2017年04月15日

2014.07.18(金)(11)桃栗三年柿八年?

 次の制覇目標は[海津市役所南濃庁舎]。合併して海津市になる前の南濃町役場である。ささやかな記憶によれば、南濃庁舎へはいま来た道を戻り、駅前通りを越えてさらに少しだけ西に歩く。そこで左に向きを変えて踏切を渡った先のハズであった。
 実は、今の時点ですでに一つ、大きなミスに気が付いている。紙にコピーした地図を昨日のうちに用意しておこうと思って、すっかり忘れていたのだった。というわけで、今日はこれから、プランニングの際にウェブサイトで地図を確認した時の記憶だけで行動する。地図無しで回るのは結構キツいと思うが、仕方がない。いちおうスマートフォンの地図検索が使えるけれども、今日は夜まで充電ができないから、できる限り温存したい。実は、そう思ったことが後でとんでもない事態を招くのであるが、この時点ではそれは知る由もなかった。
 さて、出張所前の道を西に向かって歩く。養老線は駒野あたりでは東西に走っており、出張所前の道は線路に平行に東から西へ続いている。結構だらだら続く上り坂である。さっき書かなかったが、駅前通りの角から駒野出張所までは、ゆるい下り坂だった。出張所と駅前通りとの標高差は、5mぐらいあるだろうか。予想外に地形の起伏がありそうで、この後の行程が思いやられる。
 駅前通りを越えると、未知の道に入る。駒野の商店街は古い住宅地の中にところどころ商店があるという感じだが、個人経営の大きな食料品店が健在だし、商店の割合が高いので、まだ機能が維持されている方だと考え直した。生活のにおいも、石津の南濃支店近辺より強く感じられると思う。角から2軒目では、古い商店建築をきれいに再生した和菓子屋さんが営業している。喫茶店のように中でお茶が飲めるようだ。商店街は、こういう店が1軒でもあるかで相当違う。
 ともあれ、通勤時間帯の終わったこの時間は、人の動きが見事なまでに止まっており、車が何台か行き交うのみであった。自家用車と、何とかケアセンターと書いてあるワンボックス車。こうした福祉関係の車は、時間的にはむしろこれから大活躍するのであろう。

 集落をずっと歩いてくると、農協があった。西美濃農協(JAにしみの)の南濃支店。この角の奥に踏切があって、それを抜けた先が南濃庁舎だったハズである。というわけで左折した。農協の横は、大型トラック1台通ったら離合ができなくなるぐらいの道幅で、すぐ美濃津屋第17号という踏切に差しかかる。踏切の部分だけさらに細くなっており、トラックがようやく1台通れるくらいの道幅になった。架線の高さを考えると、この踏切を大型トラックで越えるのは無理だと思う。
 踏切を渡ると、そこから結構な上り坂になった。角度は20度ぐらいだろうか、どこかの山のふもとで登山道にアプローチする上り坂のような感じである。コンクリの塊を積み上げた石垣の上では栗の栽培をしているようだ。栗林の上方には変電所が見える。その先、トタンがサビサビになった倉庫の前には、トラックが1台エンジンをかけた状態で停まっていた。そろそろ生活が動きはじめる時間なのだろうが、時の流れは昭和50年代あたりで止まっていると思えた。別の倉庫の片隅には、軽ワンボックス車のサビサビになった廃車体が置いてある。古いダイハツハイゼットだが、レストアして乗り回すような人はいないのだろうか。
 さっき左側に栗があったと思ったら、こんどは右側に柿の木がたくさん植わった土地がある。桃栗三年柿八年というが、この近所に桃の木はなさそうである。前に少し述べたが、扇状地の土地利用としては桑畑から果樹園に転換したところが多いハズだから、ここも恐らくそうなのだろう。柿の木は結構古いようだが、地面には下草が茂り、幹にはツル性の植物が這っていて、あまり手入れされていないように見える。かつて柿の栽培をしていてやめたものの、その後も木を伐採していないから実だけは毎年生(な)るのだろうか。果樹園の向かいは草ぼうぼうの休耕田であった。ここは田舎だけれども、その象徴である畑は、人の手が入らなくなってすでにずいぶん経ち、半分荒廃してきているようだ。勤め人が案外多いのだろう。
 小さな神社があって、上り坂は鳥居の前あたりから緩やかな左カーブを描いている。カーブの先に、見えた。大垣共立銀行の緑の看板。坂道を上がりきったところに信号があって、その横である。あそこが旧町役場の交差点なのだと思われる。

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2017年04月14日

2014.07.18(金)(10)駒野出張所を制覇

 いまから行くのは、本日2店目の有人店舗、南濃支店駒野出張所である。駅前通り最初の交差点を右に曲がった奥にあるハズだ。
 駅前の道路は、センターラインを引いていないけれども、車の離合はできる程度の道幅である。駅から北に向かって若干の下り坂になっているのが、少し気がかりであった。地形の起伏が結構あるようだと、自転車を使った今日の計画は、途中で考え直す必要が出るかも知れない。
 商業としては、駅前にタクシー会社と喫茶店が1軒ずつ。タクシー屋さんは、昭和40年代の築とおぼしきコンクリート建築の母屋で、前面に深い丸屋根を付けている。それから、公文式の教室が1軒あった。古い商店建築で、昭和初期の竣工だろうか。羽目板の部分にトタンを張って補強してあり、道路に面した部分は公文式の水色の看板に合わせて水色のペンキで塗りつぶしている。「緊急のお知らせ」という掲示が目についた。公文式は塾の開塾日程があらかじめ決まっているらしく、それが急に変更になったとかで張り出しているのだが、その理由として「遠方の教室見学がキャンセルになった」と書いてあった。教室見学というのは講師のためのものだと思うが、決められた授業を休講にするのは生徒に迷惑をかけないのだろうか。もっとも、講師が信頼を集めていれば「しょうがねえな先生」と生徒の側が苦笑するだけで済んでしまう、ということはあり得る。
 とにかく、かつては商店街だったらしいが、いまとなっては機能していなさげな町並みが続いている。昔はこの商店街で買い回りができたのかも知れないが、最近では車で街道沿いのスーパーに行ってしまうのだろう。

 最初の交差点の角は、土蔵建築と同じくらい古い木造の商店建築で、薬屋。右奥にあるのは、品揃えの豊富そうな酒屋であった。そして、四つ角からもう大垣共立銀行の緑の看板が見えている。あれが、ここ駒野での最初の制覇目標である。
 駒野出張所は、さっきの南濃支店とは違い、集落のど真ん中にある感じがする。銀行の営業店としては、集落内を完全掌握できる半面、街道沿いに広く集客するわけにはいかないから、いまの時代には出張所なのだろう。大垣共立銀行の駒野における歴史を調べてみると、店としては七十六銀行時代からあったものの、戦後にいったん統合している。統合は都市部に店を出す際に支店の数を調整するため閉店せざるを得なかったということで、残念ながらそうした配置転換の“弾”に選ばれてしまう程度の業績だったわけである。ただし、後に復活したというところが、この地域の重要性だろう。
 というわけで、駒野出張所に到着した。建物は南濃支店と同じ頃に建てられたようだが、こちらは平屋建てであるから、比べるとずいぶんコンパクトにまとまっている。正面の自動ドアを入ると、店内は9時の開店を前に掃除の真っ最中であった。掃除のおばちゃんが、ATMコーナーの横のドアを開けたまま現金封筒の補充をしている。男性の行員は店のまわりのゴミ拾いをしている。まだ8時半にもなっていないのだが、銀行は意外に朝が早い。
 キャッシュコーナーはATMが2台。機械配置は南濃支店と一緒だが、2台分の枠しかなかった南濃支店とは異なり、ここはキャッシュコーナーの機械枠が3台分ある。一番左の枠は使われていない。ATMの機種はここまでと同じ富士通のFV20。2台あるうち向かって右側の1台のみ「手のひら認証」対応のATM、というのは大共のいまの標準なのだろうか。店先のガラスには、岐阜県指定代理金融機関、海津市指定金融機関、と金文字で書いてあった。来年(2015年)4月から、大垣共立銀行は十六銀行に代わって岐阜県の指定金融機関となる。
 南濃支店から駒野出張所に来る間に8時を回ったので、ATMの入金はもとより出金も無料になった。制覇作業としての預金取引は、ここから、いつもと同じように入金と出金を1サイクルとして行う。08:23、駒野出張所を制覇した。

