2017年04月28日

2014.07.18(金)(24)海津市平田町三郷のコンビニにて

 鳥居をだいぶ過ぎ、神社の大駐車場の前に、海津市コミバスの〔お千代保稲荷〕バス停があった。〔お千代保稲荷〕のバス停ポールに書いてある停留所名には「おちょぼいなり」とルビが振ってあり、よの字は「ょ」と小さく書いてある。私は“おちよほ”と読むのだと思っていたし、お千代保稲荷の正式名称は「千代保(ちよほ)稲荷」であるのだが、市営のコミバスで停留所名が「おちょぼ」になっているのなら、まあそれがオーソライズされた読み方なのだろう。バス停は神社からもう少し近いところに置いたらどうかと思うが、自転車で行く今日の私には関係がない。
 バス停の先には、鶏卵の自動販売機があった。水田地帯の真ん中にある駐車場の片隅に、テントをかけた自動販売機が1台ボンと置いてある。このあたりに来ると、いわゆる「田舎の香水」が匂ってくるのと、耕作していない土地が結構目に付く。草ぼうぼうになっている土地と、草刈りだけは済んでいる土地とがあった。
 お千代保さんのあたりは結構標高が高いようで、畑作をやっている土地が多い。古くから伝わる神社というのは、べったりと低いこの濃尾平野の水田地帯の中では、例外的に高いところにあるのだろう。水田もなくはないが、田んぼは相当に高さが低いところに限られるようだ。ここら辺にある水田というのは、山を切り開いて作った住宅団地などでみられる調整池と似た意味合いなのかも知れない。

 セブンイレブンとサークルKが対面に立地している交差点があった【注1】。十字路ではなくX字だが、もうどちらが北でどちらが西かわからなくなっている。ミサトというのかサンゴウというのか知らないが、とにかく三郷という名前の交差点である【注2】。ここにあるサークルK(海津平田町店)は、北海道とか東北のように、店の前に風除室がついている。伊吹おろしが吹き付けるこの地の冬は、相当に風が強いらしい。
 風除室に惹かれてサークルKに入った【注3】。ここで「地図見休憩」をしよう。とにかく疲れた。今日は雲が多くて、直射日光が出ていないから、まだ何とかなっている。これがピーカンの青空であったら、もうバテバテになっているだろう。
 冷房の効いたコンビニで地図を立ち読みすると、ミスの原因がわかった。十六銀行高須支店のあった馬目西方の交差点から、真っすぐ北に進んでいれば、ヨシヅヤまでストレートにたどり着いたのである。東にかなり来てから左折北上したため、西へ戻る行程ができてしまった。これだけでも3kmぐらい無駄に長く走ることになるが、さらに今尾よりかなり北に位置する蛇池を回ってくると、南に戻る行程も発生するから、トータルで5kmほど余計に走ったようだ。
 なお、今尾地区の2か所を取った後、野寺支店までは、この道をまた東に戻ることになる。やはり、蛇池の交差点が両者のほぼ中間地点であった。20分ぐらい無駄にしたと思うが、精神的なダメージも加味すれば、1時間ぐらいのロスに相当するかも知れない。後日このあたりを車で走ってみたが、さっき通ってきた東側の道は、車でも遠回りだと感じたほどである。

 名古屋から持ってきたペットボトルの水がなくなりかけていたので、この店で2リットルペットを1本買った。レジで会計しながら「ヨシヅヤってここからまだ遠いですか?」と店員に尋ねた。中年女性の店員は、ああもうすぐそこですよ、真っすぐ行くと信号があるんで、そこを左に入って下さい、と教えてくれた。
 ところで、ここで買った水は、サークルKサンクスの親会社ユニーのプライベートブランドで「スタイルワン天然水」という商品であったが、ラベルをよくよく見ると《養老山系で磨かれたナチュラルミネラルウォーター》と書いてある。え、と思って採水地を見たら、海津市南濃町とあった。何だ、地元の水ではないか。遠く離れたどこかのサークルKで買うならどうということもないが【注4】、海津市内でこれを買うのは非常にばかばかしい気がする。でも、この店ではこれが一番安い商品(税込み90円)だから、知らず知らずのうちに海津市の水を飲んでいたのだろう。
 ユニー系のコンビニ会社サークルKサンクスは、この頃身売り話がマスコミを賑わせた。その後しばらくM&Aの話は鳴りを潜めていたが、結局2016年9月にファミリーマートに合併されてしまい、ミネラルウォーターも同社のPB商品に置き換えられてしまった。日常生活がつまらなくなったと感じる。私は、企業でも何でも、弱小だからといって淘汰までされてしまうのは、あまり健全ではないと思っている。

 疲れがある程度癒えたところで、コンビニを出て自転車を漕ぎ始めた。ヨシヅヤの看板は前方に見えているが、「すぐそこ」にあるようには全然見えなかった。まだ1km近くはありそうである。そうか、車の感覚だから「すぐそこ」なのか。私は少なからずがっかりしたが、めげずに自転車を漕ぎ続けた。

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 【注1】この場所のサークルKは、2017年1月26日ファミリーマートに転換した。
 【注2】さんごう。地名は3村の合併から。
 【注3】風除室は向かいのセブンイレブンにもある。
 【注4】首都圏では、長野県北安曇郡松川村で採水した「北アルプスで磨かれたナチュラルミネラルウォーター」を販売していた。
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2017年04月27日

2014.07.18(金)(23)チョンボでお千代保

 道が大きく左にカーブした。集落に入ると同時に再び道が狭くなり、黄色センターラインの2車線対面に戻った。古い集落らしく人家と畑が半分ずつぐらいある。ここは水田地帯から見ると標高が少しだけ高いようで、畑があったり、生け花と書いた温室があったりする。
 しばらく進んでいくと、お千代保稲荷がますます近づいてきた。道が大きく右にカーブしたところで、私設看板に遭遇した。愕然とした。そこには《ようこそお千代保さんへ/東口次の信号直進700m》と書いてあったのである。
 何、700m!? ことここに及んで、私は進む道を間違えていたことを察した。いかにリサーチ不足といえども、お千代保稲荷が全然違う場所にあることは知っている。あれは、いま行こうとしている今尾と、その次の目的地・野寺との中間にあるものだ。面白い名前だし、地図でも大きく出ていたから覚えていたのである。700m地点まで来ては近接し過ぎだ。そういえば、あの赤い鳥居はさっきから少しずつ距離を縮めつつあるように見える。いま私がいる場所は、鳥居がいよいよ目の前に近づいてきて、これを曲がったら鳥居そのものではないか、という位置であった。
 ということは、遠くに見えていたあのショッピングセンターが、やはり目的地のヨシヅヤ海津平田店だったのか。そう思って左の方を見回したが、知らないうちにSCなど見えなくなっている。はるか彼方にあるハズだが、学校とおぼしき大きな施設に隠されていた。ああ、何ということ。明らかなチョンボであった。
 かなりガックリ来たが、じたばたしても仕方がないので先へ進むことにする。こうして、蛇池(じゃいけ)という交差点に来た。ここで左に入るとお千代保稲荷の鳥居の前まで行くようだ。ヨシヅヤ海津平田店左1.5km、という看板が出ているのが、わずかな救いであった。進路がわかって安心したが、ここから1.5kmということは、やはり相当に遠回りしている。
 まあ頑張りましょう。順番はすでに決めてあるから、ここから今尾に向かうのは変わらない。時刻は10:34であった。なお、後日判明したのだが、先ほどコンクリート製品の工場があった「西島」の四つ角が、県道222号成戸平田線との交差点で、今進んでいる道から今尾へ直行する経路であった。そこで曲がっていれば、まだ傷は浅かったようである。

