2017年05月13日

2014.07.18(金)(39)大垣市をかすめて船附へ

 水門川の橋には、行政が立てた「大垣市」という標識が出ていた。揖斐川の西に2本流れる川の中間にある堤防を境に、県道羽島養老線は安八郡輪之内町を出て大垣市に入る。大垣市は大垣共立銀行の本店所在地であり、「めぐ」をやるならやるでキッチリ取り組まなければならない地域だが、今日は特別なことは何もない。行政区域が大垣市になっただけの話であり、この近所に大共の拠点はないから、標識を横目で見ながら過ぎ去るのみである。
 自転車に乗った女子高生何人かとすれ違った。なぜ女子高生ばかりなのかは知らない。福束大橋西詰の交差点から下り坂が始まった。交差点の手前で、さらにもう1本小さな川を渡った。このあたりはとにかく川が細かくたくさんある。

 大きな道路に突き当たって、横曽根3の丁字路で左に曲がる。しばらく行くと、目指す[船附]である。
 突き当たった道は、大垣市の中心部から名神高速の大垣インターを通って三重県桑名市に至る国道258号線で、大垣と桑名を結んでいることから「大桑(だいそう)国道」と呼ばれる。何時間かぶりで再会する大桑国道。今日の「めぐ」で最初の方の[松山]や南濃支店を制覇する時にも遭遇したが、この道を実際に通るのは本日初めてである。
 この付近の大桑国道は、中央分離帯つきの片側2車線で、大幹線道路に相応しい規模であった。歩道も結構広くて、車1台通れそうなほどの幅がある。左に見える新水門川排水機場は、さっき橋の上から見えたのと同じもの。ポンプ場と国道の間に、土蔵のような外観をした水防倉庫がある。大垣輪中横曽根水防倉庫は、単なる水防倉庫のようだが、それなりに見た目に気を使っているのだろう。ここは輪中堤の切割を封鎖するわけではなさそうだが、土嚢の材料でも入っているのだと思う。なお、横曽根3から走ってきての印象だが、大垣市に入った途端に水稲耕作をやっている水田が一気に消えたと感じた。水防倉庫の名称にもあったとおり、ここは大垣輪中であり、輪之内町の福束輪中からは脱している。今は輪中によって水稲耕作の状況が異なっているのかもしれない。
 堤防上から養老大橋という橋を渡るようで、橋に向かってちょっと上り坂になっている。大きな川はもう渡ったハズだから、揖斐川とは別に小さな川があるのだろうか。その割にかなり大規模な橋であると思った。行政が出した青看板によると、ここから桑名まで30km、南濃まで11km。幹線道路だけに、国土交通省か県警が出した電光掲示板もある。「速度注意」などのメッセージは説教がましいが、現在の気温を知らせてくれるのは役に立つ。只今の気温は32℃とあった。
 養老大橋を渡り始めると、河川敷の部分は畑と、原生林のような森になっていた。河川敷は泥だらけの草ぼうぼうである。ここもやはり、よどんだ川が下に横たわっている。そして、川がもう1本。このあたりはいったい何本川を越えるのだろうか。後付けの知識では、この橋は揖斐川の支流2本、杭瀬川と牧田川をまたいでいる。
 川の向こう、養老町側では堤防の草刈りをやったようで、野焼きの煙が目にしみた。大垣市は養老大橋を渡り切るところで終わりである。

 2本の川をようやく渡り切った。養老大橋を渡ってすぐのところに、名阪近鉄バスの〔船附〕停留所がある。ここに来るバスは、大垣駅前から今尾を通って海津市役所へ行く海津線で、途中の今尾までは1時間に1本ある。この地区の路線バスは、名阪近鉄バスという会社が担っている。大垣のバス会社として発足し、路線バスも大垣地区のみで運行しているが、近鉄グループ内の事情で本社は名古屋市にある。現在は三重交通(グループホールディングス、近鉄系)の完全子会社となっている。
 バス停があるということは、このあたりから人里に入るようだが、まだ堤防上のようだ。そう思った時、非常にけしからぬものに遭遇した。人間はここで国道から降ろされてしまうのである。車道は向こうの交差点に向けて緩やかな坂を4車線のまま真っすぐ下りていくが、歩道はバス停のすぐ先で勾配が急にきつくなっており、歩道はどこへ消えたんだろうと思わせる。急坂の下を見ると、もっと腹の立つことに、道路に沿ってしばらく前方に下ったのち、坂の途中で180度折り返して手前に下りてくるのであった。私は呆気にとられた。何という無駄なことを。車道に移ろうにも、歩道との間はガードレールでガッチリ仕切られている。向こう側へ移動するのは(自転車をかついでガードレールを越えない限り)不可能であった。
 ふざけるな、なぜヘアピンにするのだ。戻ってしまうではないか。頼むから真っすぐ行かせてくれよ。この下の住民のために折り返しを作るのは構わないが、それをやるなら真っすぐ行くスロープ「も」作ってほしい。盛り土の部分を削ればできるハズだ。
 ブツブツ言いながら、ハンドブレーキを握りっぱなしにして急坂を下る。このスロープは道幅が広いから、それなりにスピードが出せないことはない。そしてUターン。車で駆け抜けたら快適であろうこの道は、歩道からいきなり下に下ろされてしまうし、ヘアピンカーブで向きを強制的に変えさせられるし、自転車ではまことに走りにくい道であった。どうして直進するニーズを考慮に入れていないのだろうか。やり場のない憤りにかられる私であった。
 スロープ横の地べたに下ろされた。ここでまた180度向きを変えて、国道に沿って走る側道を南(厳密には南西)に向かう。側道は不可解に曲がりくねっており、しかも国道に向けてちょっとした上り坂になっている。このあたりは塩喰(しおばみ)といい、輪之内町が揖斐川の西岸に少しだけ食い込んだ飛び地のような場所である。行政区分は異なるが、建ち並ぶ家は輪中の石垣の上に乗っかっているし、船附地区とは一つながりの集落なのであろう。なぜ飛び地ができたかといえば、今尾から野寺に向かう途中でも述べたが、かつての川の流れを反映しているのである。

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2017年05月12日

2014.07.18(金)(38)さらば輪之内町

 さっきの川沿いの道を北上する。
 カントリーエレベーターの前をさっき通らなかったので、元の道に戻る機会に通ってみた。カントリーエレベーターは、収穫した米を貯蔵しておくための施設で、大まかには乾燥機と貯蔵庫をエレベーターでつないだ倉庫である。稲刈りして脱穀した「もみ」を乾燥させてサイロに保管しておき、米が必要な時にもみ摺りをして出荷する。カントリーエレベーターで特に目立つのは、米を貯蔵しておくサイロの部分である。
 ここには、7階建てビルくらいの高さの円筒が8本ほど並んでいる。周囲に何もない水田地帯に、窓のない長細い円筒が林立していて、見上げるとその巨大さを改めて感じた。その下にJAにしみのの店舗(輪之内支店)があるが、建物が非常に新しいのが印象的であった。輪之内町は面積こそ小さいけれども、農業でかなり稼いでいるようで、青息吐息というわけではなさそうである。