 南濃支店駒野出張所は、1981年11月に現在地に開設された。2015年2月2日、海津市内のほかの店舗と同様代理店化され、駒野代理店に変更されている。
 大共の当地への出店は、これが初めてではない。もともと駒野には駒野支店があった。七十六銀行駒野支店として1916(大正5)年7月に開設されたもの。当時の所在地は海津郡城山村大字駒野674番地で、今日制覇したのと同じ場所である。七十六銀行は1928年5月に大垣共立銀行に合併し、これに伴い駒野支店も大共の支店となった。1936年2月に高須支店駒野出張所となり、1950年10月再び駒野支店になったが、1953年11月に廃止された。廃止は配置転換のためで、駒野支店を閉めた大共は翌月代わりに名古屋支店【注】を開設している。

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 【注】大共の名古屋支店は北区大曽根にあったが、名古屋市中心部の中区栄三丁目に名古屋支店を新規出店した。旧名古屋支店は大曽根支店に改称された。
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2017年04月13日

2014.07.18(金)(9)駒野駅に到着

 08:13、電車はリサーチしていた時刻より1分早く、駒野駅に到着した。
 駅に着く直前、近鉄と同じ声の車内アナウンスでは、この駅の名を「コまの」(コにアクセント)と言っていた。その少し前、石津からここまでの切符を買ったアテンダントの女性は「こマノ」(マノにアクセント)と発音していた。アクセントとしてどちらが正しいか知らないが、少なくとも地元では「こマノ」なのであろう。以前、大都市の「名古屋」が地元と東京でアクセントが違うと指摘されたことがあり、位置と付け方は今回の「こマノ」とまったく同様(ナごやではなくなゴヤ)であった。ひょっとすると、地名のイントネーションの付け方には何らかの規則性があるのかも知れない。そういう研究はないのだろうか。
 さて、駒野駅には3番線まであって、いわゆる「国鉄型」に近い(ホーム番号は付いていない)。線路は、本屋側の1番線に相当する線が真っすぐ東西に延びていて、2番線はその分岐、3番線はさらにそのまた分岐である。島式ホームになっている2・3番ホームは、2mぐらいの幅しかなくて、異様に狭いと感じた。
 ホームの左(南)側はナイガイテキスタイルという企業の工場で、工場の敷地との間は万年塀で仕切られている。壁に蔓草がビッシリ這った古い鉄筋コンクリートの工場は、ギザギザ屋根になっている。ノコギリのように凸部が平行に並んだ屋根は、天井から光が差し込むように窓を設置しているためで、繊維関係の古い工場はだいたいそうなっている。ホームに沿って倉庫が長く連なっており、時折フォークリフトがガーガー動いている。万年塀が途切れてフェンスになっているところは、かつてそこから工場内に引き込み線が入っていたのだろう。引き込み線がなくなったのは相当昔のようだが、そういう目で見ると、フォークリフトが動いている倉庫は鉄道のホームのようになっている。地図で見てわかるほど大きな工場で、どうなっているのか関心があったが、非常に古めかしい鉄筋コンクリート建築で、趣があった。
 駅舎は工場の反対側で、線路の向こう、桑名行きホームの側である。大垣行きホームの西端がスロープになっており、そこから構内踏切を渡って駅舎へ。建物はさっきの石津駅と同じような、新しい感じの建築であった。今日これまでに遭遇した養老線の駅の中では、多度に次いで大きな駅であると感じた。
 駅員に切符を渡して、駅舎の外に出た。この駅には駅員がいる。客の数がそれなりに多いのだろう。養老線の大垣からの列車は、夜の最後の2本が駒野止まりとなっている。駒野に着いた電車は西大垣の車庫に帰らずここで滞泊している。

 ふと後ろを振り向くと、私が乗ってきた大垣行きの電車がまだ停まっていた。さっき美濃松山で行き違いをしたばかりで、この駅での列車交換はないハズだが、どうしたのだろうか。車両中央部の窓に、女優・内山理名の広告ステッカーが1枚貼ってある。このシールは百五銀行(津市)のもので、カードローンの保証業務をエム・ユー信用保証(三菱UFJグループ)に委託している銀行は、半数程度が内山理名を広告で使っている【注1】。外に向けて貼ってどうするのだろう、車内に見えなくていいのか、と思ったところで電車は発車していった。単なる時間調整だったようだ。
 駅前広場は思いのほか広いと感じた。駅舎の横に駐輪場と駐車場があるのは、他の駅と変わらない。この駅の公共交通機関は、海津市コミュニティバスの他には、養老町のオンデマンドバス(利用者登録制かつ予約制、一般人は乗車不可)が市町境を越えて入ってくるだけだ。駅舎の横に、海津市コミバスのマイクロバス(トヨタのコースター)が止まっている。さっきの石津と比べるとだいぶ本数が減るが、駒野駅には2系統が来る(南濃北回り線・同南回り線、【注2】)。海津市のコミバスは、大垣市のスイトトラベルという会社が運営している。車体にカンガルーのマークが付いており、大垣市本社の大手運送会社、西濃運輸の系列会社とわかる。もともとはスイトタクシーというタクシー会社だったが、旅行会社と合併して現在の社名になった。「水都」は大垣市の別名である。なお、蛇足ながら、大垣市内にあるスイトタクシーの本社には、大垣共立銀行が店舗外ATMを置いていたことがある。

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 【注1】広告キャラクターは現在では「乃木坂46」に代わっている。百五銀のステッカーは車内にもあった。
 【注2】2015年10月に海津市コミュニティバスの再編が実施され、駒野駅に乗り入れるのは原則石津からの「南幹線」系統だけとなった。
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2017年04月12日

