2017年04月30日

2014.07.18(金)(26)今尾の町に入ってきた

 平田庁舎の前には「今尾商店街入口」という看板が出ていて、キツネのキャラクターが描いてある。後で調べたら、このキャラは旧平田町が作ったもので、「こん平田」(こんぺいた)というらしい。お稲荷さん(お千代保稲荷)にちなんだキャラクターだろう。いずれにしても、ここ今尾地区における目的地はすぐ近いと思われた。
 旧町役場は、正面入口の円形ドアの横に《1966年》と彫り込まれた定礎の石がはめ込まれている。広大な役場の敷地は、町役場とJAが完全に一体化しているようで、同じ敷地にJAにしみのの平田支店があり、今尾商店街側にはコイン式精米所もある。この地域が農業を抜きにして語れないことがよくわかる。平田支所の向かい側は岐阜県警の交番(平田交番)。2階建ての建物はかなり大規模で、銀行の出張所ぐらいの大きさがあるから、警察署に準ずるような交番なのであろう。
 なお、かつて大共はここにも店舗外ATMを出店していた。1984年11月開設の[平田町役場]で、現海津市域の店舗外ATMでは第1号設置だった。2005年3月の3町合併で[海津市役所平田庁舎]に改称されたが、改称後間もなく2005年度中(夏以降)に廃止となっている。母店は今尾支店であった。

 今尾といえば、ここで本を1冊紹介しておきたい。1998年刊行の、今尾恵介『地形図探険隊』(自由国民社)である。
 この本と出会ったのは、2016年5月、この連載のための文献探しで出かけた海津市立平田図書館であった。平田図書館は旧平田町役場の裏手にある。薄暗い書架でこの本を見かけた時の第一印象は、「なぜこの本がここにあるのだ」であった。というのも、この本は郷土資料の棚に排架されていたからだ。その場では書名をメモするだけに留めたが、後日古本を買って読んでみて、平田図書館でこの本を郷土資料としている理由がわかった。この本には今尾氏による今尾探訪記が収録されており、今日私がめぐっているエリアについてもいろいろ調べて書いているのである。
 驚いたのが、今尾氏の1932年生まれの父親、国三氏についての記述であった。戦時中に当時の今尾町に疎開して住んでいたことがあるという。しかも、当時通っていた中学校では、今尾町に今尾姓がいなかったこともあって「今尾の今尾」とからかわれていたそうだ。参った。今尾氏(の父親)には、この地にこんな強烈なエピソードがあるのか。これでは、私が何を書いてもインパクトでは到底及ばないではないか。
 今尾氏の今尾探訪は、1997年9月に行われた。父親と2人で、名鉄竹鼻線大須駅(羽島市)から岐阜バスに乗って今尾へ向かっている。大須までの名鉄線が廃止されたため、このルートをたどるのは今となっては困難である。今尾氏一行は、まずお千代保稲荷に参拝。続いて、かつて父親が住んでいた平田町三郷を訪ねて古い知人たちと再会し、中学校(現県立海津特別支援学校)を再訪。さらにタクシーで駒野へ移動する。今尾氏の父は、駒野にあるベアリングの工場に勤労動員で働きに行っていたという。現ナイガイテキスタイルのことであるが、ここが軍需工場として稼働していたのは、1943年8月から終戦までのわずか2年でしかない。夜は養老の滝近くに泊まり、翌日は今尾家のルーツとされる岐阜県の別の土地に行っている。地理の本らしく天井川についても触れているが、養老駅からは大垣行きの電車に乗っているから、無理矢理である【注1】。
 他にもこの本では、かつて[梅70]の連載で取り上げた東京都瑞穂町とか、今回養老線に乗り換えた三重県桑名市などにも触れている。あくまで偶然ではあろうが、私に関連するディープな情報まで含まれており、大変面白い本であった。

 さらに進んで今尾の交差点にやって来た。横には上水道の水源地がある(海津市平田第1水源地)。車がひっきりなしに通る交差点の横に上水の水源があるのが意外だった。これを真っすぐ行ったら今尾の商店街に入るのだと思うが、直進方向も左に傾いている。さっきサークルKで店員の女性が教えてくれた道は「交差点を左」だったハズだが、どちらだろうか。結局、直進方向こそ今尾の中心部に入る道だと思い、左折ではなくて左斜めに進路を採った。
 直進方向に入ると、閉店した商業施設のオンパレードであった。閉店した上新電機がある。パラペットにオレンジの線の入った、閉店したコンビニがある【注2】。敷島ニュージョイズと書いてあるから、東海地区を地盤とする大手製パン業、敷島製パンが展開していたようだ。クローズしたブックオフもあるし、商業施設の墓標が多数建っているような感じであった。そんな中、大垣信用金庫【注3】の今尾支店があり、この店だけは営業している。いや、その隣の寝具店もご盛業中のようである。
 海津市コミバスの〔今尾〕停留所があって、客が1人いた。このバス停には、海津市のコミバスのほか、隣接する輪之内町のコミバスも来る。輪之内のコミバスは大垣市の名阪近鉄バスが担当しており、安八温泉行が4本、途中止まりのザ・ビッグ輪之内行きが1本。平日のみの運行で、土日は運休である【注4】。自転車でめぐっている今回は必要ないが、このバスは「めぐ」に使えるかも知れない。途中の「ザ・ビッグ輪之内」は、後述するが「イオンタウン輪之内」のことで、ここには大共の店舗外ATMもある。私は今回、野寺支店の次に行く予定にしている。

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 【注1】天井川と養老鉄道との絡みは、養老駅以北には存在しない。
 【注2】現在は学習塾に改装されている。
 【注3】2016年1月12日、西濃信用金庫(本店揖斐郡大野町)との合併により、大垣西濃信用金庫となった。以下、現大垣西濃信用金庫の名称は「めぐ」実施日現在の「大垣信用金庫」で統一する。
 【注4】輪之内町のコミバスは2015年1月に改編が行われ、定時運行のバスは夕方に3本だけとなった。日中は予約制のデマンドバス(住民以外も利用可)に切り替わった。
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2017年04月29日

2014.07.18(金)(25)鹿児島県との意外なつながり

 水田地帯を西に進んでいくと、海津市平田庁舎というお役所の建物があった【注1】。旧平田町役場である。旧平田町は「昭和の大合併」時の1955年2月に旧今尾町と旧海西村が合併して成立した【注2】。
 役場のあった場所であるので、ここで旧平田町について述べておくことにしよう。低平な水田地帯だから平田という名前になったのだと言っても一定の説得力があるが、実はこの町の名前は、人名に由来している。九州・薩摩藩の家老だった平田靭負(ひらた・ゆきえ)。この男性は、濃尾平野を中心とする地域のために命を捧げた偉人として語り継がれている。
 海津市のある濃尾平野は、古くから濃尾三川、木曽・長良・揖斐の3つの大河が氾濫を起こし、多くの犠牲を出してきた。1753(宝暦3)年、徳川幕府は、3川平定のためと、外様の雄藩であった薩摩藩の経済力を殺ぐために、3つの川が網の目のように流れていた濃尾平野の河川整備を薩摩藩に命じた。しかも、経費の負担のみならず工事要員の派遣まで求め、専門業者には委託しないことという条件がついていた。
 このプロジェクトの薩摩藩側の総責任者が、家老の平田靭負であった。靭負は、資金集めに始まり、幕府側との軋轢、地元民との軋轢、薩摩藩内部での軋轢等々と戦いながら、異郷の地で大榑(おおぐれ)川洗堰と油島分離堤を完成させ、幕府への引き渡しを終えたその日に自ら命を絶ったという。江戸幕府が薩摩藩に命じて1754(宝暦4)〜1755年にかけて行われたこの治水工事は「宝暦治水」と呼ばれる。
 この地域の治水工事そのものは、明治期、当時の治水の先進国オランダから来日したお雇い外国人ヨハネス・デ・レーケ【注3】が完成させることになる。輪中の住民たちは、経験上、3つの川が合流と分流を繰り返して網の目のようになっているのが洪水多発の原因の一つであると知っていた。とりわけ、最も高いところを流れる木曽川が揖斐川に影響を及ぼさないようにする工事を求めていた。これを受け、薩摩藩の工事は3つの川を完全に切り離すことを目的としていたが、さまざまな利害関係から3つの川は完全分離とはならなかった。デ・レーケは3つの川をくまなく調査して、木曽川と長良川との間に堤防を作って両者を分離したり、川幅を広げたり、木曽川・長良川・揖斐川をつなぐ川を締め切ったりした。こうした現場での対策に加え、水源地の山林を保護して植林することや、各地の支流に砂防ダムをつくって土砂が川に流れ出るのを防止するなど、上流から下流まで川の全体に目配りをした改良工事を実行に移したのである。
 デ・レーケにより3つの大河川が完全に分離された状態となって、水害は初めてほぼ鎮圧された。40万両の巨費と多くの犠牲を払った薩摩藩の工事は、残念ながらあまり役には立たなかったのである。とはいえ、この地域では、平田靱負をはじめ宝暦治水の際に亡くなった薩摩藩の人たちを、本来なら縁もゆかりもない濃尾平野のために命をかけて治水工事を行った「薩摩義士」として、神社を作ったり法要したりして讃えている。

 最近では、この薩摩義士についての疑義が提示されている。宝暦治水は岐阜県側(というか濃尾平野のある側)が鹿児島県側から恩義を受ける形になるだけに、主に岐阜県側から意義を疑う説が提示されるようになった。薩摩義士顕彰運動は利害を伴わない交流活動であるようだが、南京大虐殺の“まぼろし論争”に似た位置付けで、薩摩義士の顕彰を重荷というか軛(くびき)と感じる向きが岐阜県側の一部にあるのだろう。
 薩摩義士の顕彰は、大正時代の初期に岐阜県側で始まった。もともとは多度村戸津(現桑名市多度町戸津)の戸長であった西田喜兵衛が提唱し、岐阜県で自由民権運動家として活躍した岩田徳義が運動として定着させたという。この時代、1912年の明治天皇崩御を受けて陸軍大将の乃木希典が後追い自殺をするなど、“義士”をもてはやす社会的な素地はあったようだ。こうした空気の中、薩摩義士の顕彰運動を盛り立てるプロセスで、住民の歴史認識を拘束する軛が生じることになった、とするのが薩摩義士“軛論”の概要である。史料もろくに残っていない宝暦治水から『忠臣蔵』を上回る“物語”を生み出そうと試み、相当の無理が生じたことから、治水工事として意味のなかった宝暦治水をことさらに高く評価する風潮が生まれた、というわけだ。
 歴史にかかわる話題が周知され、かつその真偽が問題になっているケースには、太平洋戦争期の植民地支配に関するもののほか、江戸時代の美しい風習とされるものを周知して公衆マナーを啓発する「江戸しぐさ」など、いろいろある。いずれも、史実の伴わないものを批判して打破する方向性は一緒であるから、薩摩義士顕彰も同じ運命をたどるのだろうか。
 史実は過去に起こった事実としてキッチリ解明する必要があるのは言うまでもないけれども、それはそれとして、人間には“物語”もまた必要である。岐阜県と鹿児島県という、本来なら縁のできようハズもない2つの地域が親しく交流をしているのも、宝暦治水という歴史的事実(これはさすがに議論の余地はないようだ)がもとになっている。仮に「薩摩義士」が史実の根拠に乏しいとしても、当面は『忠臣蔵』のような形で“物語”として機能させていくのが有益ではないだろうか。そうでないと、事実よりも物語を重視するタイプの人の中には、もっといかがわしいストーリーにのめり込んでしまう人が出てくるだろう。薩摩義士の物語はまだ良質な方であって、特に“物語タイプ”の人の受け皿としては有効ではないかと思う。世の中には有害な嘘がゴロゴロしているが、義士を顕彰することで被害を受ける者はいないからだ。
 というわけで、薩摩義士を虚像であると一刀両断することによって何かがもたらされるかについては疑わしい。薩摩義士“軛論”を展開している地元の歴史研究家の本でさえ、序文に《軛(くびき)を振り棄てたことで生じる自由の先は茫洋として、つかみどころがない。》と述べているのである【注4】。

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 【注1】海津市平田庁舎は2014年12月末をもって廃止された。
 【注2】前述のとおり旧今尾町平原地区を除く。
 【注3】ヨハネス・デ・レーケ:Johannis de Rijke(1842〜1913)。オランダ人の土木技師。1873年、内務省技術顧問としてオランダから来日し、約30年間の日本滞在で河川の改修など治水と築港に尽力した。主な業績に、淀川の改修、木曽川の分流、大阪港・三国港・三池港等の築港計画などがある。
 【注4】水谷英志『薩摩義士という軛』ブイツーソリューション、2014年。
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2017年04月28日

2014.07.18(金)(24)海津市平田町三郷のコンビニにて

 鳥居をだいぶ過ぎ、神社の大駐車場の前に、海津市コミバスの〔お千代保稲荷〕バス停があった。〔お千代保稲荷〕のバス停ポールに書いてある停留所名には「おちょぼいなり」とルビが振ってあり、よの字は「ょ」と小さく書いてある。私は“おちよほ”と読むのだと思っていたし、お千代保稲荷の正式名称は「千代保(ちよほ)稲荷」であるのだが、市営のコミバスで停留所名が「おちょぼ」になっているのなら、まあそれがオーソライズされた読み方なのだろう。バス停は神社からもう少し近いところに置いたらどうかと思うが、自転車で行く今日の私には関係がない。
 バス停の先には、鶏卵の自動販売機があった。水田地帯の真ん中にある駐車場の片隅に、テントをかけた自動販売機が1台ボンと置いてある。このあたりに来ると、いわゆる「田舎の香水」が匂ってくるのと、耕作していない土地が結構目に付く。草ぼうぼうになっている土地と、草刈りだけは済んでいる土地とがあった。
 お千代保さんのあたりは結構標高が高いようで、畑作をやっている土地が多い。古くから伝わる神社というのは、べったりと低いこの濃尾平野の水田地帯の中では、例外的に高いところにあるのだろう。水田もなくはないが、田んぼは相当に高さが低いところに限られるようだ。ここら辺にある水田というのは、山を切り開いて作った住宅団地などでみられる調整池と似た意味合いなのかも知れない。

