2006年07月28日

プロローグ 激動の2か月を予感させる朝

2002.10.01(火)

 朝、いつものようにあさひ銀行のホームページをチェック。あさひの店舗一覧のページをブラウザのブックマークに登録していて、毎朝のHPチェックはそれで終わりである。しかし、この日は虫が知らせたのか、銀行のトップページに行ってみた。
 いつもと少し様子が変わっていて、画面上方に緑色の帯がついている。そうか、今日から持株会社の名前が「りそなホールディングス」に変わったんだっけ。緑はオレンジとともにりそなグループのイメージカラーである。私は色としては緑色が好きで、だからいい色がシンボルカラーになったと思っている。勤務する塾【注1】で緑色の服を着た生徒がいると、私はすかさず「あ、緑」と指摘する。私の好きな色が緑であるのは塾内では定着しているので、そうするとその生徒はキャーキャー喜ぶのであった(喜んでいるのか?)。
 閑話休題。それまで、リンクが張られているわけでもなく単に「りそなグループ」のロゴが入っているだけだった画面の右上は、「平成15年3月1日に大和銀行とあさひ銀行は事業再編により『りそな銀行』『埼玉りそな銀行』に生まれ変わります」とあって、そこに「分割・合併に関するお知らせはこちらをご覧ください」の文字もあった。銀行の合併でまず周知しなければならないのは、合併にともない取引に変更のある顧客に対しての変更点である。支店の名前とか店番号など、両方の銀行に同じものがあれば当然変更される。例えば「久留米支店」は、あさひと大和の両方に(しかも全然別の場所に)ある。というわけで、そうした変更の告知が出ていることを予測して、私は「こちら」をクリックした。思ったとおり「店名・店番号変更に関するお知らせ」があった。「一覧表」のリンクをクリックする。
 そこで私は大きな衝撃を受けることになった。一覧表の一番上に「店名・店番号は平成15年1月6日から変更となります」とある。これは合併前の日付ではないか。あわてて一つ戻ってみると、そこには確かに「以下の店舗におきましては再編前に店名・店番号を変更させていただくこととなりました」と書いてあった(ゴチックは為栗)。
 変更となるのは、名称変更が22店【下表上】、店番号のみの変更が18店。名称変更される22店のうち、天六・小阪・姫路の3支店は店番号も同時に変わる。
 店名の変更は半数が大阪府で、すなわち大和銀行のテリトリーである。これらの支店は、合併後に大半が重複店舗として統合の対象となるのであろう。あさひでも、協和銀行と埼玉銀行との合併後に、旧協和の埼玉県内の店舗が一掃されている。
 所在地は全く異なるものの、支店の名前がだぶっているため変更になるのが2店。前述の久留米支店(東京都東久留米市)は、大和の久留米支店(福岡県久留米市)と重複するため「東久留米滝山支店」に変わり、三田(みた)支店(東京都港区)は大和の三田(さんだ)支店(兵庫県三田市)と重複するため「田町支店」に変わる。
 あさひの「本店営業部」が消滅してしまうことには、あまり驚かなかった。合併の存続会社が大和である以上は仕方がない。「りそな銀行」の新本店は大阪の旧大和銀本店になるのだが、そちらを「大阪営業部」とし、東京のあさひ本店は「東京営業部」とする。この名称は、旧埼玉銀の東京本部だった「東京営業部」が「東京中央支店」に名称変更(1993.04.05)されて以来の店名復活である。同時に、新銀行には「本店営業部」というものが存在しないことになる。
 これらの変更【注2】が、大和銀との合併前に行われるという。私が関西エリアをあさめぐのため走り回っていた1998年1月からちょうど5周年にあたる時期にこれらが変更されることは、私に「あさめぐに走れ」という神の思し召しなのだろう。
 神の思し召しは良いが、学習塾の講師をして禄を食んでいる私にとって、それは曽野綾子の言葉を借りると「神さま、それをお望みですか」という印象であった。よりによって、塾講師の一番多忙な1・2月にやらなくても良いではないか。神奈川県の2003年度の公立高校入試は2月18日だが、入試前は無論のこと、3月頭の合格発表とそれに伴う情宣活動が済むまでは一息つけない。そして、合併前の最終営業日が2月28日。一番動きの取れない2か月なのである。
 だが、恐らく私は、店名が変わる21店(コンビニATMの母店となっているエーティーエム支店を含まず)を合併前に制覇するであろう。「あさひ銀行」でなくなったら「あさめぐ」ではなくなってしまうから、21店の制覇はさしずめ、あさめぐの「最後の爆走」といったところである。

【注1】勤務する塾:神奈川県内の学習塾で文系教科を教えていたが、2003年3月をもって退職した。
【注2】店名の変更:大和銀行主導の合併だが、「店名変更」に限っては実は大和側のほうが多い【下表下】。あさひの店舗のうち、再編後に「埼玉りそな銀行」所属となるものについては、店名が一切変更されなかったからである。ただし、店番号の変更も含めると、旧あさひの方が変更された店数が多い(旧大和店舗は原則的に店番号が変更されなかった)。


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2006年07月29日

2003.01.08(水)(1)突如出発を決めたブランチタイム

2003.01.08(水)

 今週月曜日に店名が変更されたあさひ銀行の21支店(エーティーエム支店含まず)のうち、西日本に所在する15か所を一度に取ってしまう旅。あわせて、前年に支店から出張所に変更された長崎を取り直しに行ったから、2日間の制覇箇所数は合計16か所にもなった。
 初日に2か所、2日目に14か所。1日に10か所を超えて制覇活動を行うのは、数を稼ぐのに熱心だった1998年夏以来のことであり、しかもあさひ銀行の支店として新支店名で存在するのはわずか2か月ほどしかない。このため、店名変更が発表された2002年秋から徐々にプランを練り始めていた。特に、この「あさひ銀行最後の2か月」は、塾講師をして生計を立てている私にとっては、一年のうちで最も仕事の忙しい時期である。検討の結果、一つの取りこぼしもなく、しかもコストパフォーマンスを最適にコトを進めるには、どうしても平日に2日連続した休みが必要であった。
 その「貴重な連休」は、思いのほか早くやってきた。冬季講習の後半戦たけなわだった前々日の1月6日(月)、東京都港区の三田支店改め「田町支店」を出勤前に制覇し、通帳の表記がきちんと<田町>に変更されているのを確認したことで、当初意識にのぼっていなかった新学期前の2連休が俄然クローズアップされることになった。あさめぐは基本的に通帳表記が物を言う趣味であるので、支店の名前が変わっても通帳表記が変わっていなければ意味がないのである。冬季講習は1月7日(火)で終わり、8・9日の2連休をはさんで、3学期の準備のため出勤する「準備日」が10日(金)。このチャンスを逸すると、西日本の「あさめぐ最後の爆走」は、2回に分けて行かなければならなくなる。そうなっては資金的にきつい。
 以上のような思考を頭の中で巡らせたのは、1月8日の昼近くに起き出してからであった。午前10時起床。横須賀市北部にあるアパートの、自室南側の窓から日光がさんさんと入ってきていた。暑いぐらいの陽気である。ここ何週間かずっと、休日といえば悪天候に祟られていたので、自分の休みの日に天気が良いというだけで何となく心がうきうきしてくる。私のようなインドア派の人間でさえそうなのだから、アウトドアの趣味を持つ人なら余計に心が躍るのではないか。「あさめぐ・西日本最後の爆走」に考えが及んだのは、まさにこのタイミングであった。
 今から行くのであれば、関西地区を起点としたのでは、今日中に全部を回りきれず宿泊などを伴って効率的ではない。関西エリアでの全店制覇には丸一日かかることがわかっているからである。思い切って九州まで飛んでしまえば、今日のうちに福岡・長崎の2か所(福岡中央支店・長崎出張所)を制覇し【注】、夜行で関西に戻ってきて、明日は関西エリアを総なめにすることができる。
 事前のプランニングの過程で、長崎から神戸に出る夜行バスの存在と、これが途中姫路に停車することを知っていた。姫路には今回の「爆走」プランの目的地の一つ、姫路駅前支店がある。プランニングの段階では、関西を基点に九州入りするつもりだったから、姫路から福岡までの夜行バスを探していた。しかし存在しないので別ルートを探したところ、姫路から長崎行きならバスがあるのを知ったのである。この時にはそれきり不採用にしたのだが、九州から攻め上ってくるのであれば話は別だ。この路線は活用できれば非常に有効である。
 インターネットで航空会社のwebページを検索する。コストパフォーマンス上、航空機利用であれば、福岡行きは安いスカイマーク便しか考えられない。今から空港に出向くことも考えると、羽田14:05発の福岡行き「005便」が最適だろう。これは、福岡空港に15時50分に着く。乗り継ぎ検索ソフトで、この便に乗るための電車を検索すると、最寄り駅を12:15に出る各駅停車に乗ればよいと判明。自宅から駅まで歩いて10分かかるから、自宅の出発時刻は正午と決定した。
 ここで時計を見る。11時。予定出発時刻まであと1時間である。洗濯物を室内に吊るし、シャワーを浴びて、制覇旅行に必要なものを用意する。といっても、行って帰ってくるだけだからお泊まりセットなど特別なものは要らないし、ふだん塾に出勤する際に使っているカバンには、もともと仕事の道具より「あさめぐ」関係の資料のほうが多く入っているから、カバンから塾のテキストなどを出せばそのままあさめぐ出発OKである。

【注】長崎出張所:前年(2002年)9月17日付で「長崎支店」から変更された。長崎支店は既に制覇していたが、店の種類が変わった場合は(通帳表記が変わらなくても)制覇し直す方針のため、この機会で再訪することにした。

2006年07月30日

2003.01.08(水)(2)羽田空港へ向かう昼下がり

 12時05分、自宅を出発。最寄り駅となる京浜急行追浜駅までは歩いて10分ほどである。目指す12:15発の上り各駅停車にどうにか乗ることができた。金沢文庫で快特に乗り換え、さらに京急蒲田で羽田空港行きに乗り換えて、京急羽田空港駅には13時08分到着。ホームの一番品川寄りのところが空港に向かう大エスカレーターになっていて、そこを上がったところが改札である。京急の駅内はだいたいどこも内装が水色に塗られているのだが、ここは濃淡2色のタイルを使い分けてグラデーションになっている。色遣い自体は見慣れた内装を横目で見つつ改札を出て、スカイマークエアラインズのカウンターのある2階の北ウイング先端まで移動する。
 羽田空港のターミナルビル「ビッグバード」は、本当にいつ来ても嘆息するくらいに規模が大きい。京急の駅から出発ロビーのある2階に上がると、エスカレーターは「北ウイング」と「南ウイング」の境目付近に出るのだが、そこからスカイマークのカウンターまでは、細長いターミナルを端まで歩かされるわけだから、いやでも規模の大きさを感じさせられるのである。スカイマークのカウンターがターミナルビルの一番端にあるのは「新参者の悲哀」というやつで、既得権者(北ウイングでいうと中国語で「一日中空っぽ」の全日空【注】)に阻まれて良い場所を確保できないからである。同じ100mを歩くのでも、建物の中と屋内とでは距離感が全然違う。とにかく、そんな遠くまでと思うほどの距離を歩き、スカイマークのカウンターにようやく到着した。
 西日本地区の「めぐ」を思い立ったのが今日起きてから。すなわち、航空券は全く手配していない。飛行機に乗れなかったら今日のこの計画はたちまちオジャンになるのだが、そのあたりはやはり長年の経験で、盆や正月の繁忙期でもあるまいし悲観しなくて良いと知っている。思ったとおり空席があり、紙ばさみに挟んだ薄い感熱紙のチケットが手渡された。運賃は「スマイルレート」、つまり当日キャンセル待ち扱いとかで、15000円。これに保険料などがかかるとはいえ、航空運賃も安くなったものである。
 サービスカウンターが遠い代わり、搭乗手続きはすぐ目の前のゲートで行える。金属探知機を通る例のアレだ。2001年9月の同時多発テロ事件以後、手続き場での検査は極めて厳重になった。前回飛行機に乗った際(2002年5月)には、ペンケースの中に入れていた事務用のカッターナイフ1本でアラームが鳴ってしまって大変だったので、今回はゲートに入る前に入口に積まれたバスケットを取り、そこに問題のカッターナイフを入れて係員に渡してしまった。警備の制服を着た若い男性係員が航空券を見ながら伝票に色々と記入し、預かり証の半券を渡してくれた。少し日本語が怪しかったから、この警備員は外国人留学生のアルバイトかもしれない。

【注】第1ビル北ウイングの全日空:2004年12月、第2(東)旅客ターミナルビルの供用開始に伴い、全日空(ANA)グループの国内線は同ビルに移転した。第1ビル北ウイングのANAグループ移転跡地は、現在日本航空(JAL)グループが使用している。

2006年07月31日

2003.01.08(水)(3)なかなか離陸しなかったB767

 ようやく搭乗手続きを終えた。福岡行き005便は24番ゲートから搭乗だという。ムービングウオークを2本乗り継いで、目指す24番のゲートに向かった。ムービングウオーク、昇らないエスカレーター、動く歩道、色々な名前があるが、ここのは人が乗る部分が金属製で、足元がふわふわしないので歩きやすい。新宿駅西口から都庁の方へ行くムービングウオークは人が乗る部分がゴム製で、ベルトコンベアみたいであまり感じがよくないと感じるのだが、こういったことは人それぞれで、ゴム製のほうがトランポリンみたいで気持ちいいと思う人もいるかもしれない。
 24番ゲート前のラウンジにようやく到着した。グレーのタイルカーペットの上に紫色の椅子が並んだ広いラウンジの正面はガラス張りになっていて、尾翼にスカイマークの青いロゴをつけた旅客機が目の前に停まっていた。ボーイング767。あれが、今日これから乗る飛行機らしい。機体全体が広告になっていて、胴体は紫色に塗られ、そこに黄色で「YAHOO!」と書いてある。
 ロビーに置かれたテレビで「おもいッきりテレビ」を見ているうちに、搭乗開始のアナウンスがあって、私は改札に向かう。他社のゲートでは、搭乗券は駅の自動改札機のような機械に入れるのだが、ここでは人海戦術でモギリをしている。改札を抜けて細長い通路を延々と歩いて行くと、ようやく、さっきラウンジから見た飛行機の内部にたどり着いた。長い道のりであった。
 私が取った座席は「31A」であるから、機体の真ん中より後ろ側、左の窓際である。鉄道旅行を楽しんだ時期が長かったせいで、私はこういう時ついつい窓側の席を取ってしまう。飛行機の場合、窓の外には雲と空しか見えないのだから、窓際の席を取ることにあまり意味はないのだが、それにしても、である。席番を確かめ、荷物を天井のトランクに入れて着席すると、窓からはジェットエンジンのついた大きな翼が見えた。身を乗り出して角度を変えると、翼の後方に空港の風景が見えたので安心した。
 14時05分。私の乗った機体は定刻どおり動き始めた。ターミナルビルから桟橋のように延びた連絡通路に向かって首を突っ込むようにして停まっていた機体は、まず誘導路に向かってバックし、そこから誘導路を滑走路に向かって自走していく。機内天井から吊るされたテレビからは、機内案内のビデオが流れている。めったに経験することのない空の旅。その序曲として、この時間は胸の躍る楽しい時間である。もっとも、飛行機の嫌いな人にとっては、一刻も早く過ぎてほしい悪夢の時間なのかもしれないが。
 私が乗った機体がターミナルビルを離れたのは定刻の14:05だったが、それから20分余り経過したのに、いまだに離陸しない。私の機体の前には、他社の機体が2機、離陸待ちをしているのだった。滑走路を見ていると、1機が飛び立ち、ワンクッション置いて今度は1機が着陸、ということがリズミカルに繰り返されている。これらは全て管制塔の指示どおりにやっているわけだから、そのさばき方は見事なものだと思った。しかし、今回の羽田→福岡1時間50分の所要時間のうち、実に20分余りが羽田空港の離陸待ちで費やされるのは、時間の無駄以外の何物でもないだろう。羽田空港では拡張工事が進行中で、2009年に滑走路が1本増設されるというが、さっさと進めてもらいたいものである。

