2017年05月31日

2014.07.18(金)(57)19か所制覇完遂!

 それでも、私が今漕いでいるのは普通の自転車であって、フィットネスジムのなんとかバイクではないから、漕ぎ続けていればいつかは目的地にたどり着くことができる。角田と書いて「すまだ」と読む交差点の北西角が、イオンタウン養老であった。田んぼの中の一本道をひたすら直進して、私はようやく目的地に到着したのであった。
 イオンタウンのメインエントランスは、交差点からさらに北上した、ザ・ビッグの建物のすぐそばであった。通りに面したところから売り場の入口までは、屋根付きの通路がある。屋根の下にはショッキングピンクに近い色合いの敷石を敷いて、渡り廊下のようになっている。
 敷地の中に入ってみると、このイオンタウン養老ショッピングセンターは、数時間前に行った「イオンタウン輪之内」に、気味が悪くなるほどそっくりであった。養老も輪之内と同じで、スーパーの「マックスバリュ」は完全に閉店して、白い看板になっている。空いた建物で営業しているのはソフトバンクのケータイ店1店だけで、これも輪之内と同様【注1】。旧マックスバリュ内にあるソフトバンクの店は、輪之内と位置関係まで同じであった。駐車場の入口がインターロッキングになっているのも輪之内と同じ。輪之内と比べて地盤沈下が激しいのか、敷石がだいぶガタガタになっていた。敷石のすき間からは草が生えているが、SNSではないので笑いはしない。建物の配置が輪之内よりシンプルだった気がすることだけが相違点であった。

 ほとんど同じに見える2つのイオンタウンに遭遇して、私なりに思うことがあった。各店舗をここまで徹底的に同じつくりにしたということは、おそらく、店に入るとコストカット第一主義で、品揃えや商品展開の仕方なども全く同様なのだろう。精神を病むとは言わないまでも、あまり健全でないように思う。個性というか多様性が喪失してしまっているからだ。
 イオン、かつてのジャスコは、高度成長期にダイエーや西友などの後塵を拝していたが、その分狭い商圏で圧倒的なシェアを握るノウハウを掴み、大ショッピングモール路線の下地を築いていった。これにより、イオンは東北地方や北関東など、市場の成長力が弱く新規参入も少ない地域を押さえている。人口が減少し市場も縮小している地域に出店し、その地域の商業全体に占める比重を高めて競争優位に立つわけである。ここや輪之内店のような店づくりには、ジャスコが培ってきたノウハウが存分に反映されているのであろう。養老店と輪之内店は建物さえほぼ同じ設計であり、両者の違いは単に店の名前だけと言ってよいほどに乏しい。
 こうした店の商品を買って生活することは、均質化された大量生産品を大量消費することである。現代社会は総じてある程度そうなっているのだが、田園地帯にショッピングセンターが多数オープンするようになった最近20年でとりわけ顕著になったと思う。こう書くと、現実のショッピングセンターには多種多彩な商品が並んでいるではないか、と言われるかもしれないが、それは決して「多様」ではないのである。イオンの売り場に置かれているインスタントラーメン(ドレッシングでもトイレットペーパーでも何でもいいのだが)を例にとると、そこで売っているのはイオンのプライベートブランド商品「トップバリュ」とナショナルブランド商品、合わせてせいぜい3〜4点であろう。その範囲内では自由に選択できるが、大量生産・大量流通のルートに乗らない商品は選択できない。それを、多様性が喪失したというのである。後者のような商品は、かつては個人商店を中心とした地域の在来商業が提供していたが、大型店の出店により、個人商店は一掃されてしまった。
 商品のほかにも、人間疎外や、非正規雇用を多用することによる地域社会の変質など、社会学の分野で「郊外化」と呼ばれるさまざまな論点がある。私は、マーケティング・リサーチャーの三浦展氏がこうした概念をふまえて提唱した「ファスト風土」という言葉が直感的に的確だと感じ、2000年代の前半から使ってきたが、氏がなぜイオンのショッピングセンターをその象徴に挙げているのか、いまひとつピンと来ていなかった。今回期せずしてイオンタウンを2か所訪れたことで、「ファスト風土」の象徴が(漠然とロードサイド型のショッピングセンターでなく)特に「イオン」である理由がようやく得心できた気がする。
 蛇足ながら、ここのような農村部では、前述の図式からさらに先へ進み、一度はシェアを高めたハズのイオンの戦線縮小が起こっている。イオンが郊外にできて旧市街がさびれたという話はよく聞くけれども、その郊外のイオンが撤退したら、その街はどうなってしまうのだろうか。ここや輪之内のイオンタウンはまだ2つあった店が1つにまとまるだけで済んでいるが、ザ・ビッグすら撤退することになったら、高齢者を中心に大量の買い物難民が生じるのではないだろうか。そうなってしまっては、「養老」という町の名前には相応しくなくなるだろう。

 キャッシュコーナーの位置関係も、さっきと全く同じではないが、よく似ていた。平屋建ての複数の建物が並んでおり、その並びが90度曲がった付け根部分に「キャッシュコーナー」の赤文字、その下に共同キャッシュコーナーの自動ドアがある。キャッシュコーナーの隣は百均のダイソーであった。6機関分の枠があって、一番左が閉鎖になっているのも輪之内と同じである。入っている5機関は大垣信金・大垣共立銀・十六銀・JAにしみの・ゆうちょ銀で、順番は別として輪之内と全く同じ5つの金融機関である【注2】。各ATMの母店はJA(記載なし)とゆうちょ銀(名古屋支店)を除き、すべて地元の養老支店であった。大垣共立のブースには、ピピット対応済みの沖電気バンキットが1台置かれている。[イオンタウン輪之内]では富士通のFV20だったから、ATMの機種だけが輪之内とは違っていた。機械を操作する。16:54、最後の制覇目標となる[イオンタウン養老]を制覇した。
 こうして私は、本日予定していた全19か所の制覇を完遂したのであった。

 養老支店イオンタウン養老出張所は、大共養老支店6番目の店舗外ATMとして、ショッピングセンターがオープンした1999年10月に開設された。
 イオンタウン養老ショッピングセンターは、オープン時点では売り場面積12400u、コンクリート平屋建ての6棟で、650台が収容できる屋外駐車場を備えていた。車で10分以内の約18,000世帯が商圏で、当初は水曜日(年間24日)を休日としていた。店舗は衣類など日用品のディスカウントストア「メガマート」と、食料品スーパーの「マックスバリュ」を中心に、専門店が出店してスタートした。年商は専門店を合わせて48億円を目標に置いていた。その後、2011年8月にメガマートが、9月にマックスバリュが閉店し、同年10月、メガマート跡を改装して「ザ・ビッグ養老店」として再スタートした。改めて数字を見返してみたが、ほぼ輪之内店のコピーのような店と考えてよさそうである。
 ところで、何時間か前に[イオンタウン輪之内]に行った。そこの通帳表示は<イオンタウン>であったが、他のイオンタウンにある大共ATMの通帳表示はどうなっているのだろうか。結論から言うと、ここは半角カタカナで<イオンタウンヨウロウ>と記帳されていた。輪之内以外のイオンタウンは全て半角カタカナ表記で、「イオンタウン」の文字の後に地名を入れて区別している。輪之内だけ<イオンタウン>であるのは、[イオンタウン輪之内]がイオンタウンの大共ATMとして最も古いためである。

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 【注1】輪之内と同様、現在は撤退している。同じ棟と見えたがその後別棟と判明したのも、輪之内と同じ。
 【注2】輪之内のゆうちょ銀行は撤退済み。
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2017年05月30日

2014.07.18(金)(56)高田橋からイオンに向けて

 高田橋を渡り切った時、私は一瞬『チキチキマシン猛レース』の「ケンケン」のような顔になった。牧田川の北岸は、南岸の上がりと同じような感じで、堤防のアプローチ道路が長い下り坂になって延びていたのである。よかった。これでしばらく自転車を漕がなくて済む。自転車を長い下り坂まで漕ぎ進め、そこから一気に駆け下りる。かなり心地の良いスピードであった。
 堤防の北側は使われていない荒れ地が多い。水田がなくはないが水田地帯ではない。工場が何軒かあって、空き地の半分ぐらいを住宅が占めている感じであった。後日もう1回ここを自転車で走ってみると、そんなにスピードの出そうな坂道というわけでもなかった。下りたらすぐ終わってしまう。当日のメモには「チキチキマシンのケンケンのような」とあるのだが、ここで下り坂になったのがそんなに嬉しかったのか、と思う。それでも、およそ300m、坂を下りて最初の信号まで漕がずに来れたのは間違いない。
 ほどなく、名神高速道路の下をくぐった。1車線分の四角い穴が2つ開いたアンダーパスである。側道とクロスしている金屋という交差点があり、そこは真っすぐ行く。そのすぐ先には〔名神養老〕というバス停が立っている。ここを通るのは名阪近鉄バスの大垣多良線で、大垣駅から美濃高田の市街地を経由して大垣市上石津町の〔時〕まで行っている。大共上石津出張所へ行く唯一の公共交通機関である【注】。ここから高速バスへの乗り継ぎができるわけではない。さて、バス停のすぐ北側に、目指すイオンタウンへ向かう左への分岐道があった。この分岐は、左へ分岐するというより左折しているようにしか見えないが、大丈夫だろうか。でも、地図上ふさわしい交差点はここしかないハズであった。
 丁字路を左折すると、すぐ道が右にカーブした。これで、道を間違えていなかったと安心できた。ここがY分岐だとわかってみると、股のところにあるNTTドコモのケータイ店がおそらくコンビニの転換であろうと気付く。道路の交点では鋭角部分にコンビニが出来やすい、という私がさっき思いついた謎理論が、ここで一つ確認された。
 そこから先は、水田地帯の真ん中を突っ切る一本道で、対面2車線は変わらないが走りやすい道になった。車線と歩道の間は縁石で仕切られているだけである。センターラインの端には反射板のついたブロックのようなものが取り付けてある。ここのセンターラインは白の破線であるから、こういうものを付けて車にセンターラインを超えさせないようにしているのだが、黄色のセンターラインにしたのでは駄目だったのだろうか。

 2車線道路を快調に自転車で飛ばしてきたら、また途中でダウンしてしまった。ここは小さな川を渡るところで、橋の手前が微妙な上り坂になっている。さっきの牧田川の堤防とは比較にならないぐらいゆるゆるの坂で、午前中に海津市役所近くで経験したのと同じくらいの傾斜に過ぎないのだが、すでに体力を相当消耗している私には、続けて漕ぎ上がることが不可能だったのであった。川の名前は小畑川、橋の名前は清流橋というらしいが、何が清流だ、とついつい思ってしまう。地図で見ると、ここはため池のようなものがたくさん見える。河川の旧流路が水たまりとして残った三日月湖と呼ばれるものである。
 ここまで来てようやく、水田のはるか彼方に、ショッキングピンクの横型看板が見えた。イオンタウンはあそこか、はあ。最終制覇目標が視界に入ったのに、これまでのような精神的な盛り上がりは乏しかった。
 川を越えて緩い坂を下りると、引き続き水田地帯の真ん中をひた走る。やや古い集落が右前方に見える。道の左側は、倉庫とか、家を建てるにしても非常に広い敷地になっているとか、いずれにしても新しい建物ばかりであった。飯田西という交差点の横には、用水をくみ上げるポンプのようなものが付いている。現在各地に多数ある太陽光発電所は、2014年7月のこの時点ではほとんど見られなかったと思う。
 なお、清流橋を渡ったところのスロープには、一番下に「対向車注意」という看板が出ていた。ここは白破線のセンターラインだから、追い抜きをしようという車がやはり現れるのだろう。恐ろしい。前述したとおり、私はこんな対面2車線の道で追い抜きをしようとは思わない。
 ここまで来ると、前方にショッピングセンターがだいぶハッキリ見えるようになってきた。しかし、ここからが遠いのである。風景としては、水田地帯の真ん中にJAにしみのの養老北支店が目立つぐらい。とにかく、広い平野の真ん中を突っ切る道は、漕いでも漕いでも目的地が近づいて来ず、いったいいつになったらたどり着けるのかと思ったのであった。

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 【注】大共の最寄り停留所は、養老支店は〔高田中町〕、上石津出張所は〔上宮〕。
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2017年05月29日

2014.07.18(金)(55)3回目のダウン

 養老町役場の前から、美濃高田の街並みを北へ。町役場の北隣は養老消防署である。このあたりに建つ家は、さっきの「中心商店街」と同様、煮しめた焦げ茶色で、妻面に桁が頭を出しているような古い日本家屋が多い。燃えやすい日本家屋の密集地帯に消防署があるのは安心できる。やはりこのあたりもところどころ更地になってきており、むしろ更地の率は商店街よりも高いと感じられた。商業としては、ガソリンスタンドやら喫茶店やら看板だけは出ていたりするが、売物件という看板も一緒に出ているから、営業していないのだろう。もはや普通の住宅地になってしまっている感じであった。
 高田駅前という信号に出くわした。ここが、養老線美濃高田駅の入口である。養老支店から自転車を漕いで来ての距離感としては、少し遠いと感じられた。駅舎は昔ながらの平屋建て木造駅舎で、懐かしい外観は何となく見覚えがあった。後で知ったが、この駅には駅員がいない。

 住宅地が続いている。県道を北に進んでくると、道が少しだけ左にカーブした。前方その先に、信じられないものを発見し、私は足が一瞬止まってしまった。何だあれは。
 信じられないもの。それは、堤防上に上がる道であった。川を渡らなければならないのは承知していたが、その橋は堤防上から架かっているのである。そうか、スマホで地図を見た時、橋までの道が妙に曲げてあったのは、こういうことだったのか。堤防上に上がるために、堤防に突き当たったところで90度曲げて、斜面を坂で上がっていくのである。私はかなりがっかりした。
 やる気を一気に殺がれたものの、行かないという選択肢はもちろんない。意を決して急な坂を漕ぎ上がり始めた。道は、スロープで堤防の半ばぐらいの高さまで上がり、そこで90度右に曲がって、堤防の斜面沿いを橋の付け根まで昇っていく。
 カーブで、傾斜が微妙に変化した。カーブの外側には、車道を走る車がはじき飛ばした小石がジャリジャリと積もっている。さあ、あともう一息。ペダルを踏む足に力をこめようとすると…。あっ。
 足がつりそうな感覚。さっきからずっと痛んでいる左膝に加え、少し前から痛み始めた右の太ももに来た。イタタタタ。私は足がつってしまう寸前でペダルを踏むのをやめた。足に限らず、筋肉が“つる”状態になる寸前、電気が流れるようなピキピキとした感覚が来る。力を入れるとその部分の筋肉が一気に固まって激痛が走るから、急いで、しかしだましだまし力を抜いて軟着陸させる。何度やっても気分の良いものではないが、それでも本格的につってしまうよりマシだ。
 カーブの外側、道が広くなっているところに倒れ込んだ。かくして、坂道の途中で本日何度目かのダウンとなった。

