供されている充実した検索機能は当面なくてもいいから、せめて路線図ぐらい、概略図ではなくきちんとしたものをHPで出して欲しいものだ。大館地区に関しては、観光案内所で配っているカラー刷りのものを、そのままHPに載せれば十分だと思う。
 なお、大館市役所そばにあった秋北バスのバスターミナルが2013年9月限りで廃止になって、バスの系統がかなり整理されたと後日聞いた。わかりにくい路線図が輪をかけてわからなくなり、加えてそもそも地元の人がバスの経路を把握していない。こんな状況では地元の人もなかなか乗れないのではないだろうか。

 数人がかりでアーケードから雪下ろしをしているのを、見るともなく見ていた。屋根に登って雪おろしというのもキツい話だけれども、雪下ろしで本当に大変なのは、作業後に下ろした雪を片付けることである。雪下ろしこそしないものの、雪かきは東京に住んでいても年に1〜2回やるから想像できる。雪の降らない地域でも、たとえば刈り払い機で草刈りをした場合、やはり刈った後の草の片付けで相当にエネルギーを消費する。路面が濡れている理由は、屋根から下ろして積み上げてある雪を、道路に少しずつぶちまけているせいのようだ。こういう風に少しずつ解かしていかなかったら、どうしようもないわけである。
 大館市内に関しては、靴底の溝がきっちりある靴を履いて来て正解だったようだ。秋田・能代で終わりにしていたら必要ないけれども、大館にはそれがあるのであった。

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 【注1】東大農学部にある、上野博士とハチ公とが対になった銅像のように、実際には「直立」まではしていないのかもしれないが、正面で対峙すると直立しているように見えるのである。
 【注2】北都銀行大館中央支店を経て1996年4月大館支店に統合。
 【注3】2015年12月1日の冬季ダイヤ実施に伴い、〔大館大町〕の青森銀行前のバス停ポールは廃止された。
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2016年04月22日

2015.01.16(金)(18)大館支店を制覇

 前方に橋がかかっているのが見える。片側2車線の道路は、橋の手前で対面2車線に戻っている。このあたりはまだセットバックがなされていない。
 この橋は大館橋という。橋のたもとの看板には《一級河川長木川》とあった。橋の歩道部分は、シャーベットというのか細かい氷状の雪が敷き詰められていた。敷き詰めてというより、橋の上は商店街ではないから、除雪をする人がいないだけだろう。歩くのはクルマより大変なのに。こういうことは市役所でやってもらいたい。とはいえ、長木川は(いちおうこの街を貫く母なる川なのだろうが)それほどの大河川ではないから、川を渡ること自体は数分で達成された。
 少し日が差してきた。橋を渡ると、堤防上から地面に下りるスロープになっていて、その部分には道路に面する建物がない。そして、スロープに差しかかって坂を下り始めたあたりで、おお、立ち並ぶ街灯の間から、目的地、みちのく銀行の緑の看板が見えている。もう少しの辛抱である。スロープが終わると、橋の北側と同じような感じで商店建築が建ち並んでいたが、店としてやっているのは半分ぐらいだろうか。
 《銘木建材》と看板をつけた、元企業と思しき建物は、営業していないようでシャッターを閉めている。屋根の2階部分に雪庇ができていて、歩道の上にせり出しているが、危ないのではないか。歩行中に突然ドサッと上から落ちてきたらどうするのだろう。しかもこれは事業所の建物だから、屋根が普通の民家より高いところにある。そんなところから雪がまとめて落ちてきたら、間違いなくあの世行きだ。怖いと思う。こうした、持ち主のハッキリしない建物からの落雪で負傷したり死んだりした場合、賠償責任は誰が負うのだろうか。ある意味、銀行めぐりも命がけである。

 かくして、みちのく銀行大館支店にようやくたどり着いた。
 この支店の建物もまた非常に古めかしい、味のある建物である。2階建ての瓦葺きのように見える横長の外観で、壁は白に近いクリーム色に塗られている。このあたりに瓦はないハズだから、鉄筋コンクリートの建築なのだろう。正面は昭和30年代の銀行建築らしく、オーダー(縦柱)が強調されたデザインになっている。通りに面した正面入口は、妻面ではなく側面の中央部に開けてある。正面入口の上部に「みちのく銀行 大館支店」という緑色の巨大な行灯看板が付いているのは、この銀行らしい【注1】。みち銀の一部の支店は、看板が非常に大きくて、かつ支店名までハッキリと書いてあるから、写真を撮っていい絵になる。建物が古い大館支店はその中でいっそう味があると思う。
 正面入口の左にバス停があり、夜間金庫の投入口を覆うように付けられた屋根がそのままバス停の上屋になっている【注2】。制覇の前に、バスの時間を確認しておこう。停留所の名前は〔栄町〕。路線図では〔大館栄町〕となっているが、まあ他都市に〔栄町〕という停留所があろうとも、大館市内でそこと混濁することはないだろう。
 時計を見ると、14時49分。あと10分ほどで窓口が閉まる。その次に時刻表を見ると、最も早く来るバスは14:51発。これは見送りでいいのだが、その次のバスは14:51の次が15:59となっていた。私はここでサーッと血の気が引いた。何ということだ。ここからだと扇田には行けないのか。市街地の中心部に出ないといけないらしい。事前の調べでは、この停留所からは扇田へ行くバスが30分に1本くらいは出ているハズなのに【注3】。
 間もなく窓口が閉まってしまう。窓口が閉まる前に、つまり聞きたいことを聞ける人がいるうちに、窓口室に入った。カウンターには30代と思しき女性の行員さんがいた。ほとんど咳き込むようにして、扇田方面へ行くバスの乗り場を尋ねる。彼女によると、支店の前の道をまだまだ真っすぐ行って坂を上がると、四つ角の先に停留所があって、そこから出ているという話であった。交差点には、居酒屋ときりたんぽ屋があるという。

 若干調子が狂ってしまったが、大館支店の制覇を済ませよう。
 キャッシュコーナーは、正面入口入って左側の、窓口室とは切り離された場所にあった。2m×5mくらいのあまり広くない部屋に、ATMが2台。両方とも沖電気の「バンキット」であった。機械の上にはみちのく銀行標準の行灯が付いている。ここ大館支店は、機械と機械の間の仕切りが、バスのドア横に付いている手すりのような感じで、パイプだけの簡素な仕切りになっている。本当に簡素な銀行では、そもそも仕切りなど付いていないわけだが、まあとにかく隣の人が見えないようにということである。というわけで、機械を操作。14:52、大館支店を制覇した。
 大館支店は、弘前無尽大館会場として1951年6月に開設された。無尽講の抽選会場として秋田県内の他店舗と同時の開設であったが、支店に昇格したのは最も早く、1952年3月であった。当時の所在地は大館市字中道三角というところで、現在の御成町二丁目、秋田銀や北都銀が大館駅前支店を出しているあたりに相当する。1955年5月に現在の店舗を新築して移転しているが、新店舗の開店は210戸が燃えた大館大火の3日後で、市内の金融機関では唯一弘前相互銀行だけが難を免れたという。

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 【注1】行灯看板はその後「みちのく銀行」の文字のみ入った小ぶりのものに付け替えられた。
 【注2】夜間金庫の投入口はその後ステンレス板で塞がれた。
 【注3】扇田へ行くバスは、支店前の〔大館栄町〕から、トータル30分程度の間隔で間違いなく出ている。当日、なぜ乗れないと思い込んだかは不明。時刻表が掲出されていなかったか、掲出された時刻表を何らかの事情で見落としたかであると思われる。
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2016年04月21日

2015.01.16(金)(17)大館駅から大館支店へ

 大館駅に着く前から、雪がちらつき始めていた。駅からみちのく銀行大館支店まで、計算上は歩いて20分ぐらいかかるハズだが、雪モードの場合はどうなるだろうか。もっとも、ちらつく程度の降り方だから、大したことはない。
 どうやって行けばよいか。改札前にある「ナビタ」の地図で確認すると、みち銀大館支店は、南東に向かう駅前通りに入り、大きな四つ角に出たら右折。あとはずっと真っすぐ行って、米代川の支流である長木川を渡った先の左側。この道はそのままバス通りになっているようだから、主要なバスはみなそちらへ行くのだろう。さあそれでは歩き出そう。駅前に止まっていたバスが、ちょうど1本行ってしまった。なお、後で知ったが、大館駅にはレンタサイクルがある。08:45から17:00まで無料。駅の待合室の中にある観光案内所で受け付けているようだ。
 大館駅から斜め左方向に入って来た。南東向きの駅前通りは2本あるようだが、そのうち裏道のように見える道である。センターラインは引かれていない。道幅としては対面2車線分ぐらいあると思うが、両端は除雪した雪が1mぐらいの高さで積み上げてあるから、実質的な道幅は1車線分ぐらいしかない。そばの空き地には雪が5mぐらいの高さに積み上げてある。このあたりは何軒か家が建っていたのだろうが、歯抜けになっており、空いた土地は全部雪が積もっている。シャッターが開いている商店建築は1軒もない。とにかく、雪の量が秋田や能代とは全然違う。同じ県内だが、全然違うところに来た気がする。
 駅からすぐの場所に民間の市場があって、その隣は秋北バスのバスターミナルである。昭和30年代から40年代前半ぐらいまでの鉄筋コンクリート建築で、同社の本社もここにある。このバスターミナルは、朝は4時半から開いているという。盛岡行きの高速バスが04:46に出るためである。駅前には大型トラックがひっきりなしに乗り入れてくる。「大館市」と書いた黄色いトラックが、黄色い回転灯をつけて行き来しているが、回転灯のない普通のトラックもある。駅前が雪捨て場になっており、そこと除雪の現場とを行ったり来たりしているのだろう。

 南北に走る主要な道路に入った。片側2車線の道だが、雪が両端に積んであるので片側1車線にやせ細っている。雪のない部分の地面は、一部乾いているところもあるが、濡れているところがほとんどであった。
 幹線道路に入って最初の交差点のすぐそばに、踏切小屋がある。レールが敷いてあるべきところは、アスファルトで埋めてあった。2009年に廃線となった小坂鉄道の踏切の跡である。踏切以外のところは雪で隠れているが、おそらく廃線敷はそのままになっているのだろう。なるほど、駅前の“雪捨てーション”は、小坂鉄道の線路跡や施設跡なのか。小坂鉄道が結んでいた鹿角郡小坂町は、大館市の東方にある鉱山の町である。古くから金や銀など非鉄金属の産地で、黒鉱と呼ばれる雑多な金属を含む鉱石を多数産出していた。現在はJRから譲り受けた寝台車両を使った「列車ホテル」が有名である。
 「二丁目大通り」というアーケードの付いた商店街がある。御成町(おなりちょう)といい、大館市街地の北の中心地である。県内金融機関の「大館駅前支店」が林立するエリアで、地元2地銀と秋田県信用組合がこの名前の支店を出している。金融機関以外では、ご多分にもれずではあるがシャッターストリートで、買い回りのできる店はない。それでも能代市街地より賑わっているように感じた。売っている商品はかなり特徴的であった。まず、名産の「曲げわっぱ」。薄く切った杉の板を丸めて作った木製の食器である。もう一つ、金物屋では、雪を捨てるためのそりとか、雪かき用シャベルとかは普通に店頭に並べてある。まあとにかく、沿岸部と内陸部ではこれだけ違うのである。
 このあたりは昭和40年代に建てられたとおぼしき3階建てのビルが多い。アーケードも1970年設置だそうで、大火からの復興の時に設置されたようだ。能代もそうであったが、大館市は昭和20〜40年代にかけて何度も大火に遭っており、御成町近辺は1968年10月に大火で焼き尽くされている。土地の使い方が多少ゆったりして見えるのは、燃えて再建したからではないか。大火からの復興は戦災復興と似ていなくもないが、国力を使い果たす過程での火事か、ある程度傷跡が癒えてからの火事か、という違いがあるのだろう。大火の原因はフェーン現象だそうで、山から乾燥した暖かい風が吹き下ろしてくると、ちょっとした火が燃え広がりやすいわけである。なお、大館は戦後5年で3回の大火があったそうで(1953・55・56年)、JR大館駅舎、それからさっききりたんぽを食べた花善の3階建てのビルは、1955年の大火で燃えて再建した建物だという。

 いま14:40。みち銀大館支店前を14:30に出るバスに乗って比内支店に向かうつもりでいたのだが、現時点ですでにプランから相当逸脱している。駅前できりたんぽを食いつつ、ちょっと時間まで食いすぎたかもしれない。まあ、扇田方面のバスは30分に1本出ているらしいし、扇田でかなりの時間待ちになる予定なので、いいと言えばいいのだけれど。
 さて、アーケードつきの商店街は、北都銀行の大館駅前支店が角にある御成町三丁目の交差点で途切れ、道は対面2車線の白センターラインに変わった。ここもセットバックは済んでいるようなので、近いうちに道が広くなるのだろう。ここまで来ると、相変わらず商店街ではあるが、建物と建物の間が少し広がった感じになった。
 歩いていくと、左側に「ITOKU」という青緑の看板をつけた大きな店舗があった。街の規模からすると、かなり大規模なSCであると思えた。敷地内にはミスタードーナツの独立店舗(大館ショップ)もある。ここは、いとく大館ショッピングセンターである。1899(明治32)年に伊藤徳治という人が創業した伊徳は、大館市に本社を置く地元の大手スーパー。このSCは、全国展開していた総合スーパーが撤退して地元が引き受けたのだと思ったが、調べてみると同社が最初から作ったそうである。ここまでに流通業の経営破綻について多く書いてきたけれども、いとくは相当に強力であるようだ。なお、御成町三丁目の角には2006年8月までジャスコ大館店があった。現在は区画整理が進行中ということもあってか、跡地は広大な更地になっている。
 いとく前から南では、4車線道路の供用が始まっているようだ。SCの前には〔ショッピングセンター前〕という停留所がある。ちょうど、花輪駅前行きの秋北バスが走り去った。いすゞキュービック。1990年代製造のかなり古いバスで、車体はサビサビであった。塗色は国際興業の古い標準カラーで、黄緑ではなく白緑色。旧親会社からの中古をそのまま走らせているのだと思う。たぶんこのバスが、当初大館支店前から乗る予定だったバスであった。
 道端で雪かきしている人は、列車の車内販売ワゴンぐらいの大きさをした雪かき機を使っていた。このあたりの銀行支店には、キャタピラー付きの手押しの雪かき機が、どこの支店にも標準装備されているようだ。そういえば、先ほどのいとくSCは、車社会ゆえもちろん駐車場を完璧に確保している。雪国では、せっかく用意した駐車場を雪捨てのスペースとして一定割合を割かなければいけないのがつらいところで、つくづく自然条件の厳しいところで暮らしているのだなと思う。

