2016年04月28日

あとがき・参考文献

 「銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇」、4月27日をもって完結いたしました。最後までお読みいただいた方には、例によってダラダラと続いた連載にお付き合いいただき、御礼申し上げます。分量は300枚を若干上回った程度でした(400字詰原稿用紙換算)。

 今回の「めぐ」は、順番でいうと、この前に1本準備中のものがありました。秋田県の半年前に某所(今はまだ地名は伏せておきます)でハシゴした際のもので、当初は秋田県篇と同時進行で作っていたのですが、次第にこちらにのめり込むことになりました。
 今回の連載ほど、執筆にあたっての取材活動を楽しく感じたことはありませんでした。その理由は、データを探しに行くと、ここにあると想定した場所に確実に存在したからです。秋田県という地域は、県紙(『秋田魁新報』)よりも小規模な「地域紙」が多数発行されているエリアで、これらのバックナンバーを丹念に読んでいけば、私の知りたいことはほとんどすべて知ることができました。これは、地域のことを地域紙がきちんと報道していればこそであります。私の住む東京都の状況を見ますと、たとえば杉並区では、現在こうした新聞はタブロイド判の月刊紙1紙だけしか存在しません。かつては月刊紙が3紙ほど発行されていたようですが、そのうち2紙は1990年代〜2000年代にかけて廃刊しています。杉並区の人口は55.6万人で、能代市(5.6万人)や大館市(7.5万人)の7〜10倍の人口規模があります(2016.03末)。単純比較はできませんが、健全な地域ジャーナリズムが機能している点で、秋田県という地域は東京に住んでいてうらやましいと感じました。仕掛かり中の次の「めぐ記」は、地域紙の全くないエリアで、県紙に頼るしかなさそうですので、どうしたものかと今から頭を悩ませています。
 こうした新聞のバックナンバーには、日本のあらゆる出版物を収集している国立国会図書館にも所蔵のないものがあります。それらを読むために、東京から秋田まで何度も出向かざるを得なかったのは、まあ苦労と言えばいえるものだったかも知れません。それでも、地元の秋田に行けば図書館が資料を確実に持っている、と確信できたのは、相当心強いことでした。今回の連載と深いかかわりのある企業の社内報が、創刊号から終刊号まで全部保存されていたのには驚かされました。社内報を図書館に寄贈して保存させた当時の会社関係者に敬意を表します。と同時に、こうしたものを保存していた図書館という組織と、私が次から次へと行う面倒臭い依頼に快く対応して下さった県立や各市立の図書館関係者に対し、深く感謝する次第です。

 本連載でもう一つ感じたのは、住民が地域社会に濃密に参加していることでした。「橋本五郎文庫」を作り上げた三種町鯉川地区をはじめ、町の賑わいというか人間生活の気配を維持しようとする能代市中心部、デパートが消えた町に集客の核をと奮戦する大館市中心部など、今回訪れた各地域で感じることができました。商業や産業が衰退し、人口が大きく減少している秋田県ですが、私はその様子を見て感じました。今後も案外粘り腰でやっていくのではないか、と。
 私はかつて学習塾で講師として働いたことがありますが、そこで頭を悩ませたのは、「いかに勉強を教えるか」もさることながら、子供たちに「いかにやる気を起こさせるか」でした。私が初年度に英語を担当したクラスに、数学には情熱を傾けるけれども英単語は1語たりとも覚える気のない男子生徒がいて、手を焼いたのです。言い古された諺ではありますが、馬を水のそばに連れて行くことができても、水を飲むかどうかはその馬の意思に任されています。と言うより、無理に飲ませるわけにもいかない以上、意思に任せるしかありません。一方、全国各地で人口の減少と経済力の低下とが深刻になって、国や自治体が地域おこしを目論んでいろんなことをやっております。こうしたものが「お上」主導で進行して、うまくいくハズがないのは自明です。塾の生徒と同様に、当事者が積極的に参加してこそ、初めて調子よく回りだすものだろうと思います。先に挙げた男子生徒は、情熱を傾けていただけあって、数学だけは成績良好でした。
 さて、何かをする際の「動機」は、いったい何でしょうか。地域おこしの場合、少子高齢化への危機感でしょうか、それとも楽しい老後の生活を送りたいという希望でしょうか。参画するプロジェクトごとに理由も異なっているでしょうが、住んで楽しい故郷とそうでない故郷では、楽しい故郷の方が良いに決まっています。楽しみが目的である方が、よりモチベーションが湧くと想像できます。私が今回見て回ったさまざまな活動は、皆さん楽しんでやっておられるように見受けられ、危機感などマイナスの感情をバネにした活動よりも持続するのではないかと思いました。同じ話ばかりを引き合いに出しますが、かの男子生徒は、中学卒業と同時に塾も卒業するまで、英語の成績は低空飛行のままで終わりました。私は彼の「やる気」を引き出すことが、最後までできなかったのです。私はどちらかというと将来をネガティブに見積もる方でして、こうしたスタンスでの説得は、彼の心には響くものがなかったのでしょう。
 いわゆる地域おこしの活動は、経済的な基盤の再構築がない限り、地域の人間関係が良くなる程度で終わってしまうことが多いようです。しかし、そういう傾向のあることは理解しつつもなお、短い取材・執筆の期間で垣間見た住民の地域社会への参加ぶりは、目を見張るものがありました。前段で述べた、健全な地域ジャーナリズムが機能しているということも、この点と関わりがあるのかもしれません。

 今の日本社会は、変わらぬことよりも日々流転していると感じられることの方が多いようで、いろいろな意味で「時代の節目」になっているのは間違いありません。数年後に読み返して「古い!」と感じられることがあるかもしれませんが、あくまで2015年1月の実体験と、その後の連載期間における「一面の真実」です。そういうものだと思ってお読みいただくことを望みます。
 この連載のような「文章を使っての自己主張」が、私の存在意義だと思っています。今後ともご支援・ご鞭撻をいただけますようお願いします。ご意見や情報提供をお待ちしています。このブログ「MEGU」ではコメントを歓迎していますし、私のメールアドレスも公表しています。

 なお、この連載の執筆にあたっては、以下のような書籍・ウェブサイト等を参照いたしました。


参考文献
紙の出版物は刊行年順、同年はタイトルの五十音順。ウェブサイトはサイト名の五十音順、2016.04.01現在。新聞記事の日付・見出しは省略した。

 『日本勧業銀行三十年志』日本勧業銀行、1927年
 『金融年鑑 昭和29・30年版』金融通信社、1954年
 『賀川豊彦全集 11』キリスト新聞社、1963年
 『日本勧業銀行七十年史』日本勧業銀行、1967年
 『弘前相互銀行五十年志』弘前相互銀行、1974年
 唐牛敏世『白寿の心』みちのく銀行、1978年
 『秋田銀行百年史』秋田銀行、1979年
 佐藤正忠『人生太く永く』経済界、1980年(1990年新版)
 『協働社35年の歩み』協働社、1981年
 『秋田県紳士録』秋田魁新報社、1984年
 『大館市史 第三巻下』大館市、1986年
 『国際興業五十年史』国際興業、1990年
 林正春編『ハチ公文献集』私家本、1991年
 『比内町農協三十年史』比内町農業協同組合、1992年
 『秋田県銀行協会五十年史』(社)秋田県銀行協会、1996年
 『北都銀行百年史』北都銀行、1996年
 『秋田県人名大事典 第二版』秋田魁新報社、2000年
 『能代市山本郡医師会三十年記念史』社団法人能代市山本郡医師会、2002年 ※書名表記はママ
 『中学社会・能代市 平成18年度版』能代市教育委員会、2007年
 『秋田銀行130年のあゆみ』秋田銀行、2009年
 『小田急バス60年史』小田急バス、2010年
 小南浩一『賀川豊彦研究序説』緑蔭書房、2010年
 橋本五郎『範は歴史にあり』藤原書店、2010年
 北羽新報社編集局報道部編『廃校が図書館になった!』藤原書店、2012年
 一ノ瀬正樹ほか編『東大ハチ公物語』東京大学出版会、2015年

 「みちのく銀行合併25周年特集」『財政金融ジャーナル』2001年10月号、東京ジャーナル社
 杉山和雄「戦後地域金融を支えた人々(9) みちのく銀行唐牛敏世」『月刊金融ジャーナル』2005年9月号、金融ジャーナル社
 「『みずほ』が貪ったみちのく銀行」『FACTA』2007年10月号、ファクタ出版
 「地域とともに(162)みちのく銀行高田邦洋頭取に聞く」『月刊金融ジャーナル』2015年2月号、金融ジャーナル社

 『秋田魁年鑑』『DATA Fileあきた』秋田魁新報社
 『金融資料年報』『ニッキン資料年報』日本金融通信社
 『住宅明細図』東交出版社
 『ゼンリン住宅地図』ゼンリン
 『東商信用録 秋田県版』東京商工リサーチ秋田支店
 『日本金融名鑑』日本金融通信社
 『はくと』協働社 

 『朝日新聞』
 『毎日新聞』
 『読売新聞』
 『日本経済新聞』
 『秋田魁新報』(秋田市)
 『東奥日報』(青森市)
 『北羽新報』(能代市)
 『秋北新聞』(北秋田市)
 『北鹿新聞』(大館市)
 『日経金融新聞』
 『日経流通新聞』
 『日本金融通信』『ニッキン』
 『官報』

 『アートNPOゼロダテ』http://www.zero-date.org/
 『あいにいける秋田犬のの』https://ja-jp.facebook.com/akitainuz
 『秋田県』http://www.pref.akita.lg.jp/
 『秋田県大館市田舎生活のブログ』http://akitaoodate.blog.so-net.ne.jp/
 『秋田県立図書館』http://www.apl.pref.akita.jp/
 『秋田市』http://www.city.akita.akita.jp/
 『伊徳』http://www.itoku.co.jp/index.html
 小田切誠「『橋本五郎人気』が秋田のメディアに投げかけた思わぬ波紋」『ウェッジインフィニティ』http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2456
 『大館市』http://www.city.odate.akita.jp/
 『北秋田市』http://www.city.kitaakita.akita.jp/
 『協働大町ビル』http://www.oomachi.com/index.html
 『国際興業』http://www.kokusaikogyo.co.jp/
 『国際興業バス』http://5931bus.com/
 『秋北バス』http://www.shuhokubus-gr.co.jp/
 『大道寺会』http://www.daidoji-kai.com/index.html
 『大和情報サービス』http://www.dis-net.jp/
 『東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部』http://www.a.u-tokyo.ac.jp/index.html
 『二〇世紀ひみつ基地』http://20century.blog2.fc2.com/
 『能代市』http://www.city.noshiro.akita.jp/
 『能代山本医師会病院』http://ny-ishikaihp.jp/
 『橋本五郎文庫』http://www.h-goro-bunko.com/index.html
 『兵庫県立篠山鳳鳴高等学校』http://www.hyogo-c.ed.jp/~homei-hs/index.html
 『広く浅く』http://blog.goo.ne.jp/taic02
 『ふるさと呑風便』http://www.donpu.net/
 「琴丘町誕生50周年記念誌」『三種町』http://www.town.mitane.akita.jp/kyuhp/kotooka/kinensi50/kinensi50.pdf
 『みちのく銀行』http://www.michinokubank.co.jp/
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2016年04月27日

