2008年02月04日

2007.11.14(水)(15)西武池袋線が「西武線」になった理由

 飯能支店のルーツは、飯能銀行の本店である。飯能銀行は第1次から第3次まであるのだが【注1】、現在の飯能支店に直接つながるのは、1901(明治34)年10月に入間郡飯能町(当時)に開業した(第2次)飯能銀行である。
 飯能周辺には古くから高麗(朝鮮)人が多く住んでおり、進んだ大陸文化が伝わって織物産業が発達していた。また飯能付近は地質や気候がスギやヒノキなどの生育に最適であるため林業が盛んとなり、飯能は林業の集散地になった。江戸に近いこの地は幕府から御用材の供出を命じられ、荒川や入間川の水運で木材を江戸に運び出していた。この地の木材は、江戸では西方の川からくる材「西川材」と呼ばれて重用された。
 1900年ごろから織物産業が勃興期を迎えていた飯能地区では、日清戦争後の不況にもかかわらず、地元銀行設立が求められていた。1901年6月設立された(第2次)飯能銀行は、荒川の水運で木材を運び出していた関係から、1917(大正6)年12月には東京府南千住町(現荒川区)に支店を開設、また複数の地方銀行およびその支店を買収して規模を拡大した。
 飯能銀行は、1912(明治45)年設立の武蔵野鉄道梶i現西武鉄道池袋線)に多額の融資をしていた。同鉄道は1929年に路線を吾野(あがの:現飯能市)まで延長したが、不況の影響から経営難となった。融資が固定化した飯能銀行は信用が急激に低下し、一時は経営破綻寸前にまで追い詰められた。その後1932年になって、やり手で知られた平沼弥太郎【注2】が取締役会長に就任(頭取制なし)した。平沼は、東武鉄道と西武鉄道との間で武蔵野鉄道の経営権が取り合いになった機に乗じて、武蔵野鉄道に対する債権を西武が持つ土地と交換することに成功し、経営を立て直した。西武はこれにより東武との争奪戦で優位に立ち、武蔵野鉄道と合併することになる。
 戦時色の濃くなってきた1936年7月、飯能銀行は、飯能町にあったもう一つの銀行、武蔵銀行【注3】とともに大蔵省の検査を受けた際、検査官から両行合併を強く勧奨された。両行は1937年5月に合併して(第3次)飯能銀行が発足した。第3次飯能銀行はつつがなく発展してゆき、1943(昭和18)年7月の4行合同により埼玉銀行となった。本店は飯能支店となり、その後数回の銀行名変更を経て現在に至っている。

 【注1】第1次から第3次まで:「飯能銀行」の名前を持つ法人が時期をずらして3つあったということ。第1次飯能銀行は、1886(明治19)年6月に設立され、1892年に解散した。第2次飯能銀行は、第1次の解散後に設立されたものである。1937年5月の飯能銀行・武蔵銀行の合併は新立合併方式によったため、新銀行は別法人の第3次飯能銀行となる。
 【注2】平沼弥太郎(ひらぬま・やたろう):飯能銀行取締役会長、埼玉銀行第4代頭取。1892.06.12生、埼玉県名栗村(現飯能市)出身。1912.03京華中卒、1932.02(第2次)飯能銀行会長。1937.05合併により退任、1942.01(第3次)飯能銀行取締役、1943.01会長。1943.07合併により埼玉銀行取締役、1949.04頭取。1961.11退任。(第2次)飯能銀行初代頭取・平沼源一郎の息子。
 【注3】武蔵銀行:1898(明治31)年4月に児玉郡児玉町(現本庄市)に設立、東京への移転と数次にわたる商号変更を経て、1916(大正5)年10月飯能町に本店を移して開業。1937.05.01(第2次)飯能銀行と合同して(第3次)飯能銀行を設立。
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