2014.07.18(金)(8)天井川をくぐって

 アテンダントとやり取りしながら、私は窓の外に注意を払っていた。間もなくこの電車は、短いトンネルに入るハズなのである。このトンネルこそ、養老鉄道を特徴づけるもので、天井川をくぐっている。果たして、電車はトンネルに入り、すぐに抜け出した。
 天井川については、地理の時間に聞いたことがあるかもしれない。天井のような位置関係で自分の頭上を流れている川、ということだが、関東地方に住んでいると実際に遭遇する機会は意外に限られると思う。かくいう私も、意識して接したのは今回が初めてであった。
 頭上を流れるような川がなぜできるか、ここで確認しておこう。天井川は、扇状地にできることと、そこである程度の人間生活が営まれている場合に限られることの2つが重要である。天井川は自然の状態でできるものではない。
 養老鉄道の西側にそびえる養老山地という山脈は、傾動地塊といって、土地の塊が切れ目(断層)のところから傾いた状態で持ち上がって山脈になったものである。大まかには、スポンジケーキを半分に切って片方だけを傾けながら持ち上げたような形、といえば分かってもらえるだろうか。養老山地を海津市側(東側)から見ると、平野から突然山が始まっているように見えるけれども、これは断層を境に地塊が持ち上がったことの証拠である。一方、山脈の西側にあたる三重県いなべ市では、小さな山が無数に広がっており、全体としては起伏が激しいわけではなく、東側とは景観が異なっている。
 傾斜の急な地域では、風雨で表面が削られる侵食のペースも速く、崩された山の表面(砂や石)が水の流れ(川)によって下流に運搬される力も大きくなる。水に流されて山肌を駆け下りた砂や石は、谷が平野に接するところで同心円状にぶちまけられる。傾斜が緩やかになると運搬能力が落ちるためである。こうしてできるのが、扇を広げたような形をした扇状地であった。南北30kmにわたる養老山地には、その東側に14面ないし16面の扇状地がある。山の上から流れてきて扇状地に達した水は、いったん地下に潜り、扇状地の端で再び地表に出た後、すぐ揖斐川に流れ込んでしまう。
 この状態が繰り返されても、扇状地は全体的に高さを増していくだけで、川の部分だけが“天井”になることはない。川の流れが高いところに上がるのは、人間が川の流れをコントロールしようとして、堤防を築くせいである。堤防によって川の流れる場所が固定されると、それまで扇状地全体に同心円状にばらまかれていた土砂が、堤防の中だけで堆積されることになる。堤防内に土砂が堆積すると堤防の効果が薄くなるから、やがて高さを増す工事が行われ、堤防内を流れる川は引き続き土砂を堆積し…の繰り返しで、やがて川の流れは人間にとっての天井ほどの高さにまで達するというわけである。
 人間生活の営みと書いたけれども、人間は扇状地のどこに住んでいるのだろうか。扇状地はおおむね3つに分けられる。最も標高の高いところを扇頂、最も低いところを扇端、それ以外を扇央という。集落は、扇端部、扇状地の裾に沿って細長く続いていることが多い。その理由は、扇端部分には豊富な湧水があるためである。山の上から流れてきた水は、扇状地に入ると地中に潜り込み(伏流という)、扇端部分で湧き水の形で再び地上に顔を出す。水道のない時代には、生活用水をこうした湧水により賄っていた。一方、扇央部では、堆積した土砂の粒が荒いこともあって、水が地表から消える。このため水稲耕作はできず、放置されて雑木林になったり、使われる場合は水がなくても育つ植物(主に樹木)を植えた畑にしている。樹木の畑は、明治期以降の養蚕が盛んだった時代には桑畑、それが衰えると果樹園に転換したケースが多い。
 この地に関していうと、集落より川に近い部分は標高が低く、揖斐川が増水すると洪水の危険が生じるため、(他にも理由はあるのだろうが)養老鉄道は集落よりも山側を走っている。鉄道は、扇状地では扇端付近を走り、川は線路を築堤で持ち上げて鉄橋で越えるか、天井川の場合は短いトンネルでくぐっていることが多い。特に、養老鉄道の開通した大正時代、鉄道は勾配にとりわけ弱かったため、余計にそうである。
 といったあたりが、この近所の地形的な特徴であった。

 石津の次の美濃山崎は、交換駅であった。周辺に民家が多少固まって建っているけれども、人の気配はあまりしない。後で知ったが、養老鉄道の全27駅中、この美濃山崎駅の乗降人員が最も少ないそうである。このあたりに来ると、国道は山寄りの高いところを走っており、養老線の通るところだけ取り残された感じがする。アテンダントの女性は美濃山崎で降りた。
 列車の交換はなく、すぐに発車した。美濃山崎駅を出てすぐ、レンガ造りの古いポータルの付いた非常に短いトンネルを、2本立て続けにくぐった。ここも天井川のトンネルである。右の車窓は、堤防の向こうに大きな川と、大規模な堰が見えている。そうかと思うと、小さな山と山の間を突き抜けていくようなところがあったりして、陸地の奥へ入ってきた感じが強まってきた。土地の利用としては水田が相変わらず多いけれども、畜産をやっていたり、ブドウ棚なのかツル性の植物を這わせているところもある。
 鉄橋を渡る。いま渡った川は完全に涸れていて、水は流れていなかった。天井川ではない川も、扇状地に特有の水無川になっている。そして、駒野駅の手前で、養老鉄道は平屋建ての建物を完全に見下ろすぐらいの高い築堤を走るようになった。養老線の線路は、築堤だったり、山と山の間を突っ切ったりして、クネクネと曲がりながら走っている。激しくはないが、地形の起伏が相当あるのを感じた。

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2017年04月11日

2014.07.18(金)(7)静けさしみ入る石津駅

 石津駅へ戻ってきた。
 駅前まで戻ってくると、駅入口角の店は整体院のようだ。正確には、入口の窓ガラスには整体院と書いてあるけれども、もう営業はしていないのだろう。旧南濃町の市街地ということで、商業集積が多少はあるのだけれども、まあほとんど無きに等しい。いまとなっては商店街の過去の栄光を感じさせるのみである。
 この時間になると、通学をする生徒はもういないようで、駅には静寂が広がっていた。さっきの女子高生たちはどこへ行ってしまったのだろうか。アテンダントもいないので、切符を買うこともできない。駅に備え付けの乗車票発行機から1枚取って、駅の中に入った。

 ホームに入ると、遠くで踏切が鳴っていた。私が乗る電車ではない。前述のとおりこの駅で列車交換はできないから、大垣行きはいま来る桑名行きと美濃松山で行き違いをしてから来るのであろう。
 ホームからは、天理教の大石津分教会が見えている。天理教の教会は、棟がすべて天理教の聖地である奈良県天理市の方を向いて建てられていると聞いたことがある。ここもやはり天理の方向に向けてあるのだろうか。天理市は石津からだと南西の方角であるが、ホームからは切妻の妻の部分しか見えなかった。
 駅の広告看板はスカスカで寂しい状況だが、70cm角ほどの小さな看板がズラリと並ぶオムニバス広告だけ、いちおう14枚全部の枠が埋まっている。その隣に、「海津橋饅頭」の大きな看板があった。第20回全国菓子大博覧会で「農林水産大臣総裁賞」を受領したそうである【注】。いつあった博覧会かわからないし、大臣総裁賞というのも妙な名称だし、「受賞」ではなく「受領」したというのも何か意味があるのだろうか。海津橋は石津駅の北東1km弱のところにある揖斐川に架かる橋で、後で知ったが海津橋饅頭本舗はこの橋のたもとに店を構えている。海津市コミバスの幹線にあたる海津羽島線が通るが、今回ここは行かない地域である。電車に乗って歩き回っているだけでは分からないところが多々あるのは確かだ。
 やがて桑名行きの2両編成の電車がやって来て、ホームの桑名寄り最前部に停まった。もっと後ろに停めればいいのにと思った。石津駅は出入口が大垣寄りの北端1か所しかない。2両編成の場合、客をわざわざ1両分前方に移動させることになるが、そんな意地悪をしてやるなよと思う。ワンマン運転用のミラーは、2両用と3両用の2本、ホームにちゃんと設置されているのだから。ともあれ、まだ8時前だというのに、電車は早くも客がまばらで、養老鉄道には朝ラッシュがほとんど存在しないのではないかと思えた。もっとも、朝にこの駅から桑名行きに乗るとしたら、可能性としては桑名に通う人と、四日市や名古屋に出る人。桑名への通勤ならもう少し遅くてもいいし、四日市や名古屋であればもっと早い電車に乗らないと間に合わない。こう思考を巡らせたのだが、都市部とは違って養老線は次の電車が40分後まで来ないのである。あの6時台の混雑がラッシュの混雑だったのか。
 電車が走り去って、ホームには再び静寂が漂った。今来た桑名行きからは、女性が何人か降りて行った。駅の外はホーム脇が砂利道になっており、この人たちはそこを歩いて南に向かって行った。南濃支店のある方向だから、大共の行員さんかも知れないと思った。
 この時間で、もうハンカチが汗でびしょ濡れになっている。8時の時点でこれでは、日差しが出てきたら思いやられる。