2015.01.16(金)(23)エピローグ 花輪線で盛岡へ

 全行程が終わった。
 さあ、これから東京への帰還の旅である。JR花輪線の扇田駅へ向かう。扇田駅はみち銀比内支店の西800mほど、支店前からは直進の方向である。2011年4月に花輪線で扇田に来た時は、扇田駅から右に曲がって表通りを真っすぐ来たら支店にぶち当たった記憶がある。今回はその逆を行けばよい。16:48発だったと思うから、余裕で間に合うハズだ。
 さっきバスが曲がった馬喰町の交差点まで戻ってきた。対面2車線白破線センターラインの道を、さらに真っすぐ北西に向かう。県道52号比内田代線は、JRの線路に沿って走っている。センターラインは引いたり引いていなかったりであった。途中で消えてしまったのか、メンテナンス経費の関係で引いていないのか。雪国ではスタッドレスタイヤを付けた車が多く、道路に引かれたライン類はすぐに削られてしまう。
 交差点から少し歩くと商店街が途切れ、建物密度のさほど高くない住宅地になった。ところどころに製材所や材木店があるところが、秋田杉を産する秋田県山間部の集落には特徴的かもしれない。林業関係の事業所は、商品の上に雪が1mぐらい積もっていたりするのだが、この冬場に営業しているのだろうか。製材所の一軒は「乳井木材」という会社であった。扇田のあたりは乳という文字を名字や屋号に使っているケースが多い。初めて見る苗字であるが、もし社名の読み方が「チチイ」なら、音の響きとしてかなりの破壊力があると思った【注】。
 大館市内で雪の量の多さにびっくりしたのだが、扇田のあたりは、雪深さという点からすると大館よりも軽い気がした。建物密度のせいなのか、雪を除去しないでそのままにしている土地が多いせいか。しかしそれでも、某所では腐りかけた柱の上に葺いてあるトタン屋根に、ものすごい量の雪が積もっているのを見た。突然ぺしゃんこになったりしないのだろうか。他所者の私はつい余計な心配をしてしまう。
 県道沿いには〔扇田駅前〕のバス停があった。秋北バスが運行している、大館市のコミュニティバス「さわやかみなみ号」。扇田病院行きと大館駅行きがそれぞれ1日2本、ということは2往復。道の反対側に停留所のポールがないから、上り下り兼用のバス停ポールである。なお、この道をまっすぐ行くと、忠犬ハチ公の生まれた大館市大子内の近くにたどり着ける。生家前にはハチ公の石像と生誕80周年の記念碑が建ち、観光資源になっている(生家そのものは公開されていない)。

 何の変哲もない交差点の道端に、「←扇田駅」という標識が出ていた。Ogidaのローマ字表記は間違っていて、正しい表記はOgitaである。ともあれ、ここを左に曲がると、私の旅も終わるのだ。田んぼの向こうに農協のビルが見え、平屋建ての駅舎も道路の先にあるハズだ。駅前に農協があるのは、おぼろげに覚えていた。現在は葬祭場になっているが、もともとは1985年10月に建てられた旧比内町農協の本所事務所である。1996年6月に現大館市域の3農協が合併し、比内町農協は「あきた北農協」(JAあきた北)となっている。
 県道から駅通りに曲がり込む。対面2車線にはできないぐらいの道幅だけれども、車の離合はできるくらいの、まあそこそこ広い道であった。入った途端、道はシャーベットの大盛りとなった。道の中央部にアスファルトが露出しているところもあるが、車が乗り入れることの少ない道ゆえ、基本的に除雪がなされていないようだ。靴ずれに悩みながらも新しい靴を履いてきたおかげで、この雪道でもスッテンコロリンせずに済んだ。
 かくして、扇田駅に到着した。比内地鶏の産地ということで、駅前には比内地鶏の写真をでかでかと載せた看板が立っている。このエリアが広く「比内」という地名で、大館のあたりは特に大きな館を建てて敵の攻撃を防衛したから「大館」という名前になった、と昼に見た大館駅前の案内板には書いてあった。扇田という地名は、駅の手前にあった旧比内町教育委員会設置の看板によると、若い娘が小川に身を投げて死に、霊を弔うため地蔵堂を建てた、その地蔵堂の裏に由来となった扇形の田んぼがあったから、というのが由来である。
 駅舎はいかにも新しく見えた。山小屋のような急傾斜の屋根が付いているのは、屋根の雪下ろしをしなくて済むようにだろうか。建物の入口上部に付けられた「建物財産票」というプレートに《鉄 待合所2号 平成25年3月》と書いてあるから、おととしの3月に建て替えられたわけである。掲げてある駅名の表札が扇の形をしているところがご愛嬌であった。待合室には椅子と机みたいなものが備え付けられていて、勉強でもできそうである。ヒーターが完備されているのは、さすが北国だと思った。駅の管理はすぐそばの大館駅ではなく、30kmほど奥へ入った鹿角花輪駅(鹿角市)が行っているようだ。

 当初計画では、比内支店を取った後、扇田駅で結構な時間待ちになる予定だったが、大館駅前できりたんぽ鍋を食べてきたおかげで、待ち時間ほとんどなしで盛岡行きに乗れる。何もない扇田駅で時間待ちをする必要がなくなって、めでたしめでたしである。
 それは良いとして、実は一歩間違えると大変なことになりそうなミスを犯していた。盛岡行きの普通列車を16:48発だと思い込んでいたが、正しい発車時刻は16:18だったのである。のんびり構えていたら、この列車には間に合わないところであった。もっとも、盛岡行きはこの後にもまだあるから、16:18発に乗り遅れても、東京に帰れないということはない。というのも、盛岡から東京までの移動は、すでに夜行バスで確定しているからだ。計画では、盛岡到着時の気分で新幹線かバスか選ぼうと思っていたのだが、国庫に7000円を召し上げられることになったせいで、選択の余地がなくなってしまったのである。バスの予約は、前夜秋田市のホテルにいるうちに行った。カラオケなど行って優雅に過ごしたせいで、5500円の新宿駅行きがタッチの差で取れず、6000円の東京駅行きになってしまった。それでも、いちおう新幹線より7000円ほど安い交通手段を選択したことになる。
 駅舎の改札にあたる部分を抜けて、雪が敷き詰められた通路をホームに向かう。この駅は棒線1本で、単線の線路の横にホームが付いているだけである。今となっては改札などない無人駅だが、かつてはそこそこ大規模な、島式ホームで交換もできる駅だったと思われる。通路になっている部分が、昔は駅舎と連絡している構内踏切だったのだろう。ホーム端のスロープは、縁石の上だけ雪がないが、そのほかの部分は雪で覆われている。ホームの線路が敷かれていない側は、鉄パイプを組んだ柵で覆われている。この鉄パイプは工事現場の足場用のようだし、継ぎ手も工事現場用らしきものをそのまま使っている。お粗末だが、頑丈だし安いのだろう。駅舎とは別に、ホームにも待合室がある。室内には、つい最近まで首都圏でもよくお目にかかったプラスチックの個別座面のついたベンチがあって、冷たいプラの地肌にびくびくしながら腰を下ろした。雪国らしく、室内にはシャベルなど除雪道具が置いてあった。
 太陽が西に沈み、だいぶ暗くなってきた。待合室の建物を出ると、寒い風が思いのほか吹きすさんでいた。西の空を見ると微妙なピンク色で、夕焼けがどこからともなく染み出してきているような感じがする。当地では明日いい天気になるのではないだろうか。夕焼けの写真でも撮ろうかと思ったが、手前に工場だか倉庫だか、波板葺きの建物が無粋なのでやめた。
 発車5分ほど前になって、駅の照明が点いた。やがて、踏切がカンカンと鳴り始めたのが、遠くから聞こえてきた。私が乗る16:18発盛岡行き普通列車が、ゆっくりと近付いてくる。列車は、JR東日本のローカル線ではおなじみ、キハ110型ディーゼル車の2両編成。女性の車掌が乗務していた。数人の高校生がバラバラと降りていった。代わりにこの駅から乗るのは、私の他には男女高校生各1名だけであった。
 扇田でも大分日が落ちていたが、十和田南で列車の向きが変わる頃には窓の外がだいぶ見えにくくなっており、鹿角花輪では夜の帳が完全に降り切っていた。「花輪線」の名前の由来となった鹿角花輪駅は、秋田県鹿角市の中心駅で、かつては陸中花輪駅といった。「陸中」と岩手県みたいな呼称が付いていたのは、現在の鹿角市(と北隣の小坂町)はもともと南部藩領だったためである。秋田藩とはカルチャーが少し違うのだろう。
 車内に数多くいた高校生は、鹿角花輪まででほぼ全員が降りた。湯瀬温泉を過ぎると岩手県に入る。しばらく走ったところで、右の車窓からは山肌が輝いているのが見えた。あたかも銀河のように山の斜面を覆っている。安比(あっぴ)高原のゲレンデのナイター照明であった。

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 【注】ニュウイと読むらしい。



<銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇> 完

(お知らせ)明日18時に「あとがき・参考文献」をアップします。
posted by 為栗 裕雅 at 18:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月26日

