2008年10月28日

2007.11.28(水)(14)津市の協和銀行、その複雑な歴史

 りそな銀行津支店のルーツは、丸八貯蓄銀行【注1】の津支店である。丸八貯蓄銀行は愛知銀行【注2】の貯蓄銀行部門の子会社として1898(明治31)年8月に名古屋に設立された銀行で、津支店は開業翌年の1899年に開設された。開設当初は、親会社である愛知銀行の津支店内にあった。愛知銀行はこの年、三井銀行から津支店を譲り受けて津支店を開設しており、その子会社である丸八貯蓄も、親銀行と同時(1899.09.20)に津支店を開設したとみられる。
 貯蓄銀行という種類の銀行は、特に明治時代には、程度の差はあれほとんどが別の銀行(親会社など)に人員や設備を依存していた。丸八貯蓄も例外ではなく、支店のほとんどは愛知銀行の支店に間借りしていた(1909年までは本店すら愛知銀行本店内にあった)。これらは、親銀行の店舗に貯蓄銀行の看板を掲げ、同じ建物で窓口だけを別にしていた。現代でいうと、りそな銀行池袋支店のビル内で埼玉りそな銀行池袋東口支店が営業しているのに似ているが、階を異にする池袋の例よりもっと一体性が強かったとみられる。
 愛知銀行の津支店は、その後幾多の変遷を経て、三菱東京UFJ銀行の津支店となっている【注3】。丸八貯蓄の親会社だった愛知銀行は、1941年6月に名古屋の別の2行と合併して東海銀行となり、UFJ銀行を経て三菱東京UFJ銀行となった。その津支店もまた同じ経過をたどっている。つまり、三菱東京UFJ銀行津支店は、現りそな銀行津支店の「親」だったことになる。「親子関係」という点では、両者は因縁浅からぬものがあった。東海銀行津支店には戦災を受けて仮店舗で営業していた時期があるが、その仮店舗は居候を解消した後の(新)日本貯蓄銀行津支店であった。このあたり、親に育てられた子どもが長じて年老いた親の面倒を見ているような観がある。
 丸八貯蓄銀行は1922(大正11)年10月に2行を合併して(旧)日本貯蓄銀行【注4】となり、丸八の津支店も同行津支店となった。1929年に店舗を津市京口町1202に移転しており、親会社の支店への「居候」はこのときに解消されたようだ。1945年5月の9行合併でも銀行の名前は変わらず、1948年7月の普銀転換により協和銀行津支店となった。現在地(日本生命ビル)では1972年11月に営業開始し、その後銀行名は協和から協和埼玉→あさひ→りそなと変わっている。

 ところで、(新)日本貯蓄銀行(協和銀行)というと、津市には他に旧不動貯金銀行の津支店もあった。こちらは、9行合併の際に津大門通支店となっている。といってもこれは名目上のもので、不動の津支店は戦争末期には既に強制疎開により建物を失っていたため【注5】、1946年7月津支店に統合された。
 旧不動貯金銀行は三重県内に多数の支店を出していた銀行で、津支店のほか桑名・四日市・松阪・山田の各支店があり、これらをまとめて「伊勢路ブロック」と称していた。山田(宇治山田、現伊勢市)は伊勢神宮の門前町で、牧野元次郎頭取が「ニコニコ主義」【注6】なるものを思いつくきっかけとなった大黒天との出会いもこの地である。言ってみれば三重県は不動の「心のふるさと」であったわけだ。不動に由来する三重県内の店は、現在りそな銀行には1つも残っていない。

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 【注1】丸八貯蓄銀行:1898(明治31)年8月愛知銀行【注2】の貯蓄部門子会社として同行本店内に設立。1922.10.01伊藤貯蓄銀行・明治貯蔵銀行と合併し(旧)日本貯蓄銀行【注4】となる。
 【注2】愛知銀行:現在の愛知銀行とは別。1896(明治29)年第十一・第百三十四の2国立銀行を母体として名古屋市に開業。1941.06.09名古屋・伊藤の2行と合同し東海銀行を新立。
 【注3】三菱東京UFJ銀行津支店:1883年に(名)三井銀行津出張所として開設、支店昇格を経て1899.09.20愛知銀行に譲渡され愛知銀行津支店となる。1941.06.09愛知など3行の新立合併で東海銀行津支店。2002.01.15三和銀行との合併でUFJ銀行津支店、2006.01.01東京三菱銀行との合併で三菱東京UFJ銀行津支店。
 【注4】(旧)日本貯蓄銀行:1922.10.01名古屋の3貯蓄銀行(丸八貯蓄・伊藤貯蓄・明治貯蔵)が合併、丸八貯蓄銀行を存続会社とし日本貯蓄銀行に改称して発足。1945.05.15東京大阪の貯蓄銀行8行と合同し(新)日本貯蓄銀行(後の協和銀行)を新立。
 【注5】不動貯金銀行津支店:「戦争末期に強制疎開」は『協和銀行史』による。『津市史』には「同年(為栗注:1945年)7月戦災によって焼失」とある。
 【注6】ニコニコ主義:不動貯金銀行で行われていた精神作興主義。大黒天を本尊とし、平和・健康・商売繁盛の3つを旨とした。外務員には積金勧誘の使命感を与え、顧客には貯蓄の意義を訴えた。大黒天像は、牧野元次郎が1905(明治38)年の元旦に伊勢参宮をした際、宇治橋そばの土産物屋で木彫の大黒天像を12銭5厘で購入したのが始まり。その後、1910年に名古屋・鶴舞公園で行われた第10回関西府県連合共進会の会場で、高さ2尺(約60cm)以上ある銅像を見つけて80円で購入し、それを銀行本店に安置して本尊としていた。各支店にはその分身が置かれていた。当連載9月20日掲載「やはり『本当に古かった!』」も参照。
posted by 為栗 裕雅 at 18:00| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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