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2016年04月20日

2015.01.16(金)(16)きりたんぽと忠犬ハチ公

 切符の調達が終わったので大館支店に向かうが、時刻は1時半を回っている。今朝コンビニ弁当を食べたきりで、お腹がすいてしまった。駅前には花善という鶏飯屋が3階建てのビルを構えている。ちょっと寄ってみることにした。なお、花善は大館駅の名物駅弁「鶏めし」の製造元でもある。
 店に入って席に着く。メニューを見ると親子丼や鶏飯御膳などもあるようだが、せっかくだからきりたんぽ鍋にしてみよう。1050円だという。私はきりたんぽなる食べ物を今までに食したことがない。というか、これまでの人生で秋田県との関わり自体ほとんどなかった。
 待ち時間としては12〜13分といったところであった。アラフォーと見える女性従業員が、調理済みの鉄鍋に土鍋のようなフタを載せて持って来た。私の前に鍋を置き、「熱いのでお気をつけ下さい」と言いながら鍋つかみでフタを取り去った。鍋はブクブク泡だっていて、強い温度感があった。中には、きりたんぽが4本、直径2.5cmぐらいのサトイモが2個、普通のから揚げぐらいの大きさの鶏肉が2個。それとマイタケが2かけら、あとはささがきにしたゴボウと斜めに切ったネギ、それからミツバを太くしたような青い野菜(後で調べたらセリであったようだ)。
 従業員が鉄鍋だけ持ってきたから、気短な私は「ご飯は付かないんですか」と一瞬聞きかけた。しかしすぐに気がついた。きりたんぽは、米飯をつぶしてちくわのような形にし、それを焼いた食材である。米飯加工品を入れた鍋ということは、主食はもう入っているのだ。もっとも、私はうどんをおかずに米の飯を食べたりすることもあるのだが、この際それは言わないでおこう。
 料理はスープまで全部飲み干してしまうほど美味であった。鶏肉はしっかりと引き締まった食感がしたし、肉の味もブロイラーとは一味違う感じがした。サトイモは非常に柔らかく煮えていたし、妙なえぐみもなかった。味付けは醤油ベースで、隠し味として味噌か何か使っているのかと思ったが、鳥ガラと醤油だけだという。それだけでこの味が出るのか、と思った。1050円という値段は最初高いと思ったが、値段なりの満足感は十分あったと思う。ここよりもっと美味しい店はあるのかもしれないが、私はしょせん他所者の観光客で、きりたんぽだって今回生まれて初めて食べたのだから、これで十分である。
 珍しくグルメに走った私であった。なお、後日知ったことだが、大館市内できりたんぽ鍋を食すのは、やや敷居が高いようだ。夜など店を予約しておかないと一見客は門前払いにされてしまうし、値段の点でも一人前2000円近くする。ビギナーは駅前の花善でランチタイムに食べておけば間違いないのではないか(夜は営業していない)。

 大館駅の駅前広場は大きく3つに分かれている。その中央部分には、秋田犬の銅像が複数ある。「秋田犬の像」という秋田犬の群像と、それから1頭だけの「忠犬ハチ公」である。渋谷でもないのに、と言いたいところだが、実は渋谷のシンボルとなっているハチ公は秋田犬であり、大館市はハチの出身地であった。つまり、これらの銅像は、東京・渋谷にあるハチ公像の“親戚たち”ということになる。なお、後で知ったが、今年(2015年)はハチの死後ハチ十年(80年)にあたっている。
 渋谷のハチは、急死した飼い主を渋谷駅で10年近く待ち続けたエピソードが有名である。ハチを飼っていたのは、上野英三郎という大学教授であった【注1】。いまの東京大学農学部で教鞭を取っていた上野氏は、複数の犬を飼育する愛犬家だった。現在の渋谷区松濤一丁目(東急ブンカムラ裏手付近)に住んでおり、外出時には渋谷駅までハチを伴うことも多かったという【注2】。しかし、上野氏はハチを飼い始めた翌年、1925(大正14)年5月に勤務先の東大で急死してしまう。教授の死後、諸事情から上野家は散り散りとなったが【注3】、ハチは飼い主の帰りを上野氏の死後も毎日渋谷駅前で待ち続ける。1932年以後の複数回に及ぶマスコミ報道で有名になり、早くも1934年には渋谷駅前に銅像が設置されている。ハチの死亡は銅像除幕翌年の1935年3月であった。
 そのハチであるが、1923(大正12)年11月10日、秋田県北秋田郡二井田村の斉藤家で生まれた。生家は現在の大館市大子内に今もある。父は大子内山(おおしないやま)号、母は胡麻(ごま)号といった。性別はオス。この頃上野氏は純日本犬の仔犬を飼いたいと所望していて、秋田県職員をしていた門下生の世間瀬という人物が、部下の知人宅でハチを30円で買い付けたのである。生後間もない1924年1月14日、米俵に入れられたハチは、15:20発の急行702列車の荷物車に積み込まれてここ大館駅を出発、20時間の移動後に上野に到着した。この日は東日本で大規模な地震があり、列車の上野駅到着は定時から相当遅れたという。
 ハチが上野氏に飼われたのは1年と少しで、必ずしも長い期間ではなかったが、有名な物語ができるほどの濃厚なつながりはあったようだ。上野氏の急死で上野家は離散し、ハチも複数の飼い主を転々とするが、2年ほど後に、ハチを幼少時から知っていた旧上野氏宅出入りの植木職人のもとに預けられた。住所は現在の渋谷区富ヶ谷(代々木公園の南西側)であり、渋谷駅との中間に旧上野家があった。
 上野氏を迎えに渋谷駅に通うようになったハチは、通行人や商売人から虐待を受けたり、子供の悪戯の対象となったりしていた。渋谷駅前で邪険に扱われるハチを知っていた日本犬保存会の初代会長・斎藤弘吉氏は、飼い主を待つ犬の話を新聞に寄稿。1932年10月、朝日新聞に「いとしや老犬物語」というタイトルの記事が掲載されたのを皮切りに、複数回の新聞報道があって、ハチは「忠犬ハチ公」として有名になった。ハチが「忠犬」として祭り上げられたのは、銅像建立と同じ1934年に、尋常小学校の修身教科書に「オン ヲ 忘レル ナ」というハチの物語が使われていることでもわかるとおり、国民の忠誠心を涵養したい当時の国情もあったようだ。
 1934年4月に行われた銅像の除幕式にはハチ自身も参列したが、その後間もなく、ハチは渋谷駅近くの稲荷橋付近で死亡しているのが発見された。1935年3月8日早朝のことであった。稲荷橋は渋谷駅南端、首都高速3号線高架の南側にかかっている渋谷川の橋である。渋谷駅で行われたハチの告別式には多数の人々が参列し、僧侶による読経や花輪・電報・香典など人間さながらであったという。死体は剥製にされ、現在は東京・上野の国立科学博物館に展示されている。また、飼い主の勤務先であった東京大学農学部(東京都文京区)には、ハチを病理解剖した際に採取された内臓(ホルマリン漬け)があり、農学部の資料館で公開されている。

 忠犬ハチ公の銅像は、日本犬保存会からの依頼により、彫刻家の安藤照氏が作成した。報道されたハチの美談に感じるものがあったとして、かねて知り合いだった同会の斎藤会長にハチの銅像を作りたいと申し入れたという。ハチの顕彰については、関係のない第三者が便乗するなどいかがわしい動きもあり、日本犬保存会としても一刻も早く銅像を制作しなければならなかったようだ。
 こうして作られたハチの銅像であったが、太平洋戦争の末期になると金属物資の不足が深刻化し、ハチ公像も金属供出されることになった。関係者はもちろん回避を図ったものの、銅像や梵鐘などあらゆる金属が供出される中、駅前のような目立つ場所の銅像が供出されないままでは体裁が悪いことから、撤去のうえ保管しておくことで決着した。しかし、終戦を迎える前日の1945年8月14日、鉄道省浜松工機部(現JR東海浜松工場)で溶解されてしまったのであった。なお、初代作者の照氏は空襲で焼死し、保存されていた銅像のレプリカも疎開させる途中で空襲に遭って焼失した。
 戦後、1948年8月になって、渋谷のハチ公像は安藤照氏の息子で彫刻家の士氏の手で再建された。士氏は初代銅像の制作当時10歳の小学生で、父親のアトリエで毎日のようにハチに接していた。渋谷駅前には現在もこの時に再建された銅像が立っている。渋谷駅の「ハチ公口」という名称の出入口は、ハチ公の像が設置されている広場に面した入口であり、待ち合わせの名所として知られている。1948年の再建当時、忠犬ハチ公像は駅前広場の中央に置かれていたが、1989年5月の駅前広場拡張の際に広場の角に移され、北を向いていた顔は駅の出口(東)を向くように修正された。現在、渋谷駅周辺は再開発と区画整理事業が進行中で、ハチ公口に置かれているハチ公は工事の都合上、2020年頃に一時撤去が予定されている。この撤去期間中、渋谷のハチ公像を大館に“里帰り”させる構想がある。構想との関係は不明だが、JR東日本は2015年6月から、大館市の隣の小坂町出身で、福原淳嗣・現大館市長と高校の同期だった人物を渋谷駅長としている。大館駅と渋谷駅は戦前から「姉妹駅」となっている。
 なお、大館駅前には、ハチが死んだ直後の1935年7月、渋谷の像と同じ型で作られたハチ公の銅像が設置されたが、この銅像も渋谷と同様、戦時の金属供出によって失われた。こちらの復活はかなり遅れて、1987年のことであった。大館駅前のハチ公像は、耳が両方とも直立しているところが渋谷と異なる。渋谷のそれは晩年の姿をモデルとしたため、左耳が垂れているそうだ。
 ハチ公の像や記念碑は関係各所に数多くみられる。大館市だけでも、この駅前の銅像のほか、ハチの生家前に生誕80周年を記念しての石碑と石像があり、秋田犬会館(大館市三ノ丸)の前には「望郷のハチ公像」がある。JR鶴岡駅(山形県鶴岡市)に展示されている石膏像は、山形県藤島町(現鶴岡市)の町役場に長年保管されていた正体不明の犬の像で、渋谷の銅像を再建する際に安藤士氏が試作したものと判明した。同地はハチの保護を訴えた斎藤弘吉・元日本犬保存会会長の出身地でもある。近鉄久居駅前(三重県津市)には、上野英三郎博士の出身地ということから、博士とハチの銅像がある。また、上野博士に直立の姿勢(あえてこう書く)で飛び付こうとするハチの銅像が、東大農学部キャンパス内に最近建てられた。調べている過程でこの像の写真を見たとき、私は冒頭で述べた「チビ」のことを思い出して涙が止まらなかった。

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 【注1】上野英三郎(うえの・ひでさぶろう)氏:いわゆる「忠犬ハチ公」の飼い主で農業土木学者。1872.01.19(明治4.12.10)生、三重県一志郡本村(現津市)出身、1895年7月帝国大学農科大学農学科(現東京大学農学部)卒、1900年7月大学院満了、同年8月東京帝国大学農科大学講師、1902年3月助教授、1911年11月教授。1925(大正14)年5月21日死去。
 【注2】上野氏の勤務先だった東大農学部は、当時は目黒区駒場にあり、自宅からは徒歩で通勤していた。このため、ハチが「教授を生前に“毎日”渋谷駅まで送り迎えしていた」とする説は誤りである模様。
 【注3】上野氏の妻は入籍していなかったため、夫の遺産が相続できず、居宅を明け渡さざるを得なくなったという。
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2016年04月19日

2015.01.16(金)(15)雪国に入ってきた

 鷹ノ巣から線路は再び複線となった。車掌のアナウンスによると、次の糠沢駅は通過するらしい。この列車は普通列車であって快速ではないが、ともあれ糠沢を通過。複線の両側にホームがへばりついただけの、簡素な駅であった。左の車窓からは、大太鼓をモチーフにしたというドラム缶のような形の駅舎が見えるが、右の空を見ていたのでこのときには気が付かなかった。水田地帯の真ん中にある駅のようだが、それなりに人家も建っているし、この程度に「何もない」駅はここに限らず奥羽線にはいくつもあるように思えた。なぜ通過するのだろうか。ただ、このあたりで車内に車掌が回ってきたから、流動の切れ目になるような大きな何かがあるのかもしれない。
 山もだいぶ深くなってきたが、それでも雪のない時期には山が切れたら水田地帯が広がっているのがわかる。製材所が何軒か見えたから、このあたりも秋田杉の産地なのだろう。右の車窓からは米代川が寄り添って流れている様子が見える。やがて早口に停車。そこそこ人口がいる町のようだ。2005年6月に大館市と合併した旧北秋田郡田代町の中心地であるから、もう大館市には入っている。一生懸命除雪をやっている人が見えたが、雪がさらに深くなり、もう除雪しきれていないところも至る所にある。除雪や雪下ろしを見たのは今日初めてだった。線路際の民家、それからJRの駅の中にも、雪下ろしをしている人が何人もいる。
 線路は早口からまた単線になった。すぐ右を走る道に「大館市」というアーチがかかっているのが見えた。もう空は一面べったりグレーとなり、青空がのぞく隙間も近場にはほとんど存在しない。遠いところに、ほんの少しだけ日光が差して斜めの光の帯になっているのが見える。もう少し光が強ければ、天使降臨のような幻想的な風景になるのだろう。地面に目を転ずると、線路際には用水路が流れているが、その擁壁のコンクリート部分には雪庇ができている。雪の庇。知らずに踏み込んだら川にドボンである。
 下川沿駅は対向式2面2線の駅。この駅の分岐器では、凍結を防ぐために火を燃やしている。凍結防止用のヒーターはもっと手前の駅にもあったと思うが、初めて気がついた。2011年に来たときのメモでは、秋田市を出たばかりの大久保駅には早くもあったようだ。ここ下川沿は、プロレタリア作家だった小林多喜二の生誕の地だそうで、駅外の土地から列車に見えるように設置された看板が左の車窓から見えた。個人が立てた看板のようだが、何やら鬼気迫るものを感じた。
 窓の外に雪がちらつき始めた。次はもう大館駅である。さすが大館市ともなると、雪がいよいよ深くなってきて、除雪された雪が線路際にうず高く積まれているし、道路標識なども雪で埋もれている。民家などの斜めになった屋根に載っている雪は、どれを見ても雪庇雪庇雪庇。積もった雪がゆっくり滑り降りてくることで庇のような形になる。時期が来ると一気にバサッと落ちるから、危険なのだろうけれども、雪が深くなってきたことの象徴といえよう。

 私を乗せた弘前行きの電車が、大館駅2番線に到着した。13:31。大館、大館、と女性の声の構内放送が聞こえている。
 大館駅には、さっき東能代駅で見たような雪よけのネットはなかった。そんな物は、雪がいっそう激しい大館まで来ると意味がないのだろう。二ツ井、鷹ノ巣あたりで結構な雪国に入ったと思ったけれども、大館は雪国の度合いがさらに強いようだ。ここも3番線までしかない国鉄型配線の駅で、私が到着したホームの反対側には、花輪線の盛岡行きが停まっている。この駅で接続する花輪線は、五能線と同様今来た後の方(西)に進んでいくから、分岐がどこかにあったハズだが、見ていなかった。
 乗り降りの終わった車内に、目を向けるともなく向けると、この時間で高校生が若干乗っていた。3年生の早帰りだろうか。すっかり忘れていたが、そういえば明日は大学入試センター試験があるのだった。なお、乗ってきた電車は、大館で5分ほど停車した後、県境を越えて青森県弘前市まで行く。ここから先は車掌も降りてしまい、ワンマン列車になるそうである。
 跨線橋を渡って、1番線横の改札を出る。待合室に「本場大館きりたんぽ」と銘打った巨大な鍋の模型があった。大館市周辺は有名な比内地鶏の生産地であって、これを使ったきりたんぽ鍋が名物である。秋田県でも北部だけの名物料理であるようで、以前、県南・由利本荘市出身の職場同僚が「本荘ではあんなの食べない」と言っていたのを覚えている。大館市近辺がきりたんぽ鍋の“本場”とされているが、きりたんぽ発祥の地は花輪(鹿角市)、商品として売り出したのは能代市の料理店であったそうだ。さて、鍋の模型は、直径3mぐらいの巨大な鍋に食材を入れ、下からダミーの火で加熱している。私はこれまでグルメ紀行とは全く縁がなくて、きりたんぽも食べたことがないので、本物を経験してみたいと思っている。