 セブンイレブンとサークルKが対面に立地している交差点があった【注1】。十字路ではなくX字だが、もうどちらが北でどちらが西かわからなくなっている。ミサトというのかサンゴウというのか知らないが、とにかく三郷という名前の交差点である【注2】。ここにあるサークルK(海津平田町店)は、北海道とか東北のように、店の前に風除室がついている。伊吹おろしが吹き付けるこの地の冬は、相当に風が強いらしい。
 風除室に惹かれてサークルKに入った【注3】。ここで「地図見休憩」をしよう。とにかく疲れた。今日は雲が多くて、直射日光が出ていないから、まだ何とかなっている。これがピーカンの青空であったら、もうバテバテになっているだろう。
 冷房の効いたコンビニで地図を立ち読みすると、ミスの原因がわかった。十六銀行高須支店のあった馬目西方の交差点から、真っすぐ北に進んでいれば、ヨシヅヤまでストレートにたどり着いたのである。東にかなり来てから左折北上したため、西へ戻る行程ができてしまった。これだけでも3kmぐらい無駄に長く走ることになるが、さらに今尾よりかなり北に位置する蛇池を回ってくると、南に戻る行程も発生するから、トータルで5kmほど余計に走ったようだ。
 なお、今尾地区の2か所を取った後、野寺支店までは、この道をまた東に戻ることになる。やはり、蛇池の交差点が両者のほぼ中間地点であった。20分ぐらい無駄にしたと思うが、精神的なダメージも加味すれば、1時間ぐらいのロスに相当するかも知れない。後日このあたりを車で走ってみたが、さっき通ってきた東側の道は、車でも遠回りだと感じたほどである。

 名古屋から持ってきたペットボトルの水がなくなりかけていたので、この店で2リットルペットを1本買った。レジで会計しながら「ヨシヅヤってここからまだ遠いですか?」と店員に尋ねた。中年女性の店員は、ああもうすぐそこですよ、真っすぐ行くと信号があるんで、そこを左に入って下さい、と教えてくれた。
 ところで、ここで買った水は、サークルKサンクスの親会社ユニーのプライベートブランドで「スタイルワン天然水」という商品であったが、ラベルをよくよく見ると《養老山系で磨かれたナチュラルミネラルウォーター》と書いてある。え、と思って採水地を見たら、海津市南濃町とあった。何だ、地元の水ではないか。遠く離れたどこかのサークルKで買うならどうということもないが【注4】、海津市内でこれを買うのは非常にばかばかしい気がする。でも、この店ではこれが一番安い商品(税込み90円)だから、知らず知らずのうちに海津市の水を飲んでいたのだろう。
 ユニー系のコンビニ会社サークルKサンクスは、この頃身売り話がマスコミを賑わせた。その後しばらくM&Aの話は鳴りを潜めていたが、結局2016年9月にファミリーマートに合併されてしまい、ミネラルウォーターも同社のPB商品に置き換えられてしまった。日常生活がつまらなくなったと感じる。私は、企業でも何でも、弱小だからといって淘汰までされてしまうのは、あまり健全ではないと思っている。

 疲れがある程度癒えたところで、コンビニを出て自転車を漕ぎ始めた。ヨシヅヤの看板は前方に見えているが、「すぐそこ」にあるようには全然見えなかった。まだ1km近くはありそうである。そうか、車の感覚だから「すぐそこ」なのか。私は少なからずがっかりしたが、めげずに自転車を漕ぎ続けた。

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 【注1】この場所のサークルKは、2017年1月26日ファミリーマートに転換した。
 【注2】さんごう。地名は3村の合併から。
 【注3】風除室は向かいのセブンイレブンにもある。
 【注4】首都圏では、長野県北安曇郡松川村で採水した「北アルプスで磨かれたナチュラルミネラルウォーター」を販売していた。
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2017年04月27日

2014.07.18(金)(23)チョンボでお千代保

 道が大きく左にカーブした。集落に入ると同時に再び道が狭くなり、黄色センターラインの2車線対面に戻った。古い集落らしく人家と畑が半分ずつぐらいある。ここは水田地帯から見ると標高が少しだけ高いようで、畑があったり、生け花と書いた温室があったりする。
 しばらく進んでいくと、お千代保稲荷がますます近づいてきた。道が大きく右にカーブしたところで、私設看板に遭遇した。愕然とした。そこには《ようこそお千代保さんへ/東口次の信号直進700m》と書いてあったのである。
 何、700m!? ことここに及んで、私は進む道を間違えていたことを察した。いかにリサーチ不足といえども、お千代保稲荷が全然違う場所にあることは知っている。あれは、いま行こうとしている今尾と、その次の目的地・野寺との中間にあるものだ。面白い名前だし、地図でも大きく出ていたから覚えていたのである。700m地点まで来ては近接し過ぎだ。そういえば、あの赤い鳥居はさっきから少しずつ距離を縮めつつあるように見える。いま私がいる場所は、鳥居がいよいよ目の前に近づいてきて、これを曲がったら鳥居そのものではないか、という位置であった。
 ということは、遠くに見えていたあのショッピングセンターが、やはり目的地のヨシヅヤ海津平田店だったのか。そう思って左の方を見回したが、知らないうちにSCなど見えなくなっている。はるか彼方にあるハズだが、学校とおぼしき大きな施設に隠されていた。ああ、何ということ。明らかなチョンボであった。
 かなりガックリ来たが、じたばたしても仕方がないので先へ進むことにする。こうして、蛇池(じゃいけ)という交差点に来た。ここで左に入るとお千代保稲荷の鳥居の前まで行くようだ。ヨシヅヤ海津平田店左1.5km、という看板が出ているのが、わずかな救いであった。進路がわかって安心したが、ここから1.5kmということは、やはり相当に遠回りしている。
 まあ頑張りましょう。順番はすでに決めてあるから、ここから今尾に向かうのは変わらない。時刻は10:34であった。なお、後日判明したのだが、先ほどコンクリート製品の工場があった「西島」の四つ角が、県道222号成戸平田線との交差点で、今進んでいる道から今尾へ直行する経路であった。そこで曲がっていれば、まだ傷は浅かったようである。

 今進んできた県道1号線は、ここ蛇池の交差点で右折して野寺方面に向かっている。四つ角から左の方向に、県道213号養老平田線が始まっている。交差点の南西角に海津市が作ったお千代保稲荷の案内看板があって、直進東口、左折南口となっている。お千代保稲荷の入口は東口と南口の2つがあって、位置関係としても確かに看板のとおりである。
 蛇池の交差点を左に曲がると、そこは観光地の趣であった。喫茶店が何軒かあったり、有料¥300と大書した駐車場があちこちにみられる。こうして、お千代保稲荷南口の大鳥居の真ん前にやって来た。高さは10mほどもあるだろうか。見上げるほどの高さである。水田地帯の真ん中だから相当に目立つ。なにしろ、ここに来る何kmも手前から見えていたのである。鳥居をくぐった先は参道で、土産物屋やら何やら120軒ほどが軒を連ねているという。関東地区でいうと、千葉県成田市の、京成電鉄成田駅から成田山新勝寺に向かう途中のような、かなり大規模な門前町。千代保稲荷神社は室町時代の創建で、年間200万人が参拝している。毎月1回夜通し行われる“月並祭”という縁日が有名で、月末の夜から翌1日の明け方にかけては大変な人出となるそうだ。境内ではお札やお守り等の販売は行われていない。これは神社創建時の「先祖の霊を千代に保て」との戒めから来ており、家(森家というそうだ)の先祖だけを祀った神社であるからお札などは出さないのだという。
 なお、かつて大垣共立銀行は、大鳥居横の駐車場内に店舗外ATM[お千代保稲荷南口]を置いていた。1997年12月に設置されたが、2004年度に入って間もなく廃止となった。確認はしていないが、母店は今尾支店だったと思われる。当時は蛇池交差点の北西角にコンビニのサークルKがあり、十六銀行が店舗外ATMを出していた。現在ではそちらもコンビニもろとも消滅しており、この地で現金が必要になったら参道内の簡易郵便局の窓口でおろすしかない。
 それにしても、鳥居そのものの前に、このタイミングで来てしまうのは大誤算であった。

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2017年04月26日

2014.07.18(金)(22)水田地帯を北上する

 さて、自転車による「めぐ」を続けよう。海津市を成立させた3つの町のうち、旧南濃町と旧海津町はすべて終了した。最後となるのは、旧海津町の北側に隣接する旧平田町である。
 現在の海津市平田町には制覇目標が3か所ある。西の今尾地区へ行くと、そのうちの2か所、今尾支店とATM[ヨシヅヤ海津平田店]が片付く。以前のリサーチによると、高須支店前を北上すると南濃からの県道津島南濃線に突き当たるから、そこで右折して県道を東に進み、ほど良いところで左折して北に向かえばよいハズであった。時計を見ると、ちょうど10:00。予定では高須支店の出発が10:30であるので、30分ほど早く推移している。非常に結構である。このまま前倒しで進めたい。
 高須支店の面する道は、路側帯はいちおう引いてあるけれども、対面2車線にはできないぐらいの道幅であった。商店街を真っすぐ北に抜けて行くと住宅地になり、ほどなく掘割のような小さな川を渡る。ちょっとした下り坂を下りてゆくと、海津明誠高校のグランドに突き当たった。ここは右折。フェンスに《生徒送迎のための駐停車禁止》という看板が出ている。田んぼ以外に何もない地区で、バスの本数も少ないから、自転車で通学するのでなければ車で送迎する以外にないだろう。高校の校舎右側には、「くすり」という大きな赤い看板が見えている。さっき行ったクロカワヤの隣にあったスギドラッグ屋上の看板である。
 一部を除きとにかく古い建物ばかりの街並みだが、どの家もみんな石垣の上に乗っているところが高須らしいと感じた。住宅はたいていお城のような石垣の上に乗っている。ここ数年に建ったような新しい住宅は、高台上にないものもあるようだが、基本的には全部“お城”であった。お城といえば、高須の町は旧城下町とあって、道路の突き当たりが多く、真っすぐ行くということがなかなか難しいところである。明誠高校が旧城跡だったというから、この界隈の道筋が入り組んでいるのもむべなるかな。
 〔東山の手〕というコミバス停留所の前を通り、突き当たって左に曲がると出光興産のガソリンスタンドがあった。その先にはさっき渡った大江川が控えている。橋の手前が少し上り坂になっているのは、さっき渡った橋と同じである。川を渡って、馬目西方という交差点に出てきた。ここは十六銀行高須支店のある角で、左に曲がるとさっきの[ホームセンタークロカワヤ]である。ということは、ここを右折し、しかるべき角で左に曲がれば、旧平田町の次の目的地にたどり着くハズである。何という場所だっけ。とにかくこの界隈にはこれまで馴染みがなくて、次に行く今尾という地名すら忘れている始末であった。

 というわけで、対面2車線黄色センターラインの街道を東に向かっている。さっきの津島南濃線を真っすぐ来ているだけであるが、馬目の交差点を境に道としては岐阜海津線に変わっている【注1】。同じ対面2車線の県道でも、黄色のセンターラインが他所の1.5倍ぐらいの太さで書いてあって、重要な街道であると感じられた。
 大江川に架かる、馬目橋という橋。あれ、さっきも大江川は渡ったハズなのに。そう思ったが、後で調べてみると、大江川はこの高須の町を大きく蛇行しながら流れているのであった。コミバスの〔馬目〕バス停前に、ファーマーズマーケットとかいう農協の直営店らしきものがある。敷地の中には、JAにしみのが店舗外ATM小屋を出している。
 集落が途切れて水田地帯になった。高須輪中土地改良管理センターという大きな矢印看板が見える。農地などで余った水を排水するためのポンプ場であろう。この辺まで来るとラブホテルがあるが、長良川と木曽川を渡った3km先は愛知県愛西市であり、県境地帯を特徴づける施設である。ラブホテルの向かいには、1階を店舗にしている3階建てぐらいの鉄筋アパートが建っている。こうした建物に××名店街という名前を付ける習慣が、どうもこの地域にはあるらしい。同様の建物は、さっきクロカワヤの前にもあった。とにかく、水田地帯→家が何軒か固まって建つ→すぐに建物は途切れて水田地帯、を繰り返し、ときどきロードサイド型の店舗が密集する地域が現れる。
 鹿野という交差点までやって来た。角にはミニストップ(鹿野店)がある。行政が付けた矢印看板には、海津温泉右6km、お千代保稲荷左5km、とあった。それとは別に、広告看板も出ている。ヨシヅヤ海津平田店左。ほかの地名は全然ピンとこないが、ヨシヅヤ海津平田店は今尾支店の近所にあって、これから行く目標の一つである。ここで左に曲がればよさそうだ。
 左折した道は、やはり対面2車線の黄色センターラインだったが、これまでと違って車線の幅だけの舗装しか施されていない。この道も岐阜海津線なのだが、こちらに入ってくると道が断然ショボくなった。センターラインも細いし、路肩にも路側帯など引かれていない。反射板をつけた70〜80cmぐらいのポールが、路肩に10mぐらいの間隔で立っている。反射板ポールが立つ土の斜面はその下がいきなり水田で、少しでも道を踏み外したらたちまち泥まみれになってしまう。間もなく黄色のセンターラインが終わり、路側帯が引かれてセンターラインなしの道になった。道幅は変わらない。ついそこまで制限速度40km/hだったが、センターラインがなくなると50km/hになった。どういう違いがあるのだろうか【注2】。とにかく相変わらず水田地帯で、民家と工場、あるいは倉庫がところどころに見える。遠くに見える古い民家は、石垣が見事であった。
 やがて、民家も工場も倉庫もなく、ただ水田だけが広がるところに出た。道はさすがに広くなり、対面2車線白破線センターライン、そして片側だけだが歩道まで整備された道になった。家は1軒もないのに、車の通行だけは結構ある。車がなければ何もできない地域だから仕方がないが、田園地帯を自転車で走り続けていると、横を通り過ぎる車がとりわけ非情に感じられた。1回目の住宅地が途切れたあたりは、海津町平原といい、ここから入ると天昇苑とかいう海津市の斎場がある。この平原地区は、もともと旧今尾町に属していたが、昭和の大合併では平田町ではなく高須を中心とする海津町についた地域である。この地区に斎場がある理由は、こういういきさつを知ると何となくわかった気になる。
 西島という交差点まで来ると、行政が付けた矢印看板には、お千代保稲荷・羽島:直進、安八:左とあった。文字列としての地名は見たことがあるが、それがどういう位置関係なのかは全然ピンとこない。後で知ったが、お千代保稲荷(おちょぼいなり)は東海地区一帯に知られた有名な神社で、海津市随一の観光資源である。特に商売繁盛にご利益があるそうで、名古屋の商売人は、海津市という地名は知らなくても「おちょぼさん」の名前は知っているらしい。「お千代保稲荷」という行政の矢印看板はこの地区あちこちに出ているから、相当広い範囲から参拝客を集めているようだ。なお、お千代保稲荷に行った後は祖父江善光寺(愛知県稲沢市)に行くのがお約束であるという。
 西島交差点の北東側はコンクリート製品の工場らしく、穴を掘ってボンと置いたらそのまま溝ができる、U字溝の材料のような製品がたくさん積み上げてある。コンクリ工場からさらに北へ100mほど行くと、北北西に住宅の塊が見え、その家々の屋根のすき間から、赤い鳥居が初めて見えた。