 筋肉を落ち着かせて、活動再開。どうにか堤防の上面まで上がってきた。私はこれから、高田橋という名の橋を渡る。別に自衛隊に入るわけではない。この川は揖斐川の支流で、牧田川という。同じ川を数時間前に北から南へ渡っているのだが、その時の記憶とは全くつながっていなかった。
 交差点の北西角には、治水功労者佐竹直太郎翁の碑というのがあって、業績が屋根つきの看板で説明されている。碑の揮毫は岐阜県知事の沖野悟という人。調べてみると揮毫した知事は内務官僚で、官選県知事であった。ということは戦前に作られた碑ということになる。佐竹直太郎氏の業績は、牧田川の上流部を改修したところにあったようだ。1888(明治21)年頃に組合を、1931年に委員会を作り、烏江の牧田川杭瀬川合流点から上流8kmを県が、下流を国が改修、という経緯をたどった。昭和の改修で献身的な努力をしたのが、この養老町高田の佐竹という人らしい。濃尾平野の川上にあたるこの近辺には、荒れ川の濃尾三川を抑える平田靱負のような人がたくさんいたわけである。
 いよいよ、高田橋を渡る。車道は速度制限40km/h、対面2車線の黄色センターライン。外側には腰ぐらいの高さのクリーム色をした欄干が付いている。実用本位の柵だけの橋であるが、欄干はだいぶサビサビで、部分的に腐食していた【注】。道の左側だけにある歩道は、車道とガードレールで仕切られている。
 堤防上、高田橋南の交差点から橋の本体までの間は、築堤になっている。築堤下の地面に、背の高い草がたくさん生えていて、特にツル性の植物が大量に生い茂っていた。下の地面に生えた木を伝うように伸びてきているようだ。ツルには細かい毛のようなものがビッシリ生えている。かぶれるから、これには触りたくない。誰だこの道の管理者は。こんな草除去しといてくれよ、と詰りたくなった。県道だから岐阜県庁に文句を言えばいいのだろうか。
 森のように植物が生い茂った部分が少しあって、それが終わると泥と石ばかりの河原になった。私が河原という言葉でイメージしやすい河川敷は、こうした石の多い河原である。ここは畑になっている部分も多い。自家菜園か何か知らないが、河川敷を畑にしているケースは少し田舎へ行くと見かける。河川敷は作物を丹精込めて育てても、1回洪水が出たらすべてお釈迦であるから、そうなってはやりきれまい。とはいえ、私有地でない河原で耕作をしてよいのかどうかは知らない。
 石ばかりの川を渡り切ると、さっきと同様に森のような部分があり、畑がある。川の北側は堤防の際まで畑になっている。堤防道路との交差点に信号はないようだ。けっこう長いと感じられる橋であった。

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 【注】欄干はその後、無塗装銀色のものに付け替えられた。
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2017年05月28日

2014.07.18(金)(54)続いて[養老町役場]を制覇

 次の制覇目標[養老町役場]は、さっきの高田東町の交差点まで戻り、県道96号大垣養老公園線を北に向かった右側にある。
 養老郵便局前の四つ角まで戻ると、もう背の高い役場の建物が見えていた。高田東町交差点を左に曲がって漕ぎ進んでいく。この縦の通りは、協進町通りというそうだ。高田の「中心商店街」と同じような感じで土蔵建築が多いけれども、だいぶ建物が歯抜けになっている。県道沿いは商店街の中より更地の率が高い。
 ほどなく、養老町役場右という白い矢印看板に遭遇する。英語の表記は「Yoro town office」となっている。これが目指す養老町役場であった。4階建ての庁舎はさっきから見えているけれども、キャッシュコーナーはどこにあるのだろうか。それは役場の敷地の中に曲がり込んではじめてわかった。3つの金融機関(JAにしみの・大垣共立・大垣信金)が横に連続した共同ATM小屋が、役場の駐車場入口横、火の見やぐらの根元にあった。このタイプの店舗外ATM小屋は、大共に限らず市役所や町役場でよく見かける。さっきの[フードセンタートミダヤ養老店]とキャッシュコーナー内部の形態は同様だが、前者が建物の外壁にあったのに対し、こちらはキャッシュコーナーが独立した建物になっているわけである。
 さっさと取引を済ませようと思ったが、午後になってATMの利用者が増えてきている。利用者としては大共がダントツで多いので、列ができるのはやはり大共のATMである。信金や農協を使う人は、列を横目で見ながら勝手に小屋に入って機械を使っている。3連小屋入口の自動ドア前で順番を待っていると、私の前に並んでいたお婆さんが、ブースに入った後なかなか出てこない。少しイライラしてしまった。

 苛立っても仕方がないので、待っている間にあたりを見回す。役場の前に建っている5階建ての茶色いビルは、酒造会社の本社である。ごく普通の鉄筋コンクリートのビルであるが、1階窓下の腰の部分は、黒く塗って白い塗料で斜めの網目模様が描いてあり、なまこ壁のようになっている。造り酒屋にはおなじみの煙突などはここでは見えないが、敷地の中には古めかしい酒蔵などの施設が何棟も並んでいる。さすが、養老の滝を抱える町には、造り酒屋があるのであった。有名な養老の滝の物語は、『続日本紀』の記述を基にした『十訓抄』の一話が最も広く知られている【注1】。酒好きの老父を持つ男が、ある日薪を採りに山に入る。転倒した際、酒の匂いを感じて周囲を見回したところ、酒が流れていた。以後毎日これを汲んで父親に飲ませた。この話を元正天皇【注2】が知って見に行き、男を美濃守に取り立て、酒の出ている場所にちなんで元号を養老に改めた、というストーリーである。『十訓抄』では《石の中より水流れ出づることあり》として酒の出る泉を発見したことになっており、滝の話は消えてしまっているが、代わりに近所の養老神社に湧き出る菊水泉に見立てられている。この酒造会社は玉泉堂酒造といい、美濃菊という日本酒を造っているが、そのあたりを踏まえた命名なのであろう。
 町役場の敷地に目を移す。町役場の建物は1971年の築で、大きな窓が特徴であるが、武骨な耐震補強用の鉄骨がはめられて痛々しい姿をしている。駐車場は結構広くて、台数としては40〜50台分だろうか、大分細長い駐車場である。敷地入口の中央部には、レンガでできたトーテムポールのようなものが立っている。ATM小屋の横に立っている火の見やぐらには、周りを取り囲むように広告の枠が取り付けられていて、そこに養老町民憲章が大きく書いてあった。何が書いてあったかは忘れた。
 ようやく自分の番が回って来た。大共のATMは、営業時間は18時まで。養老支店管内のほかのATMと同様、沖電気のバンキットで、機械の台数は1台。手のひら認証に対応していたか否かは記録するのを忘れたが、当日撮影した写真を再確認すると、機械の胴体には「ピピット」のステッカーがしっかり貼ってあった。この当時、大共は市町村役場内のATMには優先的に新しい機械を入れている様子であった。ATMを操作し、[養老町役場]を制覇。16:27のことであった。
 養老支店養老町役場出張所は、大共養老支店2番目の店舗外ATMとして、1985年6月に開設された。

 いよいよ、最終目的地に向かうことになった。
 残る制覇目標は[イオンタウン養老]1か所のみである。そこを終えれば自転車を返却して東京に帰るだけだが、最後の制覇目標は、養老町の中心部からは若干距離があるのである。事前のリサーチでは、町役場からイオンタウンまでは2.72km、12分かかる予定だが、12分で行くのはまあ無理だろう。それよりもっと根源的に、「めぐ」が続行できるのだろうか。すでにタイムスケジュールは破綻し、肉体的にもかなり消耗している。特に、左膝が耐えがたいほどの痛みを持っている。痛み方は自転車を漕ぎ続けることすら危ぶまれるほどであった。
 誰かに話しかけて尋ねる気力もないので、道順はスマホで確認した。役場前の県道96号大垣養老公園線を引き続き北に真っすぐ行けばよい。牧田川という大きな川を渡って、名神高速道路の養老ジャンクションの先で二股道を左に入れば、目的地。とにかく、町役場前からずっと北に漕ぎ進んでいけば良いのである。

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 【注1】『続日本紀』は養老元年の「養老改元の条」。『十訓抄』は巻六の第十八話。
 【注2】第44代天皇。奈良時代の女帝。
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2017年05月27日

2014.07.18(金)(53)養老支店を制覇

 商店街を進んでいくと、道の右側に、大垣共立銀行の緑色の縦型看板が見えた。一瞬喜んだが、喜びと同時に全然別の苦痛を感じていた。ここまで来て、またもや足がつりそうなのである。今度は右の太ももであった。体力のなさに、自分でつくづく嫌気がさしてくる。
 右足を庇いつつ漕ぎ進んで、大共養老支店に着いた。大共養老支店は、道の北側、信金の斜め向かいといってよい場所にある。窓の大きな2階建てで、今の基準でいうと耐震などは大丈夫だろうかと思ってしまう。1階入口右側の窓前に自転車置き場の屋根があるので、そこに自転車を置いた。いちおう自転車置き場だが、自転車を置く人は少なくて、ATMの客が車を置くところになっているようだ。駐車場がないわけではなくて、後日支店の周りをうろついてみると、支店の裏に7台分ほどの駐車場がある。茶葉店の向かい、化粧品店の横に入口があった。そこに入れるのはたしかに少し面倒臭そうであるが、やはり車持ちの人にはちゃんと専用駐車場に入れて欲しい。なお、正規の駐車場に加えて、その北側に40台ぐらい置けそうな広大な月極駐車場があり、大共がそのうち9台分を契約している。
 さて、養老支店のキャッシュコーナーは機械3台分の枠があり、そこに3台の機械が嵌まっていた。2台あるATMは、沖電気の「バンキット」。そして、今日大共の店舗で初めて見る機械が1台。それは、両替機であった。キャッシュコーナーの右端1台分を、両替機で使っている。ATMが2台というのは、この近所ではごく標準的である。2台のATMのうち生体認証対応がどちらの機械であったかは、記録を取るのを忘れてしまっていた。
 というわけでATMを操作。16:18、養老支店を制覇した。

 養老支店は、1896(明治29)年4月、大垣共立銀行高田支店として開設された。当初の所在地は多芸郡高田町大字高田41番戸で、1899年9月に大字高田159番戸に新築移転した(現在のどこに相当するかは判明せず)。高田(現養老)支店は、大垣共立銀行の支店の中で最も古くからある店で、銀行が開業した際に設けられた3支店(揖斐・高田・垂井)のうちの一つである。支店の開設は、本店のある安八郡大垣町(現大垣市)周辺の米穀・養蚕地域を営業範囲とするためであった。
 1910(明治43)年4月、大垣共立銀行は真利銀行(大垣市)を合併、高田支店はこれに伴い旧真利銀行の高田支店に移転した。以来ここが、現在に至るまでの支店所在地となる。真利銀行は、もとは東本願寺大谷派の本山志納金を取り扱う目的で現大垣市岐阜町に設立された真利宝会という金融機関であった。1885(明治18)年4月に銀行業務を兼営し、1893年10月に真利銀行に改称。その後、1904(明治37)年の金融恐慌で経営が悪化していた。真利銀の高田支店は1898(明治31)年に開設された。
 大共は1921(大正10)年4月に高田町の養老銀行を買収している。養老銀行は1920年に地元有力者が設立した銀行で、書類上は長野県上諏訪町(現諏訪市)にあった甲信銀行が当地に本店を移転して養老銀行に改称したもの。高田支店が業務を引き継ぎ、店舗は一之瀬派出所(大垣市上石津町一之瀬)のみ引き継いだものの数年で廃止した。当時は銀行の営業免許を新規取得することが難しかったので、既存の銀行の営業権のみ売買されるケースが多かった。長野県から岐阜県に移転した本件もその一つで、本店が移転するという形をとるのが特徴である。
 1956年5月に店舗を改築した機会に、高田支店は養老支店に改称した。それに先立つ1954年11月の町村合併で、所在自治体の名称が多芸郡高田町から養老郡養老町に変わっていた。現在使用している店舗は、その後さらに1975年10月に改築されたものである。
 養老支店は、大共最古の支店だけに出張所の数も多く、最盛期には船附・押越・上石津と有人出張所を3つ持っていた。船附は無人店舗になり、有人で営業している押越はさきほど押さえた。上石津出張所というのは、養老町から養老山地を越えた旧養老郡上石津町にあって、現在も地域唯一の銀行として営業している。養老支店の管内ということで、今回制覇目標とする考えもあったが、2006年3月の合併で大垣市となっており、外した。
 店舗外ATMについても記述しておきたい。養老支店の店舗外ATMは、これまでに7か所が設置され、そのうち2か所は廃止されている。ヤナゲンについてはすでに述べた。ここまでで全く触れていないのは、養老支店の店舗外ATM設置第1号[美津濃養老工場]である。美濃高田の中心街の北側、スポーツ用品メーカー美津濃の工場内に、大垣共立のATMが1984年8月設置された。同ATMは、一般の利用者が立ち入ることのできない場所にある「企業内ATM」と呼ばれるものである。1943年に開設されたこの工場では、主に野球バットやゴルフクラブを製造しており、米国メジャーリーグ選手のイチロー氏はこの工場のバットを長年愛用しているという。工場は美津濃の製造子会社ミズノテクニクスの本社工場として現在も稼働しているが、工場内の大共ATMは2003年度に廃止となった。