2006年08月01日

2003.01.08(水)(4)銀色の翼、鉛色の空

 14時30分、私の乗ったボーイング767型機がようやく離陸した。上空に向かっていく角度は体感ではせいぜい30度にも満たないから、そんなに高いところへ行くようにも思えないのだが、あっという間に京葉工業地域の石油化学コンビナートと東京湾アクアラインを見下ろし、さらには標高3776mの富士山までもはるかな上空から見下ろしているから、やはり高度1万mぐらいは行っているわけである。
 前方に視線を転ずると、日光を浴びた翼が銀色に輝いているのが見える。地上で見たときは翼の色は鈍い灰色だったのだが、遮るもののない日光を浴びて本当に銀色に光って見える。私と同年齢の元アイドル・菊池桃子のファーストアルバムの第1曲目に、確かそんな歌詞があったなと思い出した。銀色に光る翼は、歌になる風景、といったところか。
 離陸して50分ほど経つと、左の視界には島のたくさんある海が見えた。瀬戸内海か、と思う間もなく高度が徐々に下がり始め、飛行機特有のツーンとくる耳の痛さが始まった。上空あれだけ良い天気だったのが、着陸する九州北部ではどんよりと曇っているようである。今日の目的地は、福岡支店が改称した福岡中央支店と、長崎支店から降格された長崎出張所の2か所のみである。悪天候の影響はさほど受けないとはいえ、やはり悪天候は士気にかかわるものである。
 ガーという機械の音につられて思わず窓の外を見ると、翼のフラップが動くのが見える。主翼についたフラップであの巨大な機体をコントロールしているわけである。15時52分、私を乗せた機体は福岡空港に着陸した。着陸の際、主翼のフラップは垂直にまで跳ね上がる。少しでも空気抵抗を増してスムーズに停まれるようにということであろう。よくできている。

 飛行機を降りて細長い通路を延々と歩く。通路の窓から見える福岡の空は、どんよりと曇っている。空港の第3ターミナルビルに出た。ここで、羽田で預けたカッターナイフを返してもらい、地下鉄の乗り場に急ぐ。
 福岡空港は、第1〜第3ターミナルビルが東西700mにわたって細長く続いている。市営地下鉄福岡空港駅は第1ビルと第2ビルとの間にあって、今いるところは第3ターミナルビルである。スカイマークのカウンターの前で「地下鉄」の看板を見つけ、その指示に従って地下に降りた。ムービングウオークに乗って100mほど移動していくと、右手に福岡銀行と西日本銀行(現西日本シティ銀行)の、それぞれ福岡空港支店が見えた。銀行営業店の先が地下鉄福岡空港駅である。ようやくたどり着いた。羽田でもそうだったが、福岡でも実によく歩いた。あさめぐにかかる前に疲れてしまった感じである。
 疲れた? そういえば、なんとなく頭が重い。前年12月25日から始まり、正月三が日を含めて昨日まで行われていた冬期講習の期間中、私は激しい咳に悩まされていた。風邪で欠勤でもしたらコマに穴が開くことになるから、講習期間中は緊張感からか熱が上がるということはなかった。しかし、そうした「自分が倒れたら誰かが迷惑する」状況とは異なり、あさめぐは今挫折しても誰も困らないのである。自分自身が出費に見合った満足を得られなくなるという以外には。というわけで、熱が出てきたのかもしれない。どこかで薬を調達しなくてはならない。だが、どこで…。
 地下鉄福岡空港駅に入った。ホームに降りると、ちょうど筑前前原行きの電車が出発するところであった。16時15分発。シルバーグレーの内装にドアだけが赤く塗られている、JR九州の303系という電車である【注】。福岡空港から西に5駅行ったところが、天神。福岡市の中心繁華街の中心的な駅である。

【注】福岡市営地下鉄空港線は、JR筑肥線と相互乗り入れしている。

2006年08月02日

2003.01.08(水)(5)16:41、福岡中央支店を制覇

 天神駅から福岡(中央)支店までは既に何回か来たことがあって、直近では前年(2002年)のゴールデンウイークに訪れている。
 改札を出て西へ西へと進み、一番西側の出口を出ればよいのはわかっている。西へ進んでいくと通路の幅が狭くなり、5段ぐらいの小階段があってさらに先に続いている。住友生命ビル内にある2番出口を出ると、向かい側に大和銀行の福岡支店が見える。あさひ・大和の合併後に福岡支店となるのは旧大和の店舗であり、福岡中央支店は福岡支店に統合となるのであろう【注】。
 住友生命ビルの西隣、福岡天神第一生命ビルの1階が、あさひの福岡中央支店である。事前の記憶をたどるまでもなく、覚えているままに歩いてくると、覚えていたそのままの姿であさひの支店が存在していた。
 既に3時を回り、支店入口のガラスにはカギがかけられていた。畜生、キャッシュコーナーは反対側だ。この点だけは昨年のゴールデンウイークに再訪したときにも忘れていて、ガラス戸をガチャガチャやってしまったのである。ガラス戸上部の鴨居につけられた「あさひ銀行福岡支店」という金属製の切り抜き文字は、「あさひ銀行」の字まで含めて取り外されていた。ドアに貼られたカラーシートと、英文でのロゴは、すべて貼り替えられていた。変化といえば、同じビルの4階にシティバンクが福岡支店をオープンしていた。シティが九州上陸したとは聞いていたが、あさひと同じビルであったとは。もちろん「福岡シティ銀行」とは何の関係もない。
 支店西側、「天神西」の交差点で左折。裏手には「カメラのキタムラ」の店舗が2つ並んでいて、そこに挟まれるようにして「あさひキャッシュロビー」の白い看板が見えた。
 キャッシュコーナーに入る。通り抜け禁止とか、現金封筒を大量に持っていくなとか、テープライターで作成した注意がベタベタ貼られていて、ちょっと見栄えが良くないと感じた。防犯上の問題はあるかもしれないが、店内を通り抜けてくれる客がいるのは、あさひの福岡での認知度ということを考えるといいことではないか。その客が、次には住宅ローンを借りに来るかもしれないのである。そんなことを漠然と考えながら、ATMを操作する。16:41、福岡中央支店を制覇。
 いちおう、通帳に記帳までしてみる。店名が<福岡中央>ときちんと表示されているのを見て、初めてホッとした気分になれた。

【注】福岡中央支店:りそな銀行発足後の2003年7月、向かいの福岡支店内に移転、2006年8月に福岡支店に統合されて消滅した。支店が他支店内に移転するのは合理化の一環。旧銀行の壁を越えた支店の統廃合は、コンピュータシステムが統合されないと実施できないため、両方の銀行の支店を物理的に一つにまとめて「支店内支店」(ブランチ・イン・ブランチ)とすることで、支店統合に近い効果を期待するもの。

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2006年08月03日

2003.01.08(水)(6)長崎まで、どう行くか

 福岡中央支店の次は、昨年9月に長崎支店から出張所化された長崎出張所(長崎市)の制覇に向かう。福岡から長崎まで約130km、今日のあさめぐはそこで終了である。
 さっき地下鉄から地上に上がってきたとき、福岡中央支店隣りの住友生命ビルにチケット屋が入っているのを目に入れていた。福岡から長崎まで行くのに、JRの特急と高速バスとどちらが良いだろうか。
 チケット屋に立ち寄り、ショーケースに並んでいるJRの博多−長崎の切符を見ると、2480円という値札がついていた。次に、メインストリートの明治通り沿いにある書店で時刻表を立ち読みし、高速バスの運賃を確認。天神バスセンター→長崎の運賃は、2500円とあった。ほぼ同水準。ということは、この2者の選択であれば私はJRの特急をとる。バスは運行状況が道路事情にかなり左右されるからである。それに、長崎行きの特急は2000年に登場したサービスクオリティの極めて高い「885系」という新型特急電車で、どこで乗っても大差ない(ように思われる)高速バスよりは、この地にしかないというアウラが強い。
 決まった。チケット屋でJRの券を購入する。私が買ったのは「4枚きっぷ」といって、JR九州が大々的に乗り出している、乗車券と指定席特急券(いずれも片道)がセットになったもの。チケット屋ではこれをバラして売っているわけである。JRの正規の売価は、博多−長崎間であれば4枚つづりで10000円。「2枚きっぷ」というのもあり、これだと同区間2枚で6000円である。これはかなり出血サービスの切符である。というのは、正規の切符を買うと、博多−長崎の片道普通乗車券だけで2730円かかるからだ。JR九州は本州のJRより運賃が割高に設定されているが、そのことを差し引いても、かなり思い切った策を採っていると言えるのではないだろうか。もちろんこれは、高速バスや航空機など、他の交通機関との競争が激しいためである。いわゆる三島会社と呼ばれるJRの北海道・四国・九州の3社は、旧国鉄の中でも整備が後回しにされてきた路線が多く、単線区間が長かったりカーブが多かったりと高速運転に向かないところが多い。そこへ、近年高速道路網が完備されたことにより、高速バスの路線網がいたるところに張りめぐらされ、JRの経営をおびやかしている。というわけで、JR九州はこういう大出血きっぷを売り出さないと客をバスに奪われてしまうのである。逆に言うと、こうした競争にさらされていない本州のJRは殿様商売に徹している。
 閑話休題。チケット屋を出ると私は長崎に電話をかける。今夜乗る長崎発の夜行バスの予約である。さっき本屋で時刻表を立ち読みした時に、高速バスの予約電話番号を調べておいた。これにより、長崎新地バスターミナルを今夜9時半に出発する神戸行きの長崎バス「エトランゼ」の座席を確保。JR姫路駅前に翌朝05:55に到着できることが確実となった。明朝は姫路駅前支店を皮切りに、あさひの関西地区の店名変更店14店を一気にハシゴしてしまう計画である。

 近くにあるJTBの天神支店で、バス券の現物を購入。いよいよ、長崎に向けて出発である。
 天神から博多駅まで1乗車100円の市内バスもあるが、平日夕方5時半頃のバスには定時性に不安を感じ、地下鉄で行くことにした。地下のホームに降りていくと、博多駅に行く福岡空港行きの電車は出発したばかりで、却ってハマってしまったようだった。10分待たされることが確定してしまった。10分ぐらいの差ならバスでも吸収できたかもしれない。篠沢教授に500点賭けてハズれたような絶望感を感じたが、仕方がない。次の福岡空港行きをおとなしく待つ。
 博多駅には17時45分に着いた。目指す列車は18:02発の長崎行き特急「かもめ37号」。この電車は長崎に19:53に着く。発車まであと15分しかない。というのも、私の持っている「4枚きっぷ」という切符は、指定席特急券がセットになっていて、駅の「みどりの窓口」で座席の指定を受けてから乗らないといけないからだ。座席指定を受けなくても自由席には乗れるのだが、やはりそれではもったいない。持てる権利は有効に使わないといけないだろう。
 みどりの窓口は長蛇の列で、行列は遅々として解消しなかった。ジリジリしながら自分の番が来るの待つ。あと30秒待って自分の番にならなかったら、もう自由席に乗ってしまおう。そう思いかけた瞬間、ようやく自分の番が回ってきた。窓口の若い女性に「6時のかもめ、禁煙」と言いながら、さっきチケット屋で買ってきた切符を差し出す。係員が券を機械に差し込み、座席の条件を入力すると、古い券が回収されて座席指定のなされた新しい券が出てくる仕組みである。
 17時58分。間に合った。券をひったくるようにして受け取り、自動改札へと急ぐ。目指す「かもめ37号」は、3番線からの発車である。

2006年08月04日

2003.01.08(水)(7)18時02分発、かもめ37号

 ホームに上がると、真っ白な車体のずんぐりした外観の特急電車が停まっていた。「白いかもめ」と呼ばれる、2000年にデビューした885系特急型電車。間接照明に徹して光源を極力隠したライティング、フローリングの床、黒レザーを張りつめたリクライニングシート、妻面の全面ガラスの自動ドアと、凝った内装の車両である。九州では、これだけの車両に、普通運賃とほとんど変わらない金額で乗れるのである。
 私の席は「1号車8番C席」、先頭車両の通路側である。先頭車両はグリーン車と普通車とで半々になっており、その普通車の真ん中あたりということになる。自分の席に行ってみると、いいご隠居さんらしい爺さんが、私の席に荷物を置いてゴソゴソやっていた。
 とりあえずそこが私の席だとアピールしておいて、ホームに駅弁を買いに出た。立ち売りのおじさんから「かしわめし」を買う。弁当を買うついでに全部の車両を見て回ったところ、自分の乗っている1号車以外はがらがらのようである。これなら、指定を無理に取らずとも、自由席で十分快適な移動ができたかもしれない。軽い失望を感じながら自分の席に戻ると、隣の爺さんも荷物を片付けてくつろいでいた。
 18時02分、長崎行きの特急「かもめ37号」が定刻に博多駅を発車した。発車するや否や検札が始まった。私には座席で検札されることにはかなりの抵抗感があるのだが、今回は別段車掌と喧嘩することもなく「長崎車掌区」の丸いスタンプを押して返してもらう。検札が済んだのでかしわめしを開けた。この駅弁が、私にとっては今日初めての食事となる。
 食事が済むと、リクライニングを目いっぱい倒してもたれかかった。冬季講習の期間中ずっとずるずるきていた風邪がまだ治りきっておらず、熱が出てきたようである。飛行機を降りた後の耳のおかしな感じは、この時点ではだいぶ改善したものの、やはり体調がすぐれないせいか長く残っているようだ。長崎に着いたら薬屋を探そう。そう思っているうちに、私は軽い眠りに落ちていった。

