2009年05月01日

2008.01.25(金)(−1)銀河に乗っていこう

りそめぐ2008冬
銀河に乗って知事選たけなわの大阪府へ


 今回の行動範囲

 百聞は一見に如かず

 2007年晩秋から2008年の冬にかけ、私の家では身内にいろいろあって、結果的に11・12・1月の3か月、ほぼ毎月関西遠征を行うことになった。2007年11月26〜28日の分(体験記発表2008.09〜11「りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿」)を「第1部」とすると、第2部は同年12月12〜13日(体験記未発表、鋭意準備中)。そして「第3部」は、2008年1月27日(日)に京都府内にいることを前提として行われた。一応目的を書いておくと、母方の伯父の四十九日法要に参列するためである。
 1月24日(木)夜に出発することは、おおまかな設定として事前に決まっていた。翌25日(金)に、大阪府内の有人出張所2店舗(岸辺と南茨木)が最終営業日を迎えるためである。統合は前年(2007年)の11月に既に発表されていた。2店の最終日を通帳に残したいと思えば、金曜の朝に現地に着くプランしか考えられない。もっと早く出て、木曜日のうちから現地で活動しようという考えもあったが、結局それは準備が整わずボツとなった。
 木曜日出発の場合、3月のダイヤ改正で廃止になるJRの寝台急行「銀河」に乗りたいと思っていた。この列車は東京を23:00に出て、大阪には翌朝の07:18に到着する。若い頃から東京−大阪間の移動にもっぱら「大垣夜行」(現ムーンライトながら)を愛用していた私は「銀河」には乗ったことがなく、一度乗ってみたいと思っていたのである。ちなみに、私の同世代の知人には可処分所得の多い人が多くて(これは自慢ではなく嘆きである)、大阪へ行くには10代の頃から「銀河」を使うのが当たり前だったそうだ。
 高価な寝台車(「安価な寝台車」というものは存在しない)に私が乗ったのは、生まれてから数えるほどしかない。小学生時代、和歌山県にある父親の実家へ行くのに、東京発紀伊勝浦行きの寝台特急「紀伊」に親に連れられて1〜2回乗ったことはあった。中3が終わった春休み、広島に行くのに大阪から「さくら」に乗っているが、これは、当時「青春18きっぷ」もなく、かつ大阪→広島の移動ができる夜行列車のうち最も早い時刻に広島に到着する列車だったからである。今思えば、これが寝台車の一番贅沢な使い方ではなかっただろうか。贅沢というより、はっきり言って無駄である。そして一番新しい記憶では、2000年5月に「あさめぐ」で札幌支店を制覇した際、上野から青森まで「はくつる」の臨時列車に乗っている。電車寝台(3段式)の最上段は過酷であった。以上が私の「寝台車体験」の全てである。
 当日昼。駅前の旅行代理店に行く。銀河に乗れなかった場合はチャーターバスにしようと思っていたが、切符はあっさりと取れてしまった。「銀河」は当日の昼に下段が平気で取れる程度の混雑度だったのである。シーズンオフとはいえ、廃止になるような夜行列車というのはこんなものなのか。かくして「銀河」に最初で最後に乗ることが決定した。

 自宅を出たのは、1月24日(木)21時頃であった。駅前のカレー屋で夕食の後、電車に揺られて東京駅へ。中央線はほぼ全席埋まっていて、立ち客が数人という混雑度だった。夜遅いだけに、熟柿臭を漂わせている人も多少いた。華やいだ雰囲気があまりない気がしたのは、車内に若い人が少ないせいか。
 東京駅には22時半過ぎには着いていた。高架の中央線ホームからエスカレーターで一気に地下へ降りてくると、結構人通りが激しくて、ちょっと小走りに移動してしている人もいた。ただ、この時間には新幹線の運転がほぼ終わっているから、大荷物を抱えた人は少ない。私ぐらいである。
 「銀河」が出るであろう東海道線ホームに向かって歩いていくと、9・10番線に上がる階段の下に「寝台急行 23:00 銀河 大阪 8両」の電光表示があった。8両! 客車がそれしか用意されていないのに、当日の昼に切符が悠々と取れ、なおかつ今度のダイヤ改正で消えてしまうのである。
 10番線に上ると、ホームには既に列車が入っていた。車両の所属はJR西日本で、車両形式などには詳しくないが24系25型というやつだろうか。車両としては少々くたびれていると感じた。私が乗るのはB寝台の4号車である。とりあえず乗ってしまうと、4号車には私の他にもう1人の客がいただけだった。
 とにかく、私にとってはこれが最初で最後の銀河である。発車までまだ25分あるから、荷物を寝台に置いてあちこち見て回る。ホーム前方に行くと、最前部の荷物車から「ブーン」というエンジンの音がしている。車内の電源などを賄っている発電機だろう。客車の列車に乗るといつもこんな音がしている。機関車はまだ連結していないようだ。前から2両目のA寝台車にも入ってみた。B寝台では横向き直角方向にベッドが並んでいたが、A寝台のそれは窓に平行である。A寝台とB寝台とはどこが違うのかと思ったが、単に寝台の幅が違うだけのようだ。B寝台よりベッドの幅が広いのがA寝台のA寝台たるゆえんのようだが、寝相のさほど悪くない私にはAもBも大差ない気がする。むしろ、車両の「ボロさ加減」でいったら、私の乗るB寝台よりもこちらのA寝台の方がひどそうであった。
 ホームにはカメラを持った人がたくさんいる。「たくさん」といっても、銀河の廃止までまだ1か月以上あるから、ホームがカメラ小僧で埋め尽くされているわけではない。あくまでパーセンテージの問題で、ホームにいた乗客の半数程度がカメラを構えていたのである。私もその1人であったことは言うまでもないが。
 自席に戻る。客車寝台の2段式は、当たり前のようだが以前に乗った電車の3段式より居住性がよい。ベッドの布地は、昔寝台特急に乗ったときには国鉄標準のブルーだったが、JR西日本のこの客車は緑色の生地を使っている。窓についているブラインドやカーテンが取り換えてあったりと、メンテナンスは一通りなされているが、やはりくたびれているのは間違いない。
 22:51、早くも検札が来た。JR西は検札だけはしっかりやる会社なので当然なのだが、その後「どうぞごゆっくり」と言われた。JRの列車で車掌からそんなことを言われたのは初めてのような気がする。寝台列車の利用客は移動にゆとりを求めているのだ、とわかっているのだろう。
 今日の指定券の購入状況にもかかわらず、乗車率は結構高そうに見えた。前の車両など、寝台は結構埋まっているようなのだ。でも、やはり儲かってはいないのだろう。あるいは、乗客を前の方の車両に寄せているのか。その場合は後部車両が空っぽということになるが、そこまで丹念に見て回ったわけではない。
 進行左側、通路際の窓からは、隣りの新幹線ホームの線路部分だけが見える。在来線ホームより高いところにあるのだ。ちょうど列車が入ったようで、新幹線車両の床下が見えた。

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2009年05月02日

2008.01.25(金)(0)なかなか動き出さない銀河

 間もなく発車時刻であるので、私は寝台に戻った。カバンの中から缶ビールを取り出す。列車が動き出すと同時に開けて、1人で乾杯するのだ。
 車内放送がかかったのは、そんなタイミングであった。「寝台急行銀河号ご利用いただきましてありがとうございます。常磐線の列車が遅れておる模様でございます。接続待ちを致します関係で23:25ごろの発車となります。発車までしばらくお待ち下さい。」
 何ということだ。「11時の発車」という1点に照準を合わせて準備してきたのに、25分も遅れるとは。こんなことなら、自宅でもう少しゆっくりできたではないか。勘弁してくれ。と、普段だったら1人でわめき散らすところだが、今日は幸いにして「心の余裕」というものがある。これ幸いとばかりに、明日の行動予定をここで考えることにした。足元側(進行右側)の窓の前には寝台の上段に上がるハシゴがついており、ハシゴの下はテーブルになっている。ここでしばらく書き物をしよう。目下のところ私のいるボックスは私1人だけのようで、ハシゴを使う人もなさそうである。
 23:10、隣りの9番線から「ムーンライトながら」が先に発車していった。全車座席指定の大垣行き快速「ムーンライトながら」は東京駅23:10発で、普段なら私はこの列車を使って東海道を西下する。木曜日の今日はながらもガラガラのようであった。
 ビールは「発車してから」と思っていたが、気持ちを殺がれてしまったので、早くも缶を開けてしまった。

 23:26、列車は音もなく動きだした。25分に発車するすると言っていたのだが、それからまたゆっくりしていて、結局26分遅れで出発した。
 発車と同時にJRの客車列車独特のオルゴールが流れ、案内放送が始まった【注1】。田町駅を通過し始めたところで終わったアナウンスでは、各駅の到着時刻は「時刻表どおりに」案内されたのだが、この列車はおよそ25分遅れて東京駅を出発している。大阪到着がそのまま25分遅れるとしたら、それだけ大阪での持ち時間が減ってしまうのだが、遅れ状況の説明はなかった。どうなっているのだろう。もっとも、到着時刻は静岡が01:44で岐阜が05:00だった。この区間の所要時間としては長すぎるから、途中で時間の余裕をかなり取っているのかもしれない。だとしたら、07:18の大阪着で問題なく動けるのだが。
 寝台部分は品川発車と同時に消灯されてしまい、窓際のテーブルで書き物をするのは不可能になった。廊下は明かりがついているから、目を悪くするのを覚悟の上で新聞を読むぐらいはできるが、もう浴衣に着替えてさっさと寝てしまうことにした。各ベッドにはJRマークが紺色で印刷された浴衣が備え付けられている。列車に乗っていながら着替えをして就寝するなど、今後あと何回ぐらいできるだろうか。
 車掌さんが通りかかったので、出発25分遅れでの大阪到着はどうなるのか尋ねてみた。1時間程度までの遅れなら元に戻るそうである。やはり、途中で相当たっぷりと時間をとっているようだ。よかった。これで安心して就寝できる。

 以前から消える消えるといわれていた「銀河」は、2008年3月のダイヤ改正でとうとう廃止されてしまった。「銀河」に乗るのは初めてだったが、もう少し何とかならなかったのかと思う。もちろん、寝台車など新規で建造するわけにもいかないだろうから、老朽化した設備は改善のしようがないだろうが、せめて運用面での改善が望まれたと思う。「素の運賃」が大阪まで8510円する以上、寝台料金が6300円では釣り合わないのだ。プラスアルファしても1万円程度で東京から大阪まで寝台列車に乗れるのであれば、この区間の移動は非常にニーズが高いのであるから、それなりに活況を呈していただろう。車内販売も電話もなく、ただベッドがあって寝ていけるだけという列車でも、夜11時に東京を出て朝7時過ぎに大阪に到着でき、しかも移動と睡眠を一度にこなすことができるというのは、それなりに便利だったのではないかと思う。
 結局、安売りをしたくないからこうなってしまったのだろう。しかし、大阪に朝到着するために、何が何でも朝一番の「のぞみ」に乗らなければいけないのだろうか。それがイヤなら夜行バスを、ということになるが、どこかがおかしいと思う。現状は、大量輸送機関としての鉄道が需要の高い東京−大阪間の夜行輸送を担うことができず、代わりにバスが東名高速を深夜に何十台も往来して排気ガスを撒き散らす結果になっているからだ。
 なお、この調子だと「ムーンライトながら」も危ないだろうと思っていたが、予感は的中し【注2】、2009年3月のダイヤ改正で季節臨時列車に格下げされてしまった。

 【注1】当日の車内放送は以下のとおり。
<チャイム:ハイケンスのセレナーデ> 今日もJR線ご利用下さいましてありがとうございます。寝台急行銀河号大阪行きです。列車は前から1号車・2号車の順で、一番後ろが8号車です。1番前1号車が2段式のA寝台車、2号車から8号車は2段式のB寝台車です。おタバコをお吸いいただけます車両は6号車と8号車です。なお寝台内は禁煙です。おタバコは通路側、灰皿のあるところでお願いいたします。1号車・A寝台車のお客様は喫煙コーナーをご利用下さい。車掌はJR西日本の■■と■■です。終点の大阪までご案内いたします。車掌室は6号車にございます。ご用ございましたらお気軽にお申し付け下さい。なお只今常磐線からの接続待ちをいたしました関係で、東京駅を約25分遅れで発車をいたしております。列車遅れまして大変ご迷惑をおかけいたします。それでは停まります駅・時刻を時刻表どおりにご案内させていただきます。次は品川です。次の品川には23:07、横浜23:25、大船23:41、小田原日が変わりまして00:14、熱海00:35、静岡01:44、岐阜5時ちょうど、米原05:40、大津06:32、京都06:43、新大阪07:12、終点の大阪には07:18に着きます。なお只今東京駅を約25分遅れで発車をいたしております。トイレ・洗面所は各車両の寝台番号1番2番寄り、進行方向に向かいまして前よりにございます。トイレ洗面所は前寄りにございます。くず物入れはデッキに押し蓋式のくず物入れがございます。出ましたゴミくずはひとまとめにいたしまして、デッキにございます押し蓋式のくず物入れにお捨て頂きますよう、皆さまのご協力をお願いいたします。時刻も大変遅くなっておりますので、この放送をもちまして、明日の朝大津駅到着前まで放送によるご案内は休ませていただきます。緊急の場合を除きまして放送によりますご案内休ませていただきます。お客さまにお願いいたします。おやすみの際には現金・貴重品等は身につけてお休み下さい。盗難等の恐れもございますので、現金・貴重品の保管方には十分ご注意下さい。また、この列車にはワゴン販売サービス・自動販売機・電話の設備などございません。あらかじめご了承下さい。携帯電話ご利用のお客様にお願いいたします。回りのお客さまのご迷惑とならないようデッキでお願いいたします。またあらかじめマナーモードなどご利用いただきますよう、皆様のご協力をお願いいたします。また、只今車掌が切符の拝見にお伺いをいたしております。ご協力をお願いいたします。しばらくいたしますと、天井と廊下と少し暗くいたします。どうぞごゆっくりお休み下さい。それではこの放送をもちまして、明日の朝大津駅到着前まで、放送によりますご案内は休ませていただきます。また、お休みの際にはお静かにお休み下さい。少しの話し声でもお休みのお客さまにはご迷惑となる場合がございます。お静かにお休み下さい。それでは大津駅到着前まで放送によりますご案内休ませていただきます。
 【注2】姉妹ブログ「遊牧民のゴタク」2005.02.10掲載「存亡の危機か『ムーンライトながら』」を参照。

2009年05月03日

2008.01.25(金)(1)関ヶ原は銀世界だった

 目を覚ましたのは、6時前のことであった。
 外は真っ暗だったが、窓の外が銀世界であるのはわかった。雪景色ということは、おそらく関ヶ原のあたりだろう。関ヶ原は北陸方面に降るハズの雪が伊吹山地の隙間から漏れ出してきて積雪をみる地域である。
 そう思ったら案の定、関ヶ原を過ぎて米原に到着する寸前だった。雪に覆われた原野を走っていると思っていたら、前方はるか彼方に米原の車庫が見え、近づくと北陸本線用の2両編成の電車がたくさん並んでいた。間もなく列車は米原駅のホームに入った。最近新しくなった米原駅は、照明がオレンジ色になったり等、近代的な駅に衣替えしていた。なお、駅の照明にブルーの光を使うのが最近流行っている。青い光は精神を落ち着かせ、自殺抑止の効果があるのだという。米原駅にはなかったようだが。
 ホームに少しだけ出てみたが思いのほか寒く、すぐ自分の寝台に引っ込んでしまった。この寒さは雪が降ったせいだろうか。客車の暖房は相当に強いパワーのようだが、それでもカーテンを開けると廊下からひんやりした空気が入ってくるから、相当に冷え込んでいるようである。車両の端には「新潟鉄工 昭和52年」というプレートがついている。1977年製造ということは、この車両はもう30年も使っているわけだ。車両を製造した新潟鉄工という会社も、現在ではなくなってしまっている。
 大阪到着は07:18であるから、乗車時間はまだあと1時間半ほどある。新快速と比べると若干スピードが遅く、米原−大阪間の所要時間は15分ほど余計にかかる。07:18という到着時刻は、夜行列車としては早過ぎず遅過ぎもしない、ちょうど良い時間である。
 もう一眠りしようと思ったが、熟睡しようとすると寝付けない。こういう中途半端な状態のまま、米原から先はモンモンと過ごしてしまった。次に目を開けたとき、窓の外はかなり明るくなっていた。車内放送が再開され、トンネルを2本抜けて京都駅に到着。京都も、銀世界というほどではないが雪景色であった。
 京都を出るとさすがに寝る気になれず、カーテンを開けて車窓の風景を見ていた。大阪府に入ると、雪は完全に消えていた。東淀川あたりでは、満月に近い齢の月がすっかり明るい空に出ていた。いよいよ大阪到着である。

 大阪駅には定時の07:18に着いた。まず、御堂筋南口のタクシー乗り場前にあるコインロッカーに荷物を入れて身軽になる。ここに限りかもしれないが、キーホルダーにはコインロッカーの場所が記載してあって、親切だと思った。
 腹ごしらえをしてから梅田支店を取りに行こうと思う。阪急ファイブの裏に(黄色い看板の)松屋があるのは知っている。その後は、計画では阪急宝塚線で三国・豊中服部・豊中・箕面と回り、北千里へ出て阪急千里線沿線の2か所を取って吹田に抜ける。そして、何といっても今日の一番大事な目的地、本日が最終営業日である岸辺と南茨木の2出張所へ行こうと思っている。計画というか、制覇目標を地図上でピックアップしてつないだだけで列車ダイヤなどは一切調べておらず、ほとんど行き当たりばったりに近い。果たしてうまくいくだろうか。

2009年05月04日

2008.01.25(金)(2)梅田から始まる一日

 いよいよ梅田支店に向かう。
 梅田支店は曽根崎警察署の東隣にある。梅田を歩いていると東か西か方向感覚がマヒしてしまうのだが、とにかく曽根崎署を目標に、あちこちで工事たけなわの梅田の街を歩く。
 曽根崎署の南隣、阪急前の交差点には、東京スター銀行の巨大なネオンがそびえ立っている。東京スター銀の大阪支店があるのだ。経営破綻した東京相和銀行を引き継いで2001年6月誕生した東京スター銀行は、外資の手で積極経営に打って出て、第二地銀でありながら日本の主要都市(大阪だけでなく札幌・仙台・名古屋・福岡)に支店を展開している。東京の地銀が大阪に支店を置いているというだけで驚いてしまうが、よく考えてみると大阪の地銀が東京支店を持っているのは当たり前なので【注1】、これは東京在住者の勝手な思い込みである。
 りそな梅田支店の前にある富国生命ビルは解体工事中、駅前の阪急百貨店梅田本店も建て替え中で、梅田界隈ではあちこちでビル工事が進行している。工事のせいで、梅田支店まで来るのには少し遠回りをさせられた。
 梅田支店の写真撮影だけ先に済ませた。路上から見る限り、キャッシュコーナーは開いていないようだ。すぐに、梅田支店の「クイックロビー」は地下にあったと思い出した。支店から一番近い出入口から地下に降りると「ホワイティ梅田地下街」で、りそなの向かい側は高級スーパーの「成城石井」になっている。成城石井が多店舗展開しているのは知っていたが、大阪にまで進出していたとは。「成城」という東京の極めてローカルな地名を、自分が住む東京23区西部から遠く離れたところで聞くと、ものすごく違和感を感じる。もっとも、神戸の高級スーパーである「いかりスーパー」がさいたま市のJR大宮駅内に進出しているから【注2】、このくらいで驚いていてはいけない。さっきの東京スターと同様である。
 さて、ホワイティ梅田地下街に面した地下のキャッシュコーナーは、7時から開いていたようであった。自動ドアを入ると、右側に、ATM(オムロンJX白台)が4台並んだ小部屋がある。その奥には、出入口のような形で細い通路が2本続いていて、通路の奥は大広間というか、広大なATMコーナーになっている。奥の間は、一番左側にオムロンの通帳記帳機。ATMはリーダスAK-1が3台、オムロンJX白が6台、そしてオムロンIXが2台ある。ATM利用客の増加に応じて順次拡大してきたのだろうが、なんとも複雑な造りである。機械の台数は、かつて「旧大和店舗は機械の台数が無駄に多い」と思っていたイメージそのままである。「無駄に」といっては語弊があるけれども、機械の台数は多い。ATMを操作。07:43、今回の第1号となる梅田支店を制覇した。

 梅田支店は、1926年12月に野村銀行堂島支店梅田出張所として開設されたのが始まりである。1929年5月に加島銀行の梅田支店を継承して既存の梅田出張所を統合、店籍上はこれが現在の梅田支店の直接のルーツとなる。現店舗は大和銀行時代の1967年9月に新築されたものだが、それに先立つ1963年11月から梅田の地下街には店を出していた。これが現在のキャッシュコーナーのスペースではないかと思われる。
 支店のビルは「りそな梅田ビル」ということで、りそな銀行の持ち物らしい。地下3階が駐車場、地下2階から地上2階までが銀行で、3〜8階がテナントになっているようだ。ATMコーナーの奥に、ビルの上層階に上がるエレベーターがある。

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 【注1】大阪地区地銀の東京支店:出さなかったのは、なにわ銀・大正銀のみ。
 【注2】いかりスーパーエキュート大宮店。2009年春閉店した。現在、同社の関東地区店舗は新横浜店(JR新横浜駅内)1店のみ。

2009年05月05日

2008.01.25(金)(3)梅田から三国へ

 次の目的地・三国(大阪市淀川区)へ行くべく、阪急の乗り場に向かって歩く。梅田で朝飯を食おうと思っていたが、三国まで行ってしまうことにした。
 地下街「ホワイティ梅田」の通路は、阪急から阪神や地下鉄谷町線に乗り換える通路になっているが、これだけ多数の人が通っているのに、ついている蛍光灯の本数が恐ろしく少なく、ほとんど真っ暗である。ゾロゾロと乗換口に向かう人通りは、東京者の感覚からみても明らかに激しい部類に入るが、売店のたぐいは全くない。なぜか串カツの店が1軒だけ開いていたが、こんな朝っぱらから串カツを食う人もいないだろう。もうちょっと商売したらどうなんだろうと思ってしまった【注1】。
 「阪急グランドビル」の2階に上がってくると、そこは銀行街のようになっている。三井住友銀の梅田支店(旧住友銀)があり、中央三井信託の梅田支店(旧三井信託)とあおぞら銀梅田支店の入口があり、三菱東京UFJ銀の梅田支店(旧三和銀)、それから住友信託の梅田支店もある。その隣が新生銀の梅田支店。という形で、阪急梅田駅の2階には銀行が林立している。但しりそなはない。
 ここから長大なムービングウオークを抜け、さらに大エスカレーターを上がったところで、ようやく阪急梅田駅にたどり着く。阪急梅田駅の大ムービングウオークは昔から有名だが、ここは戦前には阪急梅田駅そのものだった場所で、昭和40年代に大きな駅ビルを作る際に駅施設を北側へ移したのである。同じような工事のやり方は、京王井の頭線の渋谷や東急世田谷線三軒茶屋、西鉄福岡など至るところで目にするが、みんな後ろに下げる形の工事である。個人的にはこういうやり方はやめてもらいたいと思う。客を歩かせてそこに商業施設を作れば金儲けができるということなのだが、あまり客を振り回さないでもらいたいのだ。もっとも、阪急梅田駅のムービングウオークは、そういう発想がなかった時代のものゆえ、商店街を作る代わりに付けられているのだが。
 阪急梅田駅では、神戸線・宝塚線・京都線の各3本、合計9本の線路がホームの壁にぶち当たり、櫛の歯のような形をしたホームの背にあたる部分は大改札になっている。その端にあるサービスセンターで「スルッとKANSAI 2dayチケット」の引き換えをした。昨日「銀河」の寝台券と一緒にクーポン券を買っておいたのである。駅員はあちこち必死で探してようやく現物を持ってきたという感じで、受け取りには結構時間がかかった。但し、阪急だけに駅員の物腰は非常に穏やかで、その点はさすがだった。
 三国には各駅停車しか停まらない。6番線【注2】から08:05発の各駅停車宝塚行きに乗った。高層ビルが乱立する梅田を抜けた中津は、雑居ビルが建ち並ぶ都市部。そして淀川を渡ると十三(じゅうそう)である。このあたりから下町の空気が漂っている。梅田から乗ってきた各駅停車は、梅田を出た段階では空席が残っていたが、十三から下り列車に乗る人が結構多くて、一気に首都圏私鉄の夕方くらいの混雑度になってびっくりした。
 三国は十三の次の駅である。十三と三国の間は、町工場よりは少しだけ規模が大きいと見える工場が並んでいて、それに付随する古い住宅が密集している。東京でいうと総武線の沿線のような下町が、梅田のすぐ隣からずっと続いているような感じである。但し、大阪の中心部に近いだけに、小じゃれた新しいビルも所々に建っている。でもやはり大勢が古い建物ばかりなので、そういうのが1軒あっても「掃き溜めの鶴」のような印象だ。

 【注1】乗換通路ではないが、横浜駅西口のダイヤモンド地下街などでも同様の光景がみられる(串カツの店はないようだが)。
 【注2】阪急電鉄社内で「x号線」と呼んでいるのはもちろん知っている。

