2009年01月01日

2008.07.22(火)(−1)プロローグ

りそめぐ2008夏
「近畿大阪めぐ」スタート記念 片町線・京阪線沿線25店完全制覇


  今回の行動範囲

  百聞は一見に如かず



 2008年11月5日、私は40歳の誕生日を迎えた。
 銀行めぐりという趣味に関しては多少の分析力と行動力はあるつもりだが(あくまで「多少」である)、それ以外には、生活力のない1人の少年である。さりげなく大ボケをかましてみたが、やはり既に「中年」の域に達してしまったことは否定できない。
 私が銀行めぐりなど始めることになったのは、大学在学中に金融関連の出版物を編集するセクションでアルバイトしたことがきっかけだが、これについては別の機会に譲る。ともあれ、あさひ銀行という(失礼ながら)都市銀行としては弱小の銀行に関心を持ち、営業していたすべての営業店と(一部を除き)すべての店舗外ATMを制覇してしまった者としては、あさひ銀行が分割されてしまったからといって、分割再編後のりそな銀行と埼玉りそな銀行を「別の銀行」ととらえることは無理である。もともとあさひ銀行の「めぐラー」であり「ウオッチャー」でもあった者としては、りそな銀行と埼玉りそな銀行は一体と考えることにしている。実際、あさひ銀行が大和銀行と再編してりそな・埼玉りそなの2つに分けられてしまっても、再編後の両者は結果としてほぼ不可分となっている。
 りそな銀行と埼玉りそな銀行が「一体」であるのなら、りそなホールディングス傘下にもう1つある100%子会社の銀行、近畿大阪銀行についても同様である。大阪市に本店を置き、大阪府下をテリトリーとする地方銀行である近畿大阪は、取引をしても店名が通帳に記帳されなかったせいもあって縁の薄い銀行ではあったが、基幹システムをりそなグループの統合システム(旧あさひ銀行のシステムをベースとしている)に統合するという話が早くから流れており、かなり以前から関心を抱いてきた。「近畿大阪めぐ」第1回の実施地域を(「めぐ」が可能になるとは限らないのに)早々と決め、また事前のデータ整理として私のホームページ「遊牧民の窓」の「お役立ち」のコーナーに近畿大阪銀行の店舗一覧を整備するなど、「近畿大阪めぐ」の準備は、システム統合の前年となる2007年のうちから行っていた。
 もっとも、今顧みると準備は明らかに足りなかった。半分は怠惰のせい、残り半分は生活上のもろもろから精神的に少し参っていたせいである(但し、その後精神科を受診したところ「病気だとはとても言えない」と断言されてしまった)。

 近畿大阪銀行内部でのシステム統合の作業は2007年1月に始まり、2008年7月に完了するということになっていた。りそな銀行で旧あさひ銀と旧大和銀のシステムが統合されたときには数回に分けて段階的に行われたから、近畿大阪もそうだろうと思い、第1回はゴールデンウイークに行われると思っていた。しかし、2008年3月になって出たニュースリリースでは、近畿大阪に関しては「新システム移行とその準備」のためGW中にオンラインを休止することが発表されただけで、具体的なことには一切触れられていなかった。
 結局、近畿大阪は2008年7月22日にシステムを一気に変更するということで、webサイトには6月になってから情報がぽつぽつと出るようになった。ひととおりの情報が掲載されているパンフレットは、5月中旬に名古屋に行ったときに寄った名古屋支店で入手した。数種類出ているパンフレットを「ひととおり」手に入れるまでには若干の苦労があった。webサイトの更新は断続的で、全部の情報が出揃ったのは6月に入ってからだったと記憶する。蛇足ながら、このあたりの正確な日時を記録していないというところに、私の脱力ぶりがうかがえる。それどころではなかったのである。当ブログでは、2007年11月のりそな銀行めぐり記を08年9月になってようやく連載開始したが、それはモチベーションが全く上がらなかったからであった。

2009年01月02日

2008.07.22(火)(0)プランニングと前日準備

 それでも、7月22日は確実に近づいてきた。事前に計画を立てるということの嫌いな私も、さすがにそろそろこのことを意識せざるを得なくなってくる。
 私の「近畿大阪めぐ」第1回は、かなり以前から「JR片町線の沿線で行う」と決まっていた。第1回の「めぐ」でどこに行くかを事前に決めていたことは前述した。その下調べの段階で近畿大阪銀行の店舗一覧を眺めていて気づいたのは、店舗が近鉄南大阪線とJR片町線の沿線に特に多いことである。近畿大阪のルーツを調べてみると、旧近畿銀行の前身企業の一つが片町線沿線の交野市にあり、この会社が事実上旧近畿の本流であったことが分かった。その会社「交野無尽金融」について関心を持ちかけたところに、同社の旧本社【注】が登録有形文化財に登録されるというニュースも飛び込んできた。旧あさひ銀行姫路支店の一件など、最近私の「りそめぐ」は歴史的建築づいているから、当然これも目的地の一つに加える。こうして、大まかな行動予定は骨格を完成した。

 6月24日。「めぐ」実践のためのプランニングをする。具体的にどのように大阪まで移動するかということである。
 まず最初に、1日早く7月21日(月・祝)に東京を出て、新潟県内で第四銀行の「めぐ」を楽しみ、JR北陸線の夜行急行「きたぐに」で大阪入りしようかと思った。しかし、きたぐにには昨年(2007年)に乗ったし、それ以前に、前日が祝日のため新潟県内の第四銀で行こうと思っていた店は軒並み休業であった。まあ「思いつき」とはこの程度のものである。
 次に、通常であればチーペストプランとなる「ムーンライトながら」利用の移動計画を考えた。7月21日夜の出発なら、「青春18きっぷ」はオンシーズンになっている。ざっくり検索してみると、今回第1号にしようと思っていた、大阪府のはずれの長尾支店(枚方市)には09:41に到着する(米原から新快速、京都→新田辺で近鉄京都線)。若干早く着く方法として、米原から京都まで新幹線を利用すれば長尾09:00着。しかし、乗車券・特急券あわせて2000円近い出費をして40分程度早く着くだけなら、京都ないし新大阪まで「東京から」新幹線で行った方がよい。私は普通の人と違って夜なべ仕事をしているから、夜行列車で行くことが「時間と金の節約」にならない。休みを取って夜行で遠出するより、通常どおり仕事で稼いで昼間の飛び道具(新幹線・飛行機)代を捻出したほうが効率がよいのである。いつの間にかそんな生活になってしまったが、ともかくそういう事情により「ムーンライトながら」を使用する案はボツとなった。
 そして、「飛び道具」を使う計画。悩んだのは、大阪までの移動を陸路にするか否かである。空港までのアクセスを考えても、飛行機の方が新幹線より安いのだ。ANA・JALとも、フライト28日前までに搭乗券を買えば、羽田→大阪(伊丹・関空・神戸)は10100円。その期限が今日・24日であった。これまでならほぼ間違いなく新幹線で行っていたと思うが、このように「具体的事実」に直面してしまうと、やはり考えざるを得ない。
 空路といえば、関西空港は開港直後に降りたことがあり、神戸もこの26日に降りるのだが、伊丹にはまだ降りたことがなかった。ひさしぶりに関空で降りた場合は佐野支店(泉佐野市)を皮切りに岸和田→助松→鳳と進むコースになるが、近畿大阪は歴史的な経緯から泉州方面には店舗がさほど多くないため、移動時間によるロスが結構出そうである。今回は近畿大阪めぐの「初回」ゆえ、情報収集も兼ねているから、ある程度は効率よく動けることが望ましい。それに、近畿大阪めぐは片町線からスタートすると以前から決めていたのだ。
 伊丹で降りれば、JR福知山線伊丹駅へ行く伊丹市バスがあるし、JR東西線尼崎駅へ行くリムジンバスもある。JR福知山線は、東西線を介して片町線と直通運転を行っている。長尾まで小一時間の乗車時間があるから、ここである程度の睡眠時間も稼げるだろう。かくして、片町線へのアクセスの容易さから「空路なら伊丹」と決まった。ついでに、私は「リムジンバス」なるものに乗ったことがなかったので、初体験である。
 羽田−伊丹線で一番安いのはANA・JALとも始発便だったが、JALのそれは既に満席となっていた。そして、自宅からのアクセスを考えると、羽田07:00発より早い便には乗れない。空港まで行く足がないのである。必然的に、羽田07:00発のANA013便となった。この便は伊丹には08:05に着き、「めぐ」スタート地点の片町線長尾には09:34に到着できる。「ムーンライトながら」に夜通し揺られていくのとほぼ同時刻である。
 決まった。空路にしよう。ANAの予約サイトで、座席指定までしてしまった。機体のイメージ図が出てきて、希望する座席の部分をクリックするとたちまち予約完了。席番号は38Kで、ボーイング777-200では尾翼に近い部分の右側窓際である。

 立てた計画は以下のようになった。

 (品川までのアプローチは記載省略)
 品川06:08(京急本線 急行 羽田空港)06:29羽田空港 ※搭乗
 羽田空港07:00(ANA013便 伊丹)08:05大阪・伊丹空港/南ターミナル13番08:15(リムジンバス 阪神尼崎)08:45JR尼崎尼崎08:50(JR東西線 快速 同志社前)09:34長尾 ※長尾支店
 長尾10:20(片町線 普通 西明石)10:22藤阪(徒歩15分) ※藤阪出張所
 藤阪ハイツ11:03(京阪バス[90]長尾駅経由樟葉駅)11:11長尾駅長尾11:20(片町線 普通 西明石)11:24津田 ※津田支店、交野市立教育文化会館
 南倉治12:33(京阪バス[9C]京阪香里園)12:42京阪交野市駅 ※交野支店
 交野市13:08(京阪交野線 普通 枚方市)13:09郡津 ※交野郡津出張所
 郡津13:41(京阪交野線 普通 私市)13:45河内森河内磐船13:57(片町線 普通 西明石)13:59星田 ※星田出張所
 星田駅14:17(京阪バス[40]寝屋川団地)14:25頃寝屋川団地 ※寝屋川東出張所
 寝屋川団地15:05(京阪バス[45]コモンシティ星田)15:15頃星田駅星田15:15(片町線 普通 西明石)15:17東寝屋川 ※寝屋川打上出張所
 東寝屋川15:47(片町線 普通 西明石)15:49忍ヶ丘 ※忍ヶ丘支店
 忍ヶ丘16:18(片町線 普通 京橋)16:20四条畷 ※四条畷支店
 四条畷16:51(片町線 普通 京橋)16:55住道 ※住道支店
 住道17:27(片町線 快速 宝塚)17:32放出 ※放出支店
 放出18:03(片町線 快速 宝塚)18:06京橋 ※本店営業部

 なお、9時過ぎには到着できる大阪市内から始めず、敢えて遠くの長尾から始めているのは、単に市内からでは面白くないと思ったからで、深い意味はない。ベートーベンはJ.S.バッハについて「小川ではなく大海である」と言ったそうだ。Bachはドイツ語では小川という意味である。私の「めぐ」も、川のせせらぎの如く、片町線の終着駅・京橋の本店営業部という大海に向かって流れ出していった方が、よりドラマチックではないだろうか。
 などと格好のいいことを言ってみたが、「青春18きっぷ」利用のプランに執着しすぎて京都経由でのアプローチが最後まで頭を離れず、伊丹からアプローチするのであれば大阪市内を先にした方が時間の余裕ができることに考えが及ばなかったのであった。

 6月26日(木)、別件で神戸空港から関西入り。7月のKOめぐを前に予備取材を大阪市内で行った。この予備取材については後で詳しく述べる。
 そしていよいよ出発前日の7月21日。空路で行く以上、初日のJRは「青春18きっぷ」では足が出るので買うつもりはない。代わりに、現地調達することができない「スルッとKANSAI 2dayチケット」を新宿の旅行会社で手当てしておいた。スルKAN2dayは、有効期限はあるものの「連続2日」でなくてもOKなので、1日分だけ使って残りは後日、ということが可能だ。

 【注】交野無尽金融旧本社:現交野市立教育文化会館。後日詳述の予定。

2009年01月03日

2008.07.22(火)(1)相変わらずドタバタの飛行機搭乗

2008.07.22(火)

 自宅を出たのは、当日朝04:20頃であった。
 新聞は昨日のうちに専売店に電話をかけて止めていた。04:20に出るのであれば、今日の朝刊は読めたなあと思い後悔していたが、出がけに郵便受けを見るとどういうわけか朝刊が入っていた。品川までの山手線では、改札からホームに上がる途中の階段で、既に発車の音楽が鳴っているのが聞こえた。たどり着いたのがたまたま一番後ろの車両だったので、「すいません」と叫びながら車両に駆け寄る。既にドアは閉まりかけていたが、私の声に恐れをなしたのか、若い男性の車掌はドアを開けてくれた。「ありがとう」と一声かけて電車に乗り込んだ。今日は幸先がよい。
 品川では、京急線のホームに既に電車が待っていた。事前のプランニングより1本早い、05:57発の特急三崎口行き。羽田の全日空の発着は第2ターミナルビルで、階段に一番近いのは前寄りの車両のハズである。これで京急蒲田まで行き、空港線に乗り換える。
 空はどんよりと曇っていたが、平和島あたりから日が差してきた。この駅の南にあったりそな銀行大森西支店(旧大和銀大森支店)の跡は、既に除却されて新しい建物に建て替えられていた。京急蒲田駅近辺では、高架化の工事がだいぶ進行している。今日の飛行機には関係ないが、6月だかに上り線だけ仮の高架線に切り替わったということだ。
 京急蒲田の空港線ホームでは、電車接近注意の音楽が長いこと鳴り続けていて何事かと思ったが、やがて横浜方向から電車が入線してきた。横浜始発の特急羽田空港行きだそうで、この電車は京急蒲田で進行方向が変わる。入線した時点では最後部車両ということになる一番前の車両に乗り込むと、車内はかなり混んでいた。途中の糀谷駅では工事をしていた。何やってんの、工事や。つまらぬ独り言をつぶやく。

 電車は羽田空港駅に到着した。乗ったのが1本前の電車だから、予定より少しだけ早く着いたのはいいのだが、第2ターミナルに直結する青い階段は、最前部ではなく一番前「寄り」というだけの話であって、階段に一番近いのは前から3両目の後ろ側であった。一番前の車両に乗っていた私は却ってハマってしまった。改札を出てエスカレーターを上がったところに並ぶANAの搭乗手続機にマイレージカードを挿入して搭乗手続きを済ませる【注】。
 出発ロビーは「2階」だそうだが、高さとしては4階分ぐらい上がるだろうか。大エスカレーターを上がってくると、植物園のドーム形をしたガラス温室を巨大にしたような吹抜である。ここにはスカイマークエアラインズ(現スカイマーク)が第2ビルから出ていた頃に来たことがあるハズだが、記憶にない。ともあれ、私にとって空港は頻繁に来る場所ではないから、たまに来ると新鮮である。
 それはいいのだが、荷物検査は相変わらず厳重で閉口してしまう。検査で引っ掛かりそうな事務用のカッターナイフを自宅に置いてきたので安心していたら、まず金属探知機の前にカバンからパソコンと携帯電話を出させられる。ようやくそれで金属探知機を通ったところ「ピーン」と鳴った。そこで色々と脱がさせられ、最後にはズボンのベルトを外させられた。金属製のバックルが引っかかったのである。というわけで毎回毎回イヤになってしまうが、6月にスカイマークで神戸に行った時と、検査の方法が若干違うように思われた。前回は第1ターミナルから乗ったが、検査はどちらも空港会社がやっているハズで、方法が違う理由は釈然としない。
 7時の伊丹行きはもう搭乗が始まっていた。ANAは搭乗口に2次元バーコードの読み取り装置が完備されていて、改札はチケットをかざして「ピ」の音一つで終了である。長い廊下を歩いて機内へ。搭乗日前日に航空会社から来たメールによれば、予約した時点とは機種が変更されているそうで、どう変わったのかと思ったがわからなかった。後で調べたところでは、最初乗る予定だった機種はボーイング777-200で、変更後は777-300。300は200と比べて機体が長く、収容人数が多いそうだ。
 ともあれ、私の席は当初の「38K」から「53K」に変わっていた。数字のとおり前から数えて53番目ということだから、かなり後ろの席である。自分の席にたどり着こうとする列は遅々として進まず、20番ぐらいまで進んだとき、その場にいたスチュワーデスに「53番というのはまだ先ですか」と愚かな質問をしてあきれられてしまった。ようやく所定の席にたどり着いてみると、席そのものは当初の予約とほぼ同じ主翼のうしろ側であったが、この時点で私は若干の焦りを感じていた。伊丹で降りる時に時間がかかるのではないか。

 機体は7時きっかりにバックを始めた。機内のモニターテレビは、非常口案内をした後、機体の前方を映している。隣の席はビジネスマンの男性であった。07:13離陸。川崎の石油化学コンビナートを見下ろして海上へ。海上には細長い船が何十隻も散らばっている。天気がいいから窓の外がよく見える。江ノ島が真下に見えた辺りでベルトサインが消えた。相模湾上を海岸線に平行に西に飛んでいたようだ。
 上空から見る富士山は雪もなく真っ黒であった。東名高速道路が蛇行している様子がはっきりと見て取れる。やがて海上に空港が見えた。そのすぐ後で四日市らしき石油化学コンビナートが見えたから、中部国際空港だろう。
 07:43、早くもベルトサインが点灯した。蛇行する名阪国道と大規模な料金所が見えた。溜め池の多い奈良盆地から小さな山脈を2本越えると、もう大阪である。放出から城東貨物線に沿って淀川を越えるようだ。このあたりから高度が目に見えて下がってきた。少々揺れる。大商学園高校とニッショーストアが見えたと思ったところで、私を乗せたボーイング777-300は無事伊丹空港に着陸した。07:55のことであった。

20080722-03_Kinai-Fujisan.jpg

 【注】ANAのマイレージカード:「エディ」が内蔵されているカードであれば、手続をしなくてもそのまま検査場に直行できる。私のカードは古かったので、エディが内蔵されていなかった(その後帰京してから切り替えた)。

2009年01月04日

2008.07.22(火)(2)長沢まさみが笑ってる

 伊丹は思ったよりコンパクトで静かな空港で、ビルの1階1階の高さもごく普通であった。発着便数が羽田と比べると多くないせいだろう。機体を降りるのに時間がかかるかと思ったが、意外に簡単に降りてこられた。ゲートを出たところがもう商業施設になっていて、ゲートの上には、航空保安上ここを降りられた方はこの階段から戻ることを禁止します、と出ている。いったん出たら戻れないようになっているのはどこの空港も同じである。乗ってきた飛行機は9時の東京行きになって折り返すようだ。
 エスカレーターを下りてバス乗り場に出てきた。現在時刻は08:06。ということは、当初予定していた08:15発リムジンバス尼崎行きには楽々乗れるということであった。バス乗り場からは、私の乗ろうとする阪神尼崎行きばかりでなく、大阪周辺の各都市へ向かうバスが多数発車する。尼崎行きはまだ来ていない。
 尼崎行きより一足早く08:10に出る、梅田行きのリムジンバスが発車を待っていた。リムジンバスの運賃は、尼崎まで600円、梅田まで620円ということだった。梅田に出た方がJRの運賃も含めると安く上がるのだが、やはり尼崎が一番近いのだろうなあ。でも梅田へ出た方がよいか。睡眠不足のせいか色々なことを考え始めたが、一言でいうと「下手の考え休むに似たり」であった。梅田に行くのなら、モノレール+阪急の方が明らかに安い。リムジンバスのメリットは途中での乗り換えを必要としないことだけで、通常であれば「高い」という1点をもって私には魅力の感じられない乗り物であった。だからこれまで一度も乗ったことがなかったのだ。
 そこへ、「梅田新阪急ホテル行き」が間もなく発車するとの声が聞こえた。梅田行きは今目の前にいるバスであった。

 数分の後。
 リムジンバスは、空港の北ターミナルに立ち寄った後、すぐに阪神高速に入る。北ターミナルを出るとき「自然渋滞で多少の遅れが見込まれます」と野太い声でアナウンスがあった。この時点で早くも私は、リムジンバスに乗ったのを後悔し始めていた。アナウンスを尻目に、遠くの方で発車していくモノレールが見えた。車体に真っ赤なラッピング広告が施してあるからいやでも目立つのである。
 私の乗ったバスは、当初予定していた尼崎行きではなく、08:10発の梅田行きであった。何を思ったか、私は荷物を抱えて、とっさに5分早い梅田行きのバスに飛び乗ってしまったのである。
 運転士のアナウンスのとおり、阪神高速は渋滞していた。そこへ追い打ちをかけるように新たなアナウンスがあった。無線連絡によると、途中の神崎川付近で追突事故があったため、梅田までの所要時間を35分と見込んでいたが、それ以上かかるかもしれないというのである。何ということだ。発車時刻が予定より早いバスに乗れたというのに、これでは結局ぶちこわしではないか。
 道路沿いにあるビルの屋上には、1.5階分ぐらいの高さでJR西日本が新幹線の広告を出している。「飛行機で来たアナタ、この次は新幹線で来てね」という趣旨だろうが、広告で長沢まさみ【注1】が笑っているのは、渋滞にひっかかっている私を嘲笑しているようにしか見えなかった。真ん中の車線をパトカーがサイレンを鳴らして通過していく。この先、神崎川の事故現場に向かうのだろう。自分が乗っているバスは「チキンラーメン50周年」のラッピングが施してあったようだ。パトカーの側面ガラスに映ったので初めて気がついた。
 神崎川を渡ったところで大阪市に入る。事故はアナウンスのとおりこの付近だったらしく、ようやくバスがスムーズに動きだした。しかし、今回の渋滞ですっかり懲りた。私のリムジンバス初体験はこのように悲惨なもので、次に空路で伊丹に来てもバスは使わないだろう。大阪空港交通に恨みはないが、バスがいかに不安定な乗り物かということである。空港から梅田まで電車で行っていたら、梅田までの運賃は200円安く、しかも当初から予定していた片町線の快速同志社前行きには十分間に合っていたのである【注2】。
 08:45、塚本(大阪市西淀川区)を通過。窓の外に、近畿大阪銀行の屋上看板が見えた。あれは塚本支店であろう。システム統合後初めて見る近畿大阪の看板である。既にATMコーナーは開いているハズだ。この場でバスを降りて駆けつけたい衝動にかられたが、どうしようもない。やがて淀川を渡った。

 【注1】長沢まさみ(ながさわ・まさみ):JR西日本の新幹線を宣伝する広告に出演している、東宝芸能所属の女優。1987年6月生まれ、静岡県出身。主な出演作品は、映画『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004年)、静岡銀行ポスターなど。
 【注2】大阪空港から(バスを使わず)電車で行っていた場合:大阪空港08:15<大阪モノレール普通門真市>08:18蛍池08:23<阪急宝塚線準急梅田>08:43阪急梅田/大阪08:51<JR大阪環状線外回り普通天王寺>08:58京橋09:09<JR片町線快速同志社前>09:34長尾。運賃はモノレール200円、阪急220円、JR540円。

2009年01月05日

2008.07.22(火)(3)京橋で祭りの予感

 私を乗せたバスは、阪神高速を梅田東ランプで出て、大阪駅北側にある梅田操車場の再開発予定地をかすめ、ヨドバシカメラの西側に広がる空き地の真ん中を通って、ビル1階の正面部分に開いた大きな四角い穴に突っ込んで止まった。08:53、梅田新阪急ホテル到着。梅田には何度も来ているが、こんなところから中・長距離バスが多数発着しているのは全く知らなかった。
 へーと思ったが、感心している場合ではない。ここからJR東西線の北新地駅まで、どうやって行けばいいのだ。やはり、こざかしいことを考えて予定を変えると、こういうふうに却ってハマってしまうのだ。渋滞の影響は思ったより少なかったが、尼崎までストレートに行っていれば、との思いを禁じ得ない。今からだと、当初予定していた同志社前行き快速をつかまえるのは相当きついだろう。
 手近な階段から地下に降りる。ここはヨドバシカメラの真向かいにあたり、りそなの店舗外ATM[地下鉄梅田駅](梅田支店)がある。掲示してある地下の案内図を見る。この地下通路へまっすぐ行って…ダメだ。北新地はこんなに遠いではないか。今いる場所が梅田の北のはずれであり、かつ北新地はキタの南の外れであるからだ。これはもう、大阪環状線で京橋へ出て、そこで片町線に乗り換えた方が早そうである。結局何もせずに地上に出て、JR大阪駅の改札を入った。
 2番線から09:03発の天王寺行きに乗る。大阪環状線はオレンジ色の201系電車。目の前に来た車両は女性専用車のステッカーが貼ってあったが、かまわず乗り込んだ。大阪環状線では9時をもって女性専用が解除になっている。車内はその時間の名残で女性の比率が高かった。

 今の時点で考えると、私はどのみち、長沢まさみに笑われる運命にはあったと言える。たとえ予定どおり尼崎行きのバスに乗っていたとしても。その理由は、阪神高速の同じ区間を尼崎行きも通るはずだからであった。
 但し、モノレールと阪急の乗り継ぎで出費を抑えるか、尼崎からのJRで睡眠をとるか、どちらのメリットも捨てた時点で「最低の判断」に近い。尼崎経由より60円安かったというだけである。

 京橋には7分の乗車で着いた。
 まず、重たい荷物をかついで「めぐ」するわけにもいかないので、駅の中にコインロッカーがあれば入れてしまいたいと思う。さっきまでさんざん愚痴っていたのだが、こういう形で京橋まで来たのは逆に非常に幸いであった。というのは、今日のゴールが京橋(大阪ビジネスパーク)だからである。環状線ホーム下、京阪電車乗り換え口近くの出口にコインロッカーを見つけた。100円玉がなかったので、改札前のパン屋で両替をしてもらい、ついでにウーロン茶のペットボトルを一本買う。
 駅内には天神祭のポスターがベタベタ貼られている。大阪の夏を彩る天神祭は、この25日(金)からあるらしい。私は祭りの雑踏の中でボケーッとあてもなく歩いているのが大好きなのだが、大阪に金曜まで滞在し続けるわけにはいかない。もっとも、近畿大阪のシステム統合は、りそなめぐラーの私にとっては「祭り」と言えるかもしれない。それをもってよしとするしかないか。
 いよいよ、長尾に向けて出発である。環状線ホーム南端の階段から「学研都市線」のホームに降りてきた。京橋駅の片町線ホームはもとは島式ホームだったようで、尼崎方面側を柵でふさぎ、その向こうに対向式ホームを1本増設したような構造をしている。私のいる2番ホームには、放出行きの各駅停車が止まっている。ちょうど地下から上がってきたところで、1車両に2つ付いているパンタグラフのうち1つを畳むのが見えた。
 本来乗る予定だった快速同志社前行きは、京橋09:09発だった。乗る列車は09:22発の快速木津行き。1本後の電車になってしまったが、逆にその程度で済んで良かったと言うべきかもしれない。この電車は、長尾には予定より13分遅く09:47に到着の見込みである。
 快晴である。セミが鳴いている。汗が噴き出してくる。

2009年01月06日

2008.07.22(火)(4)さあ長尾に到着だ

 私が乗った木津行きの電車は、大阪の下町からカーブの多い片町線を抜けてきた。
 片町線の快速は、京橋を出たあと放出・住道・四条畷・星田・河内磐船・長尾と停車する。四条畷で各駅停車松井山手行きの客を拾う。忍ヶ丘で高架に上り、そこから再び下がると一気に緑が増えた。星田は快速停車駅だが対向式ホームだけの小駅で、近畿大阪もここには出張所しか出していない。津田では、線路際に京都銀行の支店を見た。新興住宅地というイメージの津田から数分走行し、街並みが古くなりかけたかなというところが長尾であった。ここまでの間に泉州銀行の看板を複数見たのには少し驚いた。
 09:47、長尾に到着した。ここは島式ホーム1本だけの駅で、ホームからは大きな高層マンションが何棟も見えている。駅舎は北側だけのようだ。ホームから南側を見ると、線路の向こうは水田である。改札は地下道を抜けて階段を上がった所にある。改札機に「スイカ」をタッチして外へ。いま気が付いたのだが、JR西日本の自動改札は、通路の幅がえらく狭い気がするが、やはり走り抜けられないようにしているのだろう。
 駅前はロータリーとは言えず、駅前広場になっているだけで、一般車も緑ナンバー(バス・タクシー)も混然としている。一般用の駐車場が駅舎の前にあって、車が数台並んでいる。駅前広場の右側に枚方信用金庫(長尾支店)。左側にはファミリーマートがある。学習塾が多く目につくのは、新興住宅地で子どもの数が多いせいであろう。もう今日から本格的に夏休みに入ったようで、運動部の遠征のような10人ぐらいの中学生の集団がいる。タクシー乗り場もあるが、自家用車のお迎えを何となく待っている人が多いのだろう。
 駅前広場の京橋寄りにあるバス乗り場は、バスの停まる部分の前に屋根がついているだけである。発着する系統の数がさほど多くないのだろう。次の目的地・藤阪ハイツ行きの時刻を、一応念のため調べておく。09:45発はもう行ってしまったから、その次は10:45までない。長尾支店の次の目標である藤阪出張所へは、事前に調べてきたとおり電車で藤阪へ行き、そこから歩くしかないと思われる。
 駅前の通りは片側1車線しかないが、交通量はかなり多かった。京橋方向を見ると、1階にセブンイレブンの入った雑居ビルがあって、その向かいが目指す近畿大阪銀行長尾支店であった。まず建物の写真を…と思ったら、セブンイレブンの配送車が店の前に停まって作業をしていて、ベストポジションと思しき場所は占領されていた。よりによって一番大事なところで写真が撮れないのである。困ったものだ。