 県道羽島養老線に出た。歩道が完備された対面2車線の道が、水田地帯の真ん中を相変わらず貫いている。道端には、彼岸花に似た赤い花が咲いていた。朱色で鮮やかな色合いであった。真夏のこんな時期に彼岸花ではないと思うが、植物のことは私にはさっぱりわからない。なお、距離を計算してみると、この付近(八反田交差点近く)で、自転車での移動は計画上の中間地点に達したようだ。
 その先、中郷交差点の東側には、立派なお屋敷があった。石垣の上に土蔵などが多数建っており、伝統的な輪中の家と思われる。この近所では珍しくないであろうお屋敷だが、私はよそ者であるので物珍しさを感じて写真を撮る。小中学校の地理の時間で教わる濃尾平野の輪中は、こうした高台上の住居の話をして終わりになると思う。高須地区などで見たとおり、堤防の内側にある民家は、少しかさを上げて高いところに作られることが多い。古い住宅ばかりでなく、注意して見ると新しい家でも1mぐらい高く上げた台の上に建っている。日常生活に使われる母屋とは別に、洪水が来たときに避難する水屋が、さらに高度を上げて建てられていることもある。水屋がない場合でも、天井に小舟が常備されているとか、仏壇が滑車で天井裏に引き上げられるようになっているとか、濃尾平野ならではの特徴がみられる。この中郷のお屋敷にも、そうしたものが一つや二つありそうである。「輪之内」という町名は、まさに輪中の内側という意味なのであった。
 お役所が作った白い矢印看板が出ている。養老公園11km先、とあった。養老公園は有名な「養老の滝」を中心とした公園で、この近辺では随一の観光地である。近所にある養老天命反転地については、聞いたことがある。中に入ると平衡感覚が保てなくなるらしい。
 それにしても、養老までまだ10kmも自転車を漕ぐのか。少々疲労感が増した。

 さて、自転車を漕ぎ続けていて、これまであまり感じなかった向かい風を感じるようになった。自転車を降りて立ち止まっても感じるほどの風圧。養老山地から吹きおろしてくる風が相当強いようだ。そういえば、さっき寄った平田町三郷のコンビニには、風除室があった。わざわざ設置したということは、このあたりは相当に風の強いエリアなのだろう。暑い時期なら風が吹いても寒さを感じることはないし、むしろ暑さを和らげる効果があるのだけれども、それでも風を感じるというのは、一つには疲れてきたことと、もう一つはやはり風圧が相当強いのだろう。高校時代、向かい風をもろに正面から浴びて自転車通学していたことを思い出す。有名な冬季のからっ風に悩まされたのである。別に懐かしくはない。
 向かい風に向かって自転車を漕いでいると、太腿が少しつり始めた感じになってきた。どうも今日は行程の最初から左足の膝が思わしくなくて、このあたりまで来るとだいぶ庇いながら足を動かしている。ペダルがガタガタしているのは前述したが、やはりメンテナンスが良くない自転車に乗ると、体に相当な無理を強いる。庇いながらという点からすると、痛みが一番少ないのは立ち漕ぎだが、立ち漕ぎは立ち漕ぎでこれまた疲れる。どうしたらいいのだろうか。
 それから、車道の横に歩道が整備されているところでは、別の道路が接続するところでわざわざ歩道を終わりにして、境界が高さ1cmぐらいのエッジになっているところがある。微妙な段差だけれども、これも長距離乗っているとだんだんダメージになってくる。
 なお、後日この道は自転車で再度走ってみたが、やはりこのあたりで疲労が顕著になり始めた。

 福束(ふくづか)という交差点まで来た。ここから西は堤防上に上がるスロープになっていて、揖斐川を渡るブルーのトラス橋が堤防の向こうに見えている。ブルーの色調は今朝駒野から高須へ向かう途中で渡った福岡大橋と同じだが、ここは本格的なトラスが橋の上にそびえ立っている。橋の名前は福束大橋という。この橋が架かったのは1972年だが、それ以前は対岸との連絡は県営渡船で行っていたという。この福束大橋を越え、幹線道路に突き当たったら左に曲がると、その先が目指す[船附]なのであった。なお、このあたりは福束輪中という名前で、福束輪中の領域がそっくりそのまま安八郡輪之内町となっている。
 堤防上に上がる坂を漕いで上がる気力がないので、自転車を降りて、押して上がってしまった。少しバテて来ているのか。上がりきったところで堤防道路と交差する。この交差点は福束大橋東詰といった。いよいよここから福束大橋が始まる。この橋は割合最近塗り直したようで、青い塗装が大変鮮やかであった。ただし、歩道のアスファルト舗装はガタガタである。塗り直すついでに修理しといてよと思うが、岐阜県の道路予算はよほど乏しいようだ。
 福束大橋の本体を渡り切ると、さらに橋がもう1本あり、こちらは小さい川を2本まとめて渡っている。1本は水門川というそうだが、もう1本の名称はわからなかった。福束大橋は青い塗装もそうだが、揖斐川の西側で小さな川をまたいでいるところも午前中の福岡大橋と同じである。これらの小さな川は、川下で揖斐川に合流しているのだろう。小さいといっても15〜16mぐらいの川幅があるのだが。その左(川下側)の彼方には、大きな堰が複数見える。何に使う堰なのだろうか。このあたりは水があり余っていそうなエリアだが、農業用水など取る必要があるのだろうか。すぐ後でわかったが、あの堰は国土交通省の排水機場である。ポンプで排水しないと、輪中から余分な水が出ていかないのである。

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2017年05月11日

2014.07.18(金)(37)[輪之内町役場]を制覇

 そして文化会館の前まで進んできたとき、私はあの看板にダマされていたことを知った。畜生、役場はやはり川の東岸だ。篠沢教授に1000点賭けてハズしたような絶望感を感じた。どうして西岸側のあんな場所に矢印看板を付けているのだろうか。役場が川の東側である以上、橋を渡ってはいけないのである。あそこに矢印看板があるのは紛らわしい。少なくとも私は誤認した。東側に付けられないから西岸に立てているだけなのか。それなら、矢印だけの看板ではなく、川を描き込んだ「図」にしてくれないと無理である。
 まあ、今にして思えば、東岸は対面2車線の道が続いているのに、こっちは対面2車線ではないから、やはりそこでおかしいと気がつかなくてはいけなかったのだ。道が狭まるということは、裏道である。

 文化会館の前に架かる橋は、意味はわからないが光輪橋という名前であった。架かったのが平成元(1989)年とかで新しく見えるが、文化会館とセットでできたのだろう。というわけで、曲折はあったがやっとの思いで輪之内町役場に着いた。結局、川の東側に建つ茶色い建物が輪之内町役場であった。地図を信じて真っすぐ来ればよかった。
 役場の敷地に入り、敷地内の対面2車線の通路を行く。この町役場も、田んぼの真ん中の土地をガバッと使って作った雰囲気が強く感じられた。右(南)側には学校の校舎と体育館みたいな建物が見えるが、みたいなというか学校そのもの(町立輪之内中学校)である。茶色い役場の建物の南側には学校との間に広大な駐車場が広がっている。
 敷地の端近くまで来ると、輪之内町商工会館という2階建ての建物がある。大垣共立銀行のATM小屋は、商工会館の横、町役場の敷地の南東端にポツンとあった。看板もなく目立たないところにある。敷地端の生垣に自転車を立てかけて、小屋に歩み寄った。
 商工会館の横に建つこの小屋は、今日盛んに見てきた大共の1992年標準型ATM小屋とは違い、前面に行灯看板のついた真四角な箱で、ちょっと古いタイプである。鉄の部分はクリーム色に塗られている。行灯の《大垣共立銀行》のロゴは、少し古めかしいデザインのものを使用している。キャッシュコーナーの入口が自動ドアになっているのは、1992年標準型と変わらない。大共の店舗外ATMは自動ドア標準装備で、機械1台だけの独立小屋も例外ではない。自動ドアを開けてみると、中の機械は手のひら認証対応の富士通FV20が1台だけであった。母店は今尾支店である。機械を操作。13:05、[輪之内町役場]を制覇した。
 今尾支店輪之内町役場出張所は、今尾支店2番目の店舗外ATMとして、1986年10月に開設された。2015年2月、今尾支店の代理店化に伴い、母店は海津支店に変更された。