2009年05月06日

2008.01.25(金)(4)変わりつつある三国

 三国には08:12に着いた。島式ホーム1本だけの高架駅で、改札はホーム下の2階にあった。改札を出てすぐのところに駅ビルのような建物が直結しているようだ。
 改札前にある駅前の地図を見ると、南北に走る阪急の線路に沿って、西側を国道176号が通っている。駅のすぐ北側を神崎川が東から西に流れていて、国道は新三国橋というのがまたいでいる。川の向こう側に松下電器の工場があることになっているが、閉鎖済みのようだ。あとは、地図を見た限りにおいては何の変哲もない普通の駅前である。ただ、商圏は駅の北側を流れる神崎川で断ち切られているのだろうか。駅前が広大な空き地になっているのは前回来た時と変わっていない。これは多分旧線路跡地であろう。阪急宝塚線の三国駅周辺は2000年に完全高架化されている。前回(2004年4月)来た時にはたしか古い高架線の残骸がまだ残っていた。
 空き地の向こうには十三信金の支店が見える。りそなは十三信金の北側、駅の東にある商店街の付け根であったと記憶している。地図で見ると金融機関のマークが2つだけ書いてあったから、現在では十三信金とりそなしかなくなってしまったのだろう。かつてはさくら銀(旧神戸銀)、阪神銀の支店もあったハズだ。「かつて」ということで言うと、旧協和銀行はこの地に1969年8月まで三国支店を持っていた。統合先は十三支店で、その十三支店も1979年8月に豊中服部支店に統合されている。
 駅ビル(のような建物)には入らず、北口の階段から駅の北端にやって来た。階段を降りたところに阪急系の書店であるブックファーストがあるが、前述のとおり線路の東側は空き地で、その真ん中にぽつんと1軒だけ交番が建っている。このあたりの道路は拡幅工事が進んでそれなりに道幅が広がったものの、車線の数は1×1車線で変わっておらず、せっかく広げたところにもコンクリの土台をつけたガードレールを置いてふさいでいる。駅前だけきれいにしても、周辺の道路は整備が遅れているのだろう。駅前に多少ある商店の並びは、住宅と個人商店が半々ぐらいの構成比の町に1〜2軒の再開発ビルが建ったという程度の賑わい度であった。
 それとは別に「サンティフルみくに」という商店街がある。りそな銀行はこの商店街に入って右側である。人通りはそれなりに多いが商店街は真っ暗で、開いている店が1軒もなさそうだ。りそな銀行もまだ開いていないようだ。これは困った、さっき駅前にあったソバ屋で先に飯を食おう…と一瞬思ったが、おかしい。08:20ならATMはもう開いているハズだ。キャッシュコーナーはどこにあるのだろうか。
 表通りから一瞬見えなかっただけで、建物東端の「クイックロビー」入口は既に開いていた。店に入るとATMは7台あって、左からリーダスAK-1が2台、オムロンJX白台が5台並んでいた。ATMブースの上が鏡張りでギンギラギンになっているのが旧大和銀店舗の標準的な内装で、ブース上の行灯表示は、大和銀のオリジナル(銀色に濃淡青線2本)から緑色のプレートに変えられていた。08:22、三国支店を制覇した。
 三国支店は、1944年12月に野村銀行梅田支店三国特別出張所【注】として開設されたが、1945年6月に戦災で焼失して一旦廃止された。再開は1946年4月で、翌47年1月に支店昇格している。現在の店舗は1958年に建てられたものを現役使用しているらしいが、1986年に大規模な改装工事を受けており、古めかしいところは感じられない。

 制覇の後、駅前の再開発ビル1階に入っているソバ屋で肉ウドンを食べた。420円也。店の主人は無愛想なおっちゃんだが、料理は(立ち食いにしては)凝った調理で、仕込んである肉をそのまま載せるのではなく、材料をその場で鍋で煮て載せてくれたのである。東京でこんな作り方をする店なら、肉ウドン1杯で700〜800円は取られるのではないか。食い倒れの街・大阪では、少々安くても美味でない店には客が入らないそうだから、そのあたりはシビアである。
 ウドンをすすりながら、天井から下がった店先のテレビを見る。ワイドショーで、別居中の妻を刺し殺した46歳の男の話を取り上げていた。犯人の男は、包丁で自殺するそぶりをすれば息子に会えると思ったらしい。別にバカなこととは思わない。追い詰められたら人間は冷静な判断ができないものだ。そこに至るまでにはいろいろなドラマがあったのだろう。しかし、法を犯してしまったらその時点でバッサリ切られて終わりである。こわいものだと思う。日本には「盗人にも三分の理」という諺もあるのだが。

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 【注】特別出張所:ここでは、太平洋戦争中に、預貯金増強の国策に基づいて認可された簡易店舗のこと。業務は預金の受払に限定され、また行員数などに制限があった。

2009年05月07日

2008.01.25(金)(5)aiko『三国駅』について思うこと

 大阪出身の女性シンガーソングライター・aikoが2005年2月にCDリリースした『三国駅』という曲を、ここ阪急三国駅周辺の「ご当地ソング」として解釈する向きも多いようである。リリース時のキャンペーンではこの駅をaikoのポスターで埋め尽くしたそうだし、また作者の思い出の地・三国駅周辺をモチーフにしていると解説などにも書いてあるので、この曲のベースに大阪市淀川区の三国があるのは間違いないだろう。
 歌そのものはバラード(恋愛を題材にした感傷的な曲)として極めてオーソドックスであり、不具合が目立つわけではない。個人的にはいい歌だと思う。しかし、この歌に対して違和感を訴える声が、ネット上でいくつか目についた。その理由は歌詞を一読しただけでわかる。この歌では「三国」という土地についてほんのわずかしか言及されないから、である。
 三国について触れているのは、歌詞の中のごく一部、次のフレーズだけである。
変わらない街並み あそこのボーリング場
(aiko『三国駅』PCCA-02203 ポニーキャニオン、2005年)(引用中「ー」はママ)
 たったこれだけ。この歌には、具体的な地名は(タイトル以外には)一切出てこない。「変わらない街並み」というだけなら、場所の特定は不可能である。そこにボウリング場がある例も至るところで見受けられよう。あとは、若い女のモノローグが延々続いているだけだ。
 この歌の世界は、作者のaikoにとっては「三国駅」であっても、CDを聴いている大多数の聴き手にとっては「それ以外の場所」であろう。タイトルを切り離せば、この歌はオーソドックスなバラードであり、また歌詞の抽象性ゆえに聴き手によってさまざまな読み込みが可能だ。そういう歌に「三国駅」という極めて具体的なタイトルを付けてしまったところに、そもそもの発端があったのではないだろうか。このような歌では、いくら「三国駅」というタイトルが付いているからと言って、こげ茶色の阪急電車が行き交う様子を思い浮かべて曲に感情移入するのは無理なのである。もっと言うと、この歌のタイトルとして「三国駅」はふさわしくないのだ。
 aikoが作る歌の最大の特徴は、ハッと注意を引く意外な言葉の組み合わせであろう。たとえば、aikoの有名な曲の一つに、夏の星座にぶら下がって上から花火を見下ろす、という趣旨の歌詞がある。これは確かにaikoのたぐい稀なる感性でなければ発想し得ないだろうから、その点は評価しよう。こうした言い回しの奇抜さで度肝を抜くのがaikoの作風であるのだが、この『三国駅』に限っては奇抜さが鳴りを潜めている。作者としては、歌の世界が「普通」であるなら、せめてタイトルで捻りをかけるしかなかったのではないか。但し、歌の世界が「普通」と言っても、歌詞からは作者が観念の世界で言葉と戯れている様子がうかがえ、そこがaiko独特と言えばいえるかもしれない。
 いずれにしても、この歌の「平凡さ」ということを考えれば、タイトルも平凡で無難なものにしておいた方が、より一層聴き手の心をとらえたのではないだろうか。そうしないで、あえて極めてリアルな「三国駅」という題を付けてしまったことで、この歌は齟齬感が抜けないものになってしまった。度肝を抜く言葉の使い方というaikoのポリシーが滑ったケースとさえ言える気がする。この曲は素人時代に作った曲を掘り出して発売したそうだが、そういう場合にプロとして多少の手直し(それこそタイトルの見直しなど)はしてもおかしくない。インディーズの曲なら「三国駅」でもいいだろうが、人口に膾炙する歌を作るプロとしてタイトルが個人的過ぎないだろうか。どうしても曲名に“三国”とつけたいのであれば、やはり三国「駅」ではないのではないか。
 一つだけ言えることは、歌の聴き手の状況がaikoの過去と一致するわけがない以上、ネタにされたというボウリング場が、三国駅ホーム北寄りの窓から神崎川の対岸に見える程度では、この歌の世界が「三国である」と特定する材料にはなり得ないということである。

 私なら、この歌のタイトルは「あの日の帰り道」とでもするところである。凡庸だと思うなら笑ってやって欲しい。しかし、この歌が「オーソドックスなバラード」である以上、タイトルもこのように平凡なものがふさわしいと思える。
 もっとも、この曲名では「りそめぐ」で引き合いに出すこともなかっただろうが。

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2009年05月08日

2008.01.25(金)(6)郊外電車の駅、服部

 2駅先の服部(はっとり)へ向かう。次の目標は、服部駅の東側にある旧あさひ店舗、豊中服部支店である。
 08:44発の各駅停車・雲雀丘花屋敷行きに乗る。三国を出て神崎川を渡ると、古い一戸建ての住宅がびっしり建ち並んだ下町の景観である。ただ、このあたりは線路際を中心に建て替えられたところも結構目立つ。建て替わったといっても、敷地の使い方は狭い土地に目いっぱい建物を建てるという昔のスタイルのままである。
 さっき十三で下り電車に一気に客が乗ってきてびっくりしたが、この時間には、すれ違った梅田行きの上り急行は窓の向こう側が見えているくらいで、混雑はしていなかった。沿線が開発された年代の古い宝塚線は、上りのラッシュがマイルドになっているのかもしれない。一方で国道は上りのラッシュがたけなわのようである。さっき車窓から神崎川を越える橋が見えたが、橋の上では大阪方面が大渋滞しているのに、、下り方向に行く車はほとんど見なかった。
 高架から地平に降りて、服部には08:51に着いた。複線の両側にホームが1本ずつへばりついていて、改札が上りと下りで完全に分かれているという、古い郊外電車スタイルの駅であった。駅前には2階建て棟割長屋のような形態の店。踏切そばの角にはパチンコ屋がある。シャッターには、服部駅前らしく「忍者ハットリくん」らしきものの絵が描いてある。藤子不二雄Aの事務所には許諾を取ってあるのだろうか。それともハットリくん「もどき」なら許諾は不要なのか(まさか)。切符売り場の前では、男性2人が喧嘩している。喧嘩というか、若い男が一方的に怒鳴りつけているだけのようだが。大阪の人の気性が激しいのか、人前で大きな声を出すことをはばからない人が服部には多数住んでいるのか、それは定かではない。
 駅の北側を東西に走る商店街は、センターラインが引かれていないけれども2車線分の道幅があり、道の狭さの割に車の通行が激しい。商店街には普通は「ナントカ本通り」とか名前がついているものだが、街灯というか路肩の看板には本当に「商店街」としか書かれていない。真っ黒な大理石がはめ込まれた関西アーバン銀行の真新しい店舗が駅の左側に目に入る。関西アーバンの豊中服部支店は2007年6月に豊中東支店(旧関西銀)が移転改称したものである。そこから少し駅に寄ったところには、三菱東京UFJ銀行の店舗外ATM[服部駅前](豊中支店)がある。
 りそながあるハズの国道176号に向かい、東に向かって歩く。三国で阪急の線路の西側を走っていたこの道は、服部では線路の東側に変わっている。踏切を渡ると、通りに面した左側に摂津水都信金の服部支店(旧豊中信金→水都信金)、右側少しはずれた奥に池田銀行の服部支店があった。
 時刻はちょうど9時になるところ。時間的にラッシュアワーが終わっているので、人通りはチョボチョボ程度にしかない。池田銀に入る角にある花屋が店を出し始めていた。その先の果物屋は、模造紙の掲示物によれば「静岡産のメロンを豊中市で一番たくさん売った店」なのだそうだ。だからウチの店でメロンを買って、ということなのだろうが、ひねくれている私はこういう時、俺が買わなくても誰かが買うよと思ってしまいがちである。

2009年05月09日

2008.01.25(金)(7)豊中服部支店を制覇

 国道176号に突き当たった先には、りそな銀行豊中服部支店(旧協和銀→あさひ銀)と近畿大阪銀行服部支店(旧大阪銀)とが仲良く並んでいる。駅の側から見ると間に建物1軒挟んでいるようだが、両者は敷地の奥の方で隣接している。支店のシャッターがちょうど開き始めたようだ。
 りそなを制覇する前に、近畿大阪の支店をのぞいてみる。りそなグループの地方銀行である近畿大阪銀行は、2008年7月からりそな・埼玉りそな銀行とシステム統合して、預金取引を利用した「めぐ」が親銀行と同様に楽しめるようになった(この時点ではまだ)。3台のATMは全て「リーダスAK-1」であった。システム統合に向けて、りそなの大和店舗と同じ型の機械を2007〜2008年にかけて大量に投入し、既存機種を入れ替えたのである。これにより、近畿大阪は全ATMがIC対応となった。今回は近畿大阪に深入りはしない。本格的に回るのはシステム統合の後ということになる。
 今日のメインは、近畿大阪の隣にあるりそなの豊中服部支店である。豊中服部は旧あさひ店舗のためATMが4台しかなく、まだ9時になったばかりだというのに店に入ると行列ができていた。やはり25日の金曜日はいかんともしがたいようだ。4台あるATMは、あさひ店ゆえ富士通の機械である。一番左の1台がファクトVモデル20で、残り3台がファクトA。そしてその右側に両替機があって、後方客室側に記帳機があるという構成である。協和の古い店舗なので、ATM枠の上部はシャッターになっている。かつてここは開閉して店内を少しでも広々と見せていたのであろう。両替機は後から増設されたとみえて、上部にシャッターはついていない。あくまでATMの上だけがシャッターになっている。
 順番を待ちながら、ボケーッと店内を見るともなく見ていた。この支店のロビー係は初老の男性で、なんとなく茫洋とした面持ちをしている。かつて東京営業部(東京本店)に行くと見かけた、あさひ銀行の時代からずっとロビー係をやっていた色白の男性に、雰囲気が少し似ていると思った。
 並んでいるお客は中年以上の人が多く、特に女性の比率が高かった。いずれにしてもほとんどが高齢者である。協和はドブ板商売を得意としてきたから、店舗はどうしても服部のような古い商住混在地域に目立つ。服部はドラスチックに開発が進まない限り将来性がないと思えるのだが、りそなの支店は顧客を(高齢化しているとはいえ)がっちり握っているのだろうか。
 09:16、豊中服部支店を制覇した。豊中服部支店は1972年11月に協和銀行豊中服部支店として開設されたもので、1979年8月に十三支店を統合しているのは「三国」の項で述べたとおりである。

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2009年05月10日

2008.01.25(金)(8)豊中、在阪銀行の戦略拠点

 次は、豊中支店に行く。名前からも分かるとおり、こちらがりそな銀行の豊中市におけるメイン支店との位置付けである。
 自分が乗る電車の前に、先行する急行宝塚行きが通過していったが、9時過ぎの下り電車は早くもガラガラであった。服部から09:23発の各駅停車・雲雀丘花屋敷行きに乗る。乗った電車は、山手線のようにドア上部に液晶テレビが2つ付いた、阪急の最新型車両であった。8人がけの長椅子は、一人ひとりの尻が当たる部分を凹ませたバケットシートになっていないが、3人・2人・3人と分けるための小さな仕切りがついている。阪急の車両設計思想はこれまで極めて強烈なポリシーでもって貫かれてきたが、東京のそれに少し近づいてきたのかなと思った。ドア上のテレビで天気予報を映していて、それによると今日の大阪は「晴れ時々曇り」だそうである。
 服部で地平に降りていた線路は、曽根でまた高架に上った。豊中に09:29着。ほぼ全ての列車が停まる駅だが、島式ホームが1本あるだけだ。但しホームの幅は相当に広いから、乗降客はかなり多いのではないだろうか。
 りそなの支店は、確か駅の北側だったと記憶している。エスカレータを降りて北改札口を出た。改札から右の方に降りていけばよいと気楽に考えていたのだが、りそながあると思っていた場所には、りそな銀行ではなく近畿大阪銀行の豊中支店(旧近畿銀)があった。どこに消えてしまったのだろうか。目の前にちょうど駅前交番があったので入ってみる。留守だったので壁に貼ってある地図を見ると、とんだ勘違いであった。駅の南側にあるY字路を左に行くようだ。北ではなく南なのであった。
 というわけで、豊中駅前を南へ。駅の東側を国道176号が南北に走るのは服部と同様である。駅ビルには三菱UFJの普通銀行と信託銀行の豊中支店が仲良く並んでいる。普通銀行・信託銀行ともに旧UFJ店で、看板は景観条例があるわけでもないだろうになぜか白色になっている。バスターミナルが駅舎に沿って縦に細長く続き、バスターミナルと並行してビルが1軒、これまた細長いうなぎの寝床のような形で建っている。ここに住友信託がある。国道を挟んで反対側が三菱東京UFJの豊中駅前支店(旧三菱銀)。駅ビル内にあった旧三和銀の店が移転し支店内支店となっていて、ドアには◆(東京三菱)と●(UFJ)の両方のマークがついていた。
 角のミスタードーナツに見覚えがある豊中本町の交差点にやって来た。豊中市内である程度きれいなのは駅前だけで、駅前の交差点まで来ると少しだけ雑多な商店街が垣間見えた。商業はさほど集積しているようには見えない。この交差点のそばに、三井住友銀行の建物が3軒ある。通りの東側に豊中支店、その隣に同支店の店舗外ATM。豊中駅に寄ったところにもう1軒。支店は旧住友銀の店舗で、その右隣にある店舗外ATM[豊中本町]は旧三井銀の、道を挟んだ駅前にあるローンプラザは旧神戸銀の、それぞれ豊中支店であった。この交差点には、三井住友の主要前身銀行3行全部の支店があったということだ。
 豊中本町の交差点を南に渡るとようやく、三井住友の先にあるY字路の鈍角部分にりそな銀行が見えた。建物は2階壁面に窓の全くないベッタリとした外観をしている。
 りそなの正面向かい側には、関西アーバン銀行の豊中支店(店籍は旧幸福銀)がある。辺鄙な場所にあった店が最近になって移転してきたもので、店舗はアーバンの最近の標準的な外装である、前面を黒の大理石で覆ったスタイルをしている。関西アーバン銀は店舗をゴージャスにする経営方針を採っていて、豊中支店には「プラチナラウンジ」なる富裕層・会社経営者向けの会員制ラウンジまである。さすがにこんなラウンジは豊中支店の他には本店営業部(心斎橋)と池田支店・東大阪支店にしかないから、豊中市は関西アーバンにとっては戦略拠点であるようだ(もちろんそれはりそなにとっても同様だろう)。それにしても、「ゴージャスな銀行」というのは1つのあり方かもしれないが、中小企業金融を中心としてきた旧相互銀行は、言ってみれば「その辺の中小企業のオヤジ」を相手にしてきた銀行であって、こうしたサービスを提供することが営業戦略上本当に有利なのだろうか。中小企業経営者にとっては、金を貸してくれる銀行こそ「良い銀行」なのではないか。率直に言って私にはよくわからない。
 さて、りそなの豊中支店である。建物の右側から入ると不動産専門の2階窓口室に通じる入口で、ATMへは1階窓口室を通り抜けていく。1階窓口はクイックナビ方式導入済み。ATMは11台分の枠に7台あり、左端2台分の枠は空きスペース、両替機1台があってオムロンJXの白台が5台、AK-1が1台あって再びJX白が1台、そして記帳機という配列になっていた。09:43、豊中支店を制覇した。
 豊中支店は大和銀行豊中支店として1962年3月に開設された比較的新しい店舗である。開設後1か月も経たない1962年4月に豊中市金庫(現指定金融機関)となっているが、それまでの取引関係を反映しているのだろう。現在の店舗は1994年11月に新築された。

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2009年05月11日

2008.01.25(金)(9)石橋で寄り道を

 次の目的地は、箕面支店(箕面市)である。
 豊中からは、阪急宝塚線で石橋(池田市)へ行き、そこで支線の箕面線に乗り換える。どうせ石橋で降りるのなら、ということで、2004年3月まであった豊中支店石橋出張所(有人)の跡がどうなっているのか見ておくことにした。石橋はもう「めぐ」ではなく単に跡地を撮影に行くだけで、あまり乗り気でないのは否定しないが、2003.07.31付で制覇しているのは間違いないから、その「めぐ記」が発表できない代わりと思っていただきたい。あさひ銀行が消滅した後、旧大和銀店舗の「めぐ」の際には「めぐ記」を書く気が起きなかったので、メモなどを残していないのである。
 豊中09:51発の急行宝塚行きに乗った。阪急宝塚線の急行は豊中から先各駅に停車する。石橋は豊中から2つ目で、10分もかからずに到着した。
 ホームに降りると地下に降りる階段がある。つい階段を降りたくなるのだが、石橋の主要な出口である西出口は地平ホームにそのまま続く部分であるので、地下に降りてはだめだ。前回の制覇の際はそれでしくじってしまい、西側に抜ける道がどうしても見つからなかったので、仕方なく駅員に頼んで構内に入れてもらったのだった。学習効果が働いているので、もちろん今回はホームからそのまま出る。
 石橋駅の西出口を出ると、アーケードのない下町的な商店街がすぐに続いていた。「ショッピングストリート石橋」という。人影はまばらだったが、時間的な理由もあるかもしれない。本屋など一部の店が、そろそろ店を開け始めている。さっきの服部と比べると1時間遅いのは、大阪からの距離が隔たっているせいか。
 そんな様子を見ながら歩いてくると、駅から100mほどのところに池田銀の石橋駅前出張所(有人)がある。1軒置いて隣が摂津水都信金の石橋支店(旧豊中信金→水都信金)。りそな石橋出張所は、前方に進んだ左側であったと思う。携帯ショップ(au)、薬店(マツモトキヨシ)があって、マツキヨの右隣に近畿大阪銀行の石橋支店(旧近畿銀)。その隣に三菱東京UFJ銀行の店舗外ATM(池田支店石橋、旧三和銀)がある。窓口室らしき部分があるが、営業していないようだから旧有人出張所の店舗外ATMだろう。その先にあるミスドには以前入ったことがある。
 薬屋(マツキヨとは別の)がある。袖看板というか、店頭に立っている細長い看板が銀行独特のものだから、あそこがりそなの跡地ではないだろうか。と思ったが、近畿大阪の石橋支店でりそな銀の場所をとぼけて聞いてみた。「とぼけて」というのは、りそなが石橋出張所を統合する際、自前の店舗外ATMを作らず、近畿大阪銀行石橋支店のATMを使うようにとしていたのを知っているからである。中年女性の行員は「別会社になるので」と言って、「豊中の駅前にあります」と教えてくれた。りそな銀のキャッシュコーナーについては「(駅前にないのであれば)ないです」という。近畿大阪に電話をかけると必ず「りそなグループの近畿大阪銀行、××です」のように受け答えをするのだから、りそな銀で案内した内容を近畿大阪の方でも把握して「うちのATMを使っていただくことになっています」と言ってくれるのが最も望ましい対応ではないだろうか。客の立場からすると、店員が「別会社」ということを言い出した時点でまともに話をする気もなくなる。なお、システム統合の済んだ現在では、りそな銀と近畿大阪銀のATMは細かな操作法をはじめほとんど同一の機能が提供されている。
 駅へ戻る途中、くだんの薬屋で軽く買い物をした。レジで会計の際「ここ、昔の大和銀行だったところですか」と聞いてみると、レジの女性は「はいそうです」とにこやかに答えてくれた。この薬屋はりそなグループとは全然関係ないハズだが、さわやかぶりに好感を持った。
 豊中支店石橋出張所は、1984年12月に開設された旧大和銀行の有人出張所であったが、りそな発足後の2004年3月に豊中支店に統合された。

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2009年05月12日

2008.01.25(金)(10)阪急箕面線にて

 今度こそ箕面に向かう。
 駅に戻ったとき、改札機の設置されていない「学生専用出口」なるものがあるのに気がついた。制服着用の3つの高校の生徒のみを対象とし、開放時間は平日のみ07:30〜08:50だそうである。多人数の学生を改札機に通すと改札の混雑度が上がるからだろう。不正防止については抜き打ちで検査しているのだろうが、あるいは土地柄として不正乗車が少ないのかもしれない。
 さっき出た西出口から入り、箕面線ホームに向かう地下道に降りてきた。箕面線が出るのは宝塚線梅田方面ホームの向こう側なので、今度は地下道に降りないとダメである。箕面線の線路が宝塚線の上りホームに直角にぶつかってきているのだが、こういう配線の乗り換え駅に関東でお目にかかった記憶はない。マニアックなことを書いておくと、配線が改良される前の鶴見線武蔵白石駅が似ている程度である。