2009年01月07日

2008.07.22(火)(5)0626、本町営業部で予備取材

 ここで、時計の針を1か月ほど戻す。
 6月下旬、私はりそな銀行めぐりの「2巡目」で、関西地区で最後まで残っていた大阪市内をまとめて片付けた(紀行文は後日発表の予定)。初日の6月26日は、羽田からスカイマークの神戸線で関西入りし、阪神で梅田に出て、大阪市の中心部にあるりそな銀行の支店を主に徒歩でめぐった。
 その中に、1店だけりそな銀行でないものがあった。近畿大阪銀行の本町営業部である。
 本町営業部は、店籍としては旧大阪銀行の本店営業部だが、1971年建築の旧大阪銀本店は既になく、「りそな京町堀ビル」、つまり2002年2月まであさひ銀行京町堀支店であった建物に入居して営業している。現店舗の道を挟んで反対側は、大銀が大阪不動銀行として創業した際の本店だった場所で、旧大銀にとってはゆかりの土地である。大阪銀行はもともと住友銀行系列だったが、意外なほどに旧協和銀行と密接なかかわりがあった。詳しい記述は本町営業部を実際に制覇したときに譲る。
 さて、近畿大阪はりそなグループの銀行であるが、東京都内に住んでいる限りにおいて関わりを持つことは難しい。それでも、居住地についてさほどうるさいことを言われなかった時代に口座を作っていたので、今こうして東京都内在住者が「近畿大阪めぐ」をすることができる。私は近畿大阪銀行の普通預金口座を4つ持っているが、口座を作った時点では4つ全部別の銀行であった。但し、この銀行で取引をした経験はこれまでほとんどなかったから、システム統合以前の取引が通帳にどのように記帳されるのかは知らないも同然である。システム統合前の「6月」の時点で近畿大阪にやってきたのは、システム統合の前と後で取引がどのように変化するかを確認するためであった。

 近畿大阪銀行の旧システムは、旧近畿銀行が使っていた日立系のシステムである。
 6月26日の本町営業部では、来るべき「0722」に向けて以下のような取引を行った。取引そのものとしては、「めぐ」の際に通常行っているのと同じ「入金−出金」のサイクルで、それを合計5回行ったということである。
 まず(1)として、旧システムでの通帳記帳を確認するため、普通の制覇作業を1回行って記帳まで済ませる。これは通帳1冊あれば済む。旧システムでは取引実行店情報は一番右の欄に店番号で表示されるだけである【図】。
 それが済んだら、次は「普通の制覇作業」を4冊分行う。この分は、旧システムでは記帳しないで残しておく。これを(2)とする。旧システムでの取引データを「溜めておく」わけである。理由は、旧システムでの取引を新システムになってから記帳した場合に、もしかしたら新通帳に店名が記帳されるかもしれないと思ったからである。旧大和銀のシステムが旧あさひ銀のシステムに統合される際、自分の口座が新システムに変わるのは週明けからだったが、前週土曜日の取引から既に新システム式の記帳になっていたから、そのように考えた。
 (2)の4冊は、システム統合後に次のように処理する予定である。
  (A)いきなり旧通帳で記帳
  (B)もう1回普通の制覇作業をしてから旧通帳で記帳
  (C)いきなり新通帳に繰り越し
  (D)もう1回普通の制覇作業をしてから新通帳に繰り越し
 今となっては、(B)(D)の「もう1回普通の制覇作業」というのは意味がよくわからないが、溜めておいた旧データをシステム統合後の新データと一緒に記帳したときに、通帳記帳がどうなるかを確かめたかったのだと思われる。

 取引上の違いも少し挙げておこう。近畿大阪のATMは、この時点では硬貨による「出金」ができなかった(入金はできた)。硬貨をATMから吐き出させたい場合は「おつり入金」でやるしかない。いつもりそな銀行でやっているように硬貨を入金して同額を出金しようとしたところ、硬貨の出金ができず無駄な手間がかかってしまった。
 但しこれも、システム統合後には硬貨の出し入れが完全に可能になると思われる。

 以上が「0722」に向けての予備取材であった。

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2009年01月08日

2008.07.22(火)(6)近畿大阪めぐ、長尾支店から始まる

 話は、7月22日の長尾に戻る。角地という店の立地条件からして、コンビニの配送車を避けて写真を撮ることは無理だったので、撮影を後に回して先に制覇作業を済ませることにした。
 私が長尾支店に入った時点で、店内にはお客が20人ほどいた。週はじめのせいか土地柄によるのかは知らないが、いずれにしても支店はかなり混んでいた。システム統合の初日ということもあって、窓口の内部は非常に慌しかった。
 そういう様子を横目で見ながら、まずキャッシュコーナーに入る。6月の下準備を経て、「めぐ」第1号となる長尾支店では、以下の順番で作業を進める。これらは「順番厳守」である。
  1.(A)の記帳
  2.(B)・(D)の制覇作業
  3.(B)の記帳
  4.(C)・(D)の繰越
めぐ用のメインは(B)、サブは(D)とする、とこの時点で決めた。

 キャッシュコーナーは店の京橋寄りのところにある。ATM枠としては4台分のように見えるが、そのうちの1台分は扉で、実際は3台分の枠。そこにATMは3台置かれている。3台のATMは全てリーダス(日立オムロン)AK-1で、これはりそな銀行の旧大和店舗で使われているものと同じである。ATMの機械の番号は、なぜか一番左が2番、真ん中が1番、そして右が3番となっている。蛍光灯の入った黒い箱がATM枠の上部についていて、「お預け入れ」「お引き出し」の表示は、行灯ではなく、白い明朝体の文字の書かれた紺色のプレートである。機械上部目の前の壁はグレー、ブースとブースの境界の部分はエンジ色であった。この後何店も回った結果、どうやらこのデザインは、(カラーリングは別として)旧近畿相互銀行のある時期の標準的なものらしいと判明した。キャッシュコーナーと窓口室との境目にシャッターがあって、窓口室側に両替機が置いてあった。
 窓口室部分は扇形の吹抜になっていて、吹抜の上部には明かり取りの窓があり、扇の中心から放射状に紺色の蛍光灯カバーがついている。床のリノリウムは基本的にはグレーだが、紺色とベンガラ色のラインが入っていた。紺色の床材の帯と蛍光灯カバーは同じ色調である。建築の際に非常にカネはかけているようだが、それとデザインが何となく垢抜けないのとが同居していた。
 数人の順番待ちを経て、ようやく自分の番がやってきた。AK-1の使用感は、硬貨投入口の内フタが出ないところ以外はりそな銀行と変わらず、6月の本町営業部ではできなかった硬貨の入出金も可能になっていた。09:56、長尾支店を制覇。これが「近畿大阪めぐ」の記念すべき第1号となった。
 予定を組んであった2枚のキャッシュカードで取引が終わったところで、(システム統合前の)旧通帳のまましばらく残しておく予定の「(B)」の通帳をATMで記帳にかけてみる。吐き出されてきた旧通帳を見たとき、私はある種の感動を覚えた。新通帳(つまり、あさひ銀行時代から見慣れた書式の通帳)とはフォーマットが大幅に異なる旧通帳で、その書式に合わせてしっかり店名が<長尾>と記帳されていたのである【注】。
 やった。東京から飛行機で駆けつけた甲斐があった。私はポーカーフェイスで喜びをかみしめていた。

 長尾支店は、近畿相互銀行長尾支店として1985年6月に開設された。今回「めぐ」の第1号としたのは、単純に片町線で一番外側にある支店だったからで、特別な意味はない。しかし、近畿大阪にとって非常に大切な片町線というエリアを裾野から攻め上がっていくには重要な地点であり、「めぐ」の第1号としてふさわしい場所と言えると思っている。

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 【注】近畿大阪銀行通帳記帳の新旧比較:全容はブログ「為栗ニュース」7月24日掲載「(詳報)近畿大阪、『めぐ』行為が可能に」を参照。

2009年01月09日

2008.07.22(火)(7)通帳繰越をジリジリしながら待つ

 制覇作業が終わったので、事前の計画に従い、4冊のうち2冊の通帳を繰り越す。今となっては、繰り越すのは1冊だけにしておき、旧通帳のままでもう1冊残しておいた方がよかったと思うが、後の祭りである。
 感熱紙の番号札を取って窓口室の長椅子に座る。今日は支店が思いのほか混んでいて、加えてシステム統合初日で行員も不慣れな状況である。そういう中で、情報収集のためとはいえ2冊も通帳繰越をやってしまった私は、極悪人であった。
 私が窓口から呼ばれたのは、10:14のことであった。通帳を渡し、代わりにプラスチックの番号札を渡される。相手をしてくれた中年女性の行員さんは、以前ディスクロージャー誌か何かで見たことがある気がした。この女性行員は、私の通帳を処理しながら窓口室の奥で中年の男性行員と「■■さん?」(伏字は為栗の本名)という会話をしていた。何だろう。私は「めぐ」を始める前から既に近畿大阪の内部で有名人なのだろうか? KOとの接触はこれまでほとんどなかったハズなのだが。
 待っている間に、店舗建物の写真撮影を済ませる。セブンイレブンの配送車は既に去り、いちおうベストポジションからの撮影を果たした。
 10:37。窓口から呼ばれた。通帳が2種類あって、どちらにしたらよいか聞かれる。今まで使っていた通帳が総合口座通帳で、かつ定期預金の預け入れがないということで、普通預金通帳にするか、総合口座通帳にするかということである。そう問われれば、片方を総合口座、もう片方を普通預金にするしかないだろう。当然そのように頼む。予想では、りそなグループの「くらしの通帳」が1冊来て、もう1冊総合口座通帳がくるのではないか。旧あさひ〜りそな銀行で「総合口座通帳」というのを今まで見たことがなかったから、ひょっとしたらここで初めて見られるかもしれない。しかし、他の人が通帳繰越をしたのを見ていると、見たことのない水色の柄になっているようなので、そこらへんはどうなのだろうか。

 そろそろ、私はジリジリし始めた。次の目標である藤阪出張所へ行くのに都合のよい、藤阪ハイツ行きの京阪バスが、駅前から出るのが10:45。このバスは1時間に1本しかないからである。もちろん乗りたいわけだが、乗れるのだろうか。窓口の方をちらちらと見る。相変わらず内側ではてんてこ舞いしている様子であった。
 ようやく処理が終わって通帳が渡された。見たことがないのも道理であった。新しい通帳は、りそな・埼玉りそな銀行共通の通帳ではなく、「くらしの通帳」「総合口座通帳」ともに近畿大阪銀行独自のものになっていたのである。水色の通帳は、定期預金のページを持つ「総合口座通帳」であった。
 通帳を開いてみる。さっきのATM取引は、当たり前のことだが新通帳でも<長尾>という店名がきっちりと記帳されていた。全てが終わったのは10:41。まさにぎりぎりのタイミングであった。

2009年01月10日

2008.07.22(火)(8)風のように藤阪出張所

 一時はどうなることかと思ったが、なんとか10:45の藤阪ハイツ行きのバスに乗れそうである。大急ぎで駅に行く。
 藤阪ハイツ行きは京阪樟葉(くずは)駅発で、まだ到着していなかった。数分の後にやってきたバスは、昨年11月に樟葉駅前から松井山手まで乗ったのと同様、クリーム色にエンジの帯の入った、普通の京阪バスとは色の違う車であった。京阪バスは数年前に子会社を合併したと聞いているから、おそらく合併した会社のバスを使っているのだろう。
 駅を出て京橋方向へ。さっき電車の窓から見えた泉州銀行の支店がある。支店の名前は枚方北支店となっていた。農協(JA北河内の菅原支店)のある角で右に曲がると、雑多な町並みというか、要するにスプロール化していた。水田あり、古い住宅あり、新しい住宅あり、寺があり、およそ住宅地と呼ぶところにあるものなら何でもある。結構大規模な、庭なども完備されたマンションも、しっかり開発されている。
 「紳士服団地」という看板が出ているが、縫製工場が集積している団地だそうだ。その向かい側にあるミスタードーナツは、先日金属片の入ったドーナツを売って回収した店である【注】。報道で読んだ限りでは、ミリ単位のかけらがせいぜい1〜2個混入しただけのようで、この程度で大々的に全国報道されてしまうのは少し気の毒に感じる。もちろん食べ物の衛生には最大限の配慮をしなければいけないのだが、現代は食べ物といえども大量に生産される工業製品の一つであって、工業製品である以上不良品はつきものである。そういう当たり前の感覚が喪失すると、こういう話が過度にクローズアップされてくると思う。「めぐ」こそやめてしまったものの、私にとってミスドは「ファストフードの原点」であり、今でもよく利用しているので、あえてこの場で擁護しておく。
 バスが右折した。おかしい。藤阪ハイツは左方向(南)のハズだ。そう思いかけたが、バスはスロープをぐるっと1回転して、今通ってきた道をくぐったのであった。なんだ、単なる立体交差ではないか。結局バスはちゃんと南に向かっている。道路をくぐったところに長尾谷町なる停留所があって、地形として本当に谷底にあたるようだ。あとは、どんどん坂を登って丘の頂上に上がっていった。

 ようやく藤阪ハイツに着いた。バスが停まった目の前に、もう近畿大阪の看板が見えている。建物の2階部分をベッタリと埋め尽くすほどの巨大な横型看板である。藤阪ハイツは「枚方ニュータウン」の一部ということで、5階建てぐらいのいかにも公団住宅という感じの棟がずらりと並んでいた。近畿大阪銀行はこの団地の中心部にあるショッピングセンター内にある。SCというよりは個人商店を集めた団地の商店街といったほうが正しく、2階建ての棟割長屋のような商店建築である。店の様子は、おおまかには『福徳相互銀行三十年史』(1981年刊)に出ている写真とほとんど変わっていないようだ。
 さて、ここ藤阪出張所では、時間の余裕がほとんどない。何しろ、長尾駅までの帰りのバスは11:03発で、今乗ってきたバスの折り返しなのだ。乗れるだろうか。持ち時間はわずかに10分。しかし、このバスに乗れれば、そこで当初のプランどおりに戻るのだ。
 藤阪出張所は「ホッとするプラザ」なるものになっている。「ホッとするプラザ」は近畿大阪に3種類ある個人客向け軽量化店舗【表】の一形態で、窓口で現金を扱わない有人出張所である。このため、税金の納付などはあらかじめ普通預金口座に入金し、印鑑と一緒に納付書を持って来るよう掲示があった。内装は大規模な改装を受けているようで、窓口室は原色を多用した新しいデザインの椅子などを使った、サロンのような形になっていた。
 キャッシュコーナーは木目調で、行灯ではない緑のプレートがついているから、りそなの標準スタイルを意識した内装になっている。ATMは4台、AK-1が両端にあって真ん中にオムロンJXの白が2台あった。10:59、藤阪出張所を大急ぎで制覇した。
 長尾支店藤阪出張所は、旧福徳相互銀行が1975年12月に藤阪支店として開設したものである。その後1984年3月に御殿山支店(枚方市)を母店とする藤阪特別出張所となり、1991年の長尾支店開設により同年11月母店が長尾支店になった。現在の店名である長尾支店藤阪出張所に落ち着いたのは1992年11月だが、さらにその後、なみはや銀行の発足と2001年2月の営業譲渡を経ている。近畿大阪銀行への営業譲渡に伴う店名変更はないが、母店はなみはやの長尾支店から近畿大阪の長尾支店に変更されている。

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 【注】金属片の入ったドーナツ:2008年6月7日にミスタードーナツ枚方長尾ショップで販売された『ポン・デ・抹茶あずき』に、3mm×4mmの金属片が混入していたことが客の指摘で判明し、別のドーナツを含め7〜9日の製造分約4100個の回収に乗り出した。生地を切る機械の部品に3mm×8mmの破損が見つかり、食材に混入した可能性が高いという。

2009年01月11日

2008.07.22(火)(9)藤阪から長尾経由で津田へ

 藤阪ハイツからの帰りのバスは、11:03発の京阪樟葉駅行き。これに乗ったことで、私は伊丹での判断ミスをようやく取り返した。その代わり、藤阪出張所の界隈はほとんど見ていない。一応、「長尾谷町3丁目」停留所そばにユニチカが経営するスイミングスクールがあるのと、藤阪ハイツから長尾駅に寄ったところがハイツとは関係ない住宅地になっているのとは認識した。後日追加で(制覇は抜きに)ぶらりと来てみたいが、たぶんその余裕はないだろう。
 帰りのバスは、近畿大阪の支店の前で降ろされた。ミスを取り返したはいいが、この界隈の京阪バスでは「ピタパ」(=イコカ)が使えない。行きは辛うじて使い残しの「スルっとKANSAI」のカードがあったのだが、帰りは現金で払わされてしまった。しかも、このあたりのバスは整理券車のくせに初乗りが220円とかなり高く、不満が残るものであった。片町線沿線は京阪バスにとってドル箱とは言えない地域なのだと思われる。

 再び片町線で移動する。次の目的地は、長尾の京橋寄り2駅目、津田である。
 さっき長尾駅のホームに降り立ったとき、線路の向こうは田んぼばかりだと見たが、いまホームの木津寄りから左の松井山手方向に目を転じると、大造成地が広がっていた。今はまだ更地になっているが、長尾は快速停車駅でもあることだし、これからマンションだの一戸建て住宅だのがドカドカと建ってくるのではないだろうか。
 長尾は片町線では大阪府の一番はずれの駅で、隣の松井山手駅は京都府京田辺市になる。りそな銀は四条畷を出ると松井山手まで店舗がないが、代わりに近畿大阪が長尾までほぼ各駅に続いてくる。ちょうど棲み分けているということだ。片町線の沿線は典型的な郊外、それも今まさに開発が進みつつある郊外である。近畿大阪がこれまでに沿線でしっかり根を張って商売していたのであれば、これから開発が進むにつれて将来が開けてくるのではないだろうか。長尾支店は客の数がそれなりに多いようだし、旧なみはや店舗の藤阪も、細々と営業しているのかと想像していたらATMがしっかりと4台もあってびっくりした。
 11:20発の各駅停車西明石行きに乗る。長尾あたりの片町線は築堤上であったが、徐々に同一平面になってきた。いかにも新興住宅地という感じの、さほど古くない家の並びが続いていて、線路際に関する限り空き地はそれほどない。とはいえ、左の車窓からは鬱蒼と茂った森が見えたり、右の車窓に畑が多少見えたりする。竹薮もあるし、「里山」というか典型的な「スプロール化した郊外」という感じの地域である。ただ、関西であるので土地の歴史はそれなりにあるようだ。
 藤阪で築堤に再び上がり、視界が一気にパッと開けた。結局バスで長尾駅から単純往復をしてしまったが、藤阪出張所へは本来ならここで降りて歩いていくハズだった。藤阪駅は高架駅で、遠景になった高台の上に団地が見える。なるほど、これがさっき行った藤阪「ハイツ」ということであろう。団地の棟とともに、ゴルフボールを銀色に塗ってやぐらに載せたような形をした給水塔が見えている。左の車窓からは大駐輪場と墓地が広がっており、なんとも謎めいた駅であった。駅前には京セラミタの工場がある。
 地形の起伏は結構あるようだ。線路の高さはさほど変わらないと思うが、築堤になったり平面になったりを繰り返している。やがて高架に上がった。関西地区にしかないファミレスのフレンドリーが右に見える。左には滋賀県地盤のスーパー・平和堂のショッピングセンター「アルプラザ」の枚方店。近畿大阪はここに店舗外ATMを出している(母店津田支店)。そして、高架線路と並行道路との間に京都銀行津田支店。このあたりも高層マンションと畑が混在している。東西線の開業と直通運転の開始により片町線が「学研都市線」に生まれ変わらなかったら、こうしたマンションはいまだ存在していないに違いない。
 線路が地平に降りてきた。津田駅はもうすぐである。

2009年01月12日

2008.07.22(火)(10)津田支店を制覇

 11:24、津田に到着した。
 ここは構造としては島式ホームが2本の駅だが、実質的には対向式ホームの駅である。待避線のついた駅にする気になればできるのだろうが、旅客に使わない方は柵で覆われている。柵のある側にもレールが敷いてあって、保線用の車両が置いてあった。
 ホームから地下道へ降りてきた。地下道かと一瞬思ったが、津田駅は下に降りてくるとそのまま改札につながっていた。コンクリートにはセメントを打ち込んだ年月が1978年11月と刻まれている。駅前にはロータリーが完備され、周囲には雑居ビルと巨大なマンションが建っていて、長尾駅前より新しい街並みに見えた。
 京橋寄りに建つガラス張りの雑居ビルの1階には、泉州銀行津田支店が入っていた。ここにも泉州銀がある。片町線はどう考えても「和泉」からは遠い地域を走る線なのだが、和泉を飛び出した泉州銀にとっては新たな収益源なのだろう。大阪府では、戦後に地方銀行が4つ創設された。北から順に池田銀行・大阪不動銀行・河内銀行・泉州銀行である。河内銀は早々に住友銀行に吸収合併されて消滅したが、それ以外の3行には、それぞれのテリトリーを侵食しない紳士協定のようなものがあった。だから、岸和田市に本店を置き旧和泉国を地盤とする泉州銀は、本来なら片町線沿線には支店が存在しないハズなのである。逆に言うと、まず大阪市をテリトリーとして業容を拡大した大阪(不動)銀は、それ以外の地域に店舗が少ないことになる。今回のプランニングのところでも少し述べたが、近畿大阪は泉州地区には店舗がさほど多くない。佐野・岸和田など泉州地区の店舗はほとんどが旧近畿銀行である。

 さて、ロータリーの向こう側は細い(といっても2車線の)道になっている。長尾駅前から通じている府道交野久御山線である。車の交通量がそこそこ多く、向こうにはうかつに渡れない。道路の向こう側には旧農家なのか、入母屋造りの豪邸が建っている。路線バスが、泉州銀の入るガラス張りのビルの前から出ているようだ。近畿大阪の津田支店は、泉州銀のビルの京橋寄り、線路と道路との間の空間にあった。外観は新し目だが、やはり何となく垢抜けない印象を残している。
 支店に入る。キャッシュコーナーがあって窓口があるというスタイルは銀行店舗としてはごく普通だが、窓口室の目立つところに角を欠き取って「御手洗」がつけてあるのが珍しいと感じた。ありがたく利用させてもらったが、ドアの真ん前は融資の窓口で、書類をトントンと叩いて揃えていた女性行員と目が合ってしまった。
 キャッシュコーナーの内装はグレー一色である。機械上部の行灯にはめてあるプレートもグレーのプラスチックで、とにかくキャッシュコーナーはグレーでべったりと塗りつぶされている。両替機が1台とATMが4台あって、機械配置はJXが1台・AK-1が3台であった。11:30、津田支店を制覇した。
 津田支店は、近畿相互銀行津田支店として1988年6月に開設された。近畿大阪銀行発足後に、旧大阪銀津田支店だった津田西支店【注】を統合している。

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 【注】津田西支店:大阪銀行津田支店として1988.11.08開設、2000.04.01近畿銀行との合併で津田西支店に改称、2001.05.21津田支店に統合。所在地は津田駅北300mほどの枚方市津田西町3丁目で、津田支店(枚方市津田駅前1丁目)より西側にあったわけではない。

2009年01月13日

2008.07.22(火)(11)倉治かご池で夜が明けた

 非常に順調だとほくそ笑みながら駅へ戻りかけたが、津田駅に戻ってはいけないのである。
 次の目的地は、直接の「近畿大阪めぐ」ではないが、近畿大阪に関係する歴史的建造物、交野市立教育文化会館である。津田駅から徒歩15分ほどの交野市倉治(かたのしくらじ)まで歩く。この建物は最近(2007年)、文化庁によって国登録有形文化財に登録された。現物を見たことがなかったので、これを機会に行ってみようと思っていたのだ。私は最近、歴史的建築づいている。
 駅前の2車線道路、府道736号(交野久御山線)を南に向かって歩く。津田支店から100m、いや50mも行かないぐらいの地点で、枚方市が終わって交野市に入る。地名は早くも目標のある「倉治」に変わっている。駅前はマンションが建っていたり雑居ビルがあったりするのだが、駅から少し離れただけで、畑と個人商店と民家が混在する典型的な田舎の街道になる。
 警察学校前という交差点の角は更地になっていて、「かご池跡」と刻まれた石碑が立つ。農業用溜池の跡地らしい。近年では溜池は農業が衰退して利用されなくなり、災害時の決壊を恐れて埋め立てられるものが多いそうだ。「かご池」という名前は篭のように水漏れするという意味だそうだから、溜池としては出来がよくなかったのであろう。もちろん、石碑などがあるのは、たとえ出来が悪くても地域からは愛されていたことの表れである。さて、「かご池跡」の石碑には「石つき唄」なるものが彫ってあった。「わしの若いときゃ 津田までかよた 倉治かご池で 夜が明けた おもしろや おもしろのひょうたんや おおあげあげ」。この近所に伝わる祝い歌だそうである。この土地は関西スーパーマーケットの出店予定地らしく、フェンスには同社の倉治店について地元への説明会を近々行う旨の看板が出ていた。
 かご池跡から南西方向は、地形としては道路から急に下に落ち込んでいて、そこには見渡す限りの水田がある。田んぼの真ん中には送電線の鉄塔が点々と建っており、その向こうには遠景として住宅団地が広がっている。豊かな田園地帯だった片町線の沿線もこれから開発が進んでくるのだろう、と改めて思った。

 さらに南に進み、倉治桜堤の交差点で右に曲がる。この交差点の北西角にも溜池がある。農業用の溜池として現役らしく、緑色の水をたたえている。関東地方で溜池を見ることはほとんどないから珍しく感じた。1辺50mはある相当広大な池で、真ん中には木の生えた島まである。ボートを浮かべて遊んだら結構楽しいのではないだろうか。溜池と水田の隣には畑があって、シソやトマトが植わっている。民家が数軒と古びた鉄筋アパートがある他は、車の通りも人通りもほとんどない、のどかな田園地帯であった。この道をずっとまっすぐ行くと、文化会館の茶色い建物があるハズだ。そう思っていると、建物のタワー部分のてっぺんが南の彼方に見えた。曲がるところを間違えた。桜堤で右折したのは早かったようだ。
 大急ぎで左(南)に曲がり込むと、倉治の住宅地に入った。ここは耕作中の水田と住宅とが完全に入り交じっており、建物も土蔵を持つ家があるかと思えば最近建てられた瀟洒な洋館風の3階建ての家もあって、ゴチャ混ぜである。でも、いかにも「豪農」と感じさせる家があったり、お寺が2軒もある等、やはり古い集落のようだ。
 古い木造家屋についている瓦ぶき塀の白壁部分は、あるものは黒く塗られていて、煮しめたゴボウのような色の羽目板がついている。別の家には白壁のままの塀もある。その向かい側は、茅ぶきか藁ぶき屋根の上にトタンをかぶせた感じの農家。そうした家屋の隣に、3階建ての新しい民家が建っていたりする。道幅は狭い。前方をワンボックスが1台走っていったが、1台ようやく通れるぐらいの道幅しかない。
 交野市倉治のこのあたりは、古い農村地帯、それも割合に豊かな地域という印象である。昔はこうした農村地帯で無尽講【注】をやっていたのだろう。それが、交野無尽金融という会社に発展していったわけだ。2006年1月、りそな銀行の旧奈良銀店舗である田原本支店を取りに奈良県田原本町の街中を歩いたときと同じような感動があった。あちらは商業地区であったが、こちらは農村地帯である。「豊かな農村」とはこういう感じだったのか、という印象であった。

 【注】無尽:庶民の金融システムの一つ。一定の口数と給付金額を定めて講を結び(無尽講)、定期的に掛金を行って一口ごとに抽選し、最終的には全加入者が給付を受ける仕組み。仮に、10口5万円の無尽講に10人の参加者がおり、毎月5000円徴収したとすると、月に5万円の資金が集まることになる。ここで抽選を行い、当選者1人に5万円を支給する。これを10回繰り返すと、10人の参加者全員が5万円の現金を手にすることができる。現金給付を受けた者は以後の抽選からは外れるが、掛金の納入は最後まで行う。鎌倉時代中期に生まれた相互扶助システムがその起源とされる。(講を結ぶ=有志でグループを作る)