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2017年05月26日

2014.07.18(金)(52)「やま」の際立つ美濃高田

 制覇目標はあと3か所で終わりであるが、まだ先は見えていない。最後の[イオンタウン養老]が遠いところにあるのだ。でも、コンビニ弁当を食べて、エネルギーが補充されたハズだ。頑張って行こう。養老支店は、さっきのお姉ちゃんとの無意味なやりとりとは関係なく、この先にある養老郵便局の手前を左に曲がっていけばよいのであろう。
 相変わらず対面2車線黄色センターラインの道が続いている。両側に墓地が広がっているところがあった。道路と川と養老線の線路とで三方を囲まれたところが墓場になっている。流れる川は牧田川の支流で金草(かなくさ)川という。養老線はこの川に、橋げたの上に直接まくら木を置いてレールを敷くタイプのグレーの鉄橋を架けている。
 信号2つ目が養老郵便局のある角。厳密には養老郵便局は角ではなく、角から3軒目である。この交差点のあたりから、煮しめたような焦げ茶色の木造建築が急に増えてきた。養老町の旧市街地、高田に突入したのであった。この交差点は、高田東町という。四つ角だが、東西方向はクランクになっていて、東行きが少し南に寄っている。交差点の南西角にある民家は2階建てで、外壁トタン張り。桁の部分が妻面に3つぐらい顔を出しているが、これはいったい何だろうか。トタン張りの前に、大垣共立銀行養老支店、西へ200mという緑色の看板が出ていた。やはりここで間違いないのであった。
 西に漕ぎ進めようとして、交差点の北西角に目が行く。背の高い木造の家があった。高さ自体は隣に建つ2階建てと同じくらいであるが、建物としては平屋建てで、横幅は3mほどしかなく細い。何だろうと思ったが、道のすぐ南側にも、同じ趣旨と思われる背の高い平屋建てを見つけて、謎が氷解した。これは山車庫、山車の車庫なのであった。扉に、岐阜県重要有形民俗文化財、高田祭曳軕、■■■東軕組【注】と大きく書いてある。この近辺の祭りは、山車を引き回すようである。北西角にある山車庫の前にはプランターなどが無造作に置かれており、扉ももう何年も開けていない雰囲気である。一方で道の南側、角から2軒目にある山車庫は、建物がずいぶん新しいようだ。ここには2台の軕があるのだろうか。それとも県道に面した建物が老朽化したので、南西角に移したのか。いずれにしても、ここでは新しい建物を建ててまで山車を大事にしているわけである。
 後で調べたことを書いておくと、美濃高田の祭礼である高田祭は、毎年5月の第3土・日曜に行われる。軕は「やま」と読み、祭りで曳き回される山車のこと。美濃地方の西部では一般的な言い方である。この商店街の先にある愛宕神社の火の神を祀る防火祈願の祭礼で、江戸時代中期から行われており、現存する3つの軕もその頃からいまに続くものだという。ということは、高田の軕は3台しかないわけで、ここに2つあるのはおかしいようである。

 養老郵便局と山車庫のある交差点から、大共養老支店があるハズの商店街に入ってきた。この道は「中心商店街」という。味もそっけもない名前だが、そういう名称なのである。この通りが、養老町の中心市街地、高田のメインストリートである。道路はセンターラインがないが、離合はできる。今日走ってきた今尾とか高須の商店街をもう少し近代的にしたような印象であった。今尾の商店街に似ているが、今尾よりは新陳代謝があったと見える。
 由緒ありそうな神社がある。新しい山車庫の隣にある中日新聞の専売店は、銀行の支店のような堂々とした建物で、3階建てのたいそう立派なビルである。国際学習会館というのは何だかわからないが、建物としては新しい洋館であった。呉服店がまだ営業している様子である。商店建築の入母屋は斜めの部分が微妙に丸めてあるとか、鬼瓦とは別にしゃちほこが付いているとか、妻に桁の出ている古い建物ばかり。営業している店舗はすっかり無くなってしまっている。商店建築だったとおぼしき店も普通の民家になっているとか、壊して更地、あるいは駐車場になっているところが多い。ただ、公衆トイレがあったり、老人福祉センター(ではなかったのかも知れないが)があったり、それなりに人の集まるところだったのであろう。
 昔懐かしい旅館があって、その西側から看板が残っている商店建築が増えてきた。でも買い回りの出来そうな店は全くない。地域の皆さんはもうこの商店街からは遠ざかっているのであろう。旅行代理店。写真館。洋品店(多分)のしもたや。立派な換気扇吐き出し口のついた総菜屋のしもたやは、モルタル2階建ての共同市場みたいな建物であった。その隣は2階の窓がおしゃれに成形してある土蔵建築だが、瓦が波打ったりなど老朽化している。「宅急便当店から送れます」としか出ていないが、こういう幟を出しているのは、今も荷物の発送を受け付けているのだろうか。その隣にあるお茶屋さん(茶葉を売る店)は平屋建てだと思われるが、2階建てと同じぐらいの高さの屋根を持ち、相当広いようだ。理容院は赤青回転灯が健在である。さらに洋品店、美容院、貸しガレージとあって、大垣信用金庫の店舗外ATMと続いている。その向こうには洋品店と呉服店があった。衣食住とあるうち、商店街からは食物系の店が最も早くなくなり、衣類系と住居系の店は比較的残りやすいようである。

 大垣信金の店舗外ATM、高田出張所は、建物は営業していないけれども営業店そのものであった。3台分の機械枠にATM1台だけを稼働している。母店の養老支店は南西に300mほどの県道養老垂井線沿いにあるが、かつて支店はこの場所にあった。支店が1992年7月に新築移転した後、跡地にコンクリ打ちっぱなしのハイカラな建物を建て、1993年2月から高田出張所という有人出張所にしたのだったが、2003年9月に統合してしまった。
 さらに歴史をたどると、かつてここには東海銀行(現三菱東京UFJ銀行)の養老支店が置かれていた。東海銀の養老支店は、大垣支店高田出張所として1945年10月に開設されたもので、翌年9月には高田支店に昇格。1955年12月にこの場所に新築移転すると同時に養老支店に改称した。1966年3月に撤退した後、同年6月、別の場所で営業していた大垣信金が東海銀の空き店舗に引っ越してきた。岐阜県の有力地銀である十六銀行は、養老支店を出す1991年6月まで養老町には店舗が皆無で、それを思うと短期間とはいえ都市銀行が出店していたという事実に驚かされる。なお、三菱東京UFJの大垣支店は、1882(明治15)年に大垣銀行として現大垣市に設立されたのが始まりである。

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 【注】■は人名。
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2017年05月25日

2014.07.18(金)(51)押越のコンビニにて

 次は養老支店に向かう。この県道をさらに北に行き、郵便局の手前で左に曲がればいいらしい。それが終わったらすぐに[養老町役場]が続く。
 出張所の敷地北側は、すぐ奥が養老鉄道の踏切になっている。その道を挟んで北隣に、前述したヤナゲンハッピー養老タウンがかつてあった。現在ではセブンイレブンと太陽光発電所になっている。めぐ当日時点では更地だったと思われるが、記憶がない(少なくともセブンイレブンは存在していなかった)。養老鉄道と県道大垣養老公園線が南北に並行に走っているこのあたりは、道の右(東)側で水田が多い感じであった。今朝乗った養老線でも、車窓の風景は同じ傾向を示していた。すぐ西側に養老山地が迫ってきているから当然のことである。
 県道を頑張って漕ぎ進めていくと、オアシスを発見した。大駐車場完備の平屋建てコンビニ建築。しかも、ここにあるのはイートインコーナーを標準装備しているコンビニチェーンの店であった。おお、ここだったら座って食事ができるか。こんな中途半端な時間に食べたら太ってしまうが、今日はガス欠状態のままここまで引っ張っている。ちょっとさすがに飯を食べよう。私は店の名前のとおり“小休止”することにした。コンビニの向かい側には、このあたりとしては大きな病院がある。JAグループが経営しているらしく、JAのマークがでかでかと掲げられていた。
 正面入口の横に自転車を置き、店内の弁当コーナーへ。チキンカツの弁当を買うことにした。茶飯というのか醤油を入れて炊いたご飯と、ケチャップで炒めたスパゲティ、それに鶏むね肉の照焼の薄いものが1枚入っている。それがチキンカツとは別に、であるから、腹は結構膨れそうである。ガラスの冷蔵庫から飲み物を取って、弁当と一緒にレジカウンターへ。
 会計のついでに、養老支店までの道筋を念のため地元の人に確認しよう。ふとそういう考えが頭に浮かんだ。何しろ私は、午前中に痛い目にあっている。意識や思考力はだいぶ薄れてきているが、用心深さはまだ残っている。カウンターで私の会計をした若い女性の店員に「大共の養老支店はこの先を左でいいんですよね?」と尋ねてみた。まだ十代だったかもしれないが、さすがに高校生ではなかったと思う。
 きょとんとされてしまった。なぜだろうと思ったら、まず「ダイキョウ」がわからなかったらしい。大垣共立銀行のことだと言うと「そこにありますけど」と返事が返ってきた。は? そこは押越出張所という違う店で、養老支店というのが別にあるんだけど。苛立ちを極力抑えてこういう趣旨のことを聞くと、「ちょっとそこしかわからないです」と困惑しきったような表情で言われてしまった。地元の人なら大共が町に2つあることは知っているだろうに、少し知識が無さ過ぎないか。この人は遠方からバイトに来ているのだろうか。それとも若過ぎるせいか。知らないことを非難はしないけれども、疲れているのに、こんな無意味なやりとりは勘弁して欲しいと思った。
 まあ、疲れていたとはいえ、やはりこうしたことは基本的に他人に頼らずすべて自力で解決すべきであった、と今は思う。

 それでもどうにかレジで会計を済ませ、いよいよイートインコーナーにやって来た。そこで私は愕然とした。何だこれは!
 満席だったのである。入口入って左側にあるこの店のイートインコーナーは、レジからは見えない【注】。レジカウンターのうしろ側はバックルームになっていて、イートインはバックルームと外面ガラスとの間のスペース。そこに、ファストフード店にあるような四角い小テーブルが4つと、丸い回転イスが8脚置かれている。問題なのは、テーブルの配置が2つ×2つに分けられていたこと。だから、そこに4人しかいないのに、テーブルが4つ全部使われていたのだった。
 特に許せないのが、1組のカップルであった。こいつらは、2人でテーブルを2つ使っている。テーブルが2×2ではなく4つにバラしてあれば、2人で4人分取るようなことはなかっただろう。ふざけるな、1つにしろ。だいたい、カップルならもっとカップルらしいことをしたらどうだ。1つの飲み物にストローを2本挿して2人でチューチュー吸うとか。それならテーブルが1つ空くだろう。この場合、別の意味で許せない思いになりそうだが、今の私にはこちらの方がまだ数倍マシだと思えた。
 いずれにしろ、すっかりアテが外れてしまった。こういうのは、多くの人が使えるように、店がちゃんと管理していなくてはダメではないか。イートインはこのチェーン唯一の取り柄なのに。仕方がないので、酷暑の中を外に出る。店の周囲には腰をかけられるものがほとんどなく、駐車場の車止めが最も高い突起物であった。高さ15cmぐらい。こんなところに座るのは、ほとんど地べたに座っているのと同じである。
 食べ終わって片付けようとしたら、ちょうどそこに風が吹いて来て、弁当に入っていた緑色のバランを吹き飛ばされてしまった。腹が立っているので、気が付かなかったことにした。消化不良感だけが大いに残った。

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 【注】このコンビニは2016年1月に同じ敷地内の北側に新築移転し、店内の配置も大きく変更された。旧店舗は現在コインランドリーとなっている。
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2017年05月24日

2014.07.18(金)(50)続いて、押越出張所を制覇

 トミダヤの東側を南北に走る大通りに出たところに、ニューディスカウントストアと書いてあるスーパーの空き店舗があった。「フードパワーセンター ケイ・バリュー」という看板が残っているが、鉄骨などはサビサビだし、廃業してずいぶん経つようだ。この店舗跡は[松山]のところで触れた「かどます」が経営していた店舗の一つで、ケイ・バリュー高田店(かどます高田店改め)である。かくのごとく、この近所には個人商店よりは規模の大きな商業施設が、残骸も含めて複数あるのだった。
 そんな様子を見ながら、対面2車線黄色センターラインの道を行くと、NTTの営業窓口のしもたやとスーパーのそれが面する、押越南という交差点。ここで、県道215号(養老垂井線)と96号(大垣養老公園線)が分かれる。交差点名は押越南だが、地名でいうとここも石畑となる。交差点の北側に、JAにしみのの高田支店が見える。農協そのものに少し触れておこう。1999年7月、美濃西部の6つのJA【注】が合併して「JAにしみの」になった。ここは旧JA養老(養老郡農業協同組合)の本店で、広大な前庭に相当大規模な植え込みがあったりするなど、合併前の農協本店として一定の風格が感じ取れる。
 私は押越南で右に曲がる。やはり対面2車線黄色センターラインの道が続いていて、こちらも交通量が多い。このあたりは水田と住宅地が半々ぐらい。開業医の隣にチェーンのドラッグストアがあったりする。すぐ右前方に大垣共立銀行の縦型の緑看板が見え、その向こうに十六銀行の赤い看板もあった。1991年6月開設の養老支店は、この町唯一の十六銀の店舗である。石畑の手前で養老町の中心部が近いことを知らせてくれた、あの赤い看板のそばまで、私はようやくやって来たのであった。
 自転車で近付くと、大共の敷地の手前に関心を引くものがあった。押越出張所の南側隣地は舗装された空き地で、「ハッピー養老タウンお客様駐車場」と書いた立札が立っているが、ロープで塞がれている。ハッピー養老タウンというのは、閉店したスーパーマーケットの名前である。ヤナゲンストアー養老店として、現大共押越出張所の北側に1976年に開業したが、2010年1月に閉店した。もともと店舗は平屋建てだったが、1990年10月に2階建て4700uと3倍に増床し、その際に大共養老支店の店舗外ATM[ヤナゲンハッピー養老タウン]が設置された。2010年1月の平和堂養老店(ヤナゲンハッピー養老タウン改め)の閉店と同時に、大共のATMも廃止されている。
 ヤナゲンについて解説を加えておこう。もとは明治時代に大垣で創業した呉服店で、戦後にデパートを開業して躍進した。メインバンクは大垣共立銀行で、大垣駅前にあるヤナゲン本店の1階には、現在も大共の大垣駅前支店が入居している。1990年代後半から業績が下降してスーパー部門の分社化などが行われ、2005年には滋賀県地盤のスーパー、平和堂の傘下に入った。現在では大垣駅前の百貨店と大垣市郊外の家具店を各1店運営している。ヤナゲンのスーパー部門は分社化後、平和堂子会社との合併を経て、現在では平和堂の本体に吸収されている。

