2017年04月03日

新連載「大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇」のお知らせ

 当ブログ「MEGU」で、2017年4月3日(月)18時から新連載を開始します。
 今回は、2014年7月18日(金)に、岐阜県南西部の海津(かいづ)市・輪之内(わのうち)町・養老(ようろう)町を舞台に、大垣共立銀行の有人店舗および店舗外ATM、計19か所の制覇活動を行った記録です。
 分量は400字詰原稿用紙で450枚前後、回数は現時点で60回の予定です。例によって1日1本のペースでダラダラと掲載していきます。多少の脱線もありますが、最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇

今回の行動範囲

百聞は一見に如かず

2014.07.18(金)
  (-1)プロローグ@ 海津市に行くかい?
  (0)プロローグA 計画を立てる
  (1)名古屋を出発
  (2)桑名から養老鉄道に乗る
  (3)岐阜県最初の駅、美濃松山
  (4)[松山]を制覇
  (5)美濃松山から石津へ
  (6)南濃支店を制覇
  (7)静けさしみ入る石津駅
  (8)天井川をくぐって
  (9)駒野駅に到着
  (10)駒野出張所を制覇
  (11)桃栗三年柿八年?
  (12)[海津市役所南濃庁舎]を制覇
  (13)“愛車”との出会い
  (14)いよいよ自転車で漕ぎ出す
  (15)[ホームセンタークロカワヤ]を制覇
  (16)続いて[海津市役所]を制覇
  (17)「ピピット」のこと
  (18)江戸時代にタイムスリップ
  (19)イエス、高須支店
  (20)国立銀行のこと@ 76と129
  (21)国立銀行のことA 私立銀行転換と銀行法
  (22)水田地帯を北上する
  (23)チョンボでお千代保
  (24)海津市平田町三郷のコンビニにて
  (25)鹿児島県との意外なつながり
  (26)今尾の町に入ってきた
  (27)[ヨシヅヤ海津平田店]と十六銀行のこと
  (28)今尾支店を制覇
  (29)今尾から野寺に向かう
  (30)野寺の集落へ
  (31)海津市全店制覇達成
  (32)代理店のこと
  (33)これは輪中堤である
  (34)海津市を離れて輪之内町へ
  (35)[イオンタウン輪之内]を制覇
  (36)役場に向かって走れ!
  (37)[輪之内町役場]を制覇
  (38)さらば輪之内町
  (39)大垣市をかすめて船附へ
  (40)船附はかつての「船着き場」
  (41)旧営業店の[船附]を制覇
  (42)夏休みだもーん
  (43)夏の小川もさらさら行くよ
  (44)「珍品センター」という名の珍品
  (45)そして、制覇
  (46)養老町をヨロヨロと
  (47)ついにダウン
  (48)「フードセンター」は何の店か
  (49)[フードセンタートミダヤ養老店]を制覇
  (50)続いて、押越出張所を制覇
  (51)押越のコンビニにて
  (52)「やま」の際立つ美濃高田
  (53)養老支店を制覇
  (54)続いて[養老町役場]を制覇
  (55)3回目のダウン
  …to be continued

凡例 および おことわり
 カッコの使い分けは以下のとおり。《 》引用などの「丸写し部分」、[ ]店舗外ATM名、〔 〕バス停留所名。
 用字は原則として新字・新かなづかいを用いた。
 参考文献は連載の最後にまとめて記載する。一部に連載の途中で示す場合もあるが、必要に応じての例外である。
posted by 為栗 裕雅 at 10:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014.07.18(金)(-1)プロローグ@ 海津市に行くかい?

 私はインターネット上では「為栗裕雅」の名前で活動しており、ウェブサイト『遊牧民の窓』というものを運営している。メインのサイトの下に、ツイッター(のまとめサイトの『ツイログ』)のほか、銀行めぐりに関するニュースブログ『為栗ニュース』、小生の身辺雑記のブログ『遊牧民のゴタク』、そして当『MEGU』と、3つのブログをぶら下げている。
 ウェブサイトを最初に公開したのは、2003年のことであった。干支が一回りした現在、活発に情報発信しているのはツイッターぐらいで、ひところと比べると活動は落ち着いてしまった。これではならじ、と思う。人間は好きなことをやっている時が一番輝いているのだ。私も、東京・浅草のビール会社屋上にあるモニュメントのように、メラメラと輝きたいと思っている。
 閑話休題。2014年7月1日、私が運営するブログの一つ『為栗ニュース』に、私は以下のようなニュース記事を掲載した。

大垣共立銀、海津市で店舗網再編
 大垣共立銀行は1日【注1】、岐阜県海津(かいづ)市内の店舗網を再編すると発表した。
 大垣共立銀は海津市内に4支店1出張所を配置している。これらのうち、まず高須支店を今年7月22日(火)から「海津支店」に名称変更し、同市の中心的な店舗であることを明確にする。
 次いで、予定では2015年2月2日(月)から、海津支店以外の3支店1出張所を銀行代理店に変更する。同行の銀行代理店は、今年6月24日に設立された同行の全額出資子会社「鰍nKBフロント」(大垣市)が業務を担当する。新設される代理店では当座預金や事業性融資などを扱わず、これらの業務は海津支店に継承する。
 海津市は、2005年3月に海津・南濃・平田の旧海津郡3町が合併して発足した「平成新市」だが、大垣共立銀の歴史的な地盤の一つ。今回の再編対象5店のうち、高須支店は1878(明治11)年に当地で創業した第七十六国立銀行の本店だった店舗。ほかの店舗も昭和初期までにはほぼ出揃っていた。
(『為栗ニュース』2014年7月1日掲載 http://s-news.seesaa.net/article/400803730.html

 記事にも書いたとおり、岐阜県海津市は、2005年3月に旧海津郡の3つの町が合併して発足した「平成新市」である。地図を見ると、同市は岐阜県の西南端にあって、蝶が羽を広げたような形をしている。東海道新幹線と関西本線とのちょうど中間。西を養老山地、東を長良川・木曽川で仕切られ、中央を揖斐川が貫流する。揖斐川の西を養老鉄道が縦貫している。大垣と桑名を結ぶ養老鉄道は、海津市西部の重要な交通機関である【注2】。
 りそなグループの銀行をめぐる記事ばかりブログに出しており、私の中でりそなの比重が高いのは事実だが、私はりそな以外の銀行についても一定の注意を払っている。とりわけ、岐阜県大垣市に本店を置く大垣共立銀行は、取引を扱った店舗の名前が通帳に漢字で記帳され、しかも取引が店舗外ATMであった場合はATM名での記帳が行われる。存在感の大きな銀行として、以前から関心を持っていた。
 また、私の関心対象は銀行だけではない。そのうちの一つに「地理好き」というものがある。このニュース記事を作成していて一番に思ったのは、この地域のハシゴをすると、天井川と輪中という2つの特徴的な地形が見られる、ということであった。両者とも教科書的な知識だけで目の当たりにしたことはないから、これも楽しみの一つであった。さらに、「平成の大合併」で誕生した新市がどういう地域的なまとまりをもっているかにも関心があった。
 かようなわけで、高須支店の店名変更を前に、大垣共立銀行の海津市全店制覇を図ることにした。

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 【注1】銀行のニュースリリースは6月30日付になっている。大垣共立銀行はウェブサイトにリリースを出す際、1営業日前の日付にするのが習わし。「『株式会社OKBフロント』の設立ならびに海津市内店舗の店名・店舗形態の変更」『大垣共立銀行』https://www.okb.co.jp/all/news/2014/20140630.pdf
 【注2】自治体名でいうと、岐阜県揖斐川町・池田町・神戸町・大垣市・養老町・海津市・三重県桑名市を繋いでいる。
posted by 為栗 裕雅 at 18:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月04日

2014.07.18(金)(0)プロローグA 計画を立てる

 まず、日程のことから。
 高須支店が「海津支店」に変わるのは、今年(2014年)7月22日(火)。ということは、単純に考えれば、その前日までは「高須支店」である。最終日の制覇がしたいのであれば、理屈の上では21日(月・祝)に行ってATMで預金取引をすれば良いことになる。
 しかし、過去にりそな銀行のシステム統合の際に経験したことだが、旧大和銀行店舗某店のシステム移行が翌週月曜日と告知されていたところ、その前の土曜日ですでに新システムでの取引に変わっていたということがあった。りそなと大垣共立銀行で全く同じ出来事が起こるとは限らないが、通帳の店名記帳だけ前倒しで表記を変えてしまうことはありうると思われた。大共がこうした際どのような運用をするか事前の情報が乏しかったので、冒険はやめにして、<高須>の通帳印字が確実に取れる日を選ぶことにした。それが、高須支店としての最終営業日となる、7月18日(金)であった。
 合わせて、この頃私は、自分が持っている銀行口座の整理を進めていた。大阪の1行と名古屋の2行に手続きの用事があって、今回一緒に片付ける。これらのうち、名古屋のX銀行に若干の不確定要素があった。出発前日までにこの銀行の東京支店で用事が片付かない場合、三重県内の支店まで出向く必要がある。こうした事情も考慮して、海津市の制覇は三重県に近い南側から始めることとし、養老鉄道美濃松山駅近くにある店舗外ATM[松山]をスタート地点と決めた。
 次は、実際の「めぐ」をどうするか。海津市での「大共めぐ」は、おおむね養老鉄道沿線とそれ以外の地域とに分けられる。鉄道のない地域はバスを利用することになるが、一般の路線バスも市のコミュニティバスも本数が少ない。そして、私が気になったのは、海津市の北側であった。輪之内町、養老町といった、海津市と隣接するエリアにも、鉄道駅から遠く離れた大共の拠点がある。できればこの機会に一緒に取っておきたいと思った。すると、「めぐ」にはバスよりもう少し効率の良い交通手段が必要になる。
 そういう視点でネットサーフィンを重ねるうち、素晴らしい情報に遭遇した。養老鉄道は、自社の駅でレンタサイクルを運営しているのである。詳細は後述するが、多度駅にだけ配備されている電動自転車には、特に惹かれた。レンタル料が500円【注】と少し高めだが、それだけの価値はあると思う。こうして、「養老線+自転車」というコースが骨格を現した。
 そして宿泊。これもまた難題であった。どういうわけか東海地区は、ネットのトラベルサイトで検索をかけても、安くて便利な宿が極めて少ない。今回、桑名駅近くのビジネスホテルが数件ヒットしたが、1泊あたりの料金は容認できるものではなかった。それ以外で見つかった宿が、どちらも近鉄名古屋線の沿線で、駅名でいうと伊勢朝日(三重県朝日町)、海山道(みやまど、三重県四日市市)の2か所。桑名までの移動時間はかかるものの、1泊あたりの宿代は許容できる水準だった。検討の結果、近鉄伊勢朝日駅近くのビジネスホテルを予約することにした。海山道の旅館は出発時間が伊勢朝日より早いのでやめた。

 ここまでを軸に、計画を立ててみる。7月16日(水)発の夜行バスで大阪に移動。17日(木)は大阪での用事を済ませ、近鉄の特急で名古屋へ移動して名古屋での用事を片付ける。その日のうちに伊勢朝日まで戻って宿泊し、18日(金)の本番を迎える。
 自転車での移動は、インターネットの地図サイトで「道案内」の機能を使って目標ごとの徒歩での所要時間を抽出、それに1/3を乗じて移動時間を算出した。少年時代に入っていたボーイスカウトで、ハイキングなどの計画の立て方として、移動時間を徒歩4km/h・自転車16km/h・自動車32km/hで計算するとうまくいくと指導者から教わった。それを参考に「自転車は徒歩の4倍の移動能力を持つ」といったん決め、さらに余裕を持たせて「3倍」とした。つまり、自転車での移動を12km/hと見積もったわけである。
 もろもろ弄った結果、今回は美濃松山駅を起点に、駒野まで養老線利用、駒野駅で自転車を借りて高須→今尾→野寺→輪之内→船附→養老と回り、養老駅に自転車を返却して終了するプランになった。多度駅にある電動自転車の使用は、三重県が今回のコースから外れるため、断念した。
 「[松山]7時スタート」とした場合は、伊勢朝日を06:34に出る近鉄名古屋線の準急に乗れば、美濃松山に07:04に到着できる。大共のATMは7時台には出金に手数料がかかるから、7時台の制覇作業は入金のみで行う(入金は終日無料である)。千円札を事前に多めに準備しておく必要があるが、これは前日に両替を忘れなければ問題はない。なお、名古屋X銀行の用事は、東京支店に出向くことで出発までに決着したため、三重県の支店に行く必要はなくなった。

 プランがひととおり出来上がったので、あとはバスや宿舎を予約して実行すればおしまいである。しかし、ここで信じがたいトラブルが発生した。アテにしていた伊勢朝日の宿が、満室になってしまったのだ。本当に「満室」だったのか知らないが、少なくともトラベルサイトから予約できなくなったことは間違いない。伊勢朝日がダメとなると、次点としていたのは四日市市の海山道だが、桑名までの移動時間が30分ほどかかる。それなら、いっそのこと名古屋で宿を探した方が、安くて快適なものが見つかりそうだ。改めて見つけた宿は、名古屋駅西口から徒歩10分以内の場所にあって、1泊2500円。寝られれば良い私には、これで十分であった。18日早朝の名古屋発の時刻は、海山道と大差なかった。
 かくして、最終計画は次のとおりとなった。

(名古屋までのアプローチは記載省略。太字は大垣共立銀行の拠点を示す。「支店」「出張所」の呼称のないものは店舗外ATM。)

 名古屋 06:09(JR関西本線 亀山)06:38 桑名 06:44(養老鉄道 大垣)07:04 美濃松山(0.199km、徒歩2分)07:06 松山
 美濃松山 07:33(養老鉄道 大垣)07:36 石津(0.486km、徒歩5分)07:41 南濃支店
 石津 08:06(養老鉄道 大垣)08:14 駒野(0.224km、徒歩2分)08:16 駒野出張所
 駒野出張所 08:32(0.706km、徒歩9分)08:41 海津市役所南濃庁舎
 海津市役所南濃庁舎 08:56(0.606km、徒歩7分)09:03 駒野駅 *自転車借り出し
 駒野駅 09:15(3.09km、13分)09:28 ホームセンタークロカワヤ
 ホームセンタークロカワヤ 09:43(0.599km、3分)09:46 海津市役所
 海津市役所 10:11(0.635km、3分)10:14 高須支店
 高須支店 10:30(3.63km、15分)10:45 ヨシヅヤ海津平田店
 ヨシヅヤ海津平田店 11:00(0.5km、2分)11:02 今尾支店
 今尾支店 11:17(5.08km、21分)11:38 野寺支店
 野寺支店 11:53(3.28km、14分)12:07 イオンタウン輪之内
 イオンタウン輪之内 12:22(2.09km、9分)12:31 輪之内町役場
 輪之内町役場 12:46(4.47km、19分)13:05 船附
 船附 13:20(1.7km、7分)13:27 珍品センター
 珍品センター 13:45(5.03km、21分)14:06 フードセンタートミダヤ養老店
 フードセンタートミダヤ養老店 14:21(0.397km、2分)14:23 押越出張所
 押越出張所 14:38(0.867km、4分)14:42 養老支店
 養老支店 15:00(0.349km、2分)15:02 養老町役場
 養老町役場 15:17(2.72km、12分)15:29 イオンタウン養老
 イオンタウン養老 15:45(5.64km、24分)16:09 養老駅 *自転車返却、総走行距離41.137km
(養老鉄道で大垣へ。以降未定)

 今回の計画で、岐阜県海津市・輪之内町・養老町に19か所ある大垣共立銀行の拠点を、全個所制覇できることになる。原則、1か所の制覇に15分かかるとして、時間はところどころ多少の余裕を持たせてある。海津市役所だけ25分で計算している理由は今となってはわからないが、ミスではないかと思う。
 なお、駒野に着いた後、2か所回ってから自転車を借り出すのは、養老鉄道のレンタサイクルが朝9時からの営業だからである。

今回の行動範囲

 【注】現在は510円になっている。
posted by 為栗 裕雅 at 18:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月05日

2014.07.18(金)(1)名古屋を出発

 私は徒歩で名古屋駅に向かっている。
 宿を出たのは05:40のことであった。道は早朝だからすいているが、すでに人通りも車の通りもちらほらと出てきている。太陽はすっかり上がっていて、空には少し雲が多いようだ。昨夜の天気予報では、岐阜県の18日の天気は、基本的には晴れ。降水確率は6〜12時が30%、12〜18時が40%、だと言っていた。まあ「いい天気」と言えるのではないか。
 宿舎は、名古屋駅から歩いて10分弱、地下鉄桜通線名古屋駅と中村区役所前駅のちょうど中間にあった。ホテルの部屋は1.5m×4mほどの縦長の部屋で、体感では畳3畳分あるかないかぐらいの狭さ。面積でいうと大阪・新今宮に多くある簡易宿泊所と大差ないから、これで2500円という価格設定は、逆にちょっと高いと言えるかも知れない。とは言え、改装したばかりできれいだから、快適とは言わないまでも安い宿として十分だと思った。ただ、目覚まし時計が部屋になくて、起床は自分の携帯電話のアラームを使用した。起きられるか不安だったが、どうにかなった。エアコンを切っていたせいもあって、起きた時汗びっしょりだったから、あまり良い睡眠ではなかったと思う。
 昨夜はホテルから散歩に出た。宿は太閤通りという東西に走る有名な通りに面しており、真っすぐ東に向かうとりそな銀行の名古屋駅前支店が控えている【注1】。ここで1万円を千円札10枚で引き出して、翌朝一番の「めぐ」に必要な千円札を確保した。その後は栄の繁華街まで歩いたけれども、これといって食べたいものもなし、味噌カツなら食べてもよいと思っていたが、結局は何も食べないまま、地下鉄で宿に戻ってきたのだった。
 さて、駅へ行く前に、昨夜見つけておいたサークルKに寄る。ここで、幕の内弁当と日経新聞の朝刊、それから2リットル入りの飲料水を1本思い切って買ってしまった。少し重たいのが嫌だけれども、水は少々ぬるくなっても何とか飲める。ここからしばらくは電車での移動が主になるから、(どこで飲み切るかにもよるが)少々重くても大したことはないハズだ。
 買い物を済ませて駅に向かう。名古屋に本拠を置く大手予備校、河合塾(名駅校)の大きな校舎が目を引く名古屋駅の西口は、博多駅東口などと似た感じの庶民的な賑わい方をしている。銀行は、三重銀と北陸銀が見える。富山市に本店を置く北陸銀は、駅からの距離がややあるが、角地に巨大なビルを建てている。これは中村支店だそうで、ということは名古屋支店が別にあるわけである。三重銀は名古屋駅前支店。三重銀・北陸銀とも、大垣共立銀行とはATMの無料提携協定を結んでおり、出金だけでなく入金もできる。“制覇”ができないのが残念だが。
 発車10分くらい前に中央口改札を抜け、関西線の出る13番ホームに入ってきた。隣のホームには武豊線の普通列車が止まっていて、ディーゼルエンジンがガラガラと音を立てている【注2】。関西線の電車はとっくに入線していると思っていたが、まだ入っていなかった。まだ6時になったばかりだというのに、じっとしていても汗が噴き出してくる。雲が多いので日差しはあまり強くなさそうだが、湿度がかなり高い。先が思いやられる。早く電車に乗せて下さいよ、始発駅なんだから。
 冷房がいちおう付いている待合室をホーム上に見つけて入ったが、この時間に冷房が効いているわけもなかった。

 《この列車は折り返し普通列車亀山行きになります》とアナウンスがかかり、目指す電車がようやくホームに入ってきた。こんな朝早くから折り返し列車というのは少し驚いた。発車時間の5分前に着いて折り返すとは、相当ギリギリで回しているダイヤのようだ。
 来た電車は、転換クロスシートの3両編成であった。313系の1500番台というらしい。グレーの内装に青い座席で、質実剛健というか、いかにもJR東海らしい車両だと思った。折り返し列車なので、冷房だけはきっちり効いていて助かった。着席してすぐ、コンビニで買った幕の内弁当を広げる。期待していなかったせいか、弁当は思ったより美味しかった。
 名古屋06:09発。いつの間にか発車していた関西線の電車は、右に大きくカーブしてJRの車庫の横を通過し、間もなく高架に上がった。紅白に塗られた近鉄の電車が、右横を追い抜いていった。この電車の1分後、06:10に近鉄名古屋を出る急行鳥羽行きである。あれで行くと桑名の到着はこちらより早いが、運賃がJRより高いので選択しなかった。
 八田駅の先、庄内川を渡る手前で近鉄の線路がJRをオーバークロスしていった。川のほとりには「大名古屋温泉」という昔ながらのヘルスセンターの大きな建物が建っているが【注3】、2014年3月で閉鎖になったそうだ。このあたりの関西本線は単線である。マンションなども建ち始めているけれども、田畑が残っている。2つ目の春田駅は周辺に高層住宅が建ち並ぶ新しい駅だが、その横を流れている川は護岸工事がされていなくて、岸が自然のまま。近鉄でも駅の改札内に踏切が残っていたりするなど、名古屋は開発が進んだところとそうでないところの差が大きいようだ。
 3つ目の蟹江駅で早くも名古屋市から出てしまい、同時に郡部(海部郡蟹江町)に突入する。名古屋駅を離れてわずか3駅で、用水路に浮き草がびっしり浮いている。耕作している水田の様子を、私はここ蟹江で久しぶりに見た気がする。「平成の大合併」で弥富市の中心駅となった弥富駅は、標高-0.93mで《地上で日本一低い駅》という看板が出ている。津島市に向かう名鉄尾西線の線路が右の方に分かれていった。関西線は弥富から複線となり、本日初の大きな鉄橋を渡った。これまでにも中小の鉄橋はいくつか渡っているが、なかなか渡り切らない長いものはこれが初めてだ。この鉄橋は木曽川に架かっているようである。
 三重県に入っても、車窓の風景は弥富付近とさほど変わらない。ただ、マンションなど背の高い建物は減ってきた感じで、一戸建て住宅ばかりになった。建物も古いものが少し多くなってきた。この辺りでは水田の稲穂が垂れて部分的に黄色くなっているから、もしかしたら稲作の二期作でもやっているのだろうか【注4】。輪中の石垣上に建った古い民家の壁に「名産真珠漬」の琺瑯引きの看板が見える。ここで、2本目の大河川を渡る。船着き場に小舟が止まっていたりなど、川が生活の中に根付いているのを感じさせる。これは長良川である。渡り切ったと思ったら、道路を挟んでもう1本大きな川を渡った。こちらが揖斐川である。長良・揖斐の2つの大河川の境界は、1本の道路なのであった。
 2本の大河川を渡ったところで、関西線の線路は左に大きくカーブする。名古屋から西に延びる線路が、真南に向きを変えた。ということは、そろそろ桑名駅に到着するハズである。やはり、右の車窓は水田がほとんどなくなって、建物の密度が高くなってきた。窓の外を走る道路も車線が増えてバイパスのようになってきている。さあ、降りる準備をしよう。

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 【注1】名古屋駅前支店は2017年3月13日、JRゲートタワー29階に移転した。
 【注2】武豊線は2015年3月に電化された。
 【注3】解体済み。
 【注4】このあたりは稲と麦の二毛作。
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2017年04月06日

2014.07.18(金)(2)桑名から養老鉄道に乗る

 06:38、私の乗った関西本線の電車は、定刻どおり桑名駅1番線に到着した。
 「その手は桑名の焼きハマグリ」の文言で有名な桑名市は、城下町であり宿場町でもあって、東海道唯一の海上路「七里の渡し」の発着拠点であった。現在でも、関西線と近鉄のほか、内陸部に入っていく鉄道路線が2本も出ている鉄道交通の要衝である。大垣共立銀行は1926(大正15)年から桑名に支店を出している【注1】。やや蛇足めくが、りそなウオッチャーの立場からは、協和銀行も前身の不動貯金銀行時代から桑名支店を出店していたことに触れておきたい(1920年開設、1957年廃店)。
 桑名駅舎は駅ビルになっているが、エスカレーターを上がって跨線橋に出ると、骨組などから古い時代の橋を使っていると感じられた。養老鉄道へは改札を出ずそのまま跨線橋を渡っての乗り換えとなり、ホームは近鉄名古屋線の下り線(伊勢・大阪方面)の反対側、4番ホームである。
 跨線橋には、イオン銀行のATMが置いてある。東海地区や近畿地区では、イオン銀のATMを(イオン系の店内でない場所に)単独で置いてあるケースが結構目につく。首都圏ではまず見ないが、その代わりセブン銀行が同じような置き方をしているから、これは地域性と言えるものだろう。跨線橋の壁には「7月22日、三重銀行大山田支店オープン」の広告ポスターが貼ってあった。
 イオン銀の隣が、ファミリーマートである。近鉄の駅売店はもともとエーエムピーエムだったが、現在では全てファミマになっていて、「近鉄駅ファミ」というロゴが付いている。すぐ隣にイオン銀ATMがあるから、店内にATMはない。さて、このファミマで、乾電池を1包み(2本)買った。名古屋から来る電車の中で思い出したのだが、乾電池の予備がない。上着のポケットに入れているつもりだったが、点検してみると1本もなかったのだ。これは、3月末に電子機器類を上着ごと盗まれた影響である。くそったれあの泥棒め。高くつくから乾電池などコンビニでは買いたくないのに。さて、この店にはレジが2台あって、手前のレジの前に立ったら「すいません、1列にお並び下さい」と手前のレジにいた店員のお姉ちゃんに叱られてしまった。奥のレジの列に並び直したが、結局自分の番が来ると担当はこのお姉ちゃんであった。

 養老線は06:44発で、発車まであと1分ぐらいしかない。まだ切符を買っていないので、少し焦り気味にホームに下りる。近鉄の伊勢志摩方面行きが出る6番ホームは、柵で細長く仕切られており、中間に改札口が設けられている。柵の向こうが養老線の発着する4番ホームであった(5番ホームは欠番)。改札の横には、ソバ屋によくある食券の自動販売機をそのまま使った乗車券の券売機が置いてある。大急ぎで美濃松山までの切符を買った。券の体裁はJRの乗車券と似た書式になっているが、紙質がペラペラだし、フォントが明朝体であるなど、やはり切符というよりソバ屋の食券であった。
 駅員に改札印を押してもらい、大急ぎで電車に乗り込んだ。オレンジ色に塗られた2両編成で、窓の下に白い帯が1本入っている。養老鉄道は昔の近鉄と同じ真っ赤な電車が標準であるが、この2両は昭和30年代の近鉄南大阪線の塗色を復元したということであった。ドアには「第三銀行カードローン」の文字だけのシール広告が貼ってある。さっき三重銀行の新規出店の話を書いたけれども、金融業界は過当競争気味でなかなか大変である。やはりと言うべきか、2017年2月、三重銀は第三銀行との経営統合を発表した。
 電子音の発車ベルと、ドア上のプルルルという警報音は、近鉄に乗っているのとほとんど変わらない感じがする。それも道理で、養老鉄道は2007年まで近鉄の養老線であった。赤字路線ということで近鉄から切り離されてしまったけれども、養老鉄道は近畿日本鉄道の100%子会社であり、線路や鉄道施設なども近鉄が所有しているので【注2】、本質的には会社の名前が変わって運賃が上がったぐらいの差しかない。細かく見れば、ホームに柵を張り巡らせ、連絡改札を通らなければ養老線に乗れなくなったことと、駅名板に引かれたラインが緑色になったという違いはあるけれども。
 乗り込んでほどなく発車。車内はガラガラで、前の車両に5人ぐらいしか乗っていない。後ろがどうだったか覚えていないが、たぶん客はほとんどいなかったのではないか。車内は暑かった。冷房がいちおう付いてはいるが、全然効いていない。

 養老線はさっきの関西本線とは異なり名古屋に直結する路線ではないから、沿線は建物の新陳代謝がほとんど見られなくなり、古い建物ばかりになった。最初の駅、播磨に停車。駅前に農協の店が見えたり、町工場よりは大きな工場が密集していたりする。工場の集まりは昭和40年代ぐらいの開発だろうか。NTNという会社の看板の水色が目立つ。NTNは桑名市発祥のベアリング製造大手で、かつては東洋ベアリング製造といった。
 播磨を出たあたりから、線路のすぐそばまで山が迫るようになった。養老山地に近いからか、左の車窓には小高い山が線状に並ぶ。山の手前には水田が1面2面とあり、民家が数軒固まって建っている。起伏のある土地なので、標高の高いところは樹木を植えて果樹園のようにしている。右を見ていると、低地が広く取れるところは見渡すかぎりの水田になっている感じがする。それも(二期作は無理だろうが)二毛作ぐらいはやっているかも知れない。休閑地のように見える土地は、前年に耕作して今年は休んでいるのか、すでに今年の刈り取りが終わっているのか区別がつかないが、いずれにしても何年も放ったらかされた休閑地とは違うと思われた。
 2つ目の下深谷駅は、昔ながらの味わいのある平屋建ての駅舎で、このあたりから早くもローカル私鉄らしい雰囲気が濃厚になってきた。左の高台上に学校(三重県立桑名北高)が見える。養老鉄道のホームページに公表されている各駅ごとの乗降人員表によると、下深谷は乗降客が多い部類の駅【注3】。この駅で反対方向の電車とすれ違う。交換した桑名行きは3両編成で、昔の近鉄と同様の赤い電車。車内はほぼ満席だった。まだ7時にもなっていないが、朝が早い人は早いものである。
 結構大きな農家があったり、古い神社があったりする。左の車窓から見える竹薮は、葉が真っ黄色になっていたり、倒れかかった竹があったりと、少し荒れているようだ。人の手が入っていないのだろう。とにかく左側は電車のすぐそばまで竹薮とツル草ばかりである。この時期の雑草は成長力が特に旺盛なようで、伸びた草が窓にカサカサ当たったりしている。
 3つ目の下野代駅は、ホームは片側のみ。左の車窓だけ見ていると山奥に入ってきた感じがした。山奥といっても、山自体の標高はさほど高くはない。そして、駅の北側で地形が少し開けた。土地利用としては水田と畑が半分ずつぐらいだろうか。水門があって、鉄橋を渡る。地形が開けたところと、山がすぐそばまで迫ってきているところが交互に繰り返される。それも、山脈のある左側からだけでなく、部分的には右側からも山が迫ってくるように見えるところがある。平野部にしては地形の起伏が激しいが、激しいというより、起伏が「豊かにある」という感じがした。
 4つ目の多度駅に到着。国鉄型配線の大きな駅である。旧桑名郡多度町の中心地で、「平成の大合併」により桑名市となった。多度大社という大きな神社があって、この神社の神事は競馬の愛好家には有名らしい。大垣共立銀行はこの地に多度支店を出していて、この駅で降りると支店のほか[桑名市役所多度支所]【注4】、[ピアゴ多度店]の2つの店舗外ATMが取れる(今日は行かない)。
 この駅で乗客が少し乗ってきた。乗って来る客を見たのは、養老線の途中駅では今朝初めてであった。

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 【注1】正確には、1926年に買収した共営銀行(大垣市)が1916(大正5)年から出店していたもの。
 【注2】2017年中をメドに、近畿日本鉄道が保有する養老線の鉄道施設を、地元出資の一般社団法人「養老線管理機構」に譲渡し、公有民営方式で運営されることになっている。
 【注3】「養老線交通調査結果」(2012.11.13)によると、乗降人員1位は大垣駅(7789人)。以下、桑名(3958)揖斐(1615)多度(1115)下深谷(994)と続く。最少は美濃山崎(162)。http://cug.ginet.or.jp/yororailway/data/kouthuu.pdf
 【注4】施設名は「桑名市多度町総合庁舎」が正しい。
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2017年04月07日

2014.07.18(金)(3)岐阜県最初の駅、美濃松山

 多度駅が三重県最後の駅であり、次の美濃松山から岐阜県に入る。多度を発車して間もなく、小さな川を渡る。左の窓から大垣共立銀行の多度支店が見えた。
 養老線は多度から築堤上を走るが、この築堤も右に曲がったり左へ曲がったり、相当にカーブしている。随所で車輪がきしむ音がする。相当なS字カーブがあったりして、養老鉄道が古くから営業している線であると強く感じられる。養老線は1919(大正8)年に全線開業したが、この時代の鉄道は車両にパワーがなく急坂は登れなかったので、カーブを増やして勾配を緩やかにしたのだった。今なら勾配を多少急にしてでも線路を極力真っすぐにしてスピードアップを図るが、当時は速度もさほど求められていなかったと思う。
 大規模な送電線が頭上を横切った。播磨駅のあたりで数多く見かけたNTNの工場が、ここにもある。それから、羽目板を張り巡らせた土蔵。関東では白壁のものが多いけれども、西日本に来るとこういう羽目板を張った土蔵が多い気がする。左の車窓は、標高100m以上ありそうな背の高い山が、2〜300m先に見えるようになってきた。連なる山々は暗い緑で埋め尽くされている。地図で見ると、このあたりから養老山地が始まっている。
 それなりの幹線道路が現れた。電車の窓から見ると対面2車線みたいな感じであるが、養老鉄道に沿って大垣と桑名を結ぶ大桑(だいそう)国道(258号線)である。道路沿いには、ファッションセンターしまむらがあり、桑名信用金庫の支店が見える。それから、東建コーポレーションのアパートが多く目に付く。この会社のアパートは、茶色い外壁に柱の太いゴツい外観で、要所に三角形の飾りが付いており、見ただけですぐにわかる。ラブホテルが建っているあたり、県境らしい風情を見せている。それが岐阜県側であるのは後で調べて知った。
 電車のスピードが緩み始めた。最初の目的地、美濃松山が近づいてきた。さっきの大桑国道は、地図で見ると三重県と岐阜県との県境付近で養老線の線路をまたいでいるハズだが、電車の窓からは県境がどこなのか正確にはわからなかった。

 いま乗ってきたオレンジ色の電車が、ピーッと車のクラクションのような音を立てて発車していった。ここは、養老鉄道で岐阜県に入って最初の駅、海津市最南端の美濃松山駅である。こんな朝早くから、セミがシャーシャーシャーシャーと大合唱している。関東地区では鳴き声を聞くことのないクマゼミであった。
 桑名からの切符は、黄色いポロシャツを着たおばちゃんが「いただきます」と言って回収していった。桑名から360円。運賃は名古屋から桑名までのJRとほとんど変わらないが、距離で言ったら半分ほど、所要時間は2/3ぐらいである。
 さて、美濃松山駅は列車のすれ違いができる駅だが、駅舎のない無人駅で、2本の線路の両側に屋根付きのホームが付いている。ホームは上り・下りとも幅が1.5〜2mぐらい。ホームの端には切符の回収箱と乗車票発行機が備え付けられ、飲み物の自動販売機を1台置いた待合室も両方のホームに整備されている。ホーム北端のスロープを下りると、コンビニの独立型店舗が1軒建ちそうな面積を持つ駅前広場(のようなもの)になっており、駐輪場と、公衆便所、月極駐車場がある。駅舎がないから、改札という概念のものはない。周辺に張り巡らされている鉄柵は近鉄時代に設置された古いものらしく、水色のペンキはかなりハゲハゲになっている。自転車がまばらに置いてあるだけの海津市営の駐輪場は、小一時間もしたら自転車でびっしり埋まるのではないだろうか。月極駐車場の連絡先は、近鉄の子会社らしき会社になっている。その横はもう普通の一戸建ての民家であった。
 乗ってきた電車は、桑名行きの3両編成とすれ違いだった。美濃松山駅の旅客動態はどうなっているのだろうか。養老線の電車は、朝ラッシュ時でも30分間隔、日中は40分間隔での運転で、美濃松山駅の発車時刻は日中03分・43分・23分のサイクルとなっている。桑名行きのホームには溢れそうな数の乗客がいたが、高校生は1〜2人紛れていた程度。大垣行きは、20人ぐらいはいたと思うが、ホームに立っている乗客は全員高校生であった。朝のラッシュアワーでは、上りと下りで明らかに客層が違っている。大人の動きはさほどの差がないようだが、やはり高校生を見ると県境を越える動きは非常に少ないようだ。
 駅の東側は古い民家ばかりで店舗はほとんどない。例外的に床屋とお好み焼き屋があるくらいである。西側に目をやると、まず見えるのは、踏切横の郵便マークを付けた店舗。窓口取扱時間9時から午後4時まで、郵便貯金為替振替、などと書いてある。名前がどこにも書いていないが、ここは松山簡易郵便局である。民家の1階を婦人小物でも売る店にしたような佇まいだが、警備会社の四角いオレンジランプが付いているところが金融機関であって、零細商店とは違う。簡易局の前にある郵便ポストを見ると、取り集めは羽島支店となっていた。羽島市は東海道新幹線岐阜羽島駅の所在地として知っているが、土地鑑がないので結構遠そうという感想しか湧かない。後日知ったが、羽島局はここから直線距離で20kmほど離れている。配達は海津市旧3町それぞれに拠点があるようだが、羽島局のテリトリーの広さに驚かされた。
 簡易郵便局の隣は理髪店で、その隣が美容院。床屋は駅の反対側にもあるから、この近所には髪切り屋さんが多い。美容院の隣は一戸建ての飲食店。2階建て民家の1階が店舗になったスタイルで、看板を見る限り、喫茶店兼寿司店兼宴会場。一つの店で3つの業態という欲張った店である。
 さっき電車の窓から見てきたとおり、線路の西側を国道258号が走っている。大桑国道の松山交差点は、曲がる車線が付け足されているけれども、基本は対面2車線黄色センターラインの道のようだ。拡幅される計画があるようで、道の両側は建物が建っていない。交差点の北東側を見ると、セブンイレブンが1軒見える(海津南濃町松山店)。平屋建ての独立店舗で、店の前に大駐車場を備えた街道沿いに典型的なタイプである。南東側には、奥まったところに《CDレンタル》という文字が見えるしもた屋があり、その店の駐車場が国道に面している感じだが、要はセットバックしたまま放置されているのだろう。北西と北東側は、ちょいちょいと民家や店舗があったりする。ヤマハの自転車屋と食堂らしい店舗が見えるが、もうしもた屋なのかも知れない。
 国道の西は、200mぐらい先から山が始まっている。徐々に高くなる感じではなく、200mぐらい先からいきなり山がそそり立っているように見える。実はこれは養老山地の特徴の一つであるが、後述する。民家は山の付け根まで続いているようだ。

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2017年04月08日

2014.07.18(金)(4)[松山]を制覇

 美濃松山駅で降りた時から、もう大垣共立銀行の緑色の縦型看板が見えていた。セブンイレブンの手前である。ATM小屋は、国道258号線松山交差点の北東角にある駐車場内にあった。家具店の看板が出ているが、看板だけなのか土地も所有しているのかは知らない。駐車場は東西2つに分かれ、その間がフェンスで仕切られている。所有者が違うのかも知れないが、フェンスのどちら側も駐車場であるのは変わりがない。国道側の駐車場入口には《大垣共立銀行キャッシュコーナーのお客様以外は駐車および通行ご遠慮願います 地主》という緑色の看板が出ている。「大垣共立銀行」の文字がロゴタイプであるから、銀行が作った看板だろうか。私はキャッシュコーナーの客であるので、土地の真ん中を堂々と通行してATM小屋に近付いた。
 [松山]のATM小屋は、大共ではよく見られるスタイルの小屋である。一部が青緑色に塗られたステンレス製で、このタイプの小屋は1992年12月から各地に配備されている。ステンレス製のパラペットのようになった部分には大共の緑色の行灯看板が取り付けられている。それが、入口自動ドアの上に1mぐらい張り出して、入口部分の庇を兼ねている。壁面は駐車場側から見ると左2/5が緑色に塗られており、そこが機械室になっている。中央の1/5がステンレス無塗装の銀色、その右側1/5がガラス張り、残りの1/5が小屋の外ということになる。機械室部分の屋根は後ろ向きに傾けてあって、流れということを意識した少ししゃれた輪郭になっている。小屋の右2/5、つまり客が出入りする部分の屋根は、透明な強化ガラスで出来ている。横から見ると直角三角形になっているこのガラスの屋根は、機械室部分の屋根と形状が合わせてある。
 入口の自動ドアを開けて中に入ると、室内には自然光が差し込んで明るいイメージであった。ATMは、富士通のファクトVモデル20(FV20)という機械が1台だけ稼働している。母店は南濃支店であった。
 さっそく制覇をしてしまおう。私は通常、銀行めぐりの「制覇」について、入金→出金の1サイクルで行っている。合理的な理由があるわけではないが【注1】、ずいぶん前からそうしている。大垣共立銀行は、ATMでの出金は8時まで時間外手数料がかかるので、ここ[松山]と次の南濃支店での制覇作業は、入金2回で行う。昨日千円札を調達したのは、このためである。ここだけ通帳の表示がイレギュラーになってしまうが、止むを得ない。
 ATMを操作。07:19、本日の第1号となる[松山]を制覇した。

