2017年05月08日

2014.07.18(金)(34)海津市を離れて輪之内町へ

 この自転車ツーリング、始めた時は何となく余裕があったけれども、海津市域の制覇が終了したこの時点で、すでに周辺を描写する気力が失われ始めている。自転車を漕ぎ出すにもヨタヨタして、足が引っ掛かったりするぐらいで、消耗が目立ってきた。これはマズいと思ったが、道程はまだ半分しかこなしていない。疲れている場合ではなかった。
 輪中堤の北側は、切割から坂を下りてくると広い水田地帯になっている。ここは昔の川底である。前述したとおり大榑川は明治期に廃川となり、跡地は干して水田になった。ただし、米を作っている面積は今となってはだいぶ少なくなってきているようだ。
 また少し上り坂になった。陸地として微妙に高いところは、昔から人が住んだり畑にしたりしている。雑木林の端に、真っ黒に成熟したドドメが多数なった木があった。野生もしくは放置された桑の木だろう。私が小学校生活を送った昭和50年代前半の群馬県前橋市ではまだ養蚕をやっていて、桑畑も残っていた。当然ドドメの味も知っているから、結構美味そうであると感じた。それから、この交差点の界隈ではカキの栽培をやっている。言うまでもないがオイスターではなくパーシモンの方。西濃地域は富有柿の栽培が盛んである。
 輪中堤から数分で、東大薮という交差点に来た。角には農家の直売所みたいなプレハブ小屋が建つ。みたいなというか、農産物の直売所そのものである。野寺支店の窓口さんは、輪中堤の次の信号で左に曲がると言っていた。この四つ角は、すぐ東側にy字分岐を持つ。長良川の堤防上から対岸に渡る大薮大橋への道と、川沿いの堤防道路につながる道とに分かれている。大薮大橋の先は羽島市である。ここで右折して太い道(県道30号羽島養老線)を真っすぐ行くと羽島へ、細い道に分岐して堤防道路を北に行くと岐阜・墨俣へ、南へ行くと木曽三川公園・海津へ抜けられる。交差点のすぐ東に矢印看板があるのでわかった。なお、墨俣(大垣市)は豊臣秀吉の「一夜城」で有名な町である。
 四つ角の少し南側で、海津市を離れて輪之内町に入っていた。さっき美味しそうなドドメの木があったあたりが市町界である。

 私は東大薮で左折して、県道30号羽島養老線を西に進んでいく。いま通っているのは、対面2車線白破線センターラインで、歩道が完備された広い道である。道の南側は畑、北側は休耕田。道路際の畑で栽培しているのはサトイモ・カボチャ・ナス・トマトといった、ある意味平凡な作物のようだ。畑や休閑地は道路の拡幅用地だろうか。ちょっとしたお墓もあった。「墓地」ではなく、1〜2人分ぐらいの墓石しかない“お墓”である。
 小学校(大薮小学校)が見え、〔大薮西〕というバス停があった。ここに来るのは名阪近鉄バスの輪之内羽島線で、輪之内町役場の隣にある輪之内文化会館と岐阜羽島駅とを結んでいる。次の停留所が〔イオンタウン輪之内〕だそうだから、もう目的地はさほど遠くはないハズだ。このあたりから、背の高いショッキングピンクの看板が見える。色からしてイオンのものであることは間違いない。おそらく、通りに面したところに立っているものだろう。
 この大薮地区には、明治期から太平洋戦争中まで大垣共立銀行が出店していたことがある。1899(明治32)年9月に大薮支店を開設、その後代理店→派出所→出張所と変遷を遂げ、1928年3月再び大薮支店となった。1936年2月出張所に格下げ、そして1944年5月に廃止となっている。所在地は安八郡大薮町大字御寿字大薮65番戸【注】である。道の北側、大薮小学校を中心とする大薮の集落内にあったと思われるが、それが現在の住所でどこにあたるかは残念ながら判明しなかった。明治・大正期の大共は農業金融が主体であり、大薮には米の産地として代金の授受などを目的とする支店が置かれていた。

 大薮の西側、上大榑の四つ角にやって来ると、「クロスタニン」「一生健康」などと大書した、2階建ての工場のような建物がある。全面化粧タイル張りで温泉センターみたいな建物であるが、よく見ると1階にシャッターが付いていたり、荷捌き所のようなものがあるから、やっぱり工場である。そういえば、さっき野寺支店の窓口でも、イオンへの道を説明するのにクロスタニンという言葉を使っていた。後で調べてみると、ここは1995年3月にできた健康食品の工場である。たんぱく質含量が高い、クロレラ属の淡水性単細胞緑藻類を製造しているという。
 このクロスタニンの前から、右の方に「BIG」と書いたオレンジ色の看板が見えた。さっきから見えているのはロードサイドの看板だと思うが、こちらは建物の塔屋だろう。こんな田園地帯に、よくショッピングセンターなど作ったものである。手前が一瞬森のようになっているが、あれは何だろう。イオンが買おうとして買えなかった土地だろうか。
 私は自転車を漕ぎ進める。道端の畑では、農婦が一人黙々と草取りをしていた。

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 【注】「番戸」で現在地を推定するのが困難であるのは前述のとおり。安八郡大薮町は1954年4月に2村と合併し輪之内町となった。
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2017年05月07日

2014.07.18(金)(33)これは輪中堤である

 2014年7月18日の「めぐ」に戻る。
 野寺支店前の四つ角から北に進む。海西郵便局の真裏は仏教寺院で、現役らしき鐘突き堂が見える。郵便局の北隣は海西警察官駐在所で、“村の駐在所”といった感じがする。突き当たって左に曲がり、長良川の堤防を背に、対面2車線で白色破線センターラインの道を西に向かうと、JAにしみのの野寺支店。JAの建物は築10年ぐらいは経っていると思うが、新しそうに見える。駐在所といい農協といい、鄙びた農村のイメージを醸し出す言葉であるが、建物からは「鄙びた村」というイメージは全く感じられなかった。
 その先の信号で今度は右に曲がって、真っすぐ北進する。この四つ角は前述の野寺代理店が新築された角である。北に向かう道も、これまでと同じ対面2車線白破線センターラインの道だが、ここは海津市の幹線となる岐阜羽島への路線バスが通る重要な道である。このあたりの農地は水田と畑が半々ぐらいで、水田の比率がちょっと下がっているのは高須や今尾近辺と比べると標高がやや高いせいだろう。そう思ったところで、北に向かってちょっと地形が下がり、水田ばかりになってきた。道路は田んぼの真ん中を直線的に突っ切って続いている。柵で厳重に覆われた用水路を越えた。