2009年01月14日

2008.07.22(火)(12)登録有形文化財、交野市立教育文化会館

 府道枚方大和郡山線が始まる倉治2丁目の交差点まで来た。2車線の通りになったが、ここからストレートに西に向かうと、目指す交野市立教育文化会館がある(ハズだ)。
 さっき、遠くからタワーの部分が見えたことでもわかるとおり、この建物は地域のランドマークになっている。建物が増えた今ではあまり遠くからは見えないだろうが、かつては水田地帯の真ん中で非常に目立ったと思う。岐阜県大垣市に行くと、地元地銀・大垣共立銀行の17階建ての本店が大垣の街を睥睨しているが、それと同じような効果があったのだろう。
 発見した。京阪バスの南倉治バス停から北へ50mほど入ったところ。奥へ入らなくても、もうレンガ色のタイルを張った茶色い壁が既に見えている。
 教育文化会館の方へ入って行く道に沿って、幅1〜1.5mくらいの広い用水路が流れている。アメンボがひょいひょいと水面を歩いていた。水はチョロチョロとしか流れていないぐらいだが、川幅いっぱいに流れている。私の小学生時代には、農業用水で網をチャカチャカとかき回して小鮒などを捕まえたりしたものだったが、魚はいるのだろうか。ここにも農業用の溜池らしきものがある。厳重に柵で囲まれていて「釣り禁止」と書いてあった。魚の養殖をしているわけでもないだろうに、何をしている池なのだろうか。そう思っているところへ、キンコンカンコン。文化会館の屋上についているらしいスピーカーから、日本人にはおなじみのウエストミンスターチャイムが鳴り始めた。正午である。夏の日の正午、晴天の昼下がり。何の脈絡もなく「終戦の日」ということを思った。
 1目標につき30分ぐらいの所要時間で計算しているので、ここは次のバスが出る12:33までは余裕がある。建物の中を見てみたいと思ったのだが、教育文化会館は月・火曜日休館だそうである。その隣に、倉治図書館といって交野市の中央図書館にあたるものがある。郷土資料室でものぞいてみようと思ったのだが、昨日(21日)が祝日かつ月曜日で、祝日を開館する代わりに今日は休みである。門は開いていたので(というより門柱だけで門扉はない)、敷地の中には入れたが、建物の写真だけ撮って終わりになってしまった。

 交野市立教育文化会館【注1】は、旧近畿相互銀行の前身にあたる「交野無尽金融」という会社の本社屋であった。戦時中の企業統合政策により、大阪府下の複数の無尽会社【注2】が1940〜44年にかけて合併したが、交野無尽金融はその中で最も規模が大きく、また積極的な営業方針を採っていた会社だった。やはり国策による合併で誕生した協和銀行にとっての不動貯金銀行のような存在、といえばわかりやすいかもしれない。
 現在も残るこの建物は、交野無尽金融の合併まで本社として使われていたが、新会社(近畿無尽)の本社が大阪市内に設置されたことから、合併に先立つ1942年11月に交野町(当時)に寄贈された。この建物は1971年11月まで交野町役場・市役所として使われ、同月に新市庁舎竣工の後は1973年10月に市立教育文化会館となった。2007年になって、文化庁により国登録有形文化財に登録されたのは前述のとおりである。
 なお、後の調べでわかったことだが、文化会館の近くには、交野無尽金融の創始者・金沢泰治の胸像があったらしい【注3】。事前のリサーチをおろそかにしていた私は、見事に見損ねてしまった。

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 【注1】交野市立教育文化会館:旧交野無尽金融本店。橋倉覚平設計、大林組施工。鉄筋コンクリート造2階建て、建築面積282u。1929.05交野無尽金融本社として竣工、1942.11.03北河内郡交野町に寄贈し同町役場、1971.11.03〜11.22交野市役所、1973.10.02交野市立教育文化会館。2007.12.05国登録有形文化財。なお、「昭和45(1970)年庁舎移動」との説があるが、1971年の誤り。
 【注2】無尽会社:無尽を営業活動として行う企業(無尽業)。1915(大正4)年の無尽業法の制定により、こうした営業無尽は政府が監督するようになった。1951年の相互銀行法施行により大半の無尽会社は相互銀行(今の第二地方銀行)に転換し、現在も無尽業を営んでいるのは日本住宅無尽梶i東京都台東区、旧東海銀行系)1社のみ。
 【注3】金沢泰治(かなざわ・やすはる):交野無尽金融創始者、近畿無尽第3代社長。1888(明治21)年2月生まれ、大阪府立八尾中(旧制)を病気で中退し、大阪府北河内郡交野村役場に勤務。1914(大正3)年収入役就任、同年8月交野無尽金融合資会社を設立。1922.11.05株式会社に改組。1942.11.17近畿無尽発足で専務取締役となり、途中の退任を経て1948.04.30社長就任、同年07.19社長在任中に死去。後日の取材によれば、金沢の胸像「金沢社長寿像」は、文化会館南側に建つ消防団詰所の南、三角形をした土地の突端部分にある。かつてはここまで本社敷地であったようだ。

2009年01月15日

2008.07.22(火)(13)ベッドタウン・交野の銀行第1号

 文化会館と図書館が両方休館というのは、休館日の設定からは月曜以外にほとんどあり得ない。せいぜい年末年始ぐらいである。そうしたレアなケースに月曜でもないのにぶち当たってしまったことで、私は早くも手持ち無沙汰になってしまった。かくなる上は、ここで予定を一気に早めて、次の目的地である交野支店に向かってしまおう。そう思って、先ほど来たバス通りに戻ってきた。
 通りに出るやいなや、私は肝をつぶした。見覚えのある紅白のカラーリングのバス【注1】が目の前をスッと横切り、南倉治のバス停に停まったからだ。大慌てで乗り込もうとしたが、反対側にもバスが来るのが見えた。入口横の経路案内を見ると、先に来たのは津田駅行きのバスで、津田駅はすぐそこだから交野市駅へ行くハズがない。結局、乗ったのは反対側に来たバスであった。12:01発の星田駅行き【注2】である。

 バスは、倉治から交野市駅まで、大阪のベッドタウンとして開けた新興住宅地を抜けてきた。古い土蔵のある豊かな農村地帯は、京阪の駅近くでは影をひそめている。
 交野市駅近くに枚方信金が見えたのは枚方市の近所であるから当然としても、京都信金が交野支店など出していたのは少し意外だった。とはいえ、地元のカルタによれば交野は京へも大阪へも五里(20km)だそうで、それなら不思議ではないかもしれない。やがて、バスは京阪の踏切を渡って交野市駅ビル横のロータリーに乗り入れた。ロータリーに面した場所に、りそな銀行(交野出張所、旧大和銀)と三菱東京UFJ銀行(交野支店、旧三菱銀)がある。三菱東京の交野は旧三和銀ではない。
 近畿大阪の支店は駅の向こう側(倉治から見ると手前)で、制覇には駅を通り抜けていくことになる。エスカレーターで上がった2階が駅施設で、駅の向こうへ抜ける連絡通路もここにある。通路のスロープを上ると京阪交野市駅の駅施設で、改札機と券売機が並んでいて駅員がいる。連絡通路は静かなもので、人通りはほとんどない。エスカレーターを上がると、奥の窓から近畿大阪銀行屋上の縦型看板が見えている。近畿大阪には屋上の縦型看板が健在である店が多く、その中で旧大阪銀行の店舗には、屋上についている看板が寸詰まりであるものが多い。
 駅の反対側は、雑居ビルがあり個人商店ありコンビニもありで、「交野市」の中心駅というより郊外電車の駅という感じであった。駅前を東の方向にまっすぐ進んでいくと、お菓子屋あり本屋あり弁当屋ありの商店街で、目指す交野支店は駅の階段を降りて前方左側に見えた。商店の並びは道の左側、つまり銀行のある側だけで、その向かい側は病院と駐車場になっている。
 まずは写真撮影を済ませる。ここは道幅が狭いので、建物の全景はなかなか撮りにくい。と思っていたら、向かい側にある病院の駐車場から比較的マシな写真が撮れた。
 支店に入ると、交野市に関する限り、こちらがりそなグループの代表的な店舗であると思われた。窓口室は、その広大さに驚いた。都銀並みの窓口ブースの数と、行員の数とお客の数。客の密度は、朝一番で行った長尾支店と同じくらいである。交野市の指定金融機関は近畿大阪銀行とりそな銀行の交代制で、近畿大阪も伊達に指定金融機関になっているわけではないのだろう。なお、さっきバスを降りた際、目の前にあるりそな銀の交野出張所に寄ったが、キャッシュコーナーはすいていた。出張所と支店の違いということなのだろうか。
 キャッシュコーナーは、ATM上部に細長い行灯表示のついた、近畿大阪銀行発足後の標準内装。行灯のプレートはブルーであった。ATMは6台分の枠に5台あって、全部AK-1である。ATM枠の外、窓口室とキャッシュコーナーとを隔てるシャッターの向こう側に両替機がある。壁には、古い木造アパートの鉄製階段についている踏み板の滑り止めに似た柄の装飾板がはめ込まれている。印刷記号のゲタ(〓)を互い違いに組み合わせたような模様のあれだ。
 システムが変わったばかりのせいか、案内係のおばさんがてんてこ舞いしている。ATMで振り込みをやろうとして困っているおじさんがいて、ロビーにいたスタッフに「何か案内してあげてくれませんか」と声をかけたのだが、りそなカードの勧誘の人はりそなカードのことしかわからないそうだ。それってどうなのと少し思った。12:24、交野支店を制覇した。

 交野支店は、1970年12月に大阪銀行交野支店として開設された。この支店は交野市における銀行店舗の第1号で、この流れから同市の指定金融機関はこの店が担っている(りそな銀行との交代制)。もろもろの金融再編を経てりそなグループがこの市のお金の流れを掌握したことになる。

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 【注1】藤阪ハイツへの往復で乗ったのと同じ京阪バス(同じ会社)。赤と白は京阪バスの本来のカラーリングである。
 【注2】2008年10月のダイヤ改正により、南倉治を通る「星田駅行き」のバスは運転されなくなった。

2009年01月16日

2008.07.22(火)(14)あずきバーをかじりながら郡津へ

 駅前のローソンでアイスキャンデーを買い食いする。井村屋のあずきバーは私の大好きなアイスなのだが、セブンイレブンでは毎年夏が本格的になりかけた頃に販売が終わってしまう銘柄で、ローソンで見つけてつい嬉しくなって買ってしまった。
 あずきバーをかじりながら行く次の目標は、交野郡津(かたのこおづ)出張所である。出張所の最寄り駅は、交野市から京阪交野線で1駅だけ行った郡津。「片町線」からは若干外れることになるが、今回は強引に交野市の全域を片町線沿線とみなすことにした。
 京阪交野線は「住宅地の線」という印象である。交野市から郡津までの車窓風景は、基本的には新興住宅地で、公団住宅のような建物も見られた。郡津には12:39に着いた。複線の両側に対向式のホームがついているだけの駅で、改札は地下だ。改札機を通る際、ピタパ(=イコカ)の引き去り金額を見て絶句した。高い。1駅しか乗っていないのに150円も取られたのである。京阪がかくも初乗りの高い私鉄であることに驚愕した。関西の大手私鉄は初乗りが150円であるところが珍しくないのだが、それがわかっているのに狼狽してしまった。

 さて、近畿大阪銀行の看板は、駅からもう見えている。出張所は駅の南側、ホーム横にある踏切の真ん前にあるのだが、駅から行こうとすると、改札が駅の北端にあるので、結局ホームの端から端まで歩くのと同じような感じになる。だからあまり「ド駅前」という感じではない。地下の駅施設から階段を上って近畿大阪のある側に来ると、いきなり駅前に大きなマンションが建っているが、駅前としてありがちなものは一切ない。この駅の入口自体、駅というよりは「単なる地下道」のような感じである。京阪電車のりば/交野団地方面連絡通路、と書いてあるだけで、「郡津駅」という文字が一切見当たらないからだ。
 半分が駐輪場になった道をまっすぐ南に進むと、突き当たりが近畿大阪の店である。説明しなくても、屋上看板のついた2階建ての店舗がもう見えている。旧近畿銀の店は、屋上の縦型看板が(旧大阪銀行に比べると)縦に長いところが多い。だから「Dマーク」【注】を入れる余地がある(下の写真では切れてしまっている)。寸詰まりの看板では、Dマークはもともと入れていなかった(交野支店の写真を参照)。旧銀行の看板をそのまま使っているからこういうところが不揃いになるが、そろそろ独自のやり方で統一してもいいような気がする。
 正面入口とおぼしき入口から店内に入る。KOの有人出張所は現在「ホッとするプラザ」か「あいするプラザ」のどちらかになっていて、両者の違いは窓口で現金を扱うか否かである(あいするプラザは扱う)。交野郡津出張所は「あいするプラザ」に改装されている。従来からあるローカウンターの部分をそのまま残して相談ブースにしているのだが、正面入口を入っていきなり目の前が横に続く長い壁で、何だこれはと思った。客が窓口で相談しているところが見えないようにしているのだろう。
 キャッシュコーナーは店舗向かって右側の入口である。内装はさっきの交野支店と同様で、近畿大阪の標準スタイル。但し壁紙はおとなしい柄のものを使っている。ATMは4台の枠に3台しかない。AK-1が1台と、JXが2台である。この2台のJXは、オムロン銘ではなくリーダス銘になっている。今までにJXが入っている店もあったのだが、いま初めて気がついたということは、不審な点はなかったということだろう。とにかく、機械が3台しかないのに、さらにそのうちの1台がメンテナンス中で、ATMコーナーには5人ぐらい並んでいた。しかも、いちいちロビー係に操作方法を教えてもらわないと振込ができない爺婆というのが多数いるのだ。ロビー係も大変そうであった。随分時間がかかってしまったが、12:49、交野郡津出張所を制覇した。

 交野支店交野郡津出張所は、近畿相互銀行の交野支店として1974年11月に開設された。交野市は旧近畿にとってはルーツとも呼べる土地だが、この店ができるまで近畿相互の店舗は交野市内には存在していなかった。1942年に交野無尽金融が大阪府内の他の無尽会社と合併した際、本社屋を交野町(当時)に寄贈してしまったためである。現在近畿大阪の交野支店となっているのは旧大阪銀行の交野支店で、これが交野駅(当時)の駅前にオープンしたのは1970年であり、住宅地としての開発が進み始めたのもちょうどその時期であった。交野町の市制施行は1971年11月3日である。豊かな農村として無尽講に対するニーズは強かったかもしれないが、その後高度成長により宅地化が進むまで、交野は銀行にとっては商売にならない地域であったと言える。
 2000年4月の大阪銀行との合併に伴い交野郡津支店に改称されたが、交野市内ではその後、旧大阪銀の交野支店を中心とした店舗網再編が行われ、2002年9月に交野郡津出張所として再スタートを切った。

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 【注】Dマーク:旧大和銀行が創業70周年を期して1988年8月導入したシンボルマーク。正方形を2つ斜めに組み合わせ、中央に「ダイワ」の頭文字Dを置いている(画像は藤阪出張所の項を参照)。大和銀のバックアップで発足した近畿大阪銀行は、大和銀行グループの一員として、大和銀(青・緑)とは配色を変えて(紺・紫)このマークを使用していた。現在では公式には使用されておらず、徐々に消えつつある。

2009年01月17日

2008.07.22(火)(15)河内磐船から星田へ

 次の目標は、交野支店が母店となっているもう1つの出張所、星田出張所である。郡津からは京阪交野線で河内森へ出て、JR河内磐船駅まで歩いて片町線に乗り換えることになる。
 静かな団地の昼下がりである。車の通りはほとんどない。この出張所のある場所自体がそもそも、マンションが1軒建っているだけで、商業施設と名のつくものが全くない【注1】。マンションの背後にはストレートに住宅しか建っておらず、コンビニすらないのである。なぜこんな場所に営業店を出しているのかとも思うが、それにしては来店客の数は多い。ATMには列ができているし(但し窓口室は誰もいなかったようだが)。
 駅の南西側、近畿大阪からは線路をはさんだ反対側には団地が広がっていて、大きな集合住宅がドカドカと建っており、団地の入口にはスーパーの万代があるそうだ。地図で見ると、駅の団地口の側に郵便局とJAがある。というわけで、近畿大阪があるのは郡津駅の「寂しい側」のようだ。

 13:01発の私市(きさいち)行きに乗車、河内森には4分で到着した。
 交野市駅を出た京阪交野線は、マンション開発が部分的に進みつつある地区を抜けて築堤に上る。上がったところで府道とJRをまたいでいるが、JRは築堤上を走っているから、それをまたぐために京阪のそれも相当に背が高くなっている。それはいいのだが、JRの河内磐船駅が左の真下に見えているのに、京阪の電車はあれよあれよと言う間に私市方面に走っていく。河内森駅は相当に進んだところにあって、JRとの乗り換えには少し歩かなければならない。
 改札は地下にあって、乗り換え駅とあってエスカレーターが完備されている。出口へ上がると踏切の真ん前に出た。私鉄の「田舎の駅」といったたたずまい。周辺には不動産屋とかうどん屋とか、小規模な店が多い。枚方信金の店舗外ATMもある(交野支店・河内森駅前)。
 JR河内磐船駅までは5〜6分はかかるのだろうか。角の「山本整形外科」と書いてある看板のところで左に曲がるのだと思われる。「駅こっち」という看板は出ていないが、道には人が行き交っているので間違いないだろう。夏休みに入って間もないので、部活の遠征らしき女子中学生が30〜40人、お揃いの体育着を着てテニスラケットを抱えてゾロゾロ歩いている。みんな真っ黒に日焼けしていた。
 ゆるい坂道をまっすぐ下っていく。車1台通ったらいっぱいになるぐらいの狭い道だが、もちろん舗装されている。個人商店がちらほら並んだ商店街になっているが、商店があるのは道の片側だけで、もう片方には新興住宅地然とした住宅が並んでいる。営業している店は多くはなく、とりあえず店ですよ、という程度。それでも、7〜8軒の店があれば商店街という感じはする。京阪−JRの乗り換え客は結構多いようだが、これだけの人通りがあるのに商売が成り立たないのだろうか。商店の並びはほどなく途切れ、左側の駐輪場を挟んで京阪の築堤が続いているのが見えた。
 前方に関西スーパーが見えたところで、ようやくJR河内磐船駅に到着である。磐船という駅名は磐船神社【注2】の「JRとしての」最寄り駅という意味、旧国名の河内は私の田舎を走るJR両毛線の岩舟駅(栃木県岩舟町)と区別するためだろう。JRの駅前に来ると、さっきの京阪の駅前とは違って、駅前にはロータリーが整備されているし、ちょっと雑居ビルぽいものがちらほらと見える(あくまで「ちらほらと」である)。そしてマンション。片町線は大阪と直結している線ゆえ、駅前の整備は支線の京阪交野線よりは進んでいる感じがする。枚方信金はここにも店舗外ATMを出している(交野支店・JR河内磐船)。
 JRの駅に入る。改札は地面と同じ高さのところにあった。京橋方面のホームには階段を上がると着くが、この階段はやや段数が多い。ホームが地平よりかなり高いところにあるのだ。ちょうど電車が来た。13:12発西明石行きであった。

 【注1】2000年4月の近畿大阪銀行発足時に刊行された店舗案内のパンフレットによれば、現在駅前のマンションがあるところは「京阪ザ・ストア」というスーパーになっている。
 【注2】磐船神社:交野市の神社。市の南端、「天の磐船」(あめのいわふね)の別名を持つ天野川の渓谷沿いにある。川をまたぐように横たわる、高さ12m×長さ12mの舟形巨岩をご神体としている。

2009年01月18日

2008.07.22(火)(16)星田出張所を制覇

 隣の駅ゆえ、星田には河内磐船から2分で着いた。対向式ホームがあるだけの高架駅である。階下に降りて改札へ。踊り場つきの階段の下に改札があるスタイルは、旧国鉄の高架の駅でよく見かける。
 駅員は改札にしかいないらしく、切符売り場(出札窓口)というものはないようだった。こういう小駅もJRでは別に珍しくないが、これで「快速停車駅」というのはちょっとびっくりである。JRとしては星田駅をどう位置付けているのだろうか。一応ここは、1955年に旧交野町に合併された旧星田村の中心地であるが。
 高架ホームからまず見えたのは、またもや泉州銀行であった。こんな小駅にまで。というか、泉州銀行は片町線の沿線に相当にしっかりと支店網を張っているようだ。この銀行は、大阪の戦後地銀の一つである池田銀行と近いうちに経営統合するが、そのあと合併により誕生する新銀行は近畿大阪にとって手ごわい相手になるのではないだろうか。なお、星田駅前にある泉州銀は「交野支店」だそうだ。
 駅の南側に出てきた。泉州銀のあるこちら側は、駅前からいきなり住宅地になっている。こちら側の駅前ロータリーにバス停はなく、タクシーだけが停まっている。駅の近くではこれから色々とお祭りがあるらしく幟が多数立っている。「妙見祭り」が23日にあるらしい。23日というのは明日ではないか。地縁のないところであっても、祭祀には心が動く。明日ここの祭りに来てみたいと少し思ったが、明日には明日の行動をしているだろう。ロータリーの中心部には何台かの軽トラックが来ていて、草刈りやら剪定やら作業を一生懸命やっている。たぶんここには祭りの櫓か何かが立つのだろう。作業をしているのは地元のだんじり保存会という団体らしい。

 駅前広場の向こう側に、近畿大阪銀行の星田出張所が見える。富尾工務店という会社が建てた雑居ビルの1階にあるようだ。出張所のある5階建ての雑居ビルのほかは、駅からすぐ近いところにコンビニが1軒(デイリーヤマザキ)。50mぐらい向こう側にはマンションが3〜4軒ある。駅前からは、車1台がようやく通れるぐらいの細い道が2〜3mの間隔をおいて同じ方向に2本出ていて、間のものすごく細いところに小さな平屋建ての家が建っている。再開発の計画に対して立ち退きを頑として拒んでいるのかもしれない。近畿大阪の店舗は、駅前からいきなり住宅地になっているような場所に多いようで、過去のあさめぐ・りそめぐの経験と比べても、商業や事業所の集積度が低いところに店があるようだ。
 星田出張所は小さいながらもしっかり夜間金庫を備えているが、藤阪と同じく「ホッとするプラザ」だそうで、窓口では現金を扱わない店である。店内に入ると、赤いプラスチックの椅子を置いた相談コーナーがあり、給茶機が置いてあって紙コップ入りの水や茶が飲めるようになっている。窓口室にお客は全然いなかった。
 ATMコーナーにはそれなりに利用者がいたようだが、待つこともなく終わった。ATMは3台あって、JXが1台とAK-1が2台である。一番最初に行った長尾支店と同じ感じの内装で、機械の上部には蛍光灯の入った黒い箱がついている。ただしこちらは、明朝体の白文字を書いたアクリル板が貼ってあった長尾支店とは違い、「お預け入れ」「お引き出し」という表示は行灯になっていて、若干ソフィスティケートされている。内壁は木目調であった。13:26、星田出張所を制覇した。
 交野支店星田出張所は、1988年12月に近畿相互銀行交野支店星田出張所として開設された。大阪銀行との合併により交野郡津支店の星田出張所に変わった後、2002年9月に母店ともども交野支店の有人出張所となった。

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2009年01月19日

2008.07.22(火)(17)寝屋川団地への道

 次の目標は、最寄り駅としては同じ星田駅だが、行政区では寝屋川市に入る。寝屋川支店寝屋川東出張所である。
 寝屋川東出張所は、寝屋川団地という公団団地の中にある。この団地へ行くバスは、星田駅前から毎時17分に出ることが事前のリサーチで分かっている。星田に到着した時点で時計の針は既に13:20に向かっているところだったので、ここから寝屋川団地へ移動する方法を改めて考えないといけない。もちろん、50分近く待って次のバスに乗るという選択肢はない。
 星田駅のバス乗り場は、近畿大阪とは反対の側にある。星田駅北側のロータリーは、新線開業したローカル線の駅前のように見えた。何しろ、駅前から商店・雑居ビル・民家という具合に建物が続かず、まず駅前に民家が数軒あって、他の場所は畑なのである。1台だけ停まっていたバスに乗り込んで、運転手に聞いてみる。寝屋川団地行きがあると言ったが、それは1時間1本の運転でさっき出たばかりだと告げると、このバスに乗って「寝屋」で降りればよいと教えてくれた。
 乗ったバスは、京阪バスの[41]系統、寝屋川市駅行きであった。星田駅を出たバスは、線路に沿って京橋方向に進み、突き当たりを右に曲がって、タチ川という一級河川に沿う府道154号(私市太秦線)を進む。中間の停留所「寝屋神社前」の手前では、高速道路になるのか、大規模な道路の高架を建設中である。その手前は水田地帯であったが、工事中の高架の下をくぐると、しばらくは人里離れた感じのする山中が続く。程なく2つ目の山があるが、そこは既に重機でガシガシに崩されている。いずれ広大な住宅団地ができるのであろう。
 マンションなど新しい建物がドカドカと建ち始めたかなと思われるあたりから、寝屋川市に入る。星田からまっすぐ来たバスは、府道18号(枚方交野寝屋川線)に突き当たって左折し、寝屋川の中心街に向かいかけたところで止まった。ここが「寝屋」である。停留所の数でいうと星田駅から2つ目だが、駅からだと1km以上は歩くことになる。この間で実はひと山ふた山越えているのである。

 バスを降りて真後ろに歩き始める。府道18号は1車線×2で2車線だが、黄色いセンターラインの両側に白のゼブラ模様で中央分離帯が書かれた広い道路である。沿道には紳士服店(コナカ)や本屋・リサイクル店・靴屋といった店舗があり、いずれも大駐車場完備のロードサイド型である。和歌山県地盤のスーパー「オークワ」も見える。府道に沿って流れる川は、寝屋川である。
 ゴルフ練習場が川の向こうに見える。「寝屋川団地口」なるバス停があった。ここから左に曲がって坂道を上っていくと、寝屋川団地に達する。バスを降りるときに運転手が「信号を左に曲がって」と教えてくれていた。ゴルフ場の敷地に沿って、団地中央に向かう坂道を上る。ゴルフ場のネットと道路との間には木がたくさん植わっていて、セミがシャカシャカと鳴いている。関東ではまだセミは早いのだが、大阪へ来るともう鳴いている。何というセミかは知らない。
 寝屋川団地というのは基本的に団地であって、典型的な5階建てぐらいの高さの棟が建っているのだろうが、一戸建ても結構多いのだろうか。いずれにしても高台の上である。坂の途中から、開発されていないところにまだ水田が残っているのが見えた。

2009年01月20日

2008.07.22(火)(18)寝屋川東出張所を制覇

 坂を登りきる少し前から、5階建てのいかにも団地の棟といった建物が並び始めた。20〜30棟は軽くあるだろう。坂を上がりきると、右を向いても左を見ても5階建ての棟がズラリと並んで圧巻である。この団地は古いようだが、団地内の掃除は割合に行き届いている。公団の団地だから、都市機構の紫色のマークが所々に見える。
 今歩いている2車線道路は、団地の棟すれすれにずっと奥のほうへ続いている。棟の反対側には団地の駐車場が道路沿いに続く。道路からちょっと奥へ入ったところに京阪バスの「寝屋川団地」停留所(折返所)が見えた。折返所の向こうにも棟がズラッと並んでいる。棟が道路に直角に並ぶだけでなく、奥の方にも広がっていて、団地としては結構人口の多いところかもしれない。ただし、少し寂れてきているようだ。
 団地の棟が切れたところがショッピングセンターになっているようなので、近畿大阪はその中ではないかと思われた。銀行はSCなど金の使えるところに立地するハズで、住居棟の真ん中にいきなり入っているようなことはちょっと考えられない。そう思ってSCに近寄ったが、棟のうち半分は閉鎖された無人の店舗であった。もちろん銀行も見当たらない。
 近畿大阪の発足時に発行された店舗一覧の冊子を持参していたので、開けてみた。この冊子には各店ごとに略地図が入っている。寝屋川東支店(当時)の地図には「明徳保育園」という文字が見えた。バス折返所を背にすると寝屋川東出張所は保育園の向こうである。SCを無視してさらに左へ進むと、地図のとおり明徳保育園があった。いかにも団地といった感じの集合住宅の並びは明徳保育園のあたりで途切れ、代わりに一戸建てが20軒くらいズラッと並んでいる。建ち並ぶ家はどれも外装がそっくりで、同じディベロッパーが開発したのであろう。