 今進んできた県道1号線は、ここ蛇池の交差点で右折して野寺方面に向かっている。四つ角から左の方向に、県道213号養老平田線が始まっている。交差点の南西角に海津市が作ったお千代保稲荷の案内看板があって、直進東口、左折南口となっている。お千代保稲荷の入口は東口と南口の2つがあって、位置関係としても確かに看板のとおりである。
 蛇池の交差点を左に曲がると、そこは観光地の趣であった。喫茶店が何軒かあったり、有料¥300と大書した駐車場があちこちにみられる。こうして、お千代保稲荷南口の大鳥居の真ん前にやって来た。高さは10mほどもあるだろうか。見上げるほどの高さである。水田地帯の真ん中だから相当に目立つ。なにしろ、ここに来る何kmも手前から見えていたのである。鳥居をくぐった先は参道で、土産物屋やら何やら120軒ほどが軒を連ねているという。関東地区でいうと、千葉県成田市の、京成電鉄成田駅から成田山新勝寺に向かう途中のような、かなり大規模な門前町。千代保稲荷神社は室町時代の創建で、年間200万人が参拝している。毎月1回夜通し行われる“月並祭”という縁日が有名で、月末の夜から翌1日の明け方にかけては大変な人出となるそうだ。境内ではお札やお守り等の販売は行われていない。これは神社創建時の「先祖の霊を千代に保て」との戒めから来ており、家(森家というそうだ)の先祖だけを祀った神社であるからお札などは出さないのだという。
 なお、かつて大垣共立銀行は、大鳥居横の駐車場内に店舗外ATM[お千代保稲荷南口]を置いていた。1997年12月に設置されたが、2004年度に入って間もなく廃止となった。確認はしていないが、母店は今尾支店だったと思われる。当時は蛇池交差点の北西角にコンビニのサークルKがあり、十六銀行が店舗外ATMを出していた。現在ではそちらもコンビニもろとも消滅しており、この地で現金が必要になったら参道内の簡易郵便局の窓口でおろすしかない。
 それにしても、鳥居そのものの前に、このタイミングで来てしまうのは大誤算であった。

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2017年04月26日

2014.07.18(金)(22)水田地帯を北上する

 さて、自転車による「めぐ」を続けよう。海津市を成立させた3つの町のうち、旧南濃町と旧海津町はすべて終了した。最後となるのは、旧海津町の北側に隣接する旧平田町である。
 現在の海津市平田町には制覇目標が3か所ある。西の今尾地区へ行くと、そのうちの2か所、今尾支店とATM[ヨシヅヤ海津平田店]が片付く。以前のリサーチによると、高須支店前を北上すると南濃からの県道津島南濃線に突き当たるから、そこで右折して県道を東に進み、ほど良いところで左折して北に向かえばよいハズであった。時計を見ると、ちょうど10:00。予定では高須支店の出発が10:30であるので、30分ほど早く推移している。非常に結構である。このまま前倒しで進めたい。
 高須支店の面する道は、路側帯はいちおう引いてあるけれども、対面2車線にはできないぐらいの道幅であった。商店街を真っすぐ北に抜けて行くと住宅地になり、ほどなく掘割のような小さな川を渡る。ちょっとした下り坂を下りてゆくと、海津明誠高校のグランドに突き当たった。ここは右折。フェンスに《生徒送迎のための駐停車禁止》という看板が出ている。田んぼ以外に何もない地区で、バスの本数も少ないから、自転車で通学するのでなければ車で送迎する以外にないだろう。高校の校舎右側には、「くすり」という大きな赤い看板が見えている。さっき行ったクロカワヤの隣にあったスギドラッグ屋上の看板である。
 一部を除きとにかく古い建物ばかりの街並みだが、どの家もみんな石垣の上に乗っているところが高須らしいと感じた。住宅はたいていお城のような石垣の上に乗っている。ここ数年に建ったような新しい住宅は、高台上にないものもあるようだが、基本的には全部“お城”であった。お城といえば、高須の町は旧城下町とあって、道路の突き当たりが多く、真っすぐ行くということがなかなか難しいところである。明誠高校が旧城跡だったというから、この界隈の道筋が入り組んでいるのもむべなるかな。
 〔東山の手〕というコミバス停留所の前を通り、突き当たって左に曲がると出光興産のガソリンスタンドがあった。その先にはさっき渡った大江川が控えている。橋の手前が少し上り坂になっているのは、さっき渡った橋と同じである。川を渡って、馬目西方という交差点に出てきた。ここは十六銀行高須支店のある角で、左に曲がるとさっきの[ホームセンタークロカワヤ]である。ということは、ここを右折し、しかるべき角で左に曲がれば、旧平田町の次の目的地にたどり着くハズである。何という場所だっけ。とにかくこの界隈にはこれまで馴染みがなくて、次に行く今尾という地名すら忘れている始末であった。

 というわけで、対面2車線黄色センターラインの街道を東に向かっている。さっきの津島南濃線を真っすぐ来ているだけであるが、馬目の交差点を境に道としては岐阜海津線に変わっている【注1】。同じ対面2車線の県道でも、黄色のセンターラインが他所の1.5倍ぐらいの太さで書いてあって、重要な街道であると感じられた。
 大江川に架かる、馬目橋という橋。あれ、さっきも大江川は渡ったハズなのに。そう思ったが、後で調べてみると、大江川はこの高須の町を大きく蛇行しながら流れているのであった。コミバスの〔馬目〕バス停前に、ファーマーズマーケットとかいう農協の直営店らしきものがある。敷地の中には、JAにしみのが店舗外ATM小屋を出している。
 集落が途切れて水田地帯になった。高須輪中土地改良管理センターという大きな矢印看板が見える。農地などで余った水を排水するためのポンプ場であろう。この辺まで来るとラブホテルがあるが、長良川と木曽川を渡った3km先は愛知県愛西市であり、県境地帯を特徴づける施設である。ラブホテルの向かいには、1階を店舗にしている3階建てぐらいの鉄筋アパートが建っている。こうした建物に××名店街という名前を付ける習慣が、どうもこの地域にはあるらしい。同様の建物は、さっきクロカワヤの前にもあった。とにかく、水田地帯→家が何軒か固まって建つ→すぐに建物は途切れて水田地帯、を繰り返し、ときどきロードサイド型の店舗が密集する地域が現れる。
 鹿野という交差点までやって来た。角にはミニストップ(鹿野店)がある。行政が付けた矢印看板には、海津温泉右6km、お千代保稲荷左5km、とあった。それとは別に、広告看板も出ている。ヨシヅヤ海津平田店左。ほかの地名は全然ピンとこないが、ヨシヅヤ海津平田店は今尾支店の近所にあって、これから行く目標の一つである。ここで左に曲がればよさそうだ。
 左折した道は、やはり対面2車線の黄色センターラインだったが、これまでと違って車線の幅だけの舗装しか施されていない。この道も岐阜海津線なのだが、こちらに入ってくると道が断然ショボくなった。センターラインも細いし、路肩にも路側帯など引かれていない。反射板をつけた70〜80cmぐらいのポールが、路肩に10mぐらいの間隔で立っている。反射板ポールが立つ土の斜面はその下がいきなり水田で、少しでも道を踏み外したらたちまち泥まみれになってしまう。間もなく黄色のセンターラインが終わり、路側帯が引かれてセンターラインなしの道になった。道幅は変わらない。ついそこまで制限速度40km/hだったが、センターラインがなくなると50km/hになった。どういう違いがあるのだろうか【注2】。とにかく相変わらず水田地帯で、民家と工場、あるいは倉庫がところどころに見える。遠くに見える古い民家は、石垣が見事であった。
 やがて、民家も工場も倉庫もなく、ただ水田だけが広がるところに出た。道はさすがに広くなり、対面2車線白破線センターライン、そして片側だけだが歩道まで整備された道になった。家は1軒もないのに、車の通行だけは結構ある。車がなければ何もできない地域だから仕方がないが、田園地帯を自転車で走り続けていると、横を通り過ぎる車がとりわけ非情に感じられた。1回目の住宅地が途切れたあたりは、海津町平原といい、ここから入ると天昇苑とかいう海津市の斎場がある。この平原地区は、もともと旧今尾町に属していたが、昭和の大合併では平田町ではなく高須を中心とする海津町についた地域である。この地区に斎場がある理由は、こういういきさつを知ると何となくわかった気になる。
 西島という交差点まで来ると、行政が付けた矢印看板には、お千代保稲荷・羽島:直進、安八:左とあった。文字列としての地名は見たことがあるが、それがどういう位置関係なのかは全然ピンとこない。後で知ったが、お千代保稲荷(おちょぼいなり)は東海地区一帯に知られた有名な神社で、海津市随一の観光資源である。特に商売繁盛にご利益があるそうで、名古屋の商売人は、海津市という地名は知らなくても「おちょぼさん」の名前は知っているらしい。「お千代保稲荷」という行政の矢印看板はこの地区あちこちに出ているから、相当広い範囲から参拝客を集めているようだ。なお、お千代保稲荷に行った後は祖父江善光寺(愛知県稲沢市)に行くのがお約束であるという。
 西島交差点の北東側はコンクリート製品の工場らしく、穴を掘ってボンと置いたらそのまま溝ができる、U字溝の材料のような製品がたくさん積み上げてある。コンクリ工場からさらに北へ100mほど行くと、北北西に住宅の塊が見え、その家々の屋根のすき間から、赤い鳥居が初めて見えた。

