2015年02月26日

新連載「りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く」のお知らせ

 当ブログ「MEGU」で、2015年3月1日(日)18時から新連載を開始します。
 今回は、2013年6月20日(木)に、大阪市の淀川北岸地域を中心に、りそなグループ計10店の制覇活動を行った記録です。
 分量は400字詰原稿用紙で約330枚、回数は現時点で41回の予定です。例によって1日1本のペースでダラダラと掲載していきます。多少の脱線もありますが、最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く

 今回の行動範囲

 百聞は一見に如かず

 2013.06.20(木)
  (−1)プロローグ@ それでは大阪はどうなっているのか
  (0)プロローグA 井高野をめぐる難問
  (1)雨音は行進曲の調べ
  (2)学習効果のない私
  (3)十三から阪急京都線へ
  (4)正雀に到着
  (5)近畿大阪・正雀支店を制覇
  (6)正雀から井高野車庫へ
  (7)井高野営業所を眺める
  (8)10:27〔井高野車庫前〕を出発
  (9)近畿大阪・井高野支店を制覇
  (10)地下鉄井高野駅にて
  (11)井高野を離れて江口橋を渡る
  (12)新幹線に沿って〔瑞光二丁目〕へ
  (13)見る前に飛べ!
  (14)近畿大阪・東淀川支店を制覇
  (15)続いて、りそな・上新庄支店を制覇
  (16)レバニラ食べて淀川のほとりへ
  (17)淀川橋梁のこと
  (18)バスは淀川堤防へ
  (19)ひとまずさらば東淀川区
  (20)こんにちはこんにちは淀川区
  (21)新大阪駅前支店を“探検”する
  (22)木川と「赤バス」
  (23)アンダーパスを抜けて十三の核心へ
  (24)淀川区の金融激戦区・十三
  (25)近畿大阪・十三支店を制覇
  (26)バスは西へ人間はジジババへ
  (27)塚本駅前を歩く
  (28)近畿大阪・塚本支店を制覇
  (29)[93]最後の目標・歌島橋へ
  (30)歌島橋バスターミナルにて
  (31)淀川通と阪神国道が交わる町
  (32)りそな・歌島橋支店を制覇
  (33)[93]の旅は終わったが…
  (34)東淀川区ふたたび
  (35)近畿大阪・西淡路支店を制覇
  (36)最終目標・三国に向かう小型バス
  (37)オフィス街広がる新大阪
  (38)戦災を免れた町
  (39)三国支店で全行程終了
  あとがき・参考文献

凡例 および おことわり
 停留所名にはカッコ〔 〕を付けた。カッコ[ ]は店舗外ATM名およびバスの系統番号に、カッコ《 》は引用などの「丸写し部分」に使用した。
 用字は原則として新字・新かなづかいを用いた。
 参考文献一覧は連載の最後にまとめて記載する。一部に連載の途中で示す場合もあるが、必要に応じての例外である。
 現時点における大阪市営バスの最長路線は[93]ではない。本文で詳述する。

2015年03月01日

2013.06.20(木)(−1)プロローグ@ それでは大阪はどうなっているのか


りそめぐ2013梅雨
大阪市営バス“最長”路線[93]を行く



 2013年春、私は当ブログ「MEGU」で『都営バス最長路線[梅70]の旅』を連載した。東京都営バス[梅70]系統を使った、りそな銀行9店舗の「めぐ」。[梅70]は〔柳沢駅前〕(西東京市)〜〔青梅車庫〕(青梅市)間の31.820kmで、都バスのみならず東京都内の路線バスで最長距離を誇る【注1】。
 東京のバス最長路線について書いた私が、次に安易に思いつくのは、大阪のバス最長路線を使った「めぐ記」の企画であった。大阪はりそなグループにとっては有力な地盤であって、当然「めぐ」ができるほどに店舗もたくさんある。
 [梅70]の「めぐ記」では、「めぐ」実施時点で選挙戦が行われていた大阪府知事・大阪市長のダブル選について言及している。[梅70]には前大阪市長と同じ名前の〔平松〕という停留所があるからだ。2011年11月27日に行われた選挙では、事前の予想どおり松井一郎・橋下徹の2氏が当選し、橋下徹・前大阪府知事が党首を務める地域政党「大阪維新の会」が府知事と市長双方のポストを握った。
 大阪市営バスは、これにより存亡の危機に立たされたと言える。橋下氏はかねて、巨額の赤字を抱える大阪市交通局の経営を、民営化によって立て直すことを訴えてきたからである。仮に、市営地下鉄と市営バスの民営化が氏の主張どおりに実現した場合、市バスは「市営バス」でなくなり、都営バスとの“東西対決”も成立しなくなってしまう。何とか早いうちに、大阪市営バスの長距離路線で「めぐ記」を。[梅70]篇が出来上がってもいない2012年2月に早くも予備取材を始めたのは、そうした動機であった。

 まず、“数値”にこだわらずインターネットで情報を拾ってみた。その結果わかったことは、大阪の市バスには、都バスの[梅70]のようなダントツの長距離路線はなく、「最長距離路線」として話題になる路線が複数あることだった。距離の長い路線が団栗の背比べになっていることと、運転系統の改変も頻繁に行われること、何より営業エリアが大阪市内だけでほぼ完結してしまうことが、その理由であろう。
 なぜ営業エリアが大阪市内にとどまるかといえば、当たり前のようだが大阪“市営”のバスだからである。東京都が戦後に運行を開始した青梅・八王子への都バスの長距離路線は、都全体の振興という観点から始まったものであった。大阪市営バスには、大阪府全体の振興という観点は希薄だ。都道府県と政令指定都市は同格と扱われているため、もともと対抗意識のようなものが生じやすいようで、大阪府と大阪市も「府市あわせ」と揶揄されるほどに連携が乏しかった。たとえば大阪〜泉佐野、大阪〜河内長野のような、府内を縦断する長距離バス路線を「大阪府が」設定するのは無理だろうし、加えて関西は個別の事業者の発言力が強い。営業区域を大幅に超えての路線設定は成り立ち得なかった。
 当然のように、こうした路線は民間企業が開設することになる。大阪〜浜大津(京阪)とか大阪〜和歌山(南海)といった、縄張りと方面とが一致する大手民鉄のバス路線が、昭和30年代には設定されていた。事業体こそ公営と民営とが逆であるが、東京と同じ図式はここにもあった。既存短距離バス(市バス)との競合を避けるため、長距離路線が大阪市内で急行運転していたのは東京と一緒。そして、昭和30年代後半以降のモータリゼーション進展により、定時運行が困難になって長距離バス路線が縮小の道をたどったところもまた、東京と同じである。違っていたのは、民間会社の運行ゆえ、不採算路線からはきれいに撤退してしまったことであった。
 いずれにしても、大阪市営バスの長距離路線は、団栗の背比べというのか群雄割拠というのか知らないが、インターネットで調べても「最長距離」の路線が見えてこなかった。というわけで、最初は長距離路線「群」のうちから1つ、りそなめぐ記にふさわしい路線を、実際の営業キロとは関係なしに選ぼうと考えた。

【表1】最初の検討

 いくつかの候補が上がったが、これらの中では第3号系統[3]が最もアトラクティブであった。制覇できる店舗の数が11店と多いことに加え、店が路線全体にバランス良く散らばっていること、話題が豊富にありそうなこと(ここで生かせそうな未発表草稿があった)、さらにその話題が[梅70]篇とつなげやすいこと、などが理由である。
 次点は[93]であった。淀川の北岸、東淀川・淀川・西淀川の3区を縦断する路線。2010年に歌島橋以西〔福町〕までの区間がカットされる前は、[93C]として大阪市営バスの最長路線だったという【注2】。今はどうなのだろうか。

 2012年2月。所用で大阪に出向いた際、時間を1日取って大阪市立中央図書館にこもった。閲覧したのは大阪市交通局の年報である。これにより、数字が示す最長路線には明確な結論が出た。最長は、〔井高野車庫前〕と〔歌島橋バスターミナル〕とを結ぶ、93号系統(14.105km【注3】)であった。歌島橋から西側がカットされたにも関わらず、最長路線としての地位は保っていた。ちなみに、最も魅力的だった[3]は11位(11.331km)で、ベスト10圏内には入らなかった。
 最新のランキングを確定するついでに、40年ほど前のデータを入手してきた。現行の運転系統と完全に一致するものはベスト10圏内に1つもないし、全体を見ても[35][37]など例外が多少あるだけだ。大阪市営バスがいかに頻繁に路線を改変してきたかがうかがえる気がする。
 ただし、その中で[93]は、やはり少々特別に見ておいたほうがよさそうだった。この路線は1964年10月1日に運行を開始し、当初は〔井高野車庫前〕〜〔西中島南方〕間8.87kmの運転だった。同日に[94]も新設されており、こちらは〔西中島南方〕〜〔福町〕間7.15km。これら2本が統合され、[93]として井高野〜福町間の通し運行となったのは、1972年7月24日とみられる。この時点で大阪市営バスの最長路線となり、以後も基本的には抜かれることはなかった【注4】。
 というわけで、[梅70]に対抗する大阪のバスは[93]とすることに決定した。もともと魅力度が高かったうえに、数字の上でも1位確定である。迷う必要はなかった。

【表2】大阪市営バスの長距離路線ランキング

 【注1】当ブログ2013.03.01〜04.25掲載「りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅」。なお、[梅70]系統は、2015年4月1日から、西東京市の公共負担協定脱退により、約3.5km短縮されて〔花小金井駅北口〕(小平市)からの運行となる。
 【注2】正確には、〔福町〕までの[93C]と途中の〔歌島橋バスターミナル〕までの[93]とが両方運転されていたが、[93C]が廃止となった。
 【注3】予備取材当時の数字。「めぐ」実施日現在では13.675kmであった。十三付近での経路変更のため(後述)。
 【注4】コスモスクエアシャトルバスやUSJ連絡バスなど、片道20kmを超える路線を走らせていたことはあったが、これらは定義上一般路線バスとは区別されていたこと、短期間で廃止されていることから除外した。

2015年03月02日

2013.06.20(木)(0)プロローグA 井高野をめぐる難問

 路線が決まったら、次は具体的な計画である。
 まず、どこを起点にするか。[梅70]の時は、私が東京23区内に住んでいることからして、都心から青梅に向かう以外には考えられなかった。大阪は“遠征”になるから、井高野から始めても歌島橋から始めても同じである。
 ネット検索で、あるブログにぶち当たった。路線バスの乗車記がいくつかアップされたそのブログの中に、[93]に乗った際の体験を記したものがあった。これによると、この路線は「西行き」、つまり井高野から歌島橋に向かった方が面白いらしい。淀川の土手を快走する区間と、一方通行の狭隘区間とがあり、東行きでは両方とも体験できないのだという【注1】。ブログの記事は2006年1月の記述で、今も有効かは分からないし、それ以前に記述がアテになるかも定かではない。しかし、私はこのブログ記事を根拠に、今回の「めぐ」を〔井高野車庫前〕起点とすることに決めた。コイントスで下した決定と大差ないが、コイントスよりは決定の根拠がハッキリしていてマシであると思う。

 というわけで起点を井高野車庫とすることに決めたが、大阪市東淀川区の最北端に位置する井高野という地にアプローチする方法も難問の一つであった。
 大阪市営バスの路線図を見て、私はのけぞる思いがした。井高野地区へのアプローチ拠点となるのは、阪急京都線の上新庄駅(東淀川区)である。ここから〔井高野車庫前〕まで、バスの通る道は1本しかないのだ。つまり、「めぐ」をやるために起点の井高野車庫までバスでアプローチすると、その後は一度通った道を戻ることになる。特にアホらしいのは、その間に「めぐ」対象店舗が3つも入っていることだった。
 上新庄の京都寄り隣駅である相川駅からも、井高野車庫行きの市バスが出ている。この路線は市バスの他の路線ほど単純往復の要素が強くないので、乗ってもさほど心が痛まずに済む。とはいえ、いまひとつ積極的な意義は見出せなかった。大阪市の外側、吹田市や摂津市方面からは、阪急バスの吹田摂津線(JR吹田駅〜阪急相川駅〜大阪モノレール南摂津駅)や、近鉄バスの摂津市内循環線(摂津市役所〜阪急摂津市駅〜JR千里丘駅〜摂津市役所)といった路線が割合に近所を通るようだが、いずれもバスを降りてから井高野車庫までそれなりの歩行を強いられる。決定打とはならなかった。
 どうせ歩くなら鉄道駅を起点にしよう。主要な道路が1本しかない井高野には、最近になって地下鉄がやって来た。井高野と今里(東成区)を結ぶ、市営今里筋線。2006年に開業した地下鉄井高野駅から、歩いて10分くらいで市バス井高野営業所に到達する。しかし、バスがなければ地下鉄、というのはストレートすぎて面白味に欠ける。いっそ別の手段を模索したい。
 地下鉄井高野駅以外で、井高野車庫から最も近い鉄道駅はどこだろうか。そう思ってみると、阪急の正雀駅(しょうじゃく、摂津市)が最もふさわしそうに思えた。相川駅からさらに1駅京都寄りで、阪急京都線が大阪市を飛び出して最初の駅。地図で見ると、市バス井高野営業所は、阪急正雀と地下鉄井高野のちょうど中間にあるように見える。両駅は安威川の対岸同士だから直線的に歩いて行けるわけではないが、ウェブの地図検索をかけてみると歩行距離は1.5km強。若干遠いが、20分ほどの歩行時間は、机上での計画段階では許容可能なプランと思えた。正雀駅近くには近畿大阪銀行が正雀支店を出しているから、「めぐ」の店数を1店増やすこともできる。それに、地下鉄今里筋線は井高野から先を正雀まで延伸すると聞いていた【注2】。

 こんな感じで、まずは「〔井高野車庫前〕09:00スタート」を念頭にスケジュールを組んでみると、〔歌島橋バスターミナル〕に14時前に到着する。ちょうどこの頃、近畿大阪銀行が梅田支店を移転して「梅田営業部」に改称することを発表していた。りそなのウオッチャーとして、これを取りに行くことを考えていたが、今回の計画の最後に梅田支店を入れれば、御幣島駅(みてじま、りそな銀歌島橋支店最寄駅)から北新地駅(近畿大阪銀梅田支店最寄駅)まで、JR東西線一本で行けてうまく収まる。というわけで、当初は決行日を梅田支店の最終営業日となる2012年7月6日(金)と決めていた。
 しかし、この時点での「めぐ」決行は、流してしまった。[梅70]の連載を当時準備していたが、仕上がりのメドが立たなかったからである。結局、梅田支店/梅田営業部の制覇は単独で行うこととし、[93]を使う「めぐ」の計画は翌年に回した。最終的には、毎年出席しているりそなホールディングスの株主総会に合わせることになった。勤務日と総会の日程とを勘案した結果、[梅70]の連載も終わった2013年6月20日(木)を実施日と決めた。
 今回、交通機関は勤務の都合で夜行バスをやめて飛行機にした。旅行会社のパックを使えば、往復の飛行機代と宿泊費を合わせても2万円強で収まる。前日の19日(水)は退勤してそのまま空港近くの蒲田で宿泊、20日朝の飛行機で大阪に移動して、[93]の沿線を歩き1泊。翌21日にりそな大阪本社で株主総会に臨み、[93]がらみの取材も行って2泊目。東京に帰る3日目は予備日とした。

 最終的な計画は以下のようになった。(RB=りそな銀行、KO=近畿大阪銀行、BT=バスターミナル)

(前夜は蒲田泊。蒲田までのアプローチは記載省略)
 京急蒲田06:35(京急空港線 普通 羽田空港)06:47羽田空港国内線ターミナル *搭乗
 羽田07:30(日本航空103便)08:35伊丹
 大阪空港08:46(大阪モノレール 門真市)08:49蛍池08:59(阪急宝塚線 急行 梅田)09:15梅田 *コインロッカーに荷物格納
 梅田09:21(阪急京都線 特急 河原町)09:29淡路09:31(阪急京都線 普通 高槻市)09:42正雀 *KO正雀支店
 KO正雀支店10:00(1.6km、徒歩20分)10:25頃市バス井高野営業所 *バス乗車
 〔井高野車庫前〕10:27(大阪市営バス[93]歌島橋BT)10:31〔井高野南口〕 *KO井高野支店
 〔北江口住宅前〕11:11([93]歌島橋BT)11:23〔瑞光二丁目〕 *KO東淀川支店
 KO東淀川支店(徒歩移動)RB上新庄支店 *RB上新庄支店 ※近所で昼食
 〔瑞光二丁目〕13:12([93]歌島橋BT)13:30〔地下鉄西中島南方〕 *RB新大阪駅前支店
 〔地下鉄西中島南方〕14:32([93]歌島橋BT)14:39〔十三〕 *KO十三支店
 〔十三〕15:28([93]歌島橋BT)15:33〔歌島一丁目〕 *KO塚本支店
 〔歌島一丁目〕16:12([93]歌島橋BT)16:18〔歌島橋BT〕 *RB歌島橋支店
 〔歌島橋BT〕16:54(大阪市営バス[92]大阪駅前)17:02〔歌島一丁目〕/塚本17:10(JR東海道線 普通 高槻)17:23東淀川 *KO西淡路支店
 〔東淀川駅前〕17:56(大阪市営バス[39]野田阪神前)18:09〔三国本町〕(徒歩9分) *RB三国支店 ※阪急梅田駅に移動し荷物を回収。(以下省略)

 今回の計画は、最初の方で若干の無理がある。正雀支店から井高野車庫までの時間が短すぎるのは自覚しているが、ここは何としても〔井高野車庫前〕10:27発を死守したいのだ。朝のラッシュが終わると、バスの本数が少なくなるためである。10:27発に乗れなかった場合、次のバスは1時間後。これでは時間がもったいないので、計画ではあえてシビアな時間配分のままにしておき、代わりに必要に応じてタクシー利用も可とすることにした。今回は大阪へのアプローチも空路であるし、宮脇俊三氏ばりに金遣いが荒い。
 また、今回は市バス[93]の乗りつぶしということで、〔歌島橋バスターミナル〕まで乗ってりそな銀歌島橋支店まで取れば、一応完遂ということになる。しかし、それだと終了時間が夕方4時半頃となり、少し早すぎると思えた。時期的にもう少し時間が確保できるハズだ。そう思って、国立天文台のウェブサイトで6月20日の大阪における日の入り時刻を調べてみると、19:14。あと1〜2か所増やすことが可能との結論に達した。
 結局今回は、[93]の完乗にもう一つ条件を加えることにした。「淀川3区の完全制覇」である。淀川北岸を大縦断するという[93]の特性からして、このプラスアルファは理にかなっていると思える。これにより加わる2店は、[93]乗車記としてのまとまりを維持するため、歌島橋の後ろに付け加える形にして計画を立てた。
 最後にバス代のこと。こうした移動にふさわしいのがフリー乗車券で、大阪市交通局にも商品設定がある。類似の商品は以前からあったが、現在の「エンジョイエコカード」は2011年10月導入された。平日800円、土曜・休日は600円。これ1枚で、市バスのほか地下鉄とニュートラムにも乗れる。「エンジョイエコカード」の名称は、環境にやさしい地下鉄・バスで大阪の街歩きやショッピングを楽しむ、という趣旨から来ているそうだが、私は今回この趣旨に沿った使い方をするわけだ。ただし、大阪市営バスは2005年2月から独自の乗り継ぎ割引制度を採用しており、平日なら使い方によってはフリー乗車券を買わなくて済むかもしれない。カード使用の場合、精算して90分以内に次の精算をすると、2回目の精算が「0円」となるからだ。乗り継ぎ割引はどの停留所でも適用されるから、今回でいうとバス代は8乗車800円で済む【注3】。もっとも、その後で地下鉄にでも乗るようなら、一日券を買っておいた方がよいけれども。エンジョイエコカードは、バスの車内や地下鉄の券売機で売っている。

 なお、一つお断りがある。
 本連載掲載直前になって、重要な事実が判明した。2013年4月のダイヤ改正で、[73]が〔なんば〕〜〔出戸バスターミナル〕間14.130kmとなり、[93]を抜いて最長距離路線となっていた【注4】。「めぐ」を実施した2013年6月20日時点で、[93]は最長ではなかったことになる。しかしながら、「めぐ」当日までに入手できた最新の公刊データではやはり[93]が最も長いこと、長期間「最長路線」であったという事実の重みがあること、新[73]ではりそなと近畿大阪で同一店名の店が多いなど「めぐ記」としての面白みに欠けること、以上3点を理由に、本連載ではあえて[73]ではなく[93]を「最長路線」として扱うことにする。
 さらに、その後2014年4月に行われたダイヤ改正で、[93]は歌島橋バスターミナルの廃止に伴い〔大阪駅前〕からの運行に変更され、営業距離も13.290kmに短縮された。大阪市営バスの路線は、毎年かくのごとく大きく変動する。

 【注1】その後の調査で、〔柴島〕(くにじま)付近では西行きのみ淀川堤防沿いを走ると判明した(東行きは堤防下の側道)。なお「一方通行の狭隘区間」は阪急十三駅南側のアンダーパスを迂回する経路であったが、2010年7月にアンダーパスが双方向化され解消した。
 【注2】地下鉄今里筋線の延伸計画は、大阪市の財政上の問題から凍結されている。井高野から先はJR千里丘駅(摂津市)に向かう説が有力のようだ。
 【注3】2014年4月の消費税率アップに伴い、大阪市営バスの乗車料金(運賃)は1回210円となった。8乗車では840円。エンジョイエコカードの平日発売額は800円のまま変わっていない。
 【注4】〔なんば〕〜〔杭全〕の[73]と〔上本町六丁目〕〜〔出戸バスターミナル〕の[23]を統合して、1本にまとめたもの。前回掲載【表1】と同じ書式では以下のとおり。
     02-1.jpg

2015年03月03日

2013.06.20(木)(1)雨音は行進曲の調べ

 2013年6月20日・木曜日、午前6時。私は今、蒲田(東京都大田区)のカプセルホテルにいる。蒲田は、京浜急行空港線が本線から分岐する羽田空港の玄関口である。予定では、京急蒲田駅を06:35に出る、羽田空港行きの各駅停車に乗ることになっている。
 ついさっき目を覚まし、身支度をしてチェックアウトするだけの状態まで持ってきた。予定の電車にはどうにか間に合いそうだが、寝不足で頭が朦朧としていて、気分はあまり良いとは言えない。カプセルの中が蒸し風呂のように暑くて、なかなか寝付けなかったのだ。もともと私の睡眠は不順で、「寝よう」と思うタイミングで寝入ることはまずなく、一方で「起きよう」と思う時には睡眠が深い谷に入っていて、無理に起きると朦朧とした状態になる。
 自宅は、前日水曜日の朝に出てきた。お泊まりセットを一式持って職場に出勤し、通常どおりの勤務をこなす。22時過ぎに職場を出て、JR京浜東北線の桜木町行きに乗ると、蒲田までは立ちっ放し。少しは空くかと期待した途中のターミナル駅で混雑度がさらに増し、私は心底げんなりした。やっとの思いで蒲田に着くと、直ちに近所のコンビニで缶ビールを調達。カプセルホテルは事前にネットで予約してあり、その時点でクレジット決済まで済ませている。宿に入ったら、入浴してビールを飲んで寝るだけだ。それでスッキリサッパリとはいかなかったのは、前述のとおりである。
 天気予報によると、本日20日の大阪は、午前中から雨、午後は降水確率40%。今日一日雨・あめ・アメということである。よりによって台風が接近しているという。昨日の朝、自宅を出た時の天候は曇りで、すぐにも一雨来そうな真っ黒い雲。強い風がびゅうびゅう吹き、翌日飛行機が飛ぶのか本気で心配した。勤務を終えて職場を出るときには雨が降っていたが、傘は要らない程度の降り方だった。東京ではさほど強い雨にはならなかったが、石川県では観測史上最大の1日200何ミリとかいう雨が降ったらしい。台風は今日がピークで、明日には太平洋上を日本列島南岸沿いに東へ進むという。「めぐ」で活動する時間帯がそっくり雨になるのである。どうもここ数年、私が大阪で「めぐ」をやろうとすると天候に恵まれない。今回私がこの日程で大阪に行くのは前々からの計画だが、どうして出発間際になって台風が来るのだろうか。今日がピークということは、本当は「めぐ」の日程を明日か明後日に変えた方が良い。しかし、明日は株主総会で午前中つぶれることが確定しているし、朝から空いている土曜日も今度は夕方の余裕時間がない。やはり今日やらざるを得ないのであった。

 6時少し過ぎに宿を出ると、雨がパラついていた。大阪でどうなるかわからないが、今は雨とはいえ傘が要らない程度の降り方で、少しありがたい。
 ホテルは横浜銀行蒲田支店のはす向かい。蒲田にはりそなの支店もあって、飛行機に乗る前に1制覇といきたいところだが、支店があるのは西口だし、8時の開店時間にもなっていないからどうしようもない。さて、ホテルの前の道をまっすぐ東に向かって行くと、京急線の高架にぶち当たることになっている。東京都民銀行の蒲田支店が角にある蒲田四丁目の交差点に来た。大東京信用組合の蒲田支店もある。大信はJRと京急との間にある商店街に店舗外ATMも出しているから、営業基盤がけっこう強いのだろう。
 ところで、蒲田で特筆されるのは、カプセルホテルのすぐ近所にあるビルの3階に、徳島県の地方銀行である阿波銀行が蒲田支店を出していることである。阿波銀は遠隔地の地銀としてユニークな店舗戦略を採っており、法人営業主体の支店を(東京支店とは別に)東京都内に3か所出している【注】。いずれもATMのない空中店舗で、出店にあたっては地縁などはあまり関係なく、中小企業の多い地区を選んでいるようだ。こうした店の出し方は、大阪では地銀の進出形態としてありふれているが、どういうわけか東京都内ではあまり見かけない。なお、2014年7月には第二地銀の徳島銀行が追随して蒲田支店を出した。
 天候が悪いせいか、朝早い時間のせいか、人の気配はほとんど感じられない。歩く人はちらほらとみられる程度だし、シャッターを下ろしている店舗が多い。蒲田は町としてはけっこう大きいハズではなかったのか、と思った。さっきから頭の中では、映画『蒲田行進曲』のテーマ曲と、『雨音はショパンの調べ』という歌が、2曲チャンポンになって流れている。『蒲田行進曲』という歌(1982年)は、かつて松竹が蒲田に持っていた映画撮影所の所歌だそうだが、JR蒲田駅の発車ベルがこの曲であるから知っているだけだ。小林麻美の『雨音はショパンの調べ』はイタリアのガゼボという歌手の歌(原題『I Like Chopin』、1984年)で、私が高校時代に聴いていたラジオ番組で耳になじんだ曲である。
 京急の高架線が見えてきたところで左に曲がる。京急はずいぶん前から高架化の工事をしていたが、去年(2012年)10月に完成し、毎年正月の「箱根駅伝」で“魔の踏切”とされていたところが踏切でなくなったりする変化があった。駅の西側は再開発がこれから始まるようで、駅前のビル3棟ぐらいをまとめて解体中であった。再開発が進みつつあるというか、再開発のために古い建物を壊しつつある。
 ともあれ、10分ほど歩いて京急蒲田駅に到着した。エスカレーター上がって2階の改札では、自動改札機の感度が鈍くて私のタッチしたスイカを読み取らず、ついつい財布を機械に叩きつけてしまった。さて、今度の電車は1番線からの発車で、ホームは3階にあるという。改札を入ると2本のエスカレーターが並んでいる。私の乗った3階行きのエスカレーターは、2階行きが2階に到達したのを横目で見つつ、さらにどんどん上がっていく。ようやく着いた3階は島式ホームの中央付近で、このホームがまた恐ろしく長い。羽田空港方面と横須賀方面の両方で使うせいなのか、前も後ろも8両編成が十分停まれそうだ。トータルでは18両分の長さがあるということだが、いずれにしても、高架化成った京急蒲田駅は非常にややこしい構造になっていた。
 駅の東側にあった東日本銀行の蒲田支店が新築のビルになっているのを、ホーム上から目視確認したところで、1番線に品川方向から電車が入ってきた。窓まわりが青い京成電鉄のステンレス車両。これが次の羽田空港行きで、06:20発の「エアポート急行」。予定より15分早い電車となった。ドアが開いてみると、車内はぎゅうぎゅうではないものの、思いのほか混んでいて座れなかった。
 急行は空港線内では各駅に停車する。3つ目の穴守稲荷で客が意外にたくさん降りて、それで着席できた。

 私を乗せた電車は、京急蒲田から6つ目、羽田空港国内線ターミナル駅に定時で到着した。ここで早くも一つの試練が待っていた。私は京急蒲田で一番前の車両に飛び込んだのだが、これから乗るJALグループは第一旅客ターミナル使用であり、出口は一番後ろ寄りになるという。ホームを端から端まで歩く破目になった。なお、乗ってきた電車は、折り返しスカイアクセス線経由の急行成田空港行きになるようだ。
 出発ロビーに入る。旅行会社から送られてきたクーポン券には3Dバーコードが印刷してあり、チェックイン機で直接搭乗手続ができた。私が乗る07:30発の大阪・伊丹行きは、北の13番ゲートだという。さて保安検査。検査場では、ここ数回ベルトのバックルでひっかかっていたが、今日はベルトを着けたままで何のアラームも鳴らなかった。06:50に保安検査場を通過すると、あとは搭乗開始を待つばかりである。少し早く着き過ぎただろうか。いや、このくらい早くなければ、万が一の時に困るだろう。遅過ぎるよりも早過ぎる方が数倍マシ、という経験は私にもそれなりにある。
 待合室の深い椅子に腰を下ろし、テレビで朝のワイドショーを見るともなく見ている。飛行機はすでに定位置に着いているようだ。乗り始めるまで、まだ30分ぐらいある。

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 【注】蒲田(大田区蒲田五丁目)・江戸川(江戸川区一之江八丁目)・東京城北(北区王子二丁目)の3支店。東京支店は中央区日本橋室町一丁目にある。蒲田支店は有人出張所の「横浜法人営業部」(横浜市港北区新横浜二丁目)も持つ。

2015年03月04日

2013.06.20(木)(2)学習効果のない私

 08:35、私を乗せた飛行機は、定刻どおり伊丹空港に到着した。座席が22番と、一般席の中では一番前の方だったので、手荷物を預けていない私は着陸後さっさと外に出てくることができた。
 機内ではほぼ眠っていた。離着陸時にベルトで束縛される例の不自由な時間があったことと、機内サービスでアイスコーヒーをもらったことだけは覚えているが、基本的には記憶が飛んでしまっている。機内での過ごし方など所詮そんなものでよいのだが、最近飛行機といえばLCCにばかり乗っている私としては、機内でこってりとサービスしてくれる在来型のエアラインにせっかく乗るのであれば、もう少し堪能してくればよかった、という貧乏くさい反省をしている。
 ふと、2008年7月に「近畿大阪めぐ」の初回をやった時のことを思い出した。思えばあの時が伊丹空港の初体験で、JALではなくANAを利用し、パック旅行ではなく航空会社のwebサイトでチケットを直接購入した。この時私は、空港から大阪市内までの移動の際リムジンバスを使ったが、阪神高速の渋滞に巻き込まれて大失敗したのであった【注1】。学習効果が働いているから、今回はモノレールに乗る。北側ターミナルビルの出口前がリムジンバスの乗り場だが、大阪モノレールの大阪空港駅は空港の北ビルと南ビルのちょうど中間地点、右手に100mほど歩いた先にある。
 空港ビルの前は、柱が何本も立ち並んだピロティのようなつくりの通路になっている。そこを延々と歩かされ、4車線の北行き一方通行道をガラス張りの立派な歩道橋で跨ぐとモノレールの駅。自動改札でスイカをタッチして中に入る。交通系のICカードがこの3月(2013年)からようやく共通化され、大阪の私鉄でもスイカ(JR東日本)が使えるようになった。「スルッとKANSAI」の磁気カードは、下手に使い残すと次の関西出張まで消化の機会はない。そういうイライラから解放されてよかったと思うが、オール関西私鉄の観もあって使い勝手の良かった「スルッとKANSAI」が、代わって使命を終えようとしている。
 エスカレーターでホームに上がる。ホームも、通路と同様右も左もガラス張りであった。右側、つまり東側のガラスの向こうは阪神高速道路池田線で、高速のさらに向こうを阪急宝塚線が南北に走っている。空港から阪急蛍池駅までは直線距離でせいぜい500mぐらいしかないが、そこを歩くと道路の関係で20分ぐらいかかるから、アホらしいことに1駅しかないのに200円も払ってモノレールに乗らなければならない。
 2番線にちょうど折り返しの電車が入ってきた。08:46発門真市行き。これに乗って、1駅だけ移動する。車内は普通に座れる程度の混雑度であった。

 窓から見下ろす大阪空港周辺は、小雨がパラついていた。
 モノレールの高架線路は、空港から南へ回った後、左に大きくカーブする。右手には格納庫のような全日空の大きな建物が見え、続いて高速の跨ぎ際に豊中警察署が見える。沿線は基本的には住宅の密集地だが、畑や空き地もちらほらと見えるところが大阪市内とは違うと思う。阪急宝塚線と空港との間には川が2本ぐらい流れているが、水面がけっこう高い位置にある気がした。天井川ではないと思うけれども、川底が高いようだ。ここまで来て向きを真北に変えたところで、蛍池駅に進入する。大阪空港駅を南へ向かって出発したモノレールは、蛍池の駅に入った時にはぐるっと一回転して先頭が北を向いている。そういえば、駅のエスカレーターも改札の先で1回転して乗ったから、大阪モノレールは客でも何でも360度回すのが好きなようだ。
 私はこの駅で降りて阪急に乗り換える。本日最初の目的地である正雀は、このままモノレールで南茨木まで行ってしまえば楽なのだが、運賃が梅田回りより若干高いことと、それより「めぐ」を終えたあとの行動を考えて、梅田駅のコインロッカーに荷物を預ける計画にしている。モノレールの改札を出た私は、暗くて長い廊下を北に向かって50mぐらい歩き、阪急の改札を入って右へ。蛍池駅は線路の両側に上りホームと下りホームがあるだけで、阪急としては小駅の部類であった。地平のホームに下りて、電車を待つ。
 空模様はスッキリしないが、それでもやはりこれから「めぐ」が始まる。自分なりの新たな発見が、何らかの形で一つや二つ絶対にあるだろう。やはり多少は気分が浮かれてくるように思う。蛍池からは、08:59発の急行梅田行きに乗ることになっている。急行の1本前、08:54発の各駅停車がやって来たので、何の気なしに乗り込んだ。車内はガラガラで、ラッシュの一段落したこの時間には悠々座ることができた。5分も早い電車だが、これに乗っても梅田にはあとの急行の方が早く着くとわかっている。次の豊中で乗り換えよう。