 〔勝賀西〕というバス停の先に、木がたくさん生えた緑の帯が見えてきた。堤防だろうか。あそこに向かってまた少し上り坂になっているようで、あの緑の帯が地形としての頂点であるようだ。
 軽い上り坂を上がり切ると、そこは思ったとおり堤防のようであった。かなり古い時代のものらしく、樹木の生え方などは自然な印象であった。堤防の向こうに川らしきものはなく、ただ道路の部分だけ切り通しになっており、それを抜けたところから今度は下り坂が始まっている。切り通しの切り口には石垣が築かれ、その中央には縦に2本スリットのついた意味ありげなコンクリートの構造物がある。一方、路面には四角い鉄板が4枚置かれていて、その部分もアスファルト舗装ではなくコンクリで固められている。堤防の上には、海津市のマークを付けた倉庫らしき建物が建っている。
 何だこれはと思ったが、コンクリの構造物、そして堤の上の倉庫でピンときた。あの倉庫の備品を使って、この切り通しを塞ぐのではないか。そういえば、さっき野寺支店の窓口さんは「ワジューテーを越えて」とか何とか言っていた。何かを「越える」のはわかっていたが、いま一つピンと来ていなかった。そうか、これがその「輪中堤」なのか。
 輪中堤というのは、要は堤防である。ただ、川に沿って築かれている通常の堤防とは異なり、ここに“河川”はない。この堤防は、近所を流れる大河川の堤防が大雨などで決壊した時に、流れ込んでくる大水を食い止めるためのものである。いま走ってきた道路は輪中堤と直角にクロスしているが、通常の堤防のようにスロープで上に上がって越える形ではなく、切割(きりわり)といって道路の部分だけ切り通しになっている。
 道の真ん中に置いてある鉄板は、H形鋼のような柱を立てるための穴に、蓋がしてあるのである。切割を閉め切る際には、路面の蓋を外して穴に柱を立て、H形鋼の柱の凹みと、堤防のコンクリのスリット部分とに板を渡してはめ込む。さらに、その周囲に大量の土嚢を積んで、濁流の襲来に備えるわけである。堤の上の倉庫は水防倉庫で、ここに輪中堤を閉め切るための資材や道具が常備されている。倉庫には合併後の海津市の市章が付けられており、忘れられた施設でないことがわかる。
 今回の場所とは異なるが、輪中堤が威力を発揮したのが、1976年9月12日に起きた集中豪雨の時であった。今も「安八豪雨」の名で語り継がれているこの集中豪雨では、輪之内町の北に隣接する安八町で長良川の堤防が決壊し、下流側の輪之内町は、安八町との境界にある輪中堤の切割をすべて封鎖した。安八町では、この水害によりほぼ全域が水に浸かり、最大湛水深は3mにもなったが、輪之内町は難を免れた。輪中堤は高度成長期以降はモータリゼーションの進展で邪魔者扱いされ、切り通しにして道路を通したところも多かったが、安八豪雨以後はその威力が見直されて現在に至っている。
 ここにある輪中堤は、濃尾平野の輪中で最大面積を誇る、高須輪中の最北端である。海津市の東半分、旧海津町と平田町を合わせた領域が、そっくりそのまま高須輪中の範囲となる。もともとは大榑(おおぐれ)川という河川の堤防であった。大榑川は江戸時代初期につくられた人工河川で、明治以降に大規模な治水工事が行われて廃川となった。木曽・長良・揖斐の3つの川のうち、東の木曽川が標高の最も高いところを流れており、西端の揖斐川が最も低い。このため、東側の川で大水が出た時は、放水路を使って西側に分ければ水量が減るわけである。大榑川はもともとこのような目的で、長良川の水を揖斐川に分けるため造られたのであった。ただし、今度は揖斐川での水害が多発するようになったため、前述した宝暦治水の際、長良川との分岐部分に洗堰【注】が造られた。結局これも水害の除去には不十分で、抜本的な改善は明治期に外国人技師のヨハネス・デ・レーケによって濃尾三川が分離されるのを待たなければならなかった。大榑川もデ・レーケの指示により封鎖された。

 東京在住の私が輪中堤を越える経験は、「大共めぐ」をやらない限りできなかった。私は、銀行めぐりをやっていてよかったと、知的好奇心を満たす喜びを噛みしめていた。

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 【注】洗堰(あらいぜき):川をせき止める堰の一部を低く切り欠いて、大水が発生した時その一部を堰の向こうに流すことで、水位を下げるためのもの。宝暦治水では、揖斐川流域の住民は大榑川を完全に締め切りたかったが、長良川流域から強い反対が出たため、長良川の水が増えた時に水を分ける洗堰で合意した。
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2017年05月06日

2014.07.18(金)(32)代理店のこと

 2015年2月の海津市内4店代理店化に伴い、野寺支店は店舗を新築して移転した。代理店化により最も大きく形が変わったのが、野寺支店ということになる。ここでは少し脱線して、代理店化3か月後の2015年5月に現地を再訪した時のことをまとめておくことにしよう。
 野寺の大垣共立銀行は、集落のはずれにある田んぼの真ん中に移転していた。海津市と岐阜羽島駅とを結ぶバス道路の四つ角である。ここは「めぐ」の当日にも通っているハズなのだが(後述する)、大共の移転先であるこの場所については何があったか覚えていない(元は水田だったのだろうと思う)。銀行のホームページで「移転する」とは一言も告知されなかったので、旧支店を訪れて店頭の貼り紙で初めて知って驚いたのだった。野寺で商売するのであれば、水田地帯の真ん中の目立つ角でよいのだろうが、野寺という地区での新築移転そのものが、非常に大胆であると思った。
 新店舗は大駐車場完備の平屋建てで、シルエットとしては郊外型のコンビニに似ている。敷地は四つ角の南東角。ちなみに、北東角は酒店とその駐車場、北西角はエディオンのフランチャイズの家電店、南西角は水田である。大共の駐車場は身障者用を含めて13台分。それとは別に車寄せもあって、駐車スペースには相当の余裕がある。店舗の横にある小さな小屋は、自転車置き場だろう。
 表の屋号表示は「OKB野寺」としか出ていない。大垣共立銀行という文字看板は全くなく、かろうじて入口自動ドアのガラスに「OKB大垣共立銀行野寺代理店」と白い文字で書いてあるだけだ。大共はここ数年、銀行名より「OKB」という愛称名を前面に打ち出してきている。共立総合研究所などいくつかの系列会社は、すでに「OKB××」という形に社名変更した。大垣という地方都市の名前を冠した銀行名では商売しにくい、という声が行内に根強くあり、土屋嶢頭取も就任時に行名の変更を検討すると宣言していたから、それに対する長年の検討結果が「OKB」という愛称名なのだろう。名称としては「OK」に通じる良い名前ではないかと思う。
 ATMは入口の自動ドアを入ってすぐ左側で、移転とともに機械が2台になった。2台とも手のひら認証つき富士通FV20である。外装も含めて茶色主体でシックな色遣いの店舗は、最近はやりのサロン風。2人がけのソファが3つか4つ置いてあり、液晶テレビでPRを流していて、クラシック音楽が流れている。窓口の相談ブースとは別に、個室の応接室が奥の方にあるようだから、法人店舗によくあるようなスタイルである。野寺地区には富裕な顧客が多数いるのだろう。そうでもなければ、この時代に多額の設備投資はしないと思う。なお、店内には自由に使えるトイレもあった。銀行でこれは案外珍しい。
 野寺以外の代理店は、旧来の建物をそのまま使用している。ただ、法人関係の業務などをすべて海津支店に移管したこともあって、人員は4店舗合わせて23人も削減されている。このため、特に支店(野寺を除く)だった代理店では、スペースに相当の余裕ができたようだ。今尾支店は広い窓口室を持っていたが、代理店化に伴い什器は撤去され、白い鉄板でパーティションを行い、カウンターだったところは広いじゅうたん敷きのスペースに変更されている。

 ところで、「大共めぐ」を楽しむ者としては、代理店は“1粒で2度おいしい”拠点となった。この時代理店化された4店舗(南濃・今尾・野寺各支店、駒野出張所)は、ATMと窓口とが別々の営業拠点になったからである。野寺でいうと、支店時代に野寺支店が直接管理していたATMは、代理店化後は「海津支店野寺代理店出張所」という店舗外ATMとなり、通帳の取扱店名記帳も<野寺代理店>になっている。窓口での取引は「野寺代理店」として<野寺>と表示されるから、大垣共立の代理店は、「めぐ」の立場からは1か所の訪問で2か所分の制覇ができるわけである。
 加えて、4店は代理店化と同時に窓口の営業時間が夕方4時までに延長された。高須支店改め海津支店が従来通り3時までであるのがよくわからないが、窓口で取引しないと制覇できない代理店が、3時で閉まらず4時までやっているのは、喜ばしい。
 私が訪れたのは、朝8時台のことであった。女性の行員さんが2人、朝の掃除をしていた。一人は店の前の生垣に水やり、もう一人はキャッシュコーナーで掃除機かけ。生垣のツツジが満開だったのが印象的であった。代理店の行員は、代理店を運営する全額出資子会社のOKBフロント鰍ノ大共の本体から出向する形になっている。なお、海津市内4店の代理店化まで、店舗をまたいだ振り込みは別の支店扱いであったが、代理店化後は海津市内については全て「同一店扱い」となった。