 大館支店に向けて出発する前に、大館駅にはミッションが1つある。この後乗る予定の花輪線の乗車券を買っておかなくてはならない。大館支店の次、比内支店を終えた後、最寄りの扇田駅から盛岡へ移動するが、扇田は無人駅だったハズで、クレジットカードで切符が買えない。もちろん現金精算はできるだろうが、旅先で現金はなるべく減らしたくないから、そうなると大館駅で買うしかないのである。
 買った切符は6枚。JR東日本の地方交通線は、乗車券が240円または320円になる時、距離と比較して値段が割安になるので、うまく計算して組み合わせるとこんな枚数になる。扇田→土深井→鹿角花輪→兄畑→荒屋新町→松尾八幡平→好摩、と6分割することによって、合計170円安く上げることができた。後日、大阪府警のせいで国庫に7000円を吸い上げられるから、少しでも節約しないといけない。手間をかければ何とかなるのなら、手間をかけて何とかしようということである。なお、私は改札横の長距離券売機で切符を買ったが、大館駅内では何やら工事をしていて、人が券売機を操作している横で、嫌がらせのようにガリガリと大きな音を立てていた。JRとしては、運賃体系のすき間を突いて安く上げられるのは気分が良くないだろうから、私に対する嫌がらせの効果が発揮できて良かったのではないか。
 乗車券の分割購入について、若干の蛇足を付け加える。実は、好摩からさらにもう1枚切符が必要である。第三セクター、IGRいわて銀河鉄道の盛岡までの切符。ところが、大館駅の券売機では、盛岡までの切符が買えないのである【注】。券売機がダメとなると窓口へ行くしかないが、窓口でもやはり、IGRがからむと通しの乗車券は買えないという。仕方がないから好摩で打ち切ったが、これは新幹線開業に伴う並行在来線の第三セクター化によるマジックである。好摩から先はJRではないから、JRでは切符は売りませんよ、ということだ。第三セクターのこういう融通のきかなさは、本当に勘弁してもらいたい。新幹線ができたからといって全然便利になっていないではないか。

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 【注】駅の出札窓口に隣接する「びゅうプラザ」(JR東日本直営の旅行代理店)で、船車券の形でIGR乗車券を購入できる、と後で知った。
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2016年04月18日

2015.01.16(金)(14)東能代に阪急梅田を見た

 能代駅から私が乗ることになっているのは、東能代行きの12:38発。この列車で東能代に着いたら大館方面は12:45発で、接続時間2分という絶妙な乗り継ぎである。
 38分発は、1番線から出るという。1番線は、さっき深浦行きの列車で降り立ったホーム。ということは、五所川原方面から来る列車ではなく能代始発らしい。12:32頃、キハ40の1両だけの列車が1番線に着いた。定時では12:31着の能代止まりの列車で、どうやらこれが折り返し東能代行きになるようだ。思ったとおりである。
 改札が開いたので、すぐ列車に乗り込んで座席に荷物を置いた。改札の横に木製の記念スタンプ台が見えたので、発車する前にちょっと行って押してきた。38分定刻発車。私以外の乗客は結構たくさん乗ったように思ったが、20人は下回っている。窓の外はすっかり晴れ渡り、日の光がまぶしく感じられた。そうして、走行時間5分弱で終着・東能代に到着である。
 駅に着く直前、右側から奥羽線の701系電車がこちらに寄ってくるのが見えた。五能線と奥羽線は、東能代駅の手前で少しの間並走している。ああ、これが、今から乗る普通列車弘前行きなのか。東能代駅のホームには五能線と同時に入るようだ。間もなく、五能線の線路に奥羽本線の線路がぴったり寄り添い、私が乗ったキハ40の窓には、701系電車のステンレスの車体とスモークガラスの窓がいっぱいに広がった。
 こんな地方の小駅で、こんな阪急梅田のような格好いいことをやっているとは思わなかった。私鉄王国の大阪では、大阪〜神戸間や大阪〜京都間のような大都市圏輸送で鉄道会社の競争が激しく、優等列車の本数も多い。阪急電鉄の梅田駅では、神戸線の特急・宝塚線の急行・京都線の特急が、日中は10分おきに同時に発車し、次の停車駅の十三(じゅうそう)まで並走する。東能代で2つの列車が同時に駅に入ろうとする様子を見て、私は阪急梅田の光景を思い出していた。何しろ私は、24時間前には大阪にいたのである。

 弘前行きは定時に発車した。電車は2両編成、乗客は前の車両に18人、後ろの車両に13人。午前中だと、若い人、特に女子大生風の女性が多かったのだが、この時間になると明らかに平均年齢と男性比率が上がり、中年以上の男性が多くなった。女性は初老から後期高齢者ぐらいまでで、いずれにしても若い人の姿は完全に消え去っている。なお、この電車には車掌が乗っている。後で調べたら、奥羽本線(秋田以北)のローカル列車でワンマンカーは珍しく、上下各3本あるだけであった【注1】。午前中の秋田から東能代までの移動は、実はレアケースだったことになる。
 東能代を出てからの車窓風景は、しばらくは午前中の車窓風景とあまり変わらなかった。水田が広がる平野に単線の線路が敷かれているが、能代市付近はさほど大きな平野ではないようで、近いところに山が見えたりしている。ただし、東能代を出てから線路のカーブが増えたから、地形は若干険しくなってきたようで、カーブとともに標高も上がりつつある。雪の量は明らかに増えてきた。右も左も雪に覆われ、地面がまったく見えなくなった。
 最初の駅は鶴形。山に分け入ってきたようで、かなり高台の駅。この駅を出ると、線路が複線になった。真っ白な雪の中に鉄のレールが2本だけ浮かび上がっているようで、線路の中も外も区別がつかない。明らかに雪が深くなっている。そして、本日初のトンネルに遭遇。さほど長くはなかったが、トンネルをくぐったのは今日初めてであった。
 その次の富根駅は、プラットホームの雪がいっそう深くなってきた。乗降に使われない部分は除雪もされないので、雪がこんもりと積もっている。水田地帯は続いているが、車窓の風景は間違いなく雪国の山間部になってきた。それにつれて、雲も質が違ってきている。横の広がりとしては午前中から変わらず、すき間から青空がのぞくところは相変わらず青空がのぞいている。ただ、垂れ込めている雲は、厚さが増したのか、黒く重たくなってきた。このあたりの雲は、これがどいたらきれいな青空になるのに、という雰囲気ではなかった。
 かなり大きな鉄橋を渡った。単線だったところを複線化したとみえて、鉄橋は上り線と下り線の位置がかなり離れている。秋田県北部の母なる川、米代川であった。川を渡ってすぐトンネルを抜けると、山に囲まれた平らな土地に入る。あたりはもう、完璧なる真っ白な雪景色となっていた。ここで、二ツ井に停まる。川を渡って山を越えているから、カルチャーは能代とはかなり違っていると思うが、ここ旧山本郡二ツ井町はいわゆる平成の大合併で能代市となった地域である。思いのほか大きな街らしく、4〜5人の客が降りた。駅の真裏は山で、防風林の一番手前に「ここは白神山地の玄関口です」という看板が出ていた。
 大きな川を渡る。大きな川と感じたが、地図を見ると藤琴川といって米代川の支流だから、あまり大きくはないハズだ。雪のない時期に通ってみると、この川は河川敷が広いだけであった。フジコ・トガワと書くとそんな名前の女性アーチストでも居そうである。という冗談はさておき、川に続いて若干長めと感じられるトンネルをくぐる。しかし、その次にもう1本ある複線トンネルが、相当に長大なものであった。二ツ井の大館寄りは、県境にこそなっていないけれども、かなり本格的な山越えのようだ。調べてみると太平山という山だが、有名な清酒の名前とは関係がない。この「太平山トンネル」について、私はメモに「北陸トンネルに匹敵すると思われる」と書いているのだけれども、さすがにそれは大げさだろう。

 やっとトンネルを出て、前山駅。ここに至って、右の車窓はひたすら雪でべったりであった。駅に停車すると、ホームの向こうにある防風林の先に、ちょっとした広葉樹の並びがあって、その向こう側はこんもりと白い雪に覆われた山のようであった。米代川の堤防が雪で覆われているだけだが、堤防の向こうが見えないから、雪の大地という感じがひしひしと感じられる。雪のない時期に来ると、水田地帯が意外に奥の方まであるのがわかるが、今はとにかく真っ白な風景が広がっていて、雪国そのものである。なお、前山駅から線路は再び単線となった。
 次は鷹ノ巣駅【注2】である。北秋田市の玄関口。この駅から、秋田内陸縦貫鉄道が南に角館まで延びているから、右の方から線路が合流してきたハズであるが、線路が寄って来る様子は見ていなかった。北秋田市もまた平成の大合併で発足した市で、ここ鷹ノ巣駅の周辺は2005年3月の合併前には北秋田郡鷹巣町といった。JRの駅としては平凡な国鉄型配線の駅で、能代寄りのところに内陸線の駅が併設されているところが他とは違う。内陸線の建物(車庫か)の壁には「秋田名物 内陸線」という大きな看板が出ていた。
 鷹巣には、みちのく銀行の前身である弘前相互銀行が、1972年4月まで鷹巣支店を出していた。1951年6月に弘前無尽の鷹巣会場として営業を開始したもので、1952年3月業務取次所に昇格、1953年7月には大館支店鷹巣出張所に昇格し、同年12月さらに鷹巣支店に昇格した。1954年10月鷹巣町北鷹巣386に移転、1965年11月には東鷹巣77-7に新築移転していたが、1972年4月に大館支店に統合されている。同年7月に秋田支店が開店しており、事実上の配置転換であった。1972年4月は鷹巣町の金融事情が大きく動いた月で、やはり当地に出店していた青森銀行が、秋田支店出店のため撤退している。青銀の鷹巣支店は1921(大正10)年10月に前身の第五十九銀行が出張所として開設したもので、鷹巣町では第四十八銀行(現秋田銀)よりも古い銀行支店であった。青銀は鷹巣支店を閉めるにあたり鷹巣町に500万円の寄付を行ったが、弘前相互はどうだったのだろうか。
 なお弘前無尽は、鷹巣から内陸線で奥に入った米内沢(現北秋田市)にも、1951年に抽選会場を置いている。開設は鷹巣会場と同時であったが、こちらは1952年2月の廃止で、営業店(出張所)に昇格することもなく短命であった。

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 【注1】ワンマン列車状況:2015年3月14日改正ダイヤでは、下りは秋田発09:48(大館行)、10:56(東能代行)、14:31(八郎潟行)の3本のみ(男鹿線直通列車を除く)。
 【注2】「鷹ノ巣」の表記はJRの駅名のみ。
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2016年04月17日

2015.01.16(金)(13)店舗外ATMのこと

 店舗外ATMの話が出たところで、みちのく銀行のそれについてまとめておくことにしよう。今回の制覇対象にはなっていないが、みち銀は、店舗外ATMでの取引が独自の店名表記とともに通帳に記帳される貴重な銀行である。ここでは秋田県内の状況を整理するが、青森県をはじめ他県のみち銀ATMを「めぐ」する際、ここで述べたことが予備知識として役に立つハズだ。
 みち銀はかつて、秋田県内に店舗外ATMを最大4か所設けていた【注1】。能代支店が3か所、比内支店が1か所であるが、現在ではいずれも廃止されている。みち銀の店舗外ATM【注2】は、前身の弘前相互銀行が1976年9月に青森県弘前市に設置した、本店営業部弘前大学医学部附属病院出張所【注3】が最初とみられる。秋田県においては、1977年12月に設置された[アイケーショッピングデパート](能代支店)が第1号であった。
 アイケーショッピングデパートは、能代駅の南300mほどの能代市南元町に1977年3月オープンした、地元資本のショッピングセンターである。市内の2つの衣料品店、イシヤマと菊宏の合弁で設立された「愛敬」という企業が運営していた。売り場面積9030uと、当時の能代地域では最も大規模なSCで、インパクトの大きな商業施設であったようだ。みち銀のATMは12月1日稼働開始で、SC開店後しばらくしてからの開設であった。
 愛敬は1985年9月に東北地区のスーパー3社での合併に参加した。合併会社「トーホー」は、山形県村山市に本社を置き、代表には愛敬の石山舜二社長が就任した。この再編はニチイ【注4】系列のボランタリーチェーン加盟社同士の合併で、ニチイ主導で行われたようだ。このときは運営会社の合併だけで屋号の変更は行われなかったが、さらに1989年3月には同様に5社で合併【注5】。これを機に、各社の傘下にあったスーパーは順次「サンホーユー」という屋号に変更され、アイケーショッピングデパートも1989年9月「サンホーユー能代店」に改称している。なお、アイケーは「サンホーユー」に変わる際に増築と改装を行い、みち銀の店舗外ATMはこの時以降2階に置かれることとなった【注6】。
 さらに1994年3月、サンホーユーは仙台市に本社を置くニチイ本体の東北地域会社「東北ニチイ」に合併した。名実ともにニチイグループの東北地区会社の一部となったが、存続会社となった東北ニチイも元々はサンホーユーのように合併を繰り返して拡大してきた企業であった。東北地区の企業統合は、ニチイが当時「生活百貨店」を謳って展開していた新業態「サティ」を拡大するためのもので、サンホーユー能代店は短期間「ニチイ能代店」となったのち【注7】、1996年6月に「能代サティ」と名称変更した。
 これらの名称変更を、みち銀の出張所名も追いかけている【注8】。

 さて、みち銀は1992年頃から店舗外ATMの展開ペースを速める。地元の青森県では2000年頃まで店舗外ATMの設置ラッシュが続いたが、秋田県においては1997〜1999年にかけて最盛期を迎えた。この時期に設置されたのが、[大滝温泉](比内支店、1997年7月)、[能代山本医師会病院](能代支店、1998年10月)、[アクロス能代](同、1999年9月)の3拠点であった。
 能代山本医師会病院は、JR東能代駅の南2kmほどの丘陵上(能代市桧山)にある総合病院で、1984年7月に開院した。病院の周辺は能代市山本郡医師会が「総合福祉エリア」と位置付けており、特別養護老人ホームなど医師会が運営する複数の高齢者福祉施設も置かれている。これらの施設の建設にあたっては、みちのく銀行が相当額の融資を行っている。みち銀は医療法人との取引に強みがあるようで、同行の店舗外ATMには病院内のものがけっこう目につく。私は2011年4月に[能代山本医師会病院]を制覇したが、みち銀のATMは病院内、メインロビーそばの売店横にあり、通帳の取扱店名表示は<HPヤマモト>であった。みち銀の取扱店名表記は、半角7文字以内に収めるために相当強引なデフォルメが行われている。HPがhospitalの略であるのは言うまでもない【注9】。
 アクロス能代は、国道7号線沿いの能代市寺向に1999年9月オープンしたショッピングセンターである。大和ハウス工業グループが運営する「アクロスプラザ」と称するSC群の仲間で、能代バイパスに面した広大な敷地に平屋建ての店舗が建ち並ぶロードサイド型の商業施設。キーテナントは地元スーパーの「いとく」(本社大館市)である。さっき奥羽線で東能代駅に着く手前、左側の車窓に見えたロードサイド型店舗群がそれだ。銀行のATMはキーテナントいとくの棟の南隣に専用の棟があり、6台(6機関)分のブースが並んでいる。連載作成にあたり見に行ってみたが、6ブースのうち左側2ブースが空き枠になっているから、このうちどちらかがみち銀であったと思われる。みち銀のATMはSCオープン時に開設されたが、残念ながら私は制覇できなかった。
 このあたりまでが、みち銀が秋田県で最も活発に商売をしていた時期であったかもしれない。なお、比内支店管内については比内支店のところで述べる。