 店舗外ATMの南濃支店松山出張所は、2001年3月に開設された。海津市内4店の代理店化に伴い、母店は2015年2月2日から海津支店に変更されている。
 当地の大垣共立銀行ATMは、もともとは「かどます」というスーパーマーケットに置かれた店舗外ATMで、1988年11月に最初に開設された際には[かどます松山店]という名称であった。かどます松山店は、現ATMの隣接地、現在セブンイレブンのある場所にあった。
 かどますを運営していたのは、現海津市南濃町駒野に本社を置いていた、滑p増という食料品スーパーの会社である。同社は1883(明治16)年に青果物の小売業から創業し、1968年6月に法人化した。1981年に複数店舗の展開を始め、最盛期には8店舗を営業し、30億円以上の年商を上げていた。競争の激化に伴い、1995年からは不採算店舗を「ケイ・バリュー」というディスカウントショップに転換して巻き返しを図っていた。しかし、1999年9月、岐阜地裁大垣支部に自己破産を申請する。負債額は13億円ほどであった。
 店舗は松山店のほか、同じ南濃町の駒野本店、高須(海津市海津町)、今尾(海津市平田町)、高田(養老町)、羽島(羽島市)など。これらのうち3店舗に、大共のATMが置かれた歴史がある。松山以外の2店についてもここで触れておくと、平田町今尾の店舗外ATM[かどます今尾店]は1989年4月の開設、母店は今尾支店で、機械はスーパーの店内にあった。1999年9月、スーパーの閉店と同時に廃止されたとみられる。羽島市足近町にあった羽島店には、1995年12月に羽島支店を母店とする[ケイバリュー羽島店]【注2】が開設されたが、翌年には早くも廃止されており、短命であった。
 松山店のATMについては、今尾店よりも遅く2000年度まで稼働していた。これは、店舗外ATMがスーパーの店内ではなく屋外の小屋であったためと推定される。閉店したショッピングセンターの敷地内で大共ATMが稼働を続けているケースは、現在でも[ショッピングプラザ・アミ](垂井町)のような例がみられる。ともあれ、2001年3月、[かどます松山店]は[松山]として隣接地に生まれ変わった。なお、かどますの松山店・今尾店とも、屋号は「ケイ・バリュー」に変わっていたが、大共のATM名は廃止の時まで「かどます」のままであった。
 この松山という地区には、駅の近隣にいくつか住宅団地が開発されており、ATMの設置もそうした住宅地への便を図るためのようだ。桑名駅からの最終電車はここ美濃松山止まりであり、通勤客とその世帯が多いのだろう。

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 【注1】かつてあさひ銀行で「めぐ」を始めた頃、店舗外ATMに出かけたものの、制覇ができないことがあったため。普通預金の残高が1000円に満たず、配備されていた機械がATM1台・CD1台で、ATMが故障していたため入金ができなかった。CDを見かけない現在では意味がなくなったと思われていたルールだが、最近になって第四銀行の「めぐ」で入金時と出金時で店名記帳が異なるケースに遭遇し、1回の制覇で入金と出金の両方を行うのは正しい行動原理であったと判明した。
 【注2】大共の出張所名は中黒なし。
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2017年04月09日

2014.07.18(金)(5)美濃松山から石津へ

 美濃松山駅に戻ってきた。次の目的地は、美濃松山のお隣、石津駅。ここに[松山]の母店の南濃支店がある。
 大垣行きの電車は07:33発。[松山]は駅から近いことはわかっていたし、持ち時間も30分あるからゆったり構えていたが、終わってみると結構ギリギリであった。駅前にある[松山]は、それでもまだこの程度で済んでいるけれども、駅から離れた制覇目標なら、まごついているうちに時間を食ってしまう。用心しないと。
 切符は、黄色いポロシャツを着たスタッフの女性から買った。「車内補充券」と印刷された券は、正副2枚綴り。金額や駅名に手書きで丸を付け、地紋の印刷された切符を1枚ちぎって渡される。隣の駅までだが200円もした。待合室に貼ってあった養老鉄道の求人広告によると、あのスタッフの女性は「トレインアテンダント」という肩書らしい。YORO RAILWAY STAFFと背中に書いた黄色いポロシャツを着て、養老鉄道のロゴが入った帽子を被り、ウエストポーチを下げて切符を売っている。おじさんおばさんだし華はないが、結構活躍している。桑名から乗った時、初老の男性が車内の掃除をしていた。おっちゃんは途中の多度駅で降り、代わりに話題のおばちゃんが乗ってきて、私と同じ時に美濃松山で降りた。いま見ると、女性はキャスター付きの箱を引っ張っているから、この駅では掃除もしていたのだろう。要するに、無人駅を回って何でもこなす係員である。養老鉄道は、こういう感じで非正規雇用を地元に提供しているようだ。
 アテンダントといえば、以前、福井県のえちぜん鉄道に乗った時には、デパートのエレベーターガールのような制服を着た若い女性だった。目の前にいるアテンダントとはずいぶん違いがある気もするが、こちらの人もかつては若い女性だったのである。

 やって来た大垣行きは、来る途中に下深谷駅ですれ違った赤い3両編成であった。お客の数は桑名行きの半分ぐらい。さっき桑名から乗ってきた同じ方向の電車より、客の数が少ないと感じた。3両だから分散しているのもあるだろうが、ここは岐阜県とはいえ大垣市から遠く離れているから、大垣方面に行く流れがさほど大きくないのかもしれない。
 美濃松山から石津へ向かって北上する。電車はすべてワンマン運転であり、車内放送もすべて録音である。近鉄で流れるおなじみの女性の声で、アナウンスがかかる。《次の石津でお降りの方は、乗車券を改札口備え付けの乗車券箱へお入れ願います。》こう放送が流れたということは、次の石津駅も無人駅のようだ。養老線は駅員のいる駅の方が少ないのであるが。
 車窓右側は一戸建てが密集した住宅地で、市営コミバスのバス停も見えた。工業団地の裏のようなところを走ってみたり、住宅地を走ってみたりだが、基本的には水田地帯である。そこに、ホームセンターなどロードサイド型の店舗も現れる。このあたりには結構工場が進出しているようで、大きな敷地をとった工場があちこちに見える。土地は全体的に余っていると見えて、大面積のものが多いし、一つ一つの施設が大きい。
 左の車窓、水田と民家の向こうに、緑色の縦型看板が見えた。その横の建物は、壁に《大垣共立銀行》と書いてある。あれが次の目的地の南濃支店だな、と思いながら、電車はスピードを緩める気配が全くない。石津駅にだいぶ近付いているハズだが、電車は全然スピードを落とさない。少し焦りの感情が生まれた。駅からあそこまで歩いて行くのは、この調子だと結構遠くないか。30分で行って帰ってこられるかしら。そう思った矢先、駅の手前にある踏切のあたりで、電車は減速を始めた。なんだ、脅かすなよ。

 07:36、石津駅に到着。ここは単線のままホームが1本あるだけで、美濃松山とは違って交換駅ではない。ホーム端のスロープを下りた先に駅舎があるのも、美濃松山とは異なっている。駅舎は割合に新しそうだが、ところどころサビが浮き出ている。出札窓口にはシャッターが下りている。割合最近まで駅員がいた駅なのだろう。
 駅の外に出てきた。石津駅前には、さっきの美濃松山と同じような感じで駅前広場があるが、面積を比較するとだいぶ小さいようだ【注1】。駅舎から目抜き通りに向かって土地の高さが下がっている。標高差は50cmぐらいだろうか。坂というより「ちょっと下がっている」程度の斜面であった。駅前広場に面したところには、集客圏の広い地方の駅前によくある自転車預かり店がある。店先のたたきの部分に自転車が並べてあるが、建物の感じからすると、かつては旅館だったと思われた。
 石津駅の入口には、海津市コミュニティバスの〔石津駅〕停留所がある。ここから出るコミバスは4系統。海津羽島線、海津西回り線、海津南回り線、南濃南回り線と書いてある。地方都市のコミバスとしては本数が多い方で、特に羽島(岐阜羽島駅)まで行くバスは1日7本もある。20kmを1乗車100円で乗れるのは素晴らしいが、100円という格安料金は「ムーバス」(東京都武蔵野市)の影響を受け過ぎかと思う。どうせ採算は取れないのだし、いくら運賃を安くしても乗らないものは乗らないのだから、もう少し上げても良いのではないか【注2】。
 本格的に通学時間になってきたとみえて、駅に女子高生がたくさん集まりつつあった。不思議と女子高生ばかりである。以前、千葉県のりそな銀めぐで北小金支店について書いた際にも触れたが、朝の時間帯に男子高生を見かけることは少ない。なぜなのだろう。私の目に入ってこないだけなのだろうか。

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 【注1】石津駅前にはその後、月極駐車場を備えた駅前広場が隣接地を含めた形で整備され、面積も倍増した。
 【注2】海津市のコミュニティバスは、2015年10月、路線の再編やデマンドタクシーの導入などが行われ、運賃も初乗り200円、岐阜羽島駅までは300円となった。石津駅前を発着するバスは、2016年10月以降は「海津羽島線」(1日9往復)と「南幹線」(1日8往復)の2系統。
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2017年04月10日

2014.07.18(金)(6)南濃支店を制覇

 石津駅を背にして、古い商店街を南へ歩いていく。かつては街道だったと思われるが、いまは線路の西方にバイパス道路ができており、こちらは生活道路になっている。駅前の町並みは古い木造建築ばかりで、たまに壁面をトタンで補強している。昭和初期ぐらいかもっと古いかわからないが、味のある入母屋造りの屋根が多くみられる。商店街は電器店とか時計・メガネ店とかが主体で、食料品店は見当たらない。自動販売機だけ置いて、店としては営業していない店舗もある。目抜き通りは対面離合が楽々できるほどの道幅で、センターラインを引いていないのに不思議なほど広いと思った。道のそばを川が流れており、そこを暗渠にしているから、車の通行に関しては対面2車線と変わらない幅があるのだった。
 旧雑貨屋とおぼしき店の横に、踏切が2つ並んでいる。一つは普通に車が通れる道。その隣に神社の参道があって、なんと鳥居をくぐったところにも踏切がある。太さ20cmぐらいの石の角柱で作られた柵で囲われた参道の入口から、1段か2段上がると玉砂利が敷いてあり、そこから3段ぐらい上がると、しめ縄などがちゃんと付いた本格的な鳥居。大正15年6月建之とあって、養老鉄道の開通直後に整備されたものである。こんなところに踏切があるのは、神社の参道を横切って養老鉄道が敷かれたということ。こんな大事な場所を鉄道用地として使わせるとは、大正時代には鉄道に対する期待が大きかったのだなあと感心した。参道の踏切を渡った先には石灯籠が左右に並んだ石畳がずっと続き、しめ縄を巻いたケヤキのご神木が立つ。樹高は25mほどもあるそうだ。その30mぐらい先に石段がもう1つあり、それを上がると鳥居がもう1つ見えて、神々しい雰囲気が漂っている。
 この杉生(すぎお)神社の南で、道が斜めに分かれている。旧街道は線路の東側に沿って南に続いていくが、養老線を斜めに横切る踏切道がある。事前のリサーチでは、1回斜めに踏切を渡らないと南濃支店には行けない。線路が少し高いところを通っているので、2mぐらいの高低差がある。スロープを上がると、線路上で石津駅のホームが見えた。遠いのは改札だけなのであった。
 踏切を渡った横にある開業医の建物は、鉄筋コンクリートの2階建てで、学校の校舎のように立派である。踏切に近い部分は院長の自宅なのか、BMWが1台止まっている。車で送迎されたお婆さんが1人、病院の中に入っていった。診療時間は9時からと書いてあり、まだずいぶん早いようだが、どうしたのだろうか。さらに進んでいくと住宅地になった。左右に民家が建ち並んでいる。各戸は面積が広かったり狭かったり不規則である。妻面を見ると、梁の先端部分が屋根直下の三角形の壁に顔を出していたりする。途中にある旧食料品店のような店舗の店先に、チェリオの自動販売機があった。

 道が左にゆるくカーブしていった先に、ようやく目的地が見えてきた。さっき電車の窓から見えたとおり、白い建材を使った支店の外壁に、緑色のペンキで《大垣共立銀行》と書いてある。店の歴史は相当古いハズだが、建物は2階建ての平べったい、そこそこ新しい建物に建て替えられている。大共の敷地は70cmほど高くなっていて、道と駐車場との間はスロープになっていた。駐車場に入ると、銀行らしく白の軽乗用車が4台も並んでいる。壁面に夜間金庫も見える。いま、男性が1人店の中に入って行く様子だった。この時間に出勤してきた行員だろう。
 敷地の西側を大桑国道が南北に走っている。店の国道側を見ると、国道に沿った部分はセットバックされていて、道路から見ると支店の建物は少し内側に入っている。正面入口もこちらであった。この支店は駅側から歩いてくることよりも、国道側から車で来ることを念頭に置いているようだ。駅から歩いて来て達したのは、どう考えても裏口であった。
 キャッシュコーナーに入る。ATMは富士通のFV20が2台。右側の1台だけが手のひら認証対応であった。機械を操作。07:50、南濃支店を制覇した。

 南濃支店は、1928年5月に大垣共立銀行が合併した七十六銀行の、石津出張所だった店である【注】。
 七十六(しちじゅうろく)銀行は、明治時代に全国各地に多数設立された旧国立銀行、いわゆる「ナンバー銀行」の一つで、これから行く海津市海津町高須町に本店を置いていた。大垣共立銀行もルーツはナンバー銀行だが、その番号は「129」であるから、七十六銀行は大共よりも番号が若いわけである。詳しいことは、この後高須支店のところで述べる。
 そんな七十六銀は、1928年5月大垣共立銀行に合併され、石津出張所は大共の駒野支店石津出張所となった。1936年2月には駒野支店の出張所化に伴い、母店を高須支店に変更している。石津支店に昇格したのは1950年10月のことである。1954年11月に町村合併で所在地が石津村から南濃町となり、石津支店は1970年10月南濃支店に改称した。2005年3月28日、所在地は町村合併で南濃町から海津市に変わり、そして来年(2015年)2月2日、南濃支店は南濃代理店に変更されることとなった。
 店舗の場所は2回変わっている。1958年10月の新築移転で南濃町の太田27から太田40-1に、1980年12月に現在の太田919-3へと動いた。最初の場所は石津駅前の交差点から北へ250mの建材店付近、2番目の場所はそのすぐ南、家具店隣の現駐車場だったようだ。

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 【注】七十六銀行時代の正確な開設日については残念ながら判明しなかった。沿革の記述は基本的に『大垣共立銀行百年史』によっているが、1927年7月発行の七十六銀行第97期営業報告書によると、同年2月23日に石津を含む6代理店を派出所に変更すると大蔵省に届け出ているので、さらに出張所への変更があったとすればその後。
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2017年04月11日

2014.07.18(金)(7)静けさしみ入る石津駅

 石津駅へ戻ってきた。
 駅前まで戻ってくると、駅入口角の店は整体院のようだ。正確には、入口の窓ガラスには整体院と書いてあるけれども、もう営業はしていないのだろう。旧南濃町の市街地ということで、商業集積が多少はあるのだけれども、まあほとんど無きに等しい。いまとなっては商店街の過去の栄光を感じさせるのみである。
 この時間になると、通学をする生徒はもういないようで、駅には静寂が広がっていた。さっきの女子高生たちはどこへ行ってしまったのだろうか。アテンダントもいないので、切符を買うこともできない。駅に備え付けの乗車票発行機から1枚取って、駅の中に入った。

 ホームに入ると、遠くで踏切が鳴っていた。私が乗る電車ではない。前述のとおりこの駅で列車交換はできないから、大垣行きはいま来る桑名行きと美濃松山で行き違いをしてから来るのであろう。
 ホームからは、天理教の大石津分教会が見えている。天理教の教会は、棟がすべて天理教の聖地である奈良県天理市の方を向いて建てられていると聞いたことがある。ここもやはり天理の方向に向けてあるのだろうか。天理市は石津からだと南西の方角であるが、ホームからは切妻の妻の部分しか見えなかった。
 駅の広告看板はスカスカで寂しい状況だが、70cm角ほどの小さな看板がズラリと並ぶオムニバス広告だけ、いちおう14枚全部の枠が埋まっている。その隣に、「海津橋饅頭」の大きな看板があった。第20回全国菓子大博覧会で「農林水産大臣総裁賞」を受領したそうである【注】。いつあった博覧会かわからないし、大臣総裁賞というのも妙な名称だし、「受賞」ではなく「受領」したというのも何か意味があるのだろうか。海津橋は石津駅の北東1km弱のところにある揖斐川に架かる橋で、後で知ったが海津橋饅頭本舗はこの橋のたもとに店を構えている。海津市コミバスの幹線にあたる海津羽島線が通るが、今回ここは行かない地域である。電車に乗って歩き回っているだけでは分からないところが多々あるのは確かだ。
 やがて桑名行きの2両編成の電車がやって来て、ホームの桑名寄り最前部に停まった。もっと後ろに停めればいいのにと思った。石津駅は出入口が大垣寄りの北端1か所しかない。2両編成の場合、客をわざわざ1両分前方に移動させることになるが、そんな意地悪をしてやるなよと思う。ワンマン運転用のミラーは、2両用と3両用の2本、ホームにちゃんと設置されているのだから。ともあれ、まだ8時前だというのに、電車は早くも客がまばらで、養老鉄道には朝ラッシュがほとんど存在しないのではないかと思えた。もっとも、朝にこの駅から桑名行きに乗るとしたら、可能性としては桑名に通う人と、四日市や名古屋に出る人。桑名への通勤ならもう少し遅くてもいいし、四日市や名古屋であればもっと早い電車に乗らないと間に合わない。こう思考を巡らせたのだが、都市部とは違って養老線は次の電車が40分後まで来ないのである。あの6時台の混雑がラッシュの混雑だったのか。
 電車が走り去って、ホームには再び静寂が漂った。今来た桑名行きからは、女性が何人か降りて行った。駅の外はホーム脇が砂利道になっており、この人たちはそこを歩いて南に向かって行った。南濃支店のある方向だから、大共の行員さんかも知れないと思った。
 この時間で、もうハンカチが汗でびしょ濡れになっている。8時の時点でこれでは、日差しが出てきたら思いやられる。

 踏切が再び鳴り始めた。今度こそ、私が乗る08:06発の大垣行きがやって来る。次の目的地は…2つ先の駒野駅である。土地鑑のない私は、次どこへ行くのか、スケジュール表をいちいち見ないとわからない。南から赤い電車がやって来た。時間の経過からして、7時過ぎに美濃松山ですれ違った3両編成である。
 大垣行きもまた、車内はガラガラであった。まだ8時だというのに、この駅から大垣行きに乗る人は、私の他には1人しかいない。一番前の車両は自分を入れて7人、2両目が2人。見えないが一番後ろも2〜3人しか乗っていないのではないだろうか。
 石津駅には駅員もアテンダントもいなかったが、この電車には黄色いポロシャツのアテンダントが乗っていて、向こうの車両で顔見知りらしき乗客とおしゃべりしている。やがて私の車両に回ってきたのは、誰かと思えば、さっき美濃松山駅で掃除をしていたおばちゃんであった。さっきと同じように車内補充券を買った。

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 【注】第20回全国菓子大博覧会:1984年に東京で開催。菓子博は地方博覧会の一種で、日本最大の菓子業界の展示会。全国菓子工業組合連合会(全菓連)などが主催している。博覧会の総裁が農林水産大臣であった。
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2017年04月12日

2014.07.18(金)(8)天井川をくぐって

 アテンダントとやり取りしながら、私は窓の外に注意を払っていた。間もなくこの電車は、短いトンネルに入るハズなのである。このトンネルこそ、養老鉄道を特徴づけるもので、天井川をくぐっている。果たして、電車はトンネルに入り、すぐに抜け出した。
 天井川については、地理の時間に聞いたことがあるかもしれない。天井のような位置関係で自分の頭上を流れている川、ということだが、関東地方に住んでいると実際に遭遇する機会は意外に限られると思う。かくいう私も、意識して接したのは今回が初めてであった。
 頭上を流れるような川がなぜできるか、ここで確認しておこう。天井川は、扇状地にできることと、そこである程度の人間生活が営まれている場合に限られることの2つが重要である。天井川は自然の状態でできるものではない。
 養老鉄道の西側にそびえる養老山地という山脈は、傾動地塊といって、土地の塊が切れ目(断層)のところから傾いた状態で持ち上がって山脈になったものである。大まかには、スポンジケーキを半分に切って片方だけを傾けながら持ち上げたような形、といえば分かってもらえるだろうか。養老山地を海津市側(東側)から見ると、平野から突然山が始まっているように見えるけれども、これは断層を境に地塊が持ち上がったことの証拠である。一方、山脈の西側にあたる三重県いなべ市では、小さな山が無数に広がっており、全体としては起伏が激しいわけではなく、東側とは景観が異なっている。
 傾斜の急な地域では、風雨で表面が削られる侵食のペースも速く、崩された山の表面(砂や石)が水の流れ(川)によって下流に運搬される力も大きくなる。水に流されて山肌を駆け下りた砂や石は、谷が平野に接するところで同心円状にぶちまけられる。傾斜が緩やかになると運搬能力が落ちるためである。こうしてできるのが、扇を広げたような形をした扇状地であった。南北30kmにわたる養老山地には、その東側に14面ないし16面の扇状地がある。山の上から流れてきて扇状地に達した水は、いったん地下に潜り、扇状地の端で再び地表に出た後、すぐ揖斐川に流れ込んでしまう。
 この状態が繰り返されても、扇状地は全体的に高さを増していくだけで、川の部分だけが“天井”になることはない。川の流れが高いところに上がるのは、人間が川の流れをコントロールしようとして、堤防を築くせいである。堤防によって川の流れる場所が固定されると、それまで扇状地全体に同心円状にばらまかれていた土砂が、堤防の中だけで堆積されることになる。堤防内に土砂が堆積すると堤防の効果が薄くなるから、やがて高さを増す工事が行われ、堤防内を流れる川は引き続き土砂を堆積し…の繰り返しで、やがて川の流れは人間にとっての天井ほどの高さにまで達するというわけである。
 人間生活の営みと書いたけれども、人間は扇状地のどこに住んでいるのだろうか。扇状地はおおむね3つに分けられる。最も標高の高いところを扇頂、最も低いところを扇端、それ以外を扇央という。集落は、扇端部、扇状地の裾に沿って細長く続いていることが多い。その理由は、扇端部分には豊富な湧水があるためである。山の上から流れてきた水は、扇状地に入ると地中に潜り込み(伏流という)、扇端部分で湧き水の形で再び地上に顔を出す。水道のない時代には、生活用水をこうした湧水により賄っていた。一方、扇央部では、堆積した土砂の粒が荒いこともあって、水が地表から消える。このため水稲耕作はできず、放置されて雑木林になったり、使われる場合は水がなくても育つ植物(主に樹木)を植えた畑にしている。樹木の畑は、明治期以降の養蚕が盛んだった時代には桑畑、それが衰えると果樹園に転換したケースが多い。
 この地に関していうと、集落より川に近い部分は標高が低く、揖斐川が増水すると洪水の危険が生じるため、(他にも理由はあるのだろうが)養老鉄道は集落よりも山側を走っている。鉄道は、扇状地では扇端付近を走り、川は線路を築堤で持ち上げて鉄橋で越えるか、天井川の場合は短いトンネルでくぐっていることが多い。特に、養老鉄道の開通した大正時代、鉄道は勾配にとりわけ弱かったため、余計にそうである。
 といったあたりが、この近所の地形的な特徴であった。

 石津の次の美濃山崎は、交換駅であった。周辺に民家が多少固まって建っているけれども、人の気配はあまりしない。後で知ったが、養老鉄道の全27駅中、この美濃山崎駅の乗降人員が最も少ないそうである。このあたりに来ると、国道は山寄りの高いところを走っており、養老線の通るところだけ取り残された感じがする。アテンダントの女性は美濃山崎で降りた。
 列車の交換はなく、すぐに発車した。美濃山崎駅を出てすぐ、レンガ造りの古いポータルの付いた非常に短いトンネルを、2本立て続けにくぐった。ここも天井川のトンネルである。右の車窓は、堤防の向こうに大きな川と、大規模な堰が見えている。そうかと思うと、小さな山と山の間を突き抜けていくようなところがあったりして、陸地の奥へ入ってきた感じが強まってきた。土地の利用としては水田が相変わらず多いけれども、畜産をやっていたり、ブドウ棚なのかツル性の植物を這わせているところもある。
 鉄橋を渡る。いま渡った川は完全に涸れていて、水は流れていなかった。天井川ではない川も、扇状地に特有の水無川になっている。そして、駒野駅の手前で、養老鉄道は平屋建ての建物を完全に見下ろすぐらいの高い築堤を走るようになった。養老線の線路は、築堤だったり、山と山の間を突っ切ったりして、クネクネと曲がりながら走っている。激しくはないが、地形の起伏が相当あるのを感じた。

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2017年04月13日

2014.07.18(金)(9)駒野駅に到着

 08:13、電車はリサーチしていた時刻より1分早く、駒野駅に到着した。
 駅に着く直前、近鉄と同じ声の車内アナウンスでは、この駅の名を「コまの」(コにアクセント)と言っていた。その少し前、石津からここまでの切符を買ったアテンダントの女性は「こマノ」(マノにアクセント)と発音していた。アクセントとしてどちらが正しいか知らないが、少なくとも地元では「こマノ」なのであろう。以前、大都市の「名古屋」が地元と東京でアクセントが違うと指摘されたことがあり、位置と付け方は今回の「こマノ」とまったく同様(ナごやではなくなゴヤ)であった。ひょっとすると、地名のイントネーションの付け方には何らかの規則性があるのかも知れない。そういう研究はないのだろうか。
 さて、駒野駅には3番線まであって、いわゆる「国鉄型」に近い(ホーム番号は付いていない)。線路は、本屋側の1番線に相当する線が真っすぐ東西に延びていて、2番線はその分岐、3番線はさらにそのまた分岐である。島式ホームになっている2・3番ホームは、2mぐらいの幅しかなくて、異様に狭いと感じた。
 ホームの左(南)側はナイガイテキスタイルという企業の工場で、工場の敷地との間は万年塀で仕切られている。壁に蔓草がビッシリ這った古い鉄筋コンクリートの工場は、ギザギザ屋根になっている。ノコギリのように凸部が平行に並んだ屋根は、天井から光が差し込むように窓を設置しているためで、繊維関係の古い工場はだいたいそうなっている。ホームに沿って倉庫が長く連なっており、時折フォークリフトがガーガー動いている。万年塀が途切れてフェンスになっているところは、かつてそこから工場内に引き込み線が入っていたのだろう。引き込み線がなくなったのは相当昔のようだが、そういう目で見ると、フォークリフトが動いている倉庫は鉄道のホームのようになっている。地図で見てわかるほど大きな工場で、どうなっているのか関心があったが、非常に古めかしい鉄筋コンクリート建築で、趣があった。
 駅舎は工場の反対側で、線路の向こう、桑名行きホームの側である。大垣行きホームの西端がスロープになっており、そこから構内踏切を渡って駅舎へ。建物はさっきの石津駅と同じような、新しい感じの建築であった。今日これまでに遭遇した養老線の駅の中では、多度に次いで大きな駅であると感じた。
 駅員に切符を渡して、駅舎の外に出た。この駅には駅員がいる。客の数がそれなりに多いのだろう。養老線の大垣からの列車は、夜の最後の2本が駒野止まりとなっている。駒野に着いた電車は西大垣の車庫に帰らずここで滞泊している。

 ふと後ろを振り向くと、私が乗ってきた大垣行きの電車がまだ停まっていた。さっき美濃松山で行き違いをしたばかりで、この駅での列車交換はないハズだが、どうしたのだろうか。車両中央部の窓に、女優・内山理名の広告ステッカーが1枚貼ってある。このシールは百五銀行(津市)のもので、カードローンの保証業務をエム・ユー信用保証(三菱UFJグループ)に委託している銀行は、半数程度が内山理名を広告で使っている【注1】。外に向けて貼ってどうするのだろう、車内に見えなくていいのか、と思ったところで電車は発車していった。単なる時間調整だったようだ。
 駅前広場は思いのほか広いと感じた。駅舎の横に駐輪場と駐車場があるのは、他の駅と変わらない。この駅の公共交通機関は、海津市コミュニティバスの他には、養老町のオンデマンドバス(利用者登録制かつ予約制、一般人は乗車不可)が市町境を越えて入ってくるだけだ。駅舎の横に、海津市コミバスのマイクロバス(トヨタのコースター)が止まっている。さっきの石津と比べるとだいぶ本数が減るが、駒野駅には2系統が来る(南濃北回り線・同南回り線、【注2】)。海津市のコミバスは、大垣市のスイトトラベルという会社が運営している。車体にカンガルーのマークが付いており、大垣市本社の大手運送会社、西濃運輸の系列会社とわかる。もともとはスイトタクシーというタクシー会社だったが、旅行会社と合併して現在の社名になった。「水都」は大垣市の別名である。なお、蛇足ながら、大垣市内にあるスイトタクシーの本社には、大垣共立銀行が店舗外ATMを置いていたことがある。

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 【注1】広告キャラクターは現在では「乃木坂46」に代わっている。百五銀のステッカーは車内にもあった。
 【注2】2015年10月に海津市コミュニティバスの再編が実施され、駒野駅に乗り入れるのは原則石津からの「南幹線」系統だけとなった。
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2017年04月14日

2014.07.18(金)(10)駒野出張所を制覇

 いまから行くのは、本日2店目の有人店舗、南濃支店駒野出張所である。駅前通り最初の交差点を右に曲がった奥にあるハズだ。
 駅前の道路は、センターラインを引いていないけれども、車の離合はできる程度の道幅である。駅から北に向かって若干の下り坂になっているのが、少し気がかりであった。地形の起伏が結構あるようだと、自転車を使った今日の計画は、途中で考え直す必要が出るかも知れない。
 商業としては、駅前にタクシー会社と喫茶店が1軒ずつ。タクシー屋さんは、昭和40年代の築とおぼしきコンクリート建築の母屋で、前面に深い丸屋根を付けている。それから、公文式の教室が1軒あった。古い商店建築で、昭和初期の竣工だろうか。羽目板の部分にトタンを張って補強してあり、道路に面した部分は公文式の水色の看板に合わせて水色のペンキで塗りつぶしている。「緊急のお知らせ」という掲示が目についた。公文式は塾の開塾日程があらかじめ決まっているらしく、それが急に変更になったとかで張り出しているのだが、その理由として「遠方の教室見学がキャンセルになった」と書いてあった。教室見学というのは講師のためのものだと思うが、決められた授業を休講にするのは生徒に迷惑をかけないのだろうか。もっとも、講師が信頼を集めていれば「しょうがねえな先生」と生徒の側が苦笑するだけで済んでしまう、ということはあり得る。
 とにかく、かつては商店街だったらしいが、いまとなっては機能していなさげな町並みが続いている。昔はこの商店街で買い回りができたのかも知れないが、最近では車で街道沿いのスーパーに行ってしまうのだろう。

 最初の交差点の角は、土蔵建築と同じくらい古い木造の商店建築で、薬屋。右奥にあるのは、品揃えの豊富そうな酒屋であった。そして、四つ角からもう大垣共立銀行の緑の看板が見えている。あれが、ここ駒野での最初の制覇目標である。
 駒野出張所は、さっきの南濃支店とは違い、集落のど真ん中にある感じがする。銀行の営業店としては、集落内を完全掌握できる半面、街道沿いに広く集客するわけにはいかないから、いまの時代には出張所なのだろう。大垣共立銀行の駒野における歴史を調べてみると、店としては七十六銀行時代からあったものの、戦後にいったん統合している。統合は都市部に店を出す際に支店の数を調整するため閉店せざるを得なかったということで、残念ながらそうした配置転換の“弾”に選ばれてしまう程度の業績だったわけである。ただし、後に復活したというところが、この地域の重要性だろう。
 というわけで、駒野出張所に到着した。建物は南濃支店と同じ頃に建てられたようだが、こちらは平屋建てであるから、比べるとずいぶんコンパクトにまとまっている。正面の自動ドアを入ると、店内は9時の開店を前に掃除の真っ最中であった。掃除のおばちゃんが、ATMコーナーの横のドアを開けたまま現金封筒の補充をしている。男性の行員は店のまわりのゴミ拾いをしている。まだ8時半にもなっていないのだが、銀行は意外に朝が早い。
 キャッシュコーナーはATMが2台。機械配置は南濃支店と一緒だが、2台分の枠しかなかった南濃支店とは異なり、ここはキャッシュコーナーの機械枠が3台分ある。一番左の枠は使われていない。ATMの機種はここまでと同じ富士通のFV20。2台あるうち向かって右側の1台のみ「手のひら認証」対応のATM、というのは大共のいまの標準なのだろうか。店先のガラスには、岐阜県指定代理金融機関、海津市指定金融機関、と金文字で書いてあった。来年(2015年)4月から、大垣共立銀行は十六銀行に代わって岐阜県の指定金融機関となる。
 南濃支店から駒野出張所に来る間に8時を回ったので、ATMの入金はもとより出金も無料になった。制覇作業としての預金取引は、ここから、いつもと同じように入金と出金を1サイクルとして行う。08:23、駒野出張所を制覇した。

 南濃支店駒野出張所は、1981年11月に現在地に開設された。2015年2月2日、海津市内のほかの店舗と同様代理店化され、駒野代理店に変更されている。
 大共の当地への出店は、これが初めてではない。もともと駒野には駒野支店があった。七十六銀行駒野支店として1916(大正5)年7月に開設されたもの。当時の所在地は海津郡城山村大字駒野674番地で、今日制覇したのと同じ場所である。七十六銀行は1928年5月に大垣共立銀行に合併し、これに伴い駒野支店も大共の支店となった。1936年2月に高須支店駒野出張所となり、1950年10月再び駒野支店になったが、1953年11月に廃止された。廃止は配置転換のためで、駒野支店を閉めた大共は翌月代わりに名古屋支店【注】を開設している。

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 【注】大共の名古屋支店は北区大曽根にあったが、名古屋市中心部の中区栄三丁目に名古屋支店を新規出店した。旧名古屋支店は大曽根支店に改称された。
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2017年04月15日

2014.07.18(金)(11)桃栗三年柿八年?

 次の制覇目標は[海津市役所南濃庁舎]。合併して海津市になる前の南濃町役場である。ささやかな記憶によれば、南濃庁舎へはいま来た道を戻り、駅前通りを越えてさらに少しだけ西に歩く。そこで左に向きを変えて踏切を渡った先のハズであった。
 実は、今の時点ですでに一つ、大きなミスに気が付いている。紙にコピーした地図を昨日のうちに用意しておこうと思って、すっかり忘れていたのだった。というわけで、今日はこれから、プランニングの際にウェブサイトで地図を確認した時の記憶だけで行動する。地図無しで回るのは結構キツいと思うが、仕方がない。いちおうスマートフォンの地図検索が使えるけれども、今日は夜まで充電ができないから、できる限り温存したい。実は、そう思ったことが後でとんでもない事態を招くのであるが、この時点ではそれは知る由もなかった。
 さて、出張所前の道を西に向かって歩く。養老線は駒野あたりでは東西に走っており、出張所前の道は線路に平行に東から西へ続いている。結構だらだら続く上り坂である。さっき書かなかったが、駅前通りの角から駒野出張所までは、ゆるい下り坂だった。出張所と駅前通りとの標高差は、5mぐらいあるだろうか。予想外に地形の起伏がありそうで、この後の行程が思いやられる。
 駅前通りを越えると、未知の道に入る。駒野の商店街は古い住宅地の中にところどころ商店があるという感じだが、個人経営の大きな食料品店が健在だし、商店の割合が高いので、まだ機能が維持されている方だと考え直した。生活のにおいも、石津の南濃支店近辺より強く感じられると思う。角から2軒目では、古い商店建築をきれいに再生した和菓子屋さんが営業している。喫茶店のように中でお茶が飲めるようだ。商店街は、こういう店が1軒でもあるかで相当違う。
 ともあれ、通勤時間帯の終わったこの時間は、人の動きが見事なまでに止まっており、車が何台か行き交うのみであった。自家用車と、何とかケアセンターと書いてあるワンボックス車。こうした福祉関係の車は、時間的にはむしろこれから大活躍するのであろう。

 集落をずっと歩いてくると、農協があった。西美濃農協(JAにしみの)の南濃支店。この角の奥に踏切があって、それを抜けた先が南濃庁舎だったハズである。というわけで左折した。農協の横は、大型トラック1台通ったら離合ができなくなるぐらいの道幅で、すぐ美濃津屋第17号という踏切に差しかかる。踏切の部分だけさらに細くなっており、トラックがようやく1台通れるくらいの道幅になった。架線の高さを考えると、この踏切を大型トラックで越えるのは無理だと思う。
 踏切を渡ると、そこから結構な上り坂になった。角度は20度ぐらいだろうか、どこかの山のふもとで登山道にアプローチする上り坂のような感じである。コンクリの塊を積み上げた石垣の上では栗の栽培をしているようだ。栗林の上方には変電所が見える。その先、トタンがサビサビになった倉庫の前には、トラックが1台エンジンをかけた状態で停まっていた。そろそろ生活が動きはじめる時間なのだろうが、時の流れは昭和50年代あたりで止まっていると思えた。別の倉庫の片隅には、軽ワンボックス車のサビサビになった廃車体が置いてある。古いダイハツハイゼットだが、レストアして乗り回すような人はいないのだろうか。
 さっき左側に栗があったと思ったら、こんどは右側に柿の木がたくさん植わった土地がある。桃栗三年柿八年というが、この近所に桃の木はなさそうである。前に少し述べたが、扇状地の土地利用としては桑畑から果樹園に転換したところが多いハズだから、ここも恐らくそうなのだろう。柿の木は結構古いようだが、地面には下草が茂り、幹にはツル性の植物が這っていて、あまり手入れされていないように見える。かつて柿の栽培をしていてやめたものの、その後も木を伐採していないから実だけは毎年生(な)るのだろうか。果樹園の向かいは草ぼうぼうの休耕田であった。ここは田舎だけれども、その象徴である畑は、人の手が入らなくなってすでにずいぶん経ち、半分荒廃してきているようだ。勤め人が案外多いのだろう。
 小さな神社があって、上り坂は鳥居の前あたりから緩やかな左カーブを描いている。カーブの先に、見えた。大垣共立銀行の緑の看板。坂道を上がりきったところに信号があって、その横である。あそこが旧町役場の交差点なのだと思われる。

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2017年04月16日

2014.07.18(金)(12)[海津市役所南濃庁舎]を制覇

 対面2車線の県道との交差点を渡ると、そこが海津市役所南濃庁舎であった。敷地の県道に面した部分は、役場の前とあって広場のように整備され、花壇にはきれいな花が咲いている。信号のある交差点の背後には、4階建てのかなり大きな庁舎がそびえていて、その手前に大垣共立銀行のATM小屋も見えた。
 南濃庁舎の建物は、結構古そうに見える【注1】。後で調べると1961年10月の築であった。当時としてはなかなか洗練されたデザインの建物で、それなりに著名な建築家が設計し、結構な金をかけて作ったのではないだろうか。建物は斜面の上にあって、正面玄関はスロープで上がった2階であった。海津市コミバスは、2階の玄関前まで乗り入れるようだ【注2】。
 大共の店舗外ATMは、役場本庁舎の手前、スロープ下の駐車場入口にある。ATM1台だけの独立小屋で、大共の1992年以降の標準的な外観である。さっきの[松山]との違いは、緑色をした機械室部分の屋根の角が丸みを帯びていることで、1992年にこのスタイルの小屋が導入された当初は、ここのようにまろやかな曲線でデザインされていた。規格が若干変わったようだ。
 小屋の中をガラス越しに見ると、ATMはここも富士通のFV20。ただし、生体(手のひら)認証に対応している。さっきの[松山]は対応していなかったから【注3】、こういう公共機関のATMは銀行の待遇が少し違うようである。
 さて、制覇作業を。と思ったが、こんな時間に車が1台停まっており、先客がいた。機械が1台しかないのに、何をもたもたしているのだ。と、口に出して言うわけにはいかないので心の中で毒づいていた。気が短く内弁慶な私である。先客が立ち去るのを待って、機械を操作。08:41、[海津市役所南濃庁舎]を制覇した。

 南濃支店海津市役所南濃庁舎出張所は、南濃支店管内では3番目の店舗外ATMとして、1997年1月に開設された。当初の名称は[南濃町役場]といったが、2005年3月の海津郡3町合併により[海津市役所南濃庁舎]に改称されている。さらに南濃庁舎が2014年いっぱいで廃止されたのに伴い、2015年2月の南濃支店代理店化に合わせて[海津市役所城山支所]に改称、同時に母店も海津支店に変更となった。
 3町合併当初の海津市役所は分庁方式で、組織も3つの旧町役場に分散されていたが、海津庁舎(旧海津町役場)を市役所の本庁舎として整備し、他の2庁舎(南濃・平田)は廃止された。代わりに、当地では南濃庁舎西側の文化会館内に市役所の支所を新設した。これが「城山支所」である。ATMの現在の名称「城山」は南濃町が発足する前の旧町名で、かつて駒野城という山城があったことに由来している。旧町役場の北西1km地点にある小学校がその跡地であるそうだ。自治体名は海津郡城山村といったが、1954年6月に町制施行して城山町となり、さらに同年11月5日石津村・下多度村と合併して南濃町に、2005年3月には3町合併で海津市になっている。
 ところで、海津市は3町合併の際「ひらなみ市」という名前になる計画だった。平田・南濃・海津の頭文字をとって、平南海=ひらなみ。この名前は不評でやめになったのだが、こうした合成地名は地名学の研究者からも強い批判を浴びているし、まあやめてよかったのだろうと思う。結局、海津郡の3町が合併するということで、順当に郡名をそのまま新市の市名とした。なお、「ひらなみ」の名前は、「平田町」の名前の由来となった鹿児島県からも異論が寄せられたということである。鹿児島県とどういう関係があったかについては、後述する。

 ATMを操作しながら小屋の中の様子を見る。面白い掲示物があった。東日本大震災の義援金の振込先口座が掲出してあるのだが、横にシールが貼ってある。そこには《左記の口座に振り込まれた方のお名前の、新聞への公表は行っておりませんのでご了承下さい》と書いてあったのである。思わず笑ってしまった。「ご安心下さい」ではなく「ご了承下さい」ということは、寄付したのに新聞に名前が出ないじゃないか、という世知辛いクレームでもあったのだろう。名前が出て顕彰されなければ寄付もしないのか、と思うが、このあたりの土地柄なのだろうか。
 とはいえ、そういう下心ミエミエであっても、現金に限っては、やはり寄付しない人間より寄付する人間の方が偉いと私は思う。たとえば、日本テレビ系列で毎年夏に放送している『24時間テレビ』という番組。これについて、偽善だと非難する人が毎年必ずいるけれども、実質的な意味で福祉の役に立っているのは、微々たる額であってもカンパする人と、それを取りまとめて寄付の段取りをとる日テレであろう。番組の内容とか作り方について批判することはあり得ると思うが、それ以外であの番組を批判する人は、おそらく批判するだけで何の役にも立っていないのではないだろうか。