 少々蛇足になるが、野寺代理店訪問の際に見た光景をここで一つ書き残しておきたい。
 前述したとおり、銀行では一般に(大共に限らず)、朝に行員が総出で掃除をしている。私が訪れた時、キャッシュコーナーにいた女性の行員は、何やら掃除機で一生懸命吸い取っていた。見ると、ATMそのものに掃除機をかけているのであった。野寺代理店のATMは富士通のFV20型だが、この型の機械は前面に蛍光灯が入っていて、稼働中は常に白く光っている。そこに羽虫がびっしり入り込んでいたのである。なるほど、田んぼの真ん中で夜9時まで煌々と明かりがついていると、虫を招き寄せることになるのだ。毎朝の掃除がかなり大変だろうなあと思った。厨房の出入口によくある、紫外線ランプを使った殺虫灯をキャッシュコーナーの天井に付けたら、少しは違うのではないだろうか。
 ATMという機械は、田園地帯で使うことを想定していないのだろう。虫が来るのは仕方がないとしても、機械の中に入ってしまうというのは、メーカーにはわからない現場の実情ではないだろうか。それで思い出したのが、2012年5月に沖縄へ行った時のことである。地元のトップ地銀、琉球銀行の店舗に入ったところ、ATMでの硬貨の扱いを中止している旨が店内に掲示されていた。その理由が、ATMの硬貨ユニットが故障しやすいためということであった。沖縄県内ではアメリカ合衆国の硬貨が大量に流通しており、特に10セント硬貨(ONE DIME)はATMメーカーの想定以上に薄くて小さいため、投入されると即ATM停止になるのだという【注】。ATMの硬貨ユニットが故障しやすいというのは私も別のところで聞いたことがあり、沖縄県以外でも硬貨の扱いを廃止した銀行がある。本州地区のそれも営業店でATMの硬貨取扱を廃止するのは怠慢だと思うが、米国軍人や軍関係者の多数いる沖縄では“そんなの目じゃない”ぐらいに壊れるのであろう。
 こういう具合に、ATMメーカーには銀行の現場のことが把握されていないわけである。刑事ものドラマで「事件は現場で起きているんだ」というセリフがあったけれども、現実に即して対応しなければならない現場はやはり大変であるのだなあ、との思いを新たにした。

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 【注】連載作成のため、ATMを10か所ほど試してみたが、10セント硬貨を投入してATMが停止したケースはなかった。ただし、機種によっては、計数に通常より時間のかかるものがあった。これとて、繁忙な時間帯で連発したら影響があるかもしれないが、投入して機械が「即停止」するほどチャチなものでもないようである。
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2017年05月05日

2014.07.18(金)(31)海津市全店制覇達成

 野寺支店は、通りに面した部分は平屋建てで、敷地の奥に2階建てを建て増してある。窓口室は平屋の部分であった。駐車場に面した壁面に夜間金庫の投入口らしきものがあるが、利用者がいないとみえてステンレスの器具で塞がれている。それを横目で見ながら支店に入った。
 建物入ってすぐ前がATMで、その左側に窓口室が広がっている。ここ野寺支店に至って、とうとうATMの台数が1台になってしまった。キャッシュコーナーには、手のひら認証対応の富士通FV20が置かれている。
 ATMの横に「近隣のATMご案内」なる手製の地図が掲示してあって、野寺支店の他には[輪之内町役場]と今尾支店だけが書かれていた。[イオンタウン輪之内]と[ヨシヅヤ海津平田店]は書かれていなかったが、そこから察すると、イオンタウンはともかく、ヨシヅヤも比較的新しい拠点であるようだ。それから、ヨシヅヤそばのカーブと思しきところに「十六銀行」と書いてあり、テープで消してあった。廃店になった今尾支店であろう。
 消されているとはいえ、大垣共立銀行の中の人が作った略図に「十六銀行」の名前が書いてあるのは、興味深く思った。大共と十六銀行の2行は、岐阜県に明治期から続く銀行であるが、銀行としての規模(預金残高など)や岐阜県内でのシェアは十六銀の方が大きい。しかし、戦前には大共の方が大きいこともあった。十六銀の後塵を拝す形になった大共は、強烈なライバル意識をもって十六銀に対峙してきたという。その象徴的な事例としてよく引き合いに出されるのが、大垣市中心部の郭町にある大共の本店ビルの話である。1973年6月に竣工した大垣共立銀行本店は17階建てで、「16を上回る」という強烈な意志が込められているとされる。もちろん、こんな話は当の大共では明確に否定しているのだが【注】、こういう話が「さもありなん」としてまことしやかに語られるほど、大共の十六に対する対抗意識は強かったのだろう。もっとも、この近所に十六銀の店舗はないし、ATMさえ1台しかないような農村部の支店では、現場で利用者利便を考えた場合、そんな行内の競争意識など無用であろう。だから私は、ここに「十六銀行」の文字が入っていたことを高く評価したいと思う。
 そんなことを考えながら、ATMを操作する。11:51、野寺支店を制覇した。

 野寺支店は、七十六銀行野寺支店として1917(大正6)年1月に開設された。1928年5月の大垣共立銀行合併の際には、支店ではなく出張所として引き継がれることになり、今尾支店野寺出張所となった。1950年10月野寺支店に昇格、1955年2月町村合併により所在地は海西村から平田町となった。1967年5月に土地改良工事完成に伴う地番変更が行われ、所在地は平田町野寺字川田1299となった。この場所は、「めぐ」当日に使われていた支店建物の東80m、商店横の現駐車場であるようだ。1970年9月に字川田1362に新築移転、これが本日訪れた店舗である。1978年11月、野寺支店は今尾支店野寺特別出張所となったが、1987年9月支店に再昇格した。1978年に始まった特別出張所の制度により、大共は野寺支店を廃止して代わりに高富支店(山県市)を開設している。特別出張所は、不採算ではあるが銀行としてその地区から撤退したくない場合に多く用いられた制度のようだから、野寺支店の位置付けがこのあたりからも読み取れる。
 2005年3月、海津郡の3町合併により自治体名は平田町から海津市へと変わり、そして2015年2月2日の代理店化を迎えることになる。野寺支店は代理店化と同時に集落の外側に移転し、新しい野寺代理店は新築店舗で営業を開始した。新店舗の所在地は、海津市平田町野寺字川田1215である。
 沿革で触れた土地改良事業について解説を加えておこう。輪中地域での土地利用上の特徴として、江戸時代中期に始まった「堀田」というものがあった。輪中内の水田は、水が多すぎて常に水に浸かった状態になるので、農地を1〜1.5mほど櫛形に掘り下げ、掘った土で掘り残した部分を盛り上げて、その盛り土部分で耕作する。掘り下げた水たまり(掘りつぶれという)は四水六土といわれ、農地の4割ほどを占めるところもあった。盛り土の端が特に崩れやすく、掘りつぶれを定期的に浚渫して端を固めるのは大変な重労働であったという。これをなくして近代的な水田に生まれ変わらせたのが、戦後行われた土地改良事業である。輪中内で余った水を排水するためポンプ場を建設し、あわせて長良川や揖斐川を浚渫して得た泥で掘りつぶれを埋め立て、区画整理も行って、大形で長方形の乾田に姿を変えた。戦後1949年に土地改良法が施行され、1953年から国と県が排水機を設置して埋め立てを開始、昭和30年代のうちに改良工事は終了した。

 これで、海津市の全店制覇を達成した。ここで終わりにしてもキリが良いのだが、「大共めぐ」の旅を続けよう。次の目的地は[イオンタウン輪之内]である。海津市を離れて安八郡輪之内町に入る。
 制覇作業の後、窓口室のカウンターに歩み寄った。地元の人なら近道を知っているだろうから、イオンへの道を教えてもらおう。中年の女性行員がお相手してくれた。支店前の道を郵便局の方に行けばいいらしい。いろいろ詳細に教えてくれたが、要するに、郵便局の先で左折し、右に曲がって左に曲がれば良いようだ。
 だいぶ疲れてきているのか、少し足がよろついた。道を聞いた窓口さんが「ご苦労様です」と労ってくれた。