 2000年以後は、銀行にとっても流通業界にとっても荒波が押し寄せる期間であった。この過程で、みち銀の店舗外ATMも秋田県では全廃となっている。まず先に悲鳴を上げたのが流通業界で、2000〜2001年にかけて経営破綻が相次いだ。
 ニチイ改めマイカル(1996年7月商号変更)は、転換社債の発行や店舗の証券化で資金を調達し、工場跡地や自治体の再開発事業などで巨大店舗の出店を立て続けに行った。しかし、賃貸料の増大などによる店舗の赤字が経営を圧迫し、2001年初頭から資金繰りに窮するようになった。この時期は特に銀行の不良債権処理とデフレ不況が問題となった時期で、銀行自体も体力が落ち、多額の負債を抱えた取引先を支援しきれなくなっていた。
 2001年9月、マイカルは、メインバンクだった第一勧業銀行(現みずほ銀行)から金融支援の打ち切りを宣告された。グループでの負債額1兆6千億円、小売業としては前年のそごうを上回る戦後最大規模の倒産であった。当時の四方修社長(元大阪府警本部長)は、メインバンクが同じDKBであるイオンを支援先として、会社更生法による再建を計画していた。しかし、旧来からの経営陣は四方社長を取締役会で解任して、民事再生法の適用を申請した【注10】。クーデターの理由としては、旧経営陣が会社に残ることができ、比較的早く再建が果たせるというものであったが、メインバンクの支援を受けられず、支援企業選びも難航した。結局、同年11月、民事再生手続の中止と会社更生法の申請がなされ、当初のスキームどおりイオンが会社更生法下で支援することになった。
 親会社マイカルの破綻により、能代サティを運営していた子会社の東北ニチイ改めマイカル東北(1996年7月商号変更)も苦境に陥った。同社は親会社の破綻直前に、自社で運営していた「サティ」など15店のうち、業績が比較的好調だった7店舗【注11】を親会社に営業譲渡していた。不採算店の立て直しと統廃合に特化するためである。しかし、マイカル本体の破綻に伴い、親会社と同様に民事再生法適用を申請する。自主再建を目指したものの、本体の破綻により取引先や来店客が減少して全店が赤字となったこと、また支援会社のイオンが会社更生法への切り替えを求めたことから、親会社に2か月遅れて会社更生法に切り替えることになった。
 こうして、マイカル東北管内の店舗は、業績の好転が見込まれた秋田県横手市の1店を除き、全店閉鎖されることになった。能代サティは2002年6月いっぱいで閉店となり、みち銀の店舗外ATMも[アイケーショッピングデパート]以来25年の歴史に幕を下ろして廃止された。

 次いで荒波にもまれたのは、銀行であった。みちのく銀行の店舗外ATMは、秋田県では2009〜2012年にかけて全廃となるが、これらは入居先の経営破綻ではなく、みち銀自身の理由によるものである。
 みち銀における店舗外ATMの新規設置は、2000年頃まで年間10〜20か所というハイペースで続いたが、これは当時の経営姿勢が積極的だったためである。1986年から2005年まで20年近く頭取・会長を務めた大道寺小三郎氏【注12】は、みち銀をリテール特化型地銀として青森銀行と肩を並べる存在に発展させ、またロシアに進出するなど海外戦略の展開にも積極的で、カリスマバンカーとして知られていた。しかし、19年に及ぶ長期政権の結果として社内には沈滞が生じ、行員の着服や不正融資など不祥事が続発。業務改善命令を2002年からの4年間で3度も受け、また金融庁の検査でも融資先の査定が甘いなど法令順守面の問題を指摘され、大道寺氏をはじめ7人の役員は2005年6月引責辞任に追い込まれた。
 経営陣の大量辞任で窮地に陥ったみち銀は、親密だった旧富士銀行系の人脈に助けを求め、みずほフィナンシャルグループはユーシーカード社長の上杉純雄・元富士銀常務を会長として送り込んだ。みずほは現取締役の総退陣を要求、また会長を支える幹部職員を経営企画部に出向させ、みち銀の経営体制はガラリと変貌した。新頭取には、みちのくカード社長だった杉本康雄氏【注13】が就任した。杉本氏はみち銀の常務取締役だったが、大道寺氏との確執により取締役に降格され、さらに系列会社に転出していた。
 新しい経営体制のもと、大道寺氏の拡大路線は抜本的に見直され、お定まりのリストラも行われた。店舗統廃合では、2006〜2010年の4年間に10支店5出張所を廃止。これらの中には、本町支店のような、みち銀にとって由緒正しき店舗【注14】が含まれる。2003年度末に1300人を超えていた正行員は1200人を切る水準にまで圧縮。また、大道寺体制の象徴といえたロシア事業もみずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)に売却されるなど、みずほグループ主導の経営再建計画が実行された。リストラ効果で経営は黒字化したものの、個人預金の残高は減少し、また行員の士気もかなり下がったとされる。
 こうした経営方針の変化は、店舗外ATMの設置個所数にも表れている。2000年度まで年間15か所以上のハイペースで増え続けてきたみち銀の店舗外ATMは、2001年度からゆるやかな減少に転じていたが、一部の店舗外ATMで青森銀行と共同利用を始めるなどして、2008〜2011年度にかけて特に大きく減少している。[アクロス能代][能代山本医師会病院]は、ほぼこの時期の廃止である。これらは施設が廃業したための廃止ではないから、経営方針の変化によるものが大きいのだろう。ともあれこの過程で、みち銀の店舗外ATM設置個所数は、2012年度には1996年頃の水準にまで後退し、秋田県には店舗外ATMが1か所もなくなってしまった。そして、今度は秋田支店まで閉めてしまったわけである。
 秋田県は現在のところ人口の減少率が最も高い県であり、2000年に119万人いた人口も2015年末には102万人、そして2040年には70万人にまで落ち込むとされている。みち銀としては、膝下の青森県も似たような状況であり、経営方針としても地元回帰を謳っているから、隣県とはいえマーケットの縮小に付き合い切れなくなったのではないか。

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 【注1】他行が幹事となっている共同ATM1か所([比内町役場]改め[大館市比内総合支所])を除く。
 【注2】当時はCD機での設置だったが、便宜上「店舗外ATM」の名称を使用する。
 【注3】本店営業部は現在の弘前営業部。なお、ATMの母店は大学病院前支店(弘前市)となった。
 【注4】のちのマイカル(現イオンリテール)。
 【注5】新会社「サンホーユー」の本社は仙台市、代表者はトーホーの石山社長。
 【注6】アイケーの時代からこの場所にあった可能性を否定するものではない。なお、SCの主要な出入口は地形の関係で2階にあった。
 【注7】店舗広告が「ニチイ能代店」名で行われるようになったのみで、看板類の架け替えは行わず、包装紙なども在庫がなくなるまで旧来のものを使用した。
 【注8】1996年6月以降のみちのく銀行における名称は「能代サティ店出張所」。
 【注9】病院を全部「HP」と略しているわけではない。
 【注10】会社更生法による再建では、事業経営権を持つ「管財人」が選定される(この過程で倒産会社の経営陣が一掃されるケースが多い)が、民事再生法による再建では旧来の経営陣がそのまま経営にあたる。
 【注11】能代サティは含まれていない。
 【注12】大道寺小三郎(だいどうじ・こさぶろう)氏:元みちのく銀行会長。1925年5月1日生、北海道日高郡静内町(現新ひだか町)出身、1952年3月東北大法卒。司法試験浪人を経て1958年4月弘前相互銀行入行、管理・貯蓄推進・業務各部長を経て、1973年11月取締役、業務部長・東京支店長兼東京事務所長・総合企画部長・融資部長各委嘱、1979年6月常務取締役、1982年6月専務取締役、1984年6月副頭取、1986年6月頭取、1997年6月会長。2005年5月退任、同年7月21日死去。
 【注13】杉本康雄(すぎもと・やすお)氏:現みちのく銀行会長。1947年2月27日生、青森県三沢市出身、1969年3月高崎経済大卒。同年6月弘前相互銀行入行、根城、国道各支店長、業務推進部長を経て、1996年6月取締役、業務推進・企画調整各部長委嘱、2000年6月常務取締役、人事部長委嘱、2002年8月取締役、2003年6月古川支店長委嘱、2004年6月みちのくユーシーカード(現みちのくカード)社長。2005年6月みちのく銀頭取、2013年6月会長(現職)。
 【注14】本町支店(青森市本町)は旧青和銀行本店。1978年9月に青森市勝田の現在地に新築移転するまで、みちのく銀行の本店であった。
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2016年04月16日

2015.01.16(金)(12)能代駅で列車待ち

 青森銀のATMで通帳記帳を済ませて、能代駅まで戻ってきた。ロードヒーティングのせいもあるのだろうが、駅とみち銀との間には、雪を踏んで歩くところは全くなかった。ただ、人通りのあまりなさそうな道には、除雪されずに残っているところもあった。除雪して除けてある雪の山の高さが秋田市中心部と違うし、やはり秋田と比べると少し雪が多いのだと思う。
 ロータリーの西側に立っている能代駅前のバス停は、「小銭すし」と書いてある店舗の目の前にある。小銭すしはかつて有名な男性俳優が起業・経営していた持ち帰り寿司のチェーンだった。全国チェーンが蹉跌した後も、能代市を中心としたフランチャイジーが独自に事業を続けていたようで、能代市内には小銭すしの経年を感じない空き店舗が今もいくつか残っている(そのうち1店は2015年まで営業していた)。その寿司店の空き店舗を街づくりのNPOが借り、店の中に時計やベンチを置いて、能代駅前の無料バス待合所として開放している。能代は中心部の「バスステーション」と称する停留所がバスのダイヤの中心だが、駅前にこれだけ広いスペースがあるのであれば、バスターミナルをここに持って来た方が早い気がする。ただ、地域住民が頑張っているのに、ここから出るバスの最終の早いこと。最も遅い五明光行きというバスが、平日18:14発である。これは列車に接続しているのだろうか。
 地方都市で駅前がまばらになるのは常態だが、交通機関の乗り場は本来人が集まる場所のハズである。しかし、鉄道の駅の周りに新しい街ができればよいのかといえば、モータリゼーションが進んだ状態で郊外型のショッピングセンターができたら、そちらに車の客を取られてしまう。でも、郊外が発達して古い町がさびれ、郊外の店舗まで撤退して完全にゴーストタウンになったという状態は、アメリカなどでもあったハズだ。日本でモータリゼーションが進めば同様の事態が起きることもわかりきっていたハズなのに、日本の地方都市がこうなってしまったのは、誰のせいなのだろうか。
 能代市は、寂れ方としては他所の地方都市と変わらないが、地域住民の参画というところは相当に頑張っていると思う。ただ、いかんせん人が絶対的に少ないのだろう。どういう方向で町を立て直していくのだろうか。五能線の拠点であることと「バスケの町」が売りだろうか。体育嫌いの私としては、バスケには魅力を感じにくいけれども。

 駅前広場に面した場所に商工会議所があり、建物の前に秋田銀行が店舗外ATMの独立小屋[能代駅前]を出している。2013年11月に統合になった能代駅前支店の代替ATMだろう。このATM小屋には、興味をそそられた。風除室が付いているのである。こういう重装備の小屋は初めて見た。
 最初私は、ATM台数の多い店舗外ATMだと思ったのである。りそな銀行でいうと、東青梅支店管内に多数あるような、3台分ほどの大きな小屋を想定していた。ところが、中にATMは1台しかない。普通の店舗外ATM小屋に入るのと同じ感じでドアを開けると、中にもう1枚同じようなドアがある。最初のドアはガチャと音のするドア。施錠することが可能なようで、営業しない時間はロックしているのだろう。そこを入ると、内側にもう1枚ドアがあって、これは単に蝶番が付いているだけのドア。つまり、ATMで取引をする部屋の外は、風除室になっているのである。ATM小屋としては、この風除室の部分さえなければ、普通の1台分の店舗外ATMと同じ大きさの小屋。その入口のところに、同じような体裁のガワが付いている。
 これは、寒冷地だからというより、秋田銀が相当に金をかけている。以前、青森市内でみち銀の店舗外ATM小屋を使ったことがあるが、関東地区と変わらない装備で、もちろん風除室などもなかった。念のため、青森市はかなりの豪雪地帯である。

 駅の建物に入った。現在時刻は11時45分、列車が出るまでまだ1時間近くもある。この時間を秋田で使えればよかったのに。能代から東能代方面へのダイヤは、2時間も間が開くかと思えば、時間によっては20分後に続けて出ることもある。何でこんなダイヤに、と思うけれども、パターンダイヤにもできないのだろう。
 ツイッターでもやりながら時間をつぶそうか。それから、新聞も読まなければならない。売店で日本経済新聞を買った。この駅には、JR東日本の駅内コンビニ「ニューデイズ」ではなく、駅売店の「キオスク」がある。代金はスイカで、と言ったら「すみません、スイカ使えないんです」と言われてしまった。その後、入口横の自動販売機はICカード対応だったから、缶コーヒーはスイカで買った。
 駅入口のドアを入ったところにある改札前の待合室で、椅子に腰掛けて今日の朝刊を読む。改札にはドアが付いていて、さらに待合室の横にある切符売り場も、入口横の売店も、ドアを通って出入りする形になっている。だから、能代駅は駅内どの施設もドア・ドア・ドアで仕切られている。それだけ冷たい空気が吹き抜けるのであろう。
 「ナビタ」の地図がある。地図は2014年1月現在で更新されているが、枠がだいぶサビサビになってきている。能代市の市名は能面の能に代と書いてノシロと読むが、それとは別に「ぬしろ」という地名や屋号が市内に結構存在する。渟代(ぬしろ)は『日本書紀』にも出てくる古名で、米代川にも関係のある地名だという。「渟城」という表記もあり、この場合は「テイジョウ」と読むそうだ。
 ナビタの地図の隣には、《もうチェックした?》というポスターが貼ってあった。最低賃金をアピールする県のポスターである。秋田県の最低賃金は、679円だそうだ【注】。他人様に1時間拘束されて報酬が700円に満たない仕事は、私には到底できそうにない。しかも、それすら守らない企業があるからこうやって告知しているのだ。一瞬絶句してしまった。

 今いる改札前の待合室とは別に、横にもう一つ待合室があって、そちらは暖房をガンガンかけている。8人ぐらいの客が列車を待っているが、たぶん私と同じ東能代行き12:38発。まさか、13:06発の岩館行きを待っているわけではないと思う。改札前の待合室はノー暖房のようだが、私は今さほど寒さを感じないので、隣の待合室には入らない。
 私が暖房のない待合室で寒さをあまり感じない理由は、衣服がそれなりに重装備だからだと思う。Tシャツの上にタートルネックを着て、長袖のシャツはちゃんと第一ボタンまで締めている。靴下は普段履いている3足1000円の安物ではなくて、ボア付きの厚手のものを履いている。モケモケの付いたかさばる靴下を履くと、靴の中でズルズル動くことがないようで、靴ずれの患部に貼った絆創膏がズレずにそのまま貼られた状態で残っている。靴ずれの傷口はいま少々痛みがあるが、塗り薬の効き目が切れたせいだと思う。でも、一昨日みたいに痛さに悩まされることはないので良かった。

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 【注】2015.10.17から695円。
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2016年04月15日

2015.01.16(金)(11)能代支店を制覇

 NTTの鉄塔が前方に見えるあたりで、大間越街道は斜めに右カーブすると同時に、ゆるい下り坂になっている。真っすぐな下り坂にすると、勾配がきつくなるからだろう。地図で見ると、米代川は大館市から能代市までJRの線路(奥羽本線と五能線)に沿うように流れているが、東能代駅と能代駅の間で大きく「ひ」の字形にうねっている。能代駅から大間越街道に向けては上り坂だったし、大間越街道も南から北に向かって標高が下がっているから、河岸段丘になっているのがわかる。
 前方はるか彼方に、コンビニのサンクスが出ている。移転前の秋田銀能代支店は、1898(明治31)年以来、このサンクスの場所にあった。サンクス手前の信号で左に入ると能代郵便局と能代市役所。その1本北の信号近くに、能代のバスターミナルに相当する〔能代バスステーション〕がある。いちおうバスの案内所などがあるようだが、ほとんど「単なるバス停」である。今日はそこまでは行かないけれども。
 下り坂と右カーブが同時に終わった左側に、羽後信用金庫の能代支店がある。建物は1963年11月の築。正面から見るとごく普通の2階建ての信用金庫の支店だが、奥に3階建て部分を建て増しており、ウナギの寝床形のかなり大きな建物である。「羽後信用金庫」の看板だけは新しい。この信金の本店は、遠く離れた県南部の由利本荘市にある。能代支店はもともと能代信用金庫の本店だったが、1995年5月に経営危機に陥り、大曲市(現大仙市)の大曲信用金庫に救済合併されて秋田ふれあい信用金庫となった。さらに2009年7月羽後信金に合併して現在に至っている。羽後信金の店舗網は合併後も本荘や大曲など県南地区が中心で、秋田市には1店舗も持たないため、能代市と南隣の三種町は営業エリアとしては大きく離れた飛び地になっている。
 右側にある武田桔梗屋という和菓子店は、翁飴というものを製造しているらしい。創業文禄元年、と大きく書いてあるから、豊臣秀吉が朝鮮に兵を送った時代の創業ということになる。老舗菓子店の目の前にあるのが〔横町角〕というバスの停留所。本数は結構あるようだし、ほとんどのバスが東能代駅近くまで行く。時刻表を見ると、東能代経由母体行きというバスがあった。〔母体〕とはまた破壊力のある行先である【注1】。新潟県に胎内市というのがあるが、母親に関する単語は地名になりやすいのだろうか。この地域の路線バスは、大館市に本社を置く秋北バスという会社が担っている。白地に黄緑色のくさびの入った車体色は、東京の城北地区やさいたま市周辺を走る国際興業バスと同じ。最近離脱したようだが、秋北バスは昭和30年代から国際興業の系列会社であった。ここまで来ると、小田急バスと親密な秋田中央交通のエリアからは離れてしまっている。