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 【注1】海津市役所は2015年1月1日付で海津庁舎に一本化され、南濃庁舎は2014年いっぱいで業務を終了した。旧南濃庁舎はすでに解体されている。
 【注2】現在は南濃庁舎の敷地内通路であった道を奥へ進み、隣接する文化会館の前を通って国道258号線に乗り入れている。
 【注3】現在は対応している。
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2017年04月17日

2014.07.18(金)(13)“愛車”との出会い

 駒野駅を09:15に出発する計画である。さあ、駅に戻ろう。
 役場前の赤信号が思いのほか長くて少しイライラしたが、もちろん大した問題ではない。さっき来た道をカバンをギシギシさせながら戻ると、今度は踏切でひっかかった。
 踏切待ちの間に周囲を見回すと、さっきの栗林の手前に1本だけ桑の木が生えているのに気が付いた。大正時代あたりまで遡ると、このあたりは一面に桑畑が広がっていたのだろう。かつて生糸の輸出が盛んだった頃は、繭をつくるカイコガの餌として必要な桑を栽培していたが、養蚕が流行らなくなって柿や栗に植え替えたわけである。そういえば、今朝乗り換えた駅も「桑名」というのであった。といったようなことを、電車が右から左へ通り過ぎるのを見ながら思った。この踏切を役場を背にして左に向かうのは、駒野駅を出て大垣に向かう電車である。車内には客の姿が一人も見えなかった。踏切からは電車の窓を見上げることになるから、角度的に見えなかったのかも知れない。
 駒野駅への道みち、消火栓や用水路の蓋など、町中のいたるところに残っているマークが気になった。旧南濃町の町章で、南濃の「な」の字を図案化したものである。海津市となった今、このマークを使うこともないのだろう。銀行ウオッチャーとして、平仮名の「み」をシンボライズしたみちのく銀行(青森市)のマークを思い出したが、後日、奈良信用金庫(奈良県大和郡山市)のマークが南濃町章に似ているのを発見して驚いた。南濃町章のパーツを直立させるとそのまま奈良信金のマークになる。なお、市町村章としては、愛知県長久手市が南濃町章と同じ意匠の市章を現行使用している。

 時計の針が9時ジャストになったところで、ちょうど駒野駅に帰着した。時間的には良い塩梅と言える。ここで一つのミッションをこなす。自転車の借り出しである。
 養老鉄道は、自転車の利用には好条件が揃っている。レンタサイクルは、多度・駒野・養老・西大垣・揖斐の各駅で取り扱っている。他の駅とルールが異なる西大垣駅を除き【注】、朝9時から(土・休日は始発から)終電まで利用できる。レンタサイクルの取扱駅であれば、借りたのと違うところに返却しても構わない。身分証明書提示で、普通自転車1日100円、電動自転車510円(多度駅のみ)。また、サイクルトレインというのもある。平日9〜15時、休日は終日、自転車を1人1台まで電車に持ち込んでよいことになっている。対象は桑名駅を除く全駅。今日はサイクルトレインは利用しないけれども、後日確認のため当地を再訪した際には大いに役立った。
 さて、さっき駒野駅に着いた時、改札の駅員に「後で自転車借りますから」と一声かけておいた。出札窓口に顔を出すと、駅員が私の顔を見るや否や、A4判の紙を1枚差し出した。自転車の利用申込書である。コピーを繰り返したらしく、印刷の文字はだいぶかすれていた。用紙を書き終えて窓口に提出したところで、さっき桑名から美濃松山まで行くのに乗ったオレンジ色の電車が、大垣まで行って戻ってきた。
 運転免許証を提示して、手数料100円を支払うと、いよいよ借り出しである。窓口の駅員氏が出てきて、私を改札の中へ招き入れた。ホーム側、改札前の屋根の下に、銀色の自転車が2台置いてあった。この駅には自転車が2台しかないようだが、この街の様子からしたらこれで十分な台数なのだろう。前後のリムには、大垣市にある自動車教習所の大きな広告が付いている。マリリン・モンローの夫であった米国メジャーリーグの選手を想起させる名前の教習所であるが、最近になって、東京の私鉄である京王線の車内にも、同じ会社の教習所が広告を出すようになった。各地の自動車教習所を買収して勢力を拡大しているようだ。
 自転車は2台あるうち、背の高い方を選んだ。小学生時代に読んだ学研の『学習』か『科学』の付録で、サドルに尻を載せた時に爪先立ちになる高さが適していると読んだ記憶があったからだ。駅員が何か言いたげにしていたが、いまにして思えばあれは何だったのだろうか。
 ともあれこれが、今日これから40kmにわたって付き合う“愛車”との出会いであった。いよいよ、長距離サイクリングの始まりである。

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 【注】西大垣駅は9〜20時、レンタル料金は無料。他駅で借りた自転車をこの駅に返したり、この駅の自転車を他駅に返したりすることはできない。
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2017年04月18日

2014.07.18(金)(14)いよいよ自転車で漕ぎ出す

 09:11、私はついに、駒野駅から自転車で美濃地方西南部の大地に漕ぎ出した。予定より4分早い。というか、順調に予定どおりと言ってしまって差し支えないだろう。
 さっき通った駅前の下り坂を再び下りるが、大垣共立銀行駒野出張所に行く時曲がった四つ角までは行かず、1つ手前で右に曲がる。時間が止まってしまったような古めかしい家並みの中、ゆるい坂道をゆっくり下る。古い街並みはだいぶ歯抜けになっていて、更地になったところが多い。右カーブの先にはNTTの交換所のような施設があり、書店が1軒。この地の郵便局(南濃局)は集配局のようだ。郵便局の先には「おしゃれ洋品」の文字を付けたしもた屋が1軒。パラペットは白く塗りつぶされている。ローマ字の屋号は「hya Ka Do」となっている。ヒャッカドウと読ませたいのだろうがヒャカドウとしか読めないし、大文字と小文字の使い方も危なっかしい。私は編集の仕事をしていたことがあるので、どうしてもそういうところに目が行ってしまう。
 間もなく丁字路で突き当たり、ここで右折すると養老線が頭上を越えている。この丁字路から、上り坂が始まっていた。養老線のガードの先に、コンクリの万年塀が続いているのが見える。さっき駒野駅から見えたナイガイテキスタイルの工場である。だいぶ古めかしい工場であるのは駅から見てもわかったが、改めて古さを感じた。この工場は1933年にできたそうである。東海毛糸紡績という会社の毛糸工場であったが、1943年5月に東洋ベアリング製造(現NTN)に売却されてベアリング工場となった。戦後1948年9月に内外綿(現新内外綿)に譲渡されて紡績工場になっている。ナイガイテキスタイルは駒野工場を1978年2月に分社した時の社名である。
 自転車の漕ぎ加減が大体わかってきたところで、いったん止まる。サドルが低いので高さを調整した。ネジを回して座面を動かしながら、私は少々の不安に駆られていた。この自転車、果たして大丈夫なのだろうか。ペダル周りはガタガタしているし、チェーンも噛み合わせがガクガクいっている。これから40kmもまともに漕げるのかしら。少額100円とはいえ、金を取っている以上はまともに走れるのを貸してくれないと困るのである。しかも、駅前からここまで数百m走っただけだが、今日これからの道程は思ったより起伏が激しそうであった。
 まあ、愛車を信じるしかない。再び自転車を漕ぎ始める。テキスタイルの正門前からなだらかな上り坂を上がり、対面2車線の幹線道路にぶち当たった。この道が、県道8号津島南濃線、つまりさっきの南濃庁舎の前につながる道である。角には焼却炉の展示販売をやっているコーナーがある。カーディーラーがガラス張りの店内に新車を置いているような感じで、焼却炉を野外で展示している。カーディーラーとの違いは、道から展示場所に24時間好きなように入れるところである。焼却炉展示場の隣は、コイン式精米所であった。
 そんな四つ角で左折して県道に入ると、長い下り坂であった。ようやく、気分の良いひと時がやって来た。自分の体重だけで一気に坂を駆け下りる。自転車のペダルがガクガクいっていることは一瞬忘れた。ただ、心配性の私は、駅に戻る時に上り坂になるのではないかと怯えてしまう。ともあれ、下り坂が始まるあたりから人家はなくなった。
 右側を川が流れている。羽根谷という名前の川だが、これは天井川ではなく普通の扇状地の川で、道路より低いところを流れている。県道はその横を切り通しで下がっていくように見える。切り通しのようになっているのは川の堤防で、ここは道路に接する部分の斜面をコンクリで固めている。だいぶ擦り切れているけれども、「薩摩カイコウズ街道」とペンキで書いてあった。
 養老鉄道のガードがまたあり、それをくぐると頭上にはオーバーパスがもう1本。こちらは大共駒野出張所の前に続いている。オーバーパスで県道を越えなければ、少し先でこの道に合流できる。今思えば駒野出張所の前からここに出てくればよかった。

 坂を下りきって平地になったところで、揖斐川の堤防道路とクロスし、その先には長大なブルーの橋が架かっている。大きな川が左から右に流れ、川下側には大きな堰が見えている。この巨大河川が揖斐川であり、それを越えた先が、次の目的地・高須であった。
 揖斐川を渡る橋は、欄干以外に何もないシンプルな外観をしている。1972年11月竣工というこの橋は、福岡大橋という。福岡は揖斐川を渡ったところの地名である。「福岡大橋」というが、正確には同じような体裁の橋が2本連続で架かっており、川も2本ある。手前、西側の橋は津屋川橋というそうだから、まあ常識的には手前の川は津屋川という名前なのだろう。養老線には駒野の北隣に美濃津屋という駅があるから、そのあたりを流れてくるのだと思う。調べてみるとその通りであった。なお、大正から昭和にかけての一時期、大垣共立銀行は津屋に出店していたことがある【注】。
 というわけで、津屋川を渡り、揖斐川を渡る。この橋は対面2車線の黄色センターラインの道で、車道の両端に一段上がった歩道が付いている。歩道と車道を隔てるガードレールはパイプ。ビル工事などで足場に使うようなパイプを使ったガードレールだが、恒久的なものである。福岡大橋(実は津屋川橋)を渡ってくると堤防がもう1本あって、この堤防の先が本当の福岡大橋となる。2本の川は左から右の方に流れていくハズだが、どちらもよどんだように水がたまっている。福岡大橋の欄干につけられた看板には《木曽川水系揖斐川、河口まで23.4km》とあった。河口から20km以上も離れたこの地で、これほどまでに流れが止まっているということは、川の傾斜が緩いのだろう。後で福岡大橋周辺の標高を調べてみると、1.2mとか0mとかいった数字が出てきて唖然とさせられた。標高が極めて低いのである。これでは流れていかないわけだ。
 福岡大橋は、揖斐川の水の上に架かっている部分は半分ぐらいで、残りの半分は草地が広がる河川敷になっている。右岸側(西岸)に1/5ぐらい河川敷の真平らなところがあって、2/5ぐらい水面。残り2/5がこれまた真平らな河川敷である。西岸を見ると、小舟が2〜3隻係留してあった。山本周五郎の『青べか物語』に出てくる「べか舟」みたいな感じだが、今の世でも水際でいろいろな生活をしているものだと思う。左岸側、東岸の河川敷は、大きく除草されて真っ平らな土地として整備されているけれども、川との境界は、水がひたひたしている中間領域のようなところで、草や木が生い茂っている。南の島のマングローブみたいな感じの植生が、東岸だけでなく西岸にもあった。植物の名前は全く分からないが、広葉樹。水際のじめじめしたところには、こうした木が好んで生えるようだ。

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 【注】1918.07.19津屋代理店開設、1925.10.30津屋代理店廃止。1928.03.01津屋出張所開設(養老郡下多度村大字津屋1779、現海津市南濃町津屋1779)、1928.12.31津屋出張所廃止。
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2017年04月19日

2014.07.18(金)(15)[ホームセンタークロカワヤ]を制覇

 福岡大橋を渡り切った。旧町名で言うと南濃町を出て海津町に入ったことになる。
 橋を渡りきった福岡大橋東の交差点で、堤防上の道路とクロスしている。堤防を降りた先に住宅の固まりがいくつか見えるが、中でも右前方の特に大きな固まりが、これから行く高須の町であるようだ。
 堤防上から町の手前まで、県道8号津島南濃線のスロープを一気に駆け降りた。坂道が途切れ、自転車を自力で漕がねばならなくなったあたりから、ふたたび人の住む町に入ってきた感じがした。旧海津町の中心地、高須が始まったのであった。ただ、中心地といってもそれなりに空き地は多くて、ロードサイド型の店と民家と空き地が1/3ずつぐらいの比率で混然一体としている。
 海津警察署の手前にある信号のない交差点では、若い女性が運転する軽自動車が、私が横断しようとする横でなかなか行こうとしなかった。早く行けばいいのにと思っていたが、どうやら止まっていてくれたらしい。

 少しだけ上り坂になっている。小さな川を渡る橋の手前がスロープになっているのだった。ガードレールだけの橋が付いていて、木曽川水系大江川とある。川幅は結構広くて、20〜30mもあるだろうか。川の流れは道の南側で90度曲がっており、その向こうに見える学校は岐阜県立海津明誠高校という。橋のそばには、海津市役所海津庁舎/信号3つ目右折、と書いた看板が出ていた。ここまで来ると、金融機関の看板が一気に3つ見えた。桑名信用金庫、十六銀行、そして、言わずと知れたもう一つである。
 橋を渡ったところに、スーパーマーケットをはじめ比較的新し目の商業施設が建ち並んでいる。どの店も駐車場完備であるのが現代である。道の北側には、食料品店と百均のダイソーがテナントに入った生鮮館というスーパー。桑名信用金庫があって酒屋。その隣は海津名店街という2階建ての棟割長屋で、店舗が6店舗ある。その隣に雑居ビルがあって、交差点の北西角には十六銀行がある。携帯電話ショップが複数、auもドコモもあって、都市型の生活は不自由なくできるようだ。ソフトバンクの店も少し手前にあった。
 酒屋の店先にある郵便ポストは、美濃松山駅前と同じく取集が羽島郵便局であった。羽島市の影響下にあるこの地域に桑名信用金庫があるのは少し意外に感じた。1980年10月開設の海津支店である。こんなところまで桑名の勢力圏なのかと思ったが、調べてみると、さすがにここが桑名信金の店舗の中では最北端であった。海津市自体がそうしたマージナルな地域なのであろう。桑名信金はここを含めて海津市に2店舗を展開しており、もう1店の松山支店はさっき養老線美濃松山駅の南側にあった。
 向こうに見える十六銀行は高須支店という名前で、まだ新しい建物に見える。岐阜県のトップバンクである十六銀は、1980年代以降、西濃(美濃西部)に相次いで新規出店した。現海津市エリアでは、1983年12月出店の南濃支店を母店として、今尾・高須に出張所を出し、3町に1店ずつ店を整えた。これらの出張所は1993〜94年にかけて相次いで支店昇格し、最盛期には海津郡各町それぞれに支店があった。結局、2003〜2006年に統廃合が行われ、いまとなってはこの高須支店が十六銀の海津市唯一の営業店となっている。高須支店は1992年6月に出張所として開設され、1993年11月支店に昇格した。このエリアでは最も遅く出店した店舗であった。

 大垣共立銀行の看板は、スギドラッグというドラッグショップの隣にある。ここにあるのは、ホームセンタークロカワヤ出張所であろう。近づいて見ると思ったとおりで、道路から少し奥まったところに文字通りのホームセンターがあった。個人経営の荒物屋が店を拡大したような感じで、大規模なチェーン店というわけではなさそうである。クロカワヤはもともと高須の中心部にあった荒物店で、1977年に現在地に郊外移転してホームセンターとなった。毎週水曜定休で、営業時間は8時〜20時。社名は株式会社黒川屋である。代表取締役は黒川さんではないようだが、女婿だからだろうか。ホームセンタークロカワヤの店舗はここ1店だけしかないようで、公式ウェブサイトもなく、これ以上のことはわからなかった。個人商店と大差ない規模の会社だと、ホームページを出す余裕がないのかも知れない。
 ホームセンターの道路に面した部分は駐車場になっていて、駐車場の隅、ドラッグストアとの境界付近に、店舗外ATMの独立小屋が1軒建っている。例によって、1992年型の大共おなじみスタイルの小屋であった。母店は高須支店【注1】。機械は富士通のFV20が1台だけで、手のひら認証にはなっていなかった【注2】。09:32、[ホームセンタークロカワヤ]を制覇。後で記帳してみると、ここの通帳表記は<クロカワヤ前>となっていた。

 高須支店ホームセンタークロカワヤ出張所は、高須支店2番目の店舗外ATMとして1995年12月に開設された。

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 【注1】高須支店は2014年7月22日「海津支店」に改称した。
 【注2】現在は手のひら認証対応の機械が入っている。
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2017年04月20日

2014.07.18(金)(16)続いて[海津市役所]を制覇

 [ホームセンタークロカワヤ]の次は[海津市役所]に向かう。
 県道津島南濃線を引き続き東へ進む。「和風レストラン海津」という店舗があるが、ここは割烹などをやっている大規模な料理店である。VIPを接待するような店が成立するだけの基盤が、小さいなりに高須近辺にはあるということだろう。また、このあたりには川魚を食べる文化がある。水の豊富なエリアゆえ、水田などで魚が多く獲れたのだそうで、この割烹レストランでもフナやモロコなどの川魚を提供している。間もなく、海津市役所右と青看板の出ている信号で右に曲がる。斜めにクロスしているこの交差点は馬目(まのめ)といい、南側鈍角部分はセブンイレブンの典型的なロードサイド型店舗になっている(海津町馬目店)。
 どう流れてくるのか知らないが、さっき渡ったハズの大江川をまた渡った。この橋の欄干は、普通の鉄の欄干に板を張って白壁に見立て、瓦屋根のようなものを付けている。欄干も親柱を城の天守閣のような形にしてあって、なかなか凝っている。高須城は平城で、天守閣はなかったそうだけれども、高須藩三万石の中心地としての風情を演出しているのだろう。三万石では藩としては明らかに小さいが、高須藩の松平家は尾張徳川家の分家にあたり、藩としての格式は非常に高かった。白虎隊で有名な会津藩最後の藩主、松平容保をはじめとする「高須四兄弟」の出身地でもある。そういえば、この県道岐阜高須線は、岐阜県道のナンバーでは「1号線」である。ここと県庁所在地とを結ぶ県道が、真っ先に付番されていることに少し感心した。
 橋を渡ってスロープを下りる。川の手前は水田地帯だったが、大江川を渡ると住宅地になり、駒野や石津と同じような感じで古い建物が並んでいる。商店街もあるようだ。「馬目町」の信号から奥の方を見ると、木造の渋い焦げ茶色の建物がいくつも見え、古い集落が広がっている。念のため、さっきのセブンイレブン横の信号は「町」がつかない「馬目」である。

 左前方に突然、容積の大きな建物が現れた。ここが、次なる目的地の旧海津町役場、すなわち海津市役所であった。
 市役所の外壁は、いかにも工事進行中という感じで、白い鉄板とグレーのスクリーンで覆われていた。鉄板の上に、大垣共立銀行の緑色の看板が控えめに出ている。それ以外に銀行の影が感じられないが、建物の中にあるせいなのか。そう思って敷地内に入ってみると、1階は内装をはがして骨組が露出している。工事の様子からすると、吹き抜けを造ってそこを庭園にするようだ。
 海津市役所はこの時点で、外壁の塗り直しだけでなく、相当大掛かりな改造工事をしていた。南濃庁舎のところでも触れたが、海津市役所は3町合併以来分庁方式で、合併前の3つの町役場に部署が分散していた。これらを高須の海津庁舎に集中させるため、建物の増築やリフォームが行われていたのである。工事が終わってから再訪してみると、道路に面した側は意外に小さな建物だった。これが旧海津町役場で、その東側に4階建ての箱型の建物を新築してあった。キャッシュコーナーは工事以前のままのようだ。工事で鉄板をかぶせる時に、旧来からあるキャッシュコーナーをそのまま利用できる形でかぶせたと見える。
 目指す大共のATMは、2階部分の下、柱で囲まれたピロティに建つ、ステンレスの独立小屋であった。「屋上屋を架す」の反対で、屋根の下に屋根付きの小屋を建てたような感じであるが、工事中の今は白い鉄板で覆われて、物々しい雰囲気が漂っている。いちおう、建物の外に露出しているようだ。ATM小屋は、今日これまで複数の店舗外ATMで見たような大共の標準スタイルではなくて、他行の店舗外ATMでも見かけるような、ステンレスの枠にガラスをはめた直方体の箱である。ATMは、手のひら認証つきの富士通FV20が1台であった。さすが公共施設のATMには最新鋭の機能が入っている。09:43、[海津市役所]を制覇した。

 高須支店海津市役所出張所は、高須支店初の店舗外ATMとして1987年12月開設された。当初の名称は[海津町役場]といったが、2005年3月の3町合併により[海津市役所海津庁舎]に改称。さらに、市役所東館の落成に伴い、2014年4月「海津庁舎」の呼称が取れ、シンプルな[海津市役所]の名称となった。週明けの火曜日(2014.07.22)から母店が海津支店に名称変更することは言うまでもない。
 所在地の自治体名はかつて高須町といったが、1955年1月に高須町と4村の合併で海津町が発足した。2005年3月の合併で現在の海津市となっている。

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2017年04月21日

2014.07.18(金)(17)「ピピット」のこと

 今日ここまで「手のひら認証」という言葉を何度も使ってきた。預金のセキュリティを向上させるため、あらかじめ登録した身体的な特徴の情報をもとに本人確認をする、生体認証システムの一つである。日本の銀行では、りそなグループのように親指を使うものと、三菱東京UFJ銀行のように手のひらを使うものと、2陣営に分かれている。
 大垣共立銀行はこれらのうち、手のひらの静脈による認証を採用している。一般的な銀行の生体認証は、キャッシュカードと暗証番号を用いた上で、セキュリティを「強化」する手段として行われていることが多い。大共はそれより進んでいて、生体情報の登録さえ済んでいれば、カードがなくても、機械に手のひらをかざすだけで預金の出し入れができる。津波で家財道具一式を洗い流されてしまったような場合を想定しているが、私などは、ポケットからキャッシュカードを出すことすら面倒に感じられる夏の炎天下、カードを持ち歩かなくても大共の「めぐ」ができるので重宝している。
 大共は、このサービスに「ピピット」という名前を付けて大展開している。私はこの「めぐ」の少し前、大共の別の店に行った時に、手のひら認証の登録を済ませてきた。今日はここで「ピピット」の取引を試してみることにする。
 まず初期画面。取引の種類がたくさん並んだ一番最初の画面で「お預け入れ」を押す。すると「簡単取引」と「手のひら認証」の2択になっている。「手のひら認証」のキーを押すと、生年月日の入力になる。『ドラえもん』の野比のび太であれば、昭和39年8月7日で【注1】、3・9・年・8・月・7・日、と7回押すことになる。慣れればまあリズミカルにやれなくはない。その後いよいよ、認識装置に静脈情報を読み込ませる。ATMの指示に従い、手首を平らに置いてかざしていると、“ピピット”というユーモラス(?)な音声が出る。これで完了、と言いたいところだが、一発で認識できることは案外少なくて、スキャンはやり直しになることが多い。認識精度が良くないのではなく、チェックが厳密過ぎるのだと思う。なお、預金引き出しの場合はこの後さらに暗証番号も必要である。
 私個人の感想としては、生年月日の入力がやや面倒臭いと感じる。数字キーとは別に「年」「月」「日」のキーを押さなくてはならないからだ。数字だけで「390807」のように一気に入れられるようにして欲しいし、欲を言えば西暦にも対応して欲しい。預金引き出しの際は、手のひらをかざした後さらに暗証番号を入力させられるけれども、生体情報を登録してあるのであれば、生体情報と誕生日、または生体情報と暗証番号だけで十分ではないかと思う。それから、手のひらのスキャン。なかなか認識しないことがあるのは閉口する。
 まあ、先駆的なサービスであるのは間違いない。データが蓄積されてくれば改善されると期待したい。

 大共がこの「ピピット」なるサービスを始めるきっかけとなったのは、2011年3月11日の東日本大震災であった。大共は震災以前から「レスキュー号」という災害支援車両を持っていた。衛星通信回線を使用して本部とやり取りするATMを搭載したマイクロバスである。東日本大震災が起きた時、大共は被災地支援の一環として、この「レスキュー号」の派遣を現地の複数の地方銀行に打診した。しかし、派遣の要請は1件もなかったという。被災者は、ATMでの取引に必須のキャッシュカードや通帳を津波で流されてしまっていた。周知のとおり、通帳や印鑑を自宅に取りに帰り、そこで命を落とした人もいたのである。
 この一件をきっかけに、震災の翌月から「預金者の身体ひとつで預金が下ろせるATM」の開発を開始。大共のシステム部員はATMのメーカーを訪ね歩き、富士通と沖電気工業の協力で、手のひらの静脈による認証技術を使った生体認証システムを構築することになった。静脈の情報に生年月日と暗証番号を組み合わせ、認証精度とセキュリティを確保する。こうして、カードや通帳がなくても手のひらだけで取引できるATM「ピピット」が誕生した。サービス開始は2012年9月のことであった。
 キャッシュカードを使わずに普通預金の入出金ができるばかりでなく、大規模な地震(震度6弱以上)の発生時に普通預金に自動で切り替わる震災対策定期預金や、災害時に当初1年間は無利子で融資するローンなど、大共では手のひら認証を生かした商品を各種販売している。また将来的には、手のひら認証もATMにとどまらず、手のひらだけで店舗での買い物ができるようにする構想もあるという。手のひら認証の登録者数は50万人にも迫る数に達している【注2】。

 さて、この「ピピット」に限らず、大垣共立銀行は年中無休ATM・店舗など、全国初となるような目新しい商品・サービスを相次ぎ打ち出している。こうした営業方針は、アイデアマンとして知られる頭取の土屋嶢氏【注3】によるものが大きい。1946年生まれの土屋氏は、慶応大学在学中には放送研究会に所属していたこともあり、もともと銀行よりもマスコミ志望だった。大共の頭取だった父親の斉氏に説得されて富士銀行に入行するが、最初に配属された東京・新橋支店では支店内での新聞発行を発案し、編集主幹を名乗りコラム欄に街ネタを多く書いたという。土屋家は大共の創業家というわけではないが、祖父も大垣共立銀行の頭取であり、嶢氏は3代目ということになる。7年ほどで富士銀から大共に移り、1993年6月頭取に就任。この時、当時の地銀で最年少の46歳であった。2017年の今、頭取として在任24年になるが、前の連載で触れたみちのく銀行の故・大道寺小三郎氏とはまた違ったタイプの銀行経営者と言える。
 土屋氏は近年では作詞にも取り組んでいる。作詞家「つちやたかし」としてのデビューは2010年。グループホームの経営者と酒を飲んだのがきっかけで、ホームの歌を書いたのが最初だという。銀行内の複数の歌やガス会社の社歌を手がけたのち、2013年、手のひら認証ATMのCMソングを作詞した。つちやたかし作詞、渡辺ヒロコ作曲・歌の『世界に一つしかない手のひらに』は、通信カラオケでも配信されている。ブラザー工業系のJOYSOUNDには「本人映像」と「スタンダード」の2種類があり、うち「本人映像」では、この曲のためにつくられたイメージビデオがそのまま流れている。大共は行内にテレビスタジオを持っているから、大共本店の映像が含まれるこのビデオは、行内のスタッフが制作したのだろう。蛇足ながら、私はこの曲をカラオケで毎月歌っている。

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 【注1】のび太の誕生年にはいくつかの説があるが、ここでは最も一般的と思われるものを採った。
 【注2】2016年12月に44万人を超えた。
 【注3】土屋嶢(つちや・たかし)氏:1946年8月9日東京都生まれ。1970年3月慶応義塾大学法学部卒、富士銀行(現みずほ銀行)入行。1977年5月退職、同年6月大垣共立銀行入行。融資部審査役、総合企画部部長代理、名古屋支店副支店長、同支店長兼名古屋事務所長を経て、1982年6月取締役、名古屋支店長兼名古屋事務所長委嘱、1983年4月名古屋支店長委嘱、同年10月外国部長委嘱、1984年6月常務取締役、同委嘱、同年10月解嘱、1986年6月専務取締役、1991年6月取締役副頭取、1993年6月代表取締役頭取、現在に至る。
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2017年04月22日

2014.07.18(金)(18)江戸時代にタイムスリップ

 自転車は次の目的地に向かう。海津市の中心的な店舗にして、旧国立銀行本店を継承した由緒正しき店舗、高須支店である。
 今来た道を市役所の北側まで少々戻り、そこから水田の真ん中を西に向かう。センターラインを引けば対面2車線になりそうな、少し幅の広い舗装道路が出ている。庭の広い古い民家は、農家だったのだろう。このあたりは石垣の上に建っている家が多い。それも1mぐらいの高さの石垣が2段3段と階段状に積まれていたり、道路沿いが1段だけだがその奥が2段3段になっているなど、高度が高い。こうした、石垣上に家屋を建てるスタイルこそが、「輪中」と呼ばれる地域に特徴的な家の建て方なのであった。
 濃尾平野の輪中については、小・中学校の社会科で習うハズの内容だが、ここで改めて思い出していただこう。この平野を流れる揖斐川・長良川・木曽川の3つの川は、濃尾三川と呼ばれる。降水量の多いところを源流とする流量の多い河川で、古くから暴れ川であり、流域住民は長い間洪水と闘ってきた。まず、浸水しては困るところから堤防を築く。それが進んでいくと、やがてその土地は堤防でぐるりと囲まれることになる。こうした地域のことを、輪の中と書いて輪中という。
 明治時代はじめ頃には、濃尾平野全体で大小80もの輪中があったという。現在では堤防をつなげて複数の中小輪中を合併し、大きな輪中となっているところが多い。その代表例とされるのが、ここ海津市の東半分を占める高須輪中であり、46.5㎢と輪中の中で最大面積を誇っている。
 輪中内では、住民たちは水防を中心に強固な共同体を形成しており、そこから特徴のある景観が生み出されてきた。それを代表するのが、水屋建築と呼ばれるものである。標高の低い場所では、住居は自然堤防と呼ばれる微高地上を選んで建てられる。それだけでは大水に対処できないので、輪中地帯では石垣を築いて土を盛り、人工的に高くした土台の上に家を建てた。さらに、堤防が決壊して洪水が押し寄せたような場合に備え、母屋より土台を1mあまり高くして建てられた別棟が設けられた。この別棟を水屋という。輪中にいったん水が入ると2週間以上も水が引かないことがあったから、こうした食料や寝具などを備蓄した避難所が設けられていた。水屋を母屋とは別に用意できたのは富裕層だけで、水屋を持たない層は、助命壇と呼ばれる部落内の共同の避難所に避難したという。

 石垣の上が畑になっている土地があった。地形の起伏が激しい土地でならありふれている(さっき駒野でも見たばかり)だが、低平な見渡すかぎりの水田地帯では珍しい。畑をわざわざ石垣上に上げるハズはないから、かつては家屋が建っていたのであろう。高須のような城下町でも最近では過疎化が進み、石垣上に建てられた家屋も住む人がいなくなって、取り壊すケースが出てきたのだと思われる。
 間もなく道は突き当たり、城下町らしく左右にクランクしている。そこで、川を渡る。掘割みたいなもので、さっきの大江川とは異なり、橋の手前が坂道になっているわけではない。クランクの先には、ちょっと由緒正しげなお寺さんがあった。釣鐘堂一つを取っても立派である。ここは真宗大谷派の高須別院で、いわばこの地域の浄土真宗の総元締のような寺である。岐阜県には真宗大谷派の仏教寺院が多い。本堂が高いところに上げてあるのは、水屋を持たない人々のための助命壇の役割を担っていたのであろう。
 高須別院裏の石垣を見ながら道がまたクランクし、お寺さんがもう1軒あった。こちらは石垣の上に門がある。さらに左奥にも寺があるが、このあたりは寺町なのだろうか。そう思いながら、突き当たりを右へ。石垣の上を立派な屋根つきの塀で囲んだ由緒正しげな民家は、石段を上がった塀の真ん中に門構えがあったりする。
 道が突き当たり、そして曲がる。これを1〜2回繰り返し、江戸時代から続いているらしい古びた商店街に入ってきた。ここが、高須の町の中心部であった。白壁土蔵の商店建築と屋根つき土塀に囲まれたお屋敷街を持つ高須の町は、イマジネーションを駆使すれば、150年前の城下町にタイムスリップできるかもしれない。こうした家々がきれいに維持されているのなら、この町を舞台とした映画を撮ってみたいと思えた。ただし、さっきのお屋敷は枯れ草にまみれて幽霊屋敷のようだったし、店舗も営業していないものが多いのが現状である。

 そして、道が何度目かの突き当たりになった時、左を見た。おお、目指す大垣共立銀行の、緑色の縦型看板が見えるではないか。看板に向かって、商店街の中を喜び勇んで自転車を漕ぎ進めた。
 商店街は畳んでしまった店ばかりで、何を売っている店かもわからないものが多かった。屋号だけ出した土蔵建築の店が、いたるところにある。土蔵造りの建物は、壁が黒いものと白いものとが混在している。黒壁は黒漆喰といって白壁よりも高級品。無知をさらすが、私はこの黒漆喰を、最近まで太平洋戦争中の空襲除けだと思っていた。ひらがな5文字で■■■■やと書いてあるのは、呉服屋だろうか。ブティックと書いてある店もあるが営業はしていないようだ。クリーニング屋は開いているようだが【注】、この店では箱ティッシュなども売っているようだ。地方に行くと、個人商店は本来の業種を飛び越えて「何でも屋」になっているところが多い。ここもそうなのだろう。あるカバン屋は店先のテントがビリビリに破れたままで、色も赤が褪せてピンク色のテントのようになっている。大共の斜め向かいにある果物屋は営業している様子であった。そのすこし先では、床屋の回転灯がぐるぐると回っていた。
 それにしても静かである。自転車に乗ったおばちゃんが1人向こうからやってくる。支店の前からお爺さんが1人自転車で立ち去ろうとしている。人の気配はその程度であった。

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 【注】ここで見たクリーニング店は2016年12月で閉店した。
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2017年04月23日

2014.07.18(金)(19)イエス、高須支店

 大垣共立銀行高須支店は、パッと見にはさっき行った駒野出張所と同じくらいコンパクトな建物であった。外観は南濃支店にそっくりである。これが、高須第七十六国立銀行本店を今に受け継ぐ、明治時代から続く名門支店ということになる。建物を見たら全くそんな感じがしないけれども、伝統ある店だからといって建物までそうだというケースは案外少ないのが現実である。私がよく知っているりそなグループで言うと、埼玉りそな銀行の川越支店(埼玉県川越市)は、1918(大正7)年竣工で国登録有形文化財となっている旧第八十五銀行本店を現在も使い続けている。こんなケースは全国的にもまれだ。
 支店の横は駐車場で、その入口に石灯籠が立っているところが、過ぎ去りし江戸や明治の世を感じさせる。コンパクトに見えた建物は、横に回ると奥行きがあって、やはり駒野出張所よりははるかに大きかった。表通りからは平屋建てのように見えたが、2階建てのようである。通りに面した所の幅は20mぐらいあって、出入口が2つ付いている。建物中央部の風除室のついた正面入口と、左端のキャッシュコーナーの入口である。
 まず、写真撮影を済ませよう。支店の向かい側に自転車を置いて、店の外観を撮影する。支店の写真を撮っている人が、他にもいた。店の「中の人」だろうか。高須支店は週明けの火曜日から海津支店に改称されてしまうため、「高須」の名前で制覇ができるのは今週限りで、まあ事実上今日が最後の日ということになる。連休の間に店頭の「高須支店」の文字をはがしたりするのであろう。それはいいとして、クロスズメバチだろうか、攻撃的な黒い虫が2〜3匹、灯籠のあたりをブンブンと飛んでいる。刺されはしないだろうが、ちょっと怖かった。まあ虫だけに無視しておくことにしよう。
 キャッシュコーナーでない方の前面入口には、金融機関として代理業務の一覧が出ていて、岐阜県指定代理金融機関という文字が見える。繰り返すが、大垣共立銀行は来年(2015年)4月から岐阜県指定金融機関になる予定である。その下には、愛知県収納代理金融機関、海津市指定金融機関、輪之内町指定金融機関、とあった。
 写真撮影を済ませて店に入る。前述したとおり、高須支店として窓口営業をするのは、今日が最後である。窓口の女性行員に、支店の名前が変わるのは来週からですよね、と話しかけたら、店名変更の告知チラシを1枚くれた。大共らしからぬ青いチラシであるのに少し驚いた。大垣共立銀行=緑というのが相当に定着しているので、あえてあまり使わない色を使用したのではないか。
 それでは、制覇にかかろう。ATMコーナーには2台のATMがあり、機種は富士通のFV20であった。うち1台、向かって右側の機械が手のひら認証対応というところは、今日これまで回ってきた海津市内の店とまったく一緒である。
 機械を操作。09:59、高須支店が無事制覇できた。今回の「めぐ」のそもそものきっかけが高須支店の名称変更であっただけに、最終営業日の本日ここを制覇することこそ、今回のメインイベント。美容外科のCMではないが「イエス、高須」であった。

 大垣共立銀行高須支店のルーツは、1878(明治11)年10月に当地に設立された、高須第七十六国立銀行にまで遡る。創業の地は現在の海津市海津町高須町741番地で、これは高須支店のある場所そのものである。開業は1879年1月6日であった。
 一方、大垣共立銀行自身も高須に店舗を持っていた。1900(明治33)年2月に開設された高須支店である。もとは美濃実業銀行【注】高須支店として1897年7月に開設されたが、同行が1900年6月大共に合併されることになり、それに先立って大共が同支店内に高須支店を開設したもの。大共の社史ではこちらを高須支店の“本流”としている。店舗は現在の高須町726番地にあった。現支店の北50m、さっき曲がってきた丁字路の北東角で、現在は駐車場になっている。
 1928年5月1日、七十六銀行(高須第七十六国立銀行改め)は大垣共立銀行に合併し、同時に大共高須支店は七十六の本店に移転。以来、この場所が大共の高須支店となった。1977年9月現在地で店舗を新築し、これが現在使われている店舗である。そして、本文で何度も述べているとおり、海津市内の店舗網再編に伴い、週明けの火曜日(2014年7月22日)、高須支店は海津支店に改称された。

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 【注】美濃実業銀行:1881(明治14)年5月設立。現在の大垣市船町に本店を置き、5本支店1出張所2出張店を持っていた。1900年6月大垣共立銀行に合併。大共とは一部役員が兼任で、人的に親密だった。店舗は本店のほか高須(海津市)・笠郷(養老町)・御寿(輪之内町)・神戸(神戸町)の各支店、加納(大野町)・氷取(安八町)の各出張店、黒田出張所(揖斐川町)で、合併により高須・神戸・加納・氷取・黒田の5店が大共の支店となった。
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2017年04月24日

2014.07.18(金)(20)国立銀行のこと@ 76と129

 せっかく旧国立銀行の本店だった店舗を制覇したことでもあるので、いわゆる“ナンバー銀行”の歴史を少し詳しく見てみることにしよう。明治維新によって国立銀行の制度ができてから昭和初期の金融恐慌の頃までの、金融制度が試行錯誤された時期について、2回にわたり語る。

 明治政府は新政府樹立後、各藩主に版籍(領土と領民)を天皇に返上させる版籍奉還や、割拠的な藩制度を一掃して中央政府の直接統治に切り換えた廃藩置県など、中央集権体制を強化してきた。解放令を布告して四民平等を推進し、封建的な諸制度は相次いで撤廃。安定した財源確保のための地租改正や、華族・士族への恩給である秩禄を撤廃する秩禄処分など、財政基盤強化のためのリストラも行われる。これらを下地として、明治新政府は富国強兵策を推進していった。その主要な施策の一つが、通貨制度の整備と近代的金融制度の導入であった。
 明治初期の通貨制度は、著しく混乱していた。江戸時代と同じ江戸幕府発行の各種金銀銅貨のほか、諸藩の領内限りの藩札や、代用品としての外国貨幣まで流通していたためである。硬貨は量目や使用金属の純度・含有率が一定せず品質にバラつきがあった上、金・銀・銅の価格も激しく変動した。藩札は表示単位が藩によって異なるなど統一性を欠いていた。加えて、明治政府は財政難から、これらとは別に太政官札や民部省札など「不換紙幣」と呼ばれる紙幣を発行していた。不換紙幣は資産価値のある金属(金や銀)、あるいは政府の保証といった、貨幣の信用力を高める要素とは関係なく発行された紙幣で、財政難→乱発→価値の下落→インフレーションという悪循環を成していたから、金銀で信用力が担保された新しい紙幣(兌換紙幣という)に整理・統一する必要があった。まず1871(明治4)年に新貨条例を作って通貨単位を円・銭・厘の十進法と定め、次いで1872年に新しい政府紙幣を発行。また金融・商業機関として「通商会社」「為替会社」が設置されたが、これらは成功しなかった。