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 【注】当時の頭取土屋斉氏は、20階建てにするつもりだったが大蔵省の指導で17階に縮小したと語っている。足利銀行の頭取から、階数は多目に申請しておいた方がよいとのアドバイスを事前に受けていたという。
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2017年05月04日

2014.07.18(金)(30)野寺の集落へ

 またy字分岐があって、羽島方面は直進方向、岐阜南濃線は道なりに左、という案内表示が出ている。この分岐は何らかの形で拠点になるところだったらしく、郊外型のコンビニのような建物が並んで建っていたりする。この三差路のあたりから、これまでなかった歩道が完璧に整備されているのは、セットバックして道を広げる予定でもあるのだろう。民家もだいぶ引っ込んだ奥に建っている。女子中学生がy分岐の横から農道に入って行くのが見えた。後で調べてみると、そちらの道の方が近道だったようで少し悔しいが、知らない道へ迷い込んでタイムロスするわけにはいかない。今日すでにさんざんな目に遭ったから懲りている。
 分岐を左に進むと、幡長宮地(はたおさみやち)という交差点に来た。道はその先で大きく右にカーブしており、カーブの先は堤防上に上がって羽島に抜ける橋につながっている。今回は、その橋は渡ってはいけないのである。もちろん真ん中を渡る選択肢もない。などと下らないことを考えつつ、この四つ角は、直進すると堤防上に上がる県道1号で羽島方面、右折して堤防に突き当たると岐阜と桑名を結ぶ県道23号(北方多度線)である。羽島方面の橋と堤防道路とが立体交差になっている。川沿いを走る道はだいたい堤防の上を走っているのだが、橋に遭遇した時だけこうして堤防から下に降り、橋の下をくぐっていく。大河川を目前にしてダイナミックな景観が広がっているが、矢印看板によると両方とも県道なのであった。
 羽島方面に向かう直進は、大きく右に曲がって堤防上に向かって坂を上がり始めている。坂の上に続く橋は、南濃大橋である。この橋で長良川を越えると、羽島市の大須に出る。大須は、2001年10月まで名鉄の竹鼻線というローカル電車の終点であった。竹鼻線は名鉄名古屋本線の笠松駅から南に延びる支線で、現在はJR岐阜羽島駅前にある新羽島という駅までの運行となっている。竹鼻は羽島市中心部の古い地名である。さっき今尾恵介氏の本の話で触れたけれども、かつては名鉄竹鼻線が海津市域(平田町・海津町)への主要なアプローチで、大須駅前から野寺・今尾を通って高須(歴史民俗資料館)まで岐阜バスの路線が通じていた。岐阜バスは戦時統合で誕生した岐阜県の乗合バス会社であるが、2007年9月を最後に西濃地区から撤退している【注】。海津市コミバスの幹線である海津羽島線は、当時の岐阜バスの路線をベースに設定されている。鉄道がなくなった今、大須を通るルートはほぼ廃れてしまった。私は学生の頃に1度だけ、名鉄竹鼻線で大須まで来たことがある。たしか、大きな無人の木造駅舎にホームが1本だけの終着駅で、この時大須まで来た客は私以外に一人もいなかったと記憶している。
 風の音が続いている。さて、私はどちらの道を行けばよいのだろうか。

 右にカーブしつつ高さを増している羽島方面への道に沿って、堤防上に上がらない側道がカーブの内側にある。少し考えて、私はこの道に入った。
 側道はアスファルトで舗装されているだけで、路側帯などもない。こんな道は車が通ることもないのだろう。側道に入ってすぐ羽島方面のスロープをくぐるトンネルがあった。そこを抜けた先に、雪国、ではなく古い木造建築がたくさん並んだ集落が見える。あそこが、目的地の野寺なのだろう。
 トンネルの先は農道のような道であった。道幅としては車1台が悠々通れるけれど離合は無理なぐらいで、路側帯はかろうじてアスファルト舗装の一番端っこに塗料が塗ってあるかな程度。田んぼの真ん中まで来ると、長良川の堤防のすぐそばに小さな神社の祠のようなものが見える。やはり水害を避けたいためのものだろうか。
 そして、民家の固まっているところで突き当たった。ここから先が野寺の集落らしい。横の田んぼでは、キャタピラの付いた巨大な農業機械が、風圧で何やら噴出している。早くも稲刈りが終わった水田があるのか、脱穀か何かやっているようで、噴出しているのは稲わらのかけらのようであった。この丁字路で右に曲がり、長良川の堤防に向かって進む。すぐ堤防の手前で突き当たり、堤防上に上がる坂道の手前でまた左に曲がった。
 曲がり角には火の見やぐらが立っている。半鐘やスピーカーは付いていないが、すぐそばに防災無線があったりするので、やはり川の動向にはそれなりの警戒をしているようだ。この火の見やぐらは、火の見というより「川見」、川の様子を見るのに使われるのだろう。火の見の横には、「発動機店」とでもいうのか、給油機などが店先に設置されたバイク店がある。というわけで、ここが集落の入口であるようだ。
 集落に入ってくると、古めかしいお寺というか、薬師堂か観音堂のようなものが複数あった。高須の中心部と同じく、至るところに寺がある。崩れかけたような寺もなくはないが、多くは現役のようだ。石垣の上にあずまやを組んだ鐘突き堂が各寺に備え付けられているし、寺の建物自体も相当大きい。高須と同じく真宗大谷派が多いのだろう。一方で、この道は商店建築らしきものがまったくないが、いちおう昔は商店街だったのだろうと感じられた。洋品店が1軒だけ営業している。木造家屋は、木の羽目板ではなくてトタン板を張っているところが多い。白壁の部分が黒い家が多い。それだけ富裕な世帯が住んでいたエリアなのであろう。
 そんな風に自転車を漕ぎ進めていると、いきなり何の前触れもなく大垣共立銀行野寺支店に着いてしまった。住宅地の家と家とのはざまに支店があるような、そんな雰囲気であった。野寺支店の裏は公民館(平田海西公民館)。その奥には土蔵建築のようなものが並び、その間に瓦ぶきの門を構えた邸宅もある。公民館、それから近所にある郵便局の名前「海西」は何と読むのかわからなかったが、1955年に今尾町と合併して平田町になるまで、ここは海西(かいさい)村といった。
 公民館の前が広い駐車場になっており、私は自転車をここに止めた。

 この連載をまとめるにあたって車で一通り同じコースを回り、また自転車では行かなかったところにもいくつか行ってみた。
 長良川の堤防上、南濃大橋のすぐそばに、野寺の集落を俯瞰して見ることのできる場所がある。レストランと地産農産物の直売所を兼ねた「クレール平田」という施設で、旧平田町がつくった“道の駅”。単に道の駅だけでなく、長良川の水位観測カメラのような重要なものも併設されている。朝の8時から営業していて、地域に雇用を創造しているようだ。
 道の駅の裏側に回ってみて、そこから直ちに野寺の集落に降りられることに驚いた。野寺へ行くのに、道の駅まで車で行くという使い方ができる。大型農機がわらのかけらを噴き上げていた場所、大きな農機の格納庫、それに曲がり角にあった火の見やぐらといったものは、ここから真正面に見える。
 農家は大きめの建物が目立つ。北関東によくある養蚕農家の建物から、屋根上の明り取り窓を取り除いたような感じの建物が、あちこちにみられる。上から見おろした野寺は、まさに農村としか言いようのない雰囲気だが、経済的には豊かな地域のようであった。戦前には特に地主階級の多いところだったそうで、終戦直後の農地改革でだいぶ削られたものの、現在も地主の家が多いという。商業こそ全く気配がないけれども、野寺には大垣共立銀行が営業拠点を積極的に置くだけの基盤があるのだろう。