 行き止まり式のホームに、4両編成の電車が入ってきた。車両は3000系というようだ。箕面線専用らしく、行き先の表示は方向幕ではなく「石橋」「箕面」と書かれた長方形の板になっている。箕面駅の改札がどん詰まりにあるのはわかっているので、一番後ろ(というか方向転換すると一番前)の車両に乗った。次の箕面行きは10:20発である。
 石橋駅の東側は穏やかな住宅街だが、あまり高級感があるとは思わなかった。しかし、これが箕面方面に進んでいくにつれて、少しずつ高級感を帯びた住宅地になってくる。住宅地に庭は相変わらず少ないけれども、例えば十三だの三国だののように小さな家がびっしりと建ち並ぶのではなくて、敷地の使い方に少し余裕が出てくる。一軒一軒の家は一応違う形をしているし、家そのもののサイズも大きくなってきた。三国あたりには棟割長屋をバラバラにしただけのような2階建ての家の並びがあったが、箕面線の車窓風景にそういうものはなかった。時折混在する古い農家は、ほぼ例外なく大邸宅になっている。
 車内には「平成20年度 宝塚音楽学校 生徒募集」という吊り広告が下がっている。宝塚歌劇団の女優を養成する宝塚音楽学校というのは各種学校だと思っていたが、中卒で入学した者が高校卒の資格を取ることもできるそうだ【注】。この年の募集人員は女子約40名、願書の受け付けは2月5日までで、願書関係書類は1部2000円である。学校側が願書の用紙を一式用意するのに製作費がかかるのは理解できるが、その頒価が2000円というのはよほど複雑で枚数が多いのだろう(と善意に解釈しておこう)。第一次試験は東京および宝塚で実施、「上記のうち学校から指定される1日」だそうである。試験科目は「面接」と「実技」で、面接は容姿と試問、実技はバレエ(2009年から廃止)と声楽。選抜基準の中に当然のように「容姿」という項目が入っていることに妙に感心してしまった。元参議院議長の扇千景女史(1933年生まれ)がここの出身で、2008年4月に日本経済新聞の『私の履歴書』で連載をしていた。それを読むとこの学校は何十年も昔から変わらぬスタイルを貫いていると思ったのだが、やはり時代の流れというものには逆らいきれないようである。
 間もなく箕面に到着する。

 【注】通信制高校と連携した高卒資格取得のサポート制度がある。利用は任意。

2009年05月13日

2008.01.25(金)(11)箕面支店を制覇

 阪急箕面線は箕面駅の手前で複線から単線に変わり、駅の行き止まり式ホームに突っ込んだところで終点となる。
 線路の突端側にある改札を出ると、駅のすぐそばまで山が迫っていて、駅前からは山の上に向かう道が延びていた。「滝道」とあるから、道の先には滝があるらしい。山の中腹には大規模なマンションが建っている。エレベーターはガラス張りであった。今日の箕面は晴れていて暑いぐらいであるから、エレベーターから箕面の街を見下ろすのはさぞかし爽快だろう。
 駅前広場にはバスターミナルがある。千里中央行きのバスがあるのは知っていたが、箕面の次に行きたいと思っている北千里へ行くバスはないようだ。それから、観光案内所がある。駅前まで山が迫っている箕面は、明治の森箕面国定公園など観光地を多数持つ。多数ある寺院では霊場巡りのようなことができるらしい。
 さて、箕面での目的地は2つ。駅のすぐ南側にある現・箕面支店。こちらは旧あさひ銀の箕面支店だった。そして、駅から少し離れた箕面市役所前には旧大和銀の箕面支店だった店舗跡がある。「めぐ」の用事は駅前だけで済んでしまうが、今回は廃店跡の写真もあわせて撮りに行くことにしているから、こちらにも足を運ぶ。
 まずは、駅から近い旧あさひの店舗に向かう。ロータリー南側の「サンプラザ2」という茶色い建物の東(左)側をまっすぐ南下する「みのお本通り商店街」を200mほど行った左側である。
 「サンプラザ」には学習塾が3軒くらいとパソコン教室が入っているが、空き部屋もあった。1階駅寄りの部分にハンバーガーのウエンディーズ。あとは、写真の現像屋があったり喫茶店があったり、ケーキ屋や歯科医があったり。駅前の再開発ビルにありがちなおきまりの業種ばかりである。池田銀が箕面駅前支店をこのビルに出している。
 みのお本通り商店街は、関西らしく賑わっている商店街だが、緑青に覆われた銅製支柱のついた西洋風のベンチがドンと置かれていたり、舗装が化粧石になっていたりと、少しだけソフィスティケートされていた。通りには「みのお本通り商店街南角 ミスタードーナツ」という垂れ幕がずっと並んで出ている。商店街の先、りそな箕面支店の向かい側にあるミスタードーナツは第1号店だけに、広告の入れ方にも力が入っているようだ。そして、りそなの看板が見えた。今日の主目的はあくまでりそなめぐりだが、せっかくなので、後でミスドでお茶ぐらい飲んでいっても良いか。やはり「1号店」には重みがある。
 支店西側の入口から店に入る。もちろんりそなの支店に入ったのである。店内を一瞥すると、支店の南側入口にあった風除けの壁は今では取り払われているようだ。以前私がブログで書いたとおり【注1】、あさひ銀時代の最末期(「箕面駅前支店」に改称後)には、風除けの壁に大和・あさひの両店舗従業員の写真が並べて貼ってあったのである。キャッシュコーナーのATMは台数が8台とかなり多く、機種もバラエティに富んでいる。リーダスAK-1が2台、オムロンJXの白が3台、沖電気のATM21が2台、ATM21Bが1台。ここはブランチインブランチ(支店内支店)の実施店舗だったので2社のATMが混在している【注2】が、店籍上は旧大和店舗であるからATMのメーカーはオムロンが基本である。記帳機はオムロンと富士通が1台ずつあり、両替機がATMブースの一番右側にあった。10:40、箕面支店を制覇した。

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 【注1】当ブログ連載「あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇」の「2003.01.09(木)(7)11:03、箕面駅前支店を制覇」を参照。
 【注2】機種の混在:現在では店ごとに統一が進んでおり、箕面支店はオムロン系で統一されたと思われる。

2009年05月14日

2008.01.25(金)(12)箕面市役所前へ

 続いて、箕面市役所前にある旧大和店舗の跡に向かう。
 りそなの近所にある三菱東京UFJ銀行の箕面支店(旧三和銀)を横目で見ながら支店前の通りを東へ進むと、すぐに箕面5丁目の交差点に到達。角の左奥には三井住友銀の箕面支店(旧住友銀)が見える。箕面市役所は、交差点で右(南)に曲がった先である。
 右折して、南北に走る大通りを行く。摂津水都信用金庫が「箕面中央支店」を出していた(旧豊中信金→水都信金)。「中央」とわざわざつけているのは別に箕面支店があるのかと思ったが、調べてみるとこの信金は箕面中央と箕面東の2支店だけで、「箕面支店」はないようだった。
 町の雰囲気は、雑居ビルの建ち方とか街路樹の立ち方が今まで歩いてきたところとは違う。少しだけ高級志向、ということなのか。首都圏でいうと、昭和50年頃に開発された高級住宅地ということで、たまプラーザ(横浜市青葉区)あたりがイメージ的にやや近い気がする。神戸に本店を置く高級スーパーのいかりスーパーが見える。あとは、ガソリンスタンドありマンションありと、お決まりの風景が広がっている。
 旧集配普通局の箕面郵便局があった。敷地内には、あさって27日の日曜日に投票が行われる大阪府知事選挙のポスター掲示場があって、4枚のポスターが貼ってあった。左上が梅田章二という人で、その下が橋下徹、右上が熊谷貞俊、右下が杉浦清一となっている(もう1人、ポスター掲示のない人で高橋正明がいた)。知名度では、タレントをやっていた橋下徹氏がダントツだろう。なにしろ、テレビを全く見ない私が知っているくらいである。
 目指す箕面市役所には一向にたどり着く気配がない。ちょっと自信がなくなってきたので、郵便局隣りのセブンイレブンに入って地図を立ち読みした。記憶に間違いはなかった。箕面市役所は、セブンイレブンのもっと先である。箕面駅からこんなに遠かったかなと思うが、地図で見ると市役所の最寄り駅は箕面ではなく、1駅石橋寄りの牧落(まきおち)になるのであった。

 ようやく箕面市役所に到達した。3階建ての建物の上に4階を継ぎ足したような外観をしていて、4階部分の屋根は弓張り形というのか、パーレン(丸括弧)を上に向けたような形をしている。旧大和の支店跡は市役所の向かいにあって、カラオケ屋などが入った雑居ビルになっていた。支店の跡では、箕面支店を母店とする店舗外ATM[箕面市役所前]が現在も稼働している。
 ここまで歩いてくると、大和は「箕面に関しては」店の立地条件が芳しくなかったらしいことがわかる。市役所の近辺は商業集積はあまりないようで、住宅の方が多そうだ。市役所のそばといっても、城下町などならともかく新興(といっても大正以降)の住宅都市では、銀行の商売にはメリットが薄そうである。箕面市の指定金融機関はりそなではなく三井住友銀行であるからなおさらのことだ。合併後に(店籍はともかく)使用店舗が旧あさひ店となったのには理由があったのだろう。但し、この恵まれない(?)立地条件の中で、集客に関しては一定の水準を確保していたようだ。箕面支店は2008年3月に有人の池田出張所を池田市にオープンした。この出張所は行政区域では池田市に属するものの、実は箕面支店の旧店舗からさほど離れていない「呉羽の里」という地域にあって、市役所近辺に住む旧来からの顧客をあてにして出店していると思われる。
 写真撮影を済ませる。思うのだが、先進国には車が多すぎる。いざ写真を撮ろうとすると、それまで車など1台も走っていなかったところに突如として右折待ちのトラックが沸いてきて、視界を遮る。邪魔にはならないまでも、赤や黄色の車は視覚的には大いに目障りである。先日話題になった漫画家楳図かずお氏の自宅(東京都武蔵野市)は、赤を主体にした配色(紅白しま模様)であったから反発を買ったのだろう。赤はやはり最も目立つ色であり、それだけ圧迫感が強いのだ【注1】。

 箕面支店は、大和銀行箕面支店として1966年3月に開設された。当初は小型支店【注2】だったが、1968年7月普通支店に変更、1979年8月箕面市役所前に店舗を新築している(それ以前から市役所前にはあったのだが)。りそな発足後の実質的な店舗統廃合であるブランチインブランチ(支店内支店)では、大和店舗があさひ店舗に移転する形で行われ、統合時の存続店舗は大和になった。旧あさひ店舗は1972年4月に協和銀行箕面支店として開設され、大和銀行との合併を前にした2003年1月に店名を「箕面駅前」に変更した。箕面支店の支店内支店化は2003年12月、統合は2006年8月のことであった。

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 【注1】楳図邸の反対運動について:一部に「プロ市民が騒いでいるだけ」との説もあるが、夜間にはライトアップまでしており、「目立ち過ぎ」と考える人はやはり存在すると思われる。
 【注2】小型支店:1961〜68年に認可された、行員数・店舗面積の限定された支店。大都市周辺での人口・住宅の増加を背景としている。

 【2009.05.15_07:07追記】一部に修正ミスがあり、お見苦しい点がありましたことをお詫びいたします。

2009年05月15日

2008.01.25(金)(13)石橋で1本乗り過ごす

 箕面で11時を回っているのは、予想よりも遅い。なにしろ、今日最大の目的は南茨木と岸辺の最終営業日の制覇であるので、本来の目的を外しては意味がない。窓口営業時間中にケリをつけなくてはならない岸辺と南茨木の2出張所は、あまり寄り道しすぎると間に合わなくなる恐れがある。特に、営業店の統廃合では、最終営業日は通常の17時ではなく「15時」に窓口が閉まるので余計にそうである。
 とにかく、市役所前まで来てしまった以上、バスで千里中央へという選択肢はなくなった【注】。ミスドの1号店に寄っているヒマもない。今日の懸念事項を全て片付けなくては。牧落から石橋に戻って、さらに蛍池(阪急宝塚線)で大阪モノレールに乗り換えて南茨木に入ることにする。蛍池からモノレールで南茨木に直接行ってしまえば、乗り換えの回数は少なくて済む。
 さっき見た地図によると、箕面市役所前の道路は、西方で阪急箕面線の線路にぶち当たっている。踏切で左折すれば南側にある牧落駅に出るはずだ。歩みを進めよう。箕面の中心市街地からだいぶ外側に出てきたゆえ、このあたりは完全に住宅地となり、瀟洒な新築住宅がそこここにみられる。センチュリー21とかエイブルとかいった不動産業の営業所が多くみられるから、この付近では賃貸なども含めて住宅の取引が結構行われているのだろう。その一方で、仏壇屋が出店しているのは興味深いと感じた。やはり、家が建ち並んでくると、そのうち必要になるのはお葬式であるのだ。
 市役所前からずっと高級住宅地が続いてきたが、牧落まで来ると高級感はやや薄れた。でも、十分閑静な住宅地ではないだろうか。やがて踏切に到達し、駅のホームがそこから見えた。左に曲がる。線路沿いに畑があって、雰囲気としては休耕田である。というか、冬場だから何も栽培していないのだろう。都市部とあって、畑にはゴミがたくさん投げ込まれていた。

 牧落11:22発。4分の乗車で石橋に戻ってきた。ここで宝塚線の上り電車に乗り換えである。
 ちょっとトイレに行っている間に、11:28発の急行梅田行きが発車してしまった。用足しぐらいさせてくれよと思ったが、31分発の各駅停車があるそうで、まあ3分後に来るのであれば良しとしておこう。と、この時点では思った。
 蛍池駅は非常に立派な橋上駅舎だったが、前方の車両に乗っていた私は見事にハマってしまった。この駅はホームから上がる階段が後ろ寄り(北端)の1か所しかなく、ホームを端から端まで歩かされたのである。そしてようやくモノレールのホームに上がってみると、門真市行きは11:36発が目の前で発車してしまい、46分発が来るまでホームでの吹きさらしが確定してしまった。やれやれ。さっき石橋から急行に乗ってこなかったら駄目だったのだ。しかしそれにしても、コンコースで「46分」という次発電車の表示を出すのが早すぎる。あそこで頑張って走っていれば乗れたのに。まあ、鉄道会社としては駆け込み乗車をされたくないだろうから仕方がないか。
 風が吹き抜ける真冬の高架ホームは、非常に寒かった。今日は近畿圏としては特に風の強い日ではないだろうか。気温はさほど低くはないけれども、風が強いのでひときわ寒く感じる。やがて、11:46発の門真市行きが大阪空港方面からやって来た。モノレールの車体内外は「りそなめぐラー」の私が乗るのにふさわしく、りそな銀行の買い切り広告である。緑・オレンジ・白の3色で塗って「R」のマークを入れただけの簡単なデザインとはいえ、りそなは大阪では電車やバスのラッピング広告までやっている。りそなのこの手の広告に東京や埼玉でお目にかかったことはないが、やはり会社の認知度を上げる方策は関東地区でも何か考えた方がよいのではないか。と、東京都内のりそな空白地帯に住む私は思った。後ろから2両目に乗り、転換クロスシートの向きを変えて座ったところ、老夫婦と同じボックスになった。
 蛍池から南茨木までの乗車時間は、約20分の予定である。大阪モノレールは中国自動車道と一緒に走っているから、沿線はモータリゼーションの波に乗ってよく開発されている。マンションもドカドカと建っているし、車窓から不動産屋もたくさん見える。阪急宝塚線沿線という古くから開発が行われていた土地柄でもあるせいか、棟割長屋を戸建てに切ったような2階建て(昭和50年ごろ建築と思われる、割合に新しい建物)も見られる。

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 【注】池田から来る千里中央行き(阪急バス)が市役所そばを通るようだが、後で知った。

2009年05月16日

2008.01.25(金)(14)モノレール立ち往生

 私の乗ったモノレールは、蛍池を出て最初の駅である柴原に停車、2つ目の少路(しょうじ)に向かっていた。時刻は11:50頃だっただろうか。左の車窓に「関西リハビリテーション病院」が見えた。
 急ブレーキがかかり、快調に走っていた車両が高架上で突然停車した。同時に、車内の照明が全部消えた。予想外の事態発生である。私の乗ったモノレールが、高架上でいきなりストップしてしまったのだ。
 昼間だから車内は真っ暗にならなかったものの、夜中ならさぞかし恐ろしかっただろう。なにしろ、普通の電車と違ってモノレールである。大阪モノレールは跨座式だから、重たい車両は1本のコンクリート製レールの上に乗っかっているだけなのだ。もしここで車両が突風に煽られるなどしてひっくり返りでもしたら、りそなのラッピング広告を施したモノレールの車両が「りそなめぐラー」である私の棺桶になるのである。さすがにそれはちょっと不本意だ。もちろんそんなことは妄想に過ぎないのだが、「メメント・モリ」とでもいうのか、私はイレギュラーな局面でどうしても自分の死ということを考えてしまう。
 電車は車内の明かりが消えたまま一向に動く気配を見せなかったが、車内は思いのほか静かで落ち着いていた。車掌の車内放送によると「架線停電」とのことであった。やがて「約5分後に運転再開」と車内放送が入った。少し経つとコンプレッサーが動き始め、車内の明かりがついた。どうやら電気が通じたようで、電車は動き出した。12:09のことであった。
 12:11、立ち往生してから初めて遭遇する駅、少路に到着。定時では柴原−少路間は3分で抜けてしまうところだが、今回この区間だけで18分もかかっている。少路駅では、反対側のホームの電車はドアを閉めて停まったままだったが、こちらの電車はドアを開けて客を乗降させた。
 少路を発車してすぐ、モノレールは車内の電気が消えて再び急停車した。しんと静まり返った車内。どこかのおばちゃんが「何かアナウンスぐらいしたらええのになあ」くらいのことを言っているのが耳に入った。それが車掌に聞こえたわけでもないだろうが、1〜2分の後「再度架線停電が発生した」と2回目のアナウンスがあった。コンプレッサが再び動き出したが、すぐに止まってしまった。12:19に再び走り出したが、1分後また電気が消えた。窓の外がどんよりと曇ってきた。
 電車は三たび走り出したが、私はもうこれですっかり堪忍袋の緒を切らしてしまった。幸い、次の駅は北大阪急行線に接続する千里中央駅である。ここで降りて北急に乗り換えよう。

 千里中央12:21着。危惧していたよりは早く着いたが、私はここでモノレールを捨てた。
 ホームはものすごい人だかりであった。ホームに流れた案内放送によると、電車はしばらく発車の見込みが立たないということである。階下の改札に降りると、改札機の横で女性駅員が「到着遅れましたことをお詫びいたします」と言って頭を下げている。とりあえず遅延証明だけはもらっておこう。「1枚もらうよ」と言ったところ、改札の女子駅員が「あ、まだ証明しておりません」と、証明書の日付欄にボールペンで大慌てでチェックを入れた。「遅延時分」の欄には「30分」のところに穴が開けてあった。
 今回は千里中央までたどり着けて運がよかったと言うべきなのだろう。さっき石橋で3分差で急行に乗れていたら、経過時間からみて千里中央を出た先で立ち往生していただろうから、今頃まだモノレールの中でジリジリしながら時を待っていたに違いない。1本遅い電車に乗ったおかげで、私は千里中央から別コースで向かうことができたのである。運が悪い男だと自分で思っていたが、実はいざという時の運が強いのだろうかと少し思い直した。
 北急の駅に向かう連絡通路は、屋根がついているのは真ん中だけで、通路の端は吹きさらしであった。雲がだいぶ出ているが、隙間から日が射してきている。雪が舞っているから「お天気雪」とでもいうのだろうか。寒いのには理由があった。

 報道をもとに、今回の状況を「為栗ニュース」風にまとめてみた。

大阪モノレール、停電で全線ストップ
 (2008年1月)25日午前11時50分ごろ、大阪府北部を走る大阪モノレールで停電が発生し、本線(大阪空港−門真市)と彩都線(万博記念公園−彩都西)の全線で運行を停止した。
 停電時、列車は本線で8本、彩都線で2本が運行中だった。停電は断続的に続いたため、駅間で立ち往生した2本は約20分後に最寄り駅に着いた。運転は約1時間10分後に再開したが、この事故で約1万人が影響を受けた。
 運行する大阪高速鉄道(豊中市)によると、車両の1台に電気系統で故障が起き、この影響で沿線5か所の変電所でブレーカーが落ちたという。
 千里中央駅では、モノレールから降りた乗客らが駅員から振り替え輸送の案内を聞いたり、運賃の払い戻しを求めたりした。改札口付近では、一時十数人の利用客らが運転再開を待った。阪急電鉄などでは、モノレールと接続する各線で振替輸送を行った。

2009年05月17日

2008.01.25(金)(15)せっかくなので江坂支店

 せっかく北大阪急行に乗るから、途中の1支店、江坂支店(吹田市)ぐらいは取っておこう。北急はまさかストップしないと思うが、この調子だと本来目的の2か所が危なくなるかもしれないので、江坂を取ったら余計な寄り道は考えず、先に岸辺に直行することにする。
 と言いつつ、千里中央支店に少し寄り道。先月来たばかりなので【注1】、オムロンATMの中に富士通が1台だけある点など、支店は仮店舗のまま変わっていないと思われる【注2】。立山の「雪の通り抜け」のような白い鉄板の壁がいつの間にか撤去され、図書館などが入る新しい文化センターの建物との間が素通しになっていたことだけが、前回来た時と比べての変化であった。

 駅施設前にある十三信金の千里中央支店を軽く覗きつつ、北急千里中央駅に下りる。発車メロディーの「たき火」が流れ、私の乗った12:42発なかもず行きが発車した。大阪市交通局の車両で、車内アナウンスは北急線内でも地下鉄と同じ女性が喋っている。緑地公園という駅の手前、「りょクチこうえん」と「く」の音を有声音化して発音しているところが大阪らしいと感じた。やはり関東と関西とでは発音が違うのである。蛇足ながら、車内放送で同様に地域性を感じるものとしては、地下鉄御堂筋線の「市役所前」(淀屋橋駅)と「動物園前」がある。文字では書きづらいのだが、どちらも「まえ」の部分が平板になっている。関東では「まぇ」という発音になる(マを強くしてエを弱く下げる)ところだ。
 江坂の近辺は「ダスキン村」と呼べる場所で、ドーナツ関係と雑巾関係ほかのダスキンの施設が多数見える。8分で江坂到着。高架線の上に島式ホームが1本あるだけの駅で、信じられないことにこの駅はホームと線路を包むような壁がなく、一切が吹きさらしなのである。駅の管理は大阪市交通局で、大阪市を飛び出した地区にある駅は市内と比べてなおざりになりやすいのかもしれないが、いくら「吹」田市にあるからといって駅のホームまで「吹」きさらしにしなくてもよいではないか、と少し思った。
 電車からホームに降りると東急ハンズが見えたが、りそな銀行はどこにあっただろうか。とりあえず、駅北端の北改札口を出て階段を下りる。左へ行くと支店だったのは覚えている。
 頭上は御堂筋線と高速道路である。地上の道路をまたぐ歩道橋を渡ったところに「パシフィックマークス江坂」というビルがある。旧称江坂東洋ビルだそうだから旧三和銀系のビルということになるが、三和銀はここにはなく、代わりに1階に池田銀の江坂支店が入っている。このビルには入らず、横の階段を降りて駅前の交差点から左に入ったところがりそなだった気がする。果たして、東洋ビル向かいの雑居ビル1階に江坂支店があった。ビルの横幅いっぱい支店のスペースとして使っていて、正面から見ると大規模な支店に見える。
 さっき行った千里中央もそうだったが、今日はなんだか暇そうであった。お昼だからだろうか。でも25日の金曜日とあれば、昼休みには混雑しそうな気がするのだが。キャッシュコーナーはうなぎの寝床形で広いとは感じなかったが、ATM10台と両替機1台、記帳機が1台ある。ATMの構成はJXの白が3台、AK-1が2台、JXの白が5台であった。12:56、江坂支店を制覇した。
 江坂支店は、大和銀行江坂支店として1979年7月に開設された。

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 【注1】当ブログ連載「りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿」の「2007.11.28(水)(1)よっこらしょ的に千里中央」を参照。http://megu-shiteguri.seesaa.net/article/106494464.html
 【注2】りそな銀行千里中央支店は、今年(2009年)7月6日に本来の位置に復帰する。