 ところで、さっきから気になっていることがある。ここに来る相当前、平原の斎場入口のあたりから、左前方にショッピングセンターのようなものが見えるのだ。田んぼのはるか彼方、1〜2km先だろうか。屋上の白い看板に赤い文字が書いてあるようなのだが、目が悪いので読めない。
 まさか、ヨシヅヤってあれじゃないよね。さっきからずっとチラチラ見えているのがそうだとしたら、かなり西に戻る必要があることになる。どうしよう、急に不安になってきた。さっきあったコンビニで地図を見ておけばよかったと思う。今日は地図をろくに見ていないから、違っていたら目も当てられない。
 この道、真っすぐでいいんだよなあ。そろそろ半信半疑になり始めた私であったが、とりあえず直進を続ける。まあ、俺に限って間違うことなどあるまい。そう思うしかなかった。

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 【注1】馬目交差点〜鹿野交差点間は、津島南濃線と岐阜海津線の重複区間。
 【注2】現在は均質な2車線道路となっている。
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2017年04月25日

2014.07.18(金)(21)国立銀行のことA 私立銀行転換と銀行法

 政府の金融政策は試行錯誤を繰り返しつつ近代化に向けて進んできたが、その過程で激しいインフレーションが発生した。主に西南戦争の戦費調達が原因で、各国立銀行がそれぞれ紙幣を大量に発行したため、通貨の流通量が激増したのである。抜本的な解決を図るため、国立銀行の発券機能を停止して中央銀行を創設することになり、1882(明治15)年10月に日本銀行が開業する。これを受けて、1883年5月に国立銀行条例が再度改訂された。すべての国立銀行が開業免許後20年で紙幣の発行権を失い、その後は発券機能を持たない私立銀行に転換しない限り営業を継続できないことや、営業満期までに国立銀行紙幣を全て消却(回収)することなどが定められた。
 国立銀行条例の改訂を受けて、第七十六国立銀行は私立銀行に転換することになった。国立銀行としての営業満期は1898(明治31)年10月であったが、それより早く同年1月1日付で普通銀行の且オ十六銀行に転換した。一方、第百二十九国立銀行は、営業満期を機に2つの方針を決めた。それは、士族と平民が共同出資して一体となることと、西濃地区一帯に営業基盤を広げ、西濃地域の有力者(地主)にも株主に参加してもらうことである。これにより、第百二十九国立銀行は満期をもって解散し、新しい銀行を設立してそこに営業譲渡することになった。1896(明治29)年2月23日、国立銀行本店と同一の建物に椛蜉_共立銀行が設立された。新設の大垣共立銀行は、営業満期まで国立銀行と2年8か月間並存し、1898(明治31)年12月16日の営業満期と同時に継承した。
 その後のことも書いておくと、七十六銀行は1925(大正14)年11月、岐阜県太田町(現美濃加茂市)の東濃銀行【注1】を合併した。これにより営業網は一気に美濃地方の東部にまで拡大したが、この合併は地元を遠く離れた地域への営業網拡大で、無理な拡張は結果として七十六銀行の経営を圧迫することになった【注2】。一方、大垣共立銀行は1909(明治42)年7月、経営基盤を強化するため、かねてより親密であった金融財閥、安田保善社の傘下に入る。これにより、昭和前半の太平洋戦争終結までは、安田財閥により信用力が補完されていた。しかし、戦後GHQによる財閥追放の過程で、大共は安田財閥に関係する制限会社に指定されたため、特に昭和20年代前半には業容拡大もままならず、十六銀行と比べて伸び悩む一因ともなった。
 なお、ここで見たように、営業満期を迎えた国立銀行は、名称はもとより、そもそも私立銀行に転換するか否かまで、各銀行ごとの判断に委ねられた。このため、行名に数字を残した銀行では、「第」の字が付くものと付かないものとが存在する。長野県の八十二銀行は、1931年8月に第十九銀行と六十三銀行が合併した際に数字も合算したものであるが、見てのとおり「第」の字は前身銀行のうち片方にしか付いていない。