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 【注】大須から海津方面への路線廃止は2002年9月。
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2017年05月03日

2014.07.18(金)(29)今尾から野寺に向かう

 それでは、次なる目的地の野寺に向かおう。ここから野寺支店まで5.08km、21分かかることになっている。
 予定では今尾支店11:17出発で、いまの時刻が11:18だから、ほぼ予定どおり。というか、高須支店を出る時に30分の余裕時間を稼いでいたのに、道を間違えて遠回りしたせいで、全部吐き出してしまったのである。野寺に向かう道のうち、半分ぐらいはいま来た道の戻りであって、それを思うだけで疲労感がかなり増した。
 むなしい行程が続く。〔お千代保稲荷〕のバス停まで戻ってきたところで、どこからともなくウエストミンスターの鐘が鳴り始めた。時計を見るとちょうど11:30であった。さっき小学生の集団下校を見たけれども、今度は中学生の自転車の集団下校に遭遇した。

 今尾から野寺までの中間地点、蛇池の交差点まで戻ってきた。ここから先が、今日まだ一度も通っていない道になる。
 蛇池の四つ角を境に、田園地帯の風景は変わらないものの、道路の様子が若干変わった。今まで黄色のセンターラインだったが、ここから先は白の破線になった。道路のセンターラインは、白の破線は追い越し可、黄色の実線は不可ということになっているが、対面2車線の道路でこの区分は意味があるのかなと思う。私は結構気が短い方だが、それでもこうした道で先行車を追い抜くなど、恐ろしくてとてもできない。追い越しが認められていようといまいと、対向車が来たら一巻の終わりではないか。
 農業機械のディーラーがあった。扱っている商品は、乗って耕すタイプのトラクターなど、大型のものが多いようだ。このあたりの農業はコーンベルトなどアメリカの粗放的な農業にかなり近い形態で、巨大な農業機械に相応しく耕地面積も広い。ディーラーの看板は、逆三角形を3つ組み合わせた原子力マークのようなシンボルマークが付いていて、MASSEY FERGUSONと書いてある。マッセイ・ファーガソンというのは世界的な農耕用トラクターのブランドらしいが、これまでに聞いたことはなかった。販社もエム・エス・ケー農業機械という聞いたことのない会社だが、北海道恵庭市に本社のある三菱商事の完全子会社で、全国展開している。ここは羽島営業所といい、岐阜県唯一の拠点だそうだ。
 その農機ディーラーの隣に、紫色のアメ車がボンネットの先だけ出しているガレージがある。アメ車のラジエータグリルは金色であった。ガレージはトタン波板を張った2台分の箱で、前面が高くて後部が低くなった台形。ボンネットは車体の大きなアメ車だから本当にはみ出しているのだろうが、もし違う種類の車ならわざとらしいと思っただろう。アメ車の横には、ボディマウントのような形にした軽トラックもあって、結構な自動車好きが住んでいるようだ。軽トラでもボディマウントにすればシャコタンに見えるのだが、車を趣味とする人たちがどうしてそんなに車高を下げたがるのか、私には不思議でならない。踏切をジグザグ走行しなくてはならないなど不便なだけだと思うのだが、考えてみれば私も使いもしない銀行口座をたくさん持っているから、それと同じだと思い直した。
 この道の歩道は、まず縁石を縦に並べ、その横にU字溝で水路を作ってコンクリートの蓋をかぶせてある。溝の両側はアスファルトで舗装しているのだが、舗装とU字溝との間のごくわずかなすき間は、セイタカアワダチソウがびっしり生えて並木のようになっている。自転車を漕いでいるとパタパタパタパタ足に当たって、何とも邪魔。わざわざこんな狭いところに生えなくてもと思うが、まあ雑草の生命力はたくましいものである。「雑草」という名の植物は存在しない、と昭和天皇にたしなめられそうだが。

 左に分かれるy分岐があって、羽島12kmという矢印看板が出ている。センターラインを引いていない道が左に分かれていくが、ここを走っていくと野寺に多少近いかもしれない。後で知ったが、この道は野寺を通って岐阜羽島駅へ行く海津市コミバスの経路であった。私は直進する。その先には、卵の直売という幟を出した養鶏業者があった。さっき鶏卵の自動販売機を見たけれども、岐阜県のこのあたりは養鶏が盛んなのだろうか。さらに行くと、川が流れていない橋がある。遊歩道になっているということは、多分川を埋めたのだろう。かつてこのあたりは網の目のように川が流れていたが、江戸時代に始まる治水工事でだいぶ少なくなったようだ。
 蛇池のあたりには、大駐車場完備で建物もかなり大きな個人経営のレストランがところどころに複数あって、ランチタイムには車で賑わっているところが多かった。お千代保稲荷の参拝客は、お参りの前か後に近所のこうした店で食事する段取りのようだ。お千代保さんから離れるにつれて経営の芳しくない店が増えてきたようで、野寺にだいぶ近付いたこのあたりは至るところで飲食店の空き店舗が目に付く。

 前方に堤防が見えてきた。あそこまで行き着くと長良川である。野寺は川の手前だから、どこかで左に曲がるハズだ。はたして、この県道は長良川の堤防にいよいよ近づいたところで左にそれている。白の破線センターラインは、左カーブの手前で黄色の実線に変わった。道と堤防の間は森のようになっている。この道の東側は、羽島市の飛び地で桑原町西小薮という。飛び地という言い方は不正確で、長良川の向こう側にある“本土”と領域はつながっているのだが、川を挟んで事実上飛び地になっているのである。かつての川の流れがここであったことの名残で、大改造された大河川の沿岸にはよくある。
 者結という珍しい地名があった。ものゆいとでも読むのかと思ったが、後で調べてみると「じゃけつ」という。さっき蛇池という地名があったけれども、者結の「者」ももともとは「蛇」で、このあたりの「ジャ」のつく地名はすべて、蛇を神とあがめて信仰するものであるそうだ。
 私がこの者結という地名を知って真っ先に思い浮かべたのは、中川李枝子作の児童文学の傑作『いやいやえん』であった。福音館書店刊の赤い表紙の本には、7篇のお話が収録されているが、そのうちの5番目「おおかみ」に、衣装として「じゃけつ」が出てくる。要はジャケットのことなのだが、本の初版が刊行された1962年頃の外来語の表記が垣間見られて興味深い。別の例を挙げると、私は1968年生まれだが、幼稚園時代に「ビールス」という言葉が普通に使われていたことを思い出す。ウイルスのことであるが、virusというラテン語をどう発音するかによって表記が違ったわけである。それはともかく、「おおかみ」というお話は、《森のおおかみが、はらっぱへさんぽにきました。/おおかみは、このあたたかいのに、赤いけいとのじゃけつをきています。/はらっぱには、だれもいません。ちょうちょうが、白い花のあいだをとんでいるだけです。/かぜがふくと、くさは、こっそりとねむくなるにおいをまきます。/おおかみは、いいきもちでねむってしまいました。》という長閑な書き出しから、一転して幼稚園児を捕まえて食べようとする展開になる。大人の目で読んでも切り替えが鮮やかであると思う。
 蛇足であった。長々と書いてしまったが、蛇神に免じて勘弁してもらいたい。