2009年05月18日

2008.01.25(金)(16)岸辺出張所最後の日

 そろそろ時間がなくなってきた。江坂から今度は新大阪に出て、JR東海道線の各駅停車で岸辺に直行する。岸辺までの途中には吹田支店もあるが、今日の主目的と残り時間とを鑑みると寄っている時間はないだろう。
 さっき来た階段「入口5号」をもう1回上って江坂駅に戻ると、改札前には「大阪モノレール、停電事故のため全線で運休」という掲示が出ていた。13:07発のなかもず行きに乗ると、新大阪には4分で到着した。地下鉄の改札を出て、土産物屋ばかりが並んだ長い長い通路を歩く。新大阪駅は、地下鉄からJRに来るまでの間に店舗が多数並んでいるが、駅の周辺はそんなに賑わっている感じはしない。他のターミナルと違い、列車が行ってしまうとホームがシーンと静まり返ってしまう駅である。14番線から13:22発の各駅停車高槻行きに乗る。江坂で止んでいた雪は、東淀川あたりで再びちらつき始めていた。
 7分の乗車で岸辺に到着。西側には広大な国鉄吹田操車場の跡地が広がっているのが見える。島式ホームが2本あるが、通過線側がホームとして使われていないから、実質的には対向式ホーム1組だけの駅である。ホームから駅舎への地下道は、4mぐらいある階段の幅に対して3mあるかないか程度と狭かった。鉄筋コンクリート2階建ての岸辺駅舎を出ると、隣がコンビニの「ハートイン」。さらにその右隣に、コンビニと同じような平屋建てのりそなの出張所がある。
 出張所に来た1時半の時点で、店頭パラペット部分にある「りそなパーソナルステーション」の行灯看板は、剥離作業の真っ最中であった。写真は(剥がしているところではなく)もう少ししっかりしたものが撮りたかったが、途中で立ち往生した大阪モノレールのせいなのか、そもそも剥がし始めるのが早過ぎたのか。なお、岸辺出張所の建物は統合後取り壊してしまうのかと思ったら、ATMはそのまま残るそうである。できて3年半しか経っていないのに、もう窓口を閉めてしまうと思うと悲しいものだ。駅の背後にある国鉄操車場跡地の再開発が本格的に進まないと、都市銀行が商売するのは無理なのだろう。
 出張所に入ると、案内係兼務の守衛さんから「窓口ですか」と尋ねられた。窓口を使ったらイカンのかいと少し思ったけれども、まあ守衛に愛想を求めるのは無理だろう。新しい店であるので、2台あるATMは最新型であるAK-1で統一されていた。機械は新しいが、キャッシュカードの忘れ物などを投入する「連絡箱」という郵便受けのような箱は、大和銀行時代の古いものに「りそな銀行」のシールを貼って使っていた。窓口室のカウンターは自動ドアを入ってすぐ右手に2つ、そして直角に左に曲がったところにもう1つあった。自動ドア横に伝票の記入台があったが、伝票は記入したものを既に持っていたので、そのまま手前の窓口に近づく。
 早速行員さんが現れてスピーディに処理してくれた。先月統合された新高円寺出張所(東京都杉並区)の最終営業日のようなピリピリした雰囲気はなく【注】、店を出ていく客に「またお越し下さいませ」と言ったりしている。またお越し下さいといっても、来週からここではATMしか稼働しないのであるが。それはともかく、自分の処理が終わった時に、女性の行員に「閉店するのは残念です」と言ったのは、「ヘ?」といった感じで通じていないようだった。ピリピリしていない代わりに、閉店すると言っても何の感慨もない様子であった。
 吹田支店岸辺出張所は2004年5月12日の開設で、りそな銀行になってからの新設店舗である。母店の吹田支店は、東京の中野支店とともに、地域の中核店舗として衛星的に有人出張所を張り巡らせる実験店舗となった。岸辺出張所の開設はこのためで、岸辺開設と前後して吹田市近隣の上新庄・千里丘の2支店が出張所に降格(母店は言うまでもなく吹田支店)されている。その後、上新庄と千里丘の出張所2店は2006〜2007年に再び支店に昇格し、岸辺のみが出張所として残っていた。
 なお、大和銀の前身である野村銀行は、戦時中の一時期この地区に「岸部支店」を置いていた。1942年に同行が買収した摂津銀行の同名の支店を引き継いだものだが、1944年に廃止されている。店名の表記は異なるが、駅の名前が「辺」、この付近の地名は「部」が正しいので、ほぼ同じ場所の店である。摂津銀行については茨木支店の項で述べる。

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 【注】当ブログ2007年10月20日掲載「2007.10.19(金)新高円寺の最終日+南阿佐谷再訪」を参照。

2009年05月19日

2008.01.25(金)(17)岸辺駅から正雀駅へ

 岸辺出張所の次は、やはり本日をもって統合となる茨木支店南茨木出張所の最終営業日制覇に向かう。出張所の最寄り駅となる南茨木は阪急京都線の駅で、岸辺からは東に数百m歩けば同線の正雀(しょうじゃく)駅にたどり着く。正雀からは各駅停車で次の駅である。
 駅前通りを真東に歩いていく。岸辺駅前は、店舗がさほどあるわけでもないのに人通りが案外多い。大阪のベッドタウンとして住宅が密集し、マンションも多くみられるが、商店街ではなくて古い時代からの「お店やさん」が多少あったりするので、再開発がそろそろ必要になってくる地域であろう。併せて駅裏の操車場跡地も開発されてくるハズだったのだろうが、結局出張所の統合までには開発されないまま終わってしまうわけである。駅前通りには滋賀県地盤のスーパー・平和堂の食品スーパー店舗「フレンドマート」が面している。前回ここに来たのは出張所の開設直後だったが、ここにスーパーがあった記憶はない。調べてみるとやはり2005年11月の開店だそうだ。
 駅前通りはフレンドマートの先で右にカーブしていくが、私は直進(東)方向に進む。この方向にある私道が正雀駅への一番の近道である。私道には「学生通行禁止」という表示があった。近所に私立大学のキャンパスがあって、学生が通ることを迷惑視しているらしい。無名の大学だと、学生は通るだけで迷惑がられてしまうのである。私にも似たような経験がある。私は名前だけは有名な某マンモス大学の卒業生で、そこに通う前に首都圏の別の無名私立大学に籍を置いていた。最寄駅から歩いて30分近くかかるその大学は、駅前からスクールバスを走らせていたが、大学近くにある住宅団地の真ん中をバスが通り抜けるのが迷惑だという話になった。キャンパス内まで乗り入れていたバスは、団地を通れなくなったことからコースが変わり、学生は校門から遠く離れたキャンパス外で降ろされるようになったのだ。私がこの大学に見切りをつけて再受験をした理由の一つがこれで、有名大学なら学生がこうした屈辱を味わうことはなかろうと思ったからである。
 私道はほどなく阪急の線路にぶち当たり、ここから線路沿いに北へ向かう。左に曲がってすぐのところに「動物霊園」という建物が建っている。動物病院ではなく動物霊園。アパート式の骨壷安置室でもあるのだろうか。お亡くなりになったお犬様(お猫様か)をこうしたところに葬るのは、ペットに並々ならぬ愛情を注いだ人たちなのだろうが、人間に愛情を注がず(注げず)お犬様になみなみと、というのは索漠としたものを感じる。もちろん、動物の霊園を批判しているのではなくて、一人ひとりの人間の孤独感が深いということが言いたいだけだ。
 5分強の歩行でもう正雀駅に着いてしまった。岸辺と正雀との間は、以前来た時にかなり歩かされた記憶があったのだが、なぜか今回は非常に近いと思った。正雀は岸辺と同様に再開発が必要な地域ではないかと思うけれども、都市化された地域なので、駅近くにある民家はそれなりに新しいようである。大学が近くにあるだけに学生が時たま歩いている。あとは、正雀には阪急電鉄の車両工場と車庫があるので、回送電車がたむろしているとか、線路の数がやたらに多いとか、そういう特徴はある。商店街などは岸辺寄りにはないが、線路を渡った反対側にはあって、近畿大阪銀行が正雀支店を出している(旧近畿銀)。駅前に大規模な駐輪場があるが、それ以外には町並みに特に目立つものはない。
 エスカレーターを上って橋上駅舎に入る。エレベーター設置など改良工事中の正雀駅は、トイレが仮設のプラスチック製になったり等ややこしくなっている。京都行きのホームに降りてくると、制服を着てカバンを持った中学生が10人くらいいた。入試でもあったのだろうか。いや、全員が大判の封筒を持っているから推薦入試の合格発表かもしれない。

2009年05月20日

2008.01.25(金)(18)南茨木出張所最後の日

 13:56発、高槻市行き普通に乗る。隣の駅ゆえ、南茨木にはすぐ着いた。
 南茨木は対向式ホーム1面だけの駅である。改札は3階にあって、出ると目の前が阪急のコンビニ「アズナス」。その右横に券売機があり、阪急系といってよい池田銀行が運営する「パッとサッと」のATMと、阪急系だった【注】消費者金融会社「スタッフィ」、それにシアトルズベストコーヒーがある。そういうものを横目で見ながら階段を下りていく。この駅のエスカレーターは駅ビルの店舗内にしかなく、構造に少々無理があると感じる。関西の私鉄は競争が激しいがゆえにサービスが進んでいる、というのが定評だったハズだが、最近では関東より遅れていると感じることがある。しっかりしてもらいたい。
 駅前に出るとロータリーになっているが、ここから発着する路線バスはなく、タクシー乗り場があるだけだ。目の前にあるビルには尼崎信金と関西アーバン銀行が南茨木支店を仲良く出している(アーバンは旧関西銀)。アーバンの南茨木支店は特にゴージャス路線には走っていない。りそなに向かおうと道を渡ろうとしたら、爺さんの運転する軽のワンボックスが怖い顔をして止まってくれた。
 りそなの出張所は、第二地銀と信金の入ったビルの先にある。まず写真撮影から済ませる。「りそな銀行」だけでなく「パーソナルステーション」の看板もあるのは岸辺と同様だが、さっきと違って剥離の作業は始まっていなかった(あと数時間遅かったら剥がし始めていたかもしれないが)。
 店に入る。店番が母店と同じ出張所であるからATMは使わないが、ATMはAK-1が2台とJX青が1台、合計3台配備されていた。私がカバンから伝票を取り出して記入台の前でごちゃごちゃやっているのを、守衛が黙って見ている。ここの守衛はさっきの岸辺とは違い、自ら案内係を買って出るタイプではないようだった。守衛とは別にスポーツ刈りの丸顔のおじさんがロビー係をしていて、この人がプラスチックの番号札を渡してくれた。番号札の機械がないのである。順番待ちをしていると、中年女性(おそらく店の掃除をしている女性だと思う)がロビー係のおじさんと「さみしいなあ」などと話をしている。おじさんは窓口の景品をおばちゃんにプレゼントし、もらったおばちゃんは「どうもすんませんでした、体に気をつけてお元気で」と挨拶していた。温かい人間関係が展開されていたようだ。
 但し、この店が「不採算」だっただろうことは容易に想像できた。というのは、この店は掃除こそ行き届いていたものの、床が非常に汚れていたのである。リノリウムの床は、日常の清掃だけでは不十分で、掃除の業者が入って定期的に機械で磨き上げるのが普通のようだ。ここではそれが全くないのか、よく通るところが黒ずんでいる。南茨木には半年前にも1度来る機会があって、その時にもポリッシュメントの金が出ないのかと思っていた。だから、その数か月後に統合の告知が出た際、正直言うと別段驚かなかったのである。この店が感じの良い店だったのは間違いないのだが。
 取引が終わった後、窓口では女性の行員さんがポケットティッシュを1つ私に差し出し、最終営業日だけに「こちらは今日で窓口を閉めて…」という話をして、ATMは今後も残ること、窓口は茨木支店のほか、千里丘にも支店があること、などを説明してくれた。14:17、南茨木出張所の制覇を終えて店を出た。この出張所はあと43分で窓口営業を終了して閉店する。

 南茨木出張所は、りそな銀行にとっては発足後初の新規出店となった。同店は個人向け軽量化店舗「りそなパーソナルステーション」の第1号である。パーソナルステーションの試行は関西地区から始まり、2004年2月にまず大阪府下に2店舗(南茨木・和泉中央)、次いで3〜4月に東京で3店舗(新高円寺・南阿佐谷・自由が丘)、そして5月に大阪府下に1店舗(岸辺)が開設されている。南茨木が「第1号」というのは、2004年2月に開設された2店は、南茨木が2月23日開設、和泉中央が同24日の開設と、開設日が1日ずれているためである。
 旧大和銀行は、かつて南茨木に有人出張所を出していた。PSはその復活であったと言える。1983年12月に開設された(旧)茨木支店南茨木出張所は、現店舗が面する交差点の対角線側(茨木市沢良宜西1-2-15)にあるマンションの1階にあったが、1995年10月に統合された。PS開設まで、旧所在地には店舗外ATMが置かれていた。
 南茨木は駅の開設が1970年と比較的新しく、開発はその頃が最も激しかったようだが、最近の動きはやや鈍いようだ。正雀から来た時、駅に入る手前に由緒正しい感じのするお寺が見えたが、寺があるということは基本的にこの界隈は農村地帯だったのだろう。なお、2010年春、正雀−南茨木間に「摂津市」駅が開業する予定である。

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 【注】2009年2月、阪急電鉄は「スタッフィ」を運営する潟Xテーションファイナンスを売却し、消費者金融事業から撤退すると発表した。

2009年05月21日

2008.01.25(金)(19)島本、大阪府の極限

 南茨木を取ったので、今回の主目的は一応終了ということになるが、まだ明るいのであと数軒は制覇の上積みができるだろう。
 モノレールは再び動き出したようだが、今日はもう遠慮しておこう。乗ってまたもや停電されたらかなわない。というわけで、引き続き阪急京都線沿線の制覇を続けることにした。京都線で大阪府の極限となる水無瀬(みなせ:大阪府三島郡島本町)駅まで行こう。りそなはここに島本支店を置いている。水無瀬から始めて大阪市方向へ進むことにする。
 南茨木から、14:29発の普通高槻市行きに乗車。次の茨木市駅で準急待ち合わせがあり、14:35発の準急河原町行きに乗り換えた。準急は茨木市の次の停車駅・高槻市で後から来る特急を先に通し、高槻市から先は各駅停車となって京都に向かっていく。水無瀬は高槻市の2駅先である。
 隣りの高架線を、白い新幹線電車がものすごいスピードで通過していった。阪急京都線は高槻市から京都寄りで東海道新幹線と並走している。新幹線の建設工事がたけなわの頃には、工事上の理由から阪急の電車が新幹線の線路を一足先に走っていたこともあるという。
 府境に向かう地区ゆえ、車窓の景色はだいぶ寂しくなり、窓の外には水田が目立ってきた。広告看板が線路に向けてたくさん立っているのは、人口の多い京阪間ゆえだろう。上牧から水無瀬までは宅地化が若干進み、水無瀬駅近くには一戸建ての住宅はあまり多くなさそうだがマンションが目立つ。3月(2008年)のダイヤ改正で、近所にJRの新駅(島本駅)ができるが、この時点ではまだ開業していない。
 水無瀬には14:48に着いた。対向式ホームが1組だけの小規模な高架の駅である。改札が京都方向にかなり寄ったところにあって、後ろの車両に乗っていた私は失敗した。改札が片寄っているというあたり、多少開けてはいても各駅停車しか停まらない小駅である。
 改札を出て左側(北口)へ。こちら側が島本町の古い市街地である。電車の窓からはマンションが多数建っているように見えたが、駅前に出てみると、昔ながらの商店建築やタクシー営業所などがあってひなびた雰囲気である。京都銀行が駅前に支店を出していて、古びた建物は昭和30年代を思わせる。京銀の支店名が「山崎支店」になっている理由はナゾである。ここは大阪府島本町であるのだが、京銀は隣接する京都府山崎町に支店を置かず、地理的には京都府内と同じ扱いとして島本の方に支店を出している【注】。なお、島本町は大阪府下でありながら電話の市外局番が「075」で、これは京都市と同じである。
 りそな銀行島本支店は、この西口ではなく、東口にある。商店街が高架下に長く続いていて、出たところにハンバーガーのドムドムが見える。駅前に建つマンション風の大きな建物は、公団の水無瀬駅前団地。その隣の駅前ロータリーに面したところに、りそな銀行の建物が建っている。
 店に入ると、ロビー係の女性2人は、申し合わせたように黄緑色のカーディガンを着ていた。申し合わせた「ように」というか、申し合わせて着ているのだろう。りそな銀行は女子行員の制服を廃止したまま今に至っているが、制服がないというのは銀行としてはやはり違和感を感じるし、行員さんにとっても不便ではないだろうか。埼玉りそな銀行ではロビー係に限り揃いのスーツを着ているが、あれは多分独自で制服を作ったのだろう。今は営業店では正社員でない人が多数働いているわけだし、従業員に仕事のオンとオフの区別がつきにくくなる側面もある。せめて服装ぐらい揃えた方がいいのではないだろうか。実際、地方銀行では常陽銀行(茨城県)など女子行員の制服を復活する動きが相次いでいる。
 ATMはキャッシュコーナーに6台あって、構成はJX青が1台、AK-1が2台、JX白が3台である。それとは別に記帳機がロビーに1台あった。15:00ジャスト、島本支店を制覇した。
 島本支店は、大和銀行島本支店として1985年6月に開設された。

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 【注】京都銀行山崎支店:店番号は枚方や高槻など「大阪府の京都府寄り」のグループに入っている。「地理的に」としたゆえんである。

2009年05月22日

2008.01.25(金)(20)高槻富田支店を制覇

 支店がここまで「ド駅前」にあると、町の中を歩くということがなく、本当に銀行に行って帰ってきて終わりである。店舗外ATMでの取引でも通帳に独自の店名が記帳されたあさひ銀行の時代が懐かしくなるが、せめて他の土地までバスで移動できれば、車窓からその土地の風景を見ることができる。
 そう思ったのだが、水無瀬駅前から出るバスは、特にどこへも行けないようである。「どこへも行けないバス」というのも妙だが、駅の周辺だけで路線が完結しているか、他の土地まで出られるかの違いである。というわけで、次の目標は必然的に高槻市になる。島本から一番近いのは高槻支店と高槻支店ジャスコ高槻出張所の2店であるが、これらは2007年6月に統合された茨木支店市場出張所の最終営業日を取りに来たときに制覇してしまったので、その先にある高槻富田(たかつきとんだ)支店に行くことにした。阪急では、水無瀬から3つ目の富田駅が近い。
 15:14発の準急梅田行きに乗車。準急は高槻市まで各駅に停車する。これで高槻市まで行って本物の各駅停車に乗り換えであるが、ひどい。高槻市では各駅停車が先に待っていると信じて疑わなかったのに、乗るべき各駅停車は次々発なのだそうだ。乗ってきた準急が15:19に着いて、22分発の特急をはさんで25分発。ということは6分も待たされる。高槻市は各駅停車の始発列車が設定されている駅なのだから、それを準急に接続させてくれよと思う。ついでに八つ当たりしておくと、後から来た梅田行きの特急も、特急専用の2ドア車ではなく一般型の3ドア車両を使うようになってしまって、往年のステータスはすっかり喪失してしまったと思った。停車駅の面でも、かつては大宮−十三間でノンストップだったのに、今や淡路や桂にまで停車しているから、昔の急行と同じだ。

 水無瀬からの3駅に15分もかけて、ようやく富田に到着した。富田駅に着く直前、右側の車窓から「りそな銀行高槻富田支店」というステッカーを壁に貼り付けた建物が見えた。あそこに行くわけである。
 地下の自動改札を抜けて左へ。JR東海道線の摂津富田駅方面に向かう北出口へ行く。改札上部の案内表示は20年以上ずっと使っているらしく、「JR」の文字の下には「国鉄」という字を剥がした跡があった。JRの駅までは徒歩3分だそうで、そんなに近いんだっけと一瞬思ったが、駅内に貼ってある地図を見ると確かに近そうである。
 階段を上がって地上に出ると、左側には一杯飲み屋のような建物がある。阪急富田駅は目抜き通りから少し入ったところにあって、アプローチは車の通れない細い道である。右側には駅の対向式ホームにつけられた高い壁がダーッと続いていて、ホームに沿って自転車置き場もある。道幅だけでなく歩行者の通行量からしても、この道を車で走るのは無理だろう。
 ようやく目抜き通りまで歩いてくると、戦前期の建築らしき棟割長屋が建っていた。踏切の向こうには摂津水都信金の富田支店(旧摂津信金)が見える。反対側を見ると、JRの駅と思われるものがある。ここはJRと阪急の2つの駅がほどほどに近く、駅の間がうまい具合に商店街になって賑わっている(一応賑わっているうちに入ると思う)。商店街を歩いていくと「ケアーズドラッグ」という関東では見かけない薬屋のチェーンがあった。みなと銀行の支店跡(富田支店:旧阪神銀)だったハズだ。
 石の立て札というか、門のない門柱のようなものがあった。ここは常見寺というお寺の入口らしい。石柱のある角は弁当屋、反対側の角は(みなと銀跡とは別に)薬屋である。こちらは陳列棚がほとんど空っぽになっている。「50%引き」という価格設定からすると、店を畳んでしまうのだろうか。この石柱のある角で右に曲がったところで、りそな銀行と近畿大阪銀行の看板が並んで目に入った。ここには、りそな銀の高槻富田支店(旧協和銀)と、近畿大阪銀の富田支店(旧近畿銀)とが並んでいる。名前が違うのは、りそなは都銀であるから「高槻」とつけておかないと他所の地で認知できないのだろう。今朝行った服部も同様である。それにしても、商店街はそれなりに賑わっているようだが、旧協和銀行の支店は、やっぱり、少し入り込んだところにあるのだ。
 協和銀行高槻富田支店として1978年3月に開設されたこの店には、協和店舗に独特なつくりが色々とみられる。さっき箕面で取り払われていた風除けの壁は、高槻富田では健在であった。また、窓口閉店時には窓口営業中のみ使う伝票記入台などをそのまま残した状態でざっくりと2方向からキャッシュコーナー部分のシャッターが閉まる。この「シャッターが2方向」というのは、旧協和の店に独特の、無駄と言えなくもない造りである。店の構造以外に特筆すべきは、この支店には「高槻住宅ローンセンター」がある。これは「高槻富田」住宅ローンセンターではなく、りそな銀行全体としての「高槻」住宅ローンセンターである。高槻市の中心部(阪急高槻市駅高架下)にある高槻支店ではなくて、周辺部の支店にあるというのは少し興味深い。
 ATMは、機械4台分の枠に3台しかない。となりの近畿大阪には4台あったから、ATMの台数では負けている。配置は両替機と富士通ファクトAが2台、FV20が1台であった。15:41、高槻富田支店を制覇した。

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2009年05月23日

2008.01.25(金)(21)府知事選たけなわ

 制覇を終えて、支店から商店街へ戻ってきた。次の目標は、行政区域でいうと高槻市を出て茨木市に入り、阪急茨木市駅近くにある茨木支店である。
 富田の目抜き通りに戻ってくると、そこは黒山の人だかりであった。というより、商店街全体が人・人・人で埋まっている。りそなの支店に行って帰ってくる間に、何があったのだろうか。
 人波に混じってテレビカメラが何台か入っていることで、私は事情を察した。あさって27日に投票が行われる大阪府知事選挙がらみで、誰か候補者が街頭演説にでも来ているのだろう。そして、この人数から判断すると、来ていたのは最も有名な橋下徹氏【注】としか考えられない。私はほとんど脊髄反射的に人だかりに向かって走り始めていた。格好よく言うと(就職先としては挫折したが)ジャーナリストの血が騒いだのであり、普通に言うと野次馬根性を露呈させたのである。
 やはり、橋下氏本人が来ているようであった。ウグイス嬢がマイクで絶叫している。「ご協力ありがとうございます。はしもと、橋下徹が、歩いて歩いて皆様方のもと、必死のお願いでございます。どうか27日の投票日には…」。別の女性が「頑張って下さい!」と叫ぶのが聞こえた。人だかりで交通が遮断されているようで、車のクラクションが鳴った。多数の人間に囲まれて、タスキをかけた背広姿の男が、道にいる人に向かって、そしてビルの2階3階から見ている人に向かって、道の真ん中で両手を振ってアピールしている。そうか、これが橋下君なのか。1969年生まれだというから私より1学年下だ(彼が早稲田大学の「先輩」であるのは忘れたことにしておく)。
 なるほどと思いながら見ていると、この場にいる人たちはみな、携帯電話を取り出して内蔵カメラで橋下氏の写真を撮っている。知事選の候補者というより芸能人のようである(もっとも橋下氏は芸能活動をしていたわけだが)。私も、橋下候補の写真を何枚か撮ってしまった。高校生などが黄色い声を上げて握手している様子を遠巻きに撮ろうとしただけだったのだが、俺ってこんなにミーハーだったっけと思った。とはいえ、当初意図したようなシャッターチャンスには恵まれず、候補者本人を撮っただけで終わってしまった。私のデジカメは2000年に買った古いもので、シャッタースピードが遅いこともあって意外にシャッターチャンスが来ない。いっそデジカメを動画モードにしておいて、動画をキャプチャした方がよかったかもしれない。
 そうこうしているうちに、候補者は回りの人たちと握手を始めたようだ。その場の雰囲気につられて、私は橋下氏と握手をしてしまった。もし、この25日夕刻に東京で殺人事件でもあって、私が疑われたとしたら、大阪府知事選候補者の一番有名な人がアリバイの証人になってくれるということである。もし本当にそうなったら、ワイドショーの格好の餌食である。まあないだろうけれど。
 「握手をしての感想」は、残念ながら特にない。なにしろ彼は、周辺にいた数人と素早く握手を始め、あれよあれよという間に次へ行ってしまったからだ。感想など持つ余裕はなかったのである。

 怒涛のごとき人出は、支店の角からJR摂津富田駅までの間であった。JRの駅前まで出てくると、[摂津富田駅前]というりそなの店舗外ATMがあって、中にはオムロンIXが2台あるが、客は1人だけしかいなかった。母店は最寄りの高槻富田支店ではなく、大和店舗の高槻支店であった。その隣は三菱東京UFJ銀の店舗外ATM(高槻支店・摂津富田駅前、旧三和銀)で、こちらは機械が3台配備で長蛇の列ができていた。
 ついついJRの駅に来てしまったが、茨木支店に行く私は、JRではなく阪急に乗らなければいけないのである。阪急富田駅へ戻る。途中の道では、相変わらず人だかりが交通の妨げになっていて、後援会の人たちが必死で交通整理をしていた。というか「申し訳ございません」と謝っていた。橋下氏は阪急の踏切を渡って摂津水都信金の方を歩いていた。阪急の地下駅からちょうど上がってきた数人の女子中学生が「キャー橋下徹だー」と走って見に行こうとしていた。