 そして、青森銀行とみちのく銀行が並んでいる。和菓子屋の北隣が、本日初めて遭遇する青森銀行。青銀の能代支店は1929年6月の出店で、もう90年近い歴史がある。その1軒置いて北側が、目指すみちのく銀行の能代支店であった。信用金庫の真向かいである。
 みち銀の支店の裏は、特に駐車場とは書いてないけれども、10台ぐらい停められる駐車場になっている。建物に《落雪あり、頭上注意》という文字が見えるあたりに雪国を感じた。建物はかなり傷んでいるようで、窓に取り付けてある鉄格子の取り付け部分からサビが滴り落ちていたりする。青森県に本店を置くみちのく銀行にとって、秋田県の店は“県外店舗”であるから、簡単に建て替えるわけにもいかないのだろう。建物の老朽化にいよいよ耐えられなくなったら、岩手県の二戸支店のように近所の空きビルに入居するのかもしれない。あるいは、最悪の場合はそのまま店をたたんでしまうのか。そうあって欲しくはないのだけれども。
 窓口室に入ってみた。番号札発行機が2台も置いてあったが、今日のこの街の様子からは少し過剰設備かもしれないと思えた。もっとも、私も冬の午前中に来ているだけで、この店の実情を熟知しているわけではない。客が来るときには押し寄せてくるのかもしれない。
 以前りそなの「めぐ記」で触れたことがある窓口文庫が、ここにもある。2台の書棚に《貸し出しもしておりますのでご利用ください》と表示されている。普通にホームセンターで売っていそうな書棚だが、本は結構ぎっしり入っている。映像化作品とか経済金融とか実用とかのジャンル分けがなされており、芥川龍之介全集のうち1冊だけがあったり、「経済金融」のコーナーには銀行貸し付けの実態とかいった本が置かれていた。みちのく銀行の初代頭取だった唐牛敏世氏の伝記が複数冊あったのが印象的だった【注2】。私はこの本をネットの古本屋で買って読んだが、自分が金を出して買ったのと同じ本が棚に複数冊置かれているのは、複雑なものを感じた。
 キャッシュコーナーに入る。機械の上部にはみち銀の標準的な行灯表示が付いていて、機械2台分の枠に沖電気バンキットが2台入っている。みちのく銀行の生体認証は親指方式で、2台とも親指の読み取り装置が付いている。みち銀はATMに通帳繰越の機能も付けているが、それは右側の機械だけであった。ATMを操作する。11:19、能代支店を制覇した。

 能代支店は、1951年6月に弘前無尽(株)の能代会場として営業を開始した。無尽会社とは相互銀行の前身で、無尽講をなりわいとして営む会社である。「会場」とは、無尽講の抽選を行うためのもの。弘前無尽はこの年、本社のある青森県弘前市に近い秋田県北部の2市3郡【注3】を新たに営業区域としており、能代を含め計5会場【注4】を同時に開設している。複数の相互銀行社史を眺めての印象だが、無尽講の抽選会場というのは単に貸店舗か会議室を借りていただけで、社員が常駐する「拠点」ではなかったと思われる。
 能代会場は、弘前無尽が弘前相互銀行に転換した1951年の翌年、1952年3月に業務取次所に昇格、さらに1953年8月能代支店に昇格した。現在の店舗は1963年12月、向かいの信金とほぼ同じ頃に新築されたもので、それより以前は能代市大町9番地、広告などでは能代市役所の向かいにあったことになっているが、調べてみると市役所よりもう少し西側、現在小料理店となっているところが跡地のようだ。

 次の目標は、大館支店である。秋田県北東端の大館市へは、五能線で東能代へ戻り、そこから再び奥羽本線の人となる。
 能代12:38発なので、時間の余裕は1時間以上ある。今回は東北地区にある銀行の通帳を複数持ってきているから、青森銀と秋田銀・北都銀ぐらいは通帳の記入を済ませておこう。荘内銀が秋田で記帳できなかったのは痛いが、まあ1行ぐらいは仕方がないか。
 みち銀の隣にある青森銀行の能代支店をのぞいてみた。ATMが1台しかないが、能代ではみち銀の方が稼いでいるのだろうか。ちょっと不思議に感じた。というのは、青銀では窓口室の自動ドアをうっかり開けてしまったのだが、そこで「いらっしゃいませ」の声がすぐにかかったからである。みちのく銀行は、他の支店に行っても感じることだが、そういったホスピタリティはやや欠けるきらいがある。

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 【注1】「もたい」と読むようだ。
 【注2】唐牛敏世(かろうじ・びんせい)氏:弘前相互銀行社長、みちのく銀行初代頭取。1879(明治12)年8月15日生、青森県黒石市出身。1903年明治法律学校夜間部中退。1924(大正13)年6月弘前無尽設立、支配人。1925年10月取締役、1926年7月専務取締役、1933年1月代表取締役専務、1940年10月社長。1951年10月弘前相互銀行社長、1976年10月みちのく銀行頭取。1979年1月19日死去。伝記の本は、佐藤正忠『人生太く永く』経済界、1980年。
 【注3】大館市・能代市と山本郡・北秋田郡・鹿角郡。
 【注4】大館・鷹巣・能代・扇田・米内沢。
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2016年04月14日

2015.01.16(金)(10)面白さと意気込みと遊び心と

 東能代から4分ほどの乗車で、能代駅に到着した。列車は県境を越えて青森県の深浦まで行くが、私はここ能代で降りる。
 能代駅も、いわゆる国鉄型の配線だけれども、3番線の側は柵でふさいでおり、ホームは2番線までとしている。3番線の先に広大な鉄道用地が広がっているが、もう使われることはないのだろう。
 1番ホームに降り立つと、私を乗せてきた深浦行きが駅を出ていった。東能代を出た時15人ぐらい乗っていたのに、ほとんどが能代で降りてしまい、さらに先へ行く客は2人ぐらいしかいない。でも、数えていないが、能代駅から10人ぐらいは乗ったようだ。列車が行ってしまうと、能代駅には一気に静寂が漂った。秋田県は「バスケット王国」なのだそうで、とりわけ能代工業高校が強豪として知られているらしい。能代市としてもバスケットボールをベースにした街づくりを1981年から市の事業として行っている。それを反映して、改札の手前にはホームの上屋にバスケのゴールが付けてある。もちろん単なる飾りなのだが、ちょうどぶら下がりたくなる高さで取り付けられている。《ぶら下がらないでください》と書いてあるが、そんなことを書くぐらいなら、わざわざこんなの付けるなよ、と思った。
 能代駅から先へ行く列車は、普通列車が1日7本。それとは別に、観光列車の「リゾートしらかみ」が2本ある。普通列車が7本あるのはローカル線としては意外に多いと思えるが、7本のうち3本は秋田県内の岩館止まりで、青森県側まで直通する列車は1日4本しかない。ただ、ここは観光列車があるだけ、たとえば三江線(広島・島根県)など他の経営深刻なローカル線と比べるとマシな状況のようだ。

 さあ、みち銀の制覇に向かおう。能代駅の西側を走る目抜き通りに出て、北上したところにある。
 駅前広場は、出る列車の本数の割に広いと感じた。使わないところは、例によって除雪した雪が積み上げられている。駅前広場は単に舗装しているだけだと思う。そこに、コンクリの土台をつけたポールを置いてみるとか、あとは除雪の状況などで、何となくうまいことロータリーのようにしている。地面が結構濡れているが、昨日今日で気温が高かったようだから、雪が解けているのだろう。そこに、タクシーが3台ぐらい停まっている。駅前広場の西1/3は芝生と樹木のスペースで、松原をモチーフに松の木を植え、なまはげのモニュメントを置いている。
 駅前広場に面したところは、商店建築ばかりである。広場北側にある店先のシャッターには、某テレビアニメのキャラに似た、赤いジャケットを着た男の絵が描いてあり、そこに《CLOSE》の文字があしらってあった。空き店舗を借りる人がいないのは解っていると見えて、入居者募集中などの掲示すら出ていない。営業している店は、整骨院、食堂が1軒、旅行会社、クリーニング、薬屋ぐらいであった。地元では「バスケの町」を売り込みたいようだが、ご多分にもれず寂しい駅前である。
 駅前の交差点までは、少し上り坂になっている。交差点の名前は文字どおり「駅前」であった。駅前通りは、片側2車線ある目抜き通りと交差している。県道205号富根能代線といい、大間越街道という別名が付いている。この県道がかつての街道筋で、県道から坂を下りた海寄りを国道101号が平行に走っており、市街地の北で県道と合流している。角には大栄百貨店という3階建ての建物が建っているが、今となってはどう見ても百貨店ではない。大きなキヤノンのロゴが付いているが、今はキヤノン製品を扱っているわけではなく、街づくりNPOが借りて、何やら地域住民が何となく集まることのできる場所になっている。角にはほかに個人経営の電器屋と、銀行建築の空き家。夜間金庫の投入口が残った3階建ての茶色い銀行ビルは、2004年11月まで営業していた、秋田ふれあい信用金庫能代駅前支店であった。
 大通りの西側、角から2軒目にある北都銀行は、能代駅前支店である(旧秋田あけぼの銀能代支店)。北都銀の能代支店(旧羽後銀)は、この大通りから横にそれて坂を降りたイオン能代店の中にある。北都銀の向かい側は能代駅前郵便局。郵便局のもう少し北には、つい最近まで秋田銀の能代駅前支店があった。秋田銀は2013年11月に能代市内の店舗網を再編した。坂下のイオンSC北側に大駐車場完備の店舗を新築し、廃止店だけでなく存続店舗となる能代支店も移転している。最近の地方銀行の支店統廃合では、こうした大駐車場を前提の移転を伴うものが典型的である。秋銀能代支店は、これにより預貸金ベースで同行最大の支店となった【注】。

 左右に付いた歩道は、センターラインを引いたらそのまま対面2車線の道路になりそうなほど広い。能代市は戦後に2回の大火を経験しており、そのうち1956年大火の復興プロセスで目抜き通りを30m幅に拡大した。そこに商店建築がズラッと並んでいる。道の西側には棟割長屋が多いようだが、営業している店はほとんどない。美容院と花屋ぐらいだろうか。ただ、クローズした店でも、シャッターにイラストが描いてある店舗が多いところに少し感心した。閉め切ったシャッターのイラストは、遊び心と、シャッターストリートになっても負けないという意気込みが感じられる。なお、商店街がアーケード街ではないのは、2006年に撤去となったためである。
 能代市内は車の通りもほとんどなく、静かなものであった。広い道ゆえ、歩道には「横断禁止」「わたるな」と道路標識が付いているが、この交通量からすれば必要ないと思われる。歩道には、秋田県章を描いた四角いマンホールがあって「融雪」の文字が見える。県道ゆえ県の施設として融雪がある。路面が茶色くないから、これはロードヒーティングだろう。水を撒いているとしたら、新潟県長岡市などに見られるように、パイプの錆の成分が道路の表面に付いて真茶色になるハズだ。おそらく、水を撒く方式の消雪装置では、寒過ぎて凍結してしまうのだと思う。
 店の東半分を屋根つきの専用駐車場とした、渋い感じの喫茶店がある。この「ウィーン」という名曲喫茶は、1977年12月に新築オープンし、毎日10:00から22:30まで営業していたのだったが、廃業して随分経つようだ。その隣の毛糸屋さんは営業しているらしい。県道沿いの商店街は、つぶして駐車場にしてしまった店もなくはないが、基本的には商店建築が残っている。とはいえ、何とか無線とか、海産物とか、薬局といった業種が多くて、肉屋・八百屋・魚屋など毎日の生活で買い出しに行く店はない。そういう機能は坂の下のイオンに取られてしまったのだろう。ただ、教科書販売店になっている町の中心的な書店が営業しているから、だいぶ寂しくなったとはいえ能代市は文化的なことは維持されているようだ。
 「バスケミュージアム」なるもののある柳町入口の交差点は、道が左に斜めに分かれていて、その先は下り坂になっている。今日は行かないけれども、この「たっぺの坂」の下には、左右に雁木みたいな形のアーケード街が続き、その先にイオンのショッキングピンクの大看板が見える。前述のとおり、あのイオンの周辺に地元2行の能代支店が置かれている。現在ではここが能代の旧市街で最も賑わっている道のようだが、現時点では車通りも人通りも、視界に入る「動き」自体がほとんどない。はるか彼方で風力発電のプロペラがゆっくり回っているのが坂の上から見えるぐらいであった。

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 【注】総預金1030億円、総貸出金326億円。なお「同行最大」は本店営業部・県庁支店・東京支店を除く(2013.11.24現在)。
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2016年04月13日

2015.01.16(金)(9)五能線に乗り換えて能代へ

 みち銀秋田県内全店制覇の旅を続けよう。
 鹿渡駅を出ると、山が再び遠景に遠ざかり、水田地帯に戻った。ただ、八郎潟駅あたりのように見渡す限りの水田地帯というわけではない。地形は結構起伏の差があるようで、水田地帯・住宅地・防風林という感じに分かれている。かなり大きなため池が複数目につく。ベッタリと一面みぞれのようなグレーの地面と思えるが、水が溜まったところに雪が積もったのか。あとは小さな山体の繰り返し。ある意味単調な風景である。そこへ、右の車窓にリンゴの果樹園が見えた。リンゴ栽培など行う土地が出始めた、ということはだいぶ気候が寒冷になってきたのだろう。
 森岳駅舎に付いている「森岳温泉郷」の行灯広告には温泉旅館ごとのスペース4軒分あるが、そのうち一つが削ってあるところに悲しさを感じた。ここ森岳はジュンサイといで湯の里だという。ジュンサイは水草の一種で、ヌメッとした独特の食感が特徴である。三種町は日本一の収穫量だそうで、あのため池はジュンサイのためだったようだ。
 国鉄型配線の森岳駅からまた単線になり、水田地帯が続く。田んぼの真ん中に何やら作業用車両が止まっている。赤く塗った民間の作業車両であったが、客土でもやっているのだろうか。相変わらず水田地帯と小さな山の間とを縫って走る状態が続いている。山の部分は利用されておらず、防風林になっているだけ。木が生えてないところには雪が積もっている。北金岡駅も西側は防風林である。このあたり、全く同じパターンの繰り返しで、秋田だけに正直ちょっと飽きた感じがした。なんて戯言をたたいていたら、私が降りる東能代はもう次の駅であった。車窓の風景は基本的には何も変わっていない。山体を縫って走る線路。小さな山と山の間には、平らな土地に水田(とその痕跡)、そしてジュンサイの池だと思うが、所々にみられる農業用ため池のような水面。
 線路が大きく右にカーブを始めた。いよいよ東能代に到達するのだろう。と思ったところで、線路が一瞬だけ複線になるが、そこは信号所であった。単線区間の途中、駅でないところで列車の行き違いをするためのものである。
 1本の高架道路をくぐった途端、右も左も見渡す限りの水田地帯になった。左の車窓のはるか彼方に、百均やカーディーラー、カメラ店をはじめ、ロードサイド型の店舗がまとめてドカンと建っているのが見える。高架道路をもう1本くぐって越えた。自宅での下調べで見た地図の記憶によれば、さっきのロードサイド店舗はこの道沿いにあるようだ。能代市の中心部に向かう道なのだろう。
 そう思っていると、列車は防風林の横をすり抜け、住宅地の脇を通る。寺があるところからして、古い集落なのであろう。左の方から、線路が1本近付いてきた。架線が引いてあるけれども、あれはこの駅から分岐するJR五能線で、架線はたぶんすぐそこまでしかないのと思われる。もう東能代駅の構内ということである。キハ40型ディーゼル車が1両停まっていて、私はたぶんあれに乗ることになるのだと思った。