 政府はこの時期、欧米の金融制度を調査・研究し、近代的な銀行制度の移植を目論んでいた。1872年11月、伊藤博文や渋沢栄一らが中心となって国立銀行条例を発布、近代的金融機関としてアメリカ式ナショナルバンクの設立を奨励した。翌1873年から民間の出資を仰ぎ、三井組などの出資による第一国立銀行(東京)をはじめ5行が「国立銀行」【注1】として設立を認可された。この制度は、大量の不換紙幣を回収することを目的に作られたもので、各国立銀行は独自に紙幣(兌換紙幣)を発行する権限が与えられていた。実際に開業したのは4行であったが、資本金の4割を金貨で準備しておくなどの条件が厳し過ぎ、設立を申請する動きはこれら以外にはなかった。銀行経営に対する不慣れや顧客の無理解も重なり、国立銀行制度は発足早々に崩壊の危機に瀕した。
 打開のため、1876(明治9)年8月国立銀行条例を大きく改訂した。それまで資本金の6割までしか紙幣の発行ができなかったが、条例改正後には8割まで認められるようになり、また金貨の準備もしなくてよいことになった。
 加えて、国立銀行の設立にあたっては、華士族に対し特典が与えられた。これには前述の秩禄処分が関係している。新政府は廃藩置県によって、それまで各藩が担っていた旧藩士への給与などを背負い込んだが、その総額が国家予算の3割にも達し、国家財政を圧迫するものとして削減が図られたのである。1876年8月、国立銀行条例と同時に金禄公債条例が制定され、金禄公債証書を発行して華士族への給与は打ち切られた。
 特典というのは、国立銀行が大蔵省から銀行紙幣をもらい受ける際【注2】、国が回収しようとしていた不換紙幣だけでなく、華士族に支給された金禄公債証書を預け入れることも可能になったことを指す。版籍奉還で旧士族は働く基盤を失い、金禄公債を当面の生活費に充てたり、就業の資金としたりする者が少なくなかった。公債は発行の年から5か年据え置き、6年目から30年償還というシステムで、使い勝手が悪かったので、公債を受け取った士族には生活苦から換金を急ぐ者が多かった。華士族は公債証書を持ち寄って国立銀行を設立することで、株式の配当収入が得られるようになったのである。

 このように、華士族にとっては金禄公債の魅力的な活用法が開かれ、全国各地で国立銀行を設立する動きが続出した。国立銀行の設立認可は1879(明治12)年11月の京都第百五十三国立銀行を最後に打ち切られたが、それまでに岐阜県では5行が設立申請を行った。番号順に16(現岐阜市、以下同様)・46(多治見市)・76(海津市)・128(郡上市)・129(大垣市)の5行である【注3】。第十六国立銀行の後身は、現在も岐阜市に本店を置いて十六銀行として営業している。46番は愛知県に移転し別の銀行に買収されたが、買収した銀行は1933年に破産した。128番は1936年に廃業し、業務の一部は十六銀行に引き継がれた。
 そして、ここで特筆されるのが、設立認可順76番目と129番目であった。76番は高須支店のルーツとなった高須第七十六国立銀行。そして、129番の大垣第百二十九国立銀行は、大垣共立銀行本体の直接の前身となった銀行である。第七十六国立銀行は、1878(明治11)年10月25日に開業免許交付および設立され、翌年1月6日に開業した。資本金は7万円で、旧高須藩士によって設立された。第百二十九国立銀行は1878(明治11)年11月17日に設立され、開業免許は12月17日に交付、開業は翌年4月10日であった。資本金は7万円で、旧大垣藩士が設立者の大半を占めていた。両者とも、各旧藩の関係者によって設立されたいわゆる“士族銀行”であった。

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 【注1】ここでいう国立銀行は、国営もしくは国有の銀行ではなく、国の法律に基づいて設立・運営される銀行という意味で、純然たる民間の株式会社である。ナショナルバンクの直訳とされているが、誤訳に近い。この時設立認可されたのは、第一(東京)、第二(横浜)、第三(大阪)、第四(新潟)、第五(大阪)だったが、第三は内紛から開業には至らなかった。
 【注2】国立銀行条例改訂後の紙幣は大蔵省紙幣局(現国立印刷局)が製造していた。図柄の部分は各銀行共通で、代表者名(表面)と銀行名・地名(裏面)を加刷していた。
 【注3】銀行名に付けられた番号は原則として設立認可の順であったが、その後の経過によって設立日や開業日は前後している場合もある。なお、多治見第四十六国立銀行は、申請や認可の順では129番(大垣)よりも後であるが、開業せずに終わった宮城県の銀行の番号を例外的に付番されている。
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2017年04月25日

2014.07.18(金)(21)国立銀行のことA 私立銀行転換と銀行法

 政府の金融政策は試行錯誤を繰り返しつつ近代化に向けて進んできたが、その過程で激しいインフレーションが発生した。主に西南戦争の戦費調達が原因で、各国立銀行がそれぞれ紙幣を大量に発行したため、通貨の流通量が激増したのである。抜本的な解決を図るため、国立銀行の発券機能を停止して中央銀行を創設することになり、1882(明治15)年10月に日本銀行が開業する。これを受けて、1883年5月に国立銀行条例が再度改訂された。すべての国立銀行が開業免許後20年で紙幣の発行権を失い、その後は発券機能を持たない私立銀行に転換しない限り営業を継続できないことや、営業満期までに国立銀行紙幣を全て消却(回収)することなどが定められた。
 国立銀行条例の改訂を受けて、第七十六国立銀行は私立銀行に転換することになった。国立銀行としての営業満期は1898(明治31)年10月であったが、それより早く同年1月1日付で普通銀行の且オ十六銀行に転換した。一方、第百二十九国立銀行は、営業満期を機に2つの方針を決めた。それは、士族と平民が共同出資して一体となることと、西濃地区一帯に営業基盤を広げ、西濃地域の有力者(地主)にも株主に参加してもらうことである。これにより、第百二十九国立銀行は満期をもって解散し、新しい銀行を設立してそこに営業譲渡することになった。1896(明治29)年2月23日、国立銀行本店と同一の建物に椛蜉_共立銀行が設立された。新設の大垣共立銀行は、営業満期まで国立銀行と2年8か月間並存し、1898(明治31)年12月16日の営業満期と同時に継承した。
 その後のことも書いておくと、七十六銀行は1925(大正14)年11月、岐阜県太田町(現美濃加茂市)の東濃銀行【注1】を合併した。これにより営業網は一気に美濃地方の東部にまで拡大したが、この合併は地元を遠く離れた地域への営業網拡大で、無理な拡張は結果として七十六銀行の経営を圧迫することになった【注2】。一方、大垣共立銀行は1909(明治42)年7月、経営基盤を強化するため、かねてより親密であった金融財閥、安田保善社の傘下に入る。これにより、昭和前半の太平洋戦争終結までは、安田財閥により信用力が補完されていた。しかし、戦後GHQによる財閥追放の過程で、大共は安田財閥に関係する制限会社に指定されたため、特に昭和20年代前半には業容拡大もままならず、十六銀行と比べて伸び悩む一因ともなった。
 なお、ここで見たように、営業満期を迎えた国立銀行は、名称はもとより、そもそも私立銀行に転換するか否かまで、各銀行ごとの判断に委ねられた。このため、行名に数字を残した銀行では、「第」の字が付くものと付かないものとが存在する。長野県の八十二銀行は、1931年8月に第十九銀行と六十三銀行が合併した際に数字も合算したものであるが、見てのとおり「第」の字は前身銀行のうち片方にしか付いていない。

 1928年1月、銀行法という新しい法律が施行された。この法律は従来の銀行条例を補って広く普通銀行を司るもので、預金者の保護を目的に、小銀行の整理・過当競争の防止・健全経営の確保を図った条項が盛り込まれた。こうした法律がつくられた背景には、明治30年代から散発的に発生した銀行取り付けと金融恐慌があった。特に、この直前の数年間で、第一次世界大戦に伴う好景気と反動不況、関東大震災の影響による震災手形問題の発生、その問題処理を行う国会審議での大臣の失言がもとで起きた金融恐慌と、国を揺るがすような問題が続いていたことが挙げられる。具体的には零細弱小な銀行の経営破綻が相次ぐという形で国民生活に深刻な影響を及ぼしており、これまでの金融業界の動揺を反省して対策を講じたのである。
 銀行法が地方銀行の経営に特に大きな影響をもたらしたのは、資本金の下限が定められたことであった。法定資本金は、東京市・大阪市に本支店を有する銀行は200万円、既設の銀行で人口1万人未満の市に本店を有する場合は50万円、その他は100万円。この法に抵触する無資格の銀行は、全国の普通銀行1283行のうち半数近い617行にも及んでおり、各銀行は存続していくためには向こう5年以内に増資してこの条件を満たさねばならなかった。しかし、政府は銀行法によって資本力の弱い無資格の銀行を整理することを目論んでおり、銀行の合同を促進するため、単独での増資は認めない方針を採った。銀行法に先立つ1927年5月には大蔵省銀行局に検査課を設置し、銀行検査体制を強化して、無資格・有資格を問わず銀行合同を強く勧奨した。その後の経済状況の悪化などもあって、1283行あった普通銀行は、銀行法施行からの5年間で6割にあたる745行が姿を消し、538行に減少した。
 銀行法施行を機に、七十六銀行は思い切って他行との合併を選択することになった。同行は法定資本金を上回る150万円の資本金を持ち、またこの時点で計数に問題があったわけではない。ただし、七十六銀の経営は東濃銀行の合併で歪みが生じており、合併せずにいた場合は数年のうちに経営危機が表面化していた可能性もある。合併先は十六銀行と大垣共立銀行のどちらにするか行内で意見の対立があったが、最終的には大共に合併することになった。合併の条件は、存続会社を大垣共立銀行とする、合併比率は1:1、七十六銀の3支店を除く本支店を大共に引き継ぐ【注3】、従業員は勤続年数とともに全員を受け入れる、などとなっていた。
 こうして1928年5月1日、七十六銀行は大垣共立銀行に合併した。大共は七十六銀との合併により9支店5出張所【注4】を引き継ぎ、西南濃地区の基盤を固めただけでなく、加茂郡など美濃地方東部への進出を果たすことになった。

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 【注1】東濃銀行:1910(明治43)年11月加茂郡銀行として美濃加茂市太田に設立、1922(大正11)年12月東濃銀行に改称、1925年11月七十六銀行に合併。合併直前の預金残高約203万円、貸出金約216万円。店舗は本店のほか下麻生・兼山・川辺・西白川・広見・今渡・八百津・各務・加治田・岐阜・金山・那加・森山・羽黒・名古屋の15支店。
 【注2】東濃銀行を合併する直前の預金残高は約291万円、貸出金約229万円。店舗は本店のほか香取・今尾・駒野・野寺の4支店。
 【注3】この時除かれた3支店は出張所として引き継いだ。野寺・森山・各務。
 【注4】高須(旧本店、海津市)・香取(三重県桑名市)・今尾(海津市)・駒野(同)・太田(美濃加茂市)・川辺(川辺町)・西白川(白川町)・那加(各務原市)・羽黒(愛知県犬山市)の各支店と、野寺(海津市)・各務(各務原市)・森山(美濃加茂市)・多度(三重県桑名市)・石津(海津市)の各出張所。
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2017年04月26日

2014.07.18(金)(22)水田地帯を北上する

 さて、自転車による「めぐ」を続けよう。海津市を成立させた3つの町のうち、旧南濃町と旧海津町はすべて終了した。最後となるのは、旧海津町の北側に隣接する旧平田町である。
 現在の海津市平田町には制覇目標が3か所ある。西の今尾地区へ行くと、そのうちの2か所、今尾支店とATM[ヨシヅヤ海津平田店]が片付く。以前のリサーチによると、高須支店前を北上すると南濃からの県道津島南濃線に突き当たるから、そこで右折して県道を東に進み、ほど良いところで左折して北に向かえばよいハズであった。時計を見ると、ちょうど10:00。予定では高須支店の出発が10:30であるので、30分ほど早く推移している。非常に結構である。このまま前倒しで進めたい。
 高須支店の面する道は、路側帯はいちおう引いてあるけれども、対面2車線にはできないぐらいの道幅であった。商店街を真っすぐ北に抜けて行くと住宅地になり、ほどなく掘割のような小さな川を渡る。ちょっとした下り坂を下りてゆくと、海津明誠高校のグランドに突き当たった。ここは右折。フェンスに《生徒送迎のための駐停車禁止》という看板が出ている。田んぼ以外に何もない地区で、バスの本数も少ないから、自転車で通学するのでなければ車で送迎する以外にないだろう。高校の校舎右側には、「くすり」という大きな赤い看板が見えている。さっき行ったクロカワヤの隣にあったスギドラッグ屋上の看板である。
 一部を除きとにかく古い建物ばかりの街並みだが、どの家もみんな石垣の上に乗っているところが高須らしいと感じた。住宅はたいていお城のような石垣の上に乗っている。ここ数年に建ったような新しい住宅は、高台上にないものもあるようだが、基本的には全部“お城”であった。お城といえば、高須の町は旧城下町とあって、道路の突き当たりが多く、真っすぐ行くということがなかなか難しいところである。明誠高校が旧城跡だったというから、この界隈の道筋が入り組んでいるのもむべなるかな。
 〔東山の手〕というコミバス停留所の前を通り、突き当たって左に曲がると出光興産のガソリンスタンドがあった。その先にはさっき渡った大江川が控えている。橋の手前が少し上り坂になっているのは、さっき渡った橋と同じである。川を渡って、馬目西方という交差点に出てきた。ここは十六銀行高須支店のある角で、左に曲がるとさっきの[ホームセンタークロカワヤ]である。ということは、ここを右折し、しかるべき角で左に曲がれば、旧平田町の次の目的地にたどり着くハズである。何という場所だっけ。とにかくこの界隈にはこれまで馴染みがなくて、次に行く今尾という地名すら忘れている始末であった。

 というわけで、対面2車線黄色センターラインの街道を東に向かっている。さっきの津島南濃線を真っすぐ来ているだけであるが、馬目の交差点を境に道としては岐阜海津線に変わっている【注1】。同じ対面2車線の県道でも、黄色のセンターラインが他所の1.5倍ぐらいの太さで書いてあって、重要な街道であると感じられた。
 大江川に架かる、馬目橋という橋。あれ、さっきも大江川は渡ったハズなのに。そう思ったが、後で調べてみると、大江川はこの高須の町を大きく蛇行しながら流れているのであった。コミバスの〔馬目〕バス停前に、ファーマーズマーケットとかいう農協の直営店らしきものがある。敷地の中には、JAにしみのが店舗外ATM小屋を出している。
 集落が途切れて水田地帯になった。高須輪中土地改良管理センターという大きな矢印看板が見える。農地などで余った水を排水するためのポンプ場であろう。この辺まで来るとラブホテルがあるが、長良川と木曽川を渡った3km先は愛知県愛西市であり、県境地帯を特徴づける施設である。ラブホテルの向かいには、1階を店舗にしている3階建てぐらいの鉄筋アパートが建っている。こうした建物に××名店街という名前を付ける習慣が、どうもこの地域にはあるらしい。同様の建物は、さっきクロカワヤの前にもあった。とにかく、水田地帯→家が何軒か固まって建つ→すぐに建物は途切れて水田地帯、を繰り返し、ときどきロードサイド型の店舗が密集する地域が現れる。
 鹿野という交差点までやって来た。角にはミニストップ(鹿野店)がある。行政が付けた矢印看板には、海津温泉右6km、お千代保稲荷左5km、とあった。それとは別に、広告看板も出ている。ヨシヅヤ海津平田店左。ほかの地名は全然ピンとこないが、ヨシヅヤ海津平田店は今尾支店の近所にあって、これから行く目標の一つである。ここで左に曲がればよさそうだ。
 左折した道は、やはり対面2車線の黄色センターラインだったが、これまでと違って車線の幅だけの舗装しか施されていない。この道も岐阜海津線なのだが、こちらに入ってくると道が断然ショボくなった。センターラインも細いし、路肩にも路側帯など引かれていない。反射板をつけた70〜80cmぐらいのポールが、路肩に10mぐらいの間隔で立っている。反射板ポールが立つ土の斜面はその下がいきなり水田で、少しでも道を踏み外したらたちまち泥まみれになってしまう。間もなく黄色のセンターラインが終わり、路側帯が引かれてセンターラインなしの道になった。道幅は変わらない。ついそこまで制限速度40km/hだったが、センターラインがなくなると50km/hになった。どういう違いがあるのだろうか【注2】。とにかく相変わらず水田地帯で、民家と工場、あるいは倉庫がところどころに見える。遠くに見える古い民家は、石垣が見事であった。
 やがて、民家も工場も倉庫もなく、ただ水田だけが広がるところに出た。道はさすがに広くなり、対面2車線白破線センターライン、そして片側だけだが歩道まで整備された道になった。家は1軒もないのに、車の通行だけは結構ある。車がなければ何もできない地域だから仕方がないが、田園地帯を自転車で走り続けていると、横を通り過ぎる車がとりわけ非情に感じられた。1回目の住宅地が途切れたあたりは、海津町平原といい、ここから入ると天昇苑とかいう海津市の斎場がある。この平原地区は、もともと旧今尾町に属していたが、昭和の大合併では平田町ではなく高須を中心とする海津町についた地域である。この地区に斎場がある理由は、こういういきさつを知ると何となくわかった気になる。
 西島という交差点まで来ると、行政が付けた矢印看板には、お千代保稲荷・羽島:直進、安八:左とあった。文字列としての地名は見たことがあるが、それがどういう位置関係なのかは全然ピンとこない。後で知ったが、お千代保稲荷(おちょぼいなり)は東海地区一帯に知られた有名な神社で、海津市随一の観光資源である。特に商売繁盛にご利益があるそうで、名古屋の商売人は、海津市という地名は知らなくても「おちょぼさん」の名前は知っているらしい。「お千代保稲荷」という行政の矢印看板はこの地区あちこちに出ているから、相当広い範囲から参拝客を集めているようだ。なお、お千代保稲荷に行った後は祖父江善光寺(愛知県稲沢市)に行くのがお約束であるという。
 西島交差点の北東側はコンクリート製品の工場らしく、穴を掘ってボンと置いたらそのまま溝ができる、U字溝の材料のような製品がたくさん積み上げてある。コンクリ工場からさらに北へ100mほど行くと、北北西に住宅の塊が見え、その家々の屋根のすき間から、赤い鳥居が初めて見えた。

 ところで、さっきから気になっていることがある。ここに来る相当前、平原の斎場入口のあたりから、左前方にショッピングセンターのようなものが見えるのだ。田んぼのはるか彼方、1〜2km先だろうか。屋上の白い看板に赤い文字が書いてあるようなのだが、目が悪いので読めない。
 まさか、ヨシヅヤってあれじゃないよね。さっきからずっとチラチラ見えているのがそうだとしたら、かなり西に戻る必要があることになる。どうしよう、急に不安になってきた。さっきあったコンビニで地図を見ておけばよかったと思う。今日は地図をろくに見ていないから、違っていたら目も当てられない。
 この道、真っすぐでいいんだよなあ。そろそろ半信半疑になり始めた私であったが、とりあえず直進を続ける。まあ、俺に限って間違うことなどあるまい。そう思うしかなかった。

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 【注1】馬目交差点〜鹿野交差点間は、津島南濃線と岐阜海津線の重複区間。
 【注2】現在は均質な2車線道路となっている。
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2017年04月27日

2014.07.18(金)(23)チョンボでお千代保

 道が大きく左にカーブした。集落に入ると同時に再び道が狭くなり、黄色センターラインの2車線対面に戻った。古い集落らしく人家と畑が半分ずつぐらいある。ここは水田地帯から見ると標高が少しだけ高いようで、畑があったり、生け花と書いた温室があったりする。
 しばらく進んでいくと、お千代保稲荷がますます近づいてきた。道が大きく右にカーブしたところで、私設看板に遭遇した。愕然とした。そこには《ようこそお千代保さんへ/東口次の信号直進700m》と書いてあったのである。
 何、700m!? ことここに及んで、私は進む道を間違えていたことを察した。いかにリサーチ不足といえども、お千代保稲荷が全然違う場所にあることは知っている。あれは、いま行こうとしている今尾と、その次の目的地・野寺との中間にあるものだ。面白い名前だし、地図でも大きく出ていたから覚えていたのである。700m地点まで来ては近接し過ぎだ。そういえば、あの赤い鳥居はさっきから少しずつ距離を縮めつつあるように見える。いま私がいる場所は、鳥居がいよいよ目の前に近づいてきて、これを曲がったら鳥居そのものではないか、という位置であった。
 ということは、遠くに見えていたあのショッピングセンターが、やはり目的地のヨシヅヤ海津平田店だったのか。そう思って左の方を見回したが、知らないうちにSCなど見えなくなっている。はるか彼方にあるハズだが、学校とおぼしき大きな施設に隠されていた。ああ、何ということ。明らかなチョンボであった。
 かなりガックリ来たが、じたばたしても仕方がないので先へ進むことにする。こうして、蛇池(じゃいけ)という交差点に来た。ここで左に入るとお千代保稲荷の鳥居の前まで行くようだ。ヨシヅヤ海津平田店左1.5km、という看板が出ているのが、わずかな救いであった。進路がわかって安心したが、ここから1.5kmということは、やはり相当に遠回りしている。
 まあ頑張りましょう。順番はすでに決めてあるから、ここから今尾に向かうのは変わらない。時刻は10:34であった。なお、後日判明したのだが、先ほどコンクリート製品の工場があった「西島」の四つ角が、県道222号成戸平田線との交差点で、今進んでいる道から今尾へ直行する経路であった。そこで曲がっていれば、まだ傷は浅かったようである。

 今進んできた県道1号線は、ここ蛇池の交差点で右折して野寺方面に向かっている。四つ角から左の方向に、県道213号養老平田線が始まっている。交差点の南西角に海津市が作ったお千代保稲荷の案内看板があって、直進東口、左折南口となっている。お千代保稲荷の入口は東口と南口の2つがあって、位置関係としても確かに看板のとおりである。
 蛇池の交差点を左に曲がると、そこは観光地の趣であった。喫茶店が何軒かあったり、有料¥300と大書した駐車場があちこちにみられる。こうして、お千代保稲荷南口の大鳥居の真ん前にやって来た。高さは10mほどもあるだろうか。見上げるほどの高さである。水田地帯の真ん中だから相当に目立つ。なにしろ、ここに来る何kmも手前から見えていたのである。鳥居をくぐった先は参道で、土産物屋やら何やら120軒ほどが軒を連ねているという。関東地区でいうと、千葉県成田市の、京成電鉄成田駅から成田山新勝寺に向かう途中のような、かなり大規模な門前町。千代保稲荷神社は室町時代の創建で、年間200万人が参拝している。毎月1回夜通し行われる“月並祭”という縁日が有名で、月末の夜から翌1日の明け方にかけては大変な人出となるそうだ。境内ではお札やお守り等の販売は行われていない。これは神社創建時の「先祖の霊を千代に保て」との戒めから来ており、家(森家というそうだ)の先祖だけを祀った神社であるからお札などは出さないのだという。
 なお、かつて大垣共立銀行は、大鳥居横の駐車場内に店舗外ATM[お千代保稲荷南口]を置いていた。1997年12月に設置されたが、2004年度に入って間もなく廃止となった。確認はしていないが、母店は今尾支店だったと思われる。当時は蛇池交差点の北西角にコンビニのサークルKがあり、十六銀行が店舗外ATMを出していた。現在ではそちらもコンビニもろとも消滅しており、この地で現金が必要になったら参道内の簡易郵便局の窓口でおろすしかない。
 それにしても、鳥居そのものの前に、このタイミングで来てしまうのは大誤算であった。

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2017年04月28日

2014.07.18(金)(24)海津市平田町三郷のコンビニにて

 鳥居をだいぶ過ぎ、神社の大駐車場の前に、海津市コミバスの〔お千代保稲荷〕バス停があった。〔お千代保稲荷〕のバス停ポールに書いてある停留所名には「おちょぼいなり」とルビが振ってあり、よの字は「ょ」と小さく書いてある。私は“おちよほ”と読むのだと思っていたし、お千代保稲荷の正式名称は「千代保(ちよほ)稲荷」であるのだが、市営のコミバスで停留所名が「おちょぼ」になっているのなら、まあそれがオーソライズされた読み方なのだろう。バス停は神社からもう少し近いところに置いたらどうかと思うが、自転車で行く今日の私には関係がない。
 バス停の先には、鶏卵の自動販売機があった。水田地帯の真ん中にある駐車場の片隅に、テントをかけた自動販売機が1台ボンと置いてある。このあたりに来ると、いわゆる「田舎の香水」が匂ってくるのと、耕作していない土地が結構目に付く。草ぼうぼうになっている土地と、草刈りだけは済んでいる土地とがあった。
 お千代保さんのあたりは結構標高が高いようで、畑作をやっている土地が多い。古くから伝わる神社というのは、べったりと低いこの濃尾平野の水田地帯の中では、例外的に高いところにあるのだろう。水田もなくはないが、田んぼは相当に高さが低いところに限られるようだ。ここら辺にある水田というのは、山を切り開いて作った住宅団地などでみられる調整池と似た意味合いなのかも知れない。

 セブンイレブンとサークルKが対面に立地している交差点があった【注1】。十字路ではなくX字だが、もうどちらが北でどちらが西かわからなくなっている。ミサトというのかサンゴウというのか知らないが、とにかく三郷という名前の交差点である【注2】。ここにあるサークルK(海津平田町店)は、北海道とか東北のように、店の前に風除室がついている。伊吹おろしが吹き付けるこの地の冬は、相当に風が強いらしい。
 風除室に惹かれてサークルKに入った【注3】。ここで「地図見休憩」をしよう。とにかく疲れた。今日は雲が多くて、直射日光が出ていないから、まだ何とかなっている。これがピーカンの青空であったら、もうバテバテになっているだろう。
 冷房の効いたコンビニで地図を立ち読みすると、ミスの原因がわかった。十六銀行高須支店のあった馬目西方の交差点から、真っすぐ北に進んでいれば、ヨシヅヤまでストレートにたどり着いたのである。東にかなり来てから左折北上したため、西へ戻る行程ができてしまった。これだけでも3kmぐらい無駄に長く走ることになるが、さらに今尾よりかなり北に位置する蛇池を回ってくると、南に戻る行程も発生するから、トータルで5kmほど余計に走ったようだ。
 なお、今尾地区の2か所を取った後、野寺支店までは、この道をまた東に戻ることになる。やはり、蛇池の交差点が両者のほぼ中間地点であった。20分ぐらい無駄にしたと思うが、精神的なダメージも加味すれば、1時間ぐらいのロスに相当するかも知れない。後日このあたりを車で走ってみたが、さっき通ってきた東側の道は、車でも遠回りだと感じたほどである。

 名古屋から持ってきたペットボトルの水がなくなりかけていたので、この店で2リットルペットを1本買った。レジで会計しながら「ヨシヅヤってここからまだ遠いですか?」と店員に尋ねた。中年女性の店員は、ああもうすぐそこですよ、真っすぐ行くと信号があるんで、そこを左に入って下さい、と教えてくれた。
 ところで、ここで買った水は、サークルKサンクスの親会社ユニーのプライベートブランドで「スタイルワン天然水」という商品であったが、ラベルをよくよく見ると《養老山系で磨かれたナチュラルミネラルウォーター》と書いてある。え、と思って採水地を見たら、海津市南濃町とあった。何だ、地元の水ではないか。遠く離れたどこかのサークルKで買うならどうということもないが【注4】、海津市内でこれを買うのは非常にばかばかしい気がする。でも、この店ではこれが一番安い商品(税込み90円)だから、知らず知らずのうちに海津市の水を飲んでいたのだろう。
 ユニー系のコンビニ会社サークルKサンクスは、この頃身売り話がマスコミを賑わせた。その後しばらくM&Aの話は鳴りを潜めていたが、結局2016年9月にファミリーマートに合併されてしまい、ミネラルウォーターも同社のPB商品に置き換えられてしまった。日常生活がつまらなくなったと感じる。私は、企業でも何でも、弱小だからといって淘汰までされてしまうのは、あまり健全ではないと思っている。

 疲れがある程度癒えたところで、コンビニを出て自転車を漕ぎ始めた。ヨシヅヤの看板は前方に見えているが、「すぐそこ」にあるようには全然見えなかった。まだ1km近くはありそうである。そうか、車の感覚だから「すぐそこ」なのか。私は少なからずがっかりしたが、めげずに自転車を漕ぎ続けた。

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 【注1】この場所のサークルKは、2017年1月26日ファミリーマートに転換した。
 【注2】さんごう。地名は3村の合併から。
 【注3】風除室は向かいのセブンイレブンにもある。
 【注4】首都圏では、長野県北安曇郡松川村で採水した「北アルプスで磨かれたナチュラルミネラルウォーター」を販売していた。
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2017年04月29日

2014.07.18(金)(25)鹿児島県との意外なつながり

 水田地帯を西に進んでいくと、海津市平田庁舎というお役所の建物があった【注1】。旧平田町役場である。旧平田町は「昭和の大合併」時の1955年2月に旧今尾町と旧海西村が合併して成立した【注2】。
 役場のあった場所であるので、ここで旧平田町について述べておくことにしよう。低平な水田地帯だから平田という名前になったのだと言っても一定の説得力があるが、実はこの町の名前は、人名に由来している。九州・薩摩藩の家老だった平田靭負(ひらた・ゆきえ)。この男性は、濃尾平野を中心とする地域のために命を捧げた偉人として語り継がれている。
 海津市のある濃尾平野は、古くから濃尾三川、木曽・長良・揖斐の3つの大河が氾濫を起こし、多くの犠牲を出してきた。1753(宝暦3)年、徳川幕府は、3川平定のためと、外様の雄藩であった薩摩藩の経済力を殺ぐために、3つの川が網の目のように流れていた濃尾平野の河川整備を薩摩藩に命じた。しかも、経費の負担のみならず工事要員の派遣まで求め、専門業者には委託しないことという条件がついていた。
 このプロジェクトの薩摩藩側の総責任者が、家老の平田靭負であった。靭負は、資金集めに始まり、幕府側との軋轢、地元民との軋轢、薩摩藩内部での軋轢等々と戦いながら、異郷の地で大榑(おおぐれ)川洗堰と油島分離堤を完成させ、幕府への引き渡しを終えたその日に自ら命を絶ったという。江戸幕府が薩摩藩に命じて1754(宝暦4)〜1755年にかけて行われたこの治水工事は「宝暦治水」と呼ばれる。
 この地域の治水工事そのものは、明治期、当時の治水の先進国オランダから来日したお雇い外国人ヨハネス・デ・レーケ【注3】が完成させることになる。輪中の住民たちは、経験上、3つの川が合流と分流を繰り返して網の目のようになっているのが洪水多発の原因の一つであると知っていた。とりわけ、最も高いところを流れる木曽川が揖斐川に影響を及ぼさないようにする工事を求めていた。これを受け、薩摩藩の工事は3つの川を完全に切り離すことを目的としていたが、さまざまな利害関係から3つの川は完全分離とはならなかった。デ・レーケは3つの川をくまなく調査して、木曽川と長良川との間に堤防を作って両者を分離したり、川幅を広げたり、木曽川・長良川・揖斐川をつなぐ川を締め切ったりした。こうした現場での対策に加え、水源地の山林を保護して植林することや、各地の支流に砂防ダムをつくって土砂が川に流れ出るのを防止するなど、上流から下流まで川の全体に目配りをした改良工事を実行に移したのである。
 デ・レーケにより3つの大河川が完全に分離された状態となって、水害は初めてほぼ鎮圧された。40万両の巨費と多くの犠牲を払った薩摩藩の工事は、残念ながらあまり役には立たなかったのである。とはいえ、この地域では、平田靱負をはじめ宝暦治水の際に亡くなった薩摩藩の人たちを、本来なら縁もゆかりもない濃尾平野のために命をかけて治水工事を行った「薩摩義士」として、神社を作ったり法要したりして讃えている。

 最近では、この薩摩義士についての疑義が提示されている。宝暦治水は岐阜県側(というか濃尾平野のある側)が鹿児島県側から恩義を受ける形になるだけに、主に岐阜県側から意義を疑う説が提示されるようになった。薩摩義士顕彰運動は利害を伴わない交流活動であるようだが、南京大虐殺の“まぼろし論争”に似た位置付けで、薩摩義士の顕彰を重荷というか軛(くびき)と感じる向きが岐阜県側の一部にあるのだろう。
 薩摩義士の顕彰は、大正時代の初期に岐阜県側で始まった。もともとは多度村戸津(現桑名市多度町戸津)の戸長であった西田喜兵衛が提唱し、岐阜県で自由民権運動家として活躍した岩田徳義が運動として定着させたという。この時代、1912年の明治天皇崩御を受けて陸軍大将の乃木希典が後追い自殺をするなど、“義士”をもてはやす社会的な素地はあったようだ。こうした空気の中、薩摩義士の顕彰運動を盛り立てるプロセスで、住民の歴史認識を拘束する軛が生じることになった、とするのが薩摩義士“軛論”の概要である。史料もろくに残っていない宝暦治水から『忠臣蔵』を上回る“物語”を生み出そうと試み、相当の無理が生じたことから、治水工事として意味のなかった宝暦治水をことさらに高く評価する風潮が生まれた、というわけだ。
 歴史にかかわる話題が周知され、かつその真偽が問題になっているケースには、太平洋戦争期の植民地支配に関するもののほか、江戸時代の美しい風習とされるものを周知して公衆マナーを啓発する「江戸しぐさ」など、いろいろある。いずれも、史実の伴わないものを批判して打破する方向性は一緒であるから、薩摩義士顕彰も同じ運命をたどるのだろうか。
 史実は過去に起こった事実としてキッチリ解明する必要があるのは言うまでもないけれども、それはそれとして、人間には“物語”もまた必要である。岐阜県と鹿児島県という、本来なら縁のできようハズもない2つの地域が親しく交流をしているのも、宝暦治水という歴史的事実(これはさすがに議論の余地はないようだ)がもとになっている。仮に「薩摩義士」が史実の根拠に乏しいとしても、当面は『忠臣蔵』のような形で“物語”として機能させていくのが有益ではないだろうか。そうでないと、事実よりも物語を重視するタイプの人の中には、もっといかがわしいストーリーにのめり込んでしまう人が出てくるだろう。薩摩義士の物語はまだ良質な方であって、特に“物語タイプ”の人の受け皿としては有効ではないかと思う。世の中には有害な嘘がゴロゴロしているが、義士を顕彰することで被害を受ける者はいないからだ。
 というわけで、薩摩義士を虚像であると一刀両断することによって何かがもたらされるかについては疑わしい。薩摩義士“軛論”を展開している地元の歴史研究家の本でさえ、序文に《軛(くびき)を振り棄てたことで生じる自由の先は茫洋として、つかみどころがない。》と述べているのである【注4】。

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 【注1】海津市平田庁舎は2014年12月末をもって廃止された。
 【注2】前述のとおり旧今尾町平原地区を除く。
 【注3】ヨハネス・デ・レーケ:Johannis de Rijke(1842〜1913)。オランダ人の土木技師。1873年、内務省技術顧問としてオランダから来日し、約30年間の日本滞在で河川の改修など治水と築港に尽力した。主な業績に、淀川の改修、木曽川の分流、大阪港・三国港・三池港等の築港計画などがある。
 【注4】水谷英志『薩摩義士という軛』ブイツーソリューション、2014年。
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2017年04月30日

2014.07.18(金)(26)今尾の町に入ってきた

 平田庁舎の前には「今尾商店街入口」という看板が出ていて、キツネのキャラクターが描いてある。後で調べたら、このキャラは旧平田町が作ったもので、「こん平田」(こんぺいた)というらしい。お稲荷さん(お千代保稲荷)にちなんだキャラクターだろう。いずれにしても、ここ今尾地区における目的地はすぐ近いと思われた。
 旧町役場は、正面入口の円形ドアの横に《1966年》と彫り込まれた定礎の石がはめ込まれている。広大な役場の敷地は、町役場とJAが完全に一体化しているようで、同じ敷地にJAにしみのの平田支店があり、今尾商店街側にはコイン式精米所もある。この地域が農業を抜きにして語れないことがよくわかる。平田支所の向かい側は岐阜県警の交番(平田交番)。2階建ての建物はかなり大規模で、銀行の出張所ぐらいの大きさがあるから、警察署に準ずるような交番なのであろう。
 なお、かつて大共はここにも店舗外ATMを出店していた。1984年11月開設の[平田町役場]で、現海津市域の店舗外ATMでは第1号設置だった。2005年3月の3町合併で[海津市役所平田庁舎]に改称されたが、改称後間もなく2005年度中(夏以降)に廃止となっている。母店は今尾支店であった。

 今尾といえば、ここで本を1冊紹介しておきたい。1998年刊行の、今尾恵介『地形図探険隊』(自由国民社)である。
 この本と出会ったのは、2016年5月、この連載のための文献探しで出かけた海津市立平田図書館であった。平田図書館は旧平田町役場の裏手にある。薄暗い書架でこの本を見かけた時の第一印象は、「なぜこの本がここにあるのだ」であった。というのも、この本は郷土資料の棚に排架されていたからだ。その場では書名をメモするだけに留めたが、後日古本を買って読んでみて、平田図書館でこの本を郷土資料としている理由がわかった。この本には今尾氏による今尾探訪記が収録されており、今日私がめぐっているエリアについてもいろいろ調べて書いているのである。
 驚いたのが、今尾氏の1932年生まれの父親、国三氏についての記述であった。戦時中に当時の今尾町に疎開して住んでいたことがあるという。しかも、当時通っていた中学校では、今尾町に今尾姓がいなかったこともあって「今尾の今尾」とからかわれていたそうだ。参った。今尾氏(の父親)には、この地にこんな強烈なエピソードがあるのか。これでは、私が何を書いてもインパクトでは到底及ばないではないか。
 今尾氏の今尾探訪は、1997年9月に行われた。父親と2人で、名鉄竹鼻線大須駅(羽島市)から岐阜バスに乗って今尾へ向かっている。大須までの名鉄線が廃止されたため、このルートをたどるのは今となっては困難である。今尾氏一行は、まずお千代保稲荷に参拝。続いて、かつて父親が住んでいた平田町三郷を訪ねて古い知人たちと再会し、中学校(現県立海津特別支援学校)を再訪。さらにタクシーで駒野へ移動する。今尾氏の父は、駒野にあるベアリングの工場に勤労動員で働きに行っていたという。現ナイガイテキスタイルのことであるが、ここが軍需工場として稼働していたのは、1943年8月から終戦までのわずか2年でしかない。夜は養老の滝近くに泊まり、翌日は今尾家のルーツとされる岐阜県の別の土地に行っている。地理の本らしく天井川についても触れているが、養老駅からは大垣行きの電車に乗っているから、無理矢理である【注1】。
 他にもこの本では、かつて[梅70]の連載で取り上げた東京都瑞穂町とか、今回養老線に乗り換えた三重県桑名市などにも触れている。あくまで偶然ではあろうが、私に関連するディープな情報まで含まれており、大変面白い本であった。

 さらに進んで今尾の交差点にやって来た。横には上水道の水源地がある(海津市平田第1水源地)。車がひっきりなしに通る交差点の横に上水の水源があるのが意外だった。これを真っすぐ行ったら今尾の商店街に入るのだと思うが、直進方向も左に傾いている。さっきサークルKで店員の女性が教えてくれた道は「交差点を左」だったハズだが、どちらだろうか。結局、直進方向こそ今尾の中心部に入る道だと思い、左折ではなくて左斜めに進路を採った。
 直進方向に入ると、閉店した商業施設のオンパレードであった。閉店した上新電機がある。パラペットにオレンジの線の入った、閉店したコンビニがある【注2】。敷島ニュージョイズと書いてあるから、東海地区を地盤とする大手製パン業、敷島製パンが展開していたようだ。クローズしたブックオフもあるし、商業施設の墓標が多数建っているような感じであった。そんな中、大垣信用金庫【注3】の今尾支店があり、この店だけは営業している。いや、その隣の寝具店もご盛業中のようである。
 海津市コミバスの〔今尾〕停留所があって、客が1人いた。このバス停には、海津市のコミバスのほか、隣接する輪之内町のコミバスも来る。輪之内のコミバスは大垣市の名阪近鉄バスが担当しており、安八温泉行が4本、途中止まりのザ・ビッグ輪之内行きが1本。平日のみの運行で、土日は運休である【注4】。自転車でめぐっている今回は必要ないが、このバスは「めぐ」に使えるかも知れない。途中の「ザ・ビッグ輪之内」は、後述するが「イオンタウン輪之内」のことで、ここには大共の店舗外ATMもある。私は今回、野寺支店の次に行く予定にしている。

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 【注1】天井川と養老鉄道との絡みは、養老駅以北には存在しない。
 【注2】現在は学習塾に改装されている。
 【注3】2016年1月12日、西濃信用金庫(本店揖斐郡大野町)との合併により、大垣西濃信用金庫となった。以下、現大垣西濃信用金庫の名称は「めぐ」実施日現在の「大垣信用金庫」で統一する。
 【注4】輪之内町のコミバスは2015年1月に改編が行われ、定時運行のバスは夕方に3本だけとなった。日中は予約制のデマンドバス(住民以外も利用可)に切り替わった。
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2017年05月01日