2015.01.16(金)(22)比内支店を制覇

 比内支店は、今日見たほかの支店よりも古い建物を使っていると見えた。大館支店(1955年)や能代支店(1963年)よりも古めかしく見えるが、実は1967年10月の築と新しい部類に入る。クリーム色に塗ってある窓枠は、アルミサッシではなく鉄サッシである。部分的にアルミサッシが入っている窓もあるけれども、支店本体の窓は大半が鉄枠で、だいぶサビサビであった。窓の外には鉄製の飾り格子が付いていて、窓枠と同じクリーム色に塗られている。飾り格子は通りに面したところと外れたところでデザインが若干変えてあるのが印象的であった。
 比内支店の玄関先には、代理業務一覧の看板が出ている。緑色の看板には、秋田県収納代理金融機関、大館市収納代理金融機関、と文字列が出ているのだが、大館市収納代理の次の行には「比内町収納代理金融機関」と書いてあった。比内町は2005年6月に大館市と合併して消えてしまったが、プレートはいまだ残っている。まあ残しておいても問題はないだろう。
 正面入口のアルミ枠の戸を押して入ると、右側がキャッシュコーナーであった。3時を回っているから窓口はもう閉まっており、キャッシュコーナーとを隔てるシャッターは、他店なら外に付いているような赤・オレンジ・黄色の3色塗り分けのものが下がっている。ATMは沖電気の「バンキット」が1台だけ。機械上部の行灯表示は、みち銀お決まりの形態をした行灯であった。この行灯は導入時期によって形態の差が若干あるようで、ここにあるのは最下部の白い部分に緑色の縁取りが付いている。比内支店のは多分古いタイプではないかと思う。
 さあ、ATM取引をしよう。これまで取引の様子を書いていなかったから、ここで記述しておくとしよう。いつも、入金・出金の2取引を1サイクルとして制覇作業をしており、今回もそれに倣っている。まず「ご希望の取引」の画面で「お預け入れ」を押すと、カードを入れるよう指示が出る。機械にカードを入れると「カードでのお預け入れには取引後の残高のみを表示した利用明細書を発行します」というメッセージが出て、確認を求められる。確認キーを押すと、預金口座の入金の場合「お預け入れ」、カードローン返済の場合は「カードローン返済」という2つのボタンが出る【注1】。このあたり、最初で分かれていた方がやりやすいのではないかと思うが、ともあれ「お預け入れ」を押すと紙幣投入口のフタが開く。ここで紙幣を入れると、機械がセンサーで判断して自動的にフタを閉める。紙幣を数える音の後に、金額の確認ボタンが出る。押すと、再び紙幣をバタバタと数える音がして、利用明細票印字を「する」「しない」というボタンが出る。「する」を押すと、レシートが出てきて終わりである。「どうぞ、お受け取り下さい」という女性の声が出るが、「どうぞ」の直後に妙な沈黙が入るのが、沖電気製ATMの最近の特徴である。
 そして引き出しの場合は、「お引き出し」の後、暗証番号を押す。これも、預金からの引き出しの場合「お引き出し」、カードローンの場合は「カードローン借入」という2つのキーがある【注2】。「お引き出し」を押すと、金額の入力である。みちのく銀行のATMは硬貨を使っての預金引き出しはできないから、本日私は「めぐ」の制覇作業を1千円単位で行っている。金額を指定して「確認」を押し、最後に利用明細票を印字して、現金とレシートを受けとって、取引終了ということになる。
 今日は金曜日だし、お客は案外頻繁にやって来るが、この店にはATMが1台しかない。私は預金の取引(現金の出し入れ)をする様子を実況中継しながら制覇作業をしようと思っていたので、私の後に一人待っていた女性客に順番を譲って先にやってもらった。彼女の用事が済んでから私が取引を始め、取引の状況を記録にとりながらATMを操作していたが、取引が終わってふと後ろを向くと、いつの間にか次の客が待っていた。赤恥をかいてしまった。こいつは何を独り言ベラベラ喋っているのだ、と思っていたのではないか。なお、みちのく銀行は北都銀行とATMの相互無料提携をやっている。下ろすだけなら向かいの北都銀行扇田支店でやればいいのに、と思った。ATMの台数はみち銀比内支店の倍、2台もある。
 ともあれ、比内支店を無事制覇。15:52、みちのく銀行の秋田県内4店舗の全店制覇を達成したのであった。

 比内支店は、1951年6月に弘前無尽扇田会場として営業を開始した。同年10月に弘前相互銀行になった後、1952年3月に業務取次所に昇格、さらに1953年7月大館支店扇田出張所に昇格した。出張所の所在地である北秋田郡扇田町は、1955年3月に周辺3村と合併して比内町となり、出張所の名前もそれに合わせて合併日(3月31日)付で比内出張所と改められた。1959年4月に比内町字下扇田53-1に移転、1961年9月に比内支店に昇格、現在の店舗には1967年10月に新築移転している。古い地図をひもといてみると、1959年4月〜1967年10月の比内支店は、現在のいとく比内店のはす向かい、現在では駐車場になっているスペースにあったようだ。現在地は、かつては警察(警部派出所)と消防団詰所のあった場所である。
 以前は、比内支店にも店舗外ATMがあった。1つは[比内町役場]改め[大館市比内総合支所]。羽後(現北都)銀行設置のATMで、大館(現秋田県)信用組合とともに相乗りして共同出張所となっていた【注3】。ATMの無料提携を北都銀と行っている現在では、みち銀の相乗りは外れている。もう一つ、1997年7月に[大滝温泉]というATMが設置された。大滝温泉は大館市十二所にある温泉街で、10軒ほどの温泉宿が並んでいる。扇田から花輪線で1駅盛岡寄り、大滝温泉駅近くの富士屋ホテルという温泉旅館の駐車場にATMの独立小屋があったようだ。残念ながら2004年度中(2004〜2005年)に廃止されている。連載作成にあたって現地に行ってみたが、「富士屋ホテル専用駐車場」という縦型の行灯看板は、みち銀ATMのそれを再利用しており、目を凝らしてみると《みちのく銀行 自動サービスコーナー》という文字がうっすらと残っていた。
 さて、窓が鉄サッシであるなど、比内支店の建物からかなりの古さを感じるのは前述したとおりであるが、支店の建った昭和40年代前半頃の状況を調べてみると、見えてくるものがあった。比内支店の2年前、1965年に新築された鷹巣支店を豪華にし過ぎ、その反動で新築費用を抑えざるを得なくなったのではないだろうか。ちょっと脱線して、ここで鷹巣支店の新築状況に触れてみよう。現在の北秋田市住吉町にあった鷹巣支店は、1965年11月29日、現北秋田市花園町に新店舗を建築して移転オープンした。その際の新店舗は、鉄筋コンクリート2階建で、約850u(260坪)の敷地に延床面積約475u(144坪)、また将来の増築に備えて2階の一部はバルコニーになっていた。総ガラス張りの外面はアルミサッシと熱線吸収ガラスを使用、軒下にはアルミモールディングを採用し、シャッターもオール電動で、柱の腰回りには大理石を貼り付けていた。総工費は3400万円であったという。一方、1967年10月8日に営業を開始した比内支店は、鉄筋コンクリート2階建こそ同じであるが、延べ床面積280.99u(約85坪)、総工費1300万円と随分簡素になっている。比内支店の280uという延べ床面積は、この頃の金融機関の平均より小さいようだ【注4】。鷹巣支店は480u、鷹巣の2年前に新築した能代支店も400uあり、これらは相互銀行の平均に近い。鷹巣町と比内町とで経済規模に差があっただろうことはさて置くとしても、焼き物タイルを貼り付けた鉄の窓枠の比内支店は、鷹巣支店と比べるとかなりの差が感じられる。
 悲しいのは、比内支店の1300万円の建物が今でも現役で使用されているのに、比内の2.5倍もの巨費を投じて作った鷹巣支店の新店舗は、廃店により実働わずか6年半で使われなくなってしまったことであった。青森県に本店を置く弘前相互銀行としては、大蔵省による店舗の総量規制が厳しかった時代には、県外地区では新築したばかりの支店を捨ててまで都市部(秋田市)に出店しなければならなかったのであろう。当時金融機関が羽後銀と弘相しかなかった比内に対し、鷹巣は6機関【注5】も店を出していたから、若干過当競争気味だったのは事実である。しかし、もう少し何とかならなかったのかとは思う。

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 【注1】2015年7月27日からATMの初期画面が変更され、カードローンの取引は最初の「ご希望の取引」の画面で別のキーを押して行うようになった。
 【注2】【注1】に同様。
 【注3】共同出張所での取引は通帳に扱い店名が記帳されないため、制覇の対象とはならない。
 【注4】1968.12〜1969.02の期間に新築された相互銀行7支店の平均値は約445u(為栗調べ)。
 【注5】弘相と青森銀のほか、秋田銀・羽後銀・秋田相銀・北秋信用組合(本店鷹巣町)。
posted by 為栗 裕雅 at 18:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月25日

2015.01.16(金)(21)いよいよ比内の町へ

 秋北バスの車内放送は、アナウンスの声が国際興業バスと同じ女性である。つい最近までグループ会社だったわけだから、別に不思議ではない。なお、国際興業の「レミドソ」という独特のチャイムは、秋北バスにはない。
 閑話休題、道の左にローソンが見えると〔山館〕。このあたりから道は右に大きくカーブし、同時に緩やかな上り坂になる。その先は大きな川を渡る橋であった。川は私の行程に能代からずっと寄り添ってきた米代川、橋の名前は扇田大橋という。対面2車線で、外側の歩道についた鉄の欄干が青く塗られている。だいぶ老朽化しているようだった。この橋の親柱はなかなか面白かった。大館側の親柱には犬の銅像が、そして比内側のそれには鶏の銅像が付いている。いうまでもなく、秋田犬と比内鶏。思うに、大館市はこの2つを『トムとジェリー』のようなゆるキャラとして前面に出し、「忠犬ハチ公」から一歩引いて広報活動をした方がよいのではないか。大館市がハチ公ゆかりの地であると訴えたいのは理解できるが、やはりあれは渋谷のものだと思う。ハチが渋谷駅に通ったのは、上野博士に会いたかったからであって、必ずしも大館に帰りたかったわけではないだろう。
 さて、橋を渡りきり、スロープを下りたところに〔扇田川端〕というバス停がある。いよいよ、扇田の町に入ってきたようだ。バス停の近所は、東北の古い町として至って普通の風景である。行灯型のバス停ポールが付いており、かなり乗降客の多い停留所のようだ。ここには扇田と大館方面とを結ぶバスが全部集結しているから、慣れた人はここまで歩いて来て乗降するのだと思う。
 秋北バスの行灯ポールには、次の停留所の名前と、停留所を出て進むおおまかな方向を示す赤い矢印が書いてある。〔扇田川端〕では、その表示が3つ見えた。それぞれの停留所名は〔扇田新丁〕〔扇田馬喰町〕〔扇田仲町〕。さっき運転手が〔扇田仲町〕と言っていたので、私は降車ボタンを押した。

 〔扇田川端〕を出て、馬喰町(ばくろうまち)の交差点で左に曲がるや否や、前方に緑の看板が見えた。何だ、脅かしやがって。やっぱりみちのく銀行はちゃんと扇田にあるではないか。この馬喰町のあたりから、商業が急に集積し始めたという感じがした。
 かくして、私を乗せたバスは〔扇田仲町〕に到着した。時計を見ると15:42、定時運行なのかズレているのかはわからないが、まあ7〜8分は遅れているのではないだろうか。〔大館大町〕から〔扇田仲町〕までのバス代は、300円であった。大館から扇田までのJRが210円だから、バスとしてはそんなものかと思える。
 なお、地元でないと手に入らない案内図などを見てわかったことだが、大館市内から扇田に向かうバスは5系統あり、経路も4通りある。今回乗ってきた大谷行きは、大館市街地の東方、鳳鳴高校やコメリなどを回ってくるが、花輪駅前行きは最短コースを通るバスで、〔大館鍛冶町〕から県道を直進して扇田に来る。中野行きと弥助行きも県道を直進するが、両者は途中で別の住宅地に回り込み、さらに弥助行きのみ馬喰町交差点は直進していく。1日2本しかない扇田病院行きのコミュニティバスは鍛冶町の南で右折して全く別の場所を回ってくる。系統が多いのは扇田という集落の重要性を物語っているが、こうした情報が東京で把握できず、計画策定には難儀したのであった。