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 【注】橋下 徹(はしもと・とおる):第52代大阪府知事。1969.06.29生、東京都出身、大阪府立北野高を経て1994.03早大政経卒、同年司法試験合格、1997.04大阪弁護士会に弁護士登録。弁護士活動中にタレント活動を始め、2007.12府知事選出馬を表明、2008.01.27当選、2008.02.06就任。

2009年05月24日

2008.01.25(金)(22)「駅前」に惑わされた茨木支店

 いい天気だが、空には雪が舞っている。今日見た中でいちばん激しく雪が降っているが、どうなってしまうのだろうか。富田から乗った電車は、あとで調べたところでは15:58発の普通天下茶屋行きであった。
 茨木市は、島式ホームが2本ついた高架駅である。階下の改札を出た。茨木市駅の東側にはみずほ銀行(旧富士銀)、その向こうに関西アーバン銀行(旧関西銀)と住友信託銀行の茨木支店があるけれども、それ以外にはあまり特徴のある店もなく、駅から見た限りにおいてはさほど賑わっている印象はない。りそなの茨木支店は高架下にあっただろうか。いや、阪急の高架下にあるのは高槻支店の方である。とにかく、目指す支店がどこにあったかは記憶がなかった。
 駅の西側に出た。バスロータリーがあって、ここには京阪・近鉄・阪急バスが乗り入れてきている。駅ビル内に三菱東京UFJ銀行の茨木駅前支店(旧三菱銀)がある。「茨木駅前」支店というのは名称として明らかに間違いで、ここにあるのなら「茨木市駅前」支店としないといけない。「茨木」はJRの駅名である。茨木は阪急とJRとの間がかなり離れていて、両者間は徒歩で移動するのは少々きつい。りそな銀が、阪急茨木市駅前にある(ハズの)茨木支店とは別に、JR茨木駅前に茨木西支店を持っているほどだ。
 それはいいのだが、目指すりそなはいっこうに見つからなかった。りそなの店舗一覧を見たが、場所は「阪急京都線茨木市駅前」としか書かれていない。蛇足ながら、りそなの店舗一覧には、旧大和店舗に関する記述の一部に、客を店に来させたくないのかと思うほど不親切なものがある。りそなが発足したばかりの頃、四条畷支店(四条畷市)を制覇するのに、目印として書いてある「なんこうシャル」というのがわからず往生したことがあった。なお、旧あさひ店の記述はまだまともだと思う。
 それにしても、どこにあるのだろうか。住所(所在地)の「永代町」は駅の西側であり、したがって支店も駅の西側にあるハズだが、「茨木市駅前」という記述だけではいかんともしがたい。
 さんざん歩き回ったあげく、駅前再開発ビルの向こうにやっと見つけた。再開発ビルの北側を東西に走る府道139号(枚方茨木線)の北側で、三井住友銀行の茨木支店(旧住友銀)の2軒おいて東隣である。駅前ロータリーからビル1棟挟んだ向こう側というロケーションで、果たして「駅前」といえるのだろうか。地理にある程度詳しい、しかも1回来たことがある私が今回かなりの時間を要したというのは、店舗一覧の説明が親切とは言えなかったためではないかと思う。
 茨木支店の建物は、支店の規模にしては前面の幅が狭いと感じた。「茨木恒和ビル」とあって、旧大和銀系列の不動産会社が持っていたビルなのだろう。キャッシュコーナーは両替機+記帳機+ATM8台という機械配置で、ATMはAK-1とJX白が7台という構成であった。一番左のJX白がIC対応なので、IC対応の機械はAK-1と合わせて2台となる。記帳機はキャッシュコーナー後ろに(上記とは別に)もう1台あった。16:15、茨木支店を制覇した。
 茨木支店は、野村銀行茨木支店として1942年7月1日に開設されたことになっている。もともとはこの日野村銀に吸収合併された摂津銀行の本店であった。摂津銀行は、大阪府三島郡茨木町(現茨木市)に本店を置く茨木銀行【注1】と、同郡高槻町(現高槻市)本店の高槻銀行【注2】が1932年3月に新立合併して誕生した銀行。旧茨木銀本店を本店とし、三島郡内に旧銀行から引き継いだ4支店(高槻・大岩・岸部・富田)を構えていた。また、旧高槻銀行から継承して高槻町の金庫事務(現指定金融機関)も担っていた。

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 【注1】茨木銀行:1893(明治26)年6月30日設立。本店大阪府三島郡茨木町(現茨木市)。大岩(同郡石河村:現茨木市)と岸部(同郡岸部村:現吹田市)の2支店があった。1932.03.31高槻銀行と合同して摂津銀行を新立。
 【注2】高槻銀行:1895(明治28)年2月4日高槻貯蓄銀行として設立、1921(大正10)年6月普通銀行に転換し高槻銀行に改称。三島郡高槻町(現高槻市)の本店のほか、富田支店(同郡富田町:現高槻市)があった。1932.03.31茨木銀行と合同して摂津銀行を新立、本店は新銀行の高槻支店となり、野村銀行への買収などを経て現りそな銀行高槻支店。

2009年05月25日

2008.01.25(金)(23)上新庄、ついに大阪市へ

 次の目的地は、上新庄支店(大阪市東淀川区)。上新庄駅は茨木市から各駅停車で4つ目で、私のめぐはここから大阪市に入る。
 茨木市駅の高架下、店舗が並んだ通路を抜けて、さっき出てきた改札の前までやってきた。途中ではテナントが求人広告の看板を出していたが、募集時給は夕方から夜にかけての時間帯で750円となっていた。大阪府の最低賃金がいくらなのかは知らないが【注】、恐ろしく安いと感じた。相当に低く抑えられているのは間違いないが、それとも大阪は物価がそんなに安いのだろうか。
 ホームに上がると、今から乗れる梅田方面は16:26発の特急か16:28発の準急で、28分の準急梅田行きに乗ることにした。電車に乗る前に、あらかじめホームの最前部に移動しておく。上新庄駅は特殊な構造をしていて、梅田に寄ったところで電車を降りないと相当にハマってしまうからである。このことは事前に分かっている。
 上新庄は準急だと茨木市から2つ目である。一番前の車両に乗ると、側面からだけでなく前面窓からも光が射してきていた。太陽はかなり西に傾き、前面窓から見る太陽はほぼ目の高さにある。運転手はさぞかし眩しかろう。雪は既に止んでいた。

 相川を渡るあたりで電車がかなり徐行しており、つられてついウトウトしてしまった。電車はいつの間にか上新庄に着いていた。
 電車を降りて南改札へ。そこに向けては、ホームのいちばん梅田寄りから相当長い連絡通路が延びている。連絡通路というか、ホーム自体がかなり長くなっていて、梅田寄りのところが柵で数十m塞がれているのである。ホームの一番端で降りてからかなり長い通路が続く。これが上新庄駅の一番の特徴であり、だから降りる場所によっては本当にドツボにはまるのだ。また、阪急京都線は上新庄付近の高架線が相当高いところまで持ち上げてあるようで、連絡通路が終わったところで降りることになるエスカレーターはかなり長めである。その下にさらに階段があるから、改札を出るまでが一苦労である。
 ようやく改札を出た。左に曲がったところに、関西アーバン銀(旧関西銀)と池田銀の上新庄支店。アーバンと池田に挟まれた狭い通路から駅の東側へ出ると、もう目の前にりそなの看板が見えている。一旦改札を出てしまえば、そこから先は近い。
 さっそく写真を撮ろうとしたが、キャッシュコーナー前では日本通運の職員が数人張り番をしている。張り番というよりも店の現金(?)輸送に来ているだけだが、いずれにしても今ここで店の写真など撮ったら、痛くもない腹を探られるだけだ。別の言い方をすると、現金輸送という緊張感の強い仕事をしている人たちに余計なプレッシャーを与えては気の毒だろう。
 というわけで、先にキャッシュコーナーに入って制覇作業を済ませる。上新庄支店の制覇は16:40のことであった。機械配置は、シャッターの向こうにオムロンJX白と両替機が1台ずつあって、シャッターのこちら側には左からJX白が6台とAK-1が2台。それとは別にロビーに記帳機があった。
 制覇作業をしている間に日通の人が去ったので、ようやく支店建物の写真を撮る。支店周辺の風景は、猥雑さを多少抜いた十三のような感じだろうと想像がつくものの、駅から支店が近すぎてイマジネーションの働く余地がない。加えて、旧大和の店舗は建物がどこもよく似ているので、余計にそうである。
 上新庄支店は、1986年6月に大和銀行上新庄支店として開設された。りそな発足後の2004年4月に吹田支店を母店とする有人出張所に変更されたが、2006年7月再び支店に昇格して現在に至っている。

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 【注】この時点での大阪府の最低賃金は、時間額731円である(2007.10.20施行)。

2009年05月26日

2008.01.25(金)(24)南方の北方、新大阪駅前

 さらに制覇は続く。次の目標は、上新庄から梅田寄りに3つ目の南方(みなみがた、大阪市淀川区)。この駅は新大阪駅前支店に阪急からアプローチする際の最寄り駅である。
 上新庄16:48発の準急梅田行きに乗車、南方に降り立ったのは5時少し前のことであった。この駅は複線の両側に対向式ホームが1組張り付いていて、駅そのものの構造は単純である。それぞれのホームの一番梅田寄りに方面別の改札が設置されているが、改札内で相互のホームを行き来することはできない。駅の梅田寄りを新御堂筋の高架が南北にまたいでいて、その下に側道の踏切がある。
 案内看板には、地下鉄の駅が「左」と書いてあるのだが、ここは一体どういう作りになっているのだろう。新御堂筋の下ということだろうか。そう思って線路の南側にある「西中島南方駅前」という交差点まで来ると、謎が解けた。「地下鉄」の駅というから惑わされるが、ここは淀川の北側なので地下鉄御堂筋線は高架に上っている。当然ながら駅も高架駅なのであった。
 新御堂筋の側道についた踏切を越えて北に向かう。民間企業(日清食品)のビル内に淀川社会保険事務所があったりするところに、ごった煮的な大阪のダイナミズムを感じる。淀川を越えているとはいえ大阪の都心部なので、視界に入る建物はビルばかりであった。
 りそな銀行の看板が新御堂筋沿いの前方左側に見えた。看板があるところの入口から入ると、そこは新大阪駅前支店の裏口であった。長い廊下が通じていて、廊下にはりそなのポスターがベタベタと数十枚貼ってある。「数十枚」はおおげさだが、でも20枚くらいは張ってある。新御堂筋からドアを2枚くぐり、さらに自動ドアを開けたところが、やっとキャッシュコーナーであった。入ったところにATMが8台(AK-1が2台+JX白が6台)と記帳機が2台あった。ここは大和銀行時代のシルバーとブルーのATM表示がまだ残っている。初めてこの支店に来た時、ATMが意味もなく多数あると思ったが、1台1台の幅を相当にゆったりと取ってあって広いから、台数が多いように感じたのだろう。17:10、新大阪駅前支店を制覇した。
 写真を撮ろうとして支店前の交差点に出ると、私はあっけにとられた。建っている建物は、平屋にしか見えなかったのである。ビル街にこの建物だけが平屋建て(実は2階建てか)で、おまけに旧大和の店舗ゆえタイル張りのノッペリとした外観をしているから、かなり特徴的である。支店の敷地は複数テナントの入った高層ビルも十分建てられそうなほど広かった。なお、同じ交差点には十三信金の新大阪駅前支店がある。
 新大阪駅前支店は、大和銀行新大阪駅前支店として1964年3月開設された。現店舗は1984年4月の築であるという。りそなの支店は地下鉄西中島南方駅の北側改札が最寄りであって、地下鉄でいうと新大阪の「隣の駅」ということになる。実は、この支店は新大阪「駅前」と言っても嘘ではないロケーションである。というのは、支店の北側を走る東海道新幹線を基準にして考えると、この界隈は新幹線の新大阪駅を中心に広がった新興のオフィス街にあたるからだ。支店は西中島南方駅北端の出入口からさらに新大阪駅に寄ったところにあって、ここだともう新大阪「駅前」といってよい距離になるのだ。

 関西は関東と比べて日の入りの時間が遅く、しかも今日は既に冬至から1か月過ぎている。もう17時を回っているのだが、新大阪駅前に関しては写真が明らかに問題なく撮れているので、写真さえ何とかなるのなら阪急千里線沿線にある2軒の支店も併せて片付けてしまおう。
 と一瞬思ったのだが、やめた。今日は思い切ってちょっと早めに「めぐ」から上がることにする。

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<2008.01.25(金)おわり>

(2015.03.09_17:39追記)描写に誤りと思われる個所を発見したので訂正した。

2009年05月27日

2008.01.26(土)(1)新今宮の「ホテル」で

 寝坊してしまった。時計の針は早くも8時半である。この宿のチェックアウトは9時と早いので、そろそろ出ないとチャージを取られてしまう。
 1月26日の朝を、私はJR大阪環状線の南縁部・新今宮(大阪市西成区)にある安いビジネスホテルで迎えた。新今宮は、JR大阪環状線・関西線、南海電鉄南海本線・高野線、地下鉄御堂筋線・堺筋線(動物園前駅)、阪堺電軌(南霞町電停)と、多数の路線が集中しており、駅前には安い宿泊施設が林立している。これだけ多くの線が集中しているにも関わらず、同じ地域にある駅の名前は会社ごとにバラバラで、駅の周辺には繁華街も形成されていない。
 昨日は新大阪駅前支店を取った後、難波に移動。そこでフラフラと遊んだ後、1000円でも切り詰めようという意識が働き、難波から新今宮まで移動して宿泊したのであった。宿に1室を取った後、梅田のコインロッカーに荷物を預けていたのを思い出し、地下鉄で1往復した(スルKAN2dayを使っているから切符代はかからない)。
 荷物を抱えて梅田から戻ってくると、片側3車線の大幹線道路が交差する新今宮駅前の交差点は、まだ夜の10時だというのに人も車もぱったりと途絶えていた。夜中にウドン屋とコンビニが開いているぐらいで、商業施設の全くない地域であるせいかもしれないが、とにかく通る車もほとんどなく、たまに電車の音が聞こえるぐらいである。静かなよい町、と言いたいところであるが、警察沙汰はそれなりにあるようで、パトカーと思われるラウドスピーカーからの「止まりなさい」だか何だかいう声が就寝中におぼろげに聞こえていた。

 私が泊まった宿は、「ホテル」という名前になっているが、ビジネスホテルというより「簡易宿泊所」と呼ばれるものである。もともとは日雇い労働者を主な対象としていたが、近頃では海外から来るバックパッカーが宿泊料金の安さにひかれて多数利用しているようだ。似たような施設は東京では山谷(台東区)などにあるが、ここはそうしたものの中では設備のきれいな方、ということになる。
 泊まったのは、DVDプレーヤー付きで2000円という和室であった。DVDプレーヤーのない部屋は1800円で、別にDVDが見たいわけではなかったのだが、安い部屋はとっくに埋まってしまっていたのである。どんな部屋だろうと思ったが、まずドアは普通の公団住宅と同じような感じの鉄扉で、その内側にはドアノブと、楕円形をした鍵のノブ(90度回すとガチャッと鍵がかかる)が付いている。扉には宅配の牛乳瓶を入れてもらう穴と蓋があるから、本当に公団住宅用と同じものなのだろう。部屋に入ると、小さいテーブルとゴミ箱が1個、冷蔵庫が1台、畳の上に置いてある。それから、シェルフというのかステンレス製の網棚のようなものがあって、テレビとDVDプレーヤーがこの上に置かれている。布団が1組敷いてあった。寝具は敷き布団と掛け布団と枕。浴衣はないがこの料金設定からはまあ当然だろう。壁にはハンガーが2つかかっている。部屋の設備は以上である。
 DVDは持ち込んでもよいし、1000円の保証金を払えばフロントで借りられる(チェックアウト時に返金)。せっかくなので借りてみたが、定価3000円なにがしのビデオはやはり面白くなかった。なお、保証金ついでに言うと、この宿には宿泊代金の1.5倍の現金を持っていないと宿泊できない。このホテルは、宿代の2000円とは別に「鍵の保証金」1000円をチェックインのときに支払い、翌朝チェックアウトの際にフロントで返金してもらう仕組みになっているからだ。
 1部屋のスペースとしては、畳が3枚敷いてある。そこにプラスアルファ(ドア部分のたたきと板の間)が50cm幅ぐらいでついているから、50cm幅×畳の長辺、プラス3畳である。「3畳間」だが、部屋の隅にある畳は柱に当たる部分が30cm角ぐらい欠き取られている。アルミサッシの窓が付いているから室内は暗くはないし、壁には壁紙が貼ってあって特に違和感はない。入口ドア上部に通気孔があるから、たぶんここから暖房が出てくるのだろう。
 風呂は共同浴場が一応あるが、22時で終わりである。私は夕べ9時半に投宿したので入れなかったが、シャワー室は24時間開いているという。コインシャワーなどと同じで、石鹸など必要なものは自分で持っていくシステムである。なければフロントで売っている。
 というわけで、コストを抑えに抑えた宿泊施設である。これで1泊2000円。ここまで抑えられて2000円だと、逆にちょっと高い気もするが、それでも2000円というのは物理的金額として安い。いつも使っている難波のカプセルホテルが1泊3200円で、それで蜂の巣のような寝床に寝るわけだから、狭くても2000円で個室が1つあるというのは非常にいいことだろう。しかも、ここは「最高級」に近いホテルであって、近所を探せばもっと安いところも多々あるのだ。

 荷物をまとめて部屋を出た。エレベーターや廊下には、注意書きの貼り紙が多数してあった。エレベーターには「当ホテルは女性の方も多数宿泊しておられます。はだかやパンツ一枚でエレベーターに乗らないで下さい」とある。つまり、そういう宿泊客がいるわけである。ホテルの廊下は普通の道と同じだよ、という常識を持たない者が多いのだ。ここの主要顧客は、そうした常識を身につける余裕が過去になかった人たちなのであろう。
 貼り紙の中には、西成区役所による実態調査の告知もあった。こうしたホテルに住民票を置いて暮らしている人たちの実態調査である。「ホテル住まい」など大富豪か大作家だけかと思っていたが、実はこういうところにもあるのだ。「ネットカフェ難民」なる言葉が流行り、インターネットカフェに住民票を置く人々のことが昨年あたりからニュースワイドなどで報道されているが、ここでははるか昔からそうしたことが普通に行われてきたのである。やはり、私がこれまで「普通」に泊まってきた感覚のホテルとは違う。私のこれまでの経験が「普通」だったのかという気さえしてくるから不思議だ。
 なお、この宿ではインターネットが使える。100円で15分のコイン式ネットカウンターがロビーにあるのだ。この近所には宿代がもう少しだけ高い1泊2200円等のホテルもあるが、そこには無料のインターネットコーナーがある。というわけで、ネットの普及率だけは意外に高い。あとでわかったことだが、この宿は「楽天トラベル」などトラベルサイトでの予約も可能であった。

2009年05月28日

2008.01.26(土)(2)朝の西成区を歩く

 さて、今日の予定である。まずは、同じ西成区内にあって新今宮から歩いて行ける萩ノ茶屋支店の制覇。それから、同支店に統合された旧あさひ店の天下茶屋(てんがちゃや)支店の跡地を見て、その後南海本線で一気に泉佐野市に飛ぶ。ここから泉大津まで北上していくつかの支店を取った後、バスで和泉中央へ抜けて、泉北高速鉄道の沿線を全部攻める。これにより、南海本線の南部(泉南)と泉北高速線は総なめにしたことになる。さらに南海高野線で河内長野市(河内千代田支店)を経由して近鉄長野線に抜け、南大阪線から柏原・八尾・長瀬、そして東大阪方面へ。統合跡地としてはやまと高田出張所の写真も撮れるだろうか。というわけで、今日は南海と近鉄をフルに使うプランということになる。「プラン」というより、単に行きたい場所を地図上で整理しただけなので、完遂できるかどうかは全く不明だ。
 宿を08:45に出た。新今宮駅の南側を東西に走る大通り(市道今宮平野線)をこのまま西に向かって歩き、国道26号との交差点に来たら左(南)に曲がるつもりである。
 道路沿いに数軒あってまず目についたのは、荷物の一時預かり所という店であった。家財道具を全部預けておいて、日雇いの仕事に出かける人が相当多いのだと思われる。それを裏付けるように、道端にはワンボックスカーが何台も停まっていて、「ナントカ建設株式会社、一般土工、仕事の場所大阪市内、9000」等と書かれた板(というかポスターを掲示する透明プラ板つきのパネル)をつけている。収入を得たい人は、こうした車の人と話をつけて工事現場まで乗せてもらうのだろう。「9000」と大きく書いてあるのは日給のようだ。
 それ以外にある店舗は、コンビニ(ローソンとファミリーマート)、聞いたことがないような名前の百均が1軒。あとは「作業服の店」というのが目立つ。ウドン屋や喫茶店もあって、店構えはごく普通の感じであるが、美味いのだろうか。大通りの北にキリスト教会があって、通行人に向かって宣教用のビデオを流していたが、音声はハングル語であった。一方で、この付近には銀行のATMはおろか、信用金庫・信用組合すらない。1999年発行の地図を見ると、阪堺南霞町駅前に兵庫銀行、南に下がった天下茶屋北1丁目に大阪信用金庫が書いてあるが、両方とも今はないようだ。金融機関はコンビニATMしかないのか。郵便局も、阪神高速松原線の先か南海萩ノ茶屋駅あたりまで出ないとなく、新今宮近辺は完全にエアポケットと化している。
 JRの線路の向こう側には、くねくねと曲がりくねったジェットコースターを備えた遊園地が見える。これが、市電車庫の跡地に建てられた「フェスティバルゲート」というものである。経営破綻して競争入札にかけられたが、不調で長い時間がかかった。最近になってようやくパチンコ店大手の「マルハン」が落札したが、大がかりな遊園地は解体されてしまうそうである。公営の娯楽施設を造ることそのものは、雇用創出ということを考えたら批判できないが、それを作った日雇いの作業員たちが自分で利用することはまずなかったのだろう。
 道端には、露店を出してさまざまなものを売っているおじさんが数人いる。露店というかフリーマーケットのような形態である。古いビデオテープを多数並べているのは、捨てられていたものを拾ってきたのだろう。「パンク修理200円です いらっしゃい」と書いた手書きの看板(段ボール製)も見える。ジュースの自動販売機があるが、よくよく見ると機械の下のすき間からコードが延びている。これは電気を盗んでいるのではないか。電気の無断使用は、被害金額は微々たるものだが、窃盗の事例として取り上げられる代表的なものである。
 1泊1200円という激安ホテルもあった。ホテルとしては恐らくこれが底値に近いかもしれないが、さすがにちょっと興味本位でも泊まってみようとは思えない。

 南霞町から西へ、南海電鉄の高架に向かって歩いてきた。地名としては西成区太子を出て萩之茶屋に入っている。今宮平野線の南側に「あいりん労働公共職業安定所」と大きく書いたビルが見える。新今宮は有名な「あいりん地区」そのものであり、同所にはお金のない人が安く診療を受けることができる大阪社会医療センター付属病院も併設されている。
 南海の新今宮駅まで来た。私は駅のコインロッカーに荷物を入れて、身軽になって萩ノ茶屋支店に向かおうと思っていたが、ここにはロッカーはないようだ。JRの駅にはコインロッカーがあったと思ったが、JRに続く入口もなさそうである【注】。萩ノ茶屋まで持って行かざるを得ないようだ。通路は蛍光灯がポツポツと点いているだけの殺風景なコンクリート打ちっ放しである。駅内にある売店もシャッターを固く閉ざしている。設備が古いせいもあるかもしれないが、鉄道会社のCI戦略とは無縁のようだ。
 南海の高架を抜けた。道端にはゴミがかなり散乱している。ナンバーが外されほこりまみれになった廃車が堂々と道端に置いてある。くず屋が拾ってきたらしい資材がビニールシートに包まれて山と積まれている。雑居ビルのような外観をした「マンション」と書いたビルがあるが、昨夜泊まったホテルの定住度を強くしたような低所得者向けの集合住宅なのだろう。その近所のマンション(外観上は普通の意味でのマンションに見える)1階に、黄色い看板の「スーパー玉出」があって、24時間営業をしている。スーパー玉出の新今宮店はテレビ番組でも取り上げられる有名な店で、マンションの入口が店の奥にあり、住人は店内を通らないと自宅に入れないのだそうである。
 この界隈にはコンビニが異様に多いと感じる。今ほんの数百m歩いてきただけでも、ローソンが3軒あった。阪堺南霞町駅の中と、阪堺の駅から少し西に行った所、そして同じ交差点の向かい側にも。相当な過当競争のようだが、この辺の地主が土地を活かして商売するのに、そういう業種しかなかったのかもしれない。この地区ではオフィスビルを建てても需要がないのだろう。
 今宮平野線と国道26号とが交差する「花園北」の交差点まで、ようやくやってきた。左に曲がった先が、萩ノ茶屋支店のある地下鉄四つ橋線花園町駅である。26号を越えようと歩道橋を渡りかけると、歩道橋のたもとで大フリーマーケットをやっているのが見えた。フリーマーケットは、東京あたりだと富裕で暇な人たちが「余り物でコミュニケーションしましょう」のような金持ちの道楽に過ぎない(と思える)ものを盛んにやっているが、ここら辺のフリーマーケットは切実な生活の1コマであるに違いない。