 ところで、さっきから気になっていることがある。ここに来る相当前、平原の斎場入口のあたりから、左前方にショッピングセンターのようなものが見えるのだ。田んぼのはるか彼方、1〜2km先だろうか。屋上の白い看板に赤い文字が書いてあるようなのだが、目が悪いので読めない。
 まさか、ヨシヅヤってあれじゃないよね。さっきからずっとチラチラ見えているのがそうだとしたら、かなり西に戻る必要があることになる。どうしよう、急に不安になってきた。さっきあったコンビニで地図を見ておけばよかったと思う。今日は地図をろくに見ていないから、違っていたら目も当てられない。
 この道、真っすぐでいいんだよなあ。そろそろ半信半疑になり始めた私であったが、とりあえず直進を続ける。まあ、俺に限って間違うことなどあるまい。そう思うしかなかった。

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 【注1】馬目交差点〜鹿野交差点間は、津島南濃線と岐阜海津線の重複区間。
 【注2】現在は均質な2車線道路となっている。
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2017年04月25日

2014.07.18(金)(21)国立銀行のことA 私立銀行転換と銀行法

 政府の金融政策は試行錯誤を繰り返しつつ近代化に向けて進んできたが、その過程で激しいインフレーションが発生した。主に西南戦争の戦費調達が原因で、各国立銀行がそれぞれ紙幣を大量に発行したため、通貨の流通量が激増したのである。抜本的な解決を図るため、国立銀行の発券機能を停止して中央銀行を創設することになり、1882(明治15)年10月に日本銀行が開業する。これを受けて、1883年5月に国立銀行条例が再度改訂された。すべての国立銀行が開業免許後20年で紙幣の発行権を失い、その後は発券機能を持たない私立銀行に転換しない限り営業を継続できないことや、営業満期までに国立銀行紙幣を全て消却(回収)することなどが定められた。
 国立銀行条例の改訂を受けて、第七十六国立銀行は私立銀行に転換することになった。国立銀行としての営業満期は1898(明治31)年10月であったが、それより早く同年1月1日付で普通銀行の且オ十六銀行に転換した。一方、第百二十九国立銀行は、営業満期を機に2つの方針を決めた。それは、士族と平民が共同出資して一体となることと、西濃地区一帯に営業基盤を広げ、西濃地域の有力者(地主)にも株主に参加してもらうことである。これにより、第百二十九国立銀行は満期をもって解散し、新しい銀行を設立してそこに営業譲渡することになった。1896(明治29)年2月23日、国立銀行本店と同一の建物に椛蜉_共立銀行が設立された。新設の大垣共立銀行は、営業満期まで国立銀行と2年8か月間並存し、1898(明治31)年12月16日の営業満期と同時に継承した。
 その後のことも書いておくと、七十六銀行は1925(大正14)年11月、岐阜県太田町(現美濃加茂市)の東濃銀行【注1】を合併した。これにより営業網は一気に美濃地方の東部にまで拡大したが、この合併は地元を遠く離れた地域への営業網拡大で、無理な拡張は結果として七十六銀行の経営を圧迫することになった【注2】。一方、大垣共立銀行は1909(明治42)年7月、経営基盤を強化するため、かねてより親密であった金融財閥、安田保善社の傘下に入る。これにより、昭和前半の太平洋戦争終結までは、安田財閥により信用力が補完されていた。しかし、戦後GHQによる財閥追放の過程で、大共は安田財閥に関係する制限会社に指定されたため、特に昭和20年代前半には業容拡大もままならず、十六銀行と比べて伸び悩む一因ともなった。
 なお、ここで見たように、営業満期を迎えた国立銀行は、名称はもとより、そもそも私立銀行に転換するか否かまで、各銀行ごとの判断に委ねられた。このため、行名に数字を残した銀行では、「第」の字が付くものと付かないものとが存在する。長野県の八十二銀行は、1931年8月に第十九銀行と六十三銀行が合併した際に数字も合算したものであるが、見てのとおり「第」の字は前身銀行のうち片方にしか付いていない。

 1928年1月、銀行法という新しい法律が施行された。この法律は従来の銀行条例を補って広く普通銀行を司るもので、預金者の保護を目的に、小銀行の整理・過当競争の防止・健全経営の確保を図った条項が盛り込まれた。こうした法律がつくられた背景には、明治30年代から散発的に発生した銀行取り付けと金融恐慌があった。特に、この直前の数年間で、第一次世界大戦に伴う好景気と反動不況、関東大震災の影響による震災手形問題の発生、その問題処理を行う国会審議での大臣の失言がもとで起きた金融恐慌と、国を揺るがすような問題が続いていたことが挙げられる。具体的には零細弱小な銀行の経営破綻が相次ぐという形で国民生活に深刻な影響を及ぼしており、これまでの金融業界の動揺を反省して対策を講じたのである。
 銀行法が地方銀行の経営に特に大きな影響をもたらしたのは、資本金の下限が定められたことであった。法定資本金は、東京市・大阪市に本支店を有する銀行は200万円、既設の銀行で人口1万人未満の市に本店を有する場合は50万円、その他は100万円。この法に抵触する無資格の銀行は、全国の普通銀行1283行のうち半数近い617行にも及んでおり、各銀行は存続していくためには向こう5年以内に増資してこの条件を満たさねばならなかった。しかし、政府は銀行法によって資本力の弱い無資格の銀行を整理することを目論んでおり、銀行の合同を促進するため、単独での増資は認めない方針を採った。銀行法に先立つ1927年5月には大蔵省銀行局に検査課を設置し、銀行検査体制を強化して、無資格・有資格を問わず銀行合同を強く勧奨した。その後の経済状況の悪化などもあって、1283行あった普通銀行は、銀行法施行からの5年間で6割にあたる745行が姿を消し、538行に減少した。
 銀行法施行を機に、七十六銀行は思い切って他行との合併を選択することになった。同行は法定資本金を上回る150万円の資本金を持ち、またこの時点で計数に問題があったわけではない。ただし、七十六銀の経営は東濃銀行の合併で歪みが生じており、合併せずにいた場合は数年のうちに経営危機が表面化していた可能性もある。合併先は十六銀行と大垣共立銀行のどちらにするか行内で意見の対立があったが、最終的には大共に合併することになった。合併の条件は、存続会社を大垣共立銀行とする、合併比率は1:1、七十六銀の3支店を除く本支店を大共に引き継ぐ【注3】、従業員は勤続年数とともに全員を受け入れる、などとなっていた。
 こうして1928年5月1日、七十六銀行は大垣共立銀行に合併した。大共は七十六銀との合併により9支店5出張所【注4】を引き継ぎ、西南濃地区の基盤を固めただけでなく、加茂郡など美濃地方東部への進出を果たすことになった。

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 【注1】東濃銀行:1910(明治43)年11月加茂郡銀行として美濃加茂市太田に設立、1922(大正11)年12月東濃銀行に改称、1925年11月七十六銀行に合併。合併直前の預金残高約203万円、貸出金約216万円。店舗は本店のほか下麻生・兼山・川辺・西白川・広見・今渡・八百津・各務・加治田・岐阜・金山・那加・森山・羽黒・名古屋の15支店。
 【注2】東濃銀行を合併する直前の預金残高は約291万円、貸出金約229万円。店舗は本店のほか香取・今尾・駒野・野寺の4支店。
 【注3】この時除かれた3支店は出張所として引き継いだ。野寺・森山・各務。
 【注4】高須(旧本店、海津市)・香取(三重県桑名市)・今尾(海津市)・駒野(同)・太田(美濃加茂市)・川辺(川辺町)・西白川(白川町)・那加(各務原市)・羽黒(愛知県犬山市)の各支店と、野寺(海津市)・各務(各務原市)・森山(美濃加茂市)・多度(三重県桑名市)・石津(海津市)の各出張所。
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2017年04月24日

2014.07.18(金)(20)国立銀行のこと@ 76と129

 せっかく旧国立銀行の本店だった店舗を制覇したことでもあるので、いわゆる“ナンバー銀行”の歴史を少し詳しく見てみることにしよう。明治維新によって国立銀行の制度ができてから昭和初期の金融恐慌の頃までの、金融制度が試行錯誤された時期について、2回にわたり語る。

 明治政府は新政府樹立後、各藩主に版籍(領土と領民)を天皇に返上させる版籍奉還や、割拠的な藩制度を一掃して中央政府の直接統治に切り換えた廃藩置県など、中央集権体制を強化してきた。解放令を布告して四民平等を推進し、封建的な諸制度は相次いで撤廃。安定した財源確保のための地租改正や、華族・士族への恩給である秩禄を撤廃する秩禄処分など、財政基盤強化のためのリストラも行われる。これらを下地として、明治新政府は富国強兵策を推進していった。その主要な施策の一つが、通貨制度の整備と近代的金融制度の導入であった。
 明治初期の通貨制度は、著しく混乱していた。江戸時代と同じ江戸幕府発行の各種金銀銅貨のほか、諸藩の領内限りの藩札や、代用品としての外国貨幣まで流通していたためである。硬貨は量目や使用金属の純度・含有率が一定せず品質にバラつきがあった上、金・銀・銅の価格も激しく変動した。藩札は表示単位が藩によって異なるなど統一性を欠いていた。加えて、明治政府は財政難から、これらとは別に太政官札や民部省札など「不換紙幣」と呼ばれる紙幣を発行していた。不換紙幣は資産価値のある金属(金や銀)、あるいは政府の保証といった、貨幣の信用力を高める要素とは関係なく発行された紙幣で、財政難→乱発→価値の下落→インフレーションという悪循環を成していたから、金銀で信用力が担保された新しい紙幣(兌換紙幣という)に整理・統一する必要があった。まず1871(明治4)年に新貨条例を作って通貨単位を円・銭・厘の十進法と定め、次いで1872年に新しい政府紙幣を発行。また金融・商業機関として「通商会社」「為替会社」が設置されたが、これらは成功しなかった。

 政府はこの時期、欧米の金融制度を調査・研究し、近代的な銀行制度の移植を目論んでいた。1872年11月、伊藤博文や渋沢栄一らが中心となって国立銀行条例を発布、近代的金融機関としてアメリカ式ナショナルバンクの設立を奨励した。翌1873年から民間の出資を仰ぎ、三井組などの出資による第一国立銀行(東京)をはじめ5行が「国立銀行」【注1】として設立を認可された。この制度は、大量の不換紙幣を回収することを目的に作られたもので、各国立銀行は独自に紙幣(兌換紙幣)を発行する権限が与えられていた。実際に開業したのは4行であったが、資本金の4割を金貨で準備しておくなどの条件が厳し過ぎ、設立を申請する動きはこれら以外にはなかった。銀行経営に対する不慣れや顧客の無理解も重なり、国立銀行制度は発足早々に崩壊の危機に瀕した。
 打開のため、1876(明治9)年8月国立銀行条例を大きく改訂した。それまで資本金の6割までしか紙幣の発行ができなかったが、条例改正後には8割まで認められるようになり、また金貨の準備もしなくてよいことになった。
 加えて、国立銀行の設立にあたっては、華士族に対し特典が与えられた。これには前述の秩禄処分が関係している。新政府は廃藩置県によって、それまで各藩が担っていた旧藩士への給与などを背負い込んだが、その総額が国家予算の3割にも達し、国家財政を圧迫するものとして削減が図られたのである。1876年8月、国立銀行条例と同時に金禄公債条例が制定され、金禄公債証書を発行して華士族への給与は打ち切られた。
 特典というのは、国立銀行が大蔵省から銀行紙幣をもらい受ける際【注2】、国が回収しようとしていた不換紙幣だけでなく、華士族に支給された金禄公債証書を預け入れることも可能になったことを指す。版籍奉還で旧士族は働く基盤を失い、金禄公債を当面の生活費に充てたり、就業の資金としたりする者が少なくなかった。公債は発行の年から5か年据え置き、6年目から30年償還というシステムで、使い勝手が悪かったので、公債を受け取った士族には生活苦から換金を急ぐ者が多かった。華士族は公債証書を持ち寄って国立銀行を設立することで、株式の配当収入が得られるようになったのである。

 このように、華士族にとっては金禄公債の魅力的な活用法が開かれ、全国各地で国立銀行を設立する動きが続出した。国立銀行の設立認可は1879(明治12)年11月の京都第百五十三国立銀行を最後に打ち切られたが、それまでに岐阜県では5行が設立申請を行った。番号順に16(現岐阜市、以下同様)・46(多治見市)・76(海津市)・128(郡上市)・129(大垣市)の5行である【注3】。第十六国立銀行の後身は、現在も岐阜市に本店を置いて十六銀行として営業している。46番は愛知県に移転し別の銀行に買収されたが、買収した銀行は1933年に破産した。128番は1936年に廃業し、業務の一部は十六銀行に引き継がれた。
 そして、ここで特筆されるのが、設立認可順76番目と129番目であった。76番は高須支店のルーツとなった高須第七十六国立銀行。そして、129番の大垣第百二十九国立銀行は、大垣共立銀行本体の直接の前身となった銀行である。第七十六国立銀行は、1878(明治11)年10月25日に開業免許交付および設立され、翌年1月6日に開業した。資本金は7万円で、旧高須藩士によって設立された。第百二十九国立銀行は1878(明治11)年11月17日に設立され、開業免許は12月17日に交付、開業は翌年4月10日であった。資本金は7万円で、旧大垣藩士が設立者の大半を占めていた。両者とも、各旧藩の関係者によって設立されたいわゆる“士族銀行”であった。