2014.07.18(金)(27)[ヨシヅヤ海津平田店]と十六銀行のこと

 バス停の先にある今尾俵町という交差点から、左前方にヨシヅヤの看板がやっと見えた。あれは店舗の塔屋であろう。やはり、さっき田んぼの真ん中ではるか彼方に見えたのは、この看板であった。その先、今尾昭和町2の交差点角にはタクシーの営業所があった。スイトタクシーは海津市のコミバスを運行しているスイトトラベルのタクシー部門である。タクシー会社の奥に「今尾商店街」というアーチが付いていた。アーチの向こうはさみしい商店街、というかすでに商店街の体をなしていないようだ。
 それはいいが、ヨシヅヤはいったいどこにあるのだろうか。看板はさっき左に見えたのだけれども。さっきヨシヅヤへの道を尋ねた時に、サークルKの店員が信号を「左に入れ」と言ったのは、斜めに入れではなく、左に完璧に曲がれということだったようだ。
 と思ったが、こちらから行ってもやはりヨシヅヤに遭遇した。後で知ったが、ヨシヅヤ海津平田店の敷地は2本の道路に挟まれていて、こちらの道は敷地の西側であった。ヨシヅヤ東側を南北に走る道は、さっき通った「今尾」の交差点につながっている。ヨシヅヤの北隣には平田郵便局があり、集配センターを持つようだ。
 西側でまず目に付くのは十六銀行の看板で、「ATM/十六銀行」と書いてある。大垣信用金庫、大垣共立銀行という看板も見える。敷地に自転車を乗り入れると、建物の南側外壁に共同キャッシュコーナーの自動ドアがあった。制覇目標はここであった。
 キャッシュコーナーは、大共と大垣信金で一つのスペースを仲良く2つに分けて使っている。十六銀のATMは別の場所にあるようだ。機械は大共と信金で1台ずつあって、大共はここへ来ると沖電気のATMが入っている。新型の「バンキット・プロ」だが、手のひら認証対応にはなっていない【注1】。大垣信金の方は、いまとなってはすっかり旧型ATMと化したオムロンJXが1台だけ置かれていた。両ATMとも、母店は今尾支店である。夜のクローズ時間は大共のほかの店舗外ATMと異なり、19時となっていた。機械を操作。10:53、[ヨシヅヤ海津平田店]を制覇した。

 今尾支店ヨシヅヤ海津平田店出張所は、今尾支店4番目の店舗外ATMとして、ヨシヅヤ海津平田店が開店した1994年7月に開設された。当初は十六銀行との共同設置で、長いことATMではなくCDとして運用していた。2001年度中にATM化されたが、その際に大垣共立銀行の単独設置となったようだ。今尾支店の代理店化にともない、母店は2015年2月2日から海津支店に変更された。
 「ヨシヅヤ」の運営会社は葛`津屋といい、愛知県津島市に本社を置く。もともとは呉服店だったが、戦後の流通革命の中でスーパーマーケットを新たな経営の柱とした。CGCグループ加盟で、津島を中心に愛知県南西部に店舗網を広げており、岐阜県にも3店舗を持つ。海津平田店はそのうちの一つで、1994年7月に開業し、2008年夏から秋にかけて大改装を行っている。店舗は2階建てで、屋上駐車場も持つしっかりとした建物である。

 この敷地内には、十六銀行も店舗外ATMを出している。次の目的地へ行く前に、ちょっとだけ見ておこう。岐阜県の金融機関は店舗外ATM小屋の意匠に工夫を凝らしたところが多い。十六銀のATM小屋は紺色のゴツいフレームで、正面出入口の上部に行章をあしらった凸形の赤い看板の付いたタイプが一般的である。そう思って東側の正面玄関横に行ってみると、ここは白い箱型のありふれたATM小屋であった。機械は1台のみ。
 ところで、気になっていることが一つある。さっきスイトタクシーの隣に眼科があったのだが、駐車場に立っている八角形の看板は、輪郭が十六銀行の看板とそっくり同じなのである。銀行の看板は結構堅牢にできているらしく、銀行の拠点が廃止されても看板だけ再利用されるケースも多い。この点からすると、十六銀はかつてここに営業店を出していたが、統合した可能性が高いと思われた。駐車場の柵が真新しいからそこが十六の店舗跡かも知れない。後で調べてみると思った通りで、十六銀行今尾支店は、現在眼科の駐車場となっているスペースにあった。1988年3月に出張所として出店、1994年2月に支店昇格したが、2006年4月高須支店に統合されている。
 なお、今尾支店の統廃合に触れたついでに、ここまで書く機会のなかった十六銀南濃支店についても触れておきたい。同行南濃支店は、近鉄養老線(現養老鉄道)駒野駅の西1kmほど、かつての街道筋と大桑国道が交差する地点にあった。十六銀はこの店が現海津市域で最も古く、1983年12月の開設だったが、2003年10月に高須支店に統合されている。跡地は現在では更地になっている。代替の店舗外ATM[南濃]は、支店跡から150mほど南、大桑国道バイパスに面したファミレス「ココス」の駐車場内にある。こちらのATM小屋は前述した紺色のものである。
 述べたいことはここからである。ココスの向かい側には台湾料理の店があるが、この台湾料理店はかつてはコンビニで、サークルKこまの店といった。大垣共立銀行は、ここに[サークルKこまの店]という店舗外ATMを出していた。大共はサークルKサンクスと提携してコンビニATM「ゼロバンク」を展開しているが【注2】、ここはゼロバンクではなく、平屋建てのコンビニ建築の隣にATM小屋を建てて営業していた。設置は1995年4月、母店は南濃支店であった。2005年度中(夏以降)に廃止されている。

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 【注1】現在は手のひら認証対応の機械が入っている。
 【注2】2017年7月以降、ゆうちょ銀行のATMに順次置き換えられることになっている。
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2017年05月02日

2014.07.18(金)(28)今尾支店を制覇

 次の目的地は、ここ[ヨシヅヤ海津平田店]からすぐ近いところにあるハズの、今尾支店である。
 ヨシヅヤから今尾の中心地に入ってきた。地図で見るとヨシヅヤの西側ということになるが、もう方向感覚が目茶苦茶だった。大垣共立はどこにあるのだろうか。いちおう目抜き通りのような道に入ったから、この近くだろうとは思う。まだお昼前だというのに、小学生が集団下校していくのに遭遇した。考えてみれば、今日は7月18日の金曜日。終業式だったのだろう。
 かつては賑わっていたと思われる商店街だが、店はずいぶん歯抜けになってしまい、商店街というには淋しく感じる。店舗の半分ぐらいは、もうすでに商店ではない。昔は商店建築だったのだろうが、建て替えの時に普通の民家にしてしまった感じの家が多い。残りの半分、商店の形態を維持している建物のうち、さらに開けて営業しているのがそのまた半分ぐらいであった。角の菓子店では饅頭を扱っている。自転車屋とおもちゃ屋は開いている。歯科医が立派な建物、というかきれいな建物を建てている。
 揖斐川の河港として発達した今尾の町は、関ヶ原合戦後間もなくできた今尾藩の中心地で、廃藩置県の際には一時的ではあるが「今尾県」の県庁所在地だった。今尾県は1871年7月(陰暦)にスタートし、1872年1月(陽暦)【注1】に早くも統合されて岐阜県になっているから、わずか4か月の間であった。廃藩置県当初は旧藩をそのまま県としたため、3府302県でスタートしたが、のちに統廃合によって現在のスタイルになったのである。そんな「県都」であった今尾の町は、商店街としては規模が相当に大きかったようだ。今の時代には軒並み建物が歯抜けになっているが、その昔、ここや高須の町に行く時には、正装で行くぐらいの緊張感があったのではないかと思う。なお、今尾については、建物の土台を高く上げている印象は薄かった。平田靱負の名前を採って平田町としていたぐらいの地域であるから、このあたりも水害に襲われやすいハズだが。

 そういう町並みの中に、緑色の縦型看板が見えた。ありました、大垣共立銀行今尾支店。この支店の看板は、建物や柱から袖のように飛び出した袖看板ではなくて、地面から直立している。直立型の看板は最近の流行りのようである。支店の向かい側は「三菱電機ストア」であった。かつてどこの町にもあった、大手家電メーカーのフランチャイズ店。この店は「三菱ビデオファンタス」の看板を付けている【注2】。ファンタスというビデオデッキは、日本テレビ系の刑事ものドラマ『太陽にほえろ!』でCMを見た記憶があるから、1980年代の製品だと思う。YouTubeで検索してみると、1987年頃まではCMがオンエアされていたようだ。
 支店入口の上部には、「大垣共立銀行」という金属製の切り抜き文字が付いている。その並び方が少し気になった。「共立銀行今尾支店」という切り抜き文字を、ひさしの中央にバランス良く付けていたところに、「大垣」の2文字を左に無理矢理追加したようで、危ういと感じられる配列であった【注3】。建物に入ってみると、ここのキャッシュコーナーには機械枠が最初から2台分しか用意されていない。そこが2台のATMで埋まっている。営業店は2台、店舗外ATMだと1台というのが、大共のこの地区での標準的なATM配置のようだ。ATMの機種構成は近所の他支店とまったく同様で、富士通FV20が2台、そのうち1台が手のひら認証対応であった。他店と異なるのは、手のひら対応が左側の機械であることだったが、向かって右側で統一しているわけでもないのだろう。窓口室は結構広かったが、私が覗いた時にはお客は2〜3人しかいなかった。
 例によって制覇作業をしなければならないが、2台しかないATMは1台が点検中で、《作業中、ご利用できません》の札が出ている。もう1台は先客が使っているが、結構時間がかかりそうだ。その間に写真撮影を済ませてしまおうと店の外に出た。正面の大事なところに車が止まっている。持ち主は、と目で追うと、ATMを使っていた。文字に到底できないような言葉を心の中で吐いた。
 数分ののちに、ようやく自分の番が回ってきた。機械を操作。11:14、今尾支店を制覇した。

 今尾支店は、1901(明治34)年1月に七十六銀行今尾支店として開設されたのが始まりで、1928年5月の大垣共立銀行合併により同行の今尾支店となった。当初から現在に至るまで、今尾支店はこの場所にある。一方、七十六銀行と合併する前の大共は、1905年6月当地に今尾代理店を開設し、1910年6月今尾派出所、1912年8月今尾出張所とした。今尾出張所の所在地は大字今尾565番戸ということだが、現在のどこに該当するかは判明しなかった【注4】。今尾出張所は七十六銀行を合併する直前の1928年3月に今尾支店となり、同年5月の合併により旧七十六銀今尾支店に移転した。1935年5月に店舗を改築し、現店舗は1974年3月に新築している。2015年2月、支店から代理店に変更されたのは、海津市内の他の店舗と同様である。
 所在地の自治体名は、1955年2月の1町1村合併により今尾町から平田町に、2005年3月の3町合併により平田町から海津市に変わっている。

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 【注1】陰暦では1871年11月。
 【注2】「めぐ」後間もなく看板類は撤去された。
 【注3】2015年2月の代理店化に伴い、今尾支店の店頭の切り抜き文字は、無塗装金属製からプラスチック製の緑色を入れたものに変わっている。代理店化されなかった高須(改め海津)支店も含め、海津市内の営業店はおおむねこういう感じのようである。
 【注4】「番戸」は建物に対して振られた番号であり、地番や番地などとは違うため、調査がいっそう困難となっている。
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2017年05月03日

2014.07.18(金)(29)今尾から野寺に向かう

 それでは、次なる目的地の野寺に向かおう。ここから野寺支店まで5.08km、21分かかることになっている。
 予定では今尾支店11:17出発で、いまの時刻が11:18だから、ほぼ予定どおり。というか、高須支店を出る時に30分の余裕時間を稼いでいたのに、道を間違えて遠回りしたせいで、全部吐き出してしまったのである。野寺に向かう道のうち、半分ぐらいはいま来た道の戻りであって、それを思うだけで疲労感がかなり増した。
 むなしい行程が続く。〔お千代保稲荷〕のバス停まで戻ってきたところで、どこからともなくウエストミンスターの鐘が鳴り始めた。時計を見るとちょうど11:30であった。さっき小学生の集団下校を見たけれども、今度は中学生の自転車の集団下校に遭遇した。

 今尾から野寺までの中間地点、蛇池の交差点まで戻ってきた。ここから先が、今日まだ一度も通っていない道になる。
 蛇池の四つ角を境に、田園地帯の風景は変わらないものの、道路の様子が若干変わった。今まで黄色のセンターラインだったが、ここから先は白の破線になった。道路のセンターラインは、白の破線は追い越し可、黄色の実線は不可ということになっているが、対面2車線の道路でこの区分は意味があるのかなと思う。私は結構気が短い方だが、それでもこうした道で先行車を追い抜くなど、恐ろしくてとてもできない。追い越しが認められていようといまいと、対向車が来たら一巻の終わりではないか。
 農業機械のディーラーがあった。扱っている商品は、乗って耕すタイプのトラクターなど、大型のものが多いようだ。このあたりの農業はコーンベルトなどアメリカの粗放的な農業にかなり近い形態で、巨大な農業機械に相応しく耕地面積も広い。ディーラーの看板は、逆三角形を3つ組み合わせた原子力マークのようなシンボルマークが付いていて、MASSEY FERGUSONと書いてある。マッセイ・ファーガソンというのは世界的な農耕用トラクターのブランドらしいが、これまでに聞いたことはなかった。販社もエム・エス・ケー農業機械という聞いたことのない会社だが、北海道恵庭市に本社のある三菱商事の完全子会社で、全国展開している。ここは羽島営業所といい、岐阜県唯一の拠点だそうだ。
 その農機ディーラーの隣に、紫色のアメ車がボンネットの先だけ出しているガレージがある。アメ車のラジエータグリルは金色であった。ガレージはトタン波板を張った2台分の箱で、前面が高くて後部が低くなった台形。ボンネットは車体の大きなアメ車だから本当にはみ出しているのだろうが、もし違う種類の車ならわざとらしいと思っただろう。アメ車の横には、ボディマウントのような形にした軽トラックもあって、結構な自動車好きが住んでいるようだ。軽トラでもボディマウントにすればシャコタンに見えるのだが、車を趣味とする人たちがどうしてそんなに車高を下げたがるのか、私には不思議でならない。踏切をジグザグ走行しなくてはならないなど不便なだけだと思うのだが、考えてみれば私も使いもしない銀行口座をたくさん持っているから、それと同じだと思い直した。
 この道の歩道は、まず縁石を縦に並べ、その横にU字溝で水路を作ってコンクリートの蓋をかぶせてある。溝の両側はアスファルトで舗装しているのだが、舗装とU字溝との間のごくわずかなすき間は、セイタカアワダチソウがびっしり生えて並木のようになっている。自転車を漕いでいるとパタパタパタパタ足に当たって、何とも邪魔。わざわざこんな狭いところに生えなくてもと思うが、まあ雑草の生命力はたくましいものである。「雑草」という名の植物は存在しない、と昭和天皇にたしなめられそうだが。

 左に分かれるy分岐があって、羽島12kmという矢印看板が出ている。センターラインを引いていない道が左に分かれていくが、ここを走っていくと野寺に多少近いかもしれない。後で知ったが、この道は野寺を通って岐阜羽島駅へ行く海津市コミバスの経路であった。私は直進する。その先には、卵の直売という幟を出した養鶏業者があった。さっき鶏卵の自動販売機を見たけれども、岐阜県のこのあたりは養鶏が盛んなのだろうか。さらに行くと、川が流れていない橋がある。遊歩道になっているということは、多分川を埋めたのだろう。かつてこのあたりは網の目のように川が流れていたが、江戸時代に始まる治水工事でだいぶ少なくなったようだ。
 蛇池のあたりには、大駐車場完備で建物もかなり大きな個人経営のレストランがところどころに複数あって、ランチタイムには車で賑わっているところが多かった。お千代保稲荷の参拝客は、お参りの前か後に近所のこうした店で食事する段取りのようだ。お千代保さんから離れるにつれて経営の芳しくない店が増えてきたようで、野寺にだいぶ近付いたこのあたりは至るところで飲食店の空き店舗が目に付く。

 前方に堤防が見えてきた。あそこまで行き着くと長良川である。野寺は川の手前だから、どこかで左に曲がるハズだ。はたして、この県道は長良川の堤防にいよいよ近づいたところで左にそれている。白の破線センターラインは、左カーブの手前で黄色の実線に変わった。道と堤防の間は森のようになっている。この道の東側は、羽島市の飛び地で桑原町西小薮という。飛び地という言い方は不正確で、長良川の向こう側にある“本土”と領域はつながっているのだが、川を挟んで事実上飛び地になっているのである。かつての川の流れがここであったことの名残で、大改造された大河川の沿岸にはよくある。
 者結という珍しい地名があった。ものゆいとでも読むのかと思ったが、後で調べてみると「じゃけつ」という。さっき蛇池という地名があったけれども、者結の「者」ももともとは「蛇」で、このあたりの「ジャ」のつく地名はすべて、蛇を神とあがめて信仰するものであるそうだ。
 私がこの者結という地名を知って真っ先に思い浮かべたのは、中川李枝子作の児童文学の傑作『いやいやえん』であった。福音館書店刊の赤い表紙の本には、7篇のお話が収録されているが、そのうちの5番目「おおかみ」に、衣装として「じゃけつ」が出てくる。要はジャケットのことなのだが、本の初版が刊行された1962年頃の外来語の表記が垣間見られて興味深い。別の例を挙げると、私は1968年生まれだが、幼稚園時代に「ビールス」という言葉が普通に使われていたことを思い出す。ウイルスのことであるが、virusというラテン語をどう発音するかによって表記が違ったわけである。それはともかく、「おおかみ」というお話は、《森のおおかみが、はらっぱへさんぽにきました。/おおかみは、このあたたかいのに、赤いけいとのじゃけつをきています。/はらっぱには、だれもいません。ちょうちょうが、白い花のあいだをとんでいるだけです。/かぜがふくと、くさは、こっそりとねむくなるにおいをまきます。/おおかみは、いいきもちでねむってしまいました。》という長閑な書き出しから、一転して幼稚園児を捕まえて食べようとする展開になる。大人の目で読んでも切り替えが鮮やかであると思う。
 蛇足であった。長々と書いてしまったが、蛇神に免じて勘弁してもらいたい。

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2017年05月04日

2014.07.18(金)(30)野寺の集落へ

 またy字分岐があって、羽島方面は直進方向、岐阜南濃線は道なりに左、という案内表示が出ている。この分岐は何らかの形で拠点になるところだったらしく、郊外型のコンビニのような建物が並んで建っていたりする。この三差路のあたりから、これまでなかった歩道が完璧に整備されているのは、セットバックして道を広げる予定でもあるのだろう。民家もだいぶ引っ込んだ奥に建っている。女子中学生がy分岐の横から農道に入って行くのが見えた。後で調べてみると、そちらの道の方が近道だったようで少し悔しいが、知らない道へ迷い込んでタイムロスするわけにはいかない。今日すでにさんざんな目に遭ったから懲りている。
 分岐を左に進むと、幡長宮地(はたおさみやち)という交差点に来た。道はその先で大きく右にカーブしており、カーブの先は堤防上に上がって羽島に抜ける橋につながっている。今回は、その橋は渡ってはいけないのである。もちろん真ん中を渡る選択肢もない。などと下らないことを考えつつ、この四つ角は、直進すると堤防上に上がる県道1号で羽島方面、右折して堤防に突き当たると岐阜と桑名を結ぶ県道23号(北方多度線)である。羽島方面の橋と堤防道路とが立体交差になっている。川沿いを走る道はだいたい堤防の上を走っているのだが、橋に遭遇した時だけこうして堤防から下に降り、橋の下をくぐっていく。大河川を目前にしてダイナミックな景観が広がっているが、矢印看板によると両方とも県道なのであった。
 羽島方面に向かう直進は、大きく右に曲がって堤防上に向かって坂を上がり始めている。坂の上に続く橋は、南濃大橋である。この橋で長良川を越えると、羽島市の大須に出る。大須は、2001年10月まで名鉄の竹鼻線というローカル電車の終点であった。竹鼻線は名鉄名古屋本線の笠松駅から南に延びる支線で、現在はJR岐阜羽島駅前にある新羽島という駅までの運行となっている。竹鼻は羽島市中心部の古い地名である。さっき今尾恵介氏の本の話で触れたけれども、かつては名鉄竹鼻線が海津市域(平田町・海津町)への主要なアプローチで、大須駅前から野寺・今尾を通って高須(歴史民俗資料館)まで岐阜バスの路線が通じていた。岐阜バスは戦時統合で誕生した岐阜県の乗合バス会社であるが、2007年9月を最後に西濃地区から撤退している【注】。海津市コミバスの幹線である海津羽島線は、当時の岐阜バスの路線をベースに設定されている。鉄道がなくなった今、大須を通るルートはほぼ廃れてしまった。私は学生の頃に1度だけ、名鉄竹鼻線で大須まで来たことがある。たしか、大きな無人の木造駅舎にホームが1本だけの終着駅で、この時大須まで来た客は私以外に一人もいなかったと記憶している。
 風の音が続いている。さて、私はどちらの道を行けばよいのだろうか。

 右にカーブしつつ高さを増している羽島方面への道に沿って、堤防上に上がらない側道がカーブの内側にある。少し考えて、私はこの道に入った。
 側道はアスファルトで舗装されているだけで、路側帯などもない。こんな道は車が通ることもないのだろう。側道に入ってすぐ羽島方面のスロープをくぐるトンネルがあった。そこを抜けた先に、雪国、ではなく古い木造建築がたくさん並んだ集落が見える。あそこが、目的地の野寺なのだろう。
 トンネルの先は農道のような道であった。道幅としては車1台が悠々通れるけれど離合は無理なぐらいで、路側帯はかろうじてアスファルト舗装の一番端っこに塗料が塗ってあるかな程度。田んぼの真ん中まで来ると、長良川の堤防のすぐそばに小さな神社の祠のようなものが見える。やはり水害を避けたいためのものだろうか。
 そして、民家の固まっているところで突き当たった。ここから先が野寺の集落らしい。横の田んぼでは、キャタピラの付いた巨大な農業機械が、風圧で何やら噴出している。早くも稲刈りが終わった水田があるのか、脱穀か何かやっているようで、噴出しているのは稲わらのかけらのようであった。この丁字路で右に曲がり、長良川の堤防に向かって進む。すぐ堤防の手前で突き当たり、堤防上に上がる坂道の手前でまた左に曲がった。
 曲がり角には火の見やぐらが立っている。半鐘やスピーカーは付いていないが、すぐそばに防災無線があったりするので、やはり川の動向にはそれなりの警戒をしているようだ。この火の見やぐらは、火の見というより「川見」、川の様子を見るのに使われるのだろう。火の見の横には、「発動機店」とでもいうのか、給油機などが店先に設置されたバイク店がある。というわけで、ここが集落の入口であるようだ。
 集落に入ってくると、古めかしいお寺というか、薬師堂か観音堂のようなものが複数あった。高須の中心部と同じく、至るところに寺がある。崩れかけたような寺もなくはないが、多くは現役のようだ。石垣の上にあずまやを組んだ鐘突き堂が各寺に備え付けられているし、寺の建物自体も相当大きい。高須と同じく真宗大谷派が多いのだろう。一方で、この道は商店建築らしきものがまったくないが、いちおう昔は商店街だったのだろうと感じられた。洋品店が1軒だけ営業している。木造家屋は、木の羽目板ではなくてトタン板を張っているところが多い。白壁の部分が黒い家が多い。それだけ富裕な世帯が住んでいたエリアなのであろう。
 そんな風に自転車を漕ぎ進めていると、いきなり何の前触れもなく大垣共立銀行野寺支店に着いてしまった。住宅地の家と家とのはざまに支店があるような、そんな雰囲気であった。野寺支店の裏は公民館(平田海西公民館)。その奥には土蔵建築のようなものが並び、その間に瓦ぶきの門を構えた邸宅もある。公民館、それから近所にある郵便局の名前「海西」は何と読むのかわからなかったが、1955年に今尾町と合併して平田町になるまで、ここは海西(かいさい)村といった。
 公民館の前が広い駐車場になっており、私は自転車をここに止めた。

 この連載をまとめるにあたって車で一通り同じコースを回り、また自転車では行かなかったところにもいくつか行ってみた。
 長良川の堤防上、南濃大橋のすぐそばに、野寺の集落を俯瞰して見ることのできる場所がある。レストランと地産農産物の直売所を兼ねた「クレール平田」という施設で、旧平田町がつくった“道の駅”。単に道の駅だけでなく、長良川の水位観測カメラのような重要なものも併設されている。朝の8時から営業していて、地域に雇用を創造しているようだ。
 道の駅の裏側に回ってみて、そこから直ちに野寺の集落に降りられることに驚いた。野寺へ行くのに、道の駅まで車で行くという使い方ができる。大型農機がわらのかけらを噴き上げていた場所、大きな農機の格納庫、それに曲がり角にあった火の見やぐらといったものは、ここから真正面に見える。
 農家は大きめの建物が目立つ。北関東によくある養蚕農家の建物から、屋根上の明り取り窓を取り除いたような感じの建物が、あちこちにみられる。上から見おろした野寺は、まさに農村としか言いようのない雰囲気だが、経済的には豊かな地域のようであった。戦前には特に地主階級の多いところだったそうで、終戦直後の農地改革でだいぶ削られたものの、現在も地主の家が多いという。商業こそ全く気配がないけれども、野寺には大垣共立銀行が営業拠点を積極的に置くだけの基盤があるのだろう。

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 【注】大須から海津方面への路線廃止は2002年9月。
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2017年05月05日

2014.07.18(金)(31)海津市全店制覇達成

 野寺支店は、通りに面した部分は平屋建てで、敷地の奥に2階建てを建て増してある。窓口室は平屋の部分であった。駐車場に面した壁面に夜間金庫の投入口らしきものがあるが、利用者がいないとみえてステンレスの器具で塞がれている。それを横目で見ながら支店に入った。
 建物入ってすぐ前がATMで、その左側に窓口室が広がっている。ここ野寺支店に至って、とうとうATMの台数が1台になってしまった。キャッシュコーナーには、手のひら認証対応の富士通FV20が置かれている。
 ATMの横に「近隣のATMご案内」なる手製の地図が掲示してあって、野寺支店の他には[輪之内町役場]と今尾支店だけが書かれていた。[イオンタウン輪之内]と[ヨシヅヤ海津平田店]は書かれていなかったが、そこから察すると、イオンタウンはともかく、ヨシヅヤも比較的新しい拠点であるようだ。それから、ヨシヅヤそばのカーブと思しきところに「十六銀行」と書いてあり、テープで消してあった。廃店になった今尾支店であろう。
 消されているとはいえ、大垣共立銀行の中の人が作った略図に「十六銀行」の名前が書いてあるのは、興味深く思った。大共と十六銀行の2行は、岐阜県に明治期から続く銀行であるが、銀行としての規模(預金残高など)や岐阜県内でのシェアは十六銀の方が大きい。しかし、戦前には大共の方が大きいこともあった。十六銀の後塵を拝す形になった大共は、強烈なライバル意識をもって十六銀に対峙してきたという。その象徴的な事例としてよく引き合いに出されるのが、大垣市中心部の郭町にある大共の本店ビルの話である。1973年6月に竣工した大垣共立銀行本店は17階建てで、「16を上回る」という強烈な意志が込められているとされる。もちろん、こんな話は当の大共では明確に否定しているのだが【注】、こういう話が「さもありなん」としてまことしやかに語られるほど、大共の十六に対する対抗意識は強かったのだろう。もっとも、この近所に十六銀の店舗はないし、ATMさえ1台しかないような農村部の支店では、現場で利用者利便を考えた場合、そんな行内の競争意識など無用であろう。だから私は、ここに「十六銀行」の文字が入っていたことを高く評価したいと思う。
 そんなことを考えながら、ATMを操作する。11:51、野寺支店を制覇した。

 野寺支店は、七十六銀行野寺支店として1917(大正6)年1月に開設された。1928年5月の大垣共立銀行合併の際には、支店ではなく出張所として引き継がれることになり、今尾支店野寺出張所となった。1950年10月野寺支店に昇格、1955年2月町村合併により所在地は海西村から平田町となった。1967年5月に土地改良工事完成に伴う地番変更が行われ、所在地は平田町野寺字川田1299となった。この場所は、「めぐ」当日に使われていた支店建物の東80m、商店横の現駐車場であるようだ。1970年9月に字川田1362に新築移転、これが本日訪れた店舗である。1978年11月、野寺支店は今尾支店野寺特別出張所となったが、1987年9月支店に再昇格した。1978年に始まった特別出張所の制度により、大共は野寺支店を廃止して代わりに高富支店(山県市)を開設している。特別出張所は、不採算ではあるが銀行としてその地区から撤退したくない場合に多く用いられた制度のようだから、野寺支店の位置付けがこのあたりからも読み取れる。
 2005年3月、海津郡の3町合併により自治体名は平田町から海津市へと変わり、そして2015年2月2日の代理店化を迎えることになる。野寺支店は代理店化と同時に集落の外側に移転し、新しい野寺代理店は新築店舗で営業を開始した。新店舗の所在地は、海津市平田町野寺字川田1215である。
 沿革で触れた土地改良事業について解説を加えておこう。輪中地域での土地利用上の特徴として、江戸時代中期に始まった「堀田」というものがあった。輪中内の水田は、水が多すぎて常に水に浸かった状態になるので、農地を1〜1.5mほど櫛形に掘り下げ、掘った土で掘り残した部分を盛り上げて、その盛り土部分で耕作する。掘り下げた水たまり(掘りつぶれという)は四水六土といわれ、農地の4割ほどを占めるところもあった。盛り土の端が特に崩れやすく、掘りつぶれを定期的に浚渫して端を固めるのは大変な重労働であったという。これをなくして近代的な水田に生まれ変わらせたのが、戦後行われた土地改良事業である。輪中内で余った水を排水するためポンプ場を建設し、あわせて長良川や揖斐川を浚渫して得た泥で掘りつぶれを埋め立て、区画整理も行って、大形で長方形の乾田に姿を変えた。戦後1949年に土地改良法が施行され、1953年から国と県が排水機を設置して埋め立てを開始、昭和30年代のうちに改良工事は終了した。

 これで、海津市の全店制覇を達成した。ここで終わりにしてもキリが良いのだが、「大共めぐ」の旅を続けよう。次の目的地は[イオンタウン輪之内]である。海津市を離れて安八郡輪之内町に入る。
 制覇作業の後、窓口室のカウンターに歩み寄った。地元の人なら近道を知っているだろうから、イオンへの道を教えてもらおう。中年の女性行員がお相手してくれた。支店前の道を郵便局の方に行けばいいらしい。いろいろ詳細に教えてくれたが、要するに、郵便局の先で左折し、右に曲がって左に曲がれば良いようだ。
 だいぶ疲れてきているのか、少し足がよろついた。道を聞いた窓口さんが「ご苦労様です」と労ってくれた。

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 【注】当時の頭取土屋斉氏は、20階建てにするつもりだったが大蔵省の指導で17階に縮小したと語っている。足利銀行の頭取から、階数は多目に申請しておいた方がよいとのアドバイスを事前に受けていたという。
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2017年05月06日

2014.07.18(金)(32)代理店のこと

 2015年2月の海津市内4店代理店化に伴い、野寺支店は店舗を新築して移転した。代理店化により最も大きく形が変わったのが、野寺支店ということになる。ここでは少し脱線して、代理店化3か月後の2015年5月に現地を再訪した時のことをまとめておくことにしよう。
 野寺の大垣共立銀行は、集落のはずれにある田んぼの真ん中に移転していた。海津市と岐阜羽島駅とを結ぶバス道路の四つ角である。ここは「めぐ」の当日にも通っているハズなのだが(後述する)、大共の移転先であるこの場所については何があったか覚えていない(元は水田だったのだろうと思う)。銀行のホームページで「移転する」とは一言も告知されなかったので、旧支店を訪れて店頭の貼り紙で初めて知って驚いたのだった。野寺で商売するのであれば、水田地帯の真ん中の目立つ角でよいのだろうが、野寺という地区での新築移転そのものが、非常に大胆であると思った。
 新店舗は大駐車場完備の平屋建てで、シルエットとしては郊外型のコンビニに似ている。敷地は四つ角の南東角。ちなみに、北東角は酒店とその駐車場、北西角はエディオンのフランチャイズの家電店、南西角は水田である。大共の駐車場は身障者用を含めて13台分。それとは別に車寄せもあって、駐車スペースには相当の余裕がある。店舗の横にある小さな小屋は、自転車置き場だろう。
 表の屋号表示は「OKB野寺」としか出ていない。大垣共立銀行という文字看板は全くなく、かろうじて入口自動ドアのガラスに「OKB大垣共立銀行野寺代理店」と白い文字で書いてあるだけだ。大共はここ数年、銀行名より「OKB」という愛称名を前面に打ち出してきている。共立総合研究所などいくつかの系列会社は、すでに「OKB××」という形に社名変更した。大垣という地方都市の名前を冠した銀行名では商売しにくい、という声が行内に根強くあり、土屋嶢頭取も就任時に行名の変更を検討すると宣言していたから、それに対する長年の検討結果が「OKB」という愛称名なのだろう。名称としては「OK」に通じる良い名前ではないかと思う。
 ATMは入口の自動ドアを入ってすぐ左側で、移転とともに機械が2台になった。2台とも手のひら認証つき富士通FV20である。外装も含めて茶色主体でシックな色遣いの店舗は、最近はやりのサロン風。2人がけのソファが3つか4つ置いてあり、液晶テレビでPRを流していて、クラシック音楽が流れている。窓口の相談ブースとは別に、個室の応接室が奥の方にあるようだから、法人店舗によくあるようなスタイルである。野寺地区には富裕な顧客が多数いるのだろう。そうでもなければ、この時代に多額の設備投資はしないと思う。なお、店内には自由に使えるトイレもあった。銀行でこれは案外珍しい。
 野寺以外の代理店は、旧来の建物をそのまま使用している。ただ、法人関係の業務などをすべて海津支店に移管したこともあって、人員は4店舗合わせて23人も削減されている。このため、特に支店(野寺を除く)だった代理店では、スペースに相当の余裕ができたようだ。今尾支店は広い窓口室を持っていたが、代理店化に伴い什器は撤去され、白い鉄板でパーティションを行い、カウンターだったところは広いじゅうたん敷きのスペースに変更されている。

 ところで、「大共めぐ」を楽しむ者としては、代理店は“1粒で2度おいしい”拠点となった。この時代理店化された4店舗(南濃・今尾・野寺各支店、駒野出張所)は、ATMと窓口とが別々の営業拠点になったからである。野寺でいうと、支店時代に野寺支店が直接管理していたATMは、代理店化後は「海津支店野寺代理店出張所」という店舗外ATMとなり、通帳の取扱店名記帳も<野寺代理店>になっている。窓口での取引は「野寺代理店」として<野寺>と表示されるから、大垣共立の代理店は、「めぐ」の立場からは1か所の訪問で2か所分の制覇ができるわけである。
 加えて、4店は代理店化と同時に窓口の営業時間が夕方4時までに延長された。高須支店改め海津支店が従来通り3時までであるのがよくわからないが、窓口で取引しないと制覇できない代理店が、3時で閉まらず4時までやっているのは、喜ばしい。
 私が訪れたのは、朝8時台のことであった。女性の行員さんが2人、朝の掃除をしていた。一人は店の前の生垣に水やり、もう一人はキャッシュコーナーで掃除機かけ。生垣のツツジが満開だったのが印象的であった。代理店の行員は、代理店を運営する全額出資子会社のOKBフロント鰍ノ大共の本体から出向する形になっている。なお、海津市内4店の代理店化まで、店舗をまたいだ振り込みは別の支店扱いであったが、代理店化後は海津市内については全て「同一店扱い」となった。

 少々蛇足になるが、野寺代理店訪問の際に見た光景をここで一つ書き残しておきたい。
 前述したとおり、銀行では一般に(大共に限らず)、朝に行員が総出で掃除をしている。私が訪れた時、キャッシュコーナーにいた女性の行員は、何やら掃除機で一生懸命吸い取っていた。見ると、ATMそのものに掃除機をかけているのであった。野寺代理店のATMは富士通のFV20型だが、この型の機械は前面に蛍光灯が入っていて、稼働中は常に白く光っている。そこに羽虫がびっしり入り込んでいたのである。なるほど、田んぼの真ん中で夜9時まで煌々と明かりがついていると、虫を招き寄せることになるのだ。毎朝の掃除がかなり大変だろうなあと思った。厨房の出入口によくある、紫外線ランプを使った殺虫灯をキャッシュコーナーの天井に付けたら、少しは違うのではないだろうか。
 ATMという機械は、田園地帯で使うことを想定していないのだろう。虫が来るのは仕方がないとしても、機械の中に入ってしまうというのは、メーカーにはわからない現場の実情ではないだろうか。それで思い出したのが、2012年5月に沖縄へ行った時のことである。地元のトップ地銀、琉球銀行の店舗に入ったところ、ATMでの硬貨の扱いを中止している旨が店内に掲示されていた。その理由が、ATMの硬貨ユニットが故障しやすいためということであった。沖縄県内ではアメリカ合衆国の硬貨が大量に流通しており、特に10セント硬貨(ONE DIME)はATMメーカーの想定以上に薄くて小さいため、投入されると即ATM停止になるのだという【注】。ATMの硬貨ユニットが故障しやすいというのは私も別のところで聞いたことがあり、沖縄県以外でも硬貨の扱いを廃止した銀行がある。本州地区のそれも営業店でATMの硬貨取扱を廃止するのは怠慢だと思うが、米国軍人や軍関係者の多数いる沖縄では“そんなの目じゃない”ぐらいに壊れるのであろう。
 こういう具合に、ATMメーカーには銀行の現場のことが把握されていないわけである。刑事ものドラマで「事件は現場で起きているんだ」というセリフがあったけれども、現実に即して対応しなければならない現場はやはり大変であるのだなあ、との思いを新たにした。

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 【注】連載作成のため、ATMを10か所ほど試してみたが、10セント硬貨を投入してATMが停止したケースはなかった。ただし、機種によっては、計数に通常より時間のかかるものがあった。これとて、繁忙な時間帯で連発したら影響があるかもしれないが、投入して機械が「即停止」するほどチャチなものでもないようである。
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2017年05月07日

2014.07.18(金)(33)これは輪中堤である

 2014年7月18日の「めぐ」に戻る。
 野寺支店前の四つ角から北に進む。海西郵便局の真裏は仏教寺院で、現役らしき鐘突き堂が見える。郵便局の北隣は海西警察官駐在所で、“村の駐在所”といった感じがする。突き当たって左に曲がり、長良川の堤防を背に、対面2車線で白色破線センターラインの道を西に向かうと、JAにしみのの野寺支店。JAの建物は築10年ぐらいは経っていると思うが、新しそうに見える。駐在所といい農協といい、鄙びた農村のイメージを醸し出す言葉であるが、建物からは「鄙びた村」というイメージは全く感じられなかった。
 その先の信号で今度は右に曲がって、真っすぐ北進する。この四つ角は前述の野寺代理店が新築された角である。北に向かう道も、これまでと同じ対面2車線白破線センターラインの道だが、ここは海津市の幹線となる岐阜羽島への路線バスが通る重要な道である。このあたりの農地は水田と畑が半々ぐらいで、水田の比率がちょっと下がっているのは高須や今尾近辺と比べると標高がやや高いせいだろう。そう思ったところで、北に向かってちょっと地形が下がり、水田ばかりになってきた。道路は田んぼの真ん中を直線的に突っ切って続いている。柵で厳重に覆われた用水路を越えた。

 〔勝賀西〕というバス停の先に、木がたくさん生えた緑の帯が見えてきた。堤防だろうか。あそこに向かってまた少し上り坂になっているようで、あの緑の帯が地形としての頂点であるようだ。
 軽い上り坂を上がり切ると、そこは思ったとおり堤防のようであった。かなり古い時代のものらしく、樹木の生え方などは自然な印象であった。堤防の向こうに川らしきものはなく、ただ道路の部分だけ切り通しになっており、それを抜けたところから今度は下り坂が始まっている。切り通しの切り口には石垣が築かれ、その中央には縦に2本スリットのついた意味ありげなコンクリートの構造物がある。一方、路面には四角い鉄板が4枚置かれていて、その部分もアスファルト舗装ではなくコンクリで固められている。堤防の上には、海津市のマークを付けた倉庫らしき建物が建っている。
 何だこれはと思ったが、コンクリの構造物、そして堤の上の倉庫でピンときた。あの倉庫の備品を使って、この切り通しを塞ぐのではないか。そういえば、さっき野寺支店の窓口さんは「ワジューテーを越えて」とか何とか言っていた。何かを「越える」のはわかっていたが、いま一つピンと来ていなかった。そうか、これがその「輪中堤」なのか。
 輪中堤というのは、要は堤防である。ただ、川に沿って築かれている通常の堤防とは異なり、ここに“河川”はない。この堤防は、近所を流れる大河川の堤防が大雨などで決壊した時に、流れ込んでくる大水を食い止めるためのものである。いま走ってきた道路は輪中堤と直角にクロスしているが、通常の堤防のようにスロープで上に上がって越える形ではなく、切割(きりわり)といって道路の部分だけ切り通しになっている。
 道の真ん中に置いてある鉄板は、H形鋼のような柱を立てるための穴に、蓋がしてあるのである。切割を閉め切る際には、路面の蓋を外して穴に柱を立て、H形鋼の柱の凹みと、堤防のコンクリのスリット部分とに板を渡してはめ込む。さらに、その周囲に大量の土嚢を積んで、濁流の襲来に備えるわけである。堤の上の倉庫は水防倉庫で、ここに輪中堤を閉め切るための資材や道具が常備されている。倉庫には合併後の海津市の市章が付けられており、忘れられた施設でないことがわかる。
 今回の場所とは異なるが、輪中堤が威力を発揮したのが、1976年9月12日に起きた集中豪雨の時であった。今も「安八豪雨」の名で語り継がれているこの集中豪雨では、輪之内町の北に隣接する安八町で長良川の堤防が決壊し、下流側の輪之内町は、安八町との境界にある輪中堤の切割をすべて封鎖した。安八町では、この水害によりほぼ全域が水に浸かり、最大湛水深は3mにもなったが、輪之内町は難を免れた。輪中堤は高度成長期以降はモータリゼーションの進展で邪魔者扱いされ、切り通しにして道路を通したところも多かったが、安八豪雨以後はその威力が見直されて現在に至っている。
 ここにある輪中堤は、濃尾平野の輪中で最大面積を誇る、高須輪中の最北端である。海津市の東半分、旧海津町と平田町を合わせた領域が、そっくりそのまま高須輪中の範囲となる。もともとは大榑(おおぐれ)川という河川の堤防であった。大榑川は江戸時代初期につくられた人工河川で、明治以降に大規模な治水工事が行われて廃川となった。木曽・長良・揖斐の3つの川のうち、東の木曽川が標高の最も高いところを流れており、西端の揖斐川が最も低い。このため、東側の川で大水が出た時は、放水路を使って西側に分ければ水量が減るわけである。大榑川はもともとこのような目的で、長良川の水を揖斐川に分けるため造られたのであった。ただし、今度は揖斐川での水害が多発するようになったため、前述した宝暦治水の際、長良川との分岐部分に洗堰【注】が造られた。結局これも水害の除去には不十分で、抜本的な改善は明治期に外国人技師のヨハネス・デ・レーケによって濃尾三川が分離されるのを待たなければならなかった。大榑川もデ・レーケの指示により封鎖された。