 海津市に続き、輪之内町の制覇目標もすべて制覇した。次は養老町に入り、最初の目的地は[船附]である。ここから4.47km、19分かかることになっている。
 [輪之内町役場]は、予定だと12:46には出ていないといけないので、20分ぐらい遅れている。着実に時間オーバーしつつあった。役場を出発する前に、船附まで行く近道がないか、大共の人に聞いてみよう。地図を持って来ていない以上、聞いてから動いても遅くはない。大共が指定金融機関なら、会計課に行けば大垣共立銀行の行員が詰めているハズだ。そう思って、役場の正面玄関を入った。
 玄関の横に定礎の石がはめてあって、昭和59年9月吉日と書いてある。1984年の建築ということは、築30年。そのぐらいの経年なら、まだまだ新しい方だろう。玄関先にある電光掲示板には、輪之内町からのお知らせや、県内/町内の事故件数など、種々の告知が次から次へとスクロール表示されていた。輪之内町の人口や世帯数も出てくる。この年(2014年)の6月1日現在、人口は男4908/女5050の合計9958人、世帯数は3080世帯であるそうだ【注1】。輪之内町はあと42人転入すれば人口1万人達成である。クレジットカードを新しく作ると、入会初年には年会費が無料となることが多いが、地方自治体も「転入初年は町税免除!」のような人口増加キャンペーンを打ってみたらどうだろうか。そんなことを思ったが、まあ付け焼刃的な対策では講じても意味がないであろう。
 風除室に入ってすぐ右側には、輪之内町勢パノラマ図というものがあった。ボタンを押すと地図上のランプが光るようになっているのだと思うが、通電していないようで、押してもランプは点かなかった。何とか建材とか何とか生コンとか、さっき通過したクロスタニンとか、町の施設や商工関係全部の場所がわかる。「イオンタウン輪之内」の開業した当時の写真が出ていて、看板の屋号が「マックスバリュ」になっていた。自動ドアをもう1枚抜けると、「輪之内町役場ご案内」という図が出ている。その図に従って左に曲がると、スロープ上がった左側に会計室というのがあった。Accounting Officeと緑色のプレートにしゃれた感じに書いてある下に、広々とした窓口ブースが2つある。
 そこに詰めていたのは、大共の行員ではなく、JAにしみのの女性職員であった。輪之内町の指定金融機関は2年ごとに交代するそうで、JAは去年(2013年)の8月に指定金になったそうである【注2】。次がどこになるかはわからないが、大共と大信(大垣信金)のいずれかであるという。ローテーションなのだろう。これでは大垣共立のことはちょっと聞きにくい。
 結局、道案内をしてくれたのは、役場窓口の職員さんであった。県道羽島養老線に戻って西へ進み、橋を渡って突き当たったところで左に曲がる。それでしばらく行ったところが船附だという。やはり、川沿いの道を北上し、イオンの前から来る県道まで戻らないといけないそうだ。輪之内町役場から船附までの直線距離は3kmほどだが、実際に行くとなるとグルッと回らなければ無理なので時間がかかる。諦めるしかないようだ。

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 【注1】2017年4月1日現在、総人口9870人、世帯数3284世帯。世帯数は増えたが、人口は漸減傾向にあるようだ。なお、2010年には総人口は1万人を超えていた。
 【注2】現在は大垣共立銀行海津支店。
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2017年05月10日

2014.07.18(金)(36)役場に向かって走れ!

 さあ、次の目的地[輪之内町役場]へ向かおう。ここから2km強、9分ほどでたどり着く予定である。
 イオンタウン輪之内の西側を県道(219号安八平田線)が南北に走っており、輪之内郵便局とファミリーマート(輪之内町店)が隣り合っている。柵で囲まれた郵便局の敷地に郵便車が止めてあるから、この局は配達業務を行っているのだろう。ファミマは盛況のようだったが、イオンタウンの中でコンビニをやった方がまだ相乗効果で集客できるのでは、と一瞬思った。イオンの施設にコンビニが入るとしたらミニストップになるハズだから、ファミマではあり得ない。なお、イオンの駐車場の外れに、店舗外精米機が見えた。
 ファミマに入って、「ファミチキ」を1つ買い食い。ついでに雑誌売り場で地図を立ち読みした。さっき地図なしで押し切って大失敗したから、今度はかなり慎重になっている。地図によると、輪之内町役場は県道羽島養老線をさらに西に向かい、川に遭遇したところで左に曲がれば良いようだった。役場のそばにはJAのカントリーエレベーターがあるそうで、これが目印となるだろう。このあたりは使われている農機も巨大だし、カントリーエレベーターもある。こんな雄大な、北海道のような農業経営が岐阜県で行われているとは、この地に来るまで想像できなかった。濃尾平野は古くからの農業地帯であって、前述したとおり設立当初の大垣共立銀行は、米の売買代金決済のため西濃地区各地に支店を置いていた。最近でも、系列シンクタンク内に農業専門の研究所や実証農場を開くなど、大共はアグリビジネス振興に力を入れている。

 ファミチキを1枚食べただけだが、かなり元気が湧き出た気がした。行動再開である。
 郵便局やファミマの南にある、西之川という交差点で右折した。相変わらず県道30号羽島養老線を西に進む。何を栽培しているのか知らないが、続く水田地帯の中に温室があった。少し風が出てきたようだ。
 走ってくると、地図に出ていたとおり用水路のような川があったので、そこに架かる橋のたもとで左に曲がる。さほど大きな川ではないが、とにかく川沿いに南に進んでいくと、左手に町役場があることになっている。川の名前はさっきファミマで見た地図に書いてあるのを見たが、忘れてしまった。後でチェックすると、中江川ということであった。高須で遭遇した大江川の親戚であろう。
 川沿いの道は、対面2車線白破線センターライン。歩道こそ整備されていないものの、路側帯が車道の幅ほど広く取られている。白緑色のガードレールで隔てられた川は、流れがほとんどなく、濁った水がよどんでいる。このあたりは低地で標高差がないから、揖斐川をはじめとして、どの川を見てもほとんど流れていない。ガードレールのガードの部分は、工事現場の足場用と同じぐらいの太さのパイプを3本、丸柱に取り付けたスタイル。ただ、ここはちゃんと塗装をして全体を白緑色にしてある。
 護岸工事は昭和40年代の施工だろうか。結構古い時代になされたようで、コンクリの構造が簡素である。護岸上部とアスファルト舗装との間にある土の部分には、樹木が複数植わっている。自然の木かと思ったが、よくよく見ると木の種類は一定しており、さらによくよく見ると土管のようなものを立てた中に土を入れて木を植えているようだ。土管は相当に泥だらけで苔むしてもおり、木が生えていない空の土管もある。下に目をやると、水の中に何やら生き物がいるのが見えた。
 田んぼの真ん中に、住宅が何軒か固まって建っている。その向こうには、たしかにカントリーエレベーターらしきものが見える。そばにある4階建てぐらいの建物が町役場なのであろう。手前の住宅地には一戸建て住宅が十数軒、それから一戸建てとテイストが同じ集合住宅が2〜3棟見られる。この界隈の土地は、サブリース会社の大東建託がまとめて開発を請け負ったように見える。田んぼの真ん中にこんなに賃貸住宅を建てて、部屋が埋まるのだろうか。
 相変わらず水田地帯が続いているが、道路に面した土地は休閑地が多かった。耕作している土地が隣にあると、休閑地にも遠慮なく水が入って来てビチャビチャになる。役場だと思った5階建ての建物は、輪之内ビラという介護老人保健施設であった。クリニックが併設されているという。入居している老人専用の医療施設なのかも知れない。

 これまでずっと川の東側を南進してきたが、「輪之内町役場左」の矢印看板が橋を渡った向こう岸(西岸)に立っているのを見た時、私は一瞬頭がくらくらした。役場は川を渡った西岸側にあるのだろうか。リサーチと明らかに違うが、まあ現状優先にするのがこうした場合の大原則だろう。私は橋を渡った。
 西岸側の道は、車は通れなくはないものの少し幅が狭まり、対面2車線でもなくなった。アポロンスタジアムという野球場の前まで来ると、川を挟んだ向かい側に巨大なカントリーエレベーターが見えた。「JAにしみの」と大書してあるから、今日何度も遭遇している西美濃農協の持ち物なのであろう。前方からバスがやって来た。イオンタウンを通って岐阜羽島駅へ行く名阪近鉄バスである。この、アポロンスタジアムの先が役場なのだろうか。
 後で知ったが、箱モノ整備で作った感じが強く漂うこのエリアは「輪之内町プラネットプラザ」という。中心施設が、輪之内町役場と輪之内文化会館、それにアポロンスタジアムと町立図書館である。文化会館前のロータリーはバスターミナルのような機能を持っていて、名阪近鉄バス(大垣行き・岐阜羽島行き)と町のコミバスが集結している。公共施設がたいそう立派であるが、こういうものを作ってしまって青息吐息なのか、それとも大規模農業で稼いでいるのかは知らない。