 さて、扇田の中心街を貫く対面2車線の道は、県道52号(比内田代線)。バスはみち銀比内支店を通り過ぎ、3軒先にある駐車場の前に止まった。商店建築の横にバス停ポールが立っている。秋北バスの通常のバス停ポールは「だるまポール」と呼ばれるもので、鉄パイプの上部に円板が付いただけのシンプルなスタイル。円板は3色に分かれていて、上部が黄色、真ん中が白、一番下が赤。これは同社のかつての標準的な車体色と同じである。白いところに〔扇田仲町〕と停留所の名前を書いている。
 道の南側には北都銀行が扇田支店を構えている。真新しい店舗は2008年10月に新築されたものだが、出店したのは太平洋戦争前の1937年で、店名も旧町名の扇田支店のままとなっている。新築移転する前の店舗は、今降りた停留所の東側、公文式の教室として使われている建物がそれであった。北都銀から花輪方向には、けんしん(秋田県信用組合)、あきぎん、郵便局と金融機関が3つある。秋田県信組(旧大館信用組合)は1970年6月の出店、秋田銀の比内支店は何と平成に入ってからの新規出店(1993年12月)である。秋銀の向かいに地元スーパーいとくの店(比内店)があって、商店街はこのあたりで終わっているようだ。以前扇田に来た際にはJR扇田駅→みち銀比内支店→大館市比内総合支所(旧町役場)と歩いているのだが、記憶は飛んでしまっており、目の前には新鮮な風景が広がっている。
 北都銀扇田支店の隣は、入母屋造りの土蔵建築であった。鳥居のような形をした門構えが名士様の家であると感じさせるが、何かあったらしく門前には白木の立札が、奥には提灯が出ていた。その向かいも土蔵改造の商店建築だが、店の中はがらんとしていた。繁盛しているか否かは別にして、起源の古い商業地帯のようだ。青森銀行の前身である第五十九銀行は、戦前に扇田に出店していたことがある。大館支店と同じ1907(明治40)年7月の出店であったが、1934年10月に廃止されている。それから、あとで触れるが秋田相互銀行(合併して現北都銀)も一時店を出していた。
 名士様の東側にある印刷店の真ん前が、大館方面行きの停留所である。印刷店は新聞社みたいな屋号が付いていて、実際に比内地域の新聞を発行しているようだ。地域新聞社は副業として印刷業を営んでいるケースが多く、紙面には年末になると年賀状印刷受け付けの社告が掲載されたりする。能代の『北羽新報』などの印刷部門はまだ新聞社の副業のようだが、中にはどちらが本業だかわからなくなった社もあるのではないだろうか。さて、印刷屋の隣には、自販機や漫画本も置いてある暖房付きの「ほっとひと駅」という無料休憩所がある。これも空き店舗を商工会が借りているようであった。

 みち銀比内支店の右(東)には、現か元かを問わず商店建築が3軒並んでいる。すぐ隣にあるのは元商店建築で、店舗部分は車庫になっている。前にバス停がある3軒目は、小さな窓口のようなものがあるところから、かつてタバコ屋だった店ではないかと思う。その中間、「お菓子処」と書いた2軒目は、喫茶・和洋菓子の店。回転式の行灯看板には、比内鶏サブレー・バースデーケーキ・花びらもち、といった商品名が並んでいる。バースデーケーキも扱っている和菓子屋で、老舗らしい。「比内鶏サブレー」は、鎌倉の「鳩サブレー」のように比内鶏の形をしているクッキーで、比内鶏のエキスが入っているわけではないそうだ。
 みち銀の向かいは靴屋であり、主要な取扱商品はゴム長靴のようだ。その隣にあるのは、高齢者向けの店だが、物を売っているわけではなく、みんなで体を動かして認知症を防止しようという活動拠点らしい。古い地図をひもといてみると、この店はかつて旧秋田相互銀行の比内支店(1970年10月廃止)であった。旧銀行建築だと思って見るとそう見えなくもないたたずまいである。それから、東芝の電気店が見える。昔懐かしい、家電の個人経営のフランチャイズ店である。あとは、タクシー会社と美容院といったものが周囲にあった。
 支店の左隣は空き地と駐車場で、駐車場はそれなりの台数分確保してある。多少は雪捨て場にもなっているようだ。駐車場の前に「比内とりの市」という赤い幟が出ている。この幟はここだけではなく、扇田の商店街いたるところに出ているが、これは毎年1月に比内のグランドで行われている比内鶏感謝祭のようなイベントである。

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2016年04月24日

2015.01.16(金)(20)扇田に向かう秋北バス

 鳳鳴経由大谷(おおや)行きの秋北バスが、発車時刻の15:11を5分ぐらい過ぎてやって来た。いすゞ自動車の中型バス「エルガミオ」である。「チョロQ」みたいな外観をしたワンステップの車で、そこそこ年式が新しいから国際興業カラーのグリーンも黄緑色だ。大谷は扇田から15kmほど奥に入った集落で、途中には大葛(おおくぞ)温泉というあまり俗化されていない温泉地がある。
 〔大館大町〕からの整理券番号は4番だった。結構遠い始発地からやって来たように見えるが、このバスは大館駅前発である。乗り込んで整理券を取り、運転席に走る。「扇田のみちのく銀行へ行くバスですか?」と尋ねたところ、50代とおぼしき男性運転手は、信じがたい返事を返してきた。「扇田にみちのく銀行まだあるんだっけ」というのである。少々焦ってしまったが、もちろん扇田にあるのは知っている。次いで「扇田の駅の近くまでは行くんですか」と聞いた。2011年に扇田駅から比内支店まで歩いているから、駅からの道筋はわかっているつもりだった。驚くべきことに、それに対して運転士は「これは駅へは行かないですね」と答えたのである。またしても焦ってしまったが、彼の返事は、駅へ行くのなら〔扇田仲町〕か、もう一つ前の停留所である〔扇田川端〕のどっちかだろう、というものであった。扇田の集落内で駅の近くに行くか行かないかというだけの話。何だ、立て続けに脅かしやがって。

 2車線×2の幅の広い4車線の道路を、まっすぐ南に向かっている。左右の歩道に雁木が付いているスタイルだが、アーケードは割合に新しい。ただし、ところどころ途切れている。銀行が集中している地帯はあっさり通り過ぎて、最初に遭遇する〔大館鍛冶町〕の停留所の先で少し下り坂になったと思ったら、すぐまた上り坂に変わる。その変わり際で、花輪線東大館駅からの道と交差する。左に曲がってすぐ〔大館新町〕で、停留所そばには秋田県信用組合大館支店、かつての大館信用組合の本店がある(2003年1月合併)。すぐ次の信号で左折して〔風呂屋町〕。その先、ホテルと洋品店のある角で、こんどは右折した。曲がる回数が多いが、経路をクネクネと曲げて無理矢理バスを通していることからして、このあたりは現在でも重要な地区のようだ。
 労働金庫(東北労金大館支店)があって、道の左には大館市役所。人口7万人余の地方都市としてはごく平均的な外観であった。その先で裁判所と集配郵便局を目に入れると、ようやく普通の住宅地になった。道としてはまっすぐだが、対面2車線白破線センターラインの道はやや曲がりくねっていて、幹線道路という風情ではない。そして、経由地として挙げられていた「鳳鳴」を通る。秋田県立大館鳳鳴高等学校は、この地域の名門高校である。この名前は兵庫県篠山市の篠山鳳鳴高と合わせて全国に2校しかないそうで、2校のHPを見ると相互リンクが張ってある。ただし、友好提携は割合最近になって開始したようだ。
 バスは鳳鳴高校正門の突き当たりで90度南に折れ、右折してすぐ〔鳳鳴高校前〕の停留所がある。ここから男女高校生が幾人か乗ってきた。大館市内のバスのうち、かなり多くの路線が、いま通ってきた経路をたどってここ〔鳳鳴高校前〕で終点となる。鳳鳴高の南にある突き当たりで左折すると、対面2車線の住宅地の道になった。雪国の常でセンターラインはすっかり見えなくなっている。
 右側に地元スーパーのいとく(大館東店)があって、敷地内に北都銀が平屋建ての小さな店(大館東支店)を出している。この店は、平日は夜7時まで、休日も夕方5時まで窓口を開けている。北都銀の前身である羽後銀行は、戦前に大館銀行という当地の地元銀行を合併しているから、県南発祥の銀行ではあるが大館地区は準地元のような扱いなのだろう。その先、〔東台二丁目〕を経て〔東台五丁目〕のあたりは、新興住宅地だけれども、建物のあまり密集していない新興住宅地。六畳一間ぐらいだろうか、平屋一戸建ての賃貸住宅が複数建っていた。こういう家は昔も今もあまり変わらないなと思った。うちの田舎もそうだし、東京でもそうである。
 右に曲がって、中央分離帯つきの2車線×2の道になった。曲がってすぐ右側にある大館東台郵便局は、建物としては新しそうで、「メガネのパリミキ」の郊外店舗みたいな感じである。建っている民家の形が北海道に近づいた感じがするが、北海道と比べるとまだ窓が大きめで開放感があるし、煙突が立っている家もない。新興住宅地が続いているが、古い農家も多少は見られる。
 大手ホームセンター、コメリの店舗が見えた。看板は「コメリ」というチェーン店名よりも「パワー」という文字の方が大きかった。要は「コメリ・パワー大館店」ということである。大館市斎場入口の交差点で左折した途端、除雪されていない道になった。舗装はされているようだが、走行状態はガタガタである。再び左に曲がり、バスは何とコメリの敷地内に乗り入れた。店舗は道路よりちょっと低いところにあって、敷地に入ると同時にスロープを下がる。屋外の売り場の横を抜けて走って行くと、建物の中央付近にコメリパワーの正面入口があり、その左横に〔コメリパワー大館〕のバス停ポールが立っていた。その横にある屋根付きの駐輪場は、中に雪がこんもりと積もっている。屋根の下に雪が積もるというのはどういうことだろうか。