 寝屋川東出張所にたどり着いた。出張所の前が高さ1.5mくらいの石垣になっていて、その上は雑草の生えたなだらかな法面になっている。法面の上に5階建ての集合住宅が1棟あって、さらに少し高くなったその隣の敷地にもう1棟建っている。出張所の前の石垣をよじ登って店舗写真を撮った。建物は非常に立派であった。
 ここは「あいするプラザ」、つまり窓口で現金を扱う有人出張所ということになる。「あいするプラザ」のコンセプトがいまひとつ理解できないままでいたのだが、ATMコーナーと普通の窓口のほか、テーブルと椅子と給茶機を置いた客の談話スペースがロビーにある。イオン系のコンビニ「ミニストップ」に設けられている客席と同じような趣旨だろうか。銀行というところは、入口でロビー係が張り番をしていて、客が店に入ろうものなら「今日はどういったご用件で」とか言い寄ってくるわけで、そういうところで寛げるのだろうかと思う。といって、完全に自由区にしたらしたで、今度は非常識な人たちのたまり場にならないとも限らない。難しいところである。但し、夏の午後に銀行めぐりをする者にとって、自由に使える給茶機の存在はありがたく、ちょっとバテバテになってきたので「水を飲ませて下さい」と言って有効に活用させてもらった。
 キャッシュコーナーはATM5台分の枠だが、一番左は両替機、AK-1が3台あって、一番右が空き枠となっていた。内装は「お預け入れ」「お引き出し」という文字の間に横線を引いて区切ってあるコバルトブルーの行灯がついた、旧大阪銀行のCI導入後のものであった。13:53、寝屋川東出張所を制覇した。

 寝屋川東出張所は、1974年10月に大阪銀行寝屋川東支店として開設された。近畿大阪銀行発足後の2004年10月に、寝屋川支店を母店とする有人出張所に変更されている。
 なお、近畿大阪の寝屋川東からひと山越えたところには、りそな銀行の有人店舗・みいが丘出張所がある。星田からのバスを寝屋で降りずにそのまま乗っていると、次の停留所が最寄りの「三井秦団地」である。今日は「近畿大阪めぐ」に専念するため、みいが丘方面への山越えはしないが、グループの店を全部(りそな銀と近畿大阪を混ぜて)回ってみるのは面白いかもしれない。

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2009年01月21日

2008.07.22(火)(19)南アルプスと東寝屋川

 ここは団地の中心部のハズだが、たまに自転車に乗った人が1人とか車が1台とか通るぐらいで、人通りはほとんどなく、公園で遊んでいる子どももいない。静かな夏の昼下がり、この団地は本当に人が住んでいるのだろうか、とすら思った。
 時刻は2時ちょうどである。寝屋川団地のバス折返所にやってきた。テントで覆われた屋根のついたバスホームは、2台が縦列駐車できるようになっていて、星田行きはホームのうしろ側から発車するようだ。テントの外側には、カード式公衆電話の電話ボックスのほか、もう一つ「無線タクシー呼び出し電話」というオレンジ色に塗られた電話ボックスがあって、少し珍しい気がした。バスホームに置いてあるベンチはいろいろな所のお古の寄せ集めらしく形態がまちまちで、5脚ぐらい置いてある。
 14:05発のコモンシティ星田行き京阪バスで、片町線星田駅に帰ってきた。寝屋のバス停から歩いた以外は全く同じルートをたどって戻ったことになる。

 次の目的地は星田の隣駅・東寝屋川。ここには、住道支店寝屋川打上出張所がある。今行ってきたのが寝屋川東出張所で、次に行くのが東寝屋川駅というのはとても紛らわしいが、寝屋川市東方の片町線沿線は、寝屋川市とはみなされていないのかもしれない。山梨県内ではかつて、甲斐駒ヶ岳や北岳といった名峰を含む南アルプスの山々を、西方の山ということでひとまとめに「西山」と呼んでいたそうだ。明治期に来日したウエストン【注】などの外国人がヨーロッパアルプスとの相似を認めて評価するまで、日本ではこうした山々は意識に上ることすらなかったのである。寝屋川市の片町線沿線が一緒くたに「東」となるのは、それと同様の構図といえよう。
 14:15発の普通西明石行きに乗車。車内の女子高生は、制服をミニスカートにしている子ばかりであった。私は以前から女子高生のスカートがロング化しつつあるとの説を標榜していたのだが、どこへいったのだろうか。東寝屋川に到着。掘割の底に島式ホームが1本ある駅で、コンクリートに打たれた数字によると、このあたりの掘割は1976年にできたようだ。自動券売機のところにある「自動きっぷうりば」という行灯の看板はオレンジ色で、書いてある文字も国鉄フォントである。あとで調べたところでは、東寝屋川駅は1979年に開設された。ちなみに、この駅に(エレベーターはあるようだが)エスカレーターはない。
 駅の窓から、少し高いところを道路橋が走っているのが見えた。この道路橋は片町線を直角にまたいでいる。駅舎は掘割をまたぐ橋上駅舎のようになっているが、駅舎の高さそのものは周辺地面よりまだ低いのだ。駅舎から駅前ロータリーに上がると、正面さらに少しだけ上がったところにスーパーのイズミヤがある。ロータリーに面した所に雑居ビルが1軒、そしていきなり民家が建っている。駅前のロータリーに民家が面しているというのは今日何度か見ているが、ちょっと信じがたいものがある。右に目を転じると、新しい駅らしく「東寝屋川駅新設記念碑」なるものがロータリーの歩道と線路際の崖との間に立っている。正面のイズミヤの隣に、10階建てぐらいの団地の建物が建っており、さらに駅前大通りをはさんでもう1棟。両方ともセンタープラザといって、寝屋川打上団地の中心商店街兼高層アパートである。
 近畿大阪の看板はちょっと歩くと見えた。1階部分が店舗になった高層アパートが2棟あるうち、駅前の筋をはさんで向こう側の建物である。出張所に向かって歩いていくと、センタービルのテナントは「喫茶ナイーブ」「ヘアーサロン39(サンキュー)」「荒木米穀店」「ヤスオデンキ」といった個人商店ばかりで、コンビニその他メジャーなチェーンは1つもない。センタービルの向こうには、公団住宅然とした集合住宅が何軒も建っている。棟のサイズは普通の団地より大きいようで、2つつなげたような外観をしている。さっき行った寝屋川よりは新しく、昭和50年代に入ってからの団地なのであろう。
 出張所に入る。窓口室は、クイックで用事を片づける窓口と、相談業務を行う窓口(ローカウンター)とに分かれ、相談窓口の入口はパーティションで仕切ってあった。寝屋川打上出張所は「あいするプラザ」となっているから、テーブルと椅子を置いてダベれるようにしてある。
 キャッシュコーナーは6台分の枠のうち1台分が空き枠で、ATMはJXが2台+AK-1が2台の計4台。そして両替機という構成になっている。ここは旧大阪銀行の店舗であるが、さっきの寝屋川東よりは少しだけ古いデザインのようで、旧あさひ銀行のパイプデザインに似たものを全面的にメタリックの紺で塗ったような外観である。それだけではなく、階段状に1台ずつ、奥へ下がるような形にずらしてあり、りそな銀行でいうと北鈴蘭台支店(神戸市北区)のような構造である。ここもやはりお客の数は結構多くて、4台のATMには並んでいる客もいた。14:27、寝屋川打上出張所を制覇した。

 寝屋川打上出張所は、1979年4月に大阪銀行寝屋川打上支店として開設された。近畿大阪銀行発足後の2004年11月に有人出張所に変更されているが、母店が寝屋川支店ではなく、同じ片町線、しかも四条畷市を飛び越えた大東市の住道支店となっているところが注意を引く。東寝屋川から住道までは、間に忍ヶ丘・四条畷と支店を2つも挟んでいるのに、である。

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 【注】ウォルター・ウエストン(1861〜1940):「日本近代登山の父」とされるイギリス人。英国国教会伝道協会の宣教師として1888(明治21)年に来日。1896年に英国で『日本アルプスの登山と探検』を出版し、ヨーロッパに初めて日本の山々を紹介した。登山者の安全を祈願するため毎年6月第1日曜に上高地で開かれる「ウエストン祭」は、彼の名にちなんだもの。

2009年01月22日

2008.07.22(火)(20)駅前にそびえ建つ忍ヶ丘支店

 次の目標は、忍ヶ丘支店(四条畷市)。忍ヶ丘は東寝屋川の隣駅である。
 時計を見ると、2時半を少し回ったところ。事前に立てたスケジュールではようやく寝屋川東出張所にたどり着いた頃で、予定より1時間早い。となると、私の頭にまず沸き上がってくるのはただ1つであった。腹減った、何か食べたい、である。駅前交番の真ん前に「ほっかほっか亭」を見つけたので、うな丼でも買って食べようかと思いかけたが、買っても駅の周辺には座って食べる場所がなさそうなのでやめた。結局、改札を入ってしまうことにした。片町線の各駅停車は15分おきと本数が少なく、東寝屋川では10分待ちとなった。ホームの半分はトンネルの中で、直射日光が当たらない。電車が来るまでの間、自販機で買ったアクエリアスを飲みながら、ベンチでもうろうとしていた。
 14:49、忍ヶ丘に着いた。掘割の下だった東寝屋川からは一転して、高架に上った。駅としては複線の両側に対向式ホームがついているだけの駅だが、混雑度はかなり高い。快速は星田よりこちらに停めた方がよいのではないかと思った。
 高架下に改札があるという構造は、さっきの星田駅と同じである。改札は京橋寄りにある。駅前に枚方信金(忍ヶ丘支店)があるのが改札の中から見えたが、他に金融機関はあるのだろうか。線路際を見るとマンションが1軒。その向こう側にグルメシティというダイエー系の食品スーパーがある。一応、日常の買い物ができる店はあるということだ。
 近畿大阪は、改札を出て向かって右側にすぐ見つかったが、その目立ち方は度肝を抜かれる感じがした。支店があるのは駅の西口側で、忍ヶ丘支店は西口ロータリーに出て正面にドーンと建っている。旧大和銀行式に、カラーの切り抜き文字が正面パラペットの部分にべったりとつけてある。「Dマーク」も健在である。
 支店の隣は水田である。近隣の建物は、スーパーマーケットかパチンコ屋のどちらかだと思う。あとは雑居ビルが1軒。片町線の沿線は、これから開発が進んでくるのかもしれないが、忍ヶ丘についてはまだまだのようである。
 キャッシュコーナーは5台分の枠があって、その横にもう1台分、1段後ろに下がったところに増設されていた。内装は近畿大阪の標準スタイルで、プレートだけ緑色に変えてあった。6台のATMは全部AK-1である。15:06、忍ヶ丘支店を制覇した。
 忍ヶ丘支店は、店籍上は旧大阪銀行の店舗である。四条畷支店忍ヶ丘出張所として忍ヶ丘駅東口に1982年8月開設され、1989年7月に忍ヶ丘支店に昇格した。一方、忍ヶ丘支店の現店舗は、1992年6月、旧近畿銀行が忍ヶ丘支店をオープンするにあたって新築したものである。近畿銀の忍ヶ丘は大阪銀との合併で忍ヶ丘西支店に変わり、駅の東側にあった旧大阪銀の忍ヶ丘支店に2001年6月統合されたが、2003年9月に東口を引き払い、旧近畿の建物に移転してきた。

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2009年01月23日

2008.07.22(火)(21)近畿大阪という銀行のあり方を考える

 支店を制覇する前に、旧大阪銀の店がどこにあったか探してみた。現店舗(旧近畿銀)は、探さなくてもあんなに目立つところにある。
 忍ヶ丘駅は、旧大阪銀のあった東側の方が商業集積がありそうだ。ロータリーの真ん中に噴水があるのはともかく、ビルも多かったり、マンションも数軒あったりで、東側の方が栄えていると思える。忍ヶ丘で商売するのであれば、こちらの方が優れていないだろうか。
 大阪銀の店舗跡はなかなか見つからなかった。持参していた店舗一覧によると、忍ヶ丘支店の旧店舗は「四条畷市岡山東1-8-8」とある。さんざん歩き回った結果、ロータリーに面した地元工務店の本社ビルが旧店舗跡らしいと思われた。東口の店舗が高く売れたのか、あるいは東口は賃貸物件で西口の旧近畿が自前の建物だったのか。なぜわざわざ東口のビルを引き払って、隣が水田になっている側の店にしたのだろう。経営判断に口を挟む気はないけれども。

 もう3時を回っているので、忍ヶ丘支店の窓口室シャッターは既に閉まっている。近畿大阪はりそなグループの銀行だが、窓口は3時で終わりである。なぜ5時までやらないのかと思っていたのだが、店舗を今日1日めぐってみて、その考えはあっさり捨てた。5時まで窓口を開けても、お客は多分ほとんど来ないだろう。人件費ばかりかかって大変だ。「地銀」は都銀とは違うのだ、ということが、今日1日片町線沿線をめぐってみてよく解った。
 ということは、よく言われる「近畿大阪銀行とりそな銀行との合併」も、当然ながら無理である。小売業でいうとイトーヨーカドーとセブンイレブンが合併するようなもので、強行したら近畿大阪が持つ肌理の細かい店舗網はほとんど維持できないだろう。いま「肌理の細かい」と書いたが、これでも苛烈な支店統廃合でずいぶん減っているのである。
 但し、「合併」はできないにしても、同じグループの銀行であることはもっとアピールしてよいのではないか。近畿大阪が発足し、さらに旧なみはや銀行の営業譲渡を受けた頃、私は大阪市の内外を車で走り回ったことがある。その際、大和銀行グループの白い看板が数百mごとに現れたのには圧倒されたものだった。もともとの大和銀行の看板に加え、近畿・大阪・福徳・なにわの4銀行が近畿大阪銀行としてほぼ同じ看板を出したのだから、数でいうと激増だったのである。このことを踏まえると、基幹システムを統合した今、次に望みたいのは「看板の統合」(デザインの共通化)ではないだろうか。私案(個人的なたわごと)を書いてみると、まず、旧大和銀グループの標準フォントになっている現行のロゴタイプは、現りそなグループ共通の書体に変えたい。コーポレートカラーは、今は水色なのか紫なのかはっきりしないが、この2色であれば紫の方が良いと思う。看板や店舗については、カラーリングを多少変えるとしても、デザインはりそな・埼玉りそなと同じにしたい。看板そのものについても、袖看板などはもう少し大型のものに付け替えた方がよいのではないか。以上、無責任な放言であった。
 もっとも、近畿大阪は現実には「看板まで統合」するどころか、逆にりそなホールディングスから切り離して単独で上場させるなどの「スピンアウト化」も検討されているという。せっかくシステム的にも完全に「りそなは一つ」となったのに、せわしないことである。切り売りされるのであれば親会社の「色」が着いていないほうが良い、ということだろうか。

 それにしても、片町線の沿線には近畿大阪と競合する銀行店舗がほとんどない。泉州銀行がちょっと固まって出店していて、あとは信用金庫が多少あるようだが、大阪地盤の都銀(三和・住友・大和)は交野市駅前に旧大和の有人出張所があっただけだ。りそな銀行めぐりの過程であれだけ多数遭遇した関西アーバン銀行(第二地銀である)は、今日まだ1回も見ていない。片町線はこれまでよほど見放された線であったようだ。

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2009年01月24日

2008.07.22(火)(22)四条畷市にない四条畷支店

 次の目的地は、忍ヶ丘の隣駅・四条畷(しじょうなわて)。駅前に四条畷支店がある。
 四条畷という地名は、南北朝時代の古戦場「四条縄手」にちなむとか、市内に墓のある南北朝時代の武将・楠木正行(くすのき・まさつら:楠木正成の嫡男)を祀っているのが四条畷神社であるからとか、諸説あるらしい。いずれにしても南北朝時代からある地名だそうだ。ただし、四条畷市の玄関口となるJR四条畷駅は隣接する大東市にあって、忍ヶ丘駅が四条畷市内唯一の駅となっている。両市の境界線は四条畷駅の北側で片町線と直交しており、四条畷市のメイン商店街である「楠公(なんこう)商店街」は境界線の北側にある。
 さて、電車が四条畷に着いて数分間、私はエアコンの効いた電車の中でぐったりとしていた。私が忍ヶ丘から乗ってきた各駅停車西明石行きは、この駅で後から来る快速宝塚行きを先に通すので、停車時間が長かったから電車の中でぐったりできたのである。
 立ち上がる。支店の制覇に行かなくてはならない。この駅は島式ホームが上下1本ずつある駅で、緩急接続が行われるのは前述のとおり。駅舎は普通の橋上駅舎で、改札を出て右に曲がると東出口になる。普通の橋上駅舎なのだが、床は茶色い化粧タイル(だったのかもしれないが、今はたんに小汚い色になってしまっている)。それが目新しいといえば目新しいと感じた。

 四条畷まで来て初めて、これまでにりそなめぐりで降りた経験のある駅となる。りそな銀行は楠公商店街の中に四条畷支店を持っている。四条畷ではりそなより近畿大阪の方が交通至便な「ド駅前」にある。銀行としての立地条件は、駅前と商店街内とではどちらが良いのだろうか。ともあれ、階段を下りるともう近畿大阪の看板が見えている。駅前にあるKO以外の金融機関としては、階段を降りた目の前が枚方信金のATM(四条畷支店JR四条畷駅前)。階段から駅舎を出て道路の向かいはのぞみ信用組合【注】の四条畷支店である。
 この駅には駅前広場やロータリーはなく、線路に沿って道路が走っているだけである。2車線ぐらいの幅があるが、センターラインは引かれていない。雑居ビルが線路と道路との間に2〜3軒建っていて、全部1階が商店になっている。雑居ビルの並びの先は、延々とバス乗り場になっている。バスは全部縦列駐車で発着しているのだ。そして近畿大阪の店舗。
 15:27、四条畷支店を制覇した。キャッシュコーナーには機械8台分の枠があって、一番左に両替機、ATMはAK-1が6台、そして一番右の枠が空き枠になっている。内装は、今日何度も見ている近畿大阪の標準スタイルで、行灯のプレートはブルーのままであった。

 四条畷支店は、1965年12月に大阪銀行四条畷支店として開設された。四条畷市の玄関駅にある支店だが、店舗はJR四条畷駅とともに大東市にある。
 支店名の表記は、四条畷市の公式表記「四條畷」に合わせて旧字体の<四條畷>となっている。このあたりの用字は悩ましいが、近畿大阪に限っていえば、支店が四条畷市にない以上、表記は「条」を使うべきだろう。JRの駅名が新字体の「条」であるからだ。似たような例は、東京の「ひばりヶ丘」(西東京市)でもみられた。西武池袋線のひばりヶ丘駅は合併前の保谷市ひばりが丘にあるが、田無市谷戸町が駅前まで食い込んできていた。このため、駅前にある各銀行は、保谷・田無のどちらにあるかで、支店名の表記を「ひばりが丘」「ひばりヶ丘」と使い分けていたのである。現在の行名でいうと、みずほ・みずほ信託・多摩信金が「ひばりが丘支店」であり、りそな・三井住友は「ひばりヶ丘支店」。「が」の店は西東京市ひばりが丘/ひばりが丘北(旧保谷市)にあり、「ケ」の店は西東京市谷戸町(旧田無市)にある。田無側の店名は駅名と揃えたわけだ。近畿大阪の四条畷支店は、ひばりヶ丘の例でいうと田無市側にあるのと同じである。

 なお、当「遊牧民の窓」では、四条畷の「条」の字は全て新字体の「条」で統一しているので、念のため付記しておく。

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 【注】のぞみ信用組合:2004.01.13大阪商業信用組合と大阪庶民信用組合が合併して発足。四条畷支店は旧大阪庶民信組の店舗。

2009年01月25日

2008.07.22(火)(23)楠公商店街にて

 キャッシュコーナーに置いてある椅子で少しだけ休んだ後、踏切向こうの楠公商店街にあるりそな銀四条畷支店に少し立ち寄った。両替機+ATM5台で、内装は旧大和銀の標準スタイルであるシルバーと青線の内装が健在であった。
 商店街の他のところも眺めてみると、りそなの向かい側にあるのは、関西アーバン銀行の四条畷支店(旧幸福銀)である。朝から片町線の沿線を歩いてきて、ようやくここで関西アーバンの支店に遭遇した。アーバンの支店には、頭取交代の告知看板が出ている。やり手の伊藤さんという頭取が会長に退いたのだ。関西銀行が関西さわやか銀行(旧幸福銀行)と合併し、関西アーバン銀行が発足すると、いかにも第二地銀的な場末の店舗を駅前などの一等地に移転するなど、経営基盤の改革を矢継ぎ早に行った。その立役者が住友銀行出身の伊藤忠彦氏だったが、そろそろ潮時と考えたのだろう。
 通りの中間にあるミスタードーナツには、以前来たことがある。商店街の西側の突き当たりには、旧近畿が1992年から四条畷出張所という有人出張所を出していた(母店住道支店)。大阪銀行との合併に伴い楠の里出張所と名前が変わったが、間もなく新銀行の四条畷支店に統合されている。

 現在のところ、時間は約1時間浮いている。駅に戻ろうとして、商店街にたまたま「力餅食堂」というのを見つけたので、ついふらふらと入ってみた。これについては先月たまたま見た「秘密のケンミンSHOW」という番組(日本テレビ系)でやっていた。大阪には「力餅食堂」が多数あって、各店ごとに内装も看板のロゴも違い、店によってはメニューまで違うが、看板商品のおはぎだけはほぼ全店で扱っているという話であった。チェーンではなく暖簾分けの店だからそういうことになる。
 さて、私はこの店では780円の「唐揚げ弁当」を注文した。別に780円ではリーズナブルでもないと思ったのだが、結論から言うと感心した。この「弁当」は、お重に入って出てくるのである。お重は直径15cmぐらいの円形のものが2段重ね。おかずの箱には鳥の唐揚げ4個に生野菜(キャベスラ・トマト・キュウリスライス)が入っていて、山菜も入っている。それとは別にご飯のお重。ご飯は決して量は多くないが、のりたまがたっぷりとかけてあった。それに小うどんがつく。一つ一つの量を見るとさほど多いわけではないのだが、これで十分お腹がいっぱいになった。だいたい、料理がお重に入って出てくるというのは、関東で暮らしていると遭遇しない気がする。容器をお重にしただけで何となく楽しくなってくるから不思議だ。コリャええわと思った。
 ということで、1時間の余裕時間は30分ぐらいに縮んでしまったけれども、それでもまだ時間の余裕はある。エアコンの効いたところでゆっくり飯を食い、麦茶も4杯ぐらいおかわりしたので、疲れはかなり解消した。ここで足どり軽く次の目的地に向かうことにしたい。

2009年01月26日

2008.07.22(火)(24)オランダに似ている?住道

 次の目標は、四条畷から2つ目の住道(すみのどう、大東市)である。
 四条畷16:21発の各駅停車、京橋行きに乗車した。四条畷を出た片町線は、野崎を過ぎるところまではずっと地面を走っている。大阪府下の片町線ほぼ全駅に拠点を構える近畿大阪だが、ここに至って四条畷の隣に野崎という拠点のない駅が出てきてしまった。ただし、りそなグループ全体でいえば、野崎には旧大和銀行がかつて有人出張所を出していたことがあり、りそな銀行の店舗外ATMが現在もある。
 住道に着く直前で、急に高架に上がった。このあたりから沿線ではだいぶ建物の密集度なども上がってきて、空き地がなくなってきたのがありありとわかる。もちろん水田など見られなくなる。
 住道には4分で着いた。りそな銀の住道支店を取りに来たことがあるから、高架下に改札があるという駅の構造は分かっている。改札を出て左に出たところが住道の駅前広場であって、そこが人工地盤になっているのも以前と同じ。2棟並んでいる再開発ビルの向かって左側「サンメイツ二番館」にりそな銀行が見えている。

 さて問題はここから先である。近畿大阪がどこにあるかというと、「二番館」の隣、駅から向かって右側の「サンメイツ一番館」という建物である。イズミヤがキーテナントになっていて、壁面の「サンメイツ」の文字の横に近畿大阪銀行の看板も出ている。KOの看板をよく見ると右矢印がついているから、支店があるのは建物の向こうの端だろう。片町線の線路と平行に流れる川(寝屋川である)に沿って、サンメイツの外壁の通路を東へ歩いていけばいいことになる。
 住道は快速停車駅ということで、マンションなども多少見られるけれども、ここの町並みはむしろ大阪市内に近いかもしれない。木造の民家がびっしりと密集していて、わりと平べったい街並みである。川は堤防がとても高くて、川の流路は掘り込まれた運河のような形になっている。堤防を2階まで届くほどの高さで築いて無理やり掘割にしているということは、普段でも水面の高さが地面と同じくらいで「天井川」に近いのだろう。オランダには堤防から水漏れしているのを発見した少年が漏水個所に指を突っ込んで崩壊を防ぎ、地域を必死で守ったという美談があるが【注】、ひょっとしたらこの地域にも似たような話があるかもしれない。ないか。
 川をまたぐ道路橋は堤防より低いところを走っていて、水位が上昇した時には閉鎖できるように水門がついている。近畿大阪の住道支店は、サンメイツビルの四条畷寄りの一番端で、住道本通商店街というアーケード街の付け根に面している。商店街はそのまま、さっきの水門のついた橋につながっている。住道支店は、住道の駅前にあるというより、この住道の商店街を相手にしている支店なのだろう。
 キャッシュコーナーには機械7台分の枠があり、一番左が空き枠で、残り6台分は全部AK-1であった。「お預け入れ」「お引き出し」等の表示は行灯ではなく緑色のプレートで、後ろから蛍光灯で照らしている。プレートの作り方はりそな銀行の発足当初の標準スタイルと同じで、壁紙を木目調にしているところも似ている。ただ、機械1台1台の仕切りは、丸みをつけたり尖らせたりはしておらず、ちょっと安いのか角張った形状のシルバーになっている。あとは、UFOのような丸いレンズがキャッシュコーナーの目立つところについている。防犯カメラである。これがあるのは近畿大阪独特(少なくともりそな銀行においては一部の店舗外ATM以外では見かけない)で、キャッシュコーナーはりそなと近畿大阪を混ぜたようなスタイルといえる。16:34、住道支店を制覇した。

 住道支店は旧近畿銀行の店舗で、もともとは交野無尽金融の住道支店だった。合資会社であった交野無尽金融は、株式会社に転換して間もない1926(大正15/昭和元)年、支店を2か所に開設した。そのうちの1店が枚方支店、もう一つがここ住道支店であるが、交野無尽時代の開設日までは残念ながら判明しなかった。現店舗は、住道駅前の再開発事業により「大東サンメイツ一番館」がオープンした1978年11月に営業を開始した。

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 【注】有名なエピソードであるが、実際にあった話ではなく、メアリー・メイプス・ドッジ(アメリカ、1831〜1905)という女性作家の創作。オランダの風景・伝統・地理などを織り込んだ『銀のスケート靴』という作品に、小学校の授業で生徒が教科書を朗読するシーンがあり、そこで読まれるのが『ハーレムの英雄』なる「実話」。(ハーレム=オランダの都市)

2009年01月27日

2008.07.22(火)(25)何かを期待させる8710

 サンメイツ一番館の建物2階にある出口から、人工地盤上の駅前広場に出る。りそな銀行住道支店が目の前に見えている。だいぶ日が傾いてきたのを感じるが、せっかくなので寄っておく。両替機1台とATM7台があり、内装はプレートだけグリーンに変えた旧大和銀の標準スタイルであった。
 さて、次は再び、りそなグループの拠点が近畿大阪しかない地域に行く。放出(はなてん)。難読地名であるばかりでなく、字面としても意味ありげ。関西エリア以外の人にとっても関心度のかなり高い地名ではないだろうか。関西エリアの人がまず思いつく「放出中古車センター」(現ハナテン)は、1963年にこの地で創業された。
 JR片町線は、住道から大東市を出て東大阪市をかすめ、放出からついに大阪市(鶴見区)に入る。住道から2駅(鴻池新田・徳庵)挟んだ先であり、近畿大阪の店舗網は住道から若干まばらになる。近畿大阪は、かつてはこの2駅、それから放出の先の鴫野にも支店を持っていたが、統合してしまった。