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2006年08月05日

2003.01.08(水)(8)20:15、長崎出張所を制覇

 鳥栖に停車したのは覚えているが、その後は諌早まで記憶が途切れてしまっている。途中で何かあったのか、「かもめ37号」は定時を10分ほど遅れて8時少し過ぎに長崎に到着した。
 一番前の車両に乗っているから、行き止まり式のホームを持つ長崎駅では出口はすぐである。その出口には、自動改札機が設置されていた。なんとも風情がないことだが、人件費削減のためやむを得ないのだろう。
 初めて長崎支店を制覇しに来たとき、長崎駅はまだ工事中だったが、今となってはすっかり工事も終わってしまっている。すっきりと整備されてしまった長崎駅前の歩道橋に上り、1乗車100円の長崎電軌の路面電車に乗らなければならない。長崎は今日が初めての土地ではないので、どこ行きの電車に乗ってどこで降りればよいかは分かっている。
 「正覚寺下」行きを待つが、電車はなかなかやってこない。以前松山に行ったとき、伊予鉄道の市内電車は確か夜9時台前半で終わってしまっていたので、ひょっとすると長崎もそれに近い状態なのかもしれない。少し焦り始めたところで、やっと正覚寺下行きの電車がやってきた。電車は私のいるホームの先の方で何人かの客を降ろした後、すぐにまたドアを閉めて動き始めた。おいおい待ってくれ、俺はどうなるんだ。そう思いかけたところで電車が停まり、入口のドアを開けた。ホームでの位置設定が降車と乗車とで異なるせいらしかった。
 電車が動き出した。夜の長崎の街をゴトゴトと走っていくが、初めての場所ではないし、不況のせいか町の灯はほとんど消えてしまっていて、風情はあまり感じない。10分ほどの乗車で、少し窓の外が明るくなり始めた。長崎随一の繁華街である銅座町の灯である。あさひ長崎出張所の最寄りとなる西浜町の電停に到着。運賃を払って電車を降りる。あさひの営業店が、以前来た時と同じたたずまいで存在していた。
 キャッシュコーナーに入り、長崎出張所の制覇を行う。通帳に記帳される店名は<長崎>のまま変わらないとわかっているから、新しい拠点の制覇というよりも、長崎支店を再び訪れたような感慨しかない。それぐらい、店内は前来た時と変わっていない。厳密に言うと、今日来たここは1月6日に店名が変更された「福岡中央支店」の長崎出張所であって、昨年9月に出張所化されたときには「福岡支店」の長崎出張所であったのだが、細かいことを言ってもきりがないので、長崎に関してはこれでいいことにしてしまう。
 外装はごくごくわずかに変わっていて、自動ドアのガラスに貼られたカラーシートの上に白字で書かれた店名の表示が「長崎支店」から「福岡中央支店長崎出張所」に変えられ、やはりガラスに貼られていた代理業務一覧のところは、支店から出張所への変更に伴って取り扱い業務をいくつも廃止したらしく、インスタントレタリングが何か所も剥がされて歯の抜けた櫛のようになっていた。
 制覇を終えて支店ビルの前に何気なく出てみると、長崎出張所の入る「あさひ銀長崎ビル」には重大な変化が起きていたことが判明した。8階建てのビルの4〜7階を占めていたフィットネスクラブが撤退していたのである。銅座町の入口にある、長崎としては立地条件の良いはずのビルですらこの有様だから、地方都市の不況ぶりというのは本当にすさまじいものがある。あさひとしては、長崎支店は出張所化ではなく「閉鎖」したかったところかもしれない【注】。
 ともあれ、本日予定していた九州地区2か所の制覇は、滞りなく終了した。次はいよいよ、夜行高速バスで姫路に向かい、関西地区14か所の制覇である。

【注】長崎出張所:りそな銀行発足後の2004年1月、福岡中央支店に統合されて消滅した。


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2006年08月06日

2003.01.08(水)(9)夜の長崎を発つ

 長崎出張所制覇の後、銅座町界隈をぶらぶらする。有名な「トルコライス」でも食べたいところだったが、言うまでもなく事前のリサーチは全くしていない。それに、夜行高速バスの発車時刻が9時半であるから、体調面その他も考慮すると余裕はせいぜい45分くらいだろう。バスターミナルの場所は、「新地」ということと、あさひからさほど遠くないだろうことしかわかっていない。
 あさひ銀長崎ビルの東側、春雨交差点わきの調剤薬局に入った。風邪薬を購入する。自家調合の風邪薬を勧められたが、ほんのわずか安い普通の売薬を所望したところ、薬剤師と思しきおばちゃんはがっかりした顔をしていた。いかに失望されようとも、薬包紙で包んだ粉薬を立ち飲みするのは御免だ。その後、観光通りのケンタッキーでフライドチキンを、銅座町の酒屋でビールを、中華街近くのコンビニでドリンク剤を仕入れ、バスターミナルに向かう。
 横浜のそれに似た中華街のゲートをくぐる。ここが長崎の「新地中華街」と呼ばれるところである。営業していた中華料理屋はゲートのそばの数軒だけで、他はすべて堅く扉を閉ざして真っ暗だ。横浜の中華街と異なり、長崎の中華街は経済的な後背地の狭さゆえにあまり繁華になり得ないのだろう。旧正月にでもなれば多少は違うかもしれないが、新暦正月の松の内を過ぎて観光客も途絶えた今は、いちばん中途半端な時期かもしれない。ただ一つ言えるのは、私の目指す「新地バスターミナル」は、ここ新地中華街からさほど遠くはないだろうということである。
 銅座町から出島方向に延びる電車通りを目指して歩いてくると、ようやくバスターミナルが見つかった。バス溜まりと、ガラス張りになったバスのプラットホームが見える。表通りに回ってみると、そこはさっき路面電車の窓から見た(はずの)ダイエーである。ダイエー長崎店は、長崎バスが持つビルにテナントとして入っているらしい。産業再生機構の支援下で多数の店舗閉鎖を敢行したダイエーだが、九州の地場スーパー「ユニード」を合併したため九州エリアの営業基盤は強固なようで、2006年7月現在ダイエー長崎店は盛業中である。
 待合室のベンチに腰を下ろしてフライドチキンを食べ、そのまま「食後服用」の風邪薬をドリンク剤で飲んだ。職場の事務の女性に、風邪薬はドリンク剤と一緒に飲むと効くと聞いたからだ。神戸行きのバスが出るまで、薬を飲んで半分ボーッとした頭で、他のバスが発着するのをぼんやりと眺めていた。長崎バスの新地ターミナルは、高速バスのほか、長崎市内とその周辺に向かう路線バスも発着している。私が神戸行きを待つ隣のホームからは「女の都団地」へ行くバスが発車していった。おんなのみやこ! アマゾンみたいな恐ろしい名前の団地もあったものである【注】。
 そうこうしているうちに、21時15分。私の乗る神戸行きの「エトランゼ号」が入線してきた。私の座席は「3A」、つまり前から3列目の進行左側である。夜行高速バスは普通の観光バスのような4列シートではなく、3列シートになっていて、これで1人あたりの居住スペースを確保している。今日は、シート3列のうち真ん中1列はドカンと空いているらしい。新地ターミナルからは、私を含めて7名ほどが乗り込んだだけであった。
 21時30分。私を乗せた高速バスが定刻どおり新地ターミナルを出発した。窓の外では、何人かの人々が名残り惜しそうに手を振っている。別に私に対して手を振っているわけではない。私の席の前・2Aが帰省から戻る女子大生(推定)で、見送りは彼女の身内であるようだ。
 天井に取り付けられたテレビから、車内案内のビデオテープが発車と同時に大音響でかかり始めた。私としてはすでに座席のリクライニングをフルで倒し、フットレストをセット、スリッパの位置を確認して靴を脱ぎ、毛布もかけて完全に臨戦態勢を敷いているのだが、この音量はちょっと激怒的な水準である。しかも、ビデオの大音量攻撃は、新地ターミナルを出た後、市内昭和町・諌早インター・大村インターと停留所に停まるたびに繰り返されたのである。結局私が寝付くことができたのは、大村インターを出てバスの室内灯が完全に消灯した、午後11時頃のことであった。大村を出ると、次はもう姫路まで客の乗降はない。まったく、人の体調が悪いときに、あんな大音量でビデオをかけやがって。これで死んだら怨霊になってやる…とは思わなかったが。

【注】女の都団地:正しくは「めのとだんち」。長崎市北部にある。

2006年08月07日

2003.01.09(木)(1)予想外に寂しかった姫路の街

2003.01.09(木)

 5時過ぎに目を覚ますと、バスは兵庫県内とおぼしきサービスエリアで停泊中であった。山陽道の竜野西PAではないかと思われるが、はっきりしない。
 私の目的地である姫路駅前には、予定ではあと50分ほどで到着する。そろそろ降り支度をしておいても良いであろう。サービスエリアには降りられないので、バスについているトイレで用を足す。幅60cm、奥行き1m、高さ1.5mほどの恐ろしく狭いトイレで用を足し、出てくるともう車内には煌煌と明かりがついていた。もと通り靴を履き、荷物を整え、いつバスが姫路駅前に着いてもいいように準備を整える。
 5時48分、バスは予定到着時刻より10分ほど早く、JR姫路駅前にある神姫バスのバスターミナルに到着した。神姫のバスターミナルは、駅前広場の西寄り、大手前通りに面した山陽百貨店の1階にある。同じビルの2階は山陽電鉄の姫路駅になっていて、姫路の交通の中心といえる立地条件である。
 姫路市の中心街は東西に長いJR姫路駅の北側である。駅前から北に延びる大手前通りをまっすぐ進んでいくと、有名な姫路城の大手門に突き当たる。つまり姫路城の南側が市街地ということである。
 本日最初の制覇目標である姫路駅前支店が開くのは、8時。それまでの2時間を、この市街地で過ごすことになる。姫路市の人口は48万人(2006.03、合併前)で、それほどの規模を持つ都市ならばヒマをつぶす場所には困らないだろう。何しろ、机一つあれば文章執筆ができるのである。そのように軽く考えて、私は姫路市内をふらふらと歩き始めた。市内といっても姫路駅周辺の限られたエリアだけであるが。
 複数の商店街が大手前通りと直交していて、その通りの何本かに分け入ってみる。「協和通り」といういかにもな名前の商店街があって、商店街入口のアーチにはあさひの広告看板がついていた。その通りの奥、御幸通りと交わるところには、以前来たとおり姫路支店、改め姫路駅前支店が存在する。姫路については合併後の存続店舗は大和になると思われるが【注1】、商店街の名前のもととなった旧協和がなくなってしまったら、商店街はたち行くのだろうか。
 都銀他行は、大手前通り沿いに集中している。UFJ(旧三和)、東京三菱。都銀ではないがUFJ信託(旧東洋信託)。あさひとの合併後にりそな銀行姫路支店となる大和銀行の姫路支店は、大手前通り・銀座通り交差点の北西角という目立つ場所にある。大手前通り沿いにある都銀各行の看板は、京都と同様に白地がベースになっていて【注2】、東京で見慣れたものとはかなり印象が異なっている。もともと白っぽい大和の看板は、他都市と変わらない。

 さて、これだけぶらぶらと歩いていて、ヒマをつぶせそうな店が1軒も見当たらないことに気づいた。これは姫路市の規模から考えて、想像を絶することであった。人口43万人の横須賀市に仮住まいしている今(2003年1月)、最寄り駅の駅前にある24時間営業のうどん店チェーン「なか卯」で執筆活動をすることが多い。なか卯は関西に本部のあるチェーンなので、姫路にも店舗があることを期待した。しかし、ようやく見つけた店は24時間営業ではなく、朝6時時点で電気を消して堅く鍵がかけられていた。
 必死でうろうろと探し歩いた結果、駅前のコンビニ以外に開いている店をようやく発見した。関東ではおなじみの黄色い看板の牛丼屋、ではなく「牛めし屋」の松屋である。店に入ると、客は2〜3人しかいない。ここなら、店員に追い出されない限り8時まで時間をつぶせるだろう。少し安心して牛焼肉定食を食べ、食事の後も8時まで店内にとどまって文章書きをしていた。
 定食屋というのは実に色々な人が来るもので、カレーにコショーを求め、店員にないと言われると「コショーもないのにカレーなんか置くな!」とブツブツ言っている爺さんがいた。味覚の問題だからとやかく言うつもりはないが、世の中には色々な人がいるものである。その爺さんは、カレーを食べながら日本の防衛問題についてブツブツブツブツ独り言を喋りまくり、「ごっそさん」と一言言って店を出ていった。

【注1】姫路駅前支店:りそな銀行発足後の2003年10月に姫路支店内に移転し、2006年7月姫路支店に統合されて消滅した。
【注2】白地の看板:京都や姫路など歴史的な景観を保持している町では、条例により広告看板の色彩を制限している場合がある。あさひ銀行ではこのタイプの看板は京都市内のみで見られ【写真】、表通りから奥に入った場所にある姫路(駅前)支店には通常の看板がついていた。


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2006年08月08日

2003.01.09(木)(2)朝一番、姫路駅前支店を制覇

 以前立てた計画では、今日の実行程とは逆に、京都を起点として姫路に夜の9時前に着き、夜行特急列車で九州入りするはずだった。
 プランニングの際に検索ソフトで所要時間を調べ、制覇しようとする拠点がそれぞれ何時頃の到着になるか、ざっくりと割り出してある。その時のプランをもとに、姫路駅前支店から、本日最後の拠点となる京都中央支店まで、さっき朝飯を食うついでに逆算しておいた。その結果は以下のとおりである。姫路駅前8時00分、三宮9時15分、西宮北口10時、箕面駅前11時、守口土居12時30分、河内小阪13時30分、泉大津西15時、堺宿院15時30分、難波駅前16時、天六南16時30分、堺筋本町17時、大阪中央営業部17時30分、梅田北口18時、京都中央19時30分。果たして、机上のプラン通りにいくかどうか。
 7時55分。アラーム設定していた私の携帯電話が音楽を奏で始めた。いよいよ、本日の第一目標、姫路駅前支店の制覇に向かう時がやってきた。
 松屋に入ったときに真っ黒だった空は、この時間になるとすっかり明るくなっている。町には既にたくさんの人が行き交っている。近くに高校があるのか、制服を着た若い男女が多い。活動時間になってからの人波は、やはり人口50万人近い都市とあって思いのほか力強かった。
 御幸通りを駅に向かって南へ歩いていく。1〜2分も歩くと、さっき前を通ったあさひの支店が以前と変わらぬたたずまいで存在していた。ドアシールのグラデーション模様の上に、白で「姫路駅前支店」と書かれた赤い長方形のシールが貼ってある。首都圏や九州地区とは違い、赤いカラーシートを全部剥がして貼り替えるのではなく、支店名のところだけシールを作って上から貼るという簡略化したやり方で店名の変更がなされていた。キャッシュコーナーに入ってみると、以前来た時にあったNCRのATM機は、全て富士通のATM機に取り替えられていた。機械の台数は2台。これとは別に両替機が置かれている。姫路に本社のあるグローリー工業の両替機であったかどうかは見てくるのを忘れた。
 富士通であろうとNCRであろうと、ATM機として使えればよい。入金操作が可能となる8時45分より前であるので、出金操作だけをする。8時01分、本日の第一号となる姫路駅前支店を制覇した。予定より1分遅いものの、開店と同時に取っているし、5分程度は誤差の範囲内と言って良いだろう。次の神戸支店改め三宮支店が9時15分に取れるかどうかが鍵と言える。

2006年08月09日

2003.01.09(木)(3)朝日輝く中、あさひ三宮支店へ

 本日の輝けるハシゴの始まりである。今日一日で14か所を制覇する予定で、前述のとおり1日に10か所を超えての制覇は98年夏以来4年半ぶりのことになる。
 まず目指すのは神戸である。三宮支店の制覇。その途中で、昨年(2002年)廃止になった店舗外ATM[元町]の跡を再取材すべく、降車駅を元町駅と設定する。
 JR姫路駅に出向き、08:16発の新快速近江今津行きに乗車。これが思いのほか混雑していた。編成の端から端までひととおり歩いてみたが、1人だけでも着席できそうな余地は全くない。仕方がないから次の加古川に期待しようと思ったが、加古川では電車待ちの客がホームにあふれんばかりに立っていて、上りの新快速は一気に混雑度が増した。
 文章執筆など思いもよらないので、仕方なく窓の外を見て時間をつぶす。加古川駅周辺は高架化の工事が進行中で、数年の後には風景がまったく変わってしまうのであろう【注1】。もう朝8時台になっているが、窓から見える風景は、畑も原野も河川敷も霜がびっしり降りていて、まだほとんど溶け出していない。触ったらシャリシャリと音がしそうな外観である。さすが東京と播磨とでは日の出の時間が違うと実感させられた。首都圏でこういう風景を見た記憶はここ数年ない。西日本のほうが日の出が(もちろん日の入りも)遅いわけである。
 意外にも明石で客がどっと降り、私は着席することができた。しかし、もはや文章書きをする気にはなれず、車窓の風景をボーッと眺めていた。神戸市内に入り、須磨や新長田といった駅の周辺では、車窓の風景は異様な雰囲気が漂う。建っている建物は新しいものばかりで、プレハブ建築のような外観の建物が多い。それ以上に目立つのが更地で、建物は所々にしか建っていない。屋根にビニールシートをかぶせた家すら、さすがに少なくなったもののまだ残っている。この付近は1995年1月17日の阪神・淡路大震災で被害が最も甚大であったところで、震災後まる8年を経てもいまだに傷が癒えていない様子がうかがわれる。表面的には傷が癒えたものの、という言い方すらできないところが現実の厳しさというものだろう。私には、電車の窓から見て被災された方々に思いを馳せるぐらいのことしかできない。阪神大震災では、私の「友人の友人」でもう既に自宅を失った人がいるのだが。
 元町に新快速は停車しないので、一つ手前の神戸駅で快速に乗り換える。新快速の発車したホームの反対側で待っていると、途中で追い抜いた【注2】快速野洲行きがやってきた。乗り込んで1駅、元町には9時ちょうど頃に到着した。