 〔コメリパワー大館店〕に乗降客がいなかったので、バスはスピードを緩めず、駐車場の経路に沿って右転回して、今来た建物の前を再び戻っていった。雪のない時期であれば、さっきの4車線道路からコメリに直接入れるようだが、高さ5mぐらいの雪の山脈で塞がれているから、コメリの駐車場内を1周した後、斎場入口の信号まで全く同じ経路を戻る。信号の手前に〔小柄沢墓地公園前〕の停留所があった。同じ道を2回通るので、この停留所も2回通ることになるが、大館市内から来た場合は〔コメリパワー〕の次ということになっているようだ。
 さっき曲がってきた交差点を今度はそのまま直進する。その先は、高規格の2車線道路が続いていた。最近できたばかりのようで、道の制限速度は50km/h。関東では見かけないシラカバの街路樹が並んでいる。道に面した所に建物は全くなく、道路の端を示す紅白の杭が50mおきぐらいに立っている。コメリからかなり間があいて、右カーブの先に〔山王台入口〕という停留所があった。停留所の周りは一面に雪で覆われて何もないけれども、道路からちょっと奥に入ったところに集落があるようだ。
 前方の林の中に、立体交差が見えた。大館から十和田湖畔に向かう国道103号のバイパスが、尾根筋を結んで走っているようだ。インターチェンジになった交差点を抜けると、道は右カーブしつつ長い下り坂に入る。右を見ると、杉の古木を何本も周りに従えた神社があって、相当に神々しい雰囲気が漂っていた。その先で坂を下りきると、地方都市の郊外に特有の、大駐車場完備で平屋建ての棟を複数持つショッピングセンターがあった。〔アクロス南前〕というバス停もある。この「アクロスプラザ大館南」というSCは、ATMの話をした際に触れた「アクロス能代」と同じ経営主体である。
 「上小」と書いてある体育館の建築が見える。小学校として全体的に新しいようだ。バスは右折して突然道から外れ、道路北側のロータリーに乗り入れた。モンゴルのテント住宅みたいな緑の屋根を持つ、秋田杉を使ったキノコ型の建物が建っている。それが待合室であった。ここは〔上川沿小学校前〕で、バスの発着所は名前のとおり大館市立上川沿小学校の校庭の端を切り欠いて作られている。
 道路に戻り、サンクス(大館餌釣店)がある丁字路で左折。この突き当たりまでが新しい道で、サンクスの角からは対面2車線の古い街道に入ったようだ。雪に覆われた土地が広がっているが、夏には水田になるのだろうか。測量用のような赤白のポールが、相変わらず道端に多数立っている。〔餌釣〕停留所のあたりは、民家でも倉庫のような建物が目に付く。かつて小学校の教室で見た、大型石油ストーブに付いていたようなブリキ(?)の煙突が付いている。どこかの旧役場のような茶色い立派な公共建築(上川沿公民館)があった。
 ドライブインなど古いタイプのロードサイド店舗が見えてきた。Karaoke Daily Studioと大書した店があるが、「テナント募集」となっているから営業していないのだろう。マツダのカーディーラーチェーン「アンフィニ」の、緑色の看板がいまだに残っている。もちろん現在は営業しておらず、跡地は食堂になっている。作業用衣類チェーンのワークマンの店舗があったり、いわゆるデイケアセンターのショートステイの看板が出ていたりする。「カーコンビニ倶楽部」は自前の看板を取り付けているようで、文字の間隔が整っていなかったりするが、地元の看板屋さんが一生懸命ペンキで書いたという味わいがある。次の〔羽立〕を過ぎたあたりで、ロードサイド型店舗の並びが切れ、再び古い集落に入ってきた。農機のディーラー、クボタの大館営業所があった。敷地内には精米機の無人ボックスが設置されている。銀行の店舗外ATMみたいな感じだが、こういうのを「店舗外精米機」とでもいうのだろうか。それなら“店舗内精米機”って何だろう、と思う。
 集落を通るたびに、犬のイラストの入った「ハチ公のふるさと」という小さな看板が見える。大館市が作ったローカルな行政地名の標識である。大館市は忠犬ハチ公を観光資源にしたいようで、そういえば市のコミバスも「ハチ公バス」という。「沢山」という集落があった。何がたくさんあるのだろうか(笑)。

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2016年04月23日

2015.01.16(金)(19)大館の中心街・大町

 いよいよ、最後の制覇目標に向かうこととなった。大館支店と同じ大館市にある、比内支店。今でこそ同一自治体内であるが、2005年6月までは北秋田郡比内町という別の自治体だった。いわゆる「平成の大合併」で大館市の一部となったわけである。
 比内支店に最も近いのは、JR花輪線の扇田駅である。さっき降りた大館駅で奥羽本線から分岐し、鹿角市と岩手県八幡平市を通って盛岡市に向かう花輪線は、国道103号線と東北自動車道に沿って走っている。みち銀大館支店からだと、大館駅に戻るより、1つ進んで東大館駅から乗った方が近い。しかし、この花輪線というのが典型的なローカル線で、本数が少なくて利用しにくいのである。さきほど東能代から大館に来た際、花輪線の接続列車はすでにホームに停まっていて、16分接続で13:47発だった。その次の列車が盛岡行き16:08発。2時間以上も間が開いてしまう。列車は基本的に大館〜盛岡間で組まれており、五能線のような区間運転はない。
 花輪線を使うと、能代に続き大館でもアイドリングの時間が生じることになる。ここでもアイドリングを入れるのは、日没時刻を考えるともったいないので、大館支店から比内支店まではバスで端折ることにしていた。そして、支店前から30分おきに出ているハズのバスが出ていないことが判明したので、さあどうしよう、というのがここまでの経緯であった。

 これまで歩いてきた道は、県道2号線(大館十和田湖線)というらしい。窓口さんの教えに従って、みち銀大館支店前を南北に走るこの道を、さらに真っすぐ歩いていく。この道は支店の前あたりから徐々に上り勾配が付いている。最初は大した上り坂ではないと思っていたが、途中から結構キツくなってきた。
 坂を上がりきる手前に見える交差点が、国道7号線と直角クロスしているらしい。台地上、青森銀行の看板が見えるあたりが、大館市の中心街のようだ。その「長倉」の交差点まで上がってくると、窓口さんから教えられたとおり、きりたんぽの店があった。専門店きりたんぽ鍋、比内地鶏使用、などと書いてある店が、大館市内には至るところにある。ここにある店は、囲炉裏きりたんぽ&ドッグカフェという、不思議な取り合わせになっていた。
 交差点の南は「おおまちハチ公通り」という名前のアーケード街だが、かなり典型的なシャッターストリートのようだ。通りの左(東)側で目に付くのはブティック1軒と美容院ぐらい。大館に限らず、美容院は不思議とシャッターストリートの中でも開いていることが多いが、なぜなのだろう。停留所の向かいにチェーンの釜飯・串焼き店とチェーンのホテルが見え、薬屋が2軒あり、またコーヒー豆ひき売りの店が現役で稼働していたりする。かつてこの商店街で中核を占めていたのは「正札竹村」という呉服店発祥の百貨店だったが、2001年7月に廃業(自己破産)し、それ以来空洞化が進んでいるという。百貨店跡は空き店舗のままになっているが、それ以外の店舗も芳しくはないようだ。
 そんな中、《ののお出かけ中》という看板を見つけた。ののって何だ。《秋田犬ののに会えるアートセンターです》と表示が出ているから、「のの」という名前の秋田犬かしら。店の中で飼っているようだ。後で調べると、ここは「ゼロダテアートセンター」といい、「のの」はこの施設のアイドル犬である。秋田犬保存会発行の血統書を持つメスの秋田犬で、2014年1月10日生まれ。ゼロダテアートセンターは、空き店舗や廃校を舞台にした展覧会など、芸術による地域再生運動をしているNPO法人「アートNPOゼロダテ」の拠点である。市街地の空洞化を憂えた大館出身の芸術家数人が空き店舗を借り、自身の作品発表の場を兼ねて、商店街の核づくりを図っている。
 後日当地を訪れて「のの」に会ってみた。かつて当家で飼っていた「チビ」と同じ赤毛の雌犬だが、ののは白毛の部分が多いから、必ずしもチビに似ているわけではない。それでも、顔立ちや、飛び付いてきて直立の姿勢を取る様子は、かつてのチビを思い出させるのに十分だった【注1】。思えばチビも、当家に来たばかりの頃には、こんな感じで人懐こい犬だったのだ。ゼロダテの記名帳にある、ののへのメッセージ欄に、私は「幸せな“犬生”を送って下さい」と書いた。私はチビを可愛がってやることができなかった。チビが死んで早30年、私は今も心の中で泣いている。

 〔大館大町〕という停留所にようやくたどり着いた。ここが多分、みち銀の窓口女性が教えてくれたこの町の主要な停留所なのだろう。停留所のすぐそばには、銀行が3つある。青森銀・秋田銀・北都銀。青銀の1軒置いて隣が秋銀、その向かいが北都銀で、厳密には間に建物と道路が挟まっているけれども、ほぼ3軒並んでいるような状態である。いま大館市で営業している銀行の中では、みちのく銀行だけが少し離れた坂の下にあり、また最も新しい。秋銀は1899(明治32)年4月、青銀は1907(明治40)年7月の出店で、両者とも大館には明治期に進出した。北都銀は少し新しく、1921(大正10)年10月に大館銀行本店として創業したもの。旧秋田相互銀行の大館支店【注2】は1949年5月に会場としての出店で、さっきの長倉交差点から少し入ったところにあった。というわけで、1951年6月に会場として出店したみち銀が一番新しいことになる。
 さて、現在時刻は15:03。〔大館大町〕の停留所は、ポールが少し離れて2本立っている。商店が並んでいるあたりと、少し南にある青森銀の前【注3】。少し面倒臭いと思ったが、まず先にある青銀前のポールをチェックしてみると、扇田方面へ行くバスは北側のポールからしか出ない様子であった。次いで北側ポールの時刻表を見ると、扇田へ行きそうなバスで最も早く来るのは、15:11発の鳳鳴経由大谷行きであった。その次は15:26発弥助行き、15:46発上川沿小学校経由花輪行き。46分発は多分扇田に行くハズだけれども、そこまで待ってはいられない。11分発で行ければよいのだが。結論から言うと、ここに書いた3つはすべて扇田へ行くバスであった。
 秋北バスの路線は、停留所にもホームページにも情報が乏しくて、かなり謎が多い。おそらく、この会社の利用者は事情を知っている人ばかりで、不明な点は電話で聞いてくれというスタンスなのだろう。しかし、ホームページに情報をまとめて出しておけば、電話応対しなくてもいいわけで、そんなところで骨惜しみしている時点で終わっていると思う。地元の人には言わなくてもわかることが、他所から来た人間にはわからないのだが、その辺の塩梅がバス会社にはわからないのだろう。国際興業にはこういうところを子会社に指導して欲しかったし、秋北バスもせめて元親会社のウェブサイトを参考にしてもらいたい。KKKのホームページで提供されている充実した検索機能は当面なくてもいいから、せめて路線図ぐらい、概略図ではなくきちんとしたものをHPで出して欲しいものだ。大館地区に関しては、観光案内所で配っているカラー刷りのものを、そのままHPに載せれば十分だと思う。
 なお、大館市役所そばにあった秋北バスのバスターミナルが2013年9月限りで廃止になって、バスの系統がかなり整理されたと後日聞いた。わかりにくい路線図が輪をかけてわからなくなり、加えてそもそも地元の人がバスの経路を把握していない。こんな状況では地元の人もなかなか乗れないのではないだろうか。