 大共の店舗の横に自転車を置いていたら、ギーッとブレーキ音がしたかと思うと、「通ります」と言って女性の自転車が後ろから私の横を走り抜けていった。ああびっくりした! 私は少しぼんやりしていたようだ。邪魔をしてしまった。
 押越出張所の建物は少し面白い形になっていて、前から見ると敷地の形に合わせて丸まっている。上から見ると、Dの字を潰して平たくしたような形をしている。丸めた壁面の下に、V字形にガラスを組み合わせた出入口兼風除室がある。直角二等辺三角形の風除室のおかげで、道路側と駐車場側の両方から入れるようになっている。自動ドアを2枚通って風除室を抜けると、広々としたロビーであった。グレーの2人がけのソファが3脚並んでいる。すでに3時を回っているから、窓口の部分にはシャッターが下りているが、この時間にくつろげるのはありがたい。
 私はここに来るまで、大共は将来的には養老支店をここに移転して統合する計画ではないかと思っていたが、どうも違うようである。押越出張所は建物を見ると狭小で、相談ブースなどもなさそうだし、はじめから出張所としてつくられた建物であると思われた。なお、押越出張所の窓口が営業している様子を後日見たが、シャッターが開くといきなり窓口のカウンターという配置で、大共の有人出張所としては標準的なスタイルであった。
 キャッシュコーナーには4台分の機械枠があるが、2台しか入っていない。ATMの機種は沖電気の「バンキット」。向かって右側の1台が手のひら認証対応であった。機械を操作。15:50、養老支店押越出張所を制覇した。
 制覇作業で入金をする際、ATMで「確認」のボタンを押さなければいけないところ、誤って「金額指定」のボタンを押してしまった。致命的ではないけれども、操作が一手間増えてしまった。頭に回るハズの栄養がもはや体内から搾り出せないようだ。

 養老支店押越出張所は、1990年12月に現在地に開設された。

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 【注】大垣・ごうど・あんぱち・海津・養老・不破の各JA。
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2017年05月23日

2014.07.18(金)(49)[フードセンタートミダヤ養老店]を制覇

 カーマの北隣、広大な駐車場の奥に、白緑色のパラペットを持つ平屋建ての建物があった。見るからにスーパーマーケット臭い外観だが、これがそうなのだろうか。思う間もなく、パラペットには赤文字で「Tomidaya」と大きく書いてあった。ああ、ようやくフードセンタートミダヤにたどり着いた。
 敷地の関ヶ原寄り、小学校が見えるところから入った。敷地は白いフェンスで囲まれているが、建物に近いところにフェンスの切れ目があって、出口という赤い看板が出ている。私は自転車なので構わずそこから乗り入れた。
 建物は、乗り入れてしばらくは壁が続く。薄い白緑色の外壁に沿って、窓の多い部分を目指す。店頭のガラス張り部分が始まり、通路として奥に1段引っ込んだ。メイン入口は建物の角に近い部分のようで、パラペットが丸めてあるのが見える。ガラス張りの部分はメイン入口のところでさらに奥に引っ込んでおり、その前にはグレーの円柱が何本か付いてピロティのようになっていて、駐輪場だったりカートを置いたりのスペースになっている。そこから曲がった先は、ピロティは催事場として使える広いスペースとなった。駐輪場としても使われているようで、《せいとんよくならべましょう》という立て札が立っている。私は自動ドアから店の中に入った。ああ、飯が恋しい。
 さて、いらぬ心配をしてしまったが、この「フードセンター」は、やはり「頭巾店」ではなくスーパーマーケットであった。しかし、空腹を満たすことはかなわなかった。食事を買って食べようと店内に入ったのだが、このスーパーの建物は想像以上に大きかった。売場面積2000uというから郊外では平均的な食品スーパーだと思うが、総菜売り場は入口から対角線の反対側で、そんな遠いところまで歩く気にはとてもならなかったのである。まあ良い。次に向かう途中にコンビニぐらいはあるだろう。大共の制覇を済ませよう。

 手ぶらで店を出た。入口の自動ドアの前からは、さっき養老警察そばにあったファッションセンターしまむらが見える。見回すと建物は結構年季が入っていて、クモの巣が張っていたりツバメの巣を取り払った跡があったりするから、さほど新しいスーパーではないようだ。敷地は三角形で、フェンスのすき間から隣の駐車場【注1】に抜けられる。三角形の敷地に合わせて駐車場も三角形に配置されている。ここの駐車場はトータル何台ぐらい置けるのだろうか。さっきの大共船附出張所で20台とすると、100台ぐらいは置けると思う。郊外型スーパーとしては平均的だが、今となっては流行らないスタイルと思われた。
 フードセンタートミダヤ養老店のキャッシュコーナーは、店の東側であった。外壁に、ガラス張りでアルミの枠が付いたキャッシュコーナーと、クリーニング屋が出っ張っている。自動ドアは押しボタン式の両開きである。
 ここは3つの金融機関が共同で使用しているキャッシュコーナーで、自動ドアを入ると3機関3台分のATM枠がある。左から順に大垣共立銀・大垣信金・JAにしみのが各1台ずつATMを設置しており、閉鎖された空き枠はない。大共の営業時間は10時〜20時で年中無休、トミダヤの休業日はお休みとなっている。母店は養老支店。機械は沖電気のバンキットが1台だけで、ここは手のひら認証に対応していた。
 例によって機械を操作する。いらっしゃいませ。ピ。ピ。ガー、バタバタバタ。ガー、ピ、ガー、バタバタバタ。ピ。ありがとうございました。15:37、[フードセンタートミダヤ養老店]を制覇した。

 養老支店フードセンタートミダヤ養老店出張所は、養老支店5番目の店舗外ATMとして、スーパーが開店した1997年5月に開設された。出張所名は後述の理由により2016年2月1日付で[トミダヤ養老店]と改称されている(通帳の表示は変更なし)。大共の出張所名変更は、養老店だけでなく、他のトミダヤ店内にある店舗外ATM3か所(島・三田洞・池田)でも同時に行われた。
 フードセンタートミダヤは、大垣市の潟tードセンター富田屋が経営していたスーパーマーケットである。1945年9月に大垣市内で生鮮食品小売店を個人創業し、1970年にスーパー「トミダヤ」1号店を大垣市内に出店。以降、西濃地区を中心に22店舗を展開し、当地区の有力な小売チェーンに成長した。2005年には約339億円を売り上げたが、その後は不振に悩み、2014年には売上高約178億円とピーク時の約半分となってしまった。2011年から中堅スーパーのオークワと業務提携を始めたものの、2013年には解消。メインバンク(大共と大垣信金)から資金支援と経営者派遣を受けて自力再建を目指していたが、スポンサーを見つけて地域経済活性化支援機構【注2】の支援を受けることとなった。スポンサーになったのは、大阪の中堅スーパーマーケット、コノミヤ【注3】である。事業は同社の新規設立子会社である潟gミダヤ(瑞穂市)に2015年11月営業譲渡され、法人としてのフードセンター富田屋は清算された。店舗の屋号表示は当面「フードセンター」の文字が付いたままだが、これから徐々に「トミダヤ」だけになっていくのであろう。

 次の制覇目標は、どこにしようか。養老町の中心部には、このトミダヤをはじめとして大垣共立銀行の拠点が4か所固まっている。固まりの最初がトミダヤ、最後が[養老町役場]であるのは漠然と頭にあったが、間の2か所がどうなるかである。養老支店と押越出張所だが、取りこぼしさえしなければ、どんな順番でも構わない。トミダヤから北上してY分岐を右に入った奥に、十六の養老支店と大共の押越出張所が2つ向かい合っているようだ。まずそちらに行ってみようと思う。

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 【注1】その後ドラッグストアの店舗になった。
 【注2】地域経済活性化支援機構:本社東京都千代田区。2009年10月滑驪ニ再生支援機構として設立され、日本航空などの再建を担う。2013年3月現商号に変更。株式会社地域経済活性化支援機構法に基づいて地方中小企業の再生支援を行う政府系ファンドで、株主は預金保険機構と農林中央金庫。支援先に直接融資するほか、経営の専門人材を派遣する。実際の支援は地方銀行などと提携するケースが多い。
 【注3】コノミヤ:大阪市鶴見区に本社を置くスーパーマーケット。1957年に衣料スーパーとして創業したが、火災事故により廃業し、1962年に大阪市城東区鴫野で出直し創業、1971年に法人化した。2011年から東海地区に進出。社名は「好まれるスーパー」を目指したもの。
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2017年05月22日

2014.07.18(金)(48)「フードセンター」は何の店か

 右前方はるか彼方に、赤い縦型で、上下が細くなった看板らしきものが見えた。あれは、十六銀行の看板だろう。この色でこの形なら、文字が読めなくても何の看板だかわかるわけで、十六銀の看板が持つ視認性の高さに驚いた。事前のリサーチによれば、あそこにある十六銀は養老支店のハズで、そうするとその向かい側には大垣共立銀行の押越出張所がある。養老の町はすぐそこだ。銀行が見えるところまで、ようやくたどり着いたのだ。腹の底から喜びがわき上がってくるのを覚えた。
 左にサトイモ畑を見ながら、養老の町に向かって微妙な上り坂が続いている。しばらく来ると、踏切の警報機が鳴っていた。ここで小休止。養老鉄道の踏切で、名前は石畑といった。以前連載で取り上げた都バスの[梅70]に〔石畑〕という停留所があったのを思い出した。バス停のある東京都瑞穂町とこの近辺とは、水田地帯から若干標高が上がった畑作地帯であることが共通しているように思う。いま地形図を見てみると、標高は珍品センターの近くで1mくらい、この近所では13mほどとなっている。桑名行きの3両編成が通り過ぎた。乗客は全部合わせて6〜7人だろうか。
 踏切を越えた先には、行政がつくった白い矢印看板が出ている。この先の突き当たりを左へ2km行くと養老公園だそうだ。「養老公園11km」という看板のあった輪之内町の福束大橋東側から、少なくとも9kmは走ってきたわけである。こうして、踏切の先にある石畑の信号までやって来た。左へいくと看板にあった養老公園で、養老の滝を筆頭に、養老天命反転地、パークゴルフ場、こどもの国、などファミリー向けのレジャー施設を持つ一大観光地である。ここの突き当たりはy字形で、左の養老公園方面では明らかに方向が違うから、右に行かざるを得ない。y字のまたの部分は、出光のガソリンスタンドであった【注】。
 すぐ横にもう1つy分岐があって、この交差点はトータルで見るとy字分岐が2本連続している。地図で見ると五差路に見えるけれども、そのうち1本は現地では全く気付かない程度の細い道だし、といって四つ角というには、2つのy分岐の間に若干の距離を感じた。メインの道路は養老の滝の方から来て分岐を左へ行く道であるから、主要な交通の流れとしては「π」の字みたいな形と言った方がふさわしい。
 私は2つ目のy分岐を左へ進む。歩道が完備された道になったけれども、道路は相変わらず黄色センターラインの対面2車線であった。近所には老人ホームのようなものが建っており、また「酒激安」という種類の酒屋があった。道路の交点では、鋭角の部分にコンビニが出店することが多い気がするが、酒屋はそのコンビニが閉店して業態転換したようだ。右斜め前方には養老警察署。その近所にファッションセンターしまむらが見えたりするから、このあたりは養老町の市街地のはずれで、それなりに生活の都市化されたエリアであると思われる。今も開発は続いているようで、畑が1枚埋め立てられて、とりあえず駐車場になっている。そのうち何か建つのだろう。

 養老警察署の向こうに赤い看板が見えた。あれがフードセンタートミダヤではないのか。そう思って目を凝らして文字を読むと、その看板は確かにフードセンターのものだったが「右折200m」と書いてあった。何だ、まだ行くのか。軽い失望を感じながら自転車を漕ぎ進めた。フードセンターの他にも、前述のしまむらの他、ホームセンターのカーマとかいった看板が見える。道路沿いにある民家の玄関先には、立派な信楽焼の狸が置いてあった。珍品センターで買ったのだろうか。
 こうして、赤い看板のある角までやって来た。ここを右に入って200m。道を渡ろうとするが、横断歩道も信号もないところなので、なかなか向こうに行けない。この道、県道56号南濃関ヶ原線は交通量がかなり多くて、走る車もトラックばかりであった。
 ようやく車の列が切れ、私は道路を渡ることができた。この角には、「飛騨牛」と大書した赤い看板も立っている。平屋建てで窓の大きな、レストランのような建物が建っているが、ここはこの地域の有力な地場企業である食肉会社の本店。さっき見た肉牛を飼っている牛小屋と関係があるのだろうか。まあ、牛肉の産地については色々と定義があるそうだし、それ以前に「牛肉」であるのは間違いないだろう。本店の西側には、西武秩父駅(埼玉県秩父市)の「仲見世」のごとく小規模な飲食店が並んだエリアがある。「養老うまいもん広場」と称して観光客を集める施設らしい。養老町のこのあたりは、基本的にはどこにでもある郡部の中心地のようだが、養老の滝という有名観光地の膝元だから、こうした観光客向けの飲食店があるのが普通の田舎町との違いである。
 食肉会社の奥は、カーマというホームセンターである。東海・北陸を地盤とするホームセンターチェーンであり、初めて見る屋号であった。左奥に見える学校は、後で調べたところでは町立養老小学校であった。さっき養老警察署のそばに歩道橋があったが、この学校の児童が主要な利用者なのであろう。
 さあ、いよいよ「フードセンター」のベールを剥ぐ時が近付いてきたようである。

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 【注】除却済み。
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2017年05月21日

