2016年04月18日

2015.01.16(金)(14)東能代に阪急梅田を見た

 能代駅から私が乗ることになっているのは、東能代行きの12:38発。この列車で東能代に着いたら大館方面は12:45発で、接続時間2分という絶妙な乗り継ぎである。
 38分発は、1番線から出るという。1番線は、さっき深浦行きの列車で降り立ったホーム。ということは、五所川原方面から来る列車ではなく能代始発らしい。12:32頃、キハ40の1両だけの列車が1番線に着いた。定時では12:31着の能代止まりの列車で、どうやらこれが折り返し東能代行きになるようだ。思ったとおりである。
 改札が開いたので、すぐ列車に乗り込んで座席に荷物を置いた。改札の横に木製の記念スタンプ台が見えたので、発車する前にちょっと行って押してきた。38分定刻発車。私以外の乗客は結構たくさん乗ったように思ったが、20人は下回っている。窓の外はすっかり晴れ渡り、日の光がまぶしく感じられた。そうして、走行時間5分弱で終着・東能代に到着である。
 駅に着く直前、右側から奥羽線の701系電車がこちらに寄ってくるのが見えた。五能線と奥羽線は、東能代駅の手前で少しの間並走している。ああ、これが、今から乗る普通列車弘前行きなのか。東能代駅のホームには五能線と同時に入るようだ。間もなく、五能線の線路に奥羽本線の線路がぴったり寄り添い、私が乗ったキハ40の窓には、701系電車のステンレスの車体とスモークガラスの窓がいっぱいに広がった。
 こんな地方の小駅で、こんな阪急梅田のような格好いいことをやっているとは思わなかった。私鉄王国の大阪では、大阪〜神戸間や大阪〜京都間のような大都市圏輸送で鉄道会社の競争が激しく、優等列車の本数も多い。阪急電鉄の梅田駅では、神戸線の特急・宝塚線の急行・京都線の特急が、日中は10分おきに同時に発車し、次の停車駅の十三(じゅうそう)まで並走する。東能代で2つの列車が同時に駅に入ろうとする様子を見て、私は阪急梅田の光景を思い出していた。何しろ私は、24時間前には大阪にいたのである。

 弘前行きは定時に発車した。電車は2両編成、乗客は前の車両に18人、後ろの車両に13人。午前中だと、若い人、特に女子大生風の女性が多かったのだが、この時間になると明らかに平均年齢と男性比率が上がり、中年以上の男性が多くなった。女性は初老から後期高齢者ぐらいまでで、いずれにしても若い人の姿は完全に消え去っている。なお、この電車には車掌が乗っている。後で調べたら、奥羽本線(秋田以北)のローカル列車でワンマンカーは珍しく、上下各3本あるだけであった【注1】。午前中の秋田から東能代までの移動は、実はレアケースだったことになる。
 東能代を出てからの車窓風景は、しばらくは午前中の車窓風景とあまり変わらなかった。水田が広がる平野に単線の線路が敷かれているが、能代市付近はさほど大きな平野ではないようで、近いところに山が見えたりしている。ただし、東能代を出てから線路のカーブが増えたから、地形は若干険しくなってきたようで、カーブとともに標高も上がりつつある。雪の量は明らかに増えてきた。右も左も雪に覆われ、地面がまったく見えなくなった。
 最初の駅は鶴形。山に分け入ってきたようで、かなり高台の駅。この駅を出ると、線路が複線になった。真っ白な雪の中に鉄のレールが2本だけ浮かび上がっているようで、線路の中も外も区別がつかない。明らかに雪が深くなっている。そして、本日初のトンネルに遭遇。さほど長くはなかったが、トンネルをくぐったのは今日初めてであった。
 その次の富根駅は、プラットホームの雪がいっそう深くなってきた。乗降に使われない部分は除雪もされないので、雪がこんもりと積もっている。水田地帯は続いているが、車窓の風景は間違いなく雪国の山間部になってきた。それにつれて、雲も質が違ってきている。横の広がりとしては午前中から変わらず、すき間から青空がのぞくところは相変わらず青空がのぞいている。ただ、垂れ込めている雲は、厚さが増したのか、黒く重たくなってきた。このあたりの雲は、これがどいたらきれいな青空になるのに、という雰囲気ではなかった。
 かなり大きな鉄橋を渡った。単線だったところを複線化したとみえて、鉄橋は上り線と下り線の位置がかなり離れている。秋田県北部の母なる川、米代川であった。川を渡ってすぐトンネルを抜けると、山に囲まれた平らな土地に入る。あたりはもう、完璧なる真っ白な雪景色となっていた。ここで、二ツ井に停まる。川を渡って山を越えているから、カルチャーは能代とはかなり違っていると思うが、ここ旧山本郡二ツ井町はいわゆる平成の大合併で能代市となった地域である。思いのほか大きな街らしく、4〜5人の客が降りた。駅の真裏は山で、防風林の一番手前に「ここは白神山地の玄関口です」という看板が出ていた。
 大きな川を渡る。大きな川と感じたが、地図を見ると藤琴川といって米代川の支流だから、あまり大きくはないハズだ。雪のない時期に通ってみると、この川は河川敷が広いだけであった。フジコ・トガワと書くとそんな名前の女性アーチストでも居そうである。という冗談はさておき、川に続いて若干長めと感じられるトンネルをくぐる。しかし、その次にもう1本ある複線トンネルが、相当に長大なものであった。二ツ井の大館寄りは、県境にこそなっていないけれども、かなり本格的な山越えのようだ。調べてみると太平山という山だが、有名な清酒の名前とは関係がない。この「太平山トンネル」について、私はメモに「北陸トンネルに匹敵すると思われる」と書いているのだけれども、さすがにそれは大げさだろう。

 やっとトンネルを出て、前山駅。ここに至って、右の車窓はひたすら雪でべったりであった。駅に停車すると、ホームの向こうにある防風林の先に、ちょっとした広葉樹の並びがあって、その向こう側はこんもりと白い雪に覆われた山のようであった。米代川の堤防が雪で覆われているだけだが、堤防の向こうが見えないから、雪の大地という感じがひしひしと感じられる。雪のない時期に来ると、水田地帯が意外に奥の方まであるのがわかるが、今はとにかく真っ白な風景が広がっていて、雪国そのものである。なお、前山駅から線路は再び単線となった。
 次は鷹ノ巣駅【注2】である。北秋田市の玄関口。この駅から、秋田内陸縦貫鉄道が南に角館まで延びているから、右の方から線路が合流してきたハズであるが、線路が寄って来る様子は見ていなかった。北秋田市もまた平成の大合併で発足した市で、ここ鷹ノ巣駅の周辺は2005年3月の合併前には北秋田郡鷹巣町といった。JRの駅としては平凡な国鉄型配線の駅で、能代寄りのところに内陸線の駅が併設されているところが他とは違う。内陸線の建物(車庫か)の壁には「秋田名物 内陸線」という大きな看板が出ていた。
 鷹巣には、みちのく銀行の前身である弘前相互銀行が、1972年4月まで鷹巣支店を出していた。1951年6月に弘前無尽の鷹巣会場として営業を開始したもので、1952年3月業務取次所に昇格、1953年7月には大館支店鷹巣出張所に昇格し、同年12月さらに鷹巣支店に昇格した。1954年10月鷹巣町北鷹巣386に移転、1965年11月には東鷹巣77-7に新築移転していたが、1972年4月に大館支店に統合されている。同年7月に秋田支店が開店しており、事実上の配置転換であった。1972年4月は鷹巣町の金融事情が大きく動いた月で、やはり当地に出店していた青森銀行が、秋田支店出店のため撤退している。青銀の鷹巣支店は1921(大正10)年10月に前身の第五十九銀行が出張所として開設したもので、鷹巣町では第四十八銀行(現秋田銀)よりも古い銀行支店であった。青銀は鷹巣支店を閉めるにあたり鷹巣町に500万円の寄付を行ったが、弘前相互はどうだったのだろうか。
 なお弘前無尽は、鷹巣から内陸線で奥に入った米内沢(現北秋田市)にも、1951年に抽選会場を置いている。開設は鷹巣会場と同時であったが、こちらは1952年2月の廃止で、営業店(出張所)に昇格することもなく短命であった。

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 【注1】ワンマン列車状況:2015年3月14日改正ダイヤでは、下りは秋田発09:48(大館行)、10:56(東能代行)、14:31(八郎潟行)の3本のみ(男鹿線直通列車を除く)。
 【注2】「鷹ノ巣」の表記はJRの駅名のみ。
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2016年04月17日

2015.01.16(金)(13)店舗外ATMのこと

 店舗外ATMの話が出たところで、みちのく銀行のそれについてまとめておくことにしよう。今回の制覇対象にはなっていないが、みち銀は、店舗外ATMでの取引が独自の店名表記とともに通帳に記帳される貴重な銀行である。ここでは秋田県内の状況を整理するが、青森県をはじめ他県のみち銀ATMを「めぐ」する際、ここで述べたことが予備知識として役に立つハズだ。
 みち銀はかつて、秋田県内に店舗外ATMを最大4か所設けていた【注1】。能代支店が3か所、比内支店が1か所であるが、現在ではいずれも廃止されている。みち銀の店舗外ATM【注2】は、前身の弘前相互銀行が1976年9月に青森県弘前市に設置した、本店営業部弘前大学医学部附属病院出張所【注3】が最初とみられる。秋田県においては、1977年12月に設置された[アイケーショッピングデパート](能代支店)が第1号であった。
 アイケーショッピングデパートは、能代駅の南300mほどの能代市南元町に1977年3月オープンした、地元資本のショッピングセンターである。市内の2つの衣料品店、イシヤマと菊宏の合弁で設立された「愛敬」という企業が運営していた。売り場面積9030uと、当時の能代地域では最も大規模なSCで、インパクトの大きな商業施設であったようだ。みち銀のATMは12月1日稼働開始で、SC開店後しばらくしてからの開設であった。
 愛敬は1985年9月に東北地区のスーパー3社での合併に参加した。合併会社「トーホー」は、山形県村山市に本社を置き、代表には愛敬の石山舜二社長が就任した。この再編はニチイ【注4】系列のボランタリーチェーン加盟社同士の合併で、ニチイ主導で行われたようだ。このときは運営会社の合併だけで屋号の変更は行われなかったが、さらに1989年3月には同様に5社で合併【注5】。これを機に、各社の傘下にあったスーパーは順次「サンホーユー」という屋号に変更され、アイケーショッピングデパートも1989年9月「サンホーユー能代店」に改称している。なお、アイケーは「サンホーユー」に変わる際に増築と改装を行い、みち銀の店舗外ATMはこの時以降2階に置かれることとなった【注6】。
 さらに1994年3月、サンホーユーは仙台市に本社を置くニチイ本体の東北地域会社「東北ニチイ」に合併した。名実ともにニチイグループの東北地区会社の一部となったが、存続会社となった東北ニチイも元々はサンホーユーのように合併を繰り返して拡大してきた企業であった。東北地区の企業統合は、ニチイが当時「生活百貨店」を謳って展開していた新業態「サティ」を拡大するためのもので、サンホーユー能代店は短期間「ニチイ能代店」となったのち【注7】、1996年6月に「能代サティ」と名称変更した。
 これらの名称変更を、みち銀の出張所名も追いかけている【注8】。