 放出には17:09に着いた。本当はもっと早く着いていたのだが、パッと起きられるようになるまでベンチに座ってぐったりしていたのである。放出は島式ホームが2本ある駅で、いつのまにか立派な橋上駅舎の駅に切り替わっていてびっくりした。なにしろ、階段部分の屋根が波打っている。安普請で傷んでいるのではなくて、新しい建築でウエーブを描いているのである。放出支店は私にとっては近畿大阪の口座店の一つ(旧近畿銀行時代から)で、前回ここに降り立ったのは、近畿銀の時代に店の写真を撮りに来たときだったが、当時は駅舎も地平にあって、とてもではないがこんなソフィスティケートされた駅ではなかった。
 改札を出て北口に降り立った。左手に関西銀(現関西アーバン銀)と近畿銀の放出支店が2軒並んでいるのは健在である。駅前広場に面したところに三和銀も支店がある(もちろん現在は三菱東京UFJ銀行となっている)。旧三和の建物は再開発に伴ってマンションに建て替えられている。マンションの下層階を銀行店舗にするのは最近の銀行建築のはやりで、りそな銀も今度石神井(東京都練馬区)でやる。
 今日一日見てきたとおり、片町線の沿線は開発がかなり進んできており、特に放出は京橋を出てから最初の快速停車駅とあって激変している。以前の駅前はそのまま下町的な商店街になっていたと思ったが、今来てみると駅前ロータリーが整備され、駅前の通りも2車線とはいえ間にもう1車線ぐらい引けそうな広い道になっている。但し、激変したとはいえ、こちら側の駅前には雑居ビルが数軒あるほかは古めかしい個人商店が並んでいて、まだまだ古い面影を残している。駅前の交差点は信号がない。信号がなくてもすぐに渡れた時代の名残なのだろう。駅の反対側(南口)には、30階建てぐらいのマンションが駅舎越しにドンドンドーンと何棟も見える。というわけで、行ってみると、地名の妖しさからくる期待感とは裏腹に(?)激変しつつはあるものの何の変哲もない大阪の下町であった。
 近畿大阪の支店は「放出みゆき通り商店街」というアーケード街の入口にあって、近畿大阪と関西アーバンが並んでいるのはこの商店街の角である。ATMは5台全部AK-1で、内装は横長の青い行灯がついている近畿大阪の標準スタイル。機械回りはグレーで塗りつぶされていた。17:14、放出支店を制覇した。

 放出支店は、近畿相互銀行の支店としては1973年10月1日に開設されたことになっている。もともとは、この日近畿相互と合併した国民信用組合の放出支店であった。国民信組の放出支店は、放出出張所として1959年10月に開設され、支店には1961年1月に昇格している。1973年10月の合併を経て、現在の店舗は1980年11月に新築された。大阪銀行との合併後に、旧大阪銀放出支店だった放出東支店(駅前通りを東に進んだ先にあった)を統合している。
 国民信用組合は、1953年12月に扶桑信用組合として堺市に設立された地域信用組合であった。設立後間もなく近畿相互が人的・資金的な支援を行い、1956年6月国民信組に改称、1958年10月に本店を堺市から大阪市阿倍野区に移転した。近畿相互と経営基盤が似通っていたこと、また信組の要職を近畿相互のOBないし出向者が占めていたこともあって、当時としては珍しい異種金融機関同士の合併話がまとまった。旧国民信組の店舗は1973年10月の合併時点で8店舗あったが、近畿大阪銀行に現在も残るのは放出支店のほか鳳支店(現出張所、堺市西区)、東淀川支店(現西淡路支店、大阪市東淀川区)の3か店だけである。

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2009年01月28日

2008.07.22(火)(26)京橋から大阪ビジネスパークへ

 いよいよ次は、本日最後の目的地となる京橋である。今日の「近畿大阪めぐ」は、京橋駅から少々歩いた大阪ビジネスパーク(OBP)内にある本店営業部(大阪市中央区)をもって終了する。そして、今日一日乗り続けたJR片町線も実は京橋が終点で、ここから先は地下に潜って東西線と名前を変える。
 放出17:24発の各駅停車西明石行きに乗車。京橋には5分ほどで着いた。前方の車両に乗っていたので、京橋ではエスカレーターを上がった所がそのまま西出口の改札になっている。この改札を出て、右へ行くと京阪電車やダイエーにつながり、まっすぐ行くとOBPに通じる連絡通路である。当然直進する。片町線ホームの尼崎寄りにはJR西日本が経営するコンビニ「ハートイン」があって、みずほ銀行のコンビニATMがあるのが見えた。
 OBPへの通路は、まさに「連絡通路」としか呼びようのない、非常に長い廊下であった。体感では200m以上、実際の長さとしては100mぐらいだろうか。腰ぐらいの高さまで壁があって、その上は広告看板が壁の代わりをしている。広告の看板が途切れると片町線の線路が見え、ダイエーの京橋ショッパーズプラザがあるのも見え、線路とダイエーの建物との間が空き地になっているのもわかる。ダイエーの西隣にある立体駐車場の建物が切れたところで、京阪京橋駅の一番西側、片町口から来る連絡通路に突き当たる。ここで左に曲がるとすぐまた突き当たって、クランク状に右→左と曲がっており、その先で寝屋川をまたいでいる。「大阪城歩行者専用道」の一部であるらしい。ちょうど夕方の退勤時刻で、連絡通路は前方からゾロゾロ通勤客が歩いてくる。この時間に帰宅するのは女性ばかりである。男が遅くまで働いているのに、女は定時でさっさと上がるのかい。「男権論者」の私としてはふざけるなと少し思った。

 寝屋川をまたぐ屋根付きの橋から川向こうを見ると、2棟のツインタワービルが右側にそそり立つ。これが「ツイン21」で、MIDタワーとナショナルタワー(現OBPパナソニックタワー)の2棟から成る。雑居ビルのMIDタワーには、あさひ銀行がかつて大阪ビジネスパーク支店を置いていた。ツインタワーの左側に見えるのが富士通の関西システムラボラトリで、ここにはあさひが店舗外ATM(企業内)を出していたので制覇に行ったことがある。富士通のATMシステムなどのショールームになっているようだから、銀行ATMに関心を持つ者としては今度じっくり見に行ってみたい。
 というわけで、OBPは初めてではないが、近畿大阪銀行本店の場所はまだ把握していない。寝屋川を渡ったところに大きな掲示地図があった。OBPは東ブロックと西ブロックとに分かれるそうで、近畿大阪銀行のある「OBPキャッスルタワービル」は東ブロックの4番と書いてある。連絡通路のデッキを降りてパークアベニューという筋に入り、富士通シスラボがある次の交差点で左に曲がるようだ。
 掲示地図によると、近畿大阪の本店の隣は、いずみホールである。そうか、近畿大阪はいい場所に本店を構えているなあ。いずみホールは「いずみ」の名のとおり住友生命が建設したクラシック音楽専用ホールである。このホールの総合プロデューサーを、日本のバッハ研究の第一人者である礒山雅・国立音大教授が務めていて、私の好きなバロック音楽の主催公演では聴きに行きたいと思うものが多い。近畿大阪の本店の行員は、そうしたコンサートに(その気になれば)会社帰りに行けるわけである。「ご近所割引」などもあるだろうし、素晴らしい立地だと思った。
 さて、東ブロックへ向かうべく歩道橋を降りると、黄色いセンターラインを引いた2車線の道路があるけれども、車の通りはほとんどなく、路上駐車の車だけはたくさんいた。いかにもオフィスビルといった感じの高層ビルがドンドーンと何棟も建っているが、コンビニはこういうところにしっかり立地している(ファミリーマート)。あとは、職場の懇親のために和民があるとか、昼のチープな食事のためにマクドナルドがあるとかである。南へ向かって直進する。
 富士通シスラボの建物が切れたところで左に曲がった。ここは、今歩いてきたパークアベニューと目的地のある城見通りとの交差点で、目標は城見通りを渡った向こう側にあるハズだった。

2009年01月29日

2008.07.22(火)(27)17:53、本店営業部を制覇

 見えた。ディスクロージャー誌などで数回見たことのある、近畿大阪銀行本店である。バブル期によくあるスタイルとは言えるかもしれないが、グレーの外壁を持つ低層棟とガラス張りの高層棟から成る、大規模で立派な建物である。
 日はだいぶ西に傾いてきている。暗くならないうちに、本店の写真を撮ってしまおう。全景を撮ろうとすると、どうしても100mぐらいは後ろに下がらないと無理だ。いかに旧近畿が立派な本店を作ったかということである。本店から通りを挟んだ向かい側にKDDIビルというのがあるが、そこの敷地内から何とか撮れないだろうか。城見通りは本店の東側でJR大阪環状線を越えるアンダーパスになるので、向こうへ渡るためには巨大な掘割にかかる橋を渡らなければならない。
 近畿大阪銀行本店の背後は、住友生命保険の本社だそうだ。住友グループの企業ゆえ大阪に本社があるのは想像の範囲内だが、OBPにあるとは知らなかった。近畿大阪の本店はその隣であって、全国企業に伍してすごい場所に本店を持っているものだと驚かされた。新本店は旧近畿にとって、相互銀行から大きく羽ばたくという意味があったのだろう。
 撮影をどうにか済ませ、肝心の制覇に向かう。「キンキオオサカクイックロビー」は低層館の1階、OBPの中心部から来る城見通りに面したところにある。行ってみると、営業時間は平日のみで18時までだという。ここは「北側」キャッシュコーナーで、「南側」は22時まで営業しているそうだが、南側へは建物外壁に沿ってぐるっと迂回しないといけないらしい。北側キャッシュコーナーの機械配置は、2台のATM(AK-1)+両替機となっている。枠は旧あさひ銀行のパイプ形に似たデザインになっていて、メタリックピンクのような色で塗られている。はめてあるブルーのプレートは、文字に明朝体を使ってあるのがなんとなく野暮ったく見えた。
 店内のスピーカーから、キンコンカンコーン、とチャイムが鳴った。「毎度ご利用いただきましてありがとうございます。間もなくこのコーナーの機械は自動的に止まりますので、只今お取り扱い中のお客様以外はカードをお入れになりませんようお願いいたします。またのご利用をお待ち申し上げます。」と女性の声のアナウンスが流れる。時刻は17:53。終了のアナウンスに合わせて私も、今日の「近畿大阪めぐ」の最終制覇としよう。

 現在近畿大阪銀行の本店として使われている建物は、1988年12月、旧近畿相互銀行の本店として建てられたものである。近畿相互銀行は1989年2月に普銀転換して近畿銀行に変わっており、この建物が「近畿相互銀行本店」だったのはわずか2か月弱の間であった。
 近畿相互の本店新築計画は、1987年に迎えた創立45周年の記念事業の一環であった。堺筋本町の本店(1955年10月築)が老朽化し、また本部機能が6か所に分散するなど業務に支障をきたしていたためだが、場所を変えずに建て替えるには建ぺい率の関係で高層化が難しく、片町線のターミナル・京橋に近い大阪ビジネスパーク(OBP)への移転が決まった。本店が入る建物「OBPキャッスルタワー」は住友生命保険と共同で建築され、地下3階地上38階建て。近畿相互はそのうち地下1階から9階までと、東側低層棟4階建て全部、全体の24%にあたる部分を使用した。
 新本店のスタートに伴い、船場支店が旧本店近くにオープンした。店籍上は、本店営業部を「新設」し、旧本店を船場支店に変更したことになる。旧本店は住友生命および協和銀行【注】と共同で、等価交換方式により17階建ての「堺筋本町センタービル」に建て替えられ、現在船場支店はこの新しいビルで営業している。
 なお、店名の通帳記帳が<本店営業部>となるのは、りそなグループでは唯一ここだけである。りそな・埼玉りそなには「本店営業部」なる営業店が存在しないからだ。

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 【注】協和は近畿相互本店の隣に船場支店を持っていた。旧協和の船場支店は「堺筋本町センタービル」新築後に同ビルに入居、あさひ銀行時代の末期に堺筋本町支店に改称、2004年4月、大阪営業部(旧大和銀本店)内に移転していた大阪中央営業部(旧あさひ銀大阪営業部)に統合された。

2009年01月30日

2008.07.22(火)(28)本店を探検して一日が終わる

 普通の探検記では、離島でもジャングルでも、まず「探検」し、それからポイントとなる地点の「制覇」となるのが定番だろう。しかし、この「めぐ記」では、制覇してから探検するという信じられないことが時たま起こる。銀行めぐりは非常に平和な趣味である。
 というわけで、今日の予定を全て終えてしまった今、宿に入る前に近畿大阪銀行本店を少し探検しておこう。夜10時までやっているという南側のキャッシュコーナーは、住友生命本社との間をぐるっと回って行くとあるようだ。どっちみち建物の回りを1周はしてみるつもりだが、あえて案内図に書いてあるのとは反対の方へ行ってみよう。
 今利用したキャッシュコーナーは、低層館と高層館との間にある。その入口の前には、近畿銀と大阪銀とが合併した際に旧大和銀行が寄贈した記念植樹があった。樹種は「あすなろ」ということだ。1階ロビーにはコーヒー店が入っていて、あすなろの右側にシアトルズベストコーヒーのロゴが見える。低層館寄りにある自動ドアから高層館に入ったところがコーヒー店で、客席も含めてかなり広いスペースを取っている。
 本店の受付はシアトルズベストコーヒーの奥にある。コーヒー店の客席の端を肩の高さぐらいの壁で仕切って廊下にしてある。その廊下の奥に自動ドアが2枚あって、まっすぐ行くと本店営業部、右へ曲がると奥が本部受付の入口である。受付の前では守衛さんがこの時間まで張り番をしている。高層館の建物は38階建てなのだが、入口の案内には8階までしか書いていなかった【注】。3階が従業員組合、4階が社員食堂、8階が大会議室と研修室であるらしいが、まあ本部は私のような素人には縁がない。ATMと、せいぜい営業部の窓口に用があるくらいであろう。なお、高層館の近畿大阪以外の部分にはNECが入っているらしい。
 近畿大阪の南側には、いずみホールとホテルニューオータニ大阪の正面入口がある。いずみホールは前述のとおりクラシック音楽専用のホール。ニューオータニでは結婚式ができるらしく、ウエディングドレスが飾ってあった。OBP内は無機質な白とかグレーの化粧タイルで舗装されているところが多いのだが、このいずみホールの近所だけはレンガ色のものが使われていて、ナントカプロムナードといった感じの遊歩道になっている。街路樹はケヤキだろうか。住友生命保険相互会社50周年記念植樹、昭和51年などと書いたものもある。園芸用品店で売っていそうな装飾過多なベンチがたくさん置いてある。
 「いずみホール正面入口」と書いてあるところからだいぶ奥へ入って、ようやく本店南側キャッシュコーナーを発見した。キャッシュコーナーにはATM(JX)が2台置いてあるだけであった。

 南側キャッシュコーナーの真ん前には、地下の通用口に通じる階段があった。この建物に限らず、OBPでは地下駐車場やら立体交差やら、地下の施設が複雑に入り組んでいる。OBPは大阪砲兵工廠、要するに軍需工場の跡地を再開発したわけだから、軍の施設である以上、地下には当然いろいろな構造物があった。それをうまく再利用するために、こうして駐車場などの地下の施設にしているのだ。と、『帝都東京・隠された地下網の秘密』なる本を書いた元テレビ朝日記者の言を借りるとこうなる。
 それにしても、近畿大阪の本店は見れば見るほど巨大で立派であり、近畿大阪銀行そのものも片町線沿線での存在感は非常に大きなものであった。正直に告白して、私は近畿大阪銀行を「りそな傘下の一地方銀行」としか見ていなかったのだが、現地を踏んでみないとわからないことがあるものだ。
 思うのだが、東京・大手町のりそな東京本社ビル(旧協和銀行本店)を売り払った今、1階にコーヒー店を入れるほどの余剰スペースがあるのなら、近畿大阪の本店をりそなグループの新本店にしたらどうだろうか。大手町を売ったのであれば、備後町(大阪本店ビル、旧大和銀行本店)も売っていいと思うのである。見たところ、OBPには全国企業の本社クラスが軒を連ねているようだし、りそなの大阪本社が入っても何ら遜色はないだろう。逆に、近畿大阪の現本店は、地方銀行の本店として場所的に違和感がある。主要地盤の片町線を念頭に置くなら京橋は便利だろうが、本店周辺にあるのは大企業ばかりで、主要な取引先となるはずの中小企業がほとんどなさそうなのだ。片町線へのアクセスが多少犠牲にはなるが、本店は本町営業部(旧大阪銀本店)か船場支店(旧近畿銀旧本店)あたりのビルに移転した方がよいのではないか。京橋地区の営業活動には、別に「京橋支店」でも作ればよい。以上、勝手な放言であった。

 都合のいいことに、今日は荷物を京橋駅のコインロッカーに入れてある。ということは、これで京橋駅へ戻ってロッカーを開けたら、あとは宿に入ろうが東京に帰ろうが自由ということになる。今日はちょっと疲れてしまったので、宿へ帰って寝ることにしたいと思う。但し、いま宿へ「帰って」と書いたが、宿ってどこですか、という話はある。どうしようか。とりあえず、京橋駅までぶらぶら歩きながら考えよう。
 セミの鳴き声はだいぶよたよたしてきていた。太陽は西の空にほとんど落ち切っていた。

 【注】エレベーター横の案内には8階までしか書かれていなかったが、9階が役員室のようだ。

<2008.07.22 おわり>

2009年01月31日

2008.07.23(水)(1)ご無体な京阪淀屋橋

2008.07.23(水)

 23日の朝は、例によって難波のカプセルホテルで迎えた。
 夕べは10時にはもう寝ていたから、その分起床も早く、5時にはもう起きていた。ロビーにあるインターネット端末は、この時間だれも使っておらず、思う存分検索ができる。必死で検討した結果、今日は京阪沿線を攻めることにした。これを完遂すると、大阪の東〜北東方向に延びる線を全部押さえたことになる。
 ぎりぎりまでプランニングしていて、宿を出たのは9時きっかりぐらいであった。昨日は最高気温が36度まで上がったという。今日もそれに近い暑さになりそうだが、天気が良いのはなによりである。
 昨日ミナミをうろついていて見つけた24時間営業の食堂で、唐揚げ定食の朝食、680円也。食堂を出てそのまままっすぐ歩いてきたら、新歌舞伎座の前、りそな銀行と中央三井信託銀行の難波支店が並んでいる間へ出てきた。ここは何通りというのだろうか。せっかく来たので、りそな銀の難波支店をのぞいておく。入居するビルは積和MASTビルという名前。支店のATMは、3台あったハズの富士通ファクトAのうち、2台がリーダスAK-1に置き換えられ、とうとう1台だけになってしまっていた。これも消えるのは時間の問題であろう【注1】。それから、難波支店のロビーには、近畿大阪の本店と同様、シアトルズベストコーヒーが店を出している。

 りそな難波支店からちょっと南に下がった入口から地下に入ってきた。ここから地下鉄御堂筋線で淀屋橋に出て、京阪電車に乗り換える。本日第1発目の目標は、淀屋橋から各駅停車で6駅目の森小路(もりしょうじ、大阪市旭区)である。
 まず、コインロッカーに荷物を入れて身軽になろう。場所を京阪淀屋橋の女性駅員に聞いたところ、最初の角を曲がって階段を降りたところです、と教えてくれた。そこまではよかったのだが、その「階段」はなかなか見つからず、少し時間を食ってしまった。まずこれが一つ。そして、荷物を手から放して改札を入ったところ、この駅の構造が非常にご無体で、さんざん歩かされたあげく1本乗り過ごしてしまったのである。御堂筋線に一番近い改札から入ると、各駅停車のホームは130mほど前方と書いてある。どこにあるのかと思っていたら、特急などの出る島式ホームの先端部を切り欠いた行き止まり式のホームがあって、そこから09:47発が目の前で出て行ってしまったのである。何なのだこの駅の構造は。腹が立ったが、次は09:57発になってしまった。今日は昨日と違って初っ端から変である。なぜ淀屋橋で30分も時間を食わなければならないのか。
 各駅停車のホームに、私が乗ることになる09:57発の出町柳行きが入線してきた。それを見た瞬間、私は、クソッタレこん畜生と思っていたのを許す気になった。なぜかというと、やってきた車両は、もうすぐ引退する旧特急型車両【注2】で、京阪電鉄の特急のカラーである赤と黄色の塗り分けになっていたからである。引退を前にファンサービスの一環として塗色を変えているのだが、1本早い電車で行っていたらこれには乗れなかった。車両の両端についているドアは片開きで、真ん中のドアだけ両開きという、いかにも改造車らしい珍妙な車両であった。
 というわけで、淀屋橋から京阪電車、特に各駅停車に乗る場合、入った改札によっては長い距離を歩かされる可能性がある。急行でも何でも、とにかく先に発車する電車に乗り、それで京橋まで行って乗り換えたほうが賢いということが分かった。その理由は、単に歩かされるということだけでなしに、天満橋から物理的に電車の本数が増えるからだ【注3】。

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 【注1】難波支店の富士通ファクトA:旧大和銀店舗に残る富士通のATMは、旧あさひ銀店舗(難波駅前支店)が支店内支店として同居していた名残。最後まで残っていた1台も、その後間もなく撤去されたようである。
 【注2】もうすぐ引退する旧特急型車両:1963年に特急用として製造された「1900系」。京阪特急で初めてテレビカーを連結。一般型車両に改造のうえ現役使用されていたが、中之島線開業に伴うダイヤ改正を前に引退した。中之島線は2008.10.19開業した京阪電鉄の新線。京阪本線の天満橋から分岐して中之島に至る2.9km。7月23日時点では未開業。
 【注3】天満橋駅で折り返す電車が設定されていたため。中之島線が開業した現在では同線への直通電車に変わっている。

2009年02月01日

2008.07.23(水)(2)森小路支店

 いろいろあったが、森小路には10:09に到着した。
 淀屋橋から地下を走ってきた京阪電車は、天満橋で地上に上り、寝屋川市の萱島までずっと複々線が続いている。京阪は通勤線区ゆえ、大阪市内ではマンションがドカドカと開発されているが、車窓から見ての印象としては、そういうものは線路の南側、つまり進行右側だけにしかないのではないかと思った。左側にもマンションがないわけではないのだが、印象ではさほど多くはない気がしたのである。あとは、大阪らしく右も左も古い一戸建ての建物がベッタリと広がって密集している。
 複々線の途中にある森小路駅は、島式ホームが2本あるような構造をしていて、ホームの通過線に面する側は柵で覆われている。駅内では、スピーカーからカッコウの鳴き声が流れている。大阪の私鉄(といっても京阪と南海だけだが)はどうして駅内で小鳥を鳴かせたがるのだろうか。そう思いながら、ホーム中央にある階段を高架下の通路まで降りてくると、通路は柵とガラスとで仕切られていて、その向こう側は改札外の道路の歩道であった。改札の真ん前が線路を直角にアンダーパスする道路であって、その道路の歩道は改札内と柵で仕切られているだけなのだ。もちろん建設費を軽減するためだろう。以前行った近鉄南大阪線河内天美駅地下の自由通路に似た構造であるが、こちらの方が古くかつ狭いだけに鬼気迫る感じがした。関東地方でこういうスタイルを見た記憶はない。
 改札機が3台、ということは2通路しかない改札を出る。改札を出て左側はスーパーナショナルである。12店舗をほぼ大阪市内だけで展開しているスーパーで、本部はりそな銀大正支店の向かい(大阪市大正区)にある。スーパーと駐輪場に挟まれた細い通路を西に向かって数十メートルも行くと、そこがようやく駅前の交差点で、角にはセブンイレブンがあった。
 駅前のこの道は、飲食店が多いとはいえ、雑居ビルになってしまった個人商店が案外数多く並んでいる。シャッターが閉まった店が多いのは時間的な理由と思われる。近畿大阪銀行は、ここから西に進んだ左側にあるハズだ。

 発見した。縦型の看板よりも、角柱の斜めに欠き取られた部分につけられた「Dマーク」の行灯(と思われる)看板の方が真っ先に目につく。建物はちょっと古めかしい感じである。前面に太い柱がドンと建っている昭和30年代までのデザインの建物を、わりと最近になって大改装したような感じである。
 この支店で特筆すべきは、何といっても2階まで吹抜であることである。2階の窓には、吹抜のまわりをぐるりと取り囲む通路がついている。この通路はもともとは銀行ギャングを射殺する目的でつけられていたそうだから、つまりはそういう古い設計思想の店だということである。2階建ての建物で2階まで吹抜ということは、店の内部には空きスペースなどほとんどないのではないか。
 キャッシュコーナーには機械5台分の枠があって、一番右の枠は空き枠、後の4台のATMはすべてAK-1である。ATM上部の行灯表示は、昨日寝屋川東出張所で見たのと同様の、旧大銀のCI導入後のものがついていた。10:17、森小路支店を制覇した。
 森小路支店は、大阪不動銀行の千林支店として1953年1月に旭区千林町2丁目に開設された。現在の店舗は1959年8月に建てられたもので、新築移転の際に店名が森小路と変更になった。「大阪不動銀行」は旧大阪銀行の創業当初の名称で、1957年12月に大阪銀行に改称された。「不動」は旧不動貯金銀行にあやかってつけられた名前である。

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2009年02月02日

2008.07.23(水)(3)続いて千林西支店へ

 森小路支店から次の目標までは、歩いていく。まさに「めぐ」という感じである。初めて訪れる場所で、自分の足で片っ端からつぶしていく形で「めぐ」をやるのは何年ぶりだろう。久しぶりに「めぐ」の醍醐味を味わっている感じがする。私はこの日を待っていたのだ。次の目標は、森小路から北へ1kmも行かない千林(大阪市旭区)。近畿大阪はここに千林西支店を置いている。
 森小路支店前の道を西へ向かっている。三菱東京UFJ銀行の店舗外ATM(京阪京橋支店・森小路駅北口、旧三菱銀)がある。東京三菱は以前この地に森小路支店を出していた。
 個人商店は相変わらず続いている。都銀はあまり店を出せない地域かもしれないが、それなりに活気のある商業地区のようだ。お寺があったりするから、集落としては古いのだろう。児童公園があって、古びた滑り台が置いてある。所々地上げをやったと見えて、マンションが建っていたりする。市会議員の事務所も見える。やがて大通りに出る「大宮1」の交差点に到達。角には大阪旭郵便局(旧集配普通局)がある。
 千林西支店は、大宮1で右折して国道1号線に出て、北(守口方向)に向かって1kmも行かないところにある。1号線に出た途端に、個人商店は少なくなる。しかし、元個人商店であろう昭和初期(もっと古いかもしれない)と思しき木造建築、あるいは瓦屋根の部分が異様に分厚い土蔵を改造したような建物や、入母屋造りの民家を改造して焼き肉屋などがある。
 地下鉄谷町線の千林大宮駅がある。旭区千林と旭区大宮の境界にあるから千林大宮という駅名だが、地名ではまだ森小路2丁目である。1号線の東側に大阪信用金庫(森小路支店)と、三菱東京UFJ銀行のATM(森小路支店・千林大宮駅前、旧三和銀)がある。三和の森小路支店は京阪千林駅前にあるようだ。大阪地盤の都銀の一つであった旧大和銀は、もともとこの地域に支店がなかった【注1】。大和はどういうわけかJR大阪環状線から数km離れた地域の店舗網がまばらで、北方面でいうと都島・野江・歌島橋が例外的にある程度だ。蛇足ながら、旧協和銀行は1973年8月までこの近所に森小路支店を持っていた。協和は貯蓄銀行だったから、こういうところに店があったのである。

 近畿大阪銀行の看板は、地下鉄駅のかなり手前から見えていた。千林西支店は森小路支店からこんなにも近接した場所にあるのか。今森小路から歩いてきたわけだが、森小路から続く商店街がブチッと途切れたという印象はない。商店街というか、商店の並びはダラダラと続いていたのだ。森小路と千林は完全に一つの地域のようで、両方に支店を持っている金融機関は(信金なども含め)近畿大阪だけである。
 千林西支店にやっとたどり着いた。国道1号と商店街との交差点である。千林商店街というのが京阪千林駅からずっと続いてきていて、この角で終わって信号の向こうが千林大宮商店街となっている。この商店街は天六(北区)・駒川(東住吉区)と並ぶ大阪の三大商店街として知られたところで、ダイエーおよびマイカルの発祥の地でもある。近畿大阪がこうやって1つのエリアに2つの支店を置いているのは、戦前から続く森小路・戦後に発展した千林、という2つの地域の違いであろう。千林は戦前には水田地帯だったが、戦災で焼け出された大阪中心部の商人がこの地に集結したのだという。
 看板の位置からして国道沿いに店を出しているのかと思ったが、千林西支店の敷地はL字形になっているようだ。支店のメインの入口は、国道からは少し奥まった千林大宮商店街に面した側である。一応両方から写真を撮ったが、商店街側はやはりいまひとつ面白くなかった。国道に面した出入口の前は、化粧タイルを敷いた単なる通路になっていた。駐輪場にしているのかと思ったが、近畿大阪は「駐輪厳禁」と掲示している。通路の隣は地下鉄千林大宮駅の2号出入口なのだが、その前には自転車が多数置いてある。KOの前には1台置いてあるだけで、まあ何も置いていないに等しい。これは結構まめに銀行の人がつまみ出しているのではないだろうか。
 商店街側の入口から店内に入る。ATMの枠は5台分あって、3台のAK-1と両替機とが並んでいる。ATMの台数は少なめだが、利用度は結構高いようで、自分の番が来るまでに少し待たされた。10:33、千林西支店を制覇した。