 私を乗せた奥羽本線の普通列車は、定刻10:45に東能代に到着した。ここで五能線に乗り換え、東能代から1駅だけ、能代駅まで移動する。
 能代市の“玄関”となるのは五能線の能代駅で、奥羽本線は能代市街地の東方にある東能代駅に南から進入し、そのまま青森県を目指して東の方向に離れていってしまう。米代川の河口に広がる能代は、“木都”と呼ばれるほどの木材の産地として、奥羽本線も無視できないほどの重要な町だったが、本線は市街地を遠く離れた東側にしか通せなかった。奥羽線と中心市街地とを結ぶ目的で1908(明治41)年に支線が引かれたのが五能線の始まりで、青森県五所川原市まで通じたのはその後の話である。というわけで、東能代から能代にかけての五能線沿いが、能代の市街地ということになっている。東能代〜能代間は、五能線としては輸送量の多い区間で、1駅だけの区間運転列車が結構頻繁に出ている。
 さて、この駅は結構な重要拠点のハズだけれども、配線は普通の国鉄型で、旅客ホーム自体は3番線までしかない。ただ、3番線の向こうに10線ぐらいのヤードが広がっているし、転車台も機関庫も見える。やはり相当大規模な駅なのである。いま、この3つのホーム全部に列車が停まっている。ついさっき1番線に秋田方面の上り普通列車が入ってきた。2番線は私が乗ってきた大館行き。そして3番線が、目指す五能線である。
 私が乗る列車は、10:54発の深浦行きである。列車はもうホームに入っていた。白地に青線の入ったキハ40型気動車の2両編成。さっき車窓から見かけたのとは別の車両である。発車までまだ10分ぐらいあるが、すでにエンジンをかけてスタンバイしている。運転席にはJRの制服を着た人が3人もいる。研修でもやるのかと思っていたら、結局ワンマン列車は1人だけで乗務するようで、JR社員は1人を除きみんな降りて行った。
 ボックスシートに腰を下ろした。五能線のキハ40は、内装は標準的なクリーム色だが、座席のモケットは張り替えてある。海軍ブルー・紫・カーキ・白緑の4色が点々になっている模様で、全体としては緑色に見える。
 右の車窓、つまり北側には、雪をよけるための柵がダーッと広がっているのが見える。フェンスではなく昔ながらのむしろであるのに風情を感じた。能代だからだろうか。その向こうで何か燃やしているが、あれは一体何だろう。能代は材木の町だから、製材所のガラだろうか。後で調べてみたが、あの煙は工業団地内にある工場から出ているようで、やはり木屑を燃やしているのだと思われる。

 発車間際に女子大生らしき女性が乗り込んできたが、この人もまた美人であった。秋田県全土に美人がいると感じる。今日私が遭遇した女性は、一人ひとり美人だった。人はそれぞれみな美しい、とかいう抽象的な話ではなくて、物理的に一人一人が美人だったのである。私のストライクゾーンが広いだけかもしれないが。10:54、五能線の深浦行きは、定刻に東能代駅を発車した。
 五能線は東能代駅から西の方角に出ているから、今まで来た道を逆の方向に進むことになる。前の車両に自分を入れて11人、後ろの車両に4人を乗せた2両編成の列車は、防風林に沿って進み、右にカーブしていく。奥羽本線の線路が左の方に分かれていった。駅の構内としてしばらく架線が続いているようだったが、すぐに途切れて非電化になった。
 雲が垂れ込めているけれども、隙間から日光が射してきていて、現在のところいい天気である。東能代からの五能線は、基本的には奥羽線で今まで見た車窓風景とあまり変わらないけれども、ここはただ住宅地というわけではなく、工場が結構多い。右を見ていると、製材所というのか、材木の加工工場が目立つ。屋根のてっぺんに排気口を付けた建物には、仕上げた木材がまとめて立てかけてあったりする。それが途切れて、ようやく純住宅地になってきた。左の車窓には、広大な原野か水田が広がり、その彼方に道路沿いのロードサイド型店舗が多少みられる。ローカル線、それも割合に人家が密集している地域の典型的な車窓風景と言えると思う。能代市のあたりまで来ると、そろそろ家の中に暖炉などがあるとみえて、煙突のついた民家が若干見られるようになってきた。廃木材が豊富にあるせいかもしれないが、徐々に北海道に近づいていると感じた。
 市の中心部は民家が建ち並んでいて、崩れかけた家もあったりする。たまに巨大な鉄筋コンクリートの新しい建物があったりすると、老人介護福祉施設だったりする。ご多分にもれず、能代市も高齢化が進んでいるのだろう。能代駅が近づき、列車が減速を始めると、左手に能代市公設小売市場というのが見えた。右手には個人経営らしき賃貸アパートが10棟近く並んでいるが、かなり個性的な風貌をしている。そのうちの一部は、ベージュ色と山吹色みたいな黄色のツートンカラーで、間に黒の線を1本引いた、阪神タイガースみたいな塗り分けであった。違う色の棟もある。ここの地主さんは何を考えてこんなにたくさんアパートを建てたのだろうか、と思った。

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2016年04月12日

2015.01.16(金)(8)橋本五郎文庫のこと

 鯉川・鹿渡両駅の横断幕で知った「橋本五郎文庫」がどんなものであるのか、後日この目で確認してきた。図書館司書資格保持者の私としては、関心を持たないわけにはいかない。2015年もあと10日余りで終わろうという、年末の日曜日のことである。
 橋本五郎文庫は、読売新聞東京本社の特別編集委員をしている橋本五郎氏が、母校である三種町立鯉川小学校の統廃合をきっかけに、自身の蔵書のうち2万冊余りを寄贈し、それを鯉川の地域住民が整理して小学校跡にできた図書館である。閉校2年後の2011年4月に開館し、今年(2016年)に満5周年となった。毎週水・土・日曜日の10:00〜16:00で開館している。
 鯉川駅東側の駅前広場から線路沿いの道を北に進む。緩い坂を下がって上がってまた下がり、五差路を右に曲がってさらに坂を下りたところが、橋本五郎文庫のある旧鯉川小学校である。公称では駅から徒歩15分だが、私の足なら10分強で到達する。
 玄関を入ると、図書館というよりどこかの小学校を訪ねたような空間が広がっている。スリッパに履き替えて一番奥の部屋へ。通常の教室2つ分ぐらいの大部屋に、橋本氏から贈られた2万冊を超える本が並べられている。2万冊という蔵書は、東京23区内でいうと地域分館よりも小さな「まちかど図書室」ぐらいの規模だが、個人の蔵書がベースと考えると途方もなく大規模に感じられる。
 書架は私の鼻の下ぐらいまでと低く、棚の間の通路を結構広めに取っているから、かなり贅沢な空間の使い方である。部屋の一番奥には、「橋本五郎記念文庫」と書いた毛筆が額に入れて飾ってある。これは中曽根康弘元首相が揮毫したもので、玄関脇に掲げられた表札の原本である。中曽根元首相は橋本氏が政治記者として特に懇意にしていたということだが、中曽根氏が表札を揮毫した点で、橋本五郎文庫はJRの青函トンネルと肩を並べたことになる。
 手前の展示コーナーに目を転ずると、「橋本五郎コーナー」という特設展示は、本人の広い交友関係を誇るものになっている。建築家の安藤忠雄氏に関するものが最も大きく取り上げられていた。橋本氏とのツーショットを含めさまざまな安藤氏関係の写真に、A3判の紙に書かれた安藤氏からのメッセージが添えられていた。「橋本文庫いかがですか」と書いてあるから、この文庫は橋本五郎氏本人にとっても思い入れがあり、会う人会う人に語って聞かせていることがわかる。それから、日本テレビの番組『ズームインSuper』に出演していた頃の写真パネル。日テレの男女アナウンサーと一緒に写っている。その他、読売で書評委員を長年やっているから、作家から届いた複数の手紙も展示してある。
 また、「橋本五郎書評展」というものをやっている。橋本氏が書評した本と、その書評記事。本には橋本氏自身により付箋が付き、また赤鉛筆で線が引いてあるが、それがわかる形でページを開いて展示している【注1】。「橋本五郎文庫開設記念特別企画コーナー」とあるから、2011年のオープン時からずっと展示されているのだろう。
 東日本大震災、原発エネルギーに関する本の特別展示コーナーもあった。《この展示本はすべて橋本五郎さんから寄贈されたものです》と但書が付いている。明らかに3.11以後に出たとわかる本ばかりだが、ここに寄付するために買ったわけでもなさそうだ。自分が買って読んだものを送ってきたのではないか。

 さて、他人の蔵書を見るというのは、その人の脳内をのぞき見るような、ある意味背徳的な楽しさがある。橋本氏は、言ってみれば自分の思考プロセスをそっくり公表しているのと同じであり、こういう大胆なことは私には到底できないと思った。
 部屋の一番奥、大勲位氏の揮毫の下を起点に、順不同で見ていくことにした。本の1/3ぐらいは歴史とか文学の本であった。『岩波講座世界歴史』全31巻のような歴史全集がラインナップに上がる中、山川出版社の『詳説日本史』のような教科書や、同じく山川の『秋田県の歴史』もある。『新居町史』があった。静岡県の新居町(現湖西市)である。橋本氏は初任地が浜松だったから、取材上の必要があって買ったのだろうか。
 文学ジャンルでは、世界文学全集、日本文学全集、芥川龍之介全集などがずらりと並び、単行本では著者・渡辺淳一氏のサインが入った『愛の流刑地』上・下(幻冬舎)もある。アイルケは2006年の刊行だから、そんなに古い本ではない。展示コーナーも含め結構新しい本が入っているが、このあたりは自身ではもう読まないのだろうか。あれが読みたい、となった時にわざわざ秋田まで取りに来るわけでもないだろう。なお、橋本氏の読書について「幅の広さ」を感じたのは、フランス書院文庫が棚に入っているのを発見した時だった。館淳一『女教師・露出授業』が1冊あるだけだったが、こういうジャンルの本まで買って持っていたのは凄いと思ったし、寄贈する際にもよく除外しなかったものである。
 NDC(日本十進分類法)で300番台、「社会」の棚を見ると、さすが自分の仕事にかかわるジャーナリズム関係の本が多い。本多勝一『戦場の村』(朝日新聞社)が入っていた。本多氏は左派のジャーナリストであり、橋本氏が左右を問わず多種多彩な本を読んで見識を広げている様子がうかがえる。また、新書本をかなりたくさん買っており、ジャーナリストは関心の幅が広いのだなと思う。橋本氏の考えとして、新聞記者は非常に傲慢な職業であるそうだ。他人が何十年と積み重ねてきたことを、1日か2日取材しただけで批判するからである。その人の数十年を自分の今の数日で追体験するには、普段から徹底的に勉強しておかねばならず、それは本を読んで謙虚に学ぶしかないのだという【注2】。私もかつてジャーナリスト志望だっただけに肯ける言説であるし、橋本氏が言行一致していることもこれでわかる。
 「法律」と書いてある棚は、全集ものを除けば半分ぐらいが憲法関係であった。芦部信喜『憲法』(岩波書店)をはじめ、日本国憲法関係の有名な本は一通り揃っているようだ。読売新聞は1994年に「憲法改正試案」を発表したが、橋本氏はその作成に携わっていた。この改憲案は左右双方の陣営から批判されたため、不測の事態に備えて警察による自宅の警備まで行われたという【注3】。日本国憲法についての考え方には相当に個人差があるが、それを論ずる前提は正しい現実認識と事実認識であって、その根本に読書があることは間違いないのだろう。書架一つ「憲法」という文字で埋め尽くされるほどに文献を読み込んで、橋本氏は改憲案を作成したということである【注4】。
 政治記者だっただけに、憲法関係以外の政治関係の本も相当な比重を占めている。立花隆『田中角栄研究』(講談社)が入っている。牧太郎『中曽根政権1806日』など、行政問題研究所というところが出している「なんとか政権何百日」という種類の本が、終戦直後の芦田政権から始まって竹下・宮沢あたりまでズラッと並んでいる。蔵書の感じからすると、このシリーズの本は最近出ていないか、仕事で使うため新しい号を手元に残しているか、どちらかであろう【注5】。立花隆氏の『田中角栄研究』は私も読んだことがあるが、こういう棚を見ているときに、自分が読んだ本、持っている本が入っていると、親しみを覚えるものである。
 地理分野の本は少なく、ほとんど印象に残らなかった。橋本氏は地理にはあまり関心がなかったようだ。『世界で一番おもしろい地図帳』というコンビニで売っていた本(青春出版社)が目立ったぐらいである。
 藪本雅子『女子アナ失格』(新潮社)があった。日本テレビ関係者の本だが、本人のサインはない。書評委員ゆえ、新しく出た本は献呈されることが多いのだが、といって「必ず」献呈されるわけでもないだろうから、自腹で買ったのではないか。こういった「タレント本」の類も蔵書には含まれているのだが、見たところ読売・日テレ系の著者に限られているようだ。
 なお、蔵書の背表紙に貼られているNDC分類のシールが、下1桁すべて「0」になっていたことは記しておきたい。3桁の数字で構成されるNDCの分類が、上2桁だけで行われたということである。図書館の蔵書整理などしたこともない地域の人たちがゼロから取り組むものとして、3桁での整理はいささか荷が重かったのであろう。苦労がしのばれる。

 2階は、鯉川小学校の卒業文集や卒業アルバムを集めた部屋があるほか、「第二橋本五郎文庫」と称して、有名無名を問わず橋本氏以外の人から寄贈された本を並べている。教室一つを子供向けの本と漫画本とで埋め尽くした部屋や、全集本で埋め尽くした部屋があるが、おおむね、1階は橋本氏、2階はそれ以外、となっているようだ。児童向けの本は、旧鯉川小学校図書室の蔵書であった。図工室だったらしい全集本の部屋には、交通公社の時刻表復刻版があり、また角川書店の『日本地名大辞典』がズラッと並んで、橋本氏の地理分野への関心の薄さを補っていた。これらのほか、発掘した土器の保管に使っている部屋があった。会議室として使われている教室もある。旧小学校は三種町の施設として「みたね鯉川地区交流センター」という名前が付いており、橋本五郎文庫以外の用途で使用しているスペースもあるのであった。
 ある教室のドアに、2階平面図が貼ってあった。これは学校時代のものらしく、「避難コース」というタイトルになっている。平面図の教室の並びは、端から1・2年、4年2組、3年、わくわくルーム、4・5年、なかよしルーム、6年、という順番。1・2年と4・5年が一緒のクラス、4年生だけは2クラスで、しかもそのうち片方だけが複式学級のようである。クラスごとの人数をバランスさせるためこういう構成になったと想像するが、4年生は4年生だけにした方がスムーズではないのだろうか。最後の年には全校で19人しか児童がいなかったというから、学校運営も厳しかったのだろうと思う。鯉川小学校は1983年に新築している。経済効率という点からは、建て替えを検討した1970年代の後半に断念しておいた方が良かったのではないか【注6】、などと考えてしまいがちだが、学校は地域住民の思いが入りやすい施設で、ドラスチックなことはできないようである。