2014.07.18(金)(47)ついにダウン

 《東海環状自動車道がここに接続します》という看板が出ている。養老ジャンクション(仮称)接続位置【注1】、だそうである。東海環状自動車道は名古屋市の周辺30km圏を結ぶ環状道路で、現在この地区では大垣西インターチェンジから養老ジャンクションまでの間が供用中である。道路予定地とおぼしき農地は、そこだけ耕作されず荒れ地になっている。ここには養老ICができるというので、県道養老平田線にはインターに入る左折車線などもすでに整備されている。道路用地の買収もかなり進んでいて、4車線にする工事は直ちに取りかかれそうだが、供用開始にはまだしばらく時間がかかるようで、出来上がった部分にはコンクリの塊の土台が付いたガードレールが置かれていた。
 サークルK(養老大跡店)が角にある大跡という交差点から、その先にある酒屋までの間は工事中で、片側通行になっていた。U字溝のようなものを道路の端に付ける工事をしている。歩道が全くないところだから、高速インターの接続に合わせて整備しているのだろう。それ以外の部分は、車線の幅だけに舗装してあるような状態で、路側帯は線が引いてあるだけで人が歩くスペースなどありはしない。こんなところで車とすれ違うのは、怖くて嫌だ【注2】。
 ヤンマーと井関農機のディーラーがある。もっと手前にあったクボタもそうだが、売っている農機はトラクターだったり、田植え機も手押し型ではなく乗って植えるタイプで、大型の機械ばかりを扱っている。田んぼの一枚一枚が真四角だし大きいし、この近所にはやはり大型の農機がふさわしいようだ。もっとも、大跡の交差点あたりからは水稲耕作があまり見られなくなり、休閑地ばかりになった。
 そして、また右も左も田んぼばかりになった。水田が減って養老の町に本格的に入ってきたと喜んでいたのに、再び水田ばかりになってしまった。まだ相当走らないと、町らしき所にはたどり着かないようだ。それでも、インター予定地の西側、養老の町に近い側では、道路を広げている。片側2車線にするようだ。道路の方は、あと50mほど西へ行くと、大きく右にカーブしている。カーブの先に見える堤の上が、確か養老鉄道ではなかったかと思う。
 もう少しで養老の町に入る。町に入ってしまいさえすれば、4か所はすぐに回れるハズだ。そう思ったが、どうにも動く気力が出ない。とうとう私は、自転車を降りてその場でへたり込んでしまった。

 どこかの会社の倉庫らしき施設であった。建物前の車を切り返すスペースだが、業務の気配はもとより人の気配も全く感じられない。何の倉庫か知らないが、建物は割合最近建てられたようで、外壁なども汚れてはいなかったし、アスファルトの舗装も真っ平らである。時折、目の前の県道を車が行き過ぎる音がした。
 私は、アスファルトの上で体育座りのまま、しばらくぼんやりしていた。夏の盛りで直射日光も強いハズだったが、アスファルトの上にいても、熱さも暑さもあまり感じなかった。

 10分ぐらいも座っていただろうか。少しは疲れが取れたと思った。自転車漕ぎを再開しなくては。私にはまだ行くところがあるのだ。ちょっと前から太陽は翳ってくれたし、風が結構吹いているので、だいぶ過ごしやすくはなった。自転車は相変わらずペダルがガタガタいっている、ママチャリに毛が生えたぐらいの自転車で、よくここまで走ってきたと思う。ここまで、地形の起伏が多くなかったのが幸いしたのであろう。
 さて、養老町の中心部に向かう道は、倉庫の先から大きく右にカーブしている。道路の脇はちょっとした丘のように小高くなっていて、その上に水防倉庫が建ち、木がうっそうと茂っている。養老鉄道ではなく、手前を流れる川の堤防であった。セーラー服姿の女子高生を自転車で走らせてみたい雰囲気で、ちょっと心惹かれるものがあるが、行かない。水防倉庫のあるあたりには、側面を石垣で固めた幅2mぐらいの川が流れている。後で調べて驚いたが、この川はサイクリング冒頭で駒野から高須へ向かう途中に渡った、津屋川の最上流部だそうである。
 さらに先へ進む。道の左には、茅葺き屋根の建物が建っている。正確には、茅葺きに似せた屋根を持つ鉄筋コンクリートの門構えだが、門はバリケードで塞がれている。営業はしていないのだろうが、それにしても川にドボドボと大量に排水を流しているのが謎であった。敷地内には4階建てのビルが建っている。和テイストの不思議な外観で、和風建築としてはチープな感じ。温泉旅館を大きくしたようなホテルだったのだろうか。その隣は、発泡スチロール製造販売の工場であった。
 道がまた右に曲がりだした。水田地帯のはるか彼方に、金色の卵みたいなものが見える。その横には、博多駅前にある西日本シティ銀行の本店を2階建てにしたような、赤茶色のタイルで覆われた平たい建物が建つ。金色の卵は、温泉ホテルの温浴施設らしい。養老町の水田は、休閑地ばかりのようであった。市街地が近づいてきたせいだろうか。

 ここまで来て、私の足は再び止まってしまった。おそらく、私はいま“ガス欠”なのだろう。考えてみたら、今日は朝に関西線の電車の中で幕の内弁当を食べただけ。途中のコンビニでファミチキ1つ、から揚げ3個。あとは水ばかり。バテるハズである。定食、せめてコンビニ弁当ぐらいは食べなければダメだ。幸い、次の目的地は「フードセンタートミダヤ」という。さっきの[珍品センター]は“珍品の店”であったが、「フードセンター」というからには食べ物を売っている店なのだろう。
 まさか、フードは「頭巾」の意味なのだろうか。そんなバカなと思うけれども、植田まさし氏の4コマ漫画を思い出してしまったから、どうしようもない。それは『まさし君』の一話で、ナットナットナットー、と自転車に乗って朝からナットを行商するのだ。買いに来た客に「で、ボルトのサイズは?」と尋ねるセリフが印象に残っている【注3】。
 それにしても、延々と続くこの道は、いつになったら終わるのだろうか。

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 【注1】看板の表示は、この位置にできるインターから養老JCTに接続する、という意味のようだ。
 【注2】現在は歩道が整備されている。
 【注3】植田まさし『まさし君 2』芳文社、1982年。16ページ左に掲載の「朝もはよから」。
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2017年05月20日

2014.07.18(金)(46)養老町をヨロヨロと

 県道213号養老平田線を西に向かっている。50km/h制限、対面2車線黄色センターラインの道。道の北側は縁石で歩道が仕切られているが、南側は白のラインで路側帯だけであった。車通りが結構激しいので、縁石で仕切られた道の北側を行く。舗装のわずかなすき間から雑草が生えている。野寺の手前でも感じたことだが、よくこんなところを選んで生えてくるなあと思った。珍品センターの隣には珍品センターではない古美術店があり、その隣は看板屋。あとは「厨房レンジャー」というのは何だろう。厨房用品の中古屋さんか。というわけで、この近辺は美術とか中古品の専門業者が集まった、ある種メッカ的な場所のようであった。休耕田の向こうには、もう耕作していないと思われる温室があって、骨組だけがサビサビの状態で無残な姿をさらしている。
 建物の密度が少々上がってきて、水田も町工場など建物のすき間でやっているような感じになってきた。歩道の整備が片側だけになったり、舗装が少しガタガタになるなど、道路が古びてきた感じがする。下笠野崎という交差点には2階建ての商店の棟割長屋があるが、5店舗のうち営業している店は1軒もなかった。JAにしみの笠郷支店の前には、行政が作った「養老公園・養老の滝6km」という白の矢印看板が出ていた。輪之内町で11km先という看板を見たが、少しは近づいてきたのだろうか。
 ここまで、この道は田んぼの中をひたすら直進する道筋だったが、右に大きなお寺が見えたあたりで、道路が左右にカーブするようになってきた。前方の養老山地の山々がだいぶクッキリと見えるようになってきたし、この道は養老鉄道の手前で大きく右に曲がっているハズだから、この先が養老線の線路なのだろうと思った。前方には大垣信用金庫の笠郷支店がある。珍品センターの近所であるせいか、この集落の民家には、恵比寿様とか巨大な石像を門前に置いた家が目につく。道路と完全に同一面上にある民家は、よく見ると石垣の上に載っていて、さすが輪中地帯といえる。それから、無人精米所も相変わらず多い。
 さて、平野部で道路が曲がりくねりだしたら、地形(自然堤防)の起伏の反映であり、古い時代にできた道路ということである。道路が微高地になっていて、そこを縫うように道路が設けられているのだ。こうした微高地は、かつてそこに川があったことの反映である。平野部は高さがほとんどないので川は蛇行しやすく、その過程で何度も洪水を起こしている。洪水の時、川は上流から運んできた土砂をそこにぶちまけるから、自然の力で微高地ができる。これを自然堤防というわけである。相対的に低くなった部分は、川から見て背後にあるという意味で後背湿地という。洪水が起きた時になかなか水が引かない土地であり、逆手にとって水田はこうしたところにできるわけである。

 道が再び真っすぐになり、再び水田地帯になった。小さな集落を抜けただけだとわかって、私はかなりがっかりした。田んぼの真ん中にところどころ建つ家は、高度成長期に建てられたような外観をしていて、このあたりが養老町の郊外として発展し始めた頃に建った家だと思われた。「カラオケ居酒屋」と書いてある2階建ての大きな民家は、廃虚になっていた。
 さっきから、自転車を漕いでいて足がつりそうな感じになっている。珍品センターを出て間もなくそうなったから、かなり疲労度が上がっているようだ。足がつる兆候を感じるたびに力を入れるのをやめて漕ぎ加減をコントロールするが、漕いでいる途中に何度もそういうことをやっていては、スピードが上がるハズもなかった。
 クボタの農機ディーラーのある下笠というところで、ああ畜生、と思った。立派な歩道がここまでずっと整備されていたのに、小さな川の手前で突然途切れてしまったのである。普通なら走るところを黙って変えて終わりであるが、疲労が相当深刻になってきたのか、イレギュラーな事態にとっさに対応しにくくなっていた。さっき珍品センターで麦茶を飲んでリフレッシュしたハズなのに。しかも、珍品センターからここまでは大した距離でもないのである。ただ、後日ここを自転車で再走してみた際に気付いたことだが、やはりこの付近でペダルが重たくなってきたと感じられた。再走した日は中間地点近くの養老線烏江駅から走り始めているから【注】、さほど疲れていたわけでもないし、地形図を見てもこの区間はほぼ平坦と言ってよいから、強い向かい風が原因だろうか。なお、歩道を強制終了させたこの川は、岸をコンクリートで固めてはおらず、この近所には珍しく流れていた。
 というわけで、ここからは道の南側、歩道が途切れた向かい側を走る。大掛かりな畜産農家があって、小屋の中をチラッと見ると、飼われているのは肉牛のようであった。美濃にも銘柄牛があるようだが、このあたりで育てているのだろうか。その先には住宅地があって、水田の向こうの駐車場には政治団体の宣伝カーが何台か駐車してあった。1台は廃車のようだが、まさか珍品センターの商品ではあるまいな。大型スピーカーを積んだマイクロバスと、もう1台ワンボックスカーがあって、「尊皇」という文字が見えた。

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 【注】駅で借りたレンタサイクルを電車で運んできたのである。養老鉄道の「サイクルトレイン」については前述。
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2017年05月19日

2014.07.18(金)(45)そして、制覇

 珍品城に夢中になってしまったが、私は大垣共立銀行の制覇をしなければならないのである。
 店舗外ATM[珍品センター]は、珍品センターの敷地西寄り、天守閣の横にあった。本日何度も遭遇してきた1992年標準タイプの小屋に、ATMが1台。機種は沖電気のバンキットで、手のひら対応にはなっていなかった【注1】。母店は養老支店であった。小屋に入って機械を操作。14:47、ATM[珍品センター]を制覇した。
 養老支店珍品センター出張所は、養老支店4番目の店舗外ATMとして、1996年3月に開設された。2003年の年末、建設重機によるATMブース破壊の被害に遭っている。重機で店舗外ATMを物理的に壊し、ATMに装填されている現金を奪取する窃盗事件が、ちょうどこの頃(2002年以降)急増した。手口はほとんど共通していて、建設現場や重機の駐車場から油圧ショベルを盗み、そこから近いATMを破壊して現金を奪うというものである。建設省(現国土交通省)が1990年から重機の操作方式の共通化を始め、2002年には重機のほぼすべてが新型に切り替わったが、それによって犯罪に利用されやすくなったという事情もある。
 重機によるATM荒らしは、私がかつて「めぐ」をしていたあさひ銀行でも複数件発生している。あさひ銀では、被害個所は復活せずすべてそのまま廃止となったから、それを思うと[珍品センター]が復活したのはまことに慶祝すべき出来事であった。[珍品センター]の事件では、正面ガラスが割れただけでATMに被害はなかったという。

 ATM小屋のうしろに回ると、ガラス窓のような形態のポスター掲示板に「ゴールド総合口座」のポスターが貼ってあった。ゴールド総合口座は、2001年4月に販売を開始した大共の看板商品で、口座管理手数料(年額2160円)を徴収する代わりにATMの時間外手数料が無料になったり、取引ポイントが倍増したりする。口座手数料が2.5倍(5400円)の「スーパーゴールド総合口座」もある。今回の「めぐ」ではお目にかからないが、大垣や岐阜など都市部の店舗に行くと、ボディを金色に塗った「ゴールド総合口座利用者専用ATM」というものが異彩を放っている【注2】。
 ポスターの絵柄は、「OKB3」という女性3人の写真であった。胸の谷間を強調したりタイトミニスカートを穿いたりして、銀行のポスターとしては非常に官能的だ。「OKB3」は大垣共立銀行のキャンペーン広告に出ている女性の3人組で、カナ・マナ・ヒロの3人【注3】はモデル事務所所属のプロのタレントである。そして、行内には別に「OKB45」というものがある。これは女性行員を45人集めたユニットで、こちらもディスクロージャー誌の表紙を飾るなどビジュアル的に活動している。ミニスカートはやめた方が、と思う人もいないではないが、基本的には美人の集団である。この「OKB3」と「OKB45」の数字を足すと、48。つまり「OKB48」になるというわけである。AKBグループを意識しつつオリジナリティを出しているのは、土屋頭取のエンターテイナーとしてのセンスだろうか。その「OKB3」は2011年11月から始まったが、セクシーな女性の写真を使った広告自体はそれより前から行っていた【注4】。こうした路線の嚆矢は、同行では1984年の水着モデルを使ったポスターが最初だという。
 大共って面白い銀行だと改めて思った。こういう遊び心がないと、組織はギスギスしてくると思う。もっとも、心配に思うこともなくはない。頭取の打ち出す構想は遊び心に満ちているのだが、それを実行する銀行の組織は、頭取の遊び心に付いていけているのだろうか。私は、銀行のサービスの斬新さから期待される応対と、この銀行で実際に受けた応対とのギャップに、軽い失望を覚えたことがある。まあ、銀行という業態の業務内容からして、あまり形から外れすぎるのも問題なのであるが。