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2017年05月09日

2014.07.18(金)(35)[イオンタウン輪之内]を制覇

 イオンのショッピングセンター「イオンタウン輪之内」にようやくたどり着いた。正確には、敷地南東の端っこにたどり着いただけであるが。なお、手前の森だと思った部分は、敷地の端に植えられた木が成長しただけであった。
 ここは、平屋建ての郊外型ショッピングセンターである。したがって敷地面積はやたらに大きい。敷地は県道羽島養老線の北側にあり、県道に面したところに「イオンBIG」と大書した建物が建っている。大垣共立のホームページによると、店舗外ATM[イオンタウン輪之内]はザ・ビッグの北側だそうなので、敷地のはるか奥にイオンの大きな建物が見えるけれども、そこまでは行かなくて済む。目の前に建つBIGの建物に沿って、自転車で走って行けば良いわけだ。それにしても、「イオンBIG」というのはどんな業態だろうか。
 BIGの西側にあるメインゲートから敷地に入った。ゲートの脇から建物に沿って、屋根付きでインターロッキングの歩道が整備されており、歩行者と車のエリアを明確に分けている。通路は途中で二股に分かれていて、車は左の方に行くことになっている。駐車場入口に掲示が出ていて《調整池兼用のため大雨時場所により30センチ以上冠水します、進入にご注意ください》とあった。言われてみると、駐車場の敷地は県道より低くなっているようであった。メインゲートの横はガラスの温室のようになっており、多分かつてはここで園芸用品とか花とか扱っていたのであろうが、封鎖されていた。
 自転車の私は、歩行者のエリアである右側に勝手に入ってきた。建物に沿って走ってくると、BIGも結構大きな建物のようだ。このSCは、平屋建ての建物が複数コの字形に並び、コの字の内側に駐車場がある。南東隅は前述のとおりイオンBIG、その北側には南北に細長い建物が1棟。北端に東西に細長い建物が1棟つながり、さらにその西側にイオンの大きな建物がある。
 「イオンBIG」は、特に変わったところのないスーパーマーケットのようであった。BIGの建物に沿って走ってくると、角を曲がった北端にメガネ店(メガネスーパー)がある【注1】。空きテナントがいくつかあって、ゲームセンターと靴屋、百均(ダイソー)があって、それでこの建物は終わりである。テナントが歯抜けになっているのはともかく、駐車場はインターロッキングの端の方が少し崩れているし、駐車スペースに引いてある白い線もだいぶかすれてきている。小さな紙切れが1枚、風に舞っていた。
 メガネ店の横、壁面東端に、見つけた。共同キャッシュコーナーの自動ドア。キャッシュコーナーは、建物に囲まれた一角にあるという印象であったが、いちおう「キャッシュコーナー」という赤い立体文字が白いパラペットに取り付けてある。中に入ってみると、手前からゆうちょ銀・大垣共立・十六銀・大垣信金・JAにしみのの順でATMが並んでいる【注2】。共同キャッシュコーナーには金融機関6機関分のブースがあるが、一番奥はシャッターが閉まっており、使われていない。入口側から2番目にある大垣共立銀行ATMの母店は今尾支店で、手のひら対応のFV20が1台のみ置かれていた。利用客が一番多いのは、大共ATMのようであった。機械を操作。12:29、[イオンタウン輪之内]を制覇した。

 今尾支店イオンタウン輪之内出張所は、イオンタウン輪之内ショッピングセンターのグランドオープンに合わせて1998年10月に開設された。今尾支店管内では最も新しい店舗外ATMである。2015年2月、今尾支店の代理店化に伴い、母店は海津支店に変更された。
 輪之内町は安八郡に属する町で、北に隣接する安八郡安八町には、大共の安八支店がある。そちらを母店とせず今尾支店を母店にしているということは、大共は輪之内町を海津市の影響下に置いていることになるが、これから行く[輪之内町役場]も今尾支店が母店なのだろう。実は、輪之内町と安八町は仲があまり良くないらしい。前述した「安八豪雨」の際、輪之内町が輪中堤の切割をすべて閉め切ったことで、安八町は洪水の水深が深くなり、水害がより酷いものになったからである。自然条件の厳しいところでは、こうした自然との戦いに伴って集落同士で感情がもつれることがままあるようだ。水の少ない地域での水争いなどもそうだが、古くはそれが作物の収穫の有無から生死に関わってくるだけに、深刻である。
 ところで、通帳記帳をかけてみると、ここの店名表示は<イオンタウン>となっている。大共には「イオンタウン」と付く店舗外ATMが、輪之内のほか養老・大垣・各務原と全部で4か所ある。他の店と重複することはないのだろうか。

 さて、前述したように、このSCは複数の平屋建ての棟で成り立っている。敷地の一番奥にある棟が最も巨大に見える。この棟の東側に〔ザ・ビッグ輪之内店〕という輪之内町コミュニティバスのバス停があった。私が把握しているこのSCの名前は「イオンタウン輪之内」であって、BIGは敷地東側の建物だけのハズだ。しかし、どう見てもこちらの建物がこのSCを代表するような位置にあって、バスの発着スペースなども用意されている。
 どうも様子が変であった。一番奥の巨大な建物は、入口横の掲示板も真っ白だし、営業している様子が見えないのである。買い物ができるのか。そういえば、BIGのオレンジ色の看板は、結構新しい。ということは、逆に「ザ・ビッグ」という名前の方が新しいのかも知れない。
 そう思って見直すと、思ったとおりであった。敷地北側の大きな建物は、隅の方でソフトバンクのケータイ店1店だけが営業しているが【注3】、それ以外の部分は出入口にコーンをたくさん並べて封鎖している。閉鎖された店舗は、食品スーパーの「マックスバリュ」として営業していたようだ。《第一種大規模小売店舗 設置者名ジャスコ株式会社 表示年月日平成9年7月7日》の表示があった。なるほど、ここは「イオンタウン輪之内」として開業したものの、戦線縮小したのだろう。表の駐車場入口横に立つ看板だけは「イオンタウン」のまま残っているが。
 イオンタウン輪之内SCは、オープン時点では売り場面積12600u、コンクリート平屋建ての5棟で、650台が収容できる屋外駐車場を備えていた。輪之内町を中心に、輪中地帯という限定されたエリアに商圏を設定したのが特徴で、当初は毎週火曜日を定休日としていた。店舗は衣類など日用品のディスカウントストア「メガマート」と、食料品スーパーの「マックスバリュ」を中心に、町内の2店を含む9つの専門店が出店してスタートした。年商は専門店を合わせて55億円を見込んでいた。
 輪之内のイオンが大きく動いたのは2011年の秋から冬にかけてで、この年の10月に日用品を扱っていたメガマートが閉店。その店舗跡を改装し、12月にオープンしたのが現在の「ザ・ビッグ輪之内店」である。ザ・ビッグは食料品ディスカウントストアと呼ぶべきもので、一品あたりの入荷数量を増やし、商品は段ボールのまま大量陳列して補充回数を減らし、コストを抑えている。同じ敷地の中にあったマックスバリュは、ビッグの開店2週間ほど前に閉店したとみられる。

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 【注1】「めぐ」後間もなく、2014年夏に撤退した。撤退跡には町の福祉協議会と観光委員会がサロンを兼ねた観光案内所を設置している。
 【注2】ゆうちょ銀行はその後撤退した。
 【注3】その後撤退した。なお、同じ棟と見えたのは別棟と判明した。
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2017年05月08日