 千林西支店は、福徳相互銀行千林支店として1952年8月に開設されたもので、なみはや銀行の千林支店であった。福徳は1949年2月に殖産無尽会社【注2】として設立されたが、当初は殖産無尽というシステムと会社そのものにも知名度がなかったから、営業活動は有力な外務社員の個人的信用をベースに行われていた。大阪市旭区では、千林支店開設に先立つ1949年9月に森小路営業所を開設している。有力外務社員が中枢だったということは、営業所長の自宅のような場所を拠点としていたのであろう。こうした営業所は間もなく会社組織として運営上妨げとなり、森小路営業所も1950年4月に廃止されている。千林支店の営業展開は、支店開設以前の営業所を基にして始まったと推察される。
 2001年2月の営業譲渡の際は、近畿大阪に千林支店(旧近畿銀)が既にあったため「西」が付けられたが、その後2002年2月に“本家”にあたる千林支店が西支店の方に統合されたことからすると、福徳店舗の方が支店としての実力はあったのかもしれない。千林支店は1951年7月に近畿無尽の千林支店として開設され、店舗は千林商店街途中にあるサティの北側にあったようだ。

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 【注1】店舗外ATMは、守口支店・京阪千林駅前というのが千林商店街内にある。
 【注2】殖産無尽会社:殖産無尽は、無尽講から抽選を廃したもの。一定の掛金払い込みを条件に、参加者が希望した時に現金給付を受けられるようにした。厳密には無尽と異なるので「みなし無尽」とも呼ばれる。これを企業の営業活動として行うのが殖産(無尽)会社で、戦後の復興期に全国で相次いで設立された。

2009年02月03日

2008.07.23(水)(4)端折って地下鉄で守口支店へ

 今日の移動は、「スルッとKANSAI」の2dayチケットを使っている。ということは、これで京阪にも乗れるし地下鉄にも乗れるということである。
 次の目的地は守口支店(守口市)なのだが、事前のリサーチによると、守口支店は地下鉄谷町線守口駅近くの国道1号線沿いにあって、今いる場所も谷町線の駅前である。1号線の下を走る谷町線で行けば次の目的地は近いことになるが、逆に言うと京阪で行ったのでは無駄足を食わされるということである。京阪本線は国道1号線から数百m離れたところを走っているからだ。というわけで、今日のテーマは「京阪沿線の制覇」なのだが、端折って地下鉄に乗ってしまうことにした。原理原則論を追求しすぎると、駅から遠いのがわかっていながら京阪電車に乗るとかいう原理主義に陥ってしまうので、こういう端折り方は賢明ではないだろうか。
 というわけで、横着するにもいちいち理論武装しておかないと気の済まない私であった。千林商店街のアーケード街に入ってすぐのところに、地下鉄入口の小屋(谷町線千林大宮駅1番出口)が建っている。出入口前では、ちょっと好みのタイプのおねえちゃんがティッシュ配りをしていた。ついついもらいつつ地下駅に入る。

 10:42発の大日行きに乗車、守口には4分で到着した。島式ホームの真ん中にあるエスカレーターを上って改札へ。守口支店は出口からはすぐ近いようだ。おそらく、大日方向右側にある1番出口を出たところが支店なのだと思う。「めぐ」開始前のリサーチでは、近畿大阪は不便な場所にある店が多いようだったが、昨日と今日の感触では、立地が不便な店はさほど多くなかった気がする。とはいえ「中心地のド駅前」にあるわけではないから不便、という言い方もできなくはない。
 地下通路は、「1番」の方向へ曲がってからがやたらに長かった。通路が終わると階段で、エスカレーターやエレベーターはない(駅のどこかにあるとは思うが)。階段から地上に出た。「守口エムアイディビル」とあるこのビルはレンガ色の9階建てで、かなり大きなオフィスビルといった感じ。保険会社が作った雑居ビルのようなたたずまいである。
 1号線を横断歩道もないところで横断して、中央分離帯から支店の写真を撮った。それはいいのだが、支店のそばの交差点は「守口警察署前」といい、交差点の京橋寄りには本当に守口署がある。しかも警官が見ている前で堂々とやってしまった。もっとも、別にとがめられはしなかった。警官も私のようなタイプの人間を相手にするのは理屈っぽくてイヤに違いない。
 支店の周辺には民家もあるのだろうが、マンションになったところが多いようだ。雑居ビルがあって、パチンコ屋、あるいは建設会社があるとか、不動産屋があるとか、そんな感じである。普通のお店やさん、といった感じの商業はあまりない気がする。例外的にマクドナルドがある。1号線守口店というそうだ。店は24時間開けているようだが、深夜2時から6時まではドライブスルーのみ営業となっていて、個人的にはこれで「24時間営業」を標榜するのはインチキだと思う。いずれにしても、太子橋今市にあるりそな銀行の守口支店と、立地条件は似たようなものではないだろうか。守口に関してだけは、りそなの支店の立地条件とどこが違うのか、いまひとつよくわからない。もちろん、りそな銀行の旧あさひ店、守口土居支店【注1】とは地域性が明らかに違う。あそこは典型的な下町の商店街で、むしろ土居に近畿大阪があるのなら不思議には思わない。
 写真撮影を終えて支店へ。向かって左側の入口から支店に入ると窓口室で、キャッシュコーナーはビルの大阪寄りにあるようだ。窓口室を通り抜けて行ってみると、ビル全体のメインエントランスから入ったところにあった。ビルの右側にあるメインエントランスからだと、まず自動ドアがあって風除室があり、そしてその内側にキャッシュコーナーの自動ドアがあるわけで、この支店はキャッシュコーナー自体に入りにくい。守口支店はATMの稼働時間が短いのだが【注2】、それはこの特殊な構造が大きく影響しているようだ。ATMはAK-1が3台。5台分の枠があるが、右の2台分は空き枠になっている。内装は横に長い行灯のついた近畿大阪になってからの標準スタイルで、プレートの色は内装に合わせてブルーではなくグレーになっていた。10:58、守口支店を制覇した。
 守口支店は、大阪銀行守口支店として1977年4月に開設された。

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 【注1】りそな銀行守口土居支店:京阪土居駅前にあった。旧あさひ銀行守口支店。2004.03.22守口支店(旧大和銀)内に移転、2006.08.21守口支店に統合。
 【注2】守口支店のATM稼働時間:平日08:00〜19:00、土曜09:00〜17:00、日祝日休業。なお、近畿大阪銀行の標準は、平日08:00〜22:00、土日祝日08:00〜21:00である。

2009年02月04日

2008.07.23(水)(5)庭窪に続く道

 国道1号線を京橋方向に戻って左折した先には、京阪守口市駅がある。次の目的地は、守口市の北部にある守口きんだ支店で、守口市駅前から寝屋川市駅行きの京阪バスで「大庭住宅前」まで行く。
 地下鉄守口から京阪守口市までは、以前にも歩いたことがある。駅までの通り道は守口市の行政の中心で、古めかしい公共建築が多数ある。守口警察署の向かい側にある3階建てのビルは守口市教育委員会で、何かの行政施設だった建物を転用しているのだろう。警察署の隣は守口市役所で、築60年近い年代物を大事に使っている。守口市の指定金融機関はりそな銀行で【注】、これだけ守口市の中心的な行政施設が集中しているのであれば、旧大和の支店がこちらにあってもよさそうなものだが、そうはなっていない。
 守口市民会館前の交差点で左に曲がる。守口郵便局(旧集配普通局)の先にある古めかしいコンクリのアーチ橋の下をくぐると、そこが守口市駅である。京阪電車の高架を抜けた先に駅前のロータリーがあって、ロータリーの真ん中には本格的に潅木が植わっている。バスホームにはペデストリアンデッキが続いている。ロータリーに面したところには三菱東京UFJ銀行の守口支店(旧三和銀)が、はずれにはみずほ銀行の守口支店(旧富士銀)もあった。まあベッドタウンの駅であろう。曲がりこんだところにある京阪バスの案内所に寄って、大庭住宅前へ行くバスの時刻を聞いてみる。「1番から乗って下さい」と言って時刻表の紙をくれた。
 寝屋川市行きの出る1番の乗り場は、三菱東京UFJ銀行の前であった。1番乗り場には、バスが1台だけ停まっていた。私が乗る11:16発の寝屋川市駅行きである。この路線は30分間隔でしか出ていないのに運がよいと思った。座席はほぼ埋まっていた。

 バスは、私が乗って間もなく発車した。今歩いてきた道をそのまま戻り、近畿大阪の守口支店をかすめて支店前の八島交差点で左折。運がよいと思ったのに、これでは何のために守口市駅まで歩いたのか分からないではないか。100円返せと思った。
 左折した先は2車線道路で、府道北大日竜田線というらしい。沿道風景は町工場や立体駐車場なども多少混在した、そこそこ商店のある住宅地といった感じである。途中の八雲小学校で大量の降車があった。「八番」という停留所を通過。x番という停留所がこの路線には多い。この八番のあたりで若干高層マンションが見られる。そしてもう1つ、この路線には「八島交差点」「八番」そして「八雲」と、8という数字のつく地名が多いようだ。なお、道沿いの守口東高校付近には、旧なにわ銀行が守口西支店を置いていた。近畿大阪になってから2002年5月に守口支店に統合されている。
 守口市の水道局(浄水場)横で右折。途端にものすごい生活道路に入った。センターラインが引いてあるだけで路側帯はない。街並みからするとなんとなく東京の江戸川区のような、矛盾した言い方だが「古い新興住宅地」といった感じである。高度成長期の直前に宅地開発されて、そのまま止まってしまったようなたたずまいであった。そう思っていると、大日で3車線×2の大幹線道路に遭遇し、阪神高速と近畿自動車道、あわせて2本の高架をくぐる。地下鉄谷町線の終点であり大阪モノレールとの乗換駅でもある大日駅のすぐそばを通るこのバスは、不思議なことに地下鉄の乗客を全然拾っていかない。地下鉄の駅を経由すればそれなりに集客できると思うのに、大日という停留所はごく普通の住宅地の中にあるような停留所で、このバスでは乗降がなく通過であった。
 大日の大幹線道路は「つかの間の大都会」といった感じで、そこを過ぎると再び生活道路に入った。なぜか空き缶を大量に自転車に積んで運んでいる爺さんを数人見た。庭窪公民館というのが見える。公民館とは懐かしい響きである。1957年に守口市に合併した旧庭窪町の役場だったのだろう。目指す「大庭住宅前」の「大庭」は、庭窪という地名に“大日本帝国”のような感じで“大”とつけて大庭なのか。庭窪中学校の角で、片側複数車線を持つ大幹線道路を横切った。府道京都守口線(旧国道1号)である。

 【注】守口市指定金融機関:りそな銀行と三菱東京UFJ銀行の交代制。

2009年02月05日

2008.07.23(水)(6)守口キンダーガルテン

 守口市駅から20分ほどの乗車で、大庭住宅前に到着した。バス停は関西アーバン銀行金田(きんだ)支店(旧関西銀)の前である。銀行のあるこのあたりだけ、ちょっと一戸建ての個人商店の密集度が上がった感じがするが、立地の感じとしては今までとは大差ない。道路にはセンターラインが引いてあるが、消えてしまっている。でも、ラインが消えても困らない程度の交通量しかない、のどかな生活道路なのである。関西アーバンの隣はコンビニのデイリーヤマザキで、「コンビニ建築」とでもいうのか、コンビニの独立店舗に特有の四角い平屋建ての建物である。
 デイリーヤマザキの駐車場から、木々に隠れてほんのちょっとだけであるが、近畿大阪の看板が見えた。商店が多少あるとはいえ、ここは基本的には住宅地の真ん中で、こんなところに銀行の支店が2軒もあるというのが信じられない気がする。支店に向かって歩いていくと、茶色い壁に金色の紋章をつけた、一乗寺学園という3階建てのビルが建っていた。産休明け(生後2か月〜就学前)を対象とした保育所だそうだ。金田だけにキンダーガルテンである【注】。
 守口きんだ支店は、キンダーガルテンの先の目立たないところにあった。建物は、全体としては2階建てか3階建てなのだろうが、道路に面した所は平屋建てに見える。非常に変わった作りをしていて、細長い平屋建ての建物2棟を、90度ずらして重ねたような形をしている。大阪相互銀行は何という形の建物を作ったのだろうか。とにかく、建物の形が非常に面白かった。なお、2階部分の下は、全部コインパーキングになっている。
 店内に入る。ATMは4台あって、一番左がリーダスのJX、残り3台がAK-1であった。内装は初めて見るスタイルのATM枠で、ゴミ入れとか上の行灯とかが全部セットになったグレーの枠。正面から見ると、段ボールを櫛の形に切って貼り付けたような平面的な外観である。行灯の部分と枠の部分は同じ色調のグレーで、文字はブルー。この内装は多分、旧なにわ銀時代から変わっていないのだろう。そう思う根拠は、ATMコーナーにある連絡箱である。この箱には「なみはや」と小さく印刷された、ほぼ正方形(2.5cm角程度)の透明なシールが貼ってある。確かこれは副印鑑票のカバーシールだったと思う。箱に「23」という数字(意味はわからないが)を貼りたいがために、ワープロで文字をプリントアウトしてカットし、それをカバーシールでつけたのだろう。とにかく、そういう古いものがここには残っている。ともあれ、今となっては近畿大阪に2店舗しか残っていない旧なにわ銀行の店舗。客は結構入っているようで、ATMも4台あるし、相当なものではないだろうか。
 制覇の時刻としては最初の取引をした11:53ということになるが、何を緊張したのか、取引を1つ間違えてしまった。私は通常、「めぐ」では入金−出金で1サイクルとしているのだが、うっかり出金を先にしてしまった。店名が美しく並ぶハズが、守口きんだの部分だけ崩れてしまったのである。間違えたのが昨日長尾支店で新通帳に切り替えた方で、旧通帳で間違えたわけではないのが救いといえようか。ともあれ、守口きんだが特別な支店なのだということで瞑することにしたいと思う。

 守口きんだ支店は、なみはや銀行の「守口支店」であった。大阪相互銀行が守口支店として1973年2月に開設、普銀転換によりなにわ銀行の守口支店となり、1998年10月福徳銀行と合併する際にも「守口支店」の名前を守り通した。なにわ銀行は資金量が約3400億円で、規模的には福徳銀の1/3以下であった(1998年3月末)。そうなると合併交渉の過程では福徳が主導権を握ることが多かっただろうから、それにも関わらずこの支店がなみはやの守口市におけるメイン支店となったということは、相当に成績優秀な店舗だったのだろう(念のため、福徳銀にも「守口支店」はあった)。2001年2月、なみはや銀が近畿大阪銀行に営業譲渡になると、近畿大阪は守口市では4店舗体制となった。なみはや店舗の大半は営業譲渡後に統合されてしまい、4店舗あった守口市のKOも半分の2店舗に減ってしまったが、守口きんだ支店は現在も守口市北部の支店として営業を続けている。近畿大阪に現在も残る旧なにわ銀行の店舗は、ここの他には、光善寺駅前出張所(旧光善寺支店、枚方市)ただ1か所である。

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 【注】キンダーガルテン(kindergarten):直訳すると「子どもの庭」。幼稚園を創始したドイツの教育思想家・フレーベルの造語で「幼稚園」のこと。

2009.02.05〜09の運営会社とのやりとりについて

2009年02月06日

2008.07.23(水)(7)古川橋支店を制覇

 次は、古川橋(門真市)に向かう。
 バスの時刻は非常に読みやすい。守口市駅と寝屋川市駅とを結んでいる京阪バスの[1]系統は30分に1本の運転。ということは、次に来る寝屋川市駅行きは、往路のかっきり30分後である。バスでも電車でも、降りてから次の出発までで30分取れれば、停留所や駅からよほど離れた制覇目標でない限り、余裕で制覇活動ができる。
 大庭住宅前からは、寝屋川市駅行きのバスは12:06発であるようだ。反対方向はどうかと思って時刻表を見ると、こちらも12:06発であった。行き先として「土居」と書いてあるから、守口市駅からさらに土居まで行くようだ。りそな銀守口土居支店のあった土居である。京阪沿線を大阪から京都方向に向かうという本来の趣旨からすれば、守口に戻った方がよいのである。しかし、単純往復は嫌いだという考えもある。いろいろと考えをめぐらせた私は、無定見だと自分でも思う。ついさっき「京阪沿線のめぐ」でありながら千林大宮から守口まで地下鉄で端折ったのを忘れたのか。
 結局、乗ったのは先に来た土居行きであった。今来た道を忠実に戻り、京阪守口市駅へ。大日の国道1号線との交差点で信号待ち。頭上をモノレールが走り抜ける。車窓の目の前は、土蔵と瓦ぶきの塀である。白壁は戦時中に塗装されたのか、真っ黒であった。だいぶ市内まで戻ってくると、さっきは気づかなかった古めかしい外観の守口小学校の校舎に気がついた。これは歴史的建築だろうか。市役所といい教育委員会といい、守口市の公共建築はだいぶ年季が入っている。
 乗ったのが土居行きのバスだったハズゆえ、「次は京阪守口市駅」というアナウンスがあったとき、ピンポンと思いきりボタンを押した。そこへ「終点です」というアナウンスが元気よく流れ、私は赤っ恥をかいてしまった。一体どんな運転系統になっているのだ。まあよい。無事に駅まで運んでくれればそれでよいのだ。
 守口市12:36発、各駅停車出町柳行きに乗る。古川橋には各駅停車しか停まらないからだ。入ったのが東出口だったので、乗った車両は一番前であった。
 車窓からは西三荘駅手前に「Panasonic」という看板が見え、その下には「松下電器」と書いてあった。西三荘にあるのは松下電器産業の本社である。「松下電器」の文字は、いよいよ9月一杯で見られなくなる。その向こうには大文字小文字まじりの「National」のロゴが見えている。これももうすぐなくなる。守口から門真にかけては「松下村」と呼ばれるほど松下電器関係の施設が林立しているが、2008年10月の「パナソニック」への商号変更で、創業家の名字と「ナショナル」のブランド名は一掃されることになった。さらにそこへ三洋電機まで合併するそうで、「松下村」はこれから先どうなっていくのだろうか。松下本体のみならず、この地区には松下に関係する中小企業が多数あり、そこに関係する個人も多数いる。企業城下町では、親会社の動向が関係企業の業績や個人の人生にまで影響を及ぼすのである。
 西三荘に停車したところで、隣の通過線を枚方市行きの急行が通過していった。高架だった線路は、門真市駅で地平に降りた。

 12:41、古川橋に到着した。複々線の両端が各駅停車線になっていて、その外側に対向式のホームがついている駅である。2階のコンコースまで降りてくると、成協信用組合の支店が見えた。京都寄りにあるこの駅唯一の改札を出たところに、OMCの銀行ATMがある。東京スター銀行の「ゼロバンク」で使われているのと同じ、オレンジ色の機械が2台置いてあった。
 近畿大阪があるのは南側ということだが、先に、駅の北東側に見えたローソンに向かう。ローソンの多機能端末「ロッピー」で今夜のバスチケットを確保してから、と思ったのである。用事を済ませて駅のコンコースを反対側へ抜けたのは、結構時間が経ってからだった。実は、ちょっと一悶着あったのである。「エピローグ」あたりで詳述しよう。
 近畿大阪銀行は、駅南口ロータリーの首根っこに建っている雑居ビルの中にある。右隣のテナントはソフトバンクの携帯ショップ。左隣はパチンコ屋であった。例によって写真撮影から、と思ったところ、店の前で中年男性が携帯電話で通話していて、なかなか動いてくれない。しびれを切らしていたところ、彼とたまたま目が合った。目配せをしてジェスチャーで動いて欲しいと伝えると、快くどいてくれた。
 ATMの枠は5台分で、両替機プラス「AK-1」4台で埋まっていた。ここは入口の自動ドアを入ると風除室のようになっていて、もう1枚自動ドアがある。風除室に「駐車場のご案内」という看板があったが、「なみはや銀行」と大きくロゴが入っているのを、近畿大阪銀行というシールで隠してあった。内装は、行灯の部分はごく普通の近畿大阪の標準スタイルで、プレートもブルー。機械と機械の間の、壁というか仕切りになっている部分は赤茶色に塗られていて、それが珍しいといえば言えるかもしれない。「あいするブランチ」ということで、窓口室の奥の方には茶飲み話のできるスペースがしつらえてあるようだ。13:10、古川橋支店を制覇。
 古川橋支店は、福徳相互銀行古川橋支店として1984年4月に開設された。銀行名は福徳相互→福徳→なみはや→近畿大阪と変わっている。近畿大阪の門真市内の店舗は、本家にあたる門真支店(旧近畿銀、1964年12月開設)が京阪門真市駅前にあったが、2002年5月に古川橋支店に統合されている。

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2009年02月07日

2008.07.23(水)(8)古川橋から門真団地へ

 古川橋駅南口のロータリーは、真ん中に噴水があって、化粧タイルで覆われている。ケヤキだろうか、たくさん樹木も植わっていて、緑の多い駅前風景が広がっている。ダイエーの古川橋駅前店が見える。ダイエーは駅の反対側にも大型店舗(古川橋店)を持つ。
 古川橋には、都銀では三菱東京UFJと三井住友がそれぞれ支店を出しているが、珍しくりそな銀行は店を出していない(店舗外ATMすらない)。都銀で「珍しい」といえば、三菱東京の門真支店は旧三和ではなく旧三菱店で、東京三菱の店が単独でボンとあるのは関西では珍しい気がする。ATMの稼働時間は08:45〜19:00だそうで、都市銀行でこんな営業時間の設定になっているところがいまだにあるとは驚いた。りそなのように頑張らなくてもいいのはある意味羨ましいかもしれない。
 駅前のこちらはロータリーになっていて、三菱東京はロータリーに面した雑居ビル・京阪古川橋ビルの1階にもATMがある(大和田支店・古川橋駅前、旧三和銀)。その隣が三井住友銀行の門真支店(旧住友銀)。そして、なみはや店を引き継いだ形で近畿大阪がある。京阪沿線の近畿大阪はなみはや店の比率が高く、特に旧なにわ銀の店で2つだけ残る店は両方とも京阪沿線だ。

 次の目的地は、府営門真団地である。ここには門真南支店がある。古川橋駅南口から、京阪バス[5]系統、門真団地行きに乗る。南口から出るバスはこの系統しかないので、乗るべきは今停まっている「試験場前」行きをやり過ごした次のバスぐらいだろう。ちなみに、この古川橋という駅は、東京でいうと鮫洲や東陽町と同じ性質を持っている。運転免許試験場がこの駅の近所にあるのだ。
 さて、門真団地行きはやはり13:35までなく、どこかで15分ほど時間をつぶす必要がある。ちょうどいいから昼ごはんを食べよう。高架下のミスタードーナツには以前入ったことがある。セール乱発気味のミスドは、今日からまたセールであった。ミスドの隣には定食屋の「宮本むなし」とロッテリアがあるが、どちらも気が進まなかった。結局、駅前の三菱東京の隣にある雑居ビルの2階に「力餅食堂」を発見した。15分で食ってバスに戻ることはできるかどうかが危ぶまれたが、とりあえず入る。オーダーは力餅うどん590円。値段としては(昨日と同様)決して安くはないけれども、高いわけでもない。焼いたモチが3個入っていて、もちろん関西であるから丸モチであった。
 さあ門真団地行きに乗ろう。13:35発が待っていたのはいいが、エンジンを止めているではないか。ということはエアコンも止まっているということで、車内は猛烈に暑かった。この暑いのにうどんなんか食べてきたから、余計にそうである。バスにはかなりの立ち客がいた。大半は途中の免許試験場で降りるのだろう。
 バスは、古川橋駅前から南に向かう。2車線道路の両側には街路樹がびっしりと並んでいて、視界に入ってくる緑色の量は案外多かった。やがて府道15号線に入る。街路樹の並びは門真郵便局の先で切れた。名古屋でもないのに「スガキヤ」の店舗を発見した。やがて、運転免許ゼミとか写真屋とかいった店が並んでいる界隈に到達。さすがは免許試験場といった感じだが、不思議と代書屋は見られない。大阪府の試験場そのものは新しそうな立派な建物であった。
 免許試験場を過ぎると、倉庫とか町工場が多くなってきた。桑才のT字路で突き当たりを左折すると、三ツ島のあたりから純粋な住宅地になってきた。いくつかの角で右折したり左折したりを繰り返す。途中では何やら高架道路を建設中であった。やがて、箱型の集合住宅と給水塔が見えてきた。

2009年02月08日

2008.07.23(水)(9)「あお」の門真南支店

 門真団地終点には、古川橋から20分ほどで着いた。
 バス停(降り場)があるところは団地建物のベランダの真ん前、つまり人の家の前である。2車線の道路があって、道の反対側が乗り場、そして団地のセンター商店街になっている。このバス通りに面した所だけでも、5階建てのいかにも集合住宅といった感じの団地の建物がズラッと15棟くらい並んでいる。もちろんその奥にもダーッと続いているわけで、だからそれなりに大規模な団地である。
 いずれにしても、バスを降ろされたのは団地センターの前である。近畿大阪はバス通りをさらに進んだ先である。信号のある四つ角に交番があって、交差点の向こう側に駐車場のように見える空き地がある(もとは駐車場だったらしいが)。支店はその先に建っている。府立門真なみはや高校というのが近所にあるようだ。
 ここは旧近畿銀行の店で、屋上看板が縦に長く、従って旧大和銀行グループの「Dマーク」が入っている【注】。旧大和銀のマークの水色を紫に変えただけの近畿大阪のロゴマークは、現在公式には使われていないのだが、だからといって正式に廃止したわけでもないらしく、わざわざ「積極的に」塗りつぶしてはいないようだ。寸詰まりの看板を使っていた店では、最初からDマークを入れていないところもあった。というわけで、看板等わざわざ新しいのに変えているわけではないけれども、新しく作るときにはもうDマークは入れないということになっている。なしくずし的に止めているという感じである。
 建物の外装は、壁は白一色、そして窓サッシはブルーで塗ってある。ブルーの色調は、子ども向けクレヨンの「あお」のような原色に近い感じだから、これでたとえば壁の部分を黄色に変えたら、子どものお絵描きのようになってしまう。建物はそんなに新しくはないと思うが、結構奥行きのある窓口室は「あいするブランチ」としてきれいに改装されているようだった。
 店内に入る。内装は昨日長尾支店で見たのとよく似ていた。ATMコーナーの最上部、旧協和式のパイプデザインであれば大きく数字が書いてあるところに、蛍光灯の入った箱がついている。ただし、この支店のものは断面が長方形ではなく、正八角形を半分にしたような形の6角形である。「お預け入れ」「お引き出し」等と明朝体で書かれたプレートがついているのは長尾と同じ。内装の色は長尾とは異なり白とブルーで、色調は前述したとおりである。この色が、機械と機械との間の仕切りや「お預け入れ」などのプレートの部分に使われている。5台あるATMは全部AK-1。機械の番号は、なぜか左から43215となっている。5番だけぽつんと場所が飛んでいても機種は同じAK-1なのだが、5番のところだけなぜか枠の幅が異様に広い。たぶん5番は昔は両替機か何かを置くスペースだったのだろう。13:59、門真南支店を制覇した。
 門真南支店は、1975年6月に近畿相互銀行門真南支店として開設された。

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 【注】屋上縦型看板の「Dマーク」:写真には写っていない。

2009年02月09日

2008.07.23(水)(10)霊験あらたかそうな萱島駅へ

 次の目標は、寝屋川市の萱島(かやしま)支店である。
 団地センターと門真南支店との間にある交番は、門真警察署の千石交番というそうだ。その前の信号を渡ろうとしたら、左折車にクラクションを鳴らされた。私の方の信号は青なのだが、左折車の行く手を私が阻んだから、ということらしい。こういった手合いにはそのうち天誅が下る(と強く期待する)。
 さて、団地のバス停に戻ってきた。只今14:07である。京阪バスは地下鉄門真南行き14時20分発、京阪古川橋駅行き31分発、京阪守口市駅行き27分発、そして京阪大和田駅行きが14分発。京阪大和田行きが一番早いから、これに乗る。この団地からのバスは京阪大和田行きの本数が一番多くて、次が古川橋行きのようだ。なお、このバス停には京阪バスのほか近鉄バスも入ってきている。鴻池新田行きが休日に1本あるだけだが、どんな人が乗るのだろうか。
 私を乗せた京阪大和田行きの京阪バスは、乗り場からUターンで発進し、千石交番の交差点で右折した。交差点からすぐのところに、京阪バスの門真車庫がある。沿道風景は相変わらずの感じだが、今までとは違ってロードサイド型の店がかなり多くなった気がした。ただし閉店したところが多くて、商売としてはあまりうまく行っていないようだ。門真団地の近隣には東門真団地というのもあるようで、門真団地よりは少し新しいようである。「門真団地入口」の交差点で左に曲がると、少し行った所に枚方信金の支店がある。門真東支店だそうだ。このあたりの道路はどえらく混んでいた。
 巣本という五差路で斜め前方に左折。交差点近くには高架道路の工事現場がある。相当に規模が大きく、高速道路か何かを造ろうとしているようだ。後で調べたところでは、第二京阪道路といって、名神高速の京滋バイパスと近畿自動車道とを接続する道路になるそうだ。昨日星田駅から寝屋川団地に向かう途中でくぐったのも、同じ道の工事現場である。
 大和田駅が近づいてきた。大和田には天辻鋼球という会社のかなり大規模な工場がある。鋼の球ということは、ベアリングか何か作っているのか。その向かい側に、関西テレビがやっているスイミングスクールがある。金融機関は枚方信金・三菱東京UFJ銀(旧三和銀)・関西アーバン銀(旧関西銀)とあり、以上すべて大和田支店。みずほ銀の店舗外ATMもあって、旧第一勧銀の支店から変更されたものである。前後するが、三井住友銀は駅の改札横に旧住友銀の店舗外ATM[大和田駅]というのがある。りそな銀行は不思議と何もない。どういうわけかりそなは門真市内が非常に手薄である。
 三菱東京UFJの真ん前が、大和田駅のロータリーであった。この駅は高架駅で、高架下に改札と「エル大和田」という商業施設とがあって、そこからさらに階段を下りたところがバスロータリーになっている。ロータリーは首根っこというものがなく、べったりと駅前の道路に接している。三和の支店の隣にミスタードーナツが見えた。