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 【注1】ここでいう国立銀行は、国営もしくは国有の銀行ではなく、国の法律に基づいて設立・運営される銀行という意味で、純然たる民間の株式会社である。ナショナルバンクの直訳とされているが、誤訳に近い。この時設立認可されたのは、第一(東京)、第二(横浜)、第三(大阪)、第四(新潟)、第五(大阪)だったが、第三は内紛から開業には至らなかった。
 【注2】国立銀行条例改訂後の紙幣は大蔵省紙幣局(現国立印刷局)が製造していた。図柄の部分は各銀行共通で、代表者名(表面)と銀行名・地名(裏面)を加刷していた。
 【注3】銀行名に付けられた番号は原則として設立認可の順であったが、その後の経過によって設立日や開業日は前後している場合もある。なお、多治見第四十六国立銀行は、申請や認可の順では129番(大垣)よりも後であるが、開業せずに終わった宮城県の銀行の番号を例外的に付番されている。
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2017年04月23日

2014.07.18(金)(19)イエス、高須支店

 大垣共立銀行高須支店は、パッと見にはさっき行った駒野出張所と同じくらいコンパクトな建物であった。外観は南濃支店にそっくりである。これが、高須第七十六国立銀行本店を今に受け継ぐ、明治時代から続く名門支店ということになる。建物を見たら全くそんな感じがしないけれども、伝統ある店だからといって建物までそうだというケースは案外少ないのが現実である。私がよく知っているりそなグループで言うと、埼玉りそな銀行の川越支店(埼玉県川越市)は、1918(大正7)年竣工で国登録有形文化財となっている旧第八十五銀行本店を現在も使い続けている。こんなケースは全国的にもまれだ。
 支店の横は駐車場で、その入口に石灯籠が立っているところが、過ぎ去りし江戸や明治の世を感じさせる。コンパクトに見えた建物は、横に回ると奥行きがあって、やはり駒野出張所よりははるかに大きかった。表通りからは平屋建てのように見えたが、2階建てのようである。通りに面した所の幅は20mぐらいあって、出入口が2つ付いている。建物中央部の風除室のついた正面入口と、左端のキャッシュコーナーの入口である。
 まず、写真撮影を済ませよう。支店の向かい側に自転車を置いて、店の外観を撮影する。支店の写真を撮っている人が、他にもいた。店の「中の人」だろうか。高須支店は週明けの火曜日から海津支店に改称されてしまうため、「高須」の名前で制覇ができるのは今週限りで、まあ事実上今日が最後の日ということになる。連休の間に店頭の「高須支店」の文字をはがしたりするのであろう。それはいいとして、クロスズメバチだろうか、攻撃的な黒い虫が2〜3匹、灯籠のあたりをブンブンと飛んでいる。刺されはしないだろうが、ちょっと怖かった。まあ虫だけに無視しておくことにしよう。
 キャッシュコーナーでない方の前面入口には、金融機関として代理業務の一覧が出ていて、岐阜県指定代理金融機関という文字が見える。繰り返すが、大垣共立銀行は来年(2015年)4月から岐阜県指定金融機関になる予定である。その下には、愛知県収納代理金融機関、海津市指定金融機関、輪之内町指定金融機関、とあった。
 写真撮影を済ませて店に入る。前述したとおり、高須支店として窓口営業をするのは、今日が最後である。窓口の女性行員に、支店の名前が変わるのは来週からですよね、と話しかけたら、店名変更の告知チラシを1枚くれた。大共らしからぬ青いチラシであるのに少し驚いた。大垣共立銀行=緑というのが相当に定着しているので、あえてあまり使わない色を使用したのではないか。
 それでは、制覇にかかろう。ATMコーナーには2台のATMがあり、機種は富士通のFV20であった。うち1台、向かって右側の機械が手のひら認証対応というところは、今日これまで回ってきた海津市内の店とまったく一緒である。
 機械を操作。09:59、高須支店が無事制覇できた。今回の「めぐ」のそもそものきっかけが高須支店の名称変更であっただけに、最終営業日の本日ここを制覇することこそ、今回のメインイベント。美容外科のCMではないが「イエス、高須」であった。

 大垣共立銀行高須支店のルーツは、1878(明治11)年10月に当地に設立された、高須第七十六国立銀行にまで遡る。創業の地は現在の海津市海津町高須町741番地で、これは高須支店のある場所そのものである。開業は1879年1月6日であった。
 一方、大垣共立銀行自身も高須に店舗を持っていた。1900(明治33)年2月に開設された高須支店である。もとは美濃実業銀行【注】高須支店として1897年7月に開設されたが、同行が1900年6月大共に合併されることになり、それに先立って大共が同支店内に高須支店を開設したもの。大共の社史ではこちらを高須支店の“本流”としている。店舗は現在の高須町726番地にあった。現支店の北50m、さっき曲がってきた丁字路の北東角で、現在は駐車場になっている。
 1928年5月1日、七十六銀行(高須第七十六国立銀行改め)は大垣共立銀行に合併し、同時に大共高須支店は七十六の本店に移転。以来、この場所が大共の高須支店となった。1977年9月現在地で店舗を新築し、これが現在使われている店舗である。そして、本文で何度も述べているとおり、海津市内の店舗網再編に伴い、週明けの火曜日(2014年7月22日)、高須支店は海津支店に改称された。

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 【注】美濃実業銀行:1881(明治14)年5月設立。現在の大垣市船町に本店を置き、5本支店1出張所2出張店を持っていた。1900年6月大垣共立銀行に合併。大共とは一部役員が兼任で、人的に親密だった。店舗は本店のほか高須(海津市)・笠郷(養老町)・御寿(輪之内町)・神戸(神戸町)の各支店、加納(大野町)・氷取(安八町)の各出張店、黒田出張所(揖斐川町)で、合併により高須・神戸・加納・氷取・黒田の5店が大共の支店となった。
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2017年04月22日

2014.07.18(金)(18)江戸時代にタイムスリップ

 自転車は次の目的地に向かう。海津市の中心的な店舗にして、旧国立銀行本店を継承した由緒正しき店舗、高須支店である。
 今来た道を市役所の北側まで少々戻り、そこから水田の真ん中を西に向かう。センターラインを引けば対面2車線になりそうな、少し幅の広い舗装道路が出ている。庭の広い古い民家は、農家だったのだろう。このあたりは石垣の上に建っている家が多い。それも1mぐらいの高さの石垣が2段3段と階段状に積まれていたり、道路沿いが1段だけだがその奥が2段3段になっているなど、高度が高い。こうした、石垣上に家屋を建てるスタイルこそが、「輪中」と呼ばれる地域に特徴的な家の建て方なのであった。
 濃尾平野の輪中については、小・中学校の社会科で習うハズの内容だが、ここで改めて思い出していただこう。この平野を流れる揖斐川・長良川・木曽川の3つの川は、濃尾三川と呼ばれる。降水量の多いところを源流とする流量の多い河川で、古くから暴れ川であり、流域住民は長い間洪水と闘ってきた。まず、浸水しては困るところから堤防を築く。それが進んでいくと、やがてその土地は堤防でぐるりと囲まれることになる。こうした地域のことを、輪の中と書いて輪中という。
 明治時代はじめ頃には、濃尾平野全体で大小80もの輪中があったという。現在では堤防をつなげて複数の中小輪中を合併し、大きな輪中となっているところが多い。その代表例とされるのが、ここ海津市の東半分を占める高須輪中であり、46.5㎢と輪中の中で最大面積を誇っている。
 輪中内では、住民たちは水防を中心に強固な共同体を形成しており、そこから特徴のある景観が生み出されてきた。それを代表するのが、水屋建築と呼ばれるものである。標高の低い場所では、住居は自然堤防と呼ばれる微高地上を選んで建てられる。それだけでは大水に対処できないので、輪中地帯では石垣を築いて土を盛り、人工的に高くした土台の上に家を建てた。さらに、堤防が決壊して洪水が押し寄せたような場合に備え、母屋より土台を1mあまり高くして建てられた別棟が設けられた。この別棟を水屋という。輪中にいったん水が入ると2週間以上も水が引かないことがあったから、こうした食料や寝具などを備蓄した避難所が設けられていた。水屋を母屋とは別に用意できたのは富裕層だけで、水屋を持たない層は、助命壇と呼ばれる部落内の共同の避難所に避難したという。

 石垣の上が畑になっている土地があった。地形の起伏が激しい土地でならありふれている(さっき駒野でも見たばかり)だが、低平な見渡すかぎりの水田地帯では珍しい。畑をわざわざ石垣上に上げるハズはないから、かつては家屋が建っていたのであろう。高須のような城下町でも最近では過疎化が進み、石垣上に建てられた家屋も住む人がいなくなって、取り壊すケースが出てきたのだと思われる。
 間もなく道は突き当たり、城下町らしく左右にクランクしている。そこで、川を渡る。掘割みたいなもので、さっきの大江川とは異なり、橋の手前が坂道になっているわけではない。クランクの先には、ちょっと由緒正しげなお寺さんがあった。釣鐘堂一つを取っても立派である。ここは真宗大谷派の高須別院で、いわばこの地域の浄土真宗の総元締のような寺である。岐阜県には真宗大谷派の仏教寺院が多い。本堂が高いところに上げてあるのは、水屋を持たない人々のための助命壇の役割を担っていたのであろう。
 高須別院裏の石垣を見ながら道がまたクランクし、お寺さんがもう1軒あった。こちらは石垣の上に門がある。さらに左奥にも寺があるが、このあたりは寺町なのだろうか。そう思いながら、突き当たりを右へ。石垣の上を立派な屋根つきの塀で囲んだ由緒正しげな民家は、石段を上がった塀の真ん中に門構えがあったりする。
 道が突き当たり、そして曲がる。これを1〜2回繰り返し、江戸時代から続いているらしい古びた商店街に入ってきた。ここが、高須の町の中心部であった。白壁土蔵の商店建築と屋根つき土塀に囲まれたお屋敷街を持つ高須の町は、イマジネーションを駆使すれば、150年前の城下町にタイムスリップできるかもしれない。こうした家々がきれいに維持されているのなら、この町を舞台とした映画を撮ってみたいと思えた。ただし、さっきのお屋敷は枯れ草にまみれて幽霊屋敷のようだったし、店舗も営業していないものが多いのが現状である。

 そして、道が何度目かの突き当たりになった時、左を見た。おお、目指す大垣共立銀行の、緑色の縦型看板が見えるではないか。看板に向かって、商店街の中を喜び勇んで自転車を漕ぎ進めた。
 商店街は畳んでしまった店ばかりで、何を売っている店かもわからないものが多かった。屋号だけ出した土蔵建築の店が、いたるところにある。土蔵造りの建物は、壁が黒いものと白いものとが混在している。黒壁は黒漆喰といって白壁よりも高級品。無知をさらすが、私はこの黒漆喰を、最近まで太平洋戦争中の空襲除けだと思っていた。ひらがな5文字で■■■■やと書いてあるのは、呉服屋だろうか。ブティックと書いてある店もあるが営業はしていないようだ。クリーニング屋は開いているようだが【注】、この店では箱ティッシュなども売っているようだ。地方に行くと、個人商店は本来の業種を飛び越えて「何でも屋」になっているところが多い。ここもそうなのだろう。あるカバン屋は店先のテントがビリビリに破れたままで、色も赤が褪せてピンク色のテントのようになっている。大共の斜め向かいにある果物屋は営業している様子であった。そのすこし先では、床屋の回転灯がぐるぐると回っていた。
 それにしても静かである。自転車に乗ったおばちゃんが1人向こうからやってくる。支店の前からお爺さんが1人自転車で立ち去ろうとしている。人の気配はその程度であった。

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 【注】ここで見たクリーニング店は2016年12月で閉店した。
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2017年04月21日

2014.07.18(金)(17)「ピピット」のこと

 今日ここまで「手のひら認証」という言葉を何度も使ってきた。預金のセキュリティを向上させるため、あらかじめ登録した身体的な特徴の情報をもとに本人確認をする、生体認証システムの一つである。日本の銀行では、りそなグループのように親指を使うものと、三菱東京UFJ銀行のように手のひらを使うものと、2陣営に分かれている。
 大垣共立銀行はこれらのうち、手のひらの静脈による認証を採用している。一般的な銀行の生体認証は、キャッシュカードと暗証番号を用いた上で、セキュリティを「強化」する手段として行われていることが多い。大共はそれより進んでいて、生体情報の登録さえ済んでいれば、カードがなくても、機械に手のひらをかざすだけで預金の出し入れができる。津波で家財道具一式を洗い流されてしまったような場合を想定しているが、私などは、ポケットからキャッシュカードを出すことすら面倒に感じられる夏の炎天下、カードを持ち歩かなくても大共の「めぐ」ができるので重宝している。
 大共は、このサービスに「ピピット」という名前を付けて大展開している。私はこの「めぐ」の少し前、大共の別の店に行った時に、手のひら認証の登録を済ませてきた。今日はここで「ピピット」の取引を試してみることにする。
 まず初期画面。取引の種類がたくさん並んだ一番最初の画面で「お預け入れ」を押す。すると「簡単取引」と「手のひら認証」の2択になっている。「手のひら認証」のキーを押すと、生年月日の入力になる。『ドラえもん』の野比のび太であれば、昭和39年8月7日で【注1】、3・9・年・8・月・7・日、と7回押すことになる。慣れればまあリズミカルにやれなくはない。その後いよいよ、認識装置に静脈情報を読み込ませる。ATMの指示に従い、手首を平らに置いてかざしていると、“ピピット”というユーモラス(?)な音声が出る。これで完了、と言いたいところだが、一発で認識できることは案外少なくて、スキャンはやり直しになることが多い。認識精度が良くないのではなく、チェックが厳密過ぎるのだと思う。なお、預金引き出しの場合はこの後さらに暗証番号も必要である。
 私個人の感想としては、生年月日の入力がやや面倒臭いと感じる。数字キーとは別に「年」「月」「日」のキーを押さなくてはならないからだ。数字だけで「390807」のように一気に入れられるようにして欲しいし、欲を言えば西暦にも対応して欲しい。預金引き出しの際は、手のひらをかざした後さらに暗証番号を入力させられるけれども、生体情報を登録してあるのであれば、生体情報と誕生日、または生体情報と暗証番号だけで十分ではないかと思う。それから、手のひらのスキャン。なかなか認識しないことがあるのは閉口する。
 まあ、先駆的なサービスであるのは間違いない。データが蓄積されてくれば改善されると期待したい。