2014.07.18(金)(34)海津市を離れて輪之内町へ

 この自転車ツーリング、始めた時は何となく余裕があったけれども、海津市域の制覇が終了したこの時点で、すでに周辺を描写する気力が失われ始めている。自転車を漕ぎ出すにもヨタヨタして、足が引っ掛かったりするぐらいで、消耗が目立ってきた。これはマズいと思ったが、道程はまだ半分しかこなしていない。疲れている場合ではなかった。
 輪中堤の北側は、切割から坂を下りてくると広い水田地帯になっている。ここは昔の川底である。前述したとおり大榑川は明治期に廃川となり、跡地は干して水田になった。ただし、米を作っている面積は今となってはだいぶ少なくなってきているようだ。
 また少し上り坂になった。陸地として微妙に高いところは、昔から人が住んだり畑にしたりしている。雑木林の端に、真っ黒に成熟したドドメが多数なった木があった。野生もしくは放置された桑の木だろう。私が小学校生活を送った昭和50年代前半の群馬県前橋市ではまだ養蚕をやっていて、桑畑も残っていた。当然ドドメの味も知っているから、結構美味そうであると感じた。それから、この交差点の界隈ではカキの栽培をやっている。言うまでもないがオイスターではなくパーシモンの方。西濃地域は富有柿の栽培が盛んである。
 輪中堤から数分で、東大薮という交差点に来た。角には農家の直売所みたいなプレハブ小屋が建つ。みたいなというか、農産物の直売所そのものである。野寺支店の窓口さんは、輪中堤の次の信号で左に曲がると言っていた。この四つ角は、すぐ東側にy字分岐を持つ。長良川の堤防上から対岸に渡る大薮大橋への道と、川沿いの堤防道路につながる道とに分かれている。大薮大橋の先は羽島市である。ここで右折して太い道(県道30号羽島養老線)を真っすぐ行くと羽島へ、細い道に分岐して堤防道路を北に行くと岐阜・墨俣へ、南へ行くと木曽三川公園・海津へ抜けられる。交差点のすぐ東に矢印看板があるのでわかった。なお、墨俣(大垣市)は豊臣秀吉の「一夜城」で有名な町である。
 四つ角の少し南側で、海津市を離れて輪之内町に入っていた。さっき美味しそうなドドメの木があったあたりが市町界である。

 私は東大薮で左折して、県道30号羽島養老線を西に進んでいく。いま通っているのは、対面2車線白破線センターラインで、歩道が完備された広い道である。道の南側は畑、北側は休耕田。道路際の畑で栽培しているのはサトイモ・カボチャ・ナス・トマトといった、ある意味平凡な作物のようだ。畑や休閑地は道路の拡幅用地だろうか。ちょっとしたお墓もあった。「墓地」ではなく、1〜2人分ぐらいの墓石しかない“お墓”である。
 小学校(大薮小学校)が見え、〔大薮西〕というバス停があった。ここに来るのは名阪近鉄バスの輪之内羽島線で、輪之内町役場の隣にある輪之内文化会館と岐阜羽島駅とを結んでいる。次の停留所が〔イオンタウン輪之内〕だそうだから、もう目的地はさほど遠くはないハズだ。このあたりから、背の高いショッキングピンクの看板が見える。色からしてイオンのものであることは間違いない。おそらく、通りに面したところに立っているものだろう。
 この大薮地区には、明治期から太平洋戦争中まで大垣共立銀行が出店していたことがある。1899(明治32)年9月に大薮支店を開設、その後代理店→派出所→出張所と変遷を遂げ、1928年3月再び大薮支店となった。1936年2月出張所に格下げ、そして1944年5月に廃止となっている。所在地は安八郡大薮町大字御寿字大薮65番戸【注】である。道の北側、大薮小学校を中心とする大薮の集落内にあったと思われるが、それが現在の住所でどこにあたるかは残念ながら判明しなかった。明治・大正期の大共は農業金融が主体であり、大薮には米の産地として代金の授受などを目的とする支店が置かれていた。

 大薮の西側、上大榑の四つ角にやって来ると、「クロスタニン」「一生健康」などと大書した、2階建ての工場のような建物がある。全面化粧タイル張りで温泉センターみたいな建物であるが、よく見ると1階にシャッターが付いていたり、荷捌き所のようなものがあるから、やっぱり工場である。そういえば、さっき野寺支店の窓口でも、イオンへの道を説明するのにクロスタニンという言葉を使っていた。後で調べてみると、ここは1995年3月にできた健康食品の工場である。たんぱく質含量が高い、クロレラ属の淡水性単細胞緑藻類を製造しているという。
 このクロスタニンの前から、右の方に「BIG」と書いたオレンジ色の看板が見えた。さっきから見えているのはロードサイドの看板だと思うが、こちらは建物の塔屋だろう。こんな田園地帯に、よくショッピングセンターなど作ったものである。手前が一瞬森のようになっているが、あれは何だろう。イオンが買おうとして買えなかった土地だろうか。
 私は自転車を漕ぎ進める。道端の畑では、農婦が一人黙々と草取りをしていた。

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 【注】「番戸」で現在地を推定するのが困難であるのは前述のとおり。安八郡大薮町は1954年4月に2村と合併し輪之内町となった。
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2017年05月07日

2014.07.18(金)(33)これは輪中堤である

 2014年7月18日の「めぐ」に戻る。
 野寺支店前の四つ角から北に進む。海西郵便局の真裏は仏教寺院で、現役らしき鐘突き堂が見える。郵便局の北隣は海西警察官駐在所で、“村の駐在所”といった感じがする。突き当たって左に曲がり、長良川の堤防を背に、対面2車線で白色破線センターラインの道を西に向かうと、JAにしみのの野寺支店。JAの建物は築10年ぐらいは経っていると思うが、新しそうに見える。駐在所といい農協といい、鄙びた農村のイメージを醸し出す言葉であるが、建物からは「鄙びた村」というイメージは全く感じられなかった。
 その先の信号で今度は右に曲がって、真っすぐ北進する。この四つ角は前述の野寺代理店が新築された角である。北に向かう道も、これまでと同じ対面2車線白破線センターラインの道だが、ここは海津市の幹線となる岐阜羽島への路線バスが通る重要な道である。このあたりの農地は水田と畑が半々ぐらいで、水田の比率がちょっと下がっているのは高須や今尾近辺と比べると標高がやや高いせいだろう。そう思ったところで、北に向かってちょっと地形が下がり、水田ばかりになってきた。道路は田んぼの真ん中を直線的に突っ切って続いている。柵で厳重に覆われた用水路を越えた。