 萱島には14:45に着いた。電車の窓から左側に、近畿大阪の看板はもう見えていた。
 さっきの大和田駅は門真市とか古川橋あたりと同じで、複々線の両端(各駅停車線)に対向式のホームがあるという構造だったのだが、萱島駅は高速線と各駅停車線にそれぞれホームがついているから、島式ホーム2本の駅ということになる。駅としては小駅に類するが、かなり多数の列車がこの駅止まりになっていたり、また天満橋から続く複々線区間もこの駅で終わっていたりと、重要度の高い駅である。
 萱島駅について語るときに絶対外せないのが、下りホーム【注1】にあるクスノキの大木であろう。京阪線の高架複々線化の際、そこにもともと生えていた大木を切らずにわざとそのまま残し、駅施設に取り込む形でホームの上屋をつけている。これを見るためには、やはり下りホームに行かないといけないが、それだけの価値はあると思う。この「萱島の大クスノキ」と、桜餅の「道明寺」について触れたいがために、私は「近畿大阪めぐ」のスタートが楽しみだったのだ。萱島は早速今日消化してしまうが、道明寺支店(藤井寺市)は後日の楽しみである。
 以前から興味はあったが、実際に萱島駅に来るのは初めてである。とりあえず高架駅なので下に降りた。コンコースにガラス張りの部分があって、大木が見えるようになっている。クスノキが生えているのは駅の北側である。根元に鳥居があって祠がつけてあるから、神社のご神体として機能しているようだ。
 エスカレーターもガラス張りになっていて、ホームには大木を見上げながら上ってくることになる。下りホームに来ると、京阪電鉄による「萱島の大クスノキ」という昔の高札のようなデザインの立て札が立っていて、大木が鑑賞できる。さびが浮き出ているから金属製の立て札だが、木で作ったような凝った外観をしている。立て札の記述【注2】によると、樹齢は推定700年。高さ約20m、幹回り7mあり、昔から「萱島の大クスノキ」として地域に親しまれてきた。1972年11月に始まった土居−萱島間の高架複々線の建設工事で萱島駅が高架駅となり、その際に樹木がホームと屋根を突き抜けるという形になった、という。
 なお、萱島駅にはもう1つ、高架複々線の竣工を記念して制作されたモニュメントというのがある。下りホームのエスカレーター下にあって、構想・彫刻富樫実と書いてあるが、とりあえず言及するにとどめておく。

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 【注1】京阪本線は、京都を出て大阪に向かう列車が「下り」である。
 【注2】立て札:記載の文面は以下のとおり(原文は縦書き)。
萱島の大クスノキ
 この大きなクスノキは、高さ約二〇メートル、幹回りは約七メートルもあります。樹令七〇〇年ともいわれ、昔から萱島の大クスノキとして地元の皆さんに親しまれてきました。
 昭和四十七年十一月、輸送力増強のため着工した土居−寝屋川信号所間高架複々線の建設の際、地元の皆さんのクスノキに寄せる尊崇の念にお応えし、新しい萱島駅と共にこのクスノキを後世に残すことにしました。特有の芳香を放ち豊かな緑を繁らせて人々にやすらぎを与えてきたクスノキをいついつまでも大切に育ててゆくため、ご覧の通り樹木がホームと屋根とを突き抜けるという、全国に例をみない姿となりました。
 駅を出てすぐクスノキの根元には、昭和五十五年夏に再興された萱島神社があり、ご神木のクスノキと共に地元の皆さんに親しまれています。
京阪電気鉄道株式会社

2009年02月10日

2008.07.23(水)(11)萱島支店を制覇

 萱島駅の西口改札を出ると、目の前はコクミンドラッグの店になっていた。コンコースは2階というか中二階ぐらいの高さで、薬屋の隣は三菱東京UFJ銀行の店舗外ATM(大和田支店・萱島駅前)であった。
 階段を下りて外に出ると、目の前は「私鉄の小さな駅前」といった感じのたたずまいである。駅前広場などにはなっていないし、ロータリーにもなっておらず、本当に線路と並行に道路が通じているだけである。駅の周辺には雑居ビルが若干建っていて、喫茶店になっているとかブティックがあるとか、ごくごく小さい店が数軒並んでいる。
 駅前の通りを、線路に沿って京橋方向へ。車の離合ぐらいはできるけれども、基本的には1車線の道路である。たばこ屋がありパン屋があり、賃貸住宅の営業所とほっかほっか亭。その先に信号があって、角にはローソンがある。一応十字路になっているものの、向こう側は一方通行の出口になっているから、事実上T字路のようなものであった。
 はい、近畿大阪銀行を発見。信号を右に曲がったすぐ先である。駅から歩いて2〜3分、駅前とは言えないけれども、だからといって駅からさほど遠くもない。支店のあたりは普通の住宅地という印象だが、かなり年季が入っているようだ。銀行から奥に入ると、ちょっとした商店街になっているようだ。支店の向かい側は木造の古い民家で、外壁は煮しめたゴボウのように茶色い、というかほとんど真っ黒である。支店の隣にある花屋は、トタンの壁がさびさびであった。壁をトタン張りにしていることそのものが時代を感じさせる。
 表から見るとほぼ立方体に見える萱島支店の建物は、向かって左側、商店街に面した方の入口部分が増築されているようだ。表通り沿い、窓口室側の入口から店に入るが、キャッシュコーナーに用のある私はそのまま通り抜けてきた。萱島支店は「あいするブランチ」ということで、相談ブースが設えられて椅子が並べてあった。
 キャッシュコーナーに入ったところでちょうど3時になり、窓口室との境界では目の前でシャッターをガラガラと降ろして閉店されてしまった。キャッシュコーナーのATM枠は6台分あって、真ん中の4台分だけ機械が入っている。AK-1が2台と、JXが2台。JXは「リーダス」の銘が入っている。内装は旧大阪銀行のCI導入後のスタイルで、コバルトブルーの行灯がついていた。行灯の下の部分は鏡になっていて、そこにいろいろと細かな文字が白く印刷されている。いかにも地方銀行ぽいと思える文章であった。15:00、萱島支店を制覇した。
 萱島支店は、1969年11月に大阪銀行萱島支店として開設された。

 制覇の後、高架の下を抜けて、駅の反対側がどうなっているのか見に行ってみた。こちら側にバスロータリーなどが完備されているのかと思ったのだが、近畿大阪がある側と大差はないようだ。後で調べたところでは、駅前を流れる寝屋川の向こうにバスロータリーがある。電車が萱島に着く直前、右の車窓に珍しく大正銀行の看板が見えていた。大正銀の萱島支店はバスロータリーの取り付け道路に面したところにあるようだ。
 さっきのクスノキをご神体にしている萱島神社の鳥居が見えた。1980年に再興されたという神社である。コンビニ「アンスリー」の隣にある社務所の敷地には「参拝者以外立入禁止」と物々しい看板が出ており、パチンコ屋の景品交換所のような外観の社務所があった。手水(ちょうず)の使い方とか、参拝の仕方といった看板も出ていて、きれいに説明してある。90度のお辞儀を2回繰り返し、胸の高さでポンポンと手をたたいて拝み、そして最後にもう2回礼をする、というのが作法だそうだ。
 スズメの涙ほどの賽銭を入れて縁結びをお願いしておいたが、よく考えてみたら私はこれから3年間は厄年であるのだから「厄除け」をお願いしておくべきだったかもしれない。

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2009年02月11日

2008.07.23(水)(12)生活道路の先に寝屋川支店

 次の目標は、寝屋川支店である。寝屋川支店は1968年12月に近畿相互銀行寝屋川支店として開設された支店であるが、今日のコースでは珍しく「旧相互銀行的」な店舗立地となっている。寝屋川支店は駅から遠くて、京阪寝屋川市駅からは1kmくらい歩かなければならないのだ。
 15:15発の各駅停車出町柳行きに乗車。京阪は萱島で複々線が終わっていて、高架線の幅は狭くなっている。寝屋川車庫が右の車窓眼下に見えた。隣の席には何の帰りか知らないが女子高生がいて、制服のミニスカートをめくって痒いところをボリボリとかいていた。色気も何もあったものではない。寝屋川市のあたりでは「ロング化」が進んでいないらしく、昨日ミニスカの女子高生と遭遇したのも片町線東寝屋川駅付近だった。
 3分の乗車で寝屋川市に着いた。寝屋川市駅の北出口を出てすぐ、りそな銀行の寝屋川支店がある。せっかく来たので少しだけ寄ってみた後、移動開始。近畿大阪の寝屋川支店は、店舗一覧によると「京阪本線寝屋川市駅北西1000m」ということである。りそなの支店前から駅の北側の道を西へ向かい、京都信金のある角を右に曲がればいいらしい。
 駅前を流れている川は、寝屋川である。大利橋という橋を渡って、2車線の路側帯もない道をそのまま西にまっすぐ行く。駅前風景としては、びっしりと細かい商店街が続いている。居酒屋があったりスナックがあったり、ナントカエステとかファッションクラブとか書いてある店があったりするので、ちょっとピンク系の店が多いのかと思われる。そういうものに交じって、昭和初期の建築か、入母屋造りの古い民家などもあったりする。この付近は寝屋川の旧市街にあたるのだろう。アーケード街と、それから飲み屋街のようなものが混然一体となっている感じで、一言でいって雑多である。川がもう1本あった。橋の長さとしてはさっきの大利橋より短いけれども、川幅や深さはこちらの方が上だ。寝屋川に沿って流れる寝屋川導水路というものらしい。
 結構賑わっていそうな「ベルおおとし」という商店街アーケードがある。この地にあったなみはや銀の寝屋川支店(旧福徳銀)が、KOへの営業譲渡時に寝屋川大利(ねやがわおおとし)支店という名前になっていたのを思い出した。銀行めぐりでは、単に支店だけ見ていたのでは浅くて、その周辺をちょっと歩いてみるといろいろなことがわかる。福徳銀の寝屋川支店は、居酒屋とか飲み屋とかが多い地域にあったわけだ。寝屋川大利支店は、割合早い時期に寝屋川支店に統合になった。

 駅前から、体感では100mも来ただろうか。ここまで来ると、もう前方に京都信金の看板が見える。りそなの店舗一覧には駅から1kmと書いてあったけれども、案外遠くはないかもしれない。京都信金の寝屋川支店がある信号で右に曲がった。信号の角はこのあたりの名士さんの家らしく、塀には屋根がついていた。皮膚科の開業医らしいが、この地で古くから開業しているのだろうと思わせる相当な豪邸である。なぜか敷地の一部に赤く塗った祠が建っていて、お寺のマーク(卍:まんじ)が描いてある。鳥居のマークならともかく卍というのはちょっと合わない気がするのだが、これも神仏混交の一環なのだろうか。とにかく、祠を外に向けてつけた家があるんだよ、ということである。
 ここで「右に曲がった」はいいのだが、この先に本当に支店があるのだろうか。この道はもろに生活道路である。センターラインが引かれていないし、車の離合がようやくできるぐらいの道幅しかないからだ。しかし、しばらく進んでいくと、道はやはりこれで間違っていないと思った。なぜなら、「スーパー玉出」の黄色い看板が見えたからだ。派手な黄色の外装がしばしば話題に上るスーパー玉出(本社大阪市西成区玉出)は、大阪市を中心に50店舗を展開し、店の大半が24時間営業である。近畿大阪の支店はあのあたりだろう。ひたすら住宅だけしかなければ本当に心配になるところだが、スーパーのような「お金を使えるところ」が見えれば、銀行めぐラーとしては安心する。それにしても、車の通りはほとんどないが「飛び出し注意」「スピード落とせ」と、今となっては少し懐かしい看板が出ている。本当に子どもが飛び出してくるのであろう。
 住宅地が切れて徐々に店が建ち始めた、と思ったところで、商店街の看板のついた街灯がぽつぽつと立ち始めた。「池田本通り商店街」である。地名でいうと大利町が終わって池田東町に入ったのである。ここは確かに商店街ではあるが、当然のことながら駅前ほど賑わってはいない。とにかく車の通りのほとんどない道で、歩いている人の数も多くはない。
 そして、見えた。前方に近畿大阪の看板が。やはり寝屋川支店は本当にこんなところにあるのだった。近畿大阪は、池田本通り商店街と、何やら大きな通りとの角である。この大通りの向こう側は若葉商店街という別の商店街になっているが、道幅は変わらないのに車の交通量が全然違う。大通りを境に、向こうは渋滞すらしている。大通りを挟んで支店の向かい側には、スーパー玉出の寝屋川店が24時間営業をしている。右を見ると池田東町歩道橋というのがかかっていた。大通りの名前は池田秦線というそうだ。
 支店に入る。ATMの枠は7台分+両替機。一番左にオムロンJX、その右にAK-1が5台あって、空き枠が1つあって両替機、という並びである。内装は近畿大阪標準スタイルの行灯。ただし色はピンクのメタリックのような色になっている。この色がCI戦略上どういう意味合いで使われていたのかは謎だ。15:40、寝屋川支店を制覇した。

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2009年02月12日

2008.07.23(水)(13)香里園をさまよい歩く

 次の目標は、香里園駅(寝屋川市)近くにある香里中央支店である。
 香里園は、寝屋川市駅の京都寄り隣駅である。出町柳行きの各駅停車に乗ると3分で着いた。香里園16:01着。
 香里園駅は島式ホームが上りと下りでそれぞれ1本ずつある急行停車駅で、各駅停車と急行の接続が可能な構造をしている。各駅停車から降りる人は思いのほか多かった。橋上駅舎にエレベーターで上がろうとして箱に乗り込んだところ、あと少しで扉が閉まるというタイミングで、小学生の女児を3人連れた母親が無理やり乗り込んできた。ガキどもはうるさいは、ドアが閉まりかけている寸前のところで開けてやっても「すいません」の一言もないは。ひどいものであった。
 改札を出て右の方に行くと、東口の香里が丘団地方面。こちら側へはりそな銀行香里支店を取りに何度か来たことがあるが、今日は左(西口)に行く。こちらも実は、来たことが全くないわけではない。ミスタードーナツめぐりをしていた頃に、今はなきダイエー香里店の敷地内にあった1軒(現存せず)と、その先にあったもう1軒、合計2店舗制覇しに来たことがある。もっとも、今日はそこまでは行かない。近畿大阪銀行香里中央支店は、駅からすぐ近いところにあったハズだからだ。
 京阪電鉄の駅内ATMは京都銀行が展開していて、駅2階のコンコースには京銀がATMを1台置いている。京阪がやっているコンビニのアンスリーと、関西では珍しい気がするフレッシュネスバーガーがあった。駅前のロータリーに出ると、いかにも新しく整備された感じのロータリーがあって、高層マンションがドカンドカンと建っている。三井住友銀行グループの真新しい2つの香里支店が見える。三井住友銀は旧神戸銀、関西アーバン銀は旧関西銀である。目の前にはスターバックスだのツタヤだのローソンだのの入った商業ビル。その横には「みずほ銀行お客さま提携駐車場」と書いた看板がある。香里園には第一勧銀と富士銀と両方の支店があったが、この駐車場はどちらかの支店跡地だったハズだ。
 みずほの駐車場前を、ダイエー香里店があった方に歩いていく。商店街になっていて、香里ダイエー本通商店街というそうだ。姫路の「協和通り」のように、ダイエーが消えても商店街の名前としては残っている。車の走行だけは一応できるぐらいの道幅の商店街で、センターラインは引かれていない。ここは飲み屋などは多くないようで、人通りも若干少な目である。ただし、街灯とか電飾のたぐいは、さっきの寝屋川旧市街よりはたくさんあると思えた。

 近畿大阪が見つからない。以前、ミスド2店に行った帰りに支店を見た記憶はあったのに。商店街を来ればすぐ近畿大阪があるハズだったのだが、1本間違えたのだろうか。とりあえず1本大阪寄りの筋へ向かうことにして、直角に左に曲がりこんだ。
 このあたりは香里南之町という地名である。1本裏道に入るとアパートや個人商店ばかりで、道が細くて交通量も少ない。銭湯の煙突が見える。八百屋ではなく「野菜も売っている果物屋」のような店が、道にまで商品を広げて営業している。あとは昔懐かしいスタイルのナントカ市場、ナントカマーケットといった感じで個人商店が集まっている店もあった。但し、3階建ての一戸建てなど、ところどころに新しい建物もないではない。
 突き当たりを左に曲がったところで、ようやく近畿大阪銀行を発見した。左に曲がったということは、京阪の線路の方へ戻ったということである。ダイエー本通ではなく、1本南(大阪寄り)の商店街を来なければいけなかったのだ。道幅は車がかろうじて1台通れるぐらいだが、人通りはかなり多い。さっきのダイエー本通と交通「量」としては大差なくて、密度が高いというだけかもしれない。通りの名前は何というのだろうか。普通ならナントカ通りと書いてある商店街独特の街灯表示には、全部白いプレートがはめてある。特に名前はないのかもしれない。
 ようやく支店に到達した。キャッシュコーナーの枠は両替機+ATM4台分である。ATMはAK-1が3台あって、一番右が空き枠になっている。行灯看板は近畿大阪の標準スタイルで、プレートの色や文字の書き方なども同じなのだが、フォントが通常みられるゴナ系ではなく、マイクロソフトの丸ゴシック体(写植書体でいう「ナール体」に近いもの)になっているところだけがちょっと特殊といえる。
 16:13、香里中央支店を制覇。「中央」の名前に似合わず(?)小ぢんまりとまとまった支店であった。

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2009年02月13日

2008.07.23(水)(14)香里、大型SCに翻弄された町

 香里中央支店は、1970年12月に阪神相互銀行【注1】の香里支店として開設されたもので、1995年2月福徳銀行に営業譲渡されて同行香里支店となった。なみはや銀行の発足と経営蹉跌を経て、2001年2月さらに近畿大阪銀行に営業譲渡されたが、その際、店名に「中央」の2文字が追加された。個人的には方位とか「中央」とかは嫌いで「香里園支店」になぜしなかったのだろうと思うが、これはKOにもともとあった「香里」と名のつく営業店2店の中間に位置するためとも考えられる【注2】。
 阪神銀と福徳銀は、店舗を相互に営業譲渡しあう「店舗交換」を1994〜95年にかけて行った。バブル崩壊により関西地区の地域金融機関はおしなべて打撃を受け、傷が特に深かった福徳銀と、それなりの傷を負った阪神銀も、店舗の削減などお定まりのリストラを行うことになったものである。福徳は阪神の大阪府内4店舗を譲り受け、代わりに兵庫県内の3店を阪神に譲り渡している。さらにその後、阪神銀が大阪市内に持っていた2店舗が福徳銀に譲渡された【表】。阪神銀は旧相互銀行の中でも戦後に発足した銀行で、同じく戦後発足の福徳銀とは親密だったようだ。

 香里園という町の特に西側は、大型ショッピングセンターの動向に翻弄されてきた。東側は陸軍造兵廠(軍需工場)の跡地に香里団地が開発されたのだが、西口側は高度成長期まで水田地帯であったという。香里園が劇的な変化を遂げた契機は、なんといっても1968年11月のダイエー香里店の開業であった。京阪香里園駅から西に300mほどの水田地帯の真ん中にオープンした、駐車場500台分を持つ4階建ての郊外型ショッピングセンターで、この型の店舗は(ダイエーにとってのみならず)日本国内でも第1号であった。当時は香里園駅の西側に改札口はなく、京阪電鉄はダイエーのオープンに合わせて西口を開設した。
 やがて、駅とダイエーとを結ぶ道沿いに商店が出店するようになり、一時は最大130軒もの専門店が建ち並んだ。これが「香里ダイエー本通商店街」である。商業施設、特にダイエーのようなスーパーマーケットのひざ元に商店街ができるというのは私の理解を超えているが、ダイエーに来るついでに訪れる客がいるのだという。ともあれ、ダイエー香里店の業績が順調に伸びたこともあって、両者は共存共栄を続けた。香里店は一時、ダイエー全店の中で売上ナンバーワンだったこともある。ピーク時には、駅から続く道は1日35,000人ほどの通行客があり、道路からあふれて水田に転落した者までいたという。
 そうした「ダイエーの裾野」に店を出したのは、個人店主ばかりではなかった。この商店街をターゲットとして銀行店舗が進出したのである。1970年12月に開設された阪神相互銀行香里支店は、その1つであった。同じ神戸市本店の神戸銀行が既にダイエー内に進出しており、神戸銀傘下にあった阪神相銀の支店開設では、神戸銀からそれなりのサポートがあったと推察される。神戸が事実上創業の地であったダイエーにとって、神戸銀はメインバンクの中でも特にきずなの強い銀行であったという。
 一時はダイエーの売上ナンバーワン店舗にまでなったダイエー香里店は、営業不振のため2005年8月閉店した。ダイエーが凋落した原因はさまざまだろうが、香里店に限っていえば、1978年3月にジャスコ(現イオン)が「寝屋川グリーンシティ」を香里園駅南1kmの地にオープンさせたことが直接の原因である。1970年代にダイエーと西友が全国企業として飛躍する一方で、当時のジャスコは地方スーパーの寄り合い集団にすぎず、商圏人口30万人の都市を基準に出店していたダイエーの大型店戦略にあえなく押しつぶされることが多かった。この結果、ジャスコは商圏人口3〜5万人という地方都市を中心に出店するニッチ戦略を採らざるを得なくなる。しかし、ジャスコはこれによって小さな商圏で圧倒的なシェアを握るノウハウを取得し、後の超大型ショッピングモール路線の下地を築いていった。ダイエー香里店は、いわば「満を持して」正面から挑んだ形のジャスコに客を取られ、閉店の頃には売り上げが半分にまで減少していたという。
 さて、寝屋川グリーンシティには、ダイエー香里店における神戸銀行香里支店と同じ形で銀行の支店があった。大阪銀行香里支店である。この支店は後に近畿大阪銀行香里支店となり、2002年4月に香里中央支店に統合されている。このあたり、実際のSCの盛衰と全く逆になっているところが面白い。近畿大阪は追い込まれて閉店したダイエー香里店近くの支店を残し、逆に追い込んだ側のグリーンシティにあった支店を廃止している。昨日の忍ヶ丘と同様に賑わいに敢えて背を向けているのか、それともリテールの営業としては駅前商店街の方が適切であるのか。私の印象では、香里に関して言えば後者が正しい気がする。

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 【注1】阪神相互銀行:1949.09頼母子講8講が合同し七福相互無尽を神戸市に設立。1951.10相互銀行に転換して七福相互銀行、1966.10阪神相互銀行に改称。1989.02普通銀行に転換して阪神銀行となる。1999.04.01みどり銀行(旧兵庫相互銀行、本店神戸市)を合併してみなと銀行に改称、現在に至る。設立直後に神戸銀行(現三井住友銀行)から経営支援を受けており、神戸銀傘下にあった。
 【注2】「香里」とつく営業店2店:いずれも旧大阪銀の店舗で、香里支店(香里園駅南1km、寝屋川グリーンシティ内)、香里支店香里ヶ丘出張所(香里園駅北東2km)の2店。香里ヶ丘出張所は2001年6月枚方支店に、香里支店は2002年4月香里中央支店に、それぞれ統合された。

2009年02月14日

2008.07.23(水)(15)光善寺駅前出張所を制覇

 香里中央支店のある商店街は、みずほ銀行香里支店(旧第一勧銀)の東側で踏切になっている。警報機がカンカン鳴るのと同時に、ジリジリとベルが鳴っているのが聞こえるから、この踏切にはかつて踏切小屋があったのだろう。踏切の手前で左に曲がり、線路沿いに香里園駅まで戻る。次の目標は、寝屋川市を離れ、枚方市の光善寺駅前出張所である。「寝屋川市を離れ」といっても、次の目標は隣の駅である。
 京都・出町柳行きの各駅停車で2分、光善寺には16:33に着いた。急な右カーブの途中に対向式ホームがあって、進行左側のドアが開くとカントの影響で車両とのすき間が非常に大きかった。駅名の読み方はコにアクセントを置く「コうぜんじ」ではなく、ウゼのところにアクセントを置いて「こウゼんじ」というらしい。とにかく、近畿大阪はここに光善寺駅前出張所を置いている。
 エスカレーターを上って橋上駅舎の改札を出る。近畿大阪が駅の西側にあることは既に分かっている。西出口を出て少し行くと、国道1号と170号とが合流していて、地図で見るとものすごい形の立体交差になっている。それから、大阪市立高校というのがあるらしい。なぜこんなところに大阪市立の高校があるのかさっぱりわからないけれども。駅の東側には枚方信金の支店があるようだ。
 「西出口」の黄色い出口表示には、枚方市立サダ生涯学習市民センター(方面)と書いてある。「サダ」とカタカナで書いた部分は、実際には漢字の地名が入っていて【図】、サは蹉跌(さてつ)の蹉。かつて法学部に進学した友人に薦められて石川達三の『青春の蹉跌』という小説を読んだことがあるが、その結末は悲惨なものであった。ダは足偏の右側にうかんむりとカタカナのヒだから、御陀仏(おだぶつ)の陀と同じつくりの字(足偏のこのつくりの字はJISコードに入っていない)。というわけで、どちらもあまりいいイメージの字ではなさそうなのだが、漢字にはいろいろと深い意味があるのだろう。

 階段を下りるとぶつかる駅前通りは、京阪の線路と直交していて、踏切の向こうでは線路沿いを走る道にいきなりぶつかっている。線路沿いの道は本当に「線路沿い」で、踏切との間に余裕は一切ない。というわけで、駅前通りは車が通れる幅は持っているけれども、本当に車が来たら危険なので、踏切の前に取り外し可能な杭を打って車止めとしている。
 国道1号線に出るハズの駅前通りは、結構賑わっている商店街である。道幅そのものはそれなりにあるが、自転車がたくさん置いてあって通行部分が非常に狭くなっている。駅前にはレンガ色の雑居ビルが1軒建っていて、コンビニ(ローソンプラス)と弁当屋(ほっかほっか亭)、レンタルビデオ屋が入っている。後の調べでは、この近所には数年前まで旧関西銀行の支店もあったらしい。典型的な下町の商店街が駅前通りから横道に一歩入ったところにも続いていて、ナントカマーケットのたぐいと思われる個人商店の集まりもある。樹木が植わっていてセミが鳴いている。
 近畿大阪はどこにあるのだろうか。この商店街をまっすぐ来ると、駅からさほど遠くないところにあるハズなのだが。そう思っていると、右前方に屋上看板だけが見えた。店は国道沿いなのだろうか。支店の前までどうやって行けばよいのかと思っていると、道は突き当たって強制的に右に曲がらされた。駅から国道1号線にまっすぐ出ていくことはできないのだ。
 発見した。道なりに右折した先の右側である。出張所の前は国道1号線をアンダーパスする歩行者・自転車用の地下道入口になっている。近所にはJA北河内のサダ支店(字は前述のとおり)が見えた。
 もとは1972年の開設ということになっている光善寺駅前出張所は、それより古い建物を使っていると思えた。店頭の飾りタイルとガラスブロックをはめた壁、コンクリの打ちっ放しを中心としたデザインその他から、確証はないが1960年前後の築ではないか。建物の横に溝のように掘られている夜間金庫のスロットは、幅が70cmほどしかない。投入口は1mぐらい奥だから、小錦(古いな)あたりの体格なら売上金が投入できないかもしれない。もっとも、夜間金庫はりそな銀行ではやめてしまっている。近畿大阪はやめる風ではなさそうだが。
 店内に入る。内装は近畿大阪の標準スタイルに改装済みであった。機械は両替機が1台とATMが4台。ATMの内訳はAK-1が3台とJXが1台で、JXはリーダス銘であった。16:44、光善寺駅前出張所を制覇した。