 1928年1月、銀行法という新しい法律が施行された。この法律は従来の銀行条例を補って広く普通銀行を司るもので、預金者の保護を目的に、小銀行の整理・過当競争の防止・健全経営の確保を図った条項が盛り込まれた。こうした法律がつくられた背景には、明治30年代から散発的に発生した銀行取り付けと金融恐慌があった。特に、この直前の数年間で、第一次世界大戦に伴う好景気と反動不況、関東大震災の影響による震災手形問題の発生、その問題処理を行う国会審議での大臣の失言がもとで起きた金融恐慌と、国を揺るがすような問題が続いていたことが挙げられる。具体的には零細弱小な銀行の経営破綻が相次ぐという形で国民生活に深刻な影響を及ぼしており、これまでの金融業界の動揺を反省して対策を講じたのである。
 銀行法が地方銀行の経営に特に大きな影響をもたらしたのは、資本金の下限が定められたことであった。法定資本金は、東京市・大阪市に本支店を有する銀行は200万円、既設の銀行で人口1万人未満の市に本店を有する場合は50万円、その他は100万円。この法に抵触する無資格の銀行は、全国の普通銀行1283行のうち半数近い617行にも及んでおり、各銀行は存続していくためには向こう5年以内に増資してこの条件を満たさねばならなかった。しかし、政府は銀行法によって資本力の弱い無資格の銀行を整理することを目論んでおり、銀行の合同を促進するため、単独での増資は認めない方針を採った。銀行法に先立つ1927年5月には大蔵省銀行局に検査課を設置し、銀行検査体制を強化して、無資格・有資格を問わず銀行合同を強く勧奨した。その後の経済状況の悪化などもあって、1283行あった普通銀行は、銀行法施行からの5年間で6割にあたる745行が姿を消し、538行に減少した。
 銀行法施行を機に、七十六銀行は思い切って他行との合併を選択することになった。同行は法定資本金を上回る150万円の資本金を持ち、またこの時点で計数に問題があったわけではない。ただし、七十六銀の経営は東濃銀行の合併で歪みが生じており、合併せずにいた場合は数年のうちに経営危機が表面化していた可能性もある。合併先は十六銀行と大垣共立銀行のどちらにするか行内で意見の対立があったが、最終的には大共に合併することになった。合併の条件は、存続会社を大垣共立銀行とする、合併比率は1:1、七十六銀の3支店を除く本支店を大共に引き継ぐ【注3】、従業員は勤続年数とともに全員を受け入れる、などとなっていた。
 こうして1928年5月1日、七十六銀行は大垣共立銀行に合併した。大共は七十六銀との合併により9支店5出張所【注4】を引き継ぎ、西南濃地区の基盤を固めただけでなく、加茂郡など美濃地方東部への進出を果たすことになった。

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 【注1】東濃銀行:1910(明治43)年11月加茂郡銀行として美濃加茂市太田に設立、1922(大正11)年12月東濃銀行に改称、1925年11月七十六銀行に合併。合併直前の預金残高約203万円、貸出金約216万円。店舗は本店のほか下麻生・兼山・川辺・西白川・広見・今渡・八百津・各務・加治田・岐阜・金山・那加・森山・羽黒・名古屋の15支店。
 【注2】東濃銀行を合併する直前の預金残高は約291万円、貸出金約229万円。店舗は本店のほか香取・今尾・駒野・野寺の4支店。
 【注3】この時除かれた3支店は出張所として引き継いだ。野寺・森山・各務。
 【注4】高須(旧本店、海津市)・香取(三重県桑名市)・今尾(海津市)・駒野(同)・太田(美濃加茂市)・川辺(川辺町)・西白川(白川町)・那加(各務原市)・羽黒(愛知県犬山市)の各支店と、野寺(海津市)・各務(各務原市)・森山(美濃加茂市)・多度(三重県桑名市)・石津(海津市)の各出張所。
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2017年04月24日

2014.07.18(金)(20)国立銀行のこと@ 76と129

 せっかく旧国立銀行の本店だった店舗を制覇したことでもあるので、いわゆる“ナンバー銀行”の歴史を少し詳しく見てみることにしよう。明治維新によって国立銀行の制度ができてから昭和初期の金融恐慌の頃までの、金融制度が試行錯誤された時期について、2回にわたり語る。

 明治政府は新政府樹立後、各藩主に版籍(領土と領民)を天皇に返上させる版籍奉還や、割拠的な藩制度を一掃して中央政府の直接統治に切り換えた廃藩置県など、中央集権体制を強化してきた。解放令を布告して四民平等を推進し、封建的な諸制度は相次いで撤廃。安定した財源確保のための地租改正や、華族・士族への恩給である秩禄を撤廃する秩禄処分など、財政基盤強化のためのリストラも行われる。これらを下地として、明治新政府は富国強兵策を推進していった。その主要な施策の一つが、通貨制度の整備と近代的金融制度の導入であった。
 明治初期の通貨制度は、著しく混乱していた。江戸時代と同じ江戸幕府発行の各種金銀銅貨のほか、諸藩の領内限りの藩札や、代用品としての外国貨幣まで流通していたためである。硬貨は量目や使用金属の純度・含有率が一定せず品質にバラつきがあった上、金・銀・銅の価格も激しく変動した。藩札は表示単位が藩によって異なるなど統一性を欠いていた。加えて、明治政府は財政難から、これらとは別に太政官札や民部省札など「不換紙幣」と呼ばれる紙幣を発行していた。不換紙幣は資産価値のある金属(金や銀)、あるいは政府の保証といった、貨幣の信用力を高める要素とは関係なく発行された紙幣で、財政難→乱発→価値の下落→インフレーションという悪循環を成していたから、金銀で信用力が担保された新しい紙幣(兌換紙幣という)に整理・統一する必要があった。まず1871(明治4)年に新貨条例を作って通貨単位を円・銭・厘の十進法と定め、次いで1872年に新しい政府紙幣を発行。また金融・商業機関として「通商会社」「為替会社」が設置されたが、これらは成功しなかった。

 政府はこの時期、欧米の金融制度を調査・研究し、近代的な銀行制度の移植を目論んでいた。1872年11月、伊藤博文や渋沢栄一らが中心となって国立銀行条例を発布、近代的金融機関としてアメリカ式ナショナルバンクの設立を奨励した。翌1873年から民間の出資を仰ぎ、三井組などの出資による第一国立銀行(東京)をはじめ5行が「国立銀行」【注1】として設立を認可された。この制度は、大量の不換紙幣を回収することを目的に作られたもので、各国立銀行は独自に紙幣(兌換紙幣)を発行する権限が与えられていた。実際に開業したのは4行であったが、資本金の4割を金貨で準備しておくなどの条件が厳し過ぎ、設立を申請する動きはこれら以外にはなかった。銀行経営に対する不慣れや顧客の無理解も重なり、国立銀行制度は発足早々に崩壊の危機に瀕した。
 打開のため、1876(明治9)年8月国立銀行条例を大きく改訂した。それまで資本金の6割までしか紙幣の発行ができなかったが、条例改正後には8割まで認められるようになり、また金貨の準備もしなくてよいことになった。
 加えて、国立銀行の設立にあたっては、華士族に対し特典が与えられた。これには前述の秩禄処分が関係している。新政府は廃藩置県によって、それまで各藩が担っていた旧藩士への給与などを背負い込んだが、その総額が国家予算の3割にも達し、国家財政を圧迫するものとして削減が図られたのである。1876年8月、国立銀行条例と同時に金禄公債条例が制定され、金禄公債証書を発行して華士族への給与は打ち切られた。
 特典というのは、国立銀行が大蔵省から銀行紙幣をもらい受ける際【注2】、国が回収しようとしていた不換紙幣だけでなく、華士族に支給された金禄公債証書を預け入れることも可能になったことを指す。版籍奉還で旧士族は働く基盤を失い、金禄公債を当面の生活費に充てたり、就業の資金としたりする者が少なくなかった。公債は発行の年から5か年据え置き、6年目から30年償還というシステムで、使い勝手が悪かったので、公債を受け取った士族には生活苦から換金を急ぐ者が多かった。華士族は公債証書を持ち寄って国立銀行を設立することで、株式の配当収入が得られるようになったのである。