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2017年05月02日

2014.07.18(金)(28)今尾支店を制覇

 次の目的地は、ここ[ヨシヅヤ海津平田店]からすぐ近いところにあるハズの、今尾支店である。
 ヨシヅヤから今尾の中心地に入ってきた。地図で見るとヨシヅヤの西側ということになるが、もう方向感覚が目茶苦茶だった。大垣共立はどこにあるのだろうか。いちおう目抜き通りのような道に入ったから、この近くだろうとは思う。まだお昼前だというのに、小学生が集団下校していくのに遭遇した。考えてみれば、今日は7月18日の金曜日。終業式だったのだろう。
 かつては賑わっていたと思われる商店街だが、店はずいぶん歯抜けになってしまい、商店街というには淋しく感じる。店舗の半分ぐらいは、もうすでに商店ではない。昔は商店建築だったのだろうが、建て替えの時に普通の民家にしてしまった感じの家が多い。残りの半分、商店の形態を維持している建物のうち、さらに開けて営業しているのがそのまた半分ぐらいであった。角の菓子店では饅頭を扱っている。自転車屋とおもちゃ屋は開いている。歯科医が立派な建物、というかきれいな建物を建てている。
 揖斐川の河港として発達した今尾の町は、関ヶ原合戦後間もなくできた今尾藩の中心地で、廃藩置県の際には一時的ではあるが「今尾県」の県庁所在地だった。今尾県は1871年7月(陰暦)にスタートし、1872年1月(陽暦)【注1】に早くも統合されて岐阜県になっているから、わずか4か月の間であった。廃藩置県当初は旧藩をそのまま県としたため、3府302県でスタートしたが、のちに統廃合によって現在のスタイルになったのである。そんな「県都」であった今尾の町は、商店街としては規模が相当に大きかったようだ。今の時代には軒並み建物が歯抜けになっているが、その昔、ここや高須の町に行く時には、正装で行くぐらいの緊張感があったのではないかと思う。なお、今尾については、建物の土台を高く上げている印象は薄かった。平田靱負の名前を採って平田町としていたぐらいの地域であるから、このあたりも水害に襲われやすいハズだが。

 そういう町並みの中に、緑色の縦型看板が見えた。ありました、大垣共立銀行今尾支店。この支店の看板は、建物や柱から袖のように飛び出した袖看板ではなくて、地面から直立している。直立型の看板は最近の流行りのようである。支店の向かい側は「三菱電機ストア」であった。かつてどこの町にもあった、大手家電メーカーのフランチャイズ店。この店は「三菱ビデオファンタス」の看板を付けている【注2】。ファンタスというビデオデッキは、日本テレビ系の刑事ものドラマ『太陽にほえろ!』でCMを見た記憶があるから、1980年代の製品だと思う。YouTubeで検索してみると、1987年頃まではCMがオンエアされていたようだ。
 支店入口の上部には、「大垣共立銀行」という金属製の切り抜き文字が付いている。その並び方が少し気になった。「共立銀行今尾支店」という切り抜き文字を、ひさしの中央にバランス良く付けていたところに、「大垣」の2文字を左に無理矢理追加したようで、危ういと感じられる配列であった【注3】。建物に入ってみると、ここのキャッシュコーナーには機械枠が最初から2台分しか用意されていない。そこが2台のATMで埋まっている。営業店は2台、店舗外ATMだと1台というのが、大共のこの地区での標準的なATM配置のようだ。ATMの機種構成は近所の他支店とまったく同様で、富士通FV20が2台、そのうち1台が手のひら認証対応であった。他店と異なるのは、手のひら対応が左側の機械であることだったが、向かって右側で統一しているわけでもないのだろう。窓口室は結構広かったが、私が覗いた時にはお客は2〜3人しかいなかった。
 例によって制覇作業をしなければならないが、2台しかないATMは1台が点検中で、《作業中、ご利用できません》の札が出ている。もう1台は先客が使っているが、結構時間がかかりそうだ。その間に写真撮影を済ませてしまおうと店の外に出た。正面の大事なところに車が止まっている。持ち主は、と目で追うと、ATMを使っていた。文字に到底できないような言葉を心の中で吐いた。
 数分ののちに、ようやく自分の番が回ってきた。機械を操作。11:14、今尾支店を制覇した。

 今尾支店は、1901(明治34)年1月に七十六銀行今尾支店として開設されたのが始まりで、1928年5月の大垣共立銀行合併により同行の今尾支店となった。当初から現在に至るまで、今尾支店はこの場所にある。一方、七十六銀行と合併する前の大共は、1905年6月当地に今尾代理店を開設し、1910年6月今尾派出所、1912年8月今尾出張所とした。今尾出張所の所在地は大字今尾565番戸ということだが、現在のどこに該当するかは判明しなかった【注4】。今尾出張所は七十六銀行を合併する直前の1928年3月に今尾支店となり、同年5月の合併により旧七十六銀今尾支店に移転した。1935年5月に店舗を改築し、現店舗は1974年3月に新築している。2015年2月、支店から代理店に変更されたのは、海津市内の他の店舗と同様である。
 所在地の自治体名は、1955年2月の1町1村合併により今尾町から平田町に、2005年3月の3町合併により平田町から海津市に変わっている。

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 【注1】陰暦では1871年11月。
 【注2】「めぐ」後間もなく看板類は撤去された。
 【注3】2015年2月の代理店化に伴い、今尾支店の店頭の切り抜き文字は、無塗装金属製からプラスチック製の緑色を入れたものに変わっている。代理店化されなかった高須(改め海津)支店も含め、海津市内の営業店はおおむねこういう感じのようである。
 【注4】「番戸」は建物に対して振られた番号であり、地番や番地などとは違うため、調査がいっそう困難となっている。
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2017年05月01日

2014.07.18(金)(27)[ヨシヅヤ海津平田店]と十六銀行のこと

 バス停の先にある今尾俵町という交差点から、左前方にヨシヅヤの看板がやっと見えた。あれは店舗の塔屋であろう。やはり、さっき田んぼの真ん中ではるか彼方に見えたのは、この看板であった。その先、今尾昭和町2の交差点角にはタクシーの営業所があった。スイトタクシーは海津市のコミバスを運行しているスイトトラベルのタクシー部門である。タクシー会社の奥に「今尾商店街」というアーチが付いていた。アーチの向こうはさみしい商店街、というかすでに商店街の体をなしていないようだ。
 それはいいが、ヨシヅヤはいったいどこにあるのだろうか。看板はさっき左に見えたのだけれども。さっきヨシヅヤへの道を尋ねた時に、サークルKの店員が信号を「左に入れ」と言ったのは、斜めに入れではなく、左に完璧に曲がれということだったようだ。
 と思ったが、こちらから行ってもやはりヨシヅヤに遭遇した。後で知ったが、ヨシヅヤ海津平田店の敷地は2本の道路に挟まれていて、こちらの道は敷地の西側であった。ヨシヅヤ東側を南北に走る道は、さっき通った「今尾」の交差点につながっている。ヨシヅヤの北隣には平田郵便局があり、集配センターを持つようだ。
 西側でまず目に付くのは十六銀行の看板で、「ATM/十六銀行」と書いてある。大垣信用金庫、大垣共立銀行という看板も見える。敷地に自転車を乗り入れると、建物の南側外壁に共同キャッシュコーナーの自動ドアがあった。制覇目標はここであった。
 キャッシュコーナーは、大共と大垣信金で一つのスペースを仲良く2つに分けて使っている。十六銀のATMは別の場所にあるようだ。機械は大共と信金で1台ずつあって、大共はここへ来ると沖電気のATMが入っている。新型の「バンキット・プロ」だが、手のひら認証対応にはなっていない【注1】。大垣信金の方は、いまとなってはすっかり旧型ATMと化したオムロンJXが1台だけ置かれていた。両ATMとも、母店は今尾支店である。夜のクローズ時間は大共のほかの店舗外ATMと異なり、19時となっていた。機械を操作。10:53、[ヨシヅヤ海津平田店]を制覇した。

 今尾支店ヨシヅヤ海津平田店出張所は、今尾支店4番目の店舗外ATMとして、ヨシヅヤ海津平田店が開店した1994年7月に開設された。当初は十六銀行との共同設置で、長いことATMではなくCDとして運用していた。2001年度中にATM化されたが、その際に大垣共立銀行の単独設置となったようだ。今尾支店の代理店化にともない、母店は2015年2月2日から海津支店に変更された。
 「ヨシヅヤ」の運営会社は葛`津屋といい、愛知県津島市に本社を置く。もともとは呉服店だったが、戦後の流通革命の中でスーパーマーケットを新たな経営の柱とした。CGCグループ加盟で、津島を中心に愛知県南西部に店舗網を広げており、岐阜県にも3店舗を持つ。海津平田店はそのうちの一つで、1994年7月に開業し、2008年夏から秋にかけて大改装を行っている。店舗は2階建てで、屋上駐車場も持つしっかりとした建物である。