 〔勝賀西〕というバス停の先に、木がたくさん生えた緑の帯が見えてきた。堤防だろうか。あそこに向かってまた少し上り坂になっているようで、あの緑の帯が地形としての頂点であるようだ。
 軽い上り坂を上がり切ると、そこは思ったとおり堤防のようであった。かなり古い時代のものらしく、樹木の生え方などは自然な印象であった。堤防の向こうに川らしきものはなく、ただ道路の部分だけ切り通しになっており、それを抜けたところから今度は下り坂が始まっている。切り通しの切り口には石垣が築かれ、その中央には縦に2本スリットのついた意味ありげなコンクリートの構造物がある。一方、路面には四角い鉄板が4枚置かれていて、その部分もアスファルト舗装ではなくコンクリで固められている。堤防の上には、海津市のマークを付けた倉庫らしき建物が建っている。
 何だこれはと思ったが、コンクリの構造物、そして堤の上の倉庫でピンときた。あの倉庫の備品を使って、この切り通しを塞ぐのではないか。そういえば、さっき野寺支店の窓口さんは「ワジューテーを越えて」とか何とか言っていた。何かを「越える」のはわかっていたが、いま一つピンと来ていなかった。そうか、これがその「輪中堤」なのか。
 輪中堤というのは、要は堤防である。ただ、川に沿って築かれている通常の堤防とは異なり、ここに“河川”はない。この堤防は、近所を流れる大河川の堤防が大雨などで決壊した時に、流れ込んでくる大水を食い止めるためのものである。いま走ってきた道路は輪中堤と直角にクロスしているが、通常の堤防のようにスロープで上に上がって越える形ではなく、切割(きりわり)といって道路の部分だけ切り通しになっている。
 道の真ん中に置いてある鉄板は、H形鋼のような柱を立てるための穴に、蓋がしてあるのである。切割を閉め切る際には、路面の蓋を外して穴に柱を立て、H形鋼の柱の凹みと、堤防のコンクリのスリット部分とに板を渡してはめ込む。さらに、その周囲に大量の土嚢を積んで、濁流の襲来に備えるわけである。堤の上の倉庫は水防倉庫で、ここに輪中堤を閉め切るための資材や道具が常備されている。倉庫には合併後の海津市の市章が付けられており、忘れられた施設でないことがわかる。
 今回の場所とは異なるが、輪中堤が威力を発揮したのが、1976年9月12日に起きた集中豪雨の時であった。今も「安八豪雨」の名で語り継がれているこの集中豪雨では、輪之内町の北に隣接する安八町で長良川の堤防が決壊し、下流側の輪之内町は、安八町との境界にある輪中堤の切割をすべて封鎖した。安八町では、この水害によりほぼ全域が水に浸かり、最大湛水深は3mにもなったが、輪之内町は難を免れた。輪中堤は高度成長期以降はモータリゼーションの進展で邪魔者扱いされ、切り通しにして道路を通したところも多かったが、安八豪雨以後はその威力が見直されて現在に至っている。
 ここにある輪中堤は、濃尾平野の輪中で最大面積を誇る、高須輪中の最北端である。海津市の東半分、旧海津町と平田町を合わせた領域が、そっくりそのまま高須輪中の範囲となる。もともとは大榑(おおぐれ)川という河川の堤防であった。大榑川は江戸時代初期につくられた人工河川で、明治以降に大規模な治水工事が行われて廃川となった。木曽・長良・揖斐の3つの川のうち、東の木曽川が標高の最も高いところを流れており、西端の揖斐川が最も低い。このため、東側の川で大水が出た時は、放水路を使って西側に分ければ水量が減るわけである。大榑川はもともとこのような目的で、長良川の水を揖斐川に分けるため造られたのであった。ただし、今度は揖斐川での水害が多発するようになったため、前述した宝暦治水の際、長良川との分岐部分に洗堰【注】が造られた。結局これも水害の除去には不十分で、抜本的な改善は明治期に外国人技師のヨハネス・デ・レーケによって濃尾三川が分離されるのを待たなければならなかった。大榑川もデ・レーケの指示により封鎖された。

 東京在住の私が輪中堤を越える経験は、「大共めぐ」をやらない限りできなかった。私は、銀行めぐりをやっていてよかったと、知的好奇心を満たす喜びを噛みしめていた。

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 【注】洗堰(あらいぜき):川をせき止める堰の一部を低く切り欠いて、大水が発生した時その一部を堰の向こうに流すことで、水位を下げるためのもの。宝暦治水では、揖斐川流域の住民は大榑川を完全に締め切りたかったが、長良川流域から強い反対が出たため、長良川の水が増えた時に水を分ける洗堰で合意した。
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2017年05月06日

2014.07.18(金)(32)代理店のこと

 2015年2月の海津市内4店代理店化に伴い、野寺支店は店舗を新築して移転した。代理店化により最も大きく形が変わったのが、野寺支店ということになる。ここでは少し脱線して、代理店化3か月後の2015年5月に現地を再訪した時のことをまとめておくことにしよう。
 野寺の大垣共立銀行は、集落のはずれにある田んぼの真ん中に移転していた。海津市と岐阜羽島駅とを結ぶバス道路の四つ角である。ここは「めぐ」の当日にも通っているハズなのだが(後述する)、大共の移転先であるこの場所については何があったか覚えていない(元は水田だったのだろうと思う)。銀行のホームページで「移転する」とは一言も告知されなかったので、旧支店を訪れて店頭の貼り紙で初めて知って驚いたのだった。野寺で商売するのであれば、水田地帯の真ん中の目立つ角でよいのだろうが、野寺という地区での新築移転そのものが、非常に大胆であると思った。
 新店舗は大駐車場完備の平屋建てで、シルエットとしては郊外型のコンビニに似ている。敷地は四つ角の南東角。ちなみに、北東角は酒店とその駐車場、北西角はエディオンのフランチャイズの家電店、南西角は水田である。大共の駐車場は身障者用を含めて13台分。それとは別に車寄せもあって、駐車スペースには相当の余裕がある。店舗の横にある小さな小屋は、自転車置き場だろう。
 表の屋号表示は「OKB野寺」としか出ていない。大垣共立銀行という文字看板は全くなく、かろうじて入口自動ドアのガラスに「OKB大垣共立銀行野寺代理店」と白い文字で書いてあるだけだ。大共はここ数年、銀行名より「OKB」という愛称名を前面に打ち出してきている。共立総合研究所などいくつかの系列会社は、すでに「OKB××」という形に社名変更した。大垣という地方都市の名前を冠した銀行名では商売しにくい、という声が行内に根強くあり、土屋嶢頭取も就任時に行名の変更を検討すると宣言していたから、それに対する長年の検討結果が「OKB」という愛称名なのだろう。名称としては「OK」に通じる良い名前ではないかと思う。
 ATMは入口の自動ドアを入ってすぐ左側で、移転とともに機械が2台になった。2台とも手のひら認証つき富士通FV20である。外装も含めて茶色主体でシックな色遣いの店舗は、最近はやりのサロン風。2人がけのソファが3つか4つ置いてあり、液晶テレビでPRを流していて、クラシック音楽が流れている。窓口の相談ブースとは別に、個室の応接室が奥の方にあるようだから、法人店舗によくあるようなスタイルである。野寺地区には富裕な顧客が多数いるのだろう。そうでもなければ、この時代に多額の設備投資はしないと思う。なお、店内には自由に使えるトイレもあった。銀行でこれは案外珍しい。
 野寺以外の代理店は、旧来の建物をそのまま使用している。ただ、法人関係の業務などをすべて海津支店に移管したこともあって、人員は4店舗合わせて23人も削減されている。このため、特に支店(野寺を除く)だった代理店では、スペースに相当の余裕ができたようだ。今尾支店は広い窓口室を持っていたが、代理店化に伴い什器は撤去され、白い鉄板でパーティションを行い、カウンターだったところは広いじゅうたん敷きのスペースに変更されている。

 ところで、「大共めぐ」を楽しむ者としては、代理店は“1粒で2度おいしい”拠点となった。この時代理店化された4店舗(南濃・今尾・野寺各支店、駒野出張所)は、ATMと窓口とが別々の営業拠点になったからである。野寺でいうと、支店時代に野寺支店が直接管理していたATMは、代理店化後は「海津支店野寺代理店出張所」という店舗外ATMとなり、通帳の取扱店名記帳も<野寺代理店>になっている。窓口での取引は「野寺代理店」として<野寺>と表示されるから、大垣共立の代理店は、「めぐ」の立場からは1か所の訪問で2か所分の制覇ができるわけである。
 加えて、4店は代理店化と同時に窓口の営業時間が夕方4時までに延長された。高須支店改め海津支店が従来通り3時までであるのがよくわからないが、窓口で取引しないと制覇できない代理店が、3時で閉まらず4時までやっているのは、喜ばしい。
 私が訪れたのは、朝8時台のことであった。女性の行員さんが2人、朝の掃除をしていた。一人は店の前の生垣に水やり、もう一人はキャッシュコーナーで掃除機かけ。生垣のツツジが満開だったのが印象的であった。代理店の行員は、代理店を運営する全額出資子会社のOKBフロント鰍ノ大共の本体から出向する形になっている。なお、海津市内4店の代理店化まで、店舗をまたいだ振り込みは別の支店扱いであったが、代理店化後は海津市内については全て「同一店扱い」となった。