 踏切が再び鳴り始めた。今度こそ、私が乗る08:06発の大垣行きがやって来る。次の目的地は…2つ先の駒野駅である。土地鑑のない私は、次どこへ行くのか、スケジュール表をいちいち見ないとわからない。南から赤い電車がやって来た。時間の経過からして、7時過ぎに美濃松山ですれ違った3両編成である。
 大垣行きもまた、車内はガラガラであった。まだ8時だというのに、この駅から大垣行きに乗る人は、私の他には1人しかいない。一番前の車両は自分を入れて7人、2両目が2人。見えないが一番後ろも2〜3人しか乗っていないのではないだろうか。
 石津駅には駅員もアテンダントもいなかったが、この電車には黄色いポロシャツのアテンダントが乗っていて、向こうの車両で顔見知りらしき乗客とおしゃべりしている。やがて私の車両に回ってきたのは、誰かと思えば、さっき美濃松山駅で掃除をしていたおばちゃんであった。さっきと同じように車内補充券を買った。

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 【注】第20回全国菓子大博覧会:1984年に東京で開催。菓子博は地方博覧会の一種で、日本最大の菓子業界の展示会。全国菓子工業組合連合会(全菓連)などが主催している。博覧会の総裁が農林水産大臣であった。
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2017年04月10日

2014.07.18(金)(6)南濃支店を制覇

 石津駅を背にして、古い商店街を南へ歩いていく。かつては街道だったと思われるが、いまは線路の西方にバイパス道路ができており、こちらは生活道路になっている。駅前の町並みは古い木造建築ばかりで、たまに壁面をトタンで補強している。昭和初期ぐらいかもっと古いかわからないが、味のある入母屋造りの屋根が多くみられる。商店街は電器店とか時計・メガネ店とかが主体で、食料品店は見当たらない。自動販売機だけ置いて、店としては営業していない店舗もある。目抜き通りは対面離合が楽々できるほどの道幅で、センターラインを引いていないのに不思議なほど広いと思った。道のそばを川が流れており、そこを暗渠にしているから、車の通行に関しては対面2車線と変わらない幅があるのだった。
 旧雑貨屋とおぼしき店の横に、踏切が2つ並んでいる。一つは普通に車が通れる道。その隣に神社の参道があって、なんと鳥居をくぐったところにも踏切がある。太さ20cmぐらいの石の角柱で作られた柵で囲われた参道の入口から、1段か2段上がると玉砂利が敷いてあり、そこから3段ぐらい上がると、しめ縄などがちゃんと付いた本格的な鳥居。大正15年6月建之とあって、養老鉄道の開通直後に整備されたものである。こんなところに踏切があるのは、神社の参道を横切って養老鉄道が敷かれたということ。こんな大事な場所を鉄道用地として使わせるとは、大正時代には鉄道に対する期待が大きかったのだなあと感心した。参道の踏切を渡った先には石灯籠が左右に並んだ石畳がずっと続き、しめ縄を巻いたケヤキのご神木が立つ。樹高は25mほどもあるそうだ。その30mぐらい先に石段がもう1つあり、それを上がると鳥居がもう1つ見えて、神々しい雰囲気が漂っている。
 この杉生(すぎお)神社の南で、道が斜めに分かれている。旧街道は線路の東側に沿って南に続いていくが、養老線を斜めに横切る踏切道がある。事前のリサーチでは、1回斜めに踏切を渡らないと南濃支店には行けない。線路が少し高いところを通っているので、2mぐらいの高低差がある。スロープを上がると、線路上で石津駅のホームが見えた。遠いのは改札だけなのであった。
 踏切を渡った横にある開業医の建物は、鉄筋コンクリートの2階建てで、学校の校舎のように立派である。踏切に近い部分は院長の自宅なのか、BMWが1台止まっている。車で送迎されたお婆さんが1人、病院の中に入っていった。診療時間は9時からと書いてあり、まだずいぶん早いようだが、どうしたのだろうか。さらに進んでいくと住宅地になった。左右に民家が建ち並んでいる。各戸は面積が広かったり狭かったり不規則である。妻面を見ると、梁の先端部分が屋根直下の三角形の壁に顔を出していたりする。途中にある旧食料品店のような店舗の店先に、チェリオの自動販売機があった。

 道が左にゆるくカーブしていった先に、ようやく目的地が見えてきた。さっき電車の窓から見えたとおり、白い建材を使った支店の外壁に、緑色のペンキで《大垣共立銀行》と書いてある。店の歴史は相当古いハズだが、建物は2階建ての平べったい、そこそこ新しい建物に建て替えられている。大共の敷地は70cmほど高くなっていて、道と駐車場との間はスロープになっていた。駐車場に入ると、銀行らしく白の軽乗用車が4台も並んでいる。壁面に夜間金庫も見える。いま、男性が1人店の中に入って行く様子だった。この時間に出勤してきた行員だろう。
 敷地の西側を大桑国道が南北に走っている。店の国道側を見ると、国道に沿った部分はセットバックされていて、道路から見ると支店の建物は少し内側に入っている。正面入口もこちらであった。この支店は駅側から歩いてくることよりも、国道側から車で来ることを念頭に置いているようだ。駅から歩いて来て達したのは、どう考えても裏口であった。
 キャッシュコーナーに入る。ATMは富士通のFV20が2台。右側の1台だけが手のひら認証対応であった。機械を操作。07:50、南濃支店を制覇した。