 大共がこの「ピピット」なるサービスを始めるきっかけとなったのは、2011年3月11日の東日本大震災であった。大共は震災以前から「レスキュー号」という災害支援車両を持っていた。衛星通信回線を使用して本部とやり取りするATMを搭載したマイクロバスである。東日本大震災が起きた時、大共は被災地支援の一環として、この「レスキュー号」の派遣を現地の複数の地方銀行に打診した。しかし、派遣の要請は1件もなかったという。被災者は、ATMでの取引に必須のキャッシュカードや通帳を津波で流されてしまっていた。周知のとおり、通帳や印鑑を自宅に取りに帰り、そこで命を落とした人もいたのである。
 この一件をきっかけに、震災の翌月から「預金者の身体ひとつで預金が下ろせるATM」の開発を開始。大共のシステム部員はATMのメーカーを訪ね歩き、富士通と沖電気工業の協力で、手のひらの静脈による認証技術を使った生体認証システムを構築することになった。静脈の情報に生年月日と暗証番号を組み合わせ、認証精度とセキュリティを確保する。こうして、カードや通帳がなくても手のひらだけで取引できるATM「ピピット」が誕生した。サービス開始は2012年9月のことであった。
 キャッシュカードを使わずに普通預金の入出金ができるばかりでなく、大規模な地震(震度6弱以上)の発生時に普通預金に自動で切り替わる震災対策定期預金や、災害時に当初1年間は無利子で融資するローンなど、大共では手のひら認証を生かした商品を各種販売している。また将来的には、手のひら認証もATMにとどまらず、手のひらだけで店舗での買い物ができるようにする構想もあるという。手のひら認証の登録者数は50万人にも迫る数に達している【注2】。

 さて、この「ピピット」に限らず、大垣共立銀行は年中無休ATM・店舗など、全国初となるような目新しい商品・サービスを相次ぎ打ち出している。こうした営業方針は、アイデアマンとして知られる頭取の土屋嶢氏【注3】によるものが大きい。1946年生まれの土屋氏は、慶応大学在学中には放送研究会に所属していたこともあり、もともと銀行よりもマスコミ志望だった。大共の頭取だった父親の斉氏に説得されて富士銀行に入行するが、最初に配属された東京・新橋支店では支店内での新聞発行を発案し、編集主幹を名乗りコラム欄に街ネタを多く書いたという。土屋家は大共の創業家というわけではないが、祖父も大垣共立銀行の頭取であり、嶢氏は3代目ということになる。7年ほどで富士銀から大共に移り、1993年6月頭取に就任。この時、当時の地銀で最年少の46歳であった。2017年の今、頭取として在任24年になるが、前の連載で触れたみちのく銀行の故・大道寺小三郎氏とはまた違ったタイプの銀行経営者と言える。
 土屋氏は近年では作詞にも取り組んでいる。作詞家「つちやたかし」としてのデビューは2010年。グループホームの経営者と酒を飲んだのがきっかけで、ホームの歌を書いたのが最初だという。銀行内の複数の歌やガス会社の社歌を手がけたのち、2013年、手のひら認証ATMのCMソングを作詞した。つちやたかし作詞、渡辺ヒロコ作曲・歌の『世界に一つしかない手のひらに』は、通信カラオケでも配信されている。ブラザー工業系のJOYSOUNDには「本人映像」と「スタンダード」の2種類があり、うち「本人映像」では、この曲のためにつくられたイメージビデオがそのまま流れている。大共は行内にテレビスタジオを持っているから、大共本店の映像が含まれるこのビデオは、行内のスタッフが制作したのだろう。蛇足ながら、私はこの曲をカラオケで毎月歌っている。

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 【注1】のび太の誕生年にはいくつかの説があるが、ここでは最も一般的と思われるものを採った。
 【注2】2016年12月に44万人を超えた。
 【注3】土屋嶢(つちや・たかし)氏:1946年8月9日東京都生まれ。1970年3月慶応義塾大学法学部卒、富士銀行(現みずほ銀行)入行。1977年5月退職、同年6月大垣共立銀行入行。融資部審査役、総合企画部部長代理、名古屋支店副支店長、同支店長兼名古屋事務所長を経て、1982年6月取締役、名古屋支店長兼名古屋事務所長委嘱、1983年4月名古屋支店長委嘱、同年10月外国部長委嘱、1984年6月常務取締役、同委嘱、同年10月解嘱、1986年6月専務取締役、1991年6月取締役副頭取、1993年6月代表取締役頭取、現在に至る。
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2017年04月20日

2014.07.18(金)(16)続いて[海津市役所]を制覇

 [ホームセンタークロカワヤ]の次は[海津市役所]に向かう。
 県道津島南濃線を引き続き東へ進む。「和風レストラン海津」という店舗があるが、ここは割烹などをやっている大規模な料理店である。VIPを接待するような店が成立するだけの基盤が、小さいなりに高須近辺にはあるということだろう。また、このあたりには川魚を食べる文化がある。水の豊富なエリアゆえ、水田などで魚が多く獲れたのだそうで、この割烹レストランでもフナやモロコなどの川魚を提供している。間もなく、海津市役所右と青看板の出ている信号で右に曲がる。斜めにクロスしているこの交差点は馬目(まのめ)といい、南側鈍角部分はセブンイレブンの典型的なロードサイド型店舗になっている(海津町馬目店)。
 どう流れてくるのか知らないが、さっき渡ったハズの大江川をまた渡った。この橋の欄干は、普通の鉄の欄干に板を張って白壁に見立て、瓦屋根のようなものを付けている。欄干も親柱を城の天守閣のような形にしてあって、なかなか凝っている。高須城は平城で、天守閣はなかったそうだけれども、高須藩三万石の中心地としての風情を演出しているのだろう。三万石では藩としては明らかに小さいが、高須藩の松平家は尾張徳川家の分家にあたり、藩としての格式は非常に高かった。白虎隊で有名な会津藩最後の藩主、松平容保をはじめとする「高須四兄弟」の出身地でもある。そういえば、この県道岐阜高須線は、岐阜県道のナンバーでは「1号線」である。ここと県庁所在地とを結ぶ県道が、真っ先に付番されていることに少し感心した。
 橋を渡ってスロープを下りる。川の手前は水田地帯だったが、大江川を渡ると住宅地になり、駒野や石津と同じような感じで古い建物が並んでいる。商店街もあるようだ。「馬目町」の信号から奥の方を見ると、木造の渋い焦げ茶色の建物がいくつも見え、古い集落が広がっている。念のため、さっきのセブンイレブン横の信号は「町」がつかない「馬目」である。

 左前方に突然、容積の大きな建物が現れた。ここが、次なる目的地の旧海津町役場、すなわち海津市役所であった。
 市役所の外壁は、いかにも工事進行中という感じで、白い鉄板とグレーのスクリーンで覆われていた。鉄板の上に、大垣共立銀行の緑色の看板が控えめに出ている。それ以外に銀行の影が感じられないが、建物の中にあるせいなのか。そう思って敷地内に入ってみると、1階は内装をはがして骨組が露出している。工事の様子からすると、吹き抜けを造ってそこを庭園にするようだ。
 海津市役所はこの時点で、外壁の塗り直しだけでなく、相当大掛かりな改造工事をしていた。南濃庁舎のところでも触れたが、海津市役所は3町合併以来分庁方式で、合併前の3つの町役場に部署が分散していた。これらを高須の海津庁舎に集中させるため、建物の増築やリフォームが行われていたのである。工事が終わってから再訪してみると、道路に面した側は意外に小さな建物だった。これが旧海津町役場で、その東側に4階建ての箱型の建物を新築してあった。キャッシュコーナーは工事以前のままのようだ。工事で鉄板をかぶせる時に、旧来からあるキャッシュコーナーをそのまま利用できる形でかぶせたと見える。
 目指す大共のATMは、2階部分の下、柱で囲まれたピロティに建つ、ステンレスの独立小屋であった。「屋上屋を架す」の反対で、屋根の下に屋根付きの小屋を建てたような感じであるが、工事中の今は白い鉄板で覆われて、物々しい雰囲気が漂っている。いちおう、建物の外に露出しているようだ。ATM小屋は、今日これまで複数の店舗外ATMで見たような大共の標準スタイルではなくて、他行の店舗外ATMでも見かけるような、ステンレスの枠にガラスをはめた直方体の箱である。ATMは、手のひら認証つきの富士通FV20が1台であった。さすが公共施設のATMには最新鋭の機能が入っている。09:43、[海津市役所]を制覇した。

 高須支店海津市役所出張所は、高須支店初の店舗外ATMとして1987年12月開設された。当初の名称は[海津町役場]といったが、2005年3月の3町合併により[海津市役所海津庁舎]に改称。さらに、市役所東館の落成に伴い、2014年4月「海津庁舎」の呼称が取れ、シンプルな[海津市役所]の名称となった。週明けの火曜日(2014.07.22)から母店が海津支店に名称変更することは言うまでもない。
 所在地の自治体名はかつて高須町といったが、1955年1月に高須町と4村の合併で海津町が発足した。2005年3月の合併で現在の海津市となっている。

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2017年04月19日

2014.07.18(金)(15)[ホームセンタークロカワヤ]を制覇

 福岡大橋を渡り切った。旧町名で言うと南濃町を出て海津町に入ったことになる。
 橋を渡りきった福岡大橋東の交差点で、堤防上の道路とクロスしている。堤防を降りた先に住宅の固まりがいくつか見えるが、中でも右前方の特に大きな固まりが、これから行く高須の町であるようだ。
 堤防上から町の手前まで、県道8号津島南濃線のスロープを一気に駆け降りた。坂道が途切れ、自転車を自力で漕がねばならなくなったあたりから、ふたたび人の住む町に入ってきた感じがした。旧海津町の中心地、高須が始まったのであった。ただ、中心地といってもそれなりに空き地は多くて、ロードサイド型の店と民家と空き地が1/3ずつぐらいの比率で混然一体としている。
 海津警察署の手前にある信号のない交差点では、若い女性が運転する軽自動車が、私が横断しようとする横でなかなか行こうとしなかった。早く行けばいいのにと思っていたが、どうやら止まっていてくれたらしい。

 少しだけ上り坂になっている。小さな川を渡る橋の手前がスロープになっているのだった。ガードレールだけの橋が付いていて、木曽川水系大江川とある。川幅は結構広くて、20〜30mもあるだろうか。川の流れは道の南側で90度曲がっており、その向こうに見える学校は岐阜県立海津明誠高校という。橋のそばには、海津市役所海津庁舎/信号3つ目右折、と書いた看板が出ていた。ここまで来ると、金融機関の看板が一気に3つ見えた。桑名信用金庫、十六銀行、そして、言わずと知れたもう一つである。
 橋を渡ったところに、スーパーマーケットをはじめ比較的新し目の商業施設が建ち並んでいる。どの店も駐車場完備であるのが現代である。道の北側には、食料品店と百均のダイソーがテナントに入った生鮮館というスーパー。桑名信用金庫があって酒屋。その隣は海津名店街という2階建ての棟割長屋で、店舗が6店舗ある。その隣に雑居ビルがあって、交差点の北西角には十六銀行がある。携帯電話ショップが複数、auもドコモもあって、都市型の生活は不自由なくできるようだ。ソフトバンクの店も少し手前にあった。
 酒屋の店先にある郵便ポストは、美濃松山駅前と同じく取集が羽島郵便局であった。羽島市の影響下にあるこの地域に桑名信用金庫があるのは少し意外に感じた。1980年10月開設の海津支店である。こんなところまで桑名の勢力圏なのかと思ったが、調べてみると、さすがにここが桑名信金の店舗の中では最北端であった。海津市自体がそうしたマージナルな地域なのであろう。桑名信金はここを含めて海津市に2店舗を展開しており、もう1店の松山支店はさっき養老線美濃松山駅の南側にあった。
 向こうに見える十六銀行は高須支店という名前で、まだ新しい建物に見える。岐阜県のトップバンクである十六銀は、1980年代以降、西濃(美濃西部)に相次いで新規出店した。現海津市エリアでは、1983年12月出店の南濃支店を母店として、今尾・高須に出張所を出し、3町に1店ずつ店を整えた。これらの出張所は1993〜94年にかけて相次いで支店昇格し、最盛期には海津郡各町それぞれに支店があった。結局、2003〜2006年に統廃合が行われ、いまとなってはこの高須支店が十六銀の海津市唯一の営業店となっている。高須支店は1992年6月に出張所として開設され、1993年11月支店に昇格した。このエリアでは最も遅く出店した店舗であった。

 大垣共立銀行の看板は、スギドラッグというドラッグショップの隣にある。ここにあるのは、ホームセンタークロカワヤ出張所であろう。近づいて見ると思ったとおりで、道路から少し奥まったところに文字通りのホームセンターがあった。個人経営の荒物屋が店を拡大したような感じで、大規模なチェーン店というわけではなさそうである。クロカワヤはもともと高須の中心部にあった荒物店で、1977年に現在地に郊外移転してホームセンターとなった。毎週水曜定休で、営業時間は8時〜20時。社名は株式会社黒川屋である。代表取締役は黒川さんではないようだが、女婿だからだろうか。ホームセンタークロカワヤの店舗はここ1店だけしかないようで、公式ウェブサイトもなく、これ以上のことはわからなかった。個人商店と大差ない規模の会社だと、ホームページを出す余裕がないのかも知れない。
 ホームセンターの道路に面した部分は駐車場になっていて、駐車場の隅、ドラッグストアとの境界付近に、店舗外ATMの独立小屋が1軒建っている。例によって、1992年型の大共おなじみスタイルの小屋であった。母店は高須支店【注1】。機械は富士通のFV20が1台だけで、手のひら認証にはなっていなかった【注2】。09:32、[ホームセンタークロカワヤ]を制覇。後で記帳してみると、ここの通帳表記は<クロカワヤ前>となっていた。