 阪急宝塚線は、蛍池を発車してすぐ左に大きくカーブする。右は城跡なのか、緑の多い高台になっている。そのまま走っていると、少し下り坂になったと思ったらすぐ平坦になる。線路は高架が始まり、一方で周辺の土地は高度をさらに下げていくから、ここがちょうど高架のアプローチ部分ということになる。線路はすぐ再び徐々に上がり始めるが、地形の関係でそれほど高さが増すこともないまま、次の駅に入る。豊中市の中心にして急行停車駅でもある、豊中駅であった。
 宝塚線の急行は、始発の宝塚から豊中まで各駅に停車し、その先は十三にしか停まらない。豊中は、各駅停車区間と通過区間の境界という、極めて重要な駅ということになる。こうした駅では、大体において各駅停車と急行系との「待ち合わせ」を行うものである。というわけで私は、自分の乗った各駅停車が豊中駅に停車しても、ゆったりと構えていた。豊中で当然「待ち合わせ」になるハズだからだ。座席をよっこらしょと立ち上がり、私はドアに向かって一歩足を進めようとした。
 そこで、信じられないことが起こった。各駅停車のドアが、いきなり閉まったのである。あれ、と思う間もなく、電車が動き始めた。
 なんということだ。私を乗せた各駅停車は、豊中駅を発車してしまったのである! 電車が走り始めてから気がついたが、豊中駅には島式ホーム1本だけしかなく、急行と各駅停車の接続など物理的に無理なのであった。急行は十三まで停まらないし、十三から先に追い抜きのできる駅がないのはわかっているから、途中の各駅停車しか停まらない駅で抜かれてしまうことが確定した。私が本来乗るハズだった、しかも悠々間に合っていた電車に。
 それにしても、こういった内容は放送で告知してくれなければわからないではないか。たしかに、蛍池駅内や各駅停車の車内では、《十三・梅田には次の急行が先に到着いたします》と連呼していた。しかし、肝心の「“ここで”乗り換えろ」というアナウンスが一切なかったのである。次の急行に「どこで乗ったらいいのか」という具体的な注意喚起(またはアドバイス)を、乗り換えるべき“その場”でしてもらいたいものだ。
 蛍池で1本早い電車に乗ったことが、まさか再び歯ぎしりの原因になるとは思わなかった。どうも私は飛行機で大阪に来ると、予定と違うものについフラフラ乗って後悔するというのがパターンらしい。つくづく学習効果のない男である。

 豊中を出ると、線路は右にゆるくカーブする。下りの勾配が始まるが、高架を降りるわけではない。岡町は島式ホーム1本だけの駅。その次の曽根は島式ホームで2面4線あるが、待避はしなかった。曽根駅で左にカーブしつつ再び下り坂になり、ここで地平に降りると今度は右カーブが始まる。カーブの終わったところが対向式ホームの服部駅【注2】である。開業時期が古い宝塚線はクネクネとカーブが多くて大変だが、服部からはまっすぐ進み、庄内駅に達する。名前を挙げた駅のうち、これまで降りたことがあるのは、りそなグループの店がある豊中と服部だけ。その他の駅にはこれまで縁がないが、降りたことがあるハズの豊中駅で大醜態を演じてしまったのは、前述のとおりである。
 そして、各駅停車は庄内駅の手前でこれみよがしに減速を始めた。庄内駅には島式ホームが2本あるから、この駅で急行に追い抜かれるのだろう。案の定、電車はホーム左側の待避線に停まり、間もなくホームの反対側を梅田行きの急行がヨタヨタと通過していった。ああ、私が本来乗るハズだった電車が。いっそのことこの駅でいったん停めてドアを開けてくれれば、私が乗り移れるし、再び発車した後はフルスピードが出せるのに、と勝手なことを考えた。
 庄内を出ると、線路は左にカーブして築堤上に上がる。右に家電量販店エディオンが見えるあたりで高架線に変わり、そのまま神崎川を越えて三国へ。神崎川が豊中市と大阪市との境界になっており、三国駅から大阪市(淀川区)に入る。阪急の重要なアクセスポイントである十三は、もう次の駅だ。

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 【注1】当ブログ2009年1月4日掲載「2008.07.22(火)(2)長沢まさみが笑ってる」。
 【注2】服部駅は2013年12月「服部天神」駅に改称した。

2015年03月05日

2013.06.20(木)(3)十三から阪急京都線へ

 各駅停車は十三に09:13に到着し、私は梅田まで行く予定を変更してここで降りた。
 庄内で私の電車を抜いた急行は、梅田には4分早く到着する。そこでコインロッカーに荷物を収納し、京都線の特急に乗り換えるための時間を、計画では6分しか取っていない。先に着いた急行で持ち時間6分だから、このまま梅田に行ったのではプランが破綻する。収拾するためには、手前の十三で降りてコインロッカーを探すしかなかった。これにより、十三〜梅田間を1往復する分の時間を捻出するわけである。10分ぐらいは確保できるだろうか。
 後ろ寄りの車両から降りると、前方にエスカレーターが見えた。十三駅はこれまでにも降りたことがあるが、もっぱら駅の南寄り、古びた乗り換え地下道がある方ばかり利用してきたから、北寄りにエスカレーターがあるとは知らなかった。コインロッカーは、幸いにして上がってすぐのところに大型のものがあった。駅の北寄りにかかっている跨線橋につながる、通路の部分である。窓を背に置かれたロッカーは、右半分は普通に縦5段あるが、左半分は窓をふさがないようにか3段しかない。ここに置くためにわざわざ背の低いものを発注したのであれば、粋な配慮であると思った。阪急はこうした美的センスは優れている。
 とにかく、ロッカーに荷物を入れて、東京都内をうろついている時と同じくカバン1つだけになり、だいぶ身軽になった。次なるミッションは、京都線への乗り換えである。といっても、今来たホームに戻ればよい。宝塚線の梅田方面と、京都線の河原町方面は、同じホームの背中合わせだからである。09:24発の特急河原町行き。この特急が本来梅田から乗る予定だった列車だから、これでめでたく元の鞘に収まることになった。

 お天道様が味方をしてくれたのか知らないが、雨は止んでいる。朝のラッシュはすでに終わっており、特急の1本前に見送った各駅停車など、ロングシート1本に1人ぐらいしか座っていなかった。河原町行きの特急は、9300系という特急用のクロスシート車両がやって来た。各駅停車ほどガラガラではないが、到着した列車は思いのほかすいていた。大学生のような若い男女が私と一緒にたくさん乗ったので、さすがに一時的に立ち客も出たが、結局は全員座れるぐらいの混雑度に収まった。この特急は淡路で降りる。今度は間違えないようにしないといけない。
 十三を出ると、阪急京都線はすぐに大きく右にカーブする。大阪は全体が下町のような感じのする都市だが、このあたりもまた下町らしく古い民家が密集している地帯である。一戸一戸の敷地がさほど広くなく、家屋が土地いっぱいにベッタリと建つ。南方(みなみがた)駅を出てすぐくぐるガードは、JR東海道線である。右手には柴島(くにじま)浄水場の広大な敷地が広がる。次の崇禅寺駅付近では高架化工事を始めたようで、この辺りはもう何年か先には高架線になっているのだろう。右の車窓に、南の方から別の大きな高架線が来るのが見える。2階建てになっていて、工事もかなり進んでいる。天神橋筋六丁目方面からの千里線だろう。淡路駅は現在平面交差で4方向に分かれているが、高架の完成後は方面別に2層構造にしてコンコースを挿入した、東京でいうと京成電鉄青砥駅のような3階建ての駅になると思われる。
 淡路には09:29に到着し、ここで特急を降りる。不思議なことに、十三から一緒に乗ってきた大勢の大学生(らしき)男女は、降りる気配がなかった。淡路駅で乗り換えの千里線に関大前という駅があるから、彼(女)らは関西大学の学生なのだと思っていたが、降りないということは京都市内にでも通っているのだろうか。ともあれ私は、09:31発の各駅停車高槻市行きに乗り換える。正雀はここから3つ目である。やって来た電車は地下鉄堺筋線からの直通列車だったが、車両は阪急の電車(7300系)であった。
 淡路を出てすぐ、再び雨が降り出した。千里線が京都線から左に分かれて間もなく、煙突の立った工場が左に見えた。参天製薬の登記上本社だそうである。右に大きなパン工場(神戸屋)、また左に学校(関西大学北陽高校)が見えたところで、築堤から再び降りる。東海道新幹線の高架をくぐると、今度は阪急線自身が高架に上がる。アップダウンがけっこう目まぐるしい。上がった先が、上新庄駅。東淀川区の中心地だが、線路の両側にホームがあるだけの小さな駅であった。このあたりは住宅地となり、駅の近辺だとマンション(というか3〜4階建てのアパート)がけっこう多いようだった。
 神崎川を渡ったところに相川駅があるが、ここは庄内〜三国間とは違って神崎川が市境にはなっていないから、まだ大阪市(東淀川区)である。駅の構造はさっきの庄内と同様で、島式ホーム2本。ここで準急を通過待ちする。阪急は途中の駅で各駅停車を待たせて通過列車を先に通す形が多く、各駅停車と急行系列車との「待ち合わせ」は少ない。あのやり方で徹底されると、さっきのような「事件」も起きるし、各駅停車の待ち時間が長くなってしまう。準急の通過を待つ間に周囲を見ると、左の車窓には、ギザギザ屋根でこそないものの、工場という言葉でイメージされるような建物がべったりと広がっている。染物の工場だそうで、屋根の上には北関東の養蚕農家で見られるような通風口がついている。敷地内には、大きな煙突やパイピングを組み合わせた鉄塔が立っている。
 相川駅を出てすぐ、大きな川を渡る。こちらは、相川の地名の由来となった安威川である。この川は神崎川の支流であるが、地図上のイメージも現地で受ける印象も、相川駅の手前で渡った神崎川よりはるかに大きい。その神崎川も、安威川を飲み込んだ後は淀川に流れ込んで吸収されてしまうのだが。ともあれ安威川を渡ると、左に見える病院が済生会“吹田”病院という名前であることからわかるとおり、大阪市を離れて吹田市に入る。住宅団地(府営住宅)のそばを抜けると、壁面に波板を使った大きな建物が右手に見えた。大阪市交通局の東吹田検車場で、地下鉄堺筋線の車両の“寝ぐら”である。それを横目に北に向かってくると、今日のスタート地点・正雀駅なのであった。

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2015年03月06日

2013.06.20(木)(4)正雀に到着

 私を乗せた高槻市行きの各駅停車は、09:42、定刻に正雀駅に到着した。正雀に到着。なんだか韻を踏んでいて、いい感じである。
 正雀駅は島式ホーム2本の駅で、橋上駅舎が京都寄りに付いている。改札に向かう階段に向かってホーム上を歩いてくると、左斜め前方に車庫が広がっていて、そのまま車庫に突っ込んでいくような錯覚が一瞬生じる。車庫が扇形に広がっているところにプラットホームがこれだけ近接している例は、東京では見た記憶がない。阪急正雀工場の歴史と伝統を感じさせる。
 近畿大阪銀行正雀支店があるのは、駅の東口である。改札を出て左に曲がり、もう1回左に折れるのだけれども、そこから外に出る階段までの距離はけっこう長く感じられた。駅を出ると、五差路になっている阪急正雀駅前の交差点。黄色い線で仕切った2台分の駐車スペースに車止めの付いたタクシー乗り場が、交差点に面した場所にある。「阪急タクシー・国際興業大阪/専用のりばにつき/他車の進入を禁止する」と書いた黄色い看板が、線路際のフェンスに掲げてあった。国際興業大阪は、埼玉県南部から東京城北にかけて路線バスを走らせている国際興業の子会社で、タクシーと観光バスを営んでいる。道路の様子を見ると、線路際を北(正確には北東)に行く道は一方通行の北行きで、斜め右から来るのが一方通行の南行きである。右90度方向(南東)に向かう道があり、線路沿いに南(南西)へ行く道があって、さらに南へ向かう道と駅との間に、正雀駅の向こう側(西側)へ抜けるアンダーパスのスロープがある。このアンダーパスは、橋上駅舎ができる前に駅内の連絡通路として使われていたものを改造したそうである。なお、吹田市と摂津市の市境が駅前交差点のところを通っている。正雀駅はホームの大半が吹田市にあり、駅舎と正雀工場は摂津市に位置している。正雀駅と工場は摂津市阪急正雀という場所にあるが、この地名の範囲内には阪急の施設しかない。
 交差点から北東の方角に向かう。つまり一方通行出口から入り、正雀駅前商店会という行灯看板がついた街灯の道をまっすぐ行く。駅前通りすぐ右手に、摂津水都信用金庫の正雀支店があった。摂津水都は茨木市に本店を置く信用金庫で、2003年3月に摂津信金(本店茨木市)と水都信金(同豊中市)が合併して発足した信金。来年(2014年)2月にはさらに十三信金(同大阪市淀川区)と合併し、「北おおさか信用金庫」になる予定である。信金のあるこの道は、もともと住宅と商店が混じった商店街だったようだ。カラオケスナックとか自転車預り屋、小さい不動産屋など零細な店がぽつぽつある、住宅地の中の商店街である。民家は道路と建物との間が2mぐらいの幅しかなく、猫の額ほどのスペースは庭として作り込んであったりする。首都圏に比べると古い建物を大事に使っているようで、大阪チックな密集感がある。もちろん、最近はやりの3階建てエンピツ民家も増えてはいる。
 市立小学校の跡地売却に反対する掲示があった。市長さん売らないで、と書いてある。橋下君のことかと一瞬思ったが、橋下徹氏は大阪市長であって、ここは摂津市だから関係がない。政治家の仕事、ということを思った。どこの自治体でも同じだが、何か一つのことをしようとすると、利害関係が必ず衝突する。政治とはそれらを踏まえてエイヤッと決断することである。優柔不断な私には到底できそうにない。
 思いながら、2車線道路に突き当たった。近畿大阪はここで右折である。府道正雀一津屋線といい、摂津市南部、淀川にかかる鳥飼大橋の北側まで通じている。真正面にはバスの停留所があった。近鉄バスの〔正雀〕で、〔摂津市役所〕を起点とする循環系統だが、なぜこんなところに近鉄バスの路線があるのかは知らない。バス停の向こうは生垣が張り巡らしてある土地である。大阪薫英女学院といって、中学から短大までの女子校。生垣には鉄格子のような柵が潜んでおり、その鉄柵の上に針というか棘というか、先端をとがらせた直径1cm弱の鉄の棒が斜め上に伸びている。よじ登ったらグッサリと刺さりそうで、高い垣根を完備した清く正しい女子学園という趣である。最近では大学進学率も上がって進学校に脱皮したそうだ。高校のOBには、元宝塚歌劇団の涼風真世、女優の中江有里や谷村美月、アイドルの渡辺美優紀(NMB48)などがいるという。
 一津屋線を女子校の敷地に沿って東(正しくは南東)に進むと、十三信用金庫の正雀支店がある「正雀」の交差点で近畿大阪の看板が見えた。前述のとおり十三信金は2014年2月に摂津水都信金と合併したが、一緒になったら絶対にどちらかの支店が整理されてしまうだろうと、この時点で私は思っていた。旧十三信金の正雀支店は合併で北おおさか信金の「十三正雀支店」に改称され、2014年9月に正雀支店(旧摂津水都)に統合された。店舗は当面旧十三の店を使い、駅前にある旧摂津の建物を改築して完成後に復帰するということだ。信金はここでは駅前の方が強かったということになる。

 駅を出た時、一応傘なしでも行けるかな、という程度の雨の降り方だった。しかし、やはり歩いていると傘が欲しくなってくる。実は、持ち歩いていた折り畳み傘が壊れ、先日1張捨てたばかりなのだ。十三信金と近畿大阪の間にあるサークルK(摂津正雀本町店)に入り、税込1050円の折り畳み傘を買った。先日捨てた折り畳み傘も(この店ではないが)サークルKで買ったもので、私はサークルKで折り畳み傘を買うように運命づけられているらしい。黒い色の傘は私の趣味とは合わないのだが、仕方がない。
 会計の際、レジスターの液晶パネルを見たら、この近辺では大雨警報が出ているそうだ。注意報ではなくて警報である。私はこんな天気の悪い日に何をやっているんだろうと思った。ついでに言うと、今日は傘だけではない。カバンのチャックが壊れてきているし、取材メモとして使っているボイスレコーダーも調子が悪い。ボイスレコーダーは2005年末に買ったものだが、最近スイッチの接触が悪くて機動的な録音ができなくなっている。散々な状況であった。

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2015年03月07日

2013.06.20(木)(5)近畿大阪・正雀支店を制覇

 近畿大阪の正雀支店は十三信金の先にあって、向かいは古い民家を改造したクリーニング屋、隣はスーパーマーケットのライフ(正雀店)であった。
 まずは制覇目標の写真を撮ろう。正雀支店の建物は長方形の2階建てで、一津屋線に面した角と、支店の横を通る正雀本町商店街に入ったところの2か所に出入口がある。外装はクリーム色で、縦に筋彫りの入ったスチール板を使っている。商店街に面した部分に明り取りの大きな窓を複数設置しているが、デザイン的に意匠を凝らした感じはあまりしない。
 看板類は、大和銀行グループの「D」マークは取り除かれているものの、合併で発足した当初のロゴタイプを使用し、白地に青文字の古いタイプのものであった。これから徐々に取り換えられていくのであろう。屋上看板の巨大さが印象に残っている【注】。建物向かって右側のキャッシュコーナー入口についている「近畿大阪クイックロビー」の行灯は、りそな銀行についているのと同じデザインの緑の看板に替わっている。自動ドアに貼られたシールもりそな銀と同じ緑色とオレンジに替わっており、会社のロゴタイプやシンボルマークもりそな銀と共通化している。近畿大阪銀行の営業方針は、先々代の桔梗芳人社長の時代には独自色を打ち出す方向だったが、最近ではりそな銀行と一体化する方針に転換しているようだ。桔梗社長の時代に「近くて大好き!」というキャッチフレーズを制定し、ロゴのステッカーを店頭にべたべた貼っていたのだが、各店ともだいぶ剥がしてしまったようだ。正雀支店では、キャッシュコーナー入口左側の夜間金庫投入口を覆うガラスの部分に少し残っているだけであった。
 いよいよ、制覇作業である。キャッシュコーナーの入口は、一津屋線に面した角の斜めになった部分ではなくて、正雀本町商店街の方に入った右側。入って右前方、正面向きに機械の枠が6台分ある。一番右の6番が空き枠で、残りの5台はすべて、日立オムロンのAK-1というATMが入っていた。キャッシュコーナーと窓口室との間に両替機があり、さらに窓口の並びが横一直線に続く。窓口はカウンターの前面にガラスの壁のついた、他店で普通にみられる形をしていた。ATMの上部についている「お預け入れ」「お引き出し」の表示は、近畿大阪の合併当初の標準スタイルである、横に長い青行灯に変えられている。いま簡単に「標準スタイル」と書いたが、複数の店に行った限りでの知見では、行灯のプラスチック板は使われているフォントが2種類ある。ゴナ体を使ったものと、MS丸ゴシックのようなナール体に似たフォントを使ったものとがあり、ここ正雀支店は後者、MS丸ゴシックタイプの板になっている。
 ともあれ、機械を操作。09:59、近畿大阪銀行正雀支店を制覇した。近畿大阪銀行正雀支店は、1972年11月に近畿相互銀行正雀支店として開設された店。普銀転換と合併を経て近畿大阪銀行となった後、2002年6月に鳥飼支店を統合している。旧なみはや店舗の鳥飼支店(摂津市鳥飼八防1-8-4)は、なにわ銀行鳥飼支店として1990年10月に開設された店であった。

 さて、今日の「めぐ」は普段と異なり、ビジュアル的には4種類の通帳が必要である。近畿大阪銀・りそな銀各2口座ずつで、使い方としては「KO+RB」「RB+KO」「KOのみ」「RBのみ」の4種。どういうことかというと、今回は2つの銀行を混ぜて支店めぐりをするが、「めぐ」最大のポイントである通帳の店名記帳は銀行ごとに別になる(KOの店名はKOの通帳にしか記帳されない)。通常ならこれだけでOKだが、私は今回、2つの銀行を混ぜて回っていることの証拠を残すために、全部の店で取引をした通帳もRB・KOそれぞれについて用意することにした。というわけで「4種類の通帳」であり、1か所の制覇には制覇作業(預金取引)が3操作必要ということになる(「RBのみ」の口座はKOでは使わない。逆も同様)。私はりそなグループの各銀行とも口座を複数持っているからこうしたことが可能だ。どの取引にどの口座を使うかは、出発前に記帳を済ませておき、残りの行数がきれいに収まるもの、という基準で決めた。つくづくややこしい性格であると思う。
 なお、告知の記事に掲載した「百聞は一見に如かず」の画像は、これら4種類の通帳のうち「KO+RB」と「RB+KO」を並べたものである。2つの銀行で過不足なく取引をすると、2冊の通帳が対応関係になる。「0010」はりそな銀行、「0159」は近畿大阪銀行の金融機関コードであり、その次の3桁数字は店番号である。同じ持ち株会社傘下の銀行だが、グループ内とはいえ「他行」という扱いになるためこのような表示になっている。しかし、<.カード><.預金機><.支払機>という形で表記されている「摘要」の欄を少しいじれば、店名の漢字表示が可能になるのではないか。グループ内銀行での取引に限り、たとえば<.カード>の表記を<.カSR><.カKO>のような形の銀行名略号表記に変え、<(0159-098)>の形になっている部分を自行内同様の店名漢字表示に置き換えればよい。りそなには、銀行取引の楽しさを増すため、ぜひご検討いただけないだろうかと思う。

 正雀支店の制覇は終わった。次なるミッションは、10:25までに市バス井高野営業所に到着することである。
 計画では、この間1.5km強を徒歩でつなぐことにしており、からくも間に合うことになっている。スケジュールも十三から予定通りに戻っている。しかし、この感触では時間がけっこうキツキツになりそうだ。今日は雨も降っているし、計画どおり進めるためには歩いて行ったのでは厳しいと思う。無理をしないで、ここはタクシーで端折ることにした。タクシーなどというブルジョアジーの交通手段は、本来ならあまり使いたくないが、今回ここの移動に限ってはやむを得まい。
 流しのタクシーなど走ってはいないだろうから、正雀駅前に戻る。空車があればいいけれど、と思いながら駅まで歩いてくると、さっきのタクシー乗り場に早速1台停まっている。一瞬喜んだが、よく見ると客が乗ったまま停まっているだけなのであった。そのタクシーはすぐに走り去った。篠沢教授に1000点賭けて外れたような絶望感がした。これ以外に車はないのか。
 タクシー乗り場に多少の静寂が戻ってきた。駅の周囲は車通りも人通りもそれなりにあるけれども、タクシーだけが来ない。時計を見るとすでに10時を10分近く回っている。こんなことなら、駅まで戻って来ないで支店から直接井高野へ移動を始めておけばよかったかもしれない。もともと徒歩で間に合うハズの計画であり、府道一津屋線を歩いているうちに流しのタクシーに遭遇できたかもしれない。このまま1台も現れなかったらどうしようか。急に不安になってきた。

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 【注】屋上の大看板は現在では撤去されている。白地の看板類は緑色を主体としたりそなグループ共通デザインのものに取り替えられた。

2015年03月08日

2013.06.20(木)(6)正雀から井高野車庫へ

 困っていたところに、車が1台スッと近付いてきた。黒塗りで、屋根の上にランプが載っている。ちょうどうまい具合に個人タクシーが来たのだった。しかも、今度は空車のようだ。雨の降る中、干天の慈雨という言葉を思いながら、車に乗り込んだ。
 気さくな感じの運転手は、駅の近くに来ると、お客がいないか一応のぞいてみるのだという。正雀駅前の乗り場は、もともと阪急タクシー専用の乗り場だったそうだが、最近になって国際興業が1台だけ停められるようになったという。難しいことはわからないが、ただ一つ言えるのは、いざという時に役に立ったのが、排他的カルテルを結んでいる大企業の車ではなく個人タクシーだったということである。
 車は、韓国ヒュンダイ社製の3ナンバーのハイブリッド車だった。ここは大阪だから、この運転手は案外コリアン系だったりするのかもしれない。最近では韓国車というものをぽつぽつ見かけるようになった。乗用車は今回初めて乗るが、大型バスはすでに日本国内にけっこう入って来ている。今回より少し前に乗ったツアーバスが、ヒュンダイの「ユニバース」という観光バスだった。運転手に運転しての感触を聞いてみると、日本製のバスよりパワーがあって楽だと言っていた。タクシーはそんなに長距離を走るわけではないから、バスと違って“スタミナ”は必要ないかもしれないが。
 大阪に在日コリアンが多いのは、それなりの歴史的な背景がある。もともと日本と朝鮮半島とは弥生時代以来の交流があって、渡来人も少なからず住んでいたが、1910(明治43)年の日韓併合を機に多くの韓国・朝鮮人が移住するようになった。最初は工場や土木工事現場での労働者に始まり、1922年の済州島〜大阪間の航路開設により移住者が増加した。大阪の在日コリアンは、この関係で済州道(済州島)の出身者が多いとされている。その後、日中戦争の泥沼化や太平洋戦争突入で、もともと不足していた労働力がいっそう不足したため、いわゆる強制連行が1939年に始まった。連れてこられた人の多くは終戦後に自力で朝鮮半島に帰ったものの、経済力や渡航手段がなかった人は取り残され、また半島での生活基盤が失われていた人も日本に留まることになった。結果、1947年時点で約53万人の韓国・朝鮮人が日本に残り、これが在日コリアンの「一世」ということになる。「民団」(在日本大韓民国民団)の支部はこの近所にもある。

 正雀駅前を出たタクシーは、さっきの五差路から線路際の一方通行道を進んでいった。線路際といっても、線路との間には建物が建ち並んでいるから、車窓から電車が見えるわけではない。薫英女学院の敷地に突き当たって府道に入り、近畿大阪の正雀支店まではいま来た道を戻る。支店の隣にあるライフのすぐ先で、2車線×2の道路の作りかけと交差していたのが印象に残った。これは府道大阪高槻京都線のバイパスである。街の様子は駅前からさほど変わらず、住宅あり商店建築ありという状態で混ざっているけれども、一津屋線に面したところは心持ち商店が多いようだ。原稿をまとめている2014年秋時点での感想だが、商業の集積度合いを考えると、北おおさか信金はわざわざあの寂れた駅前に戻らないで旧十三信金の店をそのまま使った方がよいのでは、と思える。
 道の北側に建つピラミッドのようなベージュ色のビルは、摂津市民図書館。かつての学習院大学を思い起こした。その前をスロープで上がったところが、安威川の堤防である。堤防上に道路が通じており、井高野まで歩くならここを通るのが最も近い。しかし、タクシーは橋を渡ってそのまま直進していった。計画段階で、自動車使用の経路をウェブ検索した際、川沿いの道はどう検索をやり直しても絶対にヒットしてこなかったのを知っているから、「こっちの道じゃないんですか」という言葉が口から出かかったのは飲み込んだ。安威川橋から先でどんなコースをたどったのかさっぱりわからないが、とにかくタクシーは古い住宅地の中を裏道を縫うように走っていった。素直に行くと井高野地区の東南部に出るのだが、明らかに途中から裏道に曲がり込んでいる。
 それにしても、今日の計画の馬鹿さ加減がつくづく身にしみる。そもそも、たかが2泊3日の大阪出張に、コインロッカーに荷物を入れて身軽にならなければならぬほどの大荷物を持ってきていることが愚かである。さっき空港からモノレールに乗ったが、大阪モノレールは正雀支店横の交差点から歩いて10分あまりの場所に摂津駅を持つ。こちらからアプローチしていれば、電車賃こそ少々高かったかもしれないが、代わりにより高いタクシーにも乗らずに済んだかもしれないのである。

 私を乗せたタクシーが市営バス井高野営業所に到着したのは、10:23のことであった。
 10:27の発車時刻には辛うじて間に合うことができたが、タクシー代は当初の予想を超えていた。正雀駅前から井高野車庫まで、1220円もかかったのである。これは私の事前予想が甘かったのであって、正雀から井高野までは、前述のとおり近そうに見えても真っすぐ来られる道がない。ネットの地図検索によると、正雀〜井高野間は徒歩で20分あれば到達できるが、自動車による移動は道のりが4.5kmもある。後日正雀から井高野まで実際に歩いてみたが、最短コースと思われる道は、ことごとく途中に車止めが設置されており、自動車を使った移動は不可能であった。よって、裏道を縫って相当に遠回りしないといけないし、タクシーなら1200円ぐらいはやはりかかってしまうだろう。今日は雨も降っていたし、急いでいたから仕方がないのだ。

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2015年03月09日

2013.06.20(木)(7)井高野営業所を眺める

 井高野は、地図を一瞥しただけで高度成長期以降に開発が進んだ地域だとわかる。大阪市の最も外側に位置し、淀川の北岸、かつ神崎川・安威川・名称不明のもう1本【注1】、計3本の中小河川に囲まれた場所。東(茨木市方面)から流れてくる安威川が南西に向きを変えるあたりの左岸側が、井高野の地である。川の外側(右岸側)には工場や倉庫が多い。特に目立つのは大面積を必要とする鉄道関係の施設(またはその跡地)で、東海道新幹線の鳥飼車両基地・阪急電鉄の正雀工場・旧国鉄の吹田操車場跡地の3つが半径2km以内の場所にある。これが、事前のネット検索で判明した井高野という土地の姿であった。ただでさえ、河川に囲まれた地域は「陸の孤島」になりやすいから、ここもきっとそうなのだろう。
 市バス井高野車庫は、その北端に近い場所にある。南から北上して営業所まで来るバス通りは、門の前で90度東に曲がっている。車庫の界隈は市営と府営のアパートが建ち並ぶ団地であった。
 私の乗ってきたタクシーは、東側からやって来て、営業所の門の前、といっても道の反対側に停まった。バスとは違う道、バスの通らない道をたどって井高野営業所にたどり着いたわけである。なお、バス通りを南から〔井高野車庫前〕まで運行してきたバスは、すべて営業所の敷地内に乗り入れて、建物の手前で乗客を降ろしている。私のようなマニアックな人は別に構わないが、もう少し手前で降ろせばいいのにという気はする。井高野車庫は都バスの青梅車庫とは違い、ここから先に行くバスはない。
 タクシーを降りて、営業所の敷地の中へ。営業所は、口だけ細くて中がけっこう広い、壺のような形をしていた。入口の横には、1階が店舗になった4階建てのアパートが建っており、コンビニのデイリーヤマザキが営業していた。営業所の向かいは13階建ての高層住宅で、営業所との間には雑草の生えた家庭菜園と駐車場がある。敷地の隣は、おなじみのカステラのような形をした公営アパートが建ち並ぶ、市営の団地になっている。門の奥には、広大なバスの駐車場と、営業所の建物が見えている。
 「門」で特に記しておかなければならないのは、この井高野営業所の門に、表札が2枚付いていることである。一つは、大阪市交通局井高野営業所。これはまあ普通であるが、もう一つは変わっていて《南海バス株式会社 井高野営業所》となっている。大阪市交通局の機構改革(要するに赤字減らし)のため、市バス営業所のうちいくつかは民間委託されている。多くは、交通局が出資して作った「大阪シティバス梶vという第三セクターが担っているのだが、ここ井高野はどういうわけか南海電鉄のバス部門が運営している【注2】。井高野営業所が担当する市バスは、市の公務員ではなく、南海バスの社員が運転していることになる。この辺りをテリトリーとしている阪急や京阪ではなく、和歌山方面に向かう南海に委託されたあたりが謎めいているが、南海にしてみると摂津方面に進出する橋頭堡のような意味合いがあるのかもしれない。
 営業所は鉄筋コンクリートの4階建てで、相当古びていた。おそらく、営業所ができた頃に建てられたのだろう【注3】。住宅のような形をしている3階4階は、交通局の女子寮だったようだ。『なんたって18歳!』のような世界が繰り広げられていたのだと思うが【注4】、今となっては建物の上半分は鳥が巣を作らないよう網で覆われており、無人のようであった。敷地の中に目を転ずると、広大な駐車スペースはコンクリートでベッタリと舗装されている。アスファルトではなく、コンクリである。けっこう使い込んでいると見えて、ひび割れたり、小石が露出して表面がざらざらになっていたりする。そこに、視界に入るだけで7〜8台のバスが停まっている。駐車場全体では50〜60台ぐらいは置けるだろうか。

 バスの乗り場は、敷地入口近くにある。アルミサッシ付きのそこそこ新しそうな待合室が建っており、室内にはエアコンまで完備されているが、暑い時期に動かしてくれるかどうかは知らない。中にはベンチが2脚。鉄のフレームで、座面に木の板をスノコのように並べている。室内に「飲酒はご遠慮下さい」とわざわざ掲示してある。缶ビール片手に町をふらふらするのが好きな、私と同じような人が、この団地にもいるのであろう。外に目を転ずると、待合室の屋根がバスホームの屋根を兼ねており、床はインターロッキングになっている。屋根は雨漏りしており、蛍光灯の枠の部分から滴がポタポタポタポタ落ちている。蛍光灯はもうつけないのだろう。作ってそれほど日が経っていない待合室だと思うが、傷み方が相当に激しい。
 大阪市バスの通常のバス停ポールは正方形の行灯柱だが、ここ〔井高野車庫前〕は、幅1m高さ2.5m厚さ20cmぐらいの、分厚い板のような電光掲示板になっている。「調整中」という札が出ており、今日は電光掲示は稼働していないようだ。ここから出るバスは、4系統ある。系統の数が若干少ない気もするが、本数は大阪市営バスとしては多い方である。我が[93]は40分〜1時間に1本。[37]大阪駅前行きが1時間6本。後述するが、[37]は[93]の兄貴分のような系統である。それとは別に上新庄駅止まりの[50]が1時間に3〜4本あって、上新庄まではトータルで1時間10本以上出ていることになる【注5】。もう1系統は相川駅前行きである。
 電光掲示板の右側には、ボタンを押すと行先とか経由地を音声で案内してくれる機械の残骸がある。「残骸」というのは、もうすでに機械としては機能しておらず、ステンレスのガワだけが掲示板として使われているからだ。これを見ると、昔はこの営業所から5系統のバスが出ていたようだ。掲示されている順番どおりに書くと、[37]大阪駅前行き、[37B]上新庄駅前行き、[37A]相川駅前行き。そして、[93]歌島橋バスターミナル行きと[93C]福町行き。系統番号は[37][93]は変わっていないが、[37A]が[27]に、[37B]が[50]になり、[93C]が廃止されている。とにかく、機械の部分が古いままになっているということだ【注6】。

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 【注1】名称不明の1本は「番田井路」(ばんだ・いじ)。高槻市に源を発し、摂津市から安威川の南を並走、大阪市東淀川区北江口で神崎川に注ぐ川。江戸時代に高槻藩が造った放水路だった。「井路」は水路の意。
 【注2】南海バスは市バス営業所の運営を受託しているだけで、同社独自の路線があるわけではない。
 【注3】井高野営業所は1964.04.01開所。
 【注4】TBS系で1971〜72年に放映されたコメディドラマ。岡崎友紀の主演で、バスガイドを題材とした30分枠。制作は大映テレビ。
 【注5】2014年4月のダイヤ改正で、[93]は上新庄駅近くを経由しなくなった。井高野から上新庄までのバスの本数は、2014年4月以降は1時間に7本程度。
 【注6】古い行先は現在では除去されている。

2015年03月10日

2013.06.20(木)(8)10:27〔井高野車庫前〕を出発

 今日はもう雨は降らないのだろうか。空を見るとまだまだどんよりと曇っているけれども、路面も乾いてきたし、雨が降りそうな感じには見えない。このまま持ちこたえて欲しいと強く思う。いよいよ乗車の時が近づいてきた。
 1台のバスが奥の方から出てきて、待合室の前に横付けした。正面の電光掲示板に《[93]歌島橋バスターミナル》の文字が見えており、クリーム色の車体には水色の帯が引いてある。大阪市営バスの標準カラーはクリーム色に黄緑色の帯だが、天然ガス利用やハイブリッドなど、何らかの形で通常のディーゼルエンジンと異なる「低公害バス」は水色の帯になる。このバスはハイブリッド車であった。
 これが、私が乗る10:27発であった。行程の一番最初に貴重な車を使ってくれたわけだ。そう感謝する間もなく後部ドアが開き、早速乗り込む。大阪の市バスは都バス(23区内)と同じく均一運賃制だが、後乗り後払いであるところが都バスとは異なっている。私のほかの乗客は、数人の老人男性だけであった。
 まず、一日乗車券を買わねばならない。運転手に声をかけて「エンジョイエコカード」を購入する。平日用800円也。大阪市交通局のイメージキャラクター「にゃんばろう」が印刷された磁気カードで、システムとしては「スルッとKANSAI」のものを使っているようだ。
 「にゃんばろう」は「にゃん」と付くからにはネコなのだろう。こうしたシンボル的なキャラクターが人気を博すためにはいくつか条件があって、そのうちの一つはネコもしくはネズミであることだそうだ。言われてみれば、「ミッキーマウス」から始まって、「ドラえもん」「トムとジェリー」、滋賀県彦根市の「ひこにゃん」、『ポケットモンスター』の「ピカチュウ」、最近では『妖怪ウォッチ』の「ジバニャン」に至るまで、ほとんどすべてネコとネズミであり、イヌの「スヌーピー」は例外に近い。りそなも、この「めぐ」の翌日、2013年6月21日の株主総会で、ネコのイメージキャラ「りそにゃ」を導入すると発表した。こちらは人気を博すことができるだろうか。