 さて、みち銀は1992年頃から店舗外ATMの展開ペースを速める。地元の青森県では2000年頃まで店舗外ATMの設置ラッシュが続いたが、秋田県においては1997〜1999年にかけて最盛期を迎えた。この時期に設置されたのが、[大滝温泉](比内支店、1997年7月)、[能代山本医師会病院](能代支店、1998年10月)、[アクロス能代](同、1999年9月)の3拠点であった。
 能代山本医師会病院は、JR東能代駅の南2kmほどの丘陵上(能代市桧山)にある総合病院で、1984年7月に開院した。病院の周辺は能代市山本郡医師会が「総合福祉エリア」と位置付けており、特別養護老人ホームなど医師会が運営する複数の高齢者福祉施設も置かれている。これらの施設の建設にあたっては、みちのく銀行が相当額の融資を行っている。みち銀は医療法人との取引に強みがあるようで、同行の店舗外ATMには病院内のものがけっこう目につく。私は2011年4月に[能代山本医師会病院]を制覇したが、みち銀のATMは病院内、メインロビーそばの売店横にあり、通帳の取扱店名表示は<HPヤマモト>であった。みち銀の取扱店名表記は、半角7文字以内に収めるために相当強引なデフォルメが行われている。HPがhospitalの略であるのは言うまでもない【注9】。
 アクロス能代は、国道7号線沿いの能代市寺向に1999年9月オープンしたショッピングセンターである。大和ハウス工業グループが運営する「アクロスプラザ」と称するSC群の仲間で、能代バイパスに面した広大な敷地に平屋建ての店舗が建ち並ぶロードサイド型の商業施設。キーテナントは地元スーパーの「いとく」(本社大館市)である。さっき奥羽線で東能代駅に着く手前、左側の車窓に見えたロードサイド型店舗群がそれだ。銀行のATMはキーテナントいとくの棟の南隣に専用の棟があり、6台(6機関)分のブースが並んでいる。連載作成にあたり見に行ってみたが、6ブースのうち左側2ブースが空き枠になっているから、このうちどちらかがみち銀であったと思われる。みち銀のATMはSCオープン時に開設されたが、残念ながら私は制覇できなかった。
 このあたりまでが、みち銀が秋田県で最も活発に商売をしていた時期であったかもしれない。なお、比内支店管内については比内支店のところで述べる。

 2000年以後は、銀行にとっても流通業界にとっても荒波が押し寄せる期間であった。この過程で、みち銀の店舗外ATMも秋田県では全廃となっている。まず先に悲鳴を上げたのが流通業界で、2000〜2001年にかけて経営破綻が相次いだ。
 ニチイ改めマイカル(1996年7月商号変更)は、転換社債の発行や店舗の証券化で資金を調達し、工場跡地や自治体の再開発事業などで巨大店舗の出店を立て続けに行った。しかし、賃貸料の増大などによる店舗の赤字が経営を圧迫し、2001年初頭から資金繰りに窮するようになった。この時期は特に銀行の不良債権処理とデフレ不況が問題となった時期で、銀行自体も体力が落ち、多額の負債を抱えた取引先を支援しきれなくなっていた。
 2001年9月、マイカルは、メインバンクだった第一勧業銀行(現みずほ銀行)から金融支援の打ち切りを宣告された。グループでの負債額1兆6千億円、小売業としては前年のそごうを上回る戦後最大規模の倒産であった。当時の四方修社長(元大阪府警本部長)は、メインバンクが同じDKBであるイオンを支援先として、会社更生法による再建を計画していた。しかし、旧来からの経営陣は四方社長を取締役会で解任して、民事再生法の適用を申請した【注10】。クーデターの理由としては、旧経営陣が会社に残ることができ、比較的早く再建が果たせるというものであったが、メインバンクの支援を受けられず、支援企業選びも難航した。結局、同年11月、民事再生手続の中止と会社更生法の申請がなされ、当初のスキームどおりイオンが会社更生法下で支援することになった。
 親会社マイカルの破綻により、能代サティを運営していた子会社の東北ニチイ改めマイカル東北(1996年7月商号変更)も苦境に陥った。同社は親会社の破綻直前に、自社で運営していた「サティ」など15店のうち、業績が比較的好調だった7店舗【注11】を親会社に営業譲渡していた。不採算店の立て直しと統廃合に特化するためである。しかし、マイカル本体の破綻に伴い、親会社と同様に民事再生法適用を申請する。自主再建を目指したものの、本体の破綻により取引先や来店客が減少して全店が赤字となったこと、また支援会社のイオンが会社更生法への切り替えを求めたことから、親会社に2か月遅れて会社更生法に切り替えることになった。
 こうして、マイカル東北管内の店舗は、業績の好転が見込まれた秋田県横手市の1店を除き、全店閉鎖されることになった。能代サティは2002年6月いっぱいで閉店となり、みち銀の店舗外ATMも[アイケーショッピングデパート]以来25年の歴史に幕を下ろして廃止された。

 次いで荒波にもまれたのは、銀行であった。みちのく銀行の店舗外ATMは、秋田県では2009〜2012年にかけて全廃となるが、これらは入居先の経営破綻ではなく、みち銀自身の理由によるものである。
 みち銀における店舗外ATMの新規設置は、2000年頃まで年間10〜20か所というハイペースで続いたが、これは当時の経営姿勢が積極的だったためである。1986年から2005年まで20年近く頭取・会長を務めた大道寺小三郎氏【注12】は、みち銀をリテール特化型地銀として青森銀行と肩を並べる存在に発展させ、またロシアに進出するなど海外戦略の展開にも積極的で、カリスマバンカーとして知られていた。しかし、19年に及ぶ長期政権の結果として社内には沈滞が生じ、行員の着服や不正融資など不祥事が続発。業務改善命令を2002年からの4年間で3度も受け、また金融庁の検査でも融資先の査定が甘いなど法令順守面の問題を指摘され、大道寺氏をはじめ7人の役員は2005年6月引責辞任に追い込まれた。
 経営陣の大量辞任で窮地に陥ったみち銀は、親密だった旧富士銀行系の人脈に助けを求め、みずほフィナンシャルグループはユーシーカード社長の上杉純雄・元富士銀常務を会長として送り込んだ。みずほは現取締役の総退陣を要求、また会長を支える幹部職員を経営企画部に出向させ、みち銀の経営体制はガラリと変貌した。新頭取には、みちのくカード社長だった杉本康雄氏【注13】が就任した。杉本氏はみち銀の常務取締役だったが、大道寺氏との確執により取締役に降格され、さらに系列会社に転出していた。
 新しい経営体制のもと、大道寺氏の拡大路線は抜本的に見直され、お定まりのリストラも行われた。店舗統廃合では、2006〜2010年の4年間に10支店5出張所を廃止。これらの中には、本町支店のような、みち銀にとって由緒正しき店舗【注14】が含まれる。2003年度末に1300人を超えていた正行員は1200人を切る水準にまで圧縮。また、大道寺体制の象徴といえたロシア事業もみずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)に売却されるなど、みずほグループ主導の経営再建計画が実行された。リストラ効果で経営は黒字化したものの、個人預金の残高は減少し、また行員の士気もかなり下がったとされる。
 こうした経営方針の変化は、店舗外ATMの設置個所数にも表れている。2000年度まで年間15か所以上のハイペースで増え続けてきたみち銀の店舗外ATMは、2001年度からゆるやかな減少に転じていたが、一部の店舗外ATMで青森銀行と共同利用を始めるなどして、2008〜2011年度にかけて特に大きく減少している。[アクロス能代][能代山本医師会病院]は、ほぼこの時期の廃止である。これらは施設が廃業したための廃止ではないから、経営方針の変化によるものが大きいのだろう。ともあれこの過程で、みち銀の店舗外ATM設置個所数は、2012年度には1996年頃の水準にまで後退し、秋田県には店舗外ATMが1か所もなくなってしまった。そして、今度は秋田支店まで閉めてしまったわけである。
 秋田県は現在のところ人口の減少率が最も高い県であり、2000年に119万人いた人口も2015年末には102万人、そして2040年には70万人にまで落ち込むとされている。みち銀としては、膝下の青森県も似たような状況であり、経営方針としても地元回帰を謳っているから、隣県とはいえマーケットの縮小に付き合い切れなくなったのではないか。

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 【注1】他行が幹事となっている共同ATM1か所([比内町役場]改め[大館市比内総合支所])を除く。
 【注2】当時はCD機での設置だったが、便宜上「店舗外ATM」の名称を使用する。
 【注3】本店営業部は現在の弘前営業部。なお、ATMの母店は大学病院前支店(弘前市)となった。
 【注4】のちのマイカル(現イオンリテール)。
 【注5】新会社「サンホーユー」の本社は仙台市、代表者はトーホーの石山社長。
 【注6】アイケーの時代からこの場所にあった可能性を否定するものではない。なお、SCの主要な出入口は地形の関係で2階にあった。
 【注7】店舗広告が「ニチイ能代店」名で行われるようになったのみで、看板類の架け替えは行わず、包装紙なども在庫がなくなるまで旧来のものを使用した。
 【注8】1996年6月以降のみちのく銀行における名称は「能代サティ店出張所」。
 【注9】病院を全部「HP」と略しているわけではない。
 【注10】会社更生法による再建では、事業経営権を持つ「管財人」が選定される(この過程で倒産会社の経営陣が一掃されるケースが多い)が、民事再生法による再建では旧来の経営陣がそのまま経営にあたる。
 【注11】能代サティは含まれていない。
 【注12】大道寺小三郎(だいどうじ・こさぶろう)氏:元みちのく銀行会長。1925年5月1日生、北海道日高郡静内町(現新ひだか町)出身、1952年3月東北大法卒。司法試験浪人を経て1958年4月弘前相互銀行入行、管理・貯蓄推進・業務各部長を経て、1973年11月取締役、業務部長・東京支店長兼東京事務所長・総合企画部長・融資部長各委嘱、1979年6月常務取締役、1982年6月専務取締役、1984年6月副頭取、1986年6月頭取、1997年6月会長。2005年5月退任、同年7月21日死去。
 【注13】杉本康雄(すぎもと・やすお)氏:現みちのく銀行会長。1947年2月27日生、青森県三沢市出身、1969年3月高崎経済大卒。同年6月弘前相互銀行入行、根城、国道各支店長、業務推進部長を経て、1996年6月取締役、業務推進・企画調整各部長委嘱、2000年6月常務取締役、人事部長委嘱、2002年8月取締役、2003年6月古川支店長委嘱、2004年6月みちのくユーシーカード(現みちのくカード)社長。2005年6月みちのく銀頭取、2013年6月会長(現職)。
 【注14】本町支店(青森市本町)は旧青和銀行本店。1978年9月に青森市勝田の現在地に新築移転するまで、みちのく銀行の本店であった。
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2016年04月16日

2015.01.16(金)(12)能代駅で列車待ち

 青森銀のATMで通帳記帳を済ませて、能代駅まで戻ってきた。ロードヒーティングのせいもあるのだろうが、駅とみち銀との間には、雪を踏んで歩くところは全くなかった。ただ、人通りのあまりなさそうな道には、除雪されずに残っているところもあった。除雪して除けてある雪の山の高さが秋田市中心部と違うし、やはり秋田と比べると少し雪が多いのだと思う。
 ロータリーの西側に立っている能代駅前のバス停は、「小銭すし」と書いてある店舗の目の前にある。小銭すしはかつて有名な男性俳優が起業・経営していた持ち帰り寿司のチェーンだった。全国チェーンが蹉跌した後も、能代市を中心としたフランチャイジーが独自に事業を続けていたようで、能代市内には小銭すしの経年を感じない空き店舗が今もいくつか残っている(そのうち1店は2015年まで営業していた)。その寿司店の空き店舗を街づくりのNPOが借り、店の中に時計やベンチを置いて、能代駅前の無料バス待合所として開放している。能代は中心部の「バスステーション」と称する停留所がバスのダイヤの中心だが、駅前にこれだけ広いスペースがあるのであれば、バスターミナルをここに持って来た方が早い気がする。ただ、地域住民が頑張っているのに、ここから出るバスの最終の早いこと。最も遅い五明光行きというバスが、平日18:14発である。これは列車に接続しているのだろうか。
 地方都市で駅前がまばらになるのは常態だが、交通機関の乗り場は本来人が集まる場所のハズである。しかし、鉄道の駅の周りに新しい街ができればよいのかといえば、モータリゼーションが進んだ状態で郊外型のショッピングセンターができたら、そちらに車の客を取られてしまう。でも、郊外が発達して古い町がさびれ、郊外の店舗まで撤退して完全にゴーストタウンになったという状態は、アメリカなどでもあったハズだ。日本でモータリゼーションが進めば同様の事態が起きることもわかりきっていたハズなのに、日本の地方都市がこうなってしまったのは、誰のせいなのだろうか。
 能代市は、寂れ方としては他所の地方都市と変わらないが、地域住民の参画というところは相当に頑張っていると思う。ただ、いかんせん人が絶対的に少ないのだろう。どういう方向で町を立て直していくのだろうか。五能線の拠点であることと「バスケの町」が売りだろうか。体育嫌いの私としては、バスケには魅力を感じにくいけれども。