 【注】この時は気がつかなかったが、コンクリート打ちっ放しの通路の奥に、南海およびJRの駅施設につながる階段がある。

2009年05月29日

2008.01.26(土)(3)萩ノ茶屋支店を制覇

 26号線を境に生活のにおいは薄れ、工業地帯のような雰囲気になった。日雇い労働者の多く住む地域は一応終わりを告げたのだろう。
 花園北交差点の歩道橋を渡っていると、JRの関空特急「はるか」が通過していくのが見えた。大阪環状線の築堤はコンクリートに「1966年」とあった。前方(西側)には、札幌に本社を置くホームセンターのニトリが本格的な立体駐車場をつけた大ショッピングセンター(西成店)を構えている。歩道橋から堺方向(南側)を眺めると、右前方にミレ信用組合の西成支店(旧朝銀大阪信組)がある。在日朝鮮人系の「朝銀」とつく信用組合は、かつてはほぼ全県にあったが、金融危機の時代に多数が経営破綻し、現在ではいくつかの民族系信用組合に再編されている。さらにその先左側には、スーパーのイズミヤが建っているのが見えた。イズミヤが見えるのは目的地が近い証拠だ。あの店は、地下鉄花園町にある同社の創業店だからである。
 交差点角には2つの敷地にある校舎を連絡渡り廊下で結んだ相当大規模な学校がある。府立今宮工科高校というらしいが、「今宮工業高等学校」という看板も付いている。あとで調べたところでは、工業高校は2007年3月で閉校したという。工業高校の看板を外していないのは留年生でもいるせいなのだろうか。ともあれ、今宮工高の塀に沿って、国道26号線の西側の歩道を南に進む。この界隈は基本的にはマンションばかりである。マンションでも1階は店舗になっていたりするのが普通だが、ここに限っては商業看板はほとんど見られず、非常に殺風景である。それにしても、この界隈にマンションの多い理由は何だろう。このあたりだと古い賃貸住宅がびっしりと建ち並んでいるのが標準的だと思えるが、この付近はそういうのがなくて、きれいに建て替えられてしまっている。地上げに簡単に応じてしまうのだろうか。
 ローソンやなか卯が1階に入っている茶色い外壁のマンションが1棟あって、そこを境に風景が変わってきた。花園町に本格的に入ってきたようだ。鶴見橋商店街というのがあって、ここが商業の中心地らしい。犬に服を着せて散歩させているおばちゃんがいた。やっと、私が普通に見慣れた風景に遭遇した。
 萩ノ茶屋支店に到着した。3階建ての建物のうち2階部分にはべったりと窓がなく、3階には小さな窓が多数並んでいる。旧大和銀の昭和40年代の特徴をもつ建物である。通りの向かい側の会社は旧銀行建築らしく、あとで調べたところでは富士銀行の萩之茶屋支店だったようだ。「萩ノ茶屋」「萩之茶屋」と表記が2種類あるのは、どういう使い分けなのだろうか。地名としては「萩之茶屋」だが。
 支店に入る。ATMはJX白が3台にAK-1が2台、そして旧天下茶屋支店分として富士通のファクトAが2台と、合計7台ある。富士通のATMはオムロンのATMより背が高いようで、天下茶屋の機械を入れるためにATM枠の上部が欠き取られている。今後ファクトAを撤去したら、スペーサーを付けてオムロンの機械を入れるのだろう。通帳記帳機が2台、富士通とオムロンで1台ずつ別置されている。あとは、サックスに花を差し込んだ大きな写真のシールが窓口室のシャッターに貼ってあるところが、旧大和店舗である。09:31、萩ノ茶屋支店を制覇した。
 萩ノ茶屋支店は、野村銀行萩ノ茶屋支店として1938年4月に開設された。戦時中には、野村銀行の堺市・泉南方面への橋頭堡として竜神特別出張所(現堺支店)や七道出張所(現堺東支店)の母店となっていた。現在の店舗は1968年7月に新築されたものである。りそな発足後、旧あさひ店舗の天下茶屋支店を支店内支店として受け入れていた(統合済み)。

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2009年05月30日

2008.01.26(土)(4)茶屋から茶屋へ

 さあ、次は天下茶屋支店の跡地に行ってみよう。
 今日は普段と違い、旅行用の大荷物を抱えている。宿を出てすぐコインロッカーに入れてしまうつもりが、ロッカーが見つからず花園町まで持ってきてしまったのだ。早く肩の荷を下ろしたい。というわけで、コインロッカーを求めて地下鉄花園町駅に入った。駅員に聞いてみると、コインロッカーはこの駅にはないとの返事があっさり返ってきた。チンチン電車(阪堺電軌)の今池駅にはあるとのことだったが、もちろんそんなところまで行っている余裕はない。
 仕方なく、このまま天下茶屋に向かうことにした。四つ橋線の駅である花園町から、堺筋線の天下茶屋に直接行くことはできない。駅員についでに行き方を尋ねたところ、地上に出て右に曲がるとすぐに南海電鉄の高架があって、そこが駅だと教えてくれた。市内まで戻って堺筋線に乗り換えろなどとアホなことは言わなかった。
 南海萩ノ茶屋駅に向かう道は、商店街というのか、何軒かの飲食店が並んでいる。土蔵建築の外側だけトタンを張った自転車屋があるが、いずれにしてもモノを売る商店が並んだ商店街ではない。やがて高架に突き当たった。高架線の横には店舗が多数あったのだろうが、今は除却されて空き地になっている。この空き地は南海にも使い道がないのではないか。歩いている人はどんな理由があるのか知らないが、圧倒的にジャンパー姿のおっちゃんが多い。
 萩ノ茶屋駅付近の高架線は結構古い時代に作られたらしく、高架橋の柱は上部のデザインをアーチで処理してあるのがわかった。高架下の改札は線路と同じ向きに改札機が3台並んでいた。ホームに上がってみると、ここは南海高野線の各駅停車だけしか停まらない駅で、ホームのない向こう側の線路を南海本線の「普通列車」が通過していくのが見えた。
 ホームから見る萩ノ茶屋駅の東側には古いビルが建ち並んでいて、新今宮からの続きのように見えた。ホームから見える「銀座センター」という謎の洋館風の建物は一体何なのだろう。その隣は皮膚科・性病科・内科・婦人科の医院であるが、薄緑色に塗られていて、2階パラペットの部分がやたらに高く張り出している。医院というより近代的に改装された棟割長屋のような感じがする。その隣に「ホテル」とある。これは昨夜泊まったのと同じようなホテルだろうか、炭鉱の職員用住宅のようなコンクリート建築である。どれも建てられてから50年近くは経っていそうで、ここでは新しい建物は遠景としてしか見えない。西側はもう少しだけ開けている。国道26号線に沿って花園町の市街地があるからだろう。
 09:54発の各駅停車金剛行きに乗る。南海高野線の各駅停車は12分間隔と本数が少ないが、車内はガラガラで、1両に私を含めて5人しか乗っていない。もっとも、すいているのは、土曜日かつ昼には早く朝には遅いという時間であるせいかもしれない。
 窓から日光がうららかに入ってきていて、良いお天気である。夕べ見たテレビのニュースによれば、今日は雪は降らないようだ。

2009年05月31日

2008.01.26(土)(5)一戸建てが密集する天下茶屋支店跡地

 天下茶屋には2分で着いた。隣の駅ゆえすぐである。駅の構造としては、南海本線と高野線の2つの複線が平行に並ぶ両側に対向式ホームをつけたような形で、高野線の上りホームと南海本線の下りホームとは合体しているから結果としてそこは島式ホームになっている。この駅は南海電鉄の2つの幹線(本線・高野線)の事実上の分岐駅で、地下鉄堺筋線と接続したこともあって、ここ20年ほどの間に急速に交通の要衝となった。
 改札を出たところにコインロッカーを発見し、ようやく身が軽くなった。ロッカーと同じフロアの端には、1回1000円の散髪屋とチェーンの食堂。その間に[南海天下茶屋駅]というりそなの店舗外ATMが挟まっている。母店は萩ノ茶屋支店で、青い行灯表示ということは大和銀時代からあったATMである。ATMは青いオムロンIXが2台置かれていた。
 階段を下りて東出口に出る。旧天下茶屋支店は、東出口の先にある商店街を曲がったところにあったハズだ。天下茶屋は新しく高架になった駅だけに、駅前にはロータリーなどが整備されているが、それゆえにか人で賑わっている感じは薄い。そのロータリーにも、多少のタクシーがいるだけであった。個人経営の「店」が所々にあり、また雑居ビルが多い。物を売る店は角のセブンイレブンぐらいで、あとは飲食店ばかりである。通りの角にある古い民家は、角に面した斜め切りの部分に台所がある。街並みとしては昭和20年代頃とおぼしき民家(兼商店)の並びであった。
 天下茶屋支店跡地にたどり着いた。支店跡地前には、大阪市のコミュニティバス「赤バス」の「天下茶屋駅筋東」停留所がある。支店の建物は既に除却されており、敷地の中央に道路が新設されて、この道の両側にそれぞれ3〜4軒、最近流行りの3階建ての一戸建て住宅が建っている。だから、支店の跡地には民家が少なくとも7軒建ったということである【注】。一応、支店跡地の写真は撮ってきたのだが、こういう事情であるのでブログへの掲載は見合わせておく。
 駅へ戻る。支店跡の北側を東西に走る天下茶屋駅前商店街は、以前「あさめぐ」の時代に通ったことがあって見覚えがあった。西に進んでいくと駅の北側に出る。昔ながらの商店街といった感じのアーケード街だが、「介護ステーション」などという業種が進出しているから、営業している店は多少の入れ替えもあるようだ。でも「介護ステーション」は近隣住民が高齢化した証拠である。

 天下茶屋支店は旧あさひ銀行の店舗で、1924(大正13)年4月に大阪貯蓄銀行天下茶屋支店として開設された。終戦直前の9行合併で日本貯蓄銀行の支店となり、協和銀行→協和埼玉銀行→あさひ銀行を経て、りそな発足後の2004年2月に旧大和の萩ノ茶屋支店内に移転して支店内支店となった。旧大和・旧あさひの勘定系システムが統合された後、2006年7月萩ノ茶屋支店に統合されている。ブランチ・イン・ブランチ実施の際に[天下茶屋駅東]という店舗外ATMが支店跡の南側にできた。
 支店内支店になるまで使われた店舗は1965年9月に建築されたもので、私は「あさめぐ」時代に2回ほど訪れたことがある。確か、キャッシュコーナーのATM枠が真っ赤に塗られていたというあやふやな記憶がある。

 【注】グーグルの航空写真で見ると、新設道路から見えない位置にさらにもう1軒建っているようだ。

2009年06月01日

2008.01.26(土)(6)30km南下して泉佐野へ

 天下茶屋駅に戻ってきた。次の目標は、天下茶屋から南海本線で南へ一気に30km。泉佐野市(佐野支店)である。
 南海本線は15分サイクルでの運転で、電車の本数が少ないのが難点である。電光掲示板を見ると、泉佐野へは10:44発の急行関西空港行きが最も早いようだ。その前に、泉佐野にも停まる全席指定の特急「ラピート」の関西空港行き(10:34発)があるようだが、十数分の時間節約効果に対して特急料金を500円も払う気はない。その、乗らない特急「ラピート」がホームに入ってきた時、私は一瞬唖然とした。車体全面にラッピング広告が貼り付けてあるのだ。南海が誇る看板列車のラピートもこれで終わったと思った。一般型車両ならともかく、ラグジュアリー路線を採っていた(ハズの)看板の特急にラッピング広告などと品のないことをするとは。スポンサーのNTTドコモに罪はないが、非常に悲しい思いがした。
 やがて、4ドア片開きの古い車両が6両編成で入ってきた。急行関西空港行きである。乗り込んでみると、車両の端には「帝国車輌 昭和42年」というプレートが付いていた。こうした古い車両を大事に使っているところは、この鉄道会社の美点だと思い、以前肯定的に取り上げたことがある【注1】。車内には大きなスーツケースを持った客が多く、成田空港に向かう京成線の車内と同じような空気が漂っていた。空港行きの電車に空港へ行く客が多いのは当たり前だが。
 大和川を渡って堺市に入ると工業地帯になった。難波からずっと続いていた高架は諏訪ノ森駅の手前で地平に降りた。羽衣付近では高架の工事中で、岸和田駅の手前で再び高架に上った。
 岸和田で、後続の特急(ラピートとは別の列車)に乗り換える。待ち合わせがあるのなら、天下茶屋で待っていてもよかった。さっき特急料金のことを少し書いたが、南海の特急でも和歌山市行きは、座席指定の車両のうしろに乗車券だけで乗れる車両を連結している。
 岸和田を出ると再び地平に降りた。貝塚付近では畑がみられる。畑はもっと難波寄りからあったと思うが、気がついたのが貝塚近辺だったということである。

 南海本線から空港線が分岐する泉佐野には、11:13に着いた。左側のドアが開いたのでホームに降りたところ、向こう側のドアも開くのが見えた。この駅ではどういうわけか車両の両サイドのドアが開くのである。向こうのホームは関空線の降車専用だそうで、そういえば右側のホームには難波行きのラピートが停まっていた。空港から和歌山方面への接続を考慮しているらしいが、関空−泉佐野間で特急料金を払ってラピートに乗るような人がいるのだろうか。
 階下の改札を出る。支店は東側にあるとわかっているから、右の階段を降りた【注2】。駅内には近所の特産品であるタオルを売っている売店がある。泉佐野駅そのものは高架化されているものの、駅施設を含めた周辺の整備工事はまだまだ進行中であった。
 駅の外に一歩出ると、泉佐野駅前通りの町並みは、典型的な地方都市の旧市街という感じがした。典型的というか「一昔前の典型」と言った方が適切かもしれない。駅前の商店は、雑居ビルに改築されたものがほとんどなく、土蔵を改造した商店すら1軒見受けられた。ある店は「ガラス屋」だったが、タバコを売る窓口がついていたり、タバコの自動販売機が店先を埋め尽くしていたりと、どう見てもタバコ屋である。昭和初期に建てられた擬洋風建築らしきものの残骸も1軒残っている。古いものがそれなりに残ってはいるが、1軒ずつあるだけだから観光資源にはならないだろう。なお、今歩いている通りは駅前通りなのだが、通りの名前もストレートに「駅前通り」となっていて、関西では珍しい気がする。だいたい、ナントカ本通りという名前になっているところが多いのではないか。
 さて、駅を出たところで、赤と緑の2枚の看板が既に交差点に見えていた。三菱東京UFJの赤とりそなの緑。2軒の銀行があるのは駅前通りと旧国道26号との交差点で、「泉佐野駅下り」交差点という名前である。下りは「くだり」ではなく「さがり」と読む。角には1mくらいの高さで押しボタンの付いた黄色い円柱が立っている。これは関東では見かけないもので【注3】、視覚障害者用の「音の出る信号機」の機械である。中にはスピーカーが仕込んであって、ボタンを押すと、車道側信号が赤・歩行者側が青になってから「通りゃんせ」の音楽が流れるのだ。
 交差点の南西角にある旧三和銀行の店頭には、縦型看板下の時計がまだ健在であった。それを横目で見つつりそなの制覇を済ませる。りそな銀行佐野支店は、泉佐野駅下り交差点の南東角、つまり三菱東京UFJの向かい側である。店に入ると、キャッシュコーナーの一番左に両替機があって、その右にATMが5台並んでいる。内訳はオムロンJXの白が4台とAK-1が1台である。機械の並びの一番右は通帳記帳機であった。11:29、佐野支店を制覇した。
 記帳機の上には、関西大学の入学願書のセットが山と積まれて無料配布中であった。りそなは関大のメインバンクで、関大のキャンパス内にも店舗外ATMがある。私の大学受験の頃には、願書は(関大に限らず)1大学あたり800円程度で買わされたものであったが、近頃では殿様商売は成り立たないらしい。昨日の宝塚とはエラい違いである。封が開いていたので中を見てみると、入学検定料の振込先は4つの都市銀行全て可能で、どれか一つに丸をつければいい形になっていた。りそな銀行の口座は、やはりというべきか天六支店になっていた。関大の主たる取引店が天六支店であるらしく、吹田市の関大キャンパス内にあるりそな銀の店舗外ATMは、遠く離れた大阪市内の天六支店が母店になっている。
 佐野支店は、1946年10月に野村銀行佐野支店として開設された。所在地は支店開設当時は泉南郡佐野町といい、すぐに市制施行(1948.04)して泉佐野市になったのだが、支店名はそのまま佐野支店で通している。1949年4月から泉佐野市金庫(現指定金融機関)になっていて【注4】、かつて尾崎(現阪南市)や信達(現泉南市)といった周辺の郡部に出張員詰所を出していた関係から、泉南市・阪南市・岬町・熊取町・田尻町の指定金融機関もこの支店が担っている。1966年10月に供用開始された現店舗は、直前に行った萩ノ茶屋支店(1968年築)と似た外観を持っている。

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 【注1】当ブログ連載「あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇」の「2003.01.09(木)(14)古きを大切に用いている南海電鉄」を参照。
 【注2】左右に分かれていた駅構内の階段は、その後の工事の進捗に伴って中央の大階段に一本化され、「右の階段」も撤去されている。「右の階段」の前にあったタオルの売店は健在(2009.03現在)。
 【注3】関東では電柱に小さな箱形の黄色いスイッチが取り付けられており、スピーカーはスイッチとは別の場所にある。音楽が流れる信号そのものも、関東ではすっかり少なくなって、カッコウかピヨピヨ(鳥の鳴き声)ばかりである。
 【注4】泉佐野市指定金融機関:りそな銀・三菱東京UFJ銀・泉州銀・三井住友銀の交代制。

2009年06月02日

2008.01.26(土)(7)醤油の町だった貝塚

 南海本線を北に進む「めぐ」。次は貝塚支店(貝塚市)に行こう。区間急行の難波行き、11:40発に乗って貝塚へ。
 貝塚駅には島式ホームが2面あって、それとは別に改札外に水間鉄道のホームがある。階段を駆け上がって橋上駅舎の改札を出る。ホームの後寄りにエスカレーターが見えたが、前寄りにはなかった。
 支店があるのは駅の西口である。階段を降りた目の前が三井住友銀行の貝塚支店(旧住友銀)。三井住友は駅前ロータリーに面している。ロータリーにはタクシー乗り場があって数台のタクシーがいるが、バス停はないようだ。すぐ西側を旧国道26号が南北に走っているのは泉佐野と同様である。駅前のビルにコンビニの「ショップ99」。その隣に居酒屋の「日本海庄や」が、ビルのテナントではなく独立した店を構えている。さらに隣に泉州銀行の貝塚支店がある。
 表通りまで出ると、りそなの看板が見えた。支店は、泉州銀行の南に見えるショッピングセンター「シェルピアdeux」の中である。「シェルピア」というのはシェル(貝)のユートピア、のような意味だろう。deux(ドゥ、フランス語で「2」)ということはどこかにun(アン、「1」)もあるのかと思ったら、アンに相当する建物「イヅイチシェルピア」というのが旧26号を挟んで「ドゥ」の向かい側にあった。建物に着いてみると、シェルピア2の入口ドアは、かつてのダイエーの店舗らしく白緑色になっている。ダイエー貝塚店は2000年1月に閉店したそうだ。
 キャッシュコーナーに入ろうとするが、「りそなクイックロビー」という四角い行灯看板の位置からは入れなかった。シェルピア2は、八角形をしたホールの南側に細長い店舗部分を組み合わせた形をしていて、「りそなクイックロビー」の表示は店舗部分の北端、ホールと店舗との境界にあった。行灯のそばに細いドアがあって、そこからキャッシュコーナーに入れという趣旨らしいが、ドアは固く閉ざされていた。
 仕方がないのでホールに回る。ホール正面の自動ドアを入ると、ガランとしたホールの角には地元コミュニティFM局のオープンスタジオがあった。スピーカーから何やら番組が流れているが、スタジオの中には誰もいない。たぶん、コミュニティFM向けに番組を供給している会社があって、この時間はそこの番組をそのまま流しているのだろう。スタジオの中を見ると「整理整頓」など細かい注意の書かれたワープロ打ちの紙が掲示されていた。
 りそなの支店入口は、ホールの端にあった。支店の自動ドアを入ると風除室になっていて、その内側に非常に狭いキャッシュコーナーがある。シャッターが閉ざされているので窓口の様子は分からないが、ATMは4台しかない。AK-1が1台とJX白が3台。貝塚支店の制覇はちょうど正午のことであった。

 貝塚支店は1949年12月に大和銀行貝塚支店として開設され、1952年10月には貝塚市金庫(現指定金融機関)となった(泉州銀・三井住友銀・大阪信金との交代制)。現店舗での営業は1972年6月からである。
 りそなが入るビルも含め2つの「シェルピア」ビルは、イヅミイチという会社が管理している。この会社は現在では不動産管理業に特化しているようだが、もともとは貝塚駅前に工場を持つ地元の醤油会社で、「金牌」というブランドの醤油を造っていた。醤油の製造は1970年に堺市の別会社に引き継がれており、現在この地での製造は行われていない。シェルピア1のあるところが工場の跡地だそうである。

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2009年06月03日

2008.01.26(土)(8)岸和田を飛び越えて泉大津へ

 次の目的地は、泉州の中心都市・岸和田市を飛び越えて、泉大津市である。
 旧大和銀行は、どういうわけか岸和田市の中心部に「岸和田支店」を持たなかった。このため、りそな銀行にも岸和田支店が存在しない。岸和田だけでなく、他の在阪都市銀行が支店を置く池田と布施(現東大阪市)も、中心部に支店がないのである。これらに共通するのは、大阪府内で戦後に発足した地銀が本店を置いていた都市、ということであった(大阪不動銀行を除く)。なお、「例によって」と言うべきか、旧協和銀行は1961年11月まで岸和田支店を持っていた【注1】。
 泉大津には、1998年1月、あさひ銀行泉大津支店の初制覇の際と、2003年1月に泉大津支店が泉大津西支店に名称変更した際に来て【注2】、りそなが発足してから旧大和の支店を中心に数回来ている。当ブログの本店「遊牧民の窓」の常連さんが1人、お会いしたことはないが泉大津の近郊に住んでいて、以前このブログの連載に使う写真を提供していただいたことがある。泉州方面に来る度に私はこの人のことを思い出しながら町並みを見ている。

 貝塚12:15発の区間急行難波行きで、泉大津には12:28に着いた。泉大津駅は高架化工事が進行中で、上りの高架ホームはほぼ完成していたが、電車はこの時点では全て地平のホームから発着している。地平のプラットホームと橋上駅舎は仮設であった。複雑に入り組んだ連絡通路を歩き、長いコンコースを抜けて自動改札を出る。
 まず先に、旧あさひの支店のあった西口に出てみる。泉大津市は南海本線沿いのほかの都市と同様、旧国道26号線が走る西側に旧市街地がある。りそなの旧あさひ店が廃止された今、西口に銀行(類似機関含む)は泉州銀行の泉大津支店と、旧泉大津信用金庫本店(泉州信金→南大阪信金を経て現大阪信金泉大津支店)しかない。路線バスも全て東口から出ているそうで、西口から出るバスの泉大津市内線(南海バス)は98年限りで廃止の掲示があった。もう10年経つわけだ。駅前の古びた旅館は健在、駅前ロータリーに羊の像があるのも健在だが、泉大津西支店のあった場所には、綺麗かもしれないが面白くもなんともない高層マンションが建っていた。
 西口の様子をサッと確認したところで、いよいよ泉大津支店の制覇である。泉大津支店は、東口の「アルザタウン」という再開発ビル(ダイエーがキーテナント)の中にあって、支店の2階部分と橋上駅舎とはデッキで直結している。同じ建物には三井住友銀行も泉大津支店を出しているから(旧住友銀)、アルザタウンの銀行部分の壁には、りそなと三井住友が仲良く切り抜き文字のロゴを並べて取り付けている。三井住友は1階銀行部分の右半分を、りそなは1階の左半分と2階全部をそれぞれ使っている。りそなの施設は3階にもある(泉大津住宅ローンセンター)。
 りそな銀行泉大津支店は1階と2階にキャッシュコーナーを持つが、ATM5台プラス記帳機のある2階がメインのようである。1階にはATM5台のみで、機種はオムロンJX白で統一されている。2階には旧あさひ店の富士通FV10が2台あるほか、JX白が1台とAK-1が2台、そして記帳機という構成になっていた。
 キャッシュコーナーには、ATMのナンバーを示す数字がインスタントレタリングのようなものでつけてあった。転写する数字を直立させるために四隅に印刷されている、直角三角形の記号まで転写されている。こうした転写の仕方は他の旧大和店舗でも見かけたが、このインレタは行員が貼ったのだろうか。もちろん、別にあったからどうだということはない。
 ともあれ私は、12:42、泉大津支店を制覇した。泉大津支店は1945年10月に野村銀行泉大津支店として開設された。1952年4月に泉大津市の指定金融機関となっている(泉州銀・大阪信金・三井住友銀との交代制)。店舗は長いこと駅西側の田中町にあったが、1994年9月に東口の現店舗に移転してきた。