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2009年02月15日

2008.07.23(水)(16)戦争となにわ銀行

 枚方支店光善寺駅前出張所は、1972年2月に大阪相互銀行光善寺支店として開設された。「旧なみはや店舗」であり、かつ守口きんだ支店とともに近畿大阪銀行に2店舗だけ残る旧なにわ銀行の店ということになる。
 2001年2月近畿大阪に営業譲渡され、店名はその際に光善寺駅前支店となった。ここはどう考えても「駅前」ではないと思うのだが、そうわざわざついているのは、営業譲渡時点で近畿大阪に光善寺出張所(旧近畿銀、1989年12月開設)があったためである。光善寺駅前支店は、駅寄りにあった旧近畿銀の出張所を2001年10月に統合した後、2004年11月に枚方支店の有人出張所に変更されて現在に至っている。

 出張所の駅寄りのところに保育園があって、プールでは園児がギャーギャー騒いでいる。もとい、歓声をあげている。もう夕方5時近いのだが、ここは幼稚園ではなくて保育園だから、働きに出ている親が迎えに来るまでは園内で遊ばせておかなくてはならないのだろう。
 店の真正面に、忠魂碑が建っている。「忠魂碑」の文字と、揮毫した人の名前が陸軍大将鈴木ナントカ書とあるだけだ。忠魂碑は主に在郷軍人会が建てた戦没者の顕彰・慰霊碑で、日露戦争から満州事変〜支那事変を経て多数が建設された。その地元に縁がある将官に碑文を書いてもらったものが多く、戦後はGHQの指示で多数が撤去されたという。忠魂碑を見ていて思ったが、なにわ銀行というのは不運な銀行だったと思う。規模が小さかったがゆえにどこかと合併せざるを得なかったのだが、その合併相手として福徳銀行を選んだために、結局蹉跌してしまったからだ。その意味で、金融戦争に敗れた戦没者と言えるだろう。
 とはいえ、最終的に近畿大阪に合流したというのは、ある意味運命付けられたものだったのかもしれない。第二地銀だったなにわ銀行は、近畿銀行と同様に戦前の無尽会社が起源である。近畿銀の前身であった近畿無尽が戦時中の国策により誕生したことは前述した。この時の政策は「1県1社主義」で、1つの業態は1つの都道府県につき1社に統合する、というものだった。例外的に首都圏と近畿圏は広域で1社を目指しており、これに従って首都圏では南関東と甲信越の無尽会社が大日本無尽に一本化された(日本相互銀行、太陽神戸銀行などを経て現三井住友銀行)。
 近畿無尽は大阪府と奈良県の無尽を1つにまとめたもので、その後京都府と兵庫県も合流することになっていたが、終戦により実現しなかった。このように、戦時統合はかなり強力に推し進められたものだったのだが、その中で1つだけ例外があった。大阪府の無尽会社のうち、なにわ銀行の前身であった大阪無尽だけは戦時統合に加わっていないのである。これは、当時大阪無尽の社長をしていた西五辻光仲氏が華族(男爵)だった【注1・2】ためだとされている。戦時統合が平民の企業だけに強制されたのであれば当局の方針も随分といい加減なものだが、当時の華族にはそれをまかり通らせるだけの威厳があったようだ。ともあれ、大阪府下の無尽会社は最終的に近畿無尽と大阪無尽の2社となり、それぞれ1951年に相互銀行に転換して近畿相互銀行・大阪相互銀行となった。
 大阪無尽が戦時統合を免れたのは、果たしてこの会社にとって幸いだったのか。そう思えてならない。というのは、大阪無尽〜大阪相互銀行は、大阪の相銀としては最後まで規模が小さいままで、結局バブル崩壊後に他行との合併に活路を見出さざるを得なくなったが、その相手がよりによって、バブルに踊った銀行の代名詞とされた福徳銀行だったからである。
 「営業譲渡」という形ではあったが、強力な戦時統合においても果たされなかった大阪府下の無尽会社の統合は、戦後60年近くを経てようやく実現したことになる。忠魂碑というか「墓標」を、かつてなにわの本店がそばにあった大阪・靭公園にでも建ててやりたい気がする。なにわの本店は、大阪無尽が1940年に堺市から移転してきて以来、現大阪市西区靱本町にあった。1992年7月に建築された最後の本店は、関西アーバン銀行が大阪西支店として使用している。

 【注1】華族:明治初期から大日本帝国憲法廃止まであった特権的貴族階級。1869(明治2)年、それまでの公卿・大名をともに華族と呼ぶようになり、1884年華族令の公布で特権的身分となった。それぞれの家格や功績に応じて公・侯・伯・子・男の5つの爵位を与えたもの。その後、政治・軍事・文化・学術などでの功労者や実業家・僧侶・神官なども華族に列せられ、1947年の制度終焉時には889家あった。
 【注2】西五辻家と男爵:男爵は明治維新の後に華族に列せられた者に与えられた爵位。西五辻家は26家ある「奈良華族」のうちの一つで、奈良興福寺の院家・明王院の住職をしていた公家の子息・西五辻文仲(にしいつつじ・あやなか)が、明治維新後に還俗して華族となったもの。(院家=分家のようなもの、公家=朝廷に仕える人々、還俗=一度出家した者がもとの俗人に戻ること。)

2009年02月16日

2008.07.23(水)(17)枚方支店を制覇

 次に向かおう。
 だいぶ日が傾いてきたものの、相変わらず気温は高い。光善寺駅前のローソンで買ったあずきバーがたちまち汗をかいた。目的地はあと2か所になったが、この調子でいけば最後の目的地・牧野支店(枚方市)が6時過ぎには終わる感じで、どうにか今日のプランは完遂できそうだ。次の目標は、光善寺から2駅目の枚方市。ここには枚方支店がある。
 光善寺から枚方市までは5分ほどで着いたけれども、枚方市に着いてホームに冷房付きの待合室を見つけ、中に入ってつい座り込んだ途端、ウトウトと眠り込んでしまった。目を覚ますと17:20になっていた。枚方市駅は、支線の交野線の分も入れて島式ホームが3本と、規模の大きな高架駅である。東出口を出たところにコミュニティFM局のサテライトスタジオがあって、生放送中らしく、ちょっと懐かしい槙原敬之の「ハングリースパイダー」が流れていた。
 枚方市駅前にはりそな銀の枚方支店があって、それも含めると数回訪れているから、近畿大阪の枚方支店が駅前広場の大阪寄りにあるのは分かっている。駅の外に出ると、既に日がだいぶ西に傾いていた。この時間の日差しは、光がなんとなく赤みがかっている感じがする。夕焼けというわけではないが、赤い光が多いのだろう。
 枚方支店の内装は、昨日見た長尾支店の原型のような感じであった。蛍光灯の入った箱は、一つひとつのATMの上ではなくて、5台分まとめた幅の広いものがついている。その下に「お預け入れ」「お引き出し」というプラスチックのプレートが貼ってあるが、(明朝体ではなく)ゴナ系のフォントを使っているのでちょっと新し目に見える。でも、やはり旧相互銀行の古めかしい店舗という印象はぬぐえないようだ。もちろん批判しているのではなく、こうしたことに遭遇するのも銀行めぐりの味わいの一つである。5台のATMは全てAK-1であった。17:30、枚方支店を制覇した。
 枚方支店は旧近畿銀行の店舗で、もとをたどると交野無尽金融の枚方支店であった。住道支店と同様、1926年に開設された2支店のうちの1つである。国策合併により近畿無尽が発足した後、本店など大阪市内の枢要な店舗が戦災で焼失したため、枚方支店には本部機能の一部(総務部・経理部など)が置かれていたことがある。昭和初期に建てられた鉄筋コンクリートの建物を長いこと使っていたが、1976年3月現在位置に雑居ビルを新築して移転した。

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2009年02月17日

2008.07.23(水)(18)枚方市街から牧野へ

 いよいよ、最後の目的地・牧野に向かう。牧野は枚方市から2つ目で、京阪電鉄の大阪府の極限・樟葉(くずは)の1駅手前である。
 17:40発の準急樟葉行きに乗った。夕方のラッシュに突入したようで、下り電車の混雑度は一気に高くなっていた。といっても、全席ほぼ埋まっている程度である。
 枚方市駅を出ると、車窓からは空き地や畑なども目にするようになった。枚方のあたりまで「大・大阪」が続いていて、ようやくこのあたりから郊外に入ってくる感じである。枚方市の隣駅・御殿山には、近畿大阪のなみはや店舗・御殿山出張所(旧福徳銀)が2004年9月まであったが、既に統合されている。今日は京阪のほぼ全駅で降りているような気がするが【注】、それでも枚方あたりまで来ると、銀行が商売できない駅がそろそろ出てくるのだろう。逆にいうと、全駅で乗り降りしている古川橋から光善寺までの間が、銀行としては最も商売になるエリアということになる。
 牧野に17:44着。牧野は地平の対向式ホームの駅である。地下の改札へ降りると、地下の駅なのかと思うぐらいに光が射していた。光がコンコースに差し込むぐらいの半地下駅なのであった。改札を出てみると、半地下構造なのは線路の西側だけで、東側に上がる階段は踊り場を1つ含んでいる。地形的に結構なアップダウンがあるようだ。東側に出ると階段を上がったところに川(穂谷川)が流れていて、駅前通りに通じる橋がかかっており、ホームも川の上にかぶさっていた。駅前には「京阪ザ・ストア」や「ライフ」といったスーパーがあるようだ。

 地上に出る前に、駅から東に延びる道をコンコースの案内地図で確かめた。駅周辺の金融機関の中で最も遠いのが近畿大阪で、牧野駅から東へ700mほどの関西医科大学前らしい。駅前には郵便局があって、その他の金融機関がそのそばに2つあり、ちょっと離れたところにもう1軒。駅の近所のうち1つは京都銀行だったと思う。「ちょっと離れたところの店」は滋賀銀行だったか。
 線路と直交する駅前の目抜き通りは、黄色いセンターラインが引いてある2車線の道路で、「牧野駅前商店会」という商店街がずっと続いている。夕方のこの時間で人通りが多いとは感じられなかったから、商店街としてはやや斜陽なのだろうか。駅前には前述のとおり京阪ザ・ストアがあって、その中にミスタードーナツが入っている。牧野駅で降りたのは今回が初めてなので、このミスドには来たことがない。
 東に歩みを進める。住友銀行の店舗外ATM(だった)建物があり、「移転のお知らせ」が貼ってあった。車1台分ぐらいの駐車場を持つ、平屋建ての結構しっかりした建物である。くずは支店管轄だったようだが、先週の金曜日で営業を終了して近所に移転したようだ。その斜め向かいには、「三和銀行」という文字を剥がした跡がくっきり残った三菱東京UFJ銀行の店舗外ATM(くずは支店・牧野駅前)。三井住友の移転先と、りそな銀の店舗外ATM(枚方支店・牧野駅前)が隣り合っている。りそなもくずは支店を持つのだが、りそなだけは母店が枚方支店になっている。枚方牧野駅前郵便局と京都銀行牧野支店とが並んでいる。京銀の向かいにマンションが建っていて、その手前側に枚方信用金庫牧野支店がある。マンションの1階にあるように見える枚方信金の支店は、マンションとよく似た外観の別棟であるようだ。
 駅前通りは300mほど直進し、右にゆるやかにカーブを描いている。それが終わると今度は左にカーブしており、近畿大阪はその先にあるハズだ。両側に鬱蒼と茂った森のようになっているのが見える。公園だろう。それを抜けた先のハズだから、あと5分ぐらいは歩くのである。700mという距離はそんなに遠くはないハズだが、それでも疲れてくるとやはり遠く感じる。
 この近辺は地形の起伏が結構あるようだ。道の左側は2mぐらい落ち込んでいて、その下は駐車場(トップワールドというスーパーマーケット)である。掘り下げるなどの土木工事をしなければ平らな土地が確保できないのだ。ちょうどこのあたりで牧野駅前商店会の商店街が終わる。あくまで「商店会」が終わりというだけで、ここまでくると商店「街」としてはもう形をなしていないようだ。

 【注】この日乗降しなかった駅(京橋〜牧野間):野江・関目・滝井・土居・西三荘・門真市・枚方公園・御殿山。20駅中8駅。

2009年02月18日

2008.07.23(水)(19)2日間のしめくくり、牧野支店

 商店会が終わったところから少し上り坂になる。道の両側に公園があって、樹木がたくさん植わっている。大学の吹奏楽部だろうか、管楽器をピーヒャラピーヒャラやっている。公園の横は大阪歯科大学の枚方分校だそうである。歯医者さんになる人たちの大学。「敗者」ではない。敗者どころか、私立の医歯薬系大学を出ているこの人たちは、よほど踏み外さなければ「勝ち組」であろう(嫌な流行語だ)。それはともかく、牧野という土地は、駅から徒歩圏内に関西医科大学と大阪歯科大学があって、駅前からのバスは摂南大学薬学部までつながっている。医歯薬系の大学が集中しているのは「お医者さんの卵の多いハイソな地域」といった地域イメージ向上の材料として使えないだろうか。思いつきだが、京阪電鉄の次の「おけいはん」キャンペーン【注】は「医大生の牧野けい子」などはどうだろう。医大が実在する牧野で医大生なら説得力がありそうに思う。それとも、リアリティがありすぎても却ってダメなのだろうか。
 歯科大の前で左カーブに入ったあたりから歩道はなくなって、30cmぐらいの幅の細い路側帯しか付いていない2車線道路になった。そこを車が結構ビュンビュンと飛ばしている。枚方市東消防署阪出張所のあるあたりから、街並みがちょっと古めかしくなって、牧野本町1丁目というちょっとした商店街になった。ようやく、近畿大阪の看板らしきものがはるか彼方に見えた。駅前商店街があってそこに銀行があって、というなら分かるけれども、近畿大阪は駅前の商店街をシカトして通り過ぎて、次にちょっとした商店街が現れたところにようやく支店がある。これが、(都銀とは違う)地方銀行・近畿大阪銀行の店舗網なのであろう。でも、あのスケールの商店街なら牧野駅前に営業店があってもよいと思う。
 バス停がある。京阪バスの「坂住宅前」。さっきの消防署とは違い、こちらのサカは土偏である。このバス停からは京阪牧野を通って枚方市駅北口へ抜けるバスが30分に1本ぐらい出ているが、さっき上りのバスとすれ違ったから、枚方方面はしばらく来ない。バス停の先には、滋賀銀行の牧野支店がある。滋賀県のトップバンクも、いざ県外に出るとこのように旧相互銀行と同様の不利な場所に店を出すことになる(近畿大阪銀行牧野支店は、近畿相互銀行牧野支店として1970年12月に開設された)。滋賀県湖西のマキノ町(現高島市)と混濁しないのかと思ったが、滋賀銀はマキノに「マキノ支店」はないようだ。
 滋賀銀の先にあるT字路の角、一軒家が建ちそうなぐらいのスペースをつぶした5台分の駐車場は、近畿大阪の駐車場である。ここまで来ると、近畿大阪の縦型看板がはっきり見えた。支店前の土地は緑が鬱蒼と茂っている。関西医科大学のキャンパスである。そういえば、さっきバス停近くにあった商工地図には、この先にある関西医大について教養「学部」と書いてあった。もちろん「教養部」の間違いである。

 支店に着いた。既に営業時間を過ぎて、正面のシャッターが閉まっている。名前は知らないが、鉄の棒だけでできているハシゴのようなタイプ。というわけで閉まっていても中はよく見える。建物前面に相当太い柱がついていて、その柱に鉄棒シャッター(?)が仕込んである。支店の目の前には「関西医科大学」というバス停がある。
 キャッシュコーナーには機械7台分の枠があって、両替機1台とATM(AK-1)が5台。一番右の枠だけ空き枠になっている。内装はピンク色の壁紙で、それに合わせて行灯はメタリックピンクというか紫というかベージュというか、そんな色のプレートになっている。中から照らしている文字の部分だけブルーだった。そういえばこれは寝屋川支店と同じ配色であった。キャッシュコーナーの右側は貸金庫室の扉である。室内には「近畿大阪銀行をご利用いただきましてありがとうございます」とかいう商品宣伝ではなく、クラシック音楽が流れていた。
 18:06、本日最後の、そして2日間最後の目標となる、牧野支店を制覇した。取引終了の後、通帳記帳を行う。口座を作ってから預金取引はほとんどしていなかったのだが、通帳は2日間で一気に3ページ目まで進んでいた。

20080723-15_Makino.jpg

 【注】おけいはん:京阪電鉄が2000年12月から行っている、沿線イメージキャンペーンのキャラクター。「京阪」と「お・けい・はん」(共通語の「けい子さん」)をかけたネーミングで、ストーリー性のある設定が話題を呼んだ。初代のOLと2代目の教師とを経て、2006年11月から始まった3代目は「音大生の森小路けい子」という設定。

2009年02月19日

2008.07.23(水)(20)エピローグ 帰還

 ちょっと座って涼んでから行こうと思ったが、牧野支店はキャッシュコーナーに椅子がなかったので、このまま駅までバスで戻ることにした。支店前にある「関西医大前」停留所は上りのバス停が分からず、1つ駅に寄った「坂住宅前」の停留所からバスに乗った。18:19発、京阪バス枚方市駅北口行き。大きな前面窓からは夕日が真正面から差し込んできて、ギンギンギラギラ夕日が沈む、といった感じであった。
 枚方市駅に向かう途中で「三栗」という停留所を通った。これで「めぐり」と読む。「為栗の近畿大阪めぐり」第1回の最後を飾るにふさわしい。停留所近くには府営住宅などがあるそうだ。

 2日間の全日程を終えて、いよいよ東京に帰る。今回は往路で飛行機を使うという贅沢をしてしまったので、帰りはチープな交通手段でバランスを取る。夜行の激安チャーターバスである。
 今夜のバスは、ゆうべ泊まったカプセルホテルのインターネット端末で予約してある。公衆端末でクレジットカードの番号を入力する気になれなかったので、ネットではあくまで「予約」のみで、券そのものはコンビニの端末機で購入する必要があった。チケットの予約や販売を行っているタッチパネルつきの端末機。今回はローソンの「ロッピー」かファミリーマートの「Famiポート」が使用可能である。ファミポートはクレジットカードが使えないと思ったので【注1】、決済手段を(クレジットが使えるハズの)ロッピーに指定していた。
 実際の発券手続は古川橋駅前のローソンで行ったが、これが意外に曲者だった。端末操作がわかりにくく、さんざん苦労した結果、チケットをレジで発券してもらうための「予約券」というものが機械から出てきた。これをレジに持って行ってチケットに交換するわけだが、あきれたことに、予約券にはチケット代金の支払い手段が「現金のみ」と書いてあったのだ。クレジット決済希望だったからロッピーにしたのに、これでは何のためにコンビニ決済を選んだのか分からないではないか(念のため、ロッピーは通常はクレジットカードが使用可能である)。チケットが直接機械から出てくればよいものを、わざわざ「予約券」という形にしてレジで精算することで、クレジット精算ができなくなるとはどういうことだ。しかも、ローソンのレジもクレジットカードには対応しているのである。4000円弱の現金を持っていないわけではないが、ちょっと客を愚弄しているのではないか。
 私のような客を相手にするコンビニのお姉ちゃんも、予約券とクレジットカードを一緒に差し出す私に「クレジットは使えないんですけどよろしいですか」と尋ね、機嫌の悪い私から「しょうがないですね」とイヤミに近いことを言われて気の毒であった。

 今夜のバスは、大阪発ではなく、京都駅発である。京阪を京都方向に進むのだから、と安易に考えたのだろうが、「めぐ」をするため、荷物を淀屋橋駅のコインロッカーに入れている。何を血迷ったのだろうか。
 京阪の急行でいったん淀屋橋まで戻り、荷物を回収。その後地下鉄で梅田へ出た。奉職先用の土産品を買いたかったのと、今日は京阪にもう十分乗ったからということもある。梅田から阪急京都線で烏丸まで出て、地下鉄に乗り換えて京都駅へ。酒を扱っている売店を必死で探してビールを買ったのだが、バスの出る八条口へ行ってみると、24時間開いているキオスクのコンビニがあってがっかりした。せっかく北口で必死になって探したのに。
 バスには無事乗れた。今回のバスは非常にグレードが高かった。まず、車が新しい。車内では寝てしまうのだから、乗ってしまえば車両の新旧は関係ないようなものだが、それにしても、である。そして特筆すべきは、京都から乗るとすいていたことである。1人1シートを確保できた。つまり「同席者」がいなかったのだ。一部いたのかもしれないが、基本的には1台のバスほぼ全席で1人1シートであった。この状態でチャーターバスが走るとしたら、主催会社はおそらく大赤字ではないだろうか。でも、隣にワシャワシャと動く奴がいないというのが、どれだけ快適なことか。トイレ休憩は2回あったが、今回は全く起きなかった。目は覚めたのだが、いちいちPAに降りる気にもならなかったのである。そのぐらい熟睡できたということだ。
 終着の新宿駅西口には、到着予定時刻の6時より30分ほど早く着いた。バスを降りると、建設中のモード学園の建物【注2】が目に入る。モード学園といえば、5月に名古屋駅前で雑巾を絞ったような建物を見て度肝を抜かれたのだが、新宿の外観は少しおとなしいデザインになっている。おとなしいといっても、このビルを小田急線入口前から見たとき、ちょっと卑猥な形であると思わずにはいられなかった。数日ぶりに見た東京の空は、べったりと雲が覆っていた。

 【注1】Famiポートにもクレジット決済機能は存在する。但し、高速バスの代金には使用できないようだ。
 【注2】モード学園の建物:新宿西口、旧朝日生命保険本社跡地に建てられた地上50階建ての超高層ビル「モード学園コクーンタワー」。東京モード学園など3つの専門学校が入居する。東京都庁などを手がけた丹下都市建築設計の作品。2008.10.15竣工。


<りそめぐ2008夏 「近畿大阪めぐ」スタート記念 片町線・京阪線沿線25店完全制覇 完>

2009年02月20日

あとがき・参考文献一覧

 「りそめぐ2008夏 『近畿大阪めぐ』スタート記念 片町線・京阪線沿線25店完全制覇」、2月19日をもって完結いたしました。
 最後までお読みいただいた方には、例によってダラダラと続いた連載にお付き合いいただき、御礼申し上げます。あとがき等も含めた分量は、最終的に300枚弱(400字詰原稿用紙換算)となりました。

 触れられなかった情報もあるものの、近畿大阪銀行と「近畿大阪めぐ」に関しては、今回の連載である程度把握いただけたと思います。相当量の情報をかなりの密度で盛り込みましたが、まだ書いていない内容を思いつくままに挙げると
  ・旧大阪銀行のこと。
  ・旧大阪銀行本店、本町営業部と梅田支店。
  ・旧福徳銀行のこと。
  ・茨木サニータウン出張所の通帳表記について。
  ・歴史的建築の岸和田支店。
  ・桜餅の「道明寺」。
  ・いかるがと法隆寺。
  ・近畿大阪しか民間金融機関のない堺市美原区。
  ・近畿大阪銀行そのものの小史。
ぐらいでしょうか。これらは今後の課題としたいと思います。

 私の義理の従姉・Kについて少し触れておきたいと思います。中学校の教師をしていて、私と同年生まれ。早生まれですので、私の1学年上にあたります。昨年8月末に会った際、彼女がJR片町線の沿線に住んでいることから、書きかけのまま放置していた「近畿大阪めぐ」の話題が出ました。彼女は私より数か月早く「大台」に乗った「先輩」で、その立場から語ったところによると、30代と40代とでは意識の面で大きな違いがあるそうです。私自身が11月には大台に乗ってしまうことから「何か贈る言葉を」と水を向けると、「30代のうちに何か一つ完成させよう」と言われました。
 この一言で私は、近畿大阪めぐ記の締切を2008年10月一杯と決めました。こんな会話をしたのを彼女は既に忘れているでしょうし、結局10月末での「完成」など思いもよりませんでしたが、ともあれ本「めぐ記」の“早期完成”は従姉と交わした何気ない約束に負うていますので、そのことは書き留めておきたかったのです。
 え、たかだか300枚の原稿に5か月もかかって「早期完成」かって? それは言わぬが華というものだぜ…。

 連載期間中には、シーサーブログの仕様変更により体裁が大きく乱れるトラブルがありました。ブログの記事のアップロードも不調で、特に2月には翌日の昼まで記事が出ないことがあってご心配をおかけしました。切手つきの返信用封筒を同封しての照会に返信を下さらなかった某第二地銀もありました。また、配送車に悩まされた片町線長尾駅前のセブンイレブンは昨年11月頃に閉店したようです。
 社会は日々流転しています。特に男は、40歳という年齢は厄年にあたりますし、実際、身体的・精神的な変調や社会的・金銭的な打撃など、信じられないような災難が次々に降りかかってきていると感じます。厄年など迷信だと思って軽視していたのですが、人の一生には人生の流れが大きく変わる潮目の時期が確かにいくつかあって、それを「厄年」という言葉で言い表したのだと認識を新たにしました。
 さまざまな思いが去来しますが、この連載はこれにて終了します。この連載を数年後に読み返して「古い」と感じられることがあるかもしれませんが、あくまで 2008年7月の実体験と、その後の連載期間における「一面の真実」です。そういうものだと思ってお読みいただくことを望みます。
 この連載のような「文章を使っての自己主張」が、私の生き甲斐です。今後ともご支援・ご鞭撻をいただけますようお願いします。ご意見や情報提供をお待ちしています。このブログ「MEGU」は、コメント・トラックバックを歓迎していますし、私のメールアドレスも公表しています。
 次の連載は、準備が既に相当程度進んでいますので、近日公開できると思います。こちらもお楽しみに。

 なお、この連載の執筆にあたっては、以下のような書籍・webサイト等を参照いたしました。


参考文献一覧
紙媒体は発行年順、webサイトは本文掲載順(2009.02.15現在)
  『福徳相互銀行十年史』福徳相互銀行、1961年
  『近畿相互銀行20年史』近畿相互銀行、1963年
  『日本相互銀行史』日本相互銀行、1967年
  『大阪銀行二十年史』大阪銀行、1971年
  松本理作『峻しく楽しく永い道 松本理作回想録』福徳相互銀行、1979年
  『阪神相互銀行三十年史』阪神相互銀行、1980年
  『福徳相互銀行三十年史』福徳相互銀行、1981年
  メアリー・メイプス・ドッジ著、石井桃子訳『銀のスケート ハンス・ブリンカーの物語』岩波書店、1988年改版
  『近畿銀行五十年史』近畿銀行、1994年
  『協和銀行通史』あさひ銀行、1996年
  『大和銀行八十年史』大和銀行、1999年
  前田裕之『激震 関西金融』日本経済新聞社、2001年
  佐野真一『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』上・下 新潮文庫、2001年
  谷口米生『銀行は何故生き残ったか』きんざい、2003年
  小田部雄次 『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中公新書、2006年
  前田裕之『地域からの金融革命』日本経済新聞社、2006年
  GFC著、佐藤裕治監修『地理から見えてくる「日本」のすがた』中経出版、2007年

  『全国銀行店舗一覧』全国銀行協会連合会
  『日本金融名鑑』日本金融通信社、各年版
  『ニッキン資料年報』日本金融通信社、各年版
  『ニッキン』日本金融通信社、各号

  『星のまち交野』http://murata35.chicappa.jp/index.html
  「よくあるご質問」『四条畷市』http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/fixed/s01/03/s010307.htm
  「『秘密のケンミンSHOW』第27回 (2008年)6月26日(木)放送」『読売テレビ放送』http://www.ytv.co.jp/kenmin_show/bn/2008/06/0626_himitsu.html
  「サンメイツとは」『大東サンメイツ』http://sunmates.net/about.asp
  『いずみホール』http://www.izumihall.co.jp/
  「『Leaders愛』2008/7/8放送 近畿大阪銀行代表取締役社長 桔梗芳人さん」『読売テレビ放送』http://www.ytv.co.jp/leaders/backnumber/2008/0708/080708.html
  「『NEWSゆう』特集 2005/03/30(水)放送 新・街シリーズ 香里ダイエー本通り商店街の憂鬱」『朝日放送』http://webnews.asahi.co.jp/you/special/2005/t20050330.html
  大友達也「あの弱かったイオンがダイエーを呑み込んでしまった。何故?」『社会科学』79号 同志社大学人文科学研究所、2007年 http://elib.doshisha.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/BD00011845/Body/007000790009.pdf
  「神社や忠魂碑にある砲弾について」『依代之譜』http://homepage3.nifty.com/ki43/
  『廃絶大名総覧』http://wolfpac.press.ne.jp/index.html
  「金融機能の再生のための緊急措置に関する法律第13条に基づく報告書」なみはや銀行金融整理管財人、1999年 「破綻金融機関の処理のために講じた措置の内容等に関する報告」『金融庁』http://www.fsa.go.jp/kokkai/kokkai_h1309/h1309.html

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カテゴリ一覧(過去の連載など)
大垣共立銀 岐阜県海津市+2町完全制覇(58)
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りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える(12)
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2007年7月 りそな関西地区支店昇格5店完全制覇+α(43)
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2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)