【注1】山陽本線の高架化:加古川駅付近では2003年5月に山陽本線が高架に切り替えられ、高架化事業は2005年3月に完成した。なお、姫路駅も2006年3月に高架の駅となった。
【注2】途中で追い抜いた:JR山陽線は西明石から大阪寄りが複々線になっており、西明石を新快速の前に発車した快速は、神戸に着く手前で新快速に追い越される。

2006年08月10日

2003.01.09(木)(4)09:14、三宮支店を制覇

 元町駅は高架上の駅である。阪神大震災の時この付近がどういう壊れ方をしたかは記憶にないが、それなりに新しく整備されているところをみると、倒壊したのかもしれない。
 私は何の気なしに西口へ降りてしまったが、これから行こうとする元町商店街は東口である。しまった。ホームでは、私が電車を降りた位置から反対側に下りの階段が見えていたのに。篠沢教授に1000点賭けてハズれたような絶望感に駆られた。駆られつつも、線路の南側を東へ歩き、見覚えのある元町商店街にようやくたどり着いた。これで5分はロスしただろう。
 元町商店街を南へ。三宮支店制覇の前に、店舗外ATM[元町]跡の取材。旧福徳銀行神戸支店が目印だった。ここは、被害金額過去最大の5億4100万円が強奪された銀行強盗事件が1994年8月に起きたところである。現地に行くと「神戸フクトクビル」というのがまだ残っていて、このビルの1階、福徳銀のあった場所には、新生銀行の神戸支店がスターバックスコーヒーと共に入っていた。そして道の反対側に、店舗外ATMの跡とすぐにわかる堅牢なサブドアをつけたシャッターがあって、名古屋の有名な質屋「コメ兵」の買取センターになっている。そのすぐ南側は、かつて「元町支店」があった場所。現在ファッションビルが建っているその場所には、かつて制覇に来たときには、あさひの建物をそのまま利用した「スニーカーのSTEP」があった。
 さらに南側に見えるのが大丸百貨店である。大丸の真北と、その30mほど北に1本ずつ、東西に延びる幅の広い道路があり、北側を「三宮中央通り」という。私は三宮中央通りを東に向かって歩く。
 元町と三宮とを結ぶこのラインの南側は、銀行の神戸地区の拠点が集中するエリアになっている。通りに面したところには三井住友銀系の第二地銀、みなと銀行の本店がある。旧阪神銀行の本店で、もともと神戸の第二地銀としてさくら銀とは親密な関係にある銀行だったが、さくらが住友銀と合併する直前にさくら銀の子会社となった。さらに、通りからは見えないが神戸信金の本店、その向こうには三井住友の神戸営業部(旧太陽神戸銀行本店)もある。地銀の神戸支店も複数みられる。あさひの三宮支店があるのは、そうした「銀行街」の一角である。そんな銀行街を守っているのか否かは知らないが、通りの向こうに赤い鳥居が見えた。
 あさひの支店は、みなと銀本店の東側、「三神ビル」の1階にある。ここは震災後の新築だから、窓口室は天井が低く面積もさほど広くはない。ともあれ、9時のオープンから間もない支店は見事に空いており、ATMコーナーにも人はほとんどいない。9時14分、三宮支店を制覇した。予定時刻より1分早い。よし、この調子である。
 なお、三宮支店は、りそな銀行発足後の2003年8月に南京町にある神戸支店内に移転、2006年9月神戸支店に統合されて消滅した。

2006年08月11日

2003.01.09(木)(5)09:58、西宮北口支店を制覇

 次の目標は、兵庫県内最後となる、西宮支店改め西宮北口支店である。三宮から西宮北口までは阪急神戸線で一本。到着予定時刻は10時である。
 阪急の三宮駅はJR三宮駅の北側にあって、三宮支店からは5分くらいも歩けばたどり着くだろう。三宮中央通りを東へ。港から新幹線新神戸駅前まで通じる大通り「フラワーロード」との四つ角を左に曲がると、もう三宮駅のガードが見えている。JRのガードをくぐって阪急三宮駅に到着。切符を買って中に入ると、ラッシュが終わったらしく閑散としていた。あるいは、ラッシュと呼べるほどのラッシュがないのかもしれない(そんなことはないはずだが)。9時40分発の梅田行き特急に乗車。楽に着席できた。
 私の記憶では、阪急神戸線の特急はたしか三宮を出たら西宮北口まで停まらなかったはずだ。以前と比べて停車駅が増えているのに驚きつつ、西宮北口には10分強で到着した。
 旧西宮支店の界隈は昨年(2002年)夏に再訪したから、西宮北口駅周辺の様子は多少勝手がわかっている。「北西口」の階段を下りると目の前は公園になっていて、その向こうには日興コーディアル証券・関西さわやか銀行(現関西アーバン銀行)・野村証券の3つの支店が並び、三井住友の西宮北口支店(旧さくら)も見える。旧さくらの支店の横を北に進む商店街がどことなく雑然としているのも以前と変わらない。
 あさひの縦看板が見えた。西宮支店改め西宮北口支店である。キャッシュコーナーに入ると、機械はATM2台プラス両替機しかなく、ここが思いのほか小規模であったことを知って驚く思いであった。西宮市の中心は、現在地から南西へ2kmほどの阪神電鉄西宮駅付近で、阪急西宮北口駅前にあるあさひの支店は、合併後のりそな銀行では西宮市のメインの支店になり得ない立地条件にあった。但し、西宮北口支店は2006年8月現在盛業中である。
 西宮北口支店を制覇。制覇時刻は予定マイナス2分の9時58分。順調である。

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2006年08月12日

2003.01.09(木)(6)「阪神間モダニズム」の中心地を走る阪急今津線

 本日の4か所目、箕面支店改め箕面駅前支店(大阪府箕面市)の制覇に向かう。阪急沿線の市であるのは西宮と同じだが、ここから大阪府内の制覇になる。
 あさひの支店の東側、池田銀行西宮北口支店の向こうに、阪急今津線の踏切が見えている。西宮北口から北に延びるこの線で北に向かい、終点宝塚で宝塚線に乗り換えれば、箕面市の表玄関・箕面駅へ行く箕面線に石橋で乗れる。石橋への経路としては、大阪へ出て宝塚線で向かう方法もある。所要時間としてはどちらも同じくらいだが、果たしてどちらが良いだろうか。
 こういう時、通常なら気分で決めるところだが、今日はそれをしたくなかったので、駅員に聞いてみることにした。駅員氏なら、本能的に最良と思われるコースを案内してくれるだろう。さっき降り立った「北西口」の階段を上り、券売機横にいた男性駅員をつかまえて聞いてみると、間髪入れずに宝塚行きの今津線に乗るよう告げられた。「梅田を回るのとどっちが早いですかね」と聞くと、やはりどちらも同じくらいだという。ただ、今津線回りのほうが客が少ないので「座って行けますわ」とのことであった。この言葉で、事前の下調べでは梅田回りとしていたこの区間の移動を、迷うことなく宝塚回りに変更した。
 さて、問題の今津線だが、専用のホームに降りて宝塚行きの電車に飛び乗ってみると、えらく混雑している。飛び乗ってというのは、既に発車のベルが鳴っていたからだ。おいおい、こちらはすいているのではなかったのか。そう思っていると、西宮北口から2つ目の甲東園でドッと客が降り、私は座ることができた。降りたのは圧倒的に女子大生らしい若い女性ばかり、近所に女子大でもあるのかと思って地図を開くと、お嬢様大学として有名な神戸女学院がこの駅から徒歩圏内にあるようだ。神戸女学院もさることながら、甲東園は旧幸福銀行のオーナーだった頴川一族のコレクションを大量に収蔵している「頴川美術館」があることで有名で、かつて甲東園には幸福銀の有人出張所もあった。経営破綻と外資への営業譲渡、さらに関西銀行との合併を経て「関西アーバン銀行」となった今、甲東園に同行の店舗はない。但し、財団法人頴川美術館は現在も営業中である。
 とにかく、この界隈にはお嬢様大学があり、美術館もある。そして、車窓風景が関東と少々違った印象であるのに気付いた。この付近が大都市圏であるのは間違いないが、建物が密集している感じをあまり受けないのである。建物の密集地帯もあるにはあるが、関西ゆえに京間を採用しているのか、安アパートなどでもゆったりした印象である。もともと阪急線は「阪神間モダニズム」の中心地を走り、ハイソサエティーの住む線ということになっている。宝塚のあたりまで含めた阪神地域は、明治期に大阪の町衆(豪商階級)の別荘地として開かれ、大正期になると芸術家や文化人が移り住んだ。六甲山とその山麓には、彼ら富裕層を対象に、文化・教育・社交の場としてホテルや娯楽施設が多数造られ、一大リゾート地となった。そして、伝統を重んじつつ西洋的な生活を楽しむ気風が育まれたのである。こうした、ハイカラでモダンな独自のスタイルのことを「阪神間モダニズム」と呼ぶ。阪急今津線は、その中心地を走っているわけである。
 やがて電車は、武庫川を渡って大きく左にカーブ、宝塚ファミリーランド(2003年4月閉園)の横をすり抜けて、宝塚駅3号線に到着した。念のため、阪急だから「3号線」である。ここで、電車としては今来た方向に発車する宝塚線の上り電車に乗り換える。10分ほどの待ち時間で、10時33分発の特急梅田行きに乗車。宝塚から15分の乗車で石橋に到着。ここで箕面線に乗り換えである。
 箕面線のホームは、宝塚線の上りホームから水平移動だけで到達できる。形としては、北西−南東の方向に走る宝塚線に、北東方向から来る箕面線の線路が直角に突き当たる形でT字形になっていて、箕面線の車止めの先がそのまま宝塚線の上りホームになっているのである。駅施設のこういう配置は、首都圏ではほとんどお目にかかった記憶がない。JR鶴見線の大川支線で、今のように鶴見から直通運転になる前の武蔵白石駅のホームの形状が、少し似ているぐらいだろうか。

2006年08月13日

2003.01.09(木)(7)11:03、箕面駅前支店を制覇

 石橋10:50発、箕面線の各駅停車に乗車。阪急箕面駅には10:57に到着した。
 箕面終点に着く直前で、あさひの縦看板を屋上につけた銀行建築が右の車窓に見えた。方向としては、改札を出て、線路沿いに今まで来た方向へ戻ればいいわけである。このあたりは、1997年12月に箕面支店を制覇しに来た時とまったく変わっていない。
 行き止まり式ホームの背中、つまり線路の北の端にある改札を出る。箕面の町の周囲をぐるりと囲んでいる山は、中腹まで住宅がびっしりと建ち並び、陸上に引き揚げられた漁船の船腹にフジツボがへばりついている様を連想させた。箕面のように、大都市圏の近郊のすぐそばまで高い山を連ねた山脈が迫っていて、山の中腹まで住宅がびっしり、そこから上は未開の原生林が広がるといった光景は、首都圏では小田急線の秦野あたりに似た風景を見た気がするぐらいである。
 背後の山のスイートホームへマイホームパパのおじさんたちを連れていくために、箕面駅の東側にはバスターミナルが完備されている。バスターミナルの南側に「サンプラザ」というレンガ色の外壁の商業ビルが2棟あり、棟と棟との間に石畳を敷いた商店街、みのお本通り商店街が南に延びる。どこかの沢から引っ張ってきた「沢のせせらぎ」などもあっておしゃれな町並みのところに、これまで何度も「あさめぐ」で見てきた個人商店中心の「地場の商店街」が広がっていた。
 南に向かって歩みを進める。通りの右側に、大和銀が店舗外ATMを廃止した跡があって、南側に位置するあさひの支店を使うよう掲示されている。そのあさひの支店は、既に見えている。支店からみのお本通りをはさんだ線路際は、ダイエー箕面店であった大ショッピングセンターが取り壊されて更地になっていた。前回の制覇の際には営業していたと思うのだが、全く記憶から飛んでしまっている。
 「箕面駅前支店」と白字で書かれた赤いビニールシートが鮮やかな自動ドアを入ると、茶色いボディの沖電気のATMが5台並んでいた。さっきの西宮北口支店にATMが2台しかなかったことを考えると、関西圏としては稼いでいる支店ということになるだろう。11時03分、箕面駅前支店を制覇。予定より3分遅いが、まあ誤差の範囲内といえよう。

 この支店には入口が2か所あって、今入ったキャッシュコーナーの入口は、みのお駅前本通りに面した西側の入口である。そして建物南側にも入口がある。南側入口の内側には風除けの壁があって、壁の裏側、ロビーに面した部分には、箕面のあさひ・大和双方の支店メンバーの自己紹介が貼られていた。あさひ銀行箕面駅前支店(旧箕面支店)の12名の行員プラス支店長、大和銀行箕面支店の21名プラス支店長が、それぞれ葉書大の用紙に自分の写真を貼り、自己紹介のコメントを記入している。
 善意に解釈すれば、草の根レベルで交流が既に始まっているわけだが、私には「善意に解釈」以外のものがどうしても目に浮かんでしまう。この自己紹介カードをあさひと大和のどちらが発案したかは知らないが、大和が発案したとしたら、箕面では相対的に優位にある大和が合併前からイニシアチブをとって相対的に劣位のあさひを振り回しているのと同じだし、あさひの発案なら、やはり相対的に劣位のあさひが大和側の覚えを少しでも良くしようと取り入っている図を思わせる。そして、合併後に予想される両支店の統合後には、絶対に「人減らし」が待っている。そのあたりがなんとなく想像されるだけに、無邪気にもてはやす気にはなれないのである。
 なお、箕面駅前支店には、りそな銀行発足後の2003年12月、箕面市役所前にあった箕面支店が移転してきた。同居店舗として営業してきたが、2006年8月、箕面駅前支店は箕面支店に統合されて消滅した。りそなの箕面は、軒先を貸して母屋を取られたような形で「店籍は大和、建物だけあさひ」ということになる。