 高須支店ホームセンタークロカワヤ出張所は、高須支店2番目の店舗外ATMとして1995年12月に開設された。

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 【注1】高須支店は2014年7月22日「海津支店」に改称した。
 【注2】現在は手のひら認証対応の機械が入っている。
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2017年04月18日

2014.07.18(金)(14)いよいよ自転車で漕ぎ出す

 09:11、私はついに、駒野駅から自転車で美濃地方西南部の大地に漕ぎ出した。予定より4分早い。というか、順調に予定どおりと言ってしまって差し支えないだろう。
 さっき通った駅前の下り坂を再び下りるが、大垣共立銀行駒野出張所に行く時曲がった四つ角までは行かず、1つ手前で右に曲がる。時間が止まってしまったような古めかしい家並みの中、ゆるい坂道をゆっくり下る。古い街並みはだいぶ歯抜けになっていて、更地になったところが多い。右カーブの先にはNTTの交換所のような施設があり、書店が1軒。この地の郵便局(南濃局)は集配局のようだ。郵便局の先には「おしゃれ洋品」の文字を付けたしもた屋が1軒。パラペットは白く塗りつぶされている。ローマ字の屋号は「hya Ka Do」となっている。ヒャッカドウと読ませたいのだろうがヒャカドウとしか読めないし、大文字と小文字の使い方も危なっかしい。私は編集の仕事をしていたことがあるので、どうしてもそういうところに目が行ってしまう。
 間もなく丁字路で突き当たり、ここで右折すると養老線が頭上を越えている。この丁字路から、上り坂が始まっていた。養老線のガードの先に、コンクリの万年塀が続いているのが見える。さっき駒野駅から見えたナイガイテキスタイルの工場である。だいぶ古めかしい工場であるのは駅から見てもわかったが、改めて古さを感じた。この工場は1933年にできたそうである。東海毛糸紡績という会社の毛糸工場であったが、1943年5月に東洋ベアリング製造(現NTN)に売却されてベアリング工場となった。戦後1948年9月に内外綿(現新内外綿)に譲渡されて紡績工場になっている。ナイガイテキスタイルは駒野工場を1978年2月に分社した時の社名である。
 自転車の漕ぎ加減が大体わかってきたところで、いったん止まる。サドルが低いので高さを調整した。ネジを回して座面を動かしながら、私は少々の不安に駆られていた。この自転車、果たして大丈夫なのだろうか。ペダル周りはガタガタしているし、チェーンも噛み合わせがガクガクいっている。これから40kmもまともに漕げるのかしら。少額100円とはいえ、金を取っている以上はまともに走れるのを貸してくれないと困るのである。しかも、駅前からここまで数百m走っただけだが、今日これからの道程は思ったより起伏が激しそうであった。
 まあ、愛車を信じるしかない。再び自転車を漕ぎ始める。テキスタイルの正門前からなだらかな上り坂を上がり、対面2車線の幹線道路にぶち当たった。この道が、県道8号津島南濃線、つまりさっきの南濃庁舎の前につながる道である。角には焼却炉の展示販売をやっているコーナーがある。カーディーラーがガラス張りの店内に新車を置いているような感じで、焼却炉を野外で展示している。カーディーラーとの違いは、道から展示場所に24時間好きなように入れるところである。焼却炉展示場の隣は、コイン式精米所であった。
 そんな四つ角で左折して県道に入ると、長い下り坂であった。ようやく、気分の良いひと時がやって来た。自分の体重だけで一気に坂を駆け下りる。自転車のペダルがガクガクいっていることは一瞬忘れた。ただ、心配性の私は、駅に戻る時に上り坂になるのではないかと怯えてしまう。ともあれ、下り坂が始まるあたりから人家はなくなった。
 右側を川が流れている。羽根谷という名前の川だが、これは天井川ではなく普通の扇状地の川で、道路より低いところを流れている。県道はその横を切り通しで下がっていくように見える。切り通しのようになっているのは川の堤防で、ここは道路に接する部分の斜面をコンクリで固めている。だいぶ擦り切れているけれども、「薩摩カイコウズ街道」とペンキで書いてあった。
 養老鉄道のガードがまたあり、それをくぐると頭上にはオーバーパスがもう1本。こちらは大共駒野出張所の前に続いている。オーバーパスで県道を越えなければ、少し先でこの道に合流できる。今思えば駒野出張所の前からここに出てくればよかった。

 坂を下りきって平地になったところで、揖斐川の堤防道路とクロスし、その先には長大なブルーの橋が架かっている。大きな川が左から右に流れ、川下側には大きな堰が見えている。この巨大河川が揖斐川であり、それを越えた先が、次の目的地・高須であった。
 揖斐川を渡る橋は、欄干以外に何もないシンプルな外観をしている。1972年11月竣工というこの橋は、福岡大橋という。福岡は揖斐川を渡ったところの地名である。「福岡大橋」というが、正確には同じような体裁の橋が2本連続で架かっており、川も2本ある。手前、西側の橋は津屋川橋というそうだから、まあ常識的には手前の川は津屋川という名前なのだろう。養老線には駒野の北隣に美濃津屋という駅があるから、そのあたりを流れてくるのだと思う。調べてみるとその通りであった。なお、大正から昭和にかけての一時期、大垣共立銀行は津屋に出店していたことがある【注】。
 というわけで、津屋川を渡り、揖斐川を渡る。この橋は対面2車線の黄色センターラインの道で、車道の両端に一段上がった歩道が付いている。歩道と車道を隔てるガードレールはパイプ。ビル工事などで足場に使うようなパイプを使ったガードレールだが、恒久的なものである。福岡大橋(実は津屋川橋)を渡ってくると堤防がもう1本あって、この堤防の先が本当の福岡大橋となる。2本の川は左から右の方に流れていくハズだが、どちらもよどんだように水がたまっている。福岡大橋の欄干につけられた看板には《木曽川水系揖斐川、河口まで23.4km》とあった。河口から20km以上も離れたこの地で、これほどまでに流れが止まっているということは、川の傾斜が緩いのだろう。後で福岡大橋周辺の標高を調べてみると、1.2mとか0mとかいった数字が出てきて唖然とさせられた。標高が極めて低いのである。これでは流れていかないわけだ。
 福岡大橋は、揖斐川の水の上に架かっている部分は半分ぐらいで、残りの半分は草地が広がる河川敷になっている。右岸側(西岸)に1/5ぐらい河川敷の真平らなところがあって、2/5ぐらい水面。残り2/5がこれまた真平らな河川敷である。西岸を見ると、小舟が2〜3隻係留してあった。山本周五郎の『青べか物語』に出てくる「べか舟」みたいな感じだが、今の世でも水際でいろいろな生活をしているものだと思う。左岸側、東岸の河川敷は、大きく除草されて真っ平らな土地として整備されているけれども、川との境界は、水がひたひたしている中間領域のようなところで、草や木が生い茂っている。南の島のマングローブみたいな感じの植生が、東岸だけでなく西岸にもあった。植物の名前は全く分からないが、広葉樹。水際のじめじめしたところには、こうした木が好んで生えるようだ。

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 【注】1918.07.19津屋代理店開設、1925.10.30津屋代理店廃止。1928.03.01津屋出張所開設(養老郡下多度村大字津屋1779、現海津市南濃町津屋1779)、1928.12.31津屋出張所廃止。
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2017年04月17日

2014.07.18(金)(13)“愛車”との出会い

 駒野駅を09:15に出発する計画である。さあ、駅に戻ろう。
 役場前の赤信号が思いのほか長くて少しイライラしたが、もちろん大した問題ではない。さっき来た道をカバンをギシギシさせながら戻ると、今度は踏切でひっかかった。
 踏切待ちの間に周囲を見回すと、さっきの栗林の手前に1本だけ桑の木が生えているのに気が付いた。大正時代あたりまで遡ると、このあたりは一面に桑畑が広がっていたのだろう。かつて生糸の輸出が盛んだった頃は、繭をつくるカイコガの餌として必要な桑を栽培していたが、養蚕が流行らなくなって柿や栗に植え替えたわけである。そういえば、今朝乗り換えた駅も「桑名」というのであった。といったようなことを、電車が右から左へ通り過ぎるのを見ながら思った。この踏切を役場を背にして左に向かうのは、駒野駅を出て大垣に向かう電車である。車内には客の姿が一人も見えなかった。踏切からは電車の窓を見上げることになるから、角度的に見えなかったのかも知れない。
 駒野駅への道みち、消火栓や用水路の蓋など、町中のいたるところに残っているマークが気になった。旧南濃町の町章で、南濃の「な」の字を図案化したものである。海津市となった今、このマークを使うこともないのだろう。銀行ウオッチャーとして、平仮名の「み」をシンボライズしたみちのく銀行(青森市)のマークを思い出したが、後日、奈良信用金庫(奈良県大和郡山市)のマークが南濃町章に似ているのを発見して驚いた。南濃町章のパーツを直立させるとそのまま奈良信金のマークになる。なお、市町村章としては、愛知県長久手市が南濃町章と同じ意匠の市章を現行使用している。

 時計の針が9時ジャストになったところで、ちょうど駒野駅に帰着した。時間的には良い塩梅と言える。ここで一つのミッションをこなす。自転車の借り出しである。
 養老鉄道は、自転車の利用には好条件が揃っている。レンタサイクルは、多度・駒野・養老・西大垣・揖斐の各駅で取り扱っている。他の駅とルールが異なる西大垣駅を除き【注】、朝9時から(土・休日は始発から)終電まで利用できる。レンタサイクルの取扱駅であれば、借りたのと違うところに返却しても構わない。身分証明書提示で、普通自転車1日100円、電動自転車510円(多度駅のみ)。また、サイクルトレインというのもある。平日9〜15時、休日は終日、自転車を1人1台まで電車に持ち込んでよいことになっている。対象は桑名駅を除く全駅。今日はサイクルトレインは利用しないけれども、後日確認のため当地を再訪した際には大いに役立った。
 さて、さっき駒野駅に着いた時、改札の駅員に「後で自転車借りますから」と一声かけておいた。出札窓口に顔を出すと、駅員が私の顔を見るや否や、A4判の紙を1枚差し出した。自転車の利用申込書である。コピーを繰り返したらしく、印刷の文字はだいぶかすれていた。用紙を書き終えて窓口に提出したところで、さっき桑名から美濃松山まで行くのに乗ったオレンジ色の電車が、大垣まで行って戻ってきた。
 運転免許証を提示して、手数料100円を支払うと、いよいよ借り出しである。窓口の駅員氏が出てきて、私を改札の中へ招き入れた。ホーム側、改札前の屋根の下に、銀色の自転車が2台置いてあった。この駅には自転車が2台しかないようだが、この街の様子からしたらこれで十分な台数なのだろう。前後のリムには、大垣市にある自動車教習所の大きな広告が付いている。マリリン・モンローの夫であった米国メジャーリーグの選手を想起させる名前の教習所であるが、最近になって、東京の私鉄である京王線の車内にも、同じ会社の教習所が広告を出すようになった。各地の自動車教習所を買収して勢力を拡大しているようだ。
 自転車は2台あるうち、背の高い方を選んだ。小学生時代に読んだ学研の『学習』か『科学』の付録で、サドルに尻を載せた時に爪先立ちになる高さが適していると読んだ記憶があったからだ。駅員が何か言いたげにしていたが、いまにして思えばあれは何だったのだろうか。
 ともあれこれが、今日これから40kmにわたって付き合う“愛車”との出会いであった。いよいよ、長距離サイクリングの始まりである。

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 【注】西大垣駅は9〜20時、レンタル料金は無料。他駅で借りた自転車をこの駅に返したり、この駅の自転車を他駅に返したりすることはできない。
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2017年04月16日

2014.07.18(金)(12)[海津市役所南濃庁舎]を制覇

 対面2車線の県道との交差点を渡ると、そこが海津市役所南濃庁舎であった。敷地の県道に面した部分は、役場の前とあって広場のように整備され、花壇にはきれいな花が咲いている。信号のある交差点の背後には、4階建てのかなり大きな庁舎がそびえていて、その手前に大垣共立銀行のATM小屋も見えた。
 南濃庁舎の建物は、結構古そうに見える【注1】。後で調べると1961年10月の築であった。当時としてはなかなか洗練されたデザインの建物で、それなりに著名な建築家が設計し、結構な金をかけて作ったのではないだろうか。建物は斜面の上にあって、正面玄関はスロープで上がった2階であった。海津市コミバスは、2階の玄関前まで乗り入れるようだ【注2】。
 大共の店舗外ATMは、役場本庁舎の手前、スロープ下の駐車場入口にある。ATM1台だけの独立小屋で、大共の1992年以降の標準的な外観である。さっきの[松山]との違いは、緑色をした機械室部分の屋根の角が丸みを帯びていることで、1992年にこのスタイルの小屋が導入された当初は、ここのようにまろやかな曲線でデザインされていた。規格が若干変わったようだ。
 小屋の中をガラス越しに見ると、ATMはここも富士通のFV20。ただし、生体(手のひら)認証に対応している。さっきの[松山]は対応していなかったから【注3】、こういう公共機関のATMは銀行の待遇が少し違うようである。
 さて、制覇作業を。と思ったが、こんな時間に車が1台停まっており、先客がいた。機械が1台しかないのに、何をもたもたしているのだ。と、口に出して言うわけにはいかないので心の中で毒づいていた。気が短く内弁慶な私である。先客が立ち去るのを待って、機械を操作。08:41、[海津市役所南濃庁舎]を制覇した。