 駅前広場に面した場所に商工会議所があり、建物の前に秋田銀行が店舗外ATMの独立小屋[能代駅前]を出している。2013年11月に統合になった能代駅前支店の代替ATMだろう。このATM小屋には、興味をそそられた。風除室が付いているのである。こういう重装備の小屋は初めて見た。
 最初私は、ATM台数の多い店舗外ATMだと思ったのである。りそな銀行でいうと、東青梅支店管内に多数あるような、3台分ほどの大きな小屋を想定していた。ところが、中にATMは1台しかない。普通の店舗外ATM小屋に入るのと同じ感じでドアを開けると、中にもう1枚同じようなドアがある。最初のドアはガチャと音のするドア。施錠することが可能なようで、営業しない時間はロックしているのだろう。そこを入ると、内側にもう1枚ドアがあって、これは単に蝶番が付いているだけのドア。つまり、ATMで取引をする部屋の外は、風除室になっているのである。ATM小屋としては、この風除室の部分さえなければ、普通の1台分の店舗外ATMと同じ大きさの小屋。その入口のところに、同じような体裁のガワが付いている。
 これは、寒冷地だからというより、秋田銀が相当に金をかけている。以前、青森市内でみち銀の店舗外ATM小屋を使ったことがあるが、関東地区と変わらない装備で、もちろん風除室などもなかった。念のため、青森市はかなりの豪雪地帯である。

 駅の建物に入った。現在時刻は11時45分、列車が出るまでまだ1時間近くもある。この時間を秋田で使えればよかったのに。能代から東能代方面へのダイヤは、2時間も間が開くかと思えば、時間によっては20分後に続けて出ることもある。何でこんなダイヤに、と思うけれども、パターンダイヤにもできないのだろう。
 ツイッターでもやりながら時間をつぶそうか。それから、新聞も読まなければならない。売店で日本経済新聞を買った。この駅には、JR東日本の駅内コンビニ「ニューデイズ」ではなく、駅売店の「キオスク」がある。代金はスイカで、と言ったら「すみません、スイカ使えないんです」と言われてしまった。その後、入口横の自動販売機はICカード対応だったから、缶コーヒーはスイカで買った。
 駅入口のドアを入ったところにある改札前の待合室で、椅子に腰掛けて今日の朝刊を読む。改札にはドアが付いていて、さらに待合室の横にある切符売り場も、入口横の売店も、ドアを通って出入りする形になっている。だから、能代駅は駅内どの施設もドア・ドア・ドアで仕切られている。それだけ冷たい空気が吹き抜けるのであろう。
 「ナビタ」の地図がある。地図は2014年1月現在で更新されているが、枠がだいぶサビサビになってきている。能代市の市名は能面の能に代と書いてノシロと読むが、それとは別に「ぬしろ」という地名や屋号が市内に結構存在する。渟代(ぬしろ)は『日本書紀』にも出てくる古名で、米代川にも関係のある地名だという。「渟城」という表記もあり、この場合は「テイジョウ」と読むそうだ。
 ナビタの地図の隣には、《もうチェックした?》というポスターが貼ってあった。最低賃金をアピールする県のポスターである。秋田県の最低賃金は、679円だそうだ【注】。他人様に1時間拘束されて報酬が700円に満たない仕事は、私には到底できそうにない。しかも、それすら守らない企業があるからこうやって告知しているのだ。一瞬絶句してしまった。

 今いる改札前の待合室とは別に、横にもう一つ待合室があって、そちらは暖房をガンガンかけている。8人ぐらいの客が列車を待っているが、たぶん私と同じ東能代行き12:38発。まさか、13:06発の岩館行きを待っているわけではないと思う。改札前の待合室はノー暖房のようだが、私は今さほど寒さを感じないので、隣の待合室には入らない。
 私が暖房のない待合室で寒さをあまり感じない理由は、衣服がそれなりに重装備だからだと思う。Tシャツの上にタートルネックを着て、長袖のシャツはちゃんと第一ボタンまで締めている。靴下は普段履いている3足1000円の安物ではなくて、ボア付きの厚手のものを履いている。モケモケの付いたかさばる靴下を履くと、靴の中でズルズル動くことがないようで、靴ずれの患部に貼った絆創膏がズレずにそのまま貼られた状態で残っている。靴ずれの傷口はいま少々痛みがあるが、塗り薬の効き目が切れたせいだと思う。でも、一昨日みたいに痛さに悩まされることはないので良かった。

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 【注】2015.10.17から695円。
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2016年04月15日

2015.01.16(金)(11)能代支店を制覇

 NTTの鉄塔が前方に見えるあたりで、大間越街道は斜めに右カーブすると同時に、ゆるい下り坂になっている。真っすぐな下り坂にすると、勾配がきつくなるからだろう。地図で見ると、米代川は大館市から能代市までJRの線路(奥羽本線と五能線)に沿うように流れているが、東能代駅と能代駅の間で大きく「ひ」の字形にうねっている。能代駅から大間越街道に向けては上り坂だったし、大間越街道も南から北に向かって標高が下がっているから、河岸段丘になっているのがわかる。
 前方はるか彼方に、コンビニのサンクスが出ている。移転前の秋田銀能代支店は、1898(明治31)年以来、このサンクスの場所にあった。サンクス手前の信号で左に入ると能代郵便局と能代市役所。その1本北の信号近くに、能代のバスターミナルに相当する〔能代バスステーション〕がある。いちおうバスの案内所などがあるようだが、ほとんど「単なるバス停」である。今日はそこまでは行かないけれども。
 下り坂と右カーブが同時に終わった左側に、羽後信用金庫の能代支店がある。建物は1963年11月の築。正面から見るとごく普通の2階建ての信用金庫の支店だが、奥に3階建て部分を建て増しており、ウナギの寝床形のかなり大きな建物である。「羽後信用金庫」の看板だけは新しい。この信金の本店は、遠く離れた県南部の由利本荘市にある。能代支店はもともと能代信用金庫の本店だったが、1995年5月に経営危機に陥り、大曲市(現大仙市)の大曲信用金庫に救済合併されて秋田ふれあい信用金庫となった。さらに2009年7月羽後信金に合併して現在に至っている。羽後信金の店舗網は合併後も本荘や大曲など県南地区が中心で、秋田市には1店舗も持たないため、能代市と南隣の三種町は営業エリアとしては大きく離れた飛び地になっている。
 右側にある武田桔梗屋という和菓子店は、翁飴というものを製造しているらしい。創業文禄元年、と大きく書いてあるから、豊臣秀吉が朝鮮に兵を送った時代の創業ということになる。老舗菓子店の目の前にあるのが〔横町角〕というバスの停留所。本数は結構あるようだし、ほとんどのバスが東能代駅近くまで行く。時刻表を見ると、東能代経由母体行きというバスがあった。〔母体〕とはまた破壊力のある行先である【注1】。新潟県に胎内市というのがあるが、母親に関する単語は地名になりやすいのだろうか。この地域の路線バスは、大館市に本社を置く秋北バスという会社が担っている。白地に黄緑色のくさびの入った車体色は、東京の城北地区やさいたま市周辺を走る国際興業バスと同じ。最近離脱したようだが、秋北バスは昭和30年代から国際興業の系列会社であった。ここまで来ると、小田急バスと親密な秋田中央交通のエリアからは離れてしまっている。

 そして、青森銀行とみちのく銀行が並んでいる。和菓子屋の北隣が、本日初めて遭遇する青森銀行。青銀の能代支店は1929年6月の出店で、もう90年近い歴史がある。その1軒置いて北側が、目指すみちのく銀行の能代支店であった。信用金庫の真向かいである。
 みち銀の支店の裏は、特に駐車場とは書いてないけれども、10台ぐらい停められる駐車場になっている。建物に《落雪あり、頭上注意》という文字が見えるあたりに雪国を感じた。建物はかなり傷んでいるようで、窓に取り付けてある鉄格子の取り付け部分からサビが滴り落ちていたりする。青森県に本店を置くみちのく銀行にとって、秋田県の店は“県外店舗”であるから、簡単に建て替えるわけにもいかないのだろう。建物の老朽化にいよいよ耐えられなくなったら、岩手県の二戸支店のように近所の空きビルに入居するのかもしれない。あるいは、最悪の場合はそのまま店をたたんでしまうのか。そうあって欲しくはないのだけれども。
 窓口室に入ってみた。番号札発行機が2台も置いてあったが、今日のこの街の様子からは少し過剰設備かもしれないと思えた。もっとも、私も冬の午前中に来ているだけで、この店の実情を熟知しているわけではない。客が来るときには押し寄せてくるのかもしれない。
 以前りそなの「めぐ記」で触れたことがある窓口文庫が、ここにもある。2台の書棚に《貸し出しもしておりますのでご利用ください》と表示されている。普通にホームセンターで売っていそうな書棚だが、本は結構ぎっしり入っている。映像化作品とか経済金融とか実用とかのジャンル分けがなされており、芥川龍之介全集のうち1冊だけがあったり、「経済金融」のコーナーには銀行貸し付けの実態とかいった本が置かれていた。みちのく銀行の初代頭取だった唐牛敏世氏の伝記が複数冊あったのが印象的だった【注2】。私はこの本をネットの古本屋で買って読んだが、自分が金を出して買ったのと同じ本が棚に複数冊置かれているのは、複雑なものを感じた。
 キャッシュコーナーに入る。機械の上部にはみち銀の標準的な行灯表示が付いていて、機械2台分の枠に沖電気バンキットが2台入っている。みちのく銀行の生体認証は親指方式で、2台とも親指の読み取り装置が付いている。みち銀はATMに通帳繰越の機能も付けているが、それは右側の機械だけであった。ATMを操作する。11:19、能代支店を制覇した。

 能代支店は、1951年6月に弘前無尽(株)の能代会場として営業を開始した。無尽会社とは相互銀行の前身で、無尽講をなりわいとして営む会社である。「会場」とは、無尽講の抽選を行うためのもの。弘前無尽はこの年、本社のある青森県弘前市に近い秋田県北部の2市3郡【注3】を新たに営業区域としており、能代を含め計5会場【注4】を同時に開設している。複数の相互銀行社史を眺めての印象だが、無尽講の抽選会場というのは単に貸店舗か会議室を借りていただけで、社員が常駐する「拠点」ではなかったと思われる。
 能代会場は、弘前無尽が弘前相互銀行に転換した1951年の翌年、1952年3月に業務取次所に昇格、さらに1953年8月能代支店に昇格した。現在の店舗は1963年12月、向かいの信金とほぼ同じ頃に新築されたもので、それより以前は能代市大町9番地、広告などでは能代市役所の向かいにあったことになっているが、調べてみると市役所よりもう少し西側、現在小料理店となっているところが跡地のようだ。