 さて、次の制覇目標に向かおう。[フードセンタートミダヤ養老店]である。目の前を走る養老平田線を西に走って養老町の中心部に到達すれば、ここをはじめとして養老町内がパタパタッと片付くハズだ。4か所を一気に取って、郊外にある[イオンタウン養老]に行ったら終わりである。
 時計を見ると、[珍品センター]の出発は、すでに予定より70分ほど遅れている。この調子では、自転車の返却まで含めると、ずいぶん後ろにズレ込むのではないだろうか。いちおう、スケジュールは16:10頃に養老鉄道養老駅で終了することになっているが、「16時過ぎ」ではなく「夕方6時過ぎ」ぐらいになってしまうかも知れない。レンタサイクルは、返却予定時刻を17:00としている。「めぐ」が多少延びても終電までに返せば良いのであるが、せめて夕方5時には自転車を返してスッキリサッパリ終わりたかった。
 それにしても、時速12kmという計算スピードは、相当の余裕をもって適用したハズだったが、それでも相当にキツいスケジュールであった。疲労が増してくるとスムーズにはいかないし、しかも、ここ珍品センターやさっきの輪中堤のように、面白いものに遭遇するとじっくり見てしまうから、そこで動きが止まってしまうのである。
 救急車がサイレンを鳴らして通過していった。乗せてもらいたいと少し思った。

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 【注1】現在は手のひら認証対応の機械が入っている。
 【注2】中身は通常の機械と同じであり、一般口座の客も利用は可能。
 【注3】2015年9月からユコ・ナツ・アミの3人となった。前任者と同じモデル事務所「セントラルジャパン」の所属。 (2017.06.03追記)最近「ユコ」は「サヤ」に代わった模様。
 【注4】ゴールド/スーパーゴールド総合口座の2005年頃の広告から官能的な女性の写真となっている(為栗調べ)。
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2017年05月18日

2014.07.18(金)(44)「珍品センター」という名の珍品

 アーチの手前から、大共の緑の縦型看板と「ようこそ珍品城へ」という黄色い看板が見えている。それとは別に、漢字一文字で「珍」と書いた巨大な黄色い看板が目立っている。
 近づいてみると、前方右側には、城のような建物がある。といっても、結婚式場やラブホテルその他、地方の街道沿いに似つかわしい洋風の城ではない。妙に大きなしゃちほこが載った、瓦屋根の“天守閣”である。その手前にある城壁のような建物は波板ぶきの平屋建てで、パトカーのような白黒塗り。白壁となまこ壁に似せてある。軒先には大八車の車輪のようなものがいくつもぶら下がっており、「ブラザー電気洗濯機」なる琺瑯の看板もあった。
 お城の手前側は駐車場になっており、その隅に建つ棟のテント屋根は、茶色とピンクのしま模様という派手な色遣いであった。その内外に、七福神や二宮金次郎など種々の石像が並べられている。信楽焼の狸もある。これだけなら単なる石材店のようだが、駐車場の西側、道路と小さな川を挟んで“珍品城”の本体がある。城壁のような基本平屋建ての細長い建物と、天守閣のような3階建てのビルが建っているが、両者はつながっているようだ。前述のとおり、平屋建ての屋根には「ようこそ珍品城へ」という黄色い大きな看板が取り付けられている。
 門構えのような形の正面入口には飲料の自動販売機がズラリと並び、電話ボックスと郵便ポストもある。観光バス歓迎と書いてあるから、ドライブインのような役割を狙っているのだろうか。飲料自販機の上に取り付けられた赤いテントには《なつかしかしさと驚き》と、雑誌のおもしろコーナーで紹介されそうなキャッチコピーが書いてある。わざと取り上げられようとしているのかも知れないけれど。そして、屋根にしゃちほこが載った3階建ての“天守閣”が、敷地の一番西の端に建っている。
 天守閣の手前にある平屋建て部分には、唐笠・熊手・蓑・布団たたきなど、籐だか竹だかを編んだものが並べて置いてある。茶碗や壺など食器類もあるが、場所柄美濃焼が多いのだろうか。これらには値札が付いており、表示価格の半額で販売している。正面入口の横にある郵便ポストは、古いスタイルの丸ポストだが、実際に郵便ポストとして機能していて、取集担当は大垣郵便局であった。

 建物に入ってみて、ようやく「珍品センター」の正体がわかった。ここは、娯楽性を強く打ち出した骨董品店なのである。正式名称を「古今珍品情報流通センター」といい、委託された骨董品を店に並べて売っている。単に販売するだけでなく、この店そのものが観光資源になっているようだ。
 扱っているのは、具体的には掛け軸・書画・茶道具・古陶器・置き物・民芸品・古美術・刀剣・鎧といったレトロ商品。美術とか芸術方面に重きを置いているようだが、軍服もブリキのおもちゃもある。いろいろな“珍品”が、広い平屋の棟はもとより天守閣に至るまで、ギッシリと詰まっている。
 建物入ってすぐ右側に「商品の出品の仕方」という大きな看板が出ている。売りたい品物があれば、出品者が100円単位で自由に値段をつけて珍品センターに預け、売れた場合は販売手数料を引かれて売上金を渡される。3か月で売れなかった場合は返却される。誰でも出品できるが、年会費1万円で会員になれば手数料(最大30%)は優遇されるという。なるほど、こういうやり方で商品を集めているのか。なお、出品商品は「何でもよい」とは書いてあるけれども、店員によれば一定の制限があり、たとえば剥製など明らかに売れないものは断っているという。それから、中国からの客がやはり多いようだが、中国関係の品物はほとんどないので、あるなら持ち込み大歓迎ということであった。
 こういう店に来ると、男の私はつい興奮してあれこれ見て回りたくなる。たいていの人には汚いガラクタを集めて売っている店にしか見えないと思うが、私にとって珍品城は「夢の城」であった。りそなグループのウオッチャーとして、大黒天の置物で手頃なものがあれば買ってみてもよいと思った。大黒天は、りそなの前身銀行の歴史に登場するアイテムである【注】。大きさの点で手頃だと思うものは1、2点あったが、値段の点で見送った。
 電話機など実用的なものもあった。私はこの頃、自宅の電話機を1台買わなければならなかった。メリーゴーランドのようなちょっと派手な外観のプッシュホン電話があって、買って帰ろうかと一瞬思った。足が3本出た電気プラグのような「ローゼット」が付いているが、モジュラージャックに変換するアダプターを付ければ使えるハズだ。1800円とあまり高くはなかったが、金メッキが剥げていたり、きれいでなかったので断念した。
 もちろん、それ以前に「今日は」何か買って帰るのはとても無理である。

 近所のおばちゃんといった感じの店員が、麦茶を振る舞ってくれた。何しろ暑い日である。一杯の麦茶が喉にしみた。
 店員はこういうことを言っていた。美術館の展示に値札は付いていないが、ここの展示は全部値段が付いている、値札の金額さえ出せば買えるんだから明朗だ、と。しかし、骨董品というのは、根本的に生活にどうしても必要なものというわけではない。ここは美術品とか置物のウェイトがかなり高いのだが、絵画や彫刻は、日本の住宅事情を考えたらあまり売れないだろうなと思う。気さくに話しかけてくれた名古屋弁(美濃弁か)のおばちゃんは、欲しいものがあったら即声かけてね、どこからでも飛んで来るから、と言ってくれたが、今日は荷物になるものは無理だし、電話機にしても「何としても絶対に必要」というものでもなかった。
 見て回る分には楽しいけれども、この店の展示は“展示”そのものが目的ではなくて、売っているのである。買いもしないのに見るだけ見て回り、麦茶までご馳走になったのに手ぶらで帰るのは申し訳ないが、今日は先がまだ長いからやむを得ない。ご容赦いただくことにした。

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 【注】旧あさひ銀行の前身、旧協和銀行と旧埼玉銀行の双方に大黒天を使用した歴史がある。協和銀行の前身である不動貯金銀行は、創業者の牧野元次郎が大黒天を行内の「ニコニコ主義」のシンボルとして使用し、各支店には大黒天の奉安所が設置されていた。一方、埼玉銀行では戦後に頭取に就任した平沼弥太郎が趣味として彫刻をたしなんでおり、自身で作った大黒天像を全営業店に寄贈していたという。
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2017年05月17日

2014.07.18(金)(43)夏の小川もさらさら行くよ

 川べりを通って斜めにショートカットする道があるようだ。私は国道をそれて、その裏道に入った。
 小さな水門があった。道に沿って流れる小川があって、南から北に流れているようだ。護岸工事がなされておらず、土だけでできた川岸である【注1】。川をのぞき込むと、メダカだろうか、小魚が泳いでいた。ザリガニらしきハサミも見えている。よく見ると、水面で何かがピンピンと弾けている。水が浅くて底まではっきり見えるのだけれども、あぶくが出ているということは、泥の中で何かが呼吸しているのだろう。季節は夏の真っ盛りだが、童謡の『春の小川』に出てくるような、ある種の懐かしさを感じた。
 川の中に置かれた土管や、立てられた杭には、桑の実のような形をした粒の細かい塊がたくさん付いている。ピンク色、それもショッキングピンクというのか、少々どぎつい感じのする色であった。これはタニシの卵ではなかったか。そういう目で見てみると、水の中にもタニシが多数いるようであった。大量に産卵したものの、川の水位が下がって地上に取り残されたのか【注2】。私はこういうのは全く分からない。
 南に進んでくると、自然な感じの小川は終わり、コンクリートで覆われた人工水路に変わった。流れの様子も、水が白く濁ってドブのような感じになっている。月並みな感想だが、小さな川は泥のままにしておいた方が良い。コンクリで固めてしまうと味もそっけもないし、たちまち汚らしくなってしまう。もちろん、ここは農業用水路であって見世物ではないのだから、農家の仕事としてはやむを得ないけれども。
 大きな水音がした。濁った水の中に、何やら巨大な生き物がいるようだ。手近に落ちていた細い角棒を取って水中をかき回してみると、オタマジャクシがワラワラと泳いでいたから、あれは体長30cmぐらいのカエルだろうと思う。コンクリの護岸であっても、こういう具合に自然の生き物がいないわけではないが、やはり風情は明らかに泥のままの方があると思う。
 私はふと、長崎県の諫早湾問題を思い出した【注3】。幅1mもないような農業用水路でさえ、コンクリ護岸の部分では水質が変わって見えることからすると、諫早湾は因果関係が明らかなように思える。長崎の人は怒ってしまうかも知れないが、生活を築いてしまった人に何らかの補償をした上で、門を開けた方が良くはないだろうか。それもできないとすると、この問題は、締め切り堤防がある日突然崩壊するとか、謎のミサイル攻撃を受けて破壊されるとかいった、超法規的な“魔法”ぐらいしか解決方法がないと思われる。

 民家の裏口が並ぶ小川沿いの道を進んでいくと、コンビニの建物の真裏をすり抜けた。大桑国道に面したところが駐車場で、今進んでいる裏通りに近いところに店が建っている。このコンビニは、本来曲がる予定にしていた船附南交差点の角にあるサークルK(養老船附店)であった。そして、対面2車線で黄色センターラインの道路に突き当たった。県道213号養老平田線である。ここで右に曲がる。ショートカットで短縮できた距離はせいぜい30〜40m程度だと思うが、“夏の小川”など見ながら来たおかげで、楽しく過ごすことができたと思う。
 曲がってすぐある畑に、興味をそそられた。この畑は土地の全部で耕作せず、畝になっている部分の周囲を掘り下げてある。掘って低くなった部分は一部水たまりになっている。これは、昔の「堀田」の技法で造られているのではないだろうか。堀田というのは、前述したとおり、土地改良事業が進む以前に輪中地域の低地で行われていた農地の使い方である。ここの畑はそのやり方を応用して、畑の周りを掘り下げることで乾いた畝にしていると思われた。こういうことは、輪中地域で技術に馴染んでいないとできないのではないだろうか。

 西に向かって自転車を漕ぎ続ける。県道には《ようこそ養老へ》という温泉地の入口のようなアーチが付いている。養老町は古くから養老の滝を中心とした観光地だったから、温泉と似たアーチが町の入口にあっても不思議ではない。そして、アーチをくぐったところで、前方に大垣共立銀行の緑色の看板が見えた。このこと自体は、予想どおりで何の不思議もなかった。さっきミニストップで見た昭文社の地図では、田んぼの真ん中にいきなり銀行のマークが書いてあり、銀行の名前が「大垣」とあった【注4】。[珍品センター]は、駐車場か敷地内に独立小屋が出ているタイプなのだろう。そう思っていたからだ。
 しかし、である。その手前にあるのは一体何なのだ。

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 【注1】その後護岸工事が行われた。
 【注2】私が見たのは、外来種のジャンボタニシ(スクリミンゴガイ)の卵であったようだ。この貝は卵を水から上がったところに産みつける習性がある。タニシは作物の苗を食害する生物であり、卵は水中に落とすと孵化できず駆除効果があるという。
 【注3】1989年から行われた国営諫早湾干拓事業で、諫早湾奥に潮受け堤防が建設されたが、深刻な漁業被害が発生しているとして、開門を求める裁判が行われた。2008年に佐賀地方裁判所は水門を5年間開放することを命じ、2010年に福岡高等裁判所が佐賀地裁の一審判決を支持。当時の菅直人首相が上告を見送ったため、2014年7月から漁業者1人あたり日額1万円(のち2万円)が支払われている。一方、2011年には開門の差し止めを求める訴訟が長崎地方裁判所に起こされ、2013年に水門開放請求を棄却、2015年の福岡高裁もこれを支持した。開門した場合、営農側に制裁金の支払いが開始されることになっている。
 【注4】この先にある大垣信用金庫の笠郷支店と勘違いしていたようだ。地図の[珍品センター]の場所に銀行のマークは見当たらないのと、大垣共立銀行であれば銀行名が「大垣共立」になっているハズ。
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2017年05月16日