 数人がかりでアーケードから雪下ろしをしているのを、見るともなく見ていた。屋根に登って雪おろしというのもキツい話だけれども、雪下ろしで本当に大変なのは、作業後に下ろした雪を片付けることである。雪下ろしこそしないものの、雪かきは東京に住んでいても年に1〜2回やるから想像できる。雪の降らない地域でも、たとえば刈り払い機で草刈りをした場合、やはり刈った後の草の片付けで相当にエネルギーを消費する。路面が濡れている理由は、屋根から下ろして積み上げてある雪を、道路に少しずつぶちまけているせいのようだ。こういう風に少しずつ解かしていかなかったら、どうしようもないわけである。
 大館市内に関しては、靴底の溝がきっちりある靴を履いて来て正解だったようだ。秋田・能代で終わりにしていたら必要ないけれども、大館にはそれがあるのであった。

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 【注1】東大農学部にある、上野博士とハチ公とが対になった銅像のように、実際には「直立」まではしていないのかもしれないが、正面で対峙すると直立しているように見えるのである。
 【注2】北都銀行大館中央支店を経て1996年4月大館支店に統合。
 【注3】2015年12月1日の冬季ダイヤ実施に伴い、〔大館大町〕の青森銀行前のバス停ポールは廃止された。
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2016年04月22日

2015.01.16(金)(18)大館支店を制覇

 前方に橋がかかっているのが見える。片側2車線の道路は、橋の手前で対面2車線に戻っている。このあたりはまだセットバックがなされていない。
 この橋は大館橋という。橋のたもとの看板には《一級河川長木川》とあった。橋の歩道部分は、シャーベットというのか細かい氷状の雪が敷き詰められていた。敷き詰めてというより、橋の上は商店街ではないから、除雪をする人がいないだけだろう。歩くのはクルマより大変なのに。こういうことは市役所でやってもらいたい。とはいえ、長木川は(いちおうこの街を貫く母なる川なのだろうが)それほどの大河川ではないから、川を渡ること自体は数分で達成された。
 少し日が差してきた。橋を渡ると、堤防上から地面に下りるスロープになっていて、その部分には道路に面する建物がない。そして、スロープに差しかかって坂を下り始めたあたりで、おお、立ち並ぶ街灯の間から、目的地、みちのく銀行の緑の看板が見えている。もう少しの辛抱である。スロープが終わると、橋の北側と同じような感じで商店建築が建ち並んでいたが、店としてやっているのは半分ぐらいだろうか。
 《銘木建材》と看板をつけた、元企業と思しき建物は、営業していないようでシャッターを閉めている。屋根の2階部分に雪庇ができていて、歩道の上にせり出しているが、危ないのではないか。歩行中に突然ドサッと上から落ちてきたらどうするのだろう。しかもこれは事業所の建物だから、屋根が普通の民家より高いところにある。そんなところから雪がまとめて落ちてきたら、間違いなくあの世行きだ。怖いと思う。こうした、持ち主のハッキリしない建物からの落雪で負傷したり死んだりした場合、賠償責任は誰が負うのだろうか。ある意味、銀行めぐりも命がけである。

 かくして、みちのく銀行大館支店にようやくたどり着いた。
 この支店の建物もまた非常に古めかしい、味のある建物である。2階建ての瓦葺きのように見える横長の外観で、壁は白に近いクリーム色に塗られている。このあたりに瓦はないハズだから、鉄筋コンクリートの建築なのだろう。正面は昭和30年代の銀行建築らしく、オーダー(縦柱)が強調されたデザインになっている。通りに面した正面入口は、妻面ではなく側面の中央部に開けてある。正面入口の上部に「みちのく銀行 大館支店」という緑色の巨大な行灯看板が付いているのは、この銀行らしい【注1】。みち銀の一部の支店は、看板が非常に大きくて、かつ支店名までハッキリと書いてあるから、写真を撮っていい絵になる。建物が古い大館支店はその中でいっそう味があると思う。
 正面入口の左にバス停があり、夜間金庫の投入口を覆うように付けられた屋根がそのままバス停の上屋になっている【注2】。制覇の前に、バスの時間を確認しておこう。停留所の名前は〔栄町〕。路線図では〔大館栄町〕となっているが、まあ他都市に〔栄町〕という停留所があろうとも、大館市内でそこと混濁することはないだろう。
 時計を見ると、14時49分。あと10分ほどで窓口が閉まる。その次に時刻表を見ると、最も早く来るバスは14:51発。これは見送りでいいのだが、その次のバスは14:51の次が15:59となっていた。私はここでサーッと血の気が引いた。何ということだ。ここからだと扇田には行けないのか。市街地の中心部に出ないといけないらしい。事前の調べでは、この停留所からは扇田へ行くバスが30分に1本くらいは出ているハズなのに【注3】。
 間もなく窓口が閉まってしまう。窓口が閉まる前に、つまり聞きたいことを聞ける人がいるうちに、窓口室に入った。カウンターには30代と思しき女性の行員さんがいた。ほとんど咳き込むようにして、扇田方面へ行くバスの乗り場を尋ねる。彼女によると、支店の前の道をまだまだ真っすぐ行って坂を上がると、四つ角の先に停留所があって、そこから出ているという話であった。交差点には、居酒屋ときりたんぽ屋があるという。

 若干調子が狂ってしまったが、大館支店の制覇を済ませよう。
 キャッシュコーナーは、正面入口入って左側の、窓口室とは切り離された場所にあった。2m×5mくらいのあまり広くない部屋に、ATMが2台。両方とも沖電気の「バンキット」であった。機械の上にはみちのく銀行標準の行灯が付いている。ここ大館支店は、機械と機械の間の仕切りが、バスのドア横に付いている手すりのような感じで、パイプだけの簡素な仕切りになっている。本当に簡素な銀行では、そもそも仕切りなど付いていないわけだが、まあとにかく隣の人が見えないようにということである。というわけで、機械を操作。14:52、大館支店を制覇した。
 大館支店は、弘前無尽大館会場として1951年6月に開設された。無尽講の抽選会場として秋田県内の他店舗と同時の開設であったが、支店に昇格したのは最も早く、1952年3月であった。当時の所在地は大館市字中道三角というところで、現在の御成町二丁目、秋田銀や北都銀が大館駅前支店を出しているあたりに相当する。1955年5月に現在の店舗を新築して移転しているが、新店舗の開店は210戸が燃えた大館大火の3日後で、市内の金融機関では唯一弘前相互銀行だけが難を免れたという。

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 【注1】行灯看板はその後「みちのく銀行」の文字のみ入った小ぶりのものに付け替えられた。
 【注2】夜間金庫の投入口はその後ステンレス板で塞がれた。
 【注3】扇田へ行くバスは、支店前の〔大館栄町〕から、トータル30分程度の間隔で間違いなく出ている。当日、なぜ乗れないと思い込んだかは不明。時刻表が掲出されていなかったか、掲出された時刻表を何らかの事情で見落としたかであると思われる。
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2016年04月21日

2015.01.16(金)(17)大館駅から大館支店へ

 大館駅に着く前から、雪がちらつき始めていた。駅からみちのく銀行大館支店まで、計算上は歩いて20分ぐらいかかるハズだが、雪モードの場合はどうなるだろうか。もっとも、ちらつく程度の降り方だから、大したことはない。
 どうやって行けばよいか。改札前にある「ナビタ」の地図で確認すると、みち銀大館支店は、南東に向かう駅前通りに入り、大きな四つ角に出たら右折。あとはずっと真っすぐ行って、米代川の支流である長木川を渡った先の左側。この道はそのままバス通りになっているようだから、主要なバスはみなそちらへ行くのだろう。さあそれでは歩き出そう。駅前に止まっていたバスが、ちょうど1本行ってしまった。なお、後で知ったが、大館駅にはレンタサイクルがある。08:45から17:00まで無料。駅の待合室の中にある観光案内所で受け付けているようだ。
 大館駅から斜め左方向に入って来た。南東向きの駅前通りは2本あるようだが、そのうち裏道のように見える道である。センターラインは引かれていない。道幅としては対面2車線分ぐらいあると思うが、両端は除雪した雪が1mぐらいの高さで積み上げてあるから、実質的な道幅は1車線分ぐらいしかない。そばの空き地には雪が5mぐらいの高さに積み上げてある。このあたりは何軒か家が建っていたのだろうが、歯抜けになっており、空いた土地は全部雪が積もっている。シャッターが開いている商店建築は1軒もない。とにかく、雪の量が秋田や能代とは全然違う。同じ県内だが、全然違うところに来た気がする。
 駅からすぐの場所に民間の市場があって、その隣は秋北バスのバスターミナルである。昭和30年代から40年代前半ぐらいまでの鉄筋コンクリート建築で、同社の本社もここにある。このバスターミナルは、朝は4時半から開いているという。盛岡行きの高速バスが04:46に出るためである。駅前には大型トラックがひっきりなしに乗り入れてくる。「大館市」と書いた黄色いトラックが、黄色い回転灯をつけて行き来しているが、回転灯のない普通のトラックもある。駅前が雪捨て場になっており、そこと除雪の現場とを行ったり来たりしているのだろう。

 南北に走る主要な道路に入った。片側2車線の道だが、雪が両端に積んであるので片側1車線にやせ細っている。雪のない部分の地面は、一部乾いているところもあるが、濡れているところがほとんどであった。
 幹線道路に入って最初の交差点のすぐそばに、踏切小屋がある。レールが敷いてあるべきところは、アスファルトで埋めてあった。2009年に廃線となった小坂鉄道の踏切の跡である。踏切以外のところは雪で隠れているが、おそらく廃線敷はそのままになっているのだろう。なるほど、駅前の“雪捨てーション”は、小坂鉄道の線路跡や施設跡なのか。小坂鉄道が結んでいた鹿角郡小坂町は、大館市の東方にある鉱山の町である。古くから金や銀など非鉄金属の産地で、黒鉱と呼ばれる雑多な金属を含む鉱石を多数産出していた。現在はJRから譲り受けた寝台車両を使った「列車ホテル」が有名である。
 「二丁目大通り」というアーケードの付いた商店街がある。御成町(おなりちょう)といい、大館市街地の北の中心地である。県内金融機関の「大館駅前支店」が林立するエリアで、地元2地銀と秋田県信用組合がこの名前の支店を出している。金融機関以外では、ご多分にもれずではあるがシャッターストリートで、買い回りのできる店はない。それでも能代市街地より賑わっているように感じた。売っている商品はかなり特徴的であった。まず、名産の「曲げわっぱ」。薄く切った杉の板を丸めて作った木製の食器である。もう一つ、金物屋では、雪を捨てるためのそりとか、雪かき用シャベルとかは普通に店頭に並べてある。まあとにかく、沿岸部と内陸部ではこれだけ違うのである。
 このあたりは昭和40年代に建てられたとおぼしき3階建てのビルが多い。アーケードも1970年設置だそうで、大火からの復興の時に設置されたようだ。能代もそうであったが、大館市は昭和20〜40年代にかけて何度も大火に遭っており、御成町近辺は1968年10月に大火で焼き尽くされている。土地の使い方が多少ゆったりして見えるのは、燃えて再建したからではないか。大火からの復興は戦災復興と似ていなくもないが、国力を使い果たす過程での火事か、ある程度傷跡が癒えてからの火事か、という違いがあるのだろう。大火の原因はフェーン現象だそうで、山から乾燥した暖かい風が吹き下ろしてくると、ちょっとした火が燃え広がりやすいわけである。なお、大館は戦後5年で3回の大火があったそうで(1953・55・56年)、JR大館駅舎、それからさっききりたんぽを食べた花善の3階建てのビルは、1955年の大火で燃えて再建した建物だという。