 次の目標は、大館支店である。秋田県北東端の大館市へは、五能線で東能代へ戻り、そこから再び奥羽本線の人となる。
 能代12:38発なので、時間の余裕は1時間以上ある。今回は東北地区にある銀行の通帳を複数持ってきているから、青森銀と秋田銀・北都銀ぐらいは通帳の記入を済ませておこう。荘内銀が秋田で記帳できなかったのは痛いが、まあ1行ぐらいは仕方がないか。
 みち銀の隣にある青森銀行の能代支店をのぞいてみた。ATMが1台しかないが、能代ではみち銀の方が稼いでいるのだろうか。ちょっと不思議に感じた。というのは、青銀では窓口室の自動ドアをうっかり開けてしまったのだが、そこで「いらっしゃいませ」の声がすぐにかかったからである。みちのく銀行は、他の支店に行っても感じることだが、そういったホスピタリティはやや欠けるきらいがある。

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 【注1】「もたい」と読むようだ。
 【注2】唐牛敏世(かろうじ・びんせい)氏:弘前相互銀行社長、みちのく銀行初代頭取。1879(明治12)年8月15日生、青森県黒石市出身。1903年明治法律学校夜間部中退。1924(大正13)年6月弘前無尽設立、支配人。1925年10月取締役、1926年7月専務取締役、1933年1月代表取締役専務、1940年10月社長。1951年10月弘前相互銀行社長、1976年10月みちのく銀行頭取。1979年1月19日死去。伝記の本は、佐藤正忠『人生太く永く』経済界、1980年。
 【注3】大館市・能代市と山本郡・北秋田郡・鹿角郡。
 【注4】大館・鷹巣・能代・扇田・米内沢。
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2016年04月14日

2015.01.16(金)(10)面白さと意気込みと遊び心と

 東能代から4分ほどの乗車で、能代駅に到着した。列車は県境を越えて青森県の深浦まで行くが、私はここ能代で降りる。
 能代駅も、いわゆる国鉄型の配線だけれども、3番線の側は柵でふさいでおり、ホームは2番線までとしている。3番線の先に広大な鉄道用地が広がっているが、もう使われることはないのだろう。
 1番ホームに降り立つと、私を乗せてきた深浦行きが駅を出ていった。東能代を出た時15人ぐらい乗っていたのに、ほとんどが能代で降りてしまい、さらに先へ行く客は2人ぐらいしかいない。でも、数えていないが、能代駅から10人ぐらいは乗ったようだ。列車が行ってしまうと、能代駅には一気に静寂が漂った。秋田県は「バスケット王国」なのだそうで、とりわけ能代工業高校が強豪として知られているらしい。能代市としてもバスケットボールをベースにした街づくりを1981年から市の事業として行っている。それを反映して、改札の手前にはホームの上屋にバスケのゴールが付けてある。もちろん単なる飾りなのだが、ちょうどぶら下がりたくなる高さで取り付けられている。《ぶら下がらないでください》と書いてあるが、そんなことを書くぐらいなら、わざわざこんなの付けるなよ、と思った。
 能代駅から先へ行く列車は、普通列車が1日7本。それとは別に、観光列車の「リゾートしらかみ」が2本ある。普通列車が7本あるのはローカル線としては意外に多いと思えるが、7本のうち3本は秋田県内の岩館止まりで、青森県側まで直通する列車は1日4本しかない。ただ、ここは観光列車があるだけ、たとえば三江線(広島・島根県)など他の経営深刻なローカル線と比べるとマシな状況のようだ。

 さあ、みち銀の制覇に向かおう。能代駅の西側を走る目抜き通りに出て、北上したところにある。
 駅前広場は、出る列車の本数の割に広いと感じた。使わないところは、例によって除雪した雪が積み上げられている。駅前広場は単に舗装しているだけだと思う。そこに、コンクリの土台をつけたポールを置いてみるとか、あとは除雪の状況などで、何となくうまいことロータリーのようにしている。地面が結構濡れているが、昨日今日で気温が高かったようだから、雪が解けているのだろう。そこに、タクシーが3台ぐらい停まっている。駅前広場の西1/3は芝生と樹木のスペースで、松原をモチーフに松の木を植え、なまはげのモニュメントを置いている。
 駅前広場に面したところは、商店建築ばかりである。広場北側にある店先のシャッターには、某テレビアニメのキャラに似た、赤いジャケットを着た男の絵が描いてあり、そこに《CLOSE》の文字があしらってあった。空き店舗を借りる人がいないのは解っていると見えて、入居者募集中などの掲示すら出ていない。営業している店は、整骨院、食堂が1軒、旅行会社、クリーニング、薬屋ぐらいであった。地元では「バスケの町」を売り込みたいようだが、ご多分にもれず寂しい駅前である。
 駅前の交差点までは、少し上り坂になっている。交差点の名前は文字どおり「駅前」であった。駅前通りは、片側2車線ある目抜き通りと交差している。県道205号富根能代線といい、大間越街道という別名が付いている。この県道がかつての街道筋で、県道から坂を下りた海寄りを国道101号が平行に走っており、市街地の北で県道と合流している。角には大栄百貨店という3階建ての建物が建っているが、今となってはどう見ても百貨店ではない。大きなキヤノンのロゴが付いているが、今はキヤノン製品を扱っているわけではなく、街づくりNPOが借りて、何やら地域住民が何となく集まることのできる場所になっている。角にはほかに個人経営の電器屋と、銀行建築の空き家。夜間金庫の投入口が残った3階建ての茶色い銀行ビルは、2004年11月まで営業していた、秋田ふれあい信用金庫能代駅前支店であった。
 大通りの西側、角から2軒目にある北都銀行は、能代駅前支店である(旧秋田あけぼの銀能代支店)。北都銀の能代支店(旧羽後銀)は、この大通りから横にそれて坂を降りたイオン能代店の中にある。北都銀の向かい側は能代駅前郵便局。郵便局のもう少し北には、つい最近まで秋田銀の能代駅前支店があった。秋田銀は2013年11月に能代市内の店舗網を再編した。坂下のイオンSC北側に大駐車場完備の店舗を新築し、廃止店だけでなく存続店舗となる能代支店も移転している。最近の地方銀行の支店統廃合では、こうした大駐車場を前提の移転を伴うものが典型的である。秋銀能代支店は、これにより預貸金ベースで同行最大の支店となった【注】。

 左右に付いた歩道は、センターラインを引いたらそのまま対面2車線の道路になりそうなほど広い。能代市は戦後に2回の大火を経験しており、そのうち1956年大火の復興プロセスで目抜き通りを30m幅に拡大した。そこに商店建築がズラッと並んでいる。道の西側には棟割長屋が多いようだが、営業している店はほとんどない。美容院と花屋ぐらいだろうか。ただ、クローズした店でも、シャッターにイラストが描いてある店舗が多いところに少し感心した。閉め切ったシャッターのイラストは、遊び心と、シャッターストリートになっても負けないという意気込みが感じられる。なお、商店街がアーケード街ではないのは、2006年に撤去となったためである。
 能代市内は車の通りもほとんどなく、静かなものであった。広い道ゆえ、歩道には「横断禁止」「わたるな」と道路標識が付いているが、この交通量からすれば必要ないと思われる。歩道には、秋田県章を描いた四角いマンホールがあって「融雪」の文字が見える。県道ゆえ県の施設として融雪がある。路面が茶色くないから、これはロードヒーティングだろう。水を撒いているとしたら、新潟県長岡市などに見られるように、パイプの錆の成分が道路の表面に付いて真茶色になるハズだ。おそらく、水を撒く方式の消雪装置では、寒過ぎて凍結してしまうのだと思う。
 店の東半分を屋根つきの専用駐車場とした、渋い感じの喫茶店がある。この「ウィーン」という名曲喫茶は、1977年12月に新築オープンし、毎日10:00から22:30まで営業していたのだったが、廃業して随分経つようだ。その隣の毛糸屋さんは営業しているらしい。県道沿いの商店街は、つぶして駐車場にしてしまった店もなくはないが、基本的には商店建築が残っている。とはいえ、何とか無線とか、海産物とか、薬局といった業種が多くて、肉屋・八百屋・魚屋など毎日の生活で買い出しに行く店はない。そういう機能は坂の下のイオンに取られてしまったのだろう。ただ、教科書販売店になっている町の中心的な書店が営業しているから、だいぶ寂しくなったとはいえ能代市は文化的なことは維持されているようだ。
 「バスケミュージアム」なるもののある柳町入口の交差点は、道が左に斜めに分かれていて、その先は下り坂になっている。今日は行かないけれども、この「たっぺの坂」の下には、左右に雁木みたいな形のアーケード街が続き、その先にイオンのショッキングピンクの大看板が見える。前述のとおり、あのイオンの周辺に地元2行の能代支店が置かれている。現在ではここが能代の旧市街で最も賑わっている道のようだが、現時点では車通りも人通りも、視界に入る「動き」自体がほとんどない。はるか彼方で風力発電のプロペラがゆっくり回っているのが坂の上から見えるぐらいであった。

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 【注】総預金1030億円、総貸出金326億円。なお「同行最大」は本店営業部・県庁支店・東京支店を除く(2013.11.24現在)。
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2016年04月13日

2015.01.16(金)(9)五能線に乗り換えて能代へ

 みち銀秋田県内全店制覇の旅を続けよう。
 鹿渡駅を出ると、山が再び遠景に遠ざかり、水田地帯に戻った。ただ、八郎潟駅あたりのように見渡す限りの水田地帯というわけではない。地形は結構起伏の差があるようで、水田地帯・住宅地・防風林という感じに分かれている。かなり大きなため池が複数目につく。ベッタリと一面みぞれのようなグレーの地面と思えるが、水が溜まったところに雪が積もったのか。あとは小さな山体の繰り返し。ある意味単調な風景である。そこへ、右の車窓にリンゴの果樹園が見えた。リンゴ栽培など行う土地が出始めた、ということはだいぶ気候が寒冷になってきたのだろう。
 森岳駅舎に付いている「森岳温泉郷」の行灯広告には温泉旅館ごとのスペース4軒分あるが、そのうち一つが削ってあるところに悲しさを感じた。ここ森岳はジュンサイといで湯の里だという。ジュンサイは水草の一種で、ヌメッとした独特の食感が特徴である。三種町は日本一の収穫量だそうで、あのため池はジュンサイのためだったようだ。
 国鉄型配線の森岳駅からまた単線になり、水田地帯が続く。田んぼの真ん中に何やら作業用車両が止まっている。赤く塗った民間の作業車両であったが、客土でもやっているのだろうか。相変わらず水田地帯と小さな山の間とを縫って走る状態が続いている。山の部分は利用されておらず、防風林になっているだけ。木が生えてないところには雪が積もっている。北金岡駅も西側は防風林である。このあたり、全く同じパターンの繰り返しで、秋田だけに正直ちょっと飽きた感じがした。なんて戯言をたたいていたら、私が降りる東能代はもう次の駅であった。車窓の風景は基本的には何も変わっていない。山体を縫って走る線路。小さな山と山の間には、平らな土地に水田(とその痕跡)、そしてジュンサイの池だと思うが、所々にみられる農業用ため池のような水面。
 線路が大きく右にカーブを始めた。いよいよ東能代に到達するのだろう。と思ったところで、線路が一瞬だけ複線になるが、そこは信号所であった。単線区間の途中、駅でないところで列車の行き違いをするためのものである。
 1本の高架道路をくぐった途端、右も左も見渡す限りの水田地帯になった。左の車窓のはるか彼方に、百均やカーディーラー、カメラ店をはじめ、ロードサイド型の店舗がまとめてドカンと建っているのが見える。高架道路をもう1本くぐって越えた。自宅での下調べで見た地図の記憶によれば、さっきのロードサイド店舗はこの道沿いにあるようだ。能代市の中心部に向かう道なのだろう。
 そう思っていると、列車は防風林の横をすり抜け、住宅地の脇を通る。寺があるところからして、古い集落なのであろう。左の方から、線路が1本近付いてきた。架線が引いてあるけれども、あれはこの駅から分岐するJR五能線で、架線はたぶんすぐそこまでしかないのと思われる。もう東能代駅の構内ということである。キハ40型ディーゼル車が1両停まっていて、私はたぶんあれに乗ることになるのだと思った。