 一通り見終わったところで、スタッフが事務所に招いてお茶を振る舞って下さった。
 利用客は私が帰る寸前になって1人来たけれども、入館した時点では誰もいなかった。普段は来館者にコーヒーを淹れたりしているらしいが、今日はその担当者もいない。なぜかというと、今日はテレビで高校女子駅伝を放送しているからだという。集客力がテレビに負けていると言えなくもないが、まあ図書館は他所から集客するのも難しいし、また本を読む習慣がないとなかなか利用もできないものである。開館して5年が経ち、それなりに落ち着いてしまったのだろう。なお、週3回の開館日のうち比較的人出が多いのは、土曜日だそうである。
 「落ち着いてしまった」とは言うものの、新しい本は結構入ってきている。読売で書評委員をしている橋本氏のところには、本の献呈が現在も大量にあり、定期的にそれをまとめて送ってきているのだという。だから、新しい本が今も増え続けている。そうか、それで3.11以後の本が結構あったのか。
 ところで、橋本五郎文庫はこれから先どうなるのだろうか。現在のところ、担い手は橋本氏の同級生や後輩をはじめ、リタイアした60歳以上の人が多い。今の運営委員会の人がいなくなった後、図書館をどのように運営していくかという後継者問題が控えているように思う。橋本五郎文庫と、それがある鯉川集落とで、目指すものがそれぞれ微妙に違うだろうし、地域の人口動向を考えると、この図書館を「鯉川で」と言った時点で話が詰んでしまうのである。
 純粋に図書館だけを念頭に置いて考えると、今のままでは蔵書が使いづらいと思う。橋本氏の寄贈本とそれ以外の人からの本は、交ぜて提供した方がよいが、館のアイデンティティとして橋本氏からの寄贈本を主体とした形態は維持した方がよいと思う。そのためには、橋本氏からの本はシールを貼る等の形で区別しておくべきだし、さらに橋本氏提供本も開館時の「最初の二万冊」と、その後届いた本とが区別できるようにしたい(データベース上で区別しておくのは無論である)。また、他者寄贈本も同列に扱うためには、こちらもNDCの分類を行って排架しておかなくてはならない。橋本氏寄贈分も、NDC分類が現状上2桁でしかなされていないけれども、再整理して3桁にしておくべきだろう。法律の棚で憲法・民法・刑法が混ざって排架されているのは、あまり美しくないと思う。また、著者からのサイン本については、どの本に誰のサインが記されているのかチェックして、データベースに加えておきたい。さらに、郷土資料の収集も欠かせない。すでに学校文集や教育委員会文集などかなりのストックがあるようだから、新しく収集することを考えるよりも、まずは「今持っているもの」を全てリスト化することが先決だろう。郷土資料だけではない。他者寄贈本はもちろん、橋本氏が寄贈したものでも、雑誌類は単に縛って置いてあるだけのようだ。そのほか、他の地域からの利用を想定するなら、OPACの接続をして県内の図書館ネットワークに参加することも必要だろう。
 こうしてみると、ゆくゆくは町立図書館への移行を目指すのがよいと思われる(本の所有権は三種町が有している)。町立図書館になるのであれば、母体となる橋本五郎文庫は町の中心部である鹿渡に移すことも必要かもしれない。集客、とりわけ他の地区からも来やすいということを考えるならば、見たところJR鹿渡駅の2階がまるまる遊休施設になっているようだから、そちらに移せばよいと思う。
 ただし、それでは「鯉川小学校の廃校を生かす」ことにならなくなってしまうのである。本を提供した橋本氏の希望は鯉川であったわけだし、成立・発展の経緯を考えても、橋本五郎文庫は旧鯉川小に置いたままで運営できるようにしなければならない。
 私の思い付きを述べるならば、橋本五郎文庫を組織として拡張することが必要である。橋本氏から本が寄贈されたことで、鯉川集落は二つの財産を手にした。一つは本そのもの。そしてもう一つは、地域ぐるみで蔵書整理をした経験(と、それによって得られた知識)である。住民の大半がNDCに通じている集落など、全国的にも鯉川ぐらいしか存在しないであろう。これを生かして、橋本五郎文庫は図書館の下請け事業部門を開業できないだろうか。全国各地の自治体から図書館業務を請け負っている企業がいくつかある。そういう企業と提携して、蔵書整理や分類、入力、ラベル貼付、修理などの実務を引き受ける部門が設立できれば、ニーズがあるかもしれない。大都市から遠いという欠点はあるが、実務に通じた地域住民が割安に動員できれば、都市部の図書館からすれば送料負担を上回る節約効果があるだろう。軌道に乗れば鯉川に雇用が発生するかもしれないし、そこまで成功すれば、鯉川は十分そのまま拠点にしていけると思う。
 もちろん、今後のことなどは運営サイドでもさんざん議論しているだろうし、私ごときが思い付きを述べても仕方がない。幼稚園児が多人数で遊びに来るなど、地域の人々の「たまり場」としては確実に機能しているから、本来それが目的だったとすれば、もう十二分に果たされているのである。
 ただ、橋本氏が蔵書を故郷に寄贈したことで起こったムーブメントは、確かにあった。少なくとも、私のような東京都内在住者(しかも秋田県出身ではない)が、鯉川という一無人駅に降り立つことなど、橋本五郎文庫がなければあり得なかっただろう。やはり、こうした動きは大切にしてほしいと思うのである。人生の務めを果たした人たちが、この図書館を使って、本を読み考える習慣を後に続く世代に残してやることができれば、それによって鯉川という集落は半永久的な生命を持つのではないだろうか。

 最後に、現在決定している橋本五郎文庫のイベントを2つ紹介しておこう。(2016年)4月29日(金・祝)、文庫開設5周年の記念会が行われる。橋本五郎氏が出席するほか、女優の浅利香津代さん、衆議院議員の小泉進次郎氏が講演する【注7】。こうした“豪華ゲスト”は、橋本氏のコネクションによる。
 5周年イベントが終了した後には、作文コンクールが行われる。テーマは「母への手紙・父への手紙」。これまでに2回実施してきたが、今回でこのテーマは終了する予定だという。募集期間は(2016年)5月15日〜9月15日(当日消印有効)。

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 【注1】最近では閉じて展示しているようだ。
 【注2】『北羽新報』連載「本に寄せる思い」中の橋本氏インタビューより。北羽新報社編集局報道部編『廃校が図書館になった!』藤原書店、2012年。
 【注3】「国民投票法案成立へ」橋本五郎『範は歴史にあり』藤原書店、2010年。
 【注4】ここではあくまで橋本五郎氏の状況について述べている。為栗個人の政治的スタンスとは一切関係がない。
 【注5】最近は新しい発行がないようだ。
 【注6】旧琴丘町は1980〜83年にかけて、町内にあった3つの小学校(含む鯉川小)をすべて改築している。
 【注7】国政選挙の動向により流動的。

【2016.05.01追記】4月29日、文庫開設5周年記念会が挙行され、当初予定のとおり小泉進次郎氏も出席した(「講演」ではなく3人によるトークショーとなった)。なお、文庫の町立化に向けて三種町との協議も行われている模様。
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2016年04月11日

2015.01.16(金)(7)秋田市を離れさらに北へ

 線路の周辺は使われていない土地らしく、ちょっと雪が深くなった気がした。右も左も林である。林の向こうに民家がぽつぽつと見えるけれども、密集はしていない。林のすき間にはビニールハウスがみられるが、この時期栽培はしていないようだ。人が入らなくて雪もびっしり、という土地が結構増えてきている。産廃処分場みたいなものが見える。林の中にも家が建っているところには建っている。林でなくなると、今度は水田地帯になった。黒い鳥が何羽か、田んぼの中でバタバタと飛んでいる。このあたりは裏作などはなくて、稲を刈り取ったら残りの半年は放っておくのだろう。水田には結構な量の水が入っている。冬のこの時期でも水が抜けないのだと思う。
 住宅が今までと同じような感じで再び密集し始めたところで、列車は減速して停車した。ちょっと民家が立て込み始めたかな、と思うと、たちまちびっしりと密集した感じになり、そうすると駅がある。ここは大久保駅である。同名の駅が東京の中央線や兵庫県明石市の山陽線にもあるが、JRで同じ表記の駅名が3か所もあるのは珍しいのではないか。紙の切符では、この駅は「(奥)大久保」と表記されるのだと思う。この駅でコンテナ列車と交換した。長いコンテナ列車が停まれるほど待避線が長く取ってあるのだろう。右側の駅舎の向こうには、対面2車線黄色センターラインの道路が続き、商店街が何軒かあるのが見える。かつての中心集落の目抜き通りなのだろう。現在では潟上市の一部となっている。
 大久保からは、見渡すかぎりの田んぼと、所々に広がる住宅という景色の中を進んでいく。左の車窓はとにかく広い。彼方に山が見え、裾野で風力発電のプロペラがゆっくり回っているのが小さく見える。あの山は男鹿半島だろうから、その北側は日本海のハズだ。近くに目を転じると、面白いことに、水田の雪での覆われ方が線路の西側と東側とで違っている。西側は地面の見える部分がないほど覆われているのだが、東側は真っ白な面積がさほど広くない。このあたりでは線路の東側に人里があるが、人が暮らすエリアは温度が微妙に高いのだろうか。人家からはかなりの距離があるから、差が出るとは驚きだ。
 羽後飯塚駅を出たあたりから、晴れて日光が差すようになってきた。羽後飯塚は国鉄型配線の駅で、周辺には民間の建売団地みたいな家々と、農業倉庫の古いものが建っている。右に「酒は天下の太平山」の縦型の大型看板が見える。有名な清酒、太平山の釜元がここにある。そこから割合すぐ「井川さくら」という人名みたいな名前の駅。いかにも地方の新駅といった感じで、ホームなども最近の基準でガッチリしたものが整備されている。駅前には公園が整備されて新興住宅地になっている。1995年12月開設と新しい駅だが、快速停車駅になるなど健闘しているようだ。秋田銀行のATM小屋が、駅前駐車場の片隅に建っているのが見えた。
 新興住宅地が切れたら、古い住宅地。中には崩壊した家もある。崩壊した家が建っているのではなく、建っていた家が崩壊している。やがて鉄橋を渡る。結構大きな川と感じたが、後日調べたところ馬場目川といって、あまり大規模な川ではなかった。線路が再び複線になっている。2両編成の秋田行き普通列車とすれ違った。

 すっかりいい天気になってきた。これまでのところ、広がる水田地帯を爆走し、そこに住宅が集まり始めたら駅に到着、というパターンの繰り返しである。八郎潟駅に停車。基本的には旧農村部の古い住宅地で、左には大きな農業用倉庫が見えるし、風雪に耐えた黒い羽目板が張られた昔ながらの木造家屋から、そこそこ新しそうな家まで揃っている。新しいといってもせいぜい20年前までぐらいだろうか。ここは一日市(ひといち)という古い町の中心駅で、現在も八郎潟町の中心である。平成の大合併で大きく変化した秋田県だが、八郎潟町は例外的に再編に参加していない。有名な大潟村の最寄り駅であり、またかつてこの駅から五城目町とをつなぐ短い鉄道路線(秋田中央交通軌道線)が出ていたから、現在でも五城目行きバスの玄関口となっている。八郎潟町は小なりと言えど中心地としての矜持があって合併しないのかもしれない。なお、市バスを一括で譲り受けるなど秋田市周辺の路線バスを一手に担っている秋田中央交通は、五城目軌道がそもそもの祖業であった【注1】。
 このあたりから雪が若干深くなってきたようで、県北に近づきつつあるのがわかる。ホームの端に積み上げてある除雪された雪の高さが、少し増してきた。この調子で能代から大館に向かって内陸部へ入っていくと、雪がすごい状態になっているのだろうか。少し心配になってきた。
 八郎潟駅からまた単線に戻った。複線と単線が目まぐるしく入れ替わる。駅周辺の集落が途切れると、見渡すかぎりの田んぼに、びっしり見渡すかぎりの雪。ここまで来ると秋田市周辺とは景色が違う。一方で地形が険しくなってきて、低いけれども山が左右から迫ってきた。ちょうどこのあたりで、八郎潟町を出て三種町に入る。南秋田郡が終わって山本郡に入り、能代市の文化圏に突入したということである。少し上り坂になってきた。山の裾野に採石場が見える。山と山の間を走っている感じになったけれども、左の車窓を見ると、線路よりも低いところには相変わらず水田地帯が広がっているようだ。

 次の鯉川駅は山間部の駅といった風情であり、本格的な無人駅であった。車内放送の内容がこれまでとは変わり、この駅で降りる場合は、運賃や切符は運転手の後ろの運賃箱に入れろと言っている。駅に停車すると、女性の声で《先頭車両のうしろ側のドアボタンを押してご乗車になり、整理券をお取り下さい。》と車内に放送された。車内だけでなく車外スピーカーでも流れているのだろう。左側車窓からは防風林の向こうにストンと落ちた地形が見える。あのあたりに水田が広がっているようだから、線路は高いところまで上がってきている。
 鯉川駅は、駅舎の横に「ようこそ『橋本五郎文庫』へ 橋本五郎のふるさと 三種町鯉川」と大書してあった。橋本五郎って誰だろう、と思った。読売新聞の有名な記者にそんな名前の人がいた気がしたが、同姓同名の知られざる有名人がいるのだろうか。そんなことを思いつつ、駅の北側で少し下り坂を感じた。左側の山が途切れ、そしてまた山が迫ってきた。小さな山が散在していて、線路はそのすき間を縫うように走っている。右側の山のふもとでは無理に田んぼを開いて農業しているところもあるようだ。左の車窓にはJAのカントリーエレベーターが見える。日本最大の干拓地、八郎潟に近いこの地域も、手広く米を栽培しているのだろう。なお、鯉川駅の北側で北緯40度の線を越えているハズである。
 鯉川の次は鹿渡(かど)。駅の手前に、ドラッグストアのようなロードサイド型の店舗が見えたりする。上飯島のあたりでも見たが、このあたりはツルハドラッグの店舗が多いようだ。ロードサイド店は、都市型の生活ができるほどにそこそこ人口の多い町という証拠。鹿渡は、合併で三種町を成立させた3町のうちの一つ、旧琴丘町の中心集落である。とにかく、建物が視界にちょっと入るようになったら町である。荒れ地と防風林を抜けつつ、線路際まで家が迫ってきたら、駅がある。住宅地が線路からやや離れた所にできるのは不思議な気もするが、田舎だからといって鉄道線路が人家を無視して敷設されるわけではないのは当然である。
 鹿渡駅の駅舎には「青春館」と書いてあり、鯉川駅と全く同じ横断幕を出している。駅舎の「青春館」の文字の下で駅員が切符を回収しているのが見えた。多分あそこが駅の出入口で、待合室は“橋本五郎記念館”のようになっており、何か氏にまつわる展示でもしているのだろう【注2】。この時点で私は、橋本五郎氏のことを、『檸檬』を書いて早世した梶井基次郎のような作家であると思い込んでいた。私は文学には詳しくないが、その人の名を冠した「文庫」があるのだから作家、少なくとも本に関係した人だろうし、若くして死んだ人なら「青春」という言葉はとりわけ重要なキーワードとなり得る。
 後で調べて驚いたのだが、この橋本五郎なる人物は、前述した読売新聞のスター記者その人なのであった【注3】。会社員としては定年になっているから特別編集委員という肩書で、現在でも読売に定期的にコラムを執筆している。かつて和歌山県南部を旅したとき、秋田県出身の著名なプロ野球選手・監督、落合博満氏の記念館というものに遭遇したことがある。秋田県人は著名な人を生前から顕彰するのが好きなのだろうか。しかし、プロ野球選手だった落合氏は「国民に夢を売る」仕事だったわけだが、新聞社の編集委員というのは役員級とはいえ新聞記者だから、その意味では地味な肩書である。文章が並外れて立つ人なのだろうが、こういう顕彰のされ方は面白いと思った【注4】。