 10:27、私を乗せたバスは〔井高野車庫前〕を定刻に発車した。
 出発して間もなく、女性の声で車内放送が入る。そのこと自体は東京も大阪も変わりがないが、ここでの第一声は次のようなものであった。《本日は市バスをご利用いただきありがとうございます。次は〔井高野小学校前〕、〔井高野小学校前〕。》初めが《本日は市バスをご利用いただき〜》になるのはいいとして、次にいきなり《次は〜》ときたのには参った。都バスの場合は、第一声の次に「このバスは、××経由△△行きでございます」のアナウンスが入るのだが、大阪はずいぶんあっさりしていて旅情も感じられない。しかも、停留所名の後に「です」すら付けない。ある落語家が、「です」は「でげす」の略で美しくないから「でございます」を使うようにと叱られた話をどこかで書いていた。出典を示せないのが歯がゆいが、そんな高尚な議論とは全く関係ないアナウンスであった。大阪市交通局は、削れるところは目いっぱい削っているようだ。
 黄色いセンターラインを引いた2車線の道が続いている。営業所からまっすぐ南下すると、最初の停留所はアナウンスのとおり〔井高野小学校前〕であるが、上新庄方面の停留所は小学校の手前にある。道の右(西)側には個人商店が何軒か建ち並び、あとはベランダ(のような部分。日本家屋では何と言うのだろうか)が崩れかけた古い木造家屋も見える。道の左側は新旧のカステラ形公営住宅の並び。市営か府営か知らないが、アパートの植え込みには雑草がだいぶ目立つ。マンションのように、キッチリ管理して、とはなかなかいかないようだ。乗客は見事なまでに高齢者ばかりで、それを反映してか、個人商店にまじって「デイケアセンター」という文字も見える。大阪市立井高野小学校は3階建て、鉄筋コンクリート建築としては新しいわけでもなさそうで、黎明期の建物が残っているのだと思う。
 2つ目は〔北江口〕。停留所南側の交差点は五差路になっている。メインの道路はここから左(東)に曲がる方向だが、斜め直進方向の道が2本、右へ行く道が1本。この五差路を直進すると商店街になっているようだ。
 メインの道筋に従って左折すると、そこに、大阪の市バスに特徴的なものが現れる。〔北江口〕の2つ目である【注】。同じ名前の停留所が、一つの交差点を挟んで複数あって、車内放送では《続いて北江口》と言っている。交差点北側にある最初の〔北江口〕を出た後、左折して東に向いたところにもう1つ別の〔北江口〕停留所があり、こちらのバス停ポールには《北江口(東)》と書いてあるのだ。個人的には、大阪独特のこのやり方は全国に普及して欲しいと思う。私が東京・新宿区の私立大学に入学した頃の話。最寄り駅の高田馬場から大学の中央図書館に行こうとして、駅前から早大正門行きの都営バス([学02]系統)に乗った。最寄りの停留所は〔西早稲田〕だが、ここは西早稲田の交差点を挟んで停留所が2つあり、行先に応じて停まるポールが異なっている。私は交差点の手前にある停留所で降りるつもりでいたが、私が乗っている「学バス」は信号を抜けて南東側の銭湯付近にある停留所に停車する。交差点の先まで連れていかれた私は、心の中で涙を流したのだった。「大阪方式」だと、〔西早稲田〕では両方のポールにバスが停まることになる。

 右を見ても左を見ても、公営アパートの建物が視界から離れることはない。市営か府営かの違いはあるのかもしれないが、私には区別がつかない。このあたりの公営アパートは、ちょっと広めの空き地があったからカステラ形のビルを建ててみました、という印象が強い。そう思っていると、3つめの〔北江口住宅前〕。停留所のたびに停まって、客を1人2人ずつ拾っていくという感じである。このあたりには5階建てのアパートばかりが建ち並んでいる。後で調べてみたら、〔北江口住宅前〕の近所にあるのは市営アパートばかりのようだった。大きなカステラの南側に、居間などの小さなカステラを増築している。上から見ると多分櫛形をしているのだろう。10階建て11階建てぐらいの高層アパートも何軒か見えるけれども、基本的には普通のカステラ形の建物ばかりである。
 この〔北江口住宅前〕停留所そばの名もなき四つ角は、北東角が水田になっている。しかもこの田んぼは今、乗って動かすタイプの大型田植え機で田植えをしている。こんな大がかりな水稲耕作をやっている家が、大阪市内にあるということだ。水田には「生産緑地地区 大阪市」という杭が打ってあるが、補助金でも出ているのだろうか。なお、この停留所には「(地下鉄井高野)」と副名称がついている。水田そばの四つ角を通る道が、井高野地区を南北に貫くメインストリートで、この道の下に地下鉄今里筋線がある。交差点から南側に見えている、山吹色に塗られた四角い門のような建物が、地下鉄井高野駅の入口。水田から50mも離れていないところに地下鉄を持ってきたわけだ。かつてこの地区は人のほとんど住んでいない水田地帯であったが、その名残が〔北江口住宅前〕付近に残っているのであった。

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 【注】北江口の「2つ目」は上新庄方向のみ。

2015年03月11日

2013.06.20(木)(9)近畿大阪・井高野支店を制覇

 〔北江口住宅前〕から東は、道幅などは変わらないけれども、カステラの並んだ団地ではなく純然たる住宅地の真ん中を走る道になった。対面2車線黄色センターラインの道端には、「市バス徐行運転厳守」という看板が至る所に出ている。ここの法定速度は30km/hだが、あまりスピードの出せそうな道とは感じられないので、意外な気がした、道路に面した所は、民有地らしく民家が並んでいるが、それほど古い建物はなさそうだ。建ち並ぶ切妻の民家は、破風下の三角形の部分についている通風孔の形が独特で、建築年代は古いものでも昭和40年代前半だと思われる。要するに、この地域が開発された当時とさほど変わっていないのだろう。最近になって開発期に建った家屋が建て替えられ、建ぺい率いっぱいの3階建ての細長い家屋になり始めているけれども、まだまだ開発当時の建物が健在である。
 摂津水都(現北おおさか)信用金庫の支店がある。支店名は井高野支店ではなく「江口支店」となっている。信金の向かいに保育園があり、近畿大阪の東側には関西の家電店マツヤデンキがある(井高野店)。保育園は規模がかなり大きいと見えるが、電器屋は大規模な店とは見えないからフランチャイズ店なのかもしれない。さっきデイケアセンターを見たけれども、保育園や××個別指導学院などの若年層向け営業(学習塾)もあるから、住民の年齢層はバランスよく推移しているようだ。
 そして、近畿大阪銀行の前を通り過ぎた。井高野支店が〔北江口住宅前〕と〔井高野南口〕とのちょうど中間地点にあるのは、事前のリサーチでわかっている。わざと1つ乗り越して、支店まで行く様子を車内から下見したかったのである。バスはT字路、厳密には十字路だけれどもまあT字路で突き当たって右折し、似たような道路に出る。いよいよ、[93]最初の降車ポイント〔井高野南口〕であった。ちなみに、この角で左折すると、井高野地区の外周をぐるりと回って、市バス営業所の前に戻る。この道は井高野の主要な土地より微妙に高くなっているから、川の自然堤防だったと思われる。
 私はふと、小学生時代を過ごした群馬県前橋市の郊外を思い出していた。私の一家は、小学校入学の直前に東京を離れ、中学2年の春まで前橋市西部のM町に住んでいた。いわゆる「昭和の大合併」により前橋市に加わった地域で、1966年に造成が始まった住宅地である。団地の中の道筋は規則正しく整えられていたものの、団地を一歩離れるとそこは昔ながらの農村地帯の面影が残っていた。もちろんこうした地域にも開発の手は延びつつあって、カステラ形の鉄筋アパートこそほとんどなかったものの、水田地帯をつぶして住宅地が徐々に蚕食していた。道路網にしても、井高野営業所前の急カーブに象徴されるこの地域の複雑な道は、昔の農道をなし崩し的に広げた結果と思われる。車が通れるか否かの違いだけで、道筋そのものは昭和30年代以前とさほど変わっていないのだろう。というわけで、私はこの井高野の土地の様子には、ある種の懐かしさを覚えたのであった。M町は前橋市の中心市街地から利根川を挟んで“川向こう”にあたるから、その点でも井高野と似ている。

 バスを〔井高野南口〕で降りたのは失敗で、〔北江口住宅前〕で降りればよかったと思う。乗り越しにあまり意味はなく、停留所1つ分の時間を無駄にしただけで終わった。
 営業所からここまで乗ってきての印象だが、この団地の商業はかなり分散しているようだ。銀行があるという事実からは地下鉄駅の周辺が一応中心地だと思われるが、中心街があるわけではないし、公団の団地では普通にみられた「団地センター」のようなものは、ここ井高野には存在しないようだ。府営アパートと市営アパートが混在していることでもわかるように、この地区はどこかがイニシアチブをとって統一的に開発するということがなかったのだと思われる。近所に若干ある商店街も、あくまで若干商業集積がある「かな」ぐらいの感じである。後日団地の内外を車で走り回ってみた限りでは、日常の買い回りができる商店街ではなさそうだった。スーパーは一応団地の周辺に散らばっているようだから、生活物資の調達に困ることはなさそうだが。
 さて、近畿大阪まで戻って来た。井高野支店の店頭でまず目につくのが、石油か温泉でも掘削しているかのような頑丈そうな鉄骨のやぐらで、そこは「近畿大阪銀行」の白い縦型看板になっている【注】。店先にはガラスのショーケースのようなポスターの掲示場があるが、これまた頑丈そうな外観で、20cm角くらいのステンレスの角柱2本でガッチリ支えられている。ポスター枠の中には、この4月(2013年)に交代した中前公志新社長の写真が大きくデザインされたポスターが貼ってあった。中前氏は近畿相互銀行の出身で、近畿大阪では初代頭取の高谷保宏氏以来10年ぶりとなるプロパー(生え抜き)社長である。高谷氏以降の頭取/社長は、大和銀行や協和銀行の出身者ばかりであった。
 支店入口には、清涼飲料の自動販売機が置いてある。店先の自販機は近畿大阪らしいと言えるが、さっきの正雀支店では気がつかなかった。この店には「かおりちゃん」というブランドの自販機が置いてあり、500mlペットボトルの緑茶が1本110円であった。「かおりちゃん」は河内の松原市に本社を置く宇治森徳という会社のブランドで、同社の取引銀行筆頭は近畿大阪(松原支店)だそうだ。
 店に入ると、前面にガラスのスライドドアがついたスチール書棚が2基あって、「井高野文庫」と称して多少の古本が置いてあった。この手の古本文庫は、名古屋のあさひ銀行下一色支店(廃店)で、とてつもなく大規模なものを見たことがある。10m幅くらいの壁面いっぱいに設えられた棚に、古本がギッシリ詰めてあった。井高野支店は棚が2つとはいえ中がスカスカだから、小規模なものである。「子供の本のへや」を各支店に設置して幼児・児童向けの本を並べていた旧奈良銀行もそうだったが、利用者向けの「本棚」で印象に残っている店が、りそなグループにはいくつかある。
 キャッシュコーナーの機械枠は濃いブルーメタリックの塗装がなされており、旧大阪銀行のバブル期以後の内装と思われた。機械上部にある「お預け入れ」「お引き出し」等の表示は行灯ではなく、透過性のない水色の板に取り換えられている。そこに書かれている文字はゴナ系の書体だから、そんなに古臭い感じはしない。ATMは5台全部が日立オムロンのAK-1であった。近畿大阪は2008年7月のシステム統合の際に機械を一斉に取り換えた店が多く、ATM全部がAK-1というパターンが多い。ATM5台の右側に両替機があった。窓口室は多分それなりに改装してあると思う。機械を操作。10:38、井高野支店を制覇した。

 近畿大阪銀行井高野支店は、大阪銀行井高野支店として1972年11月に開設された。

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 【注】店頭の大看板はその後撤去された。

2015年03月12日

2013.06.20(木)(10)地下鉄井高野駅にて

 次の目的地は〔瑞光二丁目〕である。近畿大阪の東淀川支店、りそなの上新庄支店の2店を一気に取る計画だ。11:11発までまだ余裕があるので、ちょっと用を足したいと思ったが、見たところ近所にコンビニはないようだ。地下鉄の駅で借りることにしよう。
 〔北江口住宅前〕のそば、水田のある四つ角から南へ50mも歩くと、さっき見えていた山吹色の建物にたどり着く。これが市営地下鉄今里筋線井高野駅の入口である。山吹色は今里筋線のラインカラーだが、どんな由来があるのかは知らない。
 エレベーターで地下に下りると、困ったことが起きた。駅員がいないのである。まさか無断で入るわけにもいかないだろう。どうしようか。今里筋線は10分間隔での運転で、地下鉄としては本数が少ない部類だから、駅員の数も少ないに違いない。と、一瞬困ったものの、問題はあっという間に解決した。私は「エンジョイエコカード」という素晴らしいものを持っている。これで堂々と入ればよいのだ。エンジョイエコカードは、スルッとKANSAIと同じシステムで自動改札に通せるし、地下鉄に乗ったという記録がカードの裏に出る。かくして、井高野駅の改札を11:03に入り、11:05に出てきた記録が、私のカードに印字された。今思えば、自分の排泄時刻を記録したのと同じであった。
 駅の外に出た。駅前にはこの地域の「集会所」が建っている。青梅で自治会館と言っていたものと同じだろう。この箱型2階建ての集会所は、割合最近新築されたような外観であった。手前を見ると、〔地下鉄井高野〕という停留所がある。さっきの〔北江口住宅前(地下鉄井高野)〕とは別の停留所で、ここから発着するのは、阪急京都線相川駅へ行く[27]だけだ。ちょうど今、1時間に1本しかない貴重な相川駅行きのバスが〔地下鉄井高野〕を発車していった。
 私は、この今里筋線という地下鉄のことを考えていた。この地に地下鉄を作ったということは、乗客を地下鉄にシフトしたかったハズなのだが、結局この地域のバスはそのまま残ってしまっている。一言でいうと今里筋線が不便だからだ。大阪の代表的中心地であるキタにもミナミにも乗り換えが必須、しかも遠回りになる上、乗り換えそのものも連絡通路は長く階段は段数が多い。井高野近辺の流動は、第一に上新庄経由でのキタ方面だと思うが、この地下鉄では上新庄に行くニーズは満たされない。井高野から地下鉄を掘るのなら、それこそバスの[93]の下に忠実に掘った方がよかったのではないか。そして、地下鉄は運賃が高い。
 もっとも、だからこそ市バス井高野営業所は健在なわけである。大阪に限ったことではないが、地下鉄を建設する理由は、バスでは運びきれないほどの乗客がいるからだ。ところが、そういう路線はバス事業にとっても“ドル箱”なのであり、バス部門にとって地下鉄の開業とは、高い収益を上げられる路線を失うことを意味する。大阪の市バスが不採算になっているのは、地下鉄の整備が進んで乗客がバスからシフトしたことも原因の一つにあるのではないかと思う。その例外が、地下鉄ができたにもかかわらず乗客がバスからシフトしない井高野地区であったということだろう。

 〔北江口住宅前〕に戻ってきた。雨よけとして、クリーム色の鉄のポールが2本立ち、緑色のテントが付いている。テントの下にはベンチが置いてあるけれども、今日座る人はいないだろう。バス停ポールはバス接近情報システムのついたスチール製で、がたいの大きなダークグリーン。さっき〔井高野車庫前〕でも情報システムの機械を見たが、途中停留所のそれはもう少しコンパクトで、正方形断面の四角柱に収まるようなサイズになっている。接近情報システムが完璧に整備されている代わりに、バス停に掲示された時刻表には「1分〜10分間隔」としか書かれていない。ここは、上新庄までなら、バスが頻繁に来る便利な土地である。
 機械によると、次に来るバスは上新庄駅行きの[50]らしい。私が乗る[93]はその後であるようだ。ほどなく《間もなく江口橋方面、上新庄駅前行きのバス、がまいります》と自動放送があり、[50]のところに「まもなく来ます」のランプが点灯した。パネルには系統ごとに「3つ前」「2つ前」「1つ前」と白文字で書いてあり、その文字の間に矢印が点滅している。矢印の上に「まもなく/来ます」という2段の文字が赤で浮き上がっている。ほどなく上新庄行きが来て、私以外の客を全員乗せて発車して行った。
 バスが去ってしまうと、この団地から人が消えてしまったかのような静けさが漂った。人はちらほらと歩いている程度。朝のラッシュ時なら児童や生徒もいるのかもしれないが、今はみな会社だの学校だのに行っている。民間の車もそんなに行き来していないし、ここで見ているとバスの台数の方がはるかに多い。営業運転のバスばかりでなく、《整備回送》という前面表示を出したバスが車庫の方に向かって行った。運用の回送と、それ以外のメンテナンス時の回送は違うようだ。大阪市バスの整備工場は、ユニバーサルシティ近くの酉島営業所(此花区)にあるが、そこから来たのだろう。
 なお、団地内の年齢層がほどよくバランスしているとさっき書いたけれども、やはり全体的に高齢化に傾いているのは否めないようだ。バスを降りて銀行へ行って戻ってくるまでの間、若い人には見事なまでに出会っていない。今日ここ井高野で見た一番若い人は、近畿大阪銀行のロビー係の女性である。この様子からすると、団地に残っているのは年寄りと主婦ばかりかもしれない。
 歌島橋行きは、そろそろ来るのだろうか。

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2015年03月13日

2013.06.20(木)(11)井高野を離れて江口橋を渡る

 接近情報システムは「まもなく来ます」がけっこう早い時間に出るようで、バスの運行としてはぴったり定時であった。後でチェックした限りでは、だいたいバスが来る2分前ぐらいに「まもなく来ます」の表示がつくようだ。
 〔北江口住宅前〕から1つ目の〔井高野南口〕までは、さっきも乗った区間である。制覇したばかりの近畿大阪を左に見つつ東に進み、交差点で右折する。右に曲がってすぐ〔井高野南口〕。ここは、高齢者ではないお客がけっこう乗ってきた。せっかく建設した地下鉄は、本来ならこういう人たちがシフトしてくるハズだったのだろう。
 〔井高野南口〕から南に進むと、カステラのような四角い公営アパートは少なくなった。代わりに、集合住宅としては「xx荘」という名前の付いていそうな民間アパートばかりになる。スーパーやホカ弁屋が見え、団地の中とは違った生活のにおいが感じられた。今走っている道路は、和気清麻呂が築造したという神崎川の旧河道だそうだ。大阪市と摂津市との境界線にもなっており、〔井高野南口〕と次の〔江口橋〕の2停留所は、南行きのポールが摂津市側に位置している。
 前方に見える東海道新幹線の高架橋をくぐるや否や、バスは急に大きく左に曲がり、赤信号で停車した。ここは、井高野方面への道が、府道大阪高槻線からy字形に分かれる分岐の北側である。地図を見るとこのy字路はまっすぐ行けることになっているのだが、実地では、いま走っている南行きの車線は左(東)に直角に曲がり、南北に走る大阪高槻線にT字路の形で突き当たっている。後日観察してみたが、北行き車線の方も、単純なy字分岐のようでいて微妙に折れ曲がっている。以前[梅70]篇で書いた、東大和市駅前から南街に向かう青梅街道の分岐のような感じ。ここは道路の付け替えが多少行われたようで、井高野方面はどちらからも直進では出入りできない。なお、分岐の横にはガストがあって、この近所ではほとんど唯一のファミレスとなっている。
 突き当たった大阪高槻線は、瑞光方面から摂津市を経て高槻市に抜ける道で、高度成長期以後に開通した道路である。やはり対面2車線黄色センターラインで、道幅そのものはこれまでと変わらない。しかし、通る車の種類や密度が団地の中とは違って、幹線道路の空気が出てきた。突き当たりの先には、10階建てぐらいの大きな建物が壁のように広がっている。これは府営アパートである。信号が変わり、右折して大阪高槻線に入るとすぐ、府営アパートを背に〔江口橋〕の南行き停留所がある。ちなみに、市バスの北行きは団地からの道、新幹線ガードの手前北側にある。
 井高野営業所が1964年に開設される前、市バスの路線はここ〔江口橋〕までであった。折り返しをどういう形態で行っていたかは知らない。昭和30年代にバスの終点(=目的地)であったここ〔江口橋〕は、現在でも意外に重要拠点で、3つのバス会社計5本のバス停ポールが散らばっている。市バスの2本については前述したが、大阪高槻線の分岐北側には近鉄バスの停留所がある。さっき正雀で見かけたのと同じ路線(摂津市内循環線)で、神崎川沿いに東から来て江口橋北詰の交差点で北に曲がってくる。片方向のみの運行で、南行きの停留所はない。そしてもう1本、神崎川沿いに走っているのが阪急バスの吹田摂津線で、交差点を挟んで東と西に1本ずつ停留所が立っている。これらのバスは、いずれも計画段階で井高野車庫へのアプローチに使用できるか検討したが、採用しなかったのであった。

 〔江口橋〕を出てすぐ、神崎川を渡る。言うまでもなく、停留所名にもなっている江口橋を渡っているわけである。橋の上から、川沿いに高い煙突が建っているのが見える。清掃工場と見たが、後で調べてみると思ったとおり大阪市環境局の東淀工場であった。こういう迷惑施設に近いものは、やはり周縁部にできやすいのだろう。川を渡ってすぐ右側に複数見える、10階建てぐらいの集合住宅は、市営アパートである。市営アパートでも高層の建物は、もともと市営の「住宅」、つまり平屋建ての長屋が建っていたところを再開発したものが多いようで、ここもそうだし、井高野車庫南側で今回触れなかったバス通りの東もそれに該当する。府道に直接面するこのあたりの街並みは、印象では井高野の団地内より開発時期が古いと思われ、たまに見かける雑居ビルも古めかしい。あとは民間の低家賃アパート。商業は少なくて、4階ぐらいの住宅の建物で1階だけが店舗という形が目につく。商店の棟割り長屋もなくはないが、独立店舗の商店建築はあまり見ない。業種は、個人商店とフランチャイズのようなチェーン店ばかりである。
 スーパーのライフ(江口店)の向かい側に、〔江口君堂前〕(えぐちきみどうまえ)の停留所がある。江口(の)君堂は寂光寺という名前の寺だが、「江口の君」という女性が創建したためこちらの別名が通っている。1167年秋、西行法師がこの地で雨に遭い、一軒の民家で雨宿りを求めたが断られた。その時に西行と短歌のやり取りを行ったのが、その家の主、妙(たえ)という女性であった。妙は歌のやり取りが縁で尼となり、寂光寺を創建して人々の相談に乗る余生を送った。西行法師が活躍した平安時代の末期、淀川から神崎川が分岐するこの地は水上交通の要衝として賑わっており、遊女の里でもあったそうだ。妙は平家の武将の娘だったが、平家没落後に遊女に身を落としたという。
 なお、[93]に限らず井高野方面のすべての市バスに共通するが、この〔江口橋〕から〔江口君堂前〕にかけての区間は、往路と復路で通り道が違う。北行き一方通行の道が府道の西側を並走しており、江口橋の南詰にある分岐で合流する。〔江口君堂前〕の北行きの停留所は、一方通行道のライフ裏手にある。

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2015年03月14日

2013.06.20(木)(12)新幹線に沿って〔瑞光二丁目〕へ

 〔江口君堂前〕を出るとすぐ、バスは何の変哲もない交差点で右折して大阪高槻線から離れる。まさに何の変哲もなく見えるこの交差点は、実は一般車の右折が禁じられていて、ここで右折できるのは路線バスだけである【注1】。一応道路標識は出ているようだが、どこに出ているか分からないような出し方。当然ネズミ取りの重要ポイントであり、交通課の警官が取り締まりノルマを手っ取り早く稼ぐための格好の“穴場”となっている。
 私を乗せたバスは、団地のような建物密集地の中に再び入ってきた。ここもやはり対面2車線の黄色センターラインの道で、このあたりからバスはまた上りも下りも同じ道を走るようになる。小規模な工業団地なのか、町工場のような建物が並んでいるところを通るが、工場街は一瞬で抜けてしまい、再び住宅地に戻った。ところで、さっきから私のバスの真ん前には、上新庄駅行きの50号系統のバスがぴったり張りついている。この車に乗る少し前に〔北江口住宅前〕で私が見送ったバス。上新庄駅の手前まで全く同じ道をたどるから、ダイヤ的にもう少し間隔が開けば、途中で追いつくこともなくて無駄が少ないのではないかと思う。
 持ち主が様々であるらしく種々な形態の集合住宅が建ち並ぶ〔瑞光四丁目〕を経て、地下鉄今里筋線との乗り換え停留所〔地下鉄瑞光四丁目〕。地下鉄の駅は通りを挟んだ瑞光中学校の向こう側で、地下鉄とバスとの接続の便を図っているわけではない。まあこの駅は井高野の隣の駅だから、地下鉄に沿って走っているこの地域のバスから乗り換える客はいないだろうが。この停留所はバス通りに面したカステラ形の市営アパートの前にあり、その隣には「大阪経済大学」の文字の入った5階建ての建物。キャンパスからは少し離れたところにあるようだが、瓦つきの塀と門で「和」をことさらに強調しているのは、留学生を相手にした合宿所とか、国際交流センターみたいなものだろうか。なお大経大は、りそな銀行の初代頭取だった勝田泰久氏(大和銀出身)が、公的資金注入で頭取を退任したのちに理事長をしていた大学である。
 斜めにクロスしている交差点で左に曲がる。歩道が整備され、街路樹も植わっていて、住宅街の中を走る比較的新しい対面2車線道路である。そして、大経大のキャンパス前がまた斜めクロスの四つ角で、ここで右折すると【注2】初めて2車線×2の幹線道路になった。正確には2車線×2ではなく対面2車線だけれども、中央分離帯が付いており、歩道も非常に広く取ってあるから、片側2車線のように見える。大学のレンガ積みの塀が続く道に〔大阪経大前〕がある。道沿いには1階だけ店舗になっているアパートのような建物が多いようだ。

 大阪信用金庫の上新庄支店が見える。大信は天王寺区に本店を置き、大阪の南部方面を基盤としているが、そういう信金が大阪市の最北端に近いこの地に支店を構えているのは、金融危機に伴う再編の結果である。大信は1992年〜2004年の間に、2つの信用金庫を合併し、また経営蹉跌した信金3金庫を引き受けている。上新庄支店は2001年10月に経営が蹉跌した大阪第一信用金庫(本店中央区)の上新庄支店だった店舗だが、支店自体の歴史は1949年から始まっている。
 大信の先には、ハングル文字が並んだ学校建築が左側に見える。朝鮮学校、正式名称を北大阪朝鮮初中級学校というから、日本でいう小・中学校にあたる。正雀で乗ったタクシーがヒュンダイの車であったのを鮮やかに思い出した。新幹線の高架が再び近づいてきたと思ったところに、大隅一丁目の四つ角がある。さっき〔江口橋〕の手前でくぐって以来姿を隠していたが、バスは東海道新幹線に沿って走っている。大隅1で今度は右に曲がり、そこで新幹線の下をくぐる。角に親子丼チェーンのなか卯(上新庄店)が見えた。
 市バスは井高野から上新庄までの間で頻繁に右左折を繰り返している。路線バスだから客に寄り添うのは仕方がないが、わざわざ細かいところに回り込んで複雑にしている感じがしなくもない。〔江口君堂前〕の南で曲がらずまっすぐ来れば、それなりに素直な道筋なのである。もちろんこんな道筋になっているのはそれなりに理由があって、大阪高槻線という府道自体が1963年着工と新しい道で、バスの経路は府道ができる前の道筋をかなり残している。さっき〔江口君堂前〕付近で往路と復路の道が違ったのも同じ理由だ(北行きの一方通行道が旧道)。一方、新しい道の顔も立てなければならないから、その結果として経大のそばで右左折を1組余計に入れることになった。改変は1978年11月に行われたようだ。
 大隅1交差点の角には、この付近の地名のもととなった瑞光寺の看板が出ているのが見える。幅70cmぐらいの白い正方形柱で、厄よけ・水子・子授・腹帯などと毛筆体で黒々と書いてある。看板の奥は聖徳太子が創建したという臨済宗のお寺で、「鯨橋」の文字が見えた。寺の境内にかかる橋で、正式名を「雪鯨橋」という。かつて、捕鯨で有名な太地(和歌山県)の漁師に豊漁を祈願することを求められ、その謝礼として贈られたクジラの骨を使って作られた。住職は当初、豊漁の祈念を「殺生は五戒の一つ」として断っており、供養の意味でこの橋をかけたという。後日現物を見てきたが、橋自体は普通の石の橋で、太鼓橋の欄干と、縦柱の間に付いている柵の部分にクジラの骨が使われているだけ。欄干の縦柱は普通の石だし、「クジラの骨でできた橋」という宣伝文句に釣られて行くと、ガッカリすると思う。

 大隅一丁目から、今度こそ本当に2車線×2の幹線道路に曲がり込んだ。内環状線(国道479号)といい、住之江区を起点に喜連瓜破(きれうりわり、平野区)から守口市をかすめてここまで来る道路である。

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 【注1】一般車の右折禁止は07:00〜20:00。
 【注2】2014年4月のダイヤ改正で[93]の経路が変わり、大阪経済大学前の交差点は直進するようになった。〔東淀川区役所前〕を経由し、淀川通に〔豊新二丁目〕で入る。

2015年03月15日

2013.06.20(木)(13)見る前に飛べ!

 11:27、私を乗せたバスは〔瑞光二丁目〕に到着した。予定では11:23着ということになっているから、3〜4分遅れが出ているようだが、まあ雨模様だから多少は仕方がないだろう。
 ここは2つの制覇目標が近接しているので、2か所まとめて取ることになっている。2か所行ったら1時間後のバスには間に合わないだろうから、持ち時間を倍の2時間確保し、次の次のバスに乗ることにした。そうすると今度は時間が余り過ぎるので、その余剰時間を使って上新庄で昼飯にする予定である。
 バスを降りた私は、何も考えずにそのまままっすぐ歩き出した。いま歩いている内環状線は、阪急上新庄駅の先で淀川通と分かれて豊中市に至る道である。さっきまで片側2車線だったが、停留所のあたりからは3車線になっている。さらに車がすれ違えそうなほど幅の広い歩道が付いているから、この道は相当に交通量が多いようだ。幹線道路沿いだからマンションも建ち並んでいるけれども、周辺は普通の住宅地であった。
 近畿大阪の支店はこの近辺の角だった気がするが、リサーチした際の記憶があやふやだ。一応メモを持っているのだが、私はこういう時、ついつい億劫がってメモを見ない癖がある。だから、それで失敗することも多い。「見る前に飛べ!」という考え方には基本的に与しないのだが、根がものぐさなので、結果としてそれに近い行動原理となることが多いのである。
 農協(JA大阪市東淀川支店)と関西スーパー(瑞光店)のある無名の交差点に来た。上新庄駅行きのバスは、ここで左折して駅に進入していく。また、井高野方面からのバスはかつて、(さっきの大隅1ではなく)この四つ角に出てきていた。ここから〔江口君堂前〕の南側まで直進で行ける。交差点のそばには、「皇紀二千六百年記念」なる石碑を立てた民家があった。民家というか、瓦葺きの塀がついた、名士の家と思われる家である。皇紀2600年は昭和15年、西暦でいうと1940年であり、この家は太平洋戦争の頃からあったことになる。私は皇紀という紀年法に現代日本人としてはなじんでいる方だと思う。自分の年齢について、嘘はつきたくないがさりとてスンナリ言いたくもないとき、皇紀を使って自分の生年を「2628年」と言っている。そのために、自分のHPにも換算表をコンテンツとして入れているぐらいだからだ。それはともかくとして…。
 違う。前方に阪急京都線の高架が見えてきた。目的地は上新庄駅とは反対側である。つまり、停留所から後方だ。なんたることか。

 足取り重く、進行方向を360度転換した。さっきバスが曲がった大隅1の交差点を越えて、内環状線を300mほど東に進んだ先。府道大阪高槻線とクロスする大桐(だいどう)二丁目交差点の角が、近畿大阪の東淀川支店である【注】。
 外壁が水色に塗ってあるJA大阪市の東淀川支店は、壁面に「定礎 昭和39年7月」と彫ってあった。定礎石ではなくて、壁面のコンクリートに直接文字を彫り込み、文字の中に黒い塗料を入れてある。生きている人の名前を墓石に先行して彫り込んだ時には赤の塗料を入れるけれども、それと同じ形態である。あの頃の斬新なやり方なのかしらと思った。自転車に乗った女子高生とこんな時間にすれ違った。見事なまでにロングスカートだった。ミニのトレンドは関西では完全に終わっている、と言い続けてもう何年になるだろうか。
 東海道新幹線の高架を抜ける。大宮のニューシャトルのような形態でこのあたりに新交通の駅でもあったら便利だろうと思うが、あり得ないのはよくわかっている。というわけで、大桐2の交差点までやって来た。近畿大阪銀行東淀川支店のほか、上層階がアパートになった雑居ビルと、スーパーマーケット(デイリーカナートイズミヤ豊新店)、カーディーラー(関西マツダ東淀川)がある。
 デイリーカナートは、最近阪急の傘下に入った関西の大手スーパー、イズミヤの食品スーパー業態である。建物の本体は軽量な印象だが、屋上に駐車場があるからそれなりに頑丈なつくりなのだろう。段ボールの片面だけ剥がしたような凸凹のついた茶色いパラペットに、「DAILY QANAT」の金属製の切り抜き文字が付いている。クリーム色の壁面には、黒で「名称由来」というものが印刷されている。《カナートとは乾燥地帯において地下水を地上にくみ上げるための地下水路オアシスの意味で、アラビア語源とされています》だそうだ。大学受験で社会科が地理選択だった私は、その頃習った中東砂漠地帯の地下水路の名称、カレーズ(ペルシャ語)・カナート(アラビア語)・フォガラ(同)の3点セットを今でも覚えている。こんなところで遭遇するとは思わなかった。
 それはともかく、アラビア語に「デイリー」という英語をつけたら何になるのだろうか。かつて『ブルー・シャトウ』という歌があったが、こうした言語チャンポンは、どうも多少の居心地の悪さがある。ジャッキー吉川とブルー・コメッツのこの歌がヒットした1967年、私はまだ生まれていない。ただし、この歌のメロディーは幼少期から知っていた。「♪コリと痛みに悩まされて」という、肩凝り湿布薬のCMソングとして。