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 【注1】協和銀行岸和田支店:1915(大正4).08.11不動貯金銀行岸和田代理店として開設、1920.02.01岸和田支店に昇格。9行合併を経て協和銀行岸和田支店となり、1961.11.27泉大津支店に統合。廃止直前の所在地は岸和田市北町176。
 【注2】当ブログ連載「あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇」の「2003.01.09(木)(15)14:47、嗚呼、泉大津西支店」を参照。

2009年06月04日

2008.01.26(土)(9)泉大津から光明池へ

 さて、泉佐野から泉大津まで南海本線を攻め上がってきた。次は堺市の中心部へ、という考えもあったが、私の傾向として、鉄道利用では遠回りのコースしか採れないところを、バスその他の交通手段を使ってショートカットするのが好きなのである。というわけで、泉大津からはバスで泉北高速鉄道の沿線に回り、そちらの沿線を攻めることにした。泉北高速鉄道は南海高野線の中百舌鳥(なかもず)から分岐して、泉大津市からほど近い泉北ニュータウンの和泉中央(和泉市)まで行く路線である。この線に泉大津から鉄道だけでアプローチしようとすると、大阪市内の天下茶屋まで戻らなければならない。
 泉北高速の終点である和泉中央まで行くつもりでいたが、和泉中央出張所を昨年7月に制覇して、写真も撮ってしまっている。ここは店番号が母店と同じ有人出張所で、窓口の営業時間中にしか制覇ができないから、できれば和泉中央ではないところに行きたい(今日は土曜日である)。そう考えてバスロータリーの時刻表を見てみると、都合のよいバスが見つかった。1番乗り場を13:00に出る、南海バス[21]系統・光明台経由光明池(こうみょういけ)駅行き。光明池駅(堺市南区)のそばには光明池支店がある。13:00発だから発車はもうすぐで、バス停で待つことにした。
 泉大津駅のロータリーは、L字形をしたアルザタウンと駅の施設とで三方向を囲んだ内側にある。ロータリー中央には温度計があって、支店の写真を撮ろうとロータリー内をうろついていた時には8℃を差していたが、制覇を済ませてから再び見ると6℃に下がっていた。天気は良かったのだが、結構冷え込んでいるようだ。それでも、関西はやはり東京と比べると暖かく感じる。
 バス停前のガードレールには羊の顔をデフォルメしたレリーフがついていて、西口にある羊の像とあわせてさすが羊の町・泉大津である。そう思っていると、バスがやって来たので乗り込む。車窓の風景を堪能するのに最良の席である左側の最前部は、順番を横入りした小学校4〜5年生の男児に取られてしまった。叱りつけてやろうと思ったのだが、面倒臭いのでやめた。私はかつて塾講師で生計を立てていたことがあって、こういう時には割合に毅然とした態度をとるのだが、そんな私にも面倒な時はやはりあるのである。

 バスが発車した。「アルザ通り」なる駅前通りを東(正確には南東)に進む。アルザの裏には、ノコギリ形の屋根を持つ木造の工場が今も複数残っている。焦げ茶色というよりほとんど黒に近い色で、だいぶ老朽化しているようだ。さっき「羊の町」ということを書いたが、泉大津市は毛織物の産地で、特に毛布は国内シェア98%を誇るそうだ。一昔前の子どもが工場の絵を無雑作に描くときに一般的だったノコギリ屋根は、ノコギリ刃の縦(垂直)の部分が明かり採りの窓になっている。明治に入ってから繊維産業の工場として導入されたスタイルで、北側からの自然光が製品のチェックに最適であったためという。現時点でこれが見られるのは、泉大津の他では我が田舎・群馬県の桐生市など、織物工業が盛んだった都市の一部しかない。この形の屋根は形状が特殊で、最下部で排水処理が必要となるため、維持が大変だと聞いたことがある。
 道は何回か突き当たりになったが、全体としてバスは東進を続けている。「××毛繊」「△△繊維工業」といった看板をつけた、倉庫のような建物が多い。四国・高松からスーパーのマルナカが進出してきている。やがてJR阪和線に遭遇。線路をアンダーパスする工事をしているところで道路は大渋滞となった。このバスはJR和泉府中駅のそばを通るが、駅の最寄停留所は「和泉府中車庫前」というようだ。JR和泉府中駅のあたりは、踏切横のサティなど車窓の風景に見覚えがあるから以前来たことがあるハズだが、何の機会だったかは思い出せない。
 今走っている道は、国道480号と書いてあった。途中の地名で西福寺とか芦部といったあたりでは、入母屋の古い農家が多く固まって建っていた。上阪本では遠くに泉北ニュータウンの大遠景が見えた。相当に背の高いビルが集まっているようである。泉北高速鉄道の高架をくぐって左に曲がると光明台という団地に入る。原野のような土地が一瞬見えた後、新興の戸建ての住宅団地が続き、集合住宅も並んでいる。さらにもう1つ城山台という似たような団地に達すると、ここでようやく堺市(南区)に入る。あとで地図を調べて、このバスの遠回りぶりにあきれた。泉北高速の高架で曲がって線路沿いに走ってくれば、光明池駅は交差地点から1kmそこそこであるのに、2つの団地を回るせいで走行距離が5kmほど延びる。フリーパス(スルKAN2day)を持っているから関係ないものの、この路線は全線乗ると480円もかかるのだ。
 城山台1丁目で乗客が多数乗り、車内は一気に混雑率が増した。城山台を抜けると、ショッピングセンター「カルフール光明池」に遭遇する。フランスの大手スーパーであるカルフールは2000年に日本に進出し、オートウオークというスロープ方式のエスカレーターと、広い店内をローラーブレード(インラインスケート)を履いて移動する店員が話題を呼んだ。既に撤退したハズだが、まだ営業していたのか。感心しながらよくよく見ると、建物にはイオングループのマークがついていた。そうか、カルフールは日本から撤退する時に店をイオンに譲渡したのか。全然知らなかった。
 ともあれ、光明池駅近くまでようやくやって来た。

2009年06月05日

2008.01.26(土)(10)光明池支店を制覇

 光明池駅近く、山の斜面を切りくずしたところの一部は、雑木林をわざと残してある。光明池という駅名は、近くにある大規模な溜池の名前を採ったもので【注】、池の周囲に広がる光明池緑地は「野鳥の森」と呼ばれている。というわけで、駅前も自然を残した開発ということをアピールしたかったのかもしれない。しかし、駅の周辺には巨大なマンションがまさに「林立」していた。
 ようやく光明池駅に到着した。バスが乗り入れて止まったのは、「サンピア」というショッピングセンター横のバスロータリーである。背後には三菱東京UFJ銀行が見える。前方に長い高架線のようなものが横切っているが、ロケーションからして、和泉中央に行く幹線道路「泉北1号線」と泉北高速鉄道の高架線路に違いない。バスロータリーは高架と直角に接しているから、これで方向感覚が大体つかめた(「方位」の感覚はメチャメチャであるが)。実は、光明池支店がどんな支店だったか、記憶からきれいに消え去っているのだ。とりあえず前方のガードに向かって歩き始める。少なくとも光明池の駅にはたどり着くはずで、駅からの行き方を思い出せれば支店に到達できるだろう。
 高架下の階段を上がると、光明池駅の施設(兼南北自由通路)がある。それを横目で見つつ駅前広場(のようなところ)に出た。このあたりの平らな場所は全て、ニュータウンとあって人工地盤なのであろう。駅前にはこのあたりのセンタービルらしい「光明池アクト」というビルが建っていて、1階(本当は2階)に以前入ったことがあるミスタードーナツがあった。これを見て私はようやく光明池支店の場所を思い出した。歩行者用道路をサンピアの壁に沿って南へ向かい、そこで左に曲がったところである。
 駅からまっすぐ歩いていくと、右側に小公園が見え、その奥にダイエー光明池店があった。このあたりまで来ると、人工地盤なのか、それとも丘陵地を切り開いたのかは定かではない。最初の四つ角まで来ると、りそな銀行の建物が左前方に見えた。左に曲がったところは自動車道路をまたぐ橋になっているから、高さとしてはここは2階にあたるのだ。さっきバスを降りた時背後に見えた三菱東京UFJ銀行(光明池支店、旧三和銀)は、りそなの隣であった。つまり、バスターミナルからいきなり三和の方に来れば右奥にすぐりそなが見つかったのに、駅の方へ延々と回り込んでしまったのである。
 光明池支店は建物としては2階建て(一部3階建て)で、歩行者用のデッキに接している。この支店は歩行者用の道路につながっている部分が窓口だから、窓口は2階(正確には3階か)にあることにある。他の支店では考えられないほど建物正面の幅が広く、2本の太い柱で正面が1/3ずつに仕切られている感じ。そして1/3に仕切られた各前面部分は全てに自動ドアがついている。どこからでも入れるということのようだ。
 支店に入る。窓口室への通路は中央の1/3ほどの部分で、その両側にはATMが並んでいる。ATMは左側に5台(JX白3台、AK-12台)、右側に7台(全てJX白)。ということは合計12台あることになる。さらにその右側に記帳機が2台置いてあった。14:01、光明池支店を制覇した。
 光明池支店は1977年12月に大和銀行光明池支店として開設された。時期としては、泉ヶ丘(堺市南区)までしか通じていなかった泉北高速鉄道が光明池まで延伸された4か月後である。

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 【注】光明池:堺市南区と和泉市とに跨るかんがい用の溜池。1936(昭和11)年に整備され、面積36ha。この地で誕生したとされる光明皇后にちなんで命名された。

2009年06月06日

2008.01.26(土)(11)泉ヶ丘の泉北支店へ

 次の目標は、光明池から2つ目の泉ヶ丘駅前にある泉北支店(堺市南区)である。途中に栂・美木多(とが・みきた)駅を挟んでおり、駅前には泉北とが支店があるが、昨年(2007年)7月に取ってしまったので割愛する【注】。
 今日初めて光明池駅のホームに上がった。島式ホームが1本だけの高架駅だが、昨日の江坂とは違って吹きさらしにはなっておらず、壁面はガラスで覆われている。やはり高架の駅は、特に冬場を考えると、このように壁というか構造物で覆われているべきだろう。
 14:13発の準急難波行きに乗車、5分で泉ヶ丘に到着した。泉ヶ丘駅は橋上駅舎になっている。電車を降りて前方の階段を駆け上がる。例によって後方にはエスカレーターがあったようだ。駅の全体は通称「泉北1号線」という自動車道路に両側を挟まれている。陸地に渡るには北側も南側も橋を渡ることが不可欠で、両方の橋が落ちたらこの駅は陸の孤島である。
 改札を1歩出ると、床に同心円が描いてあって、そこにはスポットライトが当たっていた。何というか、非常にシンボリックな空間である。ここでのバンド演奏などを想定しているのであろうか。もちろん、今はバンドなどいないから単なる広場になっていて、広場の前にはケンタッキーフライドチキンなど複数の店がある。改札前の同心円を抜け、泉北1号線をまたぐ歩道橋を右に越えると、そこがセンタービルである。その先には高島屋がキーテナントとなった大ショッピングセンター「泉北パンジョ」などのある泉ヶ丘の繁華街だが、そこまで行かなくてもセンタービルに入っただけでりそな銀行の看板が右側に見えた。
 泉北支店は、センタービルの中にキャッシュコーナーだけの部屋と窓口室の部屋とを別々に構えている。だから、建物としては1つだが完全に分断されている。まず例によって支店の写真を撮ろうとするが、こうしたニュータウンの店舗は率直に言うと写真撮影をするモチベーションが沸かない。どれもこれも似たような外観、かつ建物のサイズが大き過ぎて、撮影のベストポジションを探すだけでも物理的に相当な距離を走り回らなければならず一苦労なのである。それだけの苦労をして撮った写真が「絵になる」ものであればよいが、ビルにテナント入居している支店はどこも似たり寄ったりの写真にしかならない。建築物は少しでも大きなものを作ろうとすると、理解あるクライアントがいない限り、予算を抑えるためにデザインが二の次三の次となってしまう。加えて、この泉北ニュータウンが開発されたのは高度成長期で、なりふり構わず大きなハコモノを造ろうとしていた時期でもあるからだろう。
 いずれにしても、ニュータウンの大きな建物は、写真に撮っても面白いものではない。しかし、それでも私はりそなのウオッチャーであるから、いちおう一通り撮っておこうという目標に忠実に、黙々と写真を撮るのであった。

 【注】当ブログ連載「2007年7月 りそな関西地区支店昇格5店完全制覇+α」中「2007.07.17(火)(14)16:32、泉北とが支店を制覇」を参照。

2009年06月07日

2008.01.26(土)(12)ニュータウンに「人間生活の営み」を見る

 センタービルの建物が面白くないと書いたけれども、やはり人間の生活が営まれている以上、そこには様々な変化が出てくる。泉北支店の場合は、キャッシュコーナーに「人間の営み」が表れていると思われた。このコーナーは妙な形態になっていて、真ん中に壁があって二つに仕切られているのだ。駅の改札に寄った側と、窓口室のある側。2つの部屋はほぼ同じぐらいの大きさで、それぞれにATMが10台近く並んでいる。真ん中の壁には通路がつけられている。想像するに、当初の支店は、今ATMコーナーになっている部分だけで完結していたのではないか。キャッシュコーナーを増設しなければならなくなって、窓口室だけ隣りに移したのだろうと思われた。
 機械の配列は、窓口室に近い側が、両替機プラスATM(JX白)が8台、プラス記帳機。そして改札に近い側は、記帳機、JX白、AK-1が2台、白が5台。ここまでは旧大和銀行の店舗としてごく普通だが、一番右のATM1台は特筆される。なぜか1台だけ、富士通のFV10があるのだ。旧大和店舗で標準的に使われているATMはオムロン(と、事業統合後の日立オムロン【注】)の機械なのだが、そこに富士通の機械が1台だけ置かれているのだ。昨日寄った千里中央支店でも、このような形でオムロンの中に富士通が1台だけ置かれていた。
 泉北支店に来て気が付いたのだが、これは、かつて一部の大和店舗にあった「身体障害者用ATM」の代替ではないだろうか。そう思う根拠は、この支店で富士通の機械が置かれている場所である。キャッシュコーナーの一番右端、しかもこの機械の場所だけブースの横幅が異様に広い。オムロンがかつて製造していた身体障害者用の機械は、横幅が通常の機械より広かった。また、車椅子で機械に近づきやすくするために、画面や押しボタンの部分が手前に大きく張り出しており、下部がすぼまっていた。日立オムロンが最近では身体障害者用の機械を製造していないか、造っていてもこういう特別な機械は値段が高いのであろう。富士通の「ファクトV」シリーズは、機械の下部が丸く凹んでいて、汎用機を1台入れればそのまま車椅子でも使えるようになっている。大和店舗に1台だけ富士通の機械が入っているのはそういう意味合いであろう。しかしオムロンと富士通では、例えばレシートの形状一つとっても異なるから、維持していくのは結構面倒臭いのではないだろうか。いずれこうした店は、旧大和店でありながら機械が富士通で統一されるなどの動きもあるかもしれない。
 なお、蛇足ながら最近のりそな銀行におけるATMの一般的な動きをみると、ここ1年ほどの間にATMの機種に関しては統一が進み、1つの店で複数メーカーの機械が混在しているという形は原則としてみられなくなった。旧大和店舗の多い関西地区では、ATMのメーカーを(日立)オムロンで統一する形で機種の統一が図られている。これらの中には、西宮北口支店など純然たる(支店内支店などを実施していない)旧あさひ店舗も含まれている。また、関東地区の旧あさひ店では、沖電気主体の店に1台だけ富士通の最新型が投入されるなど、沖電気の機械が淘汰される動きもあるとみられる。概ね、東日本=富士通、西日本=オムロン、という形のようだが、東京営業部(旧あさひ銀行本店)のような店がオムロン系で統一されるなどの「異変」もある。各支店で現在どのような機種構成になっているかは、読者の情報提供を待ちたいところだ。
 泉北支店の制覇は14:36のことであった。

 制覇の後、窓口室ものぞいてみた。泉北支店は土曜日に窓口を開けている(現在も継続中)。クイックナビ方式に改装されていて、窓口室には相談ブースが8つもあった。さすがにニュータウンの基幹店舗である。このような基幹店舗でも、夜間金庫の営業は今年(2008年)1月末をもって終了するという。個人商店の売上金の回収よりも、会社員の住宅ローンの相談を優先するというのが今の銀行の大きな流れである。
 泉北支店は、大和銀行泉北支店として1971年6月に開設された。泉北高速鉄道の中百舌鳥−泉ヶ丘間が開業したのは、2か月前の同年4月のことである。

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 【注】日立オムロンターミナルソリューションズ。有力ATMメーカーだったオムロンと日立のATM部門を統合して2004年10月設立。ブランド名は「Leadus(リーダス)」。

2009年06月08日

2008.01.26(土)(13)深阪出張所の跡地を探して

 さて、泉ヶ丘での目的地はもう1つある。2004年1月に泉北支店に統合された、深阪出張所(有人)の跡地である。泉ヶ丘駅から北に2kmほどの場所であるが、行政区では堺市(南区ではなく)中区となる。今回これを再訪してみようと思った。
 統合代替の店舗外ATM[深阪]は、りそなの店舗一覧には「南海バス深阪バス停北350m」と書いてある。泉ヶ丘駅北側のバス乗り場から宮山台循環もしくは津久野駅行きのバスに乗り、深阪で降りた先にあるらしい。「再訪」であるのに「らしい」と結んでいるのは不自然なようだが、私は前回この地を車で訪れたのであった。
 泉ヶ丘の賑わい度は、大ショッピングセンター「泉北パンジョ」のある南側の方が上である。北側に出てみると、こちらは開発年度も古いようで閑散としている。南海バスの11系統・津久野駅前行きに乗る。
 バスは14:55に発車した。泉ヶ丘駅の北側は竹城台という住宅地で、こちら側はセンタービルだけでなく町の作りも古いようだ。古びた集合住宅が建ち並んだ区画をしばらく走ると、やがて一戸建ての住宅が並ぶ団地に切り替わる。そこが深阪である。富裕層の多く住む住宅地らしく、走る車は今日これまであまり見なかったBMWが結構多い。駅前からのバス代は、ここまで(というか深阪から)230円だった。
 ATMが停留所の北にあるとのことなので、バスが走り去った方向に歩みを進める。対面2車線の両側に歩道がついたこの道は、堺市南区と中区の境界線になっている。右側に学習塾が見えた。この学習塾と、それから右の方向に下がっていく坂道には何となく見覚えがあった。しかし、深阪出張所の場所が具体的にどこであったか記憶が飛んでしまっている。さらに先へ進むとコクミンドラッグがあって、その隣にりそな銀行の店舗外ATMが見えた。近寄ってみるとATMが5台配備されており、りそなでは大規模な部類に入る無人出張所である。これが現在の[深阪]であり、店舗外ATMがある以上、旧出張所の場所はこの近所に間違いないハズだ。
 手許に用意していたりそな銀行店舗一覧(自分のHPに載せているもののプリントアウト)を出す。旧深阪出張所の所在地は堺市(中区)深阪2362とあった。次に、ATMの隣にある雑居ビルに歩み寄る。雑居ビルはりそなと関係あるわけではないのだが、店先にテナントのチラシが貼ってあったりするとビルの住所(所在地)がわかる。このようにして薬屋や不動産屋など数軒の店の所番地を調べて回った結果、「2362」に該当するのは結局さっきの学習塾であると分かった。
 戻ってみると、塾の横から下がっている坂道の記憶がよみがえってきた。出張所の駐車場に車を止めようとして、坂道へ迷い込んだのだ。深阪出張所の制覇は2003年8月1日だったが、当時私は有人出張所の制覇に重点を置いており、この時の関西遠征ではひたすら有人出張所を車でめぐっていた。あの頃は営業店の統廃合が激烈に行われていた時期で、こういう時まず狙われるのは支店ではなく出張所だからである。予想どおり深阪出張所は、制覇から5か月後の2004年1月に母店の泉北支店に統合されてしまった。旧深阪出張所は、1982年5月に泉北支店の有人出張所として開設されたもので、この地にびっしりと開けた住宅地の、富裕な顧客を対象にした出張所であったのだろう。
 なお、この学習塾の建物が銀行時代のままかどうかは、記憶が飛んでしまっている。塾の建物としては形態が整っていると思うから、旧建築は解体されたのではないか。

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2009年06月09日

2008.01.26(土)(14)深井支店を制覇

 泉北高速鉄道沿線の目標はまだ1店舗残っている。次の目標は深井支店(堺市中区)である。
 泉ヶ丘駅から北の方向に来たのだから、バスでこのまま深井まで行くことが可能ではないだろうか。そして、深阪の停留所からここまで歩いてきたのであれば、もう次の停留所の方が近いのではないだろうか。根拠のない期待を胸に、私は泉ヶ丘駅とは反対の方向に歩みを進めた。右側にスーパーマーケットがあり、バス停のポールが店の前に見える。こちらの停留所の方が現在の店舗外ATMには近い。
 停留所の名前は「宮山台四丁」という。ここは堺市であるので宮山台「四丁目」ではない。伝統ある港町の堺市中心部と同じルールがこういう新興住宅地にも適用されているのは、ほほえましいと思えた。それはともかく、バス停に掲示されている停留所の一覧を見ていると、「深井」とつく停留所があったので、今から行く深井駅に近づくことを期待しつつ、停留所の地名と手持ちの地図とを照らし合わせてみた。バスは泉北高速の線路から1.5kmほどのところをつかず離れずのまま直進して津久野駅(JR阪和線)に向かうようで、やはりこのまま潔く泉ヶ丘駅に戻るしかないようだった。
 津久野方向からバスが来るらしき先に見える薮の向こうから、バスがひょっこりと現れた。この光景は私が以前に深阪出張所を制覇したときにも見たような気がするが、前回は車で来たのだからまあ気がするだけだろう。宮山台四丁15:26発ということだったが、バスは3分ほど遅れていた。今来た道を再び忠実にたどって泉ヶ丘駅に戻る。

 15:40発の準急難波行きはすぐにやって来た。隣駅・深井には4分ほどで到着。泉北高速鉄道は駅間距離が比較的長い。
 泉北高速沿線にあるりそなの支店のうち、1つは電車の高架下に置かれていたと記憶している。今日はこれまで高架下の支店は1つもなかったが、泉北とがは(今日行っていないけれども)確実に違うし、残っているのは深井だけ。よって、必然的に深井支店は高架の下にあることになる。
 高架ホームから階段を降りて左に直角に曲がるとすぐ改札である。改札機を出てすぐ目の前の窓から尼崎信用金庫の支店が見えているのに驚きつつ、左に90度向きを変える。線路と同じ向きに設けられた通路を20mほど直進して左に360度折り返すと階段、そして階段を下りきったところでもう1回左に90度曲がって、トータルでは1回転以上してしまった。ここで曲がらずに高架下をまっすぐ行けば、ハンバーガーショップの「ドムドム」の向こうにある突き当たりにりそなの入口があったのだが、駅の外へ出ようとしたのである。どんな複雑な動きだよ、と思う。
 駅前広場に出てみると、「泉北高速鉄道深井駅」と書いてある駅の壁にりそなのロゴが見えた。ようやく(といっても経過時間はせいぜい1〜2分だが)支店に入る。今日は土曜日であるから、キャッシュコーナーしか開いていない。北側の入口から入ると、向かって右側にはATM(JX白)が10台。左側は半分が窓口室へのシャッターになっており、残りの半分には両替機1台とATM(AK-1)が2台、そして記帳機が並んでいる。15:52、深井支店を制覇した。
 深井支店は1982年10月に大和銀行深井支店として開設された。

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2009年06月10日

2008.01.26(土)(15)南海高野線を南へ

 次の目標はちょっと距離が開いて、南東に直線で10kmほどの河内千代田支店(河内長野市)。深井から行くには、泉北高速で中百舌鳥(なかもず)に出て南海高野線に乗り換えである。
 泉北高速鉄道の沿線は深井支店をもって全店制覇したが、せっかく来たからには街の雰囲気も多少見ておきたい。こういう時、私はまずバスを探す。深井駅前からは堺市東区の中心である北野田と、堺市の中心である堺東(堺市堺区)へ抜けるバスがあって、北野田に抜ければそのまま高野線にアプローチできそうだった。しかし、既に夕方4時近い。日没が目の前に迫っていることを考えると、時間がかかるバスよりは電車で行った方が確実である。かくして、町の様子を見ることは断念して電車に乗ることにした。
 複雑な形状の通路を再び通ってホームに上がる。15:57発の準急難波行きは、深井を出ると高架から下りて地下に潜り、トンネルの中をしばらく走って再び地上に出た。そこが中百舌鳥で、16:07発の河内長野行き各駅停車に乗り換えである。中百舌鳥から目的地の千代田は駅の数でいうと9つも先なのだが、この時間のダイヤでは各駅停車で行くのが最も早い。
 左の車窓に複雑な形状をした塔が見え始めると北野田である。見えるのは富田林市にあるPL(パーフェクトリバティー)教団の「大平和祈念塔」。一種の宗教施設ということになるが、たとえそうであってもこの地のランドマークとして十二分に機能しているのではないか。北野田は戦前から続く高級住宅地「大美野田園都市」の最寄り駅で、近年の再開発により高層マンションが林立している。但し、りそなはどういうわけかこの近辺に営業店もATMも置いていない。
 その先にある金剛(大阪狭山市)は、特急も停まる大きな駅で、橋上駅舎を西側に出るとバスターミナルと大規模団地が広がっている。金剛駅に着くと左側車窓から茶色い高層マンションが見えるが、この1階にりそな銀行金剛支店が入っている。金剛支店は過去の時点で写真撮影を済ませてしまっているので今回は立ち寄らないが、それではあまりなのでそのときに撮影した写真を掲載しておこう。やや蛇足めくが、ウオッチャーを長いことやっていると、過去のいきさつやしがらみからどうしても逃れられず、新たな気持ちで「最初から」めぐを行うのがなかなか難しい。その意味で私は、2008年夏に実施された近畿大阪銀行のシステム統合に相当期待していた。近畿大阪の店にはほとんど行ったことがなかったからである。期待は裏切られなかったのでよかったと思う。
 閑話休題、金剛支店は2004年4月に現在の駅前の店舗に移転したのだが、それより前は駅南側の踏切際に店舗があった。旧店舗跡地は「インプラントセンター」というものになっていた。インプラント(人工歯根治療)というのは、何らかの理由で歯を部分的に失ったとき、元あった場所に金属の土台を埋め込み、その上に人工的な歯を固定させる歯科医療だそうである。
 金剛を過ぎると畑と古い家が増え、車窓の風景が一気にひなびてきた気がする。やはり金剛駅を境に乗降客が減るのであろう。しかし、千代田に近づく頃から再び宅地開発が進んできた。