 南濃支店海津市役所南濃庁舎出張所は、南濃支店管内では3番目の店舗外ATMとして、1997年1月に開設された。当初の名称は[南濃町役場]といったが、2005年3月の海津郡3町合併により[海津市役所南濃庁舎]に改称されている。さらに南濃庁舎が2014年いっぱいで廃止されたのに伴い、2015年2月の南濃支店代理店化に合わせて[海津市役所城山支所]に改称、同時に母店も海津支店に変更となった。
 3町合併当初の海津市役所は分庁方式で、組織も3つの旧町役場に分散されていたが、海津庁舎(旧海津町役場)を市役所の本庁舎として整備し、他の2庁舎(南濃・平田)は廃止された。代わりに、当地では南濃庁舎西側の文化会館内に市役所の支所を新設した。これが「城山支所」である。ATMの現在の名称「城山」は南濃町が発足する前の旧町名で、かつて駒野城という山城があったことに由来している。旧町役場の北西1km地点にある小学校がその跡地であるそうだ。自治体名は海津郡城山村といったが、1954年6月に町制施行して城山町となり、さらに同年11月5日石津村・下多度村と合併して南濃町に、2005年3月には3町合併で海津市になっている。
 ところで、海津市は3町合併の際「ひらなみ市」という名前になる計画だった。平田・南濃・海津の頭文字をとって、平南海=ひらなみ。この名前は不評でやめになったのだが、こうした合成地名は地名学の研究者からも強い批判を浴びているし、まあやめてよかったのだろうと思う。結局、海津郡の3町が合併するということで、順当に郡名をそのまま新市の市名とした。なお、「ひらなみ」の名前は、「平田町」の名前の由来となった鹿児島県からも異論が寄せられたということである。鹿児島県とどういう関係があったかについては、後述する。

 ATMを操作しながら小屋の中の様子を見る。面白い掲示物があった。東日本大震災の義援金の振込先口座が掲出してあるのだが、横にシールが貼ってある。そこには《左記の口座に振り込まれた方のお名前の、新聞への公表は行っておりませんのでご了承下さい》と書いてあったのである。思わず笑ってしまった。「ご安心下さい」ではなく「ご了承下さい」ということは、寄付したのに新聞に名前が出ないじゃないか、という世知辛いクレームでもあったのだろう。名前が出て顕彰されなければ寄付もしないのか、と思うが、このあたりの土地柄なのだろうか。
 とはいえ、そういう下心ミエミエであっても、現金に限っては、やはり寄付しない人間より寄付する人間の方が偉いと私は思う。たとえば、日本テレビ系列で毎年夏に放送している『24時間テレビ』という番組。これについて、偽善だと非難する人が毎年必ずいるけれども、実質的な意味で福祉の役に立っているのは、微々たる額であってもカンパする人と、それを取りまとめて寄付の段取りをとる日テレであろう。番組の内容とか作り方について批判することはあり得ると思うが、それ以外であの番組を批判する人は、おそらく批判するだけで何の役にも立っていないのではないだろうか。

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 【注1】海津市役所は2015年1月1日付で海津庁舎に一本化され、南濃庁舎は2014年いっぱいで業務を終了した。旧南濃庁舎はすでに解体されている。
 【注2】現在は南濃庁舎の敷地内通路であった道を奥へ進み、隣接する文化会館の前を通って国道258号線に乗り入れている。
 【注3】現在は対応している。
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2017年04月15日

2014.07.18(金)(11)桃栗三年柿八年?

 次の制覇目標は[海津市役所南濃庁舎]。合併して海津市になる前の南濃町役場である。ささやかな記憶によれば、南濃庁舎へはいま来た道を戻り、駅前通りを越えてさらに少しだけ西に歩く。そこで左に向きを変えて踏切を渡った先のハズであった。
 実は、今の時点ですでに一つ、大きなミスに気が付いている。紙にコピーした地図を昨日のうちに用意しておこうと思って、すっかり忘れていたのだった。というわけで、今日はこれから、プランニングの際にウェブサイトで地図を確認した時の記憶だけで行動する。地図無しで回るのは結構キツいと思うが、仕方がない。いちおうスマートフォンの地図検索が使えるけれども、今日は夜まで充電ができないから、できる限り温存したい。実は、そう思ったことが後でとんでもない事態を招くのであるが、この時点ではそれは知る由もなかった。
 さて、出張所前の道を西に向かって歩く。養老線は駒野あたりでは東西に走っており、出張所前の道は線路に平行に東から西へ続いている。結構だらだら続く上り坂である。さっき書かなかったが、駅前通りの角から駒野出張所までは、ゆるい下り坂だった。出張所と駅前通りとの標高差は、5mぐらいあるだろうか。予想外に地形の起伏がありそうで、この後の行程が思いやられる。
 駅前通りを越えると、未知の道に入る。駒野の商店街は古い住宅地の中にところどころ商店があるという感じだが、個人経営の大きな食料品店が健在だし、商店の割合が高いので、まだ機能が維持されている方だと考え直した。生活のにおいも、石津の南濃支店近辺より強く感じられると思う。角から2軒目では、古い商店建築をきれいに再生した和菓子屋さんが営業している。喫茶店のように中でお茶が飲めるようだ。商店街は、こういう店が1軒でもあるかで相当違う。
 ともあれ、通勤時間帯の終わったこの時間は、人の動きが見事なまでに止まっており、車が何台か行き交うのみであった。自家用車と、何とかケアセンターと書いてあるワンボックス車。こうした福祉関係の車は、時間的にはむしろこれから大活躍するのであろう。

 集落をずっと歩いてくると、農協があった。西美濃農協(JAにしみの)の南濃支店。この角の奥に踏切があって、それを抜けた先が南濃庁舎だったハズである。というわけで左折した。農協の横は、大型トラック1台通ったら離合ができなくなるぐらいの道幅で、すぐ美濃津屋第17号という踏切に差しかかる。踏切の部分だけさらに細くなっており、トラックがようやく1台通れるくらいの道幅になった。架線の高さを考えると、この踏切を大型トラックで越えるのは無理だと思う。
 踏切を渡ると、そこから結構な上り坂になった。角度は20度ぐらいだろうか、どこかの山のふもとで登山道にアプローチする上り坂のような感じである。コンクリの塊を積み上げた石垣の上では栗の栽培をしているようだ。栗林の上方には変電所が見える。その先、トタンがサビサビになった倉庫の前には、トラックが1台エンジンをかけた状態で停まっていた。そろそろ生活が動きはじめる時間なのだろうが、時の流れは昭和50年代あたりで止まっていると思えた。別の倉庫の片隅には、軽ワンボックス車のサビサビになった廃車体が置いてある。古いダイハツハイゼットだが、レストアして乗り回すような人はいないのだろうか。
 さっき左側に栗があったと思ったら、こんどは右側に柿の木がたくさん植わった土地がある。桃栗三年柿八年というが、この近所に桃の木はなさそうである。前に少し述べたが、扇状地の土地利用としては桑畑から果樹園に転換したところが多いハズだから、ここも恐らくそうなのだろう。柿の木は結構古いようだが、地面には下草が茂り、幹にはツル性の植物が這っていて、あまり手入れされていないように見える。かつて柿の栽培をしていてやめたものの、その後も木を伐採していないから実だけは毎年生(な)るのだろうか。果樹園の向かいは草ぼうぼうの休耕田であった。ここは田舎だけれども、その象徴である畑は、人の手が入らなくなってすでにずいぶん経ち、半分荒廃してきているようだ。勤め人が案外多いのだろう。
 小さな神社があって、上り坂は鳥居の前あたりから緩やかな左カーブを描いている。カーブの先に、見えた。大垣共立銀行の緑の看板。坂道を上がりきったところに信号があって、その横である。あそこが旧町役場の交差点なのだと思われる。

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2017年04月14日

2014.07.18(金)(10)駒野出張所を制覇

 いまから行くのは、本日2店目の有人店舗、南濃支店駒野出張所である。駅前通り最初の交差点を右に曲がった奥にあるハズだ。
 駅前の道路は、センターラインを引いていないけれども、車の離合はできる程度の道幅である。駅から北に向かって若干の下り坂になっているのが、少し気がかりであった。地形の起伏が結構あるようだと、自転車を使った今日の計画は、途中で考え直す必要が出るかも知れない。
 商業としては、駅前にタクシー会社と喫茶店が1軒ずつ。タクシー屋さんは、昭和40年代の築とおぼしきコンクリート建築の母屋で、前面に深い丸屋根を付けている。それから、公文式の教室が1軒あった。古い商店建築で、昭和初期の竣工だろうか。羽目板の部分にトタンを張って補強してあり、道路に面した部分は公文式の水色の看板に合わせて水色のペンキで塗りつぶしている。「緊急のお知らせ」という掲示が目についた。公文式は塾の開塾日程があらかじめ決まっているらしく、それが急に変更になったとかで張り出しているのだが、その理由として「遠方の教室見学がキャンセルになった」と書いてあった。教室見学というのは講師のためのものだと思うが、決められた授業を休講にするのは生徒に迷惑をかけないのだろうか。もっとも、講師が信頼を集めていれば「しょうがねえな先生」と生徒の側が苦笑するだけで済んでしまう、ということはあり得る。
 とにかく、かつては商店街だったらしいが、いまとなっては機能していなさげな町並みが続いている。昔はこの商店街で買い回りができたのかも知れないが、最近では車で街道沿いのスーパーに行ってしまうのだろう。

 最初の交差点の角は、土蔵建築と同じくらい古い木造の商店建築で、薬屋。右奥にあるのは、品揃えの豊富そうな酒屋であった。そして、四つ角からもう大垣共立銀行の緑の看板が見えている。あれが、ここ駒野での最初の制覇目標である。
 駒野出張所は、さっきの南濃支店とは違い、集落のど真ん中にある感じがする。銀行の営業店としては、集落内を完全掌握できる半面、街道沿いに広く集客するわけにはいかないから、いまの時代には出張所なのだろう。大垣共立銀行の駒野における歴史を調べてみると、店としては七十六銀行時代からあったものの、戦後にいったん統合している。統合は都市部に店を出す際に支店の数を調整するため閉店せざるを得なかったということで、残念ながらそうした配置転換の“弾”に選ばれてしまう程度の業績だったわけである。ただし、後に復活したというところが、この地域の重要性だろう。
 というわけで、駒野出張所に到着した。建物は南濃支店と同じ頃に建てられたようだが、こちらは平屋建てであるから、比べるとずいぶんコンパクトにまとまっている。正面の自動ドアを入ると、店内は9時の開店を前に掃除の真っ最中であった。掃除のおばちゃんが、ATMコーナーの横のドアを開けたまま現金封筒の補充をしている。男性の行員は店のまわりのゴミ拾いをしている。まだ8時半にもなっていないのだが、銀行は意外に朝が早い。
 キャッシュコーナーはATMが2台。機械配置は南濃支店と一緒だが、2台分の枠しかなかった南濃支店とは異なり、ここはキャッシュコーナーの機械枠が3台分ある。一番左の枠は使われていない。ATMの機種はここまでと同じ富士通のFV20。2台あるうち向かって右側の1台のみ「手のひら認証」対応のATM、というのは大共のいまの標準なのだろうか。店先のガラスには、岐阜県指定代理金融機関、海津市指定金融機関、と金文字で書いてあった。来年(2015年)4月から、大垣共立銀行は十六銀行に代わって岐阜県の指定金融機関となる。
 南濃支店から駒野出張所に来る間に8時を回ったので、ATMの入金はもとより出金も無料になった。制覇作業としての預金取引は、ここから、いつもと同じように入金と出金を1サイクルとして行う。08:23、駒野出張所を制覇した。

 南濃支店駒野出張所は、1981年11月に現在地に開設された。2015年2月2日、海津市内のほかの店舗と同様代理店化され、駒野代理店に変更されている。
 大共の当地への出店は、これが初めてではない。もともと駒野には駒野支店があった。七十六銀行駒野支店として1916(大正5)年7月に開設されたもの。当時の所在地は海津郡城山村大字駒野674番地で、今日制覇したのと同じ場所である。七十六銀行は1928年5月に大垣共立銀行に合併し、これに伴い駒野支店も大共の支店となった。1936年2月に高須支店駒野出張所となり、1950年10月再び駒野支店になったが、1953年11月に廃止された。廃止は配置転換のためで、駒野支店を閉めた大共は翌月代わりに名古屋支店【注】を開設している。

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 【注】大共の名古屋支店は北区大曽根にあったが、名古屋市中心部の中区栄三丁目に名古屋支店を新規出店した。旧名古屋支店は大曽根支店に改称された。
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2017年04月13日

2014.07.18(金)(9)駒野駅に到着

 08:13、電車はリサーチしていた時刻より1分早く、駒野駅に到着した。
 駅に着く直前、近鉄と同じ声の車内アナウンスでは、この駅の名を「コまの」(コにアクセント)と言っていた。その少し前、石津からここまでの切符を買ったアテンダントの女性は「こマノ」(マノにアクセント)と発音していた。アクセントとしてどちらが正しいか知らないが、少なくとも地元では「こマノ」なのであろう。以前、大都市の「名古屋」が地元と東京でアクセントが違うと指摘されたことがあり、位置と付け方は今回の「こマノ」とまったく同様(ナごやではなくなゴヤ)であった。ひょっとすると、地名のイントネーションの付け方には何らかの規則性があるのかも知れない。そういう研究はないのだろうか。
 さて、駒野駅には3番線まであって、いわゆる「国鉄型」に近い(ホーム番号は付いていない)。線路は、本屋側の1番線に相当する線が真っすぐ東西に延びていて、2番線はその分岐、3番線はさらにそのまた分岐である。島式ホームになっている2・3番ホームは、2mぐらいの幅しかなくて、異様に狭いと感じた。
 ホームの左(南)側はナイガイテキスタイルという企業の工場で、工場の敷地との間は万年塀で仕切られている。壁に蔓草がビッシリ這った古い鉄筋コンクリートの工場は、ギザギザ屋根になっている。ノコギリのように凸部が平行に並んだ屋根は、天井から光が差し込むように窓を設置しているためで、繊維関係の古い工場はだいたいそうなっている。ホームに沿って倉庫が長く連なっており、時折フォークリフトがガーガー動いている。万年塀が途切れてフェンスになっているところは、かつてそこから工場内に引き込み線が入っていたのだろう。引き込み線がなくなったのは相当昔のようだが、そういう目で見ると、フォークリフトが動いている倉庫は鉄道のホームのようになっている。地図で見てわかるほど大きな工場で、どうなっているのか関心があったが、非常に古めかしい鉄筋コンクリート建築で、趣があった。
 駅舎は工場の反対側で、線路の向こう、桑名行きホームの側である。大垣行きホームの西端がスロープになっており、そこから構内踏切を渡って駅舎へ。建物はさっきの石津駅と同じような、新しい感じの建築であった。今日これまでに遭遇した養老線の駅の中では、多度に次いで大きな駅であると感じた。
 駅員に切符を渡して、駅舎の外に出た。この駅には駅員がいる。客の数がそれなりに多いのだろう。養老線の大垣からの列車は、夜の最後の2本が駒野止まりとなっている。駒野に着いた電車は西大垣の車庫に帰らずここで滞泊している。