 いま14:40。みち銀大館支店前を14:30に出るバスに乗って比内支店に向かうつもりでいたのだが、現時点ですでにプランから相当逸脱している。駅前できりたんぽを食いつつ、ちょっと時間まで食いすぎたかもしれない。まあ、扇田方面のバスは30分に1本出ているらしいし、扇田でかなりの時間待ちになる予定なので、いいと言えばいいのだけれど。
 さて、アーケードつきの商店街は、北都銀行の大館駅前支店が角にある御成町三丁目の交差点で途切れ、道は対面2車線の白センターラインに変わった。ここもセットバックは済んでいるようなので、近いうちに道が広くなるのだろう。ここまで来ると、相変わらず商店街ではあるが、建物と建物の間が少し広がった感じになった。
 歩いていくと、左側に「ITOKU」という青緑の看板をつけた大きな店舗があった。街の規模からすると、かなり大規模なSCであると思えた。敷地内にはミスタードーナツの独立店舗(大館ショップ)もある。ここは、いとく大館ショッピングセンターである。1899(明治32)年に伊藤徳治という人が創業した伊徳は、大館市に本社を置く地元の大手スーパー。このSCは、全国展開していた総合スーパーが撤退して地元が引き受けたのだと思ったが、調べてみると同社が最初から作ったそうである。ここまでに流通業の経営破綻について多く書いてきたけれども、いとくは相当に強力であるようだ。なお、御成町三丁目の角には2006年8月までジャスコ大館店があった。現在は区画整理が進行中ということもあってか、跡地は広大な更地になっている。
 いとく前から南では、4車線道路の供用が始まっているようだ。SCの前には〔ショッピングセンター前〕という停留所がある。ちょうど、花輪駅前行きの秋北バスが走り去った。いすゞキュービック。1990年代製造のかなり古いバスで、車体はサビサビであった。塗色は国際興業の古い標準カラーで、黄緑ではなく白緑色。旧親会社からの中古をそのまま走らせているのだと思う。たぶんこのバスが、当初大館支店前から乗る予定だったバスであった。
 道端で雪かきしている人は、列車の車内販売ワゴンぐらいの大きさをした雪かき機を使っていた。このあたりの銀行支店には、キャタピラー付きの手押しの雪かき機が、どこの支店にも標準装備されているようだ。そういえば、先ほどのいとくSCは、車社会ゆえもちろん駐車場を完璧に確保している。雪国では、せっかく用意した駐車場を雪捨てのスペースとして一定割合を割かなければいけないのがつらいところで、つくづく自然条件の厳しいところで暮らしているのだなと思う。

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2016年04月20日

2015.01.16(金)(16)きりたんぽと忠犬ハチ公

 切符の調達が終わったので大館支店に向かうが、時刻は1時半を回っている。今朝コンビニ弁当を食べたきりで、お腹がすいてしまった。駅前には花善という鶏飯屋が3階建てのビルを構えている。ちょっと寄ってみることにした。なお、花善は大館駅の名物駅弁「鶏めし」の製造元でもある。
 店に入って席に着く。メニューを見ると親子丼や鶏飯御膳などもあるようだが、せっかくだからきりたんぽ鍋にしてみよう。1050円だという。私はきりたんぽなる食べ物を今までに食したことがない。というか、これまでの人生で秋田県との関わり自体ほとんどなかった。
 待ち時間としては12〜13分といったところであった。アラフォーと見える女性従業員が、調理済みの鉄鍋に土鍋のようなフタを載せて持って来た。私の前に鍋を置き、「熱いのでお気をつけ下さい」と言いながら鍋つかみでフタを取り去った。鍋はブクブク泡だっていて、強い温度感があった。中には、きりたんぽが4本、直径2.5cmぐらいのサトイモが2個、普通のから揚げぐらいの大きさの鶏肉が2個。それとマイタケが2かけら、あとはささがきにしたゴボウと斜めに切ったネギ、それからミツバを太くしたような青い野菜(後で調べたらセリであったようだ)。
 従業員が鉄鍋だけ持ってきたから、気短な私は「ご飯は付かないんですか」と一瞬聞きかけた。しかしすぐに気がついた。きりたんぽは、米飯をつぶしてちくわのような形にし、それを焼いた食材である。米飯加工品を入れた鍋ということは、主食はもう入っているのだ。もっとも、私はうどんをおかずに米の飯を食べたりすることもあるのだが、この際それは言わないでおこう。
 料理はスープまで全部飲み干してしまうほど美味であった。鶏肉はしっかりと引き締まった食感がしたし、肉の味もブロイラーとは一味違う感じがした。サトイモは非常に柔らかく煮えていたし、妙なえぐみもなかった。味付けは醤油ベースで、隠し味として味噌か何か使っているのかと思ったが、鳥ガラと醤油だけだという。それだけでこの味が出るのか、と思った。1050円という値段は最初高いと思ったが、値段なりの満足感は十分あったと思う。ここよりもっと美味しい店はあるのかもしれないが、私はしょせん他所者の観光客で、きりたんぽだって今回生まれて初めて食べたのだから、これで十分である。
 珍しくグルメに走った私であった。なお、後日知ったことだが、大館市内できりたんぽ鍋を食すのは、やや敷居が高いようだ。夜など店を予約しておかないと一見客は門前払いにされてしまうし、値段の点でも一人前2000円近くする。ビギナーは駅前の花善でランチタイムに食べておけば間違いないのではないか(夜は営業していない)。

 大館駅の駅前広場は大きく3つに分かれている。その中央部分には、秋田犬の銅像が複数ある。「秋田犬の像」という秋田犬の群像と、それから1頭だけの「忠犬ハチ公」である。渋谷でもないのに、と言いたいところだが、実は渋谷のシンボルとなっているハチ公は秋田犬であり、大館市はハチの出身地であった。つまり、これらの銅像は、東京・渋谷にあるハチ公像の“親戚たち”ということになる。なお、後で知ったが、今年(2015年)はハチの死後ハチ十年(80年)にあたっている。
 渋谷のハチは、急死した飼い主を渋谷駅で10年近く待ち続けたエピソードが有名である。ハチを飼っていたのは、上野英三郎という大学教授であった【注1】。いまの東京大学農学部で教鞭を取っていた上野氏は、複数の犬を飼育する愛犬家だった。現在の渋谷区松濤一丁目(東急ブンカムラ裏手付近)に住んでおり、外出時には渋谷駅までハチを伴うことも多かったという【注2】。しかし、上野氏はハチを飼い始めた翌年、1925(大正14)年5月に勤務先の東大で急死してしまう。教授の死後、諸事情から上野家は散り散りとなったが【注3】、ハチは飼い主の帰りを上野氏の死後も毎日渋谷駅前で待ち続ける。1932年以後の複数回に及ぶマスコミ報道で有名になり、早くも1934年には渋谷駅前に銅像が設置されている。ハチの死亡は銅像除幕翌年の1935年3月であった。
 そのハチであるが、1923(大正12)年11月10日、秋田県北秋田郡二井田村の斉藤家で生まれた。生家は現在の大館市大子内に今もある。父は大子内山(おおしないやま)号、母は胡麻(ごま)号といった。性別はオス。この頃上野氏は純日本犬の仔犬を飼いたいと所望していて、秋田県職員をしていた門下生の世間瀬という人物が、部下の知人宅でハチを30円で買い付けたのである。生後間もない1924年1月14日、米俵に入れられたハチは、15:20発の急行702列車の荷物車に積み込まれてここ大館駅を出発、20時間の移動後に上野に到着した。この日は東日本で大規模な地震があり、列車の上野駅到着は定時から相当遅れたという。
 ハチが上野氏に飼われたのは1年と少しで、必ずしも長い期間ではなかったが、有名な物語ができるほどの濃厚なつながりはあったようだ。上野氏の急死で上野家は離散し、ハチも複数の飼い主を転々とするが、2年ほど後に、ハチを幼少時から知っていた旧上野氏宅出入りの植木職人のもとに預けられた。住所は現在の渋谷区富ヶ谷(代々木公園の南西側)であり、渋谷駅との中間に旧上野家があった。
 上野氏を迎えに渋谷駅に通うようになったハチは、通行人や商売人から虐待を受けたり、子供の悪戯の対象となったりしていた。渋谷駅前で邪険に扱われるハチを知っていた日本犬保存会の初代会長・斎藤弘吉氏は、飼い主を待つ犬の話を新聞に寄稿。1932年10月、朝日新聞に「いとしや老犬物語」というタイトルの記事が掲載されたのを皮切りに、複数回の新聞報道があって、ハチは「忠犬ハチ公」として有名になった。ハチが「忠犬」として祭り上げられたのは、銅像建立と同じ1934年に、尋常小学校の修身教科書に「オン ヲ 忘レル ナ」というハチの物語が使われていることでもわかるとおり、国民の忠誠心を涵養したい当時の国情もあったようだ。
 1934年4月に行われた銅像の除幕式にはハチ自身も参列したが、その後間もなく、ハチは渋谷駅近くの稲荷橋付近で死亡しているのが発見された。1935年3月8日早朝のことであった。稲荷橋は渋谷駅南端、首都高速3号線高架の南側にかかっている渋谷川の橋である。渋谷駅で行われたハチの告別式には多数の人々が参列し、僧侶による読経や花輪・電報・香典など人間さながらであったという。死体は剥製にされ、現在は東京・上野の国立科学博物館に展示されている。また、飼い主の勤務先であった東京大学農学部(東京都文京区)には、ハチを病理解剖した際に採取された内臓(ホルマリン漬け)があり、農学部の資料館で公開されている。