 大桐2交差点の先に何があるかにも触れておこう。内環状線を400mほど行った先には、地下鉄今里筋線のだいどう豊里駅がある。難読地名を安易にひらがなに開くのは私は感心しないのだが、この駅の近所には、だいどうと読む地名が「大道」「大桐」と複数あって、漢字表記を一つに絞り切れないからやむを得ない。本来の表記は「大道」だそうであるが。それはともかく、井高野から南下してきた地下鉄は、瑞光四丁目でコースを東向きに変え、この駅から内環状線の下を通って南下を続ける。井高野の方から来る流れとしては、ここから西に曲がって上新庄に出るのがベストだけれども、一番肝心なところで南にそれてしまう。歴史的に今里方面への移動ニーズが強いわけでもなさそうだし、梅田までバス一本で行けるとなれば、運賃が高い地下鉄よりもバスを選ぶだろうと思う。
 大桐2では、府道大阪高槻線と交差している。高槻方面に100mあまり行くと「かみしんプラザ」というショッピングセンターがある。このSC内に、三菱東京UFJ銀行が上新庄支店を出している(旧三和銀)。さっきのデイリーカナートの店内に三菱東京UFJの店舗外ATMがあるが、その母店である。

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 【注】2014年4月のダイヤ改正で[93]の経路が変わり、近畿大阪銀行東淀川支店の至近停留所〔大桐二丁目〕を経由するようになった。大阪経済大学の南側で右折、支店前の交差点を通って東淀川区役所に向かう。

2015年03月16日

2013.06.20(木)(14)近畿大阪・東淀川支店を制覇

 「見る前に飛べ!」で10分ぐらい無駄にしてしまったが、ようやく近畿大阪銀行東淀川支店にたどり着いた。
 支店は、大桐2交差点に建つ4階建て雑居ビルの1階に入っている。北沢ビルという名前だから、地主が北沢さんなのだろう。このビルは、横に平べったい外観をしており、交差点の角地にあるということで、前面が125度ぐらいの角度を持っている。四つ角としては普通に直角クロスする四つ角だから、店舗入口で1mぐらいの奥行を取って、鈍角の斜めの部分をけっこう幅広く取っている。2階までの高さを持つ茶筒のような円筒が建物の両端についていて、左右対称の外観になっている。向かって左の茶筒は階段室のようだ。
 左端にある茶筒の右側は、切り欠きになっていて、近畿大阪の駐車場入口である。そこに「昭和五十五年一月吉日」と彫られた定礎石がはめてある。この年月日は支店開設の数か月前だから、ビルの名前はともかく、建物のメインはやはり銀行なのだと思う。《お客様駐車場》と書いてあるこの駐車場は、2台しか停められないし、すでに1台停まっている白い軽乗用車は銀行の外回りの車ではないだろうか。どう見ても支店の業務用駐車場として使われている。白い軽のほか、自転車7台とバイク1台が停めてあり、これが支店の「機動力」であるようだ。顧客用の駐車場は、なんとかモータープールというのが、裏道から回らないと行けない場所に別に1台分あるらしいが、ちょっと駐車場のキャパシティが小さすぎないだろうかと思った。駐車場入口横には、近畿大阪らしく清涼飲料の自動販売機が置いてある。さっきは「かおりちゃん」だったが、ここには「チェリオ」の自販機があって、売価は500mlペットボトルも含めすべて100円であった。関東に住んでいると飲む機会の少ないブランドばかりである。
 敷石で舗装されたメインの入口から店に入る。前面の角度を125度と書いたけれども、店内もそれに合わせた横に長いレイアウトになっている。窓口室はごく普通で、前面にガラスの壁がついたグレー主体のハイカウンターという、標準的な近畿大阪の窓口である【注1】。店の内外には「近くて大好き!」のステッカーが多数残っていた。キャッシュコーナーは、正面入口を入った衝立の右奥で、ここに機械の枠が4台分ある。内装は模様の入ったベージュ色の壁紙、行灯は近畿大阪の合併後標準スタイルで、細長い青い行灯がついている。機械配置は、一番左が「Leadus」(リーダス)銘(「OMRON」ではなく)のJX白台、234番の枠がリーダスAK-1であった。
 キャッシュコーナーはそれで終わりだが、この建物についてはまだ述べていない部分がある。正面向かって右側に付いた茶筒の部分。たぶんここは昔キャッシュコーナーだったのだろう。自動ドアがここにもあって、その奥に両替機がぽつんと1台だけ置いてある。ATMの比重が上がり、メイン入口の側にキャッシュコーナーを作ったけれども、かつてのキャッシュコーナーも両替機のスペースとして利用しているわけだ。茶筒の中には機械枠が2台分あるが、こちらにはATMは置いていない。両替機は液晶パネルのついたリーダスの最新型で、両替手数料の収納ユニットが付け足しではなく、機械の本体に直接硬貨を投入できるようになっている。
 私はもちろんキャッシュコーナーへ。11:45、近畿大阪銀行東淀川支店を制覇した。

 東淀川支店は、近畿相互銀行東淀川支店として1980年5月に開設された。
 この支店には、上新庄支店という名前の支店が2回統合されている。1回目は近畿銀行時代の1998年5月、もう1回は近畿大阪になってからの2002年7月である。これから行く上新庄は東淀川区の中心地であり、近畿大阪銀行にも上新庄に店舗歴があった。詳しいことは次節で述べる。

 りそな銀行上新庄支店は阪急上新庄駅前にあって、地図で見ると近いのだが、ここから歩くとなるとけっこう遠く感じる。とはいえ、この近所にある店舗に「上新庄店」という名前が多いことでもわかるとおり、ここは明らかに徒歩圏として上新庄の影響下に入るエリアである。
 内環状線を歩いて戻ってくると、さっき降りた〔瑞光二丁目〕の停留所がある。計画では、ここからさらに上新庄支店まで歩き、上新庄駅前で昼食を済ませて戻ってきて、[93]の13:12発に乗る予定だ。ただ、「めぐ」の用事が早く済むようなら、食事を抜きにして1本早い12:08に乗ることも考えている。
 まだ余裕があるだろうか。時計を見ると、現在時刻は12:01。今から上新庄に行って戻って、次の目的地に12:08発で向かうのは、到底無理である。まあよい。雨も降っていることだし、間もなく来る12:08発に乗って上新庄に行くとしよう。
 待っている間に掲示の時刻表を眺める。この〔瑞光二丁目〕は、井高野から来る市バスだけでかなりの大本数を維持している。そのほか、ここには市バスの長距離路線の一つ、上新庄駅と近鉄布施駅(東大阪市)との間を内環状線経由で結ぶ[86]も来る。20分間隔と本数は多いのだが【注2】、この路線はどういうわけか沿線にりそなの拠点が多くない。市バスの停留所から上新庄に少し寄ったところには、京阪バスが〔瑞光二丁目〕停留所を出している。京阪守口市駅とJR吹田駅を結んでいて、40分間隔の運転である。
 [93]12:08発は、1分ぐらい遅れていたが、ほぼ定時でやって来た。せっかく1時間に1本のバスに乗っても、降りるのは次の停留所だ。少々のむなしさを感じた。

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 【注1】東淀川支店は2014年10月にリニューアルを行い、窓口室の様子は大きく変貌した。カウンターがオープンカウンターとなり、ハイカウンターに加えてローカウンターを採用、客とテラーの間を隔てる目線部のガラスも付いていない。内装は焦げ茶色の木目調。キャッシュコーナーの行灯は緑色に変わった。なお、「近くて大好き!」は完全に消滅した。
 【注2】2014年4月以降、[86]は平日日中30分間隔での運転。

2015年03月17日

2013.06.20(木)(15)続いて、りそな・上新庄支店を制覇

 12:10頃、バスは〔上新庄駅北口〕に到着した。停留所には市バスと京阪バスの2本の標識が並んでいる。市バスのそれは接近案内のついた緑色の大ぶりのもの。京阪バスの方はバス停ポールだけでハイテクは付いていない。上屋はテントではなく、アルミの建材を使った立派なものであった。
 「北口」というのは関西地区らしい名前のつけ方である。さっきも〔井高野南口〕という停留所があったけれども、「北口」「南口」というのは「北の方」「南の方」程度の意味でしかない。有名なものに、阪急神戸線の西宮北口駅がある。兵庫県西宮市の中心市街地から北(正確には北東)に2kmほど離れた場所にあり、現阪急今津線が当初は西宮市街地に乗り入れる計画だったために、この駅名が付けられたという。
 停留所の目の前は、入母屋屋根の古い民家であった。瓦ぶきの塀で囲まれた敷地内には庭が作り込んであり、土蔵もあってけっこうな名士の家ではないかと思うが、少し荒れているようだ。通りの反対側に目を転じると、稲荷商店街というのが見える。シャッターストリートのように見えた。時間的な理由かもしれないが、駅からの人の流れが分断された場所にあるから寂しく感じるのではないだろうか。
 商店街入口の右側にある、立ち飲み屋の店名にちょっと感心した。「にっこりや」という。看板のテントには、漢字3文字で「日韓家」と書いてある。笑顔の「にっこり」と国名の「日本」「コリア」。なかなかハイセンスなネーミングではないだろうか。日本と韓国の間は最近少しぎくしゃくしているようだが、政治のことはさて置き、こういう草の根のレベルでは、仲良くできる人とは仲良くしてゆきたいものだと思う。世の中「仲良くできる人」ばかりではないけれども、少なくとも波風を立てない努力はすべきだと思うし、そのためにはいたずらに関係を悪化させるような言動は慎むことではないだろうか。蛇足ながら、「コリア」を使った店名では、以前、東京・早稲田でチヂミの店「あーこりゃこりゃ」というのを見かけたことがあるが、閉店してしまったようだ。

 さて、ここから上新庄駅までは、若干の歩行が必要だ。駅に向かう道路が高架線の手前にあって、高架沿いに梅田方向に歩いたところ。道の入口に「阪急のりば 南改札口」という電鉄会社がつけた矢印看板がある。高架沿いに歩いてくると、高架下は自転車がぎっしりと置かれた大駐輪場。道の反対側には商店が若干並んでいるが、個人商店が集まっただけという感じで「商店街」とも違う雰囲気である。その先に駐車場があって、同じ敷地に2つの銀行の看板がついている。この2行、関西アーバンと池田泉州の上新庄支店が上新庄駅ビルの中に入っているのは知っている。旧関西銀と旧池田銀の2つの支店が駅ビルの中で向かい合い、駅ビルを出ると目の前にりそながある、という位置関係である。
 上新庄支店は、本日初のりそな銀行である。さっさと写真を撮ってしまいたいが、支店の前は道幅が狭いから、それなりに後退しないとアングルが決められない。ところが、下がったところは市バスの乗り場であって、発車待ちしている布施行きの[86]が邪魔している。ようやくバスが行ったと思ったら、今度は別の車が支店の前に青空駐車を始めた。仕方なく、写真は後に回すことにした。
 店に入ると、大和銀行時代の標準的な内装がそのまま残っていた。ATMが8台あって、左側の6台がオムロンJXの白、一番右の2台が日立オムロンのAK-1であった。12:21、上新庄支店を制覇した。

 りそな銀行上新庄支店は、大和銀行上新庄支店として1986年6月に開設された。りそな発足後の2004年4月に吹田支店上新庄出張所に変更されたが、2006年7月再び支店に昇格して現在に至っている。上新庄への出店は、大和銀が1983〜86年にかけて阪急京都線沿線の営業拠点を強化した一環で、この間に南茨木出張所(茨木市、廃止済)・千里丘支店(摂津市、現存)・島本支店(大阪府島本町、同)・上新庄支店と、4店を出店している。
 東淀川支店のところで書かなかった近畿大阪がらみの話をしておこう。「上新庄支店」が2回統合されていることまでは前述した。最初に統合された上新庄支店は、1952年9月に大阪復興信用組合の上新庄支店として開設されたもの。大阪復興信組は1991年10月近畿銀行に吸収合併され、店舗はそのまま近畿銀の支店となった。同信組は1951年12月の設立で、規模としては大阪府内の30信用組合(当時)中27番目。大阪市中央区の地下鉄南森町駅近くに本店を置き、実質的には近畿銀の子会社のようなものであった。91年の合併により近畿銀は天神橋・上新庄の2支店を増加したが、上新庄支店は1998年5月東淀川支店に統合、旧本店の天神橋支店【注】もすでに統合されており、旧復興信組に由来する店は今となっては存在しない。上新庄支店は、上新庄駅南口の南側、ローソン南隣にあるタイムズ駐車場の場所(瑞光1-2-1)にあった。
 2回目、2002年7月に統合された上新庄支店は、福徳相互銀行上新庄支店として1973年8月に開設されたもので、旧なみはや店舗ということになる。福徳の後身なみはや銀行については後で詳述するが、上新庄支店は旧復興の支店のさらに南、東海道新幹線の高架の先にあった。豊新5-20-5、旧ダイエー系のスーパー「グルメシティ」のある場所。というか、旧店舗がそのままグルメシティとして使われている。

 もろもろの邪魔があって済ませていなかった上新庄支店の写真撮影は、どうにか済んだ。次のバスまでまだ40分ぐらいあるので、やっと昼飯にありつける。
 上新庄駅前は、再開発されていない郊外の駅、という感じが強い。特徴としては車が通る道の狭さであって、ここもまた例外ではない。駅舎すれすれのところを道路が通っており、駅前から発着するバスは、道路の横に少し引っ込んだ「バス停」で待機しているだけだ。ちなみに、ここから出るバスは3系統。いずれも市バスで、布施駅行き[86]のほか、豊里団地行きの[95]、井高野車庫行きの[50]である。豊里団地は淀川のほとりにある公団の団地で、バスは1時間に1本。[50]の井高野車庫行きは[86][95]の出入庫も兼ねて運転されている。上新庄駅を出たバスは、りそな上新庄支店の横を通り、関西スーパーのある小松1の交差点から外環状線に出る。

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 【注】その後移転して南森町支店に改称し、1999年9月梅田支店に統合された。

2015年03月18日

2013.06.20(木)(16)レバニラ食べて淀川のほとりへ

 上新庄駅周辺を見回してみると、近所には地上げされてバリケードで覆われたままになっている土地が若干ある。駅前から延びる通りは、はなみずき通りという。ということは、ここの街路樹はハナミズキなのだろうが、季節的に何の木だかはわからない。私は、花はともかくとして「ハナミズキ」という名前が好きになれない。紅白のかれんな花を咲かせる木だが、どうも名前からしてズルズルすする別のものを想像してしまう。通称ではなく「アメリカヤマボウシ」という植物の名前で呼んだ方がよいと思う。
 駅の出口では、車いすに乗った人が「障害者の手作りクッキー」というものを売っていた。路肩で売らないと販路がないのか、それとも路肩で売ることで職場を創造しているのだろうか。最近は雇用情勢も改善されたようだが、この時は空前の就職難で、身障者は健常者以上に仕事がなくて大変だった。雇う側としては、身障者を雇うのは面倒臭いという感覚が働くのだろうが、最低でも2%【注1】は身障者を雇用しなければならないのは、身障者雇用促進法で決まっている。
 で、いま最大の関心事は、昼飯である。どこで食べようかしら。ガストの赤丸のロゴマークがまず目に付き、次いで駅ビルの一角に吉野家が入っているのが見えたが、どちらも大阪に来てまで入りたい店ではない。たこ焼きの「じゃんぼ総本店」は好きなチェーンなのだが、おやつにしかならないからパス。クッキーもしかり。結局「餃子の王将」が一番マシと思えた。王将も何が悲しくてこんなところでに近い料理店だが、ふとレバニラが食べたくなったのである。駅の南側、東海道新幹線の高架の付け根にある福徳銀行上新庄支店跡(グルメシティ)の写真を撮りに行った後、手前にある餃子の王将に入った。レバニラは、店のメニューの名前としては「ニラレバセット」であった。

 空腹を満たして〔上新庄駅北口〕まで戻ってきた。バスの時間は13:13だったと思う。まだ10分ぐらいある。次の目的地は〔地下鉄西中島南方〕【注2】。ここ〔上新庄駅北口〕からは少し長い距離を乗ることになる。
 バスはほぼ定時でやって来た。発車したところで《本日は市バスをご利用いただきありがとうございます》と、始発停留所のようなアナウンスが入った。[93]の兄貴分にあたる[37](大阪駅〜井高野)には、2010年まで上新庄駅折り返しの[37C]というのがあったから、その名残だろう。
 片側2車線の中央分離帯つきの幹線道路が続いている。下町ならではの風景か、大きな道路に面した所にいきなり民家があって、玄関がボンと出ているスタイルが見られる。東京では江東区とか江戸川区といった下町に行けば多少は見かける気がするが、前回の連載で取り上げた青梅街道沿いで見た記憶はない。〔上新庄〕で一番前の席が空いたので移ろうと思ったら、前方の席に座っていた老婆がすかさずそこに移動した。足腰弱ってるんだから、無理によじ登らない方がいいんじゃないか、と勝手なことを心の中でつぶやいた。
 内環状線から淀川通が分かれる上新庄の交差点は、角に上新電機が見える。ここでバスは大きく左に曲がる。右折方向は内環状線の吹田方面である。〔東淀川郵便局前〕を出て間もなく、東海道新幹線の高架をくぐった。今日1日、ここに来るまでの間に、新幹線に何回遭遇しただろうか。東海道新幹線は淀川北岸エリアを大縦断しているけれども、高架線路が続くだけだし、新大阪駅へ行く足の便も信じられないほど悪い。淀川3区の住民にとって何のメリットがあるのだろうと思える。せめて、さいたま市大宮区のように新交通でも並走していればまた違ったのかもしれないが。
 〔下新庄〕の先で阪急京都線のガードをくぐった。さっきの上新庄交差点にあった歩道橋もそうだけれども、関西では鉄橋の塗り直しということをあまりやらないのか、塗装が完全につや消しになっていたり(劣化して光沢がなくなっている)、サビサビになっていたりするところが多い印象がある。

 相変わらずマンション1階だけ店舗という建物が多いが、淀川に近づいてきたせいか、注意して見ると倉庫のような建物が現れ始めたり、あるいは建物がなくて駐車場になっているとか、ちょっとだけまばらな印象になってきた。そして、〔豊新二丁目〕のある豊新から〔菅原〕(すがはら)にかけてのあたりは、けっこう町工場の多いエリアのようだ。
 〔菅原〕の先、菅原一丁目交差点で、片側3車線の中央分離帯付き大幹線道路が左の方に向かっていった。ここは少し前の地図では工事中になっていたと思う。淀川通をさらに行くと、コンクリ打ちっ放しで真っ白な真新しい高架線が見えた。これは、2019年にJRおおさか東線に生まれ変わる予定の「城東貨物線」である。ちょうど貨物列車が通過していくのが見えた。このすぐ南側にある淀川の鉄橋は、JRの鉄橋でありながら人が通れるようになっていることで有名だ。歩道が近々廃止になるハズなので、見に行ってみたいと思っている。
 城東貨物線の高架を抜けたところに、「国際興業大阪」という看板が出ている。さっき正雀駅前でタクシーの話をしたけれども、その際に出てきた国際興業大阪の、ここが本拠地である(本社・淡路営業所)。東京の城北地区〜埼玉県で路線バスを営んでいる国際興業の、大阪支社のようなもの(現地法人)で、タクシーと観光バスを営んでいる。前回[梅70]の連載を作るとき、私は青梅市の隣市・飯能市を走る国際興業についても多少調べたが、まさか今回こんなところで関わってくるとは思わなかった。
 マンションなども多少減ってきて、代わりに町工場に囲まれた雰囲気のところに入ると、淀川の堤防が見えてくる。その突き当たりの手前にバス停がある。〔東淡路一丁目〕。停留所の数でいうと、ここが〔井高野車庫前〕と〔歌島橋バスターミナル〕とのちょうど中間である。マンションが減ったと書いたが、ここは道の向かい側に「エバーグリーン淀川」という10階建ての巨大マンションが壁のようにそびえている。建物の一部は「エバーレ」というショッピングセンターになっている。「威張れ」と聞くと「靴舐めろ」という言葉を連想してしまうが、それはともかく1階にはスーパーマーケット(ニッコーストア)や家電量販店(エディオン)とかが入っており、なかなか生活の便利そうなマンションである。
 なお、このマンション1階のSCには、かつて福徳相互銀行が東淡路支店を出店していた。1976年11月に開設されたが、阪急淡路駅前に淡路支店ができた1989年9月出張所に降格となり、1994年5月淡路支店に統合されている。淡路支店はのちに近畿大阪の淡路支店となったが、2002年6月西淡路支店に統合されて消えた。東淡路支店跡は別の日に見たが、「なみはや銀行」のロゴタイプをはがした痕が残っていたのに驚いた。有人出張所統合後もしばらくは店舗外ATMとして営業していたようだ。

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 【注1】民間企業の場合。
 【注2】2014年4月のダイヤ改正で[93]の経路が変わり、〔上新庄駅北口〕から〔地下鉄西中島南方〕へ直行できるバスは運転されなくなった。

2015年03月19日

2013.06.20(木)(17)淀川橋梁のこと

 人道橋で有名なJR城東貨物線の淀川橋梁を、別の日に時間を取って見てきた。「めぐ」を実施した2日後、2013年6月22日土曜日のことである。
 この橋は、東海道線の吹田操車場(吹田市)と片町線の鴫野駅(しぎの、大阪市城東区)との間を結ぶ城東貨物線の、淀川をまたぐ鉄橋である。1929(昭和4)年に建設されたもので、延長597m、幅8.5m。鉄橋は複線用だが貨物線は単線であり、使わない半分を大阪市が国鉄から無償で借り受けて「赤川仮橋」という木製の歩道を追加した。赤川は橋の南側、旭区にある地名である。この鉄橋を複線化して旅客列車を走らせる計画が進んでおり、それが「おおさか東線」の延長計画である。JRおおさか東線は、貨物線を転用して2008年3月に久宝寺(八尾市)と放出との間が開業したが、さらに2019年の開業予定で放出〜新大阪間の工事が進んでいる。この橋が複線化されると、当然ながら人が通れるところはなくなってしまう。その期限が目前に近づいているハズなのであった。
 さて、淀川橋梁は、〔東淡路一丁目〕停留所のすぐ南にある東淡路1の交差点から、東に200mほど行ったところにある。交差点というより、南進してきた淀川通が堤防に突き当たって右(西)に折れて曲がっているだけだ。ただ、堤防の裾の部分を走る細い道が続いているから、やはり「交差点」で、形としてはy字形をしている。淀川通から外れた東側は一方通行の1車線分ぐらいしかない狭い道で、いつも渋滞しているようだ。「道路予定地/大阪市建設局」という看板のついた空き地が堤防に沿ってずっと続いているが、道路をつくる気配は一向に見えない。
 階段で堤防に上がると、左に白い鉄橋が見えた。これが淀川橋梁である。水面を見ると、7〜8人で細長いボートを漕いでおり、また河川敷ではボートを何隻か台の上に載せていた。近所に神戸大学のボート部があるらしい。今来た一方通行の道は、堤防の裾から線路の高さまで上がってきて、亀岡街道踏切という踏切になっている。看板によれば、吹田信号所と鴫野駅との間にある2番目の踏切だそうだ。
 人道橋の渡り口にやって来た。仮の橋というだけに、欄干が木製である。人が歩く部分には、古いアパートの階段で見られるような縦横縦横のエンボスが斜めに並んだ鉄板が敷いてあった。この状態が川の向こうまで続いているわけである。入口には、大阪市建設局による《赤川仮橋は、「おおさか東線」整備のため、平成25年秋頃より閉鎖となります。》という看板がついているが、現時点でおおさか東線の工事はこの付近では全く始まっていない。単線を複線化するだけとはいえ、事実上新線建設のようなものだし、放出から北に延びるのはまだ相当に時間がかかるハズだ。
 赤川仮橋の閉鎖後は、東に約930mの地点にかかる菅原城北大橋を使うようにとあった。上流側を見ると、はるか彼方に大きな橋がかかっている。高い柱を立て、そこからワイヤを枝分かれさせて吊っているタイプのつり橋。一瞬絶句した。あんな遠くまで行けというのか。ここに線路を通すとなったら、人道橋を閉鎖せざるを得ないのは理解できるが、1kmも行かないと別の橋がないような場所である。やはりここは何か対策をして欲しいものだ。実現性がないのを承知で書くと、ガントレット【注】にするとか、人道橋だけでも新しい橋を作るとか。あるいは、大阪市らしい方策として、渡船でも出せないだろうか(大阪市には市営の渡船が現在も複数ある)。

 北から南へ、赤川仮橋を歩いて渡ってみた。
 人道部分についている木製の欄干はだいぶ古くて、部分的に腐食してボロボロになっている。途中で1か所、ガムテープで補強してあるところさえ見かけた。敷いてある鉄板も、外れていると思える音のする個所がところどころある。自転車の交通量がかなり多く、相当なハイスピードでビュンビュン走ってくるのは、本当に怖かった。これは生半可なつり橋より怖いかもしれない。もっとも、「怖い」というのは、写真など撮っているところで衝突されたら、カメラを川に落としてしまうという恐怖である。それでも「怖い」ことに変わりはない。とはいえ、川の北岸では、ホーホケキョとウグイスが鳴いていた。川の南の旭区側でも、別の種類の鳥が鳴いていた。怖いながらも、長閑で平和な雰囲気が漂っている。橋の長さは全長7〜8百mあると思えたが、前述のとおり実際はもう少し短い。
 この橋が跨いでいるエリアは、3つに分かれている。北側から入ると、まずいきなり淀川の本流部分を渡る。河口が近いので、相当に水量も多いし幅が広い。次に「ワンド」。このあたりには、ワンドと呼ばれる独特の水域がある。橋自体はワンドの直上ではないけれども、ワンドから一続きの土砂が堆積した部分を跨いでいる。そして、河川敷の部分。ここはサッカー場になっていたり、橋の西側はテニスコートになっていたりする。そこを越えると、普通の大河川と同じように堤防上に接続して、鉄橋も終わりである。
 ワンドについては、淀川を特徴づけるものであるので少し詳しく述べておこう。建物にたとえると、川の本流を廊下とするなら、ワンドは廊下に面したドアの付いていない部屋のようなもの。本流とつながっている“部屋”の水域である。明治時代、大阪に港をつくって京都・伏見まで蒸気船を通す計画が持ち上がり、当時の友好国オランダから技師を招いて先進国の土木技術で淀川を改修した。淀川に蒸気船を通すには水深が約1.5m必要で、また川の流れが速いと船が上流に向かって航行しにくくなるため、水路をくねくねと曲げて流れを緩やかにした。その際、カーブ部分に流れが当たって水路が壊れることを防ぐため、岸から川へ垂直に突き出す突起を設置した。突起に囲まれた部分には土砂がたまり、そこに水際を好む植物が生えた。これがワンドで、淀川全体では(資料によって差があるが)35〜55か所あるという。ワンドは水の流れが少ないため魚が暮らしやすく、木や草の生えたところは魚の産卵や稚魚の生育にも都合がよいため、川の本流にはない多様な生態系があるそうだ。

 赤川仮橋は秋ごろ閉鎖というから、最大まだ半年ぐらいは実際に渡れるのだが、すでに観光名所と化している。堤防には鉄道雑誌を読んでいる人がいる。それ以上に目立つのが、三脚を構えた人々である。カメラの向きからすると、まもなく北から南(鴫野方面)行きの列車が来るようだ。
 旭区側から北岸に戻り始めると、橋を渡っている最中、遠くから踏切警報機が鳴るのが聞こえてきた。いいタイミングで列車が来てくれたものだ。この橋は、土曜日には12:20頃に北から南に向かう列車が通るようである(2013年6月現在)。ほどなく、私の横をEF66型電気機関車がけん引する貨物列車が通過していった。何両編成かはわからないが、コンテナ貨車をかなり長くつないでいる。隣を人が通っているからスピードも多少セーブしているのだろうが、それでも結構な轟音と地響き。動くのがちょっとはばかられるぐらいの揺れ方であった。そんな中、近所の中学校の野球部と思われる集団が、私の横を走り抜けていく。彼らはこの程度の振動には慣れていると見える。スリルがあって良いが、わざわざこんなところを選んで走るなよと思った。この話を思い出しながら書く私の目は、笑っているが。
 淀川北岸には、見ていて飽きないものがたくさんある。赤川仮橋は長いこと来てみたいと思っていたのだが、閉鎖される前に来ることができて本当によかった。いま悲しいわけではないが、上田正樹の『悲しい色やね』という歌の一節を思い出した。「♪河はいくつもこの街流れ、恋や夢のかけら、みんな海に流してく」と歌っている。大阪市内とはいってもここをうたった歌ではないだろうが、大阪八百八橋というか、川とともに生きる大阪、そういうことを思った。一渡り10分ぐらいだが、スリリングな経験であった。

 淀川橋梁の「赤川仮橋」は、2013年10月31日(木)24時をもって閉鎖された。

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 【注】ガントレット:「単複線」ともいい、単線分よりやや広い用地に複線の線路を重なるようにしてはめ込んだもの。日本では名古屋の名鉄瀬戸線で1976年まで使われていたものが有名だった。

2015年03月20日

2013.06.20(木)(18)バスは淀川堤防へ

 [93]を使ったりそなの旅を続けよう。
 〔東淡路一丁目〕に来たところまで書いた。〔東淡路一丁目〕の次は〔柴島〕である。前方には、淀川の堤防が長く横たわっている。そろそろこのあたりで、堤防に沿って淀川沿いを「快走」する区間に入るハズであった。
 バス停から堤防までの間は、道の東側が除却されて大阪市の土地になっていた。ここからそのまま南に向かう橋をかけて、幹線道路を通す計画でもあるのではないだろうか。大阪市の財政難から架橋計画が凍結され、そのために赤川仮橋が閉鎖された後1kmも上流の橋を使わなければならなくなった、というのは後日わかったことである。
 ほどなく、東淡路一丁目の交差点、というか堤防に突き当たったところで、淀川通が右に折れ、バスもそれに合わせて右折した。いま乗っている西行きのバスは、ここからしばらくは淀川堤防に沿って走る。堤防の北側、最上部から一段微妙に下がった淀川通の本道である。左の車窓は淀川が見えるか見えないかぐらいの高さのところを走っているが、東行きのバスは本道の東行き車線ではなく土手の下を走る側道を通るから、淀川は車窓から「全く」見えない。ここから、集落は右側、つまり堤防の北側にだけ広がることになる。町工場が混在する住宅地であった。左側はひたすら堤防が続いている。
 相当長い距離を走ったと思えるところで、ようやく〔柴島〕に到達した。停留所のそばには歩道橋がかかっている。〔柴島〕の西行きは、反対側の集落とつなぐため、歩道橋をこの停留所のためだけにわざわざ付けているのであった。このバス停は、歩道橋の使用を拒否した場合、背後の淀川堤防に階段で上がるか、あるいは車道の端を歩くかしない限り、どこかへ行くのは不可能である。乗客が見込まれる淀川通の北側の集落にとっても、都心方面のバス停にアプローチするには歩道橋がないと無理であるから、この地区は相当に大変な思いをしてバスに乗っていることがうかがえる。なお、側道を走る東行きは、普通に道端にバス停があって、当然のことながら歩道橋などかかっていない。これは後日東行きのバスに乗って確かめた。
 とはいえ、さすが大都市・大阪というべきか、待っている客はここ〔柴島〕にも複数いた。ただし、歌島橋行きは大阪駅前行きと比べるとやはり乗る人が少ないようで、この[93]が来てもバスに乗らない人というのが何人かいた。運転手も「大阪駅前行きはしばらくお待ち下さい」と、車外に向けてアナウンスしている。この近辺がバスの乗車動態としてはボトルネックになるのだろうが、客が少ないから空を飛んで行きましょう、というわけにはいかない。
 私の印象では、[93]は客が少ないといっても[梅70]並には乗っていると思うが、おそらく「並」では赤字になってしまうのだろう。[93]の1日の総乗車人員【注1】は、2010年11月のデータで2743人ということだが、2005年の同じ調査では3967人あった。2〜3年おきに行われる交通調査のたびに乗客が15%ずつ減っている計算だが、2006年の地下鉄今里筋線開業と、それにともなうバスの本数削減は考慮する必要があるだろう。なお、2008年に「幹線系」として調査結果が出されていた[93]は、2010年の交通調査では「地域系」とされており、格下げになっている。客が減って儲からないから本数が減るのか、本数が減って便利でなくなるから客が減るのか、いずれにせよ[93]は負のスパイラルになってしまっているようだ。

 近畿地方を支える淀川は、流路延長75km。琵琶湖から南流し、いくつかの川を合わせて大阪平野を西南に流れ、途中で神崎川と大川を分けて、最後は大阪湾に注いでいる。意外に思われるかもしれないが、淀川は厳密にはここ〔柴島〕の先で終わってしまい、新たに「新淀川」という名前が付いている。ここは、明治期以前には淀川が大きく南へ曲がっていたところで、改良工事により築造された放水路を「新淀川」と呼んでいる。淀川は大規模な水害が頻発していたため、1885(明治18)年の大洪水をきっかけに明治政府が改良工事を行い、川幅500mを超える放水路と水門ができた。以来、柴島の対岸にある毛馬(けま、大阪市北区)の地は、淀川の重要拠点となっている。1907年に完成した閘門と洗堰【注2】は、新しい施設に置き換えられて役目を終えたが、国の重要文化財に指定されて公園になっている。
 旧来の淀川の流れは、大川と名前を変える。毛馬から南へ進むと、大阪城の北で大きく西に進路を変え、中之島で二股に分かれる。川の名前はそこで堂島川と土佐堀川に変わる。この2つが合流するとさらに安治川と名前を変えて、「海遊館」で有名な天保山付近で大阪湾に注いでいる。

 相変わらず淀川堤防沿いの道を西に進んでいる。スッパリ「土手の上」と書ければどれだけスッキリすることかと思うけれども、左の車窓には草の生えた斜面が石垣の上に見えるのみ。堤防を見ながら走っているような感じであって、もちろん水門なども見えない。阪急千里線の橋台がそびえ立った手前に、次の停留所〔長柄橋北詰〕がある。その名のとおり長柄橋という橋の北詰で、ここもやはり道の北側からバス停に通じる歩道橋が来ている。ただし、〔柴島〕との違いは西行きの停留所から歩道橋を渡らなくてもどこかに行けることで、バス停から歩道がそのまま長柄橋まで続いている。
 大阪の市街地と淀川の北岸とを結ぶ長柄橋は古くから重要な橋で、人柱伝説など架橋に関しての言い伝えも多くある。1909(明治42)年、淀川改良工事にあわせて新淀川にかかる橋の第1号として架設され、現在の橋は1983年に完成した3代目。ニールセン・ローゼ桁といって、両サイドが内側に傾斜して断面がアルファベットの「A」のような形をしているところが珍しいが、それより北行き車線が橋の途中で二股に分かれていることの方が興味をそそられる。天神橋筋から北上して長柄橋を渡ると、北詰で柴島浄水場、というか淀川通に突き当たる。左折(十三方面)は橋を渡りきったところにあるT字路で普通に左折となるのだが、上新庄方面への右折は橋の途中で左分岐に入り、長柄橋北詰のT字路部分は立体交差でまたいで、淀川通の東行き車線に合流する。飛行機で大阪に来ると、伊丹空港に着陸する寸前、アルファベットのyとqを合わせたような形をした橋が眼下に見えるが、それがこの長柄橋である。連載の制作中にこの事実を知ったが、事前に知っていれば、台風の日の羽田からのフライトももう少し楽しかったのではないかと思う。
 なお、淀川堤防沿いを走る市バスは、東行きに限り側道を経由していたが、側道はここ長柄橋の北詰から始まっている。[93]の東行きと西行きは、ここから再び同じ道を走ることになる。

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 【注1】「バス交通調査の結果について(平成20年11月実施)」、および「平成22年度バス交通調査結果について」 いずれも大阪市交通局ウェブサイトより。
 【注2】閘門(こうもん)と洗堰(あらいぜき):淀川から放水路を分岐した際に大川の入口に設けられた施設。閘門は、高さが異なる2つの水域の間に船舶を通すための水門付きプールのようなもの。洗堰は川の流量を調節するための水門。