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2006年08月14日

2003.01.09(木)(8)予定変更、乗り換えついでに梅田を制覇

 次なる目標は、守口市にある守口土居支店(旧守口支店)。制覇予定時刻は12時30分である。
 箕面駅に戻り、11時20分発の石橋行きに乗車。箕面線は日中は10分間隔での運転である。石橋駅の構造からみて、前寄りの電車に乗っておくと乗り換えがスムーズなので、予めそうしておく。
 10分弱の乗車で石橋に到着した。乗り換えの電車は梅田方面に行く上り列車だから、さっきと同様の、というかさっきとは逆のコースで乗り換えを行う。宝塚・石橋と、乗り換えにアップダウンを伴わないというのは非常に快い。きょうび流行の「バリアフリー」ということを、阪急では何十年も前にこうした駅施設が設置された時から実践しているわけである。接続のダイヤも極めてスムーズで、ほとんど待ち時間もなく梅田行きの特急がやってきた。
 プランでは、梅田/大阪駅からJR大阪環状線で京橋へ出て、そこで京阪電車に乗り換えて守口市へ、ということになっていた。梅田の「梅田北口支店」をはじめとする大阪市の中心部については、5年前(1998年)と同様に徒歩でまとめて取ってしまおうと考えていたのである(1998年には梅田に支店は存在しなかったが)。しかし、よく考えてみれば、せっかく梅田で降りるのに、梅田を素通りしたのでは、逆に二度手間になってしまうだろう。決めた。梅田北口支店を先に取ろう。そう思い立ったとき、電車はもう既に淀川の鉄橋を渡っていた。
 石橋から20分の乗車で梅田に到着。阪急の梅田駅は、東西に走るJR東海道線の線路から北に直角に延びるような形で線路が敷かれている。梅田駅は神戸・宝塚・京都の3方向とも行き止まり式のホームになっているから、前の方の車両に乗っていれば、改札機がズラリと並んだ櫛の背のようなホームの背中の部分にすぐに到達できる。あとは、改札先の大エスカレーターを降りて右へ、つまり西の方向へ曲がれば、あさひ梅田北口支店のある「ヨドバシ梅田ビル」にたどり着くことができる。ヨドバシ梅田ビルは、阪急梅田で降りれば時間ロスがほとんどなく寄り道ができる。2001年11月に梅田支店がオープンした際に制覇に来ているから、地理的事情はよくわかっている。
 信号の先に見えるヨドバシビルの壁面には、オープン1周年の掲示が出ていた。あさひ銀行梅田支店のオープンは、ヨドバシ梅田ビル(ヨドバシカメラ梅田店)のオープンと同時である。堂島支店を移転改称して梅田支店がオープンしたのが2001年11月、それからわずか1年余りでもう店名変更されてしまったことになる。
 御堂筋を渡って建物1階の支店に入る。入ってすぐに、梅田北口支店のキャッシュコーナーがそこにないことに気付いた。制覇に来た時と同じことをやらかしてしまった。この支店のキャッシュコーナーは地下1階にあるのだ。支店内にあるエレベーターで地下へ移動すると、1年前と店名以外に変わった様子の見えないキャッシュコーナーが広がっていた。11時49分、梅田北口支店を制覇した。
 なお、梅田北口支店は現在も盛業中である。

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2006年08月15日

2003.01.09(木)(9)12:33、守口土居支店を制覇

 引き続き、守口土居支店の制覇に向かう。到着予定時刻は12時30分だから、梅田から40分あればたどり着くだろう。順調に制覇が進んでいる。
 ヨドバシ梅田ビル地下1階の、あさひ銀行梅田北口支店キャッシュコーナーは、地下鉄御堂筋線の入口と直結している。ここから地下鉄に乗ってしまえば、京阪には始発駅の淀屋橋で乗り換えられる。その方がJRから乗り継ぐより効率が良さそうである。昼も近くなり、眠気が多少襲うようになってきていた。地下鉄代は少々高くつくが、高い交通費をかけて大阪まで来ているのだから、制覇を完遂させることの方が重要である。それにしても、肉体的に無理がきかなくなっているのがショックである。まあこれは半分自業自得であって、小さい頃から運動が大嫌いで、従って「体を鍛える」などということとは無縁であったから、体力が衰えるのも早いのだろう。
 梅田から御堂筋線で1駅、淀屋橋に到着。大阪の地下鉄第1号となった御堂筋線は、1934(昭和9)年に開通したが、その時点で既に8両編成の電車が発着できるような設備を整えていたという。梅田駅は改良工事でだいぶ面影を失ってしまったが、淀屋橋駅は開業当時の姿を曲がりなりにもそのまま残していて、優雅なアーチ型の断面をした天井を持つ駅施設がそのまま現役で使用されている。昭和初期の最先端の土木技術の一端に触れつつ、改札を出て京阪に乗り換えである。
 前年(2002年)9月に廃止になった店舗外ATM[守口市駅前]の取材を兼ねて、支店の最寄り駅・土居の1つ先である守口市まで行ってしまうことにした。地下ホームに降りて出町柳行きの急行に乗る。守口市は、急行だとJR大阪環状線との接続駅・京橋の次である。
 守口市駅に到着して「西出口」を出ると、そこはだいぶ土居に寄ったところであった。守口土居支店に直行するなら良いが、旧[守口市駅前]の取材をするには西に行き過ぎている。東方に100mほど歩き、駅前の守口プリンスホテルが「ロイヤルパインズホテル」に変わっていたのと、駅前にそびえるようにして建つ「テルプラザビル」の1階にあったあさひのキャッシュコーナー跡が内装を剥がされた状態で空き室になっていたのとを確認した。
 こんどは西に向かう。京阪の線路に沿って1駅丸ごと歩くことになるが、土居駅までは1kmもないので十分歩いていける。京阪の高架の下は、駅近くでは商業スペースになっているが、住宅街にさしかかるあたりで途切れて駐車場になったりしている。右側の頭上を走る京阪の高架は、守口市−土居のちょうど中間付近にある大阪厚生信金(守口支店)が建つあたりから、少しだけ土居方向に下り坂になっている。このあたりまで来ると、もう前方にあさひの支店が見えるのだが、そこまでは思いのほか遠く感じられる。疲れが出てきているのか、歩いても歩いてもなかなか近づいてこない。
 ようやく、守口支店改め守口土居支店に到着した。守口市の中心を1駅はずした地場の商店街の首根っこを押さえるという、旧協和の得意とする出店スタイルである。
 支店ビルは4階建てで、旧協和お得意の立地条件にある支店としては建物(ハコ)が大きい。旧協和の支店は、正面から見て不自然に建物が大きいときは、横から見るとL字型になっていて正面だけ立派に見せているとか、あるいは最上階が駐車場になっているとか、どちらかであることが多い。しかし、ここ守口土居支店は本当に建物として規模が大きいようである。支店に入ると、建物が大きい理由を無言で語っているかのように、「ナショナル」とロゴが大書された台の上に、大きなカラーテレビが置かれていた。守口市と門真市の界隈は松下電器グループのお膝元であり、旧協和にとって同社系は大取引先である。もっとも、ここ数年の大不況の波は、天下の松下電器グループにも容赦なく襲いかかったようだが。
 木曜日のせいなのか、今日はどの支店に行っても客の姿を見かけることがほとんどない。12時台、昼休みの時間だというのに、支店の中はガラガラである。窓口ロビーを横切ってキャッシュコーナーへ。そこで数人の客にようやく出くわしたが、待つこともなく空いたATMに歩み寄る。12時33分、守口土居支店を制覇。予定より3分遅れているが、制覇箇所数は予定より1か所多い。順調である。
 なお、守口土居支店は、りそな銀行発足後の2004年3月に守口支店(地下鉄谷町線太子橋今市駅前)内に移転し、2006年8月守口支店に統合されて消滅した。

2006年08月16日

2003.01.09(木)(10)京橋は、エエとこだっせ

 次は、13時30分頃、小阪支店改め河内小阪支店(東大阪市)の制覇を行う予定である。河内小阪へ行く路線は近鉄奈良線で、守口からだと京阪で京橋へ戻り、JR大阪環状線で鶴橋まで移動して乗り換えとなる。
 京阪土居駅前の交差点は、京阪の線路を南北軸とすると、北東角があさひ、南西角が駅舎になっている。改札機に「スルッとKANSAI」の共通カードを通し、改札を入って左へ。階段を上ってホームに出ると、片面だけの対向ホームに出た。下り線のホームがはるか彼方(と言うとオーバーだが)に見える。この付近の京阪線は複々線区間になっていて、上りと下りのホーム1本ずつが4本の線路(上り線・下り線各2列)をサンドイッチにしているからだ。
 ホームの一番東寄りに立つと、すぐそこに隣りの守口市駅が見えた。駅間距離は地図で見ると600mほどだから、やはり非常に近いわけである。その、すぐ近いと見える駅を、グリーン濃淡に塗り分けられた各駅停車が発車したのが見えた。ほどなくやって来た電車に乗り込む。6駅で、京橋に到着。
 せっかく京橋で降りるので、昨年9月に廃止となった店舗外ATM[大阪京橋](玉造支店)の取材に行く。京阪の線路の北側、京街道沿いのテナントビルの1階に、内装を剥がした跡も生々しく空きスペースが残っていたのを確認した。
 2002年はあさひ銀行の店舗外ATMにとっては受難の年で、特に関西エリアにあった旧協和銀の設置によるATMはほぼ総まくりにされてしまった、単に経費削減という観点での廃止だけでなく、大阪を基盤とする大和銀行との合併が決まったことにより、大和の拠点に近接する店舗外ATMは軒並み撤去に追い込まれた。加えて、5月に起きた[御堂筋](大阪営業部=当時)の爆破事件や、関西エリアではないが11月の[いなげや町田相原駅前店](橋本支店)のパワーショベル使用による破壊を伴う窃盗事件など、犯罪がらみでの休・廃止も目立つ。
 [大阪京橋]については、もともと平日のみ稼働で機械1台という不採算拠点であったことに加え、京橋駅ビル内に大和が京阪京橋支店を持つことで廃止に追い込まれたのだろう。ちなみにここは協和時代に「大阪京橋支店」だったところで、1986年に大阪ビジネスパーク内に移転して「大阪ビジネスパーク支店」に改称している(現在は廃止)。

2006年08月17日

2003.01.09(木)(11)13:24、河内小阪支店を制覇

 京橋駅に戻ってJRで南へ4つ目の駅が、近鉄との接続駅になっている鶴橋駅である。ここは有名なコリアンタウンで、駅の周辺にはうまい焼肉屋がごろごろあるそうだが、今日のところは素通りしてしまう。
 連絡改札横の精算兼券売機で近鉄の切符を買おうとする。同様の機械は関東地方でいうと新宿駅の京王線連絡口などにもあって、こちらではJR側から来た場合はJRの切符を機械に入れると、カードでの精算はもちろん「乗り継ぎ」のボタン一つで京王線の切符も(JRのオレンジカードで)買えるようになっている。ところが鶴橋では、同じことをしようとすると、まずJRの精算機でオレンジカードでの精算をしてから近鉄の券売機で「スルッとKANSAI」のカードを使って乗車券を買うという二度手間を強いられる。要するに、JRのカードと近鉄のカードが別々の機械でないと使えないようになっていて、不便きわまりない。JR西日本と近鉄は、JR西のプリペイドカード「Jスルーカード」を共通使用できるように協定していて、縁の浅い会社同士でもないのだから、1台の機械ですべてが片付くようにして欲しいものである。券を処理するスピードも、機械が古いせいか随分遅いと感じられた。しっかりせい大阪!!
 やっとの思いで近鉄のコンコースに入り、階段を右に降りていく。奈良線のホームである進行左側の1番線から、東生駒行きの各駅停車に乗り込んだ。鶴橋から布施までは複々線区間で、高架上には線路が4列並んでいる。大阪市を出て最初の駅・布施を出てすぐ、大阪線の線路が右(南側)に分かれていくのが車窓から見える。大阪市東部から東大阪市にかけての家屋の密集した町並みを高架上の車窓から見つつ、私を乗せた電車は進んでいく。
 電車が河内小阪に着く直前、左の車窓に大和銀の白い看板が見えた。あさひ・大和の合併後に「小阪支店」となる、大和銀行の小阪支店に違いない。大和の小阪は近鉄の線路をはさんであさひとは反対側にあるということだ。
 河内小阪駅に到着した。高架下の改札を抜けて南口に出る。ここには昨年(2002年)夏に再訪しているため、久しぶりという感じはしない。右手には三井住友の小阪支店。正面には、司馬遼太郎記念館への近道であると書かれた「小坂本通商店街」のアーチとアーケード。関西では「××本通り」というのが商店街の名前として多い。左に目をやると、駅前のエーエムピーエムの隣りに、屋上に縦看板をつけたあさひ銀行の店舗があった。駅側の自動ドアを入ると、キャッシュコーナーには富士通のATMが3台並んでいる。河内小阪支店を制覇した。13時24分。予定より6分早い。

2006年08月18日

2003.01.09(木)(12)梁瀬行雄氏の腕まくり

 河内小阪支店のカウンターには、透明な半球レンズをつけた直径30〜50cmの赤いカウンター表示がついていた。「ご預金」「お振込」などという表示である。透明半球つきの赤い表示は旧協和店舗に独特で、首都圏ではずいぶん前に豪徳寺支店で見た記憶があるが、最近では見た覚えがない。残っているところには残っているものだと感心したが、裏を返せば店舗がリニューアルされていないのはそれだけ沈滞しているということかもしれない。そんなカウンター表示を見ながら東側にある正面入口を出る。
 この出入口の前には、さっき箕面駅前支店で行員紹介が貼ってあったのと同様の、風除けの壁がある。この壁に、面白いポスターが貼ってあった【写真】。あさひ最後の頭取となった梁瀬行雄氏【注】がYシャツ姿で腕まくりをしている写真で、こんなコピーが明朝体で印刷してあった。「あさひの明日のため、先頭に立ってがんばります。『変革の180日』を合言葉に、一丸となって進んでいこう!」。
 ポスターの色遣いは、梁瀬氏が2001年10月に頭取に就任したときに各店に貼ってあったものと一緒だから、最初は単に剥がし忘れているだけなのだと思った。しかし、よくよく考えてみると、このポスターははなはだ不適切と言わざるを得ない。スーツ着用時に上着を脱ぐということは、原則ありえないからである。2000年6月、東京三菱銀行で三木繁光氏が頭取に就任したときはノーネクタイ姿の写真に驚いたが、これはそうしたカジュアル路線とは明らかに異なる。第一、銀行が内部的にやっている「変革の180日」なる経営スローガンに対して、客が行員と「一丸となって」取り組まなければならないものか?
 色々ゴタゴタと考えてきたが、これは内部用のポスターを間違って外に貼ってしまったのであろう。それだけでなく、間違って貼ったポスターを「変革の180日」が終わって半年経ったこの時点に至るまで剥がし忘れているのである。二重の意味で、気付く人が誰かいなかったのだろうか。こういう頼りなさが、色々のことの遠因になっている気がする。
 なお、りそな銀行発足後の2004年3月、河内小阪支店内に小阪支店が移転。2006年7月には河内小阪支店が小阪支店に統合された。河内小阪支店は、旧協和銀行の前身9行のうちの一つである摂津貯蓄銀行が開設した店で、摂津貯蓄の店舗としてはりそな銀行に現存する唯一のものだった。

【注】梁瀬行雄(やなせ・ゆきお)氏:旧あさひ銀行最後の頭取。1944年6月15日生、埼玉県出身。1968年3月早稲田大学第一法学部卒、埼玉銀行入行。ロスアンゼルス支店長、検査部副部長、浅草支店長、蛇の目ミシン工業出向、あさひ銀行人事企画部長を経て、1996年6月あさひ銀行取締役、1998年6月常務取締役、2000年6月専務取締役兼執行役員、2001年10月頭取、2002年3月大和銀ホールディングス副社長兼務、2003年3月合併により頭取退任、同年5月りそなホールディングス副社長退任。同年11月オリックス鰹任顧問、2004年2月専務執行役、2005年2月執行役副社長(現職)。りそなホールディングス社長に2003年6月就任予定だったが、公的資金注入申請の責任を取って前月にりそなを去った。