 私を乗せた奥羽本線の普通列車は、定刻10:45に東能代に到着した。ここで五能線に乗り換え、東能代から1駅だけ、能代駅まで移動する。
 能代市の“玄関”となるのは五能線の能代駅で、奥羽本線は能代市街地の東方にある東能代駅に南から進入し、そのまま青森県を目指して東の方向に離れていってしまう。米代川の河口に広がる能代は、“木都”と呼ばれるほどの木材の産地として、奥羽本線も無視できないほどの重要な町だったが、本線は市街地を遠く離れた東側にしか通せなかった。奥羽線と中心市街地とを結ぶ目的で1908(明治41)年に支線が引かれたのが五能線の始まりで、青森県五所川原市まで通じたのはその後の話である。というわけで、東能代から能代にかけての五能線沿いが、能代の市街地ということになっている。東能代〜能代間は、五能線としては輸送量の多い区間で、1駅だけの区間運転列車が結構頻繁に出ている。
 さて、この駅は結構な重要拠点のハズだけれども、配線は普通の国鉄型で、旅客ホーム自体は3番線までしかない。ただ、3番線の向こうに10線ぐらいのヤードが広がっているし、転車台も機関庫も見える。やはり相当大規模な駅なのである。いま、この3つのホーム全部に列車が停まっている。ついさっき1番線に秋田方面の上り普通列車が入ってきた。2番線は私が乗ってきた大館行き。そして3番線が、目指す五能線である。
 私が乗る列車は、10:54発の深浦行きである。列車はもうホームに入っていた。白地に青線の入ったキハ40型気動車の2両編成。さっき車窓から見かけたのとは別の車両である。発車までまだ10分ぐらいあるが、すでにエンジンをかけてスタンバイしている。運転席にはJRの制服を着た人が3人もいる。研修でもやるのかと思っていたら、結局ワンマン列車は1人だけで乗務するようで、JR社員は1人を除きみんな降りて行った。
 ボックスシートに腰を下ろした。五能線のキハ40は、内装は標準的なクリーム色だが、座席のモケットは張り替えてある。海軍ブルー・紫・カーキ・白緑の4色が点々になっている模様で、全体としては緑色に見える。
 右の車窓、つまり北側には、雪をよけるための柵がダーッと広がっているのが見える。フェンスではなく昔ながらのむしろであるのに風情を感じた。能代だからだろうか。その向こうで何か燃やしているが、あれは一体何だろう。能代は材木の町だから、製材所のガラだろうか。後で調べてみたが、あの煙は工業団地内にある工場から出ているようで、やはり木屑を燃やしているのだと思われる。

 発車間際に女子大生らしき女性が乗り込んできたが、この人もまた美人であった。秋田県全土に美人がいると感じる。今日私が遭遇した女性は、一人ひとり美人だった。人はそれぞれみな美しい、とかいう抽象的な話ではなくて、物理的に一人一人が美人だったのである。私のストライクゾーンが広いだけかもしれないが。10:54、五能線の深浦行きは、定刻に東能代駅を発車した。
 五能線は東能代駅から西の方角に出ているから、今まで来た道を逆の方向に進むことになる。前の車両に自分を入れて11人、後ろの車両に4人を乗せた2両編成の列車は、防風林に沿って進み、右にカーブしていく。奥羽本線の線路が左の方に分かれていった。駅の構内としてしばらく架線が続いているようだったが、すぐに途切れて非電化になった。
 雲が垂れ込めているけれども、隙間から日光が射してきていて、現在のところいい天気である。東能代からの五能線は、基本的には奥羽線で今まで見た車窓風景とあまり変わらないけれども、ここはただ住宅地というわけではなく、工場が結構多い。右を見ていると、製材所というのか、材木の加工工場が目立つ。屋根のてっぺんに排気口を付けた建物には、仕上げた木材がまとめて立てかけてあったりする。それが途切れて、ようやく純住宅地になってきた。左の車窓には、広大な原野か水田が広がり、その彼方に道路沿いのロードサイド型店舗が多少みられる。ローカル線、それも割合に人家が密集している地域の典型的な車窓風景と言えると思う。能代市のあたりまで来ると、そろそろ家の中に暖炉などがあるとみえて、煙突のついた民家が若干見られるようになってきた。廃木材が豊富にあるせいかもしれないが、徐々に北海道に近づいていると感じた。
 市の中心部は民家が建ち並んでいて、崩れかけた家もあったりする。たまに巨大な鉄筋コンクリートの新しい建物があったりすると、老人介護福祉施設だったりする。ご多分にもれず、能代市も高齢化が進んでいるのだろう。能代駅が近づき、列車が減速を始めると、左手に能代市公設小売市場というのが見えた。右手には個人経営らしき賃貸アパートが10棟近く並んでいるが、かなり個性的な風貌をしている。そのうちの一部は、ベージュ色と山吹色みたいな黄色のツートンカラーで、間に黒の線を1本引いた、阪神タイガースみたいな塗り分けであった。違う色の棟もある。ここの地主さんは何を考えてこんなにたくさんアパートを建てたのだろうか、と思った。

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2016年04月12日

2015.01.16(金)(8)橋本五郎文庫のこと

 鯉川・鹿渡両駅の横断幕で知った「橋本五郎文庫」がどんなものであるのか、後日この目で確認してきた。図書館司書資格保持者の私としては、関心を持たないわけにはいかない。2015年もあと10日余りで終わろうという、年末の日曜日のことである。
 橋本五郎文庫は、読売新聞東京本社の特別編集委員をしている橋本五郎氏が、母校である三種町立鯉川小学校の統廃合をきっかけに、自身の蔵書のうち2万冊余りを寄贈し、それを鯉川の地域住民が整理して小学校跡にできた図書館である。閉校2年後の2011年4月に開館し、今年(2016年)に満5周年となった。毎週水・土・日曜日の10:00〜16:00で開館している。
 鯉川駅東側の駅前広場から線路沿いの道を北に進む。緩い坂を下がって上がってまた下がり、五差路を右に曲がってさらに坂を下りたところが、橋本五郎文庫のある旧鯉川小学校である。公称では駅から徒歩15分だが、私の足なら10分強で到達する。
 玄関を入ると、図書館というよりどこかの小学校を訪ねたような空間が広がっている。スリッパに履き替えて一番奥の部屋へ。通常の教室2つ分ぐらいの大部屋に、橋本氏から贈られた2万冊を超える本が並べられている。2万冊という蔵書は、東京23区内でいうと地域分館よりも小さな「まちかど図書室」ぐらいの規模だが、個人の蔵書がベースと考えると途方もなく大規模に感じられる。
 書架は私の鼻の下ぐらいまでと低く、棚の間の通路を結構広めに取っているから、かなり贅沢な空間の使い方である。部屋の一番奥には、「橋本五郎記念文庫」と書いた毛筆が額に入れて飾ってある。これは中曽根康弘元首相が揮毫したもので、玄関脇に掲げられた表札の原本である。中曽根元首相は橋本氏が政治記者として特に懇意にしていたということだが、中曽根氏が表札を揮毫した点で、橋本五郎文庫はJRの青函トンネルと肩を並べたことになる。
 手前の展示コーナーに目を転ずると、「橋本五郎コーナー」という特設展示は、本人の広い交友関係を誇るものになっている。建築家の安藤忠雄氏に関するものが最も大きく取り上げられていた。橋本氏とのツーショットを含めさまざまな安藤氏関係の写真に、A3判の紙に書かれた安藤氏からのメッセージが添えられていた。「橋本文庫いかがですか」と書いてあるから、この文庫は橋本五郎氏本人にとっても思い入れがあり、会う人会う人に語って聞かせていることがわかる。それから、日本テレビの番組『ズームインSuper』に出演していた頃の写真パネル。日テレの男女アナウンサーと一緒に写っている。その他、読売で書評委員を長年やっているから、作家から届いた複数の手紙も展示してある。
 また、「橋本五郎書評展」というものをやっている。橋本氏が書評した本と、その書評記事。本には橋本氏自身により付箋が付き、また赤鉛筆で線が引いてあるが、それがわかる形でページを開いて展示している【注1】。「橋本五郎文庫開設記念特別企画コーナー」とあるから、2011年のオープン時からずっと展示されているのだろう。
 東日本大震災、原発エネルギーに関する本の特別展示コーナーもあった。《この展示本はすべて橋本五郎さんから寄贈されたものです》と但書が付いている。明らかに3.11以後に出たとわかる本ばかりだが、ここに寄付するために買ったわけでもなさそうだ。自分が買って読んだものを送ってきたのではないか。

 さて、他人の蔵書を見るというのは、その人の脳内をのぞき見るような、ある意味背徳的な楽しさがある。橋本氏は、言ってみれば自分の思考プロセスをそっくり公表しているのと同じであり、こういう大胆なことは私には到底できないと思った。
 部屋の一番奥、大勲位氏の揮毫の下を起点に、順不同で見ていくことにした。本の1/3ぐらいは歴史とか文学の本であった。『岩波講座世界歴史』全31巻のような歴史全集がラインナップに上がる中、山川出版社の『詳説日本史』のような教科書や、同じく山川の『秋田県の歴史』もある。『新居町史』があった。静岡県の新居町(現湖西市)である。橋本氏は初任地が浜松だったから、取材上の必要があって買ったのだろうか。
 文学ジャンルでは、世界文学全集、日本文学全集、芥川龍之介全集などがずらりと並び、単行本では著者・渡辺淳一氏のサインが入った『愛の流刑地』上・下(幻冬舎)もある。アイルケは2006年の刊行だから、そんなに古い本ではない。展示コーナーも含め結構新しい本が入っているが、このあたりは自身ではもう読まないのだろうか。あれが読みたい、となった時にわざわざ秋田まで取りに来るわけでもないだろう。なお、橋本氏の読書について「幅の広さ」を感じたのは、フランス書院文庫が棚に入っているのを発見した時だった。館淳一『女教師・露出授業』が1冊あるだけだったが、こういうジャンルの本まで買って持っていたのは凄いと思ったし、寄贈する際にもよく除外しなかったものである。
 NDC(日本十進分類法)で300番台、「社会」の棚を見ると、さすが自分の仕事にかかわるジャーナリズム関係の本が多い。本多勝一『戦場の村』(朝日新聞社)が入っていた。本多氏は左派のジャーナリストであり、橋本氏が左右を問わず多種多彩な本を読んで見識を広げている様子がうかがえる。また、新書本をかなりたくさん買っており、ジャーナリストは関心の幅が広いのだなと思う。橋本氏の考えとして、新聞記者は非常に傲慢な職業であるそうだ。他人が何十年と積み重ねてきたことを、1日か2日取材しただけで批判するからである。その人の数十年を自分の今の数日で追体験するには、普段から徹底的に勉強しておかねばならず、それは本を読んで謙虚に学ぶしかないのだという【注2】。私もかつてジャーナリスト志望だっただけに肯ける言説であるし、橋本氏が言行一致していることもこれでわかる。
 「法律」と書いてある棚は、全集ものを除けば半分ぐらいが憲法関係であった。芦部信喜『憲法』(岩波書店)をはじめ、日本国憲法関係の有名な本は一通り揃っているようだ。読売新聞は1994年に「憲法改正試案」を発表したが、橋本氏はその作成に携わっていた。この改憲案は左右双方の陣営から批判されたため、不測の事態に備えて警察による自宅の警備まで行われたという【注3】。日本国憲法についての考え方には相当に個人差があるが、それを論ずる前提は正しい現実認識と事実認識であって、その根本に読書があることは間違いないのだろう。書架一つ「憲法」という文字で埋め尽くされるほどに文献を読み込んで、橋本氏は改憲案を作成したということである【注4】。
 政治記者だっただけに、憲法関係以外の政治関係の本も相当な比重を占めている。立花隆『田中角栄研究』(講談社)が入っている。牧太郎『中曽根政権1806日』など、行政問題研究所というところが出している「なんとか政権何百日」という種類の本が、終戦直後の芦田政権から始まって竹下・宮沢あたりまでズラッと並んでいる。蔵書の感じからすると、このシリーズの本は最近出ていないか、仕事で使うため新しい号を手元に残しているか、どちらかであろう【注5】。立花隆氏の『田中角栄研究』は私も読んだことがあるが、こういう棚を見ているときに、自分が読んだ本、持っている本が入っていると、親しみを覚えるものである。
 地理分野の本は少なく、ほとんど印象に残らなかった。橋本氏は地理にはあまり関心がなかったようだ。『世界で一番おもしろい地図帳』というコンビニで売っていた本(青春出版社)が目立ったぐらいである。
 藪本雅子『女子アナ失格』(新潮社)があった。日本テレビ関係者の本だが、本人のサインはない。書評委員ゆえ、新しく出た本は献呈されることが多いのだが、といって「必ず」献呈されるわけでもないだろうから、自腹で買ったのではないか。こういった「タレント本」の類も蔵書には含まれているのだが、見たところ読売・日テレ系の著者に限られているようだ。
 なお、蔵書の背表紙に貼られているNDC分類のシールが、下1桁すべて「0」になっていたことは記しておきたい。3桁の数字で構成されるNDCの分類が、上2桁だけで行われたということである。図書館の蔵書整理などしたこともない地域の人たちがゼロから取り組むものとして、3桁での整理はいささか荷が重かったのであろう。苦労がしのばれる。