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 【注1】秋田中央交通の社長を何代にもわたって輩出している渡辺家は、代々五城目町発展の礎を築いてきた家系で、現社長渡辺靖彦氏の祖父は五城目軌道(株)(現秋田中央交通)の創始者であった。
 【注2】描写はこの時点での想像である。鹿渡駅の「青春館」(正式名称は「楽しく集う青春館」)と橋本五郎氏とは関係がない。
 【注3】橋本五郎(はしもと・ごろう)氏:読売新聞東京本社特別編集委員。1946年12月29日生、秋田県山本郡鹿渡町(現三種町)出身、1970年慶応義塾大学法学部政治学科卒、読売新聞社入社。浜松支局・本社社会部・政治部・論説委員・政治部長・編集局次長を経て、2001年編集委員、2006年特別編集委員(現職)。1999年から日本テレビキャスターで、『情報ライブミヤネ屋』(読売テレビ)、『五郎が斬る!』(秋田放送テレビ)などに出演中。
 【注4】この時点での想像である。
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2016年04月10日

2015.01.16(金)(6)大館行きワンマン列車

 さあ、それではいよいよ改札を通ることにする。
 秋田駅は天井補強工事の真っ最中で、改札の前には大規模にやぐらが組んであった。この駅は一丁前に自動改札が入っている。いや、今は自動改札など地方都市でも珍しくはない。奥の跨線橋につながる自動改札を通ると、跨線橋の右端に秋田新幹線の改札内改札があって、そこを左に曲がったところが橋の部分である。ホーム番号を示すLED行灯が、どういうわけか1347856という順で並んでいた。この滅茶苦茶な並び方は一体何なのだろうか。後で判明したが、このややこしい構造は、東端にある7・8番ホームの南半分を新幹線用の11・12番ホームにしたためで、3・4番ホームと5・6番ホームの階段の間に7・8番ホームへの連絡通路が割り込んでいるためであった。なお、2番ホームは階段より南の位置にあるから、ここには表示がない。
 大館行き09:48発は、5番線である。新幹線改札前の階段をスッと降りると、そこにもう電車が停まっていた。ステンレスの車体に、赤紫色のラインが引いてある。「走ルンです」の異名を持つ、701系電車の2両編成。寒冷地ゆえ、乗降ドアの開閉は押しボタンになっていて、時折ピンポン、ピンポンと高い音のアラームが鳴っている。かつて首都圏の人間は、ローカル線で列車のドアを押しボタンで開閉するのを馬鹿にしていたところがあるけれども、東日本大震災以後、節電のためと称して青梅線などいくつかの線では全部押しボタン式になったから、震災を機に首都圏が地方に近づいた部分があったように思う。私は幼少期から八高線の気動車で馴染んでいたから、ドアの押しボタンに違和感は全然なかったけれども。

 男性の声で、肉声の車内放送が流れた。ワンマンカーということは運転手が喋っているのだろうか。いよいよ発車のようである。《お待たせいたしました、奥羽線下り、追分・大久保・八郎潟・森岳・東能代・二ツ井・鷹ノ巣方面、大館行きのワンマンカーです。間もなく発車をいたします。》ホームには発車メロディーが流れ始めた。東京・山手線の目黒駅と同じ、パンパカパンパン、というどことなくユーモラスなメロディである。次いで、男声の録音放送が流れる。《間もなく5番線から、普通電車大館行きが発車します。閉まるドアにご注意ください。》北に向かう普通列車は、汽笛一発VVVFの音とともに、私を乗せて定刻に動き始めた。
 秋田駅の東側は、駅前であっても空き地が結構目立つ。少し走って列車のスピードが上がってきたあたりは普通の住宅地だが、建物は新旧入り交じっており、サブリースアパートなどもみられる。密閉性が高く、どことなく北国っぽい風景である。首都圏と雰囲気が違うように感じるのは、出窓が少なく平面的で、窓の大きさが小さいというのが特徴のようだ。あとは窓のサッシが若干ゴツいのだろうか。でも、寒い土地に突入したという感じは薄い。海沿いであるせいか。すぐ旭川の鉄橋を渡ると、線路が大きく左にカーブした。男鹿線から来た上り列車とすれ違う。基本的には住宅地が続いているが、建物の密度が少し粗くなってきた。このあたりまで来ると、使ってない土地が増えてくるようだ。それは、雪が見える面積が増えてきたことでわかる。使わない部分は除雪をしないからだ。ただ、JRの敷地内で草が生えているところには、草自体の生命力で雪を解かしている個所もあった。機関庫というのか、機関車の車庫みたいな建物が見えた。長い間使われていないようで、雪に覆われている【注1】。
 ワンマン列車だけれども、運転席には運転手のほかにもう一人いる。黄色いヘルメットをかぶった中年男性が、中央通路の窓際に立って前を見ている。保安上の理由だろうか。でも、今空はどんよりと曇っているが、すき間から青空がのぞいているから、雲さえどいてくれればきれいに晴れると思う。線路と線路の間などにはところどころに雪が残っているが、雪がいっぱいという感じはない。乗客の数は、最終的には前の車両に35人ぐらい、後ろの車両に30人弱となった。ワンマン電車なので、途中の無人駅で降りる人は前の車両に乗っているのだろう。
 防雪フェンスというのか、地吹雪を抑えるためのフェンスが、分岐器とか踏切の横など線路に近いところにあるのが、雪国らしい景色である。踏切ごとに、そして線路の要所要所に、高さ2mぐらいだろうか、公園などに付いているフェンスと同様の枠を3段ぐらい重ね、そこに非常に細かい網を張ったグレーのフェンスが付いている。

 右に見える秋田総合車両センターでは、在来線特急で使っていた485系電車が多数さらされていた。近々解体されるのではないか。そういうものが見えたところで、最初の駅、土崎に停車。土崎駅にも自動改札が導入されている。右側の車窓からイオン系のスーパー、マックスバリュが見えたりしていて【注2】、秋田市郊外の中心地である。土崎で10人ぐらい降りたと思うが、代わりに同じくらい乗ってきたので少しびっくりした。
 土崎駅を出ると、住宅地だがだいぶ空き地が増えてきた。線路の西側を国道7号線が通っているので、左の窓からはちょっと離れたところにドラッグストアや百均、パチンコ屋などロードサイド型の店舗が見える。国道が線路に近づいてきたと思ったら、2つ目の上飯島駅。わりと新しそうに見える無人駅である。1980年代後半、JRは地方都市近郊に無人ないし駅員の少ない駅を積極的に増設したから、この駅もそうなのだろう。ホームの配置が東急世田谷線上町駅のような千鳥配置になっていて、上りホームには、無人駅の整理券発行機なのか券売機なのか分からないが、ガラス張りの小屋がある。ホームに停車しても、列車のドアは開かなかった。この駅は無人駅なので、前の車両しかドアが開かない。それも、ドアボタンを押さないと開かないから、乗降客がいない限りドアが開かない状態が続く。
 このあたりは、最近になって住宅地が拡がってきたエリアなのだと思われた。住宅の並びがパッと途切れると、ビニールハウスが並んでいる。山というか丘の斜面、微高地に隠れるような場所で何やら栽培しているのだ。微高地そのものは林のまま放置されている。右の車窓は水田(休耕地を含む)が一気に広がる風景になり、左の車窓も住宅の密度が少しまばらになった。住宅は新しくなってきたが、国道沿いにかなり見える店舗は、昔ながらのドライブインとか、古い感じのものが比較的多い。
 追分駅まで来ると、秋田の都市圏をほぼ脱してしまったようで、駅前でも建物が密集している感じはなくなってくる。「追分」の名前にふさわしく、この駅で、海沿いの男鹿市に向かう男鹿線が分岐している。結構な数の客が降りた。若い男女の比率が高かったから、大学でもあるのだろうか【注3】。駅の構内、昔は線路が敷いてあったであろう場所には、追分鉄道設備技能教習所と称するプレハブが建っていた。
 追分駅を出ると、我が奥羽本線の列車は、複線のように2本並んだ線路の右側を走っている。もう駅の中で男鹿線と別れ、並走する奥羽線も単線になっているのだろう。線路際には太陽光発電のパネルがズラッと並び、それが踏切道で途切れると、北側には松の防風林が広がっている。ここで男鹿線が左の方に分かれていき、奥羽線も完全なる単線となった。この先、鉄道との乗換駅は、私が降りる東能代までない。
 追分駅を出るとともに、秋田市も出てしまった。駅のすぐ外側は、もう潟上市という別の市である。いわゆる平成の大合併で3町が合併して発足した市。秋田県はこの時期かなりの勢いで合併が進んだ県である。

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 【注1】その後太陽光発電所になった。
 【注2】マックスバリュ東北(株)の本社。事務所のみで店舗はないようだ。
 【注3】秋田県立大学が駅の南西にある。
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2016年04月09日

2015.01.16(金)(5)秋田駅へ急ぐ

 秋田支店の制覇は、もっと早めに着手してもよかったかも知れない。列車に間に合うかどうか、少し心配になってきた。ここから秋田駅までは何度か歩いたことがあるが、徒歩で行くには若干遠い。幸いここは山王大通りを東進するバスが集中しているから、乗ってしまおう。
 竿灯大通りを突っ切って、〔交通公社前〕の停留所へ。一番早く来たバスは、秋田中央交通の[341]南団地・秋田駅東口行きであった。秋田中央交通のバスは、おおまかには上半分がベージュ、下半分が緑のツートンカラーだが、たまに窓から上が(ベージュではなく)真っ白な車がある。今乗っているバスは、車種などはわからないが中型車で、車体の上半分は白かった。この配色は、旧型の一部の車に限られるようだから、まあ旧型のバスに乗っているのであろう。アナウンスの声が小田急バスと同じなのは、昨夜のリムジンバスと同様である。
 前述したとおり、秋田駅は竿灯大通りの延長線上にあって、西から来た大通りは旭川を渡った「二丁目橋」の交差点で終わる。突き当たりの先、みずほ銀秋田支店や、協働社広小路本店跡地のタワーマンションがある土地は、火災のため1959年に郊外移転した県庁の跡地である。大通りと秋田駅との間は、並行する2本の一方通行道路で結ばれている。北側の西行き一方通行道を広小路といい、かつては秋田を代表する商店街。1965年までこの道を秋田市電が単線で走っていた。南側が東行きの一方通行で、中央通りという。
 さて、竿灯大通りを東に進んできたバスは、みずほ銀行前の突き当たりを右に曲がり、すぐ北都銀本店の前で左折、中央通りを経由して秋田駅に向かう【注1】。要はクランクということである。城下町のような風情。ようなというか、佐竹藩20万石の城下町そのものであるが。ともあれそれが、秋田という街の個性ではあると思う。まっすぐ行けば駅だからといって、駅前まで区画整理してドカンと大通りをつなげ、それで没個性な街になって失敗するというのは、ありがちなパターンであるから、秋田は街の個性という点からすると賢明だったと言えるのではないだろうか。
 北都銀本店前から中央通りを東にまっすぐ来た私は、岩手銀と七十七銀があるのを車窓から確認。バスは駅に向かう途中の〔買物広場〕で一旦ロータリーに乗り入れた後、再び通りに出て駅に向かう。駅の手前で左に曲がってバスターミナルに進入。さあ、秋田駅到着である。バスで来るとあっという間だが、歩いたら15分ぐらいかかっていただろう。

 よし降りるぞ、と身構えたが、焦ってしまった。乗客の半分ぐらい、座席に腰を下ろしたまま悠然と構えているのである。そうか、〔秋田駅東口〕行きのバスだから、まだ終点ではないのか。この駅前広場は西口だそうである。なお、運賃は170円であった。
 バスを降りてみると、秋田杉を使った木造のバスホームの上屋が白木で上品であった。複数並んだバスのホームは、駅との間を横断歩道で結んでいて、ちょっと遠回りにはなるけれども、最近流行のバリアフリーにはなっている。多数行き交う秋田中央交通のバスは、錆び付いてボロボロになった車体がほとんどであった。排気ガスも豪快で、白煙を振りまきながら走っている感じである。雪国で酷使することと、気温が低いこと、そしてバス自体が古いせいもあるのだろう。当地では、1990年代初期に製造された「キュービック」(いすゞ自動車)のような古いバスがいまだに現役である。駅前ロータリーの周囲を見回すと、緑色の古いビルが見える。40年前ぐらいに建てられた5階建てと見える商業ビルで、見た目のとおり緑屋という。昔は家具店だったようだが、今となっては本来の目的では使われていないようだ。それから、ロフトとフォーラス。ロフトは旧イトーヨーカドー、フォーラスはイオングループが経営する専門店ビルで旧ジャスコである。駅ビルはトピコというようだ。駅の東側にはアルベという黒いビルも見える。
 駅前商店街の大規模なアーケードにつなげる形で、ガラス張りの大橋上駅舎ができている。秋田新幹線ができる時に整備されたもの。1997年のことであるから、もうずいぶん昔の話である。駅西側の商店街から続いてくる歩道橋のような通路にエスカレーターで上がると、たぶん大都市以外では珍しいと思うが、30度ぐらいの傾きを付けた“登らないエスカレーター”が付いていた。半階分、踊り場に上がるぐらいの高さをムービングウォークで移動すると、ここでようやく駅の施設に到達する。高さが違うのは、金の出所(整備主体)が違うのだろうか(調べてはいないが)。
 JRのエリアに入ってようやく、みどりの窓口とか「びゅうプラザ」「ニューデイズ」など、JR東日本管内の主要駅でおなじみの施設があって、少しホッとした。

 私が乗るのは、奥羽本線の普通列車大館行き、09:48発。発車まであと20分、切符を買わなくてはならない。
 みどりの窓口に入ると、普通の暖房だけでは足りないようで、窓口室内では大きな石油ストーブが2台も稼働していた。部屋の中に、窓口と自動券売機がある。クレジットカードが使える紫色の長距離用券売機だが、操作するのが面倒臭くなって、切符は窓口で買ってしまった。買ったのは、秋田→能代、能代→大館というありふれた2枚の乗車券であった。
 JRの乗車券を買う際、距離によっては分割して買ったほうが安くなる場合がある。事前に調べておけばよかったのだが、発券が済んでからつい思い付きで、大館まで通しで買って能代〜東能代は別に往復券を買う形にした方が安いか【注2】、等を男性の駅員に尋ねてしまった。いい駅員さんで、嫌な顔一つせず端末を操作して調べてくれ、結局は当初のとおりに買った方が安いという結論になった。私は彼と同い年ぐらいだと思うが、他人への配慮がまるでできない自分に、情けなさを感じた。
 買った切符を手にコンコースに出ると、大学入試センター試験の告知があった。秋田大学試験場の案内で、徒歩の方は東口へ、バスの方は西口へ、という看板が出ている。今年(2015年)のセンター試験は、1月17・18日、つまり明日と明後日の土日に実施される。秋田大学は秋田駅の北東1kmほどのところにある。
 コンコースには、秋田弁の歌が流れていた。民謡ではなさそうで、リズミカルだし最近つくられた歌だと思う。女性の歌声は「雨いいな」という歌詞をノリノリで繰り返している。地元では有名な歌なのだろうが、このところ遠征に出るたびに悪天候にたたられている私としては、「雨いいな」という歌詞を聞いても「ちっとも良かねえよ」という感想しか持てなかった。当ブログでおなじみaikoの歌に『桜の時』という作品があって、降雨で不機嫌になっていると彼が雨上がりの虹を教えてくれた、という内容の歌詞を持つ。「雨いいな」の歌は、それと同じ感じで、自然の恵みを讃えているのであろう【注3】。

0409-1.jpg

 【注1】逆コースは、秋田駅から広小路を西進し、協働社のあった角で左折して二丁目橋交差点にやって来る。
 【注2】乗車券は次の形で分割すると最も安くなる。
   秋田(1140)能代  → 秋田(410)井川さくら(240)鹿渡(410)能代、3枚計1060(差80)。
   能代(970)大館  → 能代(240)富根(320)鷹ノ巣(320)大館、3枚計880(差90)。
 【注3】本文に記述した解釈は、この時点での想像に基づく。曲は『あんべいいな』(作詞・作曲・歌:青谷明日香)といい、秋田県の公式イメージソング。「あんべ」は塩梅の意。
posted by 為栗 裕雅 at 18:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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