 南濃支店は、1928年5月に大垣共立銀行が合併した七十六銀行の、石津出張所だった店である【注】。
 七十六(しちじゅうろく)銀行は、明治時代に全国各地に多数設立された旧国立銀行、いわゆる「ナンバー銀行」の一つで、これから行く海津市海津町高須町に本店を置いていた。大垣共立銀行もルーツはナンバー銀行だが、その番号は「129」であるから、七十六銀行は大共よりも番号が若いわけである。詳しいことは、この後高須支店のところで述べる。
 そんな七十六銀は、1928年5月大垣共立銀行に合併され、石津出張所は大共の駒野支店石津出張所となった。1936年2月には駒野支店の出張所化に伴い、母店を高須支店に変更している。石津支店に昇格したのは1950年10月のことである。1954年11月に町村合併で所在地が石津村から南濃町となり、石津支店は1970年10月南濃支店に改称した。2005年3月28日、所在地は町村合併で南濃町から海津市に変わり、そして来年(2015年)2月2日、南濃支店は南濃代理店に変更されることとなった。
 店舗の場所は2回変わっている。1958年10月の新築移転で南濃町の太田27から太田40-1に、1980年12月に現在の太田919-3へと動いた。最初の場所は石津駅前の交差点から北へ250mの建材店付近、2番目の場所はそのすぐ南、家具店隣の現駐車場だったようだ。

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 【注】七十六銀行時代の正確な開設日については残念ながら判明しなかった。沿革の記述は基本的に『大垣共立銀行百年史』によっているが、1927年7月発行の七十六銀行第97期営業報告書によると、同年2月23日に石津を含む6代理店を派出所に変更すると大蔵省に届け出ているので、さらに出張所への変更があったとすればその後。
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2017年04月09日

2014.07.18(金)(5)美濃松山から石津へ

 美濃松山駅に戻ってきた。次の目的地は、美濃松山のお隣、石津駅。ここに[松山]の母店の南濃支店がある。
 大垣行きの電車は07:33発。[松山]は駅から近いことはわかっていたし、持ち時間も30分あるからゆったり構えていたが、終わってみると結構ギリギリであった。駅前にある[松山]は、それでもまだこの程度で済んでいるけれども、駅から離れた制覇目標なら、まごついているうちに時間を食ってしまう。用心しないと。
 切符は、黄色いポロシャツを着たスタッフの女性から買った。「車内補充券」と印刷された券は、正副2枚綴り。金額や駅名に手書きで丸を付け、地紋の印刷された切符を1枚ちぎって渡される。隣の駅までだが200円もした。待合室に貼ってあった養老鉄道の求人広告によると、あのスタッフの女性は「トレインアテンダント」という肩書らしい。YORO RAILWAY STAFFと背中に書いた黄色いポロシャツを着て、養老鉄道のロゴが入った帽子を被り、ウエストポーチを下げて切符を売っている。おじさんおばさんだし華はないが、結構活躍している。桑名から乗った時、初老の男性が車内の掃除をしていた。おっちゃんは途中の多度駅で降り、代わりに話題のおばちゃんが乗ってきて、私と同じ時に美濃松山で降りた。いま見ると、女性はキャスター付きの箱を引っ張っているから、この駅では掃除もしていたのだろう。要するに、無人駅を回って何でもこなす係員である。養老鉄道は、こういう感じで非正規雇用を地元に提供しているようだ。
 アテンダントといえば、以前、福井県のえちぜん鉄道に乗った時には、デパートのエレベーターガールのような制服を着た若い女性だった。目の前にいるアテンダントとはずいぶん違いがある気もするが、こちらの人もかつては若い女性だったのである。

 やって来た大垣行きは、来る途中に下深谷駅ですれ違った赤い3両編成であった。お客の数は桑名行きの半分ぐらい。さっき桑名から乗ってきた同じ方向の電車より、客の数が少ないと感じた。3両だから分散しているのもあるだろうが、ここは岐阜県とはいえ大垣市から遠く離れているから、大垣方面に行く流れがさほど大きくないのかもしれない。
 美濃松山から石津へ向かって北上する。電車はすべてワンマン運転であり、車内放送もすべて録音である。近鉄で流れるおなじみの女性の声で、アナウンスがかかる。《次の石津でお降りの方は、乗車券を改札口備え付けの乗車券箱へお入れ願います。》こう放送が流れたということは、次の石津駅も無人駅のようだ。養老線は駅員のいる駅の方が少ないのであるが。
 車窓右側は一戸建てが密集した住宅地で、市営コミバスのバス停も見えた。工業団地の裏のようなところを走ってみたり、住宅地を走ってみたりだが、基本的には水田地帯である。そこに、ホームセンターなどロードサイド型の店舗も現れる。このあたりには結構工場が進出しているようで、大きな敷地をとった工場があちこちに見える。土地は全体的に余っていると見えて、大面積のものが多いし、一つ一つの施設が大きい。
 左の車窓、水田と民家の向こうに、緑色の縦型看板が見えた。その横の建物は、壁に《大垣共立銀行》と書いてある。あれが次の目的地の南濃支店だな、と思いながら、電車はスピードを緩める気配が全くない。石津駅にだいぶ近付いているハズだが、電車は全然スピードを落とさない。少し焦りの感情が生まれた。駅からあそこまで歩いて行くのは、この調子だと結構遠くないか。30分で行って帰ってこられるかしら。そう思った矢先、駅の手前にある踏切のあたりで、電車は減速を始めた。なんだ、脅かすなよ。

 07:36、石津駅に到着。ここは単線のままホームが1本あるだけで、美濃松山とは違って交換駅ではない。ホーム端のスロープを下りた先に駅舎があるのも、美濃松山とは異なっている。駅舎は割合に新しそうだが、ところどころサビが浮き出ている。出札窓口にはシャッターが下りている。割合最近まで駅員がいた駅なのだろう。
 駅の外に出てきた。石津駅前には、さっきの美濃松山と同じような感じで駅前広場があるが、面積を比較するとだいぶ小さいようだ【注1】。駅舎から目抜き通りに向かって土地の高さが下がっている。標高差は50cmぐらいだろうか。坂というより「ちょっと下がっている」程度の斜面であった。駅前広場に面したところには、集客圏の広い地方の駅前によくある自転車預かり店がある。店先のたたきの部分に自転車が並べてあるが、建物の感じからすると、かつては旅館だったと思われた。
 石津駅の入口には、海津市コミュニティバスの〔石津駅〕停留所がある。ここから出るコミバスは4系統。海津羽島線、海津西回り線、海津南回り線、南濃南回り線と書いてある。地方都市のコミバスとしては本数が多い方で、特に羽島(岐阜羽島駅)まで行くバスは1日7本もある。20kmを1乗車100円で乗れるのは素晴らしいが、100円という格安料金は「ムーバス」(東京都武蔵野市)の影響を受け過ぎかと思う。どうせ採算は取れないのだし、いくら運賃を安くしても乗らないものは乗らないのだから、もう少し上げても良いのではないか【注2】。
 本格的に通学時間になってきたとみえて、駅に女子高生がたくさん集まりつつあった。不思議と女子高生ばかりである。以前、千葉県のりそな銀めぐで北小金支店について書いた際にも触れたが、朝の時間帯に男子高生を見かけることは少ない。なぜなのだろう。私の目に入ってこないだけなのだろうか。

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 【注1】石津駅前にはその後、月極駐車場を備えた駅前広場が隣接地を含めた形で整備され、面積も倍増した。
 【注2】海津市のコミュニティバスは、2015年10月、路線の再編やデマンドタクシーの導入などが行われ、運賃も初乗り200円、岐阜羽島駅までは300円となった。石津駅前を発着するバスは、2016年10月以降は「海津羽島線」(1日9往復)と「南幹線」(1日8往復)の2系統。
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2017年04月08日