 2階は、鯉川小学校の卒業文集や卒業アルバムを集めた部屋があるほか、「第二橋本五郎文庫」と称して、有名無名を問わず橋本氏以外の人から寄贈された本を並べている。教室一つを子供向けの本と漫画本とで埋め尽くした部屋や、全集本で埋め尽くした部屋があるが、おおむね、1階は橋本氏、2階はそれ以外、となっているようだ。児童向けの本は、旧鯉川小学校図書室の蔵書であった。図工室だったらしい全集本の部屋には、交通公社の時刻表復刻版があり、また角川書店の『日本地名大辞典』がズラッと並んで、橋本氏の地理分野への関心の薄さを補っていた。これらのほか、発掘した土器の保管に使っている部屋があった。会議室として使われている教室もある。旧小学校は三種町の施設として「みたね鯉川地区交流センター」という名前が付いており、橋本五郎文庫以外の用途で使用しているスペースもあるのであった。
 ある教室のドアに、2階平面図が貼ってあった。これは学校時代のものらしく、「避難コース」というタイトルになっている。平面図の教室の並びは、端から1・2年、4年2組、3年、わくわくルーム、4・5年、なかよしルーム、6年、という順番。1・2年と4・5年が一緒のクラス、4年生だけは2クラスで、しかもそのうち片方だけが複式学級のようである。クラスごとの人数をバランスさせるためこういう構成になったと想像するが、4年生は4年生だけにした方がスムーズではないのだろうか。最後の年には全校で19人しか児童がいなかったというから、学校運営も厳しかったのだろうと思う。鯉川小学校は1983年に新築している。経済効率という点からは、建て替えを検討した1970年代の後半に断念しておいた方が良かったのではないか【注6】、などと考えてしまいがちだが、学校は地域住民の思いが入りやすい施設で、ドラスチックなことはできないようである。

 一通り見終わったところで、スタッフが事務所に招いてお茶を振る舞って下さった。
 利用客は私が帰る寸前になって1人来たけれども、入館した時点では誰もいなかった。普段は来館者にコーヒーを淹れたりしているらしいが、今日はその担当者もいない。なぜかというと、今日はテレビで高校女子駅伝を放送しているからだという。集客力がテレビに負けていると言えなくもないが、まあ図書館は他所から集客するのも難しいし、また本を読む習慣がないとなかなか利用もできないものである。開館して5年が経ち、それなりに落ち着いてしまったのだろう。なお、週3回の開館日のうち比較的人出が多いのは、土曜日だそうである。
 「落ち着いてしまった」とは言うものの、新しい本は結構入ってきている。読売で書評委員をしている橋本氏のところには、本の献呈が現在も大量にあり、定期的にそれをまとめて送ってきているのだという。だから、新しい本が今も増え続けている。そうか、それで3.11以後の本が結構あったのか。
 ところで、橋本五郎文庫はこれから先どうなるのだろうか。現在のところ、担い手は橋本氏の同級生や後輩をはじめ、リタイアした60歳以上の人が多い。今の運営委員会の人がいなくなった後、図書館をどのように運営していくかという後継者問題が控えているように思う。橋本五郎文庫と、それがある鯉川集落とで、目指すものがそれぞれ微妙に違うだろうし、地域の人口動向を考えると、この図書館を「鯉川で」と言った時点で話が詰んでしまうのである。
 純粋に図書館だけを念頭に置いて考えると、今のままでは蔵書が使いづらいと思う。橋本氏の寄贈本とそれ以外の人からの本は、交ぜて提供した方がよいが、館のアイデンティティとして橋本氏からの寄贈本を主体とした形態は維持した方がよいと思う。そのためには、橋本氏からの本はシールを貼る等の形で区別しておくべきだし、さらに橋本氏提供本も開館時の「最初の二万冊」と、その後届いた本とが区別できるようにしたい(データベース上で区別しておくのは無論である)。また、他者寄贈本も同列に扱うためには、こちらもNDCの分類を行って排架しておかなくてはならない。橋本氏寄贈分も、NDC分類が現状上2桁でしかなされていないけれども、再整理して3桁にしておくべきだろう。法律の棚で憲法・民法・刑法が混ざって排架されているのは、あまり美しくないと思う。また、著者からのサイン本については、どの本に誰のサインが記されているのかチェックして、データベースに加えておきたい。さらに、郷土資料の収集も欠かせない。すでに学校文集や教育委員会文集などかなりのストックがあるようだから、新しく収集することを考えるよりも、まずは「今持っているもの」を全てリスト化することが先決だろう。郷土資料だけではない。他者寄贈本はもちろん、橋本氏が寄贈したものでも、雑誌類は単に縛って置いてあるだけのようだ。そのほか、他の地域からの利用を想定するなら、OPACの接続をして県内の図書館ネットワークに参加することも必要だろう。
 こうしてみると、ゆくゆくは町立図書館への移行を目指すのがよいと思われる(本の所有権は三種町が有している)。町立図書館になるのであれば、母体となる橋本五郎文庫は町の中心部である鹿渡に移すことも必要かもしれない。集客、とりわけ他の地区からも来やすいということを考えるならば、見たところJR鹿渡駅の2階がまるまる遊休施設になっているようだから、そちらに移せばよいと思う。
 ただし、それでは「鯉川小学校の廃校を生かす」ことにならなくなってしまうのである。本を提供した橋本氏の希望は鯉川であったわけだし、成立・発展の経緯を考えても、橋本五郎文庫は旧鯉川小に置いたままで運営できるようにしなければならない。
 私の思い付きを述べるならば、橋本五郎文庫を組織として拡張することが必要である。橋本氏から本が寄贈されたことで、鯉川集落は二つの財産を手にした。一つは本そのもの。そしてもう一つは、地域ぐるみで蔵書整理をした経験(と、それによって得られた知識)である。住民の大半がNDCに通じている集落など、全国的にも鯉川ぐらいしか存在しないであろう。これを生かして、橋本五郎文庫は図書館の下請け事業部門を開業できないだろうか。全国各地の自治体から図書館業務を請け負っている企業がいくつかある。そういう企業と提携して、蔵書整理や分類、入力、ラベル貼付、修理などの実務を引き受ける部門が設立できれば、ニーズがあるかもしれない。大都市から遠いという欠点はあるが、実務に通じた地域住民が割安に動員できれば、都市部の図書館からすれば送料負担を上回る節約効果があるだろう。軌道に乗れば鯉川に雇用が発生するかもしれないし、そこまで成功すれば、鯉川は十分そのまま拠点にしていけると思う。
 もちろん、今後のことなどは運営サイドでもさんざん議論しているだろうし、私ごときが思い付きを述べても仕方がない。幼稚園児が多人数で遊びに来るなど、地域の人々の「たまり場」としては確実に機能しているから、本来それが目的だったとすれば、もう十二分に果たされているのである。
 ただ、橋本氏が蔵書を故郷に寄贈したことで起こったムーブメントは、確かにあった。少なくとも、私のような東京都内在住者(しかも秋田県出身ではない)が、鯉川という一無人駅に降り立つことなど、橋本五郎文庫がなければあり得なかっただろう。やはり、こうした動きは大切にしてほしいと思うのである。人生の務めを果たした人たちが、この図書館を使って、本を読み考える習慣を後に続く世代に残してやることができれば、それによって鯉川という集落は半永久的な生命を持つのではないだろうか。

 最後に、現在決定している橋本五郎文庫のイベントを2つ紹介しておこう。(2016年)4月29日(金・祝)、文庫開設5周年の記念会が行われる。橋本五郎氏が出席するほか、女優の浅利香津代さん、衆議院議員の小泉進次郎氏が講演する【注7】。こうした“豪華ゲスト”は、橋本氏のコネクションによる。
 5周年イベントが終了した後には、作文コンクールが行われる。テーマは「母への手紙・父への手紙」。これまでに2回実施してきたが、今回でこのテーマは終了する予定だという。募集期間は(2016年)5月15日〜9月15日(当日消印有効)。

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 【注1】最近では閉じて展示しているようだ。
 【注2】『北羽新報』連載「本に寄せる思い」中の橋本氏インタビューより。北羽新報社編集局報道部編『廃校が図書館になった!』藤原書店、2012年。
 【注3】「国民投票法案成立へ」橋本五郎『範は歴史にあり』藤原書店、2010年。
 【注4】ここではあくまで橋本五郎氏の状況について述べている。為栗個人の政治的スタンスとは一切関係がない。
 【注5】最近は新しい発行がないようだ。
 【注6】旧琴丘町は1980〜83年にかけて、町内にあった3つの小学校(含む鯉川小)をすべて改築している。
 【注7】国政選挙の動向により流動的。

【2016.05.01追記】4月29日、文庫開設5周年記念会が挙行され、当初予定のとおり小泉進次郎氏も出席した(「講演」ではなく3人によるトークショーとなった)。なお、文庫の町立化に向けて三種町との協議も行われている模様。
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2016年04月11日