 少々蛇足になるが、野寺代理店訪問の際に見た光景をここで一つ書き残しておきたい。
 前述したとおり、銀行では一般に(大共に限らず)、朝に行員が総出で掃除をしている。私が訪れた時、キャッシュコーナーにいた女性の行員は、何やら掃除機で一生懸命吸い取っていた。見ると、ATMそのものに掃除機をかけているのであった。野寺代理店のATMは富士通のFV20型だが、この型の機械は前面に蛍光灯が入っていて、稼働中は常に白く光っている。そこに羽虫がびっしり入り込んでいたのである。なるほど、田んぼの真ん中で夜9時まで煌々と明かりがついていると、虫を招き寄せることになるのだ。毎朝の掃除がかなり大変だろうなあと思った。厨房の出入口によくある、紫外線ランプを使った殺虫灯をキャッシュコーナーの天井に付けたら、少しは違うのではないだろうか。
 ATMという機械は、田園地帯で使うことを想定していないのだろう。虫が来るのは仕方がないとしても、機械の中に入ってしまうというのは、メーカーにはわからない現場の実情ではないだろうか。それで思い出したのが、2012年5月に沖縄へ行った時のことである。地元のトップ地銀、琉球銀行の店舗に入ったところ、ATMでの硬貨の扱いを中止している旨が店内に掲示されていた。その理由が、ATMの硬貨ユニットが故障しやすいためということであった。沖縄県内ではアメリカ合衆国の硬貨が大量に流通しており、特に10セント硬貨(ONE DIME)はATMメーカーの想定以上に薄くて小さいため、投入されると即ATM停止になるのだという【注】。ATMの硬貨ユニットが故障しやすいというのは私も別のところで聞いたことがあり、沖縄県以外でも硬貨の扱いを廃止した銀行がある。本州地区のそれも営業店でATMの硬貨取扱を廃止するのは怠慢だと思うが、米国軍人や軍関係者の多数いる沖縄では“そんなの目じゃない”ぐらいに壊れるのであろう。
 こういう具合に、ATMメーカーには銀行の現場のことが把握されていないわけである。刑事ものドラマで「事件は現場で起きているんだ」というセリフがあったけれども、現実に即して対応しなければならない現場はやはり大変であるのだなあ、との思いを新たにした。

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 【注】連載作成のため、ATMを10か所ほど試してみたが、10セント硬貨を投入してATMが停止したケースはなかった。ただし、機種によっては、計数に通常より時間のかかるものがあった。これとて、繁忙な時間帯で連発したら影響があるかもしれないが、投入して機械が「即停止」するほどチャチなものでもないようである。
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2017年05月05日

2014.07.18(金)(31)海津市全店制覇達成

 野寺支店は、通りに面した部分は平屋建てで、敷地の奥に2階建てを建て増してある。窓口室は平屋の部分であった。駐車場に面した壁面に夜間金庫の投入口らしきものがあるが、利用者がいないとみえてステンレスの器具で塞がれている。それを横目で見ながら支店に入った。
 建物入ってすぐ前がATMで、その左側に窓口室が広がっている。ここ野寺支店に至って、とうとうATMの台数が1台になってしまった。キャッシュコーナーには、手のひら認証対応の富士通FV20が置かれている。
 ATMの横に「近隣のATMご案内」なる手製の地図が掲示してあって、野寺支店の他には[輪之内町役場]と今尾支店だけが書かれていた。[イオンタウン輪之内]と[ヨシヅヤ海津平田店]は書かれていなかったが、そこから察すると、イオンタウンはともかく、ヨシヅヤも比較的新しい拠点であるようだ。それから、ヨシヅヤそばのカーブと思しきところに「十六銀行」と書いてあり、テープで消してあった。廃店になった今尾支店であろう。
 消されているとはいえ、大垣共立銀行の中の人が作った略図に「十六銀行」の名前が書いてあるのは、興味深く思った。大共と十六銀行の2行は、岐阜県に明治期から続く銀行であるが、銀行としての規模(預金残高など)や岐阜県内でのシェアは十六銀の方が大きい。しかし、戦前には大共の方が大きいこともあった。十六銀の後塵を拝す形になった大共は、強烈なライバル意識をもって十六銀に対峙してきたという。その象徴的な事例としてよく引き合いに出されるのが、大垣市中心部の郭町にある大共の本店ビルの話である。1973年6月に竣工した大垣共立銀行本店は17階建てで、「16を上回る」という強烈な意志が込められているとされる。もちろん、こんな話は当の大共では明確に否定しているのだが【注】、こういう話が「さもありなん」としてまことしやかに語られるほど、大共の十六に対する対抗意識は強かったのだろう。もっとも、この近所に十六銀の店舗はないし、ATMさえ1台しかないような農村部の支店では、現場で利用者利便を考えた場合、そんな行内の競争意識など無用であろう。だから私は、ここに「十六銀行」の文字が入っていたことを高く評価したいと思う。
 そんなことを考えながら、ATMを操作する。11:51、野寺支店を制覇した。

 野寺支店は、七十六銀行野寺支店として1917(大正6)年1月に開設された。1928年5月の大垣共立銀行合併の際には、支店ではなく出張所として引き継がれることになり、今尾支店野寺出張所となった。1950年10月野寺支店に昇格、1955年2月町村合併により所在地は海西村から平田町となった。1967年5月に土地改良工事完成に伴う地番変更が行われ、所在地は平田町野寺字川田1299となった。この場所は、「めぐ」当日に使われていた支店建物の東80m、商店横の現駐車場であるようだ。1970年9月に字川田1362に新築移転、これが本日訪れた店舗である。1978年11月、野寺支店は今尾支店野寺特別出張所となったが、1987年9月支店に再昇格した。1978年に始まった特別出張所の制度により、大共は野寺支店を廃止して代わりに高富支店(山県市)を開設している。特別出張所は、不採算ではあるが銀行としてその地区から撤退したくない場合に多く用いられた制度のようだから、野寺支店の位置付けがこのあたりからも読み取れる。
 2005年3月、海津郡の3町合併により自治体名は平田町から海津市へと変わり、そして2015年2月2日の代理店化を迎えることになる。野寺支店は代理店化と同時に集落の外側に移転し、新しい野寺代理店は新築店舗で営業を開始した。新店舗の所在地は、海津市平田町野寺字川田1215である。
 沿革で触れた土地改良事業について解説を加えておこう。輪中地域での土地利用上の特徴として、江戸時代中期に始まった「堀田」というものがあった。輪中内の水田は、水が多すぎて常に水に浸かった状態になるので、農地を1〜1.5mほど櫛形に掘り下げ、掘った土で掘り残した部分を盛り上げて、その盛り土部分で耕作する。掘り下げた水たまり(掘りつぶれという)は四水六土といわれ、農地の4割ほどを占めるところもあった。盛り土の端が特に崩れやすく、掘りつぶれを定期的に浚渫して端を固めるのは大変な重労働であったという。これをなくして近代的な水田に生まれ変わらせたのが、戦後行われた土地改良事業である。輪中内で余った水を排水するためポンプ場を建設し、あわせて長良川や揖斐川を浚渫して得た泥で掘りつぶれを埋め立て、区画整理も行って、大形で長方形の乾田に姿を変えた。戦後1949年に土地改良法が施行され、1953年から国と県が排水機を設置して埋め立てを開始、昭和30年代のうちに改良工事は終了した。

 これで、海津市の全店制覇を達成した。ここで終わりにしてもキリが良いのだが、「大共めぐ」の旅を続けよう。次の目的地は[イオンタウン輪之内]である。海津市を離れて安八郡輪之内町に入る。
 制覇作業の後、窓口室のカウンターに歩み寄った。地元の人なら近道を知っているだろうから、イオンへの道を教えてもらおう。中年の女性行員がお相手してくれた。支店前の道を郵便局の方に行けばいいらしい。いろいろ詳細に教えてくれたが、要するに、郵便局の先で左折し、右に曲がって左に曲がれば良いようだ。
 だいぶ疲れてきているのか、少し足がよろついた。道を聞いた窓口さんが「ご苦労様です」と労ってくれた。