 東京在住の私が輪中堤を越える経験は、「大共めぐ」をやらない限りできなかった。私は、銀行めぐりをやっていてよかったと、知的好奇心を満たす喜びを噛みしめていた。

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 【注】洗堰(あらいぜき):川をせき止める堰の一部を低く切り欠いて、大水が発生した時その一部を堰の向こうに流すことで、水位を下げるためのもの。宝暦治水では、揖斐川流域の住民は大榑川を完全に締め切りたかったが、長良川流域から強い反対が出たため、長良川の水が増えた時に水を分ける洗堰で合意した。
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2017年05月08日

2014.07.18(金)(34)海津市を離れて輪之内町へ

 この自転車ツーリング、始めた時は何となく余裕があったけれども、海津市域の制覇が終了したこの時点で、すでに周辺を描写する気力が失われ始めている。自転車を漕ぎ出すにもヨタヨタして、足が引っ掛かったりするぐらいで、消耗が目立ってきた。これはマズいと思ったが、道程はまだ半分しかこなしていない。疲れている場合ではなかった。
 輪中堤の北側は、切割から坂を下りてくると広い水田地帯になっている。ここは昔の川底である。前述したとおり大榑川は明治期に廃川となり、跡地は干して水田になった。ただし、米を作っている面積は今となってはだいぶ少なくなってきているようだ。
 また少し上り坂になった。陸地として微妙に高いところは、昔から人が住んだり畑にしたりしている。雑木林の端に、真っ黒に成熟したドドメが多数なった木があった。野生もしくは放置された桑の木だろう。私が小学校生活を送った昭和50年代前半の群馬県前橋市ではまだ養蚕をやっていて、桑畑も残っていた。当然ドドメの味も知っているから、結構美味そうであると感じた。それから、この交差点の界隈ではカキの栽培をやっている。言うまでもないがオイスターではなくパーシモンの方。西濃地域は富有柿の栽培が盛んである。
 輪中堤から数分で、東大薮という交差点に来た。角には農家の直売所みたいなプレハブ小屋が建つ。みたいなというか、農産物の直売所そのものである。野寺支店の窓口さんは、輪中堤の次の信号で左に曲がると言っていた。この四つ角は、すぐ東側にy字分岐を持つ。長良川の堤防上から対岸に渡る大薮大橋への道と、川沿いの堤防道路につながる道とに分かれている。大薮大橋の先は羽島市である。ここで右折して太い道(県道30号羽島養老線)を真っすぐ行くと羽島へ、細い道に分岐して堤防道路を北に行くと岐阜・墨俣へ、南へ行くと木曽三川公園・海津へ抜けられる。交差点のすぐ東に矢印看板があるのでわかった。なお、墨俣(大垣市)は豊臣秀吉の「一夜城」で有名な町である。
 四つ角の少し南側で、海津市を離れて輪之内町に入っていた。さっき美味しそうなドドメの木があったあたりが市町界である。

 私は東大薮で左折して、県道30号羽島養老線を西に進んでいく。いま通っているのは、対面2車線白破線センターラインで、歩道が完備された広い道である。道の南側は畑、北側は休耕田。道路際の畑で栽培しているのはサトイモ・カボチャ・ナス・トマトといった、ある意味平凡な作物のようだ。畑や休閑地は道路の拡幅用地だろうか。ちょっとしたお墓もあった。「墓地」ではなく、1〜2人分ぐらいの墓石しかない“お墓”である。
 小学校(大薮小学校)が見え、〔大薮西〕というバス停があった。ここに来るのは名阪近鉄バスの輪之内羽島線で、輪之内町役場の隣にある輪之内文化会館と岐阜羽島駅とを結んでいる。次の停留所が〔イオンタウン輪之内〕だそうだから、もう目的地はさほど遠くはないハズだ。このあたりから、背の高いショッキングピンクの看板が見える。色からしてイオンのものであることは間違いない。おそらく、通りに面したところに立っているものだろう。
 この大薮地区には、明治期から太平洋戦争中まで大垣共立銀行が出店していたことがある。1899(明治32)年9月に大薮支店を開設、その後代理店→派出所→出張所と変遷を遂げ、1928年3月再び大薮支店となった。1936年2月出張所に格下げ、そして1944年5月に廃止となっている。所在地は安八郡大薮町大字御寿字大薮65番戸【注】である。道の北側、大薮小学校を中心とする大薮の集落内にあったと思われるが、それが現在の住所でどこにあたるかは残念ながら判明しなかった。明治・大正期の大共は農業金融が主体であり、大薮には米の産地として代金の授受などを目的とする支店が置かれていた。

 大薮の西側、上大榑の四つ角にやって来ると、「クロスタニン」「一生健康」などと大書した、2階建ての工場のような建物がある。全面化粧タイル張りで温泉センターみたいな建物であるが、よく見ると1階にシャッターが付いていたり、荷捌き所のようなものがあるから、やっぱり工場である。そういえば、さっき野寺支店の窓口でも、イオンへの道を説明するのにクロスタニンという言葉を使っていた。後で調べてみると、ここは1995年3月にできた健康食品の工場である。たんぱく質含量が高い、クロレラ属の淡水性単細胞緑藻類を製造しているという。
 このクロスタニンの前から、右の方に「BIG」と書いたオレンジ色の看板が見えた。さっきから見えているのはロードサイドの看板だと思うが、こちらは建物の塔屋だろう。こんな田園地帯に、よくショッピングセンターなど作ったものである。手前が一瞬森のようになっているが、あれは何だろう。イオンが買おうとして買えなかった土地だろうか。
 私は自転車を漕ぎ進める。道端の畑では、農婦が一人黙々と草取りをしていた。

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 【注】「番戸」で現在地を推定するのが困難であるのは前述のとおり。安八郡大薮町は1954年4月に2村と合併し輪之内町となった。
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2017年05月09日

2014.07.18(金)(35)[イオンタウン輪之内]を制覇

 イオンのショッピングセンター「イオンタウン輪之内」にようやくたどり着いた。正確には、敷地南東の端っこにたどり着いただけであるが。なお、手前の森だと思った部分は、敷地の端に植えられた木が成長しただけであった。
 ここは、平屋建ての郊外型ショッピングセンターである。したがって敷地面積はやたらに大きい。敷地は県道羽島養老線の北側にあり、県道に面したところに「イオンBIG」と大書した建物が建っている。大垣共立のホームページによると、店舗外ATM[イオンタウン輪之内]はザ・ビッグの北側だそうなので、敷地のはるか奥にイオンの大きな建物が見えるけれども、そこまでは行かなくて済む。目の前に建つBIGの建物に沿って、自転車で走って行けば良いわけだ。それにしても、「イオンBIG」というのはどんな業態だろうか。
 BIGの西側にあるメインゲートから敷地に入った。ゲートの脇から建物に沿って、屋根付きでインターロッキングの歩道が整備されており、歩行者と車のエリアを明確に分けている。通路は途中で二股に分かれていて、車は左の方に行くことになっている。駐車場入口に掲示が出ていて《調整池兼用のため大雨時場所により30センチ以上冠水します、進入にご注意ください》とあった。言われてみると、駐車場の敷地は県道より低くなっているようであった。メインゲートの横はガラスの温室のようになっており、多分かつてはここで園芸用品とか花とか扱っていたのであろうが、封鎖されていた。
 自転車の私は、歩行者のエリアである右側に勝手に入ってきた。建物に沿って走ってくると、BIGも結構大きな建物のようだ。このSCは、平屋建ての建物が複数コの字形に並び、コの字の内側に駐車場がある。南東隅は前述のとおりイオンBIG、その北側には南北に細長い建物が1棟。北端に東西に細長い建物が1棟つながり、さらにその西側にイオンの大きな建物がある。
 「イオンBIG」は、特に変わったところのないスーパーマーケットのようであった。BIGの建物に沿って走ってくると、角を曲がった北端にメガネ店(メガネスーパー)がある【注1】。空きテナントがいくつかあって、ゲームセンターと靴屋、百均(ダイソー)があって、それでこの建物は終わりである。テナントが歯抜けになっているのはともかく、駐車場はインターロッキングの端の方が少し崩れているし、駐車スペースに引いてある白い線もだいぶかすれてきている。小さな紙切れが1枚、風に舞っていた。
 メガネ店の横、壁面東端に、見つけた。共同キャッシュコーナーの自動ドア。キャッシュコーナーは、建物に囲まれた一角にあるという印象であったが、いちおう「キャッシュコーナー」という赤い立体文字が白いパラペットに取り付けてある。中に入ってみると、手前からゆうちょ銀・大垣共立・十六銀・大垣信金・JAにしみのの順でATMが並んでいる【注2】。共同キャッシュコーナーには金融機関6機関分のブースがあるが、一番奥はシャッターが閉まっており、使われていない。入口側から2番目にある大垣共立銀行ATMの母店は今尾支店で、手のひら対応のFV20が1台のみ置かれていた。利用客が一番多いのは、大共ATMのようであった。機械を操作。12:29、[イオンタウン輪之内]を制覇した。

 今尾支店イオンタウン輪之内出張所は、イオンタウン輪之内ショッピングセンターのグランドオープンに合わせて1998年10月に開設された。今尾支店管内では最も新しい店舗外ATMである。2015年2月、今尾支店の代理店化に伴い、母店は海津支店に変更された。
 輪之内町は安八郡に属する町で、北に隣接する安八郡安八町には、大共の安八支店がある。そちらを母店とせず今尾支店を母店にしているということは、大共は輪之内町を海津市の影響下に置いていることになるが、これから行く[輪之内町役場]も今尾支店が母店なのだろう。実は、輪之内町と安八町は仲があまり良くないらしい。前述した「安八豪雨」の際、輪之内町が輪中堤の切割をすべて閉め切ったことで、安八町は洪水の水深が深くなり、水害がより酷いものになったからである。自然条件の厳しいところでは、こうした自然との戦いに伴って集落同士で感情がもつれることがままあるようだ。水の少ない地域での水争いなどもそうだが、古くはそれが作物の収穫の有無から生死に関わってくるだけに、深刻である。
 ところで、通帳記帳をかけてみると、ここの店名表示は<イオンタウン>となっている。大共には「イオンタウン」と付く店舗外ATMが、輪之内のほか養老・大垣・各務原と全部で4か所ある。他の店と重複することはないのだろうか。

 さて、前述したように、このSCは複数の平屋建ての棟で成り立っている。敷地の一番奥にある棟が最も巨大に見える。この棟の東側に〔ザ・ビッグ輪之内店〕という輪之内町コミュニティバスのバス停があった。私が把握しているこのSCの名前は「イオンタウン輪之内」であって、BIGは敷地東側の建物だけのハズだ。しかし、どう見てもこちらの建物がこのSCを代表するような位置にあって、バスの発着スペースなども用意されている。
 どうも様子が変であった。一番奥の巨大な建物は、入口横の掲示板も真っ白だし、営業している様子が見えないのである。買い物ができるのか。そういえば、BIGのオレンジ色の看板は、結構新しい。ということは、逆に「ザ・ビッグ」という名前の方が新しいのかも知れない。
 そう思って見直すと、思ったとおりであった。敷地北側の大きな建物は、隅の方でソフトバンクのケータイ店1店だけが営業しているが【注3】、それ以外の部分は出入口にコーンをたくさん並べて封鎖している。閉鎖された店舗は、食品スーパーの「マックスバリュ」として営業していたようだ。《第一種大規模小売店舗 設置者名ジャスコ株式会社 表示年月日平成9年7月7日》の表示があった。なるほど、ここは「イオンタウン輪之内」として開業したものの、戦線縮小したのだろう。表の駐車場入口横に立つ看板だけは「イオンタウン」のまま残っているが。
 イオンタウン輪之内SCは、オープン時点では売り場面積12600u、コンクリート平屋建ての5棟で、650台が収容できる屋外駐車場を備えていた。輪之内町を中心に、輪中地帯という限定されたエリアに商圏を設定したのが特徴で、当初は毎週火曜日を定休日としていた。店舗は衣類など日用品のディスカウントストア「メガマート」と、食料品スーパーの「マックスバリュ」を中心に、町内の2店を含む9つの専門店が出店してスタートした。年商は専門店を合わせて55億円を見込んでいた。
 輪之内のイオンが大きく動いたのは2011年の秋から冬にかけてで、この年の10月に日用品を扱っていたメガマートが閉店。その店舗跡を改装し、12月にオープンしたのが現在の「ザ・ビッグ輪之内店」である。ザ・ビッグは食料品ディスカウントストアと呼ぶべきもので、一品あたりの入荷数量を増やし、商品は段ボールのまま大量陳列して補充回数を減らし、コストを抑えている。同じ敷地の中にあったマックスバリュは、ビッグの開店2週間ほど前に閉店したとみられる。

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 【注1】「めぐ」後間もなく、2014年夏に撤退した。撤退跡には町の福祉協議会と観光委員会がサロンを兼ねた観光案内所を設置している。
 【注2】ゆうちょ銀行はその後撤退した。
 【注3】その後撤退した。なお、同じ棟と見えたのは別棟と判明した。
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2017年05月10日

2014.07.18(金)(36)役場に向かって走れ!

 さあ、次の目的地[輪之内町役場]へ向かおう。ここから2km強、9分ほどでたどり着く予定である。
 イオンタウン輪之内の西側を県道(219号安八平田線)が南北に走っており、輪之内郵便局とファミリーマート(輪之内町店)が隣り合っている。柵で囲まれた郵便局の敷地に郵便車が止めてあるから、この局は配達業務を行っているのだろう。ファミマは盛況のようだったが、イオンタウンの中でコンビニをやった方がまだ相乗効果で集客できるのでは、と一瞬思った。イオンの施設にコンビニが入るとしたらミニストップになるハズだから、ファミマではあり得ない。なお、イオンの駐車場の外れに、店舗外精米機が見えた。
 ファミマに入って、「ファミチキ」を1つ買い食い。ついでに雑誌売り場で地図を立ち読みした。さっき地図なしで押し切って大失敗したから、今度はかなり慎重になっている。地図によると、輪之内町役場は県道羽島養老線をさらに西に向かい、川に遭遇したところで左に曲がれば良いようだった。役場のそばにはJAのカントリーエレベーターがあるそうで、これが目印となるだろう。このあたりは使われている農機も巨大だし、カントリーエレベーターもある。こんな雄大な、北海道のような農業経営が岐阜県で行われているとは、この地に来るまで想像できなかった。濃尾平野は古くからの農業地帯であって、前述したとおり設立当初の大垣共立銀行は、米の売買代金決済のため西濃地区各地に支店を置いていた。最近でも、系列シンクタンク内に農業専門の研究所や実証農場を開くなど、大共はアグリビジネス振興に力を入れている。

 ファミチキを1枚食べただけだが、かなり元気が湧き出た気がした。行動再開である。
 郵便局やファミマの南にある、西之川という交差点で右折した。相変わらず県道30号羽島養老線を西に進む。何を栽培しているのか知らないが、続く水田地帯の中に温室があった。少し風が出てきたようだ。
 走ってくると、地図に出ていたとおり用水路のような川があったので、そこに架かる橋のたもとで左に曲がる。さほど大きな川ではないが、とにかく川沿いに南に進んでいくと、左手に町役場があることになっている。川の名前はさっきファミマで見た地図に書いてあるのを見たが、忘れてしまった。後でチェックすると、中江川ということであった。高須で遭遇した大江川の親戚であろう。
 川沿いの道は、対面2車線白破線センターライン。歩道こそ整備されていないものの、路側帯が車道の幅ほど広く取られている。白緑色のガードレールで隔てられた川は、流れがほとんどなく、濁った水がよどんでいる。このあたりは低地で標高差がないから、揖斐川をはじめとして、どの川を見てもほとんど流れていない。ガードレールのガードの部分は、工事現場の足場用と同じぐらいの太さのパイプを3本、丸柱に取り付けたスタイル。ただ、ここはちゃんと塗装をして全体を白緑色にしてある。
 護岸工事は昭和40年代の施工だろうか。結構古い時代になされたようで、コンクリの構造が簡素である。護岸上部とアスファルト舗装との間にある土の部分には、樹木が複数植わっている。自然の木かと思ったが、よくよく見ると木の種類は一定しており、さらによくよく見ると土管のようなものを立てた中に土を入れて木を植えているようだ。土管は相当に泥だらけで苔むしてもおり、木が生えていない空の土管もある。下に目をやると、水の中に何やら生き物がいるのが見えた。
 田んぼの真ん中に、住宅が何軒か固まって建っている。その向こうには、たしかにカントリーエレベーターらしきものが見える。そばにある4階建てぐらいの建物が町役場なのであろう。手前の住宅地には一戸建て住宅が十数軒、それから一戸建てとテイストが同じ集合住宅が2〜3棟見られる。この界隈の土地は、サブリース会社の大東建託がまとめて開発を請け負ったように見える。田んぼの真ん中にこんなに賃貸住宅を建てて、部屋が埋まるのだろうか。
 相変わらず水田地帯が続いているが、道路に面した土地は休閑地が多かった。耕作している土地が隣にあると、休閑地にも遠慮なく水が入って来てビチャビチャになる。役場だと思った5階建ての建物は、輪之内ビラという介護老人保健施設であった。クリニックが併設されているという。入居している老人専用の医療施設なのかも知れない。

 これまでずっと川の東側を南進してきたが、「輪之内町役場左」の矢印看板が橋を渡った向こう岸(西岸)に立っているのを見た時、私は一瞬頭がくらくらした。役場は川を渡った西岸側にあるのだろうか。リサーチと明らかに違うが、まあ現状優先にするのがこうした場合の大原則だろう。私は橋を渡った。
 西岸側の道は、車は通れなくはないものの少し幅が狭まり、対面2車線でもなくなった。アポロンスタジアムという野球場の前まで来ると、川を挟んだ向かい側に巨大なカントリーエレベーターが見えた。「JAにしみの」と大書してあるから、今日何度も遭遇している西美濃農協の持ち物なのであろう。前方からバスがやって来た。イオンタウンを通って岐阜羽島駅へ行く名阪近鉄バスである。この、アポロンスタジアムの先が役場なのだろうか。
 後で知ったが、箱モノ整備で作った感じが強く漂うこのエリアは「輪之内町プラネットプラザ」という。中心施設が、輪之内町役場と輪之内文化会館、それにアポロンスタジアムと町立図書館である。文化会館前のロータリーはバスターミナルのような機能を持っていて、名阪近鉄バス(大垣行き・岐阜羽島行き)と町のコミバスが集結している。公共施設がたいそう立派であるが、こういうものを作ってしまって青息吐息なのか、それとも大規模農業で稼いでいるのかは知らない。

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2017年05月11日

2014.07.18(金)(37)[輪之内町役場]を制覇

 そして文化会館の前まで進んできたとき、私はあの看板にダマされていたことを知った。畜生、役場はやはり川の東岸だ。篠沢教授に1000点賭けてハズしたような絶望感を感じた。どうして西岸側のあんな場所に矢印看板を付けているのだろうか。役場が川の東側である以上、橋を渡ってはいけないのである。あそこに矢印看板があるのは紛らわしい。少なくとも私は誤認した。東側に付けられないから西岸に立てているだけなのか。それなら、矢印だけの看板ではなく、川を描き込んだ「図」にしてくれないと無理である。
 まあ、今にして思えば、東岸は対面2車線の道が続いているのに、こっちは対面2車線ではないから、やはりそこでおかしいと気がつかなくてはいけなかったのだ。道が狭まるということは、裏道である。

 文化会館の前に架かる橋は、意味はわからないが光輪橋という名前であった。架かったのが平成元(1989)年とかで新しく見えるが、文化会館とセットでできたのだろう。というわけで、曲折はあったがやっとの思いで輪之内町役場に着いた。結局、川の東側に建つ茶色い建物が輪之内町役場であった。地図を信じて真っすぐ来ればよかった。
 役場の敷地に入り、敷地内の対面2車線の通路を行く。この町役場も、田んぼの真ん中の土地をガバッと使って作った雰囲気が強く感じられた。右(南)側には学校の校舎と体育館みたいな建物が見えるが、みたいなというか学校そのもの(町立輪之内中学校)である。茶色い役場の建物の南側には学校との間に広大な駐車場が広がっている。
 敷地の端近くまで来ると、輪之内町商工会館という2階建ての建物がある。大垣共立銀行のATM小屋は、商工会館の横、町役場の敷地の南東端にポツンとあった。看板もなく目立たないところにある。敷地端の生垣に自転車を立てかけて、小屋に歩み寄った。
 商工会館の横に建つこの小屋は、今日盛んに見てきた大共の1992年標準型ATM小屋とは違い、前面に行灯看板のついた真四角な箱で、ちょっと古いタイプである。鉄の部分はクリーム色に塗られている。行灯の《大垣共立銀行》のロゴは、少し古めかしいデザインのものを使用している。キャッシュコーナーの入口が自動ドアになっているのは、1992年標準型と変わらない。大共の店舗外ATMは自動ドア標準装備で、機械1台だけの独立小屋も例外ではない。自動ドアを開けてみると、中の機械は手のひら認証対応の富士通FV20が1台だけであった。母店は今尾支店である。機械を操作。13:05、[輪之内町役場]を制覇した。
 今尾支店輪之内町役場出張所は、今尾支店2番目の店舗外ATMとして、1986年10月に開設された。2015年2月、今尾支店の代理店化に伴い、母店は海津支店に変更された。

 海津市に続き、輪之内町の制覇目標もすべて制覇した。次は養老町に入り、最初の目的地は[船附]である。ここから4.47km、19分かかることになっている。
 [輪之内町役場]は、予定だと12:46には出ていないといけないので、20分ぐらい遅れている。着実に時間オーバーしつつあった。役場を出発する前に、船附まで行く近道がないか、大共の人に聞いてみよう。地図を持って来ていない以上、聞いてから動いても遅くはない。大共が指定金融機関なら、会計課に行けば大垣共立銀行の行員が詰めているハズだ。そう思って、役場の正面玄関を入った。
 玄関の横に定礎の石がはめてあって、昭和59年9月吉日と書いてある。1984年の建築ということは、築30年。そのぐらいの経年なら、まだまだ新しい方だろう。玄関先にある電光掲示板には、輪之内町からのお知らせや、県内/町内の事故件数など、種々の告知が次から次へとスクロール表示されていた。輪之内町の人口や世帯数も出てくる。この年(2014年)の6月1日現在、人口は男4908/女5050の合計9958人、世帯数は3080世帯であるそうだ【注1】。輪之内町はあと42人転入すれば人口1万人達成である。クレジットカードを新しく作ると、入会初年には年会費が無料となることが多いが、地方自治体も「転入初年は町税免除!」のような人口増加キャンペーンを打ってみたらどうだろうか。そんなことを思ったが、まあ付け焼刃的な対策では講じても意味がないであろう。
 風除室に入ってすぐ右側には、輪之内町勢パノラマ図というものがあった。ボタンを押すと地図上のランプが光るようになっているのだと思うが、通電していないようで、押してもランプは点かなかった。何とか建材とか何とか生コンとか、さっき通過したクロスタニンとか、町の施設や商工関係全部の場所がわかる。「イオンタウン輪之内」の開業した当時の写真が出ていて、看板の屋号が「マックスバリュ」になっていた。自動ドアをもう1枚抜けると、「輪之内町役場ご案内」という図が出ている。その図に従って左に曲がると、スロープ上がった左側に会計室というのがあった。Accounting Officeと緑色のプレートにしゃれた感じに書いてある下に、広々とした窓口ブースが2つある。
 そこに詰めていたのは、大共の行員ではなく、JAにしみのの女性職員であった。輪之内町の指定金融機関は2年ごとに交代するそうで、JAは去年(2013年)の8月に指定金になったそうである【注2】。次がどこになるかはわからないが、大共と大信(大垣信金)のいずれかであるという。ローテーションなのだろう。これでは大垣共立のことはちょっと聞きにくい。
 結局、道案内をしてくれたのは、役場窓口の職員さんであった。県道羽島養老線に戻って西へ進み、橋を渡って突き当たったところで左に曲がる。それでしばらく行ったところが船附だという。やはり、川沿いの道を北上し、イオンの前から来る県道まで戻らないといけないそうだ。輪之内町役場から船附までの直線距離は3kmほどだが、実際に行くとなるとグルッと回らなければ無理なので時間がかかる。諦めるしかないようだ。

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 【注1】2017年4月1日現在、総人口9870人、世帯数3284世帯。世帯数は増えたが、人口は漸減傾向にあるようだ。なお、2010年には総人口は1万人を超えていた。
 【注2】現在は大垣共立銀行海津支店。
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2017年05月12日

2014.07.18(金)(38)さらば輪之内町

 さっきの川沿いの道を北上する。
 カントリーエレベーターの前をさっき通らなかったので、元の道に戻る機会に通ってみた。カントリーエレベーターは、収穫した米を貯蔵しておくための施設で、大まかには乾燥機と貯蔵庫をエレベーターでつないだ倉庫である。稲刈りして脱穀した「もみ」を乾燥させてサイロに保管しておき、米が必要な時にもみ摺りをして出荷する。カントリーエレベーターで特に目立つのは、米を貯蔵しておくサイロの部分である。
 ここには、7階建てビルくらいの高さの円筒が8本ほど並んでいる。周囲に何もない水田地帯に、窓のない長細い円筒が林立していて、見上げるとその巨大さを改めて感じた。その下にJAにしみのの店舗(輪之内支店)があるが、建物が非常に新しいのが印象的であった。輪之内町は面積こそ小さいけれども、農業でかなり稼いでいるようで、青息吐息というわけではなさそうである。

 県道羽島養老線に出た。歩道が完備された対面2車線の道が、水田地帯の真ん中を相変わらず貫いている。道端には、彼岸花に似た赤い花が咲いていた。朱色で鮮やかな色合いであった。真夏のこんな時期に彼岸花ではないと思うが、植物のことは私にはさっぱりわからない。なお、距離を計算してみると、この付近(八反田交差点近く)で、自転車での移動は計画上の中間地点に達したようだ。
 その先、中郷交差点の東側には、立派なお屋敷があった。石垣の上に土蔵などが多数建っており、伝統的な輪中の家と思われる。この近所では珍しくないであろうお屋敷だが、私はよそ者であるので物珍しさを感じて写真を撮る。小中学校の地理の時間で教わる濃尾平野の輪中は、こうした高台上の住居の話をして終わりになると思う。高須地区などで見たとおり、堤防の内側にある民家は、少しかさを上げて高いところに作られることが多い。古い住宅ばかりでなく、注意して見ると新しい家でも1mぐらい高く上げた台の上に建っている。日常生活に使われる母屋とは別に、洪水が来たときに避難する水屋が、さらに高度を上げて建てられていることもある。水屋がない場合でも、天井に小舟が常備されているとか、仏壇が滑車で天井裏に引き上げられるようになっているとか、濃尾平野ならではの特徴がみられる。この中郷のお屋敷にも、そうしたものが一つや二つありそうである。「輪之内」という町名は、まさに輪中の内側という意味なのであった。
 お役所が作った白い矢印看板が出ている。養老公園11km先、とあった。養老公園は有名な「養老の滝」を中心とした公園で、この近辺では随一の観光地である。近所にある養老天命反転地については、聞いたことがある。中に入ると平衡感覚が保てなくなるらしい。
 それにしても、養老までまだ10kmも自転車を漕ぐのか。少々疲労感が増した。

 さて、自転車を漕ぎ続けていて、これまであまり感じなかった向かい風を感じるようになった。自転車を降りて立ち止まっても感じるほどの風圧。養老山地から吹きおろしてくる風が相当強いようだ。そういえば、さっき寄った平田町三郷のコンビニには、風除室があった。わざわざ設置したということは、このあたりは相当に風の強いエリアなのだろう。暑い時期なら風が吹いても寒さを感じることはないし、むしろ暑さを和らげる効果があるのだけれども、それでも風を感じるというのは、一つには疲れてきたことと、もう一つはやはり風圧が相当強いのだろう。高校時代、向かい風をもろに正面から浴びて自転車通学していたことを思い出す。有名な冬季のからっ風に悩まされたのである。別に懐かしくはない。
 向かい風に向かって自転車を漕いでいると、太腿が少しつり始めた感じになってきた。どうも今日は行程の最初から左足の膝が思わしくなくて、このあたりまで来るとだいぶ庇いながら足を動かしている。ペダルがガタガタしているのは前述したが、やはりメンテナンスが良くない自転車に乗ると、体に相当な無理を強いる。庇いながらという点からすると、痛みが一番少ないのは立ち漕ぎだが、立ち漕ぎは立ち漕ぎでこれまた疲れる。どうしたらいいのだろうか。
 それから、車道の横に歩道が整備されているところでは、別の道路が接続するところでわざわざ歩道を終わりにして、境界が高さ1cmぐらいのエッジになっているところがある。微妙な段差だけれども、これも長距離乗っているとだんだんダメージになってくる。
 なお、後日この道は自転車で再度走ってみたが、やはりこのあたりで疲労が顕著になり始めた。

 福束(ふくづか)という交差点まで来た。ここから西は堤防上に上がるスロープになっていて、揖斐川を渡るブルーのトラス橋が堤防の向こうに見えている。ブルーの色調は今朝駒野から高須へ向かう途中で渡った福岡大橋と同じだが、ここは本格的なトラスが橋の上にそびえ立っている。橋の名前は福束大橋という。この橋が架かったのは1972年だが、それ以前は対岸との連絡は県営渡船で行っていたという。この福束大橋を越え、幹線道路に突き当たったら左に曲がると、その先が目指す[船附]なのであった。なお、このあたりは福束輪中という名前で、福束輪中の領域がそっくりそのまま安八郡輪之内町となっている。
 堤防上に上がる坂を漕いで上がる気力がないので、自転車を降りて、押して上がってしまった。少しバテて来ているのか。上がりきったところで堤防道路と交差する。この交差点は福束大橋東詰といった。いよいよここから福束大橋が始まる。この橋は割合最近塗り直したようで、青い塗装が大変鮮やかであった。ただし、歩道のアスファルト舗装はガタガタである。塗り直すついでに修理しといてよと思うが、岐阜県の道路予算はよほど乏しいようだ。
 福束大橋の本体を渡り切ると、さらに橋がもう1本あり、こちらは小さい川を2本まとめて渡っている。1本は水門川というそうだが、もう1本の名称はわからなかった。福束大橋は青い塗装もそうだが、揖斐川の西側で小さな川をまたいでいるところも午前中の福岡大橋と同じである。これらの小さな川は、川下で揖斐川に合流しているのだろう。小さいといっても15〜16mぐらいの川幅があるのだが。その左(川下側)の彼方には、大きな堰が複数見える。何に使う堰なのだろうか。このあたりは水があり余っていそうなエリアだが、農業用水など取る必要があるのだろうか。すぐ後でわかったが、あの堰は国土交通省の排水機場である。ポンプで排水しないと、輪中から余分な水が出ていかないのである。

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2017年05月13日

2014.07.18(金)(39)大垣市をかすめて船附へ

 水門川の橋には、行政が立てた「大垣市」という標識が出ていた。揖斐川の西に2本流れる川の中間にある堤防を境に、県道羽島養老線は安八郡輪之内町を出て大垣市に入る。大垣市は大垣共立銀行の本店所在地であり、「めぐ」をやるならやるでキッチリ取り組まなければならない地域だが、今日は特別なことは何もない。行政区域が大垣市になっただけの話であり、この近所に大共の拠点はないから、標識を横目で見ながら過ぎ去るのみである。
 自転車に乗った女子高生何人かとすれ違った。なぜ女子高生ばかりなのかは知らない。福束大橋西詰の交差点から下り坂が始まった。交差点の手前で、さらにもう1本小さな川を渡った。このあたりはとにかく川が細かくたくさんある。

 大きな道路に突き当たって、横曽根3の丁字路で左に曲がる。しばらく行くと、目指す[船附]である。
 突き当たった道は、大垣市の中心部から名神高速の大垣インターを通って三重県桑名市に至る国道258号線で、大垣と桑名を結んでいることから「大桑(だいそう)国道」と呼ばれる。何時間かぶりで再会する大桑国道。今日の「めぐ」で最初の方の[松山]や南濃支店を制覇する時にも遭遇したが、この道を実際に通るのは本日初めてである。
 この付近の大桑国道は、中央分離帯つきの片側2車線で、大幹線道路に相応しい規模であった。歩道も結構広くて、車1台通れそうなほどの幅がある。左に見える新水門川排水機場は、さっき橋の上から見えたのと同じもの。ポンプ場と国道の間に、土蔵のような外観をした水防倉庫がある。大垣輪中横曽根水防倉庫は、単なる水防倉庫のようだが、それなりに見た目に気を使っているのだろう。ここは輪中堤の切割を封鎖するわけではなさそうだが、土嚢の材料でも入っているのだと思う。なお、横曽根3から走ってきての印象だが、大垣市に入った途端に水稲耕作をやっている水田が一気に消えたと感じた。水防倉庫の名称にもあったとおり、ここは大垣輪中であり、輪之内町の福束輪中からは脱している。今は輪中によって水稲耕作の状況が異なっているのかもしれない。
 堤防上から養老大橋という橋を渡るようで、橋に向かってちょっと上り坂になっている。大きな川はもう渡ったハズだから、揖斐川とは別に小さな川があるのだろうか。その割にかなり大規模な橋であると思った。行政が出した青看板によると、ここから桑名まで30km、南濃まで11km。幹線道路だけに、国土交通省か県警が出した電光掲示板もある。「速度注意」などのメッセージは説教がましいが、現在の気温を知らせてくれるのは役に立つ。只今の気温は32℃とあった。
 養老大橋を渡り始めると、河川敷の部分は畑と、原生林のような森になっていた。河川敷は泥だらけの草ぼうぼうである。ここもやはり、よどんだ川が下に横たわっている。そして、川がもう1本。このあたりはいったい何本川を越えるのだろうか。後付けの知識では、この橋は揖斐川の支流2本、杭瀬川と牧田川をまたいでいる。
 川の向こう、養老町側では堤防の草刈りをやったようで、野焼きの煙が目にしみた。大垣市は養老大橋を渡り切るところで終わりである。

 2本の川をようやく渡り切った。養老大橋を渡ってすぐのところに、名阪近鉄バスの〔船附〕停留所がある。ここに来るバスは、大垣駅前から今尾を通って海津市役所へ行く海津線で、途中の今尾までは1時間に1本ある。この地区の路線バスは、名阪近鉄バスという会社が担っている。大垣のバス会社として発足し、路線バスも大垣地区のみで運行しているが、近鉄グループ内の事情で本社は名古屋市にある。現在は三重交通(グループホールディングス、近鉄系)の完全子会社となっている。
 バス停があるということは、このあたりから人里に入るようだが、まだ堤防上のようだ。そう思った時、非常にけしからぬものに遭遇した。人間はここで国道から降ろされてしまうのである。車道は向こうの交差点に向けて緩やかな坂を4車線のまま真っすぐ下りていくが、歩道はバス停のすぐ先で勾配が急にきつくなっており、歩道はどこへ消えたんだろうと思わせる。急坂の下を見ると、もっと腹の立つことに、道路に沿ってしばらく前方に下ったのち、坂の途中で180度折り返して手前に下りてくるのであった。私は呆気にとられた。何という無駄なことを。車道に移ろうにも、歩道との間はガードレールでガッチリ仕切られている。向こう側へ移動するのは(自転車をかついでガードレールを越えない限り)不可能であった。
 ふざけるな、なぜヘアピンにするのだ。戻ってしまうではないか。頼むから真っすぐ行かせてくれよ。この下の住民のために折り返しを作るのは構わないが、それをやるなら真っすぐ行くスロープ「も」作ってほしい。盛り土の部分を削ればできるハズだ。
 ブツブツ言いながら、ハンドブレーキを握りっぱなしにして急坂を下る。このスロープは道幅が広いから、それなりにスピードが出せないことはない。そしてUターン。車で駆け抜けたら快適であろうこの道は、歩道からいきなり下に下ろされてしまうし、ヘアピンカーブで向きを強制的に変えさせられるし、自転車ではまことに走りにくい道であった。どうして直進するニーズを考慮に入れていないのだろうか。やり場のない憤りにかられる私であった。
 スロープ横の地べたに下ろされた。ここでまた180度向きを変えて、国道に沿って走る側道を南(厳密には南西)に向かう。側道は不可解に曲がりくねっており、しかも国道に向けてちょっとした上り坂になっている。このあたりは塩喰(しおばみ)といい、輪之内町が揖斐川の西岸に少しだけ食い込んだ飛び地のような場所である。行政区分は異なるが、建ち並ぶ家は輪中の石垣の上に乗っかっているし、船附地区とは一つながりの集落なのであろう。なぜ飛び地ができたかといえば、今尾から野寺に向かう途中でも述べたが、かつての川の流れを反映しているのである。

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2017年05月14日

2014.07.18(金)(40)船附はかつての「船着き場」

 豊富でないボキャブラリーの限りを尽くしてぼやきながら、側道が国道に合流するところまでやって来た。向こうの交差点に、行政が立てた「養老町」という青文字の白看板が見える。横断歩道を渡ったところに大共の船附出張所があるようだ。見えた。バイパス道路の向こうに、大垣共立銀行の緑色の看板。出張所の建物も見える。
 大共の敷地は、南北に走る大桑国道の西側に面している。道路は中央分離帯つきの片側2車線だが、さらにもう1車線分ぐらい広げる余地があるから、銀行の敷地は内側にかなり引っ込んだところにある。客用の駐車場はかなり広くて、南端に縦に4台分、東の端に縦に4台分、北の端に7〜8台分ぐらい。数字で言うと約20m四方で、車の台数としても20台ぐらいは置けるだろうか。車で広い範囲から集客する計画だったのだろうと思う。「お客さま駐車場」という看板が立っているところは、芝生か何か植えていたのだと思うが、緑色の防草シートで覆ってあった。
 「大垣共立銀行」の看板よりも目立つところに、「WE SERVE」と大書した看板が出ている。養老町・養老警察署・養老ライオンズC(クラブ)の連名であるが、ところどころ文字が落ちているところに悲しさを覚えた。《無事故で築く平和日本》とある下には「交通安全」の文字が5段重ねで並んでいて、ほとんどヤケクソのようである。交通安全交通安全交通安全交通安全交通安全。交通安全が重要でないとは言わないが、それ以外に訴えたいことはないのだろうか。銀行の隣は大駐車場完備のパチンコ屋で、巨大な招き猫のモニュメントを付けている。南行き車線に面したところにも1軒あるから、パチンコ屋が国道を挟んで向かい合っている。
 というわけで、ここはバイパス道路のロードサイドであった。

 大共船附出張所前の交差点は、船附集落の入口にあたっており、四つ角に「船附港址」という石碑が建っている。それによると、ここ船附は、かつては交通の要衝であった。「ふなつけ」という地名のとおり、船着き場だったのである。船附湊(港)はこの近所にある烏江湊・栗笠湊とともに「濃州三湊」と呼ばれ、中世末期から江戸幕府末期まで河川交通の拠点として約300年間繁栄したという。船附を起点に牧田川を遡り、関ヶ原から中山道に入って琵琶湖の朝妻湊(滋賀県米原市)へ、米原からは舟で京都へ、という交通路だった。この近所にある3つの港と、米原市の朝妻湊とを結ぶ道を、九里半街道といった。船附の1.5km上流が栗笠、さらにその500m上流が養老鉄道の駅もある烏江である。
 日を改めて船附の集落に行ってみた。集落内は車1台がやっと通れるぐらいの道幅であった。ここには新築した建物はほとんど見当たらない。明治期の築とおぼしき木造建築ばかりである。建物の並びは不規則だが、家の力によって大きい小さいがハッキリしている。そんな中お寺だけが立派で、割合最近普請したらしく木材が新しかったりする。もちろんこのあたりも輪中の集落で、建物は石垣の上に上げている。
 街角には「常夜灯」と彫られた立派な石灯籠が立っている。灯籠にはしめ縄がついていたりするから、川よ静まれー、と神頼みするニュアンスだったのだろう。消防団機器庫のそばに立つ火の見やぐらには、塔の真ん中辺と一番上と、鐘が2つも付いている。川見を兼ねた火の見やぐらはさっき海津市の野寺でも見たが、大水の時には川の様子を見て鐘をガンガン叩いたのだろう。火の見の向かいには神社があったりする。以上すべてが、この集落の真際を川が流れていたことを示している。
 船附のもう少し奥にある栗笠に来ると、堤防の脇に2階建ての棟割長屋の商店建築のような建物が建っている。河川交通が栄えていた時代の問屋だとすると、新しくても明治時代頃の築ということになる。さらにその奥にある烏江の集落は見ていないけれども、地図で見ると、養老鉄道の線路は大垣からまっすぐ南に下がってきて、烏江で西に直角に曲がって美濃高田に向かっている。建設当時の重要地点だった烏江を通るためにこういうコースになったのであろう。いずれも、古い時代には重要な集落であったのがありありとわかる。なお、養老鉄道の烏江駅は、堤防工事で線路が付け替えられたため、イメージにそぐわぬ高架式の駅で驚かされる。