2014.07.18(金)(4)[松山]を制覇

 美濃松山駅で降りた時から、もう大垣共立銀行の緑色の縦型看板が見えていた。セブンイレブンの手前である。ATM小屋は、国道258号線松山交差点の北東角にある駐車場内にあった。家具店の看板が出ているが、看板だけなのか土地も所有しているのかは知らない。駐車場は東西2つに分かれ、その間がフェンスで仕切られている。所有者が違うのかも知れないが、フェンスのどちら側も駐車場であるのは変わりがない。国道側の駐車場入口には《大垣共立銀行キャッシュコーナーのお客様以外は駐車および通行ご遠慮願います 地主》という緑色の看板が出ている。「大垣共立銀行」の文字がロゴタイプであるから、銀行が作った看板だろうか。私はキャッシュコーナーの客であるので、土地の真ん中を堂々と通行してATM小屋に近付いた。
 [松山]のATM小屋は、大共ではよく見られるスタイルの小屋である。一部が青緑色に塗られたステンレス製で、このタイプの小屋は1992年12月から各地に配備されている。ステンレス製のパラペットのようになった部分には大共の緑色の行灯看板が取り付けられている。それが、入口自動ドアの上に1mぐらい張り出して、入口部分の庇を兼ねている。壁面は駐車場側から見ると左2/5が緑色に塗られており、そこが機械室になっている。中央の1/5がステンレス無塗装の銀色、その右側1/5がガラス張り、残りの1/5が小屋の外ということになる。機械室部分の屋根は後ろ向きに傾けてあって、流れということを意識した少ししゃれた輪郭になっている。小屋の右2/5、つまり客が出入りする部分の屋根は、透明な強化ガラスで出来ている。横から見ると直角三角形になっているこのガラスの屋根は、機械室部分の屋根と形状が合わせてある。
 入口の自動ドアを開けて中に入ると、室内には自然光が差し込んで明るいイメージであった。ATMは、富士通のファクトVモデル20(FV20)という機械が1台だけ稼働している。母店は南濃支店であった。
 さっそく制覇をしてしまおう。私は通常、銀行めぐりの「制覇」について、入金→出金の1サイクルで行っている。合理的な理由があるわけではないが【注1】、ずいぶん前からそうしている。大垣共立銀行は、ATMでの出金は8時まで時間外手数料がかかるので、ここ[松山]と次の南濃支店での制覇作業は、入金2回で行う。昨日千円札を調達したのは、このためである。ここだけ通帳の表示がイレギュラーになってしまうが、止むを得ない。
 ATMを操作。07:19、本日の第1号となる[松山]を制覇した。

 店舗外ATMの南濃支店松山出張所は、2001年3月に開設された。海津市内4店の代理店化に伴い、母店は2015年2月2日から海津支店に変更されている。
 当地の大垣共立銀行ATMは、もともとは「かどます」というスーパーマーケットに置かれた店舗外ATMで、1988年11月に最初に開設された際には[かどます松山店]という名称であった。かどます松山店は、現ATMの隣接地、現在セブンイレブンのある場所にあった。
 かどますを運営していたのは、現海津市南濃町駒野に本社を置いていた、滑p増という食料品スーパーの会社である。同社は1883(明治16)年に青果物の小売業から創業し、1968年6月に法人化した。1981年に複数店舗の展開を始め、最盛期には8店舗を営業し、30億円以上の年商を上げていた。競争の激化に伴い、1995年からは不採算店舗を「ケイ・バリュー」というディスカウントショップに転換して巻き返しを図っていた。しかし、1999年9月、岐阜地裁大垣支部に自己破産を申請する。負債額は13億円ほどであった。
 店舗は松山店のほか、同じ南濃町の駒野本店、高須(海津市海津町)、今尾(海津市平田町)、高田(養老町)、羽島(羽島市)など。これらのうち3店舗に、大共のATMが置かれた歴史がある。松山以外の2店についてもここで触れておくと、平田町今尾の店舗外ATM[かどます今尾店]は1989年4月の開設、母店は今尾支店で、機械はスーパーの店内にあった。1999年9月、スーパーの閉店と同時に廃止されたとみられる。羽島市足近町にあった羽島店には、1995年12月に羽島支店を母店とする[ケイバリュー羽島店]【注2】が開設されたが、翌年には早くも廃止されており、短命であった。
 松山店のATMについては、今尾店よりも遅く2000年度まで稼働していた。これは、店舗外ATMがスーパーの店内ではなく屋外の小屋であったためと推定される。閉店したショッピングセンターの敷地内で大共ATMが稼働を続けているケースは、現在でも[ショッピングプラザ・アミ](垂井町)のような例がみられる。ともあれ、2001年3月、[かどます松山店]は[松山]として隣接地に生まれ変わった。なお、かどますの松山店・今尾店とも、屋号は「ケイ・バリュー」に変わっていたが、大共のATM名は廃止の時まで「かどます」のままであった。
 この松山という地区には、駅の近隣にいくつか住宅団地が開発されており、ATMの設置もそうした住宅地への便を図るためのようだ。桑名駅からの最終電車はここ美濃松山止まりであり、通勤客とその世帯が多いのだろう。

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 【注1】かつてあさひ銀行で「めぐ」を始めた頃、店舗外ATMに出かけたものの、制覇ができないことがあったため。普通預金の残高が1000円に満たず、配備されていた機械がATM1台・CD1台で、ATMが故障していたため入金ができなかった。CDを見かけない現在では意味がなくなったと思われていたルールだが、最近になって第四銀行の「めぐ」で入金時と出金時で店名記帳が異なるケースに遭遇し、1回の制覇で入金と出金の両方を行うのは正しい行動原理であったと判明した。
 【注2】大共の出張所名は中黒なし。
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2017年04月07日

2014.07.18(金)(3)岐阜県最初の駅、美濃松山

 多度駅が三重県最後の駅であり、次の美濃松山から岐阜県に入る。多度を発車して間もなく、小さな川を渡る。左の窓から大垣共立銀行の多度支店が見えた。
 養老線は多度から築堤上を走るが、この築堤も右に曲がったり左へ曲がったり、相当にカーブしている。随所で車輪がきしむ音がする。相当なS字カーブがあったりして、養老鉄道が古くから営業している線であると強く感じられる。養老線は1919(大正8)年に全線開業したが、この時代の鉄道は車両にパワーがなく急坂は登れなかったので、カーブを増やして勾配を緩やかにしたのだった。今なら勾配を多少急にしてでも線路を極力真っすぐにしてスピードアップを図るが、当時は速度もさほど求められていなかったと思う。
 大規模な送電線が頭上を横切った。播磨駅のあたりで数多く見かけたNTNの工場が、ここにもある。それから、羽目板を張り巡らせた土蔵。関東では白壁のものが多いけれども、西日本に来るとこういう羽目板を張った土蔵が多い気がする。左の車窓は、標高100m以上ありそうな背の高い山が、2〜300m先に見えるようになってきた。連なる山々は暗い緑で埋め尽くされている。地図で見ると、このあたりから養老山地が始まっている。
 それなりの幹線道路が現れた。電車の窓から見ると対面2車線みたいな感じであるが、養老鉄道に沿って大垣と桑名を結ぶ大桑(だいそう)国道(258号線)である。道路沿いには、ファッションセンターしまむらがあり、桑名信用金庫の支店が見える。それから、東建コーポレーションのアパートが多く目に付く。この会社のアパートは、茶色い外壁に柱の太いゴツい外観で、要所に三角形の飾りが付いており、見ただけですぐにわかる。ラブホテルが建っているあたり、県境らしい風情を見せている。それが岐阜県側であるのは後で調べて知った。
 電車のスピードが緩み始めた。最初の目的地、美濃松山が近づいてきた。さっきの大桑国道は、地図で見ると三重県と岐阜県との県境付近で養老線の線路をまたいでいるハズだが、電車の窓からは県境がどこなのか正確にはわからなかった。