2014.07.18(金)(42)夏休みだもーん

 次は[珍品センター]に向かう。
 「珍品センター」って何だろう、と以前から思っていたので、ここに行くのはちょっと楽しみにしていた。事前のリサーチによると、[船附]の南にある四つ角で右折し、西へ真っすぐ行った水田地帯のただ中にある。場所は予習したが、「珍品センター」が何であるかはあえて謎のままにしておいた。
 国道258号に出て、船附の交差点から真っすぐ南へ下っていく。道路と同一面上に建つ建物は明らかに石垣に載っており、この道路も含め相当かさ上げしてあるようだ。ほどなく水田地帯になった。4車線道路の脇の歩道は、2車線分ぐらいの幅に広がった。車道をさらに広げられるようにしているのだろう。まず遭遇するのが、何とキリスト教会であった。建物の前に大駐車場が完備され、店先には大きなアーチ状の装飾があるなど、どう見てもパチンコ屋の空き店舗なのだが、そこになんとかチャーチと掲出している。日本では東海地区のみで展開している教団らしいが、宗派はどこだろうか。教団名はスペイン語かポルトガル語のようだから(知らないが)、推定が当たっていればカトリック系ということになる【注1】。一般的には、キリスト教を謳う教団であっても、聖書とは別の経典を使い始めると、キリスト教とはみなされなくなる。代表例が「モルモン教」で、この教団は聖書の他に『モルモン経』というものを使っているから、キリスト教とは別の宗教とされることが多い。
 角に、コンビニのミニストップがあった(養老船附店)。[珍品センター]は、この船附町前東の交差点で曲がった先ではなかっただろうか。度忘れしてしまった。まあよい。忘れたらまめに地図を見ればよいのだ。今出発したばかりだが、ここで“地図見休憩”にしよう。
 クーラーの効いた店内に入った途端、どっと疲れが出てきた感じがした。ミニストップなのでイートインコーナーがあり、椅子に腰かけて火照った身体を鎮める。最近では他のコンビニチェーンでもイートインを導入した店が増えてきているが、この頃はイートインと言えばまだミニストップの独擅場であった。
 少々腰を下ろして落ち着いてから、カウンターのホットケースから鶏のから揚げを買った。カウンターでは、小学5年か6年の男児の客が、店員と「夏休みだもーん」という会話をしていた。あっけらかんとした元気な声に、長期の休みに入った喜びを感じた。そういえば、さっき今尾で集団下校とすれ違った。今日は公立小学校の終業式だったのである。
 すきっ腹を鶏のから揚げでごまかしつつ、雑誌売り場で都市地図を立ち読みする。やはり“地図見休憩”にしてよかった。右に曲がるのはこのミニストップではなくもう1本南の交差点、サークルKのある角であった。コンビニには変わりないし、方向も合っているが、曲がる道を1本間違えたらエラいことになってしまう。渡辺真知子のナツメロ『迷い道』が頭をかすめた。

 いまの時刻は14:10。面倒臭いので計画表は見ないが、相当遅れているのは間違いなく、だいぶ巻かないとマズいと思われる。いま執筆しながら計画表を確認してみると、14:06に[珍品センター]の次の目的地[フードセンタートミダヤ養老店]に到着しているハズであった。
 店の外に一歩出たら、直射日光が熱かった。国道をさらに南へ、引き続き自転車を漕ぎ続ける。養老町の町はずれにあたるこの近辺は、いろいろな意味で“墓場”のようであった。文字どおり墓地が道の反対側にある。廃車置き場があって何台も積み上げてある。その向かい側は、毛糸・編み機・コットン・ミシンといった手芸の店の廃屋。ロードサイド型の店としてオープンしたのだろうが、廃業して随分経つようだ。役目を終えたものが墓場のように数多く集まっている一帯であった。それ以外の建物では、倉庫が多いようだ。
 そのすぐ先、養老町笠郷の歩道橋手前に、スーパーマーケットの赤い看板が出ている。これから行くフードセンタートミダヤ養老店の看板であった。右折5km先、と書いてある【注2】。単調な道だし、まだまだ先は遠いと感じられた。
 相変わらず水田地帯が続いている。家が固まって建っているところも少々あるが、とにかく右も左も田んぼばかりで、たまに休耕田なのか少し荒れた土地がある。個人宅の半分ぐらいを喫茶店に改造したような店があった。コーヒーにのめり込んだオーナーが脱サラして始めたのだろうか。この喫茶店のあたりから、バイパス道路には側道のようなものができた。これまで、歩道と車道の間は縁石で仕切られているだけで、柵などはなかったのだが、車道と側道の間が高さ1mぐらいの焦げ茶色の柵で仕切られるようになった。側道はほどなくバイパスから大きく離れていった。
 なお、大桑国道をこのまま真っすぐ南にいくと、和歌山県に本社を置くスーパーのオークワが出店しており、念の入ったことに店内には百均大手ダイソーが出店している(スーパーセンターオークワ養老店)。言わずもがなのことであるが、オークワの創業者は大桑さんである。オークワの先で海津市に入ると、今朝自転車の旅を始めた駒野に到達する。

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 【注1】この教団の信者は、多くは日本の製造業を支えるブラジル出身者で、日系移民の子孫が大多数。彼らはカトリックよりプロテスタント、とりわけ福音主義というグループが優勢であるという。
 【注2】[フードセンタートミダヤ養老店]までの距離は[珍品センター]からでも5kmを超えており、この地点の看板で5kmというのはやや過少表示気味。
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2017年05月15日

2014.07.18(金)(41)旧営業店の[船附]を制覇

 大垣共立銀行船附出張所は、支店のような2階建ての建物であった。ここは店舗外ATMである。かつては養老支店の有人出張所だったが、無人店に変更されたのは、事前の知識として知っていた。建物に近いところに自転車を置いた。
 建物向かって左側に、裏手へ続く通路がある。工事現場の足場用の鉄パイプで塞いであるが、塞いでからだいぶ時間が経っているようで、パイプはひん曲がったり傾いたりしている。奥を見ると、土地が少し高くなっている。出張所の奥にある船附の集落に向かう道で、道路だけが盛り土の上を走っている。前述のとおりこの近所は川の付け替えがあったところであり、この道もかつては堤防道路だったのだろう。ということは、大共の出張所は川の跡にあるのか。後日古い地図で確認してみると、おおむねそのとおりであった。1964(昭和39)年発行の地図では、牧田川はすでにショートカットの工事が終わっている。
 さて、うらぶれた雰囲気を感じつつ、建物左端の自動ドアから店に入った。行員が「いらっしゃいませ」と声をかけてきそうな錯覚があったが、窓口室があるハズの場所にはシャッターが降りており、店内はシーンと静まり返っている。
 キャッシュコーナーは機械枠が2台分で、空き枠はない。ATMは沖電気バンキットと、それと同じボディで「NEC」の銘の付いた機械が1台ずつ置いてある。大垣共立銀行のホストコンピュータはNEC製であり【注1】、NECは沖電気からATMのOEM供給を受けているから、その関係であろう。2台とも手のひら認証対応にはなっていなかったが【注2】、代わりにここは店舗外ATMでありながら硬貨の扱いをしている。旧営業店から格下げになった店舗外ATMであるためのようだ。大共ATMでの硬貨の取り扱いは原則営業店のみで、硬貨は入金はできるけれども出金はできない。1000円未満の金額を出したいときは「お釣り入金」でやるしかない。
 「お知らせ」という掲示が出ている。《長らくご利用いただきました当船附出張所は、都合により平成16年5月17日をもちましてATMコーナー(自動機)のみによる出張所へ変更させていただきました》とあった。いま2014年、平成26年であるから、この店が無人化されて丸10年経ったわけである。銀行の有人店舗で一番多いのが「支店」、その次が「出張所」であろう。銀行で店舗の種類を変えるのはよく聞く話だが、たとえば支店から出張所に変わる場合、素人にとっては名前が変わった程度の変化でしかないが、銀行の内部では相当大きな変化があったことになる。一方、有人出張所から無人の出張所(店舗外ATM)への変化は、銀行としては軽い変更でしかない。なにしろここ[船附]に関して言えば、正式名称は「養老支店船附出張所」のままで変わらないのである。しかし、利用者にとっては行員がいるかいないかで大問題となる。銀行の内外でそういうギャップがあるのが興味深く感じられた。
 有人営業店を無人化して、建物のキャッシュコーナー部分のみ稼働した場合、ランニングコストはATM小屋と比べて大幅に高くなると聞いたことがある。大共がATMの営業をあえて有人出張所時代の建物で続けているのは、機会があれば有人店舗として復活するつもりなのだろうか。出張所から西に入った本来の船附集落は、前述のとおりかつては交通の要衝であり、物資の集散地でもあって、農業金融を主力としていた明治時代の大共が支店を出していたこともある。大共が80年代になって営業店を復活させたのは、旧来からの有力な顧客がいるばかりでなく、大桑国道のバイパス開通を契機に大垣の町と直結する地域として新たに発展が見込まれたからだろう。開発は思ったようには進まず、出張所も無人化されてしまったけれども、船附の場合はこの奥に古い集落が控えているし、店舗外ATMとしては機械の台数も多く、大駐車場完備。有効に活用されていると感じられた。
 というわけで、制覇作業を行う。[船附]の制覇は13:56のことであった。

 店舗外ATM[船附]は、有人店舗であった養老支店船附出張所が2004年5月17日付で統合されたことにより開設されたものである。有人店としての船附出張所は、1988年11月に現在地に開設された。
 当地における大垣共立銀行は、1899(明治32)年9月の船附支店開設に始まる。当初は養老郡笠郷村大字船附119番戸にあったが、船附の集落内における3度の移転を経て、1936年2月に本店船附出張所となり、戦後の1950年11月に廃止された。最後に店のあった船附838番地は、船附集落の商店街内であるが、今となっては木造家屋が飛び飛びに並ぶ程度の住宅地になってしまっている。笠郷村は、1954年11月に1町9村の合併により養老町となっている。

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 【注1】大垣共立銀行は2017年5月6日から、勘定系などのシステムを日本ユニシスのオープン勘定系システム「BankVision」に切り替え、NEC製メインフレームで動作していた旧システムを廃棄した。
 【注2】現在は手のひら認証対応の機械が入っている。
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2017年05月14日

2014.07.18(金)(40)船附はかつての「船着き場」

 豊富でないボキャブラリーの限りを尽くしてぼやきながら、側道が国道に合流するところまでやって来た。向こうの交差点に、行政が立てた「養老町」という青文字の白看板が見える。横断歩道を渡ったところに大共の船附出張所があるようだ。見えた。バイパス道路の向こうに、大垣共立銀行の緑色の看板。出張所の建物も見える。
 大共の敷地は、南北に走る大桑国道の西側に面している。道路は中央分離帯つきの片側2車線だが、さらにもう1車線分ぐらい広げる余地があるから、銀行の敷地は内側にかなり引っ込んだところにある。客用の駐車場はかなり広くて、南端に縦に4台分、東の端に縦に4台分、北の端に7〜8台分ぐらい。数字で言うと約20m四方で、車の台数としても20台ぐらいは置けるだろうか。車で広い範囲から集客する計画だったのだろうと思う。「お客さま駐車場」という看板が立っているところは、芝生か何か植えていたのだと思うが、緑色の防草シートで覆ってあった。
 「大垣共立銀行」の看板よりも目立つところに、「WE SERVE」と大書した看板が出ている。養老町・養老警察署・養老ライオンズC(クラブ)の連名であるが、ところどころ文字が落ちているところに悲しさを覚えた。《無事故で築く平和日本》とある下には「交通安全」の文字が5段重ねで並んでいて、ほとんどヤケクソのようである。交通安全交通安全交通安全交通安全交通安全。交通安全が重要でないとは言わないが、それ以外に訴えたいことはないのだろうか。銀行の隣は大駐車場完備のパチンコ屋で、巨大な招き猫のモニュメントを付けている。南行き車線に面したところにも1軒あるから、パチンコ屋が国道を挟んで向かい合っている。
 というわけで、ここはバイパス道路のロードサイドであった。

 大共船附出張所前の交差点は、船附集落の入口にあたっており、四つ角に「船附港址」という石碑が建っている。それによると、ここ船附は、かつては交通の要衝であった。「ふなつけ」という地名のとおり、船着き場だったのである。船附湊(港)はこの近所にある烏江湊・栗笠湊とともに「濃州三湊」と呼ばれ、中世末期から江戸幕府末期まで河川交通の拠点として約300年間繁栄したという。船附を起点に牧田川を遡り、関ヶ原から中山道に入って琵琶湖の朝妻湊(滋賀県米原市)へ、米原からは舟で京都へ、という交通路だった。この近所にある3つの港と、米原市の朝妻湊とを結ぶ道を、九里半街道といった。船附の1.5km上流が栗笠、さらにその500m上流が養老鉄道の駅もある烏江である。
 日を改めて船附の集落に行ってみた。集落内は車1台がやっと通れるぐらいの道幅であった。ここには新築した建物はほとんど見当たらない。明治期の築とおぼしき木造建築ばかりである。建物の並びは不規則だが、家の力によって大きい小さいがハッキリしている。そんな中お寺だけが立派で、割合最近普請したらしく木材が新しかったりする。もちろんこのあたりも輪中の集落で、建物は石垣の上に上げている。
 街角には「常夜灯」と彫られた立派な石灯籠が立っている。灯籠にはしめ縄がついていたりするから、川よ静まれー、と神頼みするニュアンスだったのだろう。消防団機器庫のそばに立つ火の見やぐらには、塔の真ん中辺と一番上と、鐘が2つも付いている。川見を兼ねた火の見やぐらはさっき海津市の野寺でも見たが、大水の時には川の様子を見て鐘をガンガン叩いたのだろう。火の見の向かいには神社があったりする。以上すべてが、この集落の真際を川が流れていたことを示している。
 船附のもう少し奥にある栗笠に来ると、堤防の脇に2階建ての棟割長屋の商店建築のような建物が建っている。河川交通が栄えていた時代の問屋だとすると、新しくても明治時代頃の築ということになる。さらにその奥にある烏江の集落は見ていないけれども、地図で見ると、養老鉄道の線路は大垣からまっすぐ南に下がってきて、烏江で西に直角に曲がって美濃高田に向かっている。建設当時の重要地点だった烏江を通るためにこういうコースになったのであろう。いずれも、古い時代には重要な集落であったのがありありとわかる。なお、養老鉄道の烏江駅は、堤防工事で線路が付け替えられたため、イメージにそぐわぬ高架式の駅で驚かされる。