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2017年05月15日

2014.07.18(金)(41)旧営業店の[船附]を制覇

 大垣共立銀行船附出張所は、支店のような2階建ての建物であった。ここは店舗外ATMである。かつては養老支店の有人出張所だったが、無人店に変更されたのは、事前の知識として知っていた。建物に近いところに自転車を置いた。
 建物向かって左側に、裏手へ続く通路がある。工事現場の足場用の鉄パイプで塞いであるが、塞いでからだいぶ時間が経っているようで、パイプはひん曲がったり傾いたりしている。奥を見ると、土地が少し高くなっている。出張所の奥にある船附の集落に向かう道で、道路だけが盛り土の上を走っている。前述のとおりこの近所は川の付け替えがあったところであり、この道もかつては堤防道路だったのだろう。ということは、大共の出張所は川の跡にあるのか。後日古い地図で確認してみると、おおむねそのとおりであった。1964(昭和39)年発行の地図では、牧田川はすでにショートカットの工事が終わっている。
 さて、うらぶれた雰囲気を感じつつ、建物左端の自動ドアから店に入った。行員が「いらっしゃいませ」と声をかけてきそうな錯覚があったが、窓口室があるハズの場所にはシャッターが降りており、店内はシーンと静まり返っている。
 キャッシュコーナーは機械枠が2台分で、空き枠はない。ATMは沖電気バンキットと、それと同じボディで「NEC」の銘の付いた機械が1台ずつ置いてある。大垣共立銀行のホストコンピュータはNEC製であり【注1】、NECは沖電気からATMのOEM供給を受けているから、その関係であろう。2台とも手のひら認証対応にはなっていなかったが【注2】、代わりにここは店舗外ATMでありながら硬貨の扱いをしている。旧営業店から格下げになった店舗外ATMであるためのようだ。大共ATMでの硬貨の取り扱いは原則営業店のみで、硬貨は入金はできるけれども出金はできない。1000円未満の金額を出したいときは「お釣り入金」でやるしかない。
 「お知らせ」という掲示が出ている。《長らくご利用いただきました当船附出張所は、都合により平成16年5月17日をもちましてATMコーナー(自動機)のみによる出張所へ変更させていただきました》とあった。いま2014年、平成26年であるから、この店が無人化されて丸10年経ったわけである。銀行の有人店舗で一番多いのが「支店」、その次が「出張所」であろう。銀行で店舗の種類を変えるのはよく聞く話だが、たとえば支店から出張所に変わる場合、素人にとっては名前が変わった程度の変化でしかないが、銀行の内部では相当大きな変化があったことになる。一方、有人出張所から無人の出張所(店舗外ATM)への変化は、銀行としては軽い変更でしかない。なにしろここ[船附]に関して言えば、正式名称は「養老支店船附出張所」のままで変わらないのである。しかし、利用者にとっては行員がいるかいないかで大問題となる。銀行の内外でそういうギャップがあるのが興味深く感じられた。
 有人営業店を無人化して、建物のキャッシュコーナー部分のみ稼働した場合、ランニングコストはATM小屋と比べて大幅に高くなると聞いたことがある。大共がATMの営業をあえて有人出張所時代の建物で続けているのは、機会があれば有人店舗として復活するつもりなのだろうか。出張所から西に入った本来の船附集落は、前述のとおりかつては交通の要衝であり、物資の集散地でもあって、農業金融を主力としていた明治時代の大共が支店を出していたこともある。大共が80年代になって営業店を復活させたのは、旧来からの有力な顧客がいるばかりでなく、大桑国道のバイパス開通を契機に大垣の町と直結する地域として新たに発展が見込まれたからだろう。開発は思ったようには進まず、出張所も無人化されてしまったけれども、船附の場合はこの奥に古い集落が控えているし、店舗外ATMとしては機械の台数も多く、大駐車場完備。有効に活用されていると感じられた。
 というわけで、制覇作業を行う。[船附]の制覇は13:56のことであった。

 店舗外ATM[船附]は、有人店舗であった養老支店船附出張所が2004年5月17日付で統合されたことにより開設されたものである。有人店としての船附出張所は、1988年11月に現在地に開設された。
 当地における大垣共立銀行は、1899(明治32)年9月の船附支店開設に始まる。当初は養老郡笠郷村大字船附119番戸にあったが、船附の集落内における3度の移転を経て、1936年2月に本店船附出張所となり、戦後の1950年11月に廃止された。最後に店のあった船附838番地は、船附集落の商店街内であるが、今となっては木造家屋が飛び飛びに並ぶ程度の住宅地になってしまっている。笠郷村は、1954年11月に1町9村の合併により養老町となっている。

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 【注1】大垣共立銀行は2017年5月6日から、勘定系などのシステムを日本ユニシスのオープン勘定系システム「BankVision」に切り替え、NEC製メインフレームで動作していた旧システムを廃棄した。
 【注2】現在は手のひら認証対応の機械が入っている。
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2017年05月16日

2014.07.18(金)(42)夏休みだもーん

 次は[珍品センター]に向かう。
 「珍品センター」って何だろう、と以前から思っていたので、ここに行くのはちょっと楽しみにしていた。事前のリサーチによると、[船附]の南にある四つ角で右折し、西へ真っすぐ行った水田地帯のただ中にある。場所は予習したが、「珍品センター」が何であるかはあえて謎のままにしておいた。
 国道258号に出て、船附の交差点から真っすぐ南へ下っていく。道路と同一面上に建つ建物は明らかに石垣に載っており、この道路も含め相当かさ上げしてあるようだ。ほどなく水田地帯になった。4車線道路の脇の歩道は、2車線分ぐらいの幅に広がった。車道をさらに広げられるようにしているのだろう。まず遭遇するのが、何とキリスト教会であった。建物の前に大駐車場が完備され、店先には大きなアーチ状の装飾があるなど、どう見てもパチンコ屋の空き店舗なのだが、そこになんとかチャーチと掲出している。日本では東海地区のみで展開している教団らしいが、宗派はどこだろうか。教団名はスペイン語かポルトガル語のようだから(知らないが)、推定が当たっていればカトリック系ということになる【注1】。一般的には、キリスト教を謳う教団であっても、聖書とは別の経典を使い始めると、キリスト教とはみなされなくなる。代表例が「モルモン教」で、この教団は聖書の他に『モルモン経』というものを使っているから、キリスト教とは別の宗教とされることが多い。
 角に、コンビニのミニストップがあった(養老船附店)。[珍品センター]は、この船附町前東の交差点で曲がった先ではなかっただろうか。度忘れしてしまった。まあよい。忘れたらまめに地図を見ればよいのだ。今出発したばかりだが、ここで“地図見休憩”にしよう。
 クーラーの効いた店内に入った途端、どっと疲れが出てきた感じがした。ミニストップなのでイートインコーナーがあり、椅子に腰かけて火照った身体を鎮める。最近では他のコンビニチェーンでもイートインを導入した店が増えてきているが、この頃はイートインと言えばまだミニストップの独擅場であった。
 少々腰を下ろして落ち着いてから、カウンターのホットケースから鶏のから揚げを買った。カウンターでは、小学5年か6年の男児の客が、店員と「夏休みだもーん」という会話をしていた。あっけらかんとした元気な声に、長期の休みに入った喜びを感じた。そういえば、さっき今尾で集団下校とすれ違った。今日は公立小学校の終業式だったのである。
 すきっ腹を鶏のから揚げでごまかしつつ、雑誌売り場で都市地図を立ち読みする。やはり“地図見休憩”にしてよかった。右に曲がるのはこのミニストップではなくもう1本南の交差点、サークルKのある角であった。コンビニには変わりないし、方向も合っているが、曲がる道を1本間違えたらエラいことになってしまう。渡辺真知子のナツメロ『迷い道』が頭をかすめた。

 いまの時刻は14:10。面倒臭いので計画表は見ないが、相当遅れているのは間違いなく、だいぶ巻かないとマズいと思われる。いま執筆しながら計画表を確認してみると、14:06に[珍品センター]の次の目的地[フードセンタートミダヤ養老店]に到着しているハズであった。
 店の外に一歩出たら、直射日光が熱かった。国道をさらに南へ、引き続き自転車を漕ぎ続ける。養老町の町はずれにあたるこの近辺は、いろいろな意味で“墓場”のようであった。文字どおり墓地が道の反対側にある。廃車置き場があって何台も積み上げてある。その向かい側は、毛糸・編み機・コットン・ミシンといった手芸の店の廃屋。ロードサイド型の店としてオープンしたのだろうが、廃業して随分経つようだ。役目を終えたものが墓場のように数多く集まっている一帯であった。それ以外の建物では、倉庫が多いようだ。
 そのすぐ先、養老町笠郷の歩道橋手前に、スーパーマーケットの赤い看板が出ている。これから行くフードセンタートミダヤ養老店の看板であった。右折5km先、と書いてある【注2】。単調な道だし、まだまだ先は遠いと感じられた。
 相変わらず水田地帯が続いている。家が固まって建っているところも少々あるが、とにかく右も左も田んぼばかりで、たまに休耕田なのか少し荒れた土地がある。個人宅の半分ぐらいを喫茶店に改造したような店があった。コーヒーにのめり込んだオーナーが脱サラして始めたのだろうか。この喫茶店のあたりから、バイパス道路には側道のようなものができた。これまで、歩道と車道の間は縁石で仕切られているだけで、柵などはなかったのだが、車道と側道の間が高さ1mぐらいの焦げ茶色の柵で仕切られるようになった。側道はほどなくバイパスから大きく離れていった。
 なお、大桑国道をこのまま真っすぐ南にいくと、和歌山県に本社を置くスーパーのオークワが出店しており、念の入ったことに店内には百均大手ダイソーが出店している(スーパーセンターオークワ養老店)。言わずもがなのことであるが、オークワの創業者は大桑さんである。オークワの先で海津市に入ると、今朝自転車の旅を始めた駒野に到達する。

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 【注1】この教団の信者は、多くは日本の製造業を支えるブラジル出身者で、日系移民の子孫が大多数。彼らはカトリックよりプロテスタント、とりわけ福音主義というグループが優勢であるという。
 【注2】[フードセンタートミダヤ養老店]までの距離は[珍品センター]からでも5kmを超えており、この地点の看板で5kmというのはやや過少表示気味。
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2017年05月17日

2014.07.18(金)(43)夏の小川もさらさら行くよ

 川べりを通って斜めにショートカットする道があるようだ。私は国道をそれて、その裏道に入った。
 小さな水門があった。道に沿って流れる小川があって、南から北に流れているようだ。護岸工事がなされておらず、土だけでできた川岸である【注1】。川をのぞき込むと、メダカだろうか、小魚が泳いでいた。ザリガニらしきハサミも見えている。よく見ると、水面で何かがピンピンと弾けている。水が浅くて底まではっきり見えるのだけれども、あぶくが出ているということは、泥の中で何かが呼吸しているのだろう。季節は夏の真っ盛りだが、童謡の『春の小川』に出てくるような、ある種の懐かしさを感じた。
 川の中に置かれた土管や、立てられた杭には、桑の実のような形をした粒の細かい塊がたくさん付いている。ピンク色、それもショッキングピンクというのか、少々どぎつい感じのする色であった。これはタニシの卵ではなかったか。そういう目で見てみると、水の中にもタニシが多数いるようであった。大量に産卵したものの、川の水位が下がって地上に取り残されたのか【注2】。私はこういうのは全く分からない。
 南に進んでくると、自然な感じの小川は終わり、コンクリートで覆われた人工水路に変わった。流れの様子も、水が白く濁ってドブのような感じになっている。月並みな感想だが、小さな川は泥のままにしておいた方が良い。コンクリで固めてしまうと味もそっけもないし、たちまち汚らしくなってしまう。もちろん、ここは農業用水路であって見世物ではないのだから、農家の仕事としてはやむを得ないけれども。
 大きな水音がした。濁った水の中に、何やら巨大な生き物がいるようだ。手近に落ちていた細い角棒を取って水中をかき回してみると、オタマジャクシがワラワラと泳いでいたから、あれは体長30cmぐらいのカエルだろうと思う。コンクリの護岸であっても、こういう具合に自然の生き物がいないわけではないが、やはり風情は明らかに泥のままの方があると思う。
 私はふと、長崎県の諫早湾問題を思い出した【注3】。幅1mもないような農業用水路でさえ、コンクリ護岸の部分では水質が変わって見えることからすると、諫早湾は因果関係が明らかなように思える。長崎の人は怒ってしまうかも知れないが、生活を築いてしまった人に何らかの補償をした上で、門を開けた方が良くはないだろうか。それもできないとすると、この問題は、締め切り堤防がある日突然崩壊するとか、謎のミサイル攻撃を受けて破壊されるとかいった、超法規的な“魔法”ぐらいしか解決方法がないと思われる。

 民家の裏口が並ぶ小川沿いの道を進んでいくと、コンビニの建物の真裏をすり抜けた。大桑国道に面したところが駐車場で、今進んでいる裏通りに近いところに店が建っている。このコンビニは、本来曲がる予定にしていた船附南交差点の角にあるサークルK(養老船附店)であった。そして、対面2車線で黄色センターラインの道路に突き当たった。県道213号養老平田線である。ここで右に曲がる。ショートカットで短縮できた距離はせいぜい30〜40m程度だと思うが、“夏の小川”など見ながら来たおかげで、楽しく過ごすことができたと思う。
 曲がってすぐある畑に、興味をそそられた。この畑は土地の全部で耕作せず、畝になっている部分の周囲を掘り下げてある。掘って低くなった部分は一部水たまりになっている。これは、昔の「堀田」の技法で造られているのではないだろうか。堀田というのは、前述したとおり、土地改良事業が進む以前に輪中地域の低地で行われていた農地の使い方である。ここの畑はそのやり方を応用して、畑の周りを掘り下げることで乾いた畝にしていると思われた。こういうことは、輪中地域で技術に馴染んでいないとできないのではないだろうか。

 西に向かって自転車を漕ぎ続ける。県道には《ようこそ養老へ》という温泉地の入口のようなアーチが付いている。養老町は古くから養老の滝を中心とした観光地だったから、温泉と似たアーチが町の入口にあっても不思議ではない。そして、アーチをくぐったところで、前方に大垣共立銀行の緑色の看板が見えた。このこと自体は、予想どおりで何の不思議もなかった。さっきミニストップで見た昭文社の地図では、田んぼの真ん中にいきなり銀行のマークが書いてあり、銀行の名前が「大垣」とあった【注4】。[珍品センター]は、駐車場か敷地内に独立小屋が出ているタイプなのだろう。そう思っていたからだ。
 しかし、である。その手前にあるのは一体何なのだ。

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 【注1】その後護岸工事が行われた。
 【注2】私が見たのは、外来種のジャンボタニシ(スクリミンゴガイ)の卵であったようだ。この貝は卵を水から上がったところに産みつける習性がある。タニシは作物の苗を食害する生物であり、卵は水中に落とすと孵化できず駆除効果があるという。
 【注3】1989年から行われた国営諫早湾干拓事業で、諫早湾奥に潮受け堤防が建設されたが、深刻な漁業被害が発生しているとして、開門を求める裁判が行われた。2008年に佐賀地方裁判所は水門を5年間開放することを命じ、2010年に福岡高等裁判所が佐賀地裁の一審判決を支持。当時の菅直人首相が上告を見送ったため、2014年7月から漁業者1人あたり日額1万円(のち2万円)が支払われている。一方、2011年には開門の差し止めを求める訴訟が長崎地方裁判所に起こされ、2013年に水門開放請求を棄却、2015年の福岡高裁もこれを支持した。開門した場合、営農側に制裁金の支払いが開始されることになっている。
 【注4】この先にある大垣信用金庫の笠郷支店と勘違いしていたようだ。地図の[珍品センター]の場所に銀行のマークは見当たらないのと、大垣共立銀行であれば銀行名が「大垣共立」になっているハズ。
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2017年05月18日

2014.07.18(金)(44)「珍品センター」という名の珍品

 アーチの手前から、大共の緑の縦型看板と「ようこそ珍品城へ」という黄色い看板が見えている。それとは別に、漢字一文字で「珍」と書いた巨大な黄色い看板が目立っている。
 近づいてみると、前方右側には、城のような建物がある。といっても、結婚式場やラブホテルその他、地方の街道沿いに似つかわしい洋風の城ではない。妙に大きなしゃちほこが載った、瓦屋根の“天守閣”である。その手前にある城壁のような建物は波板ぶきの平屋建てで、パトカーのような白黒塗り。白壁となまこ壁に似せてある。軒先には大八車の車輪のようなものがいくつもぶら下がっており、「ブラザー電気洗濯機」なる琺瑯の看板もあった。
 お城の手前側は駐車場になっており、その隅に建つ棟のテント屋根は、茶色とピンクのしま模様という派手な色遣いであった。その内外に、七福神や二宮金次郎など種々の石像が並べられている。信楽焼の狸もある。これだけなら単なる石材店のようだが、駐車場の西側、道路と小さな川を挟んで“珍品城”の本体がある。城壁のような基本平屋建ての細長い建物と、天守閣のような3階建てのビルが建っているが、両者はつながっているようだ。前述のとおり、平屋建ての屋根には「ようこそ珍品城へ」という黄色い大きな看板が取り付けられている。
 門構えのような形の正面入口には飲料の自動販売機がズラリと並び、電話ボックスと郵便ポストもある。観光バス歓迎と書いてあるから、ドライブインのような役割を狙っているのだろうか。飲料自販機の上に取り付けられた赤いテントには《なつかしかしさと驚き》と、雑誌のおもしろコーナーで紹介されそうなキャッチコピーが書いてある。わざと取り上げられようとしているのかも知れないけれど。そして、屋根にしゃちほこが載った3階建ての“天守閣”が、敷地の一番西の端に建っている。
 天守閣の手前にある平屋建て部分には、唐笠・熊手・蓑・布団たたきなど、籐だか竹だかを編んだものが並べて置いてある。茶碗や壺など食器類もあるが、場所柄美濃焼が多いのだろうか。これらには値札が付いており、表示価格の半額で販売している。正面入口の横にある郵便ポストは、古いスタイルの丸ポストだが、実際に郵便ポストとして機能していて、取集担当は大垣郵便局であった。

 建物に入ってみて、ようやく「珍品センター」の正体がわかった。ここは、娯楽性を強く打ち出した骨董品店なのである。正式名称を「古今珍品情報流通センター」といい、委託された骨董品を店に並べて売っている。単に販売するだけでなく、この店そのものが観光資源になっているようだ。
 扱っているのは、具体的には掛け軸・書画・茶道具・古陶器・置き物・民芸品・古美術・刀剣・鎧といったレトロ商品。美術とか芸術方面に重きを置いているようだが、軍服もブリキのおもちゃもある。いろいろな“珍品”が、広い平屋の棟はもとより天守閣に至るまで、ギッシリと詰まっている。
 建物入ってすぐ右側に「商品の出品の仕方」という大きな看板が出ている。売りたい品物があれば、出品者が100円単位で自由に値段をつけて珍品センターに預け、売れた場合は販売手数料を引かれて売上金を渡される。3か月で売れなかった場合は返却される。誰でも出品できるが、年会費1万円で会員になれば手数料(最大30%)は優遇されるという。なるほど、こういうやり方で商品を集めているのか。なお、出品商品は「何でもよい」とは書いてあるけれども、店員によれば一定の制限があり、たとえば剥製など明らかに売れないものは断っているという。それから、中国からの客がやはり多いようだが、中国関係の品物はほとんどないので、あるなら持ち込み大歓迎ということであった。
 こういう店に来ると、男の私はつい興奮してあれこれ見て回りたくなる。たいていの人には汚いガラクタを集めて売っている店にしか見えないと思うが、私にとって珍品城は「夢の城」であった。りそなグループのウオッチャーとして、大黒天の置物で手頃なものがあれば買ってみてもよいと思った。大黒天は、りそなの前身銀行の歴史に登場するアイテムである【注】。大きさの点で手頃だと思うものは1、2点あったが、値段の点で見送った。
 電話機など実用的なものもあった。私はこの頃、自宅の電話機を1台買わなければならなかった。メリーゴーランドのようなちょっと派手な外観のプッシュホン電話があって、買って帰ろうかと一瞬思った。足が3本出た電気プラグのような「ローゼット」が付いているが、モジュラージャックに変換するアダプターを付ければ使えるハズだ。1800円とあまり高くはなかったが、金メッキが剥げていたり、きれいでなかったので断念した。
 もちろん、それ以前に「今日は」何か買って帰るのはとても無理である。

 近所のおばちゃんといった感じの店員が、麦茶を振る舞ってくれた。何しろ暑い日である。一杯の麦茶が喉にしみた。
 店員はこういうことを言っていた。美術館の展示に値札は付いていないが、ここの展示は全部値段が付いている、値札の金額さえ出せば買えるんだから明朗だ、と。しかし、骨董品というのは、根本的に生活にどうしても必要なものというわけではない。ここは美術品とか置物のウェイトがかなり高いのだが、絵画や彫刻は、日本の住宅事情を考えたらあまり売れないだろうなと思う。気さくに話しかけてくれた名古屋弁(美濃弁か)のおばちゃんは、欲しいものがあったら即声かけてね、どこからでも飛んで来るから、と言ってくれたが、今日は荷物になるものは無理だし、電話機にしても「何としても絶対に必要」というものでもなかった。
 見て回る分には楽しいけれども、この店の展示は“展示”そのものが目的ではなくて、売っているのである。買いもしないのに見るだけ見て回り、麦茶までご馳走になったのに手ぶらで帰るのは申し訳ないが、今日は先がまだ長いからやむを得ない。ご容赦いただくことにした。

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 【注】旧あさひ銀行の前身、旧協和銀行と旧埼玉銀行の双方に大黒天を使用した歴史がある。協和銀行の前身である不動貯金銀行は、創業者の牧野元次郎が大黒天を行内の「ニコニコ主義」のシンボルとして使用し、各支店には大黒天の奉安所が設置されていた。一方、埼玉銀行では戦後に頭取に就任した平沼弥太郎が趣味として彫刻をたしなんでおり、自身で作った大黒天像を全営業店に寄贈していたという。
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2017年05月19日

2014.07.18(金)(45)そして、制覇

 珍品城に夢中になってしまったが、私は大垣共立銀行の制覇をしなければならないのである。
 店舗外ATM[珍品センター]は、珍品センターの敷地西寄り、天守閣の横にあった。本日何度も遭遇してきた1992年標準タイプの小屋に、ATMが1台。機種は沖電気のバンキットで、手のひら対応にはなっていなかった【注1】。母店は養老支店であった。小屋に入って機械を操作。14:47、ATM[珍品センター]を制覇した。
 養老支店珍品センター出張所は、養老支店4番目の店舗外ATMとして、1996年3月に開設された。2003年の年末、建設重機によるATMブース破壊の被害に遭っている。重機で店舗外ATMを物理的に壊し、ATMに装填されている現金を奪取する窃盗事件が、ちょうどこの頃(2002年以降)急増した。手口はほとんど共通していて、建設現場や重機の駐車場から油圧ショベルを盗み、そこから近いATMを破壊して現金を奪うというものである。建設省(現国土交通省)が1990年から重機の操作方式の共通化を始め、2002年には重機のほぼすべてが新型に切り替わったが、それによって犯罪に利用されやすくなったという事情もある。
 重機によるATM荒らしは、私がかつて「めぐ」をしていたあさひ銀行でも複数件発生している。あさひ銀では、被害個所は復活せずすべてそのまま廃止となったから、それを思うと[珍品センター]が復活したのはまことに慶祝すべき出来事であった。[珍品センター]の事件では、正面ガラスが割れただけでATMに被害はなかったという。

 ATM小屋のうしろに回ると、ガラス窓のような形態のポスター掲示板に「ゴールド総合口座」のポスターが貼ってあった。ゴールド総合口座は、2001年4月に販売を開始した大共の看板商品で、口座管理手数料(年額2160円)を徴収する代わりにATMの時間外手数料が無料になったり、取引ポイントが倍増したりする。口座手数料が2.5倍(5400円)の「スーパーゴールド総合口座」もある。今回の「めぐ」ではお目にかからないが、大垣や岐阜など都市部の店舗に行くと、ボディを金色に塗った「ゴールド総合口座利用者専用ATM」というものが異彩を放っている【注2】。
 ポスターの絵柄は、「OKB3」という女性3人の写真であった。胸の谷間を強調したりタイトミニスカートを穿いたりして、銀行のポスターとしては非常に官能的だ。「OKB3」は大垣共立銀行のキャンペーン広告に出ている女性の3人組で、カナ・マナ・ヒロの3人【注3】はモデル事務所所属のプロのタレントである。そして、行内には別に「OKB45」というものがある。これは女性行員を45人集めたユニットで、こちらもディスクロージャー誌の表紙を飾るなどビジュアル的に活動している。ミニスカートはやめた方が、と思う人もいないではないが、基本的には美人の集団である。この「OKB3」と「OKB45」の数字を足すと、48。つまり「OKB48」になるというわけである。AKBグループを意識しつつオリジナリティを出しているのは、土屋頭取のエンターテイナーとしてのセンスだろうか。その「OKB3」は2011年11月から始まったが、セクシーな女性の写真を使った広告自体はそれより前から行っていた【注4】。こうした路線の嚆矢は、同行では1984年の水着モデルを使ったポスターが最初だという。
 大共って面白い銀行だと改めて思った。こういう遊び心がないと、組織はギスギスしてくると思う。もっとも、心配に思うこともなくはない。頭取の打ち出す構想は遊び心に満ちているのだが、それを実行する銀行の組織は、頭取の遊び心に付いていけているのだろうか。私は、銀行のサービスの斬新さから期待される応対と、この銀行で実際に受けた応対とのギャップに、軽い失望を覚えたことがある。まあ、銀行という業態の業務内容からして、あまり形から外れすぎるのも問題なのであるが。

 さて、次の制覇目標に向かおう。[フードセンタートミダヤ養老店]である。目の前を走る養老平田線を西に走って養老町の中心部に到達すれば、ここをはじめとして養老町内がパタパタッと片付くハズだ。4か所を一気に取って、郊外にある[イオンタウン養老]に行ったら終わりである。
 時計を見ると、[珍品センター]の出発は、すでに予定より70分ほど遅れている。この調子では、自転車の返却まで含めると、ずいぶん後ろにズレ込むのではないだろうか。いちおう、スケジュールは16:10頃に養老鉄道養老駅で終了することになっているが、「16時過ぎ」ではなく「夕方6時過ぎ」ぐらいになってしまうかも知れない。レンタサイクルは、返却予定時刻を17:00としている。「めぐ」が多少延びても終電までに返せば良いのであるが、せめて夕方5時には自転車を返してスッキリサッパリ終わりたかった。
 それにしても、時速12kmという計算スピードは、相当の余裕をもって適用したハズだったが、それでも相当にキツいスケジュールであった。疲労が増してくるとスムーズにはいかないし、しかも、ここ珍品センターやさっきの輪中堤のように、面白いものに遭遇するとじっくり見てしまうから、そこで動きが止まってしまうのである。
 救急車がサイレンを鳴らして通過していった。乗せてもらいたいと少し思った。

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 【注1】現在は手のひら認証対応の機械が入っている。
 【注2】中身は通常の機械と同じであり、一般口座の客も利用は可能。
 【注3】2015年9月からユコ・ナツ・アミの3人となった。前任者と同じモデル事務所「セントラルジャパン」の所属。
 【注4】ゴールド/スーパーゴールド総合口座の2005年頃の広告から官能的な女性の写真となっている(為栗調べ)。
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2017年05月20日

2014.07.18(金)(46)養老町をヨロヨロと

 県道213号養老平田線を西に向かっている。50km/h制限、対面2車線黄色センターラインの道。道の北側は縁石で歩道が仕切られているが、南側は白のラインで路側帯だけであった。車通りが結構激しいので、縁石で仕切られた道の北側を行く。舗装のわずかなすき間から雑草が生えている。野寺の手前でも感じたことだが、よくこんなところを選んで生えてくるなあと思った。珍品センターの隣には珍品センターではない古美術店があり、その隣は看板屋。あとは「厨房レンジャー」というのは何だろう。厨房用品の中古屋さんか。というわけで、この近辺は美術とか中古品の専門業者が集まった、ある種メッカ的な場所のようであった。休耕田の向こうには、もう耕作していないと思われる温室があって、骨組だけがサビサビの状態で無残な姿をさらしている。
 建物の密度が少々上がってきて、水田も町工場など建物のすき間でやっているような感じになってきた。歩道の整備が片側だけになったり、舗装が少しガタガタになるなど、道路が古びてきた感じがする。下笠野崎という交差点には2階建ての商店の棟割長屋があるが、5店舗のうち営業している店は1軒もなかった。JAにしみの笠郷支店の前には、行政が作った「養老公園・養老の滝6km」という白の矢印看板が出ていた。輪之内町で11km先という看板を見たが、少しは近づいてきたのだろうか。
 ここまで、この道は田んぼの中をひたすら直進する道筋だったが、右に大きなお寺が見えたあたりで、道路が左右にカーブするようになってきた。前方の養老山地の山々がだいぶクッキリと見えるようになってきたし、この道は養老鉄道の手前で大きく右に曲がっているハズだから、この先が養老線の線路なのだろうと思った。前方には大垣信用金庫の笠郷支店がある。珍品センターの近所であるせいか、この集落の民家には、恵比寿様とか巨大な石像を門前に置いた家が目につく。道路と完全に同一面上にある民家は、よく見ると石垣の上に載っていて、さすが輪中地帯といえる。それから、無人精米所も相変わらず多い。
 さて、平野部で道路が曲がりくねりだしたら、地形(自然堤防)の起伏の反映であり、古い時代にできた道路ということである。道路が微高地になっていて、そこを縫うように道路が設けられているのだ。こうした微高地は、かつてそこに川があったことの反映である。平野部は高さがほとんどないので川は蛇行しやすく、その過程で何度も洪水を起こしている。洪水の時、川は上流から運んできた土砂をそこにぶちまけるから、自然の力で微高地ができる。これを自然堤防というわけである。相対的に低くなった部分は、川から見て背後にあるという意味で後背湿地という。洪水が起きた時になかなか水が引かない土地であり、逆手にとって水田はこうしたところにできるわけである。

 道が再び真っすぐになり、再び水田地帯になった。小さな集落を抜けただけだとわかって、私はかなりがっかりした。田んぼの真ん中にところどころ建つ家は、高度成長期に建てられたような外観をしていて、このあたりが養老町の郊外として発展し始めた頃に建った家だと思われた。「カラオケ居酒屋」と書いてある2階建ての大きな民家は、廃虚になっていた。
 さっきから、自転車を漕いでいて足がつりそうな感じになっている。珍品センターを出て間もなくそうなったから、かなり疲労度が上がっているようだ。足がつる兆候を感じるたびに力を入れるのをやめて漕ぎ加減をコントロールするが、漕いでいる途中に何度もそういうことをやっていては、スピードが上がるハズもなかった。
 クボタの農機ディーラーのある下笠というところで、ああ畜生、と思った。立派な歩道がここまでずっと整備されていたのに、小さな川の手前で突然途切れてしまったのである。普通なら走るところを黙って変えて終わりであるが、疲労が相当深刻になってきたのか、イレギュラーな事態にとっさに対応しにくくなっていた。さっき珍品センターで麦茶を飲んでリフレッシュしたハズなのに。しかも、珍品センターからここまでは大した距離でもないのである。ただ、後日ここを自転車で再走してみた際に気付いたことだが、やはりこの付近でペダルが重たくなってきたと感じられた。再走した日は中間地点近くの養老線烏江駅から走り始めているから【注】、さほど疲れていたわけでもないし、地形図を見てもこの区間はほぼ平坦と言ってよいから、強い向かい風が原因だろうか。なお、歩道を強制終了させたこの川は、岸をコンクリートで固めてはおらず、この近所には珍しく流れていた。
 というわけで、ここからは道の南側、歩道が途切れた向かい側を走る。大掛かりな畜産農家があって、小屋の中をチラッと見ると、飼われているのは肉牛のようであった。美濃にも銘柄牛があるようだが、このあたりで育てているのだろうか。その先には住宅地があって、水田の向こうの駐車場には政治団体の宣伝カーが何台か駐車してあった。1台は廃車のようだが、まさか珍品センターの商品ではあるまいな。大型スピーカーを積んだマイクロバスと、もう1台ワンボックスカーがあって、「尊皇」という文字が見えた。

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 【注】駅で借りたレンタサイクルを電車で運んできたのである。養老鉄道の「サイクルトレイン」については前述。
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2017年05月21日

2014.07.18(金)(47)ついにダウン

 《東海環状自動車道がここに接続します》という看板が出ている。養老ジャンクション(仮称)接続位置【注1】、だそうである。東海環状自動車道は名古屋市の周辺30km圏を結ぶ環状道路で、現在この地区では大垣西インターチェンジから養老ジャンクションまでの間が供用中である。道路予定地とおぼしき農地は、そこだけ耕作されず荒れ地になっている。ここには養老ICができるというので、県道養老平田線にはインターに入る左折車線などもすでに整備されている。道路用地の買収もかなり進んでいて、4車線にする工事は直ちに取りかかれそうだが、供用開始にはまだしばらく時間がかかるようで、出来上がった部分にはコンクリの塊の土台が付いたガードレールが置かれていた。
 サークルK(養老大跡店)が角にある大跡という交差点から、その先にある酒屋までの間は工事中で、片側通行になっていた。U字溝のようなものを道路の端に付ける工事をしている。歩道が全くないところだから、高速インターの接続に合わせて整備しているのだろう。それ以外の部分は、車線の幅だけに舗装してあるような状態で、路側帯は線が引いてあるだけで人が歩くスペースなどありはしない。こんなところで車とすれ違うのは、怖くて嫌だ【注2】。
 ヤンマーと井関農機のディーラーがある。もっと手前にあったクボタもそうだが、売っている農機はトラクターだったり、田植え機も手押し型ではなく乗って植えるタイプで、大型の機械ばかりを扱っている。田んぼの一枚一枚が真四角だし大きいし、この近所にはやはり大型の農機がふさわしいようだ。もっとも、大跡の交差点あたりからは水稲耕作があまり見られなくなり、休閑地ばかりになった。
 そして、また右も左も田んぼばかりになった。水田が減って養老の町に本格的に入ってきたと喜んでいたのに、再び水田ばかりになってしまった。まだ相当走らないと、町らしき所にはたどり着かないようだ。それでも、インター予定地の西側、養老の町に近い側では、道路を広げている。片側2車線にするようだ。道路の方は、あと50mほど西へ行くと、大きく右にカーブしている。カーブの先に見える堤の上が、確か養老鉄道ではなかったかと思う。
 もう少しで養老の町に入る。町に入ってしまいさえすれば、4か所はすぐに回れるハズだ。そう思ったが、どうにも動く気力が出ない。とうとう私は、自転車を降りてその場でへたり込んでしまった。

 どこかの会社の倉庫らしき施設であった。建物前の車を切り返すスペースだが、業務の気配はもとより人の気配も全く感じられない。何の倉庫か知らないが、建物は割合最近建てられたようで、外壁なども汚れてはいなかったし、アスファルトの舗装も真っ平らである。時折、目の前の県道を車が行き過ぎる音がした。
 私は、アスファルトの上で体育座りのまま、しばらくぼんやりしていた。夏の盛りで直射日光も強いハズだったが、アスファルトの上にいても、熱さも暑さもあまり感じなかった。

 10分ぐらいも座っていただろうか。少しは疲れが取れたと思った。自転車漕ぎを再開しなくては。私にはまだ行くところがあるのだ。ちょっと前から太陽は翳ってくれたし、風が結構吹いているので、だいぶ過ごしやすくはなった。自転車は相変わらずペダルがガタガタいっている、ママチャリに毛が生えたぐらいの自転車で、よくここまで走ってきたと思う。ここまで、地形の起伏が多くなかったのが幸いしたのであろう。
 さて、養老町の中心部に向かう道は、倉庫の先から大きく右にカーブしている。道路の脇はちょっとした丘のように小高くなっていて、その上に水防倉庫が建ち、木がうっそうと茂っている。養老鉄道ではなく、手前を流れる川の堤防であった。セーラー服姿の女子高生を自転車で走らせてみたい雰囲気で、ちょっと心惹かれるものがあるが、行かない。水防倉庫のあるあたりには、側面を石垣で固めた幅2mぐらいの川が流れている。後で調べて驚いたが、この川はサイクリング冒頭で駒野から高須へ向かう途中に渡った、津屋川の最上流部だそうである。
 さらに先へ進む。道の左には、茅葺き屋根の建物が建っている。正確には、茅葺きに似せた屋根を持つ鉄筋コンクリートの門構えだが、門はバリケードで塞がれている。営業はしていないのだろうが、それにしても川にドボドボと大量に排水を流しているのが謎であった。敷地内には4階建てのビルが建っている。和テイストの不思議な外観で、和風建築としてはチープな感じ。温泉旅館を大きくしたようなホテルだったのだろうか。その隣は、発泡スチロール製造販売の工場であった。
 道がまた右に曲がりだした。水田地帯のはるか彼方に、金色の卵みたいなものが見える。その横には、博多駅前にある西日本シティ銀行の本店を2階建てにしたような、赤茶色のタイルで覆われた平たい建物が建つ。金色の卵は、温泉ホテルの温浴施設らしい。養老町の水田は、休閑地ばかりのようであった。市街地が近づいてきたせいだろうか。

 ここまで来て、私の足は再び止まってしまった。おそらく、私はいま“ガス欠”なのだろう。考えてみたら、今日は朝に関西線の電車の中で幕の内弁当を食べただけ。途中のコンビニでファミチキ1つ、から揚げ3個。あとは水ばかり。バテるハズである。定食、せめてコンビニ弁当ぐらいは食べなければダメだ。幸い、次の目的地は「フードセンタートミダヤ」という。さっきの[珍品センター]は“珍品の店”であったが、「フードセンター」というからには食べ物を売っている店なのだろう。
 まさか、フードは「頭巾」の意味なのだろうか。そんなバカなと思うけれども、植田まさし氏の4コマ漫画を思い出してしまったから、どうしようもない。それは『まさし君』の一話で、ナットナットナットー、と自転車に乗って朝からナットを行商するのだ。買いに来た客に「で、ボルトのサイズは?」と尋ねるセリフが印象に残っている【注3】。
 それにしても、延々と続くこの道は、いつになったら終わるのだろうか。

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 【注1】看板の表示は、この位置にできるインターから養老JCTに接続する、という意味のようだ。
 【注2】現在は歩道が整備されている。
 【注3】植田まさし『まさし君 2』芳文社、1982年。16ページ左に掲載の「朝もはよから」。
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2017年05月22日

2014.07.18(金)(48)「フードセンター」は何の店か

 右前方はるか彼方に、赤い縦型で、上下が細くなった看板らしきものが見えた。あれは、十六銀行の看板だろう。この色でこの形なら、文字が読めなくても何の看板だかわかるわけで、十六銀の看板が持つ視認性の高さに驚いた。事前のリサーチによれば、あそこにある十六銀は養老支店のハズで、そうするとその向かい側には大垣共立銀行の押越出張所がある。養老の町はすぐそこだ。銀行が見えるところまで、ようやくたどり着いたのだ。腹の底から喜びがわき上がってくるのを覚えた。
 左にサトイモ畑を見ながら、養老の町に向かって微妙な上り坂が続いている。しばらく来ると、踏切の警報機が鳴っていた。ここで小休止。養老鉄道の踏切で、名前は石畑といった。以前連載で取り上げた都バスの[梅70]に〔石畑〕という停留所があったのを思い出した。バス停のある東京都瑞穂町とこの近辺とは、水田地帯から若干標高が上がった畑作地帯であることが共通しているように思う。いま地形図を見てみると、標高は珍品センターの近くで1mくらい、この近所では13mほどとなっている。桑名行きの3両編成が通り過ぎた。乗客は全部合わせて6〜7人だろうか。
 踏切を越えた先には、行政がつくった白い矢印看板が出ている。この先の突き当たりを左へ2km行くと養老公園だそうだ。「養老公園11km」という看板のあった輪之内町の福束大橋東側から、少なくとも9kmは走ってきたわけである。こうして、踏切の先にある石畑の信号までやって来た。左へいくと看板にあった養老公園で、養老の滝を筆頭に、養老天命反転地、パークゴルフ場、こどもの国、などファミリー向けのレジャー施設を持つ一大観光地である。ここの突き当たりはy字形で、左の養老公園方面では明らかに方向が違うから、右に行かざるを得ない。y字のまたの部分は、出光のガソリンスタンドであった【注】。
 すぐ横にもう1つy分岐があって、この交差点はトータルで見るとy字分岐が2本連続している。地図で見ると五差路に見えるけれども、そのうち1本は現地では全く気付かない程度の細い道だし、といって四つ角というには、2つのy分岐の間に若干の距離を感じた。メインの道路は養老の滝の方から来て分岐を左へ行く道であるから、主要な交通の流れとしては「π」の字みたいな形と言った方がふさわしい。
 私は2つ目のy分岐を左へ進む。歩道が完備された道になったけれども、道路は相変わらず黄色センターラインの対面2車線であった。近所には老人ホームのようなものが建っており、また「酒激安」という種類の酒屋があった。道路の交点では、鋭角の部分にコンビニが出店することが多い気がするが、酒屋はそのコンビニが閉店して業態転換したようだ。右斜め前方には養老警察署。その近所にファッションセンターしまむらが見えたりするから、このあたりは養老町の市街地のはずれで、それなりに生活の都市化されたエリアであると思われる。今も開発は続いているようで、畑が1枚埋め立てられて、とりあえず駐車場になっている。そのうち何か建つのだろう。