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 【注】当時の頭取土屋斉氏は、20階建てにするつもりだったが大蔵省の指導で17階に縮小したと語っている。足利銀行の頭取から、階数は多目に申請しておいた方がよいとのアドバイスを事前に受けていたという。
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2017年05月04日

2014.07.18(金)(30)野寺の集落へ

 またy字分岐があって、羽島方面は直進方向、岐阜南濃線は道なりに左、という案内表示が出ている。この分岐は何らかの形で拠点になるところだったらしく、郊外型のコンビニのような建物が並んで建っていたりする。この三差路のあたりから、これまでなかった歩道が完璧に整備されているのは、セットバックして道を広げる予定でもあるのだろう。民家もだいぶ引っ込んだ奥に建っている。女子中学生がy分岐の横から農道に入って行くのが見えた。後で調べてみると、そちらの道の方が近道だったようで少し悔しいが、知らない道へ迷い込んでタイムロスするわけにはいかない。今日すでにさんざんな目に遭ったから懲りている。
 分岐を左に進むと、幡長宮地(はたおさみやち)という交差点に来た。道はその先で大きく右にカーブしており、カーブの先は堤防上に上がって羽島に抜ける橋につながっている。今回は、その橋は渡ってはいけないのである。もちろん真ん中を渡る選択肢もない。などと下らないことを考えつつ、この四つ角は、直進すると堤防上に上がる県道1号で羽島方面、右折して堤防に突き当たると岐阜と桑名を結ぶ県道23号(北方多度線)である。羽島方面の橋と堤防道路とが立体交差になっている。川沿いを走る道はだいたい堤防の上を走っているのだが、橋に遭遇した時だけこうして堤防から下に降り、橋の下をくぐっていく。大河川を目前にしてダイナミックな景観が広がっているが、矢印看板によると両方とも県道なのであった。
 羽島方面に向かう直進は、大きく右に曲がって堤防上に向かって坂を上がり始めている。坂の上に続く橋は、南濃大橋である。この橋で長良川を越えると、羽島市の大須に出る。大須は、2001年10月まで名鉄の竹鼻線というローカル電車の終点であった。竹鼻線は名鉄名古屋本線の笠松駅から南に延びる支線で、現在はJR岐阜羽島駅前にある新羽島という駅までの運行となっている。竹鼻は羽島市中心部の古い地名である。さっき今尾恵介氏の本の話で触れたけれども、かつては名鉄竹鼻線が海津市域(平田町・海津町)への主要なアプローチで、大須駅前から野寺・今尾を通って高須(歴史民俗資料館)まで岐阜バスの路線が通じていた。岐阜バスは戦時統合で誕生した岐阜県の乗合バス会社であるが、2007年9月を最後に西濃地区から撤退している【注】。海津市コミバスの幹線である海津羽島線は、当時の岐阜バスの路線をベースに設定されている。鉄道がなくなった今、大須を通るルートはほぼ廃れてしまった。私は学生の頃に1度だけ、名鉄竹鼻線で大須まで来たことがある。たしか、大きな無人の木造駅舎にホームが1本だけの終着駅で、この時大須まで来た客は私以外に一人もいなかったと記憶している。
 風の音が続いている。さて、私はどちらの道を行けばよいのだろうか。

 右にカーブしつつ高さを増している羽島方面への道に沿って、堤防上に上がらない側道がカーブの内側にある。少し考えて、私はこの道に入った。
 側道はアスファルトで舗装されているだけで、路側帯などもない。こんな道は車が通ることもないのだろう。側道に入ってすぐ羽島方面のスロープをくぐるトンネルがあった。そこを抜けた先に、雪国、ではなく古い木造建築がたくさん並んだ集落が見える。あそこが、目的地の野寺なのだろう。
 トンネルの先は農道のような道であった。道幅としては車1台が悠々通れるけれど離合は無理なぐらいで、路側帯はかろうじてアスファルト舗装の一番端っこに塗料が塗ってあるかな程度。田んぼの真ん中まで来ると、長良川の堤防のすぐそばに小さな神社の祠のようなものが見える。やはり水害を避けたいためのものだろうか。
 そして、民家の固まっているところで突き当たった。ここから先が野寺の集落らしい。横の田んぼでは、キャタピラの付いた巨大な農業機械が、風圧で何やら噴出している。早くも稲刈りが終わった水田があるのか、脱穀か何かやっているようで、噴出しているのは稲わらのかけらのようであった。この丁字路で右に曲がり、長良川の堤防に向かって進む。すぐ堤防の手前で突き当たり、堤防上に上がる坂道の手前でまた左に曲がった。
 曲がり角には火の見やぐらが立っている。半鐘やスピーカーは付いていないが、すぐそばに防災無線があったりするので、やはり川の動向にはそれなりの警戒をしているようだ。この火の見やぐらは、火の見というより「川見」、川の様子を見るのに使われるのだろう。火の見の横には、「発動機店」とでもいうのか、給油機などが店先に設置されたバイク店がある。というわけで、ここが集落の入口であるようだ。
 集落に入ってくると、古めかしいお寺というか、薬師堂か観音堂のようなものが複数あった。高須の中心部と同じく、至るところに寺がある。崩れかけたような寺もなくはないが、多くは現役のようだ。石垣の上にあずまやを組んだ鐘突き堂が各寺に備え付けられているし、寺の建物自体も相当大きい。高須と同じく真宗大谷派が多いのだろう。一方で、この道は商店建築らしきものがまったくないが、いちおう昔は商店街だったのだろうと感じられた。洋品店が1軒だけ営業している。木造家屋は、木の羽目板ではなくてトタン板を張っているところが多い。白壁の部分が黒い家が多い。それだけ富裕な世帯が住んでいたエリアなのであろう。
 そんな風に自転車を漕ぎ進めていると、いきなり何の前触れもなく大垣共立銀行野寺支店に着いてしまった。住宅地の家と家とのはざまに支店があるような、そんな雰囲気であった。野寺支店の裏は公民館(平田海西公民館)。その奥には土蔵建築のようなものが並び、その間に瓦ぶきの門を構えた邸宅もある。公民館、それから近所にある郵便局の名前「海西」は何と読むのかわからなかったが、1955年に今尾町と合併して平田町になるまで、ここは海西(かいさい)村といった。
 公民館の前が広い駐車場になっており、私は自転車をここに止めた。

 この連載をまとめるにあたって車で一通り同じコースを回り、また自転車では行かなかったところにもいくつか行ってみた。
 長良川の堤防上、南濃大橋のすぐそばに、野寺の集落を俯瞰して見ることのできる場所がある。レストランと地産農産物の直売所を兼ねた「クレール平田」という施設で、旧平田町がつくった“道の駅”。単に道の駅だけでなく、長良川の水位観測カメラのような重要なものも併設されている。朝の8時から営業していて、地域に雇用を創造しているようだ。
 道の駅の裏側に回ってみて、そこから直ちに野寺の集落に降りられることに驚いた。野寺へ行くのに、道の駅まで車で行くという使い方ができる。大型農機がわらのかけらを噴き上げていた場所、大きな農機の格納庫、それに曲がり角にあった火の見やぐらといったものは、ここから真正面に見える。
 農家は大きめの建物が目立つ。北関東によくある養蚕農家の建物から、屋根上の明り取り窓を取り除いたような感じの建物が、あちこちにみられる。上から見おろした野寺は、まさに農村としか言いようのない雰囲気だが、経済的には豊かな地域のようであった。戦前には特に地主階級の多いところだったそうで、終戦直後の農地改革でだいぶ削られたものの、現在も地主の家が多いという。商業こそ全く気配がないけれども、野寺には大垣共立銀行が営業拠点を積極的に置くだけの基盤があるのだろう。

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 【注】大須から海津方面への路線廃止は2002年9月。
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