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2009年06月11日

2008.01.26(土)(16)河内国の千代田にて

 千代田に着いた。複線の両側に対向式ホームが1組へばりついた駅で、エスカレーターを上がって橋上駅舎へ。ここまでは大手私鉄の駅としてごく普通である。しかし、千代田駅が変わっているのは、駅の北側に下りる階段がかなりの長さになっているところである。よくよく見ると、線路が地平面から微妙に高くなったところにホームがあるようだ。紀伊山地と大阪とを結ぶ南海高野線は、南から北に向かって土地が低くなっており、千代田駅周辺も駅から難波方向に下がっているのである。
 河内千代田支店があるのは駅の西側である。西側には何があるのか。おおかた支店の他にはバス乗り場でもあるのだろうが、とりあえず駅周辺部まで見てみるつもりで改札を出て右(西側)に出てくると、階段が左右2方向に分かれている。支店にストレートに到達するのは南向きの左側の階段であるが、北向きの階段を降りてみた。前述のように階段はかなり長い。長いというか、地面からの高さがかなりあるため、つづら折れが3段になっている。階段を下りきったところではホームの外壁がべったりと視界を遮っている。ホーム床面までの高さは3mほどもあるだろうか。ホームが高いというより、バス乗り場が低いところにあるのである。
 左前方の高台上にある建物に「りそな銀行」という横長の板看板が見えた。河内千代田支店は協和銀行河内千代田支店として1973年2月に開設され、支店建物もその当時からのものである。旧あさひ店舗であるので、建物には色つきの切り抜き文字ではなく板の看板がついている。バス乗り場と高台との間は1mほどの高低差があって、公園のような遊歩道と、スロープと階段でつながれている。
 支店に入ると、キャッシュコーナーにはATMが5台(富士通ファクトA2台、オムロンHX、JX青、富士通FV20)あった。あさひ店であるが、近隣にあった旧大和店の千代田出張所を統合しているから、ATMは富士通とオムロンが並んでいる。ATMの右隣には富士通の記帳機が1台置かれている。16:42、河内千代田支店を制覇した。

 制覇の後、支店の近所を少々歩いてみた。千代田駅周辺は、おおまかには商業集積が少々ある郊外の新興住宅地である。かつてはあさひの他大和銀行の出張所と東海銀行の支店もあったハズで、大和店の跡にも後で行ってみるつもりだが、東海の店はどこにあったのだろうか【注】。代わりと言ってはなんだが、踏切を挟んでりそなの反対(東)側に大正銀行という珍しい銀行の支店がある。大正銀は旧三和銀行と親密だった第二地銀だが、大阪府を中心に21支店しかなく、それも千代田のように駅に近接した店は多くないから、この銀行に遭遇することは極めてまれだ。キャッシュコーナーに入ってみると、もう閉店のアナウンスが流れていた。まだ5時前なのにと思ったが、この銀行は平日でも18時でATMの稼働を終えてしまう。
 少し暗くなってきたが、近隣にあった旧大和店(金剛支店千代田出張所)の跡も見ておこう。旧あさひ店の西側は、2軒向こうが駅前通りと国道371号が交差する駅前交差点である。北西角に1階がソフトバンクの携帯電話ショップとなった「六甲ビル」という雑居ビルがあって、携帯ショップが千代田出張所の跡である。金剛支店千代田出張所は旧大和銀行が1986年1月に開設し、りそな発足後の2003年8月11日に河内千代田支店内に移転(支店内支店化)、2006年6月名実ともに河内千代田支店に統合されている。私の初制覇は2003年8月2日で、支店内支店化実施の直前であった。
 なお、近所の大野台という団地にある近畿大学付属病院(大阪狭山市)には、河内千代田支店を母店とする店舗外ATMがある。開設は1976年1月で、これは協和銀行の無人出張所の中でも最初期に属する設置であった。「あさめぐ」の時代に行ったので懐かしい。

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 【注】後で調べたところによると、旧大和店先の西友の前にあったようだ。

2009年06月12日

2008.01.26(土)(17)まずは羽曳野支店へ

 次の目的地である古市(羽曳野市)へは、河内長野まで出て近鉄長野線に乗り換えである。地図で見ると三角形の2辺をぐるっと迂回していくような形になるが、止むを得ない。この調子だと現地に着いたころには真っ暗かもしれない。ともかく、千代田17:06発の区間急行三日市町行きで河内長野へ。南海の改札を一旦出て近鉄の改札を入ると、17:17発の準急あべの橋行きに乗れた。
 近鉄長野線では途中の富田林駅近くに富田林支店があるが、金剛支店を取ったときに一緒に写真撮影までしてしまっているので今回は立ち寄らない。途中の喜志では若い男女がかなり多数乗車してきた。喜志はPL教団のひざ元であるが、この人たちも信者なのだろうか。2006年1月、旧奈良銀店舗めぐりで奈良県天理市に行ったとき、駅前に天理教のジャンパーを着た若い男女が多数いたことを思い出す。
 羽曳野市の中心駅・古市には、河内長野から20分ほどで着いた。市名と駅名が異なるのは市制施行前に古市町といったためである。この駅は近鉄南大阪線と長野線が分岐する駅であるほか、橿原方面からの各駅停車はこの駅が始発・終着となる要衝で、また近鉄で最も歴史の古い駅の一つでもある。駅構内は島式ホームが2本。路線が分岐し通過待ちも行う駅としてはさほど大規模でもないが、それでも南大阪線の駅の中では非常に大きな部類に入る。
 この駅は改札が一番南の端に片寄っていて、橋上駅舎に上がるエスカレーターもホームの一番南寄りにある。エスカレーターでは片側空けのルールを知らない爺さんが(左側空けが基本の大阪で)左側で陣取っていた。「すいません」と言いながら避けて通ったところ、彼がうなっているのが聞こえた。私が無理矢理(?)通ったので腹を立てたらしい。

 さて、古市での目標は2か所ある。まずそのうちの1つ、羽曳野支店の制覇に向かう。改札を出て西側の階段を下りると、商店街が右手に続いている。前方には近鉄プラザという大型スーパーが見える。駅前の商店街は、土曜日の夕方とあってか、かなり人通りが多かった。買い物をする主婦(?)が多いのだが、意外に高校生も多い。女子高生はそろそろお帰りの時間なのだろう。
 りそな銀行羽曳野支店は、この駅前商店街を抜けた先で、距離にすると駅から100mぐらいの「白鳥」という交差点の角である。通りの途中には、関西アーバン銀行の羽曳野支店(旧幸福銀)。外装は茶色く塗られ、内部は関西アーバン標準の木目調に改装されていたが、店先についている旧幸福銀行独特の飾り格子は健在である。アーバンの向かい側には、大阪東信金の古市支店(旧八光信金)。今日は土曜日、しかも既にかなり暗くなってきており、信金のATMコーナーは固く閉ざされていた。この他、近所には奈良県のトップ地銀・南都銀行が羽曳野支店を出しているらしい。
 白鳥の交差点に着いた。「着いた」と言わなくても、既にかなり手前からりそなの建物が見えている。まずガードレールに上って写真を撮ろうとしたが、車の通りがかなり激しくて思ったような写真にはならなかった。駅を出たときにはまだほんのりと明るかった気がするが、今となってはすっかり暗くなってしまっている。機会があれば後日撮り直しとしよう。
 ATMコーナーの右側は、羽曳野警察署の「白鳥交通警察官詰所」になっている。畳2畳分ほどの部屋にはスチール机と折り畳み椅子が置かれているだけであった。警察の施設を銀行の建物の一部に取り入れるのは、どういう意味があるのだろう。旧あさひ店でも、成増支店(東京都板橋区)の建物にはかつて交番が同居していた。白鳥交差点の周辺には、この詰所以外に警察は全くないようだが、いくら警察の出先とはいえ警察官が常駐していないのでは防犯上の意味はあまりないだろう。それとも「警察」というだけで一定の犯罪抑止効果があるのだろうか。
 キャッシュコーナーに入ると、7台のATM(AK-1が2台、JX白が5台)と記帳機があった。7台のうちIC対応の機械が3台あったが、JXの白台でIC対応になっている機械はこの当時あまり見かけなかった。生体読み取り装置を本格的に導入される以前の機種だからだろうか。羽曳野支店の制覇は17:43のことであった。
 羽曳野支店は、1895(明治28)年4月に富田林市に合資会社として設立された富田林銀行の古市支店であった。古市支店は開業翌年の1月に開設されている。富田林銀行はその後、1896年7月に株式会社に改組されたのち経営が蹉跌し、1934年12月に野村銀行に営業譲渡された。古市支店はそのまま野村銀の古市支店となった。支店はかつて古市駅の東側にあったが、1961年11月に西口の現在に移転し、現在の店舗は1979年6月に新築されたものである。1992年10月に古市支店から現在の羽曳野支店に改称している。特筆すべき点としては、1959年1月の羽曳野市制施行と同時に市金庫になっていることと、1992年5月に協和埼玉銀行羽曳野支店(1971年7月協和銀行羽曳野支店として開設)の営業譲渡を受けていることである。協和の支店は、現支店と同じ交差点の対面、マンションが建っている角にあったようだ。

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2009年06月13日

2008.01.26(土)(18)商工会館は残っているか

 古市には目標がもう1つあった。りそなに関係する歴史的建造物である。
 明治時代に建築された旧富田林銀行古市支店が、古市駅の東側にまだ残っているらしいのだ。これは1961年まで大和銀行古市支店として使われ、最近まで羽曳野市の商工会館となっていた建物である。2007年末に入ってきた情報では、この建物は近日解体されてしまうのだという。情報が入ったのが12月だったから、1月のこの時点では既に解体済みの可能性もある。しかし、万が一ということもあるではないか。それを確かめようとしたのである。
 古市駅に戻ってきた。駅前の踏切を渡って東へ。路線分岐駅と車庫に隣接したこの踏切は、またいでいる線路の本数が非常に多い。踏切横のミスタードーナツには以前1回来たことがある。こうした様子を横目で見ながら東へ進む。
 商工会館があるという羽曳野市古市3-1は、古市駅の東側300mほどのところである。古市は明治時代には駅の東側が中心地だったようだが、今となっては商業などないに等しい。センターラインを引く余地もないほど狭い道は「竹ノ内街道」といって、これでも国道166号線の本線であるが、寂れた商店街というより完璧に住宅地そのものとなっている。新しい建物は見かけないが、といって観光地になりそうなほど古い建物が多いわけでもない。「スーパー玉出」がこんなところに店を出していて、サイケデリックな看板が目立っている。その先には農協(JA大阪南・古市支店)。さっき駅のコンコースで掲示地図を見たところによると、農協は駅と商工会館とのちょうど中間地点にある。
 そして…。

 残っていた!

 この12月まで羽曳野市商工会館として使われていた旧富田林銀行古市支店の建物は、変わらず佇んでくれていた【注】。正面の鉄扉には「別れを惜しむ市民の集い」という貼り紙がまだ残っている。旧羽曳野市商工会館は、1910(明治43)年頃の建築で、富田林銀行古市支店として建てられたものである。1961年11月まで大和銀行古市支店として使用されていたが、支店が駅の西側(現在地)に新築移転した後は羽曳野市の商工会が譲り受けて商工会館として使ってきた。しかし、明治期の建物はさすがに維持していくのが困難となり、ついに建て替えられることになったものである。経営が蹉跌した富田林銀行は1934年に野村銀行に吸収され、本店は現りそな銀行富田林支店に、そして古市支店は現羽曳野支店となっている。
 建物が残っていることが明らかになった以上、やはり取り壊されてしまう前に最後の姿をカメラに収めておきたい。明日は京阪沿線にあるりそなの店舗を攻めつつ法事に向かうつもりであったが、予定を変更して、明るい時間にもう1回商工会館の写真を撮りに古市まで来ることにしよう。

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 【注】旧羽曳野市商工会館:2008年春に解体された。

2009年06月14日

2008.01.26(土)(19)古市終了後

 もうすっかり暗くなってしまった。写真も撮れないこの時間には、普段やっているような「りそめぐ」はできないのだが、ウオッチャーとしては、1月に新築移転した柏原支店(柏原市)の新店舗を見に行くのと、2004年3月に統合された旧やまと高田出張所(奈良県大和高田市)の写真を撮りに行くのが課題として残っていた。もう既に真っ暗で写真は撮れないが、「闇夜のカラス」のような写真であっても全くないよりはマシだと考え、フリー切符を持っていて交通費が無料となる日に無理やり写真を撮りに行ったのである。
 古市18:26発の準急あべの橋行きで、古市の隣駅・道明寺へ。近鉄道明寺線18:34発に乗り換え、柏原に着いたのは7時前であった。でも、もうすっかり夜である。
 スルKAN2dayは改札でそのまま見せて通った【注1】。前回来た時に工事中であったデッキはほぼ完成したように見えたが、まだ開通はしていなかったから、移転済みの柏原支店に行くには一旦地平に降りて、まだ工事の続く駅前広場を抜けなければならない。駅前に出てみると、事前の予想どおり、駅前の再開発ビル「アゼリア」の前面2階部分に「りそな銀行」の文字が見えた。
 支店のキャッシュコーナーは、1階と3階にあるようだ。3階にキャッシュコーナーができかけていたのは前回わかっていたから、1階のキャッシュコーナーに入ってみる。キャッシュコーナーとしてはこちらがメインであるらしく、合計6台のATMが置かれていた。AK-1が1台とJX白が2台、そして1mほど後ろにずれてJX白が3台。店舗こそ新しいが、移転前の支店で使っていた機械をそのまま持ってきたらしく「7時まで無料」のステッカーが大々的に残っていた。ATMでの預金引出が平日19時以降有料であることを示す「7時まで無料」というステッカーは、今貼ってあってはいけないのである。りそなは前年(2007年)11月からATMの時間外手数料を「完全無料」としたからだ。こういう細かいところに気が付く人が、1店舗につき1人くらいはいて欲しいと思う。あるいは、新築店舗なのだからこれを機会に新しい機械に交換すればよいのにと思わないでもない。
 もちろん3階キャッシュコーナーにも入ってみた。建物横のエスカレーターを使って上がると、3階には両替機が1台と、珍しくオムロンIXが2台置かれていた。

 次は、ほんの少しだけ大阪府を飛び出し、奈良県大和高田市に向かう。もちろん「スルKAN2day」のおかげで余計な電車賃がかからないからである。
 柏原から大和高田までJRを使わずに向かうには、方法が2つある。一つは、今来た道明寺線で道明寺に戻り、近鉄南大阪線で高田市へ出て、そこから北に向かって約1km歩くルート。もう一つは柏原駅の東にある近鉄大阪線の堅下駅まで歩き、そこから大和高田に向かう方法である。どちらもそれなりに歩く必要があるが、1つ選ぶとなると、夜も遅いことだし確実なルートということで、大阪線を使うことにした。高田市→大和高田の徒歩移動はしたことはないが、柏原駅から堅下駅までの間は前回(2007年11月)に歩いたばかりで【注2】記憶が鮮明なのである。
 堅下19:12発の普通河内国分行きに乗車。終点で接続電車があるだろうと当然のように思っていたが、ひどい。単に降ろされただけで、後続の準急名張行きが来るまでかなり待たされた。準急は国分の次の五位堂で降りて、快速急行宇治山田行きに乗り換え。大和高田は快速急行では五位堂の次の駅である。
 闇夜のカラスのような写真をさっさと撮り、大和高田19:57発準急上本町行きで大阪に戻る。20:38鶴橋に到着し、難波行きに乗り換え。この日は例のカプセルホテルに投宿してあっさりと終わった。

 【注1】前回、柏原支店に行った際の体験記で、「スルッとKANSAI 2dayチケット」は近鉄道明寺線では本当は通用しないことを書いた。あれは執筆時点で確認した結果であって、この時点では当然のように通用すると思い込んでいた。
 【注2】当ブログ連載「りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿」の「2007.11.26(月)(5)住宅地を抜けて堅下駅へ」を参照。

2009年06月15日

2008.01.27(日)エピローグ 難波→京都→東京

 翌日。昨夜暗くて写真が撮れなかった2か所、柏原支店と羽曳野市商工会館を回ってから、京都府内の伯母宅へ向かうことにした。
 日本橋から近鉄の快速急行奈良行きに乗る。鶴橋で大阪線の準急榛原行き08:46発に乗り換え、さらに高安で河内国分行き各駅停車に乗り換えた。高安では特急待ちなどもあって8分も待たされた。どうも近鉄は各駅停車と優等列車との接続が悪くて腹が立つ。
 12時間ぶりに堅下にやって来た。JR柏原駅前にある柏原支店の写真をパパッと撮って、柏原から近鉄道明寺線09:32発。道明寺からは09:42発準急吉野行きに乗り換えて、古市には09:45に着いた。古市では羽曳野支店と商工会館の2か所の写真を撮り直したが、この時間の太陽光線は写真を撮るのに不向きで、一応建物ははっきりと撮れたものの、大事なところに影が残った出来のよくない写真になってしまった。闇夜のカラスよりはマシだが、いずれもう1回撮り直しに来なくてはいけない【注】。しかし、羽曳野支店はともかく、前述のとおり商工会館はもう撮り直しもきかない。

 法事の開始時刻「午後1時」に間に合うように、近鉄京都線の某駅まで行かなければならない。2か所の写真撮影で予想外に手間取ったせいで、古市発は予定より40分も遅くなってしまった。10:18発準急橿原神宮前行きに乗車。橿原神宮前には10:52に到着し、連絡通路を大急ぎで走って10:53発の橿原線普通大和西大寺行きに乗り換え。さらに終点の西大寺で京都線の急行国際会館行きに乗り換える。大和西大寺では乗ってきた各駅停車の向かい側に電車が1本停まっていて、この電車が両サイドのドアを開けている。これにより電車が跨線橋のような役割を果たし、隣のホームに停まっている急行国際会館行きに階段を昇降せずに乗り継ぐことができた。近鉄にはこういう臨機応変な一面もある。
 途中駅で各駅停車に乗り換えて、目的地の駅には12時過ぎに到着した。法事は、他の親戚一同が大遅刻してきたおかげで、結果として一番乗りで出席した。親戚としばし歓談の後、その晩に京都駅八条口を出る近鉄の夜行高速バス「フライングスニーカー」で帰途についた私であった。
 夜行高速バスは、今回コンビニの多機能端末を初めて使ってみた。私が使ったのはローソンの「ロッピー」である。日曜の夜8時には、私のような考えの人間が他にもいたのであろう。京都駅から新宿まで直行するバス便が、私が手続きしようとした瞬間に買えなくなってしまった。ついさっきまで「残席わずか」となっていたのが、たちまちなくなってしまったのである。一瞬血の気が引いたが、結局は東京駅八重洲口行きのバスを確保した。

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 【注】羽曳野支店の写真撮り直しは2009年3月に実現した。当連載の「2008.01.26(土)(17)まずは羽曳野支店へ」では、1月26日撮影分と撮り直し分の両方を掲載している。

<りそめぐ2008冬 銀河に乗って知事選たけなわの大阪府へ 完>

2009年06月16日

あとがき・参考文献一覧

 「りそめぐ2008冬 銀河に乗って知事選たけなわの大阪府へ」、6月15日をもって完結いたしました。
 最後までお読みいただいた方には、例によってダラダラと続いた連載にお付き合いいただき、御礼申し上げます。あとがき等も含めた分量は、最終的に約260枚(400字詰原稿用紙換算)となりました。

 「はやぶさ・富士の乗り納めレポート」が今頃出るのであればまずまずでしょうが、今回の連載は、去年春のダイヤ改正で廃止になった「銀河」の乗車記から始まっています。前回の連載「近畿大阪めぐ」の末尾で、私は「次の連載は、準備が既に相当程度進んでいますので、近日公開できると思います」と大見得を切りました。しかし、2月下旬に連載が終わった後、次の連載まで結局2か月以上も経ってしまいました。今回の連載が「相当程度準備できている」ハズのものですので、タイムマネジメントの稚拙さには恥じ入るばかりです。
 じゃあ次回以降は? いちおう、次回連載分として「小ネタ」を準備している途中であり、また大きな連載も10本分くらい材料のストックはあります。処理している時間がないだけです。「めぐ記」を書く専業にでもなればもっと発表ペースは速くなるでしょうが、そういうわけにも行きません。

 今回は、大阪府知事選挙をはじめとして、社会問題にかなり言及することになりました。箕面の高級住宅地も、西成のあいりん地区も、ともに大阪の「真実の姿」です。橋下徹氏はこれだけバラエティに富んだ貌を持つ府のトップに立ったわけで、舵取りが困難であることは就任後の報道からもうかがい知れます。一度握手を交わした同世代の者として、「“ギョエー”というような」大阪変革を橋下氏が達成できるよう期待しております。大阪府民ではありませんので腰の引けた言い方になってしまいますが。
 なお、今回の連載では、初めて苦情を頂戴しました。全体に目配りはしていたつもりですが、やはり抜けるところはある。これはもう人間として宿命のようなものでしょう。ただ、ミスを犯した時いかにフォローするかに人間の真価が表れると思います。6月就任した埼玉りそな銀行の上条正仁新社長が、就任に先立つ5月の記者会見で「“卑屈で傲慢”ではなく“謙虚で毅然”」と仰っていました。今回私は、それを敷衍したわけではありませんが、真摯に(謙虚に)逃げずに(毅然と)対応したつもりでいます。さて、どのように評価されるでしょうか。

 プライベートでは、相変わらず「いい話題」と縁のない生活を送っております。厄年とはこういうことなのか、と歯噛みするような出来事ばかりです。頭の中では不吉な妄想も渦を巻いていますが、「言い当てる」ことにならないよう、ここでは紹介しません。
 さまざまな思いが去来しますが、この連載はこれにて終了します。この連載を数年後に読み返して「古い」と感じられることがあるかもしれませんが、あくまで 2008年1月の実体験と、その後の連載期間における「一面の真実」です。そういうものだと思ってお読みいただくことを望みます。
 この連載のような「文章を使っての自己主張」が、私の生き甲斐です。今後ともご支援・ご鞭撻をいただけますようお願いします。ご意見や情報提供をお待ちしています。このブログ「MEGU」は、コメント・トラックバックを歓迎していますし、私のメールアドレスも公表しています。

 なお、この連載の執筆にあたっては、以下のような書籍・webサイト等を参照いたしました。

参考文献一覧
紙媒体は発行年順、webサイトは本文掲載順(2009.04.30現在)
  『牧野頭取講演全集』不動貯金銀行、1930年
  『大和銀行四十年史』大和銀行、1958年
  『大阪貯蓄銀行五十年史(草稿)』協和銀行二十年史編纂室、1965年
  『茨木市史』茨木市、1969年
  『富士銀行百年史』富士銀行、1982年
  『大和銀行七十年史』大和銀行、1988年
  『協和銀行通史』あさひ銀行、1996年
  『大和銀行八十年史』大和銀行、1999年
  『富田林市史 第三巻』富田林市、2004年

  『銀行総覧』大蔵省銀行局、各年版
  『日本金融名鑑』日本金融通信社、各年版

  『橋下 徹 オフィシャルウェブサイト』http://www.hashimoto-toru.com/
  「銀行変遷史データベース」『全国銀行協会』http://www.zenginkyo.or.jp/library/hensen/
  『大阪民国総合案内』http://www.osaka-minkoku.info/
  「スーパー玉出ツアー」『飴屋的蜘蛛頁』http://homepage.mac.com/ameya/travel/tamade/tamade.html
  「イヅミイチ(泉一)の醤油」『まるで猿のブログ』http://marudesaru.blogzine.jp/marudesaru/2006/09/post_fdae.html
  「主な産業の歴史」『泉大津市』http://www.city.izumiotsu.osaka.jp/sangyouseisaku/menu-sangyohistory.html
  「桐生の鋸屋根工場」『ファッションタウン桐生推進協議会』http://www.ftnet.or.jp/nokogiriyane/index.html

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カテゴリ一覧(過去の連載など)
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りそめぐ2007秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる(35)
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あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇(34)
2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)