2015年03月21日

2013.06.20(木)(19)ひとまずさらば東淀川区

 〔長柄橋北詰〕を出ると、バスは急坂を登り始めた。上がったところが長柄橋に入るT字路の信号である。淀川通はここでようやく淀川の「土手の上」に上がり、淀川の水面が初めて見えた。
 井高野からここまで同じ道をたどってきた[93]の兄貴分、大阪駅前行きの[37]は、ここで左折してお別れとなる。長柄橋は橋長655.6m、この橋を渡ると北区天神橋八丁目で、橋を渡った[37]は天神橋筋を南下し、関西テレビ南側の扇町で右折して大阪駅を目指す。大阪駅までの間には、りそな銀行天六支店と近畿大阪銀行天神橋筋支店がある。

 [37]に触れたついでに、ここで[93]も含めた井高野方面の市バスの歴史について紐解いておこう。
 東京と同じく、大阪の市営交通は路面電車から始まった。1903(明治36)年9月に花園橋西詰〜築港桟橋間の約5kmで運転が始まったのが大阪市電の最初で、これは大阪のみならず公営路面電車としても日本初であった。大正時代に入ると、バス事業を営もうとする民間事業者が増えてきて、大阪では大阪乗合自動車、通称「青バス」が1924(大正13)年に事業を開始し、市街地の主要な部分でヘゲモニーを握った。大阪市直営のバス事業は1927(昭和2)年2月、阿倍野橋〜平野間の4.8kmが最初となった。その後、大阪市域の拡張(周辺自治体の合併)により市営交通も拡充を続け、また1940年には民間バス大手となっていた青バスを買収したが、既存民鉄や大阪府との調整は大変なものであったようだ。
 東淀川区方面への市営バスは、1931年9月、〔天神橋筋六丁目〕から長柄橋を経て〔菅原〕まで開通した37号系統が最初である。これが、現在まで同じ系統番号で続く[37]の原形ということになる。蛇足ながら、大阪市営バスの系統番号はもともと、市バス第1号路線の起点である阿倍野橋を基準に反時計回りに付番されていた。太平洋戦争前には50番ぐらいまであったようだが、その後は系統や路線の廃止によって生じた空番を新設系統に付与したため、今となっては番号を見ただけではどんな路線かわからない。現在〔あべの橋〕〜〔出戸バスターミナル〕の路線に[1]の番号が付いているが、これは創業路線そのものではなく、創業路線に似た新設系統に後から番号が割り振られたものである。
 [37]は1940年には天六から梅田まで延長されたが、太平洋戦争中の1945年6月、空襲により長柄橋が大きく損傷したため、バスも運休を余儀なくされた。1946年11月天六〜菅原間で運転が再開された後、運転区間は数次にわたって小刻みに延長され、1951年2月には〔大阪駅前〕〜〔江口橋〕の運転となった。東淀川区北東部の水田地帯であった井高野地区は、高度成長期に入って住宅地としての開発が進み、交通局は1964年4月1日に井高野営業所を開所した。これを機に[37]も〔江口橋〕から〔井高野車庫前〕まで延長され、〔大阪駅前〕〜〔井高野車庫前〕間11.279km【注1】の運行となって、現在のスタイルがほぼ確立した。
 [93]の原形が生まれたのは、井高野営業所開設半年後の1964年10月1日のことである。この日、[93]〔井高野車庫前〕〜〔西中島南方〕間8.865kmと、[94]〔西中島南方〕〜〔福町〕間7.145kmの2路線が運行を開始した。この2本[93]と[94]を統合し、[93]として〔井高野車庫前〕〜〔福町〕間16.250kmの通し運転を開始したのは、大阪市バスの運行系統が大きく再編された1972年7月24日のこと。この時から[93]が市営バスの最長路線となった。
 1981年3月3日、歌島橋バスターミナルが開所した。井高野〜福町間の通し運転は、この前からゾーンバス制度【注2】導入にともない[幹特93]という系統番号になっていたが、これを歌島橋BTで分割し、現行(めぐ実施日現在)の[93]と全く同じ[幹93]の運行がこのとき始まった。なお、BT〜〔福町〕間の区間運転は[支93]と称し、それまでの[幹特93]は[特93]という名前になった【注3】。
 [特93]はその後[93C]となったが、採算面ではあまり芳しくなかったようで、のちに朝ラッシュ時のみの運転となり、また〔井高野車庫前〕から〔福町〕への片方向のみの運転とされた。2010年3月に[93C]は廃止され、井高野〜福町の淀川3区大縦断は消滅した。その後の経過は、本文に書いたとおりである。

 さて、我が[93]は長柄橋の交差点を過ぎて土手から再び横に離れ、同時に急な下り坂になって、長柄橋の北行き右折車線の下を抜けた。間もなく、右側には広大な芝生の土地が広がる。レンガ造りの相当大きな建物が見えた。水道記念館と出ているが、本日は休館日らしい。ここは歴史ある大阪市水道局の柴島浄水場で、水道記念館(水族館と展示施設)に使われているレンガ造りの旧ポンプ場は国登録有形文化財になっている。淀川は大阪のみならず近畿エリアの母なる川とあって、柴島浄水場近辺には水道の施設がたくさんある。さきほど城東貨物線の淀川橋梁について触れたけれども、最寄りバス停の〔東淡路一丁目〕から鉄橋に行くまでの間には、兵庫県の尼崎市水道局が取水堰を設けていたりする。取水堰は他にもこの付近の淀川にいくつかあるようだが、いずれにしても最大手である大阪市の浄水場の膝下には、似たものが集まりやすいようだ。なお、水道事業の府市統合を唱える橋下徹大阪市長は、柴島浄水場を閉鎖して売却する方針を立てている。前述の水道記念館は、そのあおりで、この日だけでなく昨日も明日もあさっても、それ以後も休館なのであった。
 淀川通はほどなく石垣にぶち当たり、右へ90度曲がった。この石垣の上には、東淀川区と淀川区との境界をなすJR東海道本線の線路がある。直角に北へ曲がった淀川通は、石垣沿いに水道局の西側を北上する。大阪では「〜通」という名前は東西の道に使われ、南北の道は「〜筋」というのであるが、ここでは淀川通が南北に走っている。もちろんこれは一時的なもので、水道局の正門がある柴島一丁目の交差点で今度は左に曲がる。バスもここで左折する。
 結局、[93]には「淀川土手を“快走”」する区間というものはほとんど存在しなかった。淀川が見えたのは、長柄橋の付け根の前後100mほどであった。

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 【注1】営業キロはそれぞれの時点での公表数字。以下同様。
 【注2】ゾーンバス:定時運行の確保と車両の効率運用のため、郊外の主要拠点にバスターミナルを設け、そこから都心部までの基幹バスと末端部の支線バスとに路線を分けたスタイル。大阪市では1974年に導入され、幹線系統と支線系統のバス路線を指定停留所で乗り継ぐ際に乗継券を発行していた。幹線・支線の区別は2002年に撤廃された。
 【注3】ゾーンバス制度実施時、系統番号には幹・支・特・臨の4つの漢字が使われていた。幹は幹線、支は支線、特は幹線と支線の直通系統、臨は基本系統と発着地が違うもの。ゾーンバス制度に該当しない路線の系統番号には漢字が付かないケースもあった。

2015年03月22日

2013.06.20(木)(20)こんにちはこんにちは淀川区

 柴島1で左折して再び西に向かう。これをもって東淀川区に別れを告げ、淀川区に入る。
 JRのガードをくぐるや否や、淀川区最初のバス停〔西中島一丁目〕。ここから、街並みがガラッと変わったのがわかる。今まで何もない風景だと思っていたのが、建物の密度が一気に増し、上に高い建物ばかりになった。住宅はほとんどなくなってビルばかり。ビルといってもここの場合はオフィスが多いようで、1階が店舗になっている形も含めて商業はほとんど見かけない。何というのか、生活感が稀薄になった。幹線道路をつらつらと来ている感じで、ゴミゴミした感じは全くしないし、あまり書くこともない。
 そんなことを言っているうちに、前方に高架線が見えた。淀川通と交差する新御堂筋と、地下鉄御堂筋線である。目的地の〔地下鉄西中島南方〕は、もうすぐそこだ。

 1〜2分遅れて〔地下鉄西中島南方〕に着いた。
 停留所は、名前のとおり地下鉄御堂筋線西中島南方駅のすぐそばにある。ここは淀川の北側なので、地下鉄は高架に上がっている。地下鉄や新御堂筋(国道423号)の立体をくぐり、少しだけ西に行ったところ。大阪のバスは停留所を交差点から変に離したりせず、近いところに停めてくれるからよい。その代わり、この停留所には[93]しか来ないから、バスは1時間に1本。次はほぼ1時間空いて、14:32発ということになる。30分ぐらい余るハズだが、雨も降っているし時間を有効に活用しようがない。
 目の前には、新御堂筋/御堂筋線のくすんだ緑色の高架が広がる。それに沿って、北に向かって歩いていく。地下鉄と幹線道路が立体の上を通り、地域住民のためにはそれに沿う形で立体の両側に側道が走っている。側道の内側に、地下鉄西中島南方駅がある。西中島南方という駅名は、大阪の地下鉄に多くみられる合体駅名の元祖とされているが、西中島と南方の“中間地点”に駅があるわけではない。ここは生きている地名としては「西中島」のみで、南方はかつての字の名前(公的な地名としては消滅)である。
 大阪の地下鉄第1号路線である地下鉄御堂筋線は、東海道新幹線が開業した1964年に梅田から新大阪まで延長し、さらに日本万国博覧会のあった1970年に江坂(吹田市)まで延びて北大阪急行電鉄との直通運転が始まった。御堂筋線の駅は淀川の北に西中島南方を含め4つあるが、いずれも新御堂筋に挟まれる形で高架橋の真ん中に駅がある。ただ注意深く見ると、西中島南方駅と東三国・江坂両駅とは構造上の違いがみられる(ターミナルの新大阪駅は除外)。西中島の駅施設は側道を横断歩道で渡ったところにあるが、これに対し東三国や江坂は、側道をまたぐ歩道橋から駅につながっている。後から開業した新大阪駅の北側は、想定される交通量が増えて設計が変わったのだろう。三波春夫の歌声に乗って千里の丘陵に見物客が押し寄せた時代であった。
 現状、西中島南方のあたりが東三国や江坂より閑散としているというわけではない。ここは新大阪駅前支店という名前の店ができるような地区なので、新幹線の新大阪駅を念頭に置いて、たくさんのビルが建っている。もっとも、西中島南方駅前は新大阪駅から多少距離があるから、オフィスビルはあまりなくマンションばかりであるが、もう少し近づいたらオフィスビルが乱立するようになるハズだ。
 阪急京都線の踏切がカンカン鳴っている。今歩いている新御堂筋の側道は、側道とはいっても道幅が相当広くて、踏切の遮断かんはL字形になっている。警報機が鳴って遮断機が下がると同時に、L字形のさおがバネ仕掛けで伸びて一本の横棒になった。車がビュンビュン走るところは高架橋の上だから、側道を通るのはこの近所に用のある人だけ。よって、けっこう太い道だが踏切で十分なのだろう。踏切の横には地下道も一応あるが、急いでいるわけでもないので踏切が開くのをボーッと待つ。なにしろ、次のバスまでたっぷり1時間あるのである。
 踏切のすぐ横は、阪急の南方駅になっている。対向式ホームの駅だが、ここは跨線橋もなく、改札も上りと下りとで別になっている。昭和30年代の郊外電車の駅はこんなスタイルだったなあと思った。電車は、上り河原町行きの特急が通過し、その後もう1本、下り梅田行きの各駅停車。駅に停まり、客を乗降させて発車である。急いでいるわけでもないのに、踏切でこういう待たされ方をすると、心に微妙なささくれが生じてくるのはなぜだろうか。

 遮断機がようやく上がった。
 踏切の周辺を見る。地下道入口の小屋は、京都の個人タクシーのような白緑色に塗ってあった。1階に居酒屋の「養老乃滝」が入っているテナントビルは、2階以上がマンションになっているようだ。この養老乃滝は、最近突如閉店した。関西地区のフランチャイズ会社が蹉跌したためだという。そこも含めて1階に商業が入ったビルばかり建ち並んでいるが、ファストフードのサンドイッチ屋やら、不動産屋その他、私が利用しないような店ばかりである。その横、東側だけ外壁が暗い緑色になっているのは、日本年金機構(淀川年金事務所)の入った日清食品の大阪本社ビル。このあたりは以前に少し描写したことがある【注】。1階が店舗になったビルが並ぶ新御堂筋の側道をさらに北上してくると、まず三菱東京UFJ銀行の新大阪駅前支店(旧三和銀)がある。
 三和の北隣にあるのが「サムティ新大阪センタービル」という8階建ての建物であった。1階には西中島南方駅前郵便局が入っており、ビル自体はサムティという不動産会社の本社である。このサムティという会社は、閉店した琵琶湖畔の有名なショッピングセンター「ピエリ守山」を引き継いで2014年12月に再オープンさせたことで知られるが、まあそれはよい。それより、りそなのウオッチャーとしては、郵便局の隣にりそな銀行の看板が出ているところが一大事であった。サムティビルの1階、郵便局の北側に、りそな新大阪駅前支店の入口があるのだ。ここは本当に入口だけで、りそなの支店はもう少し北側の交差点で新御堂筋から西に入ったところにある。旧大和銀行の店は開設当時は新御堂筋側にあったそうで、現在の長い渡り廊下はその名残であるようだ。大きな交差点の一角を丸々占めているのだけれども、新御堂筋側にも入口が必要だったのだろう。

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 【注】当ブログ2009年5月26日掲載「2008.01.25(金)(24)南方の北方、新大阪駅前

2015年03月23日

2013.06.20(木)(21)新大阪駅前支店を“探検”する

 サムティビルの北側、西中島三丁目の四つ角から西に入った。この辺りまで来ると、建物はすっかりビルばかりとなり、マンションも多少はあるが純然たるオフィスビル街になった。前方の信号角に、十三(現北おおさか)信金の新大阪駅前支店が見える。
 信号の手前にあるりそな銀行新大阪駅前支店は、土地柄からいっても面積からしても、大きなビルが建っていて不思議でない土地にあるのに2階建てで、しかも2階部分が奥のほうに引っ込んでいるから、正面から見ると平屋建ての建物にしか見えない。なぜここにビルを建てないんだ、という気は少しした。支店建物の北寄りに閉鎖された出入口があり、その前に市バスの〔西中島〕という停留所がある。ここに来るのは〔榎木橋〕(淀川区)から〔大阪駅前〕に向かう[41]で、支店前から西進して南に折れ、淀川区役所の西側で淀川通に入ってくる。平日は30〜40分に1本ぐらいの割で出ているが【注】、土日はガクッと本数が減るようだ。この停留所にはバス接近情報などのハイテクは付いていない。
 支店の面する四つ角までやって来ると、支店は切ったういろうのような、白いのっぺりした平屋建てにしか見えなかった。角にある出入口の開口部だけが少しアクセントになっている。現代美術を市街地で野外展示している青森県十和田市に行った時に、乗用車の車体に樹脂でぜい肉を盛った「太った車」という作品を見たのを思い出した。これを書くまで忘れていたが、十和田市の野外展示では、「太った車」の隣に「太った家」という作品もあり、こちらは瓦屋根を取り除くとりそな新大阪駅前支店にそっくりである。
 店に入ると、広々とした窓口ロビーにATMが6台(すべてJX白)あるのが目に入るが、ここは多分、夕方5時に窓口室が閉まるとシャッターで遮られて使えなくなるのだろう。これとは別に、機械10台分のキャッシュコーナーがあって、記帳機、両替機、ATMが8台(AK-12台、JX6台)あった。この支店はATMがトータルで14台もあり、りそなとしてはATMの台数が「めちゃめちゃ多い」部類に属する。機械枠は旧大和銀行の古い時代の標準スタイルで、機械一台一台の幅が相当に広く取ってあり、1.5〜2台分ぐらいはありそうだ。キャッシュコーナーとしてはけっこう古そうだが、上部行灯のプレートは緑に換えてある。
 デッドスペースをもう少し工夫すれば、機械の台数はもう少し増やせる気がするけれども、まあその必要もないのだろう。新大阪のビジネス街、地価もそれなりに高いだろうに、これだけ広々とした土地を確保しつつ2階建てでとどめている。豪華イメージというのとは違うが、かなり豪勢な支店ではないか。13:51、新大阪駅前支店を制覇した。

 時刻は2時を回ったばかり。予想どおり、バスの時間までまだ30分ある。この時間を使って、新大阪駅前支店を探検してみることにした。ここまでの記述では、この支店の面白さの半分ぐらいしか表現されていないからだ。「面白さ」への入口は、さっき「ある」で止めておいた、郵便局隣の支店入口である。
 新御堂筋に面したサムティビル側の入口から入ってみよう。サムティビルの中は、窓もなく、本当にただひたすら長い廊下があるのみである。全長30mほどの廊下は、間に柱が3本立っているのだが、向かって左側の壁は真っ白べったりの壁、右側の壁はひたすらポスターの掲示場になっている。ポスターは最初の柱までで7枚、1本目と2本目の間に6枚、2本目と3本目の間にも6枚。3本目の柱の向こうにも、ポスターが3枚。それとは別に、保険相談受付中とか、住宅ローン相談受付中とかいった幟が、画鋲でべたべたと貼ってある。《りそな銀行は本店を大阪に置く地元銀行として、これからも大阪をはじめ地域の発展に貢献して参ります。》という、りそな銀の10周年ポスターも貼ってあった。このポスターはたぶん東京には貼っていないのだと思う。少なくとも私が首都圏で見た記憶はない。
 ここまで歩いてくると自動ドアがあって、これでサムティビルからは出ることになる。自動ドアを出たところに、りそな新大阪駅前支店の建物との間にある細い空間で、すぐ目の前に、今度は支店の建物に入るための自動ドアが付いている。りそなの建物との間のほんのわずかな部分には、2つのビルから半分ずつひさしが出ているが、両者は一体化しており、雨水が上から落ちてくることはない。ひさしの下、2枚の自動ドアに挟まれた外部の空間は、両側に柵がついて閉じられている。柵にはドアが付いているが、ドアノブにはプラスチックのカバーがかけられており、本当に非常用のドアでしかない。
 柵で囲まれた外部空間から支店側の自動ドアを入ると、そこは大和銀行時代に出入口として使っていたらしい空間である。駐車場側に出入口があるようだが、封鎖されている。サムティビルの側に抜けられなければ、ここが支店の東側入口として風除室になっていたのだろう。そして、その先にもまた自動ドアが1枚。結果、新御堂筋側も含めれば、店に入るまでに実に4枚もの自動ドアを通り抜けることになる。4枚の自動ドアのうち3枚は、ガラスにりそなグループ標準の緑とオレンジのシールを貼り、「りそな銀行」「新大阪駅前支店」の表示もしっかり施してある。几帳面というか何というか。
 ここまで来て、ようやくキャッシュコーナーに入る。このキャッシュコーナー自体が、さらに窓口室に通じる通路のような細長い形になっている。サムティビルの廊下とキャッシュコーナーを延々と抜けて行った先に、ようやく窓口室があるわけだ。支店建物の端から新御堂筋側の出入口までは60mぐらいあることになり、尋常ならざる長さにあっけにとられる思いがした。なお、キャッシュコーナーの中身については前述した。
 以上を確認して、新大阪駅前支店の探検は終了した。

 りそな銀行新大阪駅前支店は、大和銀行新大阪駅前支店として1964年3月開設された。1977年11月の仮店舗移転を経て、現店舗は1984年4月の築であるという。

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 【注】2014年4月のダイヤ改正により[41]は1時間に1本程度の運転となった。

2015年03月24日

2013.06.20(木)(22)木川と「赤バス」

 多少疲れたこともあって、のんびりとバス停に戻ってきた。次の目的地はいよいよ、淀川区の大繁華街、十三である。
 南方のあたりは、伊丹空港に着陸する飛行機の着陸ラインになっているようで、どてっ腹が観察できるような高さで飛行機が飛んでいるのが見える。JALの機体が実によく飛んでいるが、飛行機に詳しい人なら、下から見ただけで機種はおろか年式や仕様、さらには購入年などまで全部わかるのではないか。そのぐらいの低空飛行であった。
 バスを待っている間に雨脚が強くなってきた。今日はこれからどうなるのだろうか。ちょっと腰をおろしたいのだが、雨に濡れたバス停のベンチは座ったら悲惨なことになる。ただでさえ、雨が降っている地点で疲労度が5割増ぐらいにアップする。眠気は、さっき上新庄で昼飯を食べたのが効いたせいだろうが、それ以前によく考えてみたら、昨夜は蒲田の宿で眠れず、朦朧とした状態で飛行機に乗ったのだった。眠気を催す条件は揃っていたわけだが、うまくいかないものである。

 雨の中、歌島橋行きのバスはほぼ定時でやって来た。バスの乗客は、ここ〔地下鉄西中島南方〕でかなり入れ替わった。相変わらず中央分離帯つき片側2車線の幹線道路を進んでいく。規則的に高層マンションが建ち並ぶエリアである。救急車がバスを追い抜いて行った。
 最初の停留所は〔木川東二丁目〕である。地名としての木川は「きかわ」であって、バスの車内放送でもそう発音しているのだが、淀川通沿いに出店しているチェーン食堂の看板は、店名の英文表記が《KIGAWA》となっていた。普通に考えれば、こうした誤りは地域の実情を知らずに看板を作った、本社の店舗開発セクションが悪い。この食堂の店名も、調べてみたがやはりありがちな誤りのようだ。「木川」の地名は明治期の2つの村の名前を1字ずつ採った合成地名であり(木寺+川口新家)、成り立ちから見て川の字が「がわ」という読みになることは考えにくいだろう。
 ただし、木川については地名の成り立ちを踏まえて「誤り」と推論できるけれども、地名というもの全体に話を広げると、明らかな誤りと見えるものでも、時に誤りと言い切れないことがあるからややこしい。以前、埼玉りそな銀行鷲宮支店(埼玉県久喜市)の話を書いたときに触れたが【注1】、鷲宮の地名は「わしみや」「わしのみや」の両方の読み方がある。本来は「の」が入るのが正しいのだが、戦後の町村合併のいきさつから「わしみや」の読み方ができた。本来的には間違った読み方とはいえ、役所によってオーソライズされたものとしては「わしみや」も正しいと言わざるを得ないのだ。
 木川西二丁目に入るあたりからマンションが減り、民家が増えてきた。建物の高さが低くなり、3階建てぐらいの面積の小さなビルが増えたと思う。〔木川西二丁目〕はそんなところにある。

 〔淀川区役所前〕の停留所は、停留所名のとおり淀川区役所の前にある。
 反対車線、役所の建物の真ん前にトヨタのハイエースが停まっていて、車体色に一瞬目を疑った。都内や埼玉南部でおなじみの、緑色と黄緑をくさび形にあしらった国際興業バスと同じ色だったのである。同じであるのも道理で、このワンボックス車は国際興業大阪が受託している淀川区の「乗合タクシー」であった。これは「赤バス」廃止の激変緩和措置で、2014年3月末までの期間限定【注2】。国際興業大阪は、東淀川・淀川・阿倍野の3区から、赤バス廃止の代替措置を受託した。東淀川区と阿倍野区は利用者限定だが、淀川区は1乗車100円。「タクシー」という名称だが、路線バスと同じ運転形態で誰でも乗れる。ハイエースは親会社の国際興業が首都圏で使っていたものを持ってきたそうだ。ナンバーはなにわナンバーになっている。
 2013年3月まで運行されていた大阪市のコミュニティバス「赤バス」について、ここで触れておこう。各地にある通常のコミバスと同様、一般の大型バスではカバーできない住宅地と公共施設(病院・商店街・鉄道駅・区役所など)を結ぶ地域密着型の公共交通として、2000年5月に5路線での試験運行を開始、2002年1月から本格的な運行を開始した。運賃は1乗車100円で、赤い車体のバスを使っていたためこの名がついた。コミュニティバスのはしりとされる東京都武蔵野市の「ムーバス」より5年遅く始まったが、利用が低迷し、市営バスの赤字体質の一因になっているとして廃止が決定した。廃止前の需要検証では、走行キロ当たり乗車人員2.2人が目標値とされたものの、この値を超えたのは全29路線中3路線に過ぎなかったという。赤バスの廃止後は、対象区の区長が地域の実情や必要性を踏まえて、区ごとに必要な移動手段を検討し、いくつかの区では独自に民間事業者に委託して区営のコミュニティバスを運行したが、2013年度末で廃止されたものが多い。
 [梅70]の連載で参照した2010年度のデータ【注3】を見ると、運賃収支率は、成功例とされる武蔵野市で82.7%、全国平均は25.3%であったが、大阪市のそれは17.9%で、人口密度の低い武蔵村山市が18.8%となっていることからしても、かなり低い数値となっている。大阪市の場合、市バスの一般路線や地下鉄が充実していて交通空白地そのものがさほど多くなかったこと、コミバスが陥りがちな公共施設をハシゴして距離が長くなる路線が多かったことなどの問題点を抱えていたようだ。

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 【注1】当ブログ2011.12.24掲載「2008.11.14(金)(41)わしみや支店を制覇」。
 【注2】淀川区の激変緩和措置は2014年3月末で終了し、同年4月1日からは、乗車料金を無料とする代わりに利用者を限定した「福祉バス」として運行するようになった。運行は2015年秋で終了する模様。
 【注3】「『生活の足』確保するには 検証 コミュニティーバス・乗り合いタクシー」『日経グローカル』189号 日本経済新聞社、2012年。

2015年03月25日

2013.06.20(木)(23)アンダーパスを抜けて十三の核心へ

 十三駅が近づくにつれて、商業集積が増してきた。そう思ったところで〔十三駅東口〕。この「東口」も例によって大阪的なネーミングで、東の方という意味でしかないが、厄介なのは、通常の意味での「東口」も併存していることである。阪急十三駅の東口は、バス停から見えるアーケードを入った奥に存在している。
 この停留所の真ん前には、バリケードで封鎖された巨大な建物が鎮座している。草ぼうぼうになっており、用途廃止からそれなりの時間が経っているようだ。この建物は、2009年3月に現庁舎に移転した旧淀川区役所である。さっきあった区役所は大阪市立十三市民病院のあった場所で、市民病院が移転した後、跡地に新築移転したものである。さらに時間を遡ると、この廃屋は1974年の分区以前には東淀川区役所だったわけだから、その前にあるバス停の名称も東淀川区役所前だったのだろう、と思って調べてみると実は違っていて、現〔十三駅東口〕は1974年7月22日(分区の実施日)以前は〔十三東之町〕という名前だった。というわけで整理すると、〔十三市民病院前〕が〔十三東〕を経て〔淀川区役所前〕となり、〔十三東之町〕が〔淀川区役所前〕を経て〔十三駅東口〕になったわけである。
 それはともかく、旧区役所庁舎には、しない!させない!越境入学、お互いの人権守って住みよい淀川区、人の心を傷つける差別落書は許しません、日頃から明るい選挙の心がけ、よい政治それはあなたの一票から、といったスローガンが大書されたまま残っていて、淀川区がどんな課題を抱えているかがわかる。課題のない自治体など日本中どこにもないのであるが、淀川区に関して言えば、たとえば性的マイノリティに対する支援声明など、独創的な取り組みをしているのではないかと思う。

 〔十三駅東口〕のすぐ先が、つい最近ようやく双方向化されたというアンダーパスである。淀川通はここで、梅田から来て十三駅に入線する阪急の3路線(神戸・宝塚・京都の各線)をひとまとめにくぐっている。この区間は、驚くことに2010年まで東行きの一方通行であった。もちろん最初からそんな変則的な扱いだったわけではなく、かつては対面1車線だった。交通量の激増で2車線一方通行になったのだろう。もともとあったアンダーパスの梅田寄りに2車線のアンダーパスを新設し、現在は一方通行ではなくなっている【注1】。
 この間、西行きはどうしていたかというと、200mほど南にある淀川堤防沿いのアンダーパスを利用していた。現アンダーパスとバス停の中間、というよりバス停の横といってもよい場所に、南に向かう一方通行道がある。東から来た車はこの道に入って(旧)区役所の横を進み、淀川堤防に突き当たって右折、アンダーパスで阪急の線路を越えていた。十三筋に入りたい車は、線路を越えたところでもう1回右折し、南北の道が十三大橋に向けて高度を上げ始める付け根の部分から十三筋にアプローチしていた。[93]のバスは、堤防沿いに約200m西進、NTT淀川ビル(新館)の角で右折してラブホテル街の横を北上し、淀川通に戻っていた。この迂回のため、[93]の西行きは、東行きより500mほど営業距離が長かった。
 バスの経路変更は2010年7月1日始発から行われ、現在は普通にアンダーパスを経由している。[93]など淀川通を西に進むバスの〔十三〕停留所は、当時は現在より100m西側の三井生命十三ビル前にあって、ここには現在も道路に「バス停」の表示を消した痕が残っている。

 阪急の線路をアンダーパスして上がってきたところで、南北に走る大きな幹線道路と交差する。ここ新北野の交差点は、淀川区随一の繁華街である十三の南端にあって、淀川通と十三筋とが交わる大きな交差点である。〔十三〕は、新北野交差点を越えてすぐのところにある。
 1〜2分の遅れはあったかもしれないが、私を乗せたバスは〔十三〕にほぼ定時に着いた。降りてみると、停留所の真ん前はファミリーマート、1軒置いて隣のビルの1階は労働金庫の支店(近畿ろうきん十三支店)であった。
 通りの反対側に目を転じると、十三信用金庫本店【注2】の建物が4棟並んでいる。その横はディスカウントのドンキホーテ。さらに、愛媛県のトップバンク伊予銀行の看板が見える。伊予銀は1971年3月開設の大阪北支店である。十三は他地域から地銀が進出してくるほど経済力のある繁華街なのであった。なお、[93]の西行きが十三アンダーパスで迂回していた時代、バスは南から伊予銀の向かい側に出て淀川通に入っていた。
 新北野交差点の南西角には、中堅ゼネコン高松建設の本社が建つ。これは、りそなのウオッチャーとして是非触れておかなくてはならない。ここはかつて、協和銀行の十三支店があった場所である。大阪貯蓄銀行十三出張所として1936年7月に開設し、1938年8月支店に昇格したが【注3】、1979年8月に豊中服部支店(豊中市)に統合された。高松建設の本社は淀川通に面した部分の幅が意外に狭い。一般的に、貯蓄銀行の支店跡地は普通銀行のそれと違ってあまり広くはないので、それほど大きな建物は建てられないようだ。本来ならここも例外ではないのだろうが、協和銀時代は十三筋側に正面玄関を置いて横長の建物になっていた。高松建設本社も、敷地が南北に長いので面積が確保できている。

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 【注1】現在も西行き車の右折は不可。
 【注2】2014年2月、摂津水都信用金庫との合併により、北おおさか信用金庫十三営業部となった。本店は旧摂津信用金庫本店(茨木市)、合併時の存続金庫は十三信金である。
 【注3】十三出張所開設と支店昇格の日は、『大阪貯蓄銀行五十年史(草稿)』では昭和11年7月1日/13年8月15日、『東淀川区史』によると昭和12年7月1日/13年7月1日。ここでは『大阪貯蓄銀行五十年史』の日付を採った。

2015年03月26日

2013.06.20(木)(24)淀川区の金融激戦区・十三

 近畿大阪の十三支店は十三筋を北に行ったところにあるので、高松建設前の信号を渡って淀川通を越え、阪急十三駅の西口に向かって歩く。淀川通を渡ったこちら、十三信金の前にも〔十三〕のバス停がある。阪急バスと市バスの2社だが、雨除けの上屋は別々に設置されている。市バスはアルミの頑丈そうな上屋、阪急バスはテントの上屋であった。別会社だからと言ってわざわざ上屋も別々にせず、共同で立派なものを作ればいいのに、と思った。このポールに停まる市バス2系統は、いずれも〔大阪駅前〕を出て十三筋を北上してくる。[97]の神崎橋行き・加島駅行き【注1】と、[69]〔十三市民病院〕経由榎木橋行きの2本。[97]は1時間に3〜4本が確保された市バスのドル箱路線である。[69]はさっき新大阪駅前支店のところで触れたのとは別の経路で〔榎木橋〕へ行く。十三筋沿いの阪急バスは、市バスと競合する〔神崎橋〕方面のほか、このポールには停まらないが梅田発箕面行きなどという長距離路線もある【注2】。十三筋は市バス・阪急バスともに相当な本数のバスが行き交う道だが、〔十三〕の停留所はかなり広範囲に散らばっている。
 バス停の目の前にある十三(現北おおさか)信用金庫の本店営業部は、旧さくら(元神戸)銀行の十三支店だった建物を購入したものである。さくら銀の十三支店は、住友銀行との合併で十三駅前支店に改称されたが、2002年10月旧住銀店に統合されている。十三信金の本店は、淀川通沿いに4棟が並ぶというあまりない形態をしているが、その内訳は交差点側から順に本店営業部・本部・第一別館・第二別館となっている。建物としては、左から2番目の第一別館が一番古そうに見える。古い資料をひもといてみると、この4棟のルーツは、角から旧太陽神戸銀行・本来の本店・旧福徳相互銀行・旧兵庫相互銀行、であった。福徳相互の十三支店は1981年に十三駅の東口に移転、兵庫相互の十三支店は1978年に西中島に移転(新大阪駅前支店に改称)している。この信金は、昭和50年代からバブル後の金融不安の時期までに手放された金融機関のビルを少しずつ買い足していったようで、言ってみればこれらのビルには十三信金の歴史が凝縮されている。なお、十三信金はこれとは別に、同じブロック裏手に事務センターの建物(第三別館)があり、ほかにも近所に複数の物件を所有している。

 十三信金本店営業部の北隣は、三井住友銀行の十三支店(旧住友銀、1938年10月開設)。三井住友銀行が発足した2001年4月以降、ここには旧さくらと旧住友の2つの支店が並んでいたことになる。
 道の反対側に目を転ずると、みずほ銀行の十三支店(旧富士銀)が見える。みずほの建物は全国的に系列不動産会社ヒューリックの持ち物になったらしく、ここもヒューリックのロゴが付いている。みずほ銀の支店はことごとく改装されてしまい、もう一見しただけでは旧富士も旧一勧も分からなくなった。店頭には「70」と大書したポスターが多数掲示されている。みずほの十三支店は昭和18(1943)年に開店し、今年(2013年)の5月17日をもって70周年ということであった。みずほは旧第一勧銀の時代から「支店開設×周年」の店頭掲示をシステマチックに出しており、この点は良い伝統だと思う。合併を繰り返しているりそな、とくに旧協和銀行の場合は何をもって×周年とするかが問題になるかもしれないが、マネしてもよいのではないだろうか。
 みずほの北隣には、三菱東京UFJ銀行の十三支店(旧三和銀)がある。この店の開設年月日は、普通に調べると1933年12月9日となるが、この日付は大阪にあった3つの銀行(三十四・山口・鴻池)が合併して三和銀行が発足した日付であって、支店としてはもっと古くからあったと考えてよい。三和はもともと大阪地区のトップ地銀として拡大してきた銀行であり、十三のような古くからの繁華街の支店は長い歴史を持つ。十三支店は旧山口銀行の出張所として1924(大正13)年に開業した。
 三和銀行の話が出たところで、唐突なようだが協和銀行の話題に少し触れておきたい。十三支店が旧大阪貯蓄銀行の支店で、跡地が高松建設の本社になっている話は前述した。協和は東京・大阪・名古屋に本店を置いていた9つの貯蓄銀行が合併して発足した銀行である。そのうちの一つである大阪貯蓄銀行は、三和の前身3行が(合併前に)出資して設立された銀行であった。つまり、協和の十三支店は、三和の十三支店と親子のような関係にあったのである。似たような話を、以前津支店について書いた時に触れたことがある【注3】。こちらの「親」は東海銀行だった。
 さて、古い繁華街である十三には、当然ながら協和の前身行の店舗もあり、9行のうち前述の大阪貯蓄を含め3行が十三に出店していた【注4】。これらの店もこの近所にあったハズだが、地名までは特定できるものの、現在までに番地までは突き止められなかった。十三界隈は、戦災の影響で、古い住所を現在の場所に比定するのが極めて困難である。今後の課題としたい。