 いま乗ってきたオレンジ色の電車が、ピーッと車のクラクションのような音を立てて発車していった。ここは、養老鉄道で岐阜県に入って最初の駅、海津市最南端の美濃松山駅である。こんな朝早くから、セミがシャーシャーシャーシャーと大合唱している。関東地区では鳴き声を聞くことのないクマゼミであった。
 桑名からの切符は、黄色いポロシャツを着たおばちゃんが「いただきます」と言って回収していった。桑名から360円。運賃は名古屋から桑名までのJRとほとんど変わらないが、距離で言ったら半分ほど、所要時間は2/3ぐらいである。
 さて、美濃松山駅は列車のすれ違いができる駅だが、駅舎のない無人駅で、2本の線路の両側に屋根付きのホームが付いている。ホームは上り・下りとも幅が1.5〜2mぐらい。ホームの端には切符の回収箱と乗車票発行機が備え付けられ、飲み物の自動販売機を1台置いた待合室も両方のホームに整備されている。ホーム北端のスロープを下りると、コンビニの独立型店舗が1軒建ちそうな面積を持つ駅前広場(のようなもの)になっており、駐輪場と、公衆便所、月極駐車場がある。駅舎がないから、改札という概念のものはない。周辺に張り巡らされている鉄柵は近鉄時代に設置された古いものらしく、水色のペンキはかなりハゲハゲになっている。自転車がまばらに置いてあるだけの海津市営の駐輪場は、小一時間もしたら自転車でびっしり埋まるのではないだろうか。月極駐車場の連絡先は、近鉄の子会社らしき会社になっている。その横はもう普通の一戸建ての民家であった。
 乗ってきた電車は、桑名行きの3両編成とすれ違いだった。美濃松山駅の旅客動態はどうなっているのだろうか。養老線の電車は、朝ラッシュ時でも30分間隔、日中は40分間隔での運転で、美濃松山駅の発車時刻は日中03分・43分・23分のサイクルとなっている。桑名行きのホームには溢れそうな数の乗客がいたが、高校生は1〜2人紛れていた程度。大垣行きは、20人ぐらいはいたと思うが、ホームに立っている乗客は全員高校生であった。朝のラッシュアワーでは、上りと下りで明らかに客層が違っている。大人の動きはさほどの差がないようだが、やはり高校生を見ると県境を越える動きは非常に少ないようだ。
 駅の東側は古い民家ばかりで店舗はほとんどない。例外的に床屋とお好み焼き屋があるくらいである。西側に目をやると、まず見えるのは、踏切横の郵便マークを付けた店舗。窓口取扱時間9時から午後4時まで、郵便貯金為替振替、などと書いてある。名前がどこにも書いていないが、ここは松山簡易郵便局である。民家の1階を婦人小物でも売る店にしたような佇まいだが、警備会社の四角いオレンジランプが付いているところが金融機関であって、零細商店とは違う。簡易局の前にある郵便ポストを見ると、取り集めは羽島支店となっていた。羽島市は東海道新幹線岐阜羽島駅の所在地として知っているが、土地鑑がないので結構遠そうという感想しか湧かない。後日知ったが、羽島局はここから直線距離で20kmほど離れている。配達は海津市旧3町それぞれに拠点があるようだが、羽島局のテリトリーの広さに驚かされた。
 簡易郵便局の隣は理髪店で、その隣が美容院。床屋は駅の反対側にもあるから、この近所には髪切り屋さんが多い。美容院の隣は一戸建ての飲食店。2階建て民家の1階が店舗になったスタイルで、看板を見る限り、喫茶店兼寿司店兼宴会場。一つの店で3つの業態という欲張った店である。
 さっき電車の窓から見てきたとおり、線路の西側を国道258号が走っている。大桑国道の松山交差点は、曲がる車線が付け足されているけれども、基本は対面2車線黄色センターラインの道のようだ。拡幅される計画があるようで、道の両側は建物が建っていない。交差点の北東側を見ると、セブンイレブンが1軒見える(海津南濃町松山店)。平屋建ての独立店舗で、店の前に大駐車場を備えた街道沿いに典型的なタイプである。南東側には、奥まったところに《CDレンタル》という文字が見えるしもた屋があり、その店の駐車場が国道に面している感じだが、要はセットバックしたまま放置されているのだろう。北西と北東側は、ちょいちょいと民家や店舗があったりする。ヤマハの自転車屋と食堂らしい店舗が見えるが、もうしもた屋なのかも知れない。
 国道の西は、200mぐらい先から山が始まっている。徐々に高くなる感じではなく、200mぐらい先からいきなり山がそそり立っているように見える。実はこれは養老山地の特徴の一つであるが、後述する。民家は山の付け根まで続いているようだ。

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2017年04月06日

2014.07.18(金)(2)桑名から養老鉄道に乗る

 06:38、私の乗った関西本線の電車は、定刻どおり桑名駅1番線に到着した。
 「その手は桑名の焼きハマグリ」の文言で有名な桑名市は、城下町であり宿場町でもあって、東海道唯一の海上路「七里の渡し」の発着拠点であった。現在でも、関西線と近鉄のほか、内陸部に入っていく鉄道路線が2本も出ている鉄道交通の要衝である。大垣共立銀行は1926(大正15)年から桑名に支店を出している【注1】。やや蛇足めくが、りそなウオッチャーの立場からは、協和銀行も前身の不動貯金銀行時代から桑名支店を出店していたことに触れておきたい(1920年開設、1957年廃店)。
 桑名駅舎は駅ビルになっているが、エスカレーターを上がって跨線橋に出ると、骨組などから古い時代の橋を使っていると感じられた。養老鉄道へは改札を出ずそのまま跨線橋を渡っての乗り換えとなり、ホームは近鉄名古屋線の下り線(伊勢・大阪方面)の反対側、4番ホームである。
 跨線橋には、イオン銀行のATMが置いてある。東海地区や近畿地区では、イオン銀のATMを(イオン系の店内でない場所に)単独で置いてあるケースが結構目につく。首都圏ではまず見ないが、その代わりセブン銀行が同じような置き方をしているから、これは地域性と言えるものだろう。跨線橋の壁には「7月22日、三重銀行大山田支店オープン」の広告ポスターが貼ってあった。
 イオン銀の隣が、ファミリーマートである。近鉄の駅売店はもともとエーエムピーエムだったが、現在では全てファミマになっていて、「近鉄駅ファミ」というロゴが付いている。すぐ隣にイオン銀ATMがあるから、店内にATMはない。さて、このファミマで、乾電池を1包み(2本)買った。名古屋から来る電車の中で思い出したのだが、乾電池の予備がない。上着のポケットに入れているつもりだったが、点検してみると1本もなかったのだ。これは、3月末に電子機器類を上着ごと盗まれた影響である。くそったれあの泥棒め。高くつくから乾電池などコンビニでは買いたくないのに。さて、この店にはレジが2台あって、手前のレジの前に立ったら「すいません、1列にお並び下さい」と手前のレジにいた店員のお姉ちゃんに叱られてしまった。奥のレジの列に並び直したが、結局自分の番が来ると担当はこのお姉ちゃんであった。