 このように、華士族にとっては金禄公債の魅力的な活用法が開かれ、全国各地で国立銀行を設立する動きが続出した。国立銀行の設立認可は1879(明治12)年11月の京都第百五十三国立銀行を最後に打ち切られたが、それまでに岐阜県では5行が設立申請を行った。番号順に16(現岐阜市、以下同様)・46(多治見市)・76(海津市)・128(郡上市)・129(大垣市)の5行である【注3】。第十六国立銀行の後身は、現在も岐阜市に本店を置いて十六銀行として営業している。46番は愛知県に移転し別の銀行に買収されたが、買収した銀行は1933年に破産した。128番は1936年に廃業し、業務の一部は十六銀行に引き継がれた。
 そして、ここで特筆されるのが、設立認可順76番目と129番目であった。76番は高須支店のルーツとなった高須第七十六国立銀行。そして、129番の大垣第百二十九国立銀行は、大垣共立銀行本体の直接の前身となった銀行である。第七十六国立銀行は、1878(明治11)年10月25日に開業免許交付および設立され、翌年1月6日に開業した。資本金は7万円で、旧高須藩士によって設立された。第百二十九国立銀行は1878(明治11)年11月17日に設立され、開業免許は12月17日に交付、開業は翌年4月10日であった。資本金は7万円で、旧大垣藩士が設立者の大半を占めていた。両者とも、各旧藩の関係者によって設立されたいわゆる“士族銀行”であった。

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 【注1】ここでいう国立銀行は、国営もしくは国有の銀行ではなく、国の法律に基づいて設立・運営される銀行という意味で、純然たる民間の株式会社である。ナショナルバンクの直訳とされているが、誤訳に近い。この時設立認可されたのは、第一(東京)、第二(横浜)、第三(大阪)、第四(新潟)、第五(大阪)だったが、第三は内紛から開業には至らなかった。
 【注2】国立銀行条例改訂後の紙幣は大蔵省紙幣局(現国立印刷局)が製造していた。図柄の部分は各銀行共通で、代表者名(表面)と銀行名・地名(裏面)を加刷していた。
 【注3】銀行名に付けられた番号は原則として設立認可の順であったが、その後の経過によって設立日や開業日は前後している場合もある。なお、多治見第四十六国立銀行は、申請や認可の順では129番(大垣)よりも後であるが、開業せずに終わった宮城県の銀行の番号を例外的に付番されている。
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2017年04月23日

2014.07.18(金)(19)イエス、高須支店

 大垣共立銀行高須支店は、パッと見にはさっき行った駒野出張所と同じくらいコンパクトな建物であった。外観は南濃支店にそっくりである。これが、高須第七十六国立銀行本店を今に受け継ぐ、明治時代から続く名門支店ということになる。建物を見たら全くそんな感じがしないけれども、伝統ある店だからといって建物までそうだというケースは案外少ないのが現実である。私がよく知っているりそなグループで言うと、埼玉りそな銀行の川越支店(埼玉県川越市)は、1918(大正7)年竣工で国登録有形文化財となっている旧第八十五銀行本店を現在も使い続けている。こんなケースは全国的にもまれだ。
 支店の横は駐車場で、その入口に石灯籠が立っているところが、過ぎ去りし江戸や明治の世を感じさせる。コンパクトに見えた建物は、横に回ると奥行きがあって、やはり駒野出張所よりははるかに大きかった。表通りからは平屋建てのように見えたが、2階建てのようである。通りに面した所の幅は20mぐらいあって、出入口が2つ付いている。建物中央部の風除室のついた正面入口と、左端のキャッシュコーナーの入口である。
 まず、写真撮影を済ませよう。支店の向かい側に自転車を置いて、店の外観を撮影する。支店の写真を撮っている人が、他にもいた。店の「中の人」だろうか。高須支店は週明けの火曜日から海津支店に改称されてしまうため、「高須」の名前で制覇ができるのは今週限りで、まあ事実上今日が最後の日ということになる。連休の間に店頭の「高須支店」の文字をはがしたりするのであろう。それはいいとして、クロスズメバチだろうか、攻撃的な黒い虫が2〜3匹、灯籠のあたりをブンブンと飛んでいる。刺されはしないだろうが、ちょっと怖かった。まあ虫だけに無視しておくことにしよう。
 キャッシュコーナーでない方の前面入口には、金融機関として代理業務の一覧が出ていて、岐阜県指定代理金融機関という文字が見える。繰り返すが、大垣共立銀行は来年(2015年)4月から岐阜県指定金融機関になる予定である。その下には、愛知県収納代理金融機関、海津市指定金融機関、輪之内町指定金融機関、とあった。
 写真撮影を済ませて店に入る。前述したとおり、高須支店として窓口営業をするのは、今日が最後である。窓口の女性行員に、支店の名前が変わるのは来週からですよね、と話しかけたら、店名変更の告知チラシを1枚くれた。大共らしからぬ青いチラシであるのに少し驚いた。大垣共立銀行=緑というのが相当に定着しているので、あえてあまり使わない色を使用したのではないか。
 それでは、制覇にかかろう。ATMコーナーには2台のATMがあり、機種は富士通のFV20であった。うち1台、向かって右側の機械が手のひら認証対応というところは、今日これまで回ってきた海津市内の店とまったく一緒である。
 機械を操作。09:59、高須支店が無事制覇できた。今回の「めぐ」のそもそものきっかけが高須支店の名称変更であっただけに、最終営業日の本日ここを制覇することこそ、今回のメインイベント。美容外科のCMではないが「イエス、高須」であった。

 大垣共立銀行高須支店のルーツは、1878(明治11)年10月に当地に設立された、高須第七十六国立銀行にまで遡る。創業の地は現在の海津市海津町高須町741番地で、これは高須支店のある場所そのものである。開業は1879年1月6日であった。
 一方、大垣共立銀行自身も高須に店舗を持っていた。1900(明治33)年2月に開設された高須支店である。もとは美濃実業銀行【注】高須支店として1897年7月に開設されたが、同行が1900年6月大共に合併されることになり、それに先立って大共が同支店内に高須支店を開設したもの。大共の社史ではこちらを高須支店の“本流”としている。店舗は現在の高須町726番地にあった。現支店の北50m、さっき曲がってきた丁字路の北東角で、現在は駐車場になっている。
 1928年5月1日、七十六銀行(高須第七十六国立銀行改め)は大垣共立銀行に合併し、同時に大共高須支店は七十六の本店に移転。以来、この場所が大共の高須支店となった。1977年9月現在地で店舗を新築し、これが現在使われている店舗である。そして、本文で何度も述べているとおり、海津市内の店舗網再編に伴い、週明けの火曜日(2014年7月22日)、高須支店は海津支店に改称された。

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 【注】美濃実業銀行:1881(明治14)年5月設立。現在の大垣市船町に本店を置き、5本支店1出張所2出張店を持っていた。1900年6月大垣共立銀行に合併。大共とは一部役員が兼任で、人的に親密だった。店舗は本店のほか高須(海津市)・笠郷(養老町)・御寿(輪之内町)・神戸(神戸町)の各支店、加納(大野町)・氷取(安八町)の各出張店、黒田出張所(揖斐川町)で、合併により高須・神戸・加納・氷取・黒田の5店が大共の支店となった。
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2017年04月22日