 というわけで、このあたりは金融機関が密集するエリアとなっている。長々と金融機関について述べてきたけれども、十三はこれだけ多数の銀行(等)の店舗を成立させるに足る、大規模な繁華街なのである。大阪は現在でも個人商店が軒を連ねた商店街が活況を呈しているが、とりわけ十三駅前に来ると、賑わい度がほかの地区の商店街とは違うと感じられる。
 なお、十三筋の三和の向かい側には、焼き牛丼チェーンの「東京チカラめし」が出店している。展開は首都圏だけだと思っていたから、少々驚いた。もっとも、私が「7割まずい」と言って愛する埼玉の「ぎょうざの満洲」が大阪に進出しており、さほど驚くにはあたらない。東京チカラめしは、2014年3月に再訪した際には閉店していたから、短い命であった。

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 【注1】[97]の〔神崎橋〕行きは2014年3月のダイヤ改正で廃止された。
 【注2】この停留所の北西150mにある停留所から発着する。
 【注3】当ブログ2008年10月28日掲載「2007.11.28(水)(14)津市の協和銀行、その複雑な歴史」。
 【注4】出店していたのは、大阪貯蓄・不動貯金・摂津貯蓄の3行。大阪・十三→協和・十三(所在地:現淀川区新北野一丁目)1979.08豊中服部に統合。不動・十三(出)→協和・三津屋(出)(所在地:現淀川区三津屋南三丁目)1946.07三津屋支店に昇格、1948.02十三に統合。摂津・十三(出)→協和・西十三(出)(所在地:現淀川区十三本町二丁目)1946.10十三に統合。

2015年03月27日

2013.06.20(木)(25)近畿大阪・十三支店を制覇

 十三の商店街の一つで、距離は短いが最も目立つ場所にあるのが、三菱東京UFJ銀行の横を阪急十三駅西口に向かう商店街である。従来の言い方でいうところの十三本一商店街は、「十三トミータウン」と大書した看板が入口についているのだが、白地に赤文字、真ん中に小便小僧のシルエットを描き、非常に目立つ。以前はもっと地味な看板だったが、何かあったのだろうか。トミーは十三の読み方を変えたもの、小便小僧は隣接する「しょんべん横丁」に由来するもので、三和の支店の横には「見返りトミー君」なる小便小僧のブロンズ像もある。
 しょんべん横丁は、太平洋戦争の空襲で焼け野原となった阪急十三駅西口一帯に、戦後になって飲食店が集まってできた繁華街である。近所にお手洗いがなく、多くの酔客が線路沿いの壁で用を足したことからこの名がついたという。南北約150mの狭い路地に大衆酒場やホルモン焼き店など約50店がひしめき、サラリーマンらの憩いの場となっていたが、火災で焼失して現在は復興再建中である。2014年3月7日早朝、24時間営業の居酒屋から出火し、飲食店など36店舗、延べ1500uが焼けた。前述のとおり、私は火事の直後に十三を再訪したが、その際に復興資金を募る募金箱にささやかながらカンパをしておいた。有効に使ってもらいたいと思う。
 さて、駅の北側は、北西方向の三津屋・神崎橋に抜ける十三筋と、豊中・池田方面へ行く国道176号とが分岐する、大きな三差路になっている。分岐の右方向から来る176号は、ここでは南行きの一方通行となっている。三差路の分かれ目に建つ雑居ビルに、関西アーバン銀行が巨大な看板を出している。角地の一等地だけれども、一緒に入っているテナントはマッサージとかヘアサロンとか、銀行とお隣さんになることの多くない業種ばかりで、ビルの1階にある旧幸福銀行の支店(1954年5月開設)は、他のテナントに埋もれてしまっている。それでも銀行ウオッチャーの私は銀行の店舗をすぐに見て取るが、普通の人を相手には巨大な看板でアピールせざるを得ないだろう。アピールの効果があったのかなかったのか、ATMは2台だけの配備であった。そんな関西アーバンの隣に、近畿大阪の十三支店はある。こちらは支店単独で一棟を使っているようだ。
 ここは、写真撮影の関係で制覇を先に済ませる。私は例によって支店の写真を撮ろうとしているのだが、さっきから大事なところに赤い車がずっと停まっているのだ。それが行ったとしても、十三支店は場所的に真正面から撮らざるを得ないが、時間と交通量の関係であまりまともな写真は撮れそうにない。都市部のどこで写真を撮っても、車や通行人というのは邪魔になるものだが、とりわけ赤だのオレンジだのといった彩度の強い色の車や服には腹が立つ。今日は一日雨で気分が滅入りがちであるから、こういう刺激的な色は本来なら活力を沸き立たせるのだが、今の私にはイライラの原因でしかなかった。
 支店に入る。内装は、キャッシュコーナーは青い行灯の合併後標準スタイル。窓口室の什器は前面にガラスの壁がついたグレー主体のハイカウンター【注1】。機械枠は6台分で、両端は空き枠、真ん中にATM(AK-1)が4台。もうそろそろ3時の閉店時間なのだが、シャッターを閉める気配がない。なぜだろう。この店だけ5時閉店になったのだろうか。いや、そんなことはないハズだ。14:54、KO十三支店を制覇した。

 近畿大阪銀行十三支店は、1951年7月に設置された近畿無尽の十三業務取次所が翌年6月に支店昇格したものである。当初は東淀川区(現淀川区)十三西之町2-1、しょんべん横丁の北端付近にあったようだが、1953年2月現在地に移転し、現在の店舗は1968年に建築されている。
 近畿大阪銀行の発足後、十三支店には2支店1出張所が相次いで統合された。2001年2月になみはや銀行を営業譲受した際、同行の東三国支店十三出張所が統合され、次いで旧大阪銀行の十三支店だった十三西支店が2001年7月に、旧なみはや銀店舗の三津屋支店が2002年7月に統合されている。
 旧なみはや銀の十三出張所は1956年10月に開設された福徳相互銀行の十三支店だった店で、当初は十三信用金庫本店の隣にあった。開設当時の店舗は現在北おおさか信用金庫十三本部第一別館となっているが、これは前述したとおり十三信金の角から3軒目のビルである。1981年に十三駅の東口に新築移転した際に出張所となり、なにわ銀行との合併と経営蹉跌とを経て、近畿大阪の十三支店に統合となった。東口の出張所跡のビルには現在焼肉店などのテナントが入っている(淀川区十三東2-9-16)。一方三津屋支店は、1986年12月に福徳相互銀行三津屋支店として開設された比較的新しい店だった。三津屋は十三の北西1.5kmほどにある住宅地で、駅でいうと阪急神戸線の神崎川が近い(淀川区三津屋中1-7-11)。支店だった建物はアパートに改造されたようだ。
 旧大阪銀の十三支店だった十三西支店は、1953年7月に大阪不動銀行十三支店として開設されたもので、現十三支店から十三筋を北西へ150mほど、国道176号十三バイパスの手前にあった。跡地は現在マンションになっている(淀川区十三本町1-21-24)。大阪不動銀行というのは、大阪銀行の設立当初の名称である【注2】。戦後復興期、既存の銀行だけではまかない切れない中小企業向けの資金需要を満たすため、地方銀行の設立が認められ、大阪府では4つの地方銀行(大阪不動・河内・泉州・池田)が設立された。大阪市に設立された大阪不動は、不動貯金銀行を範に採って月掛預金の営業を行う銀行として設立されたもので、言ってみれば合併によって消えた不動貯金銀行の“理念的後身”である。設立以来住友銀行と親密であったが、時を経て大和銀行グループとなり、現在では不動貯金銀行の後身であるりそな銀行と同じ金融グループの銀行となっている。
 ところで、近畿大阪の十三支店は、日本銀行十三代理店となっている。日銀には「発券銀行」「銀行の銀行」「政府の銀行」という3つの役割がある。日銀の取引先は銀行と政府だけであって、個人であれ企業であれ直接の取引はしない。その代わり、国庫金や国債に関する業務は民間金融機関が代行している。こうした日銀関係の業務を行う民間銀行の店舗を、日銀の代理店という。代理店にはいくつか種類があるが、国の官庁と取引を行い、国庫金の受払や国債の元利金の支払いなど広範な事務を取り扱う代理店を特に「一般代理店」と呼んでいる。2014年末現在、日銀の一般代理店は全国に489店舗(うち大阪府16店)あるが、近畿大阪が日銀一般代理店になっているのは、十三の他には八尾支店(大阪府八尾市)1店だけである。りそなグループ全体で見ても、近畿大阪の2店のほか、りそな銀に8店(うち大阪府3店)、埼玉りそな銀に14店しかない【注3】。なお、日銀代理店には国庫金の受入のみを扱う「歳入代理店」もあるが、これは民間金融機関のほぼ全店が該当する。

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 【注1】十三支店は2015年2月リニューアルを行い、窓口室の什器はマホガニー調の木目に一新された。キャッシュコーナーの行灯は緑色に変えられた。
 【注2】「大阪銀行」という名称の銀行は、時期は違うが戦後2つ存在した。1948〜1952年に存在した大阪銀行は、住友銀行が財閥名称追放により一時的に改称していたもの。近畿大阪銀行の前身となった大阪銀行は、1957年12月大阪不動銀行から改称した。
 【注3】大阪府の日銀一般代理店内訳は、三菱東京UFJ7、三井住友2、りそな3、近畿大阪2、池田泉州2。なお、りそなグループで日銀一般代理店となっている店舗は以下のとおり。(2014年末現在。出典:日本銀行ウェブサイト)
  りそな:東京営業部・衆議院・参議院・池袋・東青梅・梅田・枚方・富田林。 埼玉りそな:さいたま営業部・川越・熊谷・川口・大宮・行田・秩父・所沢・朝霞・東松山・本庄・春日部・越谷・さいたま新都心。 近畿大阪:十三・八尾。

2015年03月28日

2013.06.20(木)(26)バスは西へ人間はジジババへ

 赤い車が去らないので、仕方なくそのまま写真を撮って、バス停に戻ってきた。今度は15:28発。まだ10分近くあるが、もういいやと思った。
 土砂降りの雨が続いている。ここまで来て、私は半ばやる気をなくしてしまっていた。どうして事前に計画を立てている日に限って台風が来るのだ、という今日何度も口にしている繰り言が再び頭をかすめる。特に、それもどうして大阪だけ、という気持ちが強い。ここ数年、大阪に来ようとすると、飛行機が飛ぶかどうか心配しなければならないほどの雨にぶち当たることが多かった(「めぐ記」を書いていない別の日がやはり台風真っ只中になった)。冷静に考えれば、必ずしも雨の日ばかりではなかったハズだが、マイナスの感情が記憶に残りやすいのは事実だ。これは動物の本能として仕方がない。シマウマのような草食動物は、ライオンなど肉食動物に襲われそうになった場所や状況を覚えておかないと、のこのこと再び同じ場所に出かけて行って、餌食になってしまいかねないのである。
 定刻の15:28になったところで、バス接近案内に「まもなく来ます」の表示が出た。[93]にここまで乗ってきただけの感想だが、今日の大阪市営バスは、どこで乗ってもせいぜい数分の誤差(=遅れ)であって、おおむね定時で動いているように思う。
 バス停で待っていると、ちょうど高校生の下校の時間に当たったようで、制服を着た生徒たちが西の方から大勢歩いて来る。そういえば、〔十三〕の次の停留所は〔北野高校前〕である。方向からすると北野高校の生徒たちかもしれない。

 数分遅れでやって来たバスに乗り込むと、両サイドの窓がすっかり曇っていて、外は全く見えなかった。雨の日は「めぐ」の醍醐味が半減する。といって、今日はもう始めてしまった以上仕方がない。仕切り直すわけにもいかないから、あくまで雨の日を前提に書くしかないだろう。代わりに車内の様子を書いておくと、93号系統は、どの時間にどこで乗っても、乗客の数は平均しているようだ。多少混んでいるとか多少すいているとかはあるにしても、座席は半分から2/3程度埋まったぐらいで一定している。
 曇っていない正面の窓から、府立北野高校の正門が一瞬見えた。門の脇にある壁に円形のくり抜き窓があったりなど、現代芸術のような独特の形をしている【注】。校門の横に同じテイストの斬新な建物が建っており、体育の部室なのか敷地内の古い建物とくっきりコントラストをなしていた。ここは、橋下徹・大阪市長の出身高校、と言うより大阪市北部にある大阪府立の名門高校である。北野はもとあった場所の地名だというが、公の地名としてはすでに消滅している。私は大阪へ行くときに格安の夜行バスをよく利用する。この種のバスは、梅田の発着拠点を阪急梅田駅の北側にある「プラザモータープール」という駐車場にしていることが多い。この駐車場のすぐそばに、阪神バスの停留所がひっそりと立っている。〔野田阪神前〕から〔天神橋筋六丁目〕までのバスが1日2本走るだけだが、この停留所の名前が〔北野〕なのである。ここから推察すると、もともとこの学校はモータープールの近所、つまり梅田と中津の間にあったのだろう。
 ふと思った。出身高校というものは、いったい何の役に立つのだろうか。せいぜい、自分が選挙で立候補した時の選挙運動ぐらいではないか。要は、地元で暮らしてこそ「高校時代のナントカ」というものは生きてくるのであって、私みたいに東京に出てきた人間にとっては、役に立たないどころかマイナスだ。OB名簿とか同窓会とかいったものは、私にとっては前述の「草食動物の記憶」と関係しているから、余計にその傾向が強いのかもしれない。私は、出身高校のOB名簿から掲載を外してもらっている。名簿に名前を載せるほどの大人物ではないという理由もあるが、組織力を誇る政党があって、選挙の度に運動員が押し掛けてきて邪魔くさいからだ。この連載を作っている2014年11月には、卒業30周年ということで中学の同窓会があったようだが、私は行かなかった。理由はやはり「草食動物の記憶」である。

 さて、〔十三〕を出てからというもの、このバスは淀川の土手を快走するようなスピードで、住宅地の真ん中の幹線道路を快走している。速度が本当に上がっているかは知らないが、少なくともスピード感が上がったことは確かである。バス停は〔北野高校前〕〔新北野中学校前〕〔塚本小学校前〕と続いている。反対側から来ると小・中・高と連続しているわけだが、ふと、学歴が実際にこの順番になっている人はどのくらいるのだろうか、と思った。塚本小はそのまま新北野中に上がるそうだが、さらに北野高に進むのは優等生だけだろうから、案外少ないのかもしれない。
 《お葬式はいらないと言ってくれたおじいちゃん》という、葬儀社の広告が車内に出ている。都内のバスでも《おじいちゃん、おばあちゃん、交通ルールを守ってね》という警視庁のポスターを見かけるけれども、素朴な疑問として思う。「おじいちゃん」「おばあちゃん」という言い方を最近するのだろうか。「じいじ」「ばあば」ならまだわかるのだが、言い方として非常に古臭い気がする。そしてもう一つ思うのは、本物の幼年世代から「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばれる人は、早ければ私と同じ40代後半の世代だが、この広告が本当にターゲットとしているのは、まさに葬儀が間もなく必要になってくるハズの70代以上の高齢者であろう。いずれの世代にとっても、このポスターを見て心に響くものはないように思える。このままいけば私もその一人になるのだろうが、これからは孫のいる高齢者もだんだん少なくなってくる。ますます、その次を考えなくてはいけない時代が迫っている。

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 【注】正しくは、旧校舎に付いていた「北中」(旧制北野中学校)のシンボルマーク。

2015年03月29日

2013.06.20(木)(27)塚本駅前を歩く

 車内広告といえば、これはどのバスにも貼ってあったのだが、市営交通の敬老パスについての掲示。70歳以上を対象とした大阪市の敬老優待乗車証(敬老パス)は、全国唯一の完全無料だったが、この7月(2013年)から年間3000円を徴収することになった【注1】。広告はパスの継続手続きに関するもので、済んでいない場合7月1日から通常の乗車料金を徴収、6月20日までに郵便局で3000円を納付するように、ということであった。これはパスが要らない人も手続きが必要だそうで、交通局はコールセンターを作ってこの変更に取り組んでいる。まあこれは妥当だと思う。バス代ぐらい払いなさいよ。年間3000円なら、東京よりはるかに安い【注2】。しかも、東京都議会ではこのパスすら問題視されている。この程度のこともやらないで、大阪の市バスが赤字だ、というのは筋が通らないと思う。
 それにしても、大阪市交通局は何がそんなに問題だったのだろうか。市バスのことをあれこれ調べていて、私には交通局が腐敗しているようには感じられなかった。赤字が問題でないとは言わないが、路線バスは本質的に儲からない事業であって、経営が苦しいのは地域や公営・民営の別を問わずどこでも同じである。給与が高いというけれども、それは象徴的な特殊例が何かあったからではないのだろうか。運輸業は労働条件が特に悪いことで知られている。
 さて、〔塚本小学校前〕の次が〔塚本駅北口〕。例によって「北の方」程度の意味しかない大阪的な用法であるが、車内放送のイントネーションは「きタグチ」(後3文字にアクセント)ではなく「きタぐち」(タにアクセント)となっている。そして、その次の〔歌島一丁目〕が、一応塚本支店の最寄りのハズだ。窓の外が見えないから、レポートをする気にもならない。

 拗ねている場合ではない。〔塚本駅北口〕を過ぎると、左に十三信金の看板(本店営業部塚本出張所)が見えたところで道路が下がっていく。これは、計2本の高架、JR東海道線と阪神高速池田線をくぐっているのだが、高架が低いところにあるので、道路を切り下げてアンダーパスにしているのである。阪神高速池田線は、以前「近畿大阪めぐ」で触れたが【注3】、伊丹空港から大阪市内に向かう途中で必ず通る道である。アンダーパスの下り坂の途中に高速の塚本入口があるが、この入口からは東行き(大阪市内方面)の車線にしか入れない。アンダーパスを抜けたところで、塚本支店の最寄停留所〔歌島一丁目〕に着いた。「歌島」という地名だけれども、ここはまだ歌島橋には遠い。停留所の背後には市営アパートが広がっている。
 この停留所から、淀川区を離れて西淀川区に入っている。JR東海道線の線路を越えたためだ。実は、淀川3区、東淀川・淀川・西淀川の各区を隔てている2本の境界線は、いずれも東海道本線である。もともと大阪市の淀川北岸地域には東淀川・西淀川の2区しかなかったが、1974年7月に区制を再編して3区にする際、境界線を東海道線の線路としたのである。東海道本線は、兵庫県尼崎市から南下し、淀川を渡って大阪駅に入ると、大阪駅から向きを北に変えて再び淀川を渡り、京都に向かう。大阪市の淀川北岸地域をほぼ3等分しており、またここは鉄道の要衝が近いためJRの設備も大掛かりで、線路が地域を分断する傾向が特に強い。境界線にはうってつけであると言える。
 塚本支店は、塚本駅の西側を高架沿いに大阪駅方向に進んだ先、駅の南側にある。東西に走る主要な市道、福町浜町線との交差点角である。淀川通の南を並走する福町浜町線は、さっき〔北野高校前〕の西側で淀川通から左に分かれた道。支店東のJR高架下には、市バスの〔塚本駅前〕がある。〔十三〕からだと、大阪駅から来る酉島車庫行きの[43]に乗るとここを通るのだが、今日の本旨はあくまで[93]を使うことにあるので、〔歌島一丁目〕からアプローチしている。2009年6月にこの支店を初めて訪れた時、私はJR大阪環状線西九条駅前から[43]で〔塚本駅前〕へやって来た。当時[43]は〔酉島車庫前〕ではなく〔西九条駅前〕から出ていた。

 というわけで、私は〔歌島一丁目〕からJR塚本駅に向かって歩いている。停留所から心持ち十三方向に戻って右折。ここ柏里三丁目交差点の街灯には、近畿大阪の塚本支店が広告を出している。旧大和銀行グループの「Dマーク」が健在であった。こうして商店街に地元の支店が広告を出しているのを見ると、地域社会に密着している銀行というものを想起させて微笑ましい。個人商店がズラッと並ぶこの商店街は、普通の商店街であるが、この時間さほど人通りがあるわけでもなかった。
 塚本駅の施設がJRの高架下に見えるところまで来ると、ケンタッキーなどチェーン店ぽいものも若干ある。駅前に建つ古めかしい5階建ての集合住宅は、昭和30年代の建築だと思うが、沖縄の建物のように花ブロックが前面に押し出されたデザインになっている。これは大阪市の住宅供給公社のアパートで、この建物の1階に、「お菓子のデパートよしや」が入っている。東京でいえば「おかしのまちおか」のような菓子安売りチェーン。特定菓子メーカーの商品の写真やロゴを店に大々的に表示している。店によってロゴを出すメーカーが違うようで、この店は江崎グリコのロゴが目立つ。西淀川区はグリコの本社所在地であり、塚本駅は最寄り駅であるから、おひざ元として不思議はない。
 江崎グリコと塚本で思い出したが、この文を書いている2014年、グリコは突飛なCMを打った。「大人AKB48」と称して30歳以上の女性を募集、AKB48に期間限定で所属させ、同社の氷菓子「パピコ」のCMに出演させたのである。応募総数5066名の中から選ばれたのが、1976年生まれ、当時37歳の塚本まり子という女性だった。専業主婦という触れ込みだったが、実は独身時代からそれなりにタレント活動をしていた人だという(ロックバンドのボーカルだったそうだ)。合格者がセミプロだったとしても意外性はない。あの手のオーディションは、本当に公募オーディションならそれなりに場数を踏んでいないと受からないだろう。完全なる「ド素人」ではオーディションを切り抜けられない。そうかと言って、現役で活動中のタレントではプロ臭がキツ過ぎて使えないだろう。まあ、最近はやりの「美魔女」の類ではないか。容姿が綺麗なのは否定しないし、40歳近くであれだけの美貌を維持するのもそれなりに大変だろうと思う。
 駅近くのリフォーム屋さんの店先に、「大信販」のロゴが出ているのを見つけた。大信販は1992年に商号変更した現在のアプラスである。かつて、藤谷美和子出演のシュールなCMを見た記憶がある。

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 【注1】2014年8月から、敬老優待乗車証(敬老パス)での乗車は、パスの更新とは別に1回50円を徴収することになった。事前に券売機などで入金(チャージ)を済ませておく必要がある。
 【注2】東京都では、都営交通のほか民営バスにも乗れる「東京都シルバーパス」が年間20,510円。
 【注3】当ブログ2009年1月4日掲載「2008.07.22(火)(2)長沢まさみが笑ってる

2015年03月30日

2013.06.20(木)(28)近畿大阪・塚本支店を制覇

 駅前の商店街は、このあたりの地名を採って「サンリバー柏里」という。サンリバー商店街の中に、大阪シティ信用金庫の塚本支店がある。大阪シティ信金は2013年11月に大阪市・大阪東・大福の3信用金庫が合併して発足し、塚本支店は旧大福信金の店舗であった(1965年7月開設)。つい先日(2015年3月)JR大阪環状線各駅に発車メロディーが導入されたが、野田駅のそれはロシア民謡の『一週間』が採用された。この駅が市場の最寄り駅だからということだが、大福信用金庫の本店は、その野田駅が最寄り駅となっている大阪市中央卸売市場本場(大阪市福島区)の中にあった。信金に転換する前に「大阪中央市場信用組合」という名称であったとおり、大福信金は「市場のための信金」で、全7店のうち半数以上が府や市の卸売市場内(またはその近隣)に置かれていた。2013年11月、大阪市信用金庫(大阪市中央区)と大阪東信用金庫(八尾市)の合併構想に大福信金が加わる形で3金庫が合併すると、発足した大阪シティ信金は大阪の信金トップに躍り出た。この合併で存続金庫となった大阪市信金は、大阪府の信金では大阪信用金庫に次ぐ二番手だった。合併時点で3位だった大阪東信金は、2005年に阪奈信金(東大阪市)と八光信金(八尾市)が合併して発足していた。
 さて、塚本駅西口の民間金融機関は、大阪シティの他には近畿大阪だけである。サンリバー柏里は、商店街としては相当にぎわっている部類だけれども、金融機関は駅に近いところにあるから、あまり奥深くまでは歩いていない。何より、これから行く近畿大阪が少し離れた場所にある。というわけで、商店街を離れて支店に向かって歩みを進めていくと、商業集積がちょっと途切れたと感じた。近畿大阪銀行塚本支店は、駅前から続く鍼灸だの飲み屋だのといった店舗の並びが民家で途切れた先にあるのであった。
 雨脚が再び強くなってきたが、どうにか塚本支店にたどり着いた。支店の入口には、縦に「AI SURU BRANCH」と大書してある。店舗をいくつかの種類に分けて愛称名を付けるのは、「近くて大好き!」と同じく先々代の桔梗社長の時代に行われ、塚本支店は「あいするブランチ」なるものになっている。私にもいまひとつコンセプトが把握できていないのだが、確か窓口室がサロンのような形になっている店舗だったハズだ。定着しているのだろうか。すでに3時を回ってシャッターが下りており、窓口室の様子はわからないが、別の日に塚本支店を訪れた際には、正直言って普通の支店とどこが違うのだろうと思った。なお、塚本支店は最近リニューアルの対象となり、現在では東淀川支店や十三支店と同様の内装になっていると思われる。
 支店に入る。キャッシュコーナーの機械枠は5台分あって、左側の3台がAK-1。1台分空き枠で、いちばん右が両替機であった。ATM上部の行灯のスタイルは、大阪銀行のCI導入後の標準スタイル。バブル期のメタリックブルーではなくて、その少し前の時期、少し紫がかった水色の板である。お振り込み・お預け入れ・お引き出しという文字が上から3段に重ねてあって、文字と文字の間に白い線が引いてある。
 機械上部に取り付けられた鏡には、ATMの《操作のごあんない》というステッカーが貼ってあり、《テレビ画面の表示にそって操作してください。》という文字が見える。「テレビ画面」という言い方に過ぎ去りし時代を強く感じるが、このあたりは、旧近畿銀行の一部のATM枠で、お預け入れ・お引き出しの文字が明朝体になっているのといい勝負であろう。機械を操作。15:48、私は、近畿大阪塚本支店を制覇したのであった。

 近畿大阪銀行塚本支店は、大阪銀行塚本支店として1965年2月に開設された。現状、西淀川区唯一の近畿大阪の店舗として営業しているが、塚本の金融機関としても「西口唯一の銀行」である。東口には、前述の十三信金の出張所(現北おおさか信金十三営業部塚本出張所)のほか、三菱東京UFJ銀行の塚本支店(旧三和銀)があるけれども、前述したとおり東海道本線の東側は西淀川区ではなくて淀川区に属している。
 大阪市淀川北岸地区のなみはや銀行について、ここで述べておこう。サンリバー柏里の入口角にあるパチンコ屋は、福徳銀行塚本支店の店舗跡である(西淀川区柏里2-3-23)。塚本支店は、福徳相互銀行塚本支店として1966年3月に開設されたものであった。福徳銀行は1998年10月になにわ(旧大阪相互)銀行と合併してなみはや銀行となったが、合併後1年も経たずに経営が蹉跌し、2001年2月に大和銀行グループに営業譲渡となった。営業譲渡の際、塚本支店は姫島出張所とともに近畿大阪の既存の塚本支店に統合されている。福徳は当時の大阪本店銀行の中ではそれなりに大手の部類であり、淀川3区では1956年の十三支店を皮切りに、1992年までに計10店舗を出店した。店舗はバブル崩壊直後の1994〜95年に若干の統廃合が行われたが、さらに営業譲渡の前後で大なたが振るわれ、淀川3区では2004年の東三国支店の統合を最後に旧なみはや店舗が消滅した。
 なお、福徳の合併相手となったなにわ銀行は、大阪相互銀行時代末期の1998年11月に上新庄支店を出したのがこの地区唯一の出店であった。なみはや銀行発足で東淀川支店となり、合併半年後の1999年4月に旧福徳の上新庄支店に統合されている。

 市バス93号系統を使ったりそなの旅も、そろそろ終わりが見えてきた。[93]最後の目標は、りそな銀行歌島橋支店。気力を振り絞ってバス停に戻ることにしよう。次のバスは16:12発である。
 塚本駅前からバス停までは、阪神高速下の商店街を歩いてみた。さっき歩いてきた対面2車線の商店街より、さらに高架に近いところを通っている道である。商業の密集度はさっきとあまり変わらないが、一つ一つの店舗はこちらの方が狭いものが多い気がした。業種は焼肉や立ち飲みが主。セブンイレブンが1軒あるが、この店はさっき往路で通った商店街に出ていたのと同じ店で、通り抜けができるようになっている。
 帽子屋さんがあった。谷山浩子の歌ではないが、店主は帽子とともに塚本の町に笑顔を振りまいているのだろうか。そんなことを思った。

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2015年03月31日

2013.06.20(木)(29)[93]最後の目標・歌島橋へ

 〔歌島一丁目〕まで戻ってきた。
 雨は相変わらず降り続いている。屋根の下でバスを待っていると、数人の女子高生が通り過ぎた。大阪は妙というのか個性的というのかよくわからないところである。関西エリアでは女子高生のスカートの丈が長いのが最近のトレンドだが、今行ったのはしっかりミニスカートで、ルーズソックスを履いている者までいた。いつの流行だよ、と思った。私が塾に在職していた頃、確か2002年の前半だったと思うが、塾にルーズソックスを履いてくる小3の女児がいて、それを別の女児から流行遅れだとからかわれ、他にもいろいろあって退塾してしまった。2002年当時で既に下火の流行だったのである【注1】。
 12分になったが、バスはまだ来ない。夕方になり、そろそろ遅れが出てきたのだろうか。市バスの代わりに、幼稚園の送迎バスが来た。何だこれは。マイクロバスの前頭部を『ポケットモンスター』の「ピカチュウ」の形にしてあり、もちろん車体全体は黄色に塗ってある。俺が待っているのはあれじゃないよな、と一瞬思ってしまったが、幼稚園バス以外には使い道がないだろうに、メーカーもよくあんな車を製造しているものだ。前回[梅70]の連載でも、息せき切って歩いて来た私をバス停で待ち構えるピカチュウの椅子が哀愁を誘っていたが、「めぐ記」とピカチュウは不思議な縁がある。しかしこれも間もなく『妖怪ウォッチ』のジバニャンに取って代わられてしまうのだろうか。
 ピカチュウはそのまま走り去って行った。そして、来た。私が乗る12分発のバス。12分発が14分に来たのは、まあまあ優秀なのではないかと思う。

 さっき塚本の高架をくぐったときに西淀川区に入ってはいたが、ここからが本格的に西淀川区内の道ということになる。街並みは、淀川区とは多少違うように思う。目に見えるビルの数が少し減って、庶民的になった感じがした。
 上新庄で淀川通が始まって以来、多少の曲折はあれこの道をひたすら進んできた[93]だが、間もなく路線には一大変化が起こる。〔歌島二丁目〕の先で右折して裏道に入り込むのである。市バスの路線図を見ると、淀川通を外れて裏道を走り、南北に走る別の幹線道路(御幣島筋)に入って、終点の〔歌島橋バスターミナル〕には北側からアプローチするようだ。
 野里二丁目の交差点には、三菱ふそうトラック・バスの営業所(近畿ふそう)と、大阪信用金庫の西淀支店(西淀川支店ではなく)がある。大信の西淀支店は1963年の開設で、2002年に経営蹉跌した相互信用金庫(本店阿倍野区)の支店だった。この四つ角で、バスは右折する。現在、淀川通から歌島橋バスターミナルに行くバスは、必ずこの交差点で右に曲がる【注2】。かつて井高野から〔福町〕まで行っていた[93C]は、BTを通らなかったから、この交差点も直進していた。ここでの右折ルートは1981年の歌島橋BT開設に伴うものと思われるが、[93C]なき今、ここをまっすぐ行くバスは存在しない。
 さて、片側2車線の太い道から、対面2車線黄色センターラインの道に入ると、とたんに車窓風景は高層アパートが建ち並ぶ団地に変貌した。これは大阪府営歌島住宅で、7〜8階建てのアパートが、見える範囲だけで7〜8棟建っている。府営アパートの前に〔北之町公園前〕の停留所があった。近所に停留所名となった公園があるのを確認し、まもなく大きな川を渡る。正確に言うと、淀川ほどの大河川ではないがそこそこ大きな川の「跡」である。淀川の支流で大野川という川だったが、現在は埋め立てられて遊歩道になっている。この通りは「みの橋通り」という。今渡ったのがその「みの橋」で、漢字を当てると「御野橋」らしい。
 みの橋から遠くに、グリコのロゴマークがチラッと見えた。そこを過ぎると、住宅地とも商店街ともつかないところを抜ける。サブリースのアパートがあったり、建ぺい率いっぱいに建てた3階建ての鉛筆家屋があったりするが、概して古びた建物が多いようである。コンビニのある四つ角の先に〔西淀川消防署前〕があり、すぐ先に小さな消防署があった。ほどなく、2車線×2の中央分離帯つきの大幹線道路に遭遇し、御幣島二丁目の交差点で左に曲がった。信号が全赤になって歩行者用が縦横両方青になるが、スクランブル交差点ではないという、変わった運用の仕方をしている。角にはスーパーマルハチと、今日だけでも何度か見ているエディオン。銀行めぐりをやっていると、その土地の中堅スーパーにお目にかかる機会が多くなるが、マルハチというスーパーは初めて見たと思う。神戸市灘区に本社を置き、店舗の大半が兵庫県にあるようだ。

 幹線道路は御幣島筋といい、この下をJR東西線が通っている。〔御幣島二丁目〕は四国高松発祥の書店チェーンである宮脇書店(西淀川店)の前にあった【注3】。そして、バスは御幣島筋に入った途端、遅々として進まなくなった。とにかく大渋滞しているのである。終点・歌島橋バスターミナルの先にある歌島橋の交差点は、バスターミナルのはるか先、というのかはるか手前というのか、いずれにしても相当遠いところまで車の列が続くほど、信号で団子になる。平面交差の五差路だから当然といえば当然なのだが、大阪でも主要渋滞ポイントの一つに挙げられるそうだ。
 ともあれ、わが目的地の歌島橋バスターミナルは、いよいよ目前である。バスターミナルは御幣島筋の西側にあり、ということは、いま北側からアプローチしているのだから、4車線の道路から交差点でもない場所で右折してターミナルに乗り入れることになる。こんな太い道から右折で入るという構造は、けっこう無理があるのではないか、と少し思った。

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 【注1】最近になってルーズソックスがリバイバルの兆しを見せているそうだ。
 【注2】2014年4月のダイヤ改正で、淀川通を西進する2つの系統を直進と右折とに振り分け、直進経路が復活した。[92]福町行きが右折しての〔北之町公園前〕経由、[42]中島二丁目行きが〔歌島二丁目〕方面の直進経路。
 【注3】「めぐ」の直前、2013年6月15日付で閉店していた模様。