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2006年08月19日

2003.01.09(木)(13)14:11、難波駅前支店を制覇

 次は、泉大津支店改め泉大津西支店(泉大津市)に向かうが、その途中で難波駅前支店(旧難波支店)を制覇してしまうことにする。だが、その前に腹が減ってどうしようもなくなった。私は空腹時にはそのことばかり気になって何も手につかなくなるタイプである。以前追突事故を起こしたことがあるが、その原因は、空腹で気もそぞろになっていてブレーキがお留守になり、オートマチック車特有のクリープ現象で前の車に突っ込んだことだった。後部バンパーにコツンと当てた程度ではあったが。
 というわけで、次の目的地に向かう前に、駅前の吉野家に入る。店内には、小・中学生3〜4人の一団と、女子高生2人組がいた。食べ方は行儀がよいとは決して言えない。女子高生は卓に肘をついて割り箸で飯をちびちび掬って食べているし、小6か中1らしい少年たちは、店員からスプーンを借りて思い切り犬食いしている。箸の使い方を教えてやる人もいなかったのだろうか。
 さて、腹も膨れ、次の目的地である泉大津に向かうことにする。泉大津市へは南海電鉄南海本線を使う。小阪から近鉄で難波に入り、難波で乗り換えである。13時47分発の各駅停車難波行きに乗車。ホームに上がったらさっきの女子高生2人組がいて、私と同じ方向に行くらしい。電車が来て乗り込んだ後はどこへ行ったか分からなくなってしまった。
 先ほど来た鉄路を戻り、15分ほどの乗車で終点の近鉄難波に到着。地下鉄御堂筋線・千日前線のコンコースへ向かい、そこから地上に出た。あさひの支店は、南海難波駅と近鉄難波駅との間にあって、梅田のときもそうだったが、極めて効率よく寄り道をすることができる。御堂筋を南に下っていくと、すぐ右側に新歌舞伎座が見えた。あさひはそのすぐ南側。さすが大阪・ミナミの中心地にある支店だけに、支店に入るとATMに並ぶ客は結構な数がいた。ようやく自分の番になり、難波駅前支店を制覇。14時11分のことであった。
 なお、難波駅前支店は、りそな銀行発足後の2003年6月に難波支店(新歌舞伎座はす向かい)内に移転し、2006年4月難波支店に統合されて消滅した。

2006年08月20日

2003.01.09(木)(14)古きを大切に用いている南海電鉄

 あさひの難波駅前支店から駅前ロータリーを挟んで南側に、古めかしい巨大な8階建てのビルが建っている。これが南海難波駅であり、高島屋大阪店でもある。コリント式の華麗な外観を誇るこのビルは、1933(昭和8)年に竣工し、現在も現役で使用されている。名門百貨店である高島屋はもとは京都烏丸の古着・木綿商で、屋号の由来は創始者の養父が近江国高島郡の出身であったことによるそうだ。
 アンティークな外観のビルに入ると、中はかなり近代的な整備がなされていて、大エスカレーターが完備されている。エスカレーターを上がったところが南海の駅で、阪急梅田と同じように櫛の歯のような形状をした行き止まりのホームが並んでいた。
 櫛の背中の部分にある自動改札を入り、向かって右側へ。目指す電車は14時24分発の和歌山市行き急行である。停まっているのは「7000系」という片開きドアの古い車両で、室内端の銘板を見ると「昭和43年」製とある。私と同い年というわけだが、34年も前に製造されたこんな古い車両が急行にもバリバリ使われているのは少し嬉しい思いがした。私がよく利用する京王線では、1972(昭和47)年にデビューした「6000系」と呼ばれる車両でもこの当時既に廃車が始まっている。
 乗り込んで席を確保すると、窓の外のうららかな陽気とも相まって、私は軽い眠りに落ちていった。疲れがかなり溜まってきたらしい。次に目を覚ました時、電車は泉大津駅にすべり込もうとしているところだった。難波から20分。心地よいシエスタから一変して、降り支度に追われる。私の持っているソフトアタッシュケースのようなカバンは、周囲のファスナーをちゃんと閉じてから持ち上げないと、中身を全部床にぶちまけてしまうことになる。寝ぼけている今のようなタイミングは要注意だ。幸い、何事もなく泉大津駅で電車を降りることができた。
 いよいよ、泉大津支店、改め泉大津西支店の制覇である。

2006年08月21日

2003.01.09(木)(15)14:47、嗚呼、泉大津西支店

 泉大津支店は1998年1月の制覇の際に訪れたことがあるだけで、その時も車を使って駆け抜けただけであり、再訪するのを楽しみにしていた。銀行発行の店舗一覧によると、あさひの泉大津支店は「南海本線泉大津駅(西口)駅前」とあるが、制覇の際に「駅」を見た記憶がなかったので、真相がどうであったか確かめたかったのである。
 泉大津駅は駅ビル併設の橋上駅舎になっている【注1】。このあたり、埼玉の東武沿線などでもよく見るスタイルで、なんとなく東上線のみずほ台駅に少し似ている気がした。
 西口の階段を下りきって駅前のロータリーに足を踏み入れたとき、私は驚きの声を上げた。本当に声に出してもいないのに「声を上げた」等と書くのは紋切り型の表現として嫌われるが、この時私は本当に「凄え」とつぶやいている。何が凄いのか。それは、直接には、駅前ロータリーの前に屹立する古めかしい外観の銀行建築を見たからである。もちろんそれは、あさひ銀行泉大津西支店であったのだが。
 美しい。昭和30年代の古き良き時代を体現した銀行建築の中で、これほどスタイル的に美しいと感じられるものを、これまで見たことがなかった。
 建物のデザイン自体は、1階天井を高くとって大きな明かり取り窓をつけた、前面柱の太い昭和30年代の銀行建築の標準的なスタイルである。社史『協和銀行通史』によると、泉大津支店の建物は1959年3月竣工とあって、この型の建築は豪徳寺・荻窪・弘明寺など旧協和の古い支店で現在も使われている。しかし、泉大津の建物は、駅前の敷地の形に合わせて建物の輪郭が湾曲していて、そこの部分は中心角が60度になるように切ったバウムクーヘンのような形をしているのだ。人の気配の少ない田舎の駅前にある銀行。行名のロゴが取り付けられただけのシンプルな外装。それが、だいぶ傾斜のきつくなった冬の日差しに照らされている。絵になる風景だと思った。
 キャッシュコーナーの入口は、建物の西側であった。南海の線路に沿って南北(正確には南西から北東)に走る府道堺阪南線(旧国道26号)に面したところである。建物の輪郭に沿って府道側まで回ってみると、あさひの支店から50mほど北に、見覚えのある泉州銀行の支店(泉大津支店)を見つけた。1998年1月5日、あさひ泉大津支店制覇の際、この府道を南から北に向かって車を走らせてきた。進行右側にあさひを見つけたものの、すぐには折り返せなかったため、泉州銀の支店の前に車を停めて大急ぎであさひの制覇に向かったのだった。これで「駅」の謎は解けた。駅とは違う方向からのアプローチで、しかも急いでいたのである。駅の存在に気付かなくても当たり前だ。
 支店の正面入口に戻り、そこから中に入る。2階分の高さの天井を持つ窓口室は広々としていて、曲面に並ぶ明かり取り窓からカーテンを通して日光が入り、優雅な雰囲気を醸し出している。明かり取り窓の下に、カーテンを開閉するための細い通路が見えた【注2】。窓口カウンターの「預金」などの表示は、さっき河内小阪支店でも見た透明レンズをつけた赤いものである。ATMもない昔、すべての銀行取引を行員のいる窓口で行っていた時代。銀行と接するようになったのがつい最近である私には、初老以上の年代の人から伝聞するしかない時代。そんなノスタルジックな風景が、ここにはあった。
 ATMコーナーに入り、制覇作業を行った。あさめぐの制覇はATM取引をしないと片付かないからノスタルジーどころではないが、14時47分、泉大津西支店を制覇。予定より13分早かった。
 制覇を終えて泉大津駅の反対側(東口)に行ってみると、大規模なバスロータリーとペデストリアンデッキがあって、いかにも衛星都市といった趣である。東口のショッピングセンター「アルザ」(ダイエー泉大津店)の2階が大和銀行の泉大津支店になっていて、駅から同一面で店に入れるようになっていた。同じビルの1階には三井住友銀行の泉大津支店もある(旧住友)。いかにあさひの支店が駅前にあろうとも、合併相手である大和銀行は大阪府が地盤で、泉大津市指定金融機関にもなっている【注3・4】。そういう土地では、東京本店のあさひは相対的に不利だったのだ。だから支店の名前が変更されたのである。
 なお、泉大津西支店は、りそな銀行発足後の2003年9月に泉大津支店内に移転し、2006年6月泉大津支店に統合されて消滅した。美しいデザインの銀行建築は空き家となっていたが、2005年春に取り壊された。

【注1】南海泉大津駅付近:1999年から高架化の工事が進行中で、2007〜08年完成の予定。
【注2】細い通路:同様の通路を持つ三井住友銀行名古屋支店(旧三井銀行名古屋支店)でロビー係の男性から聞いた話では、この通路は、ギャング全盛時代のアメリカで警官が銀行強盗を狙撃するため設置していた名残だということである。
【注3】大和銀行泉大津支店:1994年9月現在地に移転するまで、あさひと同じ西口側(泉大津市田中町5-21)にあった。
【注4】泉大津市指定金融機関:大和銀行・泉州銀行・南大阪信用金庫・三井住友銀行の交代制(2002.04現在)。


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2006年08月22日

2003.01.09(木)(16)15:37、堺宿院支店を制覇

 1月6日から支店名が変更された関西エリアの支店14か所のうち、9か所の制覇を完了した。10か所目の目標は、泉大津市から高石市を挟んで北に隣接する堺市にある。堺支店改め、堺宿院支店。
 南海の急行で2駅戻ると、堺宿院支店の南海本線での最寄り駅となる堺駅である。堺宿院支店は、南海本線の東側600mほどを並行して走っている路面電車、阪堺電軌の宿院電停前にあって、堺駅からの徒歩での所要時間は10分程度と読んでいた。ここも、前回の制覇の際には車で回ってしまった拠点で、これまでに公共交通機関で行ったことはない。泉大津から急行に乗らずに各駅停車で浜寺公園に行き、そこで阪堺電車に乗り換えれば、徒歩10分の時間が節約できた上に、国の登録文化財となっている浜寺公園駅舎の見物をすることもできたのだが、それを知ったのは東京に帰って草稿をまとめ始めてからであった。
 堺駅の改札を出る。堺駅は、ここ数年の間に完成したとおぼしき【注1】7階建てぐらいのガラス張りのビルである。1階には東京三菱銀行が堺支店を構えていた【注2】。遠くの方に、関西圏には珍しくイトーヨーカドーの屋上塔屋が見える。この当時、塔屋には赤と青で鳩のマークが描かれていた。駅前のロータリーから東に延びる、少し上り坂になった駅前通りの「大小路筋」を歩いていくと、道幅の広い新しい町並みからは生活のにおいがあまり感じられない。以上のようなわけで、大阪府下というよりむしろ東京のベッドタウンでも歩いているような印象であった。
 堺北警察署のある交差点が、阪堺電軌の電車道である「大道筋」との交差点で、あさひの支店はこの大道筋に面している。幅の広い片側3車線道の間に複線の軌道が敷かれており、道幅は相当に広いと感じる。いや、物理的にも広いのである。
 この交差点の大小路電停付近から、あさひの支店のある宿院のあたりまでが、堺市の銀行街になっている。堺北署の向かいが、旧三井住友銀行堺北支店(旧さくら銀)跡。現在は空き店舗だが、子会社の関西銀行(現関西アーバン銀行)が4月に「堺支店」を出店するらしい。大道筋の向こう側に見えるガラス張りでコンクリ打ちっぱなしの巨大な建物は、壁面の顔のマークでも明らかなとおり紀陽銀行(堺支店)である。
 こうしたものを横目で見ながら大道筋の西側を宿院に向かって南(正確には南西)の方向に歩いていく。道の向こう側にはUFJ銀の堺支店【注3】があり、屋上に縦看板をつけたあさひの支店も見えた。あれが堺宿院支店である。あさひの北隣は空き店舗のまま放置されている旧なみはや銀行堺支店跡【注4】、南隣にある真新しいレンガ色の6階建ては、南大阪信用金庫の本店である【注5】。小学館のコミック雑誌で、南大阪信用金庫、通称ナンシンを舞台にした漫画が連載されているのを最近知ったが、まさか同名の信金が実在するとは。以上のように、堺宿院支店の付近には金融機関が数多く軒を連ねていて、かなりの金融激戦区であるようだ。
 この付近の町並みは古びた建物もほとんどなく、再開発年代が新しいことをうかがわせる。町の成立そのものが非常に古いことは、堺宿院支店から大道筋をはさんだはす向かいに、堺市教育委員会が建てた「与謝野晶子生家の跡」の石碑があることでもわかる。与謝野晶子(1878〜1942)は堺の老舗羊羹屋の娘だから、晶子の生まれた1878(明治11)年にはこの界隈は既に市街地だったのである。というか、堺の町は戦国時代には貿易港として黄金時代を迎えていたのだ。
 宿院電停前で大道筋を横切ってあさひの支店へ。15時37分、堺宿院支店を制覇した。泉大津西支店が予定より13分も早かったのに、こちらは7分遅くなってしまった。泉大津から堺の間を30分しか取らなかったところに若干の無理があったようである。
 なお、堺宿院支店は、りそな銀行発足後の2003年11月に堺東支店内に移転し、2006年5月堺東支店に統合されて消滅した。前述のとおり宿院は堺市の旧市街で、同市の現在の中心地は市役所もある南海高野線の堺東駅周辺である。

【注1】堺駅ビル:竣工は1998年4月。
【注2】東京三菱銀行堺支店:現・三菱東京UFJ銀行堺駅前支店
【注3】UFJ銀行堺支店:現・三菱東京UFJ銀行堺支店
【注4】なみはや銀行堺支店:なみはや銀行が1999年8月に経営破綻の後、2001年2月に近畿大阪銀行堺支店に営業譲渡して閉鎖。
【注5】南大阪信用金庫本店:2001年11月に泉陽信金(堺市)と泉州信金(岸和田市)が合併して南大阪信金が誕生。本店は旧泉陽信金の本店を使用していた。南大阪信金は2004年10月大阪信用金庫に合併され、本店は大阪信金の宿院支店となった。