2015.01.16(金)(7)秋田市を離れさらに北へ

 線路の周辺は使われていない土地らしく、ちょっと雪が深くなった気がした。右も左も林である。林の向こうに民家がぽつぽつと見えるけれども、密集はしていない。林のすき間にはビニールハウスがみられるが、この時期栽培はしていないようだ。人が入らなくて雪もびっしり、という土地が結構増えてきている。産廃処分場みたいなものが見える。林の中にも家が建っているところには建っている。林でなくなると、今度は水田地帯になった。黒い鳥が何羽か、田んぼの中でバタバタと飛んでいる。このあたりは裏作などはなくて、稲を刈り取ったら残りの半年は放っておくのだろう。水田には結構な量の水が入っている。冬のこの時期でも水が抜けないのだと思う。
 住宅が今までと同じような感じで再び密集し始めたところで、列車は減速して停車した。ちょっと民家が立て込み始めたかな、と思うと、たちまちびっしりと密集した感じになり、そうすると駅がある。ここは大久保駅である。同名の駅が東京の中央線や兵庫県明石市の山陽線にもあるが、JRで同じ表記の駅名が3か所もあるのは珍しいのではないか。紙の切符では、この駅は「(奥)大久保」と表記されるのだと思う。この駅でコンテナ列車と交換した。長いコンテナ列車が停まれるほど待避線が長く取ってあるのだろう。右側の駅舎の向こうには、対面2車線黄色センターラインの道路が続き、商店街が何軒かあるのが見える。かつての中心集落の目抜き通りなのだろう。現在では潟上市の一部となっている。
 大久保からは、見渡すかぎりの田んぼと、所々に広がる住宅という景色の中を進んでいく。左の車窓はとにかく広い。彼方に山が見え、裾野で風力発電のプロペラがゆっくり回っているのが小さく見える。あの山は男鹿半島だろうから、その北側は日本海のハズだ。近くに目を転じると、面白いことに、水田の雪での覆われ方が線路の西側と東側とで違っている。西側は地面の見える部分がないほど覆われているのだが、東側は真っ白な面積がさほど広くない。このあたりでは線路の東側に人里があるが、人が暮らすエリアは温度が微妙に高いのだろうか。人家からはかなりの距離があるから、差が出るとは驚きだ。
 羽後飯塚駅を出たあたりから、晴れて日光が差すようになってきた。羽後飯塚は国鉄型配線の駅で、周辺には民間の建売団地みたいな家々と、農業倉庫の古いものが建っている。右に「酒は天下の太平山」の縦型の大型看板が見える。有名な清酒、太平山の釜元がここにある。そこから割合すぐ「井川さくら」という人名みたいな名前の駅。いかにも地方の新駅といった感じで、ホームなども最近の基準でガッチリしたものが整備されている。駅前には公園が整備されて新興住宅地になっている。1995年12月開設と新しい駅だが、快速停車駅になるなど健闘しているようだ。秋田銀行のATM小屋が、駅前駐車場の片隅に建っているのが見えた。
 新興住宅地が切れたら、古い住宅地。中には崩壊した家もある。崩壊した家が建っているのではなく、建っていた家が崩壊している。やがて鉄橋を渡る。結構大きな川と感じたが、後日調べたところ馬場目川といって、あまり大規模な川ではなかった。線路が再び複線になっている。2両編成の秋田行き普通列車とすれ違った。

 すっかりいい天気になってきた。これまでのところ、広がる水田地帯を爆走し、そこに住宅が集まり始めたら駅に到着、というパターンの繰り返しである。八郎潟駅に停車。基本的には旧農村部の古い住宅地で、左には大きな農業用倉庫が見えるし、風雪に耐えた黒い羽目板が張られた昔ながらの木造家屋から、そこそこ新しそうな家まで揃っている。新しいといってもせいぜい20年前までぐらいだろうか。ここは一日市(ひといち)という古い町の中心駅で、現在も八郎潟町の中心である。平成の大合併で大きく変化した秋田県だが、八郎潟町は例外的に再編に参加していない。有名な大潟村の最寄り駅であり、またかつてこの駅から五城目町とをつなぐ短い鉄道路線(秋田中央交通軌道線)が出ていたから、現在でも五城目行きバスの玄関口となっている。八郎潟町は小なりと言えど中心地としての矜持があって合併しないのかもしれない。なお、市バスを一括で譲り受けるなど秋田市周辺の路線バスを一手に担っている秋田中央交通は、五城目軌道がそもそもの祖業であった【注1】。
 このあたりから雪が若干深くなってきたようで、県北に近づきつつあるのがわかる。ホームの端に積み上げてある除雪された雪の高さが、少し増してきた。この調子で能代から大館に向かって内陸部へ入っていくと、雪がすごい状態になっているのだろうか。少し心配になってきた。
 八郎潟駅からまた単線に戻った。複線と単線が目まぐるしく入れ替わる。駅周辺の集落が途切れると、見渡すかぎりの田んぼに、びっしり見渡すかぎりの雪。ここまで来ると秋田市周辺とは景色が違う。一方で地形が険しくなってきて、低いけれども山が左右から迫ってきた。ちょうどこのあたりで、八郎潟町を出て三種町に入る。南秋田郡が終わって山本郡に入り、能代市の文化圏に突入したということである。少し上り坂になってきた。山の裾野に採石場が見える。山と山の間を走っている感じになったけれども、左の車窓を見ると、線路よりも低いところには相変わらず水田地帯が広がっているようだ。

 次の鯉川駅は山間部の駅といった風情であり、本格的な無人駅であった。車内放送の内容がこれまでとは変わり、この駅で降りる場合は、運賃や切符は運転手の後ろの運賃箱に入れろと言っている。駅に停車すると、女性の声で《先頭車両のうしろ側のドアボタンを押してご乗車になり、整理券をお取り下さい。》と車内に放送された。車内だけでなく車外スピーカーでも流れているのだろう。左側車窓からは防風林の向こうにストンと落ちた地形が見える。あのあたりに水田が広がっているようだから、線路は高いところまで上がってきている。
 鯉川駅は、駅舎の横に「ようこそ『橋本五郎文庫』へ 橋本五郎のふるさと 三種町鯉川」と大書してあった。橋本五郎って誰だろう、と思った。読売新聞の有名な記者にそんな名前の人がいた気がしたが、同姓同名の知られざる有名人がいるのだろうか。そんなことを思いつつ、駅の北側で少し下り坂を感じた。左側の山が途切れ、そしてまた山が迫ってきた。小さな山が散在していて、線路はそのすき間を縫うように走っている。右側の山のふもとでは無理に田んぼを開いて農業しているところもあるようだ。左の車窓にはJAのカントリーエレベーターが見える。日本最大の干拓地、八郎潟に近いこの地域も、手広く米を栽培しているのだろう。なお、鯉川駅の北側で北緯40度の線を越えているハズである。
 鯉川の次は鹿渡(かど)。駅の手前に、ドラッグストアのようなロードサイド型の店舗が見えたりする。上飯島のあたりでも見たが、このあたりはツルハドラッグの店舗が多いようだ。ロードサイド店は、都市型の生活ができるほどにそこそこ人口の多い町という証拠。鹿渡は、合併で三種町を成立させた3町のうちの一つ、旧琴丘町の中心集落である。とにかく、建物が視界にちょっと入るようになったら町である。荒れ地と防風林を抜けつつ、線路際まで家が迫ってきたら、駅がある。住宅地が線路からやや離れた所にできるのは不思議な気もするが、田舎だからといって鉄道線路が人家を無視して敷設されるわけではないのは当然である。
 鹿渡駅の駅舎には「青春館」と書いてあり、鯉川駅と全く同じ横断幕を出している。駅舎の「青春館」の文字の下で駅員が切符を回収しているのが見えた。多分あそこが駅の出入口で、待合室は“橋本五郎記念館”のようになっており、何か氏にまつわる展示でもしているのだろう【注2】。この時点で私は、橋本五郎氏のことを、『檸檬』を書いて早世した梶井基次郎のような作家であると思い込んでいた。私は文学には詳しくないが、その人の名を冠した「文庫」があるのだから作家、少なくとも本に関係した人だろうし、若くして死んだ人なら「青春」という言葉はとりわけ重要なキーワードとなり得る。
 後で調べて驚いたのだが、この橋本五郎なる人物は、前述した読売新聞のスター記者その人なのであった【注3】。会社員としては定年になっているから特別編集委員という肩書で、現在でも読売に定期的にコラムを執筆している。かつて和歌山県南部を旅したとき、秋田県出身の著名なプロ野球選手・監督、落合博満氏の記念館というものに遭遇したことがある。秋田県人は著名な人を生前から顕彰するのが好きなのだろうか。しかし、プロ野球選手だった落合氏は「国民に夢を売る」仕事だったわけだが、新聞社の編集委員というのは役員級とはいえ新聞記者だから、その意味では地味な肩書である。文章が並外れて立つ人なのだろうが、こういう顕彰のされ方は面白いと思った【注4】。

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 【注1】秋田中央交通の社長を何代にもわたって輩出している渡辺家は、代々五城目町発展の礎を築いてきた家系で、現社長渡辺靖彦氏の祖父は五城目軌道(株)(現秋田中央交通)の創始者であった。
 【注2】描写はこの時点での想像である。鹿渡駅の「青春館」(正式名称は「楽しく集う青春館」)と橋本五郎氏とは関係がない。
 【注3】橋本五郎(はしもと・ごろう)氏:読売新聞東京本社特別編集委員。1946年12月29日生、秋田県山本郡鹿渡町(現三種町)出身、1970年慶応義塾大学法学部政治学科卒、読売新聞社入社。浜松支局・本社社会部・政治部・論説委員・政治部長・編集局次長を経て、2001年編集委員、2006年特別編集委員(現職)。1999年から日本テレビキャスターで、『情報ライブミヤネ屋』(読売テレビ)、『五郎が斬る!』(秋田放送テレビ)などに出演中。
 【注4】この時点での想像である。
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2016年04月10日

2015.01.16(金)(6)大館行きワンマン列車

 さあ、それではいよいよ改札を通ることにする。
 秋田駅は天井補強工事の真っ最中で、改札の前には大規模にやぐらが組んであった。この駅は一丁前に自動改札が入っている。いや、今は自動改札など地方都市でも珍しくはない。奥の跨線橋につながる自動改札を通ると、跨線橋の右端に秋田新幹線の改札内改札があって、そこを左に曲がったところが橋の部分である。ホーム番号を示すLED行灯が、どういうわけか1347856という順で並んでいた。この滅茶苦茶な並び方は一体何なのだろうか。後で判明したが、このややこしい構造は、東端にある7・8番ホームの南半分を新幹線用の11・12番ホームにしたためで、3・4番ホームと5・6番ホームの階段の間に7・8番ホームへの連絡通路が割り込んでいるためであった。なお、2番ホームは階段より南の位置にあるから、ここには表示がない。
 大館行き09:48発は、5番線である。新幹線改札前の階段をスッと降りると、そこにもう電車が停まっていた。ステンレスの車体に、赤紫色のラインが引いてある。「走ルンです」の異名を持つ、701系電車の2両編成。寒冷地ゆえ、乗降ドアの開閉は押しボタンになっていて、時折ピンポン、ピンポンと高い音のアラームが鳴っている。かつて首都圏の人間は、ローカル線で列車のドアを押しボタンで開閉するのを馬鹿にしていたところがあるけれども、東日本大震災以後、節電のためと称して青梅線などいくつかの線では全部押しボタン式になったから、震災を機に首都圏が地方に近づいた部分があったように思う。私は幼少期から八高線の気動車で馴染んでいたから、ドアの押しボタンに違和感は全然なかったけれども。

 男性の声で、肉声の車内放送が流れた。ワンマンカーということは運転手が喋っているのだろうか。いよいよ発車のようである。《お待たせいたしました、奥羽線下り、追分・大久保・八郎潟・森岳・東能代・二ツ井・鷹ノ巣方面、大館行きのワンマンカーです。間もなく発車をいたします。》ホームには発車メロディーが流れ始めた。東京・山手線の目黒駅と同じ、パンパカパンパン、というどことなくユーモラスなメロディである。次いで、男声の録音放送が流れる。《間もなく5番線から、普通電車大館行きが発車します。閉まるドアにご注意ください。》北に向かう普通列車は、汽笛一発VVVFの音とともに、私を乗せて定刻に動き始めた。
 秋田駅の東側は、駅前であっても空き地が結構目立つ。少し走って列車のスピードが上がってきたあたりは普通の住宅地だが、建物は新旧入り交じっており、サブリースアパートなどもみられる。密閉性が高く、どことなく北国っぽい風景である。首都圏と雰囲気が違うように感じるのは、出窓が少なく平面的で、窓の大きさが小さいというのが特徴のようだ。あとは窓のサッシが若干ゴツいのだろうか。でも、寒い土地に突入したという感じは薄い。海沿いであるせいか。すぐ旭川の鉄橋を渡ると、線路が大きく左にカーブした。男鹿線から来た上り列車とすれ違う。基本的には住宅地が続いているが、建物の密度が少し粗くなってきた。このあたりまで来ると、使ってない土地が増えてくるようだ。それは、雪が見える面積が増えてきたことでわかる。使わない部分は除雪をしないからだ。ただ、JRの敷地内で草が生えているところには、草自体の生命力で雪を解かしている個所もあった。機関庫というのか、機関車の車庫みたいな建物が見えた。長い間使われていないようで、雪に覆われている【注1】。
 ワンマン列車だけれども、運転席には運転手のほかにもう一人いる。黄色いヘルメットをかぶった中年男性が、中央通路の窓際に立って前を見ている。保安上の理由だろうか。でも、今空はどんよりと曇っているが、すき間から青空がのぞいているから、雲さえどいてくれればきれいに晴れると思う。線路と線路の間などにはところどころに雪が残っているが、雪がいっぱいという感じはない。乗客の数は、最終的には前の車両に35人ぐらい、後ろの車両に30人弱となった。ワンマン電車なので、途中の無人駅で降りる人は前の車両に乗っているのだろう。
 防雪フェンスというのか、地吹雪を抑えるためのフェンスが、分岐器とか踏切の横など線路に近いところにあるのが、雪国らしい景色である。踏切ごとに、そして線路の要所要所に、高さ2mぐらいだろうか、公園などに付いているフェンスと同様の枠を3段ぐらい重ね、そこに非常に細かい網を張ったグレーのフェンスが付いている。