2015年04月01日

2013.06.20(木)(30)歌島橋バスターミナルにて

 明けない夜が存在しないように、待っていさえいれば渋滞はいつか抜け出る時が来る。私の乗ったバスは、歌島橋バスターミナル前の信号を右折し、ターミナルの敷地に入り込んだ。BTの入口に信号があって、御幣島筋から右折で進入できるのであった。そうでなければバスターミナルとして機能しないだろう。
 歌島橋バスターミナルは、鉄筋コンクリート5階建てのビルであった。1階は南北に細長い待合室になっていて、その周りに反時計回り一方通行の通路が取り囲んでいる。ターミナルに右折で入ったバスは、すぐにもう1回右折して、建物の東側で停車した。
 ああ、ついに終点である。席を立って出口へ。「エンジョイエコカード」を運転士横の運賃箱に通して、バスを降りた。朝から何度も繰り返してきた動作だが、今回のそれは一味違った思いがした。これをもって、朝から乗ったり降りたりを繰り返してきた、大阪市営バス93号系統、13.675kmの全線完乗を達成した。

 歌島橋支店へ行く前に、バスターミナルの中に入ってみる。
 歌島橋バスターミナルは、1981年3月に開所した。待合室の外は四角いバスのホームになっていて、室内には乗り場への自動ドアが並んでいる。自動ドアは上部にエアカーテンまでついている。建物内には案内所の窓口もあって、職員入口のドアには押しボタン式のロックが付いている。その横では「発車時刻総合案内」という電光掲示板が動いている。それから、お手洗いもあって使用可能であった。
 このターミナルから出ているバスは、全部で6系統。そのうち市バスは5系統ある。今回乗って来た[93]のほか、〔竹島三丁目〕と〔野田阪神前〕を結ぶ[38]、バスターミナル始発で〔中島二丁目〕まで行く[42]、大阪駅から来る[92]と[96]。[96]は〔福町〕まで、[92]は〔佃〕を経由して〔出来島駅前〕まで行っている【注】。
 もう1系統は、「にーよんバス」という西淀川区のコミュニティバスである。2013年3月限りで廃止になった赤バスの代替措置として、区役所が民間に委託して走らせているもの。「にーよん」は西淀川区のキャラクターである。淀川区の委託先は国際興業大阪だったが、西淀川区は千里山バスという会社(大阪府摂津市)に委託している。路線図を見ると、複数の拠点を軸にして循環系統を何本かつなげたような運転系統になっていた。車両は、企業が送迎用に使っているような、三菱ふそうの普通の型のマイクロバス。にーよんバスは赤バスとは違いますのでご注意下さい、という掲示がBT内にあった。市バスとの違いは、先払いになることと、市バスとの乗り継ぎ割引がないことである。

 建物に入った時、まず中が真っ暗であるのに驚かされた。建物内の照明が、非常灯しか点いていない。照明設備はあるのだが、非常灯しか「点けていない」のである。建物の中はその大半が大きな待合室になっているが、《館内での発車のご案内はしておりません》という紙が貼ってあるとおり、案内放送などは全くない。案内所の窓口も、閉鎖されて随分経つようだ。電気で動くものは、バスの情報システム1基とドリンクの自動販売機、それに自動ドアだけのようであった。使われていない機械(バスの行き先を音声で案内する機械だと思う)には「調整中」という紙が貼ってある。この「調整中」は、どこかの流行らない店が「改装のためしばらく休業」するのと同様だろう。
 多数ある自動ドアのうち、使われているのは半分ぐらいしかない。残り半分は、締め切りのプレートをつけて閉鎖されている。1つの乗り場につき行き先を1つか2つ割り振っているような状況で、その限りにおいては豪勢である。たとえば、乗り場5番は[96]の福町行きしか出ないのだが、96号系統は1時間に1本しか運転されていない。これなら、この1/4ぐらいの敷地で、野天にバスホームをいくつも取って待合室一つ建てたぐらいで十分ではないか。何でこんな立派な建物にする必要があったのか、と思うほどスカスカである。
 この敷地にはバスターミナルの他にもう一つ、交通機関の重要な施設がある。JR御幣島駅の連絡口が、敷地の入口際に設置されているのだ。JR東西線は、バスターミナル前の御幣島筋の地下を走っていて、駅のホームはちょうどバスターミナルの前にあるのだが、双方の乗り継ぎには途中に野天の部分があり、雨の日に濡れずに移動することは不可能である。ターミナルの建物内に出入口をつければこういうことは起こらなかったと思う。そもそもターミナルの名称からして「歌島橋」と「御幣島」で揃っていない。交通局とJRはかように連携がない。
 外に出てみると、バスターミナルの上層階はアパートになっている。市営アパートではなく、住宅公団(現UR都市機構:独立行政法人都市再生機構)の賃貸住宅で、入居者募集中の看板もあった。《日本住宅公団関西支社歌島橋市街地住宅》という看板が出ている。日本住宅公団は、バスターミナル開設の半年後、1981年10月に改称されており、時代を感じさせる。バスターミナルの敷地と道路との間は植え込みになっているが、ここは草ぼうぼうである。いつ廃施設になっても不思議でなさそうな雰囲気が漂っていた。

 歌島橋バスターミナルは、2014年3月31日の最終便をもって廃止された。

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 【注】歌島橋バスターミナルの廃止により、停留所の名称は〔御幣島駅〕に変更された。翌4月1日のダイヤ改正では、当地に来るバスも大幅に削減・変更され、[93]が廃止(〔大阪駅前〕発着に変更)、[96]を[92]に統合して〔福町〕〜〔佃〕〜〔大阪駅前〕の運転に変更、またバスターミナル始発だった[42]は〔大阪駅前〕発に変更された。西淀川区の「にーよんバス」は、発着場所を区役所前に移し、乗客を限定した「福祉バス」となった。[93]の歌島橋乗り入れ終了は、1972年以来続いてきた、淀川北岸を大縦断するバス路線の終焉であった。

2015年04月02日

2013.06.20(木)(31)淀川通と阪神国道が交わる町

 バスターミナルの隣には、パイロット万年筆の配送施設がある。裏手には町工場と、建ぺい率いっぱいに建てた3階建て民家の建ち並ぶ一角。この3階建て民家は、建築様式などが結構古めかしく、最近建ったものではなさそうである。その隣は「かごの屋」という初めて接する屋号のしゃぶしゃぶ店だが、店舗は東京にもあるらしい。ともあれ、りそな銀行歌島橋支店は、その隣である。
 バスターミナルから御幣島筋を挟んだ反対側に、「SMOCA」の文字が大書された事業所があった。瓦ぶきの2階建てだが、何となく洋館のようで、かなり古めかしい味のある外観をしている。スモカ歯磨という会社の本社である。昔ながらの缶入り「歯磨き粉」がこの会社の主力製品で、タバコのヤニ取り歯磨(缶入り155g)が希望小売価格300円だそうだ。ということは、「スモカ」の名前は「スモーカー」から来ているのだろう。同社の主力製品「スモカ歯磨」は、1925(大正14)年に洋酒メーカーの寿屋(現サントリー)から発売されたが、歯磨部門は間もなく売却され、現在では国内各メーカーのOEM生産なども請け負うオーラルケア用品メーカーとなっている。
 御幣島筋の北方に目を向けると、さっきバスで横を通ったエディオンの大きな店舗が見える。あとは、ファミリーマート、au、学習塾など。こちらは、町工場が大企業に成長したと思われる「本社工場」のようなビルが、ロードサイド型の店舗と入りまじって建っている。

 歌島橋の交差点まで歩いてきた。この交差点は大きな五差路になっており、面積もとても大きい。五差路というのは、塚本方面から来て西淀川区西端の中島に至る淀川通と、梅田新道交差点を起点に神戸方面に至る阪神国道(国道2号線)がここ歌島橋の交差点で交差し、さらに御幣島筋が真北に延びているからである。りそなを含めて銀行の支店が2つ、この交差点に面している。銀行の支店のほか、西淀川区役所がそびえ、外車ディーラーのヤナセ(大阪支店)と洋服の青山(西淀川歌島橋店)もある。りそなの建物の前は、けっこう広いデッドスペースになっているので、ここをつぶして、最近地方都市で実験的に導入されている「ラウンドアバウト」とかいうロータリーにできるのではないか、と一瞬思った。渋滞の名所になるほど交通量が多くては無理、と思い直したが。なお、この交差点の下には地下道が掘ってあり、歩行者の横断はすべて地下道でやることになっているので横断歩道がない。
 りそなの支店を正面にして左前方にまっすぐ進んでいく道が、阪神国道(国道2号線)である。梅田から淀川を渡って歌島橋までやって来るこの道には、1975年5月まで阪神電鉄が国道線という路面電車を走らせており、その名残でこの道沿いには阪神バスの停留所がある。阪神国道線は、阪神電鉄本線の主要駅である野田(大阪市福島区)から神戸市灘区に至る、全長25kmあまりの長距離の路面電車だった。阪神国道を走る阪神バスは、かつての国道線のターミナル〔野田阪神前〕から、歌島橋を抜けて兵庫県尼崎市方面へ行く。このバスは杭瀬(尼崎市)から西では現在も公共交通機関として機能しているが、大阪市内では1997年3月のJR東西線開通により乗客を奪われ【注】、2013年10月のダイヤ改正では、〔阪神甲子園〕まであった運転区間が途中の〔尼崎浜田車庫前〕までに短縮され、運転本数もついに1日1往復のみとなって、日常的に使うことのできないダイヤと化してしまった。
 りそなの向かいに建つ西淀川区役所の庁舎の向こうから、淀川通がやって来る。バスはさっき野里2で曲がってしまったけれども、曲がらずに進んで来るとここに出る。淀川通を歌島橋からさらに西に進んでいくと、淀川河口近くの埋め立て地・中島に至り、海に突き当たって終わる。西淀川区の西半分は大規模な工業地帯で、中島は西淀川特殊鋼団地となっている。在りし日の[93C]は、歌島橋を越えてさらに西に進み、途中の大和田西で左(南)に折れて、阪神なんば線福駅近くの〔福町〕まで乗り入れていた。

 この区の商業集積は、淀川通沿いの塚本や阪神国道沿いの野里などで、歌島橋交差点のあたりは「金融の中心地」に過ぎないようだ。この地で金融機関以外にあるのは生産部門とマンションばかりで、あとは広い幹線道路が交わっているだけである。飲食店で目に付いたのは“王将対決”ぐらいであった。まず、交差点に面した所に「大阪王将」がある。これは昼に上新庄で入った「餃子の王将」ではない。そして、その「餃子の王将」も区役所の北隣にチャンとあるのだ。大阪王将は餃子の王将からスピンアウトした会社だと聞いているから、対抗意識も強いのだろう。ともあれ、歌島橋では王将の“バトル”が繰り広げられていることになる。
 淀川通を福町の方向に行くとショッピングセンターが複数あるから、歌島橋にもそれなりに商業が集積していると言えるし、中心部から離れたところに出ないと商業がないという言い方もできる。後日、歌島橋から西の淀川通を車で走ってみたが、このエリアは純工業地帯で、阪神高速と交わる大和田のあたりへ行くと工業団地の真ん中に社宅のような住宅があったり、住民としては工場労働者が多いようだ。なるほど、これならバスの乗客は朝夕の通勤時間帯に集中して、日中は少ないかもしれない。よく東海道線を境に地域性がきれいに分かれたものだと思う。

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 【注】阪神野田駅前にある海老江駅から、阪神国道の地下を通って御幣島駅までやって来る。バスと全く同じ経路。

2015年04月03日

2013.06.20(木)(32)りそな・歌島橋支店を制覇

 目立った商業施設がほとんど見当たらない代わり、銀行だけは本当にたくさんある。交差点に面しているのはりそなと三菱東京UFJだけだが、実はここから西淀川区の「金融の」中心地が始まっているのだ。
 交差点に面しているのは、りそなと、三菱東京UFJ銀行の歌島橋支店(旧三和銀)である。三和の支店はもともと三十四銀行の姫島出張所だった店で、1937年にこの地に新築移転してきた。姫島は歌島橋の南1kmほど、阪神電鉄本線の駅がある同区の中心地のひとつである。
 歌島橋の中でも、特に銀行が集中しているのは阪神国道を神戸方面に進んだところである。ヤナセの隣には、京都銀行の真新しい店舗が見える。京銀の歌島橋支店は2013年7月の開設で、この時点ではまだオープンしていない。いま京銀があるのは、もともと神戸銀行の歌島橋支店(1961年11月開設)があった場所で、さくら銀行を経て三井住友銀行発足により歌島橋西支店に改称、2002年11月に旧住友銀の支店に統合された。神戸銀の支店の隣には、兵庫相互銀行も歌島橋支店を出していたが(1963年8月開設)、みどり銀行時代の1996年3月に閉店し、跡地はマンションになっている。さらにその先には、十三(現北おおさか)信金の歌島橋支店が現役で営業している。1962年12月の開設とあって、こちらの建物はだいぶ古めかしい。
 りそなの先にある三井住友銀行歌島橋支店(旧住友銀)は、太平洋戦争前の1938年8月からある支店である。その手前には、かつて第一勧業銀行が西淀川支店を出していた(1938年11月開設、旧第一銀)。みずほになってからの2005年2月に西野田支店(元日本勧銀)に統合され、跡地はマンションになっている。実は、さっきスモカ歯磨の隣に、みずほ銀行が店舗外ATMを出していた。西野田支店西淀川出張所。西野田支店は、JR東西線で御幣島から1駅、淀川を渡った野田阪神にある支店だから、こんな場所に店舗外ATMを単独で出しているのは、かつて歌島橋に支店があったのか。小屋の中は改装されていて旧銀行はわからないが、富士通の機械が入っているから旧第一勧銀だろうか。ここまで見極めてから調べてみると、思ったとおりであった。
 りそなのウオッチャーとしてはここで述べておかなくてはならないが、協和銀行の前身の一つ大阪貯蓄銀行は、1940年7月に歌島橋支店を出店した。1948年2月に福島区の野田支店【注1】に統合されている。歌島橋支店の廃止は、戦後に預金が急速に減少した時期に行われた不採算店廃止の一環であった。所在地については当時の住所で西淀川区野里町780と判明しているが、現在地は判然としなかった。今後の課題としたい。
 ところで、ここまで書いてきたとおり、この交差点近辺には、銀行が1937〜39年の間に集中して出店している。後で述べるが、りそな銀行歌島橋支店も1938年に開設され、1939年に現在地に移転してきている。1938(昭和13)年前後に、この辺りに何があったのだろうか。一応調べてはみたが、手がかりを見つけることができなかったので今後の課題としたい。

 りそな銀の歌島橋支店は、歌島橋の交差点に面し、阪神国道と御幣島筋とに挟まれた場所にある。支店の建物は正面が交差点の内側を向いており、支店北側のバスターミナルから歩いてくると御幣島筋に面した部分は壁になっている。壁と道路の間の三角形の敷地は、課金の機械が付いた有料の駐輪場。支店横には《りそな銀行歌島橋支店提携駐車場》という表示のあるコインパーキング(タイムズ歌島橋)がある。大和銀行時代には自行の駐車場だったのだろう。
 支店の写真撮影。それにしても、今日は本当によく雨が降る。店の前にはシュロの木が複数植えられており、どす黒く光るアスファルトの地面と暗い空とがマッチして、なんとなく南国で撮ったような写真ができた。知らない人に「りそなのインドネシアにある銀行子会社」だと言ってこの写真を見せたら、案外信じるかもしれない。
 支店の中に入ると、窓口室に客は一人もいなかった。これだけ雨が降っていると、やはり外出する気もなくなるのだろう。特に日本人には「銀行は3時まで」というのがカルチャーとして深く刷り込まれているようで、りそなも夕方5時近くなると窓口の来店客が姿を消す。閑古鳥が鳴くのは自然、というわけなのだが、しかしそれにしては機械の台数も少ないようだ。ATMは4台しかない。機械枠の構成は、記帳機、オムロンJXの白が3台、AK-1が1台、そして空き枠が2台分である。
 歌島橋支店のキャッシュコーナーは大和銀の標準スタイルだが、仕切り板に三角形のアクセント、そこにはめられたガラスに斜めの線が入っているタイプで、詳しく調べてはいないがこれは標準スタイルの中でも後期のタイプではないかと思う。今まで標準スタイルとしか言っていなかったタイプでも、前期と後期で分かれるのではないか、と最近考えている。これも今後の課題としたい。歌島橋は「今後の課題」ばかりになってしまった。
 ともあれ、私は機械を操作する。16:31、RB歌島橋支店を制覇した。

 りそな銀行歌島橋支店は、野村銀行歌島橋支店として1938年6月に開設された。開設当初の店舗は国道2号線を尼崎方向に進んだ神崎橋のたもとにあったようだ(西淀川区佃町1133)が、開設翌年の1939年3月に現在地に移転した。1942年10月、尼崎市潮江に神崎出張所を設置したが、1945年1月に支店昇格のため分離した。同出張所はその後幾多の変遷を経て、りそな銀行尼崎北支店となっている。
 なお、大阪市の淀川北岸地区では、ここから西にりそなグループの営業店はない。店舗外ATMすら、淀川通沿いの関西スーパー(をキーテナントとするSC)に一つあるだけである【注2】。

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 【注1】協和銀の野田支店は1964年5月西野田支店に統合された。西野田支店はりそな銀行の初期まで存続した。
 【注2】りそな銀の[メラード大和田]。母店は歌島橋支店。

2015年04月04日

2013.06.20(木)(33)[93]の旅は終わったが…

 歌島橋バスターミナルまで戻ってきた。
 [93]に乗ったり降りたりするのは終わったが、私の「銀行めぐラー」としての活動はまだ終わっていない。りそなグループの制覇目標は、淀川3区にあと2か所残っている。近畿大阪銀行西淡路支店(東淀川区)と、りそな銀行三国支店(淀川区)。次は、ここ西淀川区から、一気に東淀川区までジャンプである。近畿大阪の西淡路支店まで寄り道を一切しないで行くだけの話であるが、追加の金を払わなくても乗れる市営交通の乗り継ぎでなく、あえて別料金を払ってJRを使っているからジャンプなのである。
 その西淡路支店は、JR東海道線の東淀川駅が最も近い。歌島橋バスターミナルの敷地内にはJR東西線御幣島駅が口を開けており、JRで行くのならそのまま乗ってしまえばよさそうなものだ。しかし、東西線を使うと北新地駅からの乗り換えで大阪駅まで地下街を少々長い距離歩く必要がある。この乗り換えを少々わずらわしく感じた私は、バスで塚本まで戻り、塚本駅から東海道線の各駅停車で東淀川にアプローチすることにした。実際の歩行距離としては大差なかったようだが、地下街を経由しての乗り換えはやはりあまり気が進まない。
 乗るバスは、16:54発の[92]大阪駅前行き。次の[93]は17:14発だが、全線乗ってしまった今、無理やり選んで乗る必要はない。これから乗る92号系統は、阪神電鉄阪神なんば線の出来島駅前から、区の西端の川中島にある〔佃〕を経由して、歌島橋までやって来るバスである【注】。歌島橋からは〔北之町公園前〕へ回って淀川通に入り、十三の新北野交差点で右折して、淀川を渡って大阪駅に至る。

 塚本駅には17時を5分ほど回った頃にたどり着いた。さっきと逆方向のバスゆえ、淀川通の〔歌島一丁目〕バス停が道の反対側だった以外は、基本的にさっき通ってきた道と同様である。
 さっきと同じく商店街の中を歩いて来る。前方、JRと並走する阪神高速池田線の高架下に、赤い壁が見える。これが塚本駅である。赤い壁は高架の天井につきそうなぐらいの高さがあって、歩行者の身長から推定すると4mぐらいの高さがある。茶色い縁取りをした正方形で、縁取りの内側を真っ赤に塗って「西淀川区」と金属切り抜き文字を貼り、右下に花か何かのイラストが付いている。
 JRの手前を走る高速の高架下は、駅前広場になっている。高速の真下に駅前ロータリーの車道部分があって、あたかも屋根つきの駅前広場のようになっている。ここを歩く人を相手に、JR西日本経営のコンビニ「ハートイン」や餃子の王将など、高架下に店舗が何軒か出ている。ハートインの中にみずほ銀のATMがあるのはお約束。ほかのコンビニATMと同じ簡易型の機種で、キャッシュカードを使っての入出金ができるが通帳の使えないタイプの機械である。それはいいのだが、ここで私は少々頭に来たのであった。JRの高架と高速の高架の間には、微妙にすき間が空いていて、そこを通ると雨に濡れてしまうのである。行政は何を考えているのだろう。どうして人間の通るところに屋根をかぶせないのだろうか。というか、ロータリーの位置が悪いのだ。屋根の役割を担う高架の下を人が歩くような形で最初から整備していれば、雨に濡れることもなく、こういう不満もなかったと思う。車には屋根があるんだから、少々濡れたっていいじゃないの。なお、後でわかったことだが、この“すき間”の部分が、まさに淀川区と西淀川区との境界線だという。セクショナリズムそのものであった。
 高架下にある駅の施設は、東西の通路を挟んで改札と切符売り場が向かい合っているところなど、住宅地の駅として典型的と言えるだろう。改札機は最近更新したとみえて、丸みを帯びた新しい機械。それを通って階段を上がると、踊り場にはホームに上がる階段が方面別に2本。もちろん大阪方面の階段を上がっていくと、片側に柵のついた島式ホームに出た。このあたりは京阪神地区の東海道線に特有の外観で、各駅停車しか停まらない小駅でも島式ホームが2本(上下各1本)ある。ただし、客が乗降するのは内側の線路だけで、外側の快速線に面した側は柵でふさいでいる。東海道・山陽線は草津〜西明石間が複々線になっているが、つくりとしては、東京でいうと中央線の三鷹〜中野間のように、快速線と緩行線(各駅停車)の両方にホームがある。ただ、運転の形態としては同じ中央線でも中野〜新宿間に近く、この間の駅を快速線の列車はすべて通過する。

 17:10発の各駅停車高槻行きに乗車。車両は、321系とかいうJR西日本の新型通勤電車であった。
 塚本を出た電車は、右の車窓に高速道路を見ながら走る。ビルの屋上には、高速を通る車を相手に看板がたくさん出ている。塚本駅の前後では右を見ても左を見ても工場ばかり。特に西側の密度が非常に高かったから、やはり西淀川は工場の街なのだと強く感じた。それを見ていると、間もなく電車は淀川を渡る。これから行く東淀川までの3駅、7.9kmの間に、東海道線は淀川を2回渡る。つまり、淀川の北岸から南岸へと渡り、また北岸に戻ることになる。動きとしては無駄であるが、実はこれが一番安くて速い方法なのであった。なお、この鉄橋は下淀川橋梁という。淀川に2本かかる東海道線の鉄橋のうち、下流側にあるものだからである。
 窓の下には、河川敷が広く横たわっている。グランドなどスポーツ施設がけっこう整備してあるようだった。水面も非常に広かった。旧来の淀川である大川と放水路の新淀川とを分ける毛馬よりも下流側だから、このあたりにワンドはない。
 堤防を越えると、左側に産経新聞の印刷工場が見え、右側には公団の住宅が続いている。川を越えると建物の密度が変わってきた。と思う間もなく、電車は左にカーブを始めた。線路と高速の高架が離れると、直ちに右の方向から大阪環状線が近づいてくる。高速道路が円筒形のビルのど真ん中を突き抜け、JRの線路をまたいでいく。そこで下を見ると、今度は梅田の貨物駅に向かう貨物線をまたいでいる。ほどなく、東海道本線の電車は大阪駅のホームに滑り込んだ。

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 【注】2014年4月のダイヤ改正により、[92]は〔福町〕始発となった。

2015年04月05日

2013.06.20(木)(34)東淀川区ふたたび

 左の車窓からは広大な梅田の貨物駅跡が広がり、右側はビルばかりである。直径3cmくらいの大きなリベットが複数ついた重厚な柱がプラットホームに残り、その上にガラスの屋根が付いている。大阪駅は近年の再開発で、駅全体を覆う巨大な屋根をつくった。それでホームごとの屋根は全廃する計画だったのだが、大屋根の完成後に横から雨が吹き込むことが発覚し、ホーム屋根もそのまま残しておかなければならなくなったという。結局、古い鉄骨をそのまま生かして、屋根材だけガラスにしたという次第。こういうのは設計ミスというのだろうが、私としては、味わいのある古い柱が残ったということで、その部分に関しては評価したいと思う。
 私を乗せた各駅停車は大阪駅で何分間か停まり、やがて発車すると梅田周辺のいわゆる“阪急村”を右手に見ながら左にカーブして新大阪に向かっていく。車窓からはしばらくビルが固まりになって建っている様子がうかがえ、その後ビルと民家が半々ぐらいになるところがある。右にお寺が見えると間もなく淀川。今度渡るのは上流側の上淀川橋梁である。この橋から見える河川敷は、さっきと違って自然な感じ、というより荒れ果てて放置されている感じがする。グランドなどとして使われている様子もないし、水の流れる幅も狭く見えた。橋を渡り切って柴島浄水場を右手に見ると、そろそろ新大阪駅周辺のオフィス街が見えてくる。オフィスビルが多いのは線路の左側で、右側はそんなに密度が高くなく、建物もオフィスよりはマンションが多いようだ。そう思っているうちに、新幹線との乗換駅、新大阪に停車である。
 新大阪を過ぎると、こんどは左の車窓がマンションばかりになり、そして右は鉄筋コンクリート建築の密度が下がってくる。そこでもう、次なる目的地の東淀川である。大阪駅から新大阪駅までの間はけっこうな距離があって、大阪駅を出た後なかなか淀川が近づいて来ないし、淀川を渡って間もなく着くだろうと思っていると新大阪駅はそこからさらにずいぶん距離があるのだが、新大阪と東淀川の間は駅間が本当に短い。

 17:23、私を乗せた高槻行きの各駅停車は、定刻どおり東淀川駅に到着した。
 島式ホームが2本、外側が柵でふさがれて各駅停車はホームの内側だけ、という駅の構造は、さっきの塚本と同じである。塚本駅との違いは高架になっていないことで、それゆえホームの真ん中辺に跨線橋が見える。
 私はホームの北端に付いている階段を使って地下道に下りた。この地下道は、駅の東側と西側に両方ある、小さな平屋建ての駅舎とホームとを結んでいる。もともとは駅内施設で、幅2〜3mの本当に狭いものだが、そこをさらに天井近い高さの鉄柵で1mほど区切り、無理やり改札内・改札外双方の通路としている。このように地下通路を柵で区切って改札の中と外とで共用するのは関西地区でよく見る形態で、以前近鉄の小駅で似たものに遭遇したことがある。地下通路の柵は天井近い高さがあり、駅舎の中まで通じている。改札内の人は改札を通らないと出られないが、改札外の人はそのまま駅舎の外に出てしまう。
 こんな形になっているのは、東淀川駅は駅舎北側にある踏切が「開かずの踏切」として有名だからである。操車場からの線と東海道本線の複々線、合わせて8本の線路を跨いでいる長い踏切で、踏切番がいて機動的に開け閉めしているのだが、車両の入れ替えの時間に当たると開かずの踏切になってしまうのだ。線路の向こうとこちらが分断されているのは、国鉄時代ならともかく、民間企業のJRとしては無視できないのだろう。

 スイカをタッチして改札の外へ。自動改札機に表示された塚本からの運賃は、170円であった。駅の外に出ると、オレンジ色と黄色の花が咲いた花壇と、灯ろうが1基。駅舎の横にはアジサイも咲いているが、茶色いところが目立ち、正直あまりきれいなアジサイではなかった。振り返ると、駅舎は昔懐かしいスタイルの木造モルタル、瓦葺の平屋建てで、鉄道模型の建物として市販されていそうな外観である。
 線路に沿って南から来た2車線道路が、駅の敷地を避けるようにクランクし、それで広くなった部分が道路面から一段高くなって、駅前広場のようになっている。ロータリーではないが一応舗装はしてあって、たまに缶飲料の納品トラックが乗り入れたり、タクシーが回転したりしている。駅前は商店街にはなっておらず、1階だけを店舗や事務所にしたマンションが多い。喫茶店、整骨院、歯科医、居酒屋が見える。コンビニはデイリーヤマザキが1軒。あとは不動産屋が1軒。駅から見える駅前の商業はそれで終わりで、人通りも多くないし、少し寂しい感じがした。なお西口には、東口とは異なり、ある程度の商業集積があるようだ。
 4車線ぐらいの幅の広い道路が駅前から東へ200mぐらい続いている。広い道路はごくわずかな区間しかないが、そのうちアンダーパスを作って西口とつなげる計画でもあるのではなかろうか。この広くて寂しい道を東に向かって歩いていくと、その先に見える大きな信号で10階建てぐらいの高層マンションに突き当たり、中央分離帯つきの2車線×2の幹線道路と合わせて五差路になっている。いま「幹線道路」と書いたが、本当に幹線道路として機能しているのかは謎だ。なお、この道は五差路の向こうで道幅が急激に狭くなり、センターラインもない一方通行の出口に変わっている。ここから入ると、だいぶ曲がりくねってはいるが、阪急の淡路駅に行ける。前回の制覇の時(2009年6月)に、地下鉄御堂筋線の東三国駅から西淡路支店まで歩いてきて、この道を通って阪急淡路駅に抜けた。その時は確か、南北の大きな道路はまだ工事中だったと思う。

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2015年04月06日

2013.06.20(木)(35)近畿大阪・西淡路支店を制覇

 さて、近畿大阪はどこにあったかしら。そう思って五差路からフッと左を見ると、一番手前の方向に曲がる細い道と幹線道路との間にあるくさび形の部分に、目立たぬように支店の建物が建っていた。大きな道路に面するならともかく、この建物の建て方はよくわからない。西淡路支店のまわりに建っているマンションは建築年代が比較的新しそうに見え、道路こそ不規則に斜めになっているけれども、このあたりはすでに再開発が終わっているのではないだろうか。それとも、これから区画整理でもやるのか。それなら、せめて表通りに矢印看板でもつければいいのに。なお、その後の調査で、東淀川駅付近については駅前の太い道路に囲まれた範囲内のみ1970年前後に区画整理が行われたものの、近畿大阪のあるあたりは昭和30年代の区画のままであると判明した。
 ともあれ、西淡路支店はもうそこに見えている。五差路から奥へ入っていくと、まず近畿大阪の駐車場があった。土地は案外広く見えるが、駐車スペースの白線を4台分しか描いていない。駐車場と支店との間には、関西らしく車を収納するトタンぶきの棟割長屋のような小屋が建っている。これは別の民間ガレージである。やっと支店の敷地まで来ると、一番最初に遭遇したのは、鉄製の門扉が付いたカーポートであった。観音開きの2枚の白い鉄扉には、それぞれ「K」「B」の大きな文字が鉄板であしらってある。言うまでもなくKinkiとBankの頭文字であり、この支店が旧近畿銀行の店と一目でわかる。今となってはだいぶサビサビのようだが、できた当時はなかなかおしゃれだったのだろう。鉄扉の奥には支店の機動力として軽乗用車1台と自転車数台が置かれており、また行員通用口もここにある。そして、その先に「近畿大阪クイックロビー」の行灯看板がようやく見えてくる。私はどうやら、西淡路支店に裏手からアプローチしたようだ。

 支店の周辺は、シャッターストリートのような小規模な商店街であった。まず荒物屋があるが、この店はシャッターが下りている。シャッターが下りた調剤薬局。そして、やはりシャッターの下りた文房具屋と、内科・小児科の医院が同居した建物。医院ももう長いこと診療していないようだ。一応、診療時間などを書いた行灯の看板が付いているが、よく見るとポスティングされたチラシがたまり、埃をかぶっている。私が生まれた頃に設置されたと思しき文房具屋の看板には「コクヨフィラーノート」の文字が見える。1961年発売開始だそうだが、現在も市販されており、ちぎってファイリングできるように綴じ穴の開いたノートだという。あとは酒屋が1軒あるが、これまた自動販売機しか営業していない。というわけで、時間的な理由かもしれないが、この界隈でまともに営業している店舗は近畿大阪と郵便局だけのようであった。
 建物はパールのような光沢をもつタイルが貼り詰められている。白い縦型看板には大和銀行グループのDマークがまだ残っていたが【注1】、「近畿大阪クイックロビー」の看板はりそなの緑色のものに変わっていた。店内に入ると、近畿大阪としては標準的な内装。機械枠上部の行灯は合併後の標準スタイル(ゴナ体)で、5台分の機械枠にATM4台が稼働している。一番左の5番が空き枠、4番がオムロンJX、3〜1番にAK-1が3台、という機械配置であった。建築年代が比較的新しいと見える支店だけに、窓口室とを隔てるシャッターには、前面に大きなゴム製のスクリーンが付いている。「ご来店ありがとうございます。」とピンク色で大書された緑色のスクリーンには、ゾウやらコアラやらかわいらしい動物のイラストが描いてあった。
 機械を操作。17:30、西淡路支店を制覇した。

 近畿大阪銀行西淡路支店は、1959年9月に国民信用組合東淀川支店として開設された。国民信組についてはかつて当ブログの連載で触れたことがあるが【注2】、旧近畿相互銀行が1973年10月に吸収合併した信用組合で、この支店は合併により近畿相互の東淀川支店となった。1980年5月、東淀川区大隅一丁目に東淀川支店が開設されたのに伴い、この店は新・東淀川支店を母店とする西淡路特別出張所【注3】に変更された。1987年12月に支店昇格して西淡路支店となったが、現在の支店建物はこの時に新築されたようだ。その後に普銀転換と大阪銀行との合併を経ている。信用組合の頃から場所も変わっていないし、この界隈は区画整理もされていないから、建物は別として、昭和30年代の面影をかなり残しているようである。
 なお、西淡路支店は、近畿大阪銀行になってから、旧なみはや店舗を2店統合している。2002年6月に淡路支店(旧福徳銀、東淀川区東淡路4-14-27)、2004年1月に東三国支店(旧福徳銀、淀川区東三国5-1-2)である。淡路支店は阪急淡路駅の南側、東三国支店は地下鉄御堂筋線東三国駅の西側にそれぞれあった。西淡路支店は両者のほぼ中間に位置している。

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 【注1】その後、縦型の看板は地面から直立するタイプに付け替えられ、デザインもりそなグループ標準の緑色のものとなった。
 【注2】当ブログ2009年1月27日掲載「2008.07.22(火)(25)何かを期待させる8710」。
 【注3】当時は大蔵省の指導により支店の増加が認められていなかったため、新規出店の際には同数の支店の廃止が必要だった。この形で廃止になる支店の跡地には、顧客利便のため出張所の設置が認められていた。この枠で設置された出張所を特別出張所といった。1978年制度開始。

2015年04月07日

2013.06.20(木)(36)最終目標・三国に向かう小型バス

 もう夕方6時近くなり、私の腹は虫の活動が相当活発になってきていた。昼は上新庄でけっこうボリュームのあるランチを摂ったが、6時間近くも経てば完全に消化されてしまう。東淀川駅に戻る途中のローソンで、おにぎりを1個買い食いする。後でわかったことだが、西淡路支店は、東淀川駅から歩いて来る場合、五差路まで出るとちょっと遠回りである。交差点手前のローソン(東淀川店)で左に曲がると、支店前にある休業中の医院にダイレクトにたどり着く。
 というわけで、私はいよいよ最終目的地へ向かうこととなった。りそな銀行三国支店(淀川区)である。さっき書かなかったが、駅前には〔東淀川駅前〕という市バスの停留所があって、[11A]と[39]の2系統が来る【注1】。私はこれから、[39]野田阪神前行きのバスに乗る。[39]は平日のみの運転で、1時間に1本。時刻表を見ると、今日はこの後17:56発と19:01発の2本で終わりである。なお、[11]は〔東淀川区役所〕と〔新大阪駅東口〕を結ぶバスで、このうち約半分、「A」とつくものだけが〔東淀川駅前〕に乗り入れる。[11A]はだいたい2時間に1本。この3月(2013年)で廃止になった赤バスのうち、乗客が比較的多かった3路線は、4月から一般路線バスとして運行を継続することになった。11号系統はそのうちの一つ、旧赤バスの[西淡路〜区役所]系統をそのまま一般路線にしたものである。
 雨は相変わらず降りしきっている。白い鉄柱の先端に緑色のテントを付けた上屋があるが、この上屋はほとんど機能していない。交通局が割合に最近つけたとみられるブルーのベンチがあるが、今日のように濡れていると座る気にはならない。停留所のポールは一応行灯になっているが、接近案内のようなハイテク機器は付いていない。
 行灯に掲示が出ていて《39号系統は平成25年4月1日から一部のダイヤを小型ノンステップバスで運行いたします》とあった。赤バスの廃止が目前に迫った時期に、赤バス用車両の取り換えが必要となり、交通局は全国のコミュニティバスで広く使われている日野自動車の小型バス「ポンチョ」を大量購入した。もちろん、一般路線に転用できる前提で買ったわけである。購入当初は赤バスとして、クリーム色の車体に赤ラインという塗装にしていた。普通の市バスの塗り分けを色だけ赤に変えたものであるが、赤バス廃止と同時に赤いラインを黄緑色に変え、通常と同じ色になった。