2014.07.18(金)(18)江戸時代にタイムスリップ

 自転車は次の目的地に向かう。海津市の中心的な店舗にして、旧国立銀行本店を継承した由緒正しき店舗、高須支店である。
 今来た道を市役所の北側まで少々戻り、そこから水田の真ん中を西に向かう。センターラインを引けば対面2車線になりそうな、少し幅の広い舗装道路が出ている。庭の広い古い民家は、農家だったのだろう。このあたりは石垣の上に建っている家が多い。それも1mぐらいの高さの石垣が2段3段と階段状に積まれていたり、道路沿いが1段だけだがその奥が2段3段になっているなど、高度が高い。こうした、石垣上に家屋を建てるスタイルこそが、「輪中」と呼ばれる地域に特徴的な家の建て方なのであった。
 濃尾平野の輪中については、小・中学校の社会科で習うハズの内容だが、ここで改めて思い出していただこう。この平野を流れる揖斐川・長良川・木曽川の3つの川は、濃尾三川と呼ばれる。降水量の多いところを源流とする流量の多い河川で、古くから暴れ川であり、流域住民は長い間洪水と闘ってきた。まず、浸水しては困るところから堤防を築く。それが進んでいくと、やがてその土地は堤防でぐるりと囲まれることになる。こうした地域のことを、輪の中と書いて輪中という。
 明治時代はじめ頃には、濃尾平野全体で大小80もの輪中があったという。現在では堤防をつなげて複数の中小輪中を合併し、大きな輪中となっているところが多い。その代表例とされるのが、ここ海津市の東半分を占める高須輪中であり、46.5㎢と輪中の中で最大面積を誇っている。
 輪中内では、住民たちは水防を中心に強固な共同体を形成しており、そこから特徴のある景観が生み出されてきた。それを代表するのが、水屋建築と呼ばれるものである。標高の低い場所では、住居は自然堤防と呼ばれる微高地上を選んで建てられる。それだけでは大水に対処できないので、輪中地帯では石垣を築いて土を盛り、人工的に高くした土台の上に家を建てた。さらに、堤防が決壊して洪水が押し寄せたような場合に備え、母屋より土台を1mあまり高くして建てられた別棟が設けられた。この別棟を水屋という。輪中にいったん水が入ると2週間以上も水が引かないことがあったから、こうした食料や寝具などを備蓄した避難所が設けられていた。水屋を母屋とは別に用意できたのは富裕層だけで、水屋を持たない層は、助命壇と呼ばれる部落内の共同の避難所に避難したという。

 石垣の上が畑になっている土地があった。地形の起伏が激しい土地でならありふれている(さっき駒野でも見たばかり)だが、低平な見渡すかぎりの水田地帯では珍しい。畑をわざわざ石垣上に上げるハズはないから、かつては家屋が建っていたのであろう。高須のような城下町でも最近では過疎化が進み、石垣上に建てられた家屋も住む人がいなくなって、取り壊すケースが出てきたのだと思われる。
 間もなく道は突き当たり、城下町らしく左右にクランクしている。そこで、川を渡る。掘割みたいなもので、さっきの大江川とは異なり、橋の手前が坂道になっているわけではない。クランクの先には、ちょっと由緒正しげなお寺さんがあった。釣鐘堂一つを取っても立派である。ここは真宗大谷派の高須別院で、いわばこの地域の浄土真宗の総元締のような寺である。岐阜県には真宗大谷派の仏教寺院が多い。本堂が高いところに上げてあるのは、水屋を持たない人々のための助命壇の役割を担っていたのであろう。
 高須別院裏の石垣を見ながら道がまたクランクし、お寺さんがもう1軒あった。こちらは石垣の上に門がある。さらに左奥にも寺があるが、このあたりは寺町なのだろうか。そう思いながら、突き当たりを右へ。石垣の上を立派な屋根つきの塀で囲んだ由緒正しげな民家は、石段を上がった塀の真ん中に門構えがあったりする。
 道が突き当たり、そして曲がる。これを1〜2回繰り返し、江戸時代から続いているらしい古びた商店街に入ってきた。ここが、高須の町の中心部であった。白壁土蔵の商店建築と屋根つき土塀に囲まれたお屋敷街を持つ高須の町は、イマジネーションを駆使すれば、150年前の城下町にタイムスリップできるかもしれない。こうした家々がきれいに維持されているのなら、この町を舞台とした映画を撮ってみたいと思えた。ただし、さっきのお屋敷は枯れ草にまみれて幽霊屋敷のようだったし、店舗も営業していないものが多いのが現状である。

 そして、道が何度目かの突き当たりになった時、左を見た。おお、目指す大垣共立銀行の、緑色の縦型看板が見えるではないか。看板に向かって、商店街の中を喜び勇んで自転車を漕ぎ進めた。
 商店街は畳んでしまった店ばかりで、何を売っている店かもわからないものが多かった。屋号だけ出した土蔵建築の店が、いたるところにある。土蔵造りの建物は、壁が黒いものと白いものとが混在している。黒壁は黒漆喰といって白壁よりも高級品。無知をさらすが、私はこの黒漆喰を、最近まで太平洋戦争中の空襲除けだと思っていた。ひらがな5文字で■■■■やと書いてあるのは、呉服屋だろうか。ブティックと書いてある店もあるが営業はしていないようだ。クリーニング屋は開いているようだが【注】、この店では箱ティッシュなども売っているようだ。地方に行くと、個人商店は本来の業種を飛び越えて「何でも屋」になっているところが多い。ここもそうなのだろう。あるカバン屋は店先のテントがビリビリに破れたままで、色も赤が褪せてピンク色のテントのようになっている。大共の斜め向かいにある果物屋は営業している様子であった。そのすこし先では、床屋の回転灯がぐるぐると回っていた。
 それにしても静かである。自転車に乗ったおばちゃんが1人向こうからやってくる。支店の前からお爺さんが1人自転車で立ち去ろうとしている。人の気配はその程度であった。

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 【注】ここで見たクリーニング店は2016年12月で閉店した。
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2017年04月21日

2014.07.18(金)(17)「ピピット」のこと

 今日ここまで「手のひら認証」という言葉を何度も使ってきた。預金のセキュリティを向上させるため、あらかじめ登録した身体的な特徴の情報をもとに本人確認をする、生体認証システムの一つである。日本の銀行では、りそなグループのように親指を使うものと、三菱東京UFJ銀行のように手のひらを使うものと、2陣営に分かれている。
 大垣共立銀行はこれらのうち、手のひらの静脈による認証を採用している。一般的な銀行の生体認証は、キャッシュカードと暗証番号を用いた上で、セキュリティを「強化」する手段として行われていることが多い。大共はそれより進んでいて、生体情報の登録さえ済んでいれば、カードがなくても、機械に手のひらをかざすだけで預金の出し入れができる。津波で家財道具一式を洗い流されてしまったような場合を想定しているが、私などは、ポケットからキャッシュカードを出すことすら面倒に感じられる夏の炎天下、カードを持ち歩かなくても大共の「めぐ」ができるので重宝している。
 大共は、このサービスに「ピピット」という名前を付けて大展開している。私はこの「めぐ」の少し前、大共の別の店に行った時に、手のひら認証の登録を済ませてきた。今日はここで「ピピット」の取引を試してみることにする。
 まず初期画面。取引の種類がたくさん並んだ一番最初の画面で「お預け入れ」を押す。すると「簡単取引」と「手のひら認証」の2択になっている。「手のひら認証」のキーを押すと、生年月日の入力になる。『ドラえもん』の野比のび太であれば、昭和39年8月7日で【注1】、3・9・年・8・月・7・日、と7回押すことになる。慣れればまあリズミカルにやれなくはない。その後いよいよ、認識装置に静脈情報を読み込ませる。ATMの指示に従い、手首を平らに置いてかざしていると、“ピピット”というユーモラス(?)な音声が出る。これで完了、と言いたいところだが、一発で認識できることは案外少なくて、スキャンはやり直しになることが多い。認識精度が良くないのではなく、チェックが厳密過ぎるのだと思う。なお、預金引き出しの場合はこの後さらに暗証番号も必要である。
 私個人の感想としては、生年月日の入力がやや面倒臭いと感じる。数字キーとは別に「年」「月」「日」のキーを押さなくてはならないからだ。数字だけで「390807」のように一気に入れられるようにして欲しいし、欲を言えば西暦にも対応して欲しい。預金引き出しの際は、手のひらをかざした後さらに暗証番号を入力させられるけれども、生体情報を登録してあるのであれば、生体情報と誕生日、または生体情報と暗証番号だけで十分ではないかと思う。それから、手のひらのスキャン。なかなか認識しないことがあるのは閉口する。
 まあ、先駆的なサービスであるのは間違いない。データが蓄積されてくれば改善されると期待したい。