 忠犬ハチ公の銅像は、日本犬保存会からの依頼により、彫刻家の安藤照氏が作成した。報道されたハチの美談に感じるものがあったとして、かねて知り合いだった同会の斎藤会長にハチの銅像を作りたいと申し入れたという。ハチの顕彰については、関係のない第三者が便乗するなどいかがわしい動きもあり、日本犬保存会としても一刻も早く銅像を制作しなければならなかったようだ。
 こうして作られたハチの銅像であったが、太平洋戦争の末期になると金属物資の不足が深刻化し、ハチ公像も金属供出されることになった。関係者はもちろん回避を図ったものの、銅像や梵鐘などあらゆる金属が供出される中、駅前のような目立つ場所の銅像が供出されないままでは体裁が悪いことから、撤去のうえ保管しておくことで決着した。しかし、終戦を迎える前日の1945年8月14日、鉄道省浜松工機部(現JR東海浜松工場)で溶解されてしまったのであった。なお、初代作者の照氏は空襲で焼死し、保存されていた銅像のレプリカも疎開させる途中で空襲に遭って焼失した。
 戦後、1948年8月になって、渋谷のハチ公像は安藤照氏の息子で彫刻家の士氏の手で再建された。士氏は初代銅像の制作当時10歳の小学生で、父親のアトリエで毎日のようにハチに接していた。渋谷駅前には現在もこの時に再建された銅像が立っている。渋谷駅の「ハチ公口」という名称の出入口は、ハチ公の像が設置されている広場に面した入口であり、待ち合わせの名所として知られている。1948年の再建当時、忠犬ハチ公像は駅前広場の中央に置かれていたが、1989年5月の駅前広場拡張の際に広場の角に移され、北を向いていた顔は駅の出口(東)を向くように修正された。現在、渋谷駅周辺は再開発と区画整理事業が進行中で、ハチ公口に置かれているハチ公は工事の都合上、2020年頃に一時撤去が予定されている。この撤去期間中、渋谷のハチ公像を大館に“里帰り”させる構想がある。構想との関係は不明だが、JR東日本は2015年6月から、大館市の隣の小坂町出身で、福原淳嗣・現大館市長と高校の同期だった人物を渋谷駅長としている。大館駅と渋谷駅は戦前から「姉妹駅」となっている。
 なお、大館駅前には、ハチが死んだ直後の1935年7月、渋谷の像と同じ型で作られたハチ公の銅像が設置されたが、この銅像も渋谷と同様、戦時の金属供出によって失われた。こちらの復活はかなり遅れて、1987年のことであった。大館駅前のハチ公像は、耳が両方とも直立しているところが渋谷と異なる。渋谷のそれは晩年の姿をモデルとしたため、左耳が垂れているそうだ。
 ハチ公の像や記念碑は関係各所に数多くみられる。大館市だけでも、この駅前の銅像のほか、ハチの生家前に生誕80周年を記念しての石碑と石像があり、秋田犬会館(大館市三ノ丸)の前には「望郷のハチ公像」がある。JR鶴岡駅(山形県鶴岡市)に展示されている石膏像は、山形県藤島町(現鶴岡市)の町役場に長年保管されていた正体不明の犬の像で、渋谷の銅像を再建する際に安藤士氏が試作したものと判明した。同地はハチの保護を訴えた斎藤弘吉・元日本犬保存会会長の出身地でもある。近鉄久居駅前(三重県津市)には、上野英三郎博士の出身地ということから、博士とハチの銅像がある。また、上野博士に直立の姿勢(あえてこう書く)で飛び付こうとするハチの銅像が、東大農学部キャンパス内に最近建てられた。調べている過程でこの像の写真を見たとき、私は冒頭で述べた「チビ」のことを思い出して涙が止まらなかった。

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 【注1】上野英三郎(うえの・ひでさぶろう)氏:いわゆる「忠犬ハチ公」の飼い主で農業土木学者。1872.01.19(明治4.12.10)生、三重県一志郡本村(現津市)出身、1895年7月帝国大学農科大学農学科(現東京大学農学部)卒、1900年7月大学院満了、同年8月東京帝国大学農科大学講師、1902年3月助教授、1911年11月教授。1925(大正14)年5月21日死去。
 【注2】上野氏の勤務先だった東大農学部は、当時は目黒区駒場にあり、自宅からは徒歩で通勤していた。このため、ハチが「教授を生前に“毎日”渋谷駅まで送り迎えしていた」とする説は誤りである模様。
 【注3】上野氏の妻は入籍していなかったため、夫の遺産が相続できず、居宅を明け渡さざるを得なくなったという。
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2016年04月19日

2015.01.16(金)(15)雪国に入ってきた

 鷹ノ巣から線路は再び複線となった。車掌のアナウンスによると、次の糠沢駅は通過するらしい。この列車は普通列車であって快速ではないが、ともあれ糠沢を通過。複線の両側にホームがへばりついただけの、簡素な駅であった。左の車窓からは、大太鼓をモチーフにしたというドラム缶のような形の駅舎が見えるが、右の空を見ていたのでこのときには気が付かなかった。水田地帯の真ん中にある駅のようだが、それなりに人家も建っているし、この程度に「何もない」駅はここに限らず奥羽線にはいくつもあるように思えた。なぜ通過するのだろうか。ただ、このあたりで車内に車掌が回ってきたから、流動の切れ目になるような大きな何かがあるのかもしれない。
 山もだいぶ深くなってきたが、それでも雪のない時期には山が切れたら水田地帯が広がっているのがわかる。製材所が何軒か見えたから、このあたりも秋田杉の産地なのだろう。右の車窓からは米代川が寄り添って流れている様子が見える。やがて早口に停車。そこそこ人口がいる町のようだ。2005年6月に大館市と合併した旧北秋田郡田代町の中心地であるから、もう大館市には入っている。一生懸命除雪をやっている人が見えたが、雪がさらに深くなり、もう除雪しきれていないところも至る所にある。除雪や雪下ろしを見たのは今日初めてだった。線路際の民家、それからJRの駅の中にも、雪下ろしをしている人が何人もいる。
 線路は早口からまた単線になった。すぐ右を走る道に「大館市」というアーチがかかっているのが見えた。もう空は一面べったりグレーとなり、青空がのぞく隙間も近場にはほとんど存在しない。遠いところに、ほんの少しだけ日光が差して斜めの光の帯になっているのが見える。もう少し光が強ければ、天使降臨のような幻想的な風景になるのだろう。地面に目を転ずると、線路際には用水路が流れているが、その擁壁のコンクリート部分には雪庇ができている。雪の庇。知らずに踏み込んだら川にドボンである。
 下川沿駅は対向式2面2線の駅。この駅の分岐器では、凍結を防ぐために火を燃やしている。凍結防止用のヒーターはもっと手前の駅にもあったと思うが、初めて気がついた。2011年に来たときのメモでは、秋田市を出たばかりの大久保駅には早くもあったようだ。ここ下川沿は、プロレタリア作家だった小林多喜二の生誕の地だそうで、駅外の土地から列車に見えるように設置された看板が左の車窓から見えた。個人が立てた看板のようだが、何やら鬼気迫るものを感じた。
 窓の外に雪がちらつき始めた。次はもう大館駅である。さすが大館市ともなると、雪がいよいよ深くなってきて、除雪された雪が線路際にうず高く積まれているし、道路標識なども雪で埋もれている。民家などの斜めになった屋根に載っている雪は、どれを見ても雪庇雪庇雪庇。積もった雪がゆっくり滑り降りてくることで庇のような形になる。時期が来ると一気にバサッと落ちるから、危険なのだろうけれども、雪が深くなってきたことの象徴といえよう。

 私を乗せた弘前行きの電車が、大館駅2番線に到着した。13:31。大館、大館、と女性の声の構内放送が聞こえている。
 大館駅には、さっき東能代駅で見たような雪よけのネットはなかった。そんな物は、雪がいっそう激しい大館まで来ると意味がないのだろう。二ツ井、鷹ノ巣あたりで結構な雪国に入ったと思ったけれども、大館は雪国の度合いがさらに強いようだ。ここも3番線までしかない国鉄型配線の駅で、私が到着したホームの反対側には、花輪線の盛岡行きが停まっている。この駅で接続する花輪線は、五能線と同様今来た後の方(西)に進んでいくから、分岐がどこかにあったハズだが、見ていなかった。
 乗り降りの終わった車内に、目を向けるともなく向けると、この時間で高校生が若干乗っていた。3年生の早帰りだろうか。すっかり忘れていたが、そういえば明日は大学入試センター試験があるのだった。なお、乗ってきた電車は、大館で5分ほど停車した後、県境を越えて青森県弘前市まで行く。ここから先は車掌も降りてしまい、ワンマン列車になるそうである。
 跨線橋を渡って、1番線横の改札を出る。待合室に「本場大館きりたんぽ」と銘打った巨大な鍋の模型があった。大館市周辺は有名な比内地鶏の生産地であって、これを使ったきりたんぽ鍋が名物である。秋田県でも北部だけの名物料理であるようで、以前、県南・由利本荘市出身の職場同僚が「本荘ではあんなの食べない」と言っていたのを覚えている。大館市近辺がきりたんぽ鍋の“本場”とされているが、きりたんぽ発祥の地は花輪(鹿角市)、商品として売り出したのは能代市の料理店であったそうだ。さて、鍋の模型は、直径3mぐらいの巨大な鍋に食材を入れ、下からダミーの火で加熱している。私はこれまでグルメ紀行とは全く縁がなくて、きりたんぽも食べたことがないので、本物を経験してみたいと思っている。

 大館支店に向けて出発する前に、大館駅にはミッションが1つある。この後乗る予定の花輪線の乗車券を買っておかなくてはならない。大館支店の次、比内支店を終えた後、最寄りの扇田駅から盛岡へ移動するが、扇田は無人駅だったハズで、クレジットカードで切符が買えない。もちろん現金精算はできるだろうが、旅先で現金はなるべく減らしたくないから、そうなると大館駅で買うしかないのである。
 買った切符は6枚。JR東日本の地方交通線は、乗車券が240円または320円になる時、距離と比較して値段が割安になるので、うまく計算して組み合わせるとこんな枚数になる。扇田→土深井→鹿角花輪→兄畑→荒屋新町→松尾八幡平→好摩、と6分割することによって、合計170円安く上げることができた。後日、大阪府警のせいで国庫に7000円を吸い上げられるから、少しでも節約しないといけない。手間をかければ何とかなるのなら、手間をかけて何とかしようということである。なお、私は改札横の長距離券売機で切符を買ったが、大館駅内では何やら工事をしていて、人が券売機を操作している横で、嫌がらせのようにガリガリと大きな音を立てていた。JRとしては、運賃体系のすき間を突いて安く上げられるのは気分が良くないだろうから、私に対する嫌がらせの効果が発揮できて良かったのではないか。
 乗車券の分割購入について、若干の蛇足を付け加える。実は、好摩からさらにもう1枚切符が必要である。第三セクター、IGRいわて銀河鉄道の盛岡までの切符。ところが、大館駅の券売機では、盛岡までの切符が買えないのである【注】。券売機がダメとなると窓口へ行くしかないが、窓口でもやはり、IGRがからむと通しの乗車券は買えないという。仕方がないから好摩で打ち切ったが、これは新幹線開業に伴う並行在来線の第三セクター化によるマジックである。好摩から先はJRではないから、JRでは切符は売りませんよ、ということだ。第三セクターのこういう融通のきかなさは、本当に勘弁してもらいたい。新幹線ができたからといって全然便利になっていないではないか。

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 【注】駅の出札窓口に隣接する「びゅうプラザ」(JR東日本直営の旅行代理店)で、船車券の形でIGR乗車券を購入できる、と後で知った。
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カテゴリ一覧(過去の連載など)
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銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇(29)
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りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅(57)
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りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿(60)
りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える(12)
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2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)