 目の前で停留所の行灯が点いた。反射的に時計を見ると、17:45。発車時刻までまだ10分以上ある。
 停留所の真ん前のテナントビルが目に入った。ビル名はル・シェル。「シェル」と明らかに小さい「ェ」が書いてあるが、これは本来「シエル」が正しい。フランス語で、シエル(ciel)は空、冒頭のル(Le)は英語でいうと定冠詞のtheと同じ。よって「ル・シエル」は「ザ・スカイ」のようなネーミングである。この単語で思い出すのは、またもや塾講師時代の話であった。授業中にロックバンドの名前を「ラルク・アン・シェル」と発音して、男子生徒(中学生)に「シェルじゃ貝殻だよ」と叱られたことがある。彼はラルク・アン・シエルのファンだったのである。ラルカンシエル(L'Arc-en-ciel【注2】)で虹という意味だが、バンド名は読み方を日本的に変えているようだ。
 それから10分。バスはなかなか来なかった。すでに17:55、発車1分前である。バスはもともと定時性に難のある乗り物で、特に都市部では道路事情により5分や10分は平気で遅れてくるものである。今回もそうなのだろうが、こんな空模様の日に遅れられてはたまったものではない。

 そう思っていると、丸っこいデザインの小ぶりな車体の市バスがやって来た。これが「ポンチョ」であった。客が全員降りたのを見届けて、素早く乗り込む。通常の市バスは後ろ乗り前降りだが、このバスは乗降ドアが出入口兼用で1か所しかない。私を含む2〜3人の客が着席するかしないかのタイミングで、早くもバスはドアを閉め、勢いよく走り出した。
 車内は、右側に2人席が5列、左側に1人席が4列というレイアウトになっている。定員は何人かわからないが、小型バスだから29人以下のハズではある。最後部は長椅子になっているが、タイヤケースのところが段になっていて、相当に狭い。座席自体も寸法が小さくて華奢。ポンと乗ってチョコッと移動するからこの商品名になったというが、ほんの少し乗っただけで疲れてくるほど乗り心地が悪い。床が低い割に窓が高いところにあるから、外の景色も見づらい。だから私はこの型のバスが嫌いだ。
 ドアの右上に「酉」と書いてあった。39号系統は酉島営業所(此花区)が担当しているようだ。ちなみに井高野営業所は「井」であった。大阪市バスでは、通常の大型バスの場合、所属する営業所の頭文字【注3】が前ドア横の窓と後部ガラスに表示されている。
 車内放送が流れる。《本日は市バスをご利用頂きありがとうございます。次は〔日之出住宅前〕、〔日之出住宅前〕です》。市バスのアナウンスは「です」すら付けない、と今朝〔井高野車庫前〕を出る時に書いたが、どういうわけかここ東淀川では言っている。広告のアナウンスが入らない場合に「です」を言わず停留所名だけで終わりになることがあるように思う。

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 【注1】[39]は〔東淀川駅前〕発着便のほか、途中の〔新大阪駅北口〕を起終点とする便もあり、こちらは休日も運行されていた。なお、2014年4月のダイヤ改正で、[39]の〔東淀川駅前〕乗り入れは廃止され〔新大阪駅北口〕発着便のみとなった。
 【注2】L'Arc=Le arc。arcは弓の意。
 【注3】おおむね漢字だが、住之江営業所は「ス」、鶴町営業所は「ツ」。

2015年04月08日

2013.06.20(木)(37)オフィス街広がる新大阪

 〔東淀川駅前〕を出発したバスは、さっき歩いた駅前の道を東に進み、例の五差路で右折して、北から南に走る4車線の幹線道路に入った。〔日之出住宅前〕はこの道沿いにある。消防署(西淡路出張所)が歩道橋の向こうに隠れるように建つ四つ角で再び右に曲がるとすぐ下り坂に入る。JR東海道本線のアンダーパスである。新大阪駅の北側ゆえ相当に大掛かりな立体交差であり、東西に走っているこの道自体も片側3車線の広い道である。オレンジの照明が点いた長い地下道を抜け、アンダーパスの坂を上がりきったところで、頭上に高速道路がかぶさってくる。これは新御堂筋である。ここを抜けたところで〔宮原四丁目〕の停留所に停まり、客がドカドカ乗り始めた。
 新大阪駅の北側、宮原のこの界隈は、新幹線の駅を背景にオフィス街が広がるエリアである。ここには金融機関が多数出店している。銀行の名前だけ挙げておくと、三菱東京UFJ、三井住友、京都、池田泉州、滋賀、南都(奈良県)、百十四(香川県)、場所はややずれるが紀陽(和歌山県)。大阪信金もある。ここに挙げた中で、地方銀行は空中店舗が多く、企業向け融資を主な営業活動としている。本「めぐ記」の冒頭で阿波銀行蒲田支店の話題に触れたけれども、ここはそういう形態の銀行支店が多数ある地域ということになる。なお、りそなグループはりそな銀・近畿大阪銀ともに新大阪駅北側エリアには営業店を出していない。
 大阪信用金庫の新大阪支店については、ここで少し触れておきたい。この店は、旧東洋信用金庫の本店営業部である。東洋信金は1969年に信用組合から転換した新しい信用金庫で、「東洋」の名前のとおり三和銀行と親密とみなされていた【注】。バブル崩壊初期の1991年、この信金は大きな事件の舞台として全国的に有名になった。ミナミの料亭の女将だったO女史が、付き合いのあった支店長に7300億円もの架空預金証書を作らせ、それを担保に日本興業銀行などから1兆円もの借金をしていたことが発覚したのである。東洋信金の事件は、日本の産業金融の雄と呼ばれた興銀の頭取が国会に参考人として呼ばれるなど社会をにぎわせたが、これにより一気に経営が行き詰まった東洋信金は、法人としては1992年10月に三和銀に吸収合併された(金融不安初期の事例のため破綻・清算ではない)。30店あった店舗網は府内のいくつかの信金に分割して営業譲渡となり、大阪信金は本店と鶴見支店の2店舗を譲り受けた。大信新大阪支店の入っているビル(旧東洋信金本店ビル)は現在「三菱東京UFJ銀行東三国ビル」という名前になっており、各階に三菱UFJの関連会社が入っている中、1階の信用金庫が異彩を放っている。どのくらい異彩かというと、ビルの地下駐車場入口に、大阪信金の駐車場ではないので客は使うなと掲示がしてあるほどだ。ともあれ、東洋信金の話題は、銀行の空中店舗が多数あるこの新大阪の地には似つかわしい話のようにも思えた。

 新大阪駅の北側を東西に走る片側3車線の大きな道は、道の名前は知らないが、地図で見ると東海道新幹線に沿って駅の北100mほどのところを東西に走っている。〔宮原四丁目〕の次は、新大阪駅北側のロータリー内にある〔新大阪駅北口〕。バスは駅の北西側で左折し、ぐるっと乗り入れて来る。幹線道路とバスロータリーとの間が樹木の多い公園になっており、ここは緑に囲まれたロータリーという趣である。ただ、幹線道路から相当に離れており、奥まった場所まで入り込んでくる印象が強いから、バスターミナルとしてはあまり使い勝手がいいものではないと思う。バスターミナルに入る手前に、りそな銀の店舗外ATMが見えた。[新大阪駅北口](新大阪駅前支店)である。鉄骨を組んで鉄板を敷いただけの簡素な立体駐車場の1階にあって、朝7時から夜11時まで稼働している。これがこの地区唯一のりそなであるが、新大阪駅内にも一応、新大阪駅中央出口正面に[JR新大阪駅](母店同じ)というキャッシュコーナーがある。
 南下してきた道の1本西側を北上して、先ほどの幹線道路に戻る。この大通りは、一歩入るとマンションが建ち並ぶエリアで、ベビーカーを押したり子供を抱っこしたりしている母親に複数遭遇したから、若い人が結構たくさん住んでいる地域のようだ。すぐ左側に、愛媛県の第二地銀、愛媛銀行の新大阪支店があった。ローカル支店とあまり変わらないたたずまいの2階建て。新大阪に支店があるのは知っていたが、こんなところにあるのか。周囲はマンション街で、見た目も地元にある支店とあまり変わらない印象だが、支店自体の位置付けとしては、先ほど書いた宮原四丁目周辺の地銀支店群に近いのであろう。ひめぎん隣に建っているマンションは、新大阪駅に近いせいか、1階の店舗がチケット店であった。
 そのマンションの前に〔センイシティー南〕がある。センイシティーは、箕面市の「箕面船場」などと同様、繊維の卸売業者が郊外移転してきたもの。ここはJR大阪駅南側にあった繊維問屋街が集団移転したもので、1969年9月にオープンした。最近ではアパレルは全体的に不振で、ここもセンイ「シティー」ではなくなっているらしいが、バス停の名称としては健在である。〔センイシティー南〕は、市バスだけでなく阪急バスの停留所ポールも立っている。新大阪駅と大阪国際(伊丹)空港との間を結んでいて、平日はおおむね1時間に1本の運転。使いようによっては今日の計画に使えたかもしれない。

 三菱東京UFJ銀行(新大阪北支店)とメルパルクホールのある交差点に来た。MUの支店は旧三菱店だが、住友生命ビルの中にあるところが変わっている。さて、3車線×2だった幹線道路は、この三菱東京のある角から片側2車線×2の道にやせ細った。歩道の幅を広く取ってあるから、必要に応じて歩道を削って3車線にすることは可能だろう。その日が来るのかどうかは知らないが。〔西宮原二丁目〕あたりまで来ると、マンションも相変わらず多いけれども、古い民家がぽつぽつと現れ、摩天楼からちょっと空が見え始めた感じに変わってきた。東淀川駅を出る時空席も多かったこのバスは、新大阪駅と、その次の〔センイシティー南〕で客がドカッと乗って、それなりに利用度の高い路線のように見えた。特に、この時間帯は夕方のラッシュアワーだから、バスは一気に満席になっている。
 ここまで来て、バスは動きをすっかり止めてしまった。あともう少しで目的地であるのに、大渋滞である。今日は日中雨にさんざんたたられたのだから、せめて最後ぐらいスムーズに終わったらどうか。と思うけれども、日本国内での移動は、海外旅行とは異なり、さほどのアクシデントもなく済むのは事実であるようだ(海外に出たことがないので何とも言えないが)。少々渋滞したぐらいで腹を立ててはいけないのだろう。
 ほら、もう着いた。〔三国本町〕である。ちなみにこの道は、この先すぐ西側で、箕面に向かう国道176号線に突き当たるようだ。[39]は国道経由で十三に入り、淀川を渡ると〔中津六丁目〕から十三筋を西に離れて〔野田阪神前〕に至る。

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 【注】三和銀行は関連・関係会社の社名に「東洋」または「オリエント」を冠することが多かった(東洋信託銀行、オリエントリースなど)。東洋信金は三和銀側からは系列機関とみなされていなかったが、役職員は三和銀のOBが多く、信金内部では「三和系」と意識していた模様。

2015年04月09日

2013.06.20(木)(38)戦災を免れた町

 三国本町二丁目交差点そばにある〔三国本町〕でバスを降りると、いよいよ最終行程である。
 ここは、阪急宝塚線三国駅の南側である。線路伝いに北へ10分ほど歩くと、三国支店のある「サンティフルみくに」の商店街があるハズだ。このあたりもやはりマンションが多く、1階だけ店舗になっていてクリーニング屋が入っているとか、すき家が入っているとかの大規模なマンションがあったりする。ただ、道の北側に建つものはともかく、南側に建つ15階建ての巨大なマンションは、建築年代はあまり新しそうには見えない。
 四つ角から対面2車線黄色センターラインの道を北に向かって歩く。歩道に街路樹が立ったりしているから、古い幹線道路とは少し違う、割合に新しい道のようだ。西側には阪急の高架が続いている。阪急宝塚線は2000年3月に高架になったが、高架橋の東側にまだけっこう線路跡の空間が残っている。
 道の右側に、かなり規模の大きい4階建ての廃ビルがあった。緊急車両が出入りします、という表示があり、シャッターに営業時間が大きく書いてあるのを貼り紙で隠してあった。「営業時間」のある施設で緊急車両が出入りするのは何の施設だろう、と思って眺めてみると、関西電力三国営業所の跡であった。2012年10月に豊中市に「移転」したそうだが、要は営業所の統廃合である。電力会社の営業所というのは、今どきあちこちに置いておくものでもないようで、電気料金を収納する「営業」は、金融機関やコンビニに任せれば自前で窓口を開く必要はないのである。緊急車両というのは漏電などの故障に対応する車だろうが、こちらも機器類の精度が上がっているから、必要ないかもしれない。ところで、営業所の跡地はどうするのだろうか。マンションでも建てるのかしら。東日本大震災で東京電力の原子力発電所が破綻したとばっちりを受けて、日本の電力会社はどこもみな青息吐息になってしまった。国のエネルギー政策もガタガタである。これからの電力会社は、マンションの家賃収入で稼ぐといった地道な収入源の開発も必要になってくるのかもしれない。
 関電の建物横には、太陽光発電による花壇への自動散水システムというのがあるが、これもむなしく打ち捨てられている。雑草しか生えていないが、まあ「花壇」だった時代があるのだろう。その北隣は、割合きれいにメンテナンスされたマンションと、その付属の公園であった。東西に長くマンションの棟が広がっていて、その南側に細長く広がる芝生の土地。ブランコと砂場があり、砂場の中にはリスとパンダがいる…小さな置き物だが。公園は高い鉄柵で覆われており、柵のてっぺんには尖った剣のようなものも付いている。最近では、プライベートな公園どころか「プライベートな街」というものまであって、万里の長城のように塀で囲われた広大な敷地の入口に守衛室つきのゲートがあるという住宅団地が、あちこちに出来ていると聞いた。「ゲーテッドコミュニティ」というそうだ。

 マンションとは呼べない4階建てぐらいの住居ビルが目立ち始めたところで、片側2車線分ぐらい取れそうな広い道が左から来た。道幅の取り方を見ると、角にある大阪文化服装学院という専門学校の敷地を削らないと、ここから東の道幅は広げられないようだ。区画整理の計画があるのだろうが、それが遅々として進んでいない印象である。実は、ここより北の駅前付近ではもうセットバックが済み、歩道なども整備されて道幅が広くなっている。工事が終わったところだけでも4車線にすればいいのにと思うが、コンクリの大きな土台をつけたガードレールを置いてわざと道幅を狭め、車道は対面2車線黄色センターラインのまま。駅前広場だけは出来上がっているが、駅前の道路がこんな状態である以上、まだまだ先は長そうであった。
 このあたりは、道路はきれいになっているものの、道の東側の建物は土蔵建築のなれの果てのような古い建物がいくつもある。大激変のただ中にあって、古い町並みもまだ意外に残っているようだ。土蔵があることなどから察すると、三国駅の界隈は戦災に遭っていないのだろう。後日この界隈を車で走ってみたが、とにかく道が狭くて泣く思いだった。木造の古い住宅が密集した、いわゆる「木密地帯」にあたるのではないかと思う。
 そんな中に、十三(現北おおさか)信金の三国支店があった。三国には以前にも来たことがあるが、十三信金は三国の駅からかなり梅田に寄ったところにあると思っていた。今こうやって南の方から歩いて来ると、十三信金のある場所は完全に駅前としか言えない。ということは、りそなの支店は相当北に寄った場所にあるということなのか。
 2車線の一般道路と合流する。信号が、支店のある駅前の商店街「サンティフルみくに」の入口になっている。この道は西から阪急三国駅の下をくぐって来る道である。なお、後で古い地図を見てみたところ、阪急が高架になる前は線路が今より東側を通っていて、三国駅舎はこの交差点そばにあり、対向式のホームが南の方へ延びていたようだ。十三信金の向かいはかつての上りホームであり、広大な駅前広場は旧駅施設を全面的に除去した跡地なのであった。
 すでに出来上がっている駅前広場には、本数は少ないが市バスも入ってくる。大阪駅前から〔十三市民病院前〕を経由して〔榎木橋〕に至る[69]で、2014年4月以降は1時間に1本程度の運転となったようだ。

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2015年04月10日

2013.06.20(木)(39)三国支店で全行程終了

 りそな銀行三国支店に到着した。すでにあたりはだいぶ暗くなってきているが、それでもまだ多少の明るさを残している。制覇の前に、店の内外を見て回ろう【注1】。
 まずは支店の裏へ。三国支店の建物は、昭和30年代の古いものを使っていると思っていたが、これまで確信が持てなかった。今日改めて支店の裏に回ってみると、建物の柱が相当ガッチリしているし、柱と柱の間にある窓もかなり奥まっており、外壁に入っている飾りラインの入れ方にも時代が感じられる。これらの状況からすると、この建物はやはり相当に年代ものではないかと思われる。そのうち建て替えという話が出てくるのではないだろうか。
 正面入口の階段を2〜3段上がって、キャッシュコーナーに入った。今思えば、正面入口に数段の階段があるのもまた、昭和30年代以前の銀行建築の特徴である。内装は大和銀行時代の標準的なものだが、新大阪駅前支店と同じような感じで、「Dマーク」制定以前の少し古いタイプのようだ。機械枠は7台分。ATMはAK-1が2台、JXが4台入り、一番右の枠が空き枠。記帳機が機械枠の外に1台置いてある。機械を操作。18:28、三国支店を制覇した。
 三国支店は、1944年12月に野村銀行梅田支店三国特別出張所【注2】として開設された。当時の所在地は東淀川区新高南町1-11というから、三国とはいっても駅の南西側であったようだ。1945年6月7日の戦災(第2次大阪大空襲)で焼失して一旦廃止されたが、この地区の戦災は一部にとどまったため、戦災を免れた現在の地に場所を移して1946年4月に営業を再開、翌47年1月に支店昇格している。店舗は1958年に建てられたものを現役使用しているようだが、1986年に大規模な改装工事を受けており、正面から見ただけでは古めかしい建物とは感じられない。
 なお、旧協和銀行はかつて三国支店を持っていた。1942年11月に大阪貯蓄銀行三国出張所として開設されたもので、支店昇格・合併・普銀転換を経て、1969年8月十三支店に統合された。その十三支店も1979年8月に豊中服部支店に統合されている。所在地を調べてみると、現在の三国本町3-29-15にあたり、前述の十三信用金庫の場所そのものであった。実は、改装こそしてあるものの、北おおさか信金三国支店は旧協和の建物をそのまま使用しており、1969年刊行の『協和銀行史』に出ている写真と細部まで完全に一致している。1969年の支店統合後、建物は近所の印刷会社の持ち物となっていたが、商店街内にあった十三信金が1993年3月ここに移転してきた。どうして93年にもなって信金が引っ越してきたのかは知らない。

 これをもって、本日の「めぐ」がすべて終了した。
 連載の締めくくりに、サンティフルみくに商店街の様子を見てみることにしよう。三国にはりそなが発足してから何度か来たことがあるが、商店街には、今回の連載を準備する過程で初めて奥深く入った。なお「サンティフルみくに」の名称は、数字の3(三国の3つの商店街組合)と太陽、それにビューティフルを合わせたもので、1993年に制定されたそうである。
 りそなのすぐ奥には、北おおさか信金が店舗外ATMを出している。ここは旧協和の建物に移転する前に十三信金の三国支店だった場所で、旧支店の建物を店舗外ATMとしてそのまま使っている。外見からしてかなりの年代物のようだ。近くには、現役で営業している土蔵建築の質屋。それから、塚本でも見た「お菓子のデパートよしや」。三国の店はカルビーのロゴばかりであった。店によって出している製菓会社のロゴが違うようだ。
 お菓子屋の向かいにあるのが、三井住友銀行の店舗外ATMである。エーティーエムサービス西日本支店三国出張所。実はここは、2000年6月に統合された旧さくら銀行三国支店の建物がそのまま残っている。前面に小窓がたくさん並んだスタイルはいかにも太陽神戸銀行のセンスであるが、支店自体の歴史は、旧神戸銀行が兵庫県内7行の合併で成立した1936年12月よりさらに前までさかのぼる。その2軒隣、今はドラッグストアになっているスペースは、2004年10月までみなと銀行の三国支店があった場所【注3】。地域のトップ銀行が先に進出していた地に、同じ地域の後発銀行が追随して出店するケースは結構あちこちでみられ、かつて当ブログでも、京阪香里園(寝屋川市)のところで、ここと同じ神戸銀・阪神銀の例に触れた【注4】。今回の連載でも、東京の蒲田に徳島銀が出店したケースや、歌島橋で神戸銀の隣に兵庫相銀があったケースに触れている。
 アーケードが切れるところまで歩いてきたら、なんだか疲れてしまった。夕方のこの時間、シャッターを閉ざした店舗はほとんどない。これだけ長さのある商店街で、これだけの賑わいを維持しているのは大したものだと思う。塚本のサンリバーも結構な賑わい度だったけれども、ここも結構強そうだ。しかも、塚本は東口に三和という強い銀行の店があるが、三国に三和はない。大阪市内に店舗の少ない大和銀が、珍しく大阪市内で美味しい商売のできた地域なのだろうと思う。

 阪急三国駅には、改札と同じ階の梅田寄りに、りそなの店舗外ATM[阪急三国駅](母店三国支店)がある。このATMコーナーは、旧大和銀グループの牙城である関西エリアにありながら、ATMが旧あさひ機種といえる富士通の機械(FV20)が入っていたのが意外だった。大阪の店舗外ATMでは富士通の機械が普通に使われている。関東の店舗外ATMには逆に日立オムロンのAK-1がかなり入っているが、機種が異なるとレシートの用紙一つから違うわけだし、関東と関西でそれぞれ機種は揃えた方が良いと思える。
 なぜこんなことを書くかというと、今日一日の成果をここで記帳したからである。りそなグループの3つの銀行は、勘定系のシステムを一本化しているから、りそな銀行のATMで近畿大阪銀行の(もちろん埼玉りそな銀行も)記帳ができる。ここでインクが薄いとすべてがぶちこわしで泣きたくなるのだが、幸いそういうことはなかった。もちろん、必要な通帳を印字する前に、今回のめぐに影響しない通帳で先に記帳して試している。
 今夜の宿は大阪の中心部に取っているから、阪急の改札を入った。三国駅といえば、当地出身のシンガーソングライター、aikoの『三国駅』という歌について、以前「めぐ記」で触れたことがある【注5】。歌詞にある《あそこのボーリング場》がその後どうなったか、三国駅のホームに立った機会に確認してみようと思った。しかし、無理であった。以前来た時にホームから見えたボウリング場は、今日は全く見えなかった。線路際にマンションが建ったため、ボウリング場の場所をホームから見ること自体が不可能になっている。それに加えて、未確認情報によると「ボーリング場」自体がだいぶ前になくなったという話であった【注6】。
 かつての文は2009年5月に掲載したもので、それから6年が経ち、三国周辺についてもこの連載を作る過程でずいぶん歩いたから、知識も増えた。その立場からあの文を振り返ると、一般の聴き手が感情移入しにくいだろう、という私の意見は変わらないが、やや一面的な批評であったかもしれないと思う。三国駅周辺の“変わり果ててしまった”街並みとは裏腹に、あえて強気に《変わらない街並み》と歌詞に織り込んでいるのは、それなりの理由があったと感じた。あの歌でaikoが訴えようとした姿、あの歌の《変わらない街並み》という歌詞の面影は、三国地区をそれなりに歩き回って初めて理解できた部分もあるからだ。この世は知らないことで満ち溢れているのであった。

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 【注1】三国支店については過去に記述したことがある。当ブログ2009年5月6日掲載「2008.01.25(金)(4)変わりつつある三国」。
 【注2】太平洋戦争中の簡易店舗で、預貯金増強の国策に基づいて認可されたもの。近畿大阪銀行西淡路支店の特別出張所とは異なる。
 【注3】阪神相互銀行の三国支店として1964年6月開設、2004年10月梅田支店に統合。淀川区西三国3-17-4。
 【注4】当ブログ2009年2月13日掲載「2008.07.23(水)(14)香里、大型SCに翻弄された町」。
 【注5】当ブログ2009年5月7日掲載「2008.01.25(金)(5)aiko『三国駅』について思うこと」。
 【注6】その後改築され、再びボウリング場として営業中。



[りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く 完]

(お知らせ)明日の同じ時刻に「あとがき・参考文献」を公開します。

2015年04月11日

あとがき・参考文献

 「りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く」、4月10日をもって完結いたしました。最後までお読みいただいた方には、例によってダラダラと続いた連載にお付き合いいただき、御礼申し上げます。本編の分量は330枚ほどになりました(400字詰原稿用紙換算)。
 バスを使った「めぐ記」は、2013年3〜4月に掲載した東京都営バス[梅70]篇に続くものです。大阪の市バスは都バスと比べると地味なのか、ネット上では取り上げたウェブサイトや記事をあまり見つけることができませんでした。その地味なものに目を向けてみたわけですが、さてどのような評価が下されることでしょうか。無論、[93]が「めぐ」実施時点で“最長”でなかったのは、弁解の余地なしとします。

 今回の[93]めぐ記は、脱稿するまでに何度も頓挫の危機に瀕し、自分でもこの段階まで持ってこられたのが不思議に思えるほどです。2013年当時勤めていた職場の拘束時間が長かった上、精神的にも参ってしまい、2014年の秋頃まで作業がほとんどできませんでした。続行しようという意志はあり、記憶の確認のため2014年3月に大阪を再訪したのですが、そこで遭遇したのは盗難事件でした。夜行バスの車内で上着を盗まれて、ポケットに入れていた手帳、それから携帯電話をはじめとして電子機器類を一気に失い、その物心両面での痛手は非常に大きなものがありました。もちろん警察には届けましたが、警察は窃盗事件の捜査は一切してくれないのだそうです。さらに2015年1月、全体がほぼ完成に近づいた頃、確認のためレンタカーを借りてバスのコースをたどってみたのですが、その際「右折違反」でパトカーに捕まりました。バスのみに右折が認められている〔江口君堂前〕南側の交差点です。そんな規制があることを知っていればもちろん右折などしなかったのですが、問答無用で罰金7000円。警察も、交通違反をなくしたいのなら、物陰で見張っていて違反が成立するや否や捕まえるような姑息なことをしないで、堂々と張り番して違反しそうになった時点で注意してくれればいいのに。盗難の被害に遭っても何もしてくれない警察と、頼みもしないのに“ためにする”交通取り締まりだけ徹底している警察。市民の生活に寄り添う気配の全くない日本の警察の在り方を、同じ大阪府警で1年足らずの間に2度も経験し、我が祖国は安心して暮らせる国になったものだと複雑な味を噛みしめております。
 加えて、度重なる市バスの路線改編も、この連載に大きな衝撃を与える事件でした。本稿で取り上げた93号系統が経路変更し、淀川3区を大縦断するバスが消滅してしまったこと、そして連載完成直前に発覚した重大な事実。まず、[93]というバスは現在も運行されていますが、〔上新庄〕ではなく〔東淀川区役所前〕経由になったのはいいとして、十三の交差点で左折して大阪駅へ向かうようになりました。このことは、淀川北岸の大縦断という[93]の特性がほぼ死んでしまったことを意味します。十三から大阪駅へ向かうということは、十三筋に入って淀川を渡ってしまうからです。現行の[93]は確かに路線として必要なものと思いますが、14年3月までの[93]もまた必要だったのではないでしょうか。特に、十三の新北野交差点を東西に直進するバスが1本もなくなってしまったのは、淀川区内の移動に大きな影響を及ぼしていると感じられました。そして、作成段階の最後の最後になって、大阪市交通局にデータの確認をした際に知らされたのが、[93]が市バスの最長路線でなくなっていたという衝撃の事実でした。交通局は年報の作成がここ数年滞っており、図書館にデータがないところで[93]を上回る路線が誕生していたという次第です。1972年以来、93号系統はずっと鉄壁の路線長1位でしたので、つい油断してしまいました。連載発表前に発覚したのが、せめてもの救いでした。
 というわけで、[93]めぐ記は、ブログでの公開も断念するか否か、相当に悩みました。これだけケチがつきまくったのは、「完成させるな」という神の思し召しであったのかもしれませんが、今回はそれを振り切っての連載発表です。今回の「めぐ記」は、書くうえで一定の更新作業はしているものの、情報としては古いものです。時間のやりくりが下手な私の限界が産み出した事態であって、そのことを弁解するつもりはありませんが、ネタの鮮度が失われてしまったことは悲しく思います。とはいえ、「記録」程度の価値はあろうと開き直ることにした次第です。

 一つお断り。今回の連載では、過去に「めぐ記」で扱った個所をいくつか再び取り上げています。今回、同じことを二度書くようで気が引けたのですが、重複個所を割愛する等はあえてしませんでした。その理由は、アプローチ方法が全く異なることが一つ。もう一つは、過去の連載を今改めて読み返して、本当に同じ店や場所のことを書いたのかと思えるほど、稚拙でスカスカであると感じたためです。興味がおありでしたらご覧いただきたいと思いますが(ブログから削除はしておりません)、がっかりするだけに終わるか、歳月を経て少しは成長したと好意的にとらえていただけるかは、私にはわかりかねます。

 今の日本社会は、変わらぬことよりも日々流転していると感じられることの方が多いようで、いろいろな意味で「時代の節目」になっているのは間違いありません。内容面でもともと古いこの連載を、数年後に読み返して「超古い!」と感じられることがあるかもしれませんが、あくまで2013年6月の実体験と、その後の連載期間における「一面の真実」です。そういうものだと思ってお読みいただくことを望みます。
 この連載のような「文章を使っての自己主張」が、私の存在意義だと思っています。今後ともご支援・ご鞭撻をいただけますようお願いします。ご意見や情報提供をお待ちしています。このブログ「MEGU」は、コメント・トラックバックを歓迎していますし、私のメールアドレスも公表しています。

 なお、この連載の執筆にあたっては、以下のような書籍・ウェブサイト等を参照いたしました。


参考文献
 紙の出版物は刊行年順、同年はタイトルの五十音順。ウェブサイトは順不同、2015.02.25現在。

 『三和銀行史』三和銀行、1954年
 『東淀川区史』大阪市東淀川区、1956年
 山口竹治郎『大貯回顧随筆』私家本、1957年
 『大和銀行四十年史』大和銀行、1958年
 『兵庫相互銀行50年史』兵庫相互銀行、1962年
 『近畿相互銀行20年史』近畿相互銀行、1963年
 『大阪貯蓄銀行五十年史(草稿)』協和銀行二十年史編纂室、1965年
 『協和銀行史』協和銀行、1969年
 『大阪銀行二十年史』大阪銀行、1971年
 『十三信用金庫創業50周年記念誌』十三信用金庫、1975年
 『大阪市交通局七十五年史』大阪市交通局、1980年
 『福徳相互銀行30年史』福徳相互銀行、1981年
 『大和銀行七十年史』大和銀行、1988年
 『記録 兵庫相互銀行の時代』兵庫銀行、1989年
 須田慎一郎「銀行はかくて東洋信金を見捨てた」『文芸春秋』1992年9月号 文芸春秋
 平石裕一「東洋信金事件に学ぶ“都銀化”経営のおそろしさ」『エコノミスト臨時増刊』1992.11.09 毎日新聞社
 『近畿銀行五十年史』近畿銀行、1994年
 『創業七十五周年記念誌』大阪信用金庫、1995年
 トラベルジャーナル出版事業部編『大阪路線バスの旅』トラベルジャーナル、1996年
 『協和銀行通史』あさひ銀行、1996年
 『西淀川区史』大阪市西淀川区、1996年
 小沼啓二『改訂版金融犯罪の仕組み』光文社、1997年
 大阪市史編纂所編『大阪市の歴史』創元社、1999年
 『大和銀行八十年史』大和銀行、1999年
 『大阪市営交通創業100年』大阪市交通局、2003年
 仲尾宏『Q&A在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識 第2版』明石書店、2003年
 『大阪市交通局百年史』大阪市交通局、2005年
 『阪神電気鉄道百年史』阪神電気鉄道、2005年
 稲垣泰平『「歴史散歩」の記録 淀川右岸を散歩して』1〜4 文芸社、2008〜2014年

 『大阪市全商工住宅案内図帳』住宅協会出版部、各年度版(大阪市立中央図書館蔵)
 『交通局事業成績調書』大阪市交通局(年刊)
 『事業概要』大阪市交通局(月刊)
 『事業概要』大阪市交通局(年刊)
 『交通統計年報』大阪市交通局(年刊)
 『ニッキン資料年報』日本金融通信社
 『日本金融名鑑』日本金融通信社(年刊)
 『全国銀行店舗一覧』全国銀行協会

 『大阪市交通局』 http://www.kotsu.city.osaka.lg.jp/
 『大阪市東淀川区』 http://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/
 『大阪市淀川区』 http://www.city.osaka.lg.jp/yodogawa/
 『大阪市西淀川区』 http://www.city.osaka.lg.jp/nishiyodogawa/
 『阿波銀行』 http://www.awabank.co.jp/profile/
 『国際興業大阪』 http://www.kkg-osaka.jp/
 『北おおさか信用金庫』 http://www.kitaosaka-shinkin.co.jp/index.html
 『大阪シティ信用金庫』 http://www.osaka-city-shinkin.co.jp/index.html
 『国土交通省 近畿地方整備局 淀川河川事務所』 https://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/index.html
 『三国新道商店街』http://392shinmichi.com/index.html

 「大阪市バス 93号系統 歌島橋BT→江口橋(→井高野車庫)」『ぱたとたからづか〜青の日記-ブログ版〜』 http://blog.livedoor.jp/pata_zuka/archives/50303467.html
 「江口君堂」『大阪再発見!』 http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage448.htm
 「西行と江口の君堂」『十三のいま昔を歩こう』 http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-347.html
 「衝撃お色気ポスターも懐かしい「センイシティー」休館へ」『産経新聞』 http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120325/wlf12032518000022-n1.htm
 「(ニュース)十三アンダーパス西行き運用開始で市バス経路変更」『東淀川情報交通センター 情報ブログ』 http://blogs.yahoo.co.jp/fujiki533/32521207.html
 「大人AKBは2児の母・塚本まり子さんに決定 一方、選考に挑んだ芸能人は...」『THE HUFFINGTON POST』 http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/18/adult-akb48_n_5171534.html
 「日本銀行の代理店とは何ですか?」『日本銀行』 https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/op/f07.htm/
 「御幣島に宮脇書店西淀川店があった」『Togetterまとめ』 http://togetter.com/li/521695
 「大阪市バス路線変遷」『なみはやノーツ』 http://namihyanote.hatenadiary.jp/archive/category/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E3%83%90%E3%82%B9%E8%B7%AF%E7%B7%9A%E5%A4%89%E9%81%B7


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