 養老線は06:44発で、発車まであと1分ぐらいしかない。まだ切符を買っていないので、少し焦り気味にホームに下りる。近鉄の伊勢志摩方面行きが出る6番ホームは、柵で細長く仕切られており、中間に改札口が設けられている。柵の向こうが養老線の発着する4番ホームであった(5番ホームは欠番)。改札の横には、ソバ屋によくある食券の自動販売機をそのまま使った乗車券の券売機が置いてある。大急ぎで美濃松山までの切符を買った。券の体裁はJRの乗車券と似た書式になっているが、紙質がペラペラだし、フォントが明朝体であるなど、やはり切符というよりソバ屋の食券であった。
 駅員に改札印を押してもらい、大急ぎで電車に乗り込んだ。オレンジ色に塗られた2両編成で、窓の下に白い帯が1本入っている。養老鉄道は昔の近鉄と同じ真っ赤な電車が標準であるが、この2両は昭和30年代の近鉄南大阪線の塗色を復元したということであった。ドアには「第三銀行カードローン」の文字だけのシール広告が貼ってある。さっき三重銀行の新規出店の話を書いたけれども、金融業界は過当競争気味でなかなか大変である。やはりと言うべきか、2017年2月、三重銀は第三銀行との経営統合を発表した。
 電子音の発車ベルと、ドア上のプルルルという警報音は、近鉄に乗っているのとほとんど変わらない感じがする。それも道理で、養老鉄道は2007年まで近鉄の養老線であった。赤字路線ということで近鉄から切り離されてしまったけれども、養老鉄道は近畿日本鉄道の100%子会社であり、線路や鉄道施設なども近鉄が所有しているので【注2】、本質的には会社の名前が変わって運賃が上がったぐらいの差しかない。細かく見れば、ホームに柵を張り巡らせ、連絡改札を通らなければ養老線に乗れなくなったことと、駅名板に引かれたラインが緑色になったという違いはあるけれども。
 乗り込んでほどなく発車。車内はガラガラで、前の車両に5人ぐらいしか乗っていない。後ろがどうだったか覚えていないが、たぶん客はほとんどいなかったのではないか。車内は暑かった。冷房がいちおう付いてはいるが、全然効いていない。

 養老線はさっきの関西本線とは異なり名古屋に直結する路線ではないから、沿線は建物の新陳代謝がほとんど見られなくなり、古い建物ばかりになった。最初の駅、播磨に停車。駅前に農協の店が見えたり、町工場よりは大きな工場が密集していたりする。工場の集まりは昭和40年代ぐらいの開発だろうか。NTNという会社の看板の水色が目立つ。NTNは桑名市発祥のベアリング製造大手で、かつては東洋ベアリング製造といった。
 播磨を出たあたりから、線路のすぐそばまで山が迫るようになった。養老山地に近いからか、左の車窓には小高い山が線状に並ぶ。山の手前には水田が1面2面とあり、民家が数軒固まって建っている。起伏のある土地なので、標高の高いところは樹木を植えて果樹園のようにしている。右を見ていると、低地が広く取れるところは見渡すかぎりの水田になっている感じがする。それも(二期作は無理だろうが)二毛作ぐらいはやっているかも知れない。休閑地のように見える土地は、前年に耕作して今年は休んでいるのか、すでに今年の刈り取りが終わっているのか区別がつかないが、いずれにしても何年も放ったらかされた休閑地とは違うと思われた。
 2つ目の下深谷駅は、昔ながらの味わいのある平屋建ての駅舎で、このあたりから早くもローカル私鉄らしい雰囲気が濃厚になってきた。左の高台上に学校(三重県立桑名北高)が見える。養老鉄道のホームページに公表されている各駅ごとの乗降人員表によると、下深谷は乗降客が多い部類の駅【注3】。この駅で反対方向の電車とすれ違う。交換した桑名行きは3両編成で、昔の近鉄と同様の赤い電車。車内はほぼ満席だった。まだ7時にもなっていないが、朝が早い人は早いものである。
 結構大きな農家があったり、古い神社があったりする。左の車窓から見える竹薮は、葉が真っ黄色になっていたり、倒れかかった竹があったりと、少し荒れているようだ。人の手が入っていないのだろう。とにかく左側は電車のすぐそばまで竹薮とツル草ばかりである。この時期の雑草は成長力が特に旺盛なようで、伸びた草が窓にカサカサ当たったりしている。
 3つ目の下野代駅は、ホームは片側のみ。左の車窓だけ見ていると山奥に入ってきた感じがした。山奥といっても、山自体の標高はさほど高くはない。そして、駅の北側で地形が少し開けた。土地利用としては水田と畑が半分ずつぐらいだろうか。水門があって、鉄橋を渡る。地形が開けたところと、山がすぐそばまで迫ってきているところが交互に繰り返される。それも、山脈のある左側からだけでなく、部分的には右側からも山が迫ってくるように見えるところがある。平野部にしては地形の起伏が激しいが、激しいというより、起伏が「豊かにある」という感じがした。
 4つ目の多度駅に到着。国鉄型配線の大きな駅である。旧桑名郡多度町の中心地で、「平成の大合併」により桑名市となった。多度大社という大きな神社があって、この神社の神事は競馬の愛好家には有名らしい。大垣共立銀行はこの地に多度支店を出していて、この駅で降りると支店のほか[桑名市役所多度支所]【注4】、[ピアゴ多度店]の2つの店舗外ATMが取れる(今日は行かない)。
 この駅で乗客が少し乗ってきた。乗って来る客を見たのは、養老線の途中駅では今朝初めてであった。

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 【注1】正確には、1926年に買収した共営銀行(大垣市)が1916(大正5)年から出店していたもの。
 【注2】2017年中をメドに、近畿日本鉄道が保有する養老線の鉄道施設を、地元出資の一般社団法人「養老線管理機構」に譲渡し、公有民営方式で運営されることになっている。
 【注3】「養老線交通調査結果」(2012.11.13)によると、乗降人員1位は大垣駅(7789人)。以下、桑名(3958)揖斐(1615)多度(1115)下深谷(994)と続く。最少は美濃山崎(162)。http://cug.ginet.or.jp/yororailway/data/kouthuu.pdf
 【注4】施設名は「桑名市多度町総合庁舎」が正しい。
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カテゴリ一覧(過去の連載など)
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単発(12)
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りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅(57)
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りそめぐ2009初秋 りそな銀千葉県内12店舗完全制覇(35)
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りそめぐ2008夏 「近畿大阪めぐ」スタート記念 片町線・京阪線沿線25店完全制覇(51)
りそめぐ2007晩秋 関西デハナク近畿(60)
りそめぐ2008冬 人命の重さと意味を考える(12)
りそめぐ2007秋 「埼玉県民の日」に埼玉県内をめぐる(35)
2007年7月 りそな関西地区支店昇格5店完全制覇+α(43)
あさめぐ・最後の爆走 西日本地区15店+1店完全制覇(34)
2006年1月 りそめぐ「旧奈良銀店舗全店制覇」(53)
第四銀行めぐ 2005年(41)