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2017年05月13日

2014.07.18(金)(39)大垣市をかすめて船附へ

 水門川の橋には、行政が立てた「大垣市」という標識が出ていた。揖斐川の西に2本流れる川の中間にある堤防を境に、県道羽島養老線は安八郡輪之内町を出て大垣市に入る。大垣市は大垣共立銀行の本店所在地であり、「めぐ」をやるならやるでキッチリ取り組まなければならない地域だが、今日は特別なことは何もない。行政区域が大垣市になっただけの話であり、この近所に大共の拠点はないから、標識を横目で見ながら過ぎ去るのみである。
 自転車に乗った女子高生何人かとすれ違った。なぜ女子高生ばかりなのかは知らない。福束大橋西詰の交差点から下り坂が始まった。交差点の手前で、さらにもう1本小さな川を渡った。このあたりはとにかく川が細かくたくさんある。

 大きな道路に突き当たって、横曽根3の丁字路で左に曲がる。しばらく行くと、目指す[船附]である。
 突き当たった道は、大垣市の中心部から名神高速の大垣インターを通って三重県桑名市に至る国道258号線で、大垣と桑名を結んでいることから「大桑(だいそう)国道」と呼ばれる。何時間かぶりで再会する大桑国道。今日の「めぐ」で最初の方の[松山]や南濃支店を制覇する時にも遭遇したが、この道を実際に通るのは本日初めてである。
 この付近の大桑国道は、中央分離帯つきの片側2車線で、大幹線道路に相応しい規模であった。歩道も結構広くて、車1台通れそうなほどの幅がある。左に見える新水門川排水機場は、さっき橋の上から見えたのと同じもの。ポンプ場と国道の間に、土蔵のような外観をした水防倉庫がある。大垣輪中横曽根水防倉庫は、単なる水防倉庫のようだが、それなりに見た目に気を使っているのだろう。ここは輪中堤の切割を封鎖するわけではなさそうだが、土嚢の材料でも入っているのだと思う。なお、横曽根3から走ってきての印象だが、大垣市に入った途端に水稲耕作をやっている水田が一気に消えたと感じた。水防倉庫の名称にもあったとおり、ここは大垣輪中であり、輪之内町の福束輪中からは脱している。今は輪中によって水稲耕作の状況が異なっているのかもしれない。
 堤防上から養老大橋という橋を渡るようで、橋に向かってちょっと上り坂になっている。大きな川はもう渡ったハズだから、揖斐川とは別に小さな川があるのだろうか。その割にかなり大規模な橋であると思った。行政が出した青看板によると、ここから桑名まで30km、南濃まで11km。幹線道路だけに、国土交通省か県警が出した電光掲示板もある。「速度注意」などのメッセージは説教がましいが、現在の気温を知らせてくれるのは役に立つ。只今の気温は32℃とあった。
 養老大橋を渡り始めると、河川敷の部分は畑と、原生林のような森になっていた。河川敷は泥だらけの草ぼうぼうである。ここもやはり、よどんだ川が下に横たわっている。そして、川がもう1本。このあたりはいったい何本川を越えるのだろうか。後付けの知識では、この橋は揖斐川の支流2本、杭瀬川と牧田川をまたいでいる。
 川の向こう、養老町側では堤防の草刈りをやったようで、野焼きの煙が目にしみた。大垣市は養老大橋を渡り切るところで終わりである。

 2本の川をようやく渡り切った。養老大橋を渡ってすぐのところに、名阪近鉄バスの〔船附〕停留所がある。ここに来るバスは、大垣駅前から今尾を通って海津市役所へ行く海津線で、途中の今尾までは1時間に1本ある。この地区の路線バスは、名阪近鉄バスという会社が担っている。大垣のバス会社として発足し、路線バスも大垣地区のみで運行しているが、近鉄グループ内の事情で本社は名古屋市にある。現在は三重交通(グループホールディングス、近鉄系)の完全子会社となっている。
 バス停があるということは、このあたりから人里に入るようだが、まだ堤防上のようだ。そう思った時、非常にけしからぬものに遭遇した。人間はここで国道から降ろされてしまうのである。車道は向こうの交差点に向けて緩やかな坂を4車線のまま真っすぐ下りていくが、歩道はバス停のすぐ先で勾配が急にきつくなっており、歩道はどこへ消えたんだろうと思わせる。急坂の下を見ると、もっと腹の立つことに、道路に沿ってしばらく前方に下ったのち、坂の途中で180度折り返して手前に下りてくるのであった。私は呆気にとられた。何という無駄なことを。車道に移ろうにも、歩道との間はガードレールでガッチリ仕切られている。向こう側へ移動するのは(自転車をかついでガードレールを越えない限り)不可能であった。
 ふざけるな、なぜヘアピンにするのだ。戻ってしまうではないか。頼むから真っすぐ行かせてくれよ。この下の住民のために折り返しを作るのは構わないが、それをやるなら真っすぐ行くスロープ「も」作ってほしい。盛り土の部分を削ればできるハズだ。
 ブツブツ言いながら、ハンドブレーキを握りっぱなしにして急坂を下る。このスロープは道幅が広いから、それなりにスピードが出せないことはない。そしてUターン。車で駆け抜けたら快適であろうこの道は、歩道からいきなり下に下ろされてしまうし、ヘアピンカーブで向きを強制的に変えさせられるし、自転車ではまことに走りにくい道であった。どうして直進するニーズを考慮に入れていないのだろうか。やり場のない憤りにかられる私であった。
 スロープ横の地べたに下ろされた。ここでまた180度向きを変えて、国道に沿って走る側道を南(厳密には南西)に向かう。側道は不可解に曲がりくねっており、しかも国道に向けてちょっとした上り坂になっている。このあたりは塩喰(しおばみ)といい、輪之内町が揖斐川の西岸に少しだけ食い込んだ飛び地のような場所である。行政区分は異なるが、建ち並ぶ家は輪中の石垣の上に乗っかっているし、船附地区とは一つながりの集落なのであろう。なぜ飛び地ができたかといえば、今尾から野寺に向かう途中でも述べたが、かつての川の流れを反映しているのである。

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2017年05月12日

2014.07.18(金)(38)さらば輪之内町

 さっきの川沿いの道を北上する。
 カントリーエレベーターの前をさっき通らなかったので、元の道に戻る機会に通ってみた。カントリーエレベーターは、収穫した米を貯蔵しておくための施設で、大まかには乾燥機と貯蔵庫をエレベーターでつないだ倉庫である。稲刈りして脱穀した「もみ」を乾燥させてサイロに保管しておき、米が必要な時にもみ摺りをして出荷する。カントリーエレベーターで特に目立つのは、米を貯蔵しておくサイロの部分である。
 ここには、7階建てビルくらいの高さの円筒が8本ほど並んでいる。周囲に何もない水田地帯に、窓のない長細い円筒が林立していて、見上げるとその巨大さを改めて感じた。その下にJAにしみのの店舗(輪之内支店)があるが、建物が非常に新しいのが印象的であった。輪之内町は面積こそ小さいけれども、農業でかなり稼いでいるようで、青息吐息というわけではなさそうである。

 県道羽島養老線に出た。歩道が完備された対面2車線の道が、水田地帯の真ん中を相変わらず貫いている。道端には、彼岸花に似た赤い花が咲いていた。朱色で鮮やかな色合いであった。真夏のこんな時期に彼岸花ではないと思うが、植物のことは私にはさっぱりわからない。なお、距離を計算してみると、この付近(八反田交差点近く)で、自転車での移動は計画上の中間地点に達したようだ。
 その先、中郷交差点の東側には、立派なお屋敷があった。石垣の上に土蔵などが多数建っており、伝統的な輪中の家と思われる。この近所では珍しくないであろうお屋敷だが、私はよそ者であるので物珍しさを感じて写真を撮る。小中学校の地理の時間で教わる濃尾平野の輪中は、こうした高台上の住居の話をして終わりになると思う。高須地区などで見たとおり、堤防の内側にある民家は、少しかさを上げて高いところに作られることが多い。古い住宅ばかりでなく、注意して見ると新しい家でも1mぐらい高く上げた台の上に建っている。日常生活に使われる母屋とは別に、洪水が来たときに避難する水屋が、さらに高度を上げて建てられていることもある。水屋がない場合でも、天井に小舟が常備されているとか、仏壇が滑車で天井裏に引き上げられるようになっているとか、濃尾平野ならではの特徴がみられる。この中郷のお屋敷にも、そうしたものが一つや二つありそうである。「輪之内」という町名は、まさに輪中の内側という意味なのであった。
 お役所が作った白い矢印看板が出ている。養老公園11km先、とあった。養老公園は有名な「養老の滝」を中心とした公園で、この近辺では随一の観光地である。近所にある養老天命反転地については、聞いたことがある。中に入ると平衡感覚が保てなくなるらしい。
 それにしても、養老までまだ10kmも自転車を漕ぐのか。少々疲労感が増した。

 さて、自転車を漕ぎ続けていて、これまであまり感じなかった向かい風を感じるようになった。自転車を降りて立ち止まっても感じるほどの風圧。養老山地から吹きおろしてくる風が相当強いようだ。そういえば、さっき寄った平田町三郷のコンビニには、風除室があった。わざわざ設置したということは、このあたりは相当に風の強いエリアなのだろう。暑い時期なら風が吹いても寒さを感じることはないし、むしろ暑さを和らげる効果があるのだけれども、それでも風を感じるというのは、一つには疲れてきたことと、もう一つはやはり風圧が相当強いのだろう。高校時代、向かい風をもろに正面から浴びて自転車通学していたことを思い出す。有名な冬季のからっ風に悩まされたのである。別に懐かしくはない。
 向かい風に向かって自転車を漕いでいると、太腿が少しつり始めた感じになってきた。どうも今日は行程の最初から左足の膝が思わしくなくて、このあたりまで来るとだいぶ庇いながら足を動かしている。ペダルがガタガタしているのは前述したが、やはりメンテナンスが良くない自転車に乗ると、体に相当な無理を強いる。庇いながらという点からすると、痛みが一番少ないのは立ち漕ぎだが、立ち漕ぎは立ち漕ぎでこれまた疲れる。どうしたらいいのだろうか。
 それから、車道の横に歩道が整備されているところでは、別の道路が接続するところでわざわざ歩道を終わりにして、境界が高さ1cmぐらいのエッジになっているところがある。微妙な段差だけれども、これも長距離乗っているとだんだんダメージになってくる。
 なお、後日この道は自転車で再度走ってみたが、やはりこのあたりで疲労が顕著になり始めた。

 福束(ふくづか)という交差点まで来た。ここから西は堤防上に上がるスロープになっていて、揖斐川を渡るブルーのトラス橋が堤防の向こうに見えている。ブルーの色調は今朝駒野から高須へ向かう途中で渡った福岡大橋と同じだが、ここは本格的なトラスが橋の上にそびえ立っている。橋の名前は福束大橋という。この橋が架かったのは1972年だが、それ以前は対岸との連絡は県営渡船で行っていたという。この福束大橋を越え、幹線道路に突き当たったら左に曲がると、その先が目指す[船附]なのであった。なお、このあたりは福束輪中という名前で、福束輪中の領域がそっくりそのまま安八郡輪之内町となっている。
 堤防上に上がる坂を漕いで上がる気力がないので、自転車を降りて、押して上がってしまった。少しバテて来ているのか。上がりきったところで堤防道路と交差する。この交差点は福束大橋東詰といった。いよいよここから福束大橋が始まる。この橋は割合最近塗り直したようで、青い塗装が大変鮮やかであった。ただし、歩道のアスファルト舗装はガタガタである。塗り直すついでに修理しといてよと思うが、岐阜県の道路予算はよほど乏しいようだ。
 福束大橋の本体を渡り切ると、さらに橋がもう1本あり、こちらは小さい川を2本まとめて渡っている。1本は水門川というそうだが、もう1本の名称はわからなかった。福束大橋は青い塗装もそうだが、揖斐川の西側で小さな川をまたいでいるところも午前中の福岡大橋と同じである。これらの小さな川は、川下で揖斐川に合流しているのだろう。小さいといっても15〜16mぐらいの川幅があるのだが。その左(川下側)の彼方には、大きな堰が複数見える。何に使う堰なのだろうか。このあたりは水があり余っていそうなエリアだが、農業用水など取る必要があるのだろうか。すぐ後でわかったが、あの堰は国土交通省の排水機場である。ポンプで排水しないと、輪中から余分な水が出ていかないのである。

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カテゴリ一覧(過去の連載など)
関西みらい(5)
単発(12)
告知板(24)
大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇(62)
銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇(29)
りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く(43)
りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅(57)
りそめぐ2008秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる 東武伊勢崎線・野田線沿線17店舗の制覇(51)
りそめぐ2009初秋 りそな銀千葉県内12店舗完全制覇(35)
りそめぐ2008夏 りそな銀東京都世田谷区4店舗完全制覇(8)
りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた(18)
りそめぐ2008秋 太平洋は青かった 茨城→北海道750km大移動/銀行めぐ2008秋 札幌市内4行4店舗完全制覇(20)
りそめぐ2008初秋 湘南セプテンバーストーリー(11)
りそめぐ2008冬 銀河に乗って知事選たけなわの大阪府へ(47)
りそめぐ2008夏 「近畿大阪めぐ」スタート記念 片町線・京阪線沿線25店完全制覇(51)
りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿(60)
りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える(12)
りそめぐ2007秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる(35)
2007年7月 りそな関西地区支店昇格5店完全制覇+α(43)
あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇(34)
2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)