 この敷地内には、十六銀行も店舗外ATMを出している。次の目的地へ行く前に、ちょっとだけ見ておこう。岐阜県の金融機関は店舗外ATM小屋の意匠に工夫を凝らしたところが多い。十六銀のATM小屋は紺色のゴツいフレームで、正面出入口の上部に行章をあしらった凸形の赤い看板の付いたタイプが一般的である。そう思って東側の正面玄関横に行ってみると、ここは白い箱型のありふれたATM小屋であった。機械は1台のみ。
 ところで、気になっていることが一つある。さっきスイトタクシーの隣に眼科があったのだが、駐車場に立っている八角形の看板は、輪郭が十六銀行の看板とそっくり同じなのである。銀行の看板は結構堅牢にできているらしく、銀行の拠点が廃止されても看板だけ再利用されるケースも多い。この点からすると、十六銀はかつてここに営業店を出していたが、統合した可能性が高いと思われた。駐車場の柵が真新しいからそこが十六の店舗跡かも知れない。後で調べてみると思った通りで、十六銀行今尾支店は、現在眼科の駐車場となっているスペースにあった。1988年3月に出張所として出店、1994年2月に支店昇格したが、2006年4月高須支店に統合されている。
 なお、今尾支店の統廃合に触れたついでに、ここまで書く機会のなかった十六銀南濃支店についても触れておきたい。同行南濃支店は、近鉄養老線(現養老鉄道)駒野駅の西1kmほど、かつての街道筋と大桑国道が交差する地点にあった。十六銀はこの店が現海津市域で最も古く、1983年12月の開設だったが、2003年10月に高須支店に統合されている。跡地は現在では更地になっている。代替の店舗外ATM[南濃]は、支店跡から150mほど南、大桑国道バイパスに面したファミレス「ココス」の駐車場内にある。こちらのATM小屋は前述した紺色のものである。
 述べたいことはここからである。ココスの向かい側には台湾料理の店があるが、この台湾料理店はかつてはコンビニで、サークルKこまの店といった。大垣共立銀行は、ここに[サークルKこまの店]という店舗外ATMを出していた。大共はサークルKサンクスと提携してコンビニATM「ゼロバンク」を展開しているが【注2】、ここはゼロバンクではなく、平屋建てのコンビニ建築の隣にATM小屋を建てて営業していた。設置は1995年4月、母店は南濃支店であった。2005年度中(夏以降)に廃止されている。

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 【注1】現在は手のひら認証対応の機械が入っている。
 【注2】2017年7月以降、ゆうちょ銀行のATMに順次置き換えられることになっている。
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2017年04月30日

2014.07.18(金)(26)今尾の町に入ってきた

 平田庁舎の前には「今尾商店街入口」という看板が出ていて、キツネのキャラクターが描いてある。後で調べたら、このキャラは旧平田町が作ったもので、「こん平田」(こんぺいた)というらしい。お稲荷さん(お千代保稲荷)にちなんだキャラクターだろう。いずれにしても、ここ今尾地区における目的地はすぐ近いと思われた。
 旧町役場は、正面入口の円形ドアの横に《1966年》と彫り込まれた定礎の石がはめ込まれている。広大な役場の敷地は、町役場とJAが完全に一体化しているようで、同じ敷地にJAにしみのの平田支店があり、今尾商店街側にはコイン式精米所もある。この地域が農業を抜きにして語れないことがよくわかる。平田支所の向かい側は岐阜県警の交番(平田交番)。2階建ての建物はかなり大規模で、銀行の出張所ぐらいの大きさがあるから、警察署に準ずるような交番なのであろう。
 なお、かつて大共はここにも店舗外ATMを出店していた。1984年11月開設の[平田町役場]で、現海津市域の店舗外ATMでは第1号設置だった。2005年3月の3町合併で[海津市役所平田庁舎]に改称されたが、改称後間もなく2005年度中(夏以降)に廃止となっている。母店は今尾支店であった。

 今尾といえば、ここで本を1冊紹介しておきたい。1998年刊行の、今尾恵介『地形図探険隊』(自由国民社)である。
 この本と出会ったのは、2016年5月、この連載のための文献探しで出かけた海津市立平田図書館であった。平田図書館は旧平田町役場の裏手にある。薄暗い書架でこの本を見かけた時の第一印象は、「なぜこの本がここにあるのだ」であった。というのも、この本は郷土資料の棚に排架されていたからだ。その場では書名をメモするだけに留めたが、後日古本を買って読んでみて、平田図書館でこの本を郷土資料としている理由がわかった。この本には今尾氏による今尾探訪記が収録されており、今日私がめぐっているエリアについてもいろいろ調べて書いているのである。
 驚いたのが、今尾氏の1932年生まれの父親、国三氏についての記述であった。戦時中に当時の今尾町に疎開して住んでいたことがあるという。しかも、当時通っていた中学校では、今尾町に今尾姓がいなかったこともあって「今尾の今尾」とからかわれていたそうだ。参った。今尾氏(の父親)には、この地にこんな強烈なエピソードがあるのか。これでは、私が何を書いてもインパクトでは到底及ばないではないか。
 今尾氏の今尾探訪は、1997年9月に行われた。父親と2人で、名鉄竹鼻線大須駅(羽島市)から岐阜バスに乗って今尾へ向かっている。大須までの名鉄線が廃止されたため、このルートをたどるのは今となっては困難である。今尾氏一行は、まずお千代保稲荷に参拝。続いて、かつて父親が住んでいた平田町三郷を訪ねて古い知人たちと再会し、中学校(現県立海津特別支援学校)を再訪。さらにタクシーで駒野へ移動する。今尾氏の父は、駒野にあるベアリングの工場に勤労動員で働きに行っていたという。現ナイガイテキスタイルのことであるが、ここが軍需工場として稼働していたのは、1943年8月から終戦までのわずか2年でしかない。夜は養老の滝近くに泊まり、翌日は今尾家のルーツとされる岐阜県の別の土地に行っている。地理の本らしく天井川についても触れているが、養老駅からは大垣行きの電車に乗っているから、無理矢理である【注1】。
 他にもこの本では、かつて[梅70]の連載で取り上げた東京都瑞穂町とか、今回養老線に乗り換えた三重県桑名市などにも触れている。あくまで偶然ではあろうが、私に関連するディープな情報まで含まれており、大変面白い本であった。

 さらに進んで今尾の交差点にやって来た。横には上水道の水源地がある(海津市平田第1水源地)。車がひっきりなしに通る交差点の横に上水の水源があるのが意外だった。これを真っすぐ行ったら今尾の商店街に入るのだと思うが、直進方向も左に傾いている。さっきサークルKで店員の女性が教えてくれた道は「交差点を左」だったハズだが、どちらだろうか。結局、直進方向こそ今尾の中心部に入る道だと思い、左折ではなくて左斜めに進路を採った。
 直進方向に入ると、閉店した商業施設のオンパレードであった。閉店した上新電機がある。パラペットにオレンジの線の入った、閉店したコンビニがある【注2】。敷島ニュージョイズと書いてあるから、東海地区を地盤とする大手製パン業、敷島製パンが展開していたようだ。クローズしたブックオフもあるし、商業施設の墓標が多数建っているような感じであった。そんな中、大垣信用金庫【注3】の今尾支店があり、この店だけは営業している。いや、その隣の寝具店もご盛業中のようである。
 海津市コミバスの〔今尾〕停留所があって、客が1人いた。このバス停には、海津市のコミバスのほか、隣接する輪之内町のコミバスも来る。輪之内のコミバスは大垣市の名阪近鉄バスが担当しており、安八温泉行が4本、途中止まりのザ・ビッグ輪之内行きが1本。平日のみの運行で、土日は運休である【注4】。自転車でめぐっている今回は必要ないが、このバスは「めぐ」に使えるかも知れない。途中の「ザ・ビッグ輪之内」は、後述するが「イオンタウン輪之内」のことで、ここには大共の店舗外ATMもある。私は今回、野寺支店の次に行く予定にしている。