 右に見える秋田総合車両センターでは、在来線特急で使っていた485系電車が多数さらされていた。近々解体されるのではないか。そういうものが見えたところで、最初の駅、土崎に停車。土崎駅にも自動改札が導入されている。右側の車窓からイオン系のスーパー、マックスバリュが見えたりしていて【注2】、秋田市郊外の中心地である。土崎で10人ぐらい降りたと思うが、代わりに同じくらい乗ってきたので少しびっくりした。
 土崎駅を出ると、住宅地だがだいぶ空き地が増えてきた。線路の西側を国道7号線が通っているので、左の窓からはちょっと離れたところにドラッグストアや百均、パチンコ屋などロードサイド型の店舗が見える。国道が線路に近づいてきたと思ったら、2つ目の上飯島駅。わりと新しそうに見える無人駅である。1980年代後半、JRは地方都市近郊に無人ないし駅員の少ない駅を積極的に増設したから、この駅もそうなのだろう。ホームの配置が東急世田谷線上町駅のような千鳥配置になっていて、上りホームには、無人駅の整理券発行機なのか券売機なのか分からないが、ガラス張りの小屋がある。ホームに停車しても、列車のドアは開かなかった。この駅は無人駅なので、前の車両しかドアが開かない。それも、ドアボタンを押さないと開かないから、乗降客がいない限りドアが開かない状態が続く。
 このあたりは、最近になって住宅地が拡がってきたエリアなのだと思われた。住宅の並びがパッと途切れると、ビニールハウスが並んでいる。山というか丘の斜面、微高地に隠れるような場所で何やら栽培しているのだ。微高地そのものは林のまま放置されている。右の車窓は水田(休耕地を含む)が一気に広がる風景になり、左の車窓も住宅の密度が少しまばらになった。住宅は新しくなってきたが、国道沿いにかなり見える店舗は、昔ながらのドライブインとか、古い感じのものが比較的多い。
 追分駅まで来ると、秋田の都市圏をほぼ脱してしまったようで、駅前でも建物が密集している感じはなくなってくる。「追分」の名前にふさわしく、この駅で、海沿いの男鹿市に向かう男鹿線が分岐している。結構な数の客が降りた。若い男女の比率が高かったから、大学でもあるのだろうか【注3】。駅の構内、昔は線路が敷いてあったであろう場所には、追分鉄道設備技能教習所と称するプレハブが建っていた。
 追分駅を出ると、我が奥羽本線の列車は、複線のように2本並んだ線路の右側を走っている。もう駅の中で男鹿線と別れ、並走する奥羽線も単線になっているのだろう。線路際には太陽光発電のパネルがズラッと並び、それが踏切道で途切れると、北側には松の防風林が広がっている。ここで男鹿線が左の方に分かれていき、奥羽線も完全なる単線となった。この先、鉄道との乗換駅は、私が降りる東能代までない。
 追分駅を出るとともに、秋田市も出てしまった。駅のすぐ外側は、もう潟上市という別の市である。いわゆる平成の大合併で3町が合併して発足した市。秋田県はこの時期かなりの勢いで合併が進んだ県である。

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 【注1】その後太陽光発電所になった。
 【注2】マックスバリュ東北(株)の本社。事務所のみで店舗はないようだ。
 【注3】秋田県立大学が駅の南西にある。
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2016年04月09日

2015.01.16(金)(5)秋田駅へ急ぐ

 秋田支店の制覇は、もっと早めに着手してもよかったかも知れない。列車に間に合うかどうか、少し心配になってきた。ここから秋田駅までは何度か歩いたことがあるが、徒歩で行くには若干遠い。幸いここは山王大通りを東進するバスが集中しているから、乗ってしまおう。
 竿灯大通りを突っ切って、〔交通公社前〕の停留所へ。一番早く来たバスは、秋田中央交通の[341]南団地・秋田駅東口行きであった。秋田中央交通のバスは、おおまかには上半分がベージュ、下半分が緑のツートンカラーだが、たまに窓から上が(ベージュではなく)真っ白な車がある。今乗っているバスは、車種などはわからないが中型車で、車体の上半分は白かった。この配色は、旧型の一部の車に限られるようだから、まあ旧型のバスに乗っているのであろう。アナウンスの声が小田急バスと同じなのは、昨夜のリムジンバスと同様である。
 前述したとおり、秋田駅は竿灯大通りの延長線上にあって、西から来た大通りは旭川を渡った「二丁目橋」の交差点で終わる。突き当たりの先、みずほ銀秋田支店や、協働社広小路本店跡地のタワーマンションがある土地は、火災のため1959年に郊外移転した県庁の跡地である。大通りと秋田駅との間は、並行する2本の一方通行道路で結ばれている。北側の西行き一方通行道を広小路といい、かつては秋田を代表する商店街。1965年までこの道を秋田市電が単線で走っていた。南側が東行きの一方通行で、中央通りという。
 さて、竿灯大通りを東に進んできたバスは、みずほ銀行前の突き当たりを右に曲がり、すぐ北都銀本店の前で左折、中央通りを経由して秋田駅に向かう【注1】。要はクランクということである。城下町のような風情。ようなというか、佐竹藩20万石の城下町そのものであるが。ともあれそれが、秋田という街の個性ではあると思う。まっすぐ行けば駅だからといって、駅前まで区画整理してドカンと大通りをつなげ、それで没個性な街になって失敗するというのは、ありがちなパターンであるから、秋田は街の個性という点からすると賢明だったと言えるのではないだろうか。
 北都銀本店前から中央通りを東にまっすぐ来た私は、岩手銀と七十七銀があるのを車窓から確認。バスは駅に向かう途中の〔買物広場〕で一旦ロータリーに乗り入れた後、再び通りに出て駅に向かう。駅の手前で左に曲がってバスターミナルに進入。さあ、秋田駅到着である。バスで来るとあっという間だが、歩いたら15分ぐらいかかっていただろう。

 よし降りるぞ、と身構えたが、焦ってしまった。乗客の半分ぐらい、座席に腰を下ろしたまま悠然と構えているのである。そうか、〔秋田駅東口〕行きのバスだから、まだ終点ではないのか。この駅前広場は西口だそうである。なお、運賃は170円であった。
 バスを降りてみると、秋田杉を使った木造のバスホームの上屋が白木で上品であった。複数並んだバスのホームは、駅との間を横断歩道で結んでいて、ちょっと遠回りにはなるけれども、最近流行のバリアフリーにはなっている。多数行き交う秋田中央交通のバスは、錆び付いてボロボロになった車体がほとんどであった。排気ガスも豪快で、白煙を振りまきながら走っている感じである。雪国で酷使することと、気温が低いこと、そしてバス自体が古いせいもあるのだろう。当地では、1990年代初期に製造された「キュービック」(いすゞ自動車)のような古いバスがいまだに現役である。駅前ロータリーの周囲を見回すと、緑色の古いビルが見える。40年前ぐらいに建てられた5階建てと見える商業ビルで、見た目のとおり緑屋という。昔は家具店だったようだが、今となっては本来の目的では使われていないようだ。それから、ロフトとフォーラス。ロフトは旧イトーヨーカドー、フォーラスはイオングループが経営する専門店ビルで旧ジャスコである。駅ビルはトピコというようだ。駅の東側にはアルベという黒いビルも見える。
 駅前商店街の大規模なアーケードにつなげる形で、ガラス張りの大橋上駅舎ができている。秋田新幹線ができる時に整備されたもの。1997年のことであるから、もうずいぶん昔の話である。駅西側の商店街から続いてくる歩道橋のような通路にエスカレーターで上がると、たぶん大都市以外では珍しいと思うが、30度ぐらいの傾きを付けた“登らないエスカレーター”が付いていた。半階分、踊り場に上がるぐらいの高さをムービングウォークで移動すると、ここでようやく駅の施設に到達する。高さが違うのは、金の出所(整備主体)が違うのだろうか(調べてはいないが)。
 JRのエリアに入ってようやく、みどりの窓口とか「びゅうプラザ」「ニューデイズ」など、JR東日本管内の主要駅でおなじみの施設があって、少しホッとした。

 私が乗るのは、奥羽本線の普通列車大館行き、09:48発。発車まであと20分、切符を買わなくてはならない。
 みどりの窓口に入ると、普通の暖房だけでは足りないようで、窓口室内では大きな石油ストーブが2台も稼働していた。部屋の中に、窓口と自動券売機がある。クレジットカードが使える紫色の長距離用券売機だが、操作するのが面倒臭くなって、切符は窓口で買ってしまった。買ったのは、秋田→能代、能代→大館というありふれた2枚の乗車券であった。
 JRの乗車券を買う際、距離によっては分割して買ったほうが安くなる場合がある。事前に調べておけばよかったのだが、発券が済んでからつい思い付きで、大館まで通しで買って能代〜東能代は別に往復券を買う形にした方が安いか【注2】、等を男性の駅員に尋ねてしまった。いい駅員さんで、嫌な顔一つせず端末を操作して調べてくれ、結局は当初のとおりに買った方が安いという結論になった。私は彼と同い年ぐらいだと思うが、他人への配慮がまるでできない自分に、情けなさを感じた。
 買った切符を手にコンコースに出ると、大学入試センター試験の告知があった。秋田大学試験場の案内で、徒歩の方は東口へ、バスの方は西口へ、という看板が出ている。今年(2015年)のセンター試験は、1月17・18日、つまり明日と明後日の土日に実施される。秋田大学は秋田駅の北東1kmほどのところにある。
 コンコースには、秋田弁の歌が流れていた。民謡ではなさそうで、リズミカルだし最近つくられた歌だと思う。女性の歌声は「雨いいな」という歌詞をノリノリで繰り返している。地元では有名な歌なのだろうが、このところ遠征に出るたびに悪天候にたたられている私としては、「雨いいな」という歌詞を聞いても「ちっとも良かねえよ」という感想しか持てなかった。当ブログでおなじみaikoの歌に『桜の時』という作品があって、降雨で不機嫌になっていると彼が雨上がりの虹を教えてくれた、という内容の歌詞を持つ。「雨いいな」の歌は、それと同じ感じで、自然の恵みを讃えているのであろう【注3】。

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 【注1】逆コースは、秋田駅から広小路を西進し、協働社のあった角で左折して二丁目橋交差点にやって来る。
 【注2】乗車券は次の形で分割すると最も安くなる。
   秋田(1140)能代  → 秋田(410)井川さくら(240)鹿渡(410)能代、3枚計1060(差80)。
   能代(970)大館  → 能代(240)富根(320)鷹ノ巣(320)大館、3枚計880(差90)。
 【注3】本文に記述した解釈は、この時点での想像に基づく。曲は『あんべいいな』(作詞・作曲・歌:青谷明日香)といい、秋田県の公式イメージソング。「あんべ」は塩梅の意。
posted by 為栗 裕雅 at 18:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 銀行めぐ2015冬 みちのく銀秋田県全店制覇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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