 ふと後ろを振り向くと、私が乗ってきた大垣行きの電車がまだ停まっていた。さっき美濃松山で行き違いをしたばかりで、この駅での列車交換はないハズだが、どうしたのだろうか。車両中央部の窓に、女優・内山理名の広告ステッカーが1枚貼ってある。このシールは百五銀行(津市)のもので、カードローンの保証業務をエム・ユー信用保証(三菱UFJグループ)に委託している銀行は、半数程度が内山理名を広告で使っている【注1】。外に向けて貼ってどうするのだろう、車内に見えなくていいのか、と思ったところで電車は発車していった。単なる時間調整だったようだ。
 駅前広場は思いのほか広いと感じた。駅舎の横に駐輪場と駐車場があるのは、他の駅と変わらない。この駅の公共交通機関は、海津市コミュニティバスの他には、養老町のオンデマンドバス(利用者登録制かつ予約制、一般人は乗車不可)が市町境を越えて入ってくるだけだ。駅舎の横に、海津市コミバスのマイクロバス(トヨタのコースター)が止まっている。さっきの石津と比べるとだいぶ本数が減るが、駒野駅には2系統が来る(南濃北回り線・同南回り線、【注2】)。海津市のコミバスは、大垣市のスイトトラベルという会社が運営している。車体にカンガルーのマークが付いており、大垣市本社の大手運送会社、西濃運輸の系列会社とわかる。もともとはスイトタクシーというタクシー会社だったが、旅行会社と合併して現在の社名になった。「水都」は大垣市の別名である。なお、蛇足ながら、大垣市内にあるスイトタクシーの本社には、大垣共立銀行が店舗外ATMを置いていたことがある。

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 【注1】広告キャラクターは現在では「乃木坂46」に代わっている。百五銀のステッカーは車内にもあった。
 【注2】2015年10月に海津市コミュニティバスの再編が実施され、駒野駅に乗り入れるのは原則石津からの「南幹線」系統だけとなった。
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2017年04月12日

2014.07.18(金)(8)天井川をくぐって

 アテンダントとやり取りしながら、私は窓の外に注意を払っていた。間もなくこの電車は、短いトンネルに入るハズなのである。このトンネルこそ、養老鉄道を特徴づけるもので、天井川をくぐっている。果たして、電車はトンネルに入り、すぐに抜け出した。
 天井川については、地理の時間に聞いたことがあるかもしれない。天井のような位置関係で自分の頭上を流れている川、ということだが、関東地方に住んでいると実際に遭遇する機会は意外に限られると思う。かくいう私も、意識して接したのは今回が初めてであった。
 頭上を流れるような川がなぜできるか、ここで確認しておこう。天井川は、扇状地にできることと、そこである程度の人間生活が営まれている場合に限られることの2つが重要である。天井川は自然の状態でできるものではない。
 養老鉄道の西側にそびえる養老山地という山脈は、傾動地塊といって、土地の塊が切れ目(断層)のところから傾いた状態で持ち上がって山脈になったものである。大まかには、スポンジケーキを半分に切って片方だけを傾けながら持ち上げたような形、といえば分かってもらえるだろうか。養老山地を海津市側(東側)から見ると、平野から突然山が始まっているように見えるけれども、これは断層を境に地塊が持ち上がったことの証拠である。一方、山脈の西側にあたる三重県いなべ市では、小さな山が無数に広がっており、全体としては起伏が激しいわけではなく、東側とは景観が異なっている。
 傾斜の急な地域では、風雨で表面が削られる侵食のペースも速く、崩された山の表面(砂や石)が水の流れ(川)によって下流に運搬される力も大きくなる。水に流されて山肌を駆け下りた砂や石は、谷が平野に接するところで同心円状にぶちまけられる。傾斜が緩やかになると運搬能力が落ちるためである。こうしてできるのが、扇を広げたような形をした扇状地であった。南北30kmにわたる養老山地には、その東側に14面ないし16面の扇状地がある。山の上から流れてきて扇状地に達した水は、いったん地下に潜り、扇状地の端で再び地表に出た後、すぐ揖斐川に流れ込んでしまう。
 この状態が繰り返されても、扇状地は全体的に高さを増していくだけで、川の部分だけが“天井”になることはない。川の流れが高いところに上がるのは、人間が川の流れをコントロールしようとして、堤防を築くせいである。堤防によって川の流れる場所が固定されると、それまで扇状地全体に同心円状にばらまかれていた土砂が、堤防の中だけで堆積されることになる。堤防内に土砂が堆積すると堤防の効果が薄くなるから、やがて高さを増す工事が行われ、堤防内を流れる川は引き続き土砂を堆積し…の繰り返しで、やがて川の流れは人間にとっての天井ほどの高さにまで達するというわけである。
 人間生活の営みと書いたけれども、人間は扇状地のどこに住んでいるのだろうか。扇状地はおおむね3つに分けられる。最も標高の高いところを扇頂、最も低いところを扇端、それ以外を扇央という。集落は、扇端部、扇状地の裾に沿って細長く続いていることが多い。その理由は、扇端部分には豊富な湧水があるためである。山の上から流れてきた水は、扇状地に入ると地中に潜り込み(伏流という)、扇端部分で湧き水の形で再び地上に顔を出す。水道のない時代には、生活用水をこうした湧水により賄っていた。一方、扇央部では、堆積した土砂の粒が荒いこともあって、水が地表から消える。このため水稲耕作はできず、放置されて雑木林になったり、使われる場合は水がなくても育つ植物(主に樹木)を植えた畑にしている。樹木の畑は、明治期以降の養蚕が盛んだった時代には桑畑、それが衰えると果樹園に転換したケースが多い。
 この地に関していうと、集落より川に近い部分は標高が低く、揖斐川が増水すると洪水の危険が生じるため、(他にも理由はあるのだろうが)養老鉄道は集落よりも山側を走っている。鉄道は、扇状地では扇端付近を走り、川は線路を築堤で持ち上げて鉄橋で越えるか、天井川の場合は短いトンネルでくぐっていることが多い。特に、養老鉄道の開通した大正時代、鉄道は勾配にとりわけ弱かったため、余計にそうである。
 といったあたりが、この近所の地形的な特徴であった。

 石津の次の美濃山崎は、交換駅であった。周辺に民家が多少固まって建っているけれども、人の気配はあまりしない。後で知ったが、養老鉄道の全27駅中、この美濃山崎駅の乗降人員が最も少ないそうである。このあたりに来ると、国道は山寄りの高いところを走っており、養老線の通るところだけ取り残された感じがする。アテンダントの女性は美濃山崎で降りた。
 列車の交換はなく、すぐに発車した。美濃山崎駅を出てすぐ、レンガ造りの古いポータルの付いた非常に短いトンネルを、2本立て続けにくぐった。ここも天井川のトンネルである。右の車窓は、堤防の向こうに大きな川と、大規模な堰が見えている。そうかと思うと、小さな山と山の間を突き抜けていくようなところがあったりして、陸地の奥へ入ってきた感じが強まってきた。土地の利用としては水田が相変わらず多いけれども、畜産をやっていたり、ブドウ棚なのかツル性の植物を這わせているところもある。
 鉄橋を渡る。いま渡った川は完全に涸れていて、水は流れていなかった。天井川ではない川も、扇状地に特有の水無川になっている。そして、駒野駅の手前で、養老鉄道は平屋建ての建物を完全に見下ろすぐらいの高い築堤を走るようになった。養老線の線路は、築堤だったり、山と山の間を突っ切ったりして、クネクネと曲がりながら走っている。激しくはないが、地形の起伏が相当あるのを感じた。

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2017年04月11日

2014.07.18(金)(7)静けさしみ入る石津駅

 石津駅へ戻ってきた。
 駅前まで戻ってくると、駅入口角の店は整体院のようだ。正確には、入口の窓ガラスには整体院と書いてあるけれども、もう営業はしていないのだろう。旧南濃町の市街地ということで、商業集積が多少はあるのだけれども、まあほとんど無きに等しい。いまとなっては商店街の過去の栄光を感じさせるのみである。
 この時間になると、通学をする生徒はもういないようで、駅には静寂が広がっていた。さっきの女子高生たちはどこへ行ってしまったのだろうか。アテンダントもいないので、切符を買うこともできない。駅に備え付けの乗車票発行機から1枚取って、駅の中に入った。

 ホームに入ると、遠くで踏切が鳴っていた。私が乗る電車ではない。前述のとおりこの駅で列車交換はできないから、大垣行きはいま来る桑名行きと美濃松山で行き違いをしてから来るのであろう。
 ホームからは、天理教の大石津分教会が見えている。天理教の教会は、棟がすべて天理教の聖地である奈良県天理市の方を向いて建てられていると聞いたことがある。ここもやはり天理の方向に向けてあるのだろうか。天理市は石津からだと南西の方角であるが、ホームからは切妻の妻の部分しか見えなかった。
 駅の広告看板はスカスカで寂しい状況だが、70cm角ほどの小さな看板がズラリと並ぶオムニバス広告だけ、いちおう14枚全部の枠が埋まっている。その隣に、「海津橋饅頭」の大きな看板があった。第20回全国菓子大博覧会で「農林水産大臣総裁賞」を受領したそうである【注】。いつあった博覧会かわからないし、大臣総裁賞というのも妙な名称だし、「受賞」ではなく「受領」したというのも何か意味があるのだろうか。海津橋は石津駅の北東1km弱のところにある揖斐川に架かる橋で、後で知ったが海津橋饅頭本舗はこの橋のたもとに店を構えている。海津市コミバスの幹線にあたる海津羽島線が通るが、今回ここは行かない地域である。電車に乗って歩き回っているだけでは分からないところが多々あるのは確かだ。
 やがて桑名行きの2両編成の電車がやって来て、ホームの桑名寄り最前部に停まった。もっと後ろに停めればいいのにと思った。石津駅は出入口が大垣寄りの北端1か所しかない。2両編成の場合、客をわざわざ1両分前方に移動させることになるが、そんな意地悪をしてやるなよと思う。ワンマン運転用のミラーは、2両用と3両用の2本、ホームにちゃんと設置されているのだから。ともあれ、まだ8時前だというのに、電車は早くも客がまばらで、養老鉄道には朝ラッシュがほとんど存在しないのではないかと思えた。もっとも、朝にこの駅から桑名行きに乗るとしたら、可能性としては桑名に通う人と、四日市や名古屋に出る人。桑名への通勤ならもう少し遅くてもいいし、四日市や名古屋であればもっと早い電車に乗らないと間に合わない。こう思考を巡らせたのだが、都市部とは違って養老線は次の電車が40分後まで来ないのである。あの6時台の混雑がラッシュの混雑だったのか。
 電車が走り去って、ホームには再び静寂が漂った。今来た桑名行きからは、女性が何人か降りて行った。駅の外はホーム脇が砂利道になっており、この人たちはそこを歩いて南に向かって行った。南濃支店のある方向だから、大共の行員さんかも知れないと思った。
 この時間で、もうハンカチが汗でびしょ濡れになっている。8時の時点でこれでは、日差しが出てきたら思いやられる。

 踏切が再び鳴り始めた。今度こそ、私が乗る08:06発の大垣行きがやって来る。次の目的地は…2つ先の駒野駅である。土地鑑のない私は、次どこへ行くのか、スケジュール表をいちいち見ないとわからない。南から赤い電車がやって来た。時間の経過からして、7時過ぎに美濃松山ですれ違った3両編成である。
 大垣行きもまた、車内はガラガラであった。まだ8時だというのに、この駅から大垣行きに乗る人は、私の他には1人しかいない。一番前の車両は自分を入れて7人、2両目が2人。見えないが一番後ろも2〜3人しか乗っていないのではないだろうか。
 石津駅には駅員もアテンダントもいなかったが、この電車には黄色いポロシャツのアテンダントが乗っていて、向こうの車両で顔見知りらしき乗客とおしゃべりしている。やがて私の車両に回ってきたのは、誰かと思えば、さっき美濃松山駅で掃除をしていたおばちゃんであった。さっきと同じように車内補充券を買った。

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 【注】第20回全国菓子大博覧会:1984年に東京で開催。菓子博は地方博覧会の一種で、日本最大の菓子業界の展示会。全国菓子工業組合連合会(全菓連)などが主催している。博覧会の総裁が農林水産大臣であった。
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カテゴリ一覧(過去の連載など)
大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇(54)
単発(12)
告知板(24)
銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇(29)
りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く(43)
りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅(57)
りそめぐ2008秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる 東武伊勢崎線・野田線沿線17店舗の制覇(51)
りそめぐ2009初秋 りそな銀千葉県内12店舗完全制覇(35)
りそめぐ2008夏 りそな銀東京都世田谷区4店舗完全制覇(8)
りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた(18)
りそめぐ2008秋 太平洋は青かった 茨城→北海道750km大移動/銀行めぐ2008秋 札幌市内4行4店舗完全制覇(20)
りそめぐ2008初秋 湘南セプテンバーストーリー(11)
りそめぐ2008冬 銀河に乗って知事選たけなわの大阪府へ(47)
りそめぐ2008夏 「近畿大阪めぐ」スタート記念 片町線・京阪線沿線25店完全制覇(51)
りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿(60)
りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える(12)
りそめぐ2007秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる(35)
2007年7月 りそな関西地区支店昇格5店完全制覇+α(43)
あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇(34)
2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)