 大共がこの「ピピット」なるサービスを始めるきっかけとなったのは、2011年3月11日の東日本大震災であった。大共は震災以前から「レスキュー号」という災害支援車両を持っていた。衛星通信回線を使用して本部とやり取りするATMを搭載したマイクロバスである。東日本大震災が起きた時、大共は被災地支援の一環として、この「レスキュー号」の派遣を現地の複数の地方銀行に打診した。しかし、派遣の要請は1件もなかったという。被災者は、ATMでの取引に必須のキャッシュカードや通帳を津波で流されてしまっていた。周知のとおり、通帳や印鑑を自宅に取りに帰り、そこで命を落とした人もいたのである。
 この一件をきっかけに、震災の翌月から「預金者の身体ひとつで預金が下ろせるATM」の開発を開始。大共のシステム部員はATMのメーカーを訪ね歩き、富士通と沖電気工業の協力で、手のひらの静脈による認証技術を使った生体認証システムを構築することになった。静脈の情報に生年月日と暗証番号を組み合わせ、認証精度とセキュリティを確保する。こうして、カードや通帳がなくても手のひらだけで取引できるATM「ピピット」が誕生した。サービス開始は2012年9月のことであった。
 キャッシュカードを使わずに普通預金の入出金ができるばかりでなく、大規模な地震(震度6弱以上)の発生時に普通預金に自動で切り替わる震災対策定期預金や、災害時に当初1年間は無利子で融資するローンなど、大共では手のひら認証を生かした商品を各種販売している。また将来的には、手のひら認証もATMにとどまらず、手のひらだけで店舗での買い物ができるようにする構想もあるという。手のひら認証の登録者数は50万人にも迫る数に達している【注2】。

 さて、この「ピピット」に限らず、大垣共立銀行は年中無休ATM・店舗など、全国初となるような目新しい商品・サービスを相次ぎ打ち出している。こうした営業方針は、アイデアマンとして知られる頭取の土屋嶢氏【注3】によるものが大きい。1946年生まれの土屋氏は、慶応大学在学中には放送研究会に所属していたこともあり、もともと銀行よりもマスコミ志望だった。大共の頭取だった父親の斉氏に説得されて富士銀行に入行するが、最初に配属された東京・新橋支店では支店内での新聞発行を発案し、編集主幹を名乗りコラム欄に街ネタを多く書いたという。土屋家は大共の創業家というわけではないが、祖父も大垣共立銀行の頭取であり、嶢氏は3代目ということになる。7年ほどで富士銀から大共に移り、1993年6月頭取に就任。この時、当時の地銀で最年少の46歳であった。2017年の今、頭取として在任24年になるが、前の連載で触れたみちのく銀行の故・大道寺小三郎氏とはまた違ったタイプの銀行経営者と言える。
 土屋氏は近年では作詞にも取り組んでいる。作詞家「つちやたかし」としてのデビューは2010年。グループホームの経営者と酒を飲んだのがきっかけで、ホームの歌を書いたのが最初だという。銀行内の複数の歌やガス会社の社歌を手がけたのち、2013年、手のひら認証ATMのCMソングを作詞した。つちやたかし作詞、渡辺ヒロコ作曲・歌の『世界に一つしかない手のひらに』は、通信カラオケでも配信されている。ブラザー工業系のJOYSOUNDには「本人映像」と「スタンダード」の2種類があり、うち「本人映像」では、この曲のためにつくられたイメージビデオがそのまま流れている。大共は行内にテレビスタジオを持っているから、大共本店の映像が含まれるこのビデオは、行内のスタッフが制作したのだろう。蛇足ながら、私はこの曲をカラオケで毎月歌っている。

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 【注1】のび太の誕生年にはいくつかの説があるが、ここでは最も一般的と思われるものを採った。
 【注2】2016年12月に44万人を超えた。
 【注3】土屋嶢(つちや・たかし)氏:1946年8月9日東京都生まれ。1970年3月慶応義塾大学法学部卒、富士銀行(現みずほ銀行)入行。1977年5月退職、同年6月大垣共立銀行入行。融資部審査役、総合企画部部長代理、名古屋支店副支店長、同支店長兼名古屋事務所長を経て、1982年6月取締役、名古屋支店長兼名古屋事務所長委嘱、1983年4月名古屋支店長委嘱、同年10月外国部長委嘱、1984年6月常務取締役、同委嘱、同年10月解嘱、1986年6月専務取締役、1991年6月取締役副頭取、1993年6月代表取締役頭取、現在に至る。
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2017年04月20日

2014.07.18(金)(16)続いて[海津市役所]を制覇

 [ホームセンタークロカワヤ]の次は[海津市役所]に向かう。
 県道津島南濃線を引き続き東へ進む。「和風レストラン海津」という店舗があるが、ここは割烹などをやっている大規模な料理店である。VIPを接待するような店が成立するだけの基盤が、小さいなりに高須近辺にはあるということだろう。また、このあたりには川魚を食べる文化がある。水の豊富なエリアゆえ、水田などで魚が多く獲れたのだそうで、この割烹レストランでもフナやモロコなどの川魚を提供している。間もなく、海津市役所右と青看板の出ている信号で右に曲がる。斜めにクロスしているこの交差点は馬目(まのめ)といい、南側鈍角部分はセブンイレブンの典型的なロードサイド型店舗になっている(海津町馬目店)。
 どう流れてくるのか知らないが、さっき渡ったハズの大江川をまた渡った。この橋の欄干は、普通の鉄の欄干に板を張って白壁に見立て、瓦屋根のようなものを付けている。欄干も親柱を城の天守閣のような形にしてあって、なかなか凝っている。高須城は平城で、天守閣はなかったそうだけれども、高須藩三万石の中心地としての風情を演出しているのだろう。三万石では藩としては明らかに小さいが、高須藩の松平家は尾張徳川家の分家にあたり、藩としての格式は非常に高かった。白虎隊で有名な会津藩最後の藩主、松平容保をはじめとする「高須四兄弟」の出身地でもある。そういえば、この県道岐阜高須線は、岐阜県道のナンバーでは「1号線」である。ここと県庁所在地とを結ぶ県道が、真っ先に付番されていることに少し感心した。
 橋を渡ってスロープを下りる。川の手前は水田地帯だったが、大江川を渡ると住宅地になり、駒野や石津と同じような感じで古い建物が並んでいる。商店街もあるようだ。「馬目町」の信号から奥の方を見ると、木造の渋い焦げ茶色の建物がいくつも見え、古い集落が広がっている。念のため、さっきのセブンイレブン横の信号は「町」がつかない「馬目」である。