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 【注1】天井川と養老鉄道との絡みは、養老駅以北には存在しない。
 【注2】現在は学習塾に改装されている。
 【注3】2016年1月12日、西濃信用金庫(本店揖斐郡大野町)との合併により、大垣西濃信用金庫となった。以下、現大垣西濃信用金庫の名称は「めぐ」実施日現在の「大垣信用金庫」で統一する。
 【注4】輪之内町のコミバスは2015年1月に改編が行われ、定時運行のバスは夕方に3本だけとなった。日中は予約制のデマンドバス(住民以外も利用可)に切り替わった。
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2017年04月29日

2014.07.18(金)(25)鹿児島県との意外なつながり

 水田地帯を西に進んでいくと、海津市平田庁舎というお役所の建物があった【注1】。旧平田町役場である。旧平田町は「昭和の大合併」時の1955年2月に旧今尾町と旧海西村が合併して成立した【注2】。
 役場のあった場所であるので、ここで旧平田町について述べておくことにしよう。低平な水田地帯だから平田という名前になったのだと言っても一定の説得力があるが、実はこの町の名前は、人名に由来している。九州・薩摩藩の家老だった平田靭負(ひらた・ゆきえ)。この男性は、濃尾平野を中心とする地域のために命を捧げた偉人として語り継がれている。
 海津市のある濃尾平野は、古くから濃尾三川、木曽・長良・揖斐の3つの大河が氾濫を起こし、多くの犠牲を出してきた。1753(宝暦3)年、徳川幕府は、3川平定のためと、外様の雄藩であった薩摩藩の経済力を殺ぐために、3つの川が網の目のように流れていた濃尾平野の河川整備を薩摩藩に命じた。しかも、経費の負担のみならず工事要員の派遣まで求め、専門業者には委託しないことという条件がついていた。
 このプロジェクトの薩摩藩側の総責任者が、家老の平田靭負であった。靭負は、資金集めに始まり、幕府側との軋轢、地元民との軋轢、薩摩藩内部での軋轢等々と戦いながら、異郷の地で大榑(おおぐれ)川洗堰と油島分離堤を完成させ、幕府への引き渡しを終えたその日に自ら命を絶ったという。江戸幕府が薩摩藩に命じて1754(宝暦4)〜1755年にかけて行われたこの治水工事は「宝暦治水」と呼ばれる。
 この地域の治水工事そのものは、明治期、当時の治水の先進国オランダから来日したお雇い外国人ヨハネス・デ・レーケ【注3】が完成させることになる。輪中の住民たちは、経験上、3つの川が合流と分流を繰り返して網の目のようになっているのが洪水多発の原因の一つであると知っていた。とりわけ、最も高いところを流れる木曽川が揖斐川に影響を及ぼさないようにする工事を求めていた。これを受け、薩摩藩の工事は3つの川を完全に切り離すことを目的としていたが、さまざまな利害関係から3つの川は完全分離とはならなかった。デ・レーケは3つの川をくまなく調査して、木曽川と長良川との間に堤防を作って両者を分離したり、川幅を広げたり、木曽川・長良川・揖斐川をつなぐ川を締め切ったりした。こうした現場での対策に加え、水源地の山林を保護して植林することや、各地の支流に砂防ダムをつくって土砂が川に流れ出るのを防止するなど、上流から下流まで川の全体に目配りをした改良工事を実行に移したのである。
 デ・レーケにより3つの大河川が完全に分離された状態となって、水害は初めてほぼ鎮圧された。40万両の巨費と多くの犠牲を払った薩摩藩の工事は、残念ながらあまり役には立たなかったのである。とはいえ、この地域では、平田靱負をはじめ宝暦治水の際に亡くなった薩摩藩の人たちを、本来なら縁もゆかりもない濃尾平野のために命をかけて治水工事を行った「薩摩義士」として、神社を作ったり法要したりして讃えている。

 最近では、この薩摩義士についての疑義が提示されている。宝暦治水は岐阜県側(というか濃尾平野のある側)が鹿児島県側から恩義を受ける形になるだけに、主に岐阜県側から意義を疑う説が提示されるようになった。薩摩義士顕彰運動は利害を伴わない交流活動であるようだが、南京大虐殺の“まぼろし論争”に似た位置付けで、薩摩義士の顕彰を重荷というか軛(くびき)と感じる向きが岐阜県側の一部にあるのだろう。
 薩摩義士の顕彰は、大正時代の初期に岐阜県側で始まった。もともとは多度村戸津(現桑名市多度町戸津)の戸長であった西田喜兵衛が提唱し、岐阜県で自由民権運動家として活躍した岩田徳義が運動として定着させたという。この時代、1912年の明治天皇崩御を受けて陸軍大将の乃木希典が後追い自殺をするなど、“義士”をもてはやす社会的な素地はあったようだ。こうした空気の中、薩摩義士の顕彰運動を盛り立てるプロセスで、住民の歴史認識を拘束する軛が生じることになった、とするのが薩摩義士“軛論”の概要である。史料もろくに残っていない宝暦治水から『忠臣蔵』を上回る“物語”を生み出そうと試み、相当の無理が生じたことから、治水工事として意味のなかった宝暦治水をことさらに高く評価する風潮が生まれた、というわけだ。
 歴史にかかわる話題が周知され、かつその真偽が問題になっているケースには、太平洋戦争期の植民地支配に関するもののほか、江戸時代の美しい風習とされるものを周知して公衆マナーを啓発する「江戸しぐさ」など、いろいろある。いずれも、史実の伴わないものを批判して打破する方向性は一緒であるから、薩摩義士顕彰も同じ運命をたどるのだろうか。
 史実は過去に起こった事実としてキッチリ解明する必要があるのは言うまでもないけれども、それはそれとして、人間には“物語”もまた必要である。岐阜県と鹿児島県という、本来なら縁のできようハズもない2つの地域が親しく交流をしているのも、宝暦治水という歴史的事実(これはさすがに議論の余地はないようだ)がもとになっている。仮に「薩摩義士」が史実の根拠に乏しいとしても、当面は『忠臣蔵』のような形で“物語”として機能させていくのが有益ではないだろうか。そうでないと、事実よりも物語を重視するタイプの人の中には、もっといかがわしいストーリーにのめり込んでしまう人が出てくるだろう。薩摩義士の物語はまだ良質な方であって、特に“物語タイプ”の人の受け皿としては有効ではないかと思う。世の中には有害な嘘がゴロゴロしているが、義士を顕彰することで被害を受ける者はいないからだ。
 というわけで、薩摩義士を虚像であると一刀両断することによって何かがもたらされるかについては疑わしい。薩摩義士“軛論”を展開している地元の歴史研究家の本でさえ、序文に《軛(くびき)を振り棄てたことで生じる自由の先は茫洋として、つかみどころがない。》と述べているのである【注4】。

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 【注1】海津市平田庁舎は2014年12月末をもって廃止された。
 【注2】前述のとおり旧今尾町平原地区を除く。
 【注3】ヨハネス・デ・レーケ:Johannis de Rijke(1842〜1913)。オランダ人の土木技師。1873年、内務省技術顧問としてオランダから来日し、約30年間の日本滞在で河川の改修など治水と築港に尽力した。主な業績に、淀川の改修、木曽川の分流、大阪港・三国港・三池港等の築港計画などがある。
 【注4】水谷英志『薩摩義士という軛』ブイツーソリューション、2014年。
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