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2006年08月23日

2003.01.09(木)(17)大阪の下町情緒満点の阪堺電軌

 大阪市内3か所と京都中央支店の計4か所を回れば、関西エリアは完全制覇。もう一息である。
 次なる目標は大阪市内の3店だが、さてどの順番で取ろうか。一応大まかなプランを立ててはいるものの、この辺の選択は基本的にはすべて「出たとこ勝負」である。
 南海本線の堺駅まで歩いて戻る気力は既に失せている。だが、大阪市内へは目の前から素敵な乗り物が出ている。阪堺電気軌道。大阪市内周遊の一部のパック旅行に「阪堺電車に乗る」というのが組み込まれているほどの、古き良き時代を体現している路面電車である。
 これから行く大阪市内3か所のうち2か所は地下鉄堺筋線の駅が最寄りで、阪堺電軌はまさにその堺筋を走っている電車である。阪堺電軌を「北天下茶屋」で降り、地下鉄堺筋線の起点・天下茶屋まで歩くことにすれば、あさひ銀行天下茶屋支店の取材もできる。蛇足ながら、1997年の大晦日に天下茶屋支店を制覇したときにも、阪堺線からアプローチした。
 宿院の電停で上り電車を待つ。この付近には前述の与謝野晶子生家跡のほか、千利休の屋敷跡もあるというから、町並みこそ相当に改変されているものの、観光資源は豊富なようである。そのため、宿院電停には市の観光パンフが常備されているのだが、それにしては電車の本数が少ない。私は気楽な気持ちで1本やり過ごしてしまったのだが、次の電車は15時55分ということで、15分近く待たされる羽目になった。都市生活者は電車に乗るのに時刻表を見るという習慣がないから、10分を超える待ち時間は普通は持て余してしまう。後で聞いた話では、阪堺線は乗客数が特に堺市内の区間で落ち込んでいて、阪堺電軌は既に堺市などに廃線を申し入れているのだという。乗客数はピーク時の6分の1以下だと聞き、電車の本数が少ないのも道理だと感じた。
 観光パンフを読みながら時間をつぶしていると、えびす町行きの電車がやってきた。車体全体が緑色に塗られた「167」という車両で、運転席上の銘板には「神戸川崎車輌会社、昭和3年」とあった。車内の手すりは金色に光る真鍮製。川崎車輌会社は今の川崎重工業である。路面電車はこういう骨とう品のような車両を現役で使っているところが味わいであって、最近流行りのライトレールトランジット(LRT)などはバリアフリーなどの観点からは良いかもしれないが面白みを感じられない。阪堺電軌は単に車両が古いだけでなく、沿線の風景も下町の古き良き時代を今に残していて、乗っていて飽きないのである。
 大阪市との境界になっている大和川の鉄橋の手前では、左(西)側の土手の下は、渋い茶色が染みついたセメント瓦を載せた木造平屋建て住宅が密集していた。雨漏り防止のためか、ビニールシートをかぶせて石でおもしをしている屋根さえ見え、昭和20年代後半にでもタイムスリップしたかのようである。ああいう家屋に住んでいる人は、貧困にあえいでいたり等、社会的には色々と恵まれなかったりするのかもしれないが、ここでは敢えて「車窓の風景の味わい」と肯定的に捉えておきたい。とにかく阪堺電軌の沿線は、全体として「大阪の下町情緒」満点である。ただ、この電車は堺市と大阪市とにまたがって乗車すると1乗車290円にもなり、少々高価なのが玉にキズである。「一見さん」の私などはともかく、沿線住民にとっては結構負担が大きいのではないか。
 あさひの住吉支店が住吉大社前に以前と変わらぬ姿で営業しているのを車窓から確認しつつ、電車は北天下茶屋の電停に到着した。運賃を払って、歩行者同士がすれ違うのもやっとぐらいの細い道へ出る。商店街の途中にある天下茶屋支店に少し寄り道。天下茶屋支店は、りそな銀行発足後の2004年2月に萩ノ茶屋支店内に移転し、2006年7月萩ノ茶屋支店に統合されて消滅した。
 さらにアーケード街をすり抜けた先に、ようやく近代都市的景観が広がっていた。高架の線路と、その駅前に作られたロータリーという光景である。ラビリンスのような下町の商店街は好きなのだが、そういう場所にあまり慣れていないせいか、私はむしろ超人工的な現代の味気ない駅に(安らぎは感じないものの)落ち着きを感じるようだ。妙なものである。天下茶屋駅に到着した。

2006年08月24日

2003.01.09(木)(18)発見に難渋した堺筋本町支店

 色々考えたものの、結局、南から北へと向かって自然な順番で攻めていくことにした。ということは、この後の第一目標は堺筋本町駅前にある(はずの)船場支店改め堺筋本町支店となる。なぜ「はず」かというと、記憶がだいぶ飛んでしまっているからである。旧船場支店は1998年1月に制覇して以来足を運び入れていない。長く訪れていない店でも印象が鮮烈なことはもちろんあるのだが、堺筋本町はそうではなかったのである。
 切符を買って地下鉄のホームに向かう。堺筋線は南海のホームの真下にホームがある。北側で相互乗り入れしている阪急の規格に合わせて建設されたため、レールの幅(ゲージ)が異なることなどにより南海線との直通運転は行われていない。16時31分発の北千里行きに乗車。乗り入れ先の阪急電鉄の車両であった。10分ほどの乗車で、天下茶屋から6駅目の堺筋本町に到着する。
 何で見たかは忘れたが、堺筋本町支店の入っているビルが「**センタービル」であることだけははっきり覚えていた。船場の界隈では、高速道路の高架下にテナントビルをしつらえてアパレル関連の卸業者が多数入居した「船場センタービル」が有名である。たまたま出た出口の通りの向かい側が、まさにその船場センタービルの入口であった。
 すぐ近くには「りそなクイックロビー」の緑色の表示をつけた行灯看板があった。大和銀の大阪営業部を母店とする店舗外ATM[イケマン堺筋ビル]。りそなグループの統一ロゴの看板を見たのは、このときが初めてだった。そうか、キャッシュコーナーの名称は大和のものを引き継ぐのか。数日前に「2ちゃんねる」のりそな関連スレッドを見ていたので知っていたが。
 支店を探し、建物に沿って(というか高速道路に沿って)周辺を歩き回る。前方に幅の広い通りが見えた。幅が広いと言っても尋常な広さではない。中央を走る交通量の多い4車線の一方通行道路に並行して、分離帯で仕切られた一方通行路がついた道。大阪市のメインストリート・御堂筋にほかならない。あそこまで行ってしまうと、地下鉄でいうと堺筋線の1本西を走る御堂筋線の沿線である。絶対にありえない。あわてて逆戻りするものの、さっきの地下鉄入口まで戻ってしまった。うろ覚えではやはりどうにもならないらしい。
 ここで初めて店舗一覧をひもといてみる。旧船場支店はP出口が最寄りであると判明した。いったん地下に降りてみると、今いるところは堺筋本町駅の南端なのだが、目的地は北端である。だいぶヤキが回ってきたらしく、判断能力が鈍っている。遅ればせながら地下の通路の表示に従うことにしたが、ここで10分以上ロスしてしまった。
 P出口にたどり着いた。割合最近になって整備されたらしい、ガラス張りの半円形ドームを屋根に用いた小ぎれいな入口である。階段を上っていくと、目の前には黒一色という印象の高層ビルが建っていた。階数を数えてみると17階建てのようである。そのビルの1階に、あさひの支店が入居していた。角地にあることといい、黒で統一された新築ビルであることといい、東京の新宿支店とよく似ている。角についている看板が短冊状のパーツを組み合わせた回転式で、銀行のロゴほかが3交代制でローテーションするようになっているのも、新宿支店と同様である。ビルの名前は「堺筋本町センタービル」。「センタービル」という記憶は合っていたが、場所としては全然違っていた。
 支店に入ってみると、ATMまわりは縦型の円柱を組み合わせた旧協和標準スタイルだが、内装はブラウン系に塗られ、間接照明を多用したリッチな雰囲気で、床には大理石が敷かれていた。同様の内装はたしか首都圏の成瀬支店と新百合ヶ丘支店でも見た気がする。協和銀の最末期に作られた支店は、大体こんな感じでホテルのロビーのようなリッチな雰囲気になっている。同じビルの最上階には、バブル期にあさひが「大阪で一番豪華な行員食堂」とまで言われた行員ラウンジを設置していた。今はさすがに営業していないのだろう。
 16時53分、堺筋本町支店を制覇。堺→大阪市内は1時間程度で移動できる予定だったから、15分ほどオーバーしている。しかし、現時点で当初予定より2か所余計に制覇しているから、まだまだ誤差の範囲内と言えなくもない。
 堺筋本町センタービルは、1988年12月に本店を新築移転した近畿相互銀行(現近畿大阪銀行)の旧本店跡地である。旧本店には協和銀行の船場支店が隣接していたが、近畿相互旧本店とあわせて取り壊され、住友生命を加えた3者による等価交換により17階建てのビルに生まれ変わった。こうした経緯から、同ビルのあさひの隣りには、近畿大阪銀行の船場支店が入居している。
 堺筋本町支店は、りそな銀行発足後の2004年4月、大阪中央営業部(旧あさひ大阪営業部、2003.05旧大和銀行本店内に移転)に統合されて消滅した。

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2006年08月25日

2003.01.09(木)(19)白亜の殿堂、大和銀行の本店

 次の目的地となる大阪中央営業部(旧大阪営業部)は、所在地が「中央区伏見町3-1-6」とあって、堺筋本町からは実歩行距離にして1kmない場所である。今いる場所は堺筋に面したところだが、南北に走るこの筋を500m余り北進し、高麗橋(地名)で左折すると目的地に達する。当初からここは歩いて制覇することになっていた。
 堺筋本町から堺筋を北へ直進する。1分歩くか歩かないかぐらいのところで、道の左側に、りそなグループの「R」のマークのついた茶色のプレートが見えた。「りそなホールディングス」と書いてある。ハッと思って見上げると、白い外壁の高層ビルがそびえ立っていた。
 このビルの写真は、別のところで何度も見たことがある。ここは、あさひ銀行の親会社「りそなホールディングス」の本社が入っているビル、すなわち大和銀行の本店であった。合併後の「りそな銀行」の本店となるこのビルは1991年7月の竣工で、地上24階建ての威容を誇る。
 私は知っている。バブルに踊ったあげくに経営破綻した金融機関のいくつかは、立派な本店ビルを建てた後に力尽きていることを。本店に限らず、建物(ハコ)が異様に立派であった破綻金融機関には、強い印象が残っている。下層階が細く上層階が太い不安定な姿を日比谷の都立図書館前にさらしている旧日本長期信用銀行本店や、三洋証券の東洋一といわれた巨大なディーリングルーム(後に本社)は有名だ。他にも、一つ一つの支店の建物が新しいものばかりだった埼玉県の小川信用金庫や、1997年12月にあさひ田辺支店(大阪市東住吉区)を制覇したときに東住吉区役所前で見つけた、破綻して閉店済みの信用組合【注】の本店などなど。
 印象だけでを物を書くのは禁物なのはよくわかっているのだが、りそなグループが発足してからの経緯を、大和銀のこの本店ビルプラス東京本部ビル(大手町野村ビル)の威容と重ね合わせて考えると、あさひが大和に頭を下げる形で経営統合することになったのは、どこで間違ったのだろうと思わずにいられないのである。もちろんこれは、私がもともとあさひのウオッチャーであったことから来ているのだろうけれど。

【注】田辺信用組合。本店大阪市東住吉区南田辺1丁目。1997年5月経営破綻。

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2006年08月26日

2003.01.09(木)(20)17:18、大阪中央営業部を制覇

 色々なことを考えつつ、大和銀本店を後にして北に向かう。薬の町として有名な難読地名の道修町(どしょうまち)を抜けると、右手に三井住友銀行大阪中央支店(旧三井銀大阪支店)のアンティークな建物が見えてくる。この交差点が、大阪中央営業部に向かう高麗橋の交差点である。左に曲がる。
 既に辺りはだいぶ暗くなり、疲労もたまって足取りはいよいよ重くなってくる。たかだか1km未満の歩行だというのに、遅々として進んでいかない。面倒くさいからやめちゃおうか。そんな考えすら頭をよぎり始めた。負の思考回路を断ち切るべく周囲に目を転ずると、進行左側には古めかしいレンガ造りのビル。現在レストランとして使われているこの建物は、旧銀行建築のようだ。その隣りは「昭和5年」の文字の見える教会がある。
 ようやく、大阪営業部改め大阪中央営業部にたどり着いた。ここは、協和銀行の前身9行のうちの一つ・大阪貯蓄銀行が、1890(明治23)年12月に創業して以来ずっと本店を置いてきた場所である。合併で日本貯蓄銀行大阪支店となり、その後も協和〜あさひの時代を経てずっと大阪地区の中枢であった。もっとも、建物そのものは1970〜74年に建て替えられているので、あまり面白くはないが。
 矢印に従って建物の北側へ回ってみると、想定外のキャッシュコーナーがそこにあった。こんなところにキャッシュコーナーがあるとは初めて知った。以前大阪営業部の制覇に来たときは、建物の南側にあったはずなのだが。ともあれ、中に入ってみた。
 何だ。大阪中央営業部のキャッシュコーナーは、室内にあった案内板によれば、建物の北側と南側の両方に設置されているのであった。知らなかった。ようやく安心して機械を操作。17時18分、大阪中央営業部を制覇した。堺筋本町→大阪中央の移動には30分を見ていたので、この区間に限ってはほぼ予想通りである。
 なお、大阪中央営業部は、りそな銀行発足後の2003年5月に大阪営業部(旧大和銀行本店)内に移転した。2006年8月1日現在統廃合は発表されていないが、いずれ大阪営業部に統合されるとみられる。大阪中央営業部の入っていた「あさひ銀大阪ビル」は、マンション・ホテル経営のアパグループに2004年3月売却され、2007年3月をメドに地上46階・地下3階建ての超高層マンション「淀屋橋アップルタワーレジデンス」に建て替えられる。