 左前方に突然、容積の大きな建物が現れた。ここが、次なる目的地の旧海津町役場、すなわち海津市役所であった。
 市役所の外壁は、いかにも工事進行中という感じで、白い鉄板とグレーのスクリーンで覆われていた。鉄板の上に、大垣共立銀行の緑色の看板が控えめに出ている。それ以外に銀行の影が感じられないが、建物の中にあるせいなのか。そう思って敷地内に入ってみると、1階は内装をはがして骨組が露出している。工事の様子からすると、吹き抜けを造ってそこを庭園にするようだ。
 海津市役所はこの時点で、外壁の塗り直しだけでなく、相当大掛かりな改造工事をしていた。南濃庁舎のところでも触れたが、海津市役所は3町合併以来分庁方式で、合併前の3つの町役場に部署が分散していた。これらを高須の海津庁舎に集中させるため、建物の増築やリフォームが行われていたのである。工事が終わってから再訪してみると、道路に面した側は意外に小さな建物だった。これが旧海津町役場で、その東側に4階建ての箱型の建物を新築してあった。キャッシュコーナーは工事以前のままのようだ。工事で鉄板をかぶせる時に、旧来からあるキャッシュコーナーをそのまま利用できる形でかぶせたと見える。
 目指す大共のATMは、2階部分の下、柱で囲まれたピロティに建つ、ステンレスの独立小屋であった。「屋上屋を架す」の反対で、屋根の下に屋根付きの小屋を建てたような感じであるが、工事中の今は白い鉄板で覆われて、物々しい雰囲気が漂っている。いちおう、建物の外に露出しているようだ。ATM小屋は、今日これまで複数の店舗外ATMで見たような大共の標準スタイルではなくて、他行の店舗外ATMでも見かけるような、ステンレスの枠にガラスをはめた直方体の箱である。ATMは、手のひら認証つきの富士通FV20が1台であった。さすが公共施設のATMには最新鋭の機能が入っている。09:43、[海津市役所]を制覇した。

 高須支店海津市役所出張所は、高須支店初の店舗外ATMとして1987年12月開設された。当初の名称は[海津町役場]といったが、2005年3月の3町合併により[海津市役所海津庁舎]に改称。さらに、市役所東館の落成に伴い、2014年4月「海津庁舎」の呼称が取れ、シンプルな[海津市役所]の名称となった。週明けの火曜日(2014.07.22)から母店が海津支店に名称変更することは言うまでもない。
 所在地の自治体名はかつて高須町といったが、1955年1月に高須町と4村の合併で海津町が発足した。2005年3月の合併で現在の海津市となっている。

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2017年04月19日

2014.07.18(金)(15)[ホームセンタークロカワヤ]を制覇

 福岡大橋を渡り切った。旧町名で言うと南濃町を出て海津町に入ったことになる。
 橋を渡りきった福岡大橋東の交差点で、堤防上の道路とクロスしている。堤防を降りた先に住宅の固まりがいくつか見えるが、中でも右前方の特に大きな固まりが、これから行く高須の町であるようだ。
 堤防上から町の手前まで、県道8号津島南濃線のスロープを一気に駆け降りた。坂道が途切れ、自転車を自力で漕がねばならなくなったあたりから、ふたたび人の住む町に入ってきた感じがした。旧海津町の中心地、高須が始まったのであった。ただ、中心地といってもそれなりに空き地は多くて、ロードサイド型の店と民家と空き地が1/3ずつぐらいの比率で混然一体としている。
 海津警察署の手前にある信号のない交差点では、若い女性が運転する軽自動車が、私が横断しようとする横でなかなか行こうとしなかった。早く行けばいいのにと思っていたが、どうやら止まっていてくれたらしい。

 少しだけ上り坂になっている。小さな川を渡る橋の手前がスロープになっているのだった。ガードレールだけの橋が付いていて、木曽川水系大江川とある。川幅は結構広くて、20〜30mもあるだろうか。川の流れは道の南側で90度曲がっており、その向こうに見える学校は岐阜県立海津明誠高校という。橋のそばには、海津市役所海津庁舎/信号3つ目右折、と書いた看板が出ていた。ここまで来ると、金融機関の看板が一気に3つ見えた。桑名信用金庫、十六銀行、そして、言わずと知れたもう一つである。
 橋を渡ったところに、スーパーマーケットをはじめ比較的新し目の商業施設が建ち並んでいる。どの店も駐車場完備であるのが現代である。道の北側には、食料品店と百均のダイソーがテナントに入った生鮮館というスーパー。桑名信用金庫があって酒屋。その隣は海津名店街という2階建ての棟割長屋で、店舗が6店舗ある。その隣に雑居ビルがあって、交差点の北西角には十六銀行がある。携帯電話ショップが複数、auもドコモもあって、都市型の生活は不自由なくできるようだ。ソフトバンクの店も少し手前にあった。
 酒屋の店先にある郵便ポストは、美濃松山駅前と同じく取集が羽島郵便局であった。羽島市の影響下にあるこの地域に桑名信用金庫があるのは少し意外に感じた。1980年10月開設の海津支店である。こんなところまで桑名の勢力圏なのかと思ったが、調べてみると、さすがにここが桑名信金の店舗の中では最北端であった。海津市自体がそうしたマージナルな地域なのであろう。桑名信金はここを含めて海津市に2店舗を展開しており、もう1店の松山支店はさっき養老線美濃松山駅の南側にあった。
 向こうに見える十六銀行は高須支店という名前で、まだ新しい建物に見える。岐阜県のトップバンクである十六銀は、1980年代以降、西濃(美濃西部)に相次いで新規出店した。現海津市エリアでは、1983年12月出店の南濃支店を母店として、今尾・高須に出張所を出し、3町に1店ずつ店を整えた。これらの出張所は1993〜94年にかけて相次いで支店昇格し、最盛期には海津郡各町それぞれに支店があった。結局、2003〜2006年に統廃合が行われ、いまとなってはこの高須支店が十六銀の海津市唯一の営業店となっている。高須支店は1992年6月に出張所として開設され、1993年11月支店に昇格した。このエリアでは最も遅く出店した店舗であった。

 大垣共立銀行の看板は、スギドラッグというドラッグショップの隣にある。ここにあるのは、ホームセンタークロカワヤ出張所であろう。近づいて見ると思ったとおりで、道路から少し奥まったところに文字通りのホームセンターがあった。個人経営の荒物屋が店を拡大したような感じで、大規模なチェーン店というわけではなさそうである。クロカワヤはもともと高須の中心部にあった荒物店で、1977年に現在地に郊外移転してホームセンターとなった。毎週水曜定休で、営業時間は8時〜20時。社名は株式会社黒川屋である。代表取締役は黒川さんではないようだが、女婿だからだろうか。ホームセンタークロカワヤの店舗はここ1店だけしかないようで、公式ウェブサイトもなく、これ以上のことはわからなかった。個人商店と大差ない規模の会社だと、ホームページを出す余裕がないのかも知れない。
 ホームセンターの道路に面した部分は駐車場になっていて、駐車場の隅、ドラッグストアとの境界付近に、店舗外ATMの独立小屋が1軒建っている。例によって、1992年型の大共おなじみスタイルの小屋であった。母店は高須支店【注1】。機械は富士通のFV20が1台だけで、手のひら認証にはなっていなかった【注2】。09:32、[ホームセンタークロカワヤ]を制覇。後で記帳してみると、ここの通帳表記は<クロカワヤ前>となっていた。

 高須支店ホームセンタークロカワヤ出張所は、高須支店2番目の店舗外ATMとして1995年12月に開設された。

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 【注1】高須支店は2014年7月22日「海津支店」に改称した。
 【注2】現在は手のひら認証対応の機械が入っている。
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