 養老警察署の向こうに赤い看板が見えた。あれがフードセンタートミダヤではないのか。そう思って目を凝らして文字を読むと、その看板は確かにフードセンターのものだったが「右折200m」と書いてあった。何だ、まだ行くのか。軽い失望を感じながら自転車を漕ぎ進めた。フードセンターの他にも、前述のしまむらの他、ホームセンターのカーマとかいった看板が見える。道路沿いにある民家の玄関先には、立派な信楽焼の狸が置いてあった。珍品センターで買ったのだろうか。
 こうして、赤い看板のある角までやって来た。ここを右に入って200m。道を渡ろうとするが、横断歩道も信号もないところなので、なかなか向こうに行けない。この道、県道56号南濃関ヶ原線は交通量がかなり多くて、走る車もトラックばかりであった。
 ようやく車の列が切れ、私は道路を渡ることができた。この角には、「飛騨牛」と大書した赤い看板も立っている。平屋建てで窓の大きな、レストランのような建物が建っているが、ここはこの地域の有力な地場企業である食肉会社の本店。さっき見た肉牛を飼っている牛小屋と関係があるのだろうか。まあ、牛肉の産地については色々と定義があるそうだし、それ以前に「牛肉」であるのは間違いないだろう。本店の西側には、西武秩父駅(埼玉県秩父市)の「仲見世」のごとく小規模な飲食店が並んだエリアがある。「養老うまいもん広場」と称して観光客を集める施設らしい。養老町のこのあたりは、基本的にはどこにでもある郡部の中心地のようだが、養老の滝という有名観光地の膝元だから、こうした観光客向けの飲食店があるのが普通の田舎町との違いである。
 食肉会社の奥は、カーマというホームセンターである。東海・北陸を地盤とするホームセンターチェーンであり、初めて見る屋号であった。左奥に見える学校は、後で調べたところでは町立養老小学校であった。さっき養老警察署のそばに歩道橋があったが、この学校の児童が主要な利用者なのであろう。
 さあ、いよいよ「フードセンター」のベールを剥ぐ時が近付いてきたようである。

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 【注】除却済み。
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2017年05月23日

2014.07.18(金)(49)[フードセンタートミダヤ養老店]を制覇

 カーマの北隣、広大な駐車場の奥に、白緑色のパラペットを持つ平屋建ての建物があった。見るからにスーパーマーケット臭い外観だが、これがそうなのだろうか。思う間もなく、パラペットには赤文字で「Tomidaya」と大きく書いてあった。ああ、ようやくフードセンタートミダヤにたどり着いた。
 敷地の関ヶ原寄り、小学校が見えるところから入った。敷地は白いフェンスで囲まれているが、建物に近いところにフェンスの切れ目があって、出口という赤い看板が出ている。私は自転車なので構わずそこから乗り入れた。
 建物は、乗り入れてしばらくは壁が続く。薄い白緑色の外壁に沿って、窓の多い部分を目指す。店頭のガラス張り部分が始まり、通路として奥に1段引っ込んだ。メイン入口は建物の角に近い部分のようで、パラペットが丸めてあるのが見える。ガラス張りの部分はメイン入口のところでさらに奥に引っ込んでおり、その前にはグレーの円柱が何本か付いてピロティのようになっていて、駐輪場だったりカートを置いたりのスペースになっている。そこから曲がった先は、ピロティは催事場として使える広いスペースとなった。駐輪場としても使われているようで、《せいとんよくならべましょう》という立て札が立っている。私は自動ドアから店の中に入った。ああ、飯が恋しい。
 さて、いらぬ心配をしてしまったが、この「フードセンター」は、やはり「頭巾店」ではなくスーパーマーケットであった。しかし、空腹を満たすことはかなわなかった。食事を買って食べようと店内に入ったのだが、このスーパーの建物は想像以上に大きかった。売場面積2000uというから郊外では平均的な食品スーパーだと思うが、総菜売り場は入口から対角線の反対側で、そんな遠いところまで歩く気にはとてもならなかったのである。まあ良い。次に向かう途中にコンビニぐらいはあるだろう。大共の制覇を済ませよう。

 手ぶらで店を出た。入口の自動ドアの前からは、さっき養老警察そばにあったファッションセンターしまむらが見える。見回すと建物は結構年季が入っていて、クモの巣が張っていたりツバメの巣を取り払った跡があったりするから、さほど新しいスーパーではないようだ。敷地は三角形で、フェンスのすき間から隣の駐車場【注1】に抜けられる。三角形の敷地に合わせて駐車場も三角形に配置されている。ここの駐車場はトータル何台ぐらい置けるのだろうか。さっきの大共船附出張所で20台とすると、100台ぐらいは置けると思う。郊外型スーパーとしては平均的だが、今となっては流行らないスタイルと思われた。
 フードセンタートミダヤ養老店のキャッシュコーナーは、店の東側であった。外壁に、ガラス張りでアルミの枠が付いたキャッシュコーナーと、クリーニング屋が出っ張っている。自動ドアは押しボタン式の両開きである。
 ここは3つの金融機関が共同で使用しているキャッシュコーナーで、自動ドアを入ると3機関3台分のATM枠がある。左から順に大垣共立銀・大垣信金・JAにしみのが各1台ずつATMを設置しており、閉鎖された空き枠はない。大共の営業時間は10時〜20時で年中無休、トミダヤの休業日はお休みとなっている。母店は養老支店。機械は沖電気のバンキットが1台だけで、ここは手のひら認証に対応していた。
 例によって機械を操作する。いらっしゃいませ。ピ。ピ。ガー、バタバタバタ。ガー、ピ、ガー、バタバタバタ。ピ。ありがとうございました。15:37、[フードセンタートミダヤ養老店]を制覇した。

 養老支店フードセンタートミダヤ養老店出張所は、養老支店5番目の店舗外ATMとして、スーパーが開店した1997年5月に開設された。出張所名は後述の理由により2016年2月1日付で[トミダヤ養老店]と改称されている(通帳の表示は変更なし)。大共の出張所名変更は、養老店だけでなく、他のトミダヤ店内にある店舗外ATM3か所(島・三田洞・池田)でも同時に行われた。
 フードセンタートミダヤは、大垣市の潟tードセンター富田屋が経営していたスーパーマーケットである。1945年9月に大垣市内で生鮮食品小売店を個人創業し、1970年にスーパー「トミダヤ」1号店を大垣市内に出店。以降、西濃地区を中心に22店舗を展開し、当地区の有力な小売チェーンに成長した。2005年には約339億円を売り上げたが、その後は不振に悩み、2014年には売上高約178億円とピーク時の約半分となってしまった。2011年から中堅スーパーのオークワと業務提携を始めたものの、2013年には解消。メインバンク(大共と大垣信金)から資金支援と経営者派遣を受けて自力再建を目指していたが、スポンサーを見つけて地域経済活性化支援機構【注2】の支援を受けることとなった。スポンサーになったのは、大阪の中堅スーパーマーケット、コノミヤ【注3】である。事業は同社の新規設立子会社である潟gミダヤ(瑞穂市)に2015年11月営業譲渡され、法人としてのフードセンター富田屋は清算された。店舗の屋号表示は当面「フードセンター」の文字が付いたままだが、これから徐々に「トミダヤ」だけになっていくのであろう。

 次の制覇目標は、どこにしようか。養老町の中心部には、このトミダヤをはじめとして大垣共立銀行の拠点が4か所固まっている。固まりの最初がトミダヤ、最後が[養老町役場]であるのは漠然と頭にあったが、間の2か所がどうなるかである。養老支店と押越出張所だが、取りこぼしさえしなければ、どんな順番でも構わない。トミダヤから北上してY分岐を右に入った奥に、十六の養老支店と大共の押越出張所が2つ向かい合っているようだ。まずそちらに行ってみようと思う。

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 【注1】その後ドラッグストアの店舗になった。
 【注2】地域経済活性化支援機構:本社東京都千代田区。2009年10月滑驪ニ再生支援機構として設立され、日本航空などの再建を担う。2013年3月現商号に変更。株式会社地域経済活性化支援機構法に基づいて地方中小企業の再生支援を行う政府系ファンドで、株主は預金保険機構と農林中央金庫。支援先に直接融資するほか、経営の専門人材を派遣する。実際の支援は地方銀行などと提携するケースが多い。
 【注3】コノミヤ:大阪市鶴見区に本社を置くスーパーマーケット。1957年に衣料スーパーとして創業したが、火災事故により廃業し、1962年に大阪市城東区鴫野で出直し創業、1971年に法人化した。2011年から東海地区に進出。社名は「好まれるスーパー」を目指したもの。
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2017年05月24日

2014.07.18(金)(50)続いて、押越出張所を制覇

 トミダヤの東側を南北に走る大通りに出たところに、ニューディスカウントストアと書いてあるスーパーの空き店舗があった。「フードパワーセンター ケイ・バリュー」という看板が残っているが、鉄骨などはサビサビだし、廃業してずいぶん経つようだ。この店舗跡は[松山]のところで触れた「かどます」が経営していた店舗の一つで、ケイ・バリュー高田店(かどます高田店改め)である。かくのごとく、この近所には個人商店よりは規模の大きな商業施設が、残骸も含めて複数あるのだった。
 そんな様子を見ながら、対面2車線黄色センターラインの道を行くと、NTTの営業窓口のしもたやとスーパーのそれが面する、押越南という交差点。ここで、県道215号(養老垂井線)と96号(大垣養老公園線)が分かれる。交差点名は押越南だが、地名でいうとここも石畑となる。交差点の北側に、JAにしみのの高田支店が見える。農協そのものに少し触れておこう。1999年7月、美濃西部の6つのJA【注】が合併して「JAにしみの」になった。ここは旧JA養老(養老郡農業協同組合)の本店で、広大な前庭に相当大規模な植え込みがあったりするなど、合併前の農協本店として一定の風格が感じ取れる。
 私は押越南で右に曲がる。やはり対面2車線黄色センターラインの道が続いていて、こちらも交通量が多い。このあたりは水田と住宅地が半々ぐらい。開業医の隣にチェーンのドラッグストアがあったりする。すぐ右前方に大垣共立銀行の縦型の緑看板が見え、その向こうに十六銀行の赤い看板もあった。1991年6月開設の養老支店は、この町唯一の十六銀の店舗である。石畑の手前で養老町の中心部が近いことを知らせてくれた、あの赤い看板のそばまで、私はようやくやって来たのであった。
 自転車で近付くと、大共の敷地の手前に関心を引くものがあった。押越出張所の南側隣地は舗装された空き地で、「ハッピー養老タウンお客様駐車場」と書いた立札が立っているが、ロープで塞がれている。ハッピー養老タウンというのは、閉店したスーパーマーケットの名前である。ヤナゲンストアー養老店として、現大共押越出張所の北側に1976年に開業したが、2010年1月に閉店した。もともと店舗は平屋建てだったが、1990年10月に2階建て4700uと3倍に増床し、その際に大共養老支店の店舗外ATM[ヤナゲンハッピー養老タウン]が設置された。2010年1月の平和堂養老店(ヤナゲンハッピー養老タウン改め)の閉店と同時に、大共のATMも廃止されている。
 ヤナゲンについて解説を加えておこう。もとは明治時代に大垣で創業した呉服店で、戦後にデパートを開業して躍進した。メインバンクは大垣共立銀行で、大垣駅前にあるヤナゲン本店の1階には、現在も大共の大垣駅前支店が入居している。1990年代後半から業績が下降してスーパー部門の分社化などが行われ、2005年には滋賀県地盤のスーパー、平和堂の傘下に入った。現在では大垣駅前の百貨店と大垣市郊外の家具店を各1店運営している。ヤナゲンのスーパー部門は分社化後、平和堂子会社との合併を経て、現在では平和堂の本体に吸収されている。

 大共の店舗の横に自転車を置いていたら、ギーッとブレーキ音がしたかと思うと、「通ります」と言って女性の自転車が後ろから私の横を走り抜けていった。ああびっくりした! 私は少しぼんやりしていたようだ。邪魔をしてしまった。
 押越出張所の建物は少し面白い形になっていて、前から見ると敷地の形に合わせて丸まっている。上から見ると、Dの字を潰して平たくしたような形をしている。丸めた壁面の下に、V字形にガラスを組み合わせた出入口兼風除室がある。直角二等辺三角形の風除室のおかげで、道路側と駐車場側の両方から入れるようになっている。自動ドアを2枚通って風除室を抜けると、広々としたロビーであった。グレーの2人がけのソファが3脚並んでいる。すでに3時を回っているから、窓口の部分にはシャッターが下りているが、この時間にくつろげるのはありがたい。
 私はここに来るまで、大共は将来的には養老支店をここに移転して統合する計画ではないかと思っていたが、どうも違うようである。押越出張所は建物を見ると狭小で、相談ブースなどもなさそうだし、はじめから出張所としてつくられた建物であると思われた。なお、押越出張所の窓口が営業している様子を後日見たが、シャッターが開くといきなり窓口のカウンターという配置で、大共の有人出張所としては標準的なスタイルであった。
 キャッシュコーナーには4台分の機械枠があるが、2台しか入っていない。ATMの機種は沖電気の「バンキット」。向かって右側の1台が手のひら認証対応であった。機械を操作。15:50、養老支店押越出張所を制覇した。
 制覇作業で入金をする際、ATMで「確認」のボタンを押さなければいけないところ、誤って「金額指定」のボタンを押してしまった。致命的ではないけれども、操作が一手間増えてしまった。頭に回るハズの栄養がもはや体内から搾り出せないようだ。

 養老支店押越出張所は、1990年12月に現在地に開設された。

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 【注】大垣・ごうど・あんぱち・海津・養老・不破の各JA。
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2017年05月25日

2014.07.18(金)(51)押越のコンビニにて

 次は養老支店に向かう。この県道をさらに北に行き、郵便局の手前で左に曲がればいいらしい。それが終わったらすぐに[養老町役場]が続く。
 出張所の敷地北側は、すぐ奥が養老鉄道の踏切になっている。その道を挟んで北隣に、前述したヤナゲンハッピー養老タウンがかつてあった。現在ではセブンイレブンと太陽光発電所になっている。めぐ当日時点では更地だったと思われるが、記憶がない(少なくともセブンイレブンは存在していなかった)。養老鉄道と県道大垣養老公園線が南北に並行に走っているこのあたりは、道の右(東)側で水田が多い感じであった。今朝乗った養老線でも、車窓の風景は同じ傾向を示していた。すぐ西側に養老山地が迫ってきているから当然のことである。
 県道を頑張って漕ぎ進めていくと、オアシスを発見した。大駐車場完備の平屋建てコンビニ建築。しかも、ここにあるのはイートインコーナーを標準装備しているコンビニチェーンの店であった。おお、ここだったら座って食事ができるか。こんな中途半端な時間に食べたら太ってしまうが、今日はガス欠状態のままここまで引っ張っている。ちょっとさすがに飯を食べよう。私は店の名前のとおり“小休止”することにした。コンビニの向かい側には、このあたりとしては大きな病院がある。JAグループが経営しているらしく、JAのマークがでかでかと掲げられていた。
 正面入口の横に自転車を置き、店内の弁当コーナーへ。チキンカツの弁当を買うことにした。茶飯というのか醤油を入れて炊いたご飯と、ケチャップで炒めたスパゲティ、それに鶏むね肉の照焼の薄いものが1枚入っている。それがチキンカツとは別に、であるから、腹は結構膨れそうである。ガラスの冷蔵庫から飲み物を取って、弁当と一緒にレジカウンターへ。
 会計のついでに、養老支店までの道筋を念のため地元の人に確認しよう。ふとそういう考えが頭に浮かんだ。何しろ私は、午前中に痛い目にあっている。意識や思考力はだいぶ薄れてきているが、用心深さはまだ残っている。カウンターで私の会計をした若い女性の店員に「大共の養老支店はこの先を左でいいんですよね?」と尋ねてみた。まだ十代だったかもしれないが、さすがに高校生ではなかったと思う。
 きょとんとされてしまった。なぜだろうと思ったら、まず「ダイキョウ」がわからなかったらしい。大垣共立銀行のことだと言うと「そこにありますけど」と返事が返ってきた。は? そこは押越出張所という違う店で、養老支店というのが別にあるんだけど。苛立ちを極力抑えてこういう趣旨のことを聞くと、「ちょっとそこしかわからないです」と困惑しきったような表情で言われてしまった。地元の人なら大共が町に2つあることは知っているだろうに、少し知識が無さ過ぎないか。この人は遠方からバイトに来ているのだろうか。それとも若過ぎるせいか。知らないことを非難はしないけれども、疲れているのに、こんな無意味なやりとりは勘弁して欲しいと思った。
 まあ、疲れていたとはいえ、やはりこうしたことは基本的に他人に頼らずすべて自力で解決すべきであった、と今は思う。

 それでもどうにかレジで会計を済ませ、いよいよイートインコーナーにやって来た。そこで私は愕然とした。何だこれは!
 満席だったのである。入口入って左側にあるこの店のイートインコーナーは、レジからは見えない【注】。レジカウンターのうしろ側はバックルームになっていて、イートインはバックルームと外面ガラスとの間のスペース。そこに、ファストフード店にあるような四角い小テーブルが4つと、丸い回転イスが8脚置かれている。問題なのは、テーブルの配置が2つ×2つに分けられていたこと。だから、そこに4人しかいないのに、テーブルが4つ全部使われていたのだった。
 特に許せないのが、1組のカップルであった。こいつらは、2人でテーブルを2つ使っている。テーブルが2×2ではなく4つにバラしてあれば、2人で4人分取るようなことはなかっただろう。ふざけるな、1つにしろ。だいたい、カップルならもっとカップルらしいことをしたらどうだ。1つの飲み物にストローを2本挿して2人でチューチュー吸うとか。それならテーブルが1つ空くだろう。この場合、別の意味で許せない思いになりそうだが、今の私にはこちらの方がまだ数倍マシだと思えた。
 いずれにしろ、すっかりアテが外れてしまった。こういうのは、多くの人が使えるように、店がちゃんと管理していなくてはダメではないか。イートインはこのチェーン唯一の取り柄なのに。仕方がないので、酷暑の中を外に出る。店の周囲には腰をかけられるものがほとんどなく、駐車場の車止めが最も高い突起物であった。高さ15cmぐらい。こんなところに座るのは、ほとんど地べたに座っているのと同じである。
 食べ終わって片付けようとしたら、ちょうどそこに風が吹いて来て、弁当に入っていた緑色のバランを吹き飛ばされてしまった。腹が立っているので、気が付かなかったことにした。消化不良感だけが大いに残った。

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 【注】このコンビニは2016年1月に同じ敷地内の北側に新築移転し、店内の配置も大きく変更された。旧店舗は現在コインランドリーとなっている。
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2017年05月26日

2014.07.18(金)(52)「やま」の際立つ美濃高田

 制覇目標はあと3か所で終わりであるが、まだ先は見えていない。最後の[イオンタウン養老]が遠いところにあるのだ。でも、コンビニ弁当を食べて、エネルギーが補充されたハズだ。頑張って行こう。養老支店は、さっきのお姉ちゃんとの無意味なやりとりとは関係なく、この先にある養老郵便局の手前を左に曲がっていけばよいのであろう。
 相変わらず対面2車線黄色センターラインの道が続いている。両側に墓地が広がっているところがあった。道路と川と養老線の線路とで三方を囲まれたところが墓場になっている。流れる川は牧田川の支流で金草(かなくさ)川という。養老線はこの川に、橋げたの上に直接まくら木を置いてレールを敷くタイプのグレーの鉄橋を架けている。
 信号2つ目が養老郵便局のある角。厳密には養老郵便局は角ではなく、角から3軒目である。この交差点のあたりから、煮しめたような焦げ茶色の木造建築が急に増えてきた。養老町の旧市街地、高田に突入したのであった。この交差点は、高田東町という。四つ角だが、東西方向はクランクになっていて、東行きが少し南に寄っている。交差点の南西角にある民家は2階建てで、外壁トタン張り。桁の部分が妻面に3つぐらい顔を出しているが、これはいったい何だろうか。トタン張りの前に、大垣共立銀行養老支店、西へ200mという緑色の看板が出ていた。やはりここで間違いないのであった。
 西に漕ぎ進めようとして、交差点の北西角に目が行く。背の高い木造の家があった。高さ自体は隣に建つ2階建てと同じくらいであるが、建物としては平屋建てで、横幅は3mほどしかなく細い。何だろうと思ったが、道のすぐ南側にも、同じ趣旨と思われる背の高い平屋建てを見つけて、謎が氷解した。これは山車庫、山車の車庫なのであった。扉に、岐阜県重要有形民俗文化財、高田祭曳軕、■■■東軕組【注】と大きく書いてある。この近辺の祭りは、山車を引き回すようである。北西角にある山車庫の前にはプランターなどが無造作に置かれており、扉ももう何年も開けていない雰囲気である。一方で道の南側、角から2軒目にある山車庫は、建物がずいぶん新しいようだ。ここには2台の軕があるのだろうか。それとも県道に面した建物が老朽化したので、南西角に移したのか。いずれにしても、ここでは新しい建物を建ててまで山車を大事にしているわけである。
 後で調べたことを書いておくと、美濃高田の祭礼である高田祭は、毎年5月の第3土・日曜に行われる。軕は「やま」と読み、祭りで曳き回される山車のこと。美濃地方の西部では一般的な言い方である。この商店街の先にある愛宕神社の火の神を祀る防火祈願の祭礼で、江戸時代中期から行われており、現存する3つの軕もその頃からいまに続くものだという。ということは、高田の軕は3台しかないわけで、ここに2つあるのはおかしいようである。

 養老郵便局と山車庫のある交差点から、大共養老支店があるハズの商店街に入ってきた。この道は「中心商店街」という。味もそっけもない名前だが、そういう名称なのである。この通りが、養老町の中心市街地、高田のメインストリートである。道路はセンターラインがないが、離合はできる。今日走ってきた今尾とか高須の商店街をもう少し近代的にしたような印象であった。今尾の商店街に似ているが、今尾よりは新陳代謝があったと見える。
 由緒ありそうな神社がある。新しい山車庫の隣にある中日新聞の専売店は、銀行の支店のような堂々とした建物で、3階建てのたいそう立派なビルである。国際学習会館というのは何だかわからないが、建物としては新しい洋館であった。呉服店がまだ営業している様子である。商店建築の入母屋は斜めの部分が微妙に丸めてあるとか、鬼瓦とは別にしゃちほこが付いているとか、妻に桁の出ている古い建物ばかり。営業している店舗はすっかり無くなってしまっている。商店建築だったとおぼしき店も普通の民家になっているとか、壊して更地、あるいは駐車場になっているところが多い。ただ、公衆トイレがあったり、老人福祉センター(ではなかったのかも知れないが)があったり、それなりに人の集まるところだったのであろう。
 昔懐かしい旅館があって、その西側から看板が残っている商店建築が増えてきた。でも買い回りの出来そうな店は全くない。地域の皆さんはもうこの商店街からは遠ざかっているのであろう。旅行代理店。写真館。洋品店(多分)のしもたや。立派な換気扇吐き出し口のついた総菜屋のしもたやは、モルタル2階建ての共同市場みたいな建物であった。その隣は2階の窓がおしゃれに成形してある土蔵建築だが、瓦が波打ったりなど老朽化している。「宅急便当店から送れます」としか出ていないが、こういう幟を出しているのは、今も荷物の発送を受け付けているのだろうか。その隣にあるお茶屋さん(茶葉を売る店)は平屋建てだと思われるが、2階建てと同じぐらいの高さの屋根を持ち、相当広いようだ。理容院は赤青回転灯が健在である。さらに洋品店、美容院、貸しガレージとあって、大垣信用金庫の店舗外ATMと続いている。その向こうには洋品店と呉服店があった。衣食住とあるうち、商店街からは食物系の店が最も早くなくなり、衣類系と住居系の店は比較的残りやすいようである。

 大垣信金の店舗外ATM、高田出張所は、建物は営業していないけれども営業店そのものであった。3台分の機械枠にATM1台だけを稼働している。母店の養老支店は南西に300mほどの県道養老垂井線沿いにあるが、かつて支店はこの場所にあった。支店が1992年7月に新築移転した後、跡地にコンクリ打ちっぱなしのハイカラな建物を建て、1993年2月から高田出張所という有人出張所にしたのだったが、2003年9月に統合してしまった。
 さらに歴史をたどると、かつてここには東海銀行(現三菱東京UFJ銀行)の養老支店が置かれていた。東海銀の養老支店は、大垣支店高田出張所として1945年10月に開設されたもので、翌年9月には高田支店に昇格。1955年12月にこの場所に新築移転すると同時に養老支店に改称した。1966年3月に撤退した後、同年6月、別の場所で営業していた大垣信金が東海銀の空き店舗に引っ越してきた。岐阜県の有力地銀である十六銀行は、養老支店を出す1991年6月まで養老町には店舗が皆無で、それを思うと短期間とはいえ都市銀行が出店していたという事実に驚かされる。なお、三菱東京UFJの大垣支店は、1882(明治15)年に大垣銀行として現大垣市に設立されたのが始まりである。

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 【注】■は人名。
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2017年05月27日

2014.07.18(金)(53)養老支店を制覇

 商店街を進んでいくと、道の右側に、大垣共立銀行の緑色の縦型看板が見えた。一瞬喜んだが、喜びと同時に全然別の苦痛を感じていた。ここまで来て、またもや足がつりそうなのである。今度は右の太ももであった。体力のなさに、自分でつくづく嫌気がさしてくる。
 右足を庇いつつ漕ぎ進んで、大共養老支店に着いた。大共養老支店は、道の北側、信金の斜め向かいといってよい場所にある。窓の大きな2階建てで、今の基準でいうと耐震などは大丈夫だろうかと思ってしまう。1階入口右側の窓前に自転車置き場の屋根があるので、そこに自転車を置いた。いちおう自転車置き場だが、自転車を置く人は少なくて、ATMの客が車を置くところになっているようだ。駐車場がないわけではなくて、後日支店の周りをうろついてみると、支店の裏に7台分ほどの駐車場がある。茶葉店の向かい、化粧品店の横に入口があった。そこに入れるのはたしかに少し面倒臭そうであるが、やはり車持ちの人にはちゃんと専用駐車場に入れて欲しい。なお、正規の駐車場に加えて、その北側に40台ぐらい置けそうな広大な月極駐車場があり、大共がそのうち9台分を契約している。
 さて、養老支店のキャッシュコーナーは機械3台分の枠があり、そこに3台の機械が嵌まっていた。2台あるATMは、沖電気の「バンキット」。そして、今日大共の店舗で初めて見る機械が1台。それは、両替機であった。キャッシュコーナーの右端1台分を、両替機で使っている。ATMが2台というのは、この近所ではごく標準的である。2台のATMのうち生体認証対応がどちらの機械であったかは、記録を取るのを忘れてしまっていた。
 というわけでATMを操作。16:18、養老支店を制覇した。

 養老支店は、1896(明治29)年4月、大垣共立銀行高田支店として開設された。当初の所在地は多芸郡高田町大字高田41番戸で、1899年9月に大字高田159番戸に新築移転した(現在のどこに相当するかは判明せず)。高田(現養老)支店は、大垣共立銀行の支店の中で最も古くからある店で、銀行が開業した際に設けられた3支店(揖斐・高田・垂井)のうちの一つである。支店の開設は、本店のある安八郡大垣町(現大垣市)周辺の米穀・養蚕地域を営業範囲とするためであった。
 1910(明治43)年4月、大垣共立銀行は真利銀行(大垣市)を合併、高田支店はこれに伴い旧真利銀行の高田支店に移転した。以来ここが、現在に至るまでの支店所在地となる。真利銀行は、もとは東本願寺大谷派の本山志納金を取り扱う目的で現大垣市岐阜町に設立された真利宝会という金融機関であった。1885(明治18)年4月に銀行業務を兼営し、1893年10月に真利銀行に改称。その後、1904(明治37)年の金融恐慌で経営が悪化していた。真利銀の高田支店は1898(明治31)年に開設された。
 大共は1921(大正10)年4月に高田町の養老銀行を買収している。養老銀行は1920年に地元有力者が設立した銀行で、書類上は長野県上諏訪町(現諏訪市)にあった甲信銀行が当地に本店を移転して養老銀行に改称したもの。高田支店が業務を引き継ぎ、店舗は一之瀬派出所(大垣市上石津町一之瀬)のみ引き継いだものの数年で廃止した。当時は銀行の営業免許を新規取得することが難しかったので、既存の銀行の営業権のみ売買されるケースが多かった。長野県から岐阜県に移転した本件もその一つで、本店が移転するという形をとるのが特徴である。
 1956年5月に店舗を改築した機会に、高田支店は養老支店に改称した。それに先立つ1954年11月の町村合併で、所在自治体の名称が多芸郡高田町から養老郡養老町に変わっていた。現在使用している店舗は、その後さらに1975年10月に改築されたものである。
 養老支店は、大共最古の支店だけに出張所の数も多く、最盛期には船附・押越・上石津と有人出張所を3つ持っていた。船附は無人店舗になり、有人で営業している押越はさきほど押さえた。上石津出張所というのは、養老町から養老山地を越えた旧養老郡上石津町にあって、現在も地域唯一の銀行として営業している。養老支店の管内ということで、今回制覇目標とする考えもあったが、2006年3月の合併で大垣市となっており、外した。
 店舗外ATMについても記述しておきたい。養老支店の店舗外ATMは、これまでに7か所が設置され、そのうち2か所は廃止されている。ヤナゲンについてはすでに述べた。ここまでで全く触れていないのは、養老支店の店舗外ATM設置第1号[美津濃養老工場]である。美濃高田の中心街の北側、スポーツ用品メーカー美津濃の工場内に、大垣共立のATMが1984年8月設置された。同ATMは、一般の利用者が立ち入ることのできない場所にある「企業内ATM」と呼ばれるものである。1943年に開設されたこの工場では、主に野球バットやゴルフクラブを製造しており、米国メジャーリーグ選手のイチロー氏はこの工場のバットを長年愛用しているという。工場は美津濃の製造子会社ミズノテクニクスの本社工場として現在も稼働しているが、工場内の大共ATMは2003年度に廃止となった。

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2017年05月28日

2014.07.18(金)(54)続いて[養老町役場]を制覇

 次の制覇目標[養老町役場]は、さっきの高田東町の交差点まで戻り、県道96号大垣養老公園線を北に向かった右側にある。
 養老郵便局前の四つ角まで戻ると、もう背の高い役場の建物が見えていた。高田東町交差点を左に曲がって漕ぎ進んでいく。この縦の通りは、協進町通りというそうだ。高田の「中心商店街」と同じような感じで土蔵建築が多いけれども、だいぶ建物が歯抜けになっている。県道沿いは商店街の中より更地の率が高い。
 ほどなく、養老町役場右という白い矢印看板に遭遇する。英語の表記は「Yoro town office」となっている。これが目指す養老町役場であった。4階建ての庁舎はさっきから見えているけれども、キャッシュコーナーはどこにあるのだろうか。それは役場の敷地の中に曲がり込んではじめてわかった。3つの金融機関(JAにしみの・大垣共立・大垣信金)が横に連続した共同ATM小屋が、役場の駐車場入口横、火の見やぐらの根元にあった。このタイプの店舗外ATM小屋は、大共に限らず市役所や町役場でよく見かける。さっきの[フードセンタートミダヤ養老店]とキャッシュコーナー内部の形態は同様だが、前者が建物の外壁にあったのに対し、こちらはキャッシュコーナーが独立した建物になっているわけである。
 さっさと取引を済ませようと思ったが、午後になってATMの利用者が増えてきている。利用者としては大共がダントツで多いので、列ができるのはやはり大共のATMである。信金や農協を使う人は、列を横目で見ながら勝手に小屋に入って機械を使っている。3連小屋入口の自動ドア前で順番を待っていると、私の前に並んでいたお婆さんが、ブースに入った後なかなか出てこない。少しイライラしてしまった。

 苛立っても仕方がないので、待っている間にあたりを見回す。役場の前に建っている5階建ての茶色いビルは、酒造会社の本社である。ごく普通の鉄筋コンクリートのビルであるが、1階窓下の腰の部分は、黒く塗って白い塗料で斜めの網目模様が描いてあり、なまこ壁のようになっている。造り酒屋にはおなじみの煙突などはここでは見えないが、敷地の中には古めかしい酒蔵などの施設が何棟も並んでいる。さすが、養老の滝を抱える町には、造り酒屋があるのであった。有名な養老の滝の物語は、『続日本紀』の記述を基にした『十訓抄』の一話が最も広く知られている【注1】。酒好きの老父を持つ男が、ある日薪を採りに山に入る。転倒した際、酒の匂いを感じて周囲を見回したところ、酒が流れていた。以後毎日これを汲んで父親に飲ませた。この話を元正天皇【注2】が知って見に行き、男を美濃守に取り立て、酒の出ている場所にちなんで元号を養老に改めた、というストーリーである。『十訓抄』では《石の中より水流れ出づることあり》として酒の出る泉を発見したことになっており、滝の話は消えてしまっているが、代わりに近所の養老神社に湧き出る菊水泉に見立てられている。この酒造会社は玉泉堂酒造といい、美濃菊という日本酒を造っているが、そのあたりを踏まえた命名なのであろう。
 町役場の敷地に目を移す。町役場の建物は1971年の築で、大きな窓が特徴であるが、武骨な耐震補強用の鉄骨がはめられて痛々しい姿をしている。駐車場は結構広くて、台数としては40〜50台分だろうか、大分細長い駐車場である。敷地入口の中央部には、レンガでできたトーテムポールのようなものが立っている。ATM小屋の横に立っている火の見やぐらには、周りを取り囲むように広告の枠が取り付けられていて、そこに養老町民憲章が大きく書いてあった。何が書いてあったかは忘れた。
 ようやく自分の番が回って来た。大共のATMは、営業時間は18時まで。養老支店管内のほかのATMと同様、沖電気のバンキットで、機械の台数は1台。手のひら認証に対応していたか否かは記録するのを忘れたが、当日撮影した写真を再確認すると、機械の胴体には「ピピット」のステッカーがしっかり貼ってあった。この当時、大共は市町村役場内のATMには優先的に新しい機械を入れている様子であった。ATMを操作し、[養老町役場]を制覇。16:27のことであった。
 養老支店養老町役場出張所は、大共養老支店2番目の店舗外ATMとして、1985年6月に開設された。

 いよいよ、最終目的地に向かうことになった。
 残る制覇目標は[イオンタウン養老]1か所のみである。そこを終えれば自転車を返却して東京に帰るだけだが、最後の制覇目標は、養老町の中心部からは若干距離があるのである。事前のリサーチでは、町役場からイオンタウンまでは2.72km、12分かかる予定だが、12分で行くのはまあ無理だろう。それよりもっと根源的に、「めぐ」が続行できるのだろうか。すでにタイムスケジュールは破綻し、肉体的にもかなり消耗している。特に、左膝が耐えがたいほどの痛みを持っている。痛み方は自転車を漕ぎ続けることすら危ぶまれるほどであった。
 誰かに話しかけて尋ねる気力もないので、道順はスマホで確認した。役場前の県道96号大垣養老公園線を引き続き北に真っすぐ行けばよい。牧田川という大きな川を渡って、名神高速道路の養老ジャンクションの先で二股道を左に入れば、目的地。とにかく、町役場前からずっと北に漕ぎ進んでいけば良いのである。

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 【注1】『続日本紀』は養老元年の「養老改元の条」。『十訓抄』は巻六の第十八話。
 【注2】第44代天皇。奈良時代の女帝。
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2017年05月29日

2014.07.18(金)(55)3回目のダウン

 養老町役場の前から、美濃高田の街並みを北へ。町役場の北隣は養老消防署である。このあたりに建つ家は、さっきの「中心商店街」と同様、煮しめた焦げ茶色で、妻面に桁が頭を出しているような古い日本家屋が多い。燃えやすい日本家屋の密集地帯に消防署があるのは安心できる。やはりこのあたりもところどころ更地になってきており、むしろ更地の率は商店街よりも高いと感じられた。商業としては、ガソリンスタンドやら喫茶店やら看板だけは出ていたりするが、売物件という看板も一緒に出ているから、営業していないのだろう。もはや普通の住宅地になってしまっている感じであった。
 高田駅前という信号に出くわした。ここが、養老線美濃高田駅の入口である。養老支店から自転車を漕いで来ての距離感としては、少し遠いと感じられた。駅舎は昔ながらの平屋建て木造駅舎で、懐かしい外観は何となく見覚えがあった。後で知ったが、この駅には駅員がいない。

 住宅地が続いている。県道を北に進んでくると、道が少しだけ左にカーブした。前方その先に、信じられないものを発見し、私は足が一瞬止まってしまった。何だあれは。
 信じられないもの。それは、堤防上に上がる道であった。川を渡らなければならないのは承知していたが、その橋は堤防上から架かっているのである。そうか、スマホで地図を見た時、橋までの道が妙に曲げてあったのは、こういうことだったのか。堤防上に上がるために、堤防に突き当たったところで90度曲げて、斜面を坂で上がっていくのである。私はかなりがっかりした。
 やる気を一気に殺がれたものの、行かないという選択肢はもちろんない。意を決して急な坂を漕ぎ上がり始めた。道は、スロープで堤防の半ばぐらいの高さまで上がり、そこで90度右に曲がって、堤防の斜面沿いを橋の付け根まで昇っていく。
 カーブで、傾斜が微妙に変化した。カーブの外側には、車道を走る車がはじき飛ばした小石がジャリジャリと積もっている。さあ、あともう一息。ペダルを踏む足に力をこめようとすると…。あっ。
 足がつりそうな感覚。さっきからずっと痛んでいる左膝に加え、少し前から痛み始めた右の太ももに来た。イタタタタ。私は足がつってしまう寸前でペダルを踏むのをやめた。足に限らず、筋肉が“つる”状態になる寸前、電気が流れるようなピキピキとした感覚が来る。力を入れるとその部分の筋肉が一気に固まって激痛が走るから、急いで、しかしだましだまし力を抜いて軟着陸させる。何度やっても気分の良いものではないが、それでも本格的につってしまうよりマシだ。
 カーブの外側、道が広くなっているところに倒れ込んだ。かくして、坂道の途中で本日何度目かのダウンとなった。

 筋肉を落ち着かせて、活動再開。どうにか堤防の上面まで上がってきた。私はこれから、高田橋という名の橋を渡る。別に自衛隊に入るわけではない。この川は揖斐川の支流で、牧田川という。同じ川を数時間前に北から南へ渡っているのだが、その時の記憶とは全くつながっていなかった。
 交差点の北西角には、治水功労者佐竹直太郎翁の碑というのがあって、業績が屋根つきの看板で説明されている。碑の揮毫は岐阜県知事の沖野悟という人。調べてみると揮毫した知事は内務官僚で、官選県知事であった。ということは戦前に作られた碑ということになる。佐竹直太郎氏の業績は、牧田川の上流部を改修したところにあったようだ。1888(明治21)年頃に組合を、1931年に委員会を作り、烏江の牧田川杭瀬川合流点から上流8kmを県が、下流を国が改修、という経緯をたどった。昭和の改修で献身的な努力をしたのが、この養老町高田の佐竹という人らしい。濃尾平野の川上にあたるこの近辺には、荒れ川の濃尾三川を抑える平田靱負のような人がたくさんいたわけである。
 いよいよ、高田橋を渡る。車道は速度制限40km/h、対面2車線の黄色センターライン。外側には腰ぐらいの高さのクリーム色をした欄干が付いている。実用本位の柵だけの橋であるが、欄干はだいぶサビサビで、部分的に腐食していた【注】。道の左側だけにある歩道は、車道とガードレールで仕切られている。
 堤防上、高田橋南の交差点から橋の本体までの間は、築堤になっている。築堤下の地面に、背の高い草がたくさん生えていて、特にツル性の植物が大量に生い茂っていた。下の地面に生えた木を伝うように伸びてきているようだ。ツルには細かい毛のようなものがビッシリ生えている。かぶれるから、これには触りたくない。誰だこの道の管理者は。こんな草除去しといてくれよ、と詰りたくなった。県道だから岐阜県庁に文句を言えばいいのだろうか。
 森のように植物が生い茂った部分が少しあって、それが終わると泥と石ばかりの河原になった。私が河原という言葉でイメージしやすい河川敷は、こうした石の多い河原である。ここは畑になっている部分も多い。自家菜園か何か知らないが、河川敷を畑にしているケースは少し田舎へ行くと見かける。河川敷は作物を丹精込めて育てても、1回洪水が出たらすべてお釈迦であるから、そうなってはやりきれまい。とはいえ、私有地でない河原で耕作をしてよいのかどうかは知らない。
 石ばかりの川を渡り切ると、さっきと同様に森のような部分があり、畑がある。川の北側は堤防の際まで畑になっている。堤防道路との交差点に信号はないようだ。けっこう長いと感じられる橋であった。

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 【注】欄干はその後、無塗装銀色のものに付け替えられた。
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カテゴリ一覧(過去の連載など)
大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇(58)
単発(12)
告知板(24)
銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇(29)
りそめぐ2013梅雨 大阪市営バス“最長”路線[93]を行く(43)
りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅(57)
りそめぐ2008秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる 東武伊勢崎線・野田線沿線17店舗の制覇(51)
りそめぐ2009初秋 りそな銀千葉県内12店舗完全制覇(35)
りそめぐ2008夏 りそな銀東京都世田谷区4店舗完全制覇(8)
りそめぐ2008春 埼玉高速鉄道で帰省してみた(18)
りそめぐ2008秋 太平洋は青かった 茨城→北海道750km大移動/銀行めぐ2008秋 札幌市内4行4店舗完全制覇(20)
りそめぐ2008初秋 湘南セプテンバーストーリー(11)
りそめぐ2008冬 銀河に乗って知事選たけなわの大阪府へ(47)
りそめぐ2008夏 「近畿大阪めぐ」スタート記念 片町線・京阪線沿線25店完全制覇(51)
りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿(60)
りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える(12)
りそめぐ2007秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる(35)
2007年7月 りそな関西地区支店昇格5店完全制覇+α(43)
あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇(34)
2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)