2006年08月27日

2003.01.09(木)(21)ミスと疲労が増幅された天六

 大阪市内最後の目標となる天六南支店(旧天六支店)は、地下鉄堺筋線と谷町線が交差する天神橋筋六丁目駅の駅前にある。駅前というか、天六支店の建物には地下鉄駅の出入口が併設されている。なお、さっき書かなかったが難波駅前支店も地下鉄駅併設である。
 現在地から天六へ移動するのに、東へ行くか、それとも西へ行くか。東とは堺筋に戻って北浜駅から堺筋線に乗ることだが、私はもともと「単純往復」の嫌いな人間なので、それをすることになる東行きはマイナスポイントが高い。という大前提で検討してみると、西側の御堂筋線淀屋橋駅へ出て、梅田で谷町線に乗り換えるというルートが最もアトラクティブであった。というわけで、次の瞬間に西に向かって歩き始める私であった。結論から言うと、私のこの決定は大失敗で、冷静に考えると何をやっていたんだということになる。日露戦争の日本海海戦で、東郷平八郎はバルチック艦隊に直面した自分の艦隊に大旋回命令を下したが、これは一歩間違えば大失態だったそうである【注】。名指導者といわれる人にも判断ミスは存在する。東郷はきっと疲れていたのだろう。ただ一つだけ言えるのは、あさめぐの過程で乗るべき地下鉄を間違えても、恐らく死者は一人も生じないだろうということである。
 UFJ銀行大阪本部(旧三和銀行本店、現三菱東京UFJ銀行大阪営業部)の脇をすり抜け、御堂筋に到着。この南の淡路町には、あさひで唯一旧埼玉銀に由来する拠点であった店舗外ATMの[御堂筋]があったのだが、前年(2002年)6月に起きた爆発事件により閉鎖となり、復旧工事が行われないまま同年9月正式に廃止となってしまった。跡地の取材をしておこうかと思ったのだが、思いとは裏腹に地下鉄淀屋橋駅の入口に向かって足はどんどん北に進んでいく。日本生命の本社ビルに併設された階段を下へ。ここから1駅北へ移動し、梅田駅でいったん改札を出て谷町線東梅田駅から北方向の電車に乗って天六へ、というのがこの後の予定である。
 私の乗った御堂筋線の電車が梅田に到着した。およそ6時間ぶりの梅田である。改札を出た時点で、選択を誤ったことに気づく。只今夕方のラッシュアワーで、コンコースは人で一杯であった。梅田で谷町線に乗り換えるためには、いったん改札を出て、一般の地下街を抜けて谷町線の駅から乗らねばならない。案内表示に従って、地下街「ホワイティうめだ」の中を歩いていくが、人波に揉まれてなかなか前に進めない。これだったら、最初から堺筋線に乗っておいたほうがどれだけスムーズでしかも体力を使わずに済んでいたか知れない。失敗した。
 やっとの思いで谷町線東梅田駅に到着。17時43分発の都島行きの電車に乗る。ラインカラーの紫色の帯をつけたステンレスカーであった。都島は目的地・天六の次の駅である。蛇足ながら、相撲のパトロンのことを「タニマチ」というのは、谷町線が通ってくる谷町筋のあたりにそういう人が多く住んでいたからである。
 天六は東梅田から2駅目だが、疲れた身体に鞭打って混んだ車内で吊革につかまっていると、20駅くらいもありそうに思えてくる。もともと私は電車に乗った時に必ず空席を探す人間であるのに加え、関西の鉄道車両についている吊革はどの社も革ベルトの長さが異様に長く、ものすごい力で握っていないと振り子のようにゆらゆら揺れてしまって体を支えられない。
 天神橋筋六丁目に到着した。谷町線の一番前寄りの出口を出て、案内板に目を走らせる。「あさひ銀行方面出口」の文字があった。その文字を見つけると同時に、私は最初の判断ミスがこの天六の地でさらに増幅されているのを知った。「あさひ銀行方面出口」となっているK出口というのは、L字形をした天六駅の正反対側に位置しているのである。今いる谷町線の改札前が北東端、K出口は南西端ということになる。同じ名前の駅でも、谷町線が通っているのは東西に走る都島通、堺筋線は南北に走る天神橋筋で、あさひの支店はその交差点から南へずれた場所ということである。あの時、大阪中央営業部から東回りで来ていればよかったのだ。駅までの歩行距離が少々延びるだけで、乗り換えの手間は要らないし、しかも天六の駅ではストレートに目的地に達することができたのだ。ますます疲労度が増す思いであった。
 L字形をした天六駅の構内を端から端まで歩く。口惜しいが仕方がない。実際の長さとしては300mそこそこだろうが、徹夜明けに近い状態のまま夜を迎えた今、果てしなく長い距離のように感じられた。なお、私が今歩いている地下通路は、工事たけなわだった1970年4月に大規模なガス爆発事故があって、多数の死者が出たところである。
 ようやく天六駅の南端の出入口にたどりついた。「住宅ローンに強いあさひ銀行」という行灯看板のついた白いタイル張りの階段を上っていくと、そこがあさひ銀行天六支店、改め天六南支店の正面玄関の隣であった。時刻は夕方6時近い。あと10分ほどで正時、手数料時間に突入である。いちおう余裕で間に合いそうだが、急ごう。
 正面入口から入ろうとして、はたと気付いた。そこが閉まっていることに。そういえば、5年前に制覇のため初めてここを訪れたときも、裏口にあるキャッシュコーナーにわざわざ回ったのである。支店建物の南側を東西に走る道である「天神橋筋東通り」に面したところに、「キャッシュロビー→」という縦型の表示が出ていた。支店建物の天神橋筋とは反対側が、キャッシュコーナーのある側である。アーケードのついた商店街に向かって、「あさひキャッシュロビー」の表示のついた出入口が開いている。「天神橋筋東通り」は、日本最長の商店街として有名な天神橋筋商店街そのものであり、キャッシュコーナーも表通り(天神橋筋)ではなく商店街側に設置されている。
 店に入ると、ATMが4台並んでいた。機械を操作、17時54分、天六南支店を制覇。以上をもって、1月6日に支店名が変更となった大阪府内の10か所は完全に制覇したのであった。
 なお、天六南支店は、りそな銀行発足後の2004年3月に天六支店(天六交差点際)内に移転し、2006年5月天六支店に統合されて消滅した。

【注】東郷平八郎の旋回命令:この大ターンは、バルチック艦隊を壊滅させた「丁字戦法」として知られているが、実際は東郷の判断ミスに過ぎなかったという。舵が壊れた1隻の船がバルチック艦隊から離脱したのを、艦隊全体が旋回すると勘違いしたもの。バルチック艦隊を奇跡的に壊滅できたのは、判断ミスを見抜いて旋回命令を無視し、直進した司令官がいたためである。

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2006年08月28日

2003.01.09(木)(22)19:27、西日本地区全店制覇完了

 いよいよ、今回の遠征で最後の目標となった。京都支店改め、京都中央支店。ここを制覇すれば、今回の目的は達したことになる。
 もはやこの時点では、あさめぐを「じっくり楽しむ」という感じではなく、耐久レースのようになってしまった。しかし、耐久レースであろうと何であろうと、完全制覇を目指す趣味である以上、それを成し遂げてしまった者が勝ちである。というわけで、さらに京都へ向かう私であった。
 堺筋を南から北に進んで、今天六にいる。ここは、京都に行くのには都合のよい場所である。天六は大阪市営地下鉄堺筋線の終点で、ここから北は乗り入れ先の阪急千里線となる。堺筋線から阪急方面へは、千里線の終点・北千里行きのほか、途中の淡路から京都線に乗り入れる列車も運転されていて、少々時間がかかることさえ厭わなければ各駅停車でえっちらおっちら行くことも可能である。
 地下のホームに降りてみると、なんと阪急方面の次の電車は京都線の高槻市行きであるという。さっき御堂筋線回りで行って大損した分、ここで取り返しているような気分になって、高槻市行きに乗り込む。夕方のラッシュ時のはずだが、下りの普通列車はさほど混んではおらず、辛うじて座席を確保する。18時18分、私を乗せた阪急電鉄の電車が、高槻市に向けて動き出した。
 千里線と京都線とが交差する途中の淡路で、梅田始発の河原町行き快速急行に接続するとの案内があったので、それに乗るつもりでいた。しかし、淡路で待ち合わせたその列車はものすごい混雑ぶりで、もはや私にとっては限界であった。天六から乗ってきた各駅停車に戻り、座席に腰を下ろすと、目を覚ました状態で移動することはできなかった。私はみるみる睡眠状態に落ちていった。
 次に目を覚ましたのは、茨木市内であったと思う。そのまま半覚醒状態のまま何をするともなく座席に座っているうちに、電車が高槻市駅の高架ホームに滑り込んだからである。18時58分、高槻市着。高槻は大阪の一番京都寄りに位置する市で、東隣の島本町を隔てた先はもう京都府である。ここで、19時00分発の河原町行き快速急行に乗り換える。さっき淡路で見送った電車の、次の電車ということになる。あれだけ混んでいた快速急行も、高槻までくると空席を見つけることができた。
 淡路から高槻市までのごく短い間ながら睡眠を摂ったことで、私の脳の活動はまた多少の活発さを取り戻していた。京都中央支店の制覇予定時刻は、当初プランで19時30分。天六から京都まで各駅停車を使うなど、随分と時間を無駄にしてしまったが、この調子ならほぼ達成できそうである。
 あさひの京都支店、改め京都中央支店は、京都市の中心部、四条烏丸交差点の北寄りにある。快速急行を烏丸で降りた。四条通りの真下を通る阪急京都線は、京都の南北の目抜き通りである烏丸通りと西出口付近で直交している。烏丸駅の西出口から地上に出ると、1914(大正3)年建築の旧三井銀行京都支店を取り壊して新築、外壁にそのデザインを再現した「三井京都ビル」がある。ここは三井住友銀行の京都支店である。交差点の反対側は、丸窓の特徴的なUFJ銀行の京都支店(旧三和、現三菱東京UFJ銀行京都支店)。主要な銀行の京都支店がみなこの界隈に集中している。あさひの支店もこの近くにある。あさひの京都中央支店は、三井京都ビルの北隣にある11階建ての「あさひ銀京都ビル」1階だった。このビルは、あさひ銀行時代の1995年3月に新築された新しいものである。この支店の看板は京都特有の白地の看板で、若干わかりにくかった。
 支店の中に入る。広々とした空間に機械が並ぶキャッシュコーナーは、京の支店らしく壁面に西陣織の写真があしらわれ、2階窓口に上がる階段の入口には京風の花器が置かれている。照明も間接照明になっていて、手の込んだ内装であった。
 予定終了時刻19時30分のところ、19時27分に京都中央支店を制覇。これだけ計画通りにコトが運ぶと、多少の堅苦しさはあるものの非常に気持ちが良い。これにて、2日間にわたる「あさめぐ・西日本最後の爆走」は、14か所の制覇をもって無事終了したのであった。
 なお、京都中央支店には、りそな銀行発足後の2003年11月、四条通をはさんで大丸百貨店の向かい側にあった京都支店が移転してきた。2006年9月には京都支店に統合されている。

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2006年08月29日

2003.01.09(木)(23)エピローグ 帰還

 制覇は終了したが、私にはまだ最後の大仕事が残されていた。帰還である。あさめぐを実行する計画は立てたものの、横須賀に帰る計画は立てていなかったのである。
 いちおう、京都駅を21時半頃に出るJR東海道線の新快速に乗れば、大垣で夜行快速「ムーンライトながら」東京行きに乗り継ぐことができるのは経験上わかっていた。とりあえず京都駅まで地下鉄で移動する。烏丸線の竹田行き電車に乗る。
 京都駅到着後、直ちに「みどりの窓口」へ走る。そこへ買うものは、今夜の「ながら」の座席指定券である。大垣駅(岐阜県大垣市)を23時09分に出るこの夜行快速は、既に何度も乗っている有名な列車である。全席指定だから、指定券は事前に買っておかなければいけない。これに乗れないと、私は明日、職場放棄をするか、新幹線代を大奮発するか、する羽目に陥る。そういう危惧が少しでもあるのだったら、こういう日程であさめぐを決行すべきでないのかもしれないが、私が趣味第一主義で、それで人生を誤ってきた人間とあらば、日程をずらすようなことは考えるハズもないのであった。
 とにかく、私が翌日出勤できるかどうかは、今夜の「ながら」にかかっている。ところが、そういう重大な意味を持つことを知ってか知らずか、みどりの窓口の駅員は「満席ですねぇ」とカラッと言ってのけた。
 「何とかならないですか」私は食い下がった。タバコが嫌いで禁煙席を注文した私だが、背に腹はかえられぬ。「喫煙席でもいいんですが」と譲歩する。それでもう1回機械を操作してもらったが、帰ってきたのは「やはり今日は1席もないですね」との冷酷な返事であった。
 以前、大垣発の「ながら」が満席だったことがある。その日はどういういうわけか何時にどこの駅に行っても指定券が全く買えなかったのだが、指定券を買わず無理やり列車に乗り、車掌が検札に回ってきたときに頭を下げて「座席指定の入っていない指定券」を買い、立って移動した。列車に乗ってみると乗客は15〜20歳ぐらいの女の子ばかりだったから、大規模なコンサートでもあったのだろう。その時は何とか静岡から着席することができたが、何百kmも立って移動するというのはやはり二度とやりたくない。その「二度とやりたくないこと」を、またしなくてはならないかもしれない。覚悟を決めなければいけないと思った。
 そこへ、機械を操作していた駅員氏が言った。「熱海までなら取れますけど」と。即座に「お願いします」と返事をした。そうか、すっかり忘れていたが、熱海まで取るという手があったか。「ムーンライトながら」の座席は、始発駅の時点では上り下りとも全車指定席だが、一部の車両は下りは小田原から先、そして上りは熱海から先が、自由席となる。この結果、「大垣→東京」の指定席が満席でも「大垣→熱海」は満席でない可能性がある。熱海から自由席になるからといって、別に熱海で降ろされるわけではなく、引き続き座っていれば座席を占有できるのは普通の電車と同様である。過去何度も実践しているこんな基本的な技を忘れるとは、私もヤキが回ったものである。週の真ん中・木曜日で夜行が満席だなどということは、帰省ラッシュかイベントシーズンでもない限りあり得ない。今夜の指定券を入手。これでほっと一息ついた。
 京都駅南口から5分ほどコンビニを探し歩いて、ビールとおつまみを購入。20時29分発の長浜行き新快速に乗り、米原で乗り換えて大垣へ。1時間ほどの待ち時間の後、23時09分、東京行き夜行快速「ムーンライトながら」は、無事私を乗せて大垣駅を出発したのであった。

[西日本地区15店+1店完全制覇 完]

2006年12月06日

あとがき

 「あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇」、8月29日をもって完結いたしました。最後までお読みいただいた方には、例によってダラダラと続いた連載にお付き合いいただき、御礼申し上げます。長いこと「あとがき」をつけないままになっていましたので、年末の身辺整理の一環として(!?)まとめました。

 連載の文章そのものは、めぐから戻った2003年の1月から書き始めたものです。同2月に執筆が終わった草稿を、今回発表に際して若干加筆修正しました。ブログへのアップも含めて今年8月中旬には全ての作業を終えていましたが、最後の「あとがき」だけが延び延びになっていたものです。
 今年の後半は、本業の仕事が多忙になったことに加え、8月に父親が入院(10月死去)するという想定外の事態がありました。あまり弱音は吐かないようにしているのですが、物理的・精神的に多少参っていたのかもしれません。幸い、身辺は徐々に落ち着いてきましたので、またこれからぼちぼち精力的に活動してゆきたいと思います。

 文章を発表してからも、大阪中央営業部の統合が発表されるなど、社会は日々流転しています。この連載を数年後に読み返して「古い」と感じられることがあるかもしれませんが、あくまで2003年1月の実体験と、2006年7〜8月の連載期間における「一面の真実」です。そういうものだと思ってお読みいただくことを望みます。

 この連載のような「文章を使っての自己主張」が、私の生き甲斐です。今後ともご支援・ご鞭撻をいただけますようお願いします。ご意見や情報提供をお待ちしています。このブログ「MEGU」は、コメント・トラックバックを歓迎していますし、私のメールアドレスも公表しています。

 なお、この連載の執筆にあたっては、以下のような書籍・webサイトを参照いたしました。

参考文献一覧
 『大阪貯蓄銀行五十年史(草稿)』協和銀行二十年史編纂室、1965年
 『協和銀行史』協和銀行、1969年
 『埼玉銀行通史』あさひ銀行、1993年
 『近畿銀行五十年史』近畿銀行、1994年
 『協和銀行通史』あさひ銀行、1996年

 『日本金融名鑑』日本金融通信社、各年

 『ウィキペディア』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
カテゴリ一覧(過去の連載など)
大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇(62)
単発(12)
告知板(24)
銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇(29)
りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く(43)
りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅(57)
りそめぐ2008秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる 東武伊勢崎線・野田線沿線17店舗の制覇(51)
りそめぐ2009初秋 りそな銀千葉県内12店舗完全制覇(35)
りそめぐ2008夏 りそな銀東京都世田谷区4店舗完全制覇(8)
りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた(18)
りそめぐ2008秋 太平洋は青かった 茨城→北海道750km大移動/銀行めぐ2008秋 札幌市内4行4店舗完全制覇(20)
りそめぐ2008初秋 湘南セプテンバーストーリー(11)
りそめぐ2008冬 銀河に乗って知事選たけなわの大阪府へ(47)
りそめぐ2008夏 「近畿大阪めぐ」スタート記念 片町線・京阪線沿線25店完全制覇(51)
りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿(60)
りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える(12)
りそめぐ2007秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる(35)
2007年7月 りそな関西地区支店昇格5店完全制覇+